後川

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後川

遅筆です。フォローしてくださる方 本当にありがとうございます。 第七回N−1 12位  435点 第八回N-1 9位  318点

捜索

私は、くすんだ紅色の扉の前に立ち、チャイムを二三度押した。電子音が繰り返し流されるが、中から誰かが出てくるような気配は一向にない。  誰か、、というのも、三日前から職場に現れず、連絡も取れなくなった同僚のことが気になって、休日にこうしてわざわざ足を運んだのだ。相変わらず扉が開く様子もないため、私は持て余して、部屋の前で彼に電話をかけたが、中からうっすらと着信音が聞こえるだけだった。もちろん、他の友人も彼の行方は知らないし、隣人に尋ねても、どうやら何も知らないようだった。  依然として紅いままの扉に、私はだんだん苛立ってきた。あいつに何かあったのか?まさか居留守を使っている訳でもあるまいし、悩み事だってないような男だ。  私は電話も切ってしまって、最後に、ドアノブを乱暴にガチャガチャと動かした。開かなかった。まあ仕方ない。明日もとりあえず来てみて、それでも駄目だったなら警察にでも行こう。元々これも捜索というよりは、いない、という確認の作業にすぎなかった。私は、彼がこの家にいるとは思っていなかったのだ。そうして、私は部屋の前から去ろうとした。すると、彼の郵便受けにすこしだけ隙間が開いていて、中に数枚の紙が入っていた。そこには、罫線をはみ出して書かれた、汚い文字の羅列があった。 「私を探しに来てくれたあなたへ  将田 正二 先ずはじめに、『あなた』と書きましたが、別にあなたがこれを読まなくても構いません。本質は読んでもらうことにありませんから。しかし、非常に申し訳ないのですが、ただ一つ頼みたいのは、私の行方不明の理由を、夜逃げ、ということにしておいてほしいのです。別に理由は他に何でもいいです。そんなことにこだわりません。しかし、頼んでおいて折角ですから、あなたには本当の理由をここに書き記しておこうと思うのです。  二日前、私は電車の中でとある人に出会いました。それが理由です。見た目がどうとか、詳しいことは書きません。あなたたちが変な気を起こしてしまえば大変ですから。。。 とにかく、その出会いが私の今までの人生の至上であったことには違いありません。あの人が目の前に現れた瞬間、私はこれまで何を見つめて過ごしていたのかを思い出せなくなってしまいました。 私のこの一目惚れ(そんな軽々しいものではないように思えます)の前では、恋も愛もそんな名前を持つはずがありません。 今も、一人でこうやって文字を書いているのがどれだけ意味のなくて、くだらないことなのか、身に染みるほどよく分かります。あの人のいない生活が空しくて仕方ありません。今思えば、あのとき、電車の中で一言でも話しかけてしまえば、これほど悩みはしなかったような気がします。しかし想像してみてください。そんなこと出来るはずもないでしょう。私はあのとき指先を動かすことさえできず、半ば死んでしまったかのようにじっと座り尽くしていたのですから。でも、あなたが思うのとは違って、確かにそのとき、私の心は満ちに満ちていました。心の奥底の、もわっとした不安が全て溶けて蒸発していました。だからこそ、あの人がいなくなったあとの私の空しさもよく際立つのです。 今すぐにでもあの人の元へ行きたい。私の周りのもの全てを捨ててしまっても、あの人に会いたい。あの人が今どこにいて、私を覚えているかどうか、そんなこと最早どうだっていい。私にはあの人が必要だ。おそらくそうに違いない。ええそうでしょう。今から会いに行きます。 そろそろ失礼します。きっと、あなたは私のことを馬鹿げていると言うに違いありません。しかし、あなたは決してそんなこと言えるはずもないのです。あの人に会ってすらいないのだから。もし、あなたが私を連れ戻そうとする日常がそれほど魅力的であると言うのなら、私に教えてほしい。想像するだけで胸が熱く燃え萎むような、背筋にミミズが這ってしまうような、目玉が鼻まで垂れてしまうような、そんな、魅力の漲る方を!」 私は、その幾枚かの紙を文字が見えなくなるまで入念に千切ってしまうと、郵便受けに戻し、指先で奥底へぎゅうぎゅうに潰して詰めた。これで捜索は終わった。どうやら彼は夜逃げしたらしい。

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第8回N-1 「運命」

冬の電車にいると、やけに乾いた暖房の風と 人々の厚いコートのせいで、いやに火照ってしまって、 夕立を残した雲の下、風邪を引いたような気分になる。 ふと窓の遠くを見ると、住宅地のその奥に霞んで青く光る 名前も知らぬ峰々が赤く鮮やかな夕日に侵されかけている。  私は今、ありきたりな感傷に浸っている。 断られた、彼への告白。 理由までありきたりで、「他に好きなひとがいるから」 別に、悲しいとか、胸が苦しいとかいうのはない。 なぜなら、そういうのは好意を告げる直前に まとめておおきくなって襲ってくるから。 私は、夕焼けにあのときの光景を重ね合わせる。 すでにぽつぽつと雨が降りはじめていて、 白というよりかは、重い鉛色に沈んだ雲の広がる天気。 刑事ドラマか何かなら、殺人でも起こってしまいそう。 私は、どうせ告白だっていうことは知っているくせに、 あたかも何も知らないように取り繕う彼に向けて、 「好きでした。付き合ってください」とだけ言った。 それを告げたあと、私の体からは力が抜けた。 それからの行動は、彼の言葉によって決めるだけで、 ここから先には、葛藤も何も、私を惑わせるものはない、 そんな考えが、無意識に私の気力を奪ってしまったのだ。 だから、返事を聞いたときにはもう、感情の起伏なんかは とっくに過ぎ去ったものになっていて、断りの文句と、 私を傷つけまいと、あるいは自分の印象を保とうとして つらつら述べられた理由は、もはや私の興味の外にあった。 「私から告白したけれど、もう彼には興味はないわ」 なんて、言ってしまえば、ただの負け惜しみのようにしか 聞こえないけれど、それくらい今の私は虚無なのだ。 ああ、ドアが開くと一気に風が入ってきて、途端に寒くなる。 彼への好意と煩いが消え去った今の私には、 もう何も残っていないのだ。失恋という言葉さえも。 虚無の奥底で湧き出るのは、何にも対する苛立ち。 そんな私に、献血の広告のモデルが微笑んでくる。 『あなたの力で、運命が変わる人がいる』 ああもう、本当にたまったもんじゃないわ。 よく漫画とか小説とかテレビで使われるその安っぽい言葉。 恋愛にでも生死でも、何にでも結びつけられる言葉。 【運命】 う−[運命]……自分の力では変えにくい、あらかじめ         決まっている流れや出来事のこと。 ああ馬鹿げている。笑ってしまうくらいに。 もしもそんな言葉を作った人が目の前にあらわれたら、 すぐさま引っ叩いてしまいたい。 もし本当に運命なんてものがあるとするなら、 私は、それを、憎む。 だって、最初から何もかも決まっているというのなら、 私の恋も悩みも、結局はこの悲惨な虚無に向かって 馬鹿みたいに突き進んできたっていうことになるじゃない。 そんなの、あまりに、残酷すぎる。 運命なんてそんなものはない。 運命というのは結局、舞台劇や芝居好きが 自分の生活までも、その一部だと勘違いして、 そんな、くだらない思い上がりの結果生まれた 幼稚なロマンチシズムの象徴だ。もうやめにしよう。 こんなことを考えている間、すっかり人は降りてしまった。 学生の話し声も、眠っていた人の咳の音も、ぜんぶ途中の駅で 降りてしまって、線路の音が鳴り響いているだけだ。 私もそろそろ降りなくちゃ、 空の低いところさえ、まだ朱色が滲んでいるけれど、 日もとうとう沈んで、東に見えるあれはオリオン座かしら、 街の電灯も灯りはじめた。 プラットフォームに降りた私は振り返る。 ああ微笑みのモデルさん。 運命があるなら私に教えて、 電車が駅に停まるのも運命? 綺麗な夕焼けの太陽が沈むのも? あるいは、私の失恋も? それなら天気予報みたいに占って。 私の次の行く末を、運命を。 できるでしょう?

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朝ぼらけ

東の方から突如現れた朝日は まず手はじめに、空と雲を桃色に染め上げると、 次に、波の流れの揺ら立つ海に その、円く眩しい光を、まっすぐ差し込ませた。 いずれその光ものぼって、すべてを包むようになると 海はいつも通りの、薄い青と緑の交わった姿に変わり、 雲の表の方は白色へ、その裏は灰色へと戻ってしまった。 そして、それを吊り下がって眺めるだけの木の葉も、 遂には地面に、自身の陰を落とすようになっていた。 ただ、その陰の中で、まだ夜の明けぬところがあった。 灌木の間では、湿ってべちゃべちゃしたぬかるみが 木の根の目の間に、泥を挟みこもうとしている。 しかし、風が吹き、木漏れ日のちらちらが揺れ動くと、 その泥は色を薄く落として、いつのまにか馴染んでいく。 彼の茶味がかった細い髪の毛もまた、差し込む光に 輪郭を黄金色へと鋭く輝かせ、風にこわごわした それを漂わせているのだった。 昼・・・日差しが、熱く強く降りるようになっても 海は依然とその流れをゆらゆらさせながら、 上から降ってくる光を白く跳ね返していた。 雲も、より低く、それでも自分は高く積み上がって 自身の大きさを広く全てのものに示していた。 木の葉の陰も、まっさかさまに落ちていた。 ぬかるみの水は、もうとっくに乾いている。 彼は、顔の白くなるほどの光を浴びていても それを邪険にする様子もなく、ずっと目を瞑っていた。 風は、半開きのままの口元を通りすぎた。 鼻のとなりの頬だけが、未だに陰を落とされていた。 青臭い香りがあたりに漂っていた。 日は傾き始めた。雲はまた桃色へ、 海も朝のように色を直しはじめていた。 斜陽は、空に浅く紫色を付け加えた。 葉の光る色も、甚しく橙色だった。 唇の隙間から見える白い歯にも、その色が映されている。 彼は朝から動かず、風だけにまつ毛や髪の毛を揺らした。 彼のぶらぶらしている裸足には 飛び跳ねた泥の乾いたのが、茶色くこびりついていた。 彼は閉じた瞼の裏から、すべてを見つめていた。 あの大きい雲は、所詮さわれるものではなくて、 分厚いように見えても、実には薄いのだ。 木の葉も、光を集めようと先まで伸びているが、 その分、他の葉には光が当たらなくなる。 海に差すあの光だって、まっすぐ輝いているように見えても 波の細かくゆったりとした揺ら立ちのせいで、 右に左に大きく曲がっている。 それは、彼が自身の首を縄にかけたときもそうだった。 彼はそのゆがみを認めてしまったとき、 同時に自分の醜さにも勘付いてしまったのだ。 水平線の奥で、赤く燃えるように輝く太陽の光が、 放射状にまっすぐ光を伸ばして、 彼の顔を、朝焼けとも夕焼けとも分からぬ 朱色に撫で染めていた。

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波打ち際

砂浜にはずっと、波が押し寄せていた。 砂を崩しては埋めて、何回も何回もやっていた。 海には、まったく人も船もいなかった。 東京の学生は、この海の近い家へ帰っていた。 学生は大抵、この場所で休みの大半を過ごすのだ。 昔はこの場所もよく栄えていたが、 今は港の網も朽ち果てて、道も散々荒れていた。 学生の家から海へ行く道には、 そんな、脇から高い草が覆いかぶさって、 たまたま、トンネルのようになっている場所があった。 学生は、この場所を自分しか知らないと信じている。 海へ遊びに行くときも、密かな楽しみにしていて、 もちろんそれを誰かに話したりすることはないし、 そこへ誰もいないのを見ると、誇らしい気持ちになるのだった。 その日も学生は、朝から海まで出かけて、泳いだり 魚や蟹を捕まえたり、ぶらぶらして時間を潰すつもりだった。 しかし今日、学生はあの場所で一人を見つけた。 学生は、何でもないように装ってその横を通り過ぎた。 若い女、だいたい学生と同じくらいの歳かもしれない。 麦わら帽に白いワンピースを着て、道の片側に座っていた。 学生がそこで人を見るのは初めてといっても良かった。 しかも若い人間などは、この街にはもう殆ど残っていない。 だから、そんな人がいるなら、必ず学生の知り合いなのだ。 しかし学生に、あの顔に見覚えはなかった。 学生は、少しはそれに戸惑ったけれど、 海へ行って波を浴びるうち、あの女のことは忘れた。 学生は今日も、日が沈みはじめた頃に家へ帰った。 帰り道、あそこは灯りがないから、少し気味悪いのだ。 ただ、今日はそこにワンピースの白色が目立っていた。 学生は驚いた。彼女が一日中そこへ座っていたことにも、 または、夕日の橙に染まった彼女の頬の美しさにも。 学生はたまらず彼女に声をかけた。 「ここらはとても暗くなるから、はやく帰りな」 ただ女は、何だかよく分からない頷きをして まだそこに座り続けていた。動く気配すらない。 学生はこれ以上何か言うのもお節介な気がして、 「まぁ、それじゃ」と言って、草のトンネルを抜けた。 もう星が、ちらちら見えはじめている頃だった。 学生は次の日も、海へ出かけた。 あの女も、昨日と同じ場所で座っていた。 学生はまた同じように、彼女を気にも留めないように、 知らないふりをして横を通り過ぎた。 ここら辺は、学生の故郷であった。 学生が高校へ進学するとき、彼はその近くへ引っ越した。 幼い頃から見続けていた海が、電車の窓から 静かに消えていってしまうのを学生は未だ覚えている。 赤ん坊のときから、母に連れられ海へ遊びに行くときは 必ずあのトンネルをくぐっていたのだった。 潮の香と風の流れを感じると、いつもその気分になる。 学生は、海が好きだ。 その日の夕も、その次も、さらに翌日も、 彼女は変わらずそこで座っていた。 学生がどれだけ朝早く海に来ても、どれだけ遅く帰っても 彼女はずっとそこで座っているだけだった。 そういう内に、学生の休みは終わりに近付いていた。 そんな休みの最後の夕、学生は彼女の横へ座った。 「明日、東京へ帰るんだ、毎日何をしていたんだい」 海の奥の方で、さそりが顔を出していた。 「別に、ただいるだけよ。 あなただって海に行くのに、大した理由もないでしょう? あなたが帰るなら、私もあした帰ろうかしら」 「帰るってどこへ?次はいつ、ここへ来るつもりなんだ」 「さあ、 私も分からない」 彼女は微笑みながら俯いた。透き通るような声だった。 学生は、それ以上何も話さなかった。 ただ、いつの間にかいつもの帰路についていて、 彼女もいつも通りに座っているだけだった。 次の日、学生はまた海が遠ざかっていくのを見た。 車窓には、いつもの海が変わらず見えていた。 田んぼと砂浜の間の、少し緑が覆っているところで、 あのワンピースが潮風に揺られているのか、 それとも、夕日に頬を赤く染めているのか、 学生に確かめる術はなかった。

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前座

かつて、ある部屋で、何かの儀式が行われていた。 そこでは、弦をペンペンと鳴らす古い音と、 力強く逞しい太鼓の音が重なり合っている。 時々、弦の弾きが速く、強くなっていくと 負けじと太鼓の音も大きく響くのであった。 楽器が演奏される手前では、 赤い鉢巻をつけ、生地に安っぽい金色の刺繍が 施された法被を着て踊る、若い男たちの姿があった。 彼らは小太鼓と小鉢を片方ずつ両手に持って、 飛び上がったり体を回したりして舞っている。 動きに、繊細な美しさこそないものの 額に浮かぶ汗は、若さを感じさせるのだった。 それらの観客も、手拍子で舞いを奮い立たせ 体を揺らして熱を産ませている。 観客が合いの手を挟み、掛け声をかけると 弦の音はいっそう激しくなり 太鼓は全てを震わせる勢いだ。 若い男たちの顔は見る見るうちに紅潮し、 踊りはますます疾くなっていく。 空間全体がそれら全てに支配されたとき、 この活動は、命を手に入れ、輝き出した。 恐らくこの命は永遠終わることはないであろう。 いつまでも生き続け、世界の中で舞い踊る。 だが、これは前座に過ぎない。 彼らも私も、まだ若いのだ。 この空間は青春の一幕となって残り、 その熱が、彼らをどこまでも動かし続けるのだ。

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島の夏椿と入道雲

島では梅雨が明け、陽射しの照りが日に日に増していた。 小さな夏椿の花は、空を眺めていた。 竹藪の遠くに、入道雲が浮かんでいるのだ。 冬の薄くて高い雲とも違う、雲の中にできた陰影が 一番下から上の方までもこもこ盛り上がっているのは、 遠くから見てもどれだけ大きいかは十分に分かるのだ。 そんな迫力のある立体的な雲が、水色を背景に 空の一部として、絵のようにひとつ、平らになっているのが 不思議で不思議で、しかしどこか不気味で堪らなかった。 夏椿はずっとずっと、その入道雲を眺めていた。 風に流され視界の端に消えていってしまっても、 また戻ってくるか、よく似た雲が新たに出てくるのだ。 いつしか日が暮れ、風向きも変わり始めると、 大抵左へ流れていた雲が、夏椿の方へゆっくり進んできた。 夏椿は最初こそ、その近付くのに気付かなかったが、 雲の陰影が次第に鮮明に現れ、雲の下が覗け始めたので ようやくそれに気付いた。 昼間の夏椿は、恐らくそんなのに喜んだであろう。 しかし、今の夏椿は、赤い夕焼けを後ろに、 輪郭を赤紫と桃色に染め上げて、 昼間の白色を灰色に変えてしまったあの雲を 恐ろしく不気味に思う他なかった。 雲の真下に入っては、もこもこした高さも見えないし、 美しく、壮大な迫力も消え失せてしまっているのだ。 夏椿は、ただその雲を見上げていた。 その夜、島に雨が降った。 季節の移り変わりを象徴するような、突然な雨だった。 一つ一つの雨粒が重く、激しく、島の地面を叩き鳴らした。 島の生き物たちはそれぞれ雨に洗われ、 隆々とした体は、これからはじまる夏、 あるいは生命の一瞬の輝きを予感させるのだった。 夜が明けると雨は止み、雲は流れ、 何事もなかったかのように青空が広がった。 竹の葉から滴る、朝露か雨かも分からぬ水は 地面に大きな水たまりを作っていた。 そこには青空が映され、 白い清楚な花弁が静かに浮かぶだけだった。

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盲愛の踊り

学生は、誰もいない校内を跳ねながら歩いていた。 それは恍惚というのか、陶酔というのか、 とにかく、意識もはっきりしないで、嬉しさだけに 踊りのようなおかしな歩き方をしていたのである。 学生は、一種の狂人であろう。 彼は怠惰なくせに、ひとつのことに執着すると それからは、ずっとそれだけに身を注ぐ性分であった。 それは、恋愛だとか何だとかにも変わらない。 彼が妙な踊りをしているのには訳があった。 彼はいつからか、一人の女に執着しはじめた。 どれだけそいつが醜く、汚い性格の持ち主でも、 学生は、ずっと彼女に目を奪われ、四六時中それを考えていた。 実際、学生のノートには彼女のスケッチが何枚もあったし、 彼女の最寄駅や、乗って来る電車の時間なんかも把握して、 異常なまでに付き纏うようになっていたのだ。 しかし、学生はそんなひね曲がった心意気だからか、 彼女と話すことはほとんどなく、性格については 学生の理想と想像だけで考える他なかった。 それでも、学生はやはり彼女が好きでいて、 おそらく、彼女の顔を詳細に写した彫刻でもあれば 学生は満足して、彼女に付き纏うのはやめたであろう。 つまり、彼女の本質などに、学生の興味は向かなかったのだ。 この建物の中にいるのは、この学生と何人かの教職員だけだ。 学生は遂に学校中を我が物にしてしまったかのような 満足感でいっぱいだった。今、学生を呼び止め叱るものはいない。 革靴のまま廊下に出ると、奇妙なリズムを刻みはじめた。 カタッタタトトトントン、カタッタタトトントントン... 誰もいない教室の床に、風で揺れるカーテンの影が映るのを見ると その踊りはいっそう激しくなって、三度高く飛び跳ねると 学生は肩で息をして、そこらにある椅子に腰掛けた。 学生は、突き止めたのだ。 学生にとって、それは彼女の秘密を知るのに等しく その行為がどれだけくだらないことだとしても、 学生の愛情の矛先を向けるために仕方のないことだった。 学生は、奇妙な踊りの通り道を引き返して階段を降りた。 四桁の数字を口ずさみながら一階に着くと、 ロッカーの並ぶ玄関へ来た。 そこには全校の生徒のロッカーがあって、 勿論、学生のロッカーも彼女のロッカーもあった。 それぞれに靴だとか教科書だとかが仕舞われてあって、 学生は、わざわざ休日にこの校舎へ忍び込み、 彼女のロッカーの番号を、ひとつひとつ手当たり次第に 調べていたのである。 0000から始まり、0001、0002、 遂に710番目でつまみが九十度回った。 その瞬間、今まで学生が戸しか見えなかった奥に 彼女の私物の広がるロッカーを目の当たりにしたのだ。 彼女の上履き、名前の薄く書かれた用紙、あるいは菓子の袋 それらは学生の卑猥だったり我儘であったりする 妄想をことごとく掻き立てるのに十分だった。 学生はそれがあまりに嬉しくて、奇妙な踊りをしながら ひとつひとつの妄想を思い浮かべて、校舎を巡っていた。 学生は、それが全て叶うのが嬉しくて、堪らなかったけれど 彼にはそれで十分であり、実際、満足感で一杯であったため 何もせず戸をそっと閉め、ダイヤルを元に戻すと 誰もいない校舎を後にした。

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駄文

学生の時の話です。 私は、頭の悪い生徒だったので、 度々、再テストや補習に引っかかっていました。 もちろん、その日もです。 私の好きな人は、私より頭の悪いやつでした。 私が彼の何が好きだったかは、自分でも分かりませんが、 顔というか、雰囲気というか、彼の周りに渦巻く 独特な感じが、どうやら気に入っているようでした。 ( 好きと言いますが、付き合いたいどうしたいだの、  そういう恋心ではありません。まず同性ですから。  しかし、友達として好きとか、そんなわけでもない、  後になって説明するのも面倒くさい様な、  中途半端な感情を抱いていたのでした。    ) その日、私はいち早く再テスト用の教室へ向かって、 昼休みの内に、誰よりも早く終わらせようと奮起していました。 用紙に答えを書き、教卓へ持って行き×印をつけられる、 その作業を、×が⚪︎になるまで何度もやっていたのでした。 しばらくして 私の早く来た努力も虚しく、だんだん補習者が増えていきました。 私は教卓への列に並びながら、それを焦って見ていました。 気付くと、その補習者の中に彼がいました。 彼は、私と違ってとりわけ友達も多いので 三、四人の仲間と一緒に、教室へ入っていきます。 やはり私は彼が好きだったので、それを目で追ってしまいました。 彼は、自分の席をどれにしようか品定めをして ゆっくり顔でチラチラした後、私の隣へ座りました。 どうやら彼は、自教室に筆箱を忘れたまま来たようです。 (私がそれを救って恋が始まるとか、そういうのではありません) 彼はちょっと立ち上がって、辺りを素早く見渡したあと、 私の座っていた机から、私の鉛筆をひょいと盗りました。 私は、一瞬の驚きを経た後、 彼に鉛筆を貸してやれたという喜びと、 彼がどうして何も言わずに盗ったのだろうという疑念、 そもそも彼がそれをどういうつもりで盗ったのだという感情が ないまぜになった、おかしな気持ちに襲われました。 私は列に並んでいたため、何も言うことは出来ませんでした。 私は、丸付けがされている間も考えていました。 結局、私は二つの場合を考えました。 一つ目は、彼が私の鉛筆だと知った上で奪って、 私が見えてから返そうと思っているという場合。 二つ目は、ただ単にそこに都合のいい鉛筆があったため、 誰のかは知らないが、使ってしまおうと考えた場合。 後で返すとは言え、無言で物の貸し借りをするほど、 仲のいい間柄ではありませんでしたが、 私は彼を信じて、前者だと思い込むようにしました。 私の補習は努力の甲斐あり、早めに終わりました。 ただ、⚪︎がついてもいつもより嬉しくありませんでした。 私は自分が使っていた机に戻り、筆記用具を筆箱に入れ、 教科書も本も全部片付けて、自教室へ戻ろうとしました。 思い返せば、そのとき彼に、後で返してね、と一言かければ その後の無駄な悩みも何もなかったのですが、 私の、妙に臆病な心と、少しばかりの好奇心とが その行為をするのを止めてしまいました。 私は、教室に帰ると、机上に鉛筆を散乱させ、 もし彼が返しに来たときにしれっと起きやすいよう、 あえて外に出て、昼寝をしていました。 やはり、それもよく眠れませんでした。 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったので、 私はそれを起きたまま聞いて、教室へ戻りました。 ありません。私の置いた鉛筆以外、何もありませんでした。 筆箱は、鞄の奥底へ隠していましたし、 教科書も、机の中も整理しましたので、 少しいじったら分かるようになっていました。 (私は、それくらい意地の悪い子でした。) 結局、私は彼に何も言えないままで、 彼も私には何も言わずに平然と過ごしていました。 その間、彼の横顔をチラチラ見るたびに、 いつも感じていたときめきは一切感じられず、 肌の奥底からめらめらと、人間の汚さ、悪さが 滲み出てきて、私を襲いそうな予感さえしました。 彼が友達とくだらない話をして笑うのを見ると 私は、失望のような、興ざめをしました。 私は一日、その鉛筆を諦めるかどうか考えましたが、 そんな興ざめで終わるのが、もっと興ざめでしたので、 直接彼に問い詰めることにしました。 そうして一日空いた日。あの日の翌々日です。 また同じ教室で、同じ時間に補習があったので 私はそれに行く必要はありませんでしたが、 そのためだけにわざわざ行きました。 私はまたしても一番乗りでしたので、 窓を開け、なまぬるい風を浴びながら 彼が来るのを待っていました。 彼が教室へ入ってきました。 長く頭で考えていた彼の姿が実際に見えると、 私の胸で、あの恐怖と、臆病な心がざわめきはじめました。 私は、今から人間の醜く、汚い面に触れるのだ。 果たして、彼が素直に罪を認めてくれるのだろうか。 そもそも覚えてすらいなかったら、どうすればいいのか、 はたまた、激しく反論されて、私は何か言い返せるだろうか、 そんな「もし」が縦横無尽に駆け回り、 彼の周りの友達さえ、とても私の敵のような気がします。 やはり諦めてしまおうかと思いますが、彼の笑顔が、 また私に、興ざめと怒りを沸かせてきたので、 意を決して席を立ち上がりました。 話しかけたのは、彼が一人になってからです。 「あのさ、一昨日もここで補習あったよね」 彼は、普段大して話さない私に話しかけられ、 一瞬驚きたじろぎましたが、私の方を見ました。 「筆箱から鉛筆奪ったよね、あれ今どこにある?」 彼はその言葉の途中で察したのか、思い出したような顔をして 両手で前髪を掻き上げて、その肘を机にのせて 考えるような素振りを見せました。 私はもう一度鉛筆がどこにあるか尋ねました。 (こういうときだけ、変な勇気があるのでした。) 彼は困ったような顔をして、口を横に広げて苦しく笑いました。 「もしかしたら筆箱にあるかもしれない」 彼はそうやって筆箱の中を探すような仕草をし終わると、 「教室に戻ってまた探してみていい? とりあえずここの問題教えてくれない?」 と言って、自ら、分の悪いこの話を終わらせました。 私は仕方なしに解法を教えると、 彼が解き終わるのを待っていましたが、終わるまでに 時間がかかりそうだったので、いつもの場所に 昼寝をしに行きました。その日は眠れました。 チャイムが鳴って、起き、教室へ向かうと 彼はやはり、友達とくだらない話をして笑っているのでした。 彼は、私を見つけるとゆったりとこちらへ歩み寄り、 私の左肩に手を置くと、揺さぶるようにして 「家で探して持って来る」 と、一言だけ言って、 私がそれに頷く頃には去って行ってしまいました。 そんな、物を盗った相手にするとは思えないほど、 思慮に欠けていて、意地らしい態度をされても その時の私は、かくれんぼで鬼が通り過ぎたときのような安堵と、 罪人を更生させたかのような満足感のみでいっぱいで、 鉛筆を返してもらうことなど、もはやどうでもよかったのでした。 次の日も、彼はくだらない話で笑っていて 私と同じように、鉛筆のことなど気にしていないようでした。

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島の海と蜜柑

 ある日、島の横を、一隻の船が通りすぎて行った。 スクリューはかたかた廻り、波を押し分け進んで行く。 海は、スクリューにかき混ぜられたせいで、 青い海面に白い泡粒をぷかぷか漂わせている。 その泡粒は船の尾から、足跡のように伸びていた。 時折吹く風が島の林を揺らすだけで、 そこでは船と波以外、動くものはなかった。 島の崖のふちには蜜柑の木がひとつだけ生えている。 そこの蜜柑の子供の実は、その船をただぼおうと見ていた。 最初こそ、珍しいものを大人の実たちにも教えてやりたいと 思っていたが、先日の嵐が、雨と風で蜜柑の木を殴ったため 外側に生えていた大人の実はどこか遠くへ飛んでしまった。 残った実も、どうやら皆疲れて眠っているようで、 何度呼んでも返事は帰ってこなかった。 やはり時折風が吹く。 そうやって、木の葉が視界を覆う度に、 船を見失ってしまって、いちいち探さなければならなかった。 それを何度か繰り返した後、遂に船も遠くへ行ってしまった。 しかし、まだ、あの白い足跡は漂っている。 波が押し、波に引かれ、 それもまたかきまぜられるが、なかなか消えてはいかない。 蜜柑は、そのおかげで船の通った道を忘れることはなかった。 仲間が起きたら、あれを指して、船のことを教えてやろう。 そう思っている内に、蜜柑はうとうと眠ってしまった。 夢の中で、蜜柑はあの船に乗って海を進んでいた。 島の崖のふちに一本の木が生えていて、蜜柑たちがなっている。 かたかた鳴っている船は、思ったより早く進んでいて 蜜柑の木は見えなくなってしまっていたが、 ふと海に、鮮やかな橙色の粒が浮かんでいる。 どれも知った顔であった。 ああ、前に飛ばされた大人の実は、海に落ちて ぷかぷか泳いでいるんだなあ。。。 目を覚ますと、あの足跡はとうに消えてしまっていた。 あそこに船が通ったことは、蜜柑と船乗りしか知らないだろう。

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島の夜

少し冷たい風が木の葉を撫で回し、 太陽は一日の仕事を終えようとしている。 赤紫に似た橙色の空に、僅かな星と、月が出て 島を灰色に染め始めていた。 枝に乗っかった巣も、それに変わりはなかった。 一羽の雛は、銀色の雲を眺めながら 眠りにつこうとしていた。 朝の眩しさと夜の切なさを重ね合わせ、 今日学校で先生が教えてくれた面白い話、 たった一羽で鷲を追い払った英雄や、 去年の雪の白さ、 あるいは、母親の温もりを思い出して 今日も夢を見るのだった。。。

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