後川
8 件の小説【第七回N1】 砂の顔
私たちが作った顔は、所詮、ただの砂で出来ていた。 中学生の私の、修学旅行は沖縄であった。 だが、それまでにできた友達はたったの二人で、 一人は気狂い、もう一人は私に同情した豚だった。 離島の民宿に泊まる際、必要だった班決めでは、 眼鏡をかけた細身と、見るからに不健康な肥満、 私と気狂いと豚の五人で一つの班を組んだ。 つまりは、五人全てが班を組むような友人も居らず、 一つに固まらざるを得なかったのだ。 私たちはけれども、旅行に向け、 沖縄のことはなんだって調べたし、 予定も五人で案を立てて考えた。 グループ課題も、期限間近で焦って終わらせた。 五人共、旅行をつまらないようにするような気概は 一分もなかったし、すっかり友情は深めたつもりだった。 ああきっとこれなら大丈夫。並の旅行になるだろう、 班が組めなかったからと言って、不幸に繋がる訳ではない。 沖縄の地に降りて、まず考えたのはそんな言葉であった。 それでもやはり、フェリー乗場行きのバスに乗るとき、 貸切のバスで、私と気狂いだけ、隣に座る人はいなかった。 私は気狂いの横に座るのは嫌だったし、向こうもそうだ。 他の三人は、少ない友達の元へ行き、何とか苦しく話していた。 フェリーでも同じく、私たちは人のいる甲板を避け、 最低階の、コーラの看板の錆びたベンチで、 何を話すでもなく、風を受け髪を逆立てるだけだった。 そしてその後島へ着いたとき、 私たちははじめて爺と出会った。 彼は、島で民宿を経営している訳ではないが、 このような団体旅行の度、家に学生を泊めてくれる、 妻を失った、日焼けの目立つひとりの老人である。 彼は、広く、少し埃のかぶる家で、私たちを迎えた。 彼は親しみやすいよう、私たちに本名は教えず、 「爺と呼んでくれ、緊張しなくていいから」とだけ言って、 それ以外、自分のことは何も語らなかった。 しかし彼は私達に本当の親を忘れさせるほど、優しかったのみで、 その日、島の中央にある小高い山の上で 私達に星を説明しながら、アイスと黒糖を振る舞ってくれた。 それから私達は五人共、爺をすっかり信用してしまって 教室で普段話さず、寝ているばかりの細身も、 爺に頻繁に話しかけて、愉快に笑っていた。 豚も肥満も私も、その話に時々入っては、細身の話に茶々を入れ、 細身の弁明だとか、くだらない自慢だとかを笑った。 気狂いは、爺に星の説明を急かし求め、 タバコ臭いと傲慢な文句さえ直接言ったが、 爺はおどけて冗談を言って、気狂いをうまくからかった。 私達はまたそれを見て笑い、それ程まで親しんでしまった。 爺は「明日、砂浜に連れて行ってやろう」と言うと、 山を降り、車であの広い家へ連れ戻した。 私達はそれを心待ちに、眠れない目を無理に閉じて 安らぎの中で夢を見るのだった。 翌日の夕、爺は車で私達を砂浜まで連れて行った。 昨夜、あれほど空に輝いていた星は雨に濡れて、 昼まで私たちの外出を許さなかったのであった。 爺は、売店の近くにあるベンチに腰をかけて、私達を見ていた。 水平線の奥に沈みだそうとしている、円い赤だけで光る太陽、 私達はそれに向かって砂浜を歩きはじめた。 細身は、爺の車を濡らすのを考えて泳げないのを残念がるが、 豚と肥満が、細身の泳げるはずのないことを馬鹿にする。 それでも気狂いは泳ごうと海へ走りはじめて、 細身がそれを必死に止めたのだった。 結局、私たちは、砂遊びで遊ぶことに決めた。 私が砂を固めて鼻を作ると、他の四人もその周りに 目や口を作って人の顔を作ろうと、和やかに遊んでいた。 私はそんな光景に、少し安心したのだった。 するといつの間にか、私たちのいる砂浜より上の方に 同じ組のやつらが、ぞろぞろ現れて遊びはじめた。 彼らは砂浜を歩くでもなく、どこからかボールを拾ってきて バレーボールで遊びはじめていた。 十人余がそれで遊んでいて、ボールを落としたら 服を一枚脱ぐという、低俗なルールを設けて みだらで雑多に騒ぎ立てていたのだった。 だが、私たちは続いて、人の顔作りを楽しんでいた。 細身が、細い眉を肥満に似ていると馬鹿にすると、 肥満は眉をすっかり、太眉に作り変えた。 私たちは、それを見てまた笑い合った。 そうして太眉と二重瞼の目、私自慢の鼻、 気狂いがこだわった唇もでき、 大体が完成しつつあった頃、 バレーの内の二三人がにやにやしてこちらへ駆け寄ってきた。 私は、彼らのその薄ら笑いの奥に、何か汚さを感じて、 背筋に寒さが、青くぞぞぞと走るのを感じた。 ああそのとおり、彼らは細身のズボンのポケットへ、 そこらの砂を掴んで詰めはじめたのた。 私たちは、旅行の熱に、忘れていた。 細身は普段、彼の服用している薬のために 授業中によく寝るということを周りに非難されて、 ここぞとばかりに、幼い戯れとも言えぬ、 大変な扱いを受けていたのだった。 彼らは、この沖縄でも尚、それを続けたのであった。 バレーはいずれ終わり、残りの奴らもこちらへ来た。 細身は嫌がり走って逃げるが、すぐ捕まえられ 笑いながら砂を浴びせられ、からかわれた。 彼らが鬼ごっこのようにそれをするのの本当に醜いこと! そして砂の顔も彼らに踏み崩され、砂浜に戻っていってしまった。 彼らは細身を扱うのに飽きると、またバレーをしに戻った。 私は、彼らが振り向きざまにこちらをにたにたしながら 元の場所へ走っていくのに、血が昇っていくのを感じた。 しかし、私がそれをどうこうしようという前に、 隣に座っていた気狂いが、彼らに向って駆け始めた。 気狂いは、彼らの一番後ろにいる奴に突進して噛みついた。 私もそれに、気狂いの後を追い、他の奴に掴み掛かった。 私も気狂いも癇癪持ちで、気狂いのは到底ひどかった。 しかし、気狂いはすぐ他の奴らに引き剥がされて、 私も、上にのしかかって押さえつけようという頃、 横から蹴っ飛ばされた。 そこで臆病な私は、そいつの顔を力の限り横からはたいて、 崩れた砂の顔のところへみじめに逃げかえった。 しかし気狂いは尚も、彼らに向っては飛ばされ、 それを何回かしたのち、うずくまって泣きはじめた。 バレーの奴らは、私たちの癇癪を真似して笑っていたが、 私達には、また突っかかったり、気狂いを慰めたりするような 気力も何も、もう生じることはなかったのであった。 私たちの作りあげた砂の顔は、 いとも簡単に、呆気なく、崩れ去ってしまった。 私たちがどれだけ立派に、丹念に固めたとしても それは私たちの知らぬところであまりに脆弱だった。 私たちは砂の顔を作り直したが、元の姿には戻らなかった。 結局、砂の顔は私たちの友情の、一瞬の虚像にすぎなかった。 これは、私のひとりぽっちの追憶である。 砂浜から帰るとき、車の中で爺は一言、 「孤立というものは、年老いてもあるものだよ。」と、 ぽつりと呟いて私たちに聞かせた。 その後、細身は相変わらずの扱いを受け、 私は豚とも肥満ともめっきり話さないようになり、 気狂いは家を出て、どこかへ行ってしまった。 今、その思い出の実際にあったことを証明するものは、 クラス写真の内の、不細工な砂の顔の周りで 決まり悪そうにカメラを向く豚と肥満、 どこか疲れきったような顔をする細身、 目を赤くして遠くを眺める気狂いと 不貞腐れたようにそっぽを向く私が座る、 一枚の写真だけである。
前座
かつて、ある部屋で、何かの儀式が行われていた。 そこでは、弦をペンペンと鳴らす古い音と、 力強く逞しい太鼓の音が重なり合っている。 時々、弦の弾きが速く、強くなっていくと 負けじと太鼓の音も大きく響くのであった。 楽器が演奏される手前では、 赤い鉢巻をつけ、生地に安っぽい金色の刺繍が 施された法被を着て踊る、若い男たちの姿があった。 彼らは小太鼓と小鉢を片方ずつ両手に持って、 飛び上がったり体を回したりして舞っている。 動きに、繊細な美しさこそないものの 額に浮かぶ汗は、若さを感じさせるのだった。 それらの観客も、手拍子で舞いを奮い立たせ 体を揺らして熱を産ませている。 観客が合いの手を挟み、掛け声をかけると 弦の音はいっそう激しくなり 太鼓は全てを震わせる勢いだ。 若い男たちの顔は見る見るうちに紅潮し、 踊りはますます疾くなっていく。 空間全体がそれら全てに支配されたとき、 この活動は、命を手に入れ、輝き出した。 恐らくこの命は永遠終わることはないであろう。 いつまでも生き続け、世界の中で舞い踊る。 だが、これは前座に過ぎない。 彼らも私も、まだ若いのだ。 この空間は青春の一幕となって残り、 その熱が、彼らをどこまでも動かし続けるのだ。
島の夏椿と入道雲
島では梅雨が明け、陽射しの照りが日に日に増していた。 小さな夏椿の花は、空を眺めていた。 竹藪の遠くに、入道雲が浮かんでいるのだ。 冬の薄くて高い雲とも違う、雲の中にできた陰影が 一番下から上の方までもこもこ盛り上がっているのは、 遠くから見てもどれだけ大きいかは十分に分かるのだ。 そんな迫力のある立体的な雲が、水色を背景に 空の一部として、絵のようにひとつ、平らになっているのが 不思議で不思議で、しかしどこか不気味で堪らなかった。 夏椿はずっとずっと、その入道雲を眺めていた。 風に流され視界の端に消えていってしまっても、 また戻ってくるか、よく似た雲が新たに出てくるのだ。 いつしか日が暮れ、風向きも変わり始めると、 大抵左へ流れていた雲が、夏椿の方へゆっくり進んできた。 夏椿は最初こそ、その近付くのに気付かなかったが、 雲の陰影が次第に鮮明に現れ、雲の下が覗け始めたので ようやくそれに気付いた。 昼間の夏椿は、恐らくそんなのに喜んだであろう。 しかし、今の夏椿は、赤い夕焼けを後ろに、 輪郭を赤紫と桃色に染め上げて、 昼間の白色を灰色に変えてしまったあの雲を 恐ろしく不気味に思う他なかった。 雲の真下に入っては、もこもこした高さも見えないし、 美しく、壮大な迫力も消え失せてしまっているのだ。 夏椿は、ただその雲を見上げていた。 その夜、島に雨が降った。 季節の移り変わりを象徴するような、突然な雨だった。 一つ一つの雨粒が重く、激しく、島の地面を叩き鳴らした。 島の生き物たちはそれぞれ雨に洗われ、 隆々とした体は、これからはじまる夏、 あるいは生命の一瞬の輝きを予感させるのだった。 夜が明けると雨は止み、雲は流れ、 何事もなかったかのように青空が広がった。 竹の葉から滴る、朝露か雨かも分からぬ水は 地面に大きな水たまりを作っていた。 そこには青空が映され、 白い清楚な花弁が静かに浮かぶだけだった。
盲愛の踊り
学生は、誰もいない校内を跳ねながら歩いていた。 それは恍惚というのか、陶酔というのか、 とにかく、意識もはっきりしないで、嬉しさだけに 踊りのようなおかしな歩き方をしていたのである。 学生は、一種の狂人であろう。 彼は怠惰なくせに、ひとつのことに執着すると それからは、ずっとそれだけに身を注ぐ性分であった。 それは、恋愛だとか何だとかにも変わらない。 彼が妙な踊りをしているのには訳があった。 彼はいつからか、一人の女に執着しはじめた。 どれだけそいつが醜く、汚い性格の持ち主でも、 学生は、ずっと彼女に目を奪われ、四六時中それを考えていた。 実際、学生のノートには彼女のスケッチが何枚もあったし、 彼女の最寄駅や、乗って来る電車の時間なんかも把握して、 異常なまでに付き纏うようになっていたのだ。 しかし、学生はそんなひね曲がった心意気だからか、 彼女と話すことはほとんどなく、性格については 学生の理想と想像だけで考える他なかった。 それでも、学生はやはり彼女が好きでいて、 おそらく、彼女の顔を詳細に写した彫刻でもあれば 学生は満足して、彼女に付き纏うのはやめたであろう。 つまり、彼女の本質などに、学生の興味は向かなかったのだ。 この建物の中にいるのは、この学生と何人かの教職員だけだ。 学生は遂に学校中を我が物にしてしまったかのような 満足感でいっぱいだった。今、学生を呼び止め叱るものはいない。 革靴のまま廊下に出ると、奇妙なリズムを刻みはじめた。 カタッタタトトトントン、カタッタタトトントントン... 誰もいない教室の床に、風で揺れるカーテンの影が映るのを見ると その踊りはいっそう激しくなって、三度高く飛び跳ねると 学生は肩で息をして、そこらにある椅子に腰掛けた。 学生は、突き止めたのだ。 学生にとって、それは彼女の秘密を知るのに等しく その行為がどれだけくだらないことだとしても、 学生の愛情の矛先を向けるために仕方のないことだった。 学生は、奇妙な踊りの通り道を引き返して階段を降りた。 四桁の数字を口ずさみながら一階に着くと、 ロッカーの並ぶ玄関へ来た。 そこには全校の生徒のロッカーがあって、 勿論、学生のロッカーも彼女のロッカーもあった。 それぞれに靴だとか教科書だとかが仕舞われてあって、 学生は、わざわざ休日にこの校舎へ忍び込み、 彼女のロッカーの番号を、ひとつひとつ手当たり次第に 調べていたのである。 0000から始まり、0001、0002、 遂に710番目でつまみが九十度回った。 その瞬間、今まで学生が戸しか見えなかった奥に 彼女の私物の広がるロッカーを目の当たりにしたのだ。 彼女の上履き、名前の薄く書かれた用紙、あるいは菓子の袋 それらは学生の卑猥だったり我儘であったりする 妄想をことごとく掻き立てるのに十分だった。 学生はそれがあまりに嬉しくて、奇妙な踊りをしながら ひとつひとつの妄想を思い浮かべて、校舎を巡っていた。 学生は、それが全て叶うのが嬉しくて、堪らなかったけれど 彼にはそれで十分であり、実際、満足感で一杯であったため 何もせず戸をそっと閉め、ダイヤルを元に戻すと 誰もいない校舎を後にした。
駄文
学生の時の話です。 私は、頭の悪い生徒だったので、 度々、再テストや補習に引っかかっていました。 もちろん、その日もです。 私の好きな人は、私より頭の悪いやつでした。 私が彼の何が好きだったかは、自分でも分かりませんが、 顔というか、雰囲気というか、彼の周りに渦巻く 独特な感じが、どうやら気に入っているようでした。 ( 好きと言いますが、付き合いたいどうしたいだの、 そういう恋心ではありません。まず同性ですから。 しかし、友達として好きとか、そんなわけでもない、 後になって説明するのも面倒くさい様な、 中途半端な感情を抱いていたのでした。 ) その日、私はいち早く再テスト用の教室へ向かって、 昼休みの内に、誰よりも早く終わらせようと奮起していました。 用紙に答えを書き、教卓へ持って行き×印をつけられる、 その作業を、×が⚪︎になるまで何度もやっていたのでした。 しばらくして 私の早く来た努力も虚しく、だんだん補習者が増えていきました。 私は教卓への列に並びながら、それを焦って見ていました。 気付くと、その補習者の中に彼がいました。 彼は、私と違ってとりわけ友達も多いので 三、四人の仲間と一緒に、教室へ入っていきます。 やはり私は彼が好きだったので、それを目で追ってしまいました。 彼は、自分の席をどれにしようか品定めをして ゆっくり顔でチラチラした後、私の隣へ座りました。 どうやら彼は、自教室に筆箱を忘れたまま来たようです。 (私がそれを救って恋が始まるとか、そういうのではありません) 彼はちょっと立ち上がって、辺りを素早く見渡したあと、 私の座っていた机から、私の鉛筆をひょいと盗りました。 私は、一瞬の驚きを経た後、 彼に鉛筆を貸してやれたという喜びと、 彼がどうして何も言わずに盗ったのだろうという疑念、 そもそも彼がそれをどういうつもりで盗ったのだという感情が ないまぜになった、おかしな気持ちに襲われました。 私は列に並んでいたため、何も言うことは出来ませんでした。 私は、丸付けがされている間も考えていました。 結局、私は二つの場合を考えました。 一つ目は、彼が私の鉛筆だと知った上で奪って、 私が見えてから返そうと思っているという場合。 二つ目は、ただ単にそこに都合のいい鉛筆があったため、 誰のかは知らないが、使ってしまおうと考えた場合。 後で返すとは言え、無言で物の貸し借りをするほど、 仲のいい間柄ではありませんでしたが、 私は彼を信じて、前者だと思い込むようにしました。 私の補習は努力の甲斐あり、早めに終わりました。 ただ、⚪︎がついてもいつもより嬉しくありませんでした。 私は自分が使っていた机に戻り、筆記用具を筆箱に入れ、 教科書も本も全部片付けて、自教室へ戻ろうとしました。 思い返せば、そのとき彼に、後で返してね、と一言かければ その後の無駄な悩みも何もなかったのですが、 私の、妙に臆病な心と、少しばかりの好奇心とが その行為をするのを止めてしまいました。 私は、教室に帰ると、机上に鉛筆を散乱させ、 もし彼が返しに来たときにしれっと起きやすいよう、 あえて外に出て、昼寝をしていました。 やはり、それもよく眠れませんでした。 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったので、 私はそれを起きたまま聞いて、教室へ戻りました。 ありません。私の置いた鉛筆以外、何もありませんでした。 筆箱は、鞄の奥底へ隠していましたし、 教科書も、机の中も整理しましたので、 少しいじったら分かるようになっていました。 (私は、それくらい意地の悪い子でした。) 結局、私は彼に何も言えないままで、 彼も私には何も言わずに平然と過ごしていました。 その間、彼の横顔をチラチラ見るたびに、 いつも感じていたときめきは一切感じられず、 肌の奥底からめらめらと、人間の汚さ、悪さが 滲み出てきて、私を襲いそうな予感さえしました。 彼が友達とくだらない話をして笑うのを見ると 私は、失望のような、興ざめをしました。 私は一日、その鉛筆を諦めるかどうか考えましたが、 そんな興ざめで終わるのが、もっと興ざめでしたので、 直接彼に問い詰めることにしました。 そうして一日空いた日。あの日の翌々日です。 また同じ教室で、同じ時間に補習があったので 私はそれに行く必要はありませんでしたが、 そのためだけにわざわざ行きました。 私はまたしても一番乗りでしたので、 窓を開け、なまぬるい風を浴びながら 彼が来るのを待っていました。 彼が教室へ入ってきました。 長く頭で考えていた彼の姿が実際に見えると、 私の胸で、あの恐怖と、臆病な心がざわめきはじめました。 私は、今から人間の醜く、汚い面に触れるのだ。 果たして、彼が素直に罪を認めてくれるのだろうか。 そもそも覚えてすらいなかったら、どうすればいいのか、 はたまた、激しく反論されて、私は何か言い返せるだろうか、 そんな「もし」が縦横無尽に駆け回り、 彼の周りの友達さえ、とても私の敵のような気がします。 やはり諦めてしまおうかと思いますが、彼の笑顔が、 また私に、興ざめと怒りを沸かせてきたので、 意を決して席を立ち上がりました。 話しかけたのは、彼が一人になってからです。 「あのさ、一昨日もここで補習あったよね」 彼は、普段大して話さない私に話しかけられ、 一瞬驚きたじろぎましたが、私の方を見ました。 「筆箱から鉛筆奪ったよね、あれ今どこにある?」 彼はその言葉の途中で察したのか、思い出したような顔をして 両手で前髪を掻き上げて、その肘を机にのせて 考えるような素振りを見せました。 私はもう一度鉛筆がどこにあるか尋ねました。 (こういうときだけ、変な勇気があるのでした。) 彼は困ったような顔をして、口を横に広げて苦しく笑いました。 「もしかしたら筆箱にあるかもしれない」 彼はそうやって筆箱の中を探すような仕草をし終わると、 「教室に戻ってまた探してみていい? とりあえずここの問題教えてくれない?」 と言って、自ら、分の悪いこの話を終わらせました。 私は仕方なしに解法を教えると、 彼が解き終わるのを待っていましたが、終わるまでに 時間がかかりそうだったので、いつもの場所に 昼寝をしに行きました。その日は眠れました。 チャイムが鳴って、起き、教室へ向かうと 彼はやはり、友達とくだらない話をして笑っているのでした。 彼は、私を見つけるとゆったりとこちらへ歩み寄り、 私の左肩に手を置くと、揺さぶるようにして 「家で探して持って来る」 と、一言だけ言って、 私がそれに頷く頃には去って行ってしまいました。 そんな、物を盗った相手にするとは思えないほど、 思慮に欠けていて、意地らしい態度をされても その時の私は、かくれんぼで鬼が通り過ぎたときのような安堵と、 罪人を更生させたかのような満足感のみでいっぱいで、 鉛筆を返してもらうことなど、もはやどうでもよかったのでした。 次の日も、彼はくだらない話で笑っていて 私と同じように、鉛筆のことなど気にしていないようでした。
島の海と蜜柑
ある日、島の横を、一隻の船が通りすぎて行った。 スクリューはかたかた廻り、波を押し分け進んで行く。 海は、スクリューにかき混ぜられたせいで、 青い海面に白い泡粒をぷかぷか漂わせている。 その泡粒は船の尾から、足跡のように伸びていた。 時折吹く風が島の林を揺らすだけで、 そこでは船と波以外、動くものはなかった。 島の崖のふちには蜜柑の木がひとつだけ生えている。 そこの蜜柑の子供の実は、その船をただぼおうと見ていた。 最初こそ、珍しいものを大人の実たちにも教えてやりたいと 思っていたが、先日の嵐が、雨と風で蜜柑の木を殴ったため 外側に生えていた大人の実はどこか遠くへ飛んでしまった。 残った実も、どうやら皆疲れて眠っているようで、 何度呼んでも返事は帰ってこなかった。 やはり時折風が吹く。 そうやって、木の葉が視界を覆う度に、 船を見失ってしまって、いちいち探さなければならなかった。 それを何度か繰り返した後、遂に船も遠くへ行ってしまった。 しかし、まだ、あの白い足跡は漂っている。 波が押し、波に引かれ、 それもまたかきまぜられるが、なかなか消えてはいかない。 蜜柑は、そのおかげで船の通った道を忘れることはなかった。 仲間が起きたら、あれを指して、船のことを教えてやろう。 そう思っている内に、蜜柑はうとうと眠ってしまった。 夢の中で、蜜柑はあの船に乗って海を進んでいた。 島の崖のふちに一本の木が生えていて、蜜柑たちがなっている。 かたかた鳴っている船は、思ったより早く進んでいて 蜜柑の木は見えなくなってしまっていたが、 ふと海に、鮮やかな橙色の粒が浮かんでいる。 どれも知った顔であった。 ああ、前に飛ばされた大人の実は、海に落ちて ぷかぷか泳いでいるんだなあ。。。 目を覚ますと、あの足跡はとうに消えてしまっていた。 あそこに船が通ったことは、蜜柑と船乗りしか知らないだろう。
島の夜
少し冷たい風が木の葉を撫で回し、 太陽は一日の仕事を終えようとしている。 赤紫に似た橙色の空に、僅かな星と、月が出て 島を灰色に染め始めていた。 枝に乗っかった巣も、それに変わりはなかった。 一羽の雛は、銀色の雲を眺めながら 眠りにつこうとしていた。 朝の眩しさと夜の切なさを重ね合わせ、 今日学校で先生が教えてくれた面白い話、 たった一羽で鷲を追い払った英雄や、 去年の雪の白さ、 あるいは、母親の温もりを思い出して 今日も夢を見るのだった。。。
島の草原
島の真ん中の草原はバッタの棲み家だった。 いつからか、チムニーはある事に気が付いていた。 それをなんと言うのかは分からなかったが、 まるで与えられた使命であるかのように、 チムニーにずっと、重く、のしかかっていたのだった。 次第に、チムニーはそれを抑えられなくなっていた。 その衝動は遂に爆発した。 チムニーは走り、跳んだ。 仲間たちの奇妙な眼差しも気にせず、 日が沈んでも関係なしさ、必死になって跳びはねた。 明け方、チムニーは消えた。 他のバッタは辺りを探したが、姿は見えない。 どうやら随分遠くへ行ってしまったようだ。 色んな噂が飛び交ったが、草のざわめきがそれを消していった。 ひと月後、チムニーは突然帰ってきた。 ずっと跳んでいたらしい。息も絶え絶えだ。 彼は言った。 『昔、追いかけっこで遠くへ行って、ひどく怒られただろう。 だが、あれほど遠くへ行ったって、 この高い草を超えることはできなかったんだ。 しかしついさっき、僕は草のない青空を見てきたんだ。 鳥なんかよりも恐ろしい動物も、 広大な雨の雫の流れも、 草なんかよりいくつも高い植物も。 今度みんなで行こうじゃないか、 きっと面白いだろうよ。』 そう言い終わると、彼は静かに目を閉じた。 草に隠れた月に バッタ達の好奇心が照らされている。