後川

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後川

書きたいときに書くので、1,2ヶ月に2本程度しか書けません。フォローしてくださる方、ありがとうございます

贅沢

南方に、或大富豪が暮らしていた。 彼は、その明晰な頭脳と豪運の為に、膨大な資産の持ち主でいて、 それは、残りの人生をどれだけ豪勢に、無駄に金を使っても 手に持ちきれぬ程であった。今までも何十年と、一通りの 豪華な暮らしと絢爛な装飾物で金を費やしてきたが、 それでも総資産の百分の一に届くかどうかであった。 彼にとって、金の使い道を探すのが唯一の悩みであった。 なぜならば、もはや彼にとって高価なものに感じる 価値というのは、すでにありきたりなものであって、 どれだけ金を減らそうが、また懐へ何倍もの金が入るからだ。 しかし彼は、寄付とか、贈与とかは全くしなかった。 彼は、彼のような富豪がまたこぞって、児童養護施設だとか、 動物愛護団体に大金を寄付しているのが何ら気に食わなかった。 特に理由はなかったが、それを為し終えたあとの富豪たちの、 偽善を感じさせる満足の表情と、寄付された側の 生ぬるい表情とが、何気なしに嫌悪感を抱かせるのである。 だから今も尚、彼の手元には莫大な量の金が残っている。 富豪はある日、ある金の使い方を思いついた。 それはあまりに、革命的なものであった。 彼の資産の大半はことごとく湯水のように消え、 彼はそれ以上の価値を得ることができる。 富豪が求めていたものにまったく近いものだった。 富豪はまず、世界中の鶏を買い占めた。 養鶏場の鶏も、山の中の古びた一軒家の鶏も 全ての鶏が、並外れた金額で買い取られ、 富豪の豪邸の庭へ集められた。 かえって、富豪以外の人々は、自分の持つ鶏と 引き換えに、一生を暮らせる金額を手に入れ、 これから鶏の姿を見ることはできないにしても、 十分な満足を得ていた。 しかしこれは、富豪の嫌う寄付とはまた別物であった。 次に富豪は、世界中の穀物を買い占めた。 世界のどこに生える小麦やら米やらは、刈り取られ 束となって、また富豪の庭へ寄せ集められた。 しかし、富豪は鶏に与える十分な米を確かめると、 それ以外、特に小麦なんかは、全く手さえ触れずに、 人々へただも同然で買い戻させた。 これでも、やっと資産の三分の二に迫るかどうかであった。 富豪の使用人たちの何人かは、怪しんで、仕事を辞めた。 最後に、富豪は世界中の茶碗を買い占めた。 平らな皿や、どんぶり、コップなどは集めず、 きっちり、茶碗だけが富豪の元へ集められた。 これには世界中の各家庭を訪ねて交渉を繰り返したため、 富豪の雇用人だけでは手が回らず、多くのアルバイトを、 破格の値段で雇って、やっと一年がかかって終わった。 富豪は、その中から手ごろなのを一つ選ぶと それ以外は粉々に割って海に沈めるように命じた。 その日、富豪の住む周りの海の水位が少しだけ高くなった。 そのとき、富豪の元には抱えきれないほどの鶏と 一つだけ、寂しそうに残った茶碗。僅かな資産と 米は、大体が鶏の餌に使われて、ほとんど残っていなかった。 富豪はその豪邸を売り払うと、海沿いに小さな小屋を建て それが叶うと、野へ鶏をとき放ち、置かれた卵を一つ取り、 茶碗一杯に必要な米だけ抱えると、それらと共に移り住んだ。 彼の持つ会社も何も、親しい友人へ譲り渡し、 使用人には感謝の言葉を述べると、一人一人に 余るほどの金を渡して、富豪は遂に一人になった。 ある朝、海沿いの小さな小屋で、 今となっては世界で一つだけの茶碗に、 珍しい米が、いっぱいに盛られて、 その上から、また珍しい卵が割られて乗せられると、 ある男が、卵黄のてらてら輝く黄色に 朱色の朝陽と、真っ青な海を映えさせて スプーンでそれをかちゃかちゃ混ぜて掬うと じゅるっと音を立てて啜った。

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ドナドナ

ある晴れた昼下がり。 日が昇る頃の体育館は特に生ぬるい。 そこにあるのは、無機質に並べられた卓球台と、 その周りで、溌剌とした手脚を体操服にちらつかせて、 手に持つラケットを振っては一喜一憂の表情を浮かべる学生達。 窓からは、熱くも鋭くもない、まろやかな秋の陽光が 四方からぽっと降り注いで、そこらに植えられた観葉植物の 人工的な、あざとい赤と橙の葉の表を白く輝かせている。 その奥には、近くの寺の黒い瓦が同じように柔らかく 照らし出されていて、その横にはやはり、萎れかけた 緑色の葉が、幾重にも重なり合って、上から降り注ぐ 日差しを葉脈に透かして和らげていた。 私も学生ながら、そんな光景を見ているうち、 自分の心の中に感動が込み上げるのを 感じずにはいられなかった。あまりに平和だった。 また、当の学生たちがそれに気付かず、変わらず 元気な活動を続けているのもその一因であった。 誰かが学生時代について考えるのならば おそらく、真っ先に思い浮かべるであろう光景。 もし卒業アルバムの挿写真にあったら、どれだけ似合うだろう。 私はこの感動を誰かと分かち合いたかった。 今すぐ誰かに、感じた全てをありのままで伝えて 言葉のいらないくらいに深く理解しあって 一緒に、この光景にずっと見惚れていたかった。 まるで、誰かが理想として描いたかのような美しさ。 ただ、私は、こんな場合に誰かと感動を共有することは 他のどんなことよりも難しいことであるというのが、 嫌になるほど分かりきっていた。 たとえば、六月の雲の薄く平べったく広がる様、 風に揺れた葉の、落とす影の面白さ、 晴れつづきのある日、突然襲われる激しい雨の奇天烈さ。 私は、これらに的確な言葉を探すうち、 手探ればそうするほど、私の心の中にあった情念の 意味は薄く弱くなって、相手に届くことになるのだった。 たとえ会心の表現、芯のずっしりと構える言葉を 口に出せても、さして相手は困ったような表情を浮かべ 適当な相槌をうつだけだった。 何せ、皆んなはもっと、派手な美でないと好まなかったから! ごくありふれたものに見出せる価値には極致があって それらは何の役にも立たず、権威のひとつもないのだ。 もっと刺激的で爆発するような美、 それを感じれば、言葉を使わずとも相手を理解できるような、 かぎりなく甘美で一般的な、救済のような美しさ。 ただ、それらの訪れる隙がないほど、この空間には 充分すぎる平和と安穏が蔓延っていた。 ここでは、どれだけの美も、容易に飲み込まれてしまう。 もっと、誰にでも、分かりやすい、不変の美!! ドナドナドナ、ドナ、 私の頭に、古い童謡が響きわたった。ああそうだ。 晴天の下、市場へ続いていく道にあらわれた、 荷馬車に揺れる仔牛の悲しそうな瞳。 あの、日常にありふれる、一般的で残酷な場面。 そこにいくらかの美が感ぜられるのは、 平和の中に、残酷で恐ろしいものがあるからでないか? たとえば、あの窓の外の観葉植物の枝の節節から、瞬く間に 鮮血が噴き出て、周りまで真っ赤に染めてしまったら。 あるいは、その温かい瓦が一斉に音を立てて割れて弾けたら。 または、皆がドロドロに溶けて体育館を肌色の絵の具で 埋め尽くしてしまったら。 それはどれだけ分かりやすくて、派手な美なのだろうか。 きっと誰もが、感動を感じて目を輝かせるだろう。 もしそれらが、この空間にありさえすれば、私の思い描く 完璧で、究極とも言える美が完成されるのだ。 この考えは、すぐに私の頭の中を駆け巡った。 私は今すぐにでもそれを生み出したいという衝動に駆られた。 しかし、魔術も超能力も使えない私にとってみれば、 それは到底叶えることのできないような話で、 ただの夢想にすぎないことは、十分に理解していた。 美は、それほどまでに遠いものであったのか。 私は、もはや美の前では無力なのであろうか。 いいや、もしやすると、この限りない「晴れた昼下がり」が それを徹底して拒んでいるのではないだろうか。 そんなこと、絶対にあってはならない! 美への挑戦は、おそらく安穏を打ち消すことから始まるのだ。 なおさら私の意欲は高まって、 最終的には一つの方法、いわば芸術を生み出した。 「かわいい仔牛、売られてゆくよ 悲しそうな瞳でみているよ  」 私は、仔牛にふさわしい絶好のキャンバスを見つけた。 この平和に浸りきっていて、私の美に程遠いやつ。 平和の一部である、私と何ら関係のない元気な生徒。 筆はラケットだ。キャンバスは、彼の身体。 私はおもむろに彼に近づくと、画家がそうするように まず、筆をキャンバスへ殴りつけた。彼の驚いた顔といったら! 美術教師が、私の作品につけた、あの点数を見よ! これこそ芸術の爆発をみた人間の表情ではないか? ただすぐに、彼の顔は歪んだ。これも美を拒絶する平和の為だ。 私は尚も、その表情の見えなくなるくらいまで...... 言わば平和の香りが全く消えるまで、美を描き続けた。 そのうち、周りのやつも私の美の表現に気付くと、 驚いたように引きついて「あっ」と声を漏らした。 これも美の目撃にふさわしい感嘆詞だ。 皆、私の芸術をしばらく目を見開いて眺めるうち、 またもや平和の力のために、私の腕を押さえて妨げようとした。 何だ、皆だってさっきはあれほど感動していたではないか? 私のことを睨むようにしながら、私の芸術を壊そうとする。 平和や安定がそれほどまでに恋しいというのだろうか? いいや、もしやすると、恐ろしい前提だが、 誰にも通じないこれは、はじめから美ではなかったのか? 結局、私の美を理解する者はいなかった。それまでだった。 同時に、恐ろしく巨大な美にも、恨めしい平和にも負けた。 私は芸術の亡くならないうちに、体育館を走って飛び出した。 いつしか息が切れて、膝に手を置いて上を向くと、 皮肉なまでに、雲一つない空が私を見下ろしながら広がっていた。 ああ、こんな空。 今日は「ある晴れた昼下がり」ではなかったのか。 『ドナドナドナドナ 仔牛を乗せて ドナドナドナドナ 荷馬車が揺れる』

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朝ぼらけ

東の方から突如現れた朝日は まず手はじめに、空と雲を桃色に染め上げると、 次に、波の流れの揺ら立つ海に その、円く眩しい光を、まっすぐ差し込ませた。 いずれその光ものぼって、すべてを包むようになると 海はいつも通りの、薄い青と緑の交わった姿に変わり、 雲の表の方は白色へ、その裏は灰色へと戻ってしまった。 そして、それを吊り下がって眺めるだけの木の葉も、 遂には地面に、自身の陰を落とすようになっていた。 ただ、その陰の中で、まだ夜の明けぬところがあった。 灌木の間では、湿ってべちゃべちゃしたぬかるみが 木の根の目の間に、泥を挟みこもうとしている。 しかし、風が吹き、木漏れ日のちらちらが揺れ動くと、 その泥は色を薄く落として、いつのまにか馴染んでいく。 彼の茶味がかった細い髪の毛もまた、差し込む光に 輪郭を黄金色へと鋭く輝かせ、風にこわごわした それを漂わせているのだった。 昼・・・日差しが、熱く強く降りるようになっても 海は依然とその流れをゆらゆらさせながら、 上から降ってくる光を白く跳ね返していた。 雲も、より低く、それでも自分は高く積み上がって 自身の大きさを広く全てのものに示していた。 木の葉の陰も、まっさかさまに落ちていた。 ぬかるみの水は、もうとっくに乾いている。 彼は、顔の白くなるほどの光を浴びていても それを邪険にする様子もなく、ずっと目を瞑っていた。 風は、半開きのままの口元を通りすぎた。 鼻のとなりの頬だけが、未だに陰を落とされていた。 青臭い香りがあたりに漂っていた。 日は傾き始めた。雲はまた桃色へ、 海も朝のように色を直しはじめていた。 斜陽は、空に浅く紫色を付け加えた。 葉の光る色も、甚しく橙色だった。 唇の隙間から見える白い歯にも、その色が映されている。 彼は朝から動かず、風だけにまつ毛や髪の毛を揺らした。 彼のぶらぶらしている裸足には 飛び跳ねた泥の乾いたのが、茶色くこびりついていた。 彼は閉じた瞼の裏から、すべてを見つめていた。 あの大きい雲は、所詮さわれるものではなくて、 分厚いように見えても、実には薄いのだ。 木の葉も、光を集めようと先まで伸びているが、 その分、他の葉には光が当たらなくなる。 海に差すあの光だって、まっすぐ輝いているように見えても 波の細かくゆったりとした揺ら立ちのせいで、 右に左に大きく曲がっている。 それは、彼が自身の首を縄にかけたときもそうだった。 彼はそのゆがみを認めてしまったとき、 同時に自分の醜さにも勘付いてしまったのだ。 水平線の奥で、赤く燃えるように輝く太陽の光が、 放射状にまっすぐ光を伸ばして、 彼の顔を、朝焼けとも夕焼けとも分からぬ 朱色に撫で染めていた。

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酔夜

夜明け前、頭の中に香の煙が広がって うすくむんむん、心地よい眠気がする。 街でただ光るのは青白い電灯だけで、 東の空は、ほんの少し桃色に染まりはじめているが、 それでもまだ、暗くて自由な夜の匂いが漂っていた。 夜は、通俗の娯楽を忘れさせるほど魅力的だ。 人がいない道に、法律やマナーなんて存在し得なくて、 寝転がって動物の真似をしても、誰も何も言わない。 虚飾も、美醜も、善悪も、優劣さえ消え入る、 のみならず永遠であって、どこまでも深く影を落とす夜。 そこにいる内は、何だって叶う気さえする。 10mの大ジャンプ、そんなの朝飯前さ。 えら呼吸だって、できないことはない。 宇宙旅行。え、宇宙旅行? それは昨夜、月の石を土産に帰ってきたじゃないか。 それでもやはり、朝の陽は憎たらしい。 それは、私たちに進歩、変化を求め続け もし気に食わないもの、何も満たさぬものを見つけると 自慢の光で、それらをあからさまに照らし出そうとする。 そうやって見つけられた者は、他の、模範的なやつに 裁判されるのだ。間違え探し、あるいは私罪。 少なくとも、容易い赦しなど許されない。 だが夜は真っ暗で、私たちどころかすべてを隠してしまう。 私たちは、そんな深い夜に酔っている。 また、そんな夜には、優しい愛が似合う。 ちょうど夢から覚めるころ、私は部屋の隅にちぢこまって、 気怠さと、刻一刻と差し迫る何かにひどく怯えていた。 ただ、いつからか私の横にあの子が寄り添っていて、 私が、静まり返っていた夜に犯した罪を 全て見透かしながら、それでもそれを受け容れる寛大な目で 私の横顔を見つめている。 「つらいなら、いっしょに死んであげようか」 それは慈愛に満ちていた。 私への同情、心配、不安、嫌悪、、、微塵もなかった。 そして私の病気の頬へ、微かな鼻息を当てたあと、 紅い唇を軽く押しつけた。それだけでよかった。 美しくない。単純すぎる。見栄の一つさえ張れない。 並の努力も苦労も、人間としての労働もできない怠惰。 無力な夜の廃人にも、救済は訪れた。 そこには、安らぎと幸せが確かにあった。 夜空の幕が端へ引かれるように だんだん星が隠されていき、 夕焼けよりも鮮やかな空が広がりつつあった。 大きな目が木々の葉の間から光を差し込ませて、 ここのすべてを照らし出そうとしている。 今はまだ、夜のことを知っている者はいない。

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波打ち際

砂浜にはずっと、波が押し寄せていた。 砂を崩しては埋めて、何回も何回もやっていた。 海には、まったく人も船もいなかった。 東京の学生は、この海の近い家へ帰っていた。 学生は大抵、この場所で休みの大半を過ごすのだ。 昔はこの場所もよく栄えていたが、 今は港の網も朽ち果てて、道も散々荒れていた。 学生の家から海へ行く道には、 そんな、脇から高い草が覆いかぶさって、 たまたま、トンネルのようになっている場所があった。 学生は、この場所を自分しか知らないと信じている。 海へ遊びに行くときも、密かな楽しみにしていて、 もちろんそれを誰かに話したりすることはないし、 そこへ誰もいないのを見ると、誇らしい気持ちになるのだった。 その日も学生は、朝から海まで出かけて、泳いだり 魚や蟹を捕まえたり、ぶらぶらして時間を潰すつもりだった。 しかし今日、学生はあの場所で一人を見つけた。 学生は、何でもないように装ってその横を通り過ぎた。 若い女、だいたい学生と同じくらいの歳かもしれない。 麦わら帽に白いワンピースを着て、道の片側に座っていた。 学生がそこで人を見るのは初めてといっても良かった。 しかも若い人間などは、この街にはもう殆ど残っていない。 だから、そんな人がいるなら、必ず学生の知り合いなのだ。 しかし学生に、あの顔に見覚えはなかった。 学生は、少しはそれに戸惑ったけれど、 海へ行って波を浴びるうち、あの女のことは忘れた。 学生は今日も、日が沈みはじめた頃に家へ帰った。 帰り道、あそこは灯りがないから、少し気味悪いのだ。 ただ、今日はそこにワンピースの白色が目立っていた。 学生は驚いた。彼女が一日中そこへ座っていたことにも、 または、夕日の橙に染まった彼女の頬の美しさにも。 学生はたまらず彼女に声をかけた。 「ここらはとても暗くなるから、はやく帰りな」 ただ女は、何だかよく分からない頷きをして まだそこに座り続けていた。動く気配すらない。 学生はこれ以上何か言うのもお節介な気がして、 「まぁ、それじゃ」と言って、草のトンネルを抜けた。 もう星が、ちらちら見えはじめている頃だった。 学生は次の日も、海へ出かけた。 あの女も、昨日と同じ場所で座っていた。 学生はまた同じように、彼女を気にも留めないように、 知らないふりをして横を通り過ぎた。 ここら辺は、学生の故郷であった。 学生が高校へ進学するとき、彼はその近くへ引っ越した。 幼い頃から見続けていた海が、電車の窓から 静かに消えていってしまうのを学生は未だ覚えている。 赤ん坊のときから、母に連れられ海へ遊びに行くときは 必ずあのトンネルをくぐっていたのだった。 潮の香と風の流れを感じると、いつもその気分になる。 学生は、海が好きだ。 その日の夕も、その次も、さらに翌日も、 彼女は変わらずそこで座っていた。 学生がどれだけ朝早く海に来ても、どれだけ遅く帰っても 彼女はずっとそこで座っているだけだった。 そういう内に、学生の休みは終わりに近付いていた。 そんな休みの最後の夕、学生は彼女の横へ座った。 「明日、東京へ帰るんだ、毎日何をしていたんだい」 海の奥の方で、さそりが顔を出していた。 「別に、ただいるだけよ。 あなただって海に行くのに、大した理由もないでしょう? あなたが帰るなら、私もあした帰ろうかしら」 「帰るってどこへ?次はいつ、ここへ来るつもりなんだ」 「さあ、 私も分からない」 彼女は微笑みながら俯いた。透き通るような声だった。 学生は、それ以上何も話さなかった。 ただ、いつの間にかいつもの帰路についていて、 彼女もいつも通りに座っているだけだった。 次の日、学生はまた海が遠ざかっていくのを見た。 車窓には、いつもの海が変わらず見えていた。 田んぼと砂浜の間の、少し緑が覆っているところで、 あのワンピースが潮風に揺られているのか、 それとも、夕日に頬を赤く染めているのか、 学生に確かめる術はなかった。

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前座

かつて、ある部屋で、何かの儀式が行われていた。 そこでは、弦をペンペンと鳴らす古い音と、 力強く逞しい太鼓の音が重なり合っている。 時々、弦の弾きが速く、強くなっていくと 負けじと太鼓の音も大きく響くのであった。 楽器が演奏される手前では、 赤い鉢巻をつけ、生地に安っぽい金色の刺繍が 施された法被を着て踊る、若い男たちの姿があった。 彼らは小太鼓と小鉢を片方ずつ両手に持って、 飛び上がったり体を回したりして舞っている。 動きに、繊細な美しさこそないものの 額に浮かぶ汗は、若さを感じさせるのだった。 それらの観客も、手拍子で舞いを奮い立たせ 体を揺らして熱を産ませている。 観客が合いの手を挟み、掛け声をかけると 弦の音はいっそう激しくなり 太鼓は全てを震わせる勢いだ。 若い男たちの顔は見る見るうちに紅潮し、 踊りはますます疾くなっていく。 空間全体がそれら全てに支配されたとき、 この活動は、命を手に入れ、輝き出した。 恐らくこの命は永遠終わることはないであろう。 いつまでも生き続け、世界の中で舞い踊る。 だが、これは前座に過ぎない。 彼らも私も、まだ若いのだ。 この空間は青春の一幕となって残り、 その熱が、彼らをどこまでも動かし続けるのだ。

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島の夏椿と入道雲

島では梅雨が明け、陽射しの照りが日に日に増していた。 小さな夏椿の花は、空を眺めていた。 竹藪の遠くに、入道雲が浮かんでいるのだ。 冬の薄くて高い雲とも違う、雲の中にできた陰影が 一番下から上の方までもこもこ盛り上がっているのは、 遠くから見てもどれだけ大きいかは十分に分かるのだ。 そんな迫力のある立体的な雲が、水色を背景に 空の一部として、絵のようにひとつ、平らになっているのが 不思議で不思議で、しかしどこか不気味で堪らなかった。 夏椿はずっとずっと、その入道雲を眺めていた。 風に流され視界の端に消えていってしまっても、 また戻ってくるか、よく似た雲が新たに出てくるのだ。 いつしか日が暮れ、風向きも変わり始めると、 大抵左へ流れていた雲が、夏椿の方へゆっくり進んできた。 夏椿は最初こそ、その近付くのに気付かなかったが、 雲の陰影が次第に鮮明に現れ、雲の下が覗け始めたので ようやくそれに気付いた。 昼間の夏椿は、恐らくそんなのに喜んだであろう。 しかし、今の夏椿は、赤い夕焼けを後ろに、 輪郭を赤紫と桃色に染め上げて、 昼間の白色を灰色に変えてしまったあの雲を 恐ろしく不気味に思う他なかった。 雲の真下に入っては、もこもこした高さも見えないし、 美しく、壮大な迫力も消え失せてしまっているのだ。 夏椿は、ただその雲を見上げていた。 その夜、島に雨が降った。 季節の移り変わりを象徴するような、突然な雨だった。 一つ一つの雨粒が重く、激しく、島の地面を叩き鳴らした。 島の生き物たちはそれぞれ雨に洗われ、 隆々とした体は、これからはじまる夏、 あるいは生命の一瞬の輝きを予感させるのだった。 夜が明けると雨は止み、雲は流れ、 何事もなかったかのように青空が広がった。 竹の葉から滴る、朝露か雨かも分からぬ水は 地面に大きな水たまりを作っていた。 そこには青空が映され、 白い清楚な花弁が静かに浮かぶだけだった。

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盲愛の踊り

学生は、誰もいない校内を跳ねながら歩いていた。 それは恍惚というのか、陶酔というのか、 とにかく、意識もはっきりしないで、嬉しさだけに 踊りのようなおかしな歩き方をしていたのである。 学生は、一種の狂人であろう。 彼は怠惰なくせに、ひとつのことに執着すると それからは、ずっとそれだけに身を注ぐ性分であった。 それは、恋愛だとか何だとかにも変わらない。 彼が妙な踊りをしているのには訳があった。 彼はいつからか、一人の女に執着しはじめた。 どれだけそいつが醜く、汚い性格の持ち主でも、 学生は、ずっと彼女に目を奪われ、四六時中それを考えていた。 実際、学生のノートには彼女のスケッチが何枚もあったし、 彼女の最寄駅や、乗って来る電車の時間なんかも把握して、 異常なまでに付き纏うようになっていたのだ。 しかし、学生はそんなひね曲がった心意気だからか、 彼女と話すことはほとんどなく、性格については 学生の理想と想像だけで考える他なかった。 それでも、学生はやはり彼女が好きでいて、 おそらく、彼女の顔を詳細に写した彫刻でもあれば 学生は満足して、彼女に付き纏うのはやめたであろう。 つまり、彼女の本質などに、学生の興味は向かなかったのだ。 この建物の中にいるのは、この学生と何人かの教職員だけだ。 学生は遂に学校中を我が物にしてしまったかのような 満足感でいっぱいだった。今、学生を呼び止め叱るものはいない。 革靴のまま廊下に出ると、奇妙なリズムを刻みはじめた。 カタッタタトトトントン、カタッタタトトントントン... 誰もいない教室の床に、風で揺れるカーテンの影が映るのを見ると その踊りはいっそう激しくなって、三度高く飛び跳ねると 学生は肩で息をして、そこらにある椅子に腰掛けた。 学生は、突き止めたのだ。 学生にとって、それは彼女の秘密を知るのに等しく その行為がどれだけくだらないことだとしても、 学生の愛情の矛先を向けるために仕方のないことだった。 学生は、奇妙な踊りの通り道を引き返して階段を降りた。 四桁の数字を口ずさみながら一階に着くと、 ロッカーの並ぶ玄関へ来た。 そこには全校の生徒のロッカーがあって、 勿論、学生のロッカーも彼女のロッカーもあった。 それぞれに靴だとか教科書だとかが仕舞われてあって、 学生は、わざわざ休日にこの校舎へ忍び込み、 彼女のロッカーの番号を、ひとつひとつ手当たり次第に 調べていたのである。 0000から始まり、0001、0002、 遂に710番目でつまみが九十度回った。 その瞬間、今まで学生が戸しか見えなかった奥に 彼女の私物の広がるロッカーを目の当たりにしたのだ。 彼女の上履き、名前の薄く書かれた用紙、あるいは菓子の袋 それらは学生の卑猥だったり我儘であったりする 妄想をことごとく掻き立てるのに十分だった。 学生はそれがあまりに嬉しくて、奇妙な踊りをしながら ひとつひとつの妄想を思い浮かべて、校舎を巡っていた。 学生は、それが全て叶うのが嬉しくて、堪らなかったけれど 彼にはそれで十分であり、実際、満足感で一杯であったため 何もせず戸をそっと閉め、ダイヤルを元に戻すと 誰もいない校舎を後にした。

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駄文

学生の時の話です。 私は、頭の悪い生徒だったので、 度々、再テストや補習に引っかかっていました。 もちろん、その日もです。 私の好きな人は、私より頭の悪いやつでした。 私が彼の何が好きだったかは、自分でも分かりませんが、 顔というか、雰囲気というか、彼の周りに渦巻く 独特な感じが、どうやら気に入っているようでした。 ( 好きと言いますが、付き合いたいどうしたいだの、  そういう恋心ではありません。まず同性ですから。  しかし、友達として好きとか、そんなわけでもない、  後になって説明するのも面倒くさい様な、  中途半端な感情を抱いていたのでした。    ) その日、私はいち早く再テスト用の教室へ向かって、 昼休みの内に、誰よりも早く終わらせようと奮起していました。 用紙に答えを書き、教卓へ持って行き×印をつけられる、 その作業を、×が⚪︎になるまで何度もやっていたのでした。 しばらくして 私の早く来た努力も虚しく、だんだん補習者が増えていきました。 私は教卓への列に並びながら、それを焦って見ていました。 気付くと、その補習者の中に彼がいました。 彼は、私と違ってとりわけ友達も多いので 三、四人の仲間と一緒に、教室へ入っていきます。 やはり私は彼が好きだったので、それを目で追ってしまいました。 彼は、自分の席をどれにしようか品定めをして ゆっくり顔でチラチラした後、私の隣へ座りました。 どうやら彼は、自教室に筆箱を忘れたまま来たようです。 (私がそれを救って恋が始まるとか、そういうのではありません) 彼はちょっと立ち上がって、辺りを素早く見渡したあと、 私の座っていた机から、私の鉛筆をひょいと盗りました。 私は、一瞬の驚きを経た後、 彼に鉛筆を貸してやれたという喜びと、 彼がどうして何も言わずに盗ったのだろうという疑念、 そもそも彼がそれをどういうつもりで盗ったのだという感情が ないまぜになった、おかしな気持ちに襲われました。 私は列に並んでいたため、何も言うことは出来ませんでした。 私は、丸付けがされている間も考えていました。 結局、私は二つの場合を考えました。 一つ目は、彼が私の鉛筆だと知った上で奪って、 私が見えてから返そうと思っているという場合。 二つ目は、ただ単にそこに都合のいい鉛筆があったため、 誰のかは知らないが、使ってしまおうと考えた場合。 後で返すとは言え、無言で物の貸し借りをするほど、 仲のいい間柄ではありませんでしたが、 私は彼を信じて、前者だと思い込むようにしました。 私の補習は努力の甲斐あり、早めに終わりました。 ただ、⚪︎がついてもいつもより嬉しくありませんでした。 私は自分が使っていた机に戻り、筆記用具を筆箱に入れ、 教科書も本も全部片付けて、自教室へ戻ろうとしました。 思い返せば、そのとき彼に、後で返してね、と一言かければ その後の無駄な悩みも何もなかったのですが、 私の、妙に臆病な心と、少しばかりの好奇心とが その行為をするのを止めてしまいました。 私は、教室に帰ると、机上に鉛筆を散乱させ、 もし彼が返しに来たときにしれっと起きやすいよう、 あえて外に出て、昼寝をしていました。 やはり、それもよく眠れませんでした。 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったので、 私はそれを起きたまま聞いて、教室へ戻りました。 ありません。私の置いた鉛筆以外、何もありませんでした。 筆箱は、鞄の奥底へ隠していましたし、 教科書も、机の中も整理しましたので、 少しいじったら分かるようになっていました。 (私は、それくらい意地の悪い子でした。) 結局、私は彼に何も言えないままで、 彼も私には何も言わずに平然と過ごしていました。 その間、彼の横顔をチラチラ見るたびに、 いつも感じていたときめきは一切感じられず、 肌の奥底からめらめらと、人間の汚さ、悪さが 滲み出てきて、私を襲いそうな予感さえしました。 彼が友達とくだらない話をして笑うのを見ると 私は、失望のような、興ざめをしました。 私は一日、その鉛筆を諦めるかどうか考えましたが、 そんな興ざめで終わるのが、もっと興ざめでしたので、 直接彼に問い詰めることにしました。 そうして一日空いた日。あの日の翌々日です。 また同じ教室で、同じ時間に補習があったので 私はそれに行く必要はありませんでしたが、 そのためだけにわざわざ行きました。 私はまたしても一番乗りでしたので、 窓を開け、なまぬるい風を浴びながら 彼が来るのを待っていました。 彼が教室へ入ってきました。 長く頭で考えていた彼の姿が実際に見えると、 私の胸で、あの恐怖と、臆病な心がざわめきはじめました。 私は、今から人間の醜く、汚い面に触れるのだ。 果たして、彼が素直に罪を認めてくれるのだろうか。 そもそも覚えてすらいなかったら、どうすればいいのか、 はたまた、激しく反論されて、私は何か言い返せるだろうか、 そんな「もし」が縦横無尽に駆け回り、 彼の周りの友達さえ、とても私の敵のような気がします。 やはり諦めてしまおうかと思いますが、彼の笑顔が、 また私に、興ざめと怒りを沸かせてきたので、 意を決して席を立ち上がりました。 話しかけたのは、彼が一人になってからです。 「あのさ、一昨日もここで補習あったよね」 彼は、普段大して話さない私に話しかけられ、 一瞬驚きたじろぎましたが、私の方を見ました。 「筆箱から鉛筆奪ったよね、あれ今どこにある?」 彼はその言葉の途中で察したのか、思い出したような顔をして 両手で前髪を掻き上げて、その肘を机にのせて 考えるような素振りを見せました。 私はもう一度鉛筆がどこにあるか尋ねました。 (こういうときだけ、変な勇気があるのでした。) 彼は困ったような顔をして、口を横に広げて苦しく笑いました。 「もしかしたら筆箱にあるかもしれない」 彼はそうやって筆箱の中を探すような仕草をし終わると、 「教室に戻ってまた探してみていい? とりあえずここの問題教えてくれない?」 と言って、自ら、分の悪いこの話を終わらせました。 私は仕方なしに解法を教えると、 彼が解き終わるのを待っていましたが、終わるまでに 時間がかかりそうだったので、いつもの場所に 昼寝をしに行きました。その日は眠れました。 チャイムが鳴って、起き、教室へ向かうと 彼はやはり、友達とくだらない話をして笑っているのでした。 彼は、私を見つけるとゆったりとこちらへ歩み寄り、 私の左肩に手を置くと、揺さぶるようにして 「家で探して持って来る」 と、一言だけ言って、 私がそれに頷く頃には去って行ってしまいました。 そんな、物を盗った相手にするとは思えないほど、 思慮に欠けていて、意地らしい態度をされても その時の私は、かくれんぼで鬼が通り過ぎたときのような安堵と、 罪人を更生させたかのような満足感のみでいっぱいで、 鉛筆を返してもらうことなど、もはやどうでもよかったのでした。 次の日も、彼はくだらない話で笑っていて 私と同じように、鉛筆のことなど気にしていないようでした。

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島の海と蜜柑

 ある日、島の横を、一隻の船が通りすぎて行った。 スクリューはかたかた廻り、波を押し分け進んで行く。 海は、スクリューにかき混ぜられたせいで、 青い海面に白い泡粒をぷかぷか漂わせている。 その泡粒は船の尾から、足跡のように伸びていた。 時折吹く風が島の林を揺らすだけで、 そこでは船と波以外、動くものはなかった。 島の崖のふちには蜜柑の木がひとつだけ生えている。 そこの蜜柑の子供の実は、その船をただぼおうと見ていた。 最初こそ、珍しいものを大人の実たちにも教えてやりたいと 思っていたが、先日の嵐が、雨と風で蜜柑の木を殴ったため 外側に生えていた大人の実はどこか遠くへ飛んでしまった。 残った実も、どうやら皆疲れて眠っているようで、 何度呼んでも返事は帰ってこなかった。 やはり時折風が吹く。 そうやって、木の葉が視界を覆う度に、 船を見失ってしまって、いちいち探さなければならなかった。 それを何度か繰り返した後、遂に船も遠くへ行ってしまった。 しかし、まだ、あの白い足跡は漂っている。 波が押し、波に引かれ、 それもまたかきまぜられるが、なかなか消えてはいかない。 蜜柑は、そのおかげで船の通った道を忘れることはなかった。 仲間が起きたら、あれを指して、船のことを教えてやろう。 そう思っている内に、蜜柑はうとうと眠ってしまった。 夢の中で、蜜柑はあの船に乗って海を進んでいた。 島の崖のふちに一本の木が生えていて、蜜柑たちがなっている。 かたかた鳴っている船は、思ったより早く進んでいて 蜜柑の木は見えなくなってしまっていたが、 ふと海に、鮮やかな橙色の粒が浮かんでいる。 どれも知った顔であった。 ああ、前に飛ばされた大人の実は、海に落ちて ぷかぷか泳いでいるんだなあ。。。 目を覚ますと、あの足跡はとうに消えてしまっていた。 あそこに船が通ったことは、蜜柑と船乗りしか知らないだろう。

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