木のうろ野すゞめ
36 件の小説木のうろ野すゞめ
活動レベルが落ちてしまって、睡眠にリソースを割いています。 現在の執筆の優先度「書く習慣」>「Novelee」となっております。 雰囲気小説を書く人。 毎週金〜日曜日の間になにかしら書きあげていきたいです。 2025/8/16〜 ※作品は全てフィクション ※無断転載、AI学習禁止
バニーガールプレイの後日談
バニーガールのコスプレをした絃羽(いとは)さんと一夜を過ごして、数日。 行為の一環として、俺がアミタイツを破ったことを、彼女はいまだに怒っていた。 タイツひとつで大げさな。 また、同じものを買えばいいじゃないか。 このときの俺は、本気でそう思っていた。 むしろ、たくさん買い置きして、なんでもない日に気の赴くまま、バニーガールのコスプレをした絃羽さんと、イチャイチャ楽しむのもありかもしれない。 俺は意気揚々と携帯電話を片手に、弁償するために取っておいた破れたアミタイツを取り出した。 「って、げぇっ⁉︎」 だが、俺のその下心しかない浅薄な思考は、破ったストッキングのケアラベルを見た瞬間に消し飛んだ。 俺でも知っている、海外ブランドのロゴが入っていたからである。 嫌な予感がして、俺はすぐに携帯電話でオンラインショップを検索した。 サイトには、スタイリッシュなデザインのウェアや、ジュエリー、バッグなどのサンプル画像が次々と出てくる。 月の固定費を余裕で超えてくる価格帯に、スワイプする指が震えだした。 恐る恐る、ランジェリーのカテゴリーをタップして、アミタイツを探していく。 そして、彼女が履いていたものと同じアミタイツかどうかは判断できなかったが、それらしきものを見つけた。 「ごっっ⁉︎」 想像していた価格よりも桁がひとつ多くて、むせかえる。 一流ブランドのブランド力を完全に舐めきっていた俺は、頭を抱えた。 ウッッソだろっ⁉︎ あんな目の荒さしかないアミタイツでっ⁉︎ 指で軽く引っかけるだけで、破るまではいかなくても簡単によれてしまいそうなのにっ⁉︎ それと同時に、ひとつの疑問も浮上してくる。 絃羽さんってこんな高級嗜好だったか? いや、かつては婚約者までいた立派なお嬢様だ。 人前に出る機会も多いから、あえて仕立てのいい品を身につけることもある。 それをふまえても、デザインやカラーバリエーションも、俺の知る彼女の趣味からは遠い気がした。 肌に身につけるものだから素材や履き心地にこだわるのならまだしも、これまで彼女がこのブランドのアイテムを使っているところを見たことがない。 ますます、彼女がこんなハイブランドに手を出した理由がわからなかった。 ……とはいえ、高級アミタイツを破いてしまったという事実は変えようがない。 俺は、アミタイツ1足と普段使いできそうなベージュのストッキングを1足、カートに入れた。 * 自業自得としか言いようがないが、例のオンラインショップでの買い物以降、俺は財布の口をガチガチに締めた。 来月の請求額を考慮したためである。 もちろん、生活費や貯蓄などは別口のため、絃羽さんとのラブラブな結婚生活には差し障りないようにしていた。 ……はずだった。 「れーじくん。カードの明細見せて」 リビングのソファでくつろいでいるとき、寝支度を整え終えた絃羽さんに、なんの前触れもなく切り出された。 「ほぅあぁ⁉︎」 怖いほど的確な彼女の要求に、変な声が出た。 必要経費には違いないが、大金を使った後ろめたさは消えていなかったのだろう。 不自然なまでにでかい声を出した俺の反応は、彼女に確信を与えてしまった。 冷ややかな視線で、彼女は俺を睨みつける。 「やっぱり。デカい金で変なことしただろ?」 「違っ⁉︎ いや、違くはないですけど‼︎」 「あ? どっちだよ?」 「金が嵩んだのはそうですけど、今回は違います‼︎ あ、いや、興奮のあまり奇行に走ったと言われると否定できませんがっ‼︎」 あの夜、アミタイツに手をかける俺に、彼女は何度もやめるよう声をかけていた。 最初から絃羽さんの言葉に素直に従っておけば、こんな事態にはならなかったはずである。 理性がはち切れた状態だったからといって、彼女の静止を無視するなど、愚の骨頂だ。 だからなんだ⁉︎ 止まるなんて絶対に無理だがっっ⁉︎ あそこまでトロトロに緩んだ絃羽さんを前にして、俺が我慢できるわけがない。 値段が安かろうが高かろうが、あのアミタイツは破かれる運命だった。 やはり、今回の出費は必要経費である。 「少し、待っていてもらっていいですか?」 前置きした俺は、彼女を残してリビングを出る。 ちょうど荷物を受け取っていたタイミングでよかった。 作業部屋に置いたままだったダンボールを、開封する。 プレゼントとして用意したわけではないから、ラッピングはしなかった。 絃羽さんこら、こんな詰められかたをされるとは思ってもいなかったから、ちょうどよかったかもしれない。 再びリビングに戻り、俺は彼女にアミタイツとストッキングを渡した。 「え、なに、これ?」 「アミタイツとストッキングです」 「は? なんで?」 「なんでって、俺がアミタイツを破ったことを、絃羽さんがずっと怒っているからじゃないですか」 「それは、あんだけやめてって言ったのに、れーじくんが聞いてくれなかったからじゃん!」 「ええ。なので、弁償と慰謝料のつもりで買いました」 「え? 弁償……?」 彼女の形のいい眉毛が、訝しげに寄る。 「もしかして、この前、のと、同じヤツ、買ったの?」 「同じのじゃないと、納得してくれないでしょう」 本当は、同じアミタイツを何足か用意して、なんでもない日に、気軽にバニーガールのプレイを楽しむつもりだったのに。 俺の懐事情が、それを許してはくれなかった。 「高かったでしょ?」 絃羽さんも奮発した自覚はあったらしい。 世間一般における海外ブランド価値を、彼女自身もきちんと把握してくれていた。 その事実は、俺を心底ホッとさせる。 「ええ。手痛い出費となったのは事実です」 気が緩みすぎて、バカ正直にうなずいてしまったが、財布が一緒になった今となっては、見栄を張る意味もない。 ストッキング類の価格帯が5桁もある世界線に驚いたし、ただのコスプレに絃羽さんがそのラインのアミタイツを選んだことの衝撃のほうがデカかった。 「なんでまた、タイツだけ、あんな高級品を? バニースーツは普通のコスプレ衣装でしたよね?」 「あー、うん、まあ……。用意したものの、いい年してあの格好した自分を想像して、いたたまれなくなったんだよね」 エロかったし、かわいかったけどな。 布面積が極端に小さいほうが、裸体よりも羞恥心を煽られる気持ちは、わからなくはない。 ……が、放っておくと男に安受しそうな派手な格好を好む彼女が、今さらバニーガールで恥ずかしがるとは意外だった。 彼女の恥ずかしがる基準は、いまだに謎である。 「着る前からヒヨったんですか?」 そんなつもりはなかったが、火に油を注いだ言い回しになってしまって、彼女の声に怒気が宿った。 「はあっ⁉︎ うっさいな! こちとら、メイド服やら裸エプロンやらノーパンしゃぶしゃぶとやらをノリノリで嗜めるほどパッパラパーじゃねえんだよ!」 「そのパッパラパーに性癖ブッ刺されてメロついていたのは、絃羽さん自身じゃないですか」 メイド服も、裸エプロンも、チャイナドレスをノーパンで着て、しゃぶしゃぶパーティを彼女と楽しんだ相手は、当然、俺である。 デカくてゴツい俺の女装に、彼女は恍惚と目を蕩けさせた。 あえて自分のことを棚に上げるが、絃羽さんの嗜好もなかなかオッサンくさい。 そこに女装癖まで加わっているのだ。 あまり俺のことを、どうこう言えた立場ではないと思う。 「っさい! 今、そこは関係ないっ!」 「自分で持ち出したクセに」 無自覚なら大問題だが、絃羽さんも多少の自覚はあるらしいので、口が裂けてもからかうようなことはしない。 なぜなら、彼女が本格的に目覚めて、女装アイドルとかオネエ系配信者の追いかけをされると、俺が困るからだ。 絃羽さんが俺以外の男を追いかけるなど、想像しただけで嫉妬に苛まれる。 「そうじゃなくてっ」 仕切り直すために、絃羽さんは声を荒げた。 「アミタイツを買い忘れてたからっていうのもあるけど、せめてアミタイツをハイブランドにすればバランスが取れるかなって思ったの!」 バラン、ス⁇ なに言ってるんだ、この人。 正気か? 時々、俺の手に負えなくなるほど知能指数が下がるのなんなんだ。 本当に意味がわからない。 「バランスって、え? なにに対するバランスなんすか。それ」 「なんか、そのぉ。ファッション的な? コスプレ感が薄れないかなー? って……」 今度はバツが悪そうに指先を遊ばせながら、モニョモニョと唇を尖らせる。 コロコロと変わる、彼女の無防備な仕草や表情にギュッと胸を締めつけられた。 ハハハッ。 と、乾いた笑い声でごまかしているが、希釈の仕方が斬新すぎだ。 いくらなんでも力技すぎる。 「それ、薄まりました?」 「……バニースーツのサイズが合ってなくて、それどころじゃなくなった」 「あぁ」 悔しそうに下唇を噛む彼女の心中は、察するものがある。 バニースーツのバストサイズが大きすぎて、絃羽さんの奥ゆかしく膨らんだ乳房が収まっていなかったのだ。 ピンク色の愛くるしい小さな乳首が据え膳として目の前に差し出され、眼鏡と理性に衝撃が走ったのは、記憶に新しい。 なんなら、しばらくは風化できそうになくてオカズにできるくらいだ。 絃羽さんの痴態を思い出しては緩みそうになる口元を抑える。 「まぁ、そうでしょうね」 「変な想像やめて」 俺の思考を見事に当てた彼女は、肘で胸元を小突いたあと、小さくため息をついた。 「ただでさえ、スカスカで貧相な体に凹んでたところで、いきなりアミタイツを破いて羞恥心を煽ってくるなんて、考えにも及ばなかったの。れーじくんに限って!」 「え? それは、俺の下心を舐めすぎじゃないですか?」 高級ブランドだろうが、素材にこだわろうが、バニーガールはバニーガールだ。 ウサ耳のカチューシャ、バニースーツ、アミタイツ、この三種の神器を装備した絃羽さんが俺の目の前に現れたのであれば、据え膳以外のなにものでもない。 「そういうことですので、今後は高級品を身につけて俺を煽ることを禁止とします」 「そういうことって、どういうことだよっ⁉︎ 人の話を聞かずに破いたのはそっちなのに、被害者の私に要求とか、いくらなんでも図々しくない⁉︎」 「あんなドすけべな格好の絃羽さんを前にして、俺が我慢できるわけないでしょう」 「すけべなのはそっちじゃん。……ホント、信じられない」 「ちょっと。急に、そんなかわいく照れるのは反則です」 バニーガールを着た夜の詳細でも思い浮かべてしまったのか、急にモニモニと髪の毛を遊ばせるのはあざとすぎる。 また一段、俺のなかの理性の壁が崩れた気がした。 「まあ、金額がデカくなったのはそういうことです。あ。まだ確定していませんが、こちらが今月の明細になります」 「……ふーん?」 カード会社のアプリを立ち上げて、今月の明細が映った画面を見せる。 「明細は明細で見せてくれるんだ?」 「こうなった絃羽さんは、ごまかされてくれないでしょう」 絃羽さんは疑わし気な目を携帯電話の画面に向けて、指をスワイプさせていく。 「変に勘ぐられた挙げ句、あさっての方向に誤解されて拗れるほうが困ります」 「自分で蒔いた種じゃん」 「だからこうして、根絶やしにしようとしてるんです」 絃羽さんの手から携帯電話を抜き取れば、視線が上に向けられる。 彼女と目が合うやいなや、俺は逃げられないように細い顎を掬った。 「まぁ、そうは言っても納得してくれないでしょうから、俺は今からあなたの信用回復に努めます」 「えっ?」 ポカンと薄く開いた唇に、舌を差し込む。 「はあっ⁉︎ なんっ⁉︎ ん、む、ぅんン……」 驚いて逃げ腰になる絃羽さんの背中を抱き寄せた。 ゆっくりと彼女の熱を高めるために、口内を堪能する。 「ぁ……、っは」 数秒、惚けた表情で見上げていたと思えば、我にかえった絃羽さんはキャンキャンと吠え始める。 「ね、ねえ⁉︎ なんで⁉︎ なんで、今、キスしたの⁉︎」 「え? これからあなたを抱くためですけど?」 「抱くぅっ⁉︎」 「俺があなたをどれだけ愛してやまないか、わかってもらわないと」 「私、……れーじくんが、私を好きなのはちゃんと知ってる、よ?」 「よかった」 スリスリと耳朶を撫でるが、彼女はまだ俺に委ねてくれていない。 だが、おかしい。 いつもはこれで流されてくれるのに、今日は妙に頑なだ。 「もしかして、今日はダメな日でした?」 「ダ、ダメ、とか、……そ、そういうわけじゃないけど……」 ダメではないんだ。 恥じらいながらも溢した彼女の本音に、生唾を飲む。 「ウサギさんは、し、しない、……から……」 受け取ったアミタイツを彼女はサッと腕を後ろに回して隠した。 「……」 本当にっ! 本当にっ! なんだこの生き物‼︎ かわいいなっ⁉︎ もはや、フリでしかない提案に頭を抱えたくなる。 俺も、高級アミタイツと知りながらビリビリ破くようなキモの据わりかたはしていなかった。 「残念ながら、俺には、あんなハイブランドのストッキングをぽんぽん購入できる経済力はありません」 「破る前提で話を進めないで」 「バニーガールのアミタイツを破らないなんて、バニーガールに失礼でしょう」 「なに言ってんの?」 首を傾げる絃羽さんはかわいいが、それはこっちのセリフである。 バニーガールにアミタイツは必須だし、そのアミタイツは破るためのアイテムだ。 「ですが、今はバニーガールに必要不可欠なアミタイツがありませんので、今日のところは我慢してください」 「私がバニーコスやりたくてしかたがないみたいな言い方はやめてくれるっ⁉︎ 違うからな⁉︎」 怒りのボルテージを上げて、ズンズンと俺との距離を詰めてくる。 一緒になってそこそこ長い月日が経つが、絃羽さんのこういうところはいつまでも迂闊だ。 両手を前にして、少しでも彼女の怒りを鎮めようと宥める。 「まぁまぁ。アミタイツは安いのを別のショップで箱買いしておきましたから。届いたらまた楽しみましょう」 「聞けよ! ……って、はあ⁉︎」 「さっき、カードの明細は見せたじゃないですか」 「見た、けど……」 この様子だと、絃羽さんは、俺が抵抗なく明細を見せたことに対して満足でもしたのだろう。 数年かけて積み上げてきた愛情が実り、口元が緩みそうになった。 ろくに明細を確認していないとなると、もうひとつ、彼女のために用意したものがあるのだが気づいていないのだろう。 「ついでに、絃羽さんのバストにピッタリサイズのバニースーツも購入しておきましたよ?」 「え、なんでわざわざ……」 「バニースーツにぶっかけてみたいなと思いまして」 「ぶっっっっ⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」 「あ、もちろん。出すときはブカブカのほうにしますから、安心してください」 嬉々としてプレイの希望を伝えれば、ついに彼女はオーバーフローしてしまった。 「って、あれ?」 光沢のあるエナメル生地に射精なんてロマンしかないのに。 「…………っ、エッチすぎるから、それはダメ」 「届くのはしばらく先になりますから、猶予はありますよ?」 赤く顔を染めた絃羽さんの手を引いて、寝室へ移動する。 ベッドに絃羽さんを寝かせて、落ちている照明を常夜灯に切り替えた。 息を潜めて、真一文字に引き結んでいる唇の上に、自分の唇を重ねる。 戸惑いつつも、たどたどしくキスを受け入れてくれる彼女に覆い被さった。 舌を絡めて深くなった口づけに、絃羽さんの呼吸が浅くなる。 熱を待ち始めた己の下腹部を押しつけ、彼女の欲と羞恥心を強引に暴いた。 俺の思惑通り、彼女がもどかしそうに膝を擦り合わせ、身を捩らせる。 唇を離せば、どちらのものかわからない唾液が糸を引いた。 「それまでに、心づもりをお願いします」 「……っ決定、なの?」 俺の様子を伺う視線は熱で蕩けている。 艶っぽく上気した顔で弱々しく抵抗されても、正直、俺にとっては据え膳でしかなかった。 それでも、絃羽さんにとって、バニーガールのコスプレはよっぽど恥ずかしかったらしい。 俺のシャツを握る彼女の拳は小刻みに震えるほど、力が込められていた。 さて、どうしようか。 今さら我慢なんてできるわけがない。 どうにか絃羽さんをなし崩そうと、クソみたいな思考を回していった。 《完》
階段
山の一角を開拓してできた配水池広場。 いつの間にか、緩やかな坂道が舗装され、脇道にはアジサイなどの植物も植えられていた。 今ではすっかり散策ロードになっている。 展望台を設置され、夏に打ち上げられる花火がよく見えるようになった。 天気がいい日は富士山も一望できる。 多くはないが桜の木も植えられており、レジャーシートを敷いて花見を楽しむ家族連れも増えた。 地元住民を中心に、配水池広場は小さな娯楽スポットして賑わいをみせるようになる。 そんな貯水池広場だが、広場として整地される前はただの山といっても過言ではなかった。 舗装される前の緩やかな坂道は古びた立ち入り禁止の看板が立てられており、南側の急勾配な地形の一角に、大人がすれ違えるかどうかという細い階段が物々しくそびえ立つのみ。 地上から数十メートルはあろうかという長い階段の頂上には、寂れた柵で施錠されていた。 敷地内は立ち入りできなくなっていたが、階段は自由に上り下りができる。 そのため、体力をつけたい若者や、ペットのダイエット目的など、様々な理由から意外にも、この急勾配の階段を利用する人は多かった。 * 当時の配水池広場の近くに住んでいた、裕木真香(ゆうき まなか)もそのひとりである。 四年前、真香は拓人(たくと)を出産した。 半年で育休を終えた彼女は、既に職場復帰を果たしている。 契約社員として食品会社の搬入作業を主な業務としている真香は、体を動かしていることが常だった。 その体を動かしているにもかかわらず、である。 真香の体重が、妊娠前の数値に戻らないのだ。 妊娠中に増えた彼女の体重は七キロ。 妊娠初期から後期まで、食べづわりだった。 彼女は、この最低限に抑えた体重増加を自身の努力の賜物だと今でも自負している。 むしろ、拓人を産み落とした直後だというのに、体重が一グラムも減らず、なんならさらに増えたことが不思議なくらいだった。 緩んだ骨盤を締めるために整体に通い、母乳育児にも励むが、全くといっていいほど体重減少の成果は得られずに終わる。 拓人の保育先が決まり、満を持して働くようになった。 それから約四年の月日を経て、ようやく真香の体重は二キロ落ちる。 結局、徹底的に体を動かさないことには、体重も贅肉も減らないことを真香は悟った。 彼女は本腰を入れてダイエットをすることに決める。 しかし、まだ幼い拓人を自宅でひとり、留守を任せるわけにもいかなかった。 時の流れは早く、あと一年も経たないうちに拓人は五歳になる。 小学校に上がるまでの体力づくりの一環として、真香は拓人を連れて階段を登ることにしたのだ。 * 最初から頂上登頂を目指していたわけではない。 拓人の体力的な問題もあった。 体重が十五キロをとうに超えた拓人を抱えながら階段を降りるのは危険すぎる。 真香は自分か拓人が力尽きたら、即座に引き返すつもりでいた。 「ひゃくきゅうじゅうはちっ、ひゃくきゅうじゅうきゅっ!」 拓人は毎日、階段の数を数えながら登っている。 今日もうるさいくらいに元気よく声を弾ませた。 「にーひゃくっ!」 ピョンッ。 得意気に拓人は最後の階段を両足で降りる。 その後、キラキラとした眼差しで真香に報告するのだ。 「今日はにひゃく段もあったね!」 「ふふ。そうだねえ。階段、たくさんだったねえ」 にこやかな声で相槌を打つものの、真香は階段の数なんて数えていない。 スラスラと数を数えるようになった拓人に、間違いがないかイチイチ聞き耳を立てることもしなくなった。 拓人は喘息の傾向があるのにもかかわらず、声量のイカれた甲高い声で延々と喋り続ける。 センテンスが途切れるこのない中身の伴わない拓人との会話は、真香にとって苦行そのものだ。 まともに取り合っていると、真香自身の心が病んでしまう。 情操教育上、よろしくないことくらい母性では理解していた。 それでも、真香は自分の心を守るために、階段の昇降中はイヤホンで耳を塞ぐことにする。 だから今回も、「私たちは二百段も登ったのか。なかなかがんばったではないか」という感想を持っただけだった。 * 階段を登り始めて一週間が経過した。 いまだに、真香たちは頂上まで辿り着けていない。 拓人が高所を怖がったためだ。 草花や昆虫に気を削がれているうちはまだいい。 調子に乗って登り進めたあと、いざ下ろうとなったとき、拓人の足が恐怖ですくみ、真香にしがみついて離れなくなってしまうのだ。 「今日はこのくらいにしておく?」 適当な高さまで登ったとき、真香が拓人に話しかける。 「うん! うんち出ちゃいそうカモだし、そろそろ帰ろうっ!」 「げえっ⁉︎」 イヤホンを突き抜けてきた拓人の発言は、真香にとって爆弾に匹敵した。 屈託なく白い歯を見せる拓人の手を、彼女は強く握る。 「おウチまでガマンできそう?」 「たぶんがんばれる! ぜったいに帰ろう」 「じゃあ急ごう」 「急ぐ急ぐー」 幼児ならではの妙な接続詞に訂正を入れる余裕もなく、真香たちは登ってきた階段を引き返す。 「いち、にー、さんっ……しっ!」 本当にトイレが近いのか疑いたくなるほど、拓人はいつものペースで階段の数を数えながら降りていった。 最後の一段を降りたとき、拓人がひと際大きな声をあげる。 「……さんびゃくじゅうーっにぃ!」 「え?」 拓人は、以前、階段の数は二百と言っていた。 きっちり数えているわけではないが、階段登りを切り上げる場所は大体いつもと変わらない。 よくわからない紫色の草花が咲いているところまで、大きなクモの巣が張っている手前など、引き返す場所は決まりつつあった。 いくら長い階段とはいえ、百段以上の誤差が出るものだろうか。 折り返す地点は、ギリギリ半分にも満たない程度だ。 そもそも、いくら高さがあるとはいえ、何百段も階段が連なるものなのか。 真香は初めて、階段の数に違和感を覚えたのだった。 * 翌日、真香はイヤホンを外した。 今日も変わらず、拓人は吃ったり詰まったりすることなく、スムーズに数を数えていく。 途中、拓人は蟻の行列に気を取られたりしていたが、きちんと続きから数を数え始めたから真香は感心すらしていた。 問題があるとすれば、ただひとつ。 拓人は自分の好きなリズムでで数を刻み、それを階段の数として認識し、真香に報告していたことだ。 「ママぁ? 今日の階段はごひゃくななじゅうろくもあったよぉ」 屈託のない満面の笑みを浮かべる拓人に、真香は引きつった笑みを返す。 「……なんてこった」 「ぱんなこったー!」 くだらないお笑い番組を好む父親の影響で、しょうもない返しをする拓人に、真香はこめかみを押さえた。 明日からは、拓人に数のカウントの仕方を教えることになりそうである。 イヤホンで耳を塞ぐのもほどほどにしておかねばと、真香は自身を戒めた。 《完》
第4回NSS決勝戦 『青春弱者だった俺が持ち帰ったのは、激甘でハイスペックな同僚でした』
入社して三年。酒が飲める年齢になったのに、俺は飲酒をしたことがない。女性との交流も縁遠くて免疫に乏しかった。どういう流れだったか。ゴールデンウィーク中に堰き止められていた俺のデスク業務を、半分引き取ってくれた同僚にぼやく。 「なら飲みに行こうぜ?」 快活に白い歯を見せ、彼は爆速で飲み会をセッティングした。 * 彼が予約した店は、マルゲリータがうまいらしいイタリアンバル(バルってなんだ?)。案内された席には既に二人の女性が座っていた。同僚と同じく陽の気配を纏う美人である。ツレがいるとは聞いてない。彼は俺の愚痴を見事に汲み、酒と女を雑に用意しやがった。お膳立てはありがたいが心積りをさせてくれ。同僚と女性陣と小洒落たテーブルに置かれた生ハムを、グルグルと時計回りに視界を揺らした。 「今日はよろひく、おおお願いしましゅ‼︎」 ……終わった。乾杯後は、会話の端々から配られる女性陣からの哀れみに、心を捩らせ酒をあおる。酒の苦味も女性との会話も、花を咲かせるには遅すぎた。 俺の飲酒デビューは記憶とともに無惨に散る。残ったのは二日酔いと、厚かましく俺のベッドを占領する同僚のみだった。
第4回NSS 『私は林檎。毒々しい魔女の悪感情を受け止められる唯一無二の果実』
昔々、人里離れた森で暮らす美しい魔女がいた。魔女は傲慢に世界を見限ったというのに、自身よりも美しい存在を許さない。 嫉妬、不満、執着、猜疑、嫌悪。 俗世を捨てられない魔女のとめどなく溢れる感情は、長い月日をかけて、私という深紅の毒を実らせた。 「これをあの娘に食べさせれば、私の美しさが世界一……」 卑しく伸びた赤黒い爪で、魔女がその果実をもぎ取った。 私は「林檎」と名づけられ、雪国で小人と暮らす幼気な少女を殺すために生み出される。 断腸の思いで美しさを隠した魔女は臆病な小人を欺き、無知で愚かな少女と対面した。 不自然に瑞々しい果実、過度に甘い蜜、潤沢に含んだ猛毒が純真な少女を侵す。 ひどい人。 あなたの感情は私だけのものなのに。 魔女の泥濘んだ感情が無防備な少女の体を蝕んでいった。 魔女に楯突いた私は無垢な少女に情けを施す。 死してなお、美しく保てる体躯を。 不躾で歪な愛を。 少女の喉元に絡まるひと欠片の私を掬い取ることができるのならば、止まった少女の時を動かせるようにした。 そうすれば、いずれ魔女の悪感情は肥大する。 狂った赤い毒で私を満たしてくれる。
アイツはネガティブ四天王のなかでも最悪な面汚し 〜ただしその力関係は主人の個体差による〜
今日はダメな一日だ。 ショッピングモールに併設された映画館。 一緒に映画を観るはずだった友人にはドタキャンされ、割引デーも祝日法という法律に塗りつぶされ、肝心の映画も大ハズレ。 映画の半券で買ったクレープは、包装紙を剥がしたときに中身を半分ほど落としてしまった。 泣く泣く食べ進めた残りのクレープ。 トッピングした申しわけ程度のわらび餅は、小粒のグミのような不自然な弾力性を含んでいた。 口に入れたときに溶けるような、瑞々しくて柔らかな感触とは程遠い。 ヤケクソで入ったゲームセンターではクレーンゲームに三千円を溶かしただけで収穫はゼロ。 祝日にアミューズメント施設に行くべきではないと、何度目になるかわからない反省会を行った。 水分を求めて立ち寄ったオシャレなカフェ。 家族連れやカップル客が次々と隣を横切り、店内に入っていくのをよそに、入り口前のメニューと睨み合った。 視線が向かった先はメニューの右下にひっそりと座るレモネード。 舌と上顎がクエン酸で満たされる感覚がたまらなく好きだ。 しかし、今の気分ではない。 散々な今日の一日を、酸味よりも甘味でドロドロに蕩して甘やかされたい気分だった。 対してメニューに写真つきで大きく面積を占領したのは、ピンクレモネード。 暖かさより暑さを徐々に感じるようになった季節柄、全面に押し出されていた。 愛くるしいピンクを授かる、クランベリーやブルーベリーにラズベリーの果実たち。 レモネードとは名ばかりの、酸味をあざとさと甘さで隠す強かさに、今日はやけに鼻についた。 再び、メニュー見開きの右側に目を向けて、ココアという文字に立ち止まる。 冬という季節が終わっても、カカオという健康志向にうってつけのネームバリューは、夏でもレギュラーメニューとして鎮座していた。 ドロドロとした見た目とは裏腹に、口に含んだ瞬間に訪れる薄味の砂糖水に落胆する。 お気持ち程度のカカオパウダーに薄っぺらな自分自身と重ねて自己嫌悪。 牛乳なんて付け焼き刃は、薄膜となって剥がれて劣化してダマになって、消化しきれない傷跡だけがマグカップに沈澱した。 甘さを抜けば苦味ばかりで粉っぽい。 気難しいココアとはとにかく相性が悪かった。 素直に定番のフラペチーノに行こうかと、指を置く。 トールキャラメルフラペチーノノンファットミルクエクストラコーヒーウィズチョコレートソースチョコレートチップ。 華美な装飾で着飾るシャビシャビ代表、シアトルコーヒーを魔改造した飲み物だ。 求めている甘さは満たしている。 しかし、ただの文字列でさえきらびやかで眩しいのだ。 コイツを注文するために、店内に踏み込める気がしない。 結局、踵を返して向かった先は自動販売機。 自販機はギャンブルだ。 アスパルテームにスクラロース。 低カロリーやダイエット飲料などとうたい、何食わぬ顔で人工甘味料を投入されている。 人工甘味料のなにが悪かといえば、ビンや缶ジュースで販売しているときはきちんと砂糖や果糖ぶどう糖液を使用しているクセに、ペットボトル飲料になった途端、人工甘味料という裏切りを投下させてくることだ。 これで何度、騙されたことか。 今回、購入したフルーツオレもそのパターンである。 油断して調べることを怠った。 口の中に広がるアセスルファムKのエグ味を喉奥に無理やり流していった。 他責思考で積み重ねたストレスを、不愉快な甘味とともに押し込める。 帰り際、四月末で終わる某春のお皿まつりのポイント獲得の追い込みのために寄ったスーパーで、ひたすら菓子パンをレジに通したあとのことだ。 出入り口の自動ドアを潜り抜ければ、雨が降り注いでいる。 ああ……。まったく。 昭和の日なんてクソくらえだ。
私の好きなあいうえお
インディア紙のしなやかな手触りが心地よく、用途もないのに辞書をめくることが好きだった。インプットする気のない言葉に付箋を貼る。手放すこともそうそうないから、直接、蛍光ペンで線を引いた。 インクを裏抜けすらさせない強かさ。 その薄い用紙に、わざとらしく空気という壁を孕ませた。 【あ】愛 ✴︎ 好きも嫌いも恋も嫉妬も、言葉での形容が足りなくなったときに芽生えた気持ち。 純粋だった想いはいつの間にかぐちゃぐちゃに染まり、黒っぽい何色かに染まってしまった。 【い】愛おしい ✴︎ 本人には直接的に伝えることはない気持ち。 あなたと視線が絡まないときに溢れてしまう言葉。 【う】愛くしい(うつくしい) ✴︎ いつまでも色褪せない気持ち。 絶えず移り変わる時代の流れのなか、いつまでも衰えない尊い輝き。 【え】愛どしおえどし(えどしおえどし) ✴︎ 溢れ出ては止まらない愛おしい気持ち。 寄せては返す、静かだけど決して止むことはない愛の漣。 【お】愛しむ(おしむ) ✴︎ もったいなくて大切に扱う気持ち。 誰の目にも触れないよう、厳重に鍵をかけ閉じ込める愛欲。
a piece of Tarte Tatin
●一話 屋上にそびえ立つ金網フェンスがモザイクとなり、地一依結(じいち いゆ)の解像度を壊す。 二月の吹き荒ぶ風を、彼女はフェンスを越えた先で一身に浴びていた。 背中まで落ちた白金の長い髪の毛を羽ばたかせて、黒いセーラー服のプリーツを大きく広げている。 病的に細い骨と、貧相に伸びた手足、艶のない蒼白く濁った肌を、冬の西日が突き刺した。 風が勢いよく屋上の扉を閉めた瞬間、忙しなくはためくエンジのスカーフが私の視界を彩る。 「なんだ貴様か」 安堵した声音で私を呼ぶ雑な人称は相変わらずだ。 私の返事など待たず、地一依結は数歩分もない足場から静かに背を投じる。 普段は重たく落ちている真っすぐな白金の髪の毛が、今はウェーブを描いて宙を遊泳した。 空気を孕んだセーラー服から現れた痩せた素肌は、太陽の光を一身に受ける。 エンジのスカーフよりも鮮やかで艶やかな赤い唇が、きれいな三日月を象った。 「腹が減ったな」 生を手放す行為のあと、地一依結はおおよそ人間らしいことを呟いた。 * 今月に入り、屋上での自殺未遂者がいるという噂が囁かれ始める。 この事実しかない噂の元凶は先の通り、地一依結だ。 彼女が屋上から飛び降りた回数は、これで五回目。 初日に彼女がグラウンド側へ身を投じたせいで多数の目撃者が出てしまい、学園中が騒ぎになっていた。 だが、目撃者に対して死者どころか怪我人の報告すら出ていない。 自殺志願者の特定すらできていないこの状況は、噂になるには格好の的だった。 事実にあることないこと尾ひれがつき、不気味な出来事として瞬く間に学園中に広まる。 そして、既に私は、一連の出来事に関与している疑惑をかけられていた。 今月の学園施設の施錠当番が私だからという、単純な理由である。 緊急時を除き、生徒の屋上の立ち入りは基本的に禁止されていた。 その屋上でトラブルが起こっているのだから、自然と私に疑惑の目が向けられる。 そろそろ、きちんと咎めなければならない頃合いだ。 地一依結が屋上から飛び降りたあと、私は金網フェンスを飛び越える。 「お?」 燃費の悪い彼女が重力に逆らえるのはほんの数秒だ。 「イヴ」 仰向けで優雅に空中を揺蕩ったあと、彼女の体は重力によって勢いよく地面に引き寄せられる。 彼女の手が伸ばされる前に、私は彼女の体を掴み、掬いあげた。 私が多少重力に逆らったところで昔とは違い、特別な筋力が備わっているわけではない。 金網フェンスを越えた直後、彼女を抱えていた腕が滑り落ちた。 受け身すら取ろうともせず、彼女は地面に叩きつけられる。 「今日は早いじゃないか」 細く頼りない膝を立てて立ち上がった地一依結は、悠長にセーラー服についた砂埃を払った。 地面に派手に叩きつけられた体には傷はない。 「仕事を増やすな、自殺志願者」 「自殺志願者は飛び降りたあとに、腕なんか伸ばさないだろう」 「知るか」 今月、施錠当番が回ってきたことを利用して、私は地一依結に屋上の鍵を横流しをしていた。 鍵を手に入れた彼女は屋上から飛び降りている。 グラウンド側から飛び降りることをやめさせたとはいえ、罪に罪を重ねていることには変わりなかった。 「あまり派手なことをするな。今後、鍵を貸せなくなる」 「それは困る。食事ができない」 「食事なんか」 どこでもできるだろう。 言葉を続ける前に、私は地一依結に足を払われバランスを崩した。 彼女のひ弱な腕で重心を地面に押しつけられる。 口元を目元を煽惑的に歪めた彼女が、私の上に跨った。 「本当に、貴様は私の前では無防備だな」 「否定はしない」 否定など、できるはずがない。 少々、昔の恋慕を引きずっているせいだ。 拒絶することができていれば、地一依結と屋上で言葉を交えることなど起こり得ない。 健康とはほど遠い凍てついた細長い指が、私の喉仏に触れた。 《続》
だるまさんがころんだら
ずっと空っぽのままだった古ぼけた部屋が、新しい宿主とともにお日様の匂いを吸い込んだ。
あけております。おめでとうございます。
あけております。おめでとうございます。 師走の怠惰を新年に引きずったまま、現在に至っております。 現在、執筆を主としている場が『書く習慣』というアプリなのですが、こちらのお題消化に勤しんでいました(※まだ終わっていません) 昨年からNoveleeで遊ばせてもらって、たくさんの方の物語に触れて、たくさんの刺激をいただいております。 ほとんど読むだけになっているのが悔しいから、今年はもりもり書くぞー。なんて思いながら新年が半月過ぎようとしていて、時の流れの残酷さを感じました(※ただの怠惰です) なにかしらメモみたいなものはあるのですが、いまいち流れや落とし所が迷子になってヒッチャカメッチャカ。 魔女狩り、インフェルノ、生まれた意味、私は誰なんだろう……など、なかなか芳ばしいワードだけが散らばっています。 大惨事です。恥。 あまり『書く習慣』アプリで書いたものをこちらに横流しはしたくないのですが、しばらく余裕がないため、供養としてあげさせていただくかもしれません。 そのときは生温かい目で見てくださるとうれしいです。 どうか今年もよろしくお願いします。
遠い鐘の音
婚姻届を出したものの、俺たちはまだ挙式を挙げていない。 チャペル式にするか神前式にするか迷っているところでもあるが、いろいろと強引にことを急いたため、彼女側の都合がつけられないでいた。 俺の隣で、たぷたぷと携帯電話をいじっている彼女の左手の薬指にきらめく小さな指輪を、ぼんやりと眺める。 愛情、忠実、永遠。 抽象的で不確かな言葉たちが鐘の音となって響かせる日は、そう遠くないはずだ。 《完》