道徳的な山羊
24 件の小説道徳的な山羊
「後川」だった者です。17歳の若造です。 「もののあはれ」な掌編を投稿したいと思います 第七回N−1 12位 435点 第八回N-1 9位 318点 第九回N-1 8位 489点 King of Novelee vol.3 5位 King of Novelee vol.4 5位 第10回N-1 9位 438点
駄説 ①「パン」
パンの値打ちは、小麦の産地で決まるのではない。 むろん、バターや酵母の良し悪しでも、 ましてや、水の新鮮さで決まるのでもない。 その価値は、作り手によって決まるのだ。 “誰が作ったか”、、、それだけがパンの価値。 名の知れたパン職人なら、端が焦げついても それも味わいの内だと有り難られ、 無名のパン職人なら、欠点だと論われる。 しかし、そのパン職人も、大昔に一斤だけ、 非常に出来のいいのを作っただけなのである。 そして、その一斤が今でも彼を支え続けているのに違いない。 お察しの通り、これはパンのみに留まるのではない
波打ち際
少女たちが、一斉にかけていった。 砂浜に、たくさんの足跡が刻まれた。 日は、遠くの島の輪郭に徐々に沈み込んでいった。 少女たちは波打ち際まで走ると、急に立ち止まって、 今度は波から逃げるように、無邪気にはしゃぎながら 身を翻した。 波は、その足元で、白い泡袋を吐きながら力尽きていった。 高い笑い声は絶えなかった。時たま、海鳥を脅かす 風があった。その度、彼女たちのスカートが揺れ動いた。 ✴︎✴︎✴︎ 四、五十分ほど前から遊んでいた女学生たちの内、大半は砂浜をあとにしていた。そのため、今となっては、三、四人ばかりが戯れているだけである。 すると、隣に座っていたS君が訝しげに口を開いた。 「こんな、人も遊具もない海の何が面白いんだろう?」 ここらは、夏の真っ盛りになると、それなりに観光客が集まる行楽地である。が、S君の言う通り、他と比べると見劣りするほど何もないこの砂浜に、残暑も過ぎたような今の時分に来るのは、かえっておかしいくらいであった。その上、S君には、海ではしゃぐ、そう言った観光客を嫌うくせがあった。それは、彼が海沿いの出身である故のきらいであるのかもしれなかった。しかし、彼の今の言葉には、少なからず、彼女たちへの興味が滲み出ていた。 「よせよ。何もなくたって、海だけは綺麗なんだから。」 僕は、呟くようにそう言った。 「だからって、わざわざ来ることはないだろう。 もう日が沈むっていうのに、ずっと遊んじゃってさ」 「まあまあ、僕らにとっては普通の海だけど、 あれにとっちゃ珍しいんだろう。」 「ふーん。そうなのかなあ。」 S君は、僕の推測と彼女らの行動に、なおも納得していないようだった。だが、かと言ってそれ以上のことを期待するでもなかった。 「二つか三つ下に見えるな、見たことのない制服だし。」 「だろうね。隣町の高校かな? あそこは海から遠いからねえ。」 「へえ、それにしても分からないね。 あそこなら、他に行くところなんか山ほどあるだろうに。 よもや、穴場でも見つけた気になっているのかな?」 「そんなことないだろう。ちょっと度が過ぎるよ。」 僕は、半ば呆れてそう言った。 「でも嫌だね。お前も、あんなの庇わなくたっていいのに。」 「はは、そんなつもりはないけどね。 僕は君とは違って、ああ言うのはさほど嫌いじゃないから。」 S君は苦笑して、弁解するように言った。 「俺も全部が全部嫌いって訳じゃないさ。 変に浮かれてはしゃぎ回ったり、中途半端な好奇の目を あからさまにしなければね............」 尚も僕たちは、少し丘のようになった砂の上から、あの女学生たちのことを眺めていた。S君は、親指と人差し指で砂を弄りながら、また話しだした。 「お前、あれを好いてるのか?」 S君の言った“あれ”とは、四人の内、一番手前で遊んでいる、少し背の高い子であるらしかった。後ろで髪を一つに結っていて、確かに、美人であるようだった。 「いやいや、あれを好いているのはSの方だろう? 僕はその奥の、一番小さいのにしておくから、お構いなく。」 「へえ、お前も変なのを選ぶなあ。悪くはないけどね。」 「いや、Sの好みは分かりやすすぎるんだよ。 何せ、君が“あれ”って言っただけで、すぐにどの子か 分かっちゃうんだから。 だけど、やっぱり君の言ったとおり、何が面白いのかね? 僕らだって、何十分もあんなに元気に遊べやしないさ。」 実際、彼女たちは、僕らが散歩でここに着いた時から、今までずっと遊んでいたのだ。しかし、僕がそう言った途端、S君は口元に皮肉な微笑を浮かべた。 「馬鹿。違うよあれは。俺たちに見せてるんだよ、ああやって。」 S君がそう言って指を差した先では、女学生たちが、流木で何かのキャラクターの絵を描きはじめていた。 「見せてるって?」 僕は、彼女たちとS君とを見比べながら訊いた。 「見せてるんだよ。俺たちに。あれだって、俺たちがさっきから 見ていることに気が付いて、ああやってはしゃいでいるんだよ。 ある種のパフォーマンスじゃないか、芸人顔負けのね。」 S君は、「鈍いな」といった表情を僕に向けると、また砂を弄りはじめた。辺りは次第に暗くなっていた。日も本格的に沈んできていて、海も、橙というよりかは黒っぽい青紫に染まりはじめていた。襟元を冷たい風が通り過ぎた。 「相変わらず意地悪だね、君は。」 「そうか?お前も大して変わらないだろう? それに、俺の言ったこと、案外間違ってないと思うぜ」 「じゃあ試してみるか?」 今度は、僕が皮肉な微笑を浮かべていた。 「君が、さっき言ったやつに声をかけて、 僕が、あの小さいのに声をかけよう。 君のいうとおりならそれなりの反応が返ってくるだろうが、 だけど、もしそれで断られたら、君はとんだ大恥だぜ?」 S君は意気揚々として答えた。 「なんだ。やっぱりお前も意地悪じゃないか。」 ✴︎✴︎✴︎ ある片田舎の夕暮れの砂浜で、いくつかの制服が波のすぐ側まで寄って行くと、また押し寄せる波に足元を掬われた。彼女たちのうちの一人が転んでびしゃびしゃに濡れると、他の少女たちは大きな笑い声をあげた。転んだ少女は、靴下を脱いで片手に持つと、そのままずんずん進んでいって、とうとう腿の辺りまで海水に浸かってしまった。その周りで、黒いスカートが、くらげのようにぷかぷか浮いていた。他の少女たちは、驚いたような表情を見せて笑いながら、海に浸かる彼女を真似て靴下を脱ぎはじめた。 そして、「冷たい!」と叫びながら、 その子の元へ向かって走りだした。 もう夏も終わりである。 現に、青年二人の影も、とっくに砂浜を去っているのだから。
夢路
あの子が僕を追い抜かすとき、そっと軽く微笑んだから、僕はその後を追いかけずにはいられなかったのだ。 薄くむんむん、いい香りが漂っていた。お香の煙が服に染み付いているのだろうか。あの子が歩いた道すじを辿ると、金木犀のような匂いが微かに流れてくる。だけど、そう断言できるほどの確証はなく、それを確かめるために隣まで追いつこうとすると、僕が急いで歩いた分、その子もそれだけ早く進んでしまう。そのせいで、僕は今まで、その後ろ姿を四、五m前に見ながら歩き続けているのだ。 街はしんと静まりかえっていた。暗さの底に沈んでいた。半月だけが、ただこうこうと輝いていた。 何より、止まってほしかった。振り返って、僕が追いつくのを待ってほしかった。だから、僕はその子を呼び止めようとした。だけど、あの子のことを何て呼べばいいのか、僕はそれを知らなかった。 「ちょっと、名前だけでも!」 僕はそう叫んだ。しかし、あの子は振り返らずに、ずんずん歩いていった。僕の声が決して聞こえないはずはないのに。それでも、立ち止まってしまったら置いていかれる気がして、僕は変わらずあの子の後を追いかけた。 「おーい、聞こえてるんだろっ!」 だが、あの子は振り返るような素振りも見せずに歩いて行った。かえって、それが僕の負けん気を刺激した。しかしそうは言っても、僕には、どうしてそう無視されるのかが理解らなかった。僕が何か変なことをしただろうか?いや、そんな心当たりはない。第一、はじめに僕を誘ったのはあの子の方じゃないか。もしや、僕が思い出せないだけで、いつかの知り合いなのか? しかし、そんな思いを巡らせたところで、俄然、あの子については何の見当もつかなかった。唯一分かったことと言っても、あれが美人であるという、単なる直感だけだった。それは、あの不思議な微笑だけではなく、少し長い髪の毛が月光を弾きながら栗色に輝いて、時折風にたなびく様子のせいでもあった。 僕らは幾分か歩いて行った。額には汗が滲みはじめていた。街は眠りについたまま、とうとう後ろへ流れ去ってしまっていた。今となっては、暗い暗い道がまっすぐ伸びているばかりである。辺り一帯は草原が広がっているようで、風が吹くたび、その草のざわめきが暗闇から現れては消えていく。それを何回か繰り返したのち、僕はあの子の周りだけ、何か得体の知れない空気で薄明るく光っていることに気が付いた。それは、あの子にまとわり付いたまま暗い夜道を照らして、道標のように僕を導いて行くのだった。 ーーーその頃から、僕の神経を甘ったるくて生ぬるい何かが撫ではじめていた。心地よい疲労と倦怠。そんなところであろうか。しかし、僕がそれを乗りこなす前に、先ほどまであの子の姿をしっかりと捉えていた意識が、次第に朦朧としてきた。もはや、自分がどの方向に進んでいるのかも分からないほどになっていた。それでも、あの子の周りを渦巻く明るさだけはぼんやりと滲んでいて、僕はどうにかそれについていこうと必死だった。おぼつかない足取り、それでいて判然としない昂揚感。僕はそれに溺れながらも、ついに前に進むことさえ難しくなっていた。僕は何とかしてあの子を止まらせようと、自分でも意識しないまま口を開いた。そしてその途端、僕のつま先は、足元の、言いようもない何かに絡まれるようにして躓いた。 「律…!」 そうして地面に倒れたとき、僕の目に映ったのは、やっと立ち止まってこちらを振り返り、はじめに追い越したときに見せたのと同じ、不思議な微笑と、這いつくばっている目の前の男を失望したかのように見下ろす、どこか薄汚れた目元だけだったのである。だけど、僕はそれを見ても立ち上がる気力さえ湧き上がらず、そのまま深いまどろみの谷に墜ちていくしかなかった…… 烈しい陽だまりの中にいた。真っ白な日差しと、蝉の声に似た穏やかなノイズが辺りを包んでいて、それ以外は何もなかった。ここがどこだかは分からないが、隣には“律”が座っていた。顔を覗こうとすると、すぐに目が合った。むろん、“律”と呼ぶことには少なからずの抵抗があったが、僕は咄嗟に口を出た、そして唯一あの子に届いたその言葉だけは信じることにしたのである。すると、律はおもむろに僕の方を向くと、すぐそばまで顔を寄せてきた。長いまつ毛が頬にぶつかった。やはり金木犀のような香りが漂ってきた。僕はまだはっきりとしない頭のまま呟いた。 「どうして………?」 だけど、律は相変わらず僕の言葉を無視して何の反応も示さなかった。また、僕もすぐ横にある顔と目を合わすのに気が引けて、蛇に睨まれた蛙のごとく身じろぎ一つできずに、もう一度口を開いた。 「僕ら、どこかで……?」 しかし、僕がそれを言い終わるか言い終わらないかの内に、律はすくっと立ち上がって、僕の目の前に立ちはだかった。だけど、律はすぐに軽蔑の表情を浮かべて、もう一度からかうように僕の間近まで顔を寄せたきり、怒ったような、いい加減な様子で白い光の中へ歩いて行ってしまった。もちろん僕は、さっきのようにその後を追おうとしたが、太ももや腕はおろか、首さえも動かせない状態で、その姿が消えていくのを見つめながら、やがてまたいつの間にか眠りについてしまった。 今度は電車の中だった。電車はどこかの山間を走っていた。僕は座席に腰をかけていて、車窓の向こうでは、緑の樹々たちが後ろへ流れて行く様子が終わりのないように映っていた。乗客はまばらで、その全てが僕と同じように席に座っていた。しかし、律だけは一人僕の目の前に立って、英文学の古書を眺めていた。律は制服を着ていた。それは、遠くから見ればただの学生にしか見えないような、前まで僕をあれだけ惹きつけていたとは思えないほどに平凡な見た目だった。しかし、僕はそれに一種のノスタルジーを感じた。学生時代の埃っぽい香りだ。だがその一方で、その制服姿は、そんな哀愁の念を感じさせるためだけの、用意された衣装のようだと言っても過言ではなかった。 例えば、もしそれが何かの不吉な予兆だとするなら、その予兆はことごとく当たっていた。一瞬間ノスタルジーの波が押し寄せたと思うと、僕の脳みそには、突如としてそれを掻き消してしまうほどのひどい痛みがはしった。何か不気味な影が頭上をよぎった。僕はそれに顔を顰めながら、何とか顔を上げた。途端、律の顔が目の前にあった。もはや、僕は身体が自由になったことを気にする間もなく、しばらくそれを見つめ返したまま悶えていた。 律は、今までとは打って変わって、優しい目をしていた。それは、また僕を魅入るのに十分な材料だった。しかし、この痛みとその視線に釘付けになることは、堕落してしまうような、溶けて消えてしまうような、そんな危険性を孕んでいるように感じられた。 −−−僕の我慢はすでに限界を迎えつつあった。四方から金槌で叩かれ続けるような痛みは、僕の視界に、ストロボのような、チカチカとした閃光を点滅させはじめていた。しかしその奥で、あの独特な、睡眠にいざなうときの甘美な香りが漂いはじめていた。僕はそれに抗えず、とうとう床に倒れ伏してしまった。視界の周りから湧き出る黒いもや…そしてその中央でぐにゃぐにゃと歪みはじめている律の革靴……だが、僕の意識が途絶えそうな直前、顔の横に茶色い背表紙の本が落ちてきた。それは百五ページを開いて、数行の文章を示していた。 『It was during the summer he was seventeen. In a classroom during summer vacation, he witnessed a pure young man defiled………………彼の衝撃は言葉にあらはすことができない。つくづく気の毒な青年である。そののち、彼が自殺したというニュースは世間を騒がせた。だがすぐに、皆はそんなことはすぐに忘れ去ってしまった。ただ一時の退屈を慰める道具としてしか扱われなかったのだ。(つくづく…不運で……気の毒な青年である)』 その瞬間、頭痛は絶頂を迎えた。それと同時に、僕は高校時代、律とよく顔の似た同級生がいたことを思い出した。僕は最後、それを確かめるために、残りの気力を注いでもう一度律の姿を見ようとした。しかし、そこに学生服を着たあの姿は見つからず、その代わり、頬に生ぬるい息がかかったあと、柔らくて弾力のある艶っぽい何かが触れるのを感じた。そしてそれと同時に、僕の頭痛はその激しさを弱らせていった。そして、そこに残っているのは、眠りを誘う、あの異質な空気だけなのだった……… 僕は夜の街にいた。電柱にもたれてぐったりとしていた。やけになって呑んだ酒がひどく僕をいじめたらしい。ただ、なぜそうしたかについては、何も明確な理由を思い出せずにいる。思い出そうとしても、全く関係のない、学生時代の夏休みの教室が懐かしく浮かんでくるばかりである。しかし、そこには澱んだ気配がいくつか渦巻いていて、僕を監視するように睨んでいるのである。とは言え、これを誰かに言ったところで、僕の妄想にすぎないと嘲笑われるだけだろう。夜の空気は冷えて、胸元を過ぎる風が体の火照りを奪ってくれる。僕は、街並みにどこか懐かしい匂いを感じながら、暗い暗い夜道を、帰途についたのである。
静的スケッチ : ある丘陵の住宅地
街の上空に島が浮かんでいた。中央に高く険しい山がそびえ立つ、巨大な島だった。街並みはその大きな影に覆われていた。 −−−それは、真っ白な入道雲だった。 子供たちが、丘の上からそれを眺めていた。 まだ十歳にも満たないほどの少年二人だった。 ✴︎✴︎✴︎ 丘陵の住宅地は、オレンジ色の屋根がずらずら並んでいるので有名だった。というのも、二十年ほど前にあった開発で、街の真ん中にあった丘陵は切り崩され、頂上まであった樹々はオレンジの屋根とクリーム色の壁の住宅に入れ替わったのである。 実際、街から丘陵を見上げると、芝生で覆われた人工的な斜面の上に、同じ色と形をした屋根が、不気味に軒先を構えていくつも連なっているのだ。二百軒といったところであろうか。 しかし、今日は平日である上、晴れて日差しも強いから、こんな昼間から外に出ているのは、先ほどから、坂道の上で街を見下ろしているその少年二人のみなのである。 ✴︎✴︎✴︎ 黒いアスファルトの道の先で、少年たちは軒下の段差に腰をかけ、雲を眺めていた。二人は兄弟である。夏休みも終わりに近付く今、二人は朝から家の周りで遊んでいたが、くたびれたのと暑いのとで、やることもなしにとうとう時間を持て余しはじめたのである。 二人は指の腹で道に落ちている砂粒や小石などを擦りながら、口から息は吐いても、何を喋るでもなかった。日の熱は彼らの足元をじりじりと照らしていた。 しかし、そうこうしない内、兄の方が突然立ち上がって道を上っていった。そして電柱を五、六本過ぎていった頃であろう。やがて赤い自販機の前で立ち止まると、ポケットから小さな財布を取り出し、自分の目と同じ高さにあるサイダーのボタンを押した。途端、住宅地の間に、金属の板がボトルに弾かれて揺れる音が響いた。 そして、彼はそのまま先ほどの場所へ戻ると、腰を下ろしてそれを一口飲んだ。彼は一瞬ぎゅっと目を瞑った。それは言うまでもなく、喉元を過ぎる冷たい炭酸の刺激のせいだった。彼は、そのまま隣で下を向く弟に目をやった。その目は、今買ってきたそれを飲むかどうか訊いたようだった。が、弟は俯いたまま首を振ってそれを受け取らなかった。兄は、それを確かめるとキャップを閉めて、またポケットから小さな財布を取り出し、その中身を確認した。けれど、そこには新しくジュースを買うための小銭は残っていなかった。 ✴︎✴︎✴︎ しばらくして、弟は突然顔を上げた。そして、ボトルのラベルをいじっている兄に、二、三言何かを告げると、庭まで走っていった。 そして、弟が兄の元へ戻ってきたとき、その手に握りしめられていたのは、ねずみ色のバケツだった。 兄は仕方なさそうに腰を上げると、それを水道の蛇口まで運んでやった。縁まで注がれた水の表面で、網目状になった日光がうねっていた。 ✴︎✴︎✴︎ 八月の終わり、オレンジの屋根とクリーム色の壁が果てしなく続く住宅地。丘陵の中腹から下まで続く道で、そのアスファルトは突然熱を失った。水がその表面を、音を立てて滑っていった。 丘陵の住宅地は、入道雲の影に隠れてしまった。
明くる夏の日
私が君の姿を遠くに見つけたのは、駅に降りて間もないときのことだった。私がプラットフォームに降り立ち、蝉の騒がしい鳴き声と、皮膚を灼きつくすかのような日光に包まれたとき、ホームの端から端まで連なる車両たちの、さらにその奥で、私は君らしきシルエットを認めた。シルエット。リュックサックを右肩にかけ、しばらくその姿勢のまま怠そうに歩いてくるそのシルエットは、君が電車から降りてくるときの大抵の癖らしかった。だから、私は君の顔がよく見えない内にも、それが君だと理解し得たのである。 それでも、私がそれを目にしていたのはほんの少しの間だけだった。君が一瞬立ち止まって、左肩にリュックサックの紐をやっと通したときには、私は、すでに他の学生に混じりながら改札の方へと歩みを進めていた。しかし、歩みを進めると言っても、私はそれを他の学生たちより幾分か不自由に、或いは、後ろから歩いてくる君がちょうど追いついてくる時機に合わせて、まるで鞄の中の何かを探しているふりをしながら、ゆっくりゆっくり歩いて行ったのである。 「何か忘れた?」 私は、そうやって掛けられた声が私の期待通りだったことに安心して、また、これから進めるべきいくつかの台本の中身を確認して、徒らに振り返った。 「ぃやぁ、別に。 読んでた本を仕舞おうと思って。」 「そうなの、何読んでたの?」 「あの、芥川の『蜃気楼』って分かる? 『続 海のほとり』と言ったりもするんだけど、 あの、あれ、夏休みの課題で読書課題があるでしょ、 それのために読んでおこうと思うんだけど」 「ふーん」 君はそう呟くと、おもむろにはにかんだ。 「俺、頭悪いから、そう言うのあんまり分からないわ」 その言葉たちも、君の癖だった。 私たちは改札を抜けると、青空の下、剥げかけたアスファルトで舗装された道を歩きはじめた。 「いつも頭が悪いって言うけど、 今回の期末だって点数高かったんでしょ? 順位はどれくらいになりそうなの?」 私は、自分でそう言っておきながら、今日が、夏休み前の最後の終業式であることを思い出した。それは或いは、君とこれっきり会えなくなるであろうことを示しているにも違いなかった。 「うーん、返されなきゃ分かんないな。 前回よりは絶対に低いし。」 「前回は?」 「学年九位。今回はそれより下。」 「あ、そう。それでも俺からしたら全然いいけどね」 「ま、悪いけど、〇〇より低いことはないね。」 君はまたもやはにかんで、私の方をちらっと見た。私はその冗談に、何とも言えない微妙な笑みで返すことしか出来なかった。それで君は一瞬黙った。そしてそれっきり、二人の成績のどうこうが話題に上がることはなくなった。 私たちはそのまま橋を渡ると、いつもの坂道に差し掛かった。その先では、クリーム色をした校舎の窓ガラスが、朝日を反射して私たちを照らしていた。辺りは青臭い香りでいっぱいだった。のみならず、それは道の脇から飛び出している草のせいであるのに違いなかった。しかし、それら、たとえば時たま風に揺れる深緑の木の葉たちや、空き地の真っ白な砂、そういった、たまらないほど夏の訪れを示すものたちのどれも、他の学生たちの話し声に掻き消されていった。その中で、君は口を閉ざしたまま、首筋に浮かんだ汗を拭った。 「結構やけたね?」 今度、話しはじめたのは私の方からだった。 「うん、部活ばっかりだしね。 テニスはだいたい屋外でしかやらないから。」 しかし実際、君の肌はそれほど焼けていなかった。それに、半袖から健康的な身体をちらつかすのも、私には恨めしいほどに見えた。 「そういえば、いつまで日本にいるの? どこに行くんだっけ? 」 私は思わずも、聞きたかったこと、それでいて聞きたくなかったことを口走ってしまっていた。 「スペインの島。名前は覚えてない。 8月の半ばまでは日本にいるつもりだけど、 もし航空便のチケットが取れたら七月中にも 向こうに行けるかもしれないんだって。 」 「へえ、スペインか。」 私は、鮮やかな海と、誰もいない砂浜とを思い浮かべた。それは、前にテレビ番組で見たものにそっくりだった。 「日本には帰ってくるの?」 「まあ、そりゃあ帰ってくるけど、 今の学年には戻ってこれないだろうなあ。 多分、今〇〇達の高二学年が卒業したあとから 高三として一年を過ごすか、それか、留学のツテで そのまま大学に行けることになるかもしれないし、 本当に、実際向こうに行ってみないと分からない。 日本でいくら上手くたって、海外にはもっと上手い やつらがゴロゴロいるかもしれないし、自分がどれくらい やれるのか、結局、気持ちだけ優ってたって意味ないからね。 もしダメだったとしても、それで日本に戻ってくるのは 逃げ道をつくっておくみたいで嫌なんだ。」 「へえ、やっぱりすごいね。 夏休みの宿題なんかも気にしなくていいわけだ。」 君は一瞬、驚いたように目を開くと、また黙ってしまった。 それは、君にとって冷笑かしに聞こえたのかもしれなかった。或いは、私の心の中で燻っていた何かしらのもどかしさが、たったそれだけにこもって、君に伝わってしまったようだった。 とにかく君は、それにははにかむような苦笑もしないで、暑そうに地面を向いたまま、足早に歩いて行った。君は、眉をひそめてアスファルトの熱を感じとっていたのかもしれなかった。 そのあとの会話は、それ以上にぎこちないものだった。君は義務のように返事をして、私も義務のように問いかけた。そうして、それだけであの坂道は終わってしまった。そして校門に辿り着いたとき、君のそんな足取りに従うかのごとく予鈴が響いた。私たちは少し急ぎなら、それでも先ほどとさほど変わらない速さで校庭を突っ切った。もちろん他の生徒たちもそうだった。しかし、校舎に入る前、君は誰もいないテニスコートの方を悲しそうにちらっと見た。それは、私が見たことのない、もしかしたら、君が誰にも見せたことのない表情であったのかもしれなかった。 私たちは、それぞれ別の下駄箱まで行くと、ばらばらに上靴に履き替えた。夏休み前であるのに、私のロッカーには持ち帰らなければいけないものが、まだたくさん残っていた。すると、下駄箱の裏から、他の生徒たちの声に混じって、君達らしき冗談とその笑い声が響いた。どうやら君は、仲の好い友達に遭遇したようだった。私はまたカバンを手探りに漁るふりをした。実際、そんなことを気にかける者も、その上、芥川なんて小洒落た趣味の本なんてのはどこを探してもあるはずがなかった。つまり、君たちが前へ行くための時間さえあれば、それで十分だったのだ。そして、それだけの間が置かれたあと、君はとっくにその友だちと肩を並べて階段を上りはじめていた。私はその後ろ姿を見ながら、同じ教室まで後を追って行くことしか出来なかった。 むろん、君は一度もこちらを振り返らなかった。しかし、それでもやはり、右肩にリュックサックを掛けるのは、君の大抵の癖であるらしかった。
【第10回N-1】 『あ』
村のはずれ、審問所の一室で、取調べ官のヴァルドレクが神妙に口を開いた。 「君がアルヴェリオ君で間違いないね? 今日来てもらったのは他でもない。 先月起こった、とある事件についてだ。 君なら、言わなくても分かるだろう?」 アルヴェリオは両方の手首を縛られたまま、その快活そうな見た目からはまず想像もつかないような、しゃがれた声で話しはじめた。 「あ、何です?『ある事件』って? 全く見当もつかないのですが。 」 「ふふん、まあ最初はそう言うだろうな。」 ヴァルドレクは、おもむろに口角を上げた。元々しわの入っていた顔に、更にしわが寄った。その一つ一つが、彼の取調べ官としての功績のしるしであった。 「まあ、ここで揺さぶっても仕方ない。 時間ならいくらでもあるから、ゆっくり話そう。 まず、君はルネヴァール通りに住んでいるよな? この審問所からそこを突っ切ったら、広場の公園に当たる。 その東側の教会の横に、エルシェナという女が住んでいたん だ。まあ、それも君は知っているだろうがね。 そのエルシェナは今度、隣村の、ある資産家に嫁ぐことになっ ていたんだ。彼女の両親もそれを承諾した上で。 しかし、先月になって突然、彼女は姿を消したようでね。 それが、私の言う『事件』だ。年頃の女が姿を消すというの には、大抵何かしらの理由があるものだが、 両親に訊いても嫁ぎ先に訊いても、中々分からないそうだ。 むろん、こちらでも失踪者としてあちこち捜索したが 一向にその手がかりさえ見つからない。資産家の方も そろそろしびれを切らして、他の家との見合いをはじめている。 だがもし、このまま彼女が見つからなければどうなると思う? 隣村との長い信頼関係にもひびが入り、この村も、約束を破 ったことで他所からの評判もガタ落ち。それは困るだろう? だから、エルシェナと仲の良かった君を呼んだんだ。 そういえば、君は彼女と幼馴染の関係だよな? 何も包み隠さず言いなさい。 どうなんだ?実際、君は彼女の在処を知っているんじゃ?」 ヴァルドレクはそう言うと、アルヴェリオの顔をじっと見つめた。微かな表情の変化も逃すまいという、彼のいつもの方法だった。しかし、彼の期待に反して、アルヴェリオは表情一つ動かさず、淡々と答えはじめた。 「あ、僕は何も知りません。 確かに、昔は、エルシェナと仲こそ良かったけれど、 あいつの結婚先が決まってからは、会わないように していたんです。変な噂でも立ったら大変ですから。」 「ふーん、そうかい」 ヴァルドレクは目の前の青年を小馬鹿にするような微笑を浮かべながらそう言った。 「じゃあ、仮定の話をしよう。あくまで仮定だがね。 たとえば、もし君と彼女が恋仲の関係にあって、今度の結婚 の話が気に入らないから、向こうが諦めて他を探すまで、 君が彼女をどこかへ匿っていたりしたら.....?」 ヴァルドレクはそう言うと、もう一度アルヴェリオの顔をじっと見つめた。すると、一瞬彼は目を見開き、途端に顔をしかめた。もちろんヴァルドレクはそれを見逃さなかった。が、すぐにアルヴェリオの額を夏の烈しい日差しが照らしはじめたため、ヴァルドレクはその原因を捉えそこねた。 「む、ようやく雲が晴れたようだな。まあ、もし私の言った ことが事実だったとしたら、その作戦は上手いこと進んでい るように見えるね」 「はい、そうに違いないでしょうが。すみません、 少し眩しいのであの小窓を閉じてくれませんか?」 「ん、とのことだ。リュドラン君、すまないが頼む」 ヴァルドレクは、部屋の隅の机で書類を一つ一つ見比べていた若い男にそう言った。その男は「はい」と短く返事して立ち上がり、小窓を閉めた。その後、彼は、アルヴェリオの方を一瞬嘲笑うかのように見下ろすと、またすぐに机に座りなおした。途端、部屋はたちまち暗くなった。リュドランは引き出しの中に仕舞ってあった蝋燭を取り出し、火を灯した。そしてもう一度アルヴェリオの方を睨んだ。先ほどから、アルヴェリオはこの男を快く思っていなかった。なぜかといっても、そこに特にはっきりとした理由はないが、彼の鋭い目が眼鏡のレンズ越しに光って見えるのが、目の前の取調べ官の老年の男よりも不気味に見えるという、ただそれだけなのである。 「では続けるとしようか」 ヴァルドレクは呟くように言った。 「リュドラン君。君はエルシェナはどこにいると思うかね」 「彼女ですか?このアルヴェリオの元にいるでしょうがね。 考えられそうなところは大抵探しましたよ。 彼の家はもちろん、彼の友達等が拵えた森の奥の 秘密基地や、砂浜の廃屋に至るまで。街中を調べましたが 目撃情報も何もない。もしや、この男が結婚に逆上して 彼女を殺したのでは?」 「そんな馬鹿な!」 今まで、必要以外に沈黙を貫いてきたアルヴェリオが、唐突に口を開いた。一瞬、ヴァルドレクは驚いたような表情を見せたが、その陰でリュドランはほくそ笑んだ。 「ほう、じゃあ君は彼女の消息を知っているのかね?」 「あ、決して知りません」 「君はいつまでもそう言うね?本当に何も知らないのかい?」 ヴァルドレクはため息を吐いてそう言って見せた。アルヴェリオは首を縦に振った。 「ヴァルドレクさん、少し待ってください」 リュドランがアルヴェリオを睨みながら口を開いた。 「こやつの両親に尋ねたところ、こいつは先月から、毎夜 教会に赴き、祈りを捧げるようになったと言います。 実に、近隣住民からも夜道を歩くこいつの目撃情報が。」 「ほう、それは本当なのかね。」 ヴァルドレクはアルヴェリオの方を向いて確かめた。 「ええ、それは本当です。しかしそれはエルシェナが見つかる ことを祈っているにすぎないのです。」 「本当に?変なこともしていないのか?」 「あ、決して、そんなことしていません。」 「だそうだが、リュドラン君。教会は調べたか?」 「いいえ、教会が私たちを拒みました。 どうやら良いようには思われていないみたいです。」 「そうか。教会ねぇ... あそこは何かとうるさくて困る」 ヴァルドレクは足を組み直すと天井を仰ぎ、そこに映し出された三人の影を見つめた。一人の影は今も尚書類を漁り、もう一人は縛られたまま机に伏して何も話さない。そしてもう一人は、自身の目を見つめ返してきている....... しかし、そんなことにまで気を散らしているせいで、彼はアルヴェリオが前より一層汗をかきはじめていることに気付かなかった。 「ヴァルドレクさん?」 はっとすると、リュドランが二枚の紙を手に持ち、自分の目の前に立っていた。一つは普通の本のようなサイズ、もう片方は手帳をちぎった切れ端のようなメモだった。彼はそれを渡すと、小声で二、三言耳打ちをした。ヴァルドレクはその両方に目を通すと、おもむろに口を開いた。 「うん、結構。リュドラン君。君は今日は帰っていいよ。」 「はい、それでは。」 リュドランはそのまま扉を開けて部屋を出た。一瞬だけ室内が外の光に明るく染まったが、やがて扉が閉まると、元の暗さに戻った。 「よし、アルヴェリオ君。もう少しの辛抱だ。 あと二つだけ質問をしたら君を返してやろう。」 アルヴェリオは頷いた。顎から汗が滴り落ちた。 「じゃあ、まず一つ目。 君は夜に教会に祈りを捧げていると言ったね? しかしどうやら、君はその時に供物と称して 食べ物や水まで持って行ってるようだね。 しかも毎晩だ。供物にしては多い頻度だと思わないかい?」 「あ、いいえ、神には新鮮な食料が必要です。 傲慢で姑息でいては、祈りも届くはずがありません」 「うーん。君は信仰が厚い男のようだね。素晴らしいことだよ。 だが、私の助手が教会に行ったとき。それは朝だったようだが 祭壇には供物どころか塵一つさえ落ちていなかったらしい。 君は...あるいは教会はそれをどこにやったのだろうね? この頃、教会は夜中でも屋根から光が漏れているそうだし、 生意気なネズミでも忍び込んでいたとしか考えられないがね。」 「あ、さあ、知りません」 アルヴェリオの視線が泳いだ。ヴァルドレクは、今度はそれを見逃さなかった。 「じゃあ、二つ目の質問といこう。 君の家には、エルシェナどころか、世界中から集められた 極悪人たちが、息を潜めて暮らしているそうだね?」 アルヴェリオはきょとんとしたような表情を浮かべた。 「いいえ、そんな訳ありません。 僕をからかっているのですか?」 ヴァルドレクは、それを聞くと可笑しそうに笑い出した。 「ははは、まさか、本当なわけないじゃないか。 うん、君は今限りでここに来る必要はなくなったみたいだね。 もうじき帰らせるから、安心しなさい。」 ヴァルドレクは彼の後ろに回り、両手の縄を解こうとした。アルヴェリオはとうとうそこで表情を緩めた。健康的な顔面が顕になった。 「ああ、良かった。誤解が解けて満足ですよ。 早くあいつが見つかるといいですね。」 しかし、ヴァルドレクはそれを聞くと、縄を解く手を止めた。 「ああ、もう探す必要はなさそうだよ。 君は若いから、今後のために話してあげようか。」 アルヴェリオの顔が引き攣った。 「アルヴェリオ君。どうやら君は嘘だとかやましいことが あるとき、必ずと言っていいほど『あ』という声を漏らして しまうみたいだね?まあ、君の歳を考えれば自然なことだが。 それに、さっきの助手、リュドラン君と言うんだが、彼の 観察眼には流石の私も感服するね。誰も目が行かない所を ずっと見ているんだから。恐ろしいくらいにね。 君も彼の被害者だが、それにしてもよく、先月から今まで 私たちを欺いてきたね。 まあ、これまでの話だけでも何となく見当はついているから、 もう焦らなくて大丈夫だ。リュドラン君も向かっているしね。」 「.......教会の屋根裏だろ?」 『あ!』
駅前のゴミ処理場
駅前のゴミ処理場は 今日しも また一人分静かであった
ある学生小説家
“新宿行”と表示された列車は、私が乗ってから間もなく発車した。私は、湿っぽい赤紫の座席に腰を下ろすと、堀辰雄の「燃ゆる頬」を鞄から取り出し、古書らしい埃の香りを浴びながら、そのはっきりとしない活字の羅列を眺めはじめた。電車は駅のホームを抜け、どうやら県境の河に差し掛かっているようだった。今日は曇っているから、水面は何の光も反射せず、ただ黙々と波を漂わせているだけだった。やがてその橋も抜けると、次第に住宅地が増えてきた、そんな様子が窓の外に確かめられるのであった。 例の如く、車掌の低い声のアナウンスが響いたあと、電車はまた新しいプラットホームへと身を寄せた。私は、未だに一ページも読み進めていないことに気付いて、頭を軽く振り回したあと、もう一度手元に視線を送りなおした。 ....三枝.............蝋燭の影..... ...........脊椎カリエス........... しかし、紙に載ったそれらの単語は、私の頭の中に届こうとしてもいつも直前で力尽きて、どうにも意味を持たない亡骸を残していくだけだった。その上、私はそれをよく承知していながらも、ただその亡骸を拾い集めることに熱心に取り組んだ。いや、取り組むしかなかったのだろう。だから、私はそれを打破するがために、一度深く息をつくと、その本をぱたっと一息に閉じた。紅色の背表紙に記された「堀辰雄集」という金文字がこちらをじっと睨んでいた。 私は一度ぎゅっと目を瞑ると、また窓の外に目をやった。ホームには沢山の看板があった。その内の一つ、メガネをかけた白衣のキリンによれば、駅前のクリニックは、今日は定休日であるようだ。 「他人のことをよく観察してみろ」 キリンは、私に向かってそう言った。 しかし、私がそのキリンの表情を捉えない内、いつの間にか電車は発車してしまった。のみならず、それは確かめるまでもなく、キリンの言葉は、私の先生の教えと一致していた。先生、というのは小説を見てもらっている先生のことである。しかし、私と先生しか知らないことを、なぜあのキリンは知っているのだろうか。そんな疑問を晴らすため、私は、あのキリンのことをもう一人の先生だと思うことにした。 それから、電車は幾度も別の駅に停車した。が、あの白衣の先生は、一度も現れなかった。 [他人をよく観察する] 私はその言葉をよく反芻してみた。それは、私が小説を提出するたび、先生が課題として挙げるものの一つに、必ずと言っていいほど含まれているものだった。しかし、今は、いつもの指摘とは違う、非常に私の近くで、例えば耳元で囁かれているような、そんな性質を持っていた。だからその言葉の味というのも、全く異質で新鮮なものとして私によく刻み込まれたのだ。 私は再び深く息をついた。確かに今まで、このように自分の中ばかりだけで話を決着させようとしているのが、先生のいう「他人の観察」の欠如に繋がっているのだろう。 電車はまたもや他の駅に到着した。今度の私は、先生の顔色を伺おうとするのではなくて、そこで乗ってくる乗客に目を向けるようにした。 これぞ現代風だといった服を身に纏い、甲高い話し声を鳴らす若い女達。手元の携帯に夢中で、下を向いたままボソボソ話す男子学生達。大体そんなのは、小説のために観察するには、かえって気分の悪いものであった。しかし、扉の閉まる寸前に乗ってきた老年の男、白髪としわの入った皮膚、私は彼に目をつけた。 彼は、私の向かいの席まで歩くと、ゆっくり腰を下ろして目を瞑った。しかし、彼はそうしながらも口のあたりをモゴモゴ動かして、なかなか眠りにつくことができていない様子であった。そして、そこから二、三駅が過ぎても、彼は依然として、その妙な動きをずっと繰り返しているのだった。 .......「疲れきった老人」とでも言うべきであろうか。 私が「観察」によって導き出したのは、そんなありきたりな像だけだった。とうとう私は飽き飽きしてしまって、また「燃ゆる頬」に手をつけようと、抱えていた鞄の中を手探りに漁った。しかし、ちょうどそれと同じとき、向かいの老年は胸元からおもむろに手帳を取り出すと、挟んであったペンを動かし、その端に何かを書き留めた。そして、彼は元の場所に手帳をしまい、また苦しそうに目を瞑りなおした。 私は、そこでようやく「観察」を行うことができた。私が手帳の背表紙の奥に見たのは「温泉旅行」という四文字だったのだ。 彼は今度、久々の休暇に、草津まで彼の妻と一緒に温泉旅行へ行くのだ。しかも、それは三泊四日。彼がそれほどまでゆっくりとした休みを取れるのは、実に数十年前、息子の冬休みに行った熱海旅行ぶりだった。もちろんそれを知った彼の妻は喜んで、今朝、いつもより丁寧に弁当を包んだのである。 私はそんな人生を老人に押し付けると、満足げに窓の外に目をやった。電車は、新宿まであと二駅というところに迫っていた。
ファーベル君と貴方に与ふ
あの、きちがいの名はファーベル君と言った。 奴は綺麗な瞳を持っていた。まっすぐで曇りのない目。 そして、健康な肉体を持っていた。柔らかくてしなやかな。 性格、それもすこぶる快活だったね。きちがいだったけど。 彼は葉っぱの緑の濃く繁る、八月に生まれたんだ。 窓辺から差す真っ白な陽光に包まれて、 はじめ、親戚たちは彼を天使だと思ったんだって。 学生時代の彼は、何でも器用にこなす生徒だったね。 何でも、と言ったって、全てが一位ってわけじゃないけど、 周りの他の人たちに比べれば、 それなりに秀でることが出来ていたよ。 “他の人に出来ないことをやれるのが一番だ” あいつはよくそんなことを言ってたっけ。 だけど、生涯を通じて、友達というものが出来なかった。 むろん、愛を与えるに足るような人物も。 僕だって、本当に信用されていたかどうか分からないんだ。 要するに、 「ファーベルはきちがいだからいつも孤独なんだ」 彼はそのまま大人になった。その性質を残して。 しかし、ファーベル君はよくやってるよ?彼なりにね。 ん?ファーベル君に会いたい? 無理だよ。それは。 ファーベル君はこの前死んだ。きちがいだったからね。
昼
昼・・・ 黒い翳の迫る中で きみは素足を剥き出しにした