後川

14 件の小説
Profile picture

後川

遅筆です。フォローしてくださる方 本当にありがとうございます。 第七回N−1 12位  435点 第八回N-1 9位  318点 第九回N-1 8位  489点

ある雨の季節

まだ辺りが暗い頃から、枕元には雨の音が響いていた。 そして私が目を覚まし、顔を横に向けたときにも カーテンの裏では、依然として地面に雨が強く 叩きつけられる音が確かめられるのであった。 寝室から出た先には、普段よりも暗い居間があった。 鈍い色をしたテーブルの上には、昨日の生活が残っていた。 晩御飯のまま片付けられていない皿や 途中で読み止めた新聞の活字、 あるいは芯が外れたまま置き去りにされた鉛筆・・・ 古い木目の上に並べられた、ありとあらゆる そういうものは、私のこれまでの過程をあらわすにしては、 何か重要で、確固たるものが抜け落ちていた。 窓の外の街並みは、重く厚い雲にのしかかられ、 昨日までの精彩を失っていることは明らかであった。 私は、昨日の残骸をそれぞれ処理してしまうと、 持ち余していた煙草に火を預け、椅子に腰を下ろした。 私は側にある、雨の雫が透ける冷たい窓を開けて、 むせかえるような生活臭で淀んだ空気を逃しはじめた。 口から不健康な煙を吐きこぼす度、生ぬるい風が入ってくる。 それは外の世界から、細かい雨の破片とともに、 沈鬱な気分を運んでくるのであった。 まだ若い私は、すぐに腹を減らしてしまった。 朝食、しかしそれを用意してくれる人はいなくて、 目の前にあるのは古い灰皿だけでしかなかった。 もちろん、そこに見本のような目玉焼きやトーストなどは 一切なく、汚れがこびりついた白い灰の奥で、 虚無がわずかに燃え残っているのみであった。 私は、今日はそれを眺めて腹を満たすことに決めた。 昼になっても、雲は厚く陰湿な影を保っていた。 前までのような美しいコントラストは微塵もなく、 平面的でのっぺりとしたのをどこまでも拡げていた。 どこまでも、、、私はほんの少し前から、それを聞いたとき、 ある場所を思い浮かべるようになってしまった。 学生のときに追っていたあの人の住む、坂道の街。 おそらくこの雨は、あそこにも降り注いでいるだろう。 私は、滴り落ちる細切れの雨を見ながら想像する。 不機嫌な空の下で、あいつの乗っていた電車は、 濡れた線路の上を窮屈そうに走っているのだろうか。 それとも、坂の下の赤信号が青に替わるのを待ちながら 幾重にも重なった人々の、傘の下敷きになっているのだろうか。 それとも、坂の上から、そんな雑踏たちを、、、 あるいは今の私を、滑稽に見下ろしているのだろうか。 そんなことを考えていた間、 私はひどく喉が渇いていることに気付いた。 私はようやく立ち上がって、冷蔵庫の扉を開けた。 ひんやりとした心地よい空気が首元を撫でるが、 欠けたものを埋める何かがあるわけではなかった。 私は、張りのなくなってきた紙パックとコップを 取り出すと、やがてまた窓際に座り直した。 私はそれを傾け、底に残っていたわずかな オレンジジュースをコップに預けた。 喉を潤すにはまったく足りない量だった。 鮮烈な柑橘の色の奥で、顆粒が浮き沈みしていた。 雨さえやめば、あいつのことは忘れられるのだろうか。 遠くの住宅地に灯りがぽつぽつとつきはじめた頃、 雨脚は次第に弱くなってきていた、が、 それは確かにあいつの坂を洗い、私の窓を洗い、 あるいは誰かの頬を滑り落ちながら、昨日までの 粘っこい汚れを押し流していた。

6
0

丘の上で

・・・朝・・・ 東の方から突如として現れた陽光は まず手始めに平たい雲を桃色に染めあげると、 まだ冷たい海に、烈しい光線を走らせた。 その一筋の光は次第に輪郭を曖昧にしていくと、 波の流れのうねりに従い、ゆらゆら揺れ立っていった。 それが行き着く先は、海に臨む小高い丘だった。 その丘の上では、青々と繁った草が背を伸ばし、 幹の細い枝は葉を揺らしながら、潮風に揺られていた。 橙色の光がそれらを照らしはじめたとき、 木の葉に遮られ、草々の裏で横たわっていた 彼の瓜実顔も、次第に顕になっていった。 いずれ日が昇り、陽光は円みを帯びると 先ほどまで真っ直ぐ光を通わせていた海は 水面のところどころにまばゆいガラス片を散りばめて、 波に揺れる度、それをちらちらと輝かせていた。 辺りは優しい陽気に包まれ、海も青と翠を取り戻した。 葉も、その光を満面に浮かべると 自身の影を、真っ逆さまに落として伸ばした。 ただ、その陰の中で未だ夜の明けぬところがあった。 前の晩に降っていた雨は、それが止んだ今でも ところどころに溜まったままで、 灌木の間のびちゃびちゃしたぬかるみは、 木の目の隙間にそれを挟み込もうとしていた。 のみならず、彼の足にもその泥は跳ねていた。 しかし時折吹く風に木漏れ日が差し込むと、 色を薄く落として、いつの間にか馴染んでしまった。 最早、そこにそれがあったことを知る者がどこにいようか。 ・・・昼・・・ いつまでも、日の強さは衰えを知らなかった。 相変わらず海はその光を跳ね返していて、 空は、夏の色の濃く、深い碧に染まり、 真っ白にぎらぎらとした陽光は依然として 緑色の葉を燃やすように照らしていた。 彼は、元々蒼白い顔を更に白くするほどの光を浴びても それを邪険にする様子もなく、ただ目を閉じ、 瞼の裏から、高く積み上がった遠くの雲を眺めていた。 眺めていた? それは本人に訊かねば分からない。 だが彼は尚、鼻の影を頬に落としながら 風に睫毛を靡かせているだけだった。 ぬかるみは、もうとっくに乾いていた。 辺りには、青臭い香りが広がっていた。 ・・・夕・・・ 斜陽は、鮮やかな紫と橙色を空に加えた。 海も、青とも橙ともつかない曖昧な色へ戻った。 太陽はとうとう地平線のすぐ傍まで沈み、 烈しくも優しい光を四方に散らしている。 葉の色は一面に橙で、その色は 半開きの口からはみ出した歯にも映っていた。 相変わらず草の中で横たわっていた彼は、 朝から今まで、瞑ったままの目を開こうともしない。 口元を通り過ぎる風も、どうでもいいようだった。 彼は生まれてからずっと眺めていた。 眺めていた?それを確かめる者はいない、が、 例えば、昼間の分厚さをすっかり失くした遠くの雲を、 或は、揺れ動いてばかりで日を真っ直ぐに通さない波を、 もしくは、一日中影を作りっぱなしだった木の葉たちを、 瞼の裏で確かに覗いていたはずだった。。。 風が吹いた。 彼の髪は、輪郭を黄金色に鋭く輝かせながらも、 こわごわとしたそれを漂わせているだけだった。 星が見えはじめた頃、 真っ黒な海から飛んできた鴎が彼の胸をつつくと、 けたたましい鳴き声をあげて飛び去っていった。

0
0

夜明の失恋

 目を覚ました頃、窓の外には薄明るい空が広がっていた。 私の部屋には時計が無く、したがって時間を確かめる術もなかった、が、まだ夜は明けていない気がした。そのときの私にはそれくらいがちょうどよかったのであろうし、実際そんなことはどうでもよかった。  私は頭の上まで腕を伸ばして、寝返りを打った。と、同時に、足の先に布の塊のようなものが触れ、湿り気のある繊維が親指に絡まった。私のまだ判然としない頭は、その感触を確かめてようやく気付いた。自分が布団の上で数々の人の合間を縫って、上手い具合の体制で寝転がっていたのだということを。そして、その、数々の人というのは、あらかじめ同級の人たちだと決まっているはずだった。何せ、同じ学級であるなら、みんな同じ布団の上で寝ているに違いなく、実際に、それさえ一つの共同体として存在していたのだから。   そんな状況に気付いたとき、私の頭には突然、一種の冷気のようなものが流れ込んできた。そのひやりとしたのは、私の胸を大げさに引き締めた。まるで、太陽が燦燦と降りしきる真昼間に吹いてくる、突然の秋風のようなものに、私の眠気はいくらか覚めて、その布の塊から足を引っ込めさせた。なぜかといえば、私が先ほどから足の先で触れていたのは、同級の中でも一番に関わりの遠いやつ、そして私が一方的に避けているやつだったのだ。依然として爪先には、あいつの体温と弾力が残っている。私には、それがある大事件の有力な証拠のように思われた。彼という人間は、私の嫌いな人格像にことごとく当てはまるような性質で、教室の中でもいちいち私の神経を逆立てていたのであった。だからもし、そんなやつを起こしてしまって迷惑をかけたとなれば、一大事ではないか、そういう消極的な気分が内から湧いてきて、私はつい咄嗟に足を折り曲げて元の姿勢に戻ると、そっぽを向いて目を瞑り直した。瞼を閉じると、すべて、深夜のような暗さに包みこまれた。確か、昨夜もこの姿勢で眠りに入っていたはずだった。よくよく考えてみれば当然だ。私たちは一枚の大きな布団にそれぞれ場所を与えられるべく、平等にそれを有していて、それぞれがなるべく心地よく寝られるように、あるいは迷惑をかけないがために、ちぢこまって寝ているのだ。しかし、今の私としてみれば、鈍いことにも伸びをしようとして、さらには贅沢に寝返りまで打って、もし今、それで誰かが起きて、辺りをきょろきょろと見回していたらどうしよう。知らんふりをして、傲慢にも狸寝入をしている私がその原因だと知らしめたとき、一体私はどう生きていけば良いのだろう。。。 私はますます強く目を閉じた。    ̄ ̄ ̄幸いにも、それは気付かれなかったようだ。 私は瞼の裏から、誰も起きた気配のないことを確認した。 私が起きて何をしたか知る者はいない。 気付かれなかった、気付かれなかった。気付かれない、、、 私は、その事実に幾許か安堵を覚えたと同時に、更に安堵と成功を感じられる案を思いついた。もちろん、布団にいるのは、あの嫌なやつだけではないのだ。当然ではあるが、同級生が全員眠りについているならば、私の好きな人もそれと同じ布団で寝ているはずだった。そして、恋をしたことがある人ら皆に共通するように、その対象の容姿をじっくりと見てみたいという点では、私もその一概にすぎなかった。出来ることなら、死んでしまったように横たわった身体と、ぴくりとも動かず閉じきってしまった瞳をようようと観察したい。そのときの私の頭はそんな気概でいっぱいになってしまっていた。まるで、子供が大人にばれないように用意周到に悪戯をするときのように。あるいは、任務を託されたどこかのスパイが、危険すれすれで敵のアジトに潜入するときのように。自身にとって重大な成功を追及する、心地よい緊迫感の虜になってしまっていた。  私がもう一度目を開けたとき、汚い天井と、それに吊り下げられた電球が、ぼんやりと映った。私はすぐさま自分の寝ていた布団を見渡した。意外なことに、同級生の姿は一つもなかった。それどころか、その布団はそれらを十分に収めるほどの大きさのものでもなく、私一人がぴたりと入りきる丁度の大きさであった。そのため、私にはある絶望が押し寄せてきた。。。  私は一刻も早く、求める姿を見つけなければいけないような気がした。のんびりしていては、霧の如く姿を隠して、一生涯会えないようにさえ思われた。私は、子鹿のようなおぼつかない足取りで無理やり体を立たせると、床へ足を下ろし、前方へ歩みはじめた、途端、膝から力が抜けて崩れ落ち、そのまま体を強く打った。私は言いようもない情けなさに打ちひしがれると共に、そのときになってはじめて、輪郭の濃く、明瞭で判然とした視界を取り戻した。しかし、その頃にはもう遅かった。今私が転んでしまった衝撃で、あの人の体は儚くも散ってしまったのだということを、私は振り返る前に感じとってしまった。私の意志は遂にここで潰えた。  私は冷たくざらざらとした床に手をつき、膝をついて立ち上がると、また布団の方を向き直した。そこには、いつも通りの薄汚い部屋に押し込められ、よれよれに萎れた布団が温もりを保ったまま横たわっていた。

2
0

【第九回N-1】  警報

通知   from:気象庁 大雨警報(土砂災害):◼︎◼︎市⚪︎⚪︎町付近では、過去数年間で           最も土砂災害の危険性が高まっています。           特に⚪︎⚪︎町では台風第8号のとき以来で           最も土砂災害の発生するおそれが           高くなっています 携帯電話を鳴らしたその通知は突然で、何より奇妙だった。今、たしかに雨は降っているがそれは傘を差す必要がないほどの強さで、せいぜい水たまりを作るくらいであったし、私のいる場所が山と隣り合わせだからといって、今までその山では土砂崩れやら何やらは起こったことがなかった。  私はこれが何かの間違いだとしか思うことができなかった。そういえば、山の向こう側にある別の市は、ここより激しい雨が降ると天気予報のキャスターが言っていたのも思い出した。しかし、⚪︎⚪︎町は今まさに私がいるところで、自宅のある場所でもあった。私は画面に映る“警報”の二文字に何だか不安になって、いっそう家へ帰りたい気持ちを募らせた。  横を見た。時刻表によると、次のバスは二十分後であった。私は先ほど行ってしまったのに乗りそびれて、五分ほど前から待合所の屋根の下のベンチで次のバスを待っているのであった。バスは行ったばかりであったし、元々人のいる地域ではないから車通りも疎らで、辺りには誰も見えなかった。遠くに見える寂れた商店はシャッターを閉め切っていて、屋根の低い民家も、中に人がいるのかいないのか灯りが消えて何物の気配も感じさせない。雨は相変わらず、目の前の水たまりに弱々しい波紋を広げていた。 通知   from:不明 水飛沫警報:市営バス[〇〇山道入口]付近では、       午後四時四十八分から       水飛沫に遭遇する危険性が       最も高くなっています       対象の地域の方は       予備の着替えやタオルなど       十分で適切な処置の準備を       進めてください。       携帯電話を鳴らしたその通知には、確かに「水飛沫警報」と書かれてあった。[〇〇山道入口]というのは私が今いるバス停の名前であったが私に分かることはそれだけで、それ以外のことが分かったのは、目の前を灰色の車が通り過ぎた後だった。 私が車の音に気付いたころ、ついさっきまで眺めていた水たまりに黒いタイヤがビシャッと激しいしわを走らせた。その瞬間、私のズボンの裾に水飛沫が飛びかかった。途端、足首が重く冷たくなって、その冷たいのが土踏まずまで流れて染み込んだ。今日はツイていない。そう思ったとき、また携帯電話が鳴った。 通知    from:不明 謝罪警報:市営バス[〇〇山道入口]付近では、      午後四時四十九分から      謝罪に遭遇する危険性が      高まっています。      特に二十代男性で、      直近に靴下を濡らした方は      よりいっそうの警戒が必要です。  私はこの通知を見て何が起こるかを何となく予想してしまった。今までの手法通りだと、おそらくこの後、誰かに謝罪されるのであろう。そして今の状況から察するに、あの灰色の車の運転手が水飛沫のことで私に謝ってくれるのだろう。 私は、この不気味な“警報”にすっかり慣れてしまっていることに気付いた。勿論こんな通知が来るのは生まれて初めてのことであったし、普段冷静なときであれば真っ先に疑って相手にもしないだろう。しかし、送られた通知の内容をもう一度よく確認しようとすると、読み返さない内にまた新しい通知が送られてきて、そして“警報”という名のそれらは、ことごとくこれから起こることを言い当ててしまうのだ。だが、そんな未来予知とも言える“警報”は、私の不快な気分を掻き消して次第に興奮を与えてきているのだった。さあ、今に見てみろ。どうせ、直に向こうから誰かが私のところへ来て、懇切丁寧な謝罪をしてくれるのだ。そして、その誰か、というのはついさっき私に“警報”どおり水飛沫をかけた灰色の車の持ち主張本人なのだ。 私は、車の曲がった角から人が現れるのを首を長くして待っていた。しかしそれの現れない内に、また携帯電話が鳴った。 通知    from:不明 【発表中の警報が一部解除】             先ほどの謝罪警報の発表は             手数違いだったことが判明し             解除されました。             対象の方、特に日頃から             警報を期待されていた             方に関しては、ご迷惑を             お掛けして申し訳ありません。 その通知を読んだ瞬間、私は予想外のパターンに拍子抜けするでも、予測が外れたことを悔しがるでもなく、口元にわずかな微笑を浮かべた。まるで、いたずら好きの子供の顔を、上から眺めるときの親のような気分だった。こんなとんちみたいなことをするのか、警報が解除されたから私の元へ謝罪が訪れる可能性はなくなったけれど、逆に、既にそのメールの中で謝罪は行われているじゃないか。 私のズボンは濡れたままで、灰色の車もそれに気付いているのか知らないが、どこかへ行ってしまった。普段ならどうしようもなく苛立っているだろう、が、今の私の心はそれのつけ入る隙がないくらいに“警報”というものに興味を抱いてしまっているのだ。次の警報が待ち遠しくして仕方がない。たとえば「美人警報」というのはどうだろう、それを読んだ瞬間隣のベンチに美人が座ってくれる、とか。いや、それは俗っぽいな。「流星警報」とかはどうだろう、ここは灯りも少ないし、夕焼けのオレンジ色に星が流れたらどれだけロマンチックだろう。それなら俗っぽくても隣に美人がいたほうがいい。私の胸は楽しみで埋め尽くされてきた。「大金警報」、「成金警報」、「宝くじ大当り警報」、なんてのがあっても良さそう。そんな通知で着信が鳴ったら、今までのどんな警報よりも嬉しいだろう。 そんなことを考えている間、雨は次第に弱まって、夕焼けは以前よりも濃さを増してきていた。向こうの一軒家の一階に灯りがついたのが見えると、その家の前をビニール傘を差した学生が通り過ぎた。そして、その後からランドセルを背負った小さな子供が走って追って行った。その子が学生の元へ追いついて傘に入ったのが見えた頃、遠くの学校から五時のチャイムが聞こえた。  バス停の裏の草むらから漂う青臭い香りは、もうそろそろ来る春の香りだった。ああ、「迎春警報」なんて良いな、今の私にはそれで十分だ。そう思ったとき、携帯電話が鳴った。 通知    from:不明 【死亡警報】:       [〇〇山道入口]のベンチにお座りの        坂本 博己 さんは、五時二分頃        死亡する危険性が高まっています。               ちょうど、雨がまた激しく降りはじめたときだった。

4
0

宇宙ざくろ入門

宇宙ざくろを食べたことがありますか? ない? それなら教えましょう、その果実の採り方を。 先ず、それは街のスーパーでは買えません。もちろん八百屋でも。南方のフルーツまで売っているような、評判の高いあの二丁目の八百屋にも、それは置いてありませんでした。 とりあえず、それを買おうとするなら、あなたの惑星の内ではとうてい無理でしょう。しかし仮に、もしあなたが地球の中で五本の指に入るほどの金持ちなら、銀河横丁青果店の出張販売で買うのも悪くはありません。(18年に一回来ます)あそこは地球の全植物とも比にならないほどの品揃えです。だけれど、宇宙通貨への両替にはひどい手数料がかかるし、袋詰めされた宇宙ざくろは鮮度にも見た目にも欠けるから、おすすめしたくはありません。だから、あなたが宇宙でも特別貧しかったり、或いはみずぼらしい地球の中でもごく一般人なら、これから私が言う方法をよく覚えておいてください。  場所はどこであろうと問いません。あなたの家の庭先でもベランダでも、河川敷の土手の斜面でも、たとえ身動きのとれない満員電車の中でも大丈夫です。 とにかく、夜空の見える場所を選んでください。 直接見えるのは無論結構、ガラス越しに見えるのでも構いません。ですから、本当に、夜空さえ見えれば大丈夫です。しかし夜空といっても、明かりの多すぎるといけません。夜空が十分に暗くて、星の見えるところに宇宙ざくろは為ります。目安としては、月の輪郭がはっきりとして、雲は清純、冬ならオリオン座がはっきり見えるくらい。これ以上きれいな夜空が見えるようなら、文句のつけようはありません。 そして肝心の宇宙ざくろですが、この果実に旬はありません。年がら年中、どの季節に採れたものでも味は上等です。しかし、あなたのような初めての方に食べていただくなら、やはり真夜中に採れたものをおすすめします。西に夕陽の影が残っているようならまだ早いし、東に朝焼けが滲んでいるようなら少し遅いです。空一面が真っ暗になって、宇宙をそのまま映している ときでなければ、立派な宇宙ざくろは採れません。 (まあ、通な人たちはわざわざ時間をずらして、 その渋みや酸味を楽しんだりもします。 私の父は昼間のものまで採ったりしました。)  さあそして、黒い幕のような空と、そこに散らばる星々を前にしてあなたがやることはただひとつ。宇宙ざくろの採り方です。しかし焦ってはいけません。慌てずに息を吐いて、静かに空を眺めてみてください。  いったい、空高くで果てしなく自分を包み込む黒色は、平らなのか、丸いのか、そしてその奥にどれだけの星が隠れているか、  そんな風にあなたが自分の小ささを身一杯に感じたとき、黒い空に一筋、まるで今にも割れそうな水風船に小さく鋭い刃物を滑り込ませたときのように、ぴゅっと、白く短い線が横切ります。宇宙ざくろを採らない人にとってはただの流れ星、しかしあなたにとってみればそれこそ収穫の絶好の合図です。  流れ星の通った跡の下に両手で器を作って待っていてください。直にその切れ痕から、堪えきれなくなった星々の欠片がみるみる内に、煌びやかな輝きを保ちながら、あなたの掌へ向かってじゃらじゃらと流れ込んでくるでしょう。 あなたの掌がまばゆい光の種々でいっぱいになったら……  そこから先はもう言う必要はないでしょう。  ほら、もうすぐ、空を見上げてみてごらんなさい。    あっ!ほらっ!あそこ!  今、白い光を出しながら進んでったやつ!  いやだなあ。あれはただの飛行機だよ。  焦っちゃだめだって言っただろう?

5
0

捜索

私は、くすんだ紅色の扉の前に立ち、チャイムを二三度押した。電子音が繰り返し流されるが、中から誰かが出てくるような気配は一向にない。  誰か、、というのも、三日前から職場に現れず、連絡も取れなくなった同僚のことが気になって、休日にこうしてわざわざ足を運んだのだ。相変わらず扉が開く様子もないため、私は持て余して、部屋の前で彼に電話をかけたが、中からうっすらと着信音が聞こえるだけだった。もちろん、他の友人も彼の行方は知らないし、隣人に尋ねても、どうやら何も知らないようだった。  依然として紅いままの扉に、私はだんだん苛立ってきた。あいつに何かあったのか?まさか居留守を使っている訳でもあるまいし、悩み事だってないような男だ。  私は電話も切ってしまって、最後に、ドアノブを乱暴にガチャガチャと動かした。開かなかった。まあ仕方ない。明日もとりあえず来てみて、それでも駄目だったなら警察にでも行こう。元々これも捜索というよりは、いない、という確認の作業にすぎなかった。私は、彼がこの家にいるとは思っていなかったのだ。そうして、私は部屋の前から去ろうとした。すると、彼の郵便受けにすこしだけ隙間が開いていて、中に数枚の紙が入っていた。そこには、罫線をはみ出して書かれた、汚い文字の羅列があった。 「私を探しに来てくれたあなたへ  将田 正二 先ずはじめに、『あなた』と書きましたが、別にあなたがこれを読まなくても構いません。本質は読んでもらうことにありませんから。しかし、非常に申し訳ないのですが、ただ一つ頼みたいのは、私の行方不明の理由を、夜逃げ、ということにしておいてほしいのです。別に理由は他に何でもいいです。そんなことにこだわりません。しかし、頼んでおいて折角ですから、あなたには本当の理由をここに書き記しておこうと思うのです。  二日前、私は電車の中でとある人に出会いました。それが理由です。見た目がどうとか、詳しいことは書きません。あなたたちが変な気を起こしてしまえば大変ですから。。。 とにかく、その出会いが私の今までの人生の至上であったことには違いありません。あの人が目の前に現れた瞬間、私はこれまで何を見つめて過ごしていたのかを思い出せなくなってしまいました。 私のこの一目惚れ(そんな軽々しいものではないように思えます)の前では、恋も愛もそんな名前を持つはずがありません。 今も、一人でこうやって文字を書いているのがどれだけ意味のなくて、くだらないことなのか、身に染みるほどよく分かります。あの人のいない生活が空しくて仕方ありません。今思えば、あのとき、電車の中で一言でも話しかけてしまえば、これほど悩みはしなかったような気がします。しかし想像してみてください。そんなこと出来るはずもないでしょう。私はあのとき指先を動かすことさえできず、半ば死んでしまったかのようにじっと座り尽くしていたのですから。でも、あなたが思うのとは違って、確かにそのとき、私の心は満ちに満ちていました。心の奥底の、もわっとした不安が全て溶けて蒸発していました。だからこそ、あの人がいなくなったあとの私の空しさもよく際立つのです。 今すぐにでもあの人の元へ行きたい。私の周りのもの全てを捨ててしまっても、あの人に会いたい。あの人が今どこにいて、私を覚えているかどうか、そんなこと最早どうだっていい。私にはあの人が必要だ。おそらくそうに違いない。ええそうでしょう。今から会いに行きます。 そろそろ失礼します。きっと、あなたは私のことを馬鹿げていると言うに違いありません。しかし、あなたは決してそんなこと言えるはずもないのです。あの人に会ってすらいないのだから。もし、あなたが私を連れ戻そうとする日常がそれほど魅力的であると言うのなら、私に教えてほしい。想像するだけで胸が熱く燃え萎むような、背筋にミミズが這ってしまうような、目玉が鼻まで垂れてしまうような、そんな、魅力の漲る方を!」 私は、その幾枚かの紙を文字が見えなくなるまで入念に千切ってしまうと、郵便受けに戻し、指先で奥底へぎゅうぎゅうに潰して詰めた。これで捜索は終わった。どうやら彼は夜逃げしたらしい。

5
0

第8回N-1 「運命」

冬の電車にいると、やけに乾いた暖房の風と 人々の厚いコートのせいで、いやに火照ってしまって、 夕立を残した雲の下、風邪を引いたような気分になる。 ふと窓の遠くを見ると、住宅地のその奥に霞んで青く光る 名前も知らぬ峰々が赤く鮮やかな夕日に侵されかけている。  私は今、ありきたりな感傷に浸っている。 断られた、彼への告白。 理由までありきたりで、「他に好きなひとがいるから」 別に、悲しいとか、胸が苦しいとかいうのはない。 なぜなら、そういうのは好意を告げる直前に まとめておおきくなって襲ってくるから。 私は、夕焼けにあのときの光景を重ね合わせる。 すでにぽつぽつと雨が降りはじめていて、 白というよりかは、重い鉛色に沈んだ雲の広がる天気。 刑事ドラマか何かなら、殺人でも起こってしまいそう。 私は、どうせ告白だっていうことは知っているくせに、 あたかも何も知らないように取り繕う彼に向けて、 「好きでした。付き合ってください」とだけ言った。 それを告げたあと、私の体からは力が抜けた。 それからの行動は、彼の言葉によって決めるだけで、 ここから先には、葛藤も何も、私を惑わせるものはない、 そんな考えが、無意識に私の気力を奪ってしまったのだ。 だから、返事を聞いたときにはもう、感情の起伏なんかは とっくに過ぎ去ったものになっていて、断りの文句と、 私を傷つけまいと、あるいは自分の印象を保とうとして つらつら述べられた理由は、もはや私の興味の外にあった。 「私から告白したけれど、もう彼には興味はないわ」 なんて、言ってしまえば、ただの負け惜しみのようにしか 聞こえないけれど、それくらい今の私は虚無なのだ。 ああ、ドアが開くと一気に風が入ってきて、途端に寒くなる。 彼への好意と煩いが消え去った今の私には、 もう何も残っていないのだ。失恋という言葉さえも。 虚無の奥底で湧き出るのは、何にも対する苛立ち。 そんな私に、献血の広告のモデルが微笑んでくる。 『あなたの力で、運命が変わる人がいる』 ああもう、本当にたまったもんじゃないわ。 よく漫画とか小説とかテレビで使われるその安っぽい言葉。 恋愛にでも生死でも、何にでも結びつけられる言葉。 【運命】 う−[運命]……自分の力では変えにくい、あらかじめ         決まっている流れや出来事のこと。 ああ馬鹿げている。笑ってしまうくらいに。 もしもそんな言葉を作った人が目の前にあらわれたら、 すぐさま引っ叩いてしまいたい。 もし本当に運命なんてものがあるとするなら、 私は、それを、憎む。 だって、最初から何もかも決まっているというのなら、 私の恋も悩みも、結局はこの悲惨な虚無に向かって 馬鹿みたいに突き進んできたっていうことになるじゃない。 そんなの、あまりに、残酷すぎる。 運命なんてそんなものはない。 運命というのは結局、舞台劇や芝居好きが 自分の生活までも、その一部だと勘違いして、 そんな、くだらない思い上がりの結果生まれた 幼稚なロマンチシズムの象徴だ。もうやめにしよう。 こんなことを考えている間、すっかり人は降りてしまった。 学生の話し声も、眠っていた人の咳の音も、ぜんぶ途中の駅で 降りてしまって、線路の音が鳴り響いているだけだ。 私もそろそろ降りなくちゃ、 空の低いところさえ、まだ朱色が滲んでいるけれど、 日もとうとう沈んで、東に見えるあれはオリオン座かしら、 街の電灯も灯りはじめた。 プラットフォームに降りた私は振り返る。 ああ微笑みのモデルさん。 運命があるなら私に教えて、 電車が駅に停まるのも運命? 綺麗な夕焼けの太陽が沈むのも? あるいは、私の失恋も? それなら天気予報みたいに占って。 私の次の行く末を、運命を。 できるでしょう?

5
0

波打ち際

砂浜にはずっと、波が押し寄せていた。 砂を崩しては埋めて、何回も何回もやっていた。 海には、まったく人も船もいなかった。 東京の学生は、この海の近い家へ帰っていた。 学生は大抵、この場所で休みの大半を過ごすのだ。 昔はこの場所もよく栄えていたが、 今は港の網も朽ち果てて、道も散々荒れていた。 学生の家から海へ行く道には、 そんな、脇から高い草が覆いかぶさって、 たまたま、トンネルのようになっている場所があった。 学生は、この場所を自分しか知らないと信じている。 海へ遊びに行くときも、密かな楽しみにしていて、 もちろんそれを誰かに話したりすることはないし、 そこへ誰もいないのを見ると、誇らしい気持ちになるのだった。 その日も学生は、朝から海まで出かけて、泳いだり 魚や蟹を捕まえたり、ぶらぶらして時間を潰すつもりだった。 しかし今日、学生はあの場所で一人を見つけた。 学生は、何でもないように装ってその横を通り過ぎた。 若い女、だいたい学生と同じくらいの歳かもしれない。 麦わら帽に白いワンピースを着て、道の片側に座っていた。 学生がそこで人を見るのは初めてといっても良かった。 しかも若い人間などは、この街にはもう殆ど残っていない。 だから、そんな人がいるなら、必ず学生の知り合いなのだ。 しかし学生に、あの顔に見覚えはなかった。 学生は、少しはそれに戸惑ったけれど、 海へ行って波を浴びるうち、あの女のことは忘れた。 学生は今日も、日が沈みはじめた頃に家へ帰った。 帰り道、あそこは灯りがないから、少し気味悪いのだ。 ただ、今日はそこにワンピースの白色が目立っていた。 学生は驚いた。彼女が一日中そこへ座っていたことにも、 または、夕日の橙に染まった彼女の頬の美しさにも。 学生はたまらず彼女に声をかけた。 「ここらはとても暗くなるから、はやく帰りな」 ただ女は、何だかよく分からない頷きをして まだそこに座り続けていた。動く気配すらない。 学生はこれ以上何か言うのもお節介な気がして、 「まぁ、それじゃ」と言って、草のトンネルを抜けた。 もう星が、ちらちら見えはじめている頃だった。 学生は次の日も、海へ出かけた。 あの女も、昨日と同じ場所で座っていた。 学生はまた同じように、彼女を気にも留めないように、 知らないふりをして横を通り過ぎた。 ここら辺は、学生の故郷であった。 学生が高校へ進学するとき、彼はその近くへ引っ越した。 幼い頃から見続けていた海が、電車の窓から 静かに消えていってしまうのを学生は未だ覚えている。 赤ん坊のときから、母に連れられ海へ遊びに行くときは 必ずあのトンネルをくぐっていたのだった。 潮の香と風の流れを感じると、いつもその気分になる。 学生は、海が好きだ。 その日の夕も、その次も、さらに翌日も、 彼女は変わらずそこで座っていた。 学生がどれだけ朝早く海に来ても、どれだけ遅く帰っても 彼女はずっとそこで座っているだけだった。 そういう内に、学生の休みは終わりに近付いていた。 そんな休みの最後の夕、学生は彼女の横へ座った。 「明日、東京へ帰るんだ、毎日何をしていたんだい」 海の奥の方で、さそりが顔を出していた。 「別に、ただいるだけよ。 あなただって海に行くのに、大した理由もないでしょう? あなたが帰るなら、私もあした帰ろうかしら」 「帰るってどこへ?次はいつ、ここへ来るつもりなんだ」 「さあ、 私も分からない」 彼女は微笑みながら俯いた。透き通るような声だった。 学生は、それ以上何も話さなかった。 ただ、いつの間にかいつもの帰路についていて、 彼女もいつも通りに座っているだけだった。 次の日、学生はまた海が遠ざかっていくのを見た。 車窓には、いつもの海が変わらず見えていた。 田んぼと砂浜の間の、少し緑が覆っているところで、 あのワンピースが潮風に揺られているのか、 それとも、夕日に頬を赤く染めているのか、 学生に確かめる術はなかった。

2
0

島の夏椿と入道雲

島では梅雨が明け、陽射しの照りが日に日に増していた。 小さな夏椿の花は、空を眺めていた。 竹藪の遠くに、入道雲が浮かんでいるのだ。 冬の薄くて高い雲とも違う、雲の中にできた陰影が 一番下から上の方までもこもこ盛り上がっているのは、 遠くから見てもどれだけ大きいかは十分に分かるのだ。 そんな迫力のある立体的な雲が、水色を背景に 空の一部として、絵のようにひとつ、平らになっているのが 不思議で不思議で、しかしどこか不気味で堪らなかった。 夏椿はずっとずっと、その入道雲を眺めていた。 風に流され視界の端に消えていってしまっても、 また戻ってくるか、よく似た雲が新たに出てくるのだ。 いつしか日が暮れ、風向きも変わり始めると、 大抵左へ流れていた雲が、夏椿の方へゆっくり進んできた。 夏椿は最初こそ、その近付くのに気付かなかったが、 雲の陰影が次第に鮮明に現れ、雲の下が覗け始めたので ようやくそれに気付いた。 昼間の夏椿は、恐らくそんなのに喜んだであろう。 しかし、今の夏椿は、赤い夕焼けを後ろに、 輪郭を赤紫と桃色に染め上げて、 昼間の白色を灰色に変えてしまったあの雲を 恐ろしく不気味に思う他なかった。 雲の真下に入っては、もこもこした高さも見えないし、 美しく、壮大な迫力も消え失せてしまっているのだ。 夏椿は、ただその雲を見上げていた。 その夜、島に雨が降った。 季節の移り変わりを象徴するような、突然の雨だった。 一つ一つの雨粒が重く、激しく、島の地面を叩き鳴らした。 島の生き物たちはそれぞれ雨に洗われ、 隆々とした体は、これからはじまる夏、 あるいは生命の一瞬の輝きを予感させるのだった。 夜が明けると雨は止み、雲は流れ、 何事もなかったかのように青空が広がった。 竹の葉から滴る、朝露か雨かも分からぬ水は 地面に大きな水たまりを作っていた。 そこには青空が映され、 白い清楚な花弁が静かに浮かぶだけだった。

2
0

盲愛の踊り

学生は、誰もいない校内を跳ねながら歩いていた。 それは恍惚というのか、陶酔というのか、 とにかく、意識もはっきりしないで、嬉しさだけに 踊りのようなおかしな歩き方をしていたのである。 学生は、一種の狂人であろう。 彼は怠惰なくせに、ひとつのことに執着すると それからは、ずっとそれだけに身を注ぐ性分であった。 それは、恋愛だとか何だとかにも変わらない。 彼が妙な踊りをしているのには訳があった。 彼はいつからか、一人の女に執着しはじめた。 どれだけそいつが醜く、汚い性格の持ち主でも、 学生は、ずっと彼女に目を奪われ、四六時中それを考えていた。 実際、学生のノートには彼女のスケッチが何枚もあったし、 彼女の最寄駅や、乗って来る電車の時間なんかも把握して、 異常なまでに付き纏うようになっていたのだ。 しかし、学生はそんなひね曲がった心意気だからか、 彼女と話すことはほとんどなく、性格については 学生の理想と想像だけで考える他なかった。 それでも、学生はやはり彼女が好きでいて、 おそらく、彼女の顔を詳細に写した彫刻でもあれば 学生は満足して、彼女に付き纏うのはやめたであろう。 つまり、彼女の本質などに、学生の興味は向かなかったのだ。 この建物の中にいるのは、この学生と何人かの教職員だけだ。 学生は遂に学校中を我が物にしてしまったかのような 満足感でいっぱいだった。今、学生を呼び止め叱るものはいない。 革靴のまま廊下に出ると、奇妙なリズムを刻みはじめた。 カタッタタトトトントン、カタッタタトトントントン... 誰もいない教室の床に、風で揺れるカーテンの影が映るのを見ると その踊りはいっそう激しくなって、三度高く飛び跳ねると 学生は肩で息をして、そこらにある椅子に腰掛けた。 学生は、突き止めたのだ。 学生にとって、それは彼女の秘密を知るのに等しく その行為がどれだけくだらないことだとしても、 学生の愛情の矛先を向けるために仕方のないことだった。 学生は、奇妙な踊りの通り道を引き返して階段を降りた。 四桁の数字を口ずさみながら一階に着くと、 ロッカーの並ぶ玄関へ来た。 そこには全校の生徒のロッカーがあって、 勿論、学生のロッカーも彼女のロッカーもあった。 それぞれに靴だとか教科書だとかが仕舞われてあって、 学生は、わざわざ休日にこの校舎へ忍び込み、 彼女のロッカーの番号を、ひとつひとつ手当たり次第に 調べていたのである。 0000から始まり、0001、0002、 遂に710番目でつまみが九十度回った。 その瞬間、今まで学生が戸しか見えなかった奥に 彼女の私物の広がるロッカーを目の当たりにしたのだ。 彼女の上履き、名前の薄く書かれた用紙、あるいは菓子の袋 それらは学生の卑猥だったり我儘であったりする 妄想をことごとく掻き立てるのに十分だった。 学生はそれがあまりに嬉しくて、奇妙な踊りをしながら ひとつひとつの妄想を思い浮かべて、校舎を巡っていた。 学生は、それが全て叶うのが嬉しくて、堪らなかったけれど 彼にはそれで十分であり、実際、満足感で一杯であったため 何もせず戸をそっと閉め、ダイヤルを元に戻すと 誰もいない校舎を後にした。

4
0