呪いの鏡にソプラノを一滴
しっかりと整えられた天蓋つきのベッドの裏側。
隠していた手鏡を取り出したあと、柔らかな羽毛に包まれた。
「残されたのはこれだけになってしまったわ……」
手鏡を見ながらひとりごちる。
6年前に病死した双子の妹であるリリーが大切にしていた手鏡だ。
ゆっくりと時間をかけながら、リリーの存在が屋敷から消されていく。
この手鏡もいつかは誰かの目に留まり、処分される運命だ。
無駄だとは理解している。
だけど気がつけば、私は彼女の部屋からこの手鏡を持ち出していた。
手鏡に映る自分の顔に、今日もため息をつく。
「……ひどい顔」
今日なんて、起きたら額に大きな痤瘡(ざそう)ができてしまっていた。
ぽってりと赤く腫れたところがジクジクと痛む。
髪をすいてくれた女中がなんとか前髪で隠してくれたが、落胆の視線が夜になった今も突き刺さっている気がした。
「おやすみ、リリー。また明日」
手鏡に、妹の名前を呼びかけるようになったのはいつからだろう。
思い出そうと額を抑えたら、痤瘡に触れてしまい痛みが走った。
もう、今日はなにをやってもダメね……。
大きな枕の下に手鏡を滑り込ませて、私は眠りについた。
*
今日も手鏡を片手に、寝具に潜り込む。
いったい、いつから私は変わってしまったのだろう。
私のこの顔も、かつてはリリーと瓜ふたつだった。
生まれつき体の弱かった、たったひとりの妹。
お医者様からは、リリーが成人することはないだろうと言われていた。
今では顔どころか、肌質も、骨格さえも似つかない。
「私はもう、リリーのような癖のない艶やかな黒髪も、細い肩も、滑らかな腰も、柔らかな肌もなくなってしまったわ……」
耳の奥で響く自分の声に、私は喉元を押さえた。
鏡に映る自分の顔がどんどんと輪郭を失っていく。
「声だって……、声だって……、もうソプラノは出なくなってしまったの……」
幼い頃から歌うことが好きだった。
私が歌えば、リリーが笑顔になってくれたから。
ポタポタと、鏡の上に涙が落ちた。
屈折した輪郭は私の顔を醜く歪める。
この涙ですら、私は私を、艶やかに彩ることができなかった。
自分の顔を見ていられなくてキツく目を閉じる。
「姉様。泣かないでくださいませ」
「え?」
私の声ではない、鈴のように透き通った美しい調子。
忘れるはずのない澄んだ音に耳を疑った。
この声……、まさか……?
だけどリリーはもう……。
でも、私が……リリーの声を聞き間違えるはずがない。
「姉様……」
「リ、リー?」
恐る恐る目を開けると、鏡にはリリーの姿が映っていた。
8歳の姿のまま、幼くて愛らしい。
しかし生前の病弱で痛々しい印象はなく、はつらつとしていた。
「ウソ……、本当に……?」
「あぁ、また……。姉様の泣き虫は昔から変わっていませんのね?」
リリーは昔を懐かしむようにころころと笑う。
貴族の子どもとして生まれた私は、人前で咽び泣くなど言語道断だった。
泣くときは決まってひとりのときか、リリーの前でだけ。
なにかあるたびに、私は声を潜めてリリーに縋っていた。
ぎゅう、と、胸元で手鏡を抱きしめる。
「本当に……、リリー、なのね……?」
一度流した涙はなかなか落ち着いてくれない。
目が腫れてしまうかもしれないから、涙を拭うこともできなかった。
「うれしい……」
「私もですわ」
そんな私に、リリーはくすくすと微笑んだ。
手鏡なんて確認しなくてもわかる。
彼女の唇は美しく三日月の形に描かれているはずだ。
「ですが、今日は休みましょう? また明日、お話してくださる?」
リリーの言葉に、私は再び手鏡を持ち直す。
ずっと焦がれていたリリーの淑やかな笑みは、優雅で見惚れてしまうほどだった。
「また……、私と会ってくれるの?」
「もちろん。姉様が望んでくださるのなら、リリーは毎夜、伺いますわ」
「夢みたい。ありがとう、リリー。会えてうれしいわ」
「私もですわ。さあ、姉様。もうお眠りください」
「ええ。おやすみ、リリー……」
この日は久しぶりによく眠れた気がした。
翌朝、私の目元はしっかり腫れてしまっていたけれど。
*
あれから毎晩、リリーは鏡の中に現れるようになる。
リリーは私を姉として慕ってくれる唯一の存在だった。
私はずっと、キラキラと輝くリリーに憧れていた。
癖のない腰まで伸びた艶やかな黒髪。
木々の間から柔らかく差し込む光のように、安らぎを与える金色の大きな瞳。
可憐な桃色の唇から発する愛らしい声で、名前を呼ばれるのが大好きだった。
明るくて優しくて、誰にでも好かれているリリー。
生まれつき体が弱かったから、肌の色が白くて体は痛々しいくらいに華奢だった。
それでも、彼女が病気であることを忘れてしまうくらい、ひたむきな笑顔を浮かべながら明確な未来を私に語ってくれる。
リリーが妹であることは私にとって、とても誇らしいことだった。
そしてあの日。
誰からも愛される彼女は、神様をも魅了してしまう。
だからリリーが永遠の眠りについたとき、妙に腑に落ちた。
ついに神様がリリーを攫っていってしまったんだな、と。
そして、私はもう二度とリリーと会うことが叶わなくなってしまった、とも。
ならば、せめて残りの人生の全てをリリーとして生きていきたいと願った。
何度も何度も、星の瞬く夜空に祈りの歌を捧げる。
それでもときの流れは残酷で、私の顔は……この体は……、可憐なあなたの姿からどんどんと遠ざかってしまう。
唯一似ていた声ですら、もう、うまく出せなくなってしまった。
リリーの真似をして一生懸命手入れをしながら伸ばした髪の毛も、磨いてきた肌も。
私には似合わない煌びやかな赤いドレスも。
繊細な彫刻と大きなダイヤが光る装飾品も。
少しずつ覚えた刺繍や花言葉や紅茶の銘柄も。
……リリーだけが褒めてくれたこの歌も。
明日の朝には、全て手放して生きることになる。
私に残るのは、平和の象徴を由来する大層な名前だけだ。
「本当に……、本当に……。リリーの声を愛していますの……」
甘えているのはわかっている。
鏡を通してリリーと話すようになってから、私は毎日泣くようになってしまった。
ずっと心の内側で抱えていた思いを、リリーは優しく受け入れてくれる。
「かわいそうな姉様。今日はもう眠ったほうがいいですわ」
「待って!」
まろやかな声で眠りを促すリリーに、私は強く声をあげた。
リリーとは似ても似つかぬ声質に羞恥心が込みあげる。
もう、こんな声、聞いていたくない。
助けて、リリー……。
あなたの声を聞くたびに、私は私の声が憎らしいの。
あなたが止めたからやらないだけ。
あなたがいなくなったあの日から。
あなたが鏡から現れたあの日から。
私はずっと、自分の喉を掻き切ってしまいたくてしかたがなかった。
「お願い……リリー。どうかその声で、私の名前を呼んで……」
「姉様……」
どこにいても、二度とあなたと交わることは叶わない。
あなたは死んでしまっているから。
その事実は変えられない。
ならば……。
誰からの視線も感じずに、誰の声も届かず、誰とも言葉を交わさずに、ただひとり真っ暗な世界で歌いたい。
例えリリーに存在を忘れられても。
例えリリーの愛の言葉が偽りでも。
例えリリーが謀っていたとしても。
生きることに焦がれていたリリーが、こんな醜い体でも使ってくれるのであれば本望だ。
「オリヴィア」
美しい声に悪意が混ざり、きれいに歪んだ笑みに狂気が孕む。
あぁ……。
あああぁぁぁっ。
ずっとあなたに呼ばれたかった。
あなたに名前で呼ばれるのが大好きだった。
平和の象徴なんて大義を背負わされた大嫌いな私の名前。
あなたに呼ばれるなら悪くないって、ずっとずっと、ずっと思っていた。
女性の名前をつけておいて、最後の最後で私が女性として生きることを許してくれなかったお父様やお母様。
彼らよりかはリリーのことが大好きだわ。
「オリヴィア。本当に、愛していますわ……」
「リリー。私はあなたの声を、本当に、愛しているわ」
偽りに塗れた愛を誓い合い、鏡越しに唇を重ねる。
その瞬間、私のなにかが鏡の中に吸い寄せられる感覚がした。
*
本当に、大好きよ。
リリー……。
『──ああ、夕刻までには戻るよ。ついでにコイツも処分しようかと思ってね』
な、に……?
……声? 私、の……?
どのくらい眠っていたのかはわからない。
頭の中はぼんやりとしていた。
どこからか差し込む光から、私の姿が見える。
『──あの世の魂とこの世の肉体を入れ替える呪いの鏡……の、レプリカだよ。わた……いや、リリーはそういった伝承の収集が好きだったからね』
長い髪はバッサリと切られ、いつも着ていたパニエで膨らませた煌びやかなドレスから、華やかに刺繍やボタンが装飾されたコートやベストに変わり果てていた。
『──互いに名前を呼び合って愛を誓い、鏡越しに口づけると入れ替われるんだ。呪いの鏡、なんていわれにしてはロマンチックだろう?』
喋り方も声も、私なんかとは全然違う。
輝きに満ちた笑みを浮かべ、かつての私はシルクハットとステッキを携えた。
『──祝福の鏡? ふっ。言いたくなる気持ちはわかるが、互いに愛を誓ったところでともに添い遂げられるわけではないんだよ。呪いはどこまでも呪いでしかないんだろうね』
リリーは皮肉めいたことを言ってから、静かに部屋を出ていった。
彼女にかかれば私もあんなふうに笑うことができるのか。
リリーならリリーとして「オリヴィア」の生涯を幸福に導いてくれるはずだ。
徐々に光は閉ざされ、辺りが真っ暗な闇に包まれる。
「あぁ……。あぁ……」
……ああ。
私の声が、リリーの声で出せる。
今この瞬間。
私も、生に満ち満ちた。
この声が……。
このソプラノさえあれば……。
鏡の中、永遠に続くひとりきりのこの世界。
私は歌い続けた。
もう、なにもいらない。
リリーもオリヴィアも、もう、なにもいらない。
《完》