よしだひろ

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よしだひろ

まだ使い方もよく分かってません 童話を中心に色々書いてます 良かった点や悪かった点を率直に教えていただければと思います よろしくお願いします

空女 第四話

 ドライブへ行った翌日の夜。美玲のスマホにNicoFaceの個別メッセージが入った。それは悠人からだった。 "ちょっと話したい事があるんだが、明日時間あるか?" "うん。講義が終わってからなら空いてるよ"  美玲は悠人に話があると言われて唐突に不安になった。一体何の話なのだろう。  翌日、二人は西千葉駅の前にある喫茶店で待ち合わせした。飲み物を注文して暫く悠人は無言だった。注文したコーヒーが運ばれてくる。  美玲が痺れを切らして口を開こうとした時、悠人が話し始めた。 「僕は時々記憶が無くなると話したよね」  美玲は頷いた。 「この前のドライブの時もそれがあったらしい」  美玲はあの時の事だとすぐに分かった。 「もしかしてmii。その事について何か知ってるんじゃないのか?」  美玲はドキッとした。何故悠人がその事を知っているのか不思議に思った。 「何でそう思うの?」 「これだよ」  悠人はあの時の正樹と美玲が交わしたNicoFaceの個別メッセージの履歴を美玲に見せた。 「このメッセージには全く覚えがないんだ。それにこれを読むと僕が書いたと言うよりは誰か別の人が書いてる」  美玲はどうしたらいいのか分からなくなってきた。 「そしてmii。君もその第三者を知ってるように返事をしてるね。この時何があったんだ?」  悠人は困惑の様子を隠せなかった。正樹からは口止めされているのだが、美玲は事実を話すしかないと決心した。 「落ち着いて聞いて。翼君。あなたの中にはもう一人別人格がいるのよ」  いきなり突拍子もない事を言われて悠人は少し不機嫌になった。 「からかってるのか? そんな小説みたいな事あるはず……」 「ううん。これは真実よ。あなたは二重人格者なのよ」  いきなりの強烈な告白に悠人は混乱した。その事実を受け入れられない、いや受け入れたくはなかった。 「な、何故そう言えるんだ」 「私は何度かあなたの別人格と話をしてるし、入れ替わるところも見てきたの」  悠人は信じる事が出来なかった。美玲はそんな悠人の気持ちを察して言った。 「あなたを責めてるんじゃないの。ただそれが事実なのよ。翼君。一度病院へ行ってみよう?」  悠人は考え込んだ。それが事実だとどうしても受け入れられない。まして病院になど行こうものなら周りから好奇の目で見られてしまう。 「ぼ、僕はどうしたら……」 「病院に行ってちゃんと診てもらいましょう?」 「嫌だ。病院には行きたくない」  自分は正常な人間である。決してそんな精神の病いなどではないと頑なに信じた。いや、信じたかった。  美玲はそんな悠人の深い感情までは推し量れなかった。美玲は正樹と出会った時から今までの事を悠人に話す事にした。  悠人は黙って美玲の話を聞いていた。一通り話し終えると悠人は聞いた。 「その正樹って奴は、僕の事を分かってるのか?」 「うん。翼君の事は何でも知ってる。なんなら今もこの会話を聞いてると思うよ」 「何故僕自身の前には現れないんだろう?」  それは美玲には分からなかった。美玲は深く考えて言った。 「正樹君は翼君に二重人格者である事を気付かれたくないんだと思う」  美玲と話している間に悠人は少しずつ現実を受け入れてきた。 「僕はどうしたら良いんだろう」 「病院へ行くのが一番だと思うけど、翼君が嫌なら私図書館で調べてみる」 「いや、調べるなら自分で調べるよ。ただ、今は突然の事過ぎてどうしたら良いのか分からないんだ」  思えば美玲が初めて正樹と会った時も、美玲は混乱してどうしたらいいか分からなかった。 「今日の所は家に帰るよ。ちょっと一人で考えたい」 「うん。でも何でも相談してね。力になりたいから」 「ああ。ありがとう」  二人は店を出て西千葉駅に向かった。  その日の夜、美玲は悠人にメッセージを送ろうと思ったのだが、なんて言っていいのか分からなかった。      *  それから数日間、悠人は空研には現れなかった。美玲は悠人が一人苦しんでると思うとやるせなかった。  空研の帰り正門に向かってトボトボ歩いていると隆が声をかけてきた。 「よ、松岡。元気か?」 「隆君。元気だよ。こんな時間に学内にいるなんて珍しくない?」 「今日はバイトないから友達とだべってたんだよ」  隆はいつも元気そうでいいなぁと思った。 「なあ、それよりも悠人の奴どうかしたのか?」 「何で?」 「何でって、ドライブに行って以来なんか元気なくないか? 話しかけてもどこか上の空でさ」  美玲は病気の事を悩んでいるせいだとすぐに分かったが、内緒にしておいた。 「松岡の方からさ、それとなく話聞いといてよ」 「え? 私が?」 「だって仲いいだろ? それとなく聞いてみてくれよ」 「機会があったら聞いてみるけど分かんないよ」 「サンキュー」  隆は軽く手を振って行ってしまった。美玲は事情を知っているだけに、どうやって誤魔化したらいいのか考えていた。  その夜、美玲は課題を進めると一息ついた。悠人に個別メッセージを送ってみる事にした。 "翼君調子はどう? 隆君や空研のみんなも心配してるよ"  返事はすぐに来なかった。 "私なりに二重人格の事調べてみたよ"  二重人格。正式には乖離性同一性障害と言う。治療法はまだ確立されてはおらず、障害を引き起こす事になった原因を取り除く事、自分の中に副人格がいる事を認める事が良いようだった。悠人の場合、幼い頃に受けた虐待の事実を思い出して受け入れ、正樹の存在も認めなければならない。 "こんばんは。僕も二重人格の事は調べてみたよ。カウンセリングを受けるのがやはり良いらしいな" "治療は人それぞれケースバイケースみたいだけど、辛いものになるみたい" "僕は病院には行きたくない。この障害を認めたくない。自分がダメ人間になるようだしみんなに知られたら恥ずかしいし" "ダメ人間じゃないよ。それに私が誰にも言わなければ誰にも分からない事だよ。カウンセリングは秘匿性が守られているよ"  美玲は悠人の気持ちを理解しようと必死に考えた。悠人も考え込んでいるようで、既読にはなっても返事が遅れた。 "やはりカウンセリングを受けるべきなんだろうか"  美玲は迂闊には返事が出来ないと思った。しかし障害をなくすにはカウンセリングを受けるしかないのは目に見えていた。 "簡単には返事出来ないけど、多分カウンセリングを受ける道しかないんだと思う"  メッセージはやはり既読になったのだが、その日悠人は返信して来なかった。美玲は複雑な思いで眠りについた。      *  六月も終わろうとしていたある日。悠人から美玲に個別メッセージが入った。 "昨日病院のメンタルヘルス科に予約を入れたよ。ちゃんと調べてもらおうと思って"  美玲は安心半分不安半分だった。しかしここで不安な事を言うのは決心をした悠人を再び不安にするだけだと考えた。 "良かった。どんな結果が待ってるか分からないけど、私がサポート出来る事があったら何でも言ってね"  その日以降、悠人は吹っ切れたのか精神的にも元気が出てきたようだった。  そんなある日、美玲が空研の部室に入るとヨーコが呼んだ。 「ヨーコ先輩お疲れ様です」 「お疲れー。最近翼君元気が戻ってきたみたいね」 「はい。空研にも戻ってきましたしね」 「そんな訳で、また焼肉行かない?」  美玲はどんな訳なんだろうと思った。 「前に行ったモーモー横丁良かったですね」 「そうでしょう……」 「……」  沈黙が走る。 「何してるの?」 「はい?」 「そうと決まったら翼君に連絡!」 「は、はい」  美玲は慌ててスマホを取り出して悠人に個別メッセージを送った。返事はすぐに返って来なかった。多分部室に来て直接返事をするのだろうと思った。  しかし程なくして悠人から返事が来た。 "この前のメンバーでいいんだよな? 隆も誘っておいた"  美玲はヨーコにそのまま伝えた。 「え? 隆君も誘ったの? うーん、予定とは違うけど、ま、いいか」  今回もモーモー横丁へ行こうとなり、当日は時間を決めて現地集合と言う事になった。  そして焼肉当日。各々自由にお店にやってきた。例によってヨーコだけお酒を注文した。 「このメンバーはドライブ以来ね」 「今回も呼んでもらってあざーす」 「うん、君は予定外だったんだけどね」 「なんでー」  暫く雑談が続いた。ヨーコはやけにハイペースで飲んでいるように思えた。 「先輩。今日はハイペースじゃないですか?」 「実はねー。私来月から就職活動を始めます!」  既にいい感じに酔っているヨーコはそう言いながら敬礼した。隆はそれにならって敬礼した。 「頑張ってください!」 「暫く飲み会なんて出来ないから今日は飲みだめしてるって訳」  そこでお酒を一口飲んだ。 「でねー。今日はみんなに報告があります」  再び敬礼した。 「これを機に翼君の事はキッパリ諦めます」 「え? ヨーコ先輩、悠人の事本気だったんですか?」 「本気だったのよ〜。でも翼君何故かそっち方面塩対応だから私のやり方も通用しなかったのよ〜」  そしてゴクゴクとお酒を流し込む。 「プハー! すいませーん! シークァーサーサワーもう一杯!」  ヨーコは店員に向かって叫んだ。 「翼君の気持ち、読めないんだよね〜」  そう言って悠人の目を覗き込んだ。隆も悠人の目を覗き込んだ。美玲もそれを見て慌てて悠人の目を覗き込んだ。 「な、何ですか?」 「あ! 先輩ダメっすよ。悠人は松岡の事が好きなんだから」 「えー、そうなのぉ?」 「何根も葉もない事言ってんだよ」 「お前ら付き合ってるんじゃないの? キスぐらいしてるんだろ?」  美玲は驚いた。悠人も咄嗟に否定した。 「してないよ」 「してません」  隆は驚いて言った。 「付き合ってもう長いのにキスもしてないのかよ」 「付き合ってないし」  そこにシークァーサーサワーが運ばれてきた。 「まあまあ。お二人さんが付き合っていようがいまいが、私の恋が終わった事に違いないの。今夜は飲むわよ〜」  そう言うとまたお酒をゴクゴクと飲み始めた。      * 「それじゃ俺は先に帰るな」  酔い潰れて意識がなくなり悠人に担がれているヨーコ。隆は一足先に帰ることになった。改札に入り手を振って帰って行った。 「取り敢えずベンチにでも座ろう。コンビニの前にあったろう?」  三人は駅の反対側に行きコンビニ前に設置してあるベンチに腰掛けた。体に力の入ってないヨーコの体を支えるのも大変なので、悠人は仕方なくヨーコを膝枕した。 「ここで少し回復を試みよう」 「そうだね。ヨーコ先輩寝てるしね」  目の前には京成団地行きのバスのバス停があり、長い行列が出来ていた。まだ八時頃でも家に帰る人がたくさんいるなと、悠人はぼんやり考えていた。  不意に美玲が言った。 「私達ってどんな仲なんだろうね」 「え?」 「あ、ごめん。さっき隆君がキスとか言ってたの気にしちゃって」 「ああ、あれか……」  暫くの沈黙。 「俺は別に気にしないよ」 「え? 何が?」 「だからキ、キスとか」  美玲は頬が瞬間的に熱くなるのを感じた。 「私とキスしてもいいの?」 「えっと、だから、その……」  京成団地行きのバスが到着して、行列の人々がゾロゾロと乗り込んで行った。  美玲は悠人の目を見上げた。悠人はそれに気付き美玲の目を見つめ返した。少しの間二人は見つめ合った。  悠人は右手で美玲の左肩を掴み体の向きを自分の方に向かせた。そしてゆっくりと顔を近付けていった。  美玲は心臓がドキドキして飛び出しそうだった。恋人いない歴イコール年齢の美玲にとって、キスの経験もあるはずが無かった。  美玲はそっと目を閉じた。悠人の唇が美玲の唇に近付く。  その時、タイミングを見計らったようにヨーコが口を開いた。 「う! 気持ち悪い!」  二人の動きがピタッと止まった。美玲は咄嗟に目を開いた。目の前に悠人の顔があった。  二人はどちらからともなく笑い出した。 「ふふふ」 「あはは」 「ヨーコ先輩起きたのかな?」  ヨーコは膝枕で眠ったまま答えた。 「うー。気分最悪よぉ」 「ヨーコ先輩、何か冷たいものでも飲みますか?」 「うん、何か飲むぅ〜」  悠人は美玲に後ろのコンビニから何か買ってきてくれるよう頼んだ。美玲はすぐに立ち上がりコンビニに入っていった。  悠人は取り敢えずヨーコが回復してくれて安心した。でも帰りはタクシーだろうなぁと考えていた。  バス乗り場にはたくさん人が並んでいるが、タクシー乗り場には誰も並んでおらず、タクシープールにはたくさんタクシーが溜まっていた。      *  悠人のカウンセリングを中心とした治療は、とても効果が現れていた。治療が始まって二週間程しか経っていないのに、悠人の記憶障害が少なくなってきているようなのだ。記憶が無くなることが少なくなってきていると言う事はつまり正樹が出てくる事がなくなってきていると言うことに他ならない。  しかしそれは勿論悠人の努力なしにはなし得ない結果だった。悠人は幼い時に受けた虐待について、その状況やその時の気持ちなどを事細かにノートに書き出していた。思い出したくない記憶だ。  正樹は全く現れない訳ではなかった。悠人にその存在を知られた事で、逆に堂々と出てくるようになった。ある時は個別メッセージで美玲に連絡してきた。しかし美玲と悠人は、いい傾向だねと話していた。  美玲は思っていた。悠人は努力して辛い過去と向き合い障害と闘っている。頑張って障害を克服しようとしている。それに比べて自分はどうだろう。何も頑張っていない。何も出来ていない。  そんな自分の事を情けなく思い、頑張ってる悠人は素晴らしいと思うのだった。  正樹は時々現れているようだが、タイミングが合わないようで、美玲の前には姿を見せずにいた。  夏が過ぎそろそろ秋の気配が支配し始めた頃、正樹は悠人の寝不足状態の隙をついて学内で現れた。  正樹は空研の部室に入った。美玲は椅子に座ってスマホを弄っていた。 「よ、美玲。久しぶり」  美玲は名前で呼ばれた事に違和感を感じた。それに久しぶりとは? 「ま、まさか?」  正樹は微笑んでみせた。 「ここじゃなんだから、学食にでも行こうぜ」  二人は学食に入って向かい合わせに座った。 「やっぱり直接話が出来るのはいいな」 「何よそれ。遠恋のカップルじゃあるまいし」 「上手い事言うな。正に遠恋だ」  美玲は一瞥した。 「悠人の奴は俺を消すために頑張ってるな」 「そうよ。その為に辛い現実と向き合ってる」 「だが、俺も頑張ってる」 「何を頑張ってるのよ」 「お前の心を掴む事をだよ」  美玲はドキッとした。 「俺は消えるつもりはない。そしてお前の心を掴んで見せる」  美玲はどう答えて良いか悩んだ。正樹を突き放す事が出来なかった。 「悠人の奴の頑張りは認める。俺は消える気はないがね。そして俺はお前の心を掴む為に頑張っている。なあ美玲。お前は何を頑張ってる?」  正樹は炭酸の缶ジュースのプルタブを開けた。そして一口飲んだ。 「いて! え? 虫歯?」 「え?」 「いかん。今の痛みで悠人が……」  正樹の体から一瞬力が抜けた。そしてすぐ立ち直った。 「あれ? ここは」 「悠人君?」 「あ、mii。するとまた正樹が?」 「うん。話をしたよ」 「そっか」  悠人はそれ以上深く聞こうとしなかった。しかし美玲は説明した。 「正樹君言ってたよ。悠人君の頑張りは認めるけど俺は消えないって」 「挑戦的な奴だな」 「ただの強がりよ。その証拠に最近は余り出て来なくなってるよね」 「そうだな」 「所で翼君。虫歯は治さないとダメだぞ」  美玲は正樹が言った言葉に引っかかっていた。自分は何を頑張っているのだろう。      *  その日は美玲の午後の講義は休講になっていた。美玲は早目に空研に入った。自衛隊関係の航空機雑誌を掴むと隅々まで読み始めた。美玲は自衛隊機にはあまり明るくなく、悠人に教わってばかりなので独自に研究しようと思ったのだった。 「まずはブルーに関連する事からよね」  午後も遅くなってから悠人が空研の部室に入ってきた。美玲を見つけると近付いてきて小声で行った。 「ここじゃアレなんでちょっと出ないか?」  美玲はまさかと思った。 「え? もしかして正樹君?」 「え? 違うよ。僕だよ」 「なーんだ。脅かさないでよ」 「いいから行こうぜ」  二人は部室を出た。自販機で飲み物を買って中庭に来た。 「部室から連れ出してどうしたの?」 「ん? ああそれなんだが、春にさ、入間の基地際にブルーを観に行こうって話したの覚えてるか?」  あれは悠人と美玲が空研に入って最初の撮影会の日の夜の事だった。悠人は個別メッセージで美玲を入間基地にブルーを観に行こうと誘っていた。 「うん、覚えてるよ。もうすぐ入間基地祭だよね」 「一緒に行かないか?」 「うん」  悠人はホッと胸を撫で下ろした。 「ああ、良かった」 「なあに、それを言いたくて部室から連れ出したの?」 「ああ」 「部室でも良かったじゃない」 「部室でこんな話したら他の部員に聞かれるだろう。そしたら二人きりで行けな……」  悠人は段々声のボリュームを下げて話したので最後の方はゴニョゴニョ言っていた。  美玲はクスっと笑った。思わず悠人の腕に絡み付いた。 「二人で行こうね!」  その日の夜。美玲は自分の気持ちに向き合った。自分は何がしたいのか。 「私は翼君を支えたいんだ。そして一緒に闘いたいんだ」  その為にはどうしたら良いのか。どんな選択肢を選択すれば良いのか。美玲は夜遅くまで考えた。そして一つの答えにたどり着いた。 「善は急げだけど、こんな深夜に翼君に連絡は出来ないな。明日にしよう」  翌日、美玲は悠人を呼び出した。空研をサボって千葉駅近くの喫茶店オサオサに入った。 「ここのパンケーキ、写真映えするんだって」 「空研サボって?」 「うん。今日はお願いがあって。実は正樹君に会わせて欲しいのよ」  悠人は驚いた。美玲は障害を克服する事に賛成してくれているのではなかったのか。何で正樹に? 「一体どうして?」 「なんて言うか、しっかりと話を付けたいの。挑戦状とでもいうのかな、宣戦布告?」  宣戦布告というのは誇張した表現だった。美玲は正樹に挑戦状を叩きつけたい訳ではなかったのだが、悠人を安心させる為に大袈裟に言ってみたのだ。 「いまいち理解しきれない……それと、そのお願いは僕には叶えられない。どうやったら正樹を出せるか分からないからな」  美玲はそれを言われてその通りだと思った。 「自分の馬鹿さ加減に呆れるわ」 「いや、でもその気持ちは嬉しいよ」      *  正樹に会えないまま入間基地祭の前日になった。夜八時頃、悠人から連絡が入った。 "よう美玲。俺に会いたいらしいな"  それは正樹からだった。 "悠人の奴ご丁寧に部屋に張り紙してたよ。『正樹へ。miiが会いたがってる』てね。そんな事しなくても俺は悠人の目を通していつでも見てるからお前が会いたがってるのは分かってたのにな" "そうだったのね。今から学校の正門前に来て" "随分積極的だな。でも愛の告白って訳じゃなさそうだな" "じゃ、待ってるから" "おいおい。まだ行くとは言ってないぜ"  美玲は既読にすると返事は送らずに支度をして家を出た。  いつもの通学路を通って西千葉の駅に着いた。そこから歩いて数分で正門に着く。美玲はまるで戦いに赴くような心持ちだった。  正樹は美玲に数分遅れで現れた。 「来てくれてありがとう」 「美玲にしては強引だな」 「どうしても会いたくて呼んだのよ」  正樹は少し黙ってから言った。 「お前が俺と会いたいと思ったのは、別れを言う為なんだろ?」 「少し違うわ。私は翼君が好きなの。でも、正樹君。あなたはその翼君の一部であり、翼君を支えてくれていた存在。だからあなたの事は大事に思ってるわ」 「今の俺には、その言葉はただの慰めにしか聞こえないな。いや、いいんだ。初めから分かってたことさ。副人格の俺はそう言う運命なんだよな」 「勘違いしないで。あなたを含めた翼君全てを私は受け入れる事にしたのよ。あなたを含めて好きなのよ」 「ふふふ。そう言って貰えるのは嬉しいな。だが、美玲。お前が決心したんだから俺も決心する。いや、お前を信用して全てをお前に任せる事にする」 「どう言うこと?」 「今までは悠人には俺が必要だった。心が弱った時に逃げ込む場所だ。だが、これからはお前が悠人の逃げ場になってくれ。悠人を支えてやってくれ」 「何が言いたいのか分からないよ」 「俺はもう二度と悠人と入れ替わらない。俺自身を悠人の中から消すのさ」 「え?」 「それが本来の姿だろ? それを望んで治療を受けているんだろ? その方が幸せなのさ」 「そんな急に!」 「美玲。甘く考えるなよ。お前はまだ悠人に告った訳じゃない。悠人の心を掴んだわけじゃないんだ。しかし俺は消える。だから何があっても悠人の心を掴め。俺はお前を信じて消えるんだ。あとは任せたぞ」 「正樹君」 「俺は瞳を閉じる。次にこの瞳が開かれた時俺はもうこの世にはいない。しっかり掴むんだぞ、美玲。正樹が愛するものは悠人も愛している。自信を持って幸せになってくよな」 「待って! 正樹……」  その言葉を遮って正樹は瞳を閉じた。ほんの少しだが、長く感じる沈黙の後、瞳はゆっくりと開かれた。 「……正樹とは話ができたのか?」  それは悠人だった。美玲はじんわりと涙が滲んだ。 「うん。ちゃんと話をしたよ」 「そっか。また話したくなったら次はもっと簡単に会えるように考えてみるつもりだよ」 「うん、そうだね」  美玲は涙を拭いて改めて悠人に言った。 「なんのムードもないこんな場所で、いきなりこんな事言うの申し訳ないんだけど、私は翼君……ううん、悠人君の事が好きです。だから、悠人君の気持ちを教えて欲しい。あ、今じゃなくていいよ。明日ブルーの展示飛行観に行くんだもんね。気まずくなったら楽しめないもんね。返事はまた別の日にね」  美玲はそう言うと涙を拭きながら駅へと走り去った。悠人はその姿を見送ることしか出来なかった。  次の日、待ち合わせ場所には先に悠人が来ていた。二人は昨夜のことには一切触れなかった。  電車でショーが行われる入間基地へと向かった。車中二人はブルーの話で持ちきりだった。 「ブルー独自の演目は、スタークロス、バーティカルキューピッド、サクラがある。全て第一区分だ。観れたらいいんだが」 「独自ってどう言う事?」 「ブルーの演目は海外、特にアメリカのアクロチームの演目を参考に考えられてるんだよ。しかし今言った三つはブルーが独自に考えたものなのさ」  入間基地へ着くと美玲はその人の多さに驚いた。 「展示飛行は午後イチの一時半だ。まだ少し時間があるな」  二人は基地内に地上展示してある自衛隊機を観て回った。一通り見て回った頃、時刻は一時半に近付いていた。二人はハンガー(格納庫)の壁を背にしてブルーを見ることにした。二人の期待と興奮は最高潮を迎えていた。      *  会場アナウンスが次の演目を案内した。 「次はバーティカルキューピッドです。大空に描かれるハートにご注目ください」  バーティカルキューピッド、もしくは単にキューピッドとも言われるこの演目は大空にハートを描くブルー独自の演目だ。五番機、六番機がハートを描き、四番機がそのハートを貫く矢を描く人気の演目だ。  五番機と六番機が並んで垂直に上昇を始めハートを描く準備に入る。  その時、悠人は独り言のように呟いた。 「バーティカルキューピッドは三機の飛行機が織りなす大きなハートだな。僕は二重人格。つまり、僕がいて正樹がいる。そしてmii。君がいる事でキューピッドが完成する」  五番機と六番機が二手に分かれた。と同時にスモークが焚かれハートが描かれ始める。 「僕もmiiが好きだ。共に手を取り合ってハートを完成させたい。パートナーになってくれないか?」  二手に分かれた二機は大きくそしてゆっくりと宙返りをして空には巨大なハートが描かれた。  美玲は悠人の方を見る事なくそのハートを見上げながら涙が溢れた。 「はい」  四番機が左下からハートの中心に向けて線を描いていく。 「ありがとう、美玲」  美玲は一瞬ハッとした。今の言葉は翼君? それとも? 「ご覧ください。ハートの真ん中に矢が描かれていきます」  悠人は空を見上げたまま美玲の肩を抱いてグッと引き寄せた。空には大きなハートとそのハートを射抜いた矢が描かれていた。

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空女 第四話

空女 第三話

 悠人は次の講義が始まるので早めに教室に入っていた。見ると隆がいたので隣に座った。 「よ! 悠人。今日も元気そうだな」 「なあ隆。お前はサークルとかに入ってないから先輩付き合いとかないよな」 「まあな。でもバイト先とかにも先輩はいるぜ」 「うん。実は空研に三年のヨーコ先輩っているんだよ。その先輩がやたらと絡んで来るんだ」 「ほーほー。モテモテな事で」  隆は悠人を茶化したが悠人は構わず話を続けた。 「たった二年しか違わないのに、大学生ってのはそんな積極的に変わるもんかね?」 「バーカ。それは歳の差の問題じゃなくて個人の性格の問題だろ。そんなに積極的なら付き合っちゃえよ。あ、お前には松岡がいたか」 「何でそうなるんだよ」 「先輩を選ぶか同級生を選ぶか、悩ましい問題だなぁ。ああ羨ましい」  悠人はヨーコが積極的に接してくるので戸惑っていた。戸惑うと言うのは裏を返せばヨーコの事が好きなのではない。もっと言えば美玲の事が好きなのだが、悠人自身それに気付かずにいた。 「なあ、今度焼肉でも行かないか?」 「お、良いねぇ」 「松岡とそのヨーコ先輩も誘えよ」 「え? 何でそうなる」 「サシで焼肉行っても盛り上がらんだろ? 女っ気があった方がいい」  隆はヨーコ先輩と美玲の前で悠人がタジタジになるのが楽しみだっただけだ。 「いいか、二人とも誘えよ。これは命令だ」  その日の講義が終わって美玲は空研の部室にやってきた。それを見つけてヨーコが美玲を手招きした。 「ヨーコ先輩お疲れ様です」 「ねえ、miiちゃん。唐突なんだけど今度焼肉でも行かない?」 「ホント唐突ですね。でも良いかも」 「そうよね。じゃあ翼君も誘って行きましょう!」 「え? 翼君も?」 「うん。彼、私が色々話しかけたり誘ったりしてもなーんか塩対応なのよね。でもmiiちゃんがいる時は柔らかいのよ。だから、三人で行きましょう」 「は、はぁ……」  美玲は嬉しいような嬉しくないような複雑な気持ちだった。 「ほら、何してるの?」 「え?」 「そうと決まったら翼君にすぐ連絡!」 「は、はい」  美玲はスマホを取り出して悠人に個別メッセージを送った。すぐに既読になったのだが、返事は来なかった。  何か嫌な思いをさせてしまったのかと美玲は不安になった。  程なくして悠人が空研の部室に現れた。美玲は何か気まずかった。そんな気持ちお構いなくヨーコが悠人を呼んだ。 「翼君、翼君。miiちゃんからのメッセージ読んだ?」 「その事なんですけど」  悠人が申し訳なさそうに切り出すので、二人はてっきり断られるのかと思った。しかし悠人は隆の事を切り出した。 「メッセージもらう前に同級生の隆と焼肉行く約束しちゃったんですよ。で、良かったらなんですが、四人で焼肉行きませんか?」 「ちょっと予定と違うけど、まいっか」 「どこの焼肉屋に行きますか?」 「稲毛のモーモー横丁ってとこなら知ってますよ」  と言う事でみんなは焼肉に行く事になった。      *  焼肉当日。美玲は西千葉駅のホームで待っていた。電車がホームに滑り込んできて止まる。すると車内から顔だけ出して隆が呼んだ。 「松岡! 早く早く」  美玲は慌てて電車に乗った。中には悠人も一緒だった。 「ヨーコ先輩、改札に着いたって」  電車は走り出しすぐに隣の稲毛駅に着いた。改札へ向かうとヨーコの方が先に気付いて手を振った。 「ヨーコ先輩お疲れ様です」 「土曜の夕方でも人多いのね」  稲毛駅は買い物客が多くいた。また飲み屋街もあってお酒を飲みに来る人も多いようだった。 「モーモー横丁はどこにあるんだ?」 「海側の、すぐそこです」  悠人は前に立って歩き出した。稲毛駅の海側はロータリーになっていてバス停がいくつも建っていた。そこから脇道に入る道があった。悠人はそこを入った。 「ここです。ここの二階です」 脇道に入るとすぐ目の前にビルがあり、そこの二階が焼肉屋だった。悠人は慣れたように階段を昇っていき店に入った。  元気のいい声で店員が挨拶してくる。 「いらっしゃいませ、何名様ですか?」 「四人なんですが入れますか?」  ざっと店内を見渡すとまだ時間が早いのかお客はいなかった。店員はみんなを窓際の個室に案内した。  席に着くと隆が言った。 「ヨーコ先輩。改めまして中野隆です。悠人がいつもお世話になってます」 「よろしくね。所で何から食べる?」  パラパラとメニューをめくる。お酒のページに来た時ヨーコが言った。 「あ、私飲むけどいい?」 「どうぞ。僕ら未成年なので飲めませんけど大丈夫ですよ」  店員を呼んでオーダーを済ませると、取り敢えず無言になった。隆が我慢しきれずに言った。 「ヨーコ先輩。悠人の奴はサークルではちゃんとやってますか?」 「翼君は飛行機関連の知識も豊富だし顔もイケメンだし問題なしよ」 「僕もイケメンでしょ?」 「早くお肉来ないかなぁ」  先に来たのはアルコールとその他の飲み物だった。 「とにかく乾杯しましょ」  みんなはグラスを合わせて乾杯した。雑談を続けてると肉が運ばれてきて、みんなは飛びついた。  最初のうちはほぼ無言で肉を頬張っていた。お腹が落ち着いてくるとみんなのんびりペースに落として食べ始める。  意外と隆のノリがヨーコに受け入れられて会話は弾んでいった。 「ねーねー、翼君。今度どっかに遊びに行かない?」  明らかに悠人個人に向けてヨーコは誘った。しかしそれに気付かずに隆が乗ってきた。 「良いですね。どっかドライブしましょう」  ヨーコは一瞬隆を睨みそうになったが、ドライブと聞いて目が輝いた。 「良い事言うわね。ドライブしましょう」 「でも誰か車持ってるんですか?」  隆が手を挙げた。 「俺、免許なら持ってます」  するとヨーコも言った。 「免許なら私も持ってるわよ」  悠人と美玲は免許を持っていない。一瞬沈黙が包む。肉の脂が滴り落ちて網の上がぼうっと炎に包まれる。  ヨーコは特にリアクションもなくトングで氷を掴むとその火の中に氷を置いて火を消した。 「ならさ、レンタカーで行こうぜ。料金も割り勘で計算しやすいだろ?」 「そうね。レンタカーが良いわね。問題はどこへ行くかね」 「チバニアンはどうですか?」 「却下」  チバニアンとは地質時代区分の一つで、千葉県市原市でその地層を見る事が出来る。地質学的には貴重なもののようなのだが素人には単なる地層にしか見えず、観光としての力は弱い。  悠人は美玲に聞いてみた。 「miiは行きたい所ないのか?」 「私はみんなと一緒なら楽しいけど、一度豊の丘海水浴場に行ってみたいな」 「海水浴場? 泳ぐにはちょっと早いぜ」 「違うのよ……」  美玲は豊の丘海水浴場の事を説明した。豊の丘海水浴場は南房総市にある浜辺で、砂浜も比較的綺麗な海水浴場だ。なにより、浜辺から沖に向かって伸びる白い桟橋が綺麗な所だ。木で出来たその桟橋には等間隔で街灯が建てられていてノスタルジックな雰囲気を醸し出している。 「水の色も青くて綺麗なんだけど、そこに突き出た桟橋がやっぱり素敵なのよ」 「いいねぇ。そこ行ってみよう」 「翼君はどこか行きたい所ないの?」  悠人はスマホを取り出して検索し始めた。それを見てヨーコもスマホで検索し始めた。 「千葉県最南端にある野島崎灯台はどうですか? 何か面白いベンチもありますよ」  悠人はそう言ってスマホの画面をみんなに見せた。そこには高い岩の上に置いてある白いベンチが写っていた。 「何これオシャレ」 「何で岩の上なんだ?」 「空が晴れてるから青い空に白いベンチが映えますね」  悠人は詳しい場所を調べてみた。千葉県の最南端だけあって、高速道路などは繋がっていなかった。 「結構遠いなあ。地図アプリで見たら千葉から一時間半くらいだ」 「一時間半ならそんなに問題はないんじゃないのか? トイレ休憩とか挟んでもそんなに時間はかからないよ」  悠人は車を運転しないのでその感覚がよく分からなかった。車好きの人にとっては一時間半くらいは苦にならないのだろう。 「行ってみて疲れるようなら中止すれば良いんじゃない?」  スマホを検索しながらヨーコが言った。 「それもそうですね。じゃあその灯台にも行ってみよう」  ヨーコは何かを発見して言った。 「ねえ。木更津に有名な歩道橋があるらしいわよ。日本一の高さなんだって」 「へえ。日本一高い歩道橋かぁ。気になるなぁ」 「でしょ? 中島橋って呼ばれてるんだって。中島公園ってとこがあって、その公園港に隣接してるみたいなんだけど、公園の向こうに中島って言う小さな島があるみたい。公園とその島を繋ぐ橋みたいだよ」 「そこも行きましょう」  隆はすぐさまドライブのルートを考えた。 「じゃあ、当日は最初に最南端の灯台へ行こう。その後昼ごはんを食べつつ海沿いを北上。松岡が言った海水浴場へ行き更に北上。最後に木更津の日本一の橋だ。それでいいか?」 「まあ良いんじゃない?」 「僕は車の事はよく分からないから任せるよ」 「私も右に同じ」 「じゃあそれで決まりだな」 「楽しみねー」  ヨーコはご機嫌になって残っている肉を焼き始めた。実は中島橋には一つの都市伝説がある。その橋を男の人が女の人をおんぶして一回も下さずに渡り切るとその二人は結ばれると言うものだ。  ヨーコは当日絶対悠人におんぶしてもらうつもりでいた。      *  美玲は茨城空港以来姿を見せない正樹のことが気になっていた。あの時の言葉で正樹を怒らせてしまったのだろうか。  本来なら正樹が姿を見せない方が良いのだが、美玲はどこか引っかかるものがあった。  美玲は悠人にそれとなく確認してみようと、個別メッセージを送ってみた。 "前に記憶がなくなる事があるって言ってたけど今でもあるの?"  すぐに返事は来なかった。美玲は課題を進めながら返事を待った。 "ああ、あのことか。今でもあるんだ。大抵は家の中で起きるんだけど時々外にいる時にも起こるよ。どうして?" "ううん。何でもないの。大学に入って環境変わったから治ってたら良いなって思っただけ。ドライブ楽しみだね" "そっか。ありがとうな。ドライブ楽しみだな"  どうやら正樹は今でも現れているようだ。しかし美玲の前には現れない。これはどう言うことなのだろう。  美玲は考えがまとまらなかった。気晴らしにカマヨに連絡してみた。 "この前話してたカラオケに行く件、行ってきたよ。でもその後何でか分からないけど会ってないの。怒らせちゃったのかも"  カマヨからはすぐに返事が来た。 "もう、連絡来ないから心配してたのよ。私の方が怒ってるわよ。ゲイを怒らせると怖いわよ" "ごめん、ごめん" "で何? いきなり怒らせちゃったわけ?" "その人凄く押しが強くてなんだか戸惑っちゃって"  カマヨからの返事が一旦途切れた。カマヨはこの時間ゲイバーで働いてるからお客さんでも入ってきたのだろうと美玲は思った。  数時間後、美玲が寝ようと思いベッドに入った時、カマヨからの返信が来た。 "ごめんねー。お客さんが来ちゃって。で、どうするの? その押しが強い人とは付き合わないつもり?" "付き合わないよー。初めからそのつもりだもん" "何でよー。付き合っちゃえばいいのに" "その人とはあれ以来会ってないし他の友達と遊びに行く約束とかしてるし" "mii。二股は良くないぞ"  何で二股になるんだろうと美玲は思った。 "二股じゃないでしょ! 私誰とも付き合ってないよ" "ねえ、mii。あなた本当は誰が好きなの?"  美玲はそれを読んで鼓動が高鳴った。一瞬悠人の顔が浮かんだ。しかし美玲はそれを受け入れてはいなかった。 "好きな人なんていないよー" "mii。自分の気持ちは自分でしっかり把握してないとダメだぞ。じゃないと幸せ掴めないぞ"  自分の気持ち。美玲はカマヨに言われて納得した。しかし今は素直にはなれなかった。 "ありがとう、カマヨ。今夜は寝るね。お休みー"  カマヨはスタンプを送信してきた。バナナマンのキャラがコントをやっているスタンプのようだ。『お会計して下さい』と書かれていた。      * ドライブに行く日の前日。美玲は学内で悠人を見つけて駆け寄った。 「翼君おはよー」 「おう、miiか。おはよう」 「ねえ、ちょっと相談したい事があるんだけど」  美玲は正樹のことを話してみるつもりだった。但しあくまでも自分の友達として。絶対に悠人の別人格だとバレないように。  正樹は悠人が覚醒している時でも悠人の目を通してこの世界を感じていると言っていた。だから悠人に話せば正樹にも伝わると考えたのだった。 「実は正樹君って言う友達がいるんだけど、彼の事どうやら怒らせてしまったようなのよ」  美玲は正樹とはNicoFace上の友達だと説明を付け加えた。嘘はついてないよねと納得させた。 「何で怒らせたんだよ」 「それがよく分からなくて困ってるの。ちゃんと謝りたいんだけど」  悠人は少し考え込んだ。腕組みをして頭を捻った。 「一度ちゃんと謝る以外方法はないな。誠意が大事だよ。気持ちをちゃんと伝えた方が良い」 「私も伝えたいのはやまやまなんだけどね……」  悠人はその言葉に若干の違和感を覚えた。 「あ、そろそろ講義が始まっちゃう。翼君ありがとね」  美玲は軽く手を振って立ち去った。悠人は腕時計を見て自分も講義が始まると慌てて駆け出した。      *  ドライブ当日。隆はレンタカーを借りて集合場所の大学正門前につけた。みんな既に揃っていた。 「ヨーコ先輩、運転手の補助で助手席に座って下さいよ」 「え? 私は翼君の隣が良かったんだけど……まあ仕方ないか」  基本的に隆が運転して後半をヨーコが運転する手はずになった。穴川インターまでは比較的スムーズに行けた。そこから高速に乗り野島崎の灯台を目指した。  途中何度かサービスエリアなどに止まり休憩をして、だいたい二時間くらいで野島崎に着いた。  空は快晴で青空だ。白い灯台が綺麗に見えた。 「でもイメージしてたのより小さい感じだなぁ」 「ヨーコ先輩。あっちに飛び魚のモニュメントがありますよ」  飛び魚のモニュメントの方へ向かって道が続いていた。 「そっちが遊歩道のようね」  みんなは遊歩道に沿って歩いて行った。遊歩道は海沿いを歩いてゆく。灯台は少し高い土地になっている。 「この辺は磯なのね。岩がゴツゴツしてるわ」  少し風が強いのか、波が岩に当たって砕けている。遊歩道は海辺を灯台を迂回するように伸びていた。  五分ほど歩いた所に一際大きな岩が横たわっていた。その岩の上に白いベンチが置いてあった。 「アレじゃないか?」 「ホントだ。何か不思議な光景」  その岩の高さは二メートル以上ありそうだ。 「あのベンチに座るにはここを登らないとな」  すると美玲は登れそうな所を見つけて一歩一歩慎重に踏み出しながら登って行った。 「おいおい、大丈夫か?」 「うん、意外と難しくないよ」  みんなは美玲が通った後に続いて岩を登って行った。岩の上はちょうど四人が立つと一杯になるくらいの広さだった。  風が強く吹き抜けていく。眼下に見える波打ち際では岩に波が砕けていた。 「何でこんな所にベンチが置いてあるんですかね?」 「二人がけだし恋人専用って事だろ?」  するとヨーコがササっとベンチに座った。そして空いている所を手で叩いて言った。 「ほら、翼君も座って」  隆は冗談まじりに言った。 「何で俺じゃないんですか?」 「いいからいいから」  悠人は言われるままにヨーコの隣に座った。美玲は気持ちがモヤっとした。 「こうしてると恋人みたいよねー。ねえ隆君。写真撮ってよ」 「証拠写真撮っちゃっていいんですかぁ?」  隆はヨーコからスマホを受け取るとカメラを二人に向けた。ヨーコは徐ろに悠人の肩に自分の頭をもたれかけた。 「ちょ、ちょっと先輩」 「いいからいいから」 「よし、撮るぞー」  隆は連写して写真を撮った。 「何で連写なんだよ」  美玲は何故かいてもたってもいられなくなって、自分のスマホを取り出した。 「先輩! 誰もいないベンチの写真撮りたいのでちょっと一旦退いてもらえますか!」 「え、いいけど」  ヨーコと悠人はベンチから立ち上がった。美玲は写真をさまざまな角度から撮った。 「ほら、そこどいて翼君!」 「な、なんだよ。無理矢理だなぁ」  一通りべンチを楽しむと隆が言った。 「駐車場の周りに食べ物屋、てか食堂があっただろ? 何か食べていくか?」      *  豊の丘海水浴場は中々見つからなかった。道の横には海水浴場を指し示す看板がいくつか出ているのだが、何故か豊の丘海水浴場の看板は見つからない。 「この辺だよなぁ」  ゆっくりと車を走らせる。助手席に座っているヨーコが看板を見つけた。 「これね。この小道を入るみたいよ」  その道はとても狭く対向車が来たらすれ違えない道だった。 「ここでいいんですかね? 何か不安しかないんですが」  隆はゆっくりと車を走らせた。するとすぐに海辺に出た。道は開けて小さな広場に繋がっていた。その広場に車が一台停まっている。  美玲は浜辺から海に伸びる桟橋を見つけて、ここが自分の来たかった豊の丘海水浴場だと確信した。 「ここに間違い無いみたい」 「車が駐車してるって事はこの広場は駐車場かな?」  隆は駐車してあった車の隣に車を停止させた。車を降りるとみんなは白い砂浜に出てみた。 「綺麗な砂浜ねー」 「海も青くて綺麗ですよ」  そして何より海に突き出している桟橋のインパクトが大きかった。桟橋の床はウッドデッキになっていて風化しているが白で統一されている。その桟橋の左側には等間隔で街灯が建っている。裸電球に古びたホーロー製の傘がノスタルジックだ。  美玲は写真を何枚も撮った。青い空、三角波が立つ海に白い砂浜。そこから伸びる白い桟橋が不思議な空間を作り出していた。 「ここいい所だな」 「素敵ね。気に入っちゃった」  離れたところから写真を撮っている美玲に近付いて悠人は美玲に話しかけた。 「mii。こんな素敵な場所よく知ってたな」 「ファッション雑誌に載ってた広告の背景だったのよ。場所が書かれてなかったからネットで調べたらここだったの」 「なるほどね」  遠くから隆が呼んだ。 「桟橋を渡ってみるぞー!」 「おお! 今行くー」  隆とヨーコは桟橋を渡って行った。少し遅れて美玲と悠人も渡って行った。  ウッドデッキは作られた時は白いペンキで塗られていたのだろう事は分かった。海水や潮風に晒されてペンキが剥がれたり木が崩れてたりしていた。  等間隔で街灯が建てられているのだが、昼間なので当然点いてはいない。 「その雑誌の広告は夕暮れ時だったから、この街灯が点いてたんだよ」 「ほおー。幻想的だろうな」 「うん。不思議な写真だったよ」  桟橋の先端に立ったヨーコは先端から海を覗いていた。 「海の水の色が更に青くなってるよー」  確かに浜辺付近の色よりも濃い青色をしていた。桟橋の先端から見る浜辺も素敵な雰囲気だった。 「mii、実際にここへ来て良かったか?」 「うん!」 「そっか。じゃあまた来ような」  美玲は耳を疑った。それはどう言う意味なのか。美玲は悠人の方を見た。しかしその会話が聞こえていたのか聞こえていなかったのか、絶妙なタイミングでヨーコが言った。 「ねえ、集合写真撮りましょう」      *  隆は赤い歩道橋を見上げて驚いていた。 「ほえー。これが日本一かあ」  中島公園の駐車場の隣に中島橋がどでかく存在感を出して建っていた。橋は赤い色だった。 「歩道橋って聞いてたから階段で昇るのかと思ってたけど……」  歩道橋の高さが余りにも高いせいなのだろう、歩道橋の端はスロープが何回か折り返している作りになっている。  みんなはゾロゾロと歩き出した。そこでヨーコが言った。 「この歩道橋。おんぶして渡った二人は結ばれるんだって」 「ここをおんぶして渡るのは辛そうですね」 「ねえ翼君。おんぶして!」  悠人は露骨に驚いてみせて言った。 「えー。正直に言って良いですか?」 「ダメ! もうその時点で答えになってるから」 「お二人の漫才も段々板に付いてきましたね」 「漫才じゃ無い!」  再びみんなはゾロゾロ橋に向かって歩き始めた。美玲は豊の丘海水浴場で言われたことをずっと考えていた。  スロープは最初は急な感じはしなかった。しかし見た目以上に勾配がきついようだ。昇るにつれ段々息が上がっていく。  最後の折り返しを折り返すと、橋の頂上が見えた。しかし折り返しの地点から橋の頂上に向けて更に勾配が続いていた。堪らず隆が言った。 「えー! まだ昇るの!?」 「おんぶしてなんて渡れなかったですよ」 「はぁはぁ、ホントね。おんぶしてもらってたら楽出来たのに」  ヨーコは息を切らしてその場にしゃがみ込んだ。隆も足を放り投げて座ってしまった。その横を小声でブツブツ言いながら美玲が歩いて行った。 「松岡。まだ歩けるのか?」  しかしそれが聞こえていないかのように美玲はその言葉をスルーして坂を昇って行った。 「おいおい。団体行動を乱すやつだなぁ」  隆はスルーされた事は気にも止めず、息を整えていた。悠人は美玲の動きが変だなと思い後を追うことにした。 「悠人。お前も乱す側か?」 「疲れてるんだろ? 無理せずに先に車に戻っててくれ!」 「そうさせてもらうわー」  美玲は疲れを全然見せずに、既に橋の頂上付近まで行っていた。悠人は小走りで美玲に追いついた。 「ちょっとそこ行くお姉ちゃん。集団行動乱してますよ」  悠人は美玲の肩を叩いた。美玲はハッとして振り返った。 「え? あ、翼君」 「なんだなんだ? 無意識に歩いてたのか?」 「あれ? 先輩と隆君は?」 「疲れてリタイヤだよ」  二人は惰性で反対側まで来ていた。 「先に車に戻ってると思うけど、ここまで来たら橋を渡り切ってみるか」 「う、うん」  二人は特に会話もなく反対側のスロープを降りて行った。何回か折り返すと中島に着いた。 「反対側も広場になってるね」 「誰も人はいないけどな」  それを聞いて美玲は悠人と二人きりの状態に顔が赤くなった。悠人と並んで立っていたが、美玲は半歩悠人から離れた。  それに気付いた悠人は半歩美玲に近付いた。美玲は負けじと半歩離れる。  近付く悠人、離れる美玲。それを何回か繰り返した時悠人が焦れて言った。 「何で離れるんだよ」 「何でもいいでしょ」  そう言うと美玲は走って悠人から離れた。悠人は追いかける。 「体力使うと帰りが辛いぞ」 「え?」  美玲は一瞬振り向いた。しかしその時足元の小石に気付かず踏んでしまい、バランスを崩して倒れてしまった。  慌てて悠人が駆け寄ってきた。 「危ないやつだなぁ、ほら」  悠人が手を差し出した。 「かたじけない」  美玲はそれに掴まって立ち上がったのだが、足首に激痛が走った。思わずよろけて悠人に抱きついてしまった。 「痛っ!」 「おい、大丈夫か? どこか痛めたのか?」 「足首を捻っちゃったみたい。イタタ」  悠人は美玲に背中を向けてしゃがみ込んだ。 「ほれ、仕方ない。おぶってやるから乗れ」 「え?」  美玲は躊躇った。 「その足じゃあの歩道橋を昇るのは無理だ」 「で、でも」 「いいから乗れって。恥ずかしがる歳じゃあるまいし」  恥ずかしがる年頃真っ只中だと思った。しかし美玲は確かにこの足じゃ歩けないと納得した。  美玲は体重を気にして少し不安だったが悠人は軽々と立ち上がった。  橋の頂上まで特に何も会話もせずに昇ってきたが、頂上まで来て悠人は流石に息を切らしていた。 「重い……」 「ごめん」 「冗談だよ。笑えばいいんだよ」  美玲は少し気が軽くなった。そこからは下りだ。悠人は息を切らしながら坂を降りて行った。  最後の折り返しを回ってあと少しで地上に戻る時、再び悠人が口を開いた。 「Bカップだな」  美玲は胸の事を言われたんだとすぐに気付いた。それまで悠人の肩から前に回していた手を胸に持って行った。 「図星か?」 「図星じゃないよ!」  美玲は悠人の後頭部をポカポカ叩いた。 「あ、よせ。コラ!」  歩道橋は駐車場に隣接しているので、車の外で待機していた隆が悠人と美玲を見て飛んでやってきた。 「もう降りるー! 降ろせー」 「おいおい、お前ら何やってんだよ」 「痛、痛。髪を引っ張るな!」  悠人はそれでも美玲を下ろさずに車に向かって歩いて行った。歩きながら髪の毛を引っ張られながら隆に事情を説明した。 「それは仕方ないのかもしれないが、こんな所ヨーコ先輩に見つかったら大変だよ」 「?」 「丁度今トイレに行ってるから、今のうちに松岡を車に乗せよう」  二人は美玲を支えて車の後席に乗せた。美玲は小声で言った。 「ありがとう……」  悠人は美玲の横に座った。隆はヨーコがまだトイレから戻らないのを確認すると助手席に座った。 「まったくー。ヒヤヒヤさせるなよ」  BカップじゃないのにBカップと言われて美玲はプンプンしていた。  程なくしてヨーコが戻った。ここからはヨーコが運転するようだ。事情を説明するとヨーコは美玲の足を気遣ってくれた。      *  美玲はどうにも気持ちが治らなかった。胸の事を言われたぐらいで子供っぽいとも思った。自分の不注意で怪我して運んでもらって。その上小さな事で怒って。  しかし恋人いない歴イコール年齢の美玲に取って、悠人が背中で美玲の胸の感触を味わっていたのがどうにも収められない感情になっていた。  そんな時悠人が徐ろにスマホを取り出し何か操作を始めた。と、美玲のスマホが鳴った。NicoFaceの個別メッセージの着信音だ。  美玲はスマホの画面を見た。するとそれは悠人からだった。  何で隣にいるのに直接はなさないのよとイラッとしたが、黙ってメッセージを開いた。 "美玲久しぶり。悠人と喧嘩か?"  美玲は驚いた。それは正樹からのメッセージだったのだ。悠人の顔を見ると満面の笑みで美玲に微笑んでいた。 "ご安心を。ちょっと気まずいだけよ" "分かってないなぁ。悠人の奴は不安で一杯なんだよ。だからその隙を突いて俺が出て来れた。悠人の不安を取り除いてやってくれ。じゃあな"  美玲は正樹の顔を見た。正樹は片手を頬の横に持ってきて、指を瞬いて見せた。するとそのまま眠ってしまった。  一方的に会話を切られて美玲はオロオロした。しかも直ぐに悠人は目を覚ました。美玲は小さな声で言った。 「捻挫少し良くなったよ。ありがとうね」 「ん、ああ。良かったな」  悠人の表情が柔らかくなった。

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空女 第三話

空女 第二話

 空研は月に一度飛行機の撮影会をしている。大体は成田空港近くのさくらの丘公園に行っている。交通の便の悪い所なので、車を持ってる部員が駅から送迎したりしてみんなが集まっている。  飛行機の撮影には絶好の撮影ポイントで、その日も沢山の航空ファンが集まっていた。  空研の部員の中には本格的なカメラを持ってる人も多かったが、悠人や美玲など新入部員はスマホで撮影する事にした。  悠人の所に三年生の女子部員、タックネームヨーコが話しかけてきた。 「ねえ翼君。翼君は何の飛行機が好きなの?」 「僕はブルードルフィンズが好きなので、必然的に自衛隊のT-4ですかね」  ブルードルフィンズは航空自衛隊松島基地に属する飛行チームで、その使用機体は自衛隊の初等ジェット練習機のT-4だ。 「へえ。じゃあ松島に観に行くの?」 「僕は松島には行ったことないのですが、ブルードルフィンズは全国の基地祭で展示飛行をしてますからそれを観に行きます」 「ふーん。どこに観に行くの?」 「千葉から近い所だと、茨城県の百里基地か埼玉県の入間基地になります。交通の便から考えて秋の入間に行くつもりです」 「秋かぁ。私その頃は就職活動真っ只中だから無理かなぁ。一緒に行きたかったのに」 「あ、エアバス来ますよ」  エアバス社のA380が轟音と共に着陸してきた。航空ファンが一斉にフォーカスを合わせてシャッターを切った。  美玲はたまたま悠人の近くにいたので二人の会話が何となく耳に入っていた。美玲も子供の頃ブルードルフィンズを観てから大好きだった。悠人と一緒に観に行けたらいいなと思っていた。 「ねえねえ、翼君。いつか一緒に観に行こうよ」 「いやあ。じっくり観たいから一人がいいんですよ」 「もう、つれないなぁ」  それを聞いた美玲もがっかりした。  撮影会はお昼頃に終わり、みんなは成田空港に移動して昼ごはんを食べた。撮った写真を見せあったりして少し雑談をした後、電車組と車組に分かれて解散となった。  その日の夜、美玲がのんびりNicoFaceを見ていると、個別メッセージが届いた。悠人からだった。 "今日の撮影会でブルードルフィンズの話になったんだが、秋の入間基地際に一緒に行かないか?" "え? でも一人で観たいって言ってなかった?" "嫌ならいいんだ" "嫌じゃないよ。一緒に行きたいよ"  それはまだ五月の事だった。十一月の基地祭まで半年あった。      *  大学の昼休み、悠人の友達の隆が悠人に話しかけてきた。 「そう言えばさ、お前と松岡ってNicoFaceで知り合ってこの同じ大学に入ったんだよな?」 「ん? 同じ大学になったのは偶然だよ」 「まあ偶然かもしれんが、それで空研で初めて会ったって言ってたよな?」 「まあ、お互いにブルードルフィンズが好きだったから空研に入ったのは必然かも知れんな」 「それって何か運命じゃね?」 「……何が言いたいんだ?」 「お前達付き合っちゃえよ」 「何だよ、藪から棒に」 「嫌なのかよ、松岡中々いい線行ってると思うぜ」 「知らん知らん。俺はもう行く!」  そう言うと悠人は席を立ちスタスタ歩いていった。何故かプンプンしている自分に気付かずに。  しかしその隙をついて正樹が悠人と入れ替わってしまった。 「ふふふ、からかわれたぐらいで頭に血を登らすなんて、子供だな、悠人」  正樹は午後の講義が休講になっている事を知っていたので、そのまま空研の部室に向かった。美玲と同じ講義を取っていたので美玲も必然的に午後の講義は休講だったからだ。  部室に着くと案の定美玲がいた。タブレットパソコンをいじっていた。正樹は美玲の横に立った。美玲はすぐに気が付いて挨拶をした。 「午後は休講だな。ここだとなんだから冷たいものでも買いに行こうぜ」  美玲は言われるままに正樹の後について行くのだが、何か言葉遣いに違和感を覚えたので小声で聞いてみた。 「あの……あなたもしかして」 「正樹だ。悠人の隙をついて入れ替わった」  美玲は驚いた。もしみんなに知られたらどうするのか。  学食前の自販機コーナーにやってくると、正樹は炭酸飲料とお茶を買い、お茶を美玲に渡した。 「一体どう言うつもり?」 「どう言うって?」 「あなたの事みんなに知れたら大変でしょ」  正樹は缶のプルタブを開けながら答えた。 「前に行けなかったカラオケに誘おうと思ってさ」 「カラオケ?」 「ああ。二人きりで行こうぜ」  美玲は少し考えた。 「それってあなたとって事? それとも翼君とって事」  今度は正樹が少し考え込んだ。 「もちろん俺とだよ。嫌なのか?」 「あなたの事なんて何も分からないのに行くわけないでしょう。翼君とならまだしも」 「悠人の奴とは行くのかよ」 「う、うん。誘ってくれるか分からないけど」  正樹は気に食わないと言う顔で炭酸飲料を飲んだ。 「分かってないな。俺がお前を好きなのは、悠人がお前を好きだからなんだよ。例え別人格と言えども心は一つ。悠人が好きになれば俺だって好きになる。だからお前をカラオケに誘ったんだよ」  美玲は混乱した。それが告白なのは分かった。 「ちょ、ちょっと待って! いきなり好きとかなんとか言われても分からないよ」 「分からなくてもいい。俺と恋人になれよ。今度の日曜日、午後一時に千葉駅の改札で待ってるからな。きっと来いよ」  正樹はそう言うと炭酸を一気に飲み干した。ゴミ箱にそれを捨てると行ってしまった。  美玲は突然の告白に驚きただ立ち去る正樹の背中を見送ることしか出来なかった。  その日の夜、美玲はベッドに横になり正樹の言葉を思い返していた。悠人が幼い頃に受けた虐待により生まれた別人格の正樹。彼をどう受け止めれば良いのか。  彼は悠人の一面である事に変わりがない。その正樹が自分を好きでいる。そしてそれは悠人も美玲の事が好きだと言っていた。それは本当なのだろうか?  しかし一番大事なのは自分の気持ちだった。美玲は悠人の事が好きなのか。その気持ちに正面から向き合う事なく今は有耶無耶にした。  日曜日のカラオケはどうすればいいのだろうか?  そんな事を考えているとNicoFaceの個別メッセージの着信音が鳴った。悠人からだろうか。美玲はドキッとした。  しかしそれはカマヨからだった。 "キャンパスライフはエンジョイしてる? 全然連絡してこないんだもん。ゲイだからってシカトしてるとお会計するわよ" "ごめんなさい。色々バタバタしてて。お会計って何?" "お会計ってのは、バナナマンの『すぐ立つ女』って言うネタよ。気にしないで。そんな事より上手く行ってるの?"  美玲は詳しい事は隠しつつカマヨにカラオケの事を聞いてみる事にした。 "大学で知り合った人にカラオケ誘われたの。でも私その人の事何も知らないから迷ってるの" "やだ、もうラブロマンス? 若いっていいわね。カラオケ行っちゃいなさいよ。若いうちは色んな経験をしていく方がいいのよ" "でも知らない人だし" "最初はみんな知らない人なのよ。いいからカラオケに行ってお会計しちゃいなさい"  お会計の意味がいまいち分からないが、言われてみれば確かにその通りだ。正樹の事を知るいい機会かも知れない。 "分かったわ。行ってみる"      *  日曜日。美玲は朝からソワソワしていた。約束の時間に千葉駅の改札に行くと、そこに正樹の姿があった。見た目は悠人なのでそれが正樹なのか悠人なのか話してみなければ分からないのだが、悠人ならばそもそもここにいる事はない。 「こんにちは……えっと」 「やっぱり来たな。美玲なら来てくれると思ってたよ。だがあまり良くない知らせだ」  正樹は残念そうに告げた。 「悠人の奴の意識が回復してきてる。いつ悠人に戻るか分からない。急ごう」  正樹は焦っているようだ。よく分からないが悠人の意識が弱い時は正樹は体を支配できる。今は悠人の意識が回復してきていて、このまま悠人の体を支配できなくなるという事なのだろうか。 「言っておくけどね、私はあなたの恋人になるつもりじゃないからね」 「俺はお前の心を必ず掴んで見せるぜ」  先を急ぐ正樹。美玲がその早足に追いつけずにいると正樹は美玲の手を取った。 「ナンパ通りにカラオケあったよな。急ごう」  赤信号にイライラしているようだった。信号が変わり横断歩道を渡る。ナンパ通りに入りゲームセンターの前に来た時だ。 「ああ、ダメだ。悠人が気が付いた……」 「え?」  正樹の体が一瞬よろけた。美玲の手を放した。すぐに悠人の体は立ち直った。 「あれ? ここはどこだ?」  悠人が戻ったようだ。自分がどこにいるのか分からないようだ。目の前にいる美玲を見て驚いた。 「mii! 何でここに?」  美玲は突然の事に必死で誤魔化した。 「えっと、あの、そう偶然よ。偶然バッタリよ」 「偶然バッタリ? 何か不自然だが、まあいいか」 「何も覚えてないの?」 「え?……あの。なあちょっと喫茶店に行かないか?」  二人は近くの喫茶店ヨーロッパに入った。それぞれ飲み物を頼んだ。  暫くして飲み物が運ばれてきて悠人は無言で一口啜る。美玲もその様子につられて一口飲んだ。 「実は、さっきのような事がちょくちょく起こるんだ」 「さっきのような事?」 「ああ、自分には行動した記憶がなくいきなり違う場所にいたり、記憶のない行動を取ってしまうんだよ」  美玲はそれが正樹と入れ替わっているからだと直ぐに分かった。しかし悠人自身は自分の中に別人格がいる事には気付いていないようだ。 「頻繁にあるの?」 「うん。週に2、3回くらいのペースで起きる事もあるよ」 「病院へは行ってみたの?」 「いや、病院へは行ってない」  少しの時間沈黙になった。 「生活上何も重大な影響はないから病院までは考えていなかったよ」 「影響ないなら良いんじゃないのかな。きっと疲れてたり体調が悪い時にそうなるんじゃないの?」 「そうだな。深く考えなくても大丈夫だよな。思い切ってmiiに話せて良かったよ」 「私は何もだよ」 「いや、こう言う大事な事はmiiには知っていて欲しいしな」 「え? どう言う事?」 「え? あ、いや。大した意味じゃないよ。そんな事より、ここからポートタワーまでって歩いたらどのくらいかかるかな?」  悠人は焦って露骨に話題を変えた。  美玲はスマホを取り出して地図を開いた。悠人もスマホを取り出した。 「大体四十分くらいみたいだよ」 「四十分。意外とあるな。でも海見たくないか?」  美玲は話をはぐらかされて何故はぐらかしたのかなと思ったが、深く考えなかった。 「うん、海見たい」 「ここからだと千葉駅からモノレールでも行けるみたいだよ。ビルの合間を縫うように進んでいくらしい」  二人はポートタワーまでどうやって行くのか語り合った。      * 五月の終わり頃、空研の部室。 「なあ、今度の撮影会は茨城空港に行かないか?」 「え? 構わんと思うけどさ。あそこは発着便少ないだろ?」  三年生が話し始めた。翌月の撮影会の話のようだ。 「いや、ファントムを撮りたいんだよ」  ファントムとは航空自衛隊の戦闘機F-4EJ改の事だ。現在では航空自衛隊の主力戦闘機はF-15JやF-35Aなどに切り替わりつつあり、F-4EJ改の退役が進んでいた。二〇二〇年十二月には全てのファントムが退役する事になっている。 「確かに今ファントムを撮るには茨城空港に併設された百里基地に行くしかないが、フライトプランも分からずに行っても無駄足になるかも知れんぞ」 「いや、違うんだ。茨城空港の横の広場にF-4EJが地上展示してあるんだよ。それでも良いと思うんだ」 「なるほどね。みんなにも意見を聞いてみよう」  なんやかんやで六月の撮影会は茨城空港に行く事になった。  茨城空港には東京からバスが出ている。朝早いバスになるが、車組とバス組に分かれて茨城空港に集合する事になった。  バスは事前に予約が必要だったのだが、参加する部員数は席を予約する事が出来た。  当日、バス組の部員は東京駅八重洲南口の高速バス乗り場に集まった。大体一時間四十分程で着く。バスの出発予定は八時三十分だった。  美玲も悠人も同じ総武快速線なので、船橋駅に集合して一緒に東京駅に来ていた。  バスに乗ると多くの乗客は寝てしまった。空研の部員たちは騒いでは行けないと察して、各々音楽を聴いたりして過ごした。美玲の隣には二年生の女子部員のタックネームゆーりが座った。 「miiちゃんは自衛隊の飛行機詳しいの?」 「少しは分かりますが、詳しくはないです」 「今回のメインはファントムみたいだけど、私はよく分からないのよ」 「私もです。多分航空ファンズで見てるはずなんですけど」  航空ファンズとは、自衛隊の航空機をメインに編集されている月刊の航空機雑誌だ。空研の部員の一人が定期購読していて部室に毎月置いて行くのだ。 「何か今年の十二月でなくなっちゃうんだってね」  そんな会話をしながらバスは一時間三十分走った。降車場でテンポよく降りて行く乗客を待って、空研のみんなは最後に降りた。 「車組はもうファントムの地上展示を撮ってるらしいぞ。そっちへ行こう」  空港の入り口には入らず右方向へ向かうと、建物施設が終わり芝生が敷かれた広場に出た。そこの中央に航空自衛隊の飛行機が二機展示されていた。 「おーい、こっちだー」  バス組を見つけた車組の部員が呼んだ。みんなは間近にみる戦闘機に興奮した。 「これがファントムかぁ」 「二機あるけど片方は緑色だね」 「迷彩塗装だよ」  美玲は悠人の姿を探した。悠人は白い方のファントムの後ろの方にいた。美玲が近付くと悠人はファントムの尾翼の下を見ながら呟いた。 「でかいアレスターだ」 「アレスター? 何それ」 「ほら、下に付いてる棒だよ。着艦フックと言えば分かるか?」  アレスティングフック。通称アレスター。艦載機に付いていて、着艦の際にその棒を機体の下に下ろし、かぎ状に曲がった先端で母艦に張られたワイヤーを掴む。 「アレでワイヤーを引っ掛けて急激に止まるんだよ」 「強引なんだね」  美玲は反論する悠人の言葉を聞き流し、アレスターの上、垂直尾翼を見た。 「ねーねー、あのマークは何?」 「ん? あればオジロワシを模した三〇二飛行隊のエンブレムだよ。以前はここ百里に三〇二飛行隊があったんだ」 「何でオジロワシなんだろう?」 「確か、元々三〇二飛行隊は北海道の千歳基地で編成されたんだ。北海道にはオジロワシがいたからな。それでこのマークにしたんだろ?」  美玲はもう一つの緑色のファントムの尾翼を見た。 「ねーねー。こっちの緑のファントムはマークが違うよ」 「こっちのは五〇一飛行隊のRF-4Eだよ。部隊が違う」 「色も違うよね」 「五〇一飛行隊は偵察部隊だ。超低空で非武装で敵地に入り込む。だから空から見た時に地上と見分けがつかないように、緑や茶色系の迷彩を塗装するんだよ」 「へえー。何かよく分かんないけど色々あるんだね」 「いやいやいや。その前に『何で航空自衛隊の飛行機にアレスターがついとんじゃい!』って突っ込まんかい!」 「?」  日本では航空母艦を持っていない。だから基本的には着艦装置であるアレスターは必要ないのだ。 「まあ、そもそもF-4がアメリカ製だからそこを突っ込んでも仕方ないんだけどな」  悠人はプンプンしながらブツブツ呟いた。 「おーい。空研の諸君。そろそろスカイマーキング福岡便が出発するぞ。見たい人は展望デッキへ移動だよー」  空研の部長が大きな声で教えてくれた。みんなゾロゾロと空港施設の方へ歩き出した。美玲もそれに合わせて移動し始めた。悠人に向き直り声をかける。 「翼君も行こう」 「何で意識レベル変わるまでプンプンするかねー。悠人の奴はまだ感情のコントロールが甘いみたいだな」  美玲は悠人のその言葉を聞いてまさかと思った。 「え? もしかして?」 「よ! 久しぶり。まあ俺は悠人の目を通して見てたけどな」  間違いない。それは正樹だった。美玲は慌てた。 「ちょ、ちょっと。みんなの前で出てきたらまずいよ」 「えー? 今までも何度か大学で出てみたけど問題なかったぜ?」 「問題あるの! みんなに知れたら翼君が変な目で見られちゃうでしょ!」 「美玲は変な目で見てんのかよ」 「私はそんな目で見てないよ」 「なら良いじゃん」 「そ、そう? いやいや。ダメダメ。いい、みんなの前では翼君のフリするのよ」 「へいへい」  それが既に悠人じゃないと美玲は思った。 「さ、急ごうぜ。みんな行っちまったよ」  二人は小走りにみんなの後を追った。  展望デッキに出るとB737のエンジン音がけたたましく鳴っていた。 「今日はどのランウェイから出るのかな?」  茨城空港のランウェイ、つまり滑走路は〇三と二一だ。これは南北にまっすぐに引いた線と比べて、北側の滑走路端が三十度東に傾いていることを示す。 「この風だ。ランウェイ二一に向かうだろう」  部員達はそんな話をしていた。すると大きなディーゼルエンジンの音が響いた。程なくしてB737がゆっくりバックした。部員達は更に興奮して言った。 「やはりこの位置にいるって事はプッシュバックか」  飛行機は離陸するために滑走路へ向かうのだが、搭乗ゲートから滑走路へ向かうのにはいくつか方法がある。茨城空港では通常自走して滑走路へ向かう。つまり飛行機が自分の動力だけを使って滑走路へ向かうのだ。この場合飛行機は前に進む。  しかし今回は違った。前ではなく後ろに進み出したのだ。飛行機は車のようなギアが付いてるわけではないので、基本的に自力でバックはしない。狭い場所での移動やバックしたい場合は他の大型車に牽引してもらうのだ。この時使われる大型車をトーイングカーと呼ぶ。トーイングカーで押されてバックする事をプッシュバックと言うのだった。  飛行機がバックするにつれ少しずつ右へ曲がっていった。と同時にトーイングカーが見えてきた。飛行機が完全に横向きになると一旦動きが止まった。  地上整備員が飛行機のタイヤのあたりで何か作業している。程なくして再びトーイングカーが動いた。どうやらトーイングカーと飛行機の分離をしていたようで、飛行機は横向きのままにトーイングカーだけが空港施設の方に戻ってきた。 「くぅー! 今日を選んで良かったなぁ。茨城空港でプッシュバックが見られるなんてな!」  飛行機は再びエンジンの回転を上げた。そしてゆっくりと滑走路の誘導路を進んで行った。部員達はそれを目で追った。  暫く進むと空港に隣接するように生えている林が遮り飛行機は見えなくなった。音は少しずつ遠ざかって行く。 「そろそろ飛び立つぞ」  先輩部員が言う。正樹は退屈しきって美玲に小声で言った。 「何が楽しいんだよ。なあ美玲。こんなとこじゃなく空港内を散歩しようぜ」 「行きたかったら一人でどうぞ」  その時遠くでエンジン音が一層高くなった。飛行機が離陸滑走に入るのだ。 「来るぞ」  視界を遮っていた林の影から不意に飛行機が現れた。ゆっくりと機首が持ち上がっていき、ふわっと機体が宙に浮いた。部員達は一斉にシャッターを切った。  飛行機は轟音を残してすぐに見えなくなった。 「次の便は一時間後だな」 「これでスクランブルでもあればイーグルが見れるんだがなぁ」 「おいおい。スクランブルは危険な任務だぞ。そんな事を望むんじゃない」  航空自衛隊は日本の空を守っている。二十四時間三百六十五日日本の空を監視し危険な航空機が近付かないようにしている。万が一危険な航空機が近づいた場合、自衛隊の航空機が緊急出動する。これをスクランブル発進、または単にスクランブルと言う。現在スクランブルに用いられている自衛隊機はF-15J。通称イーグルと呼ばれている。 「次の十一時の便を見たら昼ごはんを食べて解散しよう。それまで自由行動だ」  正樹はそれを聞いて美玲を散歩に誘った。 「美玲、行こうぜ」 「私はF-15のランディングが見れるかも知れないからここにいるの」  正樹が次の言葉を言おうとした時ヨーコが割って入ってきた。 「ねえ、お二人さん。あなた達付き合ってるの?」  正樹は即答した。 「はい」  美玲は直ちに正樹の頭を叩いた。 「付き合ってません!」 「付き合ってません」 「ねえ、翼君。それなら私にファントムの事教えてよ。一緒に行きましょう」  ヨーコは正樹の手を取って引っ張った。美玲は正樹を一人にしては危ないと思った。 「じゃあ私も行きます!」 「え? ランニング見るんじゃないの?」 「ランディングよ、ランディング! 着陸の事よ。でもあなたを野放しにする方が危ないわ。さ、早く行きましょう」  美玲はヨーコの手を引っ張った。ヨーコは引きずられるまま正樹の手を引っ張った。  三人は再びファントムの前にやってきた。 「翼君は自衛隊の飛行機にも詳しいんでしょ?」 「悠人の奴は詳しいけど俺は……」  美玲は間髪入れず正樹の頭をしばく。 「翼君詳しかったじゃない、ほほほ」  ヨーコはなんか変だと思いつつ会話を続けた。 「ねえファントムって何かうんちくないの?」 「うーん、うーん」  正樹は考え込んでしまった。飛行機に詳しくないのだ。美玲は慌てて言った。 「ア、アレスターよね」 「ん? うん、そうそう。アレスターだそうです」 「あれすたぁ? 何それ?」 「ほら、尾翼の下に付いてる棒ですよ」 「棒ですよ、先輩」  ヨーコは何か変だと思っていた。 「もう。タックネームで呼んでね」 「タックネーム……?」 「まさか忘れたの?」  美玲は慌てて割って入った。 「忘れるわけないですよ。ね、ヨーコ先輩!」 「はい。ヨーコ先輩」  正樹は満面の笑みを向けた。しかし美玲はこのままではまずいと思った。 「え? なになに? 翼君飲み物飲みたいの?」 「え? いらないよ?」  美玲は構わずに正樹の手を取り引っ張った。 「ヨーコ先輩、ちょっと飲み物買ってきますね」 「え? うん。いってらっしゃい……」  二人は空港内の自販機で缶ジュースを買った。 「何だよ無理矢理引っ張ってきて。もしかして俺と二人っきりになりたかったとか?」 「違うわよ! あなたが余りにも自分を隠さないからでしょ!」 「仕方ないじゃんか。飛行機の事分からないし」 「大体何でこんなタイミングで出てくるのよ」  正樹はバツが悪そうに答えた。 「気に入らないんだよ」 「何が?」 「お前と悠人の奴が仲良くしてるのがだよ」 「え?」  美玲は一瞬ドキッとした。 「俺はお前の事が好きなんだよ。だから悠人とは言えお前が他の男と仲良くしてるのは気に入らない」  美玲はまっすぐに気持ちをぶつけてくる正樹の言葉に戸惑った。しかし言った。 「あ、あなたが出てくると混乱するの。これ以上混乱させないで」 「俺よりも悠人の方がいいのかよ」  美玲は一瞬言葉に詰まった。そして弱々しく答えた。 「わ、私は翼君の方がいい……」 「……分かったよ」  そう言うと正樹の体から一瞬力が抜けた。またすぐに元に戻ると言った。 「あれ? mii。僕はこんな所で何してるんだ? 早くデッキに行かないと」  どうやら正樹は去ったようだ。いつも強引な正樹が自分から帰ったことに驚きつつも美玲は悠人に説明した。 「もう飛行機行っちゃったよ。何か珍しい動き方したんだってさ」 「えー! また記憶がないよ。見逃したー」  美玲は何故正樹が去って行ったのか気になった。正樹は怒ってしまったのだろうか。

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空女 第二話

空女 第一話

 春影大学の合格発表の日、松岡美玲は一人で結果の確認に来ていた。掲示板に張り出されたリストの中に自分の番号がある事を確認してホッと胸を撫で下ろした。  直ぐにスマホを取り出して家に電話をかける。両親ともに喜んでくれた。 「これで春から大学生かぁ」  その夜は家族で外食に行き、美玲の合格をお祝いしてくれた。  家に帰り部屋着に着替えベッドに横になる。美玲はスマホを取り出してSNSアプリのNicoFaceを開いた。美玲は高校一年生の時スマホを買ってもらうと、このNicoFaceに加入したのだった。  NicoFaceにはグループという機能があった。趣味や仕事などテーマに合った内容を話し合ったりするものだ。美玲はブルードルフィンズのグループに入っていた。  ブルードルフィンズとは、航空自衛隊のアクロバットチームだ。様々な曲技飛行を見せてくれる凄腕のチームだ。  美玲は幼い頃両親と松島基地の基地祭に行った事があり、そこで初めてブルードルフィンズの曲技飛行を見た。そしてそのまま虜になってしまったのだった。  美玲はNicoFaceではmiiと名乗っている。自分のタイムラインを一通り読むとNicoFaceの個別メッセージを開いた。  ブルードルフィンズのグループで知り合い同じ春影大学を受験した吉川悠人に連絡する為だ。悠人はNicoFaceでは翼(よく)と名乗っていた。 "翼君、こんばんは"  そこまで打ち込んで手を止めた。もし悠人が落ちていたらどうしようと思ったのだ。一度入力した文字を全部消した。  暫くどのような文面を送れば良いのか思案したのだが、納得のいく文面は思い浮かばなかった。美玲は暫く考えた挙句、結局いつかは聞かなければならないのだから、思い切ってストレートに聞いてみようと考えた。 "翼君、こんばんは。受験どうだった?"  メッセージを送信した。返事は直ぐには帰ってこなかった。悠人の家は母子家庭で母親は昼も夜も働いていると言っていた。だから家の事は悠人がやっている。  きっと家事が忙しいのだろうと思い、気長に返事を待った。  程なくして悠人から返事が来た。 "こんばんは。僕は無事に受かってたよ。miiはどうだったんだ?" "私も合格してたよ。じゃあ春から同じ大学だね" "そうだな。もしかしたらどこかですれ違うかもしれないな"  二人はNicoFaceで知り合った。同じ千葉市内に住んでる事も確認していたのだが、実際に会った事はない。写真なども交換したことがないので、どこかですれ違っても全く気付かない事になる。  美玲は悠人がどんな人なのか知りたかった。せめて写真を交換したかったが中々言い出せなかった。 "うん。いつか会えたら嬉しいね" "だな"  美玲はNicoFaceを閉じた。  美玲はそのまま寝ようと思ったのだが、同じNicoFaceの友達の通称カマヨにも連絡しておこうと思った。カマヨはゲイを公表していて本人曰く四十代だそうだ。 "カマヨこんばんは。私春影大学に受かったよ"  カマヨはゲイバーで働いてるので夜は仕事中らしくその日は返事が来なかった。      *  高校の卒業式が終わり大学の入学式まではあっという間だった。実際に授業が始まれば実感が湧くのだろうが、美玲は自分が大学生になった気がしなかった。入学式が終わった今も大学生の実感がない。  正門までの道にはサークルの勧誘のためにたくさん人が集まっていた。美玲は何となく立ち並ぶサークルの集団を見ていたが、その中に航空機研究会と言うのを見つけた。  美玲はブルードルフィンズが好きになって、飛行機の事も少なからず興味があった。  美玲は引き寄せられるように航空機研究会の前に向かった。それを航空機研究会、通称空研のメンバーが直ぐに見つけた。 「キミキミ、空研に入らないかい?」 「飛行機には興味あるんですが、あんまり詳しくなくて」 「大丈夫だよ。ウチには女子部員もいるから分からない事は教えてあげられるよ」  そんなこんなで美玲は空研を体験してみることにした。 「今度の金曜日に第一回体験会をやるから来てくれよな」  美玲は高校生の頃は文化部に入っていた。空研はどちらかと言えば文化部だし、女子部員もいると言うし、上手くやっていけそうな気がしていた。      *  金曜日。美玲はあの時手渡されていた地図を元に空研の部室を訪れた。扉を開けると空いている席に招かれた。  そのテーブルには何人か座っていた。他のテーブルに座ってる人は雑談してるのだが、そのテーブルに座ってる人は全く会話が無いことから、このテーブルにいるのは体験に来た人たちだと分かった。 「それじゃ早速空研の活動内容について説明していこうと思います」  空研は、主に飛行機全般の趣味グループだ。各自情報収集をしてそれを部内で話し合い共有する。 「とは言っても、主な活動は月に一度の飛行機の撮影会なんだけどね」  空研は月に一度、成田空港の近くの撮影スポットに行き飛行機を撮影していた。それをSNSに載せて行く。 「まあ、小難しい話はしないでもいいから、みんなとコミュニケーションとってもらえればいいよ。そこでなんだけど、我々は部員をタックネームで呼んでいる」 「タックネームって何ですか?」 「自衛隊のパイロットは無線機などで会話するので聞き取りやすいように本名ではなくあだ名をつけてそれで呼び合うんだよ。我々もそれにならってタックネーム、つまりあだ名をつけてるんだ」  空研のメンバーは各々自分で好きな名前を決めてそれで呼び合っている。 「みんなにもタックネームを考えてもらいたい」 「なるほど」 一人の体験生が直ぐに言った。 「それなら僕はNicoFaceで翼って名乗ってるので、翼にして下さい」  美玲は驚いた。それってまさか。 「え? 翼君ってNicoFaceの翼君? 私はmiiよ」 「え? 君miiなの?」  二人は立ち上がってお互いをマジマジと見た。それを見た先輩が驚いて聞いた。 「え? 二人は知り合いなの?」 「え。ええ。多分……NicoFaceで知り合ったんです」  美玲は驚きのあまり声が出なかった。こんな形で悠人に出会うとは驚きだった。  悠人はその場にいる人達に順を追って経緯を説明した。その説明を聞いてそれが悠人に間違いないと美玲は確信した。 「なら君は翼君。君はmii君で決まりだ」  美玲はまだ動揺していた。悠人は美玲の方を見て笑顔になった。  体験会の後、悠人と美玲はどちらともなく話しかけた。 「驚いたよ。こんな形で出会うなんて」 「私もビックリしたわ」 「思ってたのより背が低いな」  美玲は自分では標準的と思っていた。背が低いと言われた事はない。 「そう? 翼君の背が高いんじゃないの?」  二人は他愛のない話を続けた。 「空研には入るのか?」 「うん。何かサークル活動はしたいし」 「僕もそう思ってた」  二人は正門に向かって並んで歩いて行った。心地よい風が流れていた。      *  空研には二人の他にも何人か部員が入ってきた。元々空研と言う性格上、男女比率は七対三で男の方が多いのだが、今年の新入部員の中で女子は美玲一人だった。 「なあなあ。今年も新入部員が入ったし、恒例の新人歓迎会をやろうぜ」  三年生の部員が言った。 「そうだな。酒も飲みたいしな」 「じゃあ来週の金曜日で行こう。場所はいつものマチュピチュでいいよな」  と言うわけで、新人歓迎会が開かれることになった。先輩達はとにかくお酒が飲みたかっただけなのだが。  金曜日になりサークルのメンバーは部室に一度集まり、みんなでマチュピチュと言う飲み屋に移動することになった。  悠人と美玲は並んで歩いていた。同じく新入部員のメンバーは固まって先輩の後について行った。  歓迎会が始まると成人を超えている部員達はお酒を飲み始めた。 「いいか。未成年はノンアルコールかソフトドリンクだぞ」  宴が盛り上がってくると各々席を移動し始めた。数少ない女性部員は比較的見た目の良い悠人の周りに集まってきた。 「翼君って飛行機詳しいの?」 「大学から近くに住んでるの?」  酔った勢いもあって悠人は質問攻めにあった。一方で唯一の女子の新入部員である美玲の所には男子部員が集まってマニアックな話をしていた。 「成田の航空博物館に展示してあるYS-11は、初号機なんだよね」 「そ、そうなんですか」 「うん。もう現役で飛んでる姿なんてまず見れないから貴重だよー」  美玲は悠人の方をチラリと見た。悠人はうまく会話できてるように見えた。  同じ新入部員の山本、タックネームマウンテンが美玲に話しかけてきた。 「miiさんは翼君と昔からの知り合いなんですか?」 「昔からと言うか、私達が高校一年生の時にNicoFaceで知り合ったんです」 「一緒に航空祭に行ったりしてたんですか?」 「いいえ。実際に会った事はなかったんですよ」  美玲はその辺りのことを細かく説明した。大学が同じだった事に気がついたのは願書を提出した後だった事。空研には偶然一緒になった事。 「それって凄い運命ですね」  運命。言われてみればそうかも知れない。美玲はチラリと悠人の方を見た。相変わらず女子部員と楽しそうに話していた。  それを見て美玲はモヤモヤするのを感じた。  新人歓迎会が終わり部員達は散り散りに家路についた。  美玲は家に帰り一息ついてベッドに横たわった。スマホを取り出してNicoFaceのアプリを開いた。悠人に連絡をしようと思ったのだが、何を書けばいいか思いつかなかった。考えあぐねていると不意にスマホの着信音が鳴った。NicoFaceの個別メッセージの着信音だ。  見るとそれは悠人からだった。 "今日の歓迎会は楽しめたか?" "翼君は女の先輩に囲まれて楽しそうだったね" "なんかトゲないか、その言い方"  美玲は思いがけず嫌味を言ってしまっている事に気付いた。 "なんか楽しめなかったようだな。だったら今度二人で大学の合格祝いをしないか?"  美玲は驚いたが気分が明るくなった。 "別に良いけど" "じゃあ来週の金曜、学校が終わったらご飯を食べに行こう" "分かった"  美玲は嬉しくなった。嬉しくなったのだが、自分自身ではその気持ちに気付いていなかった。      *  金曜日の夜。悠人と美玲は千葉駅の改札で待ち合わせた。人が多く混雑していた。改札の端で立っている美玲を見つけて悠人は駆け寄った。 「よう。待ったか?」 「ううん。大丈夫だよ」  二人は駅に隣接するように建っているデパートZOGOへ向かった。悠人は念の為レストランを予約していたのだ。  デパートのエレベーターは展望式になっていて、窓から千葉駅の様子がよく見えた。程なくしてエレベーターは止まった。 「えーと、こっちだな」  悠人はフロアマップを見て店の場所を確認した。少し歩くと床が吹き抜けになっていて、下の階から突き出た噴水が滝のように流れていた。  二人がレストランに入ると店員は窓際の、その吹き抜けの滝がよく見える席に案内してくれた。 「なんか素敵なお店だけど、ちょっと品格が良すぎない?」 「うーん。ネットで見るのとは違う感じだな」  お店の雰囲気はとても良く、店員の対応も心地よいのだが、二人はもう少しカジュアルな感じだと思っていたのだった。  食事が運ばれてきた。二人は共にパスタ料理を頼んでみた。食事を食べながら悠人は雑談を始めた。 「学校には慣れたか?」 「まだ慣れた感じはしないけど、とにかく通ってるって感じかな」 「空研はどうだ?」 「空研の人達は悪い人達ではないけど、なんかのんびりしてるサークルって感じ」 「そうだな。毎日遊んでる感じだな」  空研の主な活動といえば、月に一度の撮影会だけだ。それ以外の時は、部室で各々雑談したりカード遊びをしたり自由に過ごしている。航空機雑誌を読んでる人がいるので辛うじて空研と分かるくらいだ。 「翼君は学校で友達とか出来た?」 「ああ。同じ学部の中野隆ってやつがいて、何回か話したよ」 「私は明るい感じの女の子が何度か挨拶してくれたんだけど、中々友達になれなくて」 「その子と昼ご飯でも一緒に食べれば良いじゃないか」 「そうだね。うまく話せるか分からないけど誘ってみようかな」  二人は食事を終えて店を出た。何となく吹き抜けが見えるテラスにやってきた。下のフロアも同じレストラン街になっているようだった。 「下のフロアのレストランならもう少しリラックスして食事できたかな?」 「そうかもね」  二人は笑った。 「でも美味しかったよ」 「気分直しにカラオケでも行かないか?」  美玲は腕時計を確認した。 「まだ時間も早いしそうしよっか」  二人は再びエレベーターに乗った。カラオケがどこにあるか分からなかったが、繁華街に行けばあるだろうと考えた。繁華街は駅の反対側だ。  二人は線路沿いに歩きガード下を潜った。スクランブル交差点があり、信号が変わるのを待った。 「ここの信号を斜めに渡ったあそこの通りがあるだろ? あそこナンパ通りって言うんだってさ」 「あー、知ってる。でもなんでかな?」 「ナンパする人が多いんじゃないのか? 以前は幕張の美浜大橋の事をナンパ橋と言ったらしい」 「なんか、ナンパが多いね」  信号が変わった。二人は横断歩道を斜めに渡っていった。悠人が言ったナンパ通りは道幅が狭く、両側に沢山の飲み屋が並んでいた。  雑談をしながら通りを進むと正面から酔っ払った三人組がフラフラしながら歩いてきた。悠人と美玲の前に立ち塞がる。 「おお、綺麗なネーチャン連れてるなぁ」 「彼女、そんな男放っておいて俺達と遊ぼうぜ」  美玲は怖くなった。悠人は美玲の前に立って言った。 「辞めろ。立ち去れ」 「ああ? 優男は黙ってろ!」  そのチンピラは両手で悠人を強く払い除けた。悠人はふらついて足がもつれ地面に倒れてしまった。 「翼君!」  美玲は悠人に駆け寄ろうとしたが、悠人を突き飛ばした男が美玲の手を掴んで阻止した。 「そんな男放っておいて、俺らと遊ぼうぜ」 「やめて。放して!」  美玲は抵抗したのだが男の手は振り切れなかった。  その時悠人がスッと立ち上がった。 「チンピラってぇのは女の扱い方知らねえんだなあ」 「ああ?」  悠人は不意にチンピラ達の後方を見て叫んだ。 「お巡りさん! 暴漢です!」  チンピラ達は驚いて後ろを振り向いた。その瞬間、悠人は美玲の手を掴んでいた男に頭から突撃して跳ね飛ばした。  チンピラは美玲の手を放して後ろに倒れた。その隙に悠人は美玲の手を取って走った。 「都合よく警官なんているもんかよ」 「あ! 待て!」  三人は逃げる二人を追った。しかし酔っ払い不意を突かれた三人組はすぐに息を切らせて地面に手をつき追うのを諦めた。  悠人は美玲の手を取ったまま走り、ナンパ通りを抜けて中央公園にたどり着いた。 「ふぅ。走ったな。大丈夫か、美玲?」  美玲はさっきから悠人の話し方に違和感を感じていた。今もそうだ。普段なら美玲の事はハンドルネームで呼ぶはずだ。 「うん。ありがとう」 「気にすんなよ。当たり前のことなんだからな。でもこんな時悠人の奴は役に立たんな」 「え? 何?」 「今日は緊張してたのもあってチンピラに倒された時俺が出て来れたのさ」  まただ。悠人は自分の事を俺とは言わない。 「え? 何言ってるのか分からないよ」 「そりゃそうだよな。俺は悠人の別人格だからな」  美玲はその言葉を聞いても意味が理解できなかった。 「立ち話もなんだから座ろうぜ」  二人は近くのベンチに腰掛けた。 「改めて、俺は悠人の中にある別人格の正樹だ。よろしくな」 「どういう事?」 「悠人の奴はいわゆる二重人格者なんだよ」  美玲は突然の事に混乱した。 「悠人の意識や精神が緊張したり弱まったりした時、俺は出てくる事が出来るんだ」 「からかってるの?」 「馬鹿な。俺は本当に別人格さ」  それでも美玲は信じられなかった。 「悠人の奴が片親なのは知ってるよな。子供の頃には父親もいたんだが、悠人の奴はその父親に酷い虐待を受けたんだよ」  幼い頃に虐待などを受けた子供の中には、その現実から逃れるために別人格を形成する子供もいる。それが多重人格だ。  悠人の母親は夜の仕事をしていたせいもあって、あまり悠人に構ってあげられなかった。父親は酒浸り。ギャンブル狂いのダメな父親で、やがては幼い悠人を虐待するようになった。 「それはそれは酷い虐待だったみたいだ。悠人の母親が父親と離婚する事を決めた時にはもう俺はいた」  美玲は信じて良いのか分からずにいた。 「悠人の奴は俺の存在を知らない。だから美玲も俺の事を悠人に秘密にしておいてくれ」 「え? でも……」 「おっと。悠人の奴、意識を戻したようだ。今は悠人に体を渡す事にする。秘密頼むぜ」  そう言うと正樹の体から一瞬力が抜けた。そしてすぐにまた元に戻った。 「ん? チンピラは?」  どうやら正樹と名乗る人格は消え、悠人が戻ってきたようだ。美玲は驚いたが平静を装った。 「よ、翼君が一緒に逃げてくれたんじゃない」 「そうだっけ? 覚えてないや」  美玲は今の出来事をどう受け止めれば良いのか混乱していた。 「翼君、今日はやっぱり帰ろう」 「え? カラオケは嫌いだったっけ?」 「ううん、そうじゃないんだけど、なんかびっくりしちゃって」  美玲は正樹の事を悠人に話せずにその日は分かれた。

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空女 第一話

未来への片道切符

「もしさ、そこへ行く事は出来るけど、もう二度と今住んでる所へは戻って来れないとしたらどこ行きたい? もしくは今のままでいい?」  隣りの席の客がそんな会話をしているのを聞いて優斗はバカな話をしてると思った。  恋人の愛美が話したい事があるからと呼び出された喫茶店。程なくして愛美がやってきた。 「ごめん、遅れちゃって」 「ん、大丈夫だよ」  愛美は苦笑いしながら席に着きウェイトレスにアイスティーを注文した。 「で、話って?」 「うん、この前入院したの覚えてるよね」 「ああ、検査入院してた時の話だろ? 結果はどうだったんだ?」 「うん……」  愛美は少し考え込んだ後笑顔を見せて言った。 「退形成性星細胞腫(たいけいせいせいせいさいぼうしゅ)だって」 「え?」 「せいって何度も出てきて何だか可愛い名前でしょ?」  優斗はそれがどんな、何の病気か分からずリアクションに戸惑ったが、愛美の口調から軽い病気なのだと思った。 「私何やっても皆んなに迷惑かけちゃうから病気になっても迷惑かけちゃってごめんね」 「ごめんって……迷惑だなんて思ってないよ。それよりそれはどんな病気なんだ?」 「平たく言うと脳腫瘍だって、あは」 「脳腫瘍って……」  優斗は愛美が明るく振る舞っている事にどこか安心をしていた。 「良性だったんだろう?」 「ううん。悪性の腫瘍だよ」  そう言うと愛美は両膝を握りしめて下を向いた。そして肩を振るわせた。 「お、おい……」  すると愛美は顔を上げた。満面の笑みで涙を流していた。 「五年生存率が二十パーセントなんだって」 「え? そんな……手術をすれば治るんだろ?」 「場所が……」 愛美は言い淀んだ。 「場所が悪いんだって」  愛美は笑顔のまま大量の涙を流し、それを拭う事もしないで話を続けた。 「ほら、私ってドジじゃない? 病気ができた場所もドジ踏んじゃったのよ。手術じゃ取れない場所なんだって」 「そんな……」 「私……どうしよう」  とうとう愛美は顔を崩して泣き出し、テーブルに顔を埋めて嗚咽し始めた。  優斗は慌てて愛美の隣りに移動して愛美の肩を抱いた。 「放射線治療とか薬物とか方法はあるんだろ?」 「今の医学ではもうどうにもならないって」 (今の医学って……じゃあ未来の医学で何とかしてくれよ!)  アイスティーを運んできたウェイトレスはどうしたら良いのか分からず事の成り行きをただ見守るしかできなかった。      *  優斗はすぐに会社を辞めた。それからは毎日毎晩部屋に篭って物理学の勉強を始めた。食事もまともに取らずに只々物理学の勉強を始めたのだった。  愛美は治療の為に入退院を繰り返していた。週に一度優斗に会いに来る。優斗はその時だけは愛美と過ごすのだった。  会社を辞めてまで一体何の勉強をしているのか、愛美は不安に思っていたのだが聞くに聞けずにいた。  ある日愛美が優斗の家を訪ねた。 「や、やあ」  優斗の顔はやつれて血の気が無かった。と思ったら玄関先で優斗は倒れてしまった。  愛美は慌てて優斗を抱えて何とかしてベッドに寝かせた。優斗は直ぐに目を覚ました。 「だ、大丈夫?」 「はは、ここの所飲まず食わずだったから……」 「何ですって!」  愛美は慌てて台所に立ち食材を探した。しかし冷蔵庫には何も入っていなかった。 「ちょっとヨーグルトでも買ってくるから待ってて」  愛美は財布を持ってコンビニに走った。      * 「ふー。ヨーグルト食べたら少し落ち着いたよ、ありがとう」  愛美は気になっていた事を聞いてみた。 「一体どうして倒れるまで……そこまでして何をしているの?」 「タイムマシンを作っているのさ」 「タイムマシン⁉︎」 「今の医学では愛美を救う事は出来ない。ならば未来の医学で救ってもらうしかない」 「そんな子供みたいな事言って。大体タイムマシンなんてある訳がないじゃない」  しかし優斗はある参考書を見せた。 「一般相対性理論?」 「そう。相対性理論によると光速つまり光の速さに近い速度で動いている物体は時間がゆっくり進むんだよ」  一般相対性理論によると、例えばロケットで光の速さに近い速度で移動していると、そのロケット内の時計は地球上の時計よりもゆっくり進む。  なので、そのゆっくり流れた分地球の時間が早く進むことになり、ロケットが地球に戻ってきた時には地球の時間は未来になっている。 「そんな難しい事いきなり言われても」 「ただ、未来へ行く事は出来るが現在に戻ってくる事は出来ない。俺はそれでもいいと思ってる。二人で未来へ行こう」  愛美はそんなエスエフのような話は馬鹿げていると思った。 「そんなバカみたいな事はもう辞めて」 「いや、俺は決めたんだ。必ずお前を助けて見せる!」      *  数年の月日が流れた。愛美は最近体調が悪いようで中々優斗の所へは来ていなかった。 (どうしてもタイムマシンを作るには無限に続く軌道が必要だ。月の赤道辺りに作れれば良いのだが……)  優斗は月の赤道に月を一周するようなレールを敷いてその上を光の速さでリニアモーターカーを走らせる事を考えていた。  そんな事は個人の力ではどうにもならない。そんな常識的な事さえもはや優斗には考えつく事は出来なかった。 (確かアメリカのどっかの企業が月の土地を売りに出してたな。それなら何とかなるか?)  優斗はその案を愛美に伝えようと、愛美の携帯に電話してみた。 (中々出ないな……)  もう切ろうかと思った時、電話が繋がった。 「愛美、聞いてくれ。俺思いつ……」 「優斗くんかい?」  それは愛美の父親の声だった。 「は、はい」 「愛美は今朝旅立ったよ」 「え?」 「今までありがとう。愛美は最期まで君の事を気にかけていたよ」  その後、式の事などを言われた気がするが、優斗は覚えていなかった。  電話を切った後、優斗は感情を抑えきれず突然物理の参考書を床に叩きつけた。 「俺はなんてバカだったんだ! 愛美の最期の時を一緒に過ごしてやれなかったなんて!」  優斗は壁に頭をガンガン叩きつけた。 「なんでだよ。何で過去に戻るタイムマシンは無いんだよ」  過去に戻ってあの時の自分に言ってやりたかった。しかしそれはもう叶わない。  優斗は絶望に打ちひしがれ、フラフラと部屋を出た。町中をフラフラ歩き、とある喫茶店に入り席に着く。  隣りの客の話し声が聞こえてきた。 「もしさ、そこへ行く事は出来るけど、もう二度と今住んでる所へは戻って来れないとしたらどこ行きたい?」

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声を聴いて 最終話

 それから数日間、悠斗も愛も何だか気まずくて連絡できずにいた。ただ優斗は自分の中のモヤモヤを晴らそうと手話の勉強は続けていた。 (このままじゃまずいよな)  しかし優斗は愛との仲を修復する気持ちにはなれなかった。  その日愛の方から優斗に連絡が入った。 『この前様子がおかしかったのは何か怒らせちゃったの?』 『いや、そう言うのとは違うよ』 『じゃあどうしたの?』  しかし優斗は既読スルーした。 『ねえ、一度会って話しましょう』 『別に構わないけど』  翌日二人は図書館で待ち合わせした。 『一体どうしたの?』  優斗は考え込んだ。 "僕は努力してる"  ぎこちない手話で気持ちを伝え始めた。 "君に近付きたくて努力してる" "うん。分かってる。嬉しいよ"  愛もゆっくりと手話で返してくれた。 "なのに蔑ろにされた" "そんな事ないよ"  暫く沈黙が続いた。優斗は素直になればいいのに何故か攻撃的になってしまう自分に気が付いた。しかし、それを止められなかった。 "君は……"  一瞬手話を止める。 "君は何か努力してくれているのか?"  優斗は何でそんな事を言うのか自分でも分からなかった。 "もういいよ。住む世界が違ったんだ" "違くない"  愛はそう手話で伝えたのだが、優斗はそれを聞かずに背中を向けて図書館を出て行こうとした。愛はどうしたらいいのか分からなくなり混乱した。 「あだし……」  優斗は後ろから聞きなれない声を聞いた。 「あだしも……がんばっで……どぅよ」  振り向くと愛が涙を流しながら、必死に声を出していた。 「あだしだって……がんばってどぅよ」  優斗は愛が必死に声を出している姿を見て全てを理解した。愛は人知れず優斗に合わせて、手話ではなく声でコミュニケーションを取ろうと頑張ってくれていたのだ。  優斗は途端に自分の情けなさと意地を張ってしまった事に後悔した。 「ごめん」  思わず声に出してしまう。慌ててぎこちなく手話で謝った。 "ごめん" "私、優斗君に近付きたくて……"  しかし優斗はその手話を遮って愛を強く抱きしめた。二人の間に言葉はいらなかった。

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声を聴いて 最終話

声を聴いて 第七話

 数日後、優斗は違う手話の本を借りに図書館へ行った。  手話の本を探していると偶然愛と会った。 『偶然だね』 『手話は大分覚えたの?』 『まだ会話できるほどじゃないよ。ちょっと待ってね』  そう送った後優斗は練習した手話で名前を言ってみた。ぎこちなくノロノロの手話だった。 『どうかな?』 『うん。分かったよ。名前を言ったのね』  優斗は初めての手話が通じて嬉しかった。  そんな事があったので優斗は俄然手話の勉強に身が入った。  夏休みも終わりに近付いてきたある日、再び愛と恵美と優斗の三人で会う事になっていた。適当なカフェに入り席に着く。  すると恵美が優斗に何か手話を伝えてきた。優斗にとって早すぎてよく分からなかった。 "ゆっくりお願いします"  優斗は慣れない手話で聞き返した。すると恵美は一つ一つ丁寧にサインを送った。 「何々。"手話が出来ますか?"って言ってたのか」  優斗は少しだけ出来るようになったことを伝えた。すると愛と恵美は向かい合って何やら手話で話し始めた。所々分かる単語もあるのだが、優斗には早すぎてついていけなかった。  時々愛が話に乗り遅れてる優斗を見てリニエで会話を送ってくれるのだが、優斗は何か疎外感を感じるのだった。  その日の帰り道、恵美は方向が逆なので先に分かれた。愛はリニエを使って話しかけてくれた。 『優斗君手話が出来るようになって凄いね』  しかし優斗は少し気分が悪かった。 『気を使わなくていいよ。俺なんてただの邪魔者なんだろ』  愛はそれを見て驚いた。 『急に何を言い出すの? 邪魔者なんかじゃないよ』  優斗は愛と恵美が楽しそうに手話をしているのを見て、何だか仲間はずれにされたような悲しい気持ちになったのだった。 『今日は帰るよ』  愛は一体どうしたのか分からなくなって、ただ遠ざかる優斗の背中を見ているしか出来なかった。

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声を聴いて 第七話

声を聴いて 第六話

 次の日優斗は家でゴロゴロしていた。母親がまた小言を言ってきた。 「そんなゴロゴロしてるなら何か手に職でも付けたら?」 (手に職ねえ……そうか、手話か!)  優斗は図書館へ走った。  優斗は手話の本を見付けると早速借りて帰ってきた。しかし本だけではどうにも分からない。  そこでネットで手話の動画を見ることにした。本を読んで予め予習しておき動画を見てそれを確認すると言う流れだ。  優斗は最初簡単に考えていた。しかし手話を覚えるのはとても根気のいる作業だった。  優斗は毎日部屋に篭って手話を勉強していた。両親も、普段だらけた生活しかしてない息子が急に手話を覚え始めて驚いていた。  愛も優斗が手話を覚えようとしてくれている事に喜んで応援してくれた。 『優斗君凄いね。新しい事にチャレンジするのは良い事だよ』 『次に会った時は何か手話で話せるように頑張るよ』  愛との会話はいつしかタメ口で出来るようになっていて、優斗は急激に距離感が縮んでいると感じていた。

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声を聴いて 第六話

声を聴いて 第五話

 数日後、三人は駅前で待ち合わせした。優斗は少し早く来ていた。  程なくして愛がその友達と現れた。 『こっちは友達の恵美です』 「よろしく」  優斗は声に出して挨拶した。恵美はニコニコして会釈した。 『もしかして恵美さんも耳が?』 『はい』  優斗はスマホに挨拶を入力して恵美に見せた。そして手招きして二人を店に案内した。  お店に着くと他の客が並んでいた。お店の外に置いてある椅子に座っている。優斗は愛と恵美に椅子を勧めて自分はその前に立った。  愛と恵美は手話で何やら楽しそうに話していた。  ふと優斗がついて来れてない事に気付き、愛はスマホを取り出して優斗に送った。 『二人で話し込んじゃってごめんなさい』 『大丈夫。二人で楽しくお話ししてて』  再び手話で話す二人。すると直ぐに愛はスマホを取り出して通訳してくれた。愛は、恵美と話す時はスマホをしまい手話で話し、優斗と話すときはわざわざスマホを取り出して話すのだった。  そんなスマホをしまったり出したり、手話で話したりリニエで話したりが一日続いた。しかし、手話で話してる時の方が楽しそうだった。 (手話の方が楽なんだろうなあ)  そして手話でコミュニケーション出来る恵美が羨ましかった。

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声を聴いて 第五話

声を聴いて 第四話

 次の日も優斗は図書館に行ってみた。しかし愛の姿は無かった。 (毎日来てるわけじゃないのかな)  優斗は何となく身体障害者の事、聴覚障害について調べてみた。それで知ったのだが、聴覚障害の人は声帯に異常があるわけではない。声を発する器官は健常者と同じだ。ただ、正しい発音が分からないから話せないだけなのだ。  その日の夜、優斗は愛にリニエでメッセージを送ってみた。 『今日は何して過ごしたの?』 『今日は学校の友達と遊園地に行きました。優斗君は? 友達と遊んだりしてましたか?』 『うん。カラオケに行ってガンガン歌ったよ』 (だから何で嘘つくんだよ)  思春期の優斗にとって、愛に会うために図書館へ行ったとは言えなかった。 『カラオケかあ。行った事ないから分からないけど楽しいんでしょうね』  優斗はしまったと思った。よりによってカラオケをチョイスするとは。 『クラスメートがたくさんいるのって何か羨ましいです』  優斗はその意味が分からず、どう言う意味か聞き返した。  愛は特別支援学校に通っている。特別支援学校は基本的に少人数制のクラスだ。だからたくさんの友達が出来にくい。  優斗は自分も本当はぼっちなので愛の気持ちが分かったような気になった。 『ねえ、今度その友達も一緒にスイーツでも食べに行こうよ』 『え? 良いんですか?』 『うん。なんなら明日とかさ』 『優斗君って行動力あるんですね。友達に聞いてみますね』  優斗は直ぐに美味しいスイーツのお店を検索した。

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声を聴いて 第四話