道徳的な山羊

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道徳的な山羊

「後川」だった者です。17歳の若造です。「カクヨム」での投稿も始めました。 第七回N−1 12位  435点 第八回N-1 9位  318点 第九回N-1 8位  489点 King of Novelee vol.3 5位

明くる夏の日

 私が君の姿を遠くに見つけたのは、駅に降りて間もないときのことだった。私がプラットフォームに降り立ち、蝉の騒がしい鳴き声と、皮膚を灼きつくすかのような日光に包まれたとき、ホームの端から端まで連なる車両たちの、さらにその奥で、私は君らしきシルエットを認めた。シルエット。リュックサックを右肩にかけ、しばらくその姿勢のまま怠そうに歩いてくるそのシルエットは、君が電車から降りてくるときの大抵の癖らしかった。だから、私は君の顔がよく見えない内にも、それが君だと理解し得たのである。 それでも、私がそれを目にしていたのはほんの少しの間だけだった。君が一瞬立ち止まって、左肩にリュックサックの紐をやっと通したときには、私は、すでに他の学生に混じりながら改札の方へと歩みを進めていた。しかし、歩みを進めると言っても、私はそれを他の学生たちより幾分か不自由に、或いは、後ろから歩いてくる君がちょうど追いついてくる時機に合わせて、まるで鞄の中の何かを探しているふりをしながら、ゆっくりゆっくり歩いて行ったのである。 「何か忘れた?」 私は、そうやって掛けられた声が私の期待通りだったことに安心して、また、これから進めるべきいくつかの台本の中身を確認して、徒らに振り返った。 「ぃやぁ、別に。 読んでた本を仕舞おうと思って。」 「そうなの、何読んでたの?」 「あの、芥川の『蜃気楼』って分かる? 『続 海のほとり』と言ったりもするんだけど、 あの、あれ、夏休みの課題で読書課題があるでしょ、 それのために読んでおこうと思うんだけど」 「ふーん」 君はそう呟くと、おもむろにはにかんだ。 「俺、頭悪いから、そう言うのあんまり分からないわ」 その言葉たちも、君の癖だった。 私たちは改札を抜けると、青空の下、剥げかけたアスファルトで舗装された道を歩きはじめた。 「いつも頭が悪いって言うけど、 今回の期末だって点数高かったんでしょ? 順位はどれくらいになりそうなの?」 私は、自分でそう言っておきながら、今日が、夏休み前の最後の終業式であることを思い出した。それは或いは、君とこれっきり会えなくなるであろうことを示しているにも違いなかった。 「うーん、返されなきゃ分かんないな。 前回よりは絶対に低いし。」 「前回は?」 「学年九位。今回はそれより下。」 「あ、そう。それでも俺からしたら全然いいけどね」 「ま、悪いけど、〇〇より低いことはないね。」 君はまたもやはにかんで、私の方をちらっと見た。私はその冗談に、何とも言えない微妙な笑みで返すことしか出来なかった。それで君は一瞬黙った。そしてそれっきり、二人の成績のどうこうが話題に上がることはなくなった。 私たちはそのまま橋を渡ると、いつもの坂道に差し掛かった。その先では、クリーム色をした校舎の窓ガラスが、朝日を反射して私たちを照らしていた。辺りは青臭い香りでいっぱいだった。のみならず、それは道の脇から飛び出している草のせいであるのに違いなかった。しかし、それら、たとえば時たま風に揺れる深緑の木の葉たちや、空き地の真っ白な砂、そういった、たまらないほど夏の訪れを示すものたちのどれも、他の学生たちの話し声に掻き消されていった。その中で、君は口を閉ざしたまま、首筋に浮かんだ汗を拭った。 「結構やけたね?」 今度、話しはじめたのは私の方からだった。 「うん、部活ばっかりだしね。 テニスはだいたい屋外でしかやらないから。」 しかし実際、君の肌はそれほど焼けていなかった。それに、半袖から健康的な身体をちらつかすのも、私には恨めしいほどに見えた。 「そういえば、いつまで日本にいるの? どこに行くんだっけ?       」 私は思わずも、聞きたかったこと、それでいて聞きたくなかったことを口走ってしまっていた。 「スペインの島。名前は覚えてない。 8月の半ばまでは日本にいるつもりだけど、 もし航空便のチケットが取れたら七月中にも 向こうに行けるかもしれないんだって。  」 「へえ、スペインか。」 私は、鮮やかな海と、誰もいない砂浜とを思い浮かべた。それは、前にテレビ番組で見たものにそっくりだった。 「日本には帰ってくるの?」 「まあ、そりゃあ帰ってくるけど、 今の学年には戻ってこれないだろうなあ。 多分、今〇〇達の高二学年が卒業したあとから 高三として一年を過ごすか、それか、留学のツテで そのまま大学に行けることになるかもしれないし、 本当に、実際向こうに行ってみないと分からない。 日本でいくら上手くたって、海外にはもっと上手い やつらがゴロゴロいるかもしれないし、自分がどれくらい やれるのか、結局、気持ちだけ優ってたって意味ないからね。 もしダメだったとしても、それで日本に戻ってくるのは 逃げ道をつくっておくみたいで嫌なんだ。」 「へえ、やっぱりすごいね。 夏休みの宿題なんかも気にしなくていいわけだ。」 君は一瞬、驚いたように目を開くと、また黙ってしまった。 それは、君にとって冷笑かしに聞こえたのかもしれなかった。或いは、私の心の中で燻っていた何かしらのもどかしさが、たったそれだけにこもって、君に伝わってしまったようだった。 とにかく君は、それにははにかむような苦笑もしないで、暑そうに地面を向いたまま、足早に歩いて行った。君は、眉をひそめてアスファルトの熱を感じとっていたのかもしれなかった。 そのあとの会話は、それ以上にぎこちないものだった。君は義務のように返事をして、私も義務のように問いかけた。そうして、それだけであの坂道は終わってしまった。そして校門に辿り着いたとき、君のそんな足取りに従うかのごとく予鈴が響いた。私たちは少し急ぎなら、それでも先ほどとさほど変わらない速さで校庭を突っ切った。もちろん他の生徒たちもそうだった。しかし、校舎に入る前、君は誰もいないテニスコートの方を悲しそうにちらっと見た。それは、私が見たことのない、もしかしたら、君が誰にも見せたことのない表情であったのかもしれなかった。 私たちは、それぞれ別の下駄箱まで行くと、ばらばらに上靴に履き替えた。夏休み前であるのに、私のロッカーには持ち帰らなければいけないものが、まだたくさん残っていた。すると、下駄箱の裏から、他の生徒たちの声に混じって、君達らしき冗談とその笑い声が響いた。どうやら君は、仲の好い友達に遭遇したようだった。私はまたカバンを手探りに漁るふりをした。実際、そんなことを気にかける者も、その上、芥川なんて小洒落た趣味の本なんてのはどこを探してもあるはずがなかった。つまり、君たちが前へ行くための時間さえあれば、それで十分だったのだ。そして、それだけの間が置かれたあと、君はとっくにその友だちと肩を並べて階段を上りはじめていた。私はその後ろ姿を見ながら、同じ教室まで後を追って行くことしか出来なかった。 むろん、君は一度もこちらを振り返らなかった。しかし、それでもやはり、右肩にリュックサックを掛けるのは、君の大抵の癖であるらしかった。

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【第10回N-1】   『あ』

村のはずれ、審問所の一室で、取調べ官のヴァルドレクが神妙に口を開いた。 「君がアルヴェリオ君で間違いないね? 今日来てもらったのは他でもない。 先月起こった、とある事件についてだ。 君なら、言わなくても分かるだろう?」 アルヴェリオは両方の手首を縛られたまま、その快活そうな見た目からはまず想像もつかないような、しゃがれた声で話しはじめた。 「あ、何です?『ある事件』って? 全く見当もつかないのですが。   」 「ふふん、まあ最初はそう言うだろうな。」 ヴァルドレクは、おもむろに口角を上げた。元々しわの入っていた顔に、更にしわが寄った。その一つ一つが、彼の取調べ官としての功績のしるしであった。 「まあ、ここで揺さぶっても仕方ない。 時間ならいくらでもあるから、ゆっくり話そう。 まず、君はルネヴァール通りに住んでいるよな? この審問所からそこを突っ切ったら、広場の公園に当たる。 その東側の教会の横に、エルシェナという女が住んでいたん だ。まあ、それも君は知っているだろうがね。 そのエルシェナは今度、隣村の、ある資産家に嫁ぐことになっ ていたんだ。彼女の両親もそれを承諾した上で。 しかし、先月になって突然、彼女は姿を消したようでね。 それが、私の言う『事件』だ。年頃の女が姿を消すというの には、大抵何かしらの理由があるものだが、 両親に訊いても嫁ぎ先に訊いても、中々分からないそうだ。 むろん、こちらでも失踪者としてあちこち捜索したが 一向にその手がかりさえ見つからない。資産家の方も そろそろしびれを切らして、他の家との見合いをはじめている。 だがもし、このまま彼女が見つからなければどうなると思う? 隣村との長い信頼関係にもひびが入り、この村も、約束を破 ったことで他所からの評判もガタ落ち。それは困るだろう? だから、エルシェナと仲の良かった君を呼んだんだ。 そういえば、君は彼女と幼馴染の関係だよな? 何も包み隠さず言いなさい。 どうなんだ?実際、君は彼女の在処を知っているんじゃ?」 ヴァルドレクはそう言うと、アルヴェリオの顔をじっと見つめた。微かな表情の変化も逃すまいという、彼のいつもの方法だった。しかし、彼の期待に反して、アルヴェリオは表情一つ動かさず、淡々と答えはじめた。 「あ、僕は何も知りません。 確かに、昔は、エルシェナと仲こそ良かったけれど、 あいつの結婚先が決まってからは、会わないように していたんです。変な噂でも立ったら大変ですから。」 「ふーん、そうかい」 ヴァルドレクは目の前の青年を小馬鹿にするような微笑を浮かべながらそう言った。 「じゃあ、仮定の話をしよう。あくまで仮定だがね。 たとえば、もし君と彼女が恋仲の関係にあって、今度の結婚 の話が気に入らないから、向こうが諦めて他を探すまで、 君が彼女をどこかへ匿っていたりしたら.....?」 ヴァルドレクはそう言うと、もう一度アルヴェリオの顔をじっと見つめた。すると、一瞬彼は目を見開き、途端に顔をしかめた。もちろんヴァルドレクはそれを見逃さなかった。が、すぐにアルヴェリオの額を夏の烈しい日差しが照らしはじめたため、ヴァルドレクはその原因を捉えそこねた。 「む、ようやく雲が晴れたようだな。まあ、もし私の言った ことが事実だったとしたら、その作戦は上手いこと進んでい るように見えるね」 「はい、そうに違いないでしょうが。すみません、 少し眩しいのであの小窓を閉じてくれませんか?」 「ん、とのことだ。リュドラン君、すまないが頼む」 ヴァルドレクは、部屋の隅の机で書類を一つ一つ見比べていた若い男にそう言った。その男は「はい」と短く返事して立ち上がり、小窓を閉めた。その後、彼は、アルヴェリオの方を一瞬嘲笑うかのように見下ろすと、またすぐに机に座りなおした。途端、部屋はたちまち暗くなった。リュドランは引き出しの中に仕舞ってあった蝋燭を取り出し、火を灯した。そしてもう一度アルヴェリオの方を睨んだ。先ほどから、アルヴェリオはこの男を快く思っていなかった。なぜかといっても、そこに特にはっきりとした理由はないが、彼の鋭い目が眼鏡のレンズ越しに光って見えるのが、目の前の取調べ官の老年の男よりも不気味に見えるという、ただそれだけなのである。 「では続けるとしようか」 ヴァルドレクは呟くように言った。 「リュドラン君。君はエルシェナはどこにいると思うかね」 「彼女ですか?このアルヴェリオの元にいるでしょうがね。 考えられそうなところは大抵探しましたよ。 彼の家はもちろん、彼の友達等が拵えた森の奥の 秘密基地や、砂浜の廃屋に至るまで。街中を調べましたが 目撃情報も何もない。もしや、この男が結婚に逆上して 彼女を殺したのでは?」 「そんな馬鹿な!」 今まで、必要以外に沈黙を貫いてきたアルヴェリオが、唐突に口を開いた。一瞬、ヴァルドレクは驚いたような表情を見せたが、その陰でリュドランはほくそ笑んだ。 「ほう、じゃあ君は彼女の消息を知っているのかね?」 「あ、決して知りません」 「君はいつまでもそう言うね?本当に何も知らないのかい?」 ヴァルドレクはため息を吐いてそう言って見せた。アルヴェリオは首を縦に振った。 「ヴァルドレクさん、少し待ってください」 リュドランがアルヴェリオを睨みながら口を開いた。 「こやつの両親に尋ねたところ、こいつは先月から、毎夜 教会に赴き、祈りを捧げるようになったと言います。 実に、近隣住民からも夜道を歩くこいつの目撃情報が。」 「ほう、それは本当なのかね。」 ヴァルドレクはアルヴェリオの方を向いて確かめた。 「ええ、それは本当です。しかしそれはエルシェナが見つかる ことを祈っているにすぎないのです。」 「本当に?変なこともしていないのか?」 「あ、決して、そんなことしていません。」 「だそうだが、リュドラン君。教会は調べたか?」 「いいえ、教会が私たちを拒みました。 どうやら良いようには思われていないみたいです。」 「そうか。教会ねぇ... あそこは何かとうるさくて困る」 ヴァルドレクは足を組み直すと天井を仰ぎ、そこに映し出された三人の影を見つめた。一人の影は今も尚書類を漁り、もう一人は縛られたまま机に伏して何も話さない。そしてもう一人は、自身の目を見つめ返してきている....... しかし、そんなことにまで気を散らしているせいで、彼はアルヴェリオが前より一層汗をかきはじめていることに気付かなかった。 「ヴァルドレクさん?」 はっとすると、リュドランが二枚の紙を手に持ち、自分の目の前に立っていた。一つは普通の本のようなサイズ、もう片方は手帳をちぎった切れ端のようなメモだった。彼はそれを渡すと、小声で二、三言耳打ちをした。ヴァルドレクはその両方に目を通すと、おもむろに口を開いた。 「うん、結構。リュドラン君。君は今日は帰っていいよ。」 「はい、それでは。」 リュドランはそのまま扉を開けて部屋を出た。一瞬だけ室内が外の光に明るく染まったが、やがて扉が閉まると、元の暗さに戻った。 「よし、アルヴェリオ君。もう少しの辛抱だ。 あと二つだけ質問をしたら君を返してやろう。」 アルヴェリオは頷いた。顎から汗が滴り落ちた。 「じゃあ、まず一つ目。 君は夜に教会に祈りを捧げていると言ったね? しかしどうやら、君はその時に供物と称して 食べ物や水まで持って行ってるようだね。 しかも毎晩だ。供物にしては多い頻度だと思わないかい?」 「あ、いいえ、神には新鮮な食料が必要です。 傲慢で姑息でいては、祈りも届くはずがありません」 「うーん。君は信仰が厚い男のようだね。素晴らしいことだよ。 だが、私の助手が教会に行ったとき。それは朝だったようだが 祭壇には供物どころか塵一つさえ落ちていなかったらしい。 君は...あるいは教会はそれをどこにやったのだろうね? この頃、教会は夜中でも屋根から光が漏れているそうだし、 生意気なネズミでも忍び込んでいたとしか考えられないがね。」 「あ、さあ、知りません」 アルヴェリオの視線が泳いだ。ヴァルドレクは、今度はそれを見逃さなかった。 「じゃあ、二つ目の質問といこう。 君の家には、エルシェナどころか、世界中から集められた 極悪人たちが、息を潜めて暮らしているそうだね?」 アルヴェリオはきょとんとしたような表情を浮かべた。 「いいえ、そんな訳ありません。 僕をからかっているのですか?」 ヴァルドレクは、それを聞くと可笑しそうに笑い出した。 「ははは、まさか、本当なわけないじゃないか。 うん、君は今限りでここに来る必要はなくなったみたいだね。 もうじき帰らせるから、安心しなさい。」 ヴァルドレクは彼の後ろに回り、両手の縄を解こうとした。アルヴェリオはとうとうそこで表情を緩めた。健康的な顔面が顕になった。 「ああ、良かった。誤解が解けて満足ですよ。 早くあいつが見つかるといいですね。」 しかし、ヴァルドレクはそれを聞くと、縄を解く手を止めた。 「ああ、もう探す必要はなさそうだよ。 君は若いから、今後のために話してあげようか。」 アルヴェリオの顔が引き攣った。 「アルヴェリオ君。どうやら君は嘘だとかやましいことが あるとき、必ずと言っていいほど『あ』という声を漏らして しまうみたいだね?まあ、君の歳を考えれば自然なことだが。 それに、さっきの助手、リュドラン君と言うんだが、彼の 観察眼には流石の私も感服するね。誰も目が行かない所を ずっと見ているんだから。恐ろしいくらいにね。 君も彼の被害者だが、それにしてもよく、先月から今まで 私たちを欺いてきたね。 まあ、これまでの話だけでも何となく見当はついているから、 もう焦らなくて大丈夫だ。リュドラン君も向かっているしね。」 「.......教会の屋根裏だろ?」 『あ!』

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駅前のゴミ処理場

  駅前のゴミ処理場は   今日しも   また一人分静かであった

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ある学生小説家

 “新宿行”と表示された列車は、私が乗ってから間もなく発車した。私は、湿っぽい赤紫の座席に腰を下ろすと、堀辰雄の「燃ゆる頬」を鞄から取り出し、古書らしい埃の香りを浴びながら、そのはっきりとしない活字の羅列を眺めはじめた。電車は駅のホームを抜け、どうやら県境の河に差し掛かっているようだった。今日は曇っているから、水面は何の光も反射せず、ただ黙々と波を漂わせているだけだった。やがてその橋も抜けると、次第に住宅地が増えてきた、そんな様子が窓の外に確かめられるのであった。  例の如く、車掌の低い声のアナウンスが響いたあと、電車はまた新しいプラットホームへと身を寄せた。私は、未だに一ページも読み進めていないことに気付いて、頭を軽く振り回したあと、もう一度手元に視線を送りなおした。 ....三枝.............蝋燭の影..... ...........脊椎カリエス........... しかし、紙に載ったそれらの単語は、私の頭の中に届こうとしてもいつも直前で力尽きて、どうにも意味を持たない亡骸を残していくだけだった。その上、私はそれをよく承知していながらも、ただその亡骸を拾い集めることに熱心に取り組んだ。いや、取り組むしかなかったのだろう。だから、私はそれを打破するがために、一度深く息をつくと、その本をぱたっと一息に閉じた。紅色の背表紙に記された「堀辰雄集」という金文字がこちらをじっと睨んでいた。 私は一度ぎゅっと目を瞑ると、また窓の外に目をやった。ホームには沢山の看板があった。その内の一つ、メガネをかけた白衣のキリンによれば、駅前のクリニックは、今日は定休日であるようだ。 「他人のことをよく観察してみろ」 キリンは、私に向かってそう言った。 しかし、私がそのキリンの表情を捉えない内、いつの間にか電車は発車してしまった。のみならず、それは確かめるまでもなく、キリンの言葉は、私の先生の教えと一致していた。先生、というのは小説を見てもらっている先生のことである。しかし、私と先生しか知らないことを、なぜあのキリンは知っているのだろうか。そんな疑問を晴らすため、私は、あのキリンのことをもう一人の先生だと思うことにした。 それから、電車は幾度も別の駅に停車した。が、あの白衣の先生は、一度も現れなかった。 [他人をよく観察する] 私はその言葉をよく反芻してみた。それは、私が小説を提出するたび、先生が課題として挙げるものの一つに、必ずと言っていいほど含まれているものだった。しかし、今は、いつもの指摘とは違う、非常に私の近くで、例えば耳元で囁かれているような、そんな性質を持っていた。だからその言葉の味というのも、全く異質で新鮮なものとして私によく刻み込まれたのだ。  私は再び深く息をついた。確かに今まで、このように自分の中ばかりだけで話を決着させようとしているのが、先生のいう「他人の観察」の欠如に繋がっているのだろう。 電車はまたもや他の駅に到着した。今度の私は、先生の顔色を伺おうとするのではなくて、そこで乗ってくる乗客に目を向けるようにした。 これぞ現代風だといった服を身に纏い、甲高い話し声を鳴らす若い女達。手元の携帯に夢中で、下を向いたままボソボソ話す男子学生達。大体そんなのは、小説のために観察するには、かえって気分の悪いものであった。しかし、扉の閉まる寸前に乗ってきた老年の男、白髪としわの入った皮膚、私は彼に目をつけた。 彼は、私の向かいの席まで歩くと、ゆっくり腰を下ろして目を瞑った。しかし、彼はそうしながらも口のあたりをモゴモゴ動かして、なかなか眠りにつくことができていない様子であった。そして、そこから二、三駅が過ぎても、彼は依然として、その妙な動きをずっと繰り返しているのだった。 .......「疲れきった老人」とでも言うべきであろうか。 私が「観察」によって導き出したのは、そんなありきたりな像だけだった。とうとう私は飽き飽きしてしまって、また「燃ゆる頬」に手をつけようと、抱えていた鞄の中を手探りに漁った。しかし、ちょうどそれと同じとき、向かいの老年は胸元からおもむろに手帳を取り出すと、挟んであったペンを動かし、その端に何かを書き留めた。そして、彼は元の場所に手帳をしまい、また苦しそうに目を瞑りなおした。 私は、そこでようやく「観察」を行うことができた。私が手帳の背表紙の奥に見たのは「温泉旅行」という四文字だったのだ。 彼は今度、久々の休暇に、草津まで彼の妻と一緒に温泉旅行へ行くのだ。しかも、それは三泊四日。彼がそれほどまでゆっくりとした休みを取れるのは、実に数十年前、息子の冬休みに行った熱海旅行ぶりだった。もちろんそれを知った彼の妻は喜んで、今朝、いつもより丁寧に弁当を包んだのである。 私はそんな人生を老人に押し付けると、満足げに窓の外に目をやった。電車は、新宿まであと二駅というところに迫っていた。

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ファーベル君と貴方に与ふ

あの、きちがいの名はファーベル君と言った。 奴は綺麗な瞳を持っていた。まっすぐで曇りのない目。 そして、健康な肉体を持っていた。柔らかくてしなやかな。 性格、それもすこぶる快活だったね。きちがいだったけど。 彼は葉っぱの緑の濃く繁る、八月に生まれたんだ。 窓辺から差す真っ白な陽光に包まれて、 はじめ、親戚たちは彼を天使だと思ったんだって。 学生時代の彼は、何でも器用にこなす生徒だったね。 何でも、と言ったって、全てが一位ってわけじゃないけど、 周りの他の人たちに比べれば、 それなりに秀でることが出来ていたよ。 “他の人に出来ないことをやれるのが一番だ” あいつはよくそんなことを言ってたっけ。 だけど、生涯を通じて、友達というものが出来なかった。 むろん、愛を与えるに足るような人物も。 僕だって、本当に信用されていたかどうか分からないんだ。 要するに、 「ファーベルはきちがいだからいつも孤独なんだ」 彼はそのまま大人になった。その性質を残して。 しかし、ファーベル君はよくやってるよ?彼なりにね。 ん?ファーベル君に会いたい? 無理だよ。それは。 ファーベル君はこの前死んだ。きちがいだったからね。

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昼・・・ 黒い翳の迫る中で きみは素足を剥き出しにした

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花泥棒

初夏の風は水面を抜けると、土手の草を撫で、 やがてその脇道にある民家の軒先に達した。 引き戸は中途半端に開いたままで、擦りガラスの向こうの 玄関に、吊るされた洗濯物が揺れるのが透けていた。 のみならず、その原因は先ほどから辺りを吹き回す、 いやに生ぬるい風なのだった。 日は高く昇って、その光が薄暗い部屋の中を照らしていた。 台所の蛇口から、水が滴り落ちる音が響いていた、 が、それはうるさいというほどでもなかった。 奥の茶色い木目の古い居間で、若い男が花を愛でていた。 簡素な服だけ身に纏って、まるで自由人な格好だった。 その男は、はだけた服を弄りながら喋った。 「へへ、もうそろそろ終わりにした方がいいかな」 男はにやにやしながらもその花の先を眺めていた。 彼はその花を愛しているつもりだ。 彼はいつもその花を眺めるたびに、 何とも言えぬ独特な期待を抱いていた。 それは、脈の透ける葉のあまりの薄さだったり、 柔らかくしなやかな茎の脆さだったりするのかもしれない。 しかし、当の花はそんなことはつゆ知らず、 風のなすがまま、ふくよかな花弁の先をゆすった。 差した光の中で、花粉が埃のように舞った。 「いやだな、そんな顔されたら困るだろう?」 男はおもむろにその根元を強く握りしめた。 その瞬間、花弁が鮮烈なまでに赤く輝き、 瑞々しさを発しながら甘い蜜に濡れた。 男は、慣れた手つきでその蜜を舐めとろうとした。 彼にとって、愛するということはそれほど 複雑なことではないようであった。 しかし、男の鼻先がそれに当たるかどうかのとき、 玄関の引き戸が強く閉められる音が響いた。 不意の来客だった。 スーツを纏い、帽子を深く被った男は、 どうやらこの家の主人であるようだった。 彼も、あの若い男とは違う形でこの花を愛していた。 「誰かいるのか、こんな昼間からどちら様だ?」 その太い声を聞いた男は、慌てて服を整えると、 素早く茎から手を離し、そのまま玄関へ向かって 靴を脱ごうとする主人を押し除け、 こじ開けた扉から一目散に走り出した。 主人は何が何だか分かる前に、靴を履いたまま 萎れかけた花の前まで駆け寄った。 花は俯いたまま手をついて、畳の上で膝を折り曲げていた。 主人は、艶かしい唇と汚れた瞳を確かめると、 柔らかかった髭面を千切れるほど顰めた。 机上に焚かれた蚊取り線香の煙が 天井までゆらゆら上がり、その途中で風の流れに失せた。 その後、二、三度の怒号を響かせ、主人は軒先から飛び出した。 花泥棒は目的の品を置いたまま、とうに逃げ出していた。 だけれど主人は、もはやそんなことはお構いなしに、 重い体で、道沿いを無我夢中に走り始めていった。 そして...... そして、それを見届けた私は立ち上がり、 尻についた芝を振り払うと またもや半開きになったままの扉へ向かって走り出した。 あの部屋に取り残された花を摘み取るべく....... むろん、生ぬるい風が背中を押してくれていた。

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夏の停車場

私は草原の道を歩いていた。 道の先にあるはずのバス停へ向かって、 今までずっと、彼と二人で歩いてきた。 ちょうど私が疲れてきたころ、 少し前にいた彼は急に立ち止まって 道端の丸太に腰を下ろした。 「どうかしたの」 「いや、ようやく着いたみたいだよ」 「着いた、って、ここがバス停なの?」 「うん、多分そうだよ、前に聞いた通りだ」 彼は大きく息を吐くと、隣に座るよう促した。 背の高い草の間から、青空がちらちら覗いていた。 「バスはいつ頃来るのかしら?」 「分からないけど、長くは待たなくていいみたいだ」 「本当にここがバス停なの?時刻表もないようだけど、」 「いや、心配することはないよ。 本当に前聞いた通りなんだから」 「そうなの、ならよかった」 歩くのをやめると、何だか随分静かに感じられた。 どこか遠くの蝉の声だけが響いていて、 それ以外には、時折草が風に煽られるだけだった。 私が髪の毛を耳に流すと、彼がまた大きく息を吐いた。 隠していたつもりでも、どうやらひどく疲れているらしい。 私はハンカチで彼の額の汗を拭ってあげると、 汗ばんだワイシャツの肩に頭をもたげた。 彼は何も言わずに、どこか遠くを眺めるだけだった。 私は、呼吸に合わせて、彼の肩が上下するのを感じた。 彼は、草から顔を出している、遠くの入道雲を 眺めているようだった。 「ずいぶん大きな入道雲ね」 「そうだね、あんなに大きいのに、 歩いてる途中で気付かなかったのが不思議なくらいだ」 「私たちどれくらい歩いたんでしょうね」 「分からないなぁ、ものすごく長かったのは確かだけど、 着いてみたらあっという間だったような気もするしなぁ」 「ごめんなさいね、私、途中でたくさん休んじゃって」 「いいんだ、バスにさえ間に合えば構わないんだから」 「そうね、バスだったら、私たちが歩いたのなんて あっという間の道のりなんでしょうね」 「バスにさえ乗れればねぇ」 彼は呟くような声で言った。 「大丈夫 きっともう直に来るわよ。 それに私、あなたとこうして待っているのも それほど悪くはないんじゃないかなって 思っているのよ?」 「君は本当に呑気だね」 「あなたが心配性なだけよ」 「はは、そうかもしれないね」 彼はそう笑って私に麦わら帽子を被せると、 それっきり何も喋らなかった。 入道雲は風に流され、小さな破片を青空に取り残したまま 少しづつ右の方へ流れていった。 それを目で追うと、すぐに彼の日に焼けた横顔が見えてきて 何だか悪い気がした。私はそれ以上覗くのをやめた。 彼はどうやら眠っているようだった。 それを見て、何だか懐かしい気持ちになる。 よく考えてみれば、あの雲の下に私たちの故郷が あったのかもしれない。 確か、二人で一生懸命働いてお金を貯めて、 そしてようやく券売所で切符を買って、 長く住んでいたアパートを離れ、このバス停を目指したのだ。 それが三時間前、あるいは昨日、もしかしたら一週間、 どれくらい前のことだったかはあまりよく思い出せないけど、 その間、今も隣にいる彼とずっと一緒にいたのだ。 私はもう一度彼の方を見た。さっきと変わらない横顔と その奥の入道雲が、相変わらず流れていた。 私は彼の鼓動を感じながら静かに目を閉じた。 私は彼の声で目を覚ました。 「……起きたか?」 「あら、すっかり寝ちゃってた。 もうバスが来たの?」 「うん、さっき草の向こうで動く影を見たんだ」 「そうなの、見とけばよかったわ」 「その内、嫌というくらいに見れるさ」 「はは、そうね」 「君が寝ていた間、ものすごい風が吹いて、 危うく帽子が飛ばされてしまうところだったよ」 彼は笑いながら麦わら帽子を渡してきた。 私はそれを脇に挟んで、カバンの中を漁りはじめた。 「じゃあ、切符を用意しなくちゃね」 券売所で買った切符は、失くしてしまわないように 赤い手帳のポケットの一番奥に入れているのだった。 私は、道の上にカバンの中のものを一つずつ取り出していった。 傘、お財布、水筒、キャラメルの箱、筆箱、ノート... しかし、カバンの中身がすっからかんになっても、赤い手帳は なかなか出てこなかった。 「私、あなたに切符を渡したんでしたっけ?」 「いや、もらっていないよ。 しかし、いざバスが来るとなると少し寂しいものだね。 僕もちょうど、君とこうやって待っているのも悪くは ない、って思いはじめてきたところなんだよ」 「馬鹿なこと言わないでよ」 私はそれを笑っておきながらも、もはやそれが“馬鹿なこと“と 言えなくなっているのに気付きはじめていた。 私がカバンの奥底を手で探っていると、遠くから一台の 小さなバスがこちらへ近づいてきているのが見えた。 「あなた、」 「ほら、来たよ、ご覧?遂に、待った甲斐があったね」 私は何を言ってしまおうか迷った。 しかし、それを考える時間が残されていないことの方が 私の心をきつく縛りあげた。 「あなた、私の切符を知らない? ここに着く前まで持っていたのは確かなの。 あの赤い手帳が分かるでしょう? あれにちゃんとしまっておいたはずなのに どこを探しても見つからないのよ。」 「本当か?いや、僕が持っているはずはないんだ。 カバンの中には本当になかったのかい? ポケットにも、財布の中にも」 「ないのよ......」 私はほとんど泣きだしてしまいそうだった。 彼は私のポケットに手を突っ込んだあと、 道の上に並べられた品々を、乱雑に探しはじめた。 しかし、それが終わる前に、前まで遠くにあったバスが いつの間にか私たちの前に到着してしまった。 「どうしようか、とりあえず運転手の人に聞いてみよう」 彼はそう言ってカバンの中にすべて詰め込むと、 それの埃を払って、ほとんど押し付けるように渡してきた。 バスの扉が開くと、彼は運転手にしきりに何かを伝えていた。 その内容は、聞こえなくてもなんとなく理解できた。 彼はその途中、ちらちらと私の方を振り返った。 私はその度に何かを発せようとするけれど、 それが出てこないまま、結局彼の後ろ姿を眺めることしか できなかった。 最後、彼は「本当に、さっきまで持っていたんだよね?」と、 私に問うた。その目は何かを訴えかけていた。 私はそれに首を振れば、彼を裏切ることになると分かって、 小さく頷くことしかできなかった。 彼はそれを確認すると、ステップを降りてきた。 さっきよりも随分落ち着いている様子だった。 「どうやら、さっきの風が盗んで行ったらしい。 切符の分のお金を払うと言ったんだが、やはり 切符じゃないと受け付けないみたいだ。 仕方がないから、君が先に乗って行ってくれ」 「それで、あなたはどうするの?」 「もう一度買うしかないよ、引き返して、 また次のを待てばいいさ だから、君は先に行っていておくれ」 「いやよ、私だけ乗るなんて。 それなら私も一緒に買いに行くわよ」 「無理だよ。僕が持っている切符は今のバスでしか 使えないし、何より二人分の切符を買うお金は 僕たちの手元には残っていないんだよ。 分かってくれないか、僕は僕のために、 君を一人にしなくちゃいけないんだ。 僕だって君と離れるのは心苦しいけれど、他に どうすればいいのか、今は分からないんだ」 「うん......」 彼の語気は強まっていったが、次第に落ち着いて、 何も言わず、私の髪の毛を上から撫でた。 私の視界は涙でぼやけ、彼の顔をはっきりと映さなかった。 ただ、彼の手に背中を押されて、どうしようもなく バスに乗りこみ、一番前の座席に座らされた。 彼は私の手をしっかりと握りしめ、 「また次のに乗るから、着いたら待っていておくれ」 と言った。彼のごつごつとした手が、私の掌に押し付けられた。 彼の温もりは、さっき眠っていたときよりもすっと激しかった。 私はその温もりをなくしてしまわないよう、 いっそう強く手を握りしめた。 しかし、周りの乗客がじろじろとこちらを見ているのに 気付くと、彼は私に困ったような視線を合わせ、 きまり悪そうにバスを降りていった。 私は窓の外を見た。窓越しだと風景は黄味がかって、 さっきまで見ていた青空も草も、何だか別の世界のもののように 感じられた。 そうもしない内にバスは出発した。 私は体を前に乗り出して運転手に話しかけた。 「すみません。わるいんですけれど、 次のバスは一体いつに来るものなのですか?」 運転手は前を見続けたまま、何でもないように答えた。 「今乗っているのが終点に着いて、また引き返してからですかね。 しかしあそこから券売所まではとても歩きじゃ厳しいですし、 何よりまず、これが出発したついさっきの時点で、 三十二本先の分まで売切れでしたから あの方が乗られるバスは、随分後のになるでしょうね。 私もそれまで仕事を続けているかどうか。はっはっは、」 私は、はっとして振り返った。 その瞬間に、彼と歩いてきた今までの道のりを 思い出さないわけでもなかった。 揺れる車窓から、ずっと向こうまで続く草の影のなかで 一人で歩いていく、小さな背中が見えた。

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ある雨の季節

まだ辺りが暗い頃から、枕元には雨の音が響いていた。 そして私が目を覚まし、顔を横に向けたときにも カーテンの裏では、依然として地面に雨が強く 叩きつけられる音が確かめられるのであった。 寝室から出た先には、普段よりも暗い居間があった。 鈍い色をしたテーブルの上には、昨日の生活が残っていた。 晩御飯のまま片付けられていない皿や 途中で読み止めた新聞の活字、 あるいは芯が外れたまま置き去りにされた鉛筆・・・ 古い木目の上に並べられた、ありとあらゆる そういうものは、私のこれまでの過程をあらわすにしては、 何か重要で、確固たるものが抜け落ちていた。 窓の外の街並みは、重く厚い雲にのしかかられ、 昨日までの精彩を失っていることは明らかであった。 私は、昨日の残骸をそれぞれ処理してしまうと、 持ち余していた煙草に火を預け、椅子に腰を下ろした。 私は側にある、雨の雫が透ける冷たい窓を開けて、 むせかえるような生活臭で淀んだ空気を逃しはじめた。 口から不健康な煙を吐きこぼす度、生ぬるい風が入ってくる。 それは外の世界から、細かい雨の破片とともに、 沈鬱な気分を運んでくるのであった。 まだ若い私は、すぐに腹を減らしてしまった。 朝食、しかしそれを用意してくれる人はいなくて、 目の前にあるのは古い灰皿だけでしかなかった。 もちろん、そこに見本のような目玉焼きやトーストなどは 一切なく、汚れがこびりついた白い灰の奥で、 虚無がわずかに燃え残っているのみであった。 私は、今日はそれを眺めて腹を満たすことに決めた。 昼になっても、雲は厚く陰湿な影を保っていた。 前までのような美しいコントラストは微塵もなく、 平面的でのっぺりとしたのをどこまでも拡げていた。 どこまでも、、、私はほんの少し前から、それを聞いたとき、 ある場所を思い浮かべるようになってしまった。 学生のときに追っていたあの人の住む、坂道の街。 おそらくこの雨は、あそこにも降り注いでいるだろう。 私は、滴り落ちる細切れの雨を見ながら想像する。 不機嫌な空の下で、あいつの乗っていた電車は、 濡れた線路の上を窮屈そうに走っているのだろうか。 それとも、坂の下の赤信号が青に替わるのを待ちながら 幾重にも重なった人々の、傘の下敷きになっているのだろうか。 それとも、坂の上から、そんな雑踏たちを、、、 あるいは今の私を、滑稽に見下ろしているのだろうか。 そんなことを考えていた間、 私はひどく喉が渇いていることに気付いた。 私はようやく立ち上がって、冷蔵庫の扉を開けた。 ひんやりとした心地よい空気が首元を撫でるが、 欠けたものを埋める何かがあるわけではなかった。 私は、張りのなくなってきた紙パックとコップを 取り出すと、やがてまた窓際に座り直した。 私はそれを傾け、底に残っていたわずかな オレンジジュースをコップに預けた。 喉を潤すにはまったく足りない量だった。 鮮烈な柑橘の色の奥で、顆粒が浮き沈みしていた。 雨さえやめば、あいつのことは忘れられるのだろうか。 遠くの住宅地に灯りがぽつぽつとつきはじめた頃、 雨脚は次第に弱くなってきていた、が、 それは確かにあいつの坂を洗い、私の窓を洗い、 あるいは誰かの頬を滑り落ちながら、昨日までの 粘っこい汚れを押し流していた。

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丘の上で

・・・朝・・・ 東の方から突如として現れた陽光は まず手始めに平たい雲を桃色に染めあげると、 まだ冷たい海に、烈しい光線を走らせた。 その一筋の光は次第に輪郭を曖昧にしていくと、 波の流れのうねりに従い、ゆらゆら揺れ立っていった。 それが行き着く先は、海に臨む小高い丘だった。 その丘の上では、青々と繁った草が背を伸ばし、 幹の細い枝は葉を揺らしながら、潮風に揺られていた。 橙色の光がそれらを照らしはじめたとき、 木の葉に遮られ、草々の裏で横たわっていた 彼の瓜実顔も、次第に顕になっていった。 いずれ日が昇り、陽光は円みを帯びると 先ほどまで真っ直ぐ光を通わせていた海は 水面のところどころにまばゆいガラス片を散りばめて、 波に揺れる度、それをちらちらと輝かせていた。 辺りは優しい陽気に包まれ、海も青と翠を取り戻した。 葉も、その光を満面に浮かべると 自身の影を、真っ逆さまに落として伸ばした。 ただ、その陰の中で未だ夜の明けぬところがあった。 前の晩に降っていた雨は、それが止んだ今でも ところどころに溜まったままで、 灌木の間のびちゃびちゃしたぬかるみは、 木の目の隙間にそれを挟み込もうとしていた。 のみならず、彼の足にもその泥は跳ねていた。 しかし時折吹く風に木漏れ日が差し込むと、 色を薄く落として、いつの間にか馴染んでしまった。 最早、そこにそれがあったことを知る者がどこにいようか。 ・・・昼・・・ いつまでも、日の強さは衰えを知らなかった。 相変わらず海はその光を跳ね返していて、 空は、夏の色の濃く、深い碧に染まり、 真っ白にぎらぎらとした陽光は依然として 緑色の葉を燃やすように照らしていた。 彼は、元々蒼白い顔を更に白くするほどの光を浴びても それを邪険にする様子もなく、ただ目を閉じ、 瞼の裏から、高く積み上がった遠くの雲を眺めていた。 眺めていた? それは本人に訊かねば分からない。 だが彼は尚、鼻の影を頬に落としながら 風に睫毛を靡かせているだけだった。 ぬかるみは、もうとっくに乾いていた。 辺りには、青臭い香りが広がっていた。 ・・・夕・・・ 斜陽は、鮮やかな紫と橙色を空に加えた。 海も、青とも橙ともつかない曖昧な色へ戻った。 太陽はとうとう地平線のすぐ傍まで沈み、 烈しくも優しい光を四方に散らしている。 葉の色は一面に橙で、その色は 半開きの口からはみ出した歯にも映っていた。 相変わらず草の中で横たわっていた彼は、 朝から今まで、瞑ったままの目を開こうともしない。 口元を通り過ぎる風も、どうでもいいようだった。 彼は生まれてからずっと眺めていた。 眺めていた?それを確かめる者はいない、が、 例えば、昼間の分厚さをすっかり失くした遠くの雲を、 或は、揺れ動いてばかりで日を真っ直ぐに通さない波を、 もしくは、一日中影を作りっぱなしだった木の葉たちを、 瞼の裏で確かに覗いていたはずだった。。。 風が吹いた。 彼の髪は、輪郭を黄金色に鋭く輝かせながらも、 こわごわとしたそれを漂わせているだけだった。 星が見えはじめた頃、 真っ黒な海から飛んできた鴎が彼の胸をつつくと、 けたたましい鳴き声をあげて飛び去っていった。

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