猫 夢丸
43 件の小説よく分からない競技に命をかける男達
目を覚ますと見知らぬ場所にいた。 どこかの競技場だろうか、芝生のグラウンドには四角い白線が引かれている。遠目から見るとサッカーグラウンドの様な場所だ。周りを見ると観客席は満員、頭上に広がる青空を揺らす様な、大歓声が上がっている。 「さぁ始まりました!金メダルをかけた最終決戦」 競技場には突然アナウンスが流れる。そのアナウンスに更に歓声が上がる。僕が立っているのはグラウンドの中央。正面を見るとサッカーのユニフォームを着た金髪の青年がこちらを向いて同じく立っている。 緑のユニフォームの背中には「武田」と書かれており、彼の足元にはサッカーボールが転がっていた。比べて僕はしまむらで買ったジャージを着ている。そりゃそうだ、先程までアパートで惰眠を貪っていたのだからパジャマ姿だ。 困った僕はとりあえず目の前にいる金髪に声をかける。 「武田君……かな?ここはどこなんだい?」 「佐々木です」 佐々木だった。ユニフォームに買いてある名前はどうやら別の人の名前らしい。 「じゃあ佐々木君、ここが何処で、今から何が始まるか知ってるかい?」 そう尋ねると、彼はニヤリと微笑み腕を組む。 「あなた、何故ここに居るのか分かっていない様子ですね……」 世間から見ると彼はイケメンと言われる部類に入るのか、爽やかな見た目で女の子には人気がありそうだ。 「佐々木君は知っているのか?この場所で何が行われるのか……」 彼はため息をつくと金髪の髪をかきあげ、空を見上げながら僕にこう答えた。 「全く知りません」 知らなかった。彼も知らぬうちに連れてこられたのか。きっとサッカーのユニフォームを着ているのはただの部屋着かも知れないと思えて来た。 「そうなんだ、何か変だよね……突然こんな所に連れてこられてさ」 僕はできるだけ冷静を装い、佐々木君に話しかける。もし僕がパニックになれば彼も不安になるだろう。 「ボールもあるし……僕らにサッカーをやれって言うのかな?この広いグラウンドで二人しかいないし……」 僕がそう言うと佐々木君は深く頷き、暫く考え込み、そしてまた空を見上げてこう返答した。 「そんな事より、君の名は?」 某映画のタイトルみたいな質問をしてくるやん。もしかしたら佐々木は馬鹿なのか。この意味が分からない状況より何故僕の名前が知りたいのか。 「僕は山田(やまだ)って言います」 「ほぅ……聞いた事が無い、珍しい名前だ」 いや、絶対聞いた事はあるはずだ。何故なら僕の名前と同じ人数は日本でも上位ランクには位置するはずだから。 「間もなく試合が始まります!」 「選手はそれぞれ位置について下さい!」 アナウンスが流れ、電光掲示板にはカウントダウンが始まる。審判はカウントダウンを見ながらホイッスルを口に咥えた。僕らには何も知らされず淡々と謎の試合は進んで行く。 「やはりサッカーなのか」 僕は足元に転がるサッカーボールを手繰り寄せ、タンと足で踏みつける。漫画でしか見た事が無いが、今は何とかやるしかない。佐々木をかわし、目の前を突き進むだけだ。ボールは友達だと思えば良い。大切な友達だ、絶対に足から離すな。電光掲示板のカウントはゼロになり、試合開始のアナウンスが流れる。 「さぁ!試合が始まりますので、審判がボールを片付けます」 友達との別れは突然だった。どうやらサッカーでは無いらしい。審判は僕の足元からボールを取り上げると「ファッ○ユー」と謎の暴言を吐いて退場してしまった。じゃあ一体何を競うって言うんだ。 ホイッスルが鳴り、焦った僕は慌てて佐々木を探す。しかし彼の姿は見当たらない。 「目の前に居ない!佐々木はどこに!?」 辺りを見回すと、佐々木は二階の観客席に座っていた。何故か姿勢を正し、心配そうにグラウンドを見つめている。 いや、お前は選手じゃないのか佐々木。選手が居ないグラウンドを見て一体君は何を心配しているんだ。しかも運良く見つかったが、数千人いるオーディエンスだ。下手したら分からなかった。 「何してんだアイツ……何で観客席に?」 「佐々木選手!早速二点獲得しました!」 僕の後ろからまたアナウンスが流れる。びっくりして振り返ると、掲示板には二点の小さなシールが貼られている。よく見たらヤマザキ春のパン祭りのシールだ。菓子パンとかについているアレだ。何だろう、集めればお皿でも貰えるのだろうか。しかも彼に得点が入った意味が分からない。 「ちょっと審判!今のは何で佐々木に得点が入ったんだ?」 「全く意味が分からない!」 僕は近くにいた黒人の審判に詰め寄る。彼は困った顔でカタコトの日本語を呟く。 「トク……テン……?」 審判をするなら"得点"の意味くらいは調べて来て欲しいものだ。彼は日本に来てまだ間もないのかも知れない。てか、審判をしないで欲しい。 「アー……シールネ!アノヒト、カッコイイカラネ」 「何だそれは!不公平だろ」 僕と審判が言い合いをしているのを、佐々木は観客席から見下ろしている。それを見ていると何だか知らないがとても腹が立った。 「絶対にアイツには負けたくない!」 僕は周りを見渡し、とりあえず金網によじ登る。そして空に向かって叫んだ。 「この小説のオチは何なんだ!」 僕がそう叫ぶと会場はシンと静まり返る。その空気を察したアナウンサーが慌ててこう実況した。 「おおっと山田選手!まさかのメタ発言だ!これはこの小説を深夜のノリで書き始めた筆者が本当に困っている心の声か!?」 「山田選手に五点入ります!」 観客席からはワアっと歓声が上がり、ついに僕は逆転した。 掲示板を見ると五点のシールが貼られていたが、僕の点数のシールは何故かベルマークだった。よく分からないが僕は嬉しくなり、右手を天高く上げ力一杯ガッツポーズをした。 「それでは、ただいまより競技スタートです!」 ああ、まだ始まって無かったんだ。びっくりだ。さっきのガッツポーズが急に恥ずかしくなる。じゃあ今までの点数は何だったんだ。ショックで肩を落とした僕は審判に手伝ってもらい金網から下ろしてもらった。 「山田君、君は良いライバルになりそうだ」 佐々木は拍手をしながら観客席から降りてくる。甘ったるい彼の声を聞くと何故かふつふつと湧き上がる闘争心。僕は振り向き、佐々木を睨みつけた。 「さぁ!始めよう!金メダルをかけた僕達の戦いを!」 手を広げ、そう叫ぶ佐々木は何故か裸だった。彼は股間の金メダルを露わにしながらジワジワと僕に近寄って来る。 「何で裸なんだよ!こっちに来るな気持ち悪い」 「隙あり!イーグルスマッシュ!」 僕が佐々木の金メダルから目を逸らした隙をついて、彼は謎の技を繰り出す。 「恐ろしやイーグルスマッシュ……あれは伝説の殺人拳法」 僕の隣で見知らぬジジイが突然解説を始める。佐々木はその解説に合わせてゆっくりとパンチを出す。 「あのパンチを喰らうと二度と立てなくなる!小僧、何としてでも避けるんじゃ!」 「てか、あんた誰だよ!どっから入って来たんだ」 「さぁ決着をつけようじゃないか山田君くんくんくん……(エコー)」 僕達の戦いは、始まったばかりだ。 そんな感じで終わろうと思う。
バレンタイン・メランコリー
神谷 苺(かみや いちご)はキッチンに立ち、随分と長い時間スマホと睨めっこをしていた。開かれたページには「簡単、手作りチョコの作り方」「誰でもできる」「もう失敗しない」などの文字が並んでいる。この地に生まれて十六年間、包丁すら握った事の無い彼女。キッチンカウンターから見えるリビングにいた父親と母親はおぼつかない娘の様子に気が気では無い。 ソファに座っていた父親は開いた新聞の横から、心配そうに苺を見つめていた。 「母さん、大丈夫かな……」 「何か煙上がってるけど」 「大丈夫よ、私に似てあの子はお料理の才能はあるはずだから」 「ならよけい心配だ」 いつになく集中している苺には両親の言葉は耳には入らない。彼女は腕を組み、真っ黒に焦がしたチョコレートを見つめながら、去年の帰り道、友人の恵美(めぐみ)から受けたアドバイスを思い出す。 「広野君に聞いたよ!チョコレートはビターが好きなんだって!」 「そうなんだ」 「……で、ビターって何?」 「苦い……って意味かな?分かんないけど」 今、目の前で煙を上げる茶色い物体は、ビターと言うにはあまりにも行き過ぎた苦さだ。苺はため息をついて鍋を流し台に放り投げた。彼女が奮闘している理由はバレンタインに大好きな男子に手作りチョコレートをプレゼントする為だ。 去年のバレンタインは大量のチョコを受け取る広野君を後ろの席からただ見ているだけだった。チョコレートの交換が飛び交うクラスでは「お前は男子にチョコレートを渡さないのか」と言う意味不明なプレッシャーを感じる。それは自分が女の子だから、なのだろうか? 少し変わり者の性格からか、クラスの女子からは遊びの誘いがあまり無い苺。「バレンタインなんてお菓子メーカーの売り上げの為にある物」「仏教の私には関係無い」と言う謎理論を掲げ、あまり女の子らしさを表に出したく無い彼女は、一度もこのイベントには参加した事が無い。しかし本当は大好きな広野君にチョコレートを渡したいのだ。 バレンタイン当日は恥ずかしさを捨てきれず、頬杖をついて一人スマホをイジる彼女。それを見ていた親友の恵美は、苺の本心を見抜きながらも、後ろから優しく見守るだけだった。 「ねぇ、来年はさ……広野君にチョコレート渡そうよ」 その日の帰り道、突然恵美は苺に提案する。「えぇ……」と顔をひきつらせ、首を横に振る苺。 「ウチはいいよ……そんなキャラじゃないし」 「好きなんでしょ?広野君の事」 「は?」 苺がひた隠しにして来た自分の恋心。 まさか親友にもバレていないと思っていたので、その言葉に飛び上がるくらい驚いていた。 「なな何を言って……ウチは広野には興味無いし」 「ふーん」 「あーあ……広野君カッコいいからな、もしかしたら彼女とかいるかも知れないねー」 そう言いながら少し高いブロックに両手を広げてぴょいっと飛び乗る恵美。 「見てばかりだと、気持ちって伝わらないよ」 そう言って夕日を背に笑顔を見せる彼女は、あざとさが無い素直で可愛い女子だった。 彼女から手を差し伸べられ、一緒にブロックに乗る苺。「おととっ……」バランスを崩し、思わぬ距離まで近づく彼女は至近距離に居た恵美から思わず目を逸らした。 「ねぇ、チョコレート一緒に渡そうよ」 「え?恵美も渡すの?」 「一緒なら、恥ずかしく無いでしょ?」 彼女と一緒に、と言う言葉には魔法の力があるみたいだ。自分には到底真似できない、時々見せる恵美の気遣いと素直な優しさに、幼い時から苺は憧れを抱く様になる。ぶっきらぼうで無愛想な苺は、美人の母に似て可愛い容姿をしているのだが、その性格から他人と上手く馴染めなく、唯一の理解者である恵美だけには心を許す事ができた。 「恵美がそう言うなら……ウチも渡しても良いけど」 「オッケー!じゃあ広野君が好きな味、聞いとくね」 それから一年、ついにこの日がやって来た。顔にかかる前髪をピンで止め、腕をまくり再度チョコレート作りに挑戦する苺。きっと女子力のレベルが"カンスト"している恵美なら美味しくて可愛いチョコを作るだろう。そんな事を考えていると妙に負けん気が湧いてくる。「恵美にも美味しいって言ってもらいたい」「上手に出来たって褒めてもらいたい」生クリームをかき混ぜながら、いつしかそんな事を思う様になる。 「あの子があんなに集中するなんて……」 特別何かに興味を持たない娘、アイドル、服、メイク、どれも「別に」と言う感じだ。親友の恵美とはたまに買い物に行く事はあったが、車で駅まで迎えに行くと、袋を沢山抱える恵美に対して娘はいつも手ぶらだった。お金は少し多めに渡していたが、電車賃を引いた金額が母親の財布に綺麗に返ってくる。本人曰く「買いたいものが無かった」らしい。最初は家計を気にして買いたい物を我慢している素晴らしい子だと感心していたが、突然五万する望遠鏡を買って来た時は「ああ、違うわ」って思った。 「きっと大好きな人の為に頑張ってるのよ」 母親はうっとりした顔で娘を見ている。恋愛体質の妻には"娘のそれ"が分かるらしい。そして二人が見守る中、ようやくチョコレートは完成する。 「できた!」 手を叩き、歓声を上げる苺。今までこれほどまでの達成感を味わう事が無かった彼女は、愉悦感からか暫くチョコレートを見つめ、ニヤニヤとしていた。 「なんか不気味だな、変な物入れてないか?」 「そんな事言ったら苺にぶん殴られるわよ」 苺はあらかじめ百均で買って来た箱にチョコレートをゆっくりとしまい、可愛いラッピング紙で優しく包んだ。机に並べた二つの紙袋、一つは広野君に、もう一つは恵美用だ。 「よし……今年は渡すんだ」 「恵美と約束したからな、恵美と一緒に……」 靴を履き、紙袋を自転車に入れると、雪がちらつく街を颯爽と駆け抜ける。立ち漕ぎで坂を越え、恵美と去年作戦会議をした公園を横目に通り過ぎた。あの公園のブロックの上で、二人肩を並べて話をしていた。あれから一年、本当に早かった。 「おばさーん」 「あら苺ちゃん、こんにちは」 「これ、恵美に」 恵美の家の前に自転車を止め、チョコレートが入った紙袋を「ハイッ」と差し出す。はぁはぁと吐き出す白い息の量を見ると、よっぽど急いで来たのだと分かった。 「あらあら、そんな急いで来て……」 「バレンタイン、一番に渡したかったから!」 「まぁ!ありがとうね」 「せっかくだし……直接渡してあげて」 うん、と頷くと玄関を開けてスリッパに履き替える。慣れた様子でリビングを通り過ぎると仏間に辿り着いた。 「恵美、約束の手作りチョコレートだ」 仏壇に紙袋を置くと線香の良い匂いがした。苺が手を合わせて一つくしゃみをすると、写真の中の恵美はあの日と変わらない笑顔を見せた。 「今から広野に渡してくる、恵美も天国で見ててくれ」 三ヶ月前に不運にも交通事故に巻き込まれ、親友の恵美は帰らぬ人となってしまった。苺は悲しみに暮れ、バレンタイン前日までは学校以外は部屋に閉じ籠りきりだった。しかしふと恵美との約束を思い出し、涙を流しながらもキッチンに立ったのだ。 「行ってくるね、恵美」 自転車に乗り、恵美の母親にマフラーをしっかりと巻いてもらう。何かに肩を押されてゆっくりと漕ぎ出すペダル。彼女にとって毎年憂鬱だったバレンタインは、この日だけは何故か温かい優しさに包まれていた。
本を喰う怪物(触)
2010年8月25日、赤いランプが点灯し、都内の大学病院に二人の少年(仮に少年AとBとする)が運び込まれる。歳は五歳から六歳くらいで二人は痩せ細り、ひどく衰弱していた。深夜に患者が病院に搬送される事はさほど珍しい事では無い。ごく当たり前の光景。しかしこの日は違った。何故なら病院の周りには少年達を一目見ようと大量の記者達が集まっていたからだ。 銀色の担架ストレッチャーを引いた救急隊員の後に続いて医師達が駆け足で廊下を突き進む。談笑しながら廊下を歩いていた夜勤終わりの看護婦達は、すれ違う医師達を見て思わず立ち止まる。 「遠山先生に氷川先生……それに不動先生も……」 「何かあったのかな?レジェンド医師ばかりじゃん?」 憧れを乗せた眼差しを送る若い看護婦達だったが、汗を拭う彼らを見るとすぐに只事では無い様子に気づいた。如何なる場合でも冷静さを失う事は無い彼らだが、この時だけは違った。廊下を走り回り、怒号とも聞こえる呼びかけを繰り返す彼らはまるで普段とは別人格。周りを取り囲むマスコミを両手で払いのけ、ブルーの抗菌衣を纏うと次々にICUへと入って行く。 「お願いですから離れてください!」 入口に群がる記者達に向かってベテラン看護婦が叫ぶ。女性に似つかわしく無い程のたくましい腕でカメラをグイと押し退け、その反動で思わずよろめく記者。一台数百万の機材などは看護婦にとってはお構いなしの様子。それもそのはず、今現在起こっている事態はそれ程の事なのだ。 「何事だ!?これは」 いつになく慌ただしい様子を見た大学病院の院長は自室から飛び出し、走り回る看護婦の腕を捕まえて問いただした。 「おい君、この大勢の記者達はなんだ?」 「あの爆破事故の生存者が居たんです!」 「あのって……大日本ビルのか?」 「はい……私も信じられないのですが……」 「とにかく二人とも生きているんです」 看護婦はそう言うと院長に一礼をし、緑のシートに包まれた献血キットを抱えて走り去ってしまう。 「生存者だって?まさか……」 「事故が起きたのは一年前だぞ……倒壊したビルの中でどうやって一年間も生き延びたんだ?」 愕然としながらも集中治療室へと急ぐ、自身が院長の立場であるにも関わらず、無菌状態が原則の部屋で消毒を忘れ、手袋も着けずに入室してしまう程、彼は混乱していた。 ベッドに寝かされ人工呼吸器を取り付けられた少年達。二人の服装は半袖シャツだったが、劣化によりボロボロになっていて、着ていると言うより皮膚に張り付いていると言った方が分かりやすい。身体中には切り傷や打撲で紫になっている箇所が無数にあり、もしかしたら腫れ上がり方から見て傷口からバイ菌も入っている。少年Aの腹はパンパンに膨らんでいて、今にも破裂しそうだ。 すぐ側に集まっていた記者達は、集中治療室から出てくる院長を見つけると一気に詰め寄る。 「院長!あの少年達の容態は?」 「彼らは一年間も瓦礫の中でどうやって生き延びていたんですか?」 せき止められたダムが崩壊したかの様に、溢れ出す質疑。 「そう言われましても、私共もまだ何も分からない状況です。一旦彼らの回復を待っては頂けないでしょうか?」 「それに、他の患者さん達もいる事ですし……」 院長の切なる呼びかけに反して、更に記者達からは質問が飛び交う。 「二人のご両親はあの爆破事故で亡くなっているそうですが、ご存知でしたか?」 突然知った彼らの親族の悲報に言葉をなくした院長。あっけに口を開けたまま、記者達と向き合うしか無かった。 「やはりそうなのか……可哀想に」 カメラのフラッシュがたかれる中、院長は考えていた。「何としてもあの子達だけは救わなければならない」拳を握り、そう堅く決心する。 もはや制御できなくなった院内だったが、無言の院長はブルーの抗菌衣を身に纏い、アルコール室を通っては静かに治療室へと消えて行った。 その裏で静かに眠る人工呼吸器の取り付けられた痛々しい少年達。泥と血に汚れた口元からはスー、スー、と小さな呼吸が漏れ聞こえる。 爆破事故により生まれた二人の怪物達の鼓動は、無意識下でお互いを認識し合う様に一つまた一つと、この世界で生命を刻むのだった。 そして数日経ったある日、医師達はある奇妙な事に気付く。 それは腹痛を訴える少年Aの胃の中から、消化しきれていない "紙"が大量に見つかったのだ。Aの担当医はそれを見てすぐに院長に報告する。 「院長……これは……」 若い医師からの質問に、院長は少年のカルテを見ながら落ち着いた様子で答える。 「警察から連絡があったよ……」 「少年Aは地下の本屋のフロアに閉じ込められていたらしい。彼は一年もの間、ずっとそこにあった本を破いて食べていたんだ」 「本を……食べていた?」 「それは仕方なく、彼が生き延びる為に行った事だろう」 「嘔吐を繰り返し、それでも彼は必死に生きようとしていた……酷い話だ」 院長がそう言う。若い医師は少年が過ごしたあまりにも壮絶な一年間を想像すると、込み上げる吐き気と精神的なショックで院長を見つめたまま何も答える事ができない。 立ち尽くす医師が手に持っていた透明な袋、中には少年Aから摘出された様々な原料でできた紙が入っている。それは数々の小説家達が作り出した無数の物語。バラバラになった紙を繋ぎ合わせたそれは、どれも親子の愛を描いた優しい内容ばかりだった。 爆破の起きた大日本ビル(旧柴崎ビルディング)は、多様な人が行き交う都内では有名な商業施設だった。「ここに来れば生活の全てが揃う」と謳われる程、沢山のテナントが店を構えていたと言う。この幸せが集うはずの空間で、無惨にも爆破事故が起きる。原因は飲食店のガス漏れ。人知れず店内を埋め尽くすガスに煙草の火が引火したのだ。爆破によりビルはあっけなく倒壊し、その時の死者は約350名(未発見を除く)と発表されていた。 無論、その中にはこの少年達の両親も含まれている。奇跡的に爆破を逃れた二人の少年達は、暗闇と孤独に怯えながら空腹と闘い続け、時間になれば迎えに来るはずだった両親を必死に待っていた。しかし無惨にも捜索は爆破から一週間で打ち切られてしまう。その後二人は死亡扱いにされ、それから今日まで約一年の月日が経過する。しかし医師達にはある疑問が残っていた。 「では二階の衣料フロアにいた少年Bはどうやって生き延びたのでしょうか?」 ある医師が少年Bのカルテをめくりながらそう言った。 「倒壊した瓦礫に出口を塞がれて、出れなかったはずですが……」 「……」 院長は勿論の事、少年Bに関しては他の医者達も頭を傾げる。今でこそいたって健康に過ごしているが、食糧の無いフロアで一年間も生き延びる事は不可能だ。 「因みに少年Bには妹がいて、事故当日一緒に大日本ビルに出掛けていますが、この子は爆発に巻き込まれ同じフロアで亡くなっています」 「妹さんの遺体は損傷が激しく、DNA鑑定でようやく身元が判明しました」 「妹と一緒に居た?」 「……」 「院長、まさか……少年は妹を……」 「いや、よそう。それはあまりにも残酷で悪魔じみた考えだ」 院長は出しかけた言葉を深くしまい込む様にして口を閉ざす。張り詰めた空気の中、周りの医師達も沈黙し青ざめた様子で下を向いている。恐らくこの部屋にいる全員は、その残酷な"考え"とやらを何となく察した様子だった。 「とにかく、この事はマスコミには黙っておこう」 「無論、少年Aにも話すな」 「あの子達には未来があるんだ、変な噂が出回ると気の毒だからな」 院長の呼びかけに頷く一同、部屋から出る医師達はどこか行く末を案じる様に不安な表情を浮かべていた。彼らが立ち去るのを柱の陰から見つめる一人の少年。彼は書庫から盗んだいくつかの医学書を抱えたままジッと医師達を見ていた。ゆっくりと笑顔になる少年のその眼差しは赤く、不気味で、それはまるで死を招く悪魔の様だった。
本を喰う怪物(序)
夕日が差し込む私立図書館。人が少なくなる閉館間際の静かな空間は、街の喧騒から切り離された別世界へと様変わりする。その雰囲気が味わえる時間が、女子高生の佳苗(かなえ)はとても好きだった。眼鏡をかけた「可憐な文学少女」の言葉がとても似合う彼女。ゆっくりと本を置き、彼女が目を閉じると素敵な物語の余韻をしっかりと噛み締めている瞬間だ。 「今日も良い物語に出会えた」彼女の胸はそんな満足感に溢れ、いつも心を震わせていた。 幸せな時間を終え、ゆっくりと目を開けると佳苗の前の席に自分と同い年くらいの少年が座っていた。いつの間にこの席に来たのかは分からない。開いた本をじっと見つめる彼の様子だが、見た目は中性的な容姿をしており、思わず思春期の佳苗が見惚れてしまう程の閑静な顔つきをしている。 彼女はしばらく目線を外せないままでいたが、閉館のアナウンスが流れると彼女はハッとし、急いでカバンを持ち退席しようとした。すると少年は彼女の方を向いて優しく声をかける。 「君はどこの学校の生徒?いつもこの図書館に来ているね」 「僕と同じで、本が好きなの?」 予想もしない美少年からの声かけに、一瞬で顔を赤らめる佳苗。更に慣れない異性との交流、それが彼女の体温を一気に上げたのだ。 「あ、えっと……如月高校……です」 「む、昔から本を読むのが好きで、だからこの図書館に来てるんです」 恥ずかしそうに何度も髪を触り、手に持っていた本を見ながら話す少女を、少年は頬杖をついて笑顔で聞いている。 彼の捲り上げられたカッターシャツの袖から見える白く細い腕を見ると、佳苗はなんとも言えない不思議な色気を感じていた。 「そう、僕も本が好きなんだ」 自分と同じ趣味を持っている、そう感じた佳苗は何となく彼を身近に感じ、より魅力的に見えた。 「そっ、そうなんですね……今は何を読んでいるんですか?」 「これ?この本はカールユングの心理学だよ」 「へぇ……難しそうな本ですね……」 少年は首をううんと小さく振る。 「そんな事はない、いたって簡単な本さ。きっと君も一度読めば全部理解できるよ」 「いやいや、私には無理ですよぉ」 一度は帰ろうとしていたが、思いのほか彼との会話が弾み、閉館時間の事などはすっかりと頭から消えていた。 「僕はもう全部覚えちゃった」 「ほら、見てよ」 佳苗がその呼びかけに反応する様に、チラッと彼の手元を見ると、彼は手に持っていた本の1ページを勢いよくビリリと破いて見せた。 「えっ?!何してるんですか?」 彼の突然の行動に驚く佳苗。それは背筋に冷や水をかけられる思いだった。何故なら自分が普段から大切だと思っている「本」を無惨にも目の前で破られたからだ。それとは対照的に彼は笑顔でこう言い放つ。 「もう全部読んだから必要無いんだ」 「でもそれ、図書館の本……」 佳苗の問いかけに対して彼は何も言わず、笑顔でまた違うページをビリリと破く。また違うページも、その次のページも。佳苗は笑顔で続けられる彼のその奇怪な行動を、遂には不気味に感じる様になった。「絶対に変な人だ、この場から離れよう」そう思って佳苗がその場から離れる最中、後ろから突然バリバリと鈍い音がする。彼女がゆっくりと振り向くと彼は破いたページを次々と口に運んでいたのだ。 「やだ……本を……食べてる」 悲鳴にも似たその彼女の呟きは、彼の不気味な行動を更に加速させた。バリバリと音を立て、一心不乱に笑顔でページを喰い続ける彼の手は止まらず、遂には全てのページを食べてしまった。その異様な行為に足が震えた佳苗はペタンと尻餅をつき、パクパクと口を動かしている。 「どうしたんだい?君も本が好きなんだろ?」 そう嘲笑う少年はゆっくりと佳苗に近付く。 「いや!来ないで」 ズルズルと後退りする佳苗の肩を掴み、少年は身をかがめて彼女の耳元で何かを呟いた。すると不思議な事に佳苗の目からは一瞬で光が消え、何かに呼ばれる様に立ち上がり、ヨタヨタと歩き出す。おぼつかない彼女の足は図書館を出てしばらく進むと、そのまま近くの踏切を超え、向かってくる特急列車へと自ら向かって行った。 ドンっと言う鈍い音の後、近くに居た女性の甲高い叫び声が響き渡る。その悲惨な様子を図書館の裏からじっと見つめる少年。 警察が来るまでの間、暫く彼は血だらけの線路を見つめていた。そこに居るのはまだ少し息のある"少女だった物"彼女は口をパクパクとさせて少年に何かを言いたげな様子だった。しかし喉は潰れており、体の形も正しく留めていない少女の唸り声は、もはや少年には届かない。それを見た少年は満足そうに呟く。 「はは……これが最後のセリフ?いや、ここからが壮大な物語の始まりだよ」 彼はブックイーター(本喰らい)、数々の本を喰い、謎の能力を持つ不思議な少年。彼は数年後に起こる歴史的な凶悪事件の首謀者となる。後に彼と対峙するネゴシエーター(交渉人)、命を賭けた二人の戦いの歯車は、この時から静かに回り始めていたのだ。 本を喰う怪物(序) 終
転生したら息子の彼女でした
私……どうなったんだろう。 自転車で買い物から帰る途中に……。 そうだ、信号無視のトラックに跳ねられて。 私、死んじゃったのかな……。 転生したら息子の彼女でした 猫 夢丸 私の名前が書いてある「告別式」の看板を見つけた。私はトラックの事故で死んでしまったのだ。そして気付いたら息子の彼女になっていた。 土砂降りの雨の中、セーラー服を着た私は、傘をさして自分の告別式を外から見ている。 どうしてここに立っているんだろう?ぼんやりした意識の中、私は浅いため息をつく。 はぁ……そっか。中には入れないんだ、何故なら私は他人だから。 鞄に書いてあるネームタグを見た。そこで初めて知った彼女のフルネーム。 「園崎 朱美(そのざき あけみ)」 「朱美ちゃんは、園崎さんって言うんだね……」 家の玄関は靴が入り切らない程で、私の弟や親戚のおじさん、友達や会社の同僚や近所の人まで、沢山の人が私の告別式に来てくれている。 「みんな……私のために、ありがとうね……」 死んでしまっているけど、正直地に足が着いた状態だとあまり実感が湧かない。他人の身体とはいえ、心臓の鼓動や息遣いがこの耳に響いて来るのだから。 「朱美!」 後ろから呼びかける、聞き慣れた息子の声にハッとする。 「……」 私は目を合わせれなかった。どう言う顔をすれば良いのか分からない。それにきっと、息子の顔を見たら……。 私は思わず下を向いてしまった。 「来てくれたんだな、ありがとう」 「雨で濡れてるだろ?ちょっと待ってろよ、タオル持って来るから」 そう言って私の手を優しく握る。 うん、そうだ、女の子には優しくしろって私が教えたんだ。 ちゃんとできてるじゃん。 「母さんさ、死ぬ前はさ、朱美に会いたがってたんだ」 「……そう……なんだ」 そうなんだよね、私は朱美ちゃんと会って一緒にご飯食べたかったんだ。今じゃその会いたかった人に"なってしまっている"んだけどね。 「だから最後に一目見てあげてくれよ、母さんの顔」 「うん……」 反抗期の息子とは家では喧嘩ばっかりだった。部活から帰って来たら鞄をリビングに置いてすぐに2階に上がって行ってしまう。最近はご飯の時にしか顔を合わせる事が無かった。 でも仕方ない、私は仕事ばかりでろくに息子の面倒を見ていなかったし。離婚してお父さんが家を出て行ってしまった後は、学費や生活費の事しか考えて無かったから。 「朱美、どした?風邪でもひいてるのか?」 「さっきからずっと下向いたままじゃん」 「だ、大丈夫……です」 「です?なんで敬語?」 だよね、敬語は違うよね。 朱美ちゃんって息子とどうやってお話してたのかな?どれくらいの関係だったんだろう、も、もうキスとかしたのかな?距離感、こればっかりは流石に難しい。 「ごめん、ちょっとビックリしちゃって……急にお母さんが亡くなったって聞いたから」 「ああ……だよな、ビックリするよな」 家に上がり、スリッパを履くと仏間に向かう。 「朱美?」 「ん?」 「そのスリッパ、母さんの……」 「あ……ああ……ごめんなさい」 よく見たら玄関にお客様用のスリッパが用意されていた。私はいつもの癖で、棚の奥から自分のスリッパを出して履いてしまったんだ。 とりあえずここはごまかして早く仏間へ……。 「朱美ってさ、俺の家初めてだよな?」 「そ、そうだったけな?うん……そうだね」 「……何で仏間の場所が分かるんだ?」 それはそう。ちょっとややこしい構造の間取りなのに、スタスタと迷い無く一直線で仏間に行くお客様はいない。 「いや、たまたまウチと間取りが似てたから……」 「ふーん……そうだっけ」 仏間に入った私は、自分の遺体が入った棺桶と対面する。 それは何とも言えない感覚で、ぎゅっと胸が詰まる感じがした。 お線香の匂いに満たされた部屋には、私のお母さん、お父さん、親戚の人達が集まっていて、みんな私の棺桶を囲んで泣いていた。 それを見て私も泣きそうになる。私の身体は、明日にはみんなとお別れをしないといけないんだ。 「何泣いてんの!?私はここにいるよ!」 ……なんて言ったらみんなどんな顔するかな。去年のお正月、みんなで集まった時みたいにゲラゲラ笑ってくれるかな。 でも、言ってもどうせ信じてもらえないだろうな……寂しいな。 「ほら、母さん……朱美を連れて来たよ」 棺桶の窓を開け、息子は花に囲まれた私の顔を覗き込む。死んだ私はどんな顔をしているんだろう。怖さと好奇心が合わさった不思議な感情が浮かび上がる。 一度ぎゅっと目を閉じ、覚悟を決めるといっせーので開けた。 私は思わず手のひらで口を覆った。 静かに目を閉じる私の周りには、白い薔薇が溢れる程敷き詰められていた。 「すごい、こんなに沢山の白い薔薇……」 「息子さんがね、是非お別れのお花は、この白い薔薇でっておっしゃったんですよ」 私が驚いていると、側に居た葬儀屋さんの女性スタッフがそう教えてくれた。 「本当に綺麗ですよね、きっとご遺族のお母様も天国で喜んでいらっしゃいますね」 違う。私が驚いたのは綺麗だからじゃない。 息子が私の好きな花を覚えていてくれた事に驚いたんだ。 本当に一度だけ、たった一度だけ息子に話した事がある。それも息子がまだ小さい時に。 「ありがとう……嬉しい」 そう何度も叫びたいくらいだった。目には涙が溜まり、押さえた口から思わず嗚咽が漏れそうになる。 「朱美、見せたい物があるんだ……」 「私に?」 息子はうん、と頷く。 私は息子に着いて2階に上がり、息子の部屋の前で私達は立ち止まる。 今思うと息子の部屋には何年も入っていなかった。一度掃除をしようとドアを開けたら、息子に入って来るなと怒鳴られたからだ。 それ以来、怒られるのが怖くて入った事は無い。 一体どんな部屋で息子は一人でいたのだろう。 気にはなっていたけど、何だか覗いてはいけない気がして、今でも少し気が引ける。 「朱美……俺、お父さんとお母さんが離婚してからずっとお母さんと喧嘩してて」 「酷いこと沢山言ったよ。だって死ぬなんて思ってないしさ、毎日居るのが当たり前だって思ってたからさ」 息子はそう言って部屋のドアを開けた。 綺麗に片付けられた部屋の真ん中には大きめのクリップで止められ、綺麗に重ねられた何枚もの画用紙があった。 「俺は昔から絵を描くのが好きで、だから来月のお母さんの誕生日に、これをプレゼントしようと思ってたんだ」 「……」 床に座り、息子が画用紙のクリップを外すと、束ねられた画用紙がパラパラと色鮮やかに開く。それは全て私の似顔絵だった。何度も何度も書き直して、沢山の色を使い、一生懸命描いてくれている。 「凄い……こんなに沢山……」 「でも母さんの笑顔の似顔絵が描けなかった。どんなに描いても上手に描けなかった」 「俺が酷い事ばかり言うから、いつも母さんは悲しい顔をしていたんだ……だから俺はそれしか覚えて無かったんだ」 息子は突然わーわーと泣き出す。今まで我慢していた感情が一気に溢れ出した様に。その涙は画用紙にポツポツと落ち、私の似顔絵の絵の具をじんわりと浮かせた。 それを見た私は近くにあった筆を取り、息子の涙で滲んだ口元をにっこり笑う様に書き直した。 「多分……お母さんが笑ったら、こんな感じじゃなかったかな……」 その私の描いたブサイクな修正に、泣いていた息子は思わずぷっと吹き出す。 「ほら、泣いてるカエルが笑った」 思わず出た言葉。それは息子が泣き止んだ時に私がいつも言っていた言葉だ。 「お前、お母さんと同じ事言うんだな」 息子はその画用紙をまたクリップに止め、仏間に行き、私の棺桶に入れてくれた。 「お母さん、誕生日……プレゼント渡せなかったけど、俺の下手くそな絵でも見て天国で笑顔になってくれよ」 そっか、いつも部屋から出て来なかったのは、私の似顔絵を一生懸命描いてくれてたんだね。 その知らない間に大人になった息子の顔を見て、今まで我慢していた涙が溢れて来た。 息子の顔を見たら、絶対泣いちゃうって分かってたのに。 母として今、息子にかける言葉は一つしかない。 「お母さんはあなたを世界で一番愛していたわ、今までも、そしてこれからも」 私が朱美ちゃんの身体を通して息子にそう伝えると、突然私の魂は朱美ちゃんからすぅっと抜け、彼女はダラリと身体を息子に預ける。 天井まで浮かび上がる私の透明な身体。バタバタと手を振るが、磁石の様にゆっくりと空に引っ張られ、朱美ちゃんの身体にはもう戻れそうにも無かった。 私はハッと思い出した様に、気絶して倒れている朱美ちゃんに向かって叫んだ。 「あ、朱美ちゃん!息子をどうぞよろしくね!」 そして私が最後に見た光景は、見えるはずの無い私の方を向いて力強く頷いている息子だった。 きっと神様は私達に仲直りをする時間をくれたんだろう。 それは私達が一番望んでいた事だったから。 「真人(まさと)、今までありがとうね」 「あなたのお母さんで、本当によかったわ」
冬空を駆る奇蹟
マサチューセッツ州の小さな町、清教徒革命により、クリスマスを異教の物として禁止している地域がある。 サンタの来ない町。 そんな町で起きた聖夜の奇跡。誰にも語られず、誰も知らない小さな小さなお話。だけれども、降り積もる冷たい雪をも溶かす、魔法の様な温かいお話。 十七世紀半ば、十二月初めには雪が降り積もるとても寒い町、アッシュランド。冬支度を終えた町の人々は手作りの暖炉に薪をくべ、温かいスープを囲んで家族で過ごす。 雪がちらつく冬山から帰ったばかりのスコットと、その父親の足にくっ付き鼻をすする、狩りを覚えたての愛娘シェリー。 二人は雪を身体中に乗せ、まるでスノーマンの様に丸々と膨らんでいた。母親のニーナはその様子を見てふふっと笑顔になる。 「ママ、どうして笑ってるの?」 「ごめんなさい、小さな狩人さんが可愛くって」 「今日は誰かさんのせいで成果なし!山ウサギすら捕れなかった」 小さな狩人は父親を見上げながらそう言った。 「ごめんよニーナ……こんなに雪が吹雪くとは思わなかったんだ」 窓の外を覗きながら言い訳をするスコットを見ていると、ニーナはそれがとても愛おしく思えた。ずぶ濡れの二人を抱きしめ、キスをし、暖かいタオルを用意する。 「二人が無事に帰って来てくれた事が、私にとって何よりの成果だわ」 笑顔のままシェリーにおでこをくっ付けるニーナ、家族を想う母親の愛は、シェリーにとってどんなスープより温かかった。 母親に頼まれたシェリーが、地下の貯蔵庫にある保存肉を取りに行く最中、階段の側で紐で縛られているいくつかの本が目に入る。 ある理由から学校にも行けず、外の世界に触れる機会が少なかったシェリーにとって本は唯一の楽しみ。凍った鹿肉を床に置き、ポケットに入っていた狩猟ナイフで本の紐を解く。 幼い彼女が地下倉庫で得た知識は膨大で、薬草や花の名前、動物の種類、ナイフや天気に関して等、山での生活に関する事は父親を超える程だった。 母親の頼み事なんてすっかり忘れてしまい、目を輝かせながらパラパラとページをめくるシェリー。 幼い自分でも、なんとか読める文字を拾い上げ、暫くそこに書いてある物語に没頭した。 「サンタクロース……彼は世界中の子供達にプレゼントをくれるのね」 「クリスマス……知らなかったわ、何て素晴らしいの!」 中々戻らないシェリーを心配して、父親のスコットが地下室を覗いた。娘はランプの揺れる薄明かりの中、小さく背中を丸め、何かを読んでいる。しかし娘が手にしていた本を見て慌てて階段を駆け降りた。 「シェリー!これは読んではいけない!」 さっきとは違う父親の様子を見て、思わず驚き立ち上がる。 「どうしてパパ?……素敵な物語なのに」 「クリスマスは禁止されているんだ……もしバレたら異教徒として捕まってしまう」 「神様が違うから?」 芯をついた質問に言葉を詰まらすスコット、知らない間に幼いシェリーは地下に眠る沢山の本を読み、誰にも教えられる事も無く自分自身で理解をしていたからだ。 「神様が違う……そうだね、僕達人間はそれぞれの生活があるんだ」 「だからって……素敵なお話にも蓋をしてしまうの?」 スコットは娘の潤んだ瞳を直視できないまま、本を取り上げてしまう。 「そうだな……もし戦争が終わるなら、僕達もクリスマスができるかも知れないね、でも、サンタが来なくても僕は幸せだよ」 「何故なら、お前達がいるからね」 父親は優しい笑顔に戻ると娘の手を引き、温かいキッチンへと誘う。先程の鹿肉はローストされ、焼きたてのパンの香りが食卓に溢れた。幸せな食卓、しかしあの本の様に私達は何かに縛られている。そう感じていたシェリーは、親の目を盗んで度々地下室に通う事になった。 ある日両親が寝静まる頃、眠っていた飼い猫のシルクを用心棒にして抱き抱え、暗がりの地下に一人降りるシェリー。 「私はクリスマスについて知りたいわ、サンタクロースに会いたいもの。ねぇ?シルクもそうでしょう?」 にゃあ、と眠そうに小さく鳴くシルク。 小柄なシェリーに無造作に抱き抱えられた黒猫の胴体は長く伸び、その足がバタバタと階段に当たる。 そんな事はお構いなしに彼女は暗闇へと消えて行った。 次の日、母親のニーナが目を覚ますと隣にいるはずのシェリーの姿は無かった。驚いたニーナは適当な上着を羽織り、慌てて地下室に走る。 「シェリー!?どこにいるの?」 床に置いてある本の上で、小さな黒猫が尻尾を振っている。 「スコット!大変よ!あの子がいないの」 妻の叫ぶ声に驚き、ベッドから転げ落ちるスコット。父親も慌てて地下室の妻の下に駆け寄る。そこで開いた本のページに挟まれた一枚のメモ用紙を見つけた。 そこには宗教戦争で死んだスコットの父親からのメッセージが書かれていた。 「メリークリスマス、スコット。お前の大好きだった本をプレゼントする」 「戦争のおかげで、愛するお前に会えない日が続くが、クリスマスパーティまでには必ず帰る」 スコットの父親は、そのメッセージを最後に帰らぬ人となる。スコットはクリスマスの夜には父親が帰って来る事を未だに信じていた。だからダメな事だと分かっていたが、誰にも見つからない様にこの本を大切に隠していたのだ。 「ねぇ、スコット……もしかしてあの子、あなたの為にクリスマスをする気なんじゃ……あなたのお父様が帰って来れる様に」 「だからその準備をする為に、夜中にこっそり外に出て行ってしまったんだわ……」 「何て事だ……この吹雪の中では二時間ともたない、大人だとしても危険すぎる」 ブーツの靴紐を結びながら、いつもは二つ仲良く並んでいるが、今は一つ足りない弓矢の棚を見つめ、スコットはぎゅっと目を閉じた。 「神様……どうかシェリーを守ってください」 弓を手にするとドアを開け、ニーナに向けて頷く。娘の残した小さな足跡は、ほとんど雪にかき消されていて、でもそれを頼りに進むしか無い。視界も閉ざされた朝焼けの暗雪は、轟音を立ててスコットの進行を阻む。 「シェリー!!シェリー!!」 喉が焼けるほどの寒さの中、一時間以上出し続ける大声。とうに限界を迎えた彼の声は、白ウサギの足音よりも微かになっている。 寒さで意識が薄れて行く中、近くに洞穴があるのを発見し、なんとか雪を避ける。雪を払う最中、洞窟はほのかに温かく、明らかに誰かが暖を取った後に気付く。 それが誰かはスコットには一目で分かった。 「これはシェリーの火切り板だ……それにもみの木の葉っぱが落ちている」 火切り板とは火を起こす為の道具、この地域では家庭によって一つの楽しみとして、板に様々なデザインを施していた。スコットはシェリーが机に向かい、一生懸命に板に猫の模様を書いていたのを思い出す。 「あの子……知らないうちに、一人で火まで起こせる様になっていたのか」 そう呟くと、もみの木の葉っぱを拾い鼻に近付ける。葉っぱはまだ若い臭いがしている。きっと先程切ったばかりの物だろう。 スコットは地図を広げ、もみの木が群生している場所を探した。 「この場所から近い林だ、シェリーはそこへ行っていたんだ」 しかし地図を辿ると、ある最悪な事実に気付く。何故ならこの洞窟は、もみの木の群生地から来ると家とは全くの逆方向。中継地点として立ち寄る場所だとすると、それはとても不可解だった。 「きっとあの子は家に帰る道を見失ったんだろう」 「ああ!まずい……僕はどうすれば良いんだ」 洞窟から出て、絶望感を抱きながら足を進めるスコット。 娘が側にいない事が彼の思考を破壊し、毒された脳は、彼の持っていた冬山で生きる為の知識を全て失くした。 徐々に視界が狭まり、雪の中を倒れ込む。思えば今日はクリスマス。だからあの子は急いでもみの木を取りに行ったんだ……何て優しい娘なのだろう。 段々と冷たくなる身体をさすり、スコットは改めて娘の愛を噛み締めていた。 「僕は父さんと同じ、家族を残して旅立ってしまうんだ……ごめんよニーナ、愛してる」 「シェリー……もう一度抱きしめたかった。まだまだ教えてあげたい事もあったのに」 スコットは目を閉じ、自分の父親を思い出す。厳しくて、あまり物言わぬ父親。しかし、戦地からでも必ずこっそりクリスマスプレゼントを送ってくれた。 スコットにとっては彼がサンタクロースだったのだ。 「スコット……起きろ、スコット」 「今日は狩りも上手くいったな」 「大手柄だ、さあ俺たちの家に帰ろう」 「父さん……そうだね、母さんが待ってる」 スコットは父親と狩りに行っていた頃の昔を思い出しながら、静かに眠りについた。 さっきまで吹雪いていた雪の音が聞こえなくなり、自分の吐く息の音しか聞こえない。真っ白な静かな空間は彼の疲れた身体を優しく包み込んだ。 「……帰ろう」 「帰ろうパパ!」 その声に反応したスコットが目を開けると、小さな手が彼の手のひらを握っていた。 最初は幻覚かと思っていたが、その手の温かさに触れ、徐々に意識がはっきりして来る。 「シェリー……お前なのか?」 「うん!私だよ!勝手に外に出てごめんなさい」 背中にはシェリーの背丈くらいのもみの木と、ポインセチアの美しい花が縛られている。 彼女はもみの木を採取した後、わざわざ迂回してポインセチアの花が咲いている場所まで向かっていたのだ。 「クリスマスの準備は揃ったよ!これでおじいちゃんはパパに会えるね」 「シェリー……お前……本当に」 実はシェリーは道に迷わない様、常に太陽を追いかけていた。 弓の矢を火おこしの道具に使い、カロリーを絶やさない様、乾燥肉を持っていた。それは全て地下室の本から得た知識だ。 「帰り道は知ってるわ、だから帰ろう」 「ママが待ってる、でしょ?」 スコットが頷く頃には吹雪は晴れ、雲の間から太陽が差し込む。光に照らされた雪はキラキラと光を放ち、二人の出会いを祝福する様に明るく照らしていた。 スコットがふとシェリーの足元を見ると、小さなシェリーの足跡の横には大人のサイズ程の足跡が残っていた。慌てて辺りを見回すが、他に誰かが居る気配は無かった。 「シェリー、お前の他に、誰か居たのか?」 「ああ!そう言えば……私、サンタクロースに会ったの!」 「白いお髭で丸い帽子を被っていたの、赤いコートを着ていて、自分はサンタクロースって言ってたわ」 「サンタクロース?本当に!!」 「うん、サンタクロースがパパの居場所を教えてくれたのよ」 「大切な人が困ってるって」 そう言うと、シェリーは嬉しそうにポケットから一枚の銀貨を取り出す。 「それは?」 「魔除けの銀貨よ!これはサンタクロースからのプレゼント!彼は本当にいたんだわ」 銀貨を見るとそれは数十年前の記念硬貨。指で掴み、太陽にかざすスコットはその銀貨の表を見て言葉を失った。 それは小さい頃にスコットが父親と初めて行った遊園地で作った記念銀貨。大切な父親との想い出だったが、数年前の引越しの時にどこかに行ってしまった。その日からいくら探しても出て来ない物だった。 「銀には魔除けの効果がある、お前がもし何かに困った時は、必ずこの銀貨がお前を助けてくれるはずだ」 彼はそう言ってスコットに銀貨を渡してくれたのだ。 銀貨を見つめていると、不器用だった父親の優しく温かい、いくつかの言葉が蘇る。 「父さん、今年も僕にクリスマスプレゼントをくれたんだね」 「ありがとう……父さん、愛してる」 「パパ、どうして泣いてるの?」 「いや、何でも無いさ……さぁ帰ろう」 二人は太陽に向かい、手を繋いで歩き出す。 家に辿り着くと、母親のニーナは寝巻き姿のまま飛び出して来た。涙を流し、二人を抱きしめる母親。 「ごめんなさいママ、朝までには帰るつもりだったの……」 「ううん……あなたがこんなに大人になっていたなんて、ママは全然知らなかったわ」 「パパの為に……ありがとうね」 もみの木を飾り、食卓には赤いポインセチアの花、数年ぶりのクリスマス。 「本当は禁止されていたけど、今夜だけは神に叛(そむ)いても、クリスマスをお祝いしよう。寒い冬山で、パパのお父さんが帰り道に迷わない様に、町で一番明るい家にするわ」 「メリークリスマス……」 シェリーが目を閉じてそう呟くと、突然窓の外からシャンシャンと鈴の音が聞こえる。 きっとそれは冬空を駆る奇蹟、素敵なプレゼントを配る為、サンタクロースは今夜も世界中の子供達に会いに行く。 「お父さんもお母さんも幸せそう!」 「こんな嬉しいプレゼントは他に無いわね」 「ありがとう……おじいちゃん」
クッキーゲーム(下)
デジタルの残り時間が二十秒を切った所で、老人はカードに手を置き、ボクの方を見た。 先程までの彼の雰囲気は一変、まるでそれは上空から急降下し、獲物を捉えるコンドルの様な鋭い眼光だった。 「悪いな……若いの」 「ワシもチェンジじゃ」 老人がゆっくりカードをめくるとそこにはチェンジの文字が。 僕の用意したカードが不意にめくれて、それがクッキーを交換できない"ステイ"だと分かった瞬間、彼は動き出した。 「なるほど、このタイミングでチェンジか……」 「勝負は最後まで分からない、若い者にはその本当の意味が理解できないじゃろう……」 老人はそう言い、ボクの皿からクッキーを取る。そのクッキーは先程向かいの男と交換したばかりのクッキーだった。 恐らく"それ"が当たりだったのだろう。 そう、この老人が主催者だ。彼は最初からどのクッキーが当たりかを知っていた。 だからクッキーの移動が完全に終わる最後の時まで、チェンジのカードを温存していたんだ。 当たりのクッキーを必ず手に入れる為に。 当然、彼はボクの落としたカードがステイだと気付き、この様な行動に出た。 でも……そんな事は最初から分かっていた。 「あんたはどのクッキーが当たりかを知っていた。だから最後に動いたんだな」 「何を言っておる、また証拠も根拠もないデタラメを……」 「そもそも、もうゲームは終わりじゃぞ?その手持ちのステイカードでは、お前が今何を言ってもどうする事もできないじゃろ」 デジタルの残り時間は五秒を切っている。 確かに老人の言う通り、もうゲームは終わりだ。 そう……ボクがここで動かない限りは。 「何故二枚の"カード"にしたか理由が分かったよ……きっとあんたもボクと同じ事を考えてたんだな」 ボクは下を向いたままテーブルのカードに手を置き、パタリと表を向ける。 そこにはチェンジの文字が。 「じいさんごめん……ボクもチェンジだ」 「何!?お前さんのセットしたカードはステイじゃ無かったのか?」 老人が席を立ち、慌ててボクのカードを手に取る。しかしそれはタネも仕掛けもないただの一枚のカード。 間違いなくチェンジのカードだった。 老人はそれを確認すると、悔しそうにボクのカードをテーブルに投げつける。 「さては……やりおったな……若いの」 さっきカードがテーブルから落ちたのは、向かい側の男がテーブルを叩いた時に、ボクが手に持っていたもう一枚のカードを"わざと"落とした。 それはステイのカード。 最初からテーブルにはチェンジのカードが置いてあった。 机が揺れた瞬間にカードを手のひらで隠し、テーブルの下に落としたカードにみんなを注目させた。 そして、あえてステイのカードがみんなに見える様に拾い上げたんだ。 それはこの老人に、ボクがもう動けない事を知らせる為に。 「勝負は最後まで分からない……でしょう?」 「さぁ、じいさん……クッキーを返してもらうよ。それはボクにとって恐らく大事なクッキーになるからね」 ボクは老人からクッキーを返してもらう。それと同時に終了を告げるアラーム。 クッキーを口に含んで噛み砕くとやはりそこには何も入っていなかった。即ち当たりのクッキーだ。 スタッフの男がそれぞれの口の中を確認し、向かい側の男と老人からは白い紙が現れる。 これでボクの勝ちは確定した。しかし一つ気になる事がある。 「じいさん……もし向かい側の男とボクがチェンジを使って、最終的にあんたの所に当たりのクッキーが行った場合、チェンジのカードしかないあんたは一体どうしてたんだ?」 「そん時は暴れてテーブルを倒してでもカードをステイにすり替えていたわ」 「ふふ、なるほどね……」 「お前こそ、この銃が突きつけられている状況で最後まで冷静じゃったが、何故なんだ?」 「銃のセーフティー(安全装置)が外されていなかった、恐らく誤った暴発を防ぐためでしょ?」 「即ち、最初からボクを撃つ気は無かったって事だよ」 それを聞いた老人はニヤリと口角を上げる。 「さすがじゃな……よく洞察しておる」 そう言うとひとつ咳払いをし、老人はゆっくりと席を立つ。するとスタッフが老人に素早く駆け寄り、手際よく足枷を解いた。向かい側の男も同じく"自分で"足枷を外している。 扉からは先程のクッキーを飲み込んだ女性が黒服の男性達を引き連れ、腕組みをしながら出て来た。 そして皆はパチパチと拍手をしてボクを見ている。 これは一体どうなっているのか? 老人は困惑するボクの目の前でパンと手を叩き、ゆっくりとこう話した。 「騙していてすみません。実は参加者も全員スタッフなんです。あなたの推理能力や洞察力を試したくて、今回この様な事をさせて頂きました」 「え……それはどう言う魂胆で?」 「最近イギリスで話題になっている殺人事件をご存知でしょう?犯人が現場に複雑な暗号を残していくアレです」 「ああ、知っているが……今回の件と何の関係が?」 「実はあの新聞の問題を解いたのはあなた一人しかいませんでした。そんな素晴らしい頭脳を持つあなたに、是非この事件の解決に協力してもらいたいのです」 老人はそう言うとボクの肩に手を置き、優しく微笑んだ。 「ずっと……ずっとあなたを探していました……私はあなたの祖父にお大変世話になった……」 「メアリーホームズ……会いたかった。あなたは紛れもなくあのシャーロックホームズの孫娘……」 「何故ボクのお爺ちゃんを知っている?」 「私はジョン・ワトソンの息子、モルガン・ワトソンと申します。私の父はあなたのお爺様と最後まで一緒にいました」 「そう……世界一の探偵の助手として」 彼の言う通り、ボクはシャーロックホームズの孫娘メアリーホームズ。楽しみにしていたイギリスの学校をたった一年で卒業してしまい、フラフラとしていた所だ。図書館の本も全て暗記してしまい、時間を持て余していた。なので、今回の事件は暇つぶしには丁度良いかもしれない。 ボクはポケットに残っていた、くしゃくしゃのタバコに火をつけると、ワトソンは慌ててボクからそれを取り上げた。 「何するんだ、一服くらいさせろよ」 「タバコより、あなたにはコレが似合う」 ワトソンが木箱から取り出したのは古ぼけた木製のパイプ。二十歳そこそこの女の子にこれを吸えと言うのか……しかし何故か懐かしく思える。まぁ、これはこれで手に馴染んで悪くないかも知れない。 ボクはダサいジャージを脱ぎ捨て、用意された焦げ茶色のスカートとお洒落なインバネスコートに着替える。 「さぁ……事件の内容を詳しく教えてもらおうか?」 「ワトソン君」 ボクが挑むこの殺人事件、暗号には必ずクッキーの様な絵柄が添えられており、メディアではそれに因んで"クッキーゲーム事件"と呼ばれ、後に世界中で注目される事になる。 大丈夫、すぐにボクが解決してみせるさ。 クッキーゲーム 完
クッキーゲーム(上)
目の前には真っ白な部屋、真ん中には見ず知らずの大人達と囲う黒いテーブルが一つ。煙草を買いに出かける道中、誰かに薬で眠らされ、気付くとこの部屋に居た。 「ようこそ三人の理解者達よ!」 突然部屋の四隅にあるスピーカーから、男の声が聞こえて来る。 「あなた達は類い稀なる頭脳の持ち主、よくぞあの難問を解きましたね!実に素晴らしい」 あの難問?あぁ、少し前に新聞に載っていたクイズの事だな……クイズの答えはあるホームページのURLだった。そこに示されたアドレスにメールを送ったんだ。それは"ボク"にとってはただの暇つぶしだったつもり。 それがまさかこんな事になるとは。 なんせ今はこめかみに銃が突きつけられ、すぐにでもボクの脳みそが飛び散る状況だからだ。 「貴方達にはあるゲームをしてもらいます」 「ふざけた事を言うな!早く俺達をこの部屋から出せ!」 突然、ボクの向かい側に居た男が叫ぶ。身体を揺らし立ち上がろうとするが、椅子に足が固定され、上手く身動きができない。 「そう焦らずに、貴方が当たりを引けばこの部屋から出してあげますよ」 「当たりだと……?」 「さぁ、準備を!」 スピーカーから聞こえる男の合図で白いドアが突然開き、そこからは仮面を被ったメイドが一人部屋に入って来る。彼女の手の上には丸いお皿が一枚。その上にはいくつかのクッキーが並べられている。 クッキーは四つ。それぞれには「○、△、□、×」の絵柄が描かれていた。 「フォーチュンクッキーをご存知?クッキーの中には小さな紙が入っていて、それは日本で言うおみくじの様な役割を持っています」 「今回用意させてもらったのは、そんな物よりも数倍楽しいクッキーですよ!」 テーブルに置かれた丸いクッキーを見る限りでは何も変わった様子は無い。もちろん外見では判断できない。 「このクッキーの中には何も入っていない当たりのクッキーが一つ、それ以外の三つには小さな紙が入っています」 「見事何も入っていないクッキーを引き当てれば勝ち、この部屋からお出ししましょう、しかし紙が入っていた場合はハズレ!即座に貴方の頭は撃ち抜かれます」 参加者は女性が一人、老人と先程叫んだ男性、そしてボクの四人だ。単純に確率は4分の1。この中から25%を引けば当たりとなる。しかし残りの75%を引くと死んでしまう。 単純な運ゲーって事か……不味いな、運には世界一自信が無い。 「死ぬなんて絶対に嫌よ!私はこの馬鹿げたゲームから降りるわ!」 突然取り乱した様子の女性が目の前のクッキーを掴み取り、口に投げ入れる。司会者が中身を確認する前に、ゴクリと音を立ててクッキーを飲み込んでしまった。 「飲み込んでしまったわ!これでもう私のクッキーは当たりかハズレか分からないわね!」 「どうしても確認したければ、私の腹を割いて見てみなさい!」 静まり返る室内。女性のその突然の行動に向かい側の男と老人は、ただ女性を見つめるしか出来なかった。 「えぇ……そうさせてもらいましょう」 「え?今なんて……」 近くにいた黒い服を着た男性数人が女性の腕を掴み、椅子から抱え上げる。足に取り付けられた枷は外され、女性はあっという間に別室へと連れて行かれた。 「いやああああ!やめて!離して!」 叫びも虚しく退場させられる女性。 目の前のクッキーは残り3つになった。 「すみません、ゲームを乱す人間のせいで、少し興が覚めてしまいましたね。気を取り直してルールの説明を……」 すると隣にいた老人は手を挙げ、司会者に質問をした。 「あのご婦人が飲み込んだクッキーが当たりの場合、この皿にあるクッキーは全てハズレの可能性もあるって事かの?そうなればこの後、私達がゲームをする意味は無いんじゃないかね?」 「いえ、それは違います」 「ただ彼女はルールを聞く前にフライングしただけ、本来はこのゲームに参加する人間でした」 「だから彼女の選ぶ順番が"先に終わった"ってだけの事です。あのクッキーが当たりでもハズレでも、このゲームが終わる事はありません」 司会者がそう言うと、老人は肩を落とした。 それを聞いていた向かいの男は、顔を真っ赤にしながらテーブルを叩き、叫ぶ。 「あの女!勝手な事しやがって!コッチが選ぶ数が一つ減っちまったじゃねぇか!もしかしたらあの女が食ったクッキーが当たりだったかも知れねぇのによ!」 違うな……彼女は確実にハズレを選んでいる。 何故なら彼女は飲み込む前に紙が入っていないか必ず確認をするハズだからだ。恐らく紙が入っていたので、あやふやにする為に飲み込んでしまったのだろう。 だからこの3つの中に当たりはまだある。 「あまり騒がない方が良いですよ?暴れたりすると貴方達の頭にピッタリと付いている拳銃が誤って貴方を撃ってしまうかも知れません」 その呼びかけに、再び静まり返る室内。その後、司会者からはこのゲームのルールが説明された。 まずボク達の目の前にはそれぞれトランプに似せた二枚のカードが配られる。片方は「ステイ」もう片方には「チェンジ」と書かれている。 そして一人ずつクッキーを選ぶ。その後五分間は一度だけクッキーを誰かと交換ができる。交換しないならば「ステイ」、誰かと交換するなら「チェンジ」のどちらかをテーブルに置く。但し、カードはどちらか一枚しか使えない。 プレイヤーはそれぞれ手札が見えない様にカードを机に置く。プレイヤーは五分の制限時間以内にカードの内容をコールをし、カードの効果を発動しないといけない。 ざっくりこんな感じだ。要は五分以内に手元にあるクッキーを誰かとチェンジするか、しないかを言えば良い。しかし何故カードを使うのかが今の所は不明だ。 司会者の指示により、ボク達は順番にクッキーを選んだ。 まずは向かい側の男性が×の絵柄のクッキーを選ぶ。 「ええい!分からねぇからとりあえずこれで良い!」 次はボクの番、先程の女性は△のクッキーを飲み込んでいたので、○の絵柄か□のクッキーしか残っていない。 「じゃあ、ボクはこれで……」 とりあえずここは□を選んでおこう。 最後の老人は必然的に○の絵が書いてあるクッキーを選ぶしかなかった。 次にカードを伏せて机に置かないといけない。ここは間違い無くチェンジのカードを選ぶべきだろうか……いや、もしかしたらボクの選んだクッキーが当たりの可能性がある。 カードは一枚しか使えない。果たしてどちらのカードを置くべきか…… それぞれのプレイヤーはカードを凝視するばかり、しかし二つしかないカードだ。そんなに長く見ていても意味が無い事は分かっていた。 ……ただ、時間が欲しかっただけだ。 恐らくこのカードが最後の希望になる。上手くカードを使い、どうすればこのゲームで生き残る事ができるのか、みんなは必死に考えていた。 刻々と時間が過ぎ、ボクはある違和感に気付く。 司会は最初に、新聞の問題を解いた「三人の理解者」と言っていた。しかしゲームに参加しているのは自分を含めて全部で四人だった。 要するにこの中には一人だけ新聞の問題を解かずに参加している、いわゆる「異物」が含まれている。 無条件にゲームに参加できる人物。 それはきっとこのゲームの主催者かスタッフだろう。 なるほど……そいつに気付き、それを炙り出せればクリアできると言うのがこのゲームの重要な本質……肝の部分だったんだ。 じゃあこの中の誰が犯人なのか? 向かい側の男性か老人……先程退場した女性の可能性もある。しかしもし女性であれば最初からこんな意味の無いゲームをしないハズだ。あれはただの予定外の出来事。 考えろ、必ずこのゲームに勝てる方法は存在する。ボクはカードを見つめながらそれを必死に模索した。 「時間です!さぁカードを一枚選んでテーブルに伏せてください」 ボクはカードを一枚選び、テーブルに置く。この段階では誰が何のカードを置いたのか分からない。ブザーが鳴り、壁に取り付けられたデジタル時計が五分の時を刻み始める。 シンと静まり返る中、デジタルのカチカチと言う音だけが室内に響く。窓の無い蒸し暑い部屋の中、緊張からか汗がこぼれ落ち、無言のままどんどんと制限時間は無くなっていった。 それから三分経ったがまだ誰も動かない、残り時間が一分を切った頃、痺れを効かせた向かい側の男はカードをめくって叫ぶ。 「さては、お前らステイを選んだな?」 「俺はチェンジだ!」 男はそう言うと勢いよくチェンジのカードをテーブルに叩きつける。 「おい、向かいの若いの。お前が怪しいな」 男はボクを指差した。何故ボクなのか…… 「お前は質問もせず、一言も話さない。この状況で唯一冷静だった、だからこのゲームの事を何か知っているんじゃねぇか?」 「何も知らない、気付いたらこの部屋にいた」 「けっ!嘘つくんじゃねぇ!」 男は怒鳴りつけながらテーブルを強く叩いた。その強い振動でボクのカードは飛び跳ね、床に落ちてしまう。カードが一瞬めくれたが、ボクは慌ててカードを隠し、拾い上げた。 「はあーん?見えたぞ、お前ステイか?」 あろう事かボクのカードが見えてしまった。 「……」 「やっぱりな!お前参加者に紛れているスタッフだろ!さては当たりを知ってたんだな?!」 「自分が選んだクッキーが当たりだと知っているからステイを選んだんだ!きっとそうだ」 ボクはカードをテーブルに置き、男を睨む。 「あと三十秒しかねぇ、どうせこの爺さんも諦めてステイを選んでるんだろう」 「だから俺の勝ちだ!」 男がカードをめくるとチェンジの文字が、彼は誰かとのクッキーの交換を選んでいたんだ。 「おい!お前のクッキーと交換だ」 ボクは黙ってクッキーを男に差し出す。交換が終わってデジタルを見ると残り時間は二十秒。 まもなくゲームは終了する。 さて……どうしたものか。
ピアス
"歪み"を意味する"アーティファクト"それはこの世に存在するハズが無い、もしくは存在が許されない物体を言います。 ここはアメリカ、オハイオ州の田舎町にある小さな雑貨屋さん。仲の良い老夫婦が切り盛りするお洒落で可愛らしいお店です。 その店の前で赤い靴をめいっぱい立てながら、うーんと背伸びをしてガラスウィンドウ越しに店内を覗く女の子がいました。 彼女のキラキラした瞳の先にあるのは、何て事無い銀色の小さなピアス。ある日誰かが必要無くなったのか、はたまたお金欲しさに老夫婦のお店に持ち込んだ物でしょう。 だけれどそれはこの世界に存在してはいけない、ある人物が落としたアーティファクトだったのです。 ここ最近、街には蒸し暑い日が続き、道路はすっかり乾いています。水撒きをしようと外に出た店主グラハムは、ガラス窓にペタッと手を付いた少女を見つけました。年は八歳ぐらいでしょうか。日傘をさしていて、大きな白いリボンを付けた金髪の女の子です。 「おやおや、このピアスがそんなに気に入ったのかい?でも……お嬢ちゃんにはちーっとまだ早いかな」 「こんにちは!グラハムさん、いいえ……違うのよ」 「このピアスを付けたいワケじゃ無いのよ」 「だってピアスは痛いし不衛生だわ」 そう言う少女はグラハムには目もくれず、ガラス越しのピアスを見つめたままでした。その様子を見た店主グラハムは、白いあご髭を触りながら少し考え事をします。 「じゃあ……どうしてずっとそのピアスを見ているんだい?」 「コレがどうしてここにあるのかな?って思って」 おかしな事を言う。グラハムはそう思いました。まるでこのピアスの前の持ち主を知っている様な、そんな言い方だったからです。 「もしかして、お嬢ちゃんのピアスかい?」 「そうじゃないわ、知り合いの物なの……」 「だから私に譲ってもらえないかしら?」 そう言って初めてグラハムの目を見た少女の顔は、とても大人びた様子で、その瞳はエーゲ海よりも蒼く澄んだ綺麗な色をしています。数々の美しい美術品を見てきた店主でしたが、そのあまりに美しい瞳に引き込まれ、腕を組んだまましばらくその瞳に見惚れてしまう程でした。 「あ……あぁ……大切なお客様にはノーとは言わないさ」 グラハムは少女を店内に招き入れ、白いポットに入っていた冷たい紅茶と彼の妻が焼いた米粉のクッキーを用意しました。 「ピアスを大切に包むから、少しの間椅子に座って待っていておくれ……ほら、妻のクッキーは絶品だぞ」 「お気遣いありがとうグラハム、そうさせてもらうわ」 少女は少し高い丸椅子に腰掛け、足をぶらぶらとさせてクッキーを食べています。見た目は子供だけれど、しかしどこか貴婦人の様な物言いや立ち振る舞いにグラハムは少し違和感を感じていました。 グラハムが一枚白い布を取り、その布で台座に置いたピアスを摘むと、指先に微かな温かみを感じました。まるでそのピアスに生命が宿り、鼓動が脈打つ感覚を覚えます。驚いたグラハムは思わずピアスから手を離してしまいました。 「何だろうか……今のは」 その様子を見て紅茶のグラスを置いた少女は、グラハムの近くに駆け寄ります。 「どうされました?どうも顔色がすぐれませんよ、グラハム」 「いや……何も無いよ、大丈夫」 するとお店のドアの方からチリンと呼び鈴が鳴ります。グラハムは慌てて白い布を机に置き、呼び鈴のする方に向かいました。 信じられない事に、そこには人の大きさ程ある白いウサギが立っていたのです。ウサギは赤いシルクハットにお洒落な装飾の施された赤いチョッキを着ていて、何やらしきりに懐中時計を見ています。 「遅れちゃう遅れちゃう!パーティに間に合わないよ」 ぶつぶつと何かを話す大きなウサギにグラハムは驚き、入り口の前で立ち止まりました。 「何だコレは……何が起こった?」 窓の外を見ると槍を持ったハートやエースのトランプ達が兵隊の様に列をなして行進し、その横を憎たらしい顔をしたチシャ猫が通ります。空は真っ暗になり、辺りを霧が覆い尽くし、お向かいさんの靴屋が見えなくなる程でした。 「お嬢ちゃん!何だか様子がおかしい。とにかくここから逃げなさい」 グラハムが振り向くとそこにあったピアスも消え、先程の少女も居ません。大きなウサギは店内をぴょんぴょんと跳ね、あちこちの売り物を倒したり踏ん付けたりします。 「やめなさい!この店から出ていけ化け物め!」 ウサギに向かってグラハムは近くにあった陶器の壺を投げました。するとウサギの赤い目が光り、不気味に開いた大きな口でゴクリと壺を飲み込んでしまいました。その恐ろしさからか、その場で立ちすくむしかない店主グラハム。 すると突然、市場に買い物に出かけていた妻からの電話が鳴ります。慌てて電話に出るグラハム。 「テレシア!?無事か?今店は化け物に囲まれていて……」 「何を言ってるの?グラハム、今のお店の前に着いたのだけれど、中をのぞいても真っ暗で誰も居ないのよ……だから電話したの」 「何だって!?中には俺がいるじゃないか!見えないのか?」 「またそんなつまらない嘘ついて、とにかく早く開けてちょうだい、鍵が掛かっていてドアが開かないわ!あなた二階の部屋にいるんでしょう?」 力が抜け、ダラリと受話器を下すグラハム。妻はトランプ兵達が行進するすぐ隣で、何気無い顔をして店内を覗いています。それはまるで化け物やグラハムが見えていない様子でした。 「テレシア……どうやら私は不思議な世界に取り残されてしまった様だ」 「でも、お前が無事なら良かった」 グラハムは肩を落として悲しそうな表情で妻を見つめます。その後ろからはドスンドスンと近寄る足音。先程のウサギは赤い目をキョロキョロとさせてどうやら何かを探している様です。 「早くしないとパーティに遅れちゃう」 同じ言葉を何度も繰り返してグラハムに近寄るウサギ。グラハムは咄嗟に机の下に隠れました。頭を抱えてうずくまるグラハム。ふと目線を落とすと、見慣れない分厚いカバーに包まれた絵本が落ちていました。そこには張り紙で"ページをめくって"と書いてあります。 手を伸ばし絵本を手繰り寄せると、その絵本もまるで生きている様に温かく脈を打っていました。 彼がゆっくりとページをめくると、そこには挿絵に先程の女の子が描かれています。タイトルは「アリス・イン・ワンダーランド」不思議の国のアリスでした。 「どうなっているんだ!?さっきの女の子がこの本に書かれている」 読み進めるグラハム。ページを捲る度に、女の子は物語の中をどんどんと進んで行きます。その一文にはこう書かれていました。 "少女は古い雑貨店を抜け出し、アリスの落としたピアスを返す旅に出かけました。そのピアスは何故か現実世界に迷い込み、悪いキャラクター達が地上で悪さをしているからです" 「あのピアスは、絵本の中のアリスの落とし物だったのか?!信じられない」 隠れていた机が激しく揺れ、目の前に割れたガラスが飛び散ります。先程のトランプ兵士達が窓を破り店内に入って来ました。 「アリスのピアスを見つけろ!この店にあるはずだ!」 「あの忌々しいアリスより先に見つけて、女王様に献上するのだ!」 わらわらと入って来るトランプ兵士達、先程の大きなチシャ猫も一緒です。奴らに見つかれば命は無い、グラハムはそう思いました。とにかく彼は急いで絵本を読み進めます。 「早くアリスを見つけてくれ!頼む」 絵本の残りページが少なくなり、グラハムは焦りました。まさか絵本のラストまでに少女は間に合わないのでは?そんな事が頭をよぎります。少女は数々の困難を潜り抜け、ようやくアリスが囚われているお城に辿り着きました。 「よし!お嬢ちゃん、よくやった!あとは地下に行ってアリスにピアスを渡すだけだ」 しかしアリスがいる地下牢の目の前で、少女は悪いトランプ兵士に捕まってしまいます。 その先は何も書かれていない真っ白なページ一枚だけになってしまいました。 「ああ何て事だ!物語が終わってしまった。神様!」 本を閉じ、神に祈るグラハム。しかし知らぬ間にグラハムの周りをトランプ兵士が囲み、チシャ猫は不気味な口を開けて今にもグラハムに飛びかかろうとしていました。 「槍をかまえろ!この爺さんがピアスを持っているに違いない!殺して奪うのだ」 万事休すかと思われた瞬間、空は明るく晴れ、近くにいた化け物達は突然叫び声を上げて消えていきます。一体何が起こったのでしょうか? 辺りの様子を確認し、机の下からゆっくりと出て来るグラハム。その手には青く輝く万年筆が握られていました。絵本の最後の空白ページには彼の文字で物語が付け足されていたのです。 "少女は兵士を振り切り、アリスに出会った" 物語の最後にはアリスに無事ピアスを届ける事ができたみたいですね。ピアスは持ち主に帰った事により、アーティファクトの干渉による時空の歪みは無くなり、どうやら化け物達は絵本の中に帰って行った様です。 ハッとしたグラハムは、すぐ様ドアの鍵を開け、妻のテレシアを抱きしめました。 「あらあら、グラハム……どうしたのかしら」 グラハムが振り返ると、綺麗な店内はどこも壊れておらず、いつもの様子そのままでした。 「すまんテレシア……何でも無い、問題は無いんだ」 不安そうな妻の肩をポンと叩き店内に戻ると先程まで足元にあった絵本は無くなっていて、ピアスが置いてあった場所には白い布と「5ドル」と書かれた値札だけが残っています。あれは夢だったのか、グラハムは首を傾げながら白い髭を触り考えます。 ふと気になり窓の外を見ると、何とあの少女が日傘をさして歩いていました。しかし先程までの事は無かったかの様な落ち着いた彼女の様子。それを見たグラハムは驚いて立ち上がり、急いで外に出て少女に呼びかけました。 「待ってくれ、あんたは一体何物なんだ!?」 少女はゆっくりと振り向いてこう答えます。 「あら、どちら様かしら?あなたとは初めてお会いしますが」 白い日傘に隠れて少女の表情はよく見えません。街ゆく人達は足を止め、突然大きな声を出したグラハムを不思議そうに見ています。 「あぁ……すまん、人違いだ」 被っていた帽子の"つば"を指で掴んでグッと下げ、恥ずかしそうにするグラハム。 少女に手を挙げ、くるりと振り向くと肩を落としてお店に戻って行きました。その店主の様子を見てため息をついた少女はスタスタとグラハムに近寄り、"そで"を引っ張り彼の耳元でこう呟きました。 「さっきは助けてくれてありがとうグラハム」 そう言って彼の胸ポケットに青い万年筆をしまう少女。 「実は私も…………なのよ、これは秘密ね」 そう言い残すと少女は微笑み、日傘をクルクルと回しながら歩いて行ってしまいました。グラハムは彼女の正体に驚きましたが、何も言えずただ離れて行く彼女の手に持たれた絵本をずっと見つめているばかりでした。 ピアス〜アリスのピアス〜 完
龍を背負う女
十八歳の冬、赤く染まったピアッサーをゴミ箱に投げ捨て、彼の忘れて行ったセブンスターに火をつけた。 一人で過ごす真夜中の三時。痩せた私の身体だけだと、このセミダブルはいつもより広く見える。 学校にも行かずに、目的も無くダラダラと過ごす毎日。十も違う年上の彼氏ができて、二人で遠くに行こうだなんて。 行き着いた夢の先は、木造二階建てのボロアパートと借金。 ホストをしている私の彼氏は明け方しか帰って来ない。彼から漂うお酒の匂いと纏わり付く女物の香水の匂いが、私はすごく嫌いだった。彼の手の温もりなんて、私を何度も殴る内にとうに冷めてしまったみたい。だけど、無力な私にはそれを否定する権利は無い。 生きているんじゃなくて、彼に生かされているのだから。 未払いのスマホが止まって一週間、彼が他の女と寝ていようがいまいが、今となっては確認する手段は無い。 多分そんな事、もうどうでも良いんだ……きっと。 私の背中に描かれた龍のタトゥーは、彼が選んだデザインにした。名前を彫るのはちょっと抵抗があったけど、龍くらいならって安易に考えてた。だけど今は何だか背中が重く感じる。 さっき開けたピアスの穴だって彼と同じ場所に開けたかっただけ。お揃いだね、なんて……皮肉交じりに言ってみようかな。でも、ジンジンと痛む左耳が、また一つ新しい後悔を生むのかもね。彼が知らない間に、また一つ。 ……何で彼とは離れられないんだろう。 特別好きって訳じゃ無いの。どんなに裏切られても、彼を嫌いになれないだけ。 もう病気だよね。私、依存しすぎかな? 初めてセックスした人だから?彼の好きなタトゥーを入れたから?後悔を後悔って思いたく無いだけ?何にせよ、この背中の罪を背負って私は一生、生きていかないといけない。 でも楽になる手段は知っている。人生最後の逃げ道。がんじがらめの鳥籠から、飛び立つ方法はただ一つしかない。それに必要なのはナイフと自分を傷付ける勇気だけ。簡単でしょ? いつもの時間、鍵がガチャリと回り、ドアを開けて彼が帰って来る。右耳のピアスの穴を見せようと、私はベッドから起き上がった。だけど扉の前で動かなくなる私の足。何故なら彼の隣からは若い女の馬鹿みたいに甘えた声がしたから。 その時、私の何処かでプツリと音がした。 彼は玄関に倒れ込み、若い女の手を引く。その瞬間、リビングまで伝わるお酒の匂いと甘い香り。ああ、また私の嫌いな匂いだ。 私は我慢出来なくなってキッチンからナイフを取り出し、玄関に走った。 その後は全然覚えて無い。 女の甲高い悲鳴を聞いて我に返る。真っ赤な絨毯の上に立つ私を見て、女は何度も叫んだ。何度も何度も。もう、頭がおかしくなりそうだった。私はその雑音を止めようとして女の胸にナイフを突き立てる。 だけど刺せなかったんだ。露になった胸元には私と同じ龍のタトゥーが見えたから。 ……ああ、貴方も私と同じ罪を背負っていたんだね。 私はナイフを落とし、力なくその場に座り込む。知らない女は泣きながらどこかに電話をしている。 しばらくして、都会のビルに阻まれながら段々と近づくパトカーのサイレン。私はそれを聞こえないフリをして、膝を抱えて頭を埋めたまま泣いた。 重くなった彼の手のひらを拾い上げ、自分の頬に当ててみる。真っ赤に染まった彼の手は久しぶりに温かく、あの日のように私の頬をほんのり赤く染めた。 私は龍を背負う女、消せない罪と思い出は蛇の様に絡みつき、この先も私に付き纏う。