道徳的な山羊
17 件の小説道徳的な山羊
「後川」だった者です。17歳の若造です。「カクヨム」での投稿も始めました。 第七回N−1 12位 435点 第八回N-1 9位 318点 第九回N-1 8位 489点 King of Novelee vol.3 5位
ファーベル君と貴方に与ふ
あの、きちがいの名はファーベル君と言った。 奴は綺麗な瞳を持っていた。まっすぐで曇りのない目。 そして、健康な肉体を持っていた。柔らかくてしなやかな。 性格、それもすこぶる快活だったね。きちがいだったけど。 彼は葉っぱの緑の濃く繁る、八月に生まれたんだ。 窓辺から差す真っ白な陽光に包まれて、 はじめ、親戚たちは彼を天使だと思ったんだって。 学生時代の彼は、何でも器用にこなす生徒だったね。 何でも、と言ったって、全てが一位ってわけじゃないけど、 周りの他の人たちに比べれば、 それなりに秀でることが出来ていたよ。 “他の人に出来ないことをやれるのが一番だ” あいつはよくそんなことを言ってたっけ。 だけど、生涯を通じて、友達というものが出来なかった。 むろん、愛を与えるに足るような人物も。 僕だって、本当に信用されていたかどうか分からないんだ。 要するに、 「ファーベルはきちがいだからいつも孤独なんだ」 彼はそのまま大人になった。その性質を残して。 しかし、ファーベル君はよくやってるよ?彼なりにね。 ん?ファーベル君に会いたい? 無理だよ。それは。 ファーベル君はこの前死んだ。きちがいだったからね。
昼
昼・・・ 黒い翳の迫る中で きみは素足を剥き出しにした
花泥棒
初夏の風は水面を抜けると、土手の草を撫で、 やがてその脇道にある民家の軒先に達した。 引き戸は中途半端に開いたままで、擦りガラスの向こうの 玄関に、吊るされた洗濯物が揺れるのが透けていた。 のみならず、その原因は先ほどから辺りを吹き回す、 いやに生ぬるい風なのだった。 日は高く昇って、その光が薄暗い部屋の中を照らしていた。 台所の蛇口から、水が滴り落ちる音が響いていた、 が、それはうるさいというほどでもなかった。 奥の茶色い木目の古い居間で、若い男が花を愛でていた。 簡素な服だけ身に纏って、まるで自由人な格好だった。 その男は、はだけた服を弄りながら喋った。 「へへ、もうそろそろ終わりにした方がいいかな」 男はにやにやしながらもその花の先を眺めていた。 彼はその花を愛しているつもりだ。 彼はいつもその花を眺めるたびに、 何とも言えぬ独特な期待を抱いていた。 それは、脈の透ける葉のあまりの薄さだったり、 柔らかくしなやかな茎の脆さだったりするのかもしれない。 しかし、当の花はそんなことはつゆ知らず、 風のなすがまま、ふくよかな花弁の先をゆすった。 差した光の中で、花粉が埃のように舞った。 「いやだな、そんな顔されたら困るだろう?」 男はおもむろにその根元を強く握りしめた。 その瞬間、花弁が鮮烈なまでに赤く輝き、 瑞々しさを発しながら甘い蜜に濡れた。 男は、慣れた手つきでその蜜を舐めとろうとした。 彼にとって、愛するということはそれほど 複雑なことではないようであった。 しかし、男の鼻先がそれに当たるかどうかのとき、 玄関の引き戸が強く閉められる音が響いた。 不意の来客だった。 スーツを纏い、帽子を深く被った男は、 どうやらこの家の主人であるようだった。 彼も、あの若い男とは違う形でこの花を愛していた。 「誰かいるのか、こんな昼間からどちら様だ?」 その太い声を聞いた男は、慌てて服を整えると、 素早く茎から手を離し、そのまま玄関へ向かって 靴を脱ごうとする主人を押し除け、 こじ開けた扉から一目散に走り出した。 主人は何が何だか分かる前に、靴を履いたまま 萎れかけた花の前まで駆け寄った。 花は俯いたまま手をついて、畳の上で膝を折り曲げていた。 主人は、艶かしい唇と汚れた瞳を確かめると、 柔らかかった髭面を千切れるほど顰めた。 机上に焚かれた蚊取り線香の煙が 天井までゆらゆら上がり、その途中で風の流れに失せた。 その後、二、三度の怒号を響かせ、主人は軒先から飛び出した。 花泥棒は目的の品を置いたまま、とうに逃げ出していた。 だけれど主人は、もはやそんなことはお構いなしに、 重い体で、道沿いを無我夢中に走り始めていった。 そして...... そして、それを見届けた私は立ち上がり、 尻についた芝を振り払うと またもや半開きになったままの扉へ向かって走り出した。 あの部屋に取り残された花を摘み取るべく....... むろん、生ぬるい風が背中を押してくれていた。
夏の停車場
私は草原の道を歩いていた。 道の先にあるはずのバス停へ向かって、 今までずっと、彼と二人で歩いてきた。 ちょうど私が疲れてきたころ、 少し前にいた彼は急に立ち止まって 道端の丸太に腰を下ろした。 「どうかしたの」 「いや、ようやく着いたみたいだよ」 「着いた、って、ここがバス停なの?」 「うん、多分そうだよ、前に聞いた通りだ」 彼は大きく息を吐くと、隣に座るよう促した。 背の高い草の間から、青空がちらちら覗いていた。 「バスはいつ頃来るのかしら?」 「分からないけど、長くは待たなくていいみたいだ」 「本当にここがバス停なの?時刻表もないようだけど、」 「いや、心配することはないよ。 本当に前聞いた通りなんだから」 「そうなの、ならよかった」 歩くのをやめると、何だか随分静かに感じられた。 どこか遠くの蝉の声だけが響いていて、 それ以外には、時折草が風に煽られるだけだった。 私が髪の毛を耳に流すと、彼がまた大きく息を吐いた。 隠していたつもりでも、どうやらひどく疲れているらしい。 私はハンカチで彼の額の汗を拭ってあげると、 汗ばんだワイシャツの肩に頭をもたげた。 彼は何も言わずに、どこか遠くを眺めるだけだった。 私は、呼吸に合わせて、彼の肩が上下するのを感じた。 彼は、草から顔を出している、遠くの入道雲を 眺めているようだった。 「ずいぶん大きな入道雲ね」 「そうだね、あんなに大きいのに、 歩いてる途中で気付かなかったのが不思議なくらいだ」 「私たちどれくらい歩いたんでしょうね」 「分からないなぁ、ものすごく長かったのは確かだけど、 着いてみたらあっという間だったような気もするしなぁ」 「ごめんなさいね、私、途中でたくさん休んじゃって」 「いいんだ、バスにさえ間に合えば構わないんだから」 「そうね、バスだったら、私たちが歩いたのなんて あっという間の道のりなんでしょうね」 「バスにさえ乗れればねぇ」 彼は呟くような声で言った。 「大丈夫 きっともう直に来るわよ。 それに私、あなたとこうして待っているのも それほど悪くはないんじゃないかなって 思っているのよ?」 「君は本当に呑気だね」 「あなたが心配性なだけよ」 「はは、そうかもしれないね」 彼はそう笑って私に麦わら帽子を被せると、 それっきり何も喋らなかった。 入道雲は風に流され、小さな破片を青空に取り残したまま 少しづつ右の方へ流れていった。 それを目で追うと、すぐに彼の日に焼けた横顔が見えてきて 何だか悪い気がした。私はそれ以上覗くのをやめた。 彼はどうやら眠っているようだった。 それを見て、何だか懐かしい気持ちになる。 よく考えてみれば、あの雲の下に私たちの故郷が あったのかもしれない。 確か、二人で一生懸命働いてお金を貯めて、 そしてようやく券売所で切符を買って、 長く住んでいたアパートを離れ、このバス停を目指したのだ。 それが三時間前、あるいは昨日、もしかしたら一週間、 どれくらい前のことだったかはあまりよく思い出せないけど、 その間、今も隣にいる彼とずっと一緒にいたのだ。 私はもう一度彼の方を見た。さっきと変わらない横顔と その奥の入道雲が、相変わらず流れていた。 私は彼の鼓動を感じながら静かに目を閉じた。 私は彼の声で目を覚ました。 「……起きたか?」 「あら、すっかり寝ちゃってた。 もうバスが来たの?」 「うん、さっき草の向こうで動く影を見たんだ」 「そうなの、見とけばよかったわ」 「その内、嫌というくらいに見れるさ」 「はは、そうね」 「君が寝ていた間、ものすごい風が吹いて、 危うく帽子が飛ばされてしまうところだったよ」 彼は笑いながら麦わら帽子を渡してきた。 私はそれを脇に挟んで、カバンの中を漁りはじめた。 「じゃあ、切符を用意しなくちゃね」 券売所で買った切符は、失くしてしまわないように 赤い手帳のポケットの一番奥に入れているのだった。 私は、道の上にカバンの中のものを一つずつ取り出していった。 傘、お財布、水筒、キャラメルの箱、筆箱、ノート... しかし、カバンの中身がすっからかんになっても、赤い手帳は なかなか出てこなかった。 「私、あなたに切符を渡したんでしたっけ?」 「いや、もらっていないよ。 しかし、いざバスが来るとなると少し寂しいものだね。 僕もちょうど、君とこうやって待っているのも悪くは ない、って思いはじめてきたところなんだよ」 「馬鹿なこと言わないでよ」 私はそれを笑っておきながらも、もはやそれが“馬鹿なこと“と 言えなくなっているのに気付きはじめていた。 私がカバンの奥底を手で探っていると、遠くから一台の 小さなバスがこちらへ近づいてきているのが見えた。 「あなた、」 「ほら、来たよ、ご覧?遂に、待った甲斐があったね」 私は何を言ってしまおうか迷った。 しかし、それを考える時間が残されていないことの方が 私の心をきつく縛りあげた。 「あなた、私の切符を知らない? ここに着く前まで持っていたのは確かなの。 あの赤い手帳が分かるでしょう? あれにちゃんとしまっておいたはずなのに どこを探しても見つからないのよ。」 「本当か?いや、僕が持っているはずはないんだ。 カバンの中には本当になかったのかい? ポケットにも、財布の中にも」 「ないのよ......」 私はほとんど泣きだしてしまいそうだった。 彼は私のポケットに手を突っ込んだあと、 道の上に並べられた品々を、乱雑に探しはじめた。 しかし、それが終わる前に、前まで遠くにあったバスが いつの間にか私たちの前に到着してしまった。 「どうしようか、とりあえず運転手の人に聞いてみよう」 彼はそう言ってカバンの中にすべて詰め込むと、 それの埃を払って、ほとんど押し付けるように渡してきた。 バスの扉が開くと、彼は運転手にしきりに何かを伝えていた。 その内容は、聞こえなくてもなんとなく理解できた。 彼はその途中、ちらちらと私の方を振り返った。 私はその度に何かを発せようとするけれど、 それが出てこないまま、結局彼の後ろ姿を眺めることしか できなかった。 最後、彼は「本当に、さっきまで持っていたんだよね?」と、 私に問うた。その目は何かを訴えかけていた。 私はそれに首を振れば、彼を裏切ることになると分かって、 小さく頷くことしかできなかった。 彼はそれを確認すると、ステップを降りてきた。 さっきよりも随分落ち着いている様子だった。 「どうやら、さっきの風が盗んで行ったらしい。 切符の分のお金を払うと言ったんだが、やはり 切符じゃないと受け付けないみたいだ。 仕方がないから、君が先に乗って行ってくれ」 「それで、あなたはどうするの?」 「もう一度買うしかないよ、引き返して、 また次のを待てばいいさ だから、君は先に行っていておくれ」 「いやよ、私だけ乗るなんて。 それなら私も一緒に買いに行くわよ」 「無理だよ。僕が持っている切符は今のバスでしか 使えないし、何より二人分の切符を買うお金は 僕たちの手元には残っていないんだよ。 分かってくれないか、僕は僕のために、 君を一人にしなくちゃいけないんだ。 僕だって君と離れるのは心苦しいけれど、他に どうすればいいのか、今は分からないんだ」 「うん......」 彼の語気は強まっていったが、次第に落ち着いて、 何も言わず、私の髪の毛を上から撫でた。 私の視界は涙でぼやけ、彼の顔をはっきりと映さなかった。 ただ、彼の手に背中を押されて、どうしようもなく バスに乗りこみ、一番前の座席に座らされた。 彼は私の手をしっかりと握りしめ、 「また次のに乗るから、着いたら待っていておくれ」 と言った。彼のごつごつとした手が、私の掌に押し付けられた。 彼の温もりは、さっき眠っていたときよりもすっと激しかった。 私はその温もりをなくしてしまわないよう、 いっそう強く手を握りしめた。 しかし、周りの乗客がじろじろとこちらを見ているのに 気付くと、彼は私に困ったような視線を合わせ、 きまり悪そうにバスを降りていった。 私は窓の外を見た。窓越しだと風景は黄味がかって、 さっきまで見ていた青空も草も、何だか別の世界のもののように 感じられた。 そうもしない内にバスは出発した。 私は体を前に乗り出して運転手に話しかけた。 「すみません。わるいんですけれど、 次のバスは一体いつに来るものなのですか?」 運転手は前を見続けたまま、何でもないように答えた。 「今乗っているのが終点に着いて、また引き返してからですかね。 しかしあそこから券売所まではとても歩きじゃ厳しいですし、 何よりまず、これが出発したついさっきの時点で、 三十二本先の分まで売切れでしたから あの方が乗られるバスは、随分後のになるでしょうね。 私もそれまで仕事を続けているかどうか。はっはっは、」 私は、はっとして振り返った。 その瞬間に、彼と歩いてきた今までの道のりを 思い出さないわけでもなかった。 揺れる車窓から、ずっと向こうまで続く草の影のなかで 一人で歩いていく、小さな背中が見えた。
ある雨の季節
まだ辺りが暗い頃から、枕元には雨の音が響いていた。 そして私が目を覚まし、顔を横に向けたときにも カーテンの裏では、依然として地面に雨が強く 叩きつけられる音が確かめられるのであった。 寝室から出た先には、普段よりも暗い居間があった。 鈍い色をしたテーブルの上には、昨日の生活が残っていた。 晩御飯のまま片付けられていない皿や 途中で読み止めた新聞の活字、 あるいは芯が外れたまま置き去りにされた鉛筆・・・ 古い木目の上に並べられた、ありとあらゆる そういうものは、私のこれまでの過程をあらわすにしては、 何か重要で、確固たるものが抜け落ちていた。 窓の外の街並みは、重く厚い雲にのしかかられ、 昨日までの精彩を失っていることは明らかであった。 私は、昨日の残骸をそれぞれ処理してしまうと、 持ち余していた煙草に火を預け、椅子に腰を下ろした。 私は側にある、雨の雫が透ける冷たい窓を開けて、 むせかえるような生活臭で淀んだ空気を逃しはじめた。 口から不健康な煙を吐きこぼす度、生ぬるい風が入ってくる。 それは外の世界から、細かい雨の破片とともに、 沈鬱な気分を運んでくるのであった。 まだ若い私は、すぐに腹を減らしてしまった。 朝食、しかしそれを用意してくれる人はいなくて、 目の前にあるのは古い灰皿だけでしかなかった。 もちろん、そこに見本のような目玉焼きやトーストなどは 一切なく、汚れがこびりついた白い灰の奥で、 虚無がわずかに燃え残っているのみであった。 私は、今日はそれを眺めて腹を満たすことに決めた。 昼になっても、雲は厚く陰湿な影を保っていた。 前までのような美しいコントラストは微塵もなく、 平面的でのっぺりとしたのをどこまでも拡げていた。 どこまでも、、、私はほんの少し前から、それを聞いたとき、 ある場所を思い浮かべるようになってしまった。 学生のときに追っていたあの人の住む、坂道の街。 おそらくこの雨は、あそこにも降り注いでいるだろう。 私は、滴り落ちる細切れの雨を見ながら想像する。 不機嫌な空の下で、あいつの乗っていた電車は、 濡れた線路の上を窮屈そうに走っているのだろうか。 それとも、坂の下の赤信号が青に替わるのを待ちながら 幾重にも重なった人々の、傘の下敷きになっているのだろうか。 それとも、坂の上から、そんな雑踏たちを、、、 あるいは今の私を、滑稽に見下ろしているのだろうか。 そんなことを考えていた間、 私はひどく喉が渇いていることに気付いた。 私はようやく立ち上がって、冷蔵庫の扉を開けた。 ひんやりとした心地よい空気が首元を撫でるが、 欠けたものを埋める何かがあるわけではなかった。 私は、張りのなくなってきた紙パックとコップを 取り出すと、やがてまた窓際に座り直した。 私はそれを傾け、底に残っていたわずかな オレンジジュースをコップに預けた。 喉を潤すにはまったく足りない量だった。 鮮烈な柑橘の色の奥で、顆粒が浮き沈みしていた。 雨さえやめば、あいつのことは忘れられるのだろうか。 遠くの住宅地に灯りがぽつぽつとつきはじめた頃、 雨脚は次第に弱くなってきていた、が、 それは確かにあいつの坂を洗い、私の窓を洗い、 あるいは誰かの頬を滑り落ちながら、昨日までの 粘っこい汚れを押し流していた。
丘の上で
・・・朝・・・ 東の方から突如として現れた陽光は まず手始めに平たい雲を桃色に染めあげると、 まだ冷たい海に、烈しい光線を走らせた。 その一筋の光は次第に輪郭を曖昧にしていくと、 波の流れのうねりに従い、ゆらゆら揺れ立っていった。 それが行き着く先は、海に臨む小高い丘だった。 その丘の上では、青々と繁った草が背を伸ばし、 幹の細い枝は葉を揺らしながら、潮風に揺られていた。 橙色の光がそれらを照らしはじめたとき、 木の葉に遮られ、草々の裏で横たわっていた 彼の瓜実顔も、次第に顕になっていった。 いずれ日が昇り、陽光は円みを帯びると 先ほどまで真っ直ぐ光を通わせていた海は 水面のところどころにまばゆいガラス片を散りばめて、 波に揺れる度、それをちらちらと輝かせていた。 辺りは優しい陽気に包まれ、海も青と翠を取り戻した。 葉も、その光を満面に浮かべると 自身の影を、真っ逆さまに落として伸ばした。 ただ、その陰の中で未だ夜の明けぬところがあった。 前の晩に降っていた雨は、それが止んだ今でも ところどころに溜まったままで、 灌木の間のびちゃびちゃしたぬかるみは、 木の目の隙間にそれを挟み込もうとしていた。 のみならず、彼の足にもその泥は跳ねていた。 しかし時折吹く風に木漏れ日が差し込むと、 色を薄く落として、いつの間にか馴染んでしまった。 最早、そこにそれがあったことを知る者がどこにいようか。 ・・・昼・・・ いつまでも、日の強さは衰えを知らなかった。 相変わらず海はその光を跳ね返していて、 空は、夏の色の濃く、深い碧に染まり、 真っ白にぎらぎらとした陽光は依然として 緑色の葉を燃やすように照らしていた。 彼は、元々蒼白い顔を更に白くするほどの光を浴びても それを邪険にする様子もなく、ただ目を閉じ、 瞼の裏から、高く積み上がった遠くの雲を眺めていた。 眺めていた? それは本人に訊かねば分からない。 だが彼は尚、鼻の影を頬に落としながら 風に睫毛を靡かせているだけだった。 ぬかるみは、もうとっくに乾いていた。 辺りには、青臭い香りが広がっていた。 ・・・夕・・・ 斜陽は、鮮やかな紫と橙色を空に加えた。 海も、青とも橙ともつかない曖昧な色へ戻った。 太陽はとうとう地平線のすぐ傍まで沈み、 烈しくも優しい光を四方に散らしている。 葉の色は一面に橙で、その色は 半開きの口からはみ出した歯にも映っていた。 相変わらず草の中で横たわっていた彼は、 朝から今まで、瞑ったままの目を開こうともしない。 口元を通り過ぎる風も、どうでもいいようだった。 彼は生まれてからずっと眺めていた。 眺めていた?それを確かめる者はいない、が、 例えば、昼間の分厚さをすっかり失くした遠くの雲を、 或は、揺れ動いてばかりで日を真っ直ぐに通さない波を、 もしくは、一日中影を作りっぱなしだった木の葉たちを、 瞼の裏で確かに覗いていたはずだった。。。 風が吹いた。 彼の髪は、輪郭を黄金色に鋭く輝かせながらも、 こわごわとしたそれを漂わせているだけだった。 星が見えはじめた頃、 真っ黒な海から飛んできた鴎が彼の胸をつつくと、 けたたましい鳴き声をあげて飛び去っていった。
【第九回N-1】 警報
通知 from:気象庁 大雨警報(土砂災害):◼︎◼︎市⚪︎⚪︎町付近では、過去数年間で 最も土砂災害の危険性が高まっています。 特に⚪︎⚪︎町では台風第8号のとき以来で 最も土砂災害の発生するおそれが 高くなっています 携帯電話を鳴らしたその通知は突然で、何より奇妙だった。今、たしかに雨は降っているがそれは傘を差す必要がないほどの強さで、せいぜい水たまりを作るくらいであったし、私のいる場所が山と隣り合わせだからといって、今までその山では土砂崩れやら何やらは起こったことがなかった。 私はこれが何かの間違いだとしか思うことができなかった。そういえば、山の向こう側にある別の市は、ここより激しい雨が降ると天気予報のキャスターが言っていたのも思い出した。しかし、⚪︎⚪︎町は今まさに私がいるところで、自宅のある場所でもあった。私は画面に映る“警報”の二文字に何だか不安になって、いっそう家へ帰りたい気持ちを募らせた。 横を見た。時刻表によると、次のバスは二十分後であった。私は先ほど行ってしまったのに乗りそびれて、五分ほど前から待合所の屋根の下のベンチで次のバスを待っているのであった。バスは行ったばかりであったし、元々人のいる地域ではないから車通りも疎らで、辺りには誰も見えなかった。遠くに見える寂れた商店はシャッターを閉め切っていて、屋根の低い民家も、中に人がいるのかいないのか灯りが消えて何物の気配も感じさせない。雨は相変わらず、目の前の水たまりに弱々しい波紋を広げていた。 通知 from:不明 水飛沫警報:市営バス[〇〇山道入口]付近では、 午後四時四十八分から 水飛沫に遭遇する危険性が 最も高くなっています 対象の地域の方は 予備の着替えやタオルなど 十分で適切な処置の準備を 進めてください。 携帯電話を鳴らしたその通知には、確かに「水飛沫警報」と書かれてあった。[〇〇山道入口]というのは私が今いるバス停の名前であったが私に分かることはそれだけで、それ以外のことが分かったのは、目の前を灰色の車が通り過ぎた後だった。 私が車の音に気付いたころ、ついさっきまで眺めていた水たまりに黒いタイヤがビシャッと激しいしわを走らせた。その瞬間、私のズボンの裾に水飛沫が飛びかかった。途端、足首が重く冷たくなって、その冷たいのが土踏まずまで流れて染み込んだ。今日はツイていない。そう思ったとき、また携帯電話が鳴った。 通知 from:不明 謝罪警報:市営バス[〇〇山道入口]付近では、 午後四時四十九分から 謝罪に遭遇する危険性が 高まっています。 特に二十代男性で、 直近に靴下を濡らした方は よりいっそうの警戒が必要です。 私はこの通知を見て何が起こるかを何となく予想してしまった。今までの手法通りだと、おそらくこの後、誰かに謝罪されるのであろう。そして今の状況から察するに、あの灰色の車の運転手が水飛沫のことで私に謝ってくれるのだろう。 私は、この不気味な“警報”にすっかり慣れてしまっていることに気付いた。勿論こんな通知が来るのは生まれて初めてのことであったし、普段冷静なときであれば真っ先に疑って相手にもしないだろう。しかし、送られた通知の内容をもう一度よく確認しようとすると、読み返さない内にまた新しい通知が送られてきて、そして“警報”という名のそれらは、ことごとくこれから起こることを言い当ててしまうのだ。だが、そんな未来予知とも言える“警報”は、私の不快な気分を掻き消して次第に興奮を与えてきているのだった。さあ、今に見てみろ。どうせ、直に向こうから誰かが私のところへ来て、懇切丁寧な謝罪をしてくれるのだ。そして、その誰か、というのはついさっき私に“警報”どおり水飛沫をかけた灰色の車の持ち主張本人なのだ。 私は、車の曲がった角から人が現れるのを首を長くして待っていた。しかしそれの現れない内に、また携帯電話が鳴った。 通知 from:不明 【発表中の警報が一部解除】 先ほどの謝罪警報の発表は 手数違いだったことが判明し 解除されました。 対象の方、特に日頃から 警報を期待されていた 方に関しては、ご迷惑を お掛けして申し訳ありません。 その通知を読んだ瞬間、私は予想外のパターンに拍子抜けするでも、予測が外れたことを悔しがるでもなく、口元にわずかな微笑を浮かべた。まるで、いたずら好きの子供の顔を、上から眺めるときの親のような気分だった。こんなとんちみたいなことをするのか、警報が解除されたから私の元へ謝罪が訪れる可能性はなくなったけれど、逆に、既にそのメールの中で謝罪は行われているじゃないか。 私のズボンは濡れたままで、灰色の車もそれに気付いているのか知らないが、どこかへ行ってしまった。普段ならどうしようもなく苛立っているだろう、が、今の私の心はそれのつけ入る隙がないくらいに“警報”というものに興味を抱いてしまっているのだ。次の警報が待ち遠しくして仕方がない。たとえば「美人警報」というのはどうだろう、それを読んだ瞬間隣のベンチに美人が座ってくれる、とか。いや、それは俗っぽいな。「流星警報」とかはどうだろう、ここは灯りも少ないし、夕焼けのオレンジ色に星が流れたらどれだけロマンチックだろう。それなら俗っぽくても隣に美人がいたほうがいい。私の胸は楽しみで埋め尽くされてきた。「大金警報」、「成金警報」、「宝くじ大当り警報」、なんてのがあっても良さそう。そんな通知で着信が鳴ったら、今までのどんな警報よりも嬉しいだろう。 そんなことを考えている間、雨は次第に弱まって、夕焼けは以前よりも濃さを増してきていた。向こうの一軒家の一階に灯りがついたのが見えると、その家の前をビニール傘を差した学生が通り過ぎた。そして、その後からランドセルを背負った小さな子供が走って追って行った。その子が学生の元へ追いついて傘に入ったのが見えた頃、遠くの学校から五時のチャイムが聞こえた。 バス停の裏の草むらから漂う青臭い香りは、もうそろそろ来る春の香りだった。ああ、「迎春警報」なんて良いな、今の私にはそれで十分だ。そう思ったとき、携帯電話が鳴った。 通知 from:不明 【死亡警報】: [〇〇山道入口]のベンチにお座りの 坂本 博己 さんは、五時二分頃 死亡する危険性が高まっています。 ちょうど、雨がまた激しく降りはじめたときだった。
宇宙ざくろ入門
宇宙ざくろを食べたことがありますか? ない? それなら教えましょう、その果実の採り方を。 先ず、それは街のスーパーでは買えません。もちろん八百屋でも。南方のフルーツまで売っているような、評判の高いあの二丁目の八百屋にも、それは置いてありませんでした。 とりあえず、それを買おうとするなら、あなたの惑星の内ではとうてい無理でしょう。しかし仮に、もしあなたが地球の中で五本の指に入るほどの金持ちなら、銀河横丁青果店の出張販売で買うのも悪くはありません。(18年に一回来ます)あそこは地球の全植物とも比にならないほどの品揃えです。だけれど、宇宙通貨への両替にはひどい手数料がかかるし、袋詰めされた宇宙ざくろは鮮度にも見た目にも欠けるから、おすすめしたくはありません。だから、あなたが宇宙でも特別貧しかったり、或いはみずぼらしい地球の中でもごく一般人なら、これから私が言う方法をよく覚えておいてください。 場所はどこであろうと問いません。あなたの家の庭先でもベランダでも、河川敷の土手の斜面でも、たとえ身動きのとれない満員電車の中でも大丈夫です。 とにかく、夜空の見える場所を選んでください。 直接見えるのは無論結構、ガラス越しに見えるのでも構いません。ですから、本当に、夜空さえ見えれば大丈夫です。しかし夜空といっても、明かりの多すぎるといけません。夜空が十分に暗くて、星の見えるところに宇宙ざくろは為ります。目安としては、月の輪郭がはっきりとして、雲は清純、冬ならオリオン座がはっきり見えるくらい。これ以上きれいな夜空が見えるようなら、文句のつけようはありません。 そして肝心の宇宙ざくろですが、この果実に旬はありません。年がら年中、どの季節に採れたものでも味は上等です。しかし、あなたのような初めての方に食べていただくなら、やはり真夜中に採れたものをおすすめします。西に夕陽の影が残っているようならまだ早いし、東に朝焼けが滲んでいるようなら少し遅いです。空一面が真っ暗になって、宇宙をそのまま映している ときでなければ、立派な宇宙ざくろは採れません。 (まあ、通な人たちはわざわざ時間をずらして、 その渋みや酸味を楽しんだりもします。 私の父は昼間のものまで採ったりしました。) さあそして、黒い幕のような空と、そこに散らばる星々を前にしてあなたがやることはただひとつ。宇宙ざくろの採り方です。しかし焦ってはいけません。慌てずに息を吐いて、静かに空を眺めてみてください。 いったい、空高くで果てしなく自分を包み込む黒色は、平らなのか、丸いのか、そしてその奥にどれだけの星が隠れているか、 そんな風にあなたが自分の小ささを身一杯に感じたとき、黒い空に一筋、まるで今にも割れそうな水風船に小さく鋭い刃物を滑り込ませたときのように、ぴゅっと、白く短い線が横切ります。宇宙ざくろを採らない人にとってはただの流れ星、しかしあなたにとってみればそれこそ収穫の絶好の合図です。 流れ星の通った跡の下に両手で器を作って待っていてください。直にその切れ痕から、堪えきれなくなった星々の欠片がみるみる内に、煌びやかな輝きを保ちながら、あなたの掌へ向かってじゃらじゃらと流れ込んでくるでしょう。 あなたの掌がまばゆい光の種々でいっぱいになったら…… そこから先はもう言う必要はないでしょう。 ほら、もうすぐ、空を見上げてみてごらんなさい。 あっ!ほらっ!あそこ! 今、白い光を出しながら進んでったやつ! いやだなあ。あれはただの飛行機だよ。 焦っちゃだめだって言っただろう?
捜索
私は、くすんだ紅色の扉の前に立ち、チャイムを二三度押した。電子音が繰り返し流されるが、中から誰かが出てくるような気配は一向にない。 誰か、、というのも、三日前から職場に現れず、連絡も取れなくなった同僚のことが気になって、休日にこうしてわざわざ足を運んだのだ。相変わらず扉が開く様子もないため、私は持て余して、部屋の前で彼に電話をかけたが、中からうっすらと着信音が聞こえるだけだった。もちろん、他の友人も彼の行方は知らないし、隣人に尋ねても、どうやら何も知らないようだった。 依然として紅いままの扉に、私はだんだん苛立ってきた。あいつに何かあったのか?まさか居留守を使っている訳でもあるまいし、悩み事だってないような男だ。 私は電話も切ってしまって、最後に、ドアノブを乱暴にガチャガチャと動かした。開かなかった。まあ仕方ない。明日もとりあえず来てみて、それでも駄目だったなら警察にでも行こう。元々これも捜索というよりは、いない、という確認の作業にすぎなかった。私は、彼がこの家にいるとは思っていなかったのだ。そうして、私は部屋の前から去ろうとした。すると、彼の郵便受けにすこしだけ隙間が開いていて、中に数枚の紙が入っていた。そこには、罫線をはみ出して書かれた、汚い文字の羅列があった。 「私を探しに来てくれたあなたへ 将田 正二 先ずはじめに、『あなた』と書きましたが、別にあなたがこれを読まなくても構いません。本質は読んでもらうことにありませんから。しかし、非常に申し訳ないのですが、ただ一つ頼みたいのは、私の行方不明の理由を、夜逃げ、ということにしておいてほしいのです。別に理由は他に何でもいいです。そんなことにこだわりません。しかし、頼んでおいて折角ですから、あなたには本当の理由をここに書き記しておこうと思うのです。 二日前、私は電車の中でとある人に出会いました。それが理由です。見た目がどうとか、詳しいことは書きません。あなたたちが変な気を起こしてしまえば大変ですから。。。 とにかく、その出会いが私の今までの人生の至上であったことには違いありません。あの人が目の前に現れた瞬間、私はこれまで何を見つめて過ごしていたのかを思い出せなくなってしまいました。 私のこの一目惚れ(そんな軽々しいものではないように思えます)の前では、恋も愛もそんな名前を持つはずがありません。 今も、一人でこうやって文字を書いているのがどれだけ意味のなくて、くだらないことなのか、身に染みるほどよく分かります。あの人のいない生活が空しくて仕方ありません。今思えば、あのとき、電車の中で一言でも話しかけてしまえば、これほど悩みはしなかったような気がします。しかし想像してみてください。そんなこと出来るはずもないでしょう。私はあのとき指先を動かすことさえできず、半ば死んでしまったかのようにじっと座り尽くしていたのですから。でも、あなたが思うのとは違って、確かにそのとき、私の心は満ちに満ちていました。心の奥底の、もわっとした不安が全て溶けて蒸発していました。だからこそ、あの人がいなくなったあとの私の空しさもよく際立つのです。 今すぐにでもあの人の元へ行きたい。私の周りのもの全てを捨ててしまっても、あの人に会いたい。あの人が今どこにいて、私を覚えているかどうか、そんなこと最早どうだっていい。私にはあの人が必要だ。おそらくそうに違いない。ええそうでしょう。今から会いに行きます。 そろそろ失礼します。きっと、あなたは私のことを馬鹿げていると言うに違いありません。しかし、あなたは決してそんなこと言えるはずもないのです。あの人に会ってすらいないのだから。もし、あなたが私を連れ戻そうとする日常がそれほど魅力的であると言うのなら、私に教えてほしい。想像するだけで胸が熱く燃え萎むような、背筋にミミズが這ってしまうような、目玉が鼻まで垂れてしまうような、そんな、魅力の漲る方を!」 私は、その幾枚かの紙を文字が見えなくなるまで入念に千切ってしまうと、郵便受けに戻し、指先で奥底へぎゅうぎゅうに潰して詰めた。これで捜索は終わった。どうやら彼は夜逃げしたらしい。
第8回N-1 「運命」
冬の電車にいると、やけに乾いた暖房の風と 人々の厚いコートのせいで、いやに火照ってしまって、 夕立を残した雲の下、風邪を引いたような気分になる。 ふと窓の遠くを見ると、住宅地のその奥に霞んで青く光る 名前も知らぬ峰々が赤く鮮やかな夕日に侵されかけている。 私は今、ありきたりな感傷に浸っている。 断られた、彼への告白。 理由までありきたりで、「他に好きなひとがいるから」 別に、悲しいとか、胸が苦しいとかいうのはない。 なぜなら、そういうのは好意を告げる直前に まとめておおきくなって襲ってくるから。 私は、夕焼けにあのときの光景を重ね合わせる。 すでにぽつぽつと雨が降りはじめていて、 白というよりかは、重い鉛色に沈んだ雲の広がる天気。 刑事ドラマか何かなら、殺人でも起こってしまいそう。 私は、どうせ告白だっていうことは知っているくせに、 あたかも何も知らないように取り繕う彼に向けて、 「好きでした。付き合ってください」とだけ言った。 それを告げたあと、私の体からは力が抜けた。 それからの行動は、彼の言葉によって決めるだけで、 ここから先には、葛藤も何も、私を惑わせるものはない、 そんな考えが、無意識に私の気力を奪ってしまったのだ。 だから、返事を聞いたときにはもう、感情の起伏なんかは とっくに過ぎ去ったものになっていて、断りの文句と、 私を傷つけまいと、あるいは自分の印象を保とうとして つらつら述べられた理由は、もはや私の興味の外にあった。 「私から告白したけれど、もう彼には興味はないわ」 なんて、言ってしまえば、ただの負け惜しみのようにしか 聞こえないけれど、それくらい今の私は虚無なのだ。 ああ、ドアが開くと一気に風が入ってきて、途端に寒くなる。 彼への好意と煩いが消え去った今の私には、 もう何も残っていないのだ。失恋という言葉さえも。 虚無の奥底で湧き出るのは、何にも対する苛立ち。 そんな私に、献血の広告のモデルが微笑んでくる。 『あなたの力で、運命が変わる人がいる』 ああもう、本当にたまったもんじゃないわ。 よく漫画とか小説とかテレビで使われるその安っぽい言葉。 恋愛にでも生死でも、何にでも結びつけられる言葉。 【運命】 う−[運命]……自分の力では変えにくい、あらかじめ 決まっている流れや出来事のこと。 ああ馬鹿げている。笑ってしまうくらいに。 もしもそんな言葉を作った人が目の前にあらわれたら、 すぐさま引っ叩いてしまいたい。 もし本当に運命なんてものがあるとするなら、 私は、それを、憎む。 だって、最初から何もかも決まっているというのなら、 私の恋も悩みも、結局はこの悲惨な虚無に向かって 馬鹿みたいに突き進んできたっていうことになるじゃない。 そんなの、あまりに、残酷すぎる。 運命なんてそんなものはない。 運命というのは結局、舞台劇や芝居好きが 自分の生活までも、その一部だと勘違いして、 そんな、くだらない思い上がりの結果生まれた 幼稚なロマンチシズムの象徴だ。もうやめにしよう。 こんなことを考えている間、すっかり人は降りてしまった。 学生の話し声も、眠っていた人の咳の音も、ぜんぶ途中の駅で 降りてしまって、線路の音が鳴り響いているだけだ。 私もそろそろ降りなくちゃ、 空の低いところさえ、まだ朱色が滲んでいるけれど、 日もとうとう沈んで、東に見えるあれはオリオン座かしら、 街の電灯も灯りはじめた。 プラットフォームに降りた私は振り返る。 ああ微笑みのモデルさん。 運命があるなら私に教えて、 電車が駅に停まるのも運命? 綺麗な夕焼けの太陽が沈むのも? あるいは、私の失恋も? それなら天気予報みたいに占って。 私の次の行く末を、運命を。 できるでしょう?