梟文庫
23 件の小説【はじめアキラ】全力すぎる君の愛が重たい件について
うーん、と思い切り伸びをして、僕はあくびをした。窓を開けて縁側に座る。 空は晴れ晴れとした青空。夏とは違い、霞んだような小さな雲がゆっくりと飛んでいくのが見える。昨日までの雨が嘘のようだ。雨のせいでなかなか遊びに行くこともできず、ここのところはストレスをため込んでいたのである。 今日は絶好のお出かけ日和だ。さあて、何処に行くのがいいだろうか? 「いい天気だねえ」 僕がご機嫌になっていることに気づいたのか、絵里さんがのんびりと隣に座った。僕にとって、唯一無二のかけがえのない家族。当時一歳のガキんちょだった僕を、それも虐待されてボロボロだった僕を引き取って今日まで育ててくれた恩人と言っても過言ではない。僕にとっては、もう一人のお母さんのような存在だ。 その絵里さんは独身で、現在四十五歳。在宅ワークで仕事をしていることもあって、家にいる時間は長い。僕と二人暮らし、今日も今日とて穏やかな日々を過ごしているというわけだった。本当は結婚したかったのかもしれない。僕がいるせいで、諦めた話もあったのは知っている。正直、申し訳ないと思う気持ちもないわけではなかったが。 「ずっと雨で憂鬱だったもんね。あんた、完全にアウトドア派だしさあ。……今日は好きなところに行けるよ、何処に行きたい?」 「何処、って言われても……うーん」 行きたいところ。無いわけではないが――僕が遠くの場所を口にできないのは理由があった。 僕にとってはもう一人のお母さんで、尊敬するデザイナー。そんな絵里さんだったが、いくつか大きな欠点を抱えている。そのうちの一つが、運転技術だった。 何度もやむをえず彼女の車に乗ったが――はっきり言おう、何度死にかけたかしれない。なんで、普通の軽自動車があんなに揺れるのだろう?いや、急ブレーキばっかりかけるし、ハンドル操作が荒いのが問題なのだが。 何度かガードレールに擦っているし、危ないといったらない。正直、本当にどうしようもない事態でもなければ、彼女の車に乗りたいとは思えなかった。 ゆえに。 「遠出しよっか?私と二人でデートでもいいでしょ?例えば」 「か、勘弁してくれよ、絵里さん!いやほんとに!自分の運転のへっぽこさ自覚して!?」 僕は思わず叫びながら、首をぶんぶん横に振ることにした。まさか、本当に自覚なかったのだろうか。 僕の悲鳴に、絵里さんは「そ、そんなに嫌!?ていうか酷くない!?」と眉を八の字にしている。 大好きな絵里さんを傷つけるのは非常に心苦しいが、こればっかりは命に関わるので仕方ない。 「……ったくもう。健太と一緒に、ドライブしたかったんだけどなあ……そんなに嫌かー」 ぷくー、と彼女は頬を膨らませた。僕はもう一度「勘弁してください」と繰り返した。 そのうち彼女が大きな事故を起こさないか、僕は心配で仕方ない。 幸いにしてここは東京、それも駅近なので、車に乗らなくても行けるところは多いのだが。 *** 僕の猛反対もあって、結局徒歩で近場を歩くだけになった。 普通のお散歩でも僕は十分楽しい。そろそろ、近所の公園の欅の木も紅葉で美しくなる頃合である。 うきうきとした足取りで僕と絵里さんが歩いていたその時だった。 「ねえ、ちょっとそこのあなた」 「……え?」 唐突に声がした。鈴が鳴るような可愛らしい声だ。どこ?ときょろきょろと周囲を見回す僕。絵里さんには聞こえなかったらしく、突然立ち止まった僕を不思議がって「どうしたの?」と返してくる。 声の主が見つかるまで、そう時間はかからなかった。彼女は僕達が通りがかった空き地――その雑草の中から、ひょっこり顔を出していたのである。 「ここよ、ここ。あたしはここ!」 体中にはっぱと草の汁をくっつけながらも、彼女は草をかき分けて駆け寄ってきた。 「初めまして、月下美人さん!」 「げ、げっか美人?僕が?」 「ええそうよ!だって本当に美しいんだもの、あなた!」 にっこり笑う彼女は僕よりも随分小柄であり、その顔を覗き込むためにはだいぶ首を傾けなければいけなかった。年はいくつくらいだろう。少なくとも、僕より五つは年下ではなかろうか。まだ子供に見える。それも、だいぶおませで高飛車な喋り方をする女の子だ。 「えっと、君、近所の子?」 身を屈めてなるべく視線を合わせながら言う僕。 「あんまり一人で出歩かない方がいいぞ。ここらへん、抜け道になってるから車通りも激しいし……不審者も出るって話だから。危ないだろ」 「平気よ!あたし、こう見えて喧嘩強いんだから!」 「え、ええ……?」 そう言われましても、と僕はまじまじと彼女を観察する。くいっと胸を逸らしてエッヘン!と偉ぶってはいるが、どう見ても身体は小さいし華奢である。何より子供。再三になるが、幼女。怖い大人に勝てるようには思えない。もちろん、車とぶつかったら僕だってお陀仏だというのに。 「そんなことよりあなた、あたしと付き合いなさいよ!」 びしっ!と僕の顔を指さす幼女。 「あたし、カヤっていうの。どう、あたしもなかなかの美人でしょ?」 くるり、と一回転して全身を見せる彼女。そして最後にドヤ顔。なんともポーズが決まっている。 「あなたみたいな綺麗系美人と、あたしみたいな可愛い系美人!カップルになったらお似合いどころじゃなくお似合いなはずよ!さあ、あたしと付き合いなさい、イエスと言いなさーい!」 「……あのねえ、君」 僕は、家で読んだ絵里さんのラノベを思い出した。彼女のムーブ、なんかに似ているなあと思ったら――あれだ、異世界ファンタジーに出てきそうな悪役令嬢様である。この上から目線で、お嬢様みたいな喋り方。まんまそっち系ではないか。 確かに、彼女は幼いながらもそれなりの美人だとは思う。目もくりくりとして可愛いし、顔立ちもしゅっとしている。スタイルもなかなか悪くない。将来は、さらに磨かれた素敵なお姉さんになれるだろう、ということが予想できる。 だがそれはそれ、付き合うとなれば話は別だ。ちらり、と絵里さんを見れば、彼女はにやにやしながら僕とカヤの会話を聞いている。どうやら、ストップをかけてくれる気はないらしい。そればかりか。 「お、修羅場?これはもしや修羅場の気配?超面白いんですけど!」 なんて言いながらスマホを取り出し、パシャパシャと写真を撮り始めてしまった。いつも彼女はこうだ。僕が『撮っていいよ』という前にシャッターを切っているし、なんなら勝手にSNSにアップしていることもあるという。僕のことを溺愛しているがゆえの行動なのは知っているが、もう少しこう、僕の意思を尊重してはくれないだろうか。 「……君の、気持ちはよくわかったけども」 絵里さんの助力は期待できない。写真を撮るのに夢中すぎて、僕らの会話も聞いているかどうか怪しい。 とにかく、この場は僕自身の手で切り抜けるしかないようだ。 「君と付き合うとか無理。普通に無理だから」 「はあ!?なんでよ、こんな美少女の何が不満だってのよ!?」 「確かに君は可愛いけど、まだ子供だろ。大人を揶揄うのはよしなって」 僕の年で、彼女に手を出したら犯罪者扱いされるではないか。 大体、彼女は根本的なことがわかっていない、それは――。 「僕と君のどこが吊り合うっていうの。普通に有り得ないから。……何でそんなふうになっちゃったのかわからないけど、もう少し落ち着いた方がいいって。うん、それがいい。お父さんとお母さんは?家はどこ?送っていってあげようか?」 なるべく優しい声を出して言ったつもりだった。ところが、その態度がますます彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。 「なによ!」 突然甲高い声で抗議を始めるカヤ。その声に驚いて、さすがの絵里さんもシャッターを切る手を止めている。 「人を……人を子供扱いして!あたし、確かにあなたに一目惚れしたけど……あなたのこと、名前も何も全然知らないのはわかってるけど!それでも本気なの。何?見た目だけで好きになったらそれは、本物の恋じゃないって言うの!?」 「や、それは、その」 「あなたの姿……前に見た、月下美人みたいだと思ったわ。夜の暗闇の中にあっても煌々と輝く美しい花。見た途端、びびびび、って身体が痺れるような気がしたの。ああ、あたしはこの人に出会うためにこの世に生まれてきたんだって。この美しい人と添い遂げることが運命のはずなんだって。そう信じて、勇気を振り絞って声をかけたのに……それなのに、あなたって人は!あたしの本気の告白さえ、まともに取り合ってくれないっていうの!?」 もういいわよ!と彼女は肩を怒らせ、べーっと舌を出した。 「今日はもういいわ!本当にサイテーなんだから!!でも……だけど、あたし諦めって言葉を知らないの。絶対絶対、あなたを振り向かせてみせるんだからね、覚悟しておきなさいよ、ばーかばーか!」 「え、ちょ、え!?ま……えええええええ!?」 彼女は散々捨て台詞を吐くと、そのまま風のように駆け抜けていってしまった。スピード違反だと怒られそうなくらいの速度だ。生活道路の法定速度ってかなり下がったんだよなそういえば、彼女は知ってるのかな――とやや現実逃避気味に考える。いかんせん、昼間はワイドショーやらニュースやらを見ていることが多いので、そういったことも知識はあるのだ。 「お、おう……?なんか、風のように現れて風のように去っていったね、あの子」 角を曲がって消えていく彼女の後ろ姿を見つめて、絵里さんは言った。そして。 「それでさ、健太。質問なんだけど……あの子はあんたに何を言ってたの?随分長くお喋りしてたみたいだけど?」 まあ、と彼女は苦笑して、僕の頭を撫でる。 「あんたが答えてくれても、私にはわからんのだけどさー」 あはははは、と笑う彼女は、もう一度僕のリードを握り直した。 いや、僕だって、説明しろと言われても困る だってそうだろう。――六歳のゴールデンレトリーバーの僕が、突然お散歩していたら三毛猫の子猫に声をかけられたのだ。しかも、いきなり告白された。いくら僕でも、あんな幼女に手を出す趣味はない。ついでに、犬と猫でお付き合いなんてものができるのかも怪しい。 ――なんか、もう一度来そうだなあ、あの子……。 僕の予感は的中し、その後散歩のたびに僕は、カヤにお付き合いを迫られることになる。 ああ、全力すぎる君の愛が重い!
【はじめアキラ】いつかその手に真実を
「はい、皆さん注目!これが、ワスレナグサという花です。漢字では、勿忘草と書きます」 小学二年生の、生活科の授業。 教師である私は、黒板に写真を貼ってみんなに授業を行っていた。 青い花びらの中心に、黄色い星が入っているように見える美しい花。特に少女たちの間からは感嘆の息が漏れる。やはり、女の子は綺麗なものが好きな子が多いようだ。 「広い意味で語るなら、ムラサキ科ワスレナグサ属の種に属する花の総称になりますね。ワスレナグサって名前がついているからなんとなく日本出身のお花に見えるけれど、元々はヨーロッパのお花なんです。日本もある北半球の温帯から亜熱帯のエリアに、なんと約五十種類ものワスレナグサがあるんですよ!」 「ワスレナグサって名前の花がいっぱいあるんですか?先生」 「そうなの。この写真のお花は青いけれど、白とかピンクとかもあるのよ」 生活科という科目は、小学校の途中までしかない特別な科目だ。最終的にこの科目は理科と社会に分かれることになる。 身近な生活、自然や地域社会の流れ、そういったものを学ぶ大切な科目だ。二年生くらいまでしかやらないこともあって専門の教師がおらず、基本的には私のように担任の教師が受け持つことが多い。 「先生!質問です!」 女子生徒の一人が言った。 「花言葉はなんですか?」 「あら、田中さん気になる?」 「お花の花言葉、お洒落だから好きなんです。ワスレナグサの花言葉も聞いたことがある気がするんだけど、忘れちゃって……」 花言葉。国や地域などで異なることもあるし、時には意味が変わることもある。 そして、色や本数、蕾などの状態で変わることも。薔薇なんかはいい例で、非常に花言葉が多くてややこしいと言われている。まあ、それもそれ、面白いと言えばそうなのだけれど。 私も花言葉は嫌いじゃない。 特に冠婚葬祭やお見舞いなどでは、縁起の悪い花は持っていってはいけないなんてこともある。必ずしも花言葉が理由ではないが、知っておいて損はないだろう。 「ワスレナグサの花言葉は『私を忘れないで』が一番有名ね。他にも『真実の愛』とか『真実の友情』っていうのもあります」 その話を聴いた生徒たちの反応はわかりやすいものだった。興味がある少女たちは目を輝かせ、興味のない者達は眠そうな顔をしている。なんともわかりやすい。 そんな中一人、異質な空気を放つ生徒がいた。彼ははい、と手を挙げると、私にこう尋ねてきたのだ。 「先生、質問なんですけど」 彼は私のことを、ほとんど睨むような眼で見ていた。 「真実の愛、とか真実の友情なんて、本当にあると思いますか」 彼の名は君澤翔貴《きみさわしょうき》。私が、ちょっと気にかけている生徒だった。 *** 翔貴は背も高いし、見た目も結構イケメンな方だろう。小学二年生にしては、ちょっと大人びて見えるかもれない。二年生に上がったばかりだけれど、見ようによっては四年生くらいにも見えるかもしれなかった。 ただ、そんな彼は、ややクラスでも孤立している。 前のクラスで仲良しだった友達と離れてしまったからかと思ったが、どうにも様子が違うのだ。 他の友達と話そうとしないし、遊ぼうとしない。休み時間もぼんやり外を見ていたり、スマホを眺めていることが多いのである。 もちろん、世の中には一人でいる方が気楽だという生徒もいる。 一人でやりたいことがあるから 休み時間に他の子とおしゃべりをしない、なんてのもないわけじゃない。そういう生徒なら他にもいる。 ただ彼の場合は、一人でいたくて一人になっているわけではない、という印象なのだ。どちらかというと、思い悩むことがあって一人を選んでいる、というような。 「君澤くんのことか?」 職員室にて。 私が去年のクラス担任である坂本琢磨先生に尋ねると、坂本先生は目を丸くして言ったのだった。 「もしかして、何かトラブルでも?」 「あ、いえ……そうじゃないんだけどね」 坂本先生は私の同期。年も同じ三十八なので、なんとなく話しやすい相手である。 一緒に飲み会に行くこともある。独身同士ということもあって、誰かに気兼ねする必要がないのだ。 教師としての手腕は、私よりも上だと思っている。子供たちの人気も高い、爽やかな先生だ。 ――三十八歳のはずなのに、二十代に勘違いされることもあるほど若々しいイケメンというのもあるのかもしれないが。 「なんか、いっつも一人でいるみたいなのよ、あの子。孤立しているというか、 一人になろうとしているというか。でも、一人が好きでそうしているわけでもなさそう、というか。何か理由があるのかと思って。それこそ、去年のクラスでトラブルがあったとかあるのかしら、って」 「なるほどなるほど。……ただ、悪いけど、俺が把握してる限りそういうトラブルはなかったと思うぞ。むしろ、結構明るい生徒だった。よく昼休みは、他の子たちとドッジボールやサッカーして遊んでたし。友達もたくさんいたしな」 マジか、と私は目を見開く。 今の君澤翔貴からは考えられない姿だ。 「その友達と揉めたとか、イジメられたなんてこともないと思う。うちのクラスでいじめなんかなかった、って信じたい俺の願望が入っているのは否定しないけどな」 ただ、と彼は少し考えた後に言う。 「……三学期は、少し元気がなかったかもしれない。どうかした?って尋ねても上の空で、なかなか教えてくれなくてさ。友達と遊ぶ頻度も減っていたかもしれないな」 「三学期の頃に、何かあったのかしら」 「学校でじゃない。家で嫌なこと……というか、辛いことがあったんだ。本人は教えてくれなかったけど、友達が心配してくれて教えてくれたよ。実は……」 ああ、そういうことだったのか。私は納得して、切ない気持ちになった。 彼の言葉を思い返す。 『真実の愛、とか真実の友情なんて、本当にあると思いますか』 そんなもの、あるはずがない。 あれば自分は裏切られなかった。きっと、彼はそう主張したかったのだろう。そして。 ――それでも、信じたかった。 私には、そう言っているように聞こえたのだ。 *** その日の放課後。 私は、教室に残っていた翔貴に声をかけたのだった。 「君澤くん、ちょっといい?」 「……なんですか、先生」 「今日の生活科の授業のこと。あなたにお尋ねしたくてね。ちょっとだけ時間をくれないかしら」 私が言うと、彼は少し苦い顔をして――しかし、職員机の前の椅子に座ったのだった。話をするつもりはある、という姿勢だ。根本的にこの少年は、教師に反抗的な態度を取ったことはない。これは、坂本先生も言っていたことだ。 「あの質問。真実の友情や愛情はあるのかどうか、っていうあれ。チャイムが鳴っちゃって答えられなかったけれど……私はあると思ってるし、そうであってほしいと願ってるわ」 彼の目をまっすぐに見つめて言う。 「でもあなたは、そんなものはないと思ってるということ?もしよければ、理由を聞かせてくれない?」 「…………」 少年は気まずそうに視線を逸らす。そして、数秒の沈黙の後、「だって」と続けた。 「本当に友達なら、約束を破ったりしない。友情は、ずっと友情のまま。……約束を破るってことは、裏切るってことでしょ」 「裏切る?」 「俺、約束破られた。だから、そんなもん存在しないんだ」 約束を破られた。 ああやっぱり、と私は納得する。坂本先生が言っていた通りだ。彼が言っている出来事というのは、恐らく。 「死んでしまったことを、約束を破ったとは言わないわ。……悲しいけれど、避けようのない運命というのはあるのだから」 まさか、私が知っているとは思わなかったのだろう。はっとしたように少年が私の顔を見る。 「大好きだったのよね、みるくくんのこと。ずっと一緒にいたかったのよね。……まさかこんなに早くお別れするなんて思ってもいなかった。お別れしたくなかった。だからあなたは悲しくて、裏切られたと思ってしまったんでしょう?」 去年の二月。 彼は、愛犬を失った。ポメラニアンの、みるくくん。ミルクのように真っ白でふわふわの、とても可愛らしい犬だったという。坂本先生も動画を見せてもらったそうだ。ふわふわのシッポを振りながら、笑顔でこちらに走り寄ってくる姿。翔貴は、心の底から可愛がっている様子だったという。しかし、彼はその愛犬を病気で失ってしまった。まだ五歳だったという。 「……俺、何回も、何回も、みるくと約束した」 翔貴は、ぽつりと呟くように言う。 「ずっと一緒にいようって。俺が大人になるまでいようって。……犬だから、早く死んじゃうかもしれないのはわかってた。でも、あいつ、俺がそう言ったら、ちゃんと『いいよ』って吠えて教えてくれたんだ。毎回、同じことを聞くたびに頷いてくれたんだ。だから、約束したって思ってた。なのに……なのに、あんなに早く……ただの風邪だって、思って、たのに」 ぽろり、と机の上に涙が落ちる。 「なんで?なんでずっと一緒にいてくれないの。何で病気になったの。なんで死んじゃったの。嘘つき。裏切者。約束したのに。……永遠の友情なんかあるわけない。だって、だって、だって……本当に友達だと思ってたの、俺だけだったってことじゃん、だから」 「それは違う。……みるくくんだって、本当は生きて、あなたの傍にいたかったはずよ」 多分、彼は幼いなりに理解はしているのだ。 ただ納得しきれない。悲しみが、あまりにも大きすぎて。 「なんなら、今もあなたの傍にいるかもしれない。見えないだけで」 「え」 そんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう。彼は潤んだ眼で、きょろきょろと辺りを見回す。 「死んでしまった魂は見えないけれど、それでもずっとそばにいて、大切な人を守ってくれる。……いなくなってしまっても、繋いだ絆は消えない。永遠に残る。先生は、そう思ってるわ」 だからダメよ、と彼の肩を叩く。 「悲しいからって、裏切ったなんて言っちゃだめ。その子を一番愛して、愛されたはずのあなたが、友情を疑ってはダメ。今彼がそれを聞いていたら、きっと悲しむわ」 「……けど、悲しいんだ。寂しいんだ、先生」 「裏切られた。友達なんか絶対じゃない。約束を破られた。……そう信じて、あなたは一人でいたのかもしれないけれど……一人でいた時間は、楽しかった?吹っ切れた?」 そんなはずはないはずだ。 ちょっと前まで、ドッジボールなどで友達とたくさん遊ぶ少年だったのなら。 「みるくくんに、あなたの幸せな笑顔をたくさん見せてあげなさい」 自分も子供の頃は犬を飼っていた。だから、想像はつくのである。 「そうすればきっと、虹の橋を渡って……毛皮を着替えて、またあなたに会いに来てくれるから。その時、あなたが笑顔で『お帰り』って言ってあげなくてどうするの」 今、私の実家には、三代目の愛犬がいる。 きっと少年もいつかわかるはずだ。どんな寂しさがあってもなお、かけがえのない愛はそこにあるということを。
【赤目ルイ】美しい瞳
美しい瞳を見た。その瞳のその真黒の瑪瑙の中には確かな星空が浮かんでいた—— 私は祖母の葬儀の為、母方の郷里へ急ぎ列車で向かっていた。祖母にはもう十数年会っていない、故に感慨も少ない。ただそれにも増して今回の列車旅は、退屈なものになりそうだった。 大方列車にも乗り飽きたころ、『それ』はやってきた。 「おじさん見て、飛行機!」 何処かの子供が玩具の飛行機を、船を漕ぎかけの私に見せてきたのだ。 「そうか、飛行機かい。良かったね」 「うん!」 その時、私の眼はこの少年に吸い寄せられた。眼だ。この少年の目に釘付けになった。なんと美しい瞳であろうか。黒瑪瑙のような深い墨色とそれに散りばめられた星空の様な輝き。これまで女性の瞳を覗いた事は幾度かあれど、ここまで美しい瞳は果たして今まであっただろうか…… 「おじさん、じゃあね」 「あ、ああ」 少年はそう素っ気なく言うと別の車両へと走って行った。嵐が過ぎ去った様な感覚があった——今のはなんだったのだろう。高が眼だ。瞳が美しいからなんだと言うのだ。しかし、私の心は言い様がない程に高揚している。今もあの瞳が頭から離れない。そうだ、あの少年は何処だ? ちょうど列車は駅から発進する頃合いだった。少年はこの駅で下車したかも知れない。いや、違う! 落ち着け。あれは、列車旅の偶然あった出来事だ。あの瞳は、すれ違うだけのただの子供だ。列車に乗っていようと降りていようと関係ない。関係ないのだ——私はそう己を諌めた——ふと、目の端に銀色の線が映った。飛行機だ! 飛行機を持った少年が駅のホームにいたのだ! まずい、列車が駅を発ってしまう。私は脇目も振らずに列車を走り出した。列車のドアが閉まる既(すんで)の所で列車を危うく駆け下りた。見ると少年(当然だが保護者も同伴していた)がこちらを見ている。列車を駆け下りた荒息混じりの私は、さぞ尋常でない様子に映ったであろう。さて、私はもう一度この美しい瞳の少年に相見える事となったのだが……私は何がしたいのだ? 少年に会ってどうしようと言うのだ? 何か大きな突き動かされる様な衝動でここまで動いたが、その実、私は何を考えていた? 真逆、少年を攫って子取りにでもなるつもりだったのか? 急に自分の行動が愚かしく感じられた。 「おじさん、どうしたの?」 見ると少年が、あの瞳でこちらを見つめていた。這々の体で列車から出て呆けている私は、さぞ不気味に映ったであろうに……(事実、保護者と見られる大人は多少の狼狽を見せていた)私は少年を正面切って見据える。 「おじさん、君にさよならを言うのを忘れていてね。慌てて列車を降りて来たんだ。君は良い子だね。ありがとう、さようなら」 「うん。さよなら」 少年は星の瞳を煌めかせながらそう言うと、彼の保護者と共に駅を去って行った。 私は駅のホームに取り残されたまま、物思いに耽っていた。あの少年とはもうこれっきり出会う事もないのだろう。そもそも、私は何故あの少年の瞳に惹かれたのか、予定を曲げてまで列車を駆け降りたのか。後になってみれば己の行いの愚かさが不思議にすら思えてくる。黒瑪瑙の様な深い闇、そこに映る星空の光、それをもう一度拝めただけで良かったのかも知れない。あれは手に入らぬ至宝だ。誰も汚してはならない、誰も犯してはならない。私は、ただそれに、たった一瞬触れただけなのだ。その一瞬の憧れが、この身を突き動かしたに過ぎないのだ—— 次の列車まではまだ大分時間がある。それまで、先程降って来た幸運を噛み締める事とし、それでこの空虚な時間を楽しむ事としよう。
【欟乃華】虜(下)
アンティークショップの扉を勢い良く開ける。入店音のベルがちりんちりんと鳴った。 「茅さん! 茅さん茅さん茅さん!!」 「なにー?」 私はカウンターの椅子に座る茅さんに詰め寄った。カウンターの上を両手でばんっと叩く。 「蜻蛉さんにお願いしたらバッサリ駄目だって言われて、酷くないですか!? 何で!?」 「何のお願いしたの?」 「かくがくしかじか! 以下省略!」 「そりゃ、嫌だって言うわよ」 溜め息を吐く茅さんはやれやれと言わんばかりで私は話が見えなくてさっぱりだ。 「へ?! な、なんで!?」 「逆の立場になって考えてみなさいな? 大事な人でしかも異性でしょう?もし貴方が好きな人から大事な女性がいてその人を助けたい! って懇願されたら面白くない気持ちになるでしょ? それと一緒よ」 「え!?」 「まあ、簡単に言えばジェラシーね」 「神様って、嫉妬するんですか!?」 「するわよそりゃ。神様だって喜怒哀楽の感情はあるのよ。人と違って一途だしねえ」 神様というのは、天上人なイメージが強いが、わりと庶民的なのかもしれない。 ☆ 「あ、もしもし? お母さん。あの売店で買うお金、足りてる?」 「足りてるから大丈夫。ごめんね。瞳子」 電話越しから母の懐かしい声が聞こえて来た。母は心の病気を抱えていて、今は介護施設で生活を送っている。 「ううん。元気そうで良かった。お母さん、あのね、この間私物を整理してたら私の落書きが出て来たよ。三才の頃の」 「へええ。懐かしい気分になったでしょう? そう言えば……お母さんが病気で可笑しくなって……瞳子が三才の頃に危ない場所へ行ったけれど、偶然、人が通りがかって助けて貰えた事があったじゃない」 「う、うん……。私も覚えるよ」 「お母さんが元気になってからお父さんから聞いたんだけどね。不思議な事が立て続けに起きてたの」 「不思議な事?」 「その日は土日で人が通る事のない道だったらしいのに、人が通った事も不思議なんだけど。お母さんの乗ってた車ね、壊れてたのに運転出来てたらしいの。山道を走ったけど、普通だったら崖から落ちてても可笑しくなかったんですって。車の整備士さんがそう言ってたって……」 「へええ。本当に不思議だね」 母の話を聞きながら私は何となく、不意に蜻蛉さんの事を思い出していた。 ☆ 「トーコ」 「あ、なっちゃん」 自室の襖を開けてなっちゃんが私服で入って来る。今日は和装じゃなかった。 「おかえり」 「た……ただいま」 私はなっちゃんから目を逸らした。なっちゃんはじっと私を見つめて来る。気まずそうな口調でなっちゃんは続けた。 「昨夜、夢で何かしただろ。トーコ」 「……ご、ごめん」 なっちゃんの詰問に、気まずくなる。目を逸らしたまま謝った。 「あの……蜻蛉? って奴は何なんだ? 神様? なんだろ? 何か危ない事に巻き込まれているのか? 神の中でも悪い神はいるから」 「え、えと……」 なっちゃんの話しぶりに私は戸惑ってしまう。なっちゃんとこういった話題は初めてなのにも関わらず、なっちゃんは淡々と語っているからだ。 「言いたくないのなら言わなくていいよ」 なっちゃんは気を利かして話を途中で止めた。私はなっちゃんと目を合わせるとたどたどしく言葉を手繰り寄せる。 「う、うん。ありがとう。……なっちゃんは? なっちゃんは大丈夫じゃないよね? 本当なんだよね? 深杜様に好かれてるの」 「俺は、大丈夫だよ」 「大丈夫じゃないよ! なっちゃん。苦しそうだし、我慢してるのバレバレなんだよ!」 「瞳子、声がでかい……」 「お着替えとかお風呂とかおトイレとか全部見られてるんでしょ!? そんなの気が休まらないじゃん!」 「!? しー……! 馬鹿! 声が大きい!」 なっちゃんは周りに人がいないか見回してから指に人差し指を当てる。 「他にも何か嫌な事とかされてるんじゃないの!? なっちゃん!」 「ボリュームを下げろ! 声のボリューム!」 焦るなっちゃんに、私はとある提案をする。 「蜻蛉さんにはもう一回お願いしてみるから!」 「何でお前が頭下げるんだよ。可笑しいだろ」 溜め息を吐くなっちゃんに正論を言われてぐっと堪える。何も言い返す事が出来ない。 「なっちゃんって、神様とか幽霊とか見えるの?」 「起きてる時でも姿は見えるよ」 「そっかあ……。私は夢の中でしか蜻蛉さんと会話出来ないから」 ☆ 「こんにちは~」 休日の午後。子供の頃、良く行った雑貨屋に久し振りに訪れる。 「あら、瞳子ちゃん。こんにちは」 此処の雑貨屋は夫婦で経営していて、奥さんの方が店番をしていた。 「黒のボールペン、ありますか?」 「ちょっと待ってね。一本でいい?」 「はい」 「小さい時は良く四人で買いに来たわね。懐かしいな」 「あ、そうだ。あの……はるちゃんとあきちゃんって……」 「瞳子ちゃんも辛い思いしてるでしょうけど、無理しないでね」 「え?」 おばさんの言っている意味が不可解で固まった。 「ほら、仲が良かった……幼馴染のはるちゃんとあきちゃん、亡くなったでしょう? 六年前に。夏乃様も辛そうにしてたわ」 「……あ」 同時になっちゃんが二人の事は言うなと言っていた発言を思い出す。それはきっと、私が本当の事を知って傷つかないようにする為なのだと気づいた。 「でも一年に一人ずつ亡くなって、夏乃様の身近な子達だったから、深杜様の祟りだとか神隠しだって年配の人達は言っていたの。迷信だと思うけどね」 ☆ 「トーコ」 「!!!」 はっと我に返ると、時刻は夕方になっていた。自室の襖を開けたなっちゃんの存在に気づく事が出来なかった。 「どした? ぼーっとして。夕飯、出来たから持って来たよ。此処、置くよ」 「う、うん……」 「顔、真っ青だけど大丈夫か?」 「……え。……あ……」 「……トーコ?」 なっちゃんの気遣う言葉によって、力が抜けるようにボロボロと涙が零れた。 「な、何でもない……っ……。うっ……うっ……うううううううううぅ……。ほ、本当に何もなくて……」 「村の誰かに何か言われた? 仕事で何かやな事あった?」 「……」 泣き止もうと必死で目を擦るのに、その手を優しく外されてハンカチを握らされる。 「…………春と彰人の事?」 「……っ」 大袈裟に反応してしまった。内心、ぎくりとした私になっちゃんは目を細めて微笑む。 「……そっか。村の誰かから聞いたのか……。……ごめん」 「どうして……? どうして、なっちゃんが謝るの?」 「春と彰人が連れて行かれたのは……俺の所為、だから……」 「なっちゃんは悪くないよ!」 なっちゃんのその言葉が許せなかった。何故、自分の所為にするのかが分からなかったから。私は泣き止んで顔を上げて思い切り言い放った。 「いや、俺と関わったから。俺と関わらなかったら、二人はああにはならなかった……」 「これも深杜様の嫉妬なの……?」 「……っ」 「夏乃」 「……っ!」 なっちゃんははっとするが、後ろを振り返らなかった。 鈴を転がしたような、凛とした声。着物を纏う、優美な女性はその場でただただ微笑んでいる。 「……え」 「またその子と話しているの? 夏乃」 女性は笑顔だが、声のトーンはとても冷たい。 「……ごめん。トーコ。今日は俺、一人で食べる……からっ」 ぎこちない口調で話すなっちゃんは途端に焦りだした。 不意に、私の脳裏に茅さんの言葉が過ぎる。 「霊力を上げられれても下げる事は出来ない。生きている限り、徐々に霊力は上がって行くのよ」 「……みもり、さま……?」 掠れた声で寒気が体を走る中、その名前を呼んだ。 「……あら、漸く見えるようなったのね。貴方」 意外そうな表情をすると、くすくすと深杜は微笑む。 「なっちゃんを縛って……。はるちゃんとあきちゃんを連れて行った……っっっ! はるちゃんとあきちゃんを返して下さい!」 「何の事?」 「とぼけないで!」 「予言してあげましょうか?」 「?」 唐突に話題を変えられたことで、私は無意識に身構えてしまう。怒りの感情を抱えたまた、次の発言を待った。 「霊視と霊聴が出来るようになった以上、今後の貴方は悪い霊に干渉されたりする、現世の食べ物を口に入れても口に合わず、何も味がしなくなると思うわ。悪いモノが近づけば、急激な吐き気に悩まされて体がついていけなくなったりとかね。生きている事が苦しいと、この世から去りたいと強く強く渇望するまでの境地にはなる」 「……っ」 「殆どの人間はそんな自分の体質に耐えきれず、先に精神が崩壊して、一思いに殺してくれと私達に嘆くようになるのよ」 くすくすと悪戯をするように綺麗に微笑する。発言と優しい表情はちぐはぐで私は最初何を言われたのかが分からなかった。 「やめろ!」 「……そんなにこの子が大事?」 なっちゃんの制止の言葉に深杜はぴくりと反応して笑顔が消える。 「……っ」 「……なっちゃん」 「…………そう。夏乃」 開けっ放しの襖が勢い良く音を立ててひとりでに閉まる。 私となっちゃんはその音に驚くと、なっちゃんは私よりも一歩前に出た。 「……な、何」 「……服を脱ぎなさい」 「!?」 「……え、あ、……な、何で?」 掠れた声で戸惑うなっちゃんはたじろいだ。 「いいから……今、此処で脱ぎなさいな。最後の一枚まで」 深杜は無表情のままでぴしゃりと言う。 ☆ あの夏の日に参拝した事を思い出す。 この村から逃げ出したいのに逃げ出せる事が出来ない俺は、深杜に向かって言ったのだ。 「神様……深杜様……。お願いです! 誰も俺を普通のヒトとして扱ってくれない。それが苦しいのです。でも、神様の深杜様ならきっと俺の事を普通のヒトとして接してくれますよね? だから、お願いします。深杜様、俺が大人になったら……俺と結婚して下さい……。何でも……何でもしますから! お願いだから俺の事を助けて下さいっ!」 ☆ 「あの時に何でもするって言ったでしょう? 約束、したものね?」 微笑む深杜が何を考えているのかが分からない。そんな事をして何になるのかがさっぱり分からなかった。 「……っ。瞳子、あっち向いてて……」 ワイシャツのボタンを外そうとするなっちゃんを庇うように前に出る。 「やめてよ!」 その場に平手打ちの音が鳴り響いた。私が深杜の頬を叩いた。 「……貴方はなっちゃんの事が好きなんでしょう!? こんなの……なっちゃんを所有物にしてるだけじゃない! 何千年も生きてる癖に! なっちゃんの幸せを願おうって思えないの!? 何で自分を優先する事しか出来ないの!? 間違ってる!」 場は沈黙に包まれる。深杜は俯いた顔を上げると、頬を抑えたまま、私をじっとりと睨めつけた。 「……っ。黙れ。……動くな。小娘。それ以上、動いたらお前の首を跳ねるぞ」 「っ!!!」 「トーコ! 逃げろっ!」 「まだその小娘を庇うか。夏乃」 なっちゃんが私を庇おうとするが、深杜が手を翳すと掌が光った。衝撃のようなものを感じると思ったのに痛みを感じない。 「……っ! あれ?」 「貴方の霊力が上昇して下さった事でこうして現世に姿を顕現する事が出来ました。有難い事です」 「阿武徒さん!?」 目の前には阿武徒さんが立っていた。今は起きている世界なのに、夢みたいだと思う。 「私ではあの者が相手だと時間稼ぎがやっとです。格が違います。お逃げ下さい」 「此方に出て来れたのはいいが、人の姿に化けているとはいえ、この後、瞳子の肉体への反動が心配になるなあ……。ほら、この場から離れるぞ。瞳子」 ひょっこりと出て来た少年姿の蜻蛉さんは溜め息を吐く。 「蜻蛉さん。あの……なっちゃんも助けて欲しい!」 「そんな野郎、放っておけ。どう考えても自業自得だろう」 「お願い! 蜻蛉さん!」 「……はあ。分かったよ。移動するぞ」 私となっちゃんの手を掴むと蜻蛉さんは何か唱え出す。日本語ではない、聞き慣れない言葉だった。 「格下の分際で邪魔をするか……」 「確かに私は格下ですが、主は貴方よりも格が上です」 ☆ 「此処……公園? え? でも、誰もいない……。夏なのに寒い。何、この冷気……!?」 「人間界じゃない場所に連れて来られたな……」 はっとすると、場所が変わっていた。近所の公園だったが、色だけがいつもと違う景色で。 「え!? どうやって帰るの?」 「現世にいると、我々が関与する事で人の肉体に負荷が掛かるから肉体を現世に置いて、霊体だけを此処に移動したんだ」 「蜻蛉さん。あの……」 「ん?」 「お願い! もう一度言う! なっちゃんを助けたいの! 力を貸して」 両手を合わせて蜻蛉さんに直談判をする私に、蜻蛉さんは呆れたように嘆息した。 「放っておけ」 「嫌だ! 本当にお願い! 何でもするから!」 「瞳子! 神に向かって、軽々しく、何でもするって言うな!」 なっちゃんの言葉に、ぐっと次の言葉を飲み込んだ。そうだ。なっちゃんは十年以上は神様に縛られている。きっと、怖い思いもしている筈だ。なのに、私は。 「あの神をどうにかするという事は、村の守り神に楯突くという事となる。わしは野良だ。格はわしの方が上だが。瞳子の願いがどれ程までに大きいか、瞳子はまだ事態を分かっていないだろう?」 「……う。分からないよ。でも、このまま何とかしないと、なっちゃんが縛られ続けて苦しい思いをするのは分かるよ! それがずっとずっと! 死んでも続くって!」 「何でもするというのは、本当か? 念を押すが。瞳子」 「……っ。私が死んだら連れて行くの? 私の事……」 「は……。何だよ。それ!? 聞いてない!」 震えた声で言う私に、なっちゃんは抗議の声を上げる。 連れて行くという、発言でなっちゃんは全てを悟った様子だった。 「必然的にあの神を何とかするとなると、わしは神殺しをする事となる。死後、お前はわしの伴侶として連れて行く。わしと番となる以上、二度と人間には転生せず、瞳子の家族や幼馴染、現世で身近だった他者と顔を合わせる事は出来ない。また、離縁も出来ない。瞳子が天寿を全うするまでは待つ。だが、その後は役目を果たして貰う。それでも……わしと本契約するという事か?」 「……っ。役目って何?」 「神を作って貰う」 「それって……」 「人間界でいう、子孫繁栄の事だ」 自分の死後、どうなるのかを伝えられた後、私は絞り出すように言う。 「……っ。な、なっちゃんが……それで救われるのなら……」 「見上げた自己犠牲だな……」 蜻蛉さんは不服そうに鼻で笑う。 「瞳子。神の言う言葉を全て信じるな。人は神をいいものだと捉えるが、それは全部偏見なんだよ! 絶対に契約をするな! ずっと囚われ続けて神の庇護から抜け出せなくなるんだぞ!?」 「ほら、夏乃も言っている。この男の言う言葉には説得力があるだろう。十年も神に縛られ続けた者の言葉を聞いて、躊躇いを覚えるか? 瞳子」 「本契約はするよ。ただし」 「トーコ!」 私の発言を遮るようになっちゃんは止めるが、私は話を続けた。 「番になっても、私が蜻蛉さんの事を好きになって蜻蛉さんと両思いになるまでは絶対に子孫繁栄しない! それを呑んでくれるなら契約する……」 「……はあぁ?」 場は沈黙に包まれる。蜻蛉さんは呆れていて、なっちゃんも脱力した様子で私を見つめる。何言ってるんだ? コイツと顔に書いてある二人。 「それを呑んでくれなかったら契約しない!」 「お前、今の自分の立場、分かってるか?」 「駄目って言ったら! 別の神格と本契約する! それでその神格と天に昇るからいいです! うちは結構ーです!」 「お前……わしをゆする気か?」 「取引! これは取引だよ! だって、阿武徒さん。言ってたもん! 私を嫁にする候補が集まったって! それで蜻蛉さん、天下を取れるまで十六年間争ったって! なら、私を嫁にしたい神様は沢山いる筈! その神様達と交渉するからいいよ!」 「……ぐっ。確かに言ったな。阿武徒め。余計な事を」 「瞳子。落ち着け! 本契約はするな!」 「落ち着いてるよ!」 「これ以上なく落ち着いてない! 勢いで突っ走りそうになってるから! お前!」 「囚われの姫君を救済する為にそこまで捨て身になる意味が分からんなあ……」 「俺かよ!? 囚われの姫君って!?」 「万能な神様には私の……人の気持ちなんて、分からないよ! 大事な人が苦しそうにしてたら助けたいって思うのは当然の事! その人が幸せだったら嬉しい。不幸だったら悲しいって思える事は幸せな事なんだよ! 蜻蛉さん!」 「……分かった。その条件を呑もう」 腕組みをして暫く考えた後、深く溜め息を吐くと蜻蛉さんは折れてくれた。 「やった!」 「トーコ! やめろって!」 「約束だから! 破ったら針千本飲んでよね!? 蜻蛉さん」 「分かった。破ったら飲む。瞳子、手を。右手を出せ」 「? うん」 「汝、我と本契約を成立。死後、我と共に。永劫」 蜻蛉さんと重ね合わされた右手が光る。光は一瞬で消えてしまった。 「え……? 何?」 「これで本契約は完了した。さて……そろそろ、来るだろ」 「夏乃ぉ!」 激しく何かが砕け散る音。見えない壁を叩き割るようにして深杜が追い掛けて来た。人の姿ではない。大蛇の姿で。 「ほら来た。深杜、消えろ。夏乃を解放してやれ」 「黙れ! 野良神が! 私の前に立つな! 邪魔をするな!」 「確かに野良だが、わしの方が格は上だ。それを見透かせず、撤退しない時点でお前の負けは確定している」 蜻蛉さんは本来の姿に戻ると、空中で深杜と戦い始めた。龍と大蛇が戦う姿は壮大で。 「うっ……! 離せ! 離せぇっ! この……っ! ぐうううううううぅ! ぎゃああああっ!」 深杜の叫び声と共に辺りは閃光に包まれた。 ☆ 「誰も私を見ない! 誰も私を呼ばない! 私を覚えてくれない! 私の事を忘れないで! 私の事を置いていかないで! 私の事を覚えていて! 私を一人にしないでえええええええええっ!!!」 何度叫んでも、何度泣いても誰も振り向かない。守り神であると祀られていたとしても誰も私を見ようとしない。 「神様……深杜様……。お願いです! 誰も俺を普通のヒトとして扱ってくれない。それが苦しいのです。でも、神様の深杜様ならきっと俺の事を普通のヒトとして接してくれますよね? だから、お願いします。深杜様、俺が大人になったら……俺と結婚して下さい……。何でも……何でもしますから! お願いだから俺の事を助けて下さいっ!」 「……ぁ。夏乃……っ」 参拝してくれた少年に、はっとする。 「夏乃、夏乃ぉ! 行かないで!」 泣きじゃくり、蹲る私の後頭部を手で撫でられた。小さい手だ。泣き腫らした目で顔を上げると夏乃が心配そうな顔で此方を見下ろしていた。 どうしてこんな歪んだ方法でしか繋ぎ止められなかったのだろうか。 今となってはもう分からない。 ☆ 「あ……あれ?」 自室の布団の上で飛び起きた。誰もいない。 「あ……あ……なっちゃんは!? 蜻蛉さん! ねえ! いないの!? 蜻蛉さ……。……え、なっちゃんから貰ったお守りが壊れてる……。これ、真っ二つにわれてる……」 突如、スマホの着信音が鳴った。落ち着いてスマホを取り出す。 「も、もしもし?」 「……今、大丈夫?」 電話の主は茅さんだった。このタイミングでもう知らなかったフリは出来ない。茅さんと出会ったのも何かの縁なのだろう。 「か、茅さん……。あの……貴方は……」 「何?」 「何者なんですか? 茅さんは、ヒトじゃないでしょう?」 「……」 沈黙で肯定する茅さんは、何を考えているのかが読めなかった。 「どうして、どうして、私の事を導いてくれたのですか?」 「そういう縁だったから」 「……縁?」 「今は分からなくてもいずれ分かる時は来るわ」 「あの……今までの事って、夢ですか?」 「いいえ。夢じゃないわ」 「……っ」 「今日から貴方はうちに来なくていいわ。もう来る必要性はないでしょうから」 「……はい」 酷い事を言われている筈なのに、素直に受け取る事が出来たのは、茅さんの声音が幾分かいつもよりも優しいからだ。 「夏乃はもう大丈夫よ。深杜の鎖は断ち切れたから。蜻蛉はもう現世にも夢にも出ないわ。本契約をした以上、次に蜻蛉と会えるのは……貴方が天寿を全うした時よ」 「そう……ですか」 「最後にそうね。これだけは伝えておくわ。貴方が三才の時に母親と死にかけたあの事件、二人を救ったのは蜻蛉よ。彼は貴方が生まれた時から見守っていたの」 「え……」 「じゃあね。もうこの電話は二度と繋がらないわ」 「あ、茅さ……っ! ……待って……! わ、私……」 「何?」 「私、この世界は理不尽で酷いと思うんです」 「そうね」 「でも、私は……この世界が好きだし……これからも嫌いにはなりきれないと思います」 「……そう」 「ありがとうございました。お世話になりました。さようなら」 「ええ、また何処かで会いましょう。じゃあね」 ☆ 瞳子へ。暫く一人で考えたい事が出来た。一人で考えたとしても答えは見つからないと思う。数年、この村から離れる。家の役目も全て放り出してしまうけれど、必ず帰って来るから。もし瞳子が此処に何年もいるのならどうか待っていて欲しい。今度は春と彰人の墓参りに行こう。二人で。夏乃 なっちゃんからの手紙を読み直した。なっちゃんが姿を消した日に残されていた置き手紙。なっちゃんにも思う事はあるのだろうと思う。それを考えたくて、一人で旅に出たのだろう。きっと。 「……あ、もしもし? お母さん。あの……何か必要な物ある? うん。……うん。私は大丈夫だよ。仕事も見つかったし、新しいアパートにも引っ越せたし。暫く、この村にいようと思ってて。……うん。あのさ、お母さん。……私、小さい頃から寂しくて、辛かった事もあったけど、幸せだったと思うんだよね。うん。……また電話、かけるね。ありがとう。またね。……ふー……。あ、まずい。仕事遅刻する~!」 私は新居のアパートに移り住んで一ヶ月が経っていた。この村でなっちゃんの帰りを待ちながら今日もいつも通りの日常を歩む。 【完】
【欟乃華】虜(中)
此処が何処だか分からなかった。 広い和風のお屋敷に私は座っている。場所は恐らく、居間だと思う。知らない着物を着た男の人が目の前に座っている。 どうして、私は此処に閉じ込められているのだろう? 不意に先程までいた男の人の姿が消えていた。 私はその場から抜け出してこのお屋敷を抜け出した。 ☆ 「み、道が分からない……。」 見慣れたガードレールのある田んぼ道なのに、帰り方が全く分からない。 突如、黒い車が向こう側から走って来て、私の目の前で止まる。 「え?」 思わず立ち止まると運転席のドアが開いて先程の男性が下りて来た。 「さっきの男の人!? 連れ戻される! 逃げないと……!」 ☆ 「……!? ……え。……あ」 はっとすると見慣れた天井が視界に広がる。リアルな夢だった。 雀の囀りの声を聴きながら布団から上半身だけ起き上がる。 「あ……変な夢……。でも、何だろう? 凄い……気持ち悪かった……」 ☆ 「トーコ」 今日は休日でなっちゃん家の借りた自分の部屋でゆっくりしていた。 襖を開いてなっちゃんが入って来る。 「なっちゃん。おはよう」 「? 何してんの?」 テーブルの上にカードを広げていた私を見てなっちゃんは首を傾げる。 「タロット占いだよ~」 「タロット? 何、誰かを占ったりすんの?」 「うん。前は職場の人を占ってたんだけど、今はオンラインで占ったりとかしてるの」 「ふうん。……じゃあ、試しに何か占ってみてよ」 私のテーブルの向かい側になっちゃんが座る。私はカードをシャッフルしながらなっちゃんと目を合わせた。 「いいよ。何、占う?」 「何でも」 「何でもって……。なっちゃん、占い……信じてないでしょう?」 「うん」 「何でもが一番難しいんだよ? じゃあ、三枚で見るけど……。えーと、なっちゃん。今、お困り事とかある?」 「困り事?」 「? 何か女難が出てるから。女性の誰かでなっちゃんの事を熱烈に好きっていう方がいるみたい……。最近じゃなくて、大分前? んーと……この人、ヤキモチ焼きみたいでなっちゃんの事、独占とか束縛とかしたがってるね。心当たりとかある? なっちゃん」 唐突に沈黙が訪れる。なっちゃんは無表情だ。いつもだったら何かしら答えるのにどうしたのだろうか? 「なっちゃん? あの……ごめんね? 外れてた?」 「あー……うん。外れてる」 私から目を逸らしながら罰が悪そうに呟くなっちゃん。私は訝しげになっちゃんを見た。 「……本当に?」 「何だよ。その目は……。そんな奴、いないって……」 「あ……なっちゃん。髪に葉っぱついてるよ?」 私は立ち上がって前屈みになると、なっちゃんの髪に触れようとした 「! 触んなっ」 「痛っ! 何!? 葉っぱを取ろうとしただけなのに、手を振り払わなくてもいいじゃん!」 触れようとした手を思い切り手で振り払われて唖然とする。なっちゃんははっとしていたが、私は何だか違和感を憶えた。 「あ……ごめ」 「なっちゃん。変だよ? 昔はそんなんじゃなかった。やっぱり何かあるの? もし困った事とかがあるなら言ってよ。無理に言わなくていいから」 「…………何もないよ」 目を伏せて言う、なっちゃんに私は複雑な気持ちになる。恐らく、何かあるのだろうけど、察することが出来ないもどかしさに歯痒さを感じた。 「……なっちゃんてさあ、女の人に興味あるの?」 「は?」 率直な疑問を投げ掛ける。唐突な話題の急転換になっちゃんは呆気に取られた様子だ。 「そーゆー本とかビデオとか見るのかな?って。なんて言うか、そういうの読んでるイメージ湧かない無機質な人っているじゃん」 「質問を質問で返すけど、その問いに答えて俺にとってメリットってある? イエスかノー、どちらに転んでも俺の印象がダダ下がる一方だと思うんだけど」 「え? そう? で、どっちなの?」 「何で更に追撃すんだ。お前。セクハラで慰謝料請求すんぞ」 「いやだって、別に……。そういうので恥じらう年頃でもなくない? 私ら」 溜め息を吐きながらなっちゃんはソワソワする。視線を泳がせながら落ち着かなさそうだ。 「……やめない? この話」 「どしたの?」 「別に? どうもしないよ」 ☆ 「じゃあ、まず商品整理からして貰える?」 アルバイトを始めて三日が経った。カウンターの椅子に座って指示を出す茅さんに私は返事をする。ダンボールの箱を開けるとギッシリと未開封のタロットカードが入っていた。 「あ……タロットカードだ」 「あら、占いやるの?」 「はい。趣味ですけど。今はオンラインで何人か占ったりとかしてて」 「ふうん。そう……。貴方の家、神棚はある?」 「へ? ああ、はい。あります……けど」 「神社でお守りとか買うかしら?」 「お守りなら……スマホにつけています。仕事中にスマホを出してすみません。ほら、これ。身代わりのお守りでストラップのやつ。貰い物なんですけど。多分、この村の神社のお守りだと……」 「……誰から貰ったの?」 凛とした茅さんの口調に私は何だか気後れしてしまう。たどたどしく答えるが、どうしてそんな事を聞かれるのかが分からない。占いから唐突に神棚やお守りの話題に転換された唐突さにも困惑さを隠せなかった。 「……え? えっと、この村の神社の息子の……」 「ああ、なるほど。どうりで根が深いと思った……」 意味深に自己完結する茅さんに私は話が見えなくて混乱する。 「? あの? 茅さん?」 「次にその男性と会う時には気をつけなさいな」 「え?」 「じゃあ、午前中は商品整理だけで終わると思うから十二時になったら一時間昼休憩取って頂戴。分からない事があったらその都度聞いてね。私は裏にいるから」 「は……はい」 ☆ 「はー……仕事、終わった……疲れたー。……あれ? なっちゃんだ。なっちゃんもお仕事終わったのかな? なっちゃん~!」 仕事終わりの帰り道。夕暮れ時で鴉が鳴く中、田んぼ道を歩く。数メートル先になっちゃんの姿が見えて、手を振って走り出そうとした。瞬間。 「!? トーコ! 来るなっ! 危ないっ!」 「え!?」 車が自分に向かって来ていて、私は立ち止まるがもう遅い。 「ッッッ!?」 車の急ブレーキの音と同時に私は尻餅をついた。 「あっぶねえだろうが!?」 「す、すみませ……」 窓から顔を出した運転手に怒鳴られて萎縮する。慌ててその場から退くと、車はまた動き出し、走り去って行った。なっちゃんが慌てて駆け寄って来る。 「トーコ! 怪我は? 大丈夫か?」 「だ……大丈夫……。転んだだけ……」 「ほら、手。……立ち上がれるか?」 なっちゃんの差し出された手を見て、私は茅さんの言葉が脳裏に過ぎった。 「次にその男性と会う時には気をつけなさいな」 「……っ」 直感でなっちゃんに触れたらいけないような気がした。なっちゃんの手を掴もうか躊躇ってしまう。 「瞳子?」 「えっと……あの……」 「……俺の事が怖いの?」 「え!」 俯いていたが、思わず顔を上げるとなっちゃんと目が合う。そして、私はまた俯いた。 「村の連中に何か言われた? 釘を刺されたとか」 自分の手を下ろすなっちゃんに私は自力で慌てて立ち上がりながら首を横を振った。 「い、言われてないよ……!」 「……そっか」 「ごめん。なっちゃん。あのね……」 「いいよ。俺、まだ仕事あるから先に帰れよ。気をつけてな」 「……うん」 なっちゃんにどう言葉を掛けたらいいのかが分からなかった。なっちゃんは特別扱いをされることを嫌う。それを知っているのに。どうして私はなっちゃんを怖がってしまったのだろうか。私はなっちゃんの数少ない、普通に接する事が出来る人間だというのに。 ☆ 「……夏乃」 「……くっつくなよ。離れろ」 消灯した自室の中で鈴虫の声を聞きながら考え事をしていると深杜に後ろから抱き締められた。言葉だけで拒絶するが、深杜は微笑みながら離れようとはしない。 「何、傷心してるの? 夏乃」 「別に傷ついてない」 図星を突かれた。深杜に見抜かれた事によって、更に気分を害される。素っ気なく返答して、深杜から目を逸らして前を向いた。 「ふうん。ご機嫌斜めね」 「瞳子に、何かしようとしただろ」 「してないわ」 もう疑問形で聞かなかった。もう確信していた事だったから。だが、深杜はさらりと嘘を吐く。苛立ちを募らせる俺は、また深杜に向かって勢い良く振り返った。 「嘘をつくなっ! 瞳子を車で轢こうとした癖に!」 「それがね、可笑しいの」 「はあ?」 神妙そうな顔をする深杜に、のらりくらりと話題を逸らされると思ったが、想定外の返答に毒気を抜かれてしまう。 「あの時、私の術式が効かなかった。……と言うか、弾かれた?」 「……何を言っている?」 「夏乃。あの子は、本当に人間なの?」 「……え」 深杜の問いに俺は目を白黒とさせた。言っている質問の意図が分からなかったというより、分かりたくはなかったからだ。 「人間だとしたら、あの子の傍に何かいるわよ」 「……っ」 ☆ また夢の中にいた。今日の夢は自分が夢の中にいる事が分かる夢。 真っ白で何もない場所に私は座っている。 この間、出て来た着物の男性がまた目の前に座っているが、前回の夢よりも距離が近い風に感じられた。 そして、前回に比べて生理的に受けつけられなかった気持ち悪さがなかった。 ☆ 目を開けると見慣れた天井。布団の中でゆっくりと伸びをした。 夢の余韻に浸りながら欠伸をする。 夢なのに、起きていても夢の内容を鮮明に覚えていた。 「……あ、また変な夢? 知らない人なのに覚えてるし……。んー……今日は何か安心感があって……懐かしい感じがした」 ☆ 「伝票と商品を照らし合わせて在庫チェックを出来る?」 平日の午前中、仕事に大分慣れて来た頃。茅さんに色々教わりながら色々な仕事を学んだ。やり甲斐があって楽しい。アンティークショップと言っても、オンラインのお客様が多いらしく、接客は少なく、裏方のお仕事が多かった。 「はーい。? わっ!?」 声を掛けられて反射的に立ち上がった瞬間、ふらついて額を壁にぶつけてしまう。 「あら……立ちくらみ? 大丈夫?」 「すみません。大丈夫です」 「……睡眠は取れてる?」 「はい。最近、変な夢を見るけど取れてます」 「……どんな夢?」 無表情の茅さんはいつもよりも若干険しい表情をして、私は内心ぎくりとした。何だろうと思う。ただの夢なのに。 「えっと、知らない男の人が出て来て……変なんです」 「どう、変なの?」 「首から下はハッキリ見えるんですけど、首から上は見えないんです。顔が全く見えなくて。でも、何かお兄さんじゃなくて、おじさんなのは分かるんです。顔は見えないんですけど、手の肌の感じが……こう……おじさんで……。男性の着物を着てて。後は……良く分からなくて……始めは生理的に受けつけられなくて。二回目はその気持ち悪さがなくて……。本当に不思議な夢で」 「ちなみに何回くらい見たの? その夢」 「二回です」 「二回ともその男性は同じ人で顔は見えなかった?」 「はい」 「貴方の家、確か此処の村の神社に居候していると言ってたわね」 「? はい」 「あの神社だから立派な神棚が飾られているでしょう?」 「え? はい」 「だから、夢の中では何も手出しが出来ない筈。ただの夢で終わる。でも、そうね。神棚に守られている家に入って来れるという事は並大抵の者ではないわ」 「え? え? それは悪いモノなんですか?」 「不浄なモノではないわね。低級の浮遊霊や悪霊とかでもない。それに顔が見えなかったのでしょう?」 「は、はい」 「それは位の高い者の可能性が高い。ただ、そうね。何故、貴方の身近にそんな方がうろついているのかが分からないわ」 「位の高い者って……か、神様ですか!?」 「そうね。貴方の夢の情報からの推測になるけれど」 「え? 何で私の夢に神様が出て来たんだろう?」 「他はどんな内容だったの? 夢」 「えっと、一回目が広い知らない家に閉じ込められてて、男の人が目の前に座ってて。私、こっそり抜け出して逃げるんです。でも、車で先回りされて運転席から下りて来た人がその男の人で……」 私は慌てて早口で捲し立てるように夢の説明をしたが、茅さんは目を伏せて考え込むとまたぽそりと呟く。 「あー……典型って感じ、ね」 「それで連れ戻される! って思って逃げようとする所で目が覚めました」 「ふうん……。男性みたいね……」 茅さんは徐にカウンターの引き出しからカードを取るとそのカードをきりだして一枚捲る。「? 何してるんですか? カード?」 「あー……貴方……好かれてる、みたいね。その方に」 目を伏せていた茅さんは私をじっと見る。冗談を言っている風ではない。荒唐無稽な夢物語なのに、真面目に話が展開されるのも何だか現実感はないものの、一笑出来るような空気ではなかった。 「へ?」 「貴方、霊視は出来るの?」 「れいしって何ですか?」 日常的に聞き慣れない言葉だった。私は質問で質問を返すと、茅さんはカウンターの椅子に座り直して足を組むと言葉を続ける。 「幽霊とかは見えたりする?」 「いいえ。全く」 「……野良で……龍神。ああ、なるほど……貴方の事を連れて行こうとしたのね」 「へ? ど、どうして?」 「占いで霊力が開花したから、霊力をコントロールされる前に、一刻も早く連れて行きたかったのよ。そうしないと、彼にとって都合が悪いから」 「茅さんの今行ってる事、占いですか?」 純粋な疑問を投げ掛ける私に茅さんは首を横に振る。用を済ませた後、カードを綺麗に元の場所に戻す茅さんは淡々と返答した。 「私のものは占いではないわ。占いだけど占いとは言わない。未来視というのよ」 「……あの、茅さんって何者なんですか? そういう方面の知識に詳しいし……」 「別に普通よ。この程度の知識。貴方も普通ではないわね。私の話に順応出来ているもの」 ☆ 夕飯を済ませた後、お風呂を待っている間、自室で伸びをした。暇潰しに荷物の整理整頓をしようと、私物を漁る。 「あー……今日も働いた……。何だこれ? 古いノートだ。お母さんのかなあ? 私の小さい頃の落描き? 何でこんなもの残ってるんだろう……? あ……そう言えば、私……。小さい頃に何も見えない癖に神様を信じ込んでる時期があったなあ。何だっけ? 勝手に呼び名をつけてて、名前が確か。……ッ!!!」 突如、とあることを思い出した。 スマホをポケットから取りだして、電話を掛ける。 「もしもし、茅さん!」 「あら、もしもし? なあに? どうしたの?」 「あのあのあの! 実は……」 動転しながら深呼吸する。転がるように早口で説明するから舌が回らない。でも丁寧に過去の状況説明をした。茅さんは親身に話を聞いてくれた。普通の人が聞いたら笑われるような話なのに。 「まず、話を整理すると……子供の頃に神様に呼び名をつけて、毎日お祈りをしたり、絵を描いたりして遊ぶ時期があったと。それでその仮の呼び名は覚えてるの?」 「覚えてます」 「なんて名前?」 「蜻蛉です」 「……今まで色々な事例を聞いて来たけれど、そうね。神に虫の名前をつけたのは貴方が初めてよ」 「どうしよう! これって、もしかしなくても関係ありますよね!?」 「まず確証を取りましょう。貴方、今、居候先の家にいるのね?」 「はい」 「まあ、貴方なら力も開花してるし、問題なく出来るでしょう。家内安全の神様、あの時の蜻蛉が今、自分の周りをうろついている龍神ならば、その神格だけ結界の中に入れて下さいと唱えてみて」 「へ?」 突然の茅さんの物言いに目が点になる。 「いいから。騙されたと思ってやってみなさい」 ピシャリと言う茅さんに私は両手を合わせて願うように言われたことをそのまま唱える。 「家内安全の神様、あの時の蜻蛉さんが今自分の周りをうろついている龍神ならば、その神格だけ結界の中に入れて下さい」 瞬間、ぴりと両手に静電気のようなものが走った。 「……わっ!? 何!? くっ! 手がビリビリする!? 何!? この圧!?」 「当たりみたいね」 全身、圧力のようなもので押し潰されたように重くなる。 「茅さ、ん。圧で押される……。合わせた手が戻せない、です」 「家内安全の神よ。龍神を結界内から除外せよ。本人にも良く考えるように言い聞かせるわ」 茅さんはスピーカーモードの電話口から強く言った。その直後、謎の圧力は消え失せる。 「ふ、ふう……。何!? 何だったの? うわっ! 手汗すごっ!?」 漸く合わせた両手が外せた。脱力で座ったまま、よろよろとする。 「今のが龍神よ。人間の体がある状態では近づけないのよ。夢の中では貴方は霊体だったから圧がなかったの」 「あの時の……蜻蛉さんですよね?」 「そうね」 「何で……? ずっと今まで私と一緒にいたという事ですか?」 「そうなるわね」 「何の為に?」 「娶りに来たって言っているわね」 数秒の沈黙後、茅さんのさらりと言われた言葉に一瞬間を置いて私は呆気に取られる。 「へ?」 「貴方を」 「は、はい?」 「嫁にしたいそうよ」 「は!? ちょっと待って!? 茅さん」 突然の斜め上展開に、私は思考が追いつかなかった。率直な疑問を投げ掛けずにはいられない。 「何?」 「蜻蛉さん。茅さんの所にいるんですか?」 「いないわ。貴方の家の周りをうろついてるわね」 「じゃあ何で蜻蛉さんの言っている事が分かるんですか!?」 「テレパシーみたいな感じで念が頭に入って来る感じと言えばいいのかしら? まあ、大体言っている事は分かるわ」 「神様と結婚ってそもそも結婚とか出来るんですか!?」 「出来るわ。向こうの世界では夫婦の事を番と呼ぶのよ」 「え。ちょっと待って。そもそも神様と出来るの!?」 「何が?」 「だ、だって、神様って実体ないし……」 徐々に言葉が萎んで行く。頭がついて行っていないのに、変な所では冷静で。どうでもいい疑問が降っては落ちて来る。 「ああ……子供を作るメカニズムの事? 出来るわよ。人間が霊体になればね。まあ、いいじゃない。瞳子、土砂崩れが起こった後の工事と交通整理をして貰えると思えば将来安泰よ。無法地帯の荒野も工事をすればあら不思議。利便性のある道路に早変わりだわ。良かったわね」 「全力で断固拒否です! 何!? 土砂崩れと荒野って!? おまけに無法地帯って! そこまで私、荒れてないですよ!」 ツッコミ所満載の遠慮無しの茅さんの言葉に私はツッコミせずにはいられなくて捲し立てた。 「あ、そうなの? てっきり男性不信なのかと思ってたわ」 「私、男性不信じゃないですよ!?」 「女性よりも男性の事は?」 「え。……男の人? 大好きです。話してて楽だから」 「ふう……。良かったわね。グッドラック」 間を置いて溜め息を吐くと、茅さんは諦めたように返答した。声のトーンが明後日の方向を見ている気がする。 「見捨てないで!? 茅さん!」 「別に、嫌いではないわ。好きでもないけど」 「茅さん! まじで見捨てないで!?」 「貴方が蜻蛉と祝言を上げた場合、貴方は、次、人には転生しないわ」 唐突に話題を軌道修正する茅さんに私は目を丸くする。 「え?」 「神との婚約は本契約と言うのだけれど。貴方の死後に婚約が成立する仕組みになっているの」 「し、死んでから結婚するの!? 私が!?」 「まあ、いいじゃない。死後、共に天に昇って蜻蛉と祝言を上げたら天界まで行って結婚祝いを献上しに一度顔を見せに行くわ」 「嫌ですよ!? 絶対結婚しません!」 スマホ片手に首を何度も横に振って断固拒否する私。突然の振って落ちて来た求婚話に訳が分からなくなりそうだ。 「何言ってるの。神と結婚する事はとても名誉な事なのよ?」 「え?」 「死後、さ迷わずに済むから。ずっと守って貰えるしね」 「でも蜻蛉さんの庇護から出られないじゃないですか!? 私にとってそれが憂いなんですけど!?」 「あら、その事に良く気づいたわね。いいじゃないの。貴方好みの眉目秀麗に化けてくれると思うわよ。神はどんな姿にでも化けられるからね」 「外見が眉目秀麗でも嫌ですよ!?」 「あらそう。まあ、先に唾つけとこうって魂胆はあるとは思うけど」 「唾って何!?」 「……まあ、取り敢えず、こうしないか。提案があるんだが、ですって」 「え? 蜻蛉さん。何て言ってるんですか?」 「嫁と気負わずにまずお友達から始めたらどうか? と言っているわ」 「神様なのに、お友達からって何!? 神様だよ!? え!? お友達成立するの!?」 「別に向こうでも人間界でも違法にはならないわよ?」 「ええ……」 困惑して頭を抱える私に茅さんは畳み掛けるように伝言を続ける。 「まずは夢で喫茶店にでも行って、紅茶でも飲まないか? アールグレイがおすすめなんだが、ですって」 「え? 何で喫茶店で紅茶……? …………ッ。何で茅さん! 私が毎日紅茶飲んでるって知ってるんですか!? しかも何で私の好きな茶葉の名前まで知ってるんですか!?」 テーブルの上に飲み終わったマグカップを見て驚愕する。先程まで飲んでいた紅茶を思い出してぞっとした。 「あらまあ、流石龍神ね。リサーチも完璧だわ」 「え!? リサーチ? ……ちょっと待って。茅さん、あの……」 「何?」 「蜻蛉さんて、私の事見てるんですか? 四六時中。ずっと?」 「そうね」 「えっと……ずっとって、ずっとですか?」 「ええ」 「着替えの時もお風呂の時もトイレの時も?」 「そうよ」 「変態じゃないですか!?」 思わず、叫ばずにはいられなかった。人間にプライバシーなんてものは必要ないって事かよ!? とツッコまずにはいられない。 「……え? 何? あらそう」 「え? 何て? 蜻蛉さん」 「変態じゃない。愛だ、そうよ」 数秒の沈黙の後、私は思い切り酸素を吸う。ツッコミまで三秒前。 「どこら辺が愛!? 言い逃れの出来ないストーカーでしかないじゃないですか!」 「まあ、神にとってはあれよ。テレビをつけてぼんやりと貴女の事をひたすらに眺めている感じね。根本から文化が違うと思った方がいいわ。大体の人間に恋する神々はロリコンだしね」 「もう何処からツッコんだらいいのか分からないんですけど!? ……ちなみに蜻蛉さんて何年生きてるんですか?」 「途中で数えるの忘れたらしいけれど、ざっくり六千年は生きてるそうよ」 「六千年!?」 「事前に並大抵の神格 じゃないと伝えたでしょう? ……え? ああ、はいはい。確かにそうね」 「え? 何て?」 「死後、浮遊霊や悪霊に取って食われる位ならわしの元にいた方が安全だよって言ってるわね」 「え? わし?」 「大抵の神は一人称わしよ。まあ、貴方が彼に蜻蛉と名前をつけた以上、これで貴方の過失となったわね。私はもう手出しは出来ない。当人同士の問題だから」 「え?」 「夢で話し合うのね。まあ、断った所で諦めないと思うけど」 茅さんの発言によって、私の頭の中は警鐘が鳴る。聞きたくはないが、聞かずにはいられなかった。 「こ、心変わりとかは? 振られたら別の人に行くとか」 「ないわ。神は、人と違って一途なの。絶対に諦めない」 「話し合えないじゃないですか!?」 「まあ、貴方が霊力を上げてコントロール出来るようになって、蜻蛉と攻防を続けるのもありだけど、その選択はおすすめしないわ」 「どうしてですか?」 「霊力による負荷が肉体に掛かるから肉体が朽ちるのが早まるのよ。まあ、早い話が寿命が縮まるの。でも、蜻蛉にとっては嬉しいでしょうね」 「そ、それは……早く会えるから? 死んだ私と」 「そうね。それに今は霊力のコントロールが出来てないし、手篭めに出来るでしょう?」 「手篭めとか言わないで!? 茅さん!」 「龍神からしてみれば、人間だって子を成すだろ? 何か変な事言っているか? って感じね」 「嫌です!!!」 断固拒否の姿勢の私に、襖を数回軽く叩かれてはっとする。 「……トーコ? どうした? 電話中か? 入ってもいいか?」 「ななななっちゃん!?」 「まあ、あれだけ騒げば人も来るわね。ああ、そうだ。他者には言わない方がいいわよ。蜻蛉が聞いた人の夢枕に立つだろうから。じゃ、切るわよ。電話。じゃあね」 ぶつりとそこで茅さんとの電話は一方的に途切れた。 「え!? 本当に切った!?」 襖が開いてなっちゃんが不思議そうな顔をして部屋に入って来た。 「大丈夫か? 喧嘩でもしてたの?」 「いや、ななな何でもない!」 「? 風呂空いたから入れよ」 「う、うん……!」 挙動不審の私になっちゃんは訝しげにしているが、私は平静を装いつつも自問自答の嵐に頭がショートしそうだ。 テーブルの上に額をごんっとぶつける。俯いたまま、泣きそうになりながら赤面した。 「お、お風呂……入りたくない~」 「? どうした? 風呂大好きだろ? トーコ」 ☆ 「な、ななななっちゃん!」 お風呂上がり、なっちゃんの部屋の襖を静かに開けた。 「何? 髪くらい乾かせよ? 夏でも風邪引くぞ」 畳の上に座って本を読むなっちゃんは、まだ挙動不審なのかと言いたそうな顔をする。追求しない所がなっちゃんらしいなと思った。 「あ、あの……お願いがあるのですが……」 「? 何だよ? 改まって……」 読んでいた本を畳の上に置くなっちゃんは顔を上げて私を見る。 「今晩、一緒に寝て頂けないでしょうか?」 「襖閉めるぞ」 立ち上がるなり、なっちゃんは容赦なく襖を閉めようとして、私はそれを阻止した。 「待って! 閉めないで! お、お願い! なっちゃん! こ、怖くて眠れないの! 今晩だけでいいから」 「意味が分からん。部屋から出てけ」 更に襖を閉めようとするなっちゃんに私は襖を手で掴んで止める。お互い一歩も譲らず。 「いっぷん! 一分でいいので! 話を! 聞いて! 話を!」 「お前はセールスマンか!? うちはケッコーです!」 「お願いぃぃ~! 本当に怖くて!」 「馬鹿言ってろ。へ、や、か、ら、出てけ」 「い、や、だ~! む、昔はお泊まり会の時に一緒に寝たじゃん! ほら、皆で天体観測した時?」 「ガキの頃の話だろ。お前、今幾つだよ?」 「十九だよ!」 「部屋に戻れ! 俺は寝る!」 「嫌だ~! ほ、本当に怖いの! なっちゃん! 怖い~!」 「お前の方が怖いわ! そのいかれた頭、絆創膏か何か貼って来い」 「最近、変な夢見るの! だからもうその夢を見たくなくて!」 「どんな夢だよ?」 お互い、襖を離す。沈黙が場を包む中、なっちゃんは神妙そうな顔をする。 「え……。う……」 「何? 言えない内容なの?」 「う、うん……言えない……」 「兎に角、駄目だ。部屋に戻れ」 ぴしゃりと言うなっちゃんに私は泣きそうになった。本当に困っているのに分かってくれない衝動に駆られる私は右手を握り締める。 「ぅ……!!! なっちゃんの馬鹿! あ、あきちゃんもはるちゃんも一緒に寝てくれたもん! なっちゃんなんか……なっちゃんなんか……」 「はあー……。だから、何だよ?」 「嫁に貰われろ!!!」 「は、はあ?!」 「それで閉じ込められていいようにされればいいんだ!」 「……」 何処か複雑そうな顔をするなっちゃんを置いて、私はそう言い捨てて、その場から逃げるように立ち去った。 ☆ 「なっちゃんのばか。なっちゃんのばか。なっちゃんのばか。ううぅ~寝たくない~」 消灯した自室の布団の中でぶつぶつ呟く。 だが、いつの間にか意識がぼんやりとして来た。 急激な眠気に襲われる。 ☆ ぱちりと目を開ける。その場所は何もなく広大な空間だった。 「また真っ白な空間だ……。夢なのは分かるけど」 「瞳子様、お待ちしておりました」 「わっ!? びっくりした!? あ、あれ? 今日は会話出来るんだ……?」 音もなく、武将姿の無表情な男性が後ろに立っていて飛び上がる。 「それだけ貴方の霊力が上がったのでしょうな。此方です。ついて来て下さい」 男性は不審な感じはしなかった。それだけでも不思議なのに、蜻蛉さんと似たような気配を感じたからだろうか。私は警戒せずに大人しくついて行く。 ☆ 「主様、お待たせしました」 黒い着物を着た青年が振り返る。夢の中で見た時は年配の男性だった筈なのに、今は青年の姿をしていた。 「瞳子……もう少し近くに」 「……っ」 蜻蛉さんの声を初めて聞いた。前回見た夢の中では声は一切聞こえなかった。何となく、神の存在との初対面により萎縮してしまう。 「何故、阿武徒の後ろに隠れるんだ? 瞳子」 阿武徒と呼ばれた武将さんの背後に隠れながら私は蜻蛉さんを警戒する。 「この姿じゃ怖いか? それなら……」 「え!?」 蜻蛉さんの姿が青年から子供の姿に一瞬で変わる。私は驚いて声を上げた。 「少し幼さを残した姿にしてみたんだが、これならどうか?」 「我々はどんな姿にでも化けられるのですよ」 阿武徒さんの補足と蜻蛉さんの姿によって信じざるをえない。私は聞きたい事が山程あった。今だったらきっと質問に答えてくれるかもしれない。 「あの……茅さんが言ってた事って本当ですか?」 「茅? あー……あの魔女か。わし、あの女は好かん。だが、通訳してくれた事に嘘偽りはない」 「な、なら……私、私は結婚は出来ないです。ごめんなさい。お断りをしようと思って……」 「何故?」 控えめに言う私に蜻蛉さんは不可解そうに返答した。純粋な疑問なのだろうが、人の私からしてみればその疑問で更に戸惑ってしまう。 「普通の人間である私が……か、神様となんて、結婚……出来ないですよ……」 「頭が高いとでも言われると思っていたのか?」 「そりゃ……そうですよ」 「人間を下等生物に見る神はいる。だが、人間を娶ろうとする神はそうは見ない。だから、安心しろ」 「でも……私、蜻蛉さんとこうして話したの初めてだし……結婚は無理……」 「だから言っただろうが。お友達からどうか? と。それにあの時、車に轢かれそうになった時があったろ。あれはわしが助けたんだ」 「え?」 あの時の事を思い出した私は、あの時に感じられた不穏さや違和感を思い出す。 「夏乃とかいう男だが、ありゃ、根が深いなあ。あんまりあの男に近づくな。瞳子。関わらん方が身の為だぞ」 淡々と答える蜻蛉さん。唐突に話題に出されたなっちゃんの存在に私は目を白黒とさせる。状況について行けず。 「なっちゃん? なっちゃんがどうかしたんですか?」 「あの男も魅入られていますね」 阿武徒さんが補足する。魅入られている。誰に? どんな存在に? 「きついのがなあ。一柱おるよ。しかも大分前から。ありゃ嫉妬の化身だなあ」 「え? え? なっちゃん、危ないんですか?」 「女性の水神が傍におります。あの男に。常に」 「わしがいるから瞳子は死にはせんよ。ただ、あそこまで執着されると私生活にも支障が出るだろうなあ」 「水神……女性……って村の神様の深杜様?」 「ああ、人に呼ばれている名は確か深杜だった気がするな」 「え。本名は違うの?」 「我々、真名は本当の意味で近しい人にしか教えないのが決まりなのですよ」 私の純粋な疑問に阿武徒さんは無駄なく補足を入れる。蜻蛉さんはぱんぱんと手を軽く叩いて仕切り直すように私に手を差し出した。 「まあ、あの男の事はいい。わしの知った事ではない。一先ず、瞳子。やっとこうして話せるようになったんだ。お茶にでも行こうか?」 差し出された手に向かって、私はその手を掴まず、思い切り首を横に振った。 「い、行きません! 無理ですって! 本当に諦めて下さいよ!」 「いやだ」 「……~っ! わ、私……! 好きな人がいるんです! だから、諦めて下さい!!」 苦し紛れの言い訳。好きな人なんていなかった。彰人の事は過去に好きだっただけで今は特に想ってはいない。 目の前の蜻蛉さんは真顔になると、その場から消えて阿武徒さんの目の前に移動した。 「阿武徒」 「はい?」 「殴らせろ」 「えええええええええええええ!?」 ☆ 「……ご、ごめんなさい。阿武徒さん」 一発所か数発サンドバッグにされた阿武徒さんに私は謝罪した。無表情な阿武徒さんは痛そうにしているが、慣れた様子だった。いつもサンドバッグにされているのだろうか。 「いえ、別に」 「上司なのに……」 「え? 何の事でしょう?」 「部下の蜻蛉さんの事です」 「いや、逆ですね。逆。私の方が部下になります」 「え!? そうなの!?」 「わしの方が強いもーん」 間延びする呑気な口調の蜻蛉さんに私は半信半疑で。何処からどう見ても外見は阿武徒の方が強そうなのだが。 「人の年で十六年、主が具体的に何をしていたのかはご存知でしょうか?何故、十六年間、貴方に声を掛けなかったという理由です」 「え? 知らないです」 唐突の阿武徒さんから振られた話題に、私は何の事だろうかと思う。阿武徒さんの意図を推し量る為に真面目に話を聞く。 「戦争をしていたからです。だから十六年掛かったのですよ」 「せ、戦争? どうして戦っていたのですか?」 「戦争の原因は貴方ですよ」 事務的にとんでもない事を言う阿武徒さんに私は素っ頓狂な声を上げる。 「わ、私!? 何で戦争イコール私の方程式になるんですか?」 「瞳子を嫁にしたい神候補が大勢集まったから天下が取れるまで武闘会が終わらなかった」 「はい。結果的に主が天下を取るまで十六年掛かったんですよ。それが理由となります」 「阿呆か!? そんな下らない理由で戦争を起こさないで下さいよ!?」 ツッコミせずにはいられなかった。どうやら向こうの方々は、人間よりも突拍子がない行動を起こすらしい。 「下らなくはない」 ぴしゃりと切って捨てる真面目な蜻蛉さんに、阿武徒さんは合いの手を入れる。 「主がいかに本気なのか分かったでしょう? ですから婚約を」 「絶対に嫌ですっ! 大体ね、権力も家柄もあって位が高い神様が何で凡人の私を娶ろうとするんですか!? 私に拘る理由は何ですか!?」 最大に思っていた疑問を蜻蛉さんに向かってぶつける。どうやら蜻蛉さんの核心を突く疑問だったらしく、場は静まり返った。 「…………魂が綺麗だから」 「へ? た、魂?」 「まあ、人はそういう反応にはなりますなあ……」 不貞腐れたように言う蜻蛉さんに、阿武徒さんは阿武徒さんでしみじみと答える。 「兎に角、嫌なものは嫌なんですー!」 終始、断固拒否の姿勢を貫いてわちゃわちゃと言い合う中、その場はお開きなった。 寝ても覚めても頭を抱えられずにはいられない。 ☆ 「茅さん」 「何ー?」 平日の午前中、店内で商品の検品をしながら茅さんを呼ぶと間延びした茅さんの返答が返って来た。 「あれから色々考えたんですけど、私が占いを始めた事で霊力が上がったのでしょう?」 「そうね」 「でも、占いを辞めても辞めなくても、死後、蜻蛉さんは待機してますよね?」 「そうね。良く気づいたわね。大抵、死ぬまでその事に気づけずにいる人間もいるのよね。まあ、辞めた場合は神にされるがままよ」 「されるがままって……やっぱりいいようにされるって事ですか?」 不安を募らせる私に茅さんは諭すように無表情のまま答える。 「尽くしてはくれるわよ?」 「はあ……」 溜め息を吐く私に、茅さんはカウンターの椅子から立ち上がるわ 「まあ、霊力は上げる事は出来ても下げる事は出来ない。今後の生き方を選んで決めるしかないわね」 「生き方、ですか?」 「占いをやめるかやめないか、霊力をコントロールするようにするかしないか、蜻蛉と結婚するか攻防するか、貴方の生き筋を決めないとどうにもならないでしょう? それは貴方が決めないとね。貴方の人生だから」 「……はい。あ、そうだ。茅さん」 「なあに?」 「蜻蛉さんと夢の中で話せたんですけど」 「あら良かったじゃない。進展したのね」 「なっちゃんの話題になって……。なっちゃんの傍に神様がいるから、なっちゃんに近づくなって……」 なっちゃんの話は言い辛かった。でも聞いておかないと私も対処が出来ない。 「そうね。でもそんな事態になったのは彼に過失があるから仕方ないのよ」 「過失? なっちゃんが何か悪い事したって事ですか?」 「自分から神に求婚した時点でそういう事態に至ると想定出来なかった自業自得というやつよ」 「え? 求婚て……プロポーズしたという事? なっちゃんが……?」 「そうね」 「深杜様に?」 「ええ」 「それでなっちゃん。ずっと……女の人に触れないのって……」 「深杜が嫉妬するからでしょうね」 「ただの嫉妬じゃないですか!?」 「神の嫉妬だから、ただの、ではないわね」 「え。え!? でもほら、何かの勘違いかもしれないし……」 「確かめてみたら?」 「? どう確かめるんです?」 「夏乃の手を取って自分の胸の上に置いてみたら?」 「茅さん!? 何言ってんの!?」 とんでもない提案を淡々とする茅さんに私は素っ頓狂な声を上げた。 「恐らく、何かが起こるわよ。後、夏乃の反応を見れば一目瞭然でしょう?」 「えぇ~……」 「手が触れるだけでも過剰に反応する筈。それがまあ別の部位だったら飛び上がる所の話じゃないわね」 ☆ 「夏乃。なーつの」 鈴虫の声が聞こえる。空は薄暗い、もう夜なのかと思う。俺の肩に手を置きながら深杜は話し掛けて来る。 「何だよ……。触んな」 「何もしてないでしょう? 触っただけじゃない」 「良く言う……。今まで口に出せないような事……散々……して来た癖に…」 肩に置かれた深杜の手を振り払った俺はぼそりと呟く。 「何か言った?」 「……何も言ってない」 不意にどすどすどすと足音が近づいて来てはっと顔を上げる。 「なっちゃん!」 「わっ! 何だよ!? 声掛けてから開けろよ!」 勢い良く襖を開ける瞳子は走って来たのか、呼吸を乱しながら俺に近づく。ぎょっと驚きつつも座ったまま後退りして瞳子から距離を取った。 「あのさ!」 「何?」 「私と腕相撲して!」 改まって言われるようなことか? と思った。突然過ぎるし意味が分からない。瞳子の考える事はいつも単純だが、時々、突飛な言動を取るから読めない事がある。 「な、何いきなり? ……しないよ」 「……何で?」 いつもと違う雰囲気で食い下がる瞳子に俺はぎこちなく答えた。 「腕とか痛めたら仕事に響くから……」 「……なっちゃん。えっと……ごめんね……?」 「何……? うわーーーーーーーーっ!?」 不意に瞳子に前から抱き締められて、飛び上がりながら絶叫。一瞬何が起こったのかか分からなかった。 「どうなさいました!? 夏乃様!?」 俺の叫びによって、部屋に駆けつけて来た使用人に襖越しから叫ぶ。 「ななななな何でもない! 足を滑らしてびっくりしただけだから! き、気にするな!」 「……左様ですか。失礼致しました」 「ハグしただけで……この反応、やっぱり……嘘じゃない。痛ぁっ!?」 間髪入れずに瞳子の頭に拳骨をお見舞いした。 「何の悪ふざけだ!? まじでやめろよ!? 本当にやめろ! ……はあはあはあっ!」 動転して呼吸が乱れる。立ち上がって瞳子から離れるが、もう抱きついて来ないとはわかっていたが、気が気じゃなかった。 「だ、大丈夫? なっちゃん。体、凄い微振動してるけど?」 「お前の所為だよ! ……っ!?」 傍にいる、深杜の表情にはっとする。 「なっちゃん?」 「で、出てけよ! 取り敢えず、部屋から出ろ! 出てけっ!」 「わっ!?」 グイグイ押して無理矢理瞳子を部屋から追い出した。 ☆ 「茅さん~」 翌日の昼間。仕事の手を動かしながら茅さんに話し掛ける。茅さんは察した様子でカウンターの椅子に腰を下ろした。 「その様子だと、確かめられたみたいね」 「なっちゃんを助けるにはどうしたら……」 「私には無理ね。彼の過失だから。責任は彼が負わなければならない」 「尋常じゃなかったんですけど……あのなっちゃんの反応」 「取り敢えず、寝てみたら? 夏乃と夢を共有して夢の中で会話すれば深杜の干渉の外に出られるかもしれない」 「やり方を教えて下さい~」 げんなりする私に、茅さんからやり方を教わりながらその日は仕事をした。 ☆ その晩は大人しく寝た。仕事の疲れもあったのか、直ぐ眠りに落ちる事が出来た。 「茅さんに教わって寝たものの……。また真っ白な空間だ」 広大な白い空間は相変わらず何もない。 「トーコ」 背後から声を掛けられて振り返る。 「あ、なっちゃん。本当に夢を共有出来るんだ。凄いな……」 「何、此処? 夢の中?」 辺りを見回すなっちゃんに、私は言い辛いが、思い切って踏み込む発言を単刀直入にする。 「うん。……あのさ、なっちゃん。単刀直入に聞くけど、子供の頃に神様にプロポーズとかした?」 「……は?」 何を言っているのかが分からないと言わんばかりの表情をするなっちゃん。平静を装っている風だが、私はそのまま畳み掛けるように詰め寄った。 「それでえと、神様にストーカー紛いな事とかされてない?」 「別に……されてないけど」 「お着替え覗かれたり、お風呂覗かれたり、おトイレ覗かれたりとかされてない?」 「は、はあ? 何だよ? 意味分からん」 「他にも口には出来ない事をされてたりとか……」 「知らん! いい加減にしろよ! 馬鹿馬鹿しい! 意味分かんない事言ってないでしっかり寝ろよ。夢を見てるって事は眠りが浅いんだから」 「なっちゃんの馬鹿! 心配してるのに!」 「ふざけてるとしか思えないっつーの!」 「なっちゃんの淡白! なっちゃんの初心! この……新品!」 「……あぁ? 黙れよ。犯すぞ。このクソ女……!」 私の発言にかちんと来たのか、なっちゃんは私と目線を合わせて珍しく好戦的になった。 「あーそう! やれるもんならやってみろよ!? 女を押し倒す度胸もない癖に! どうせ押し倒す前に脱衣所へ行って脱いじゃう慎重派タイプなんだろ!? ガキ!腰抜け! 甲斐性なし! ばーか! ばーか!」 「黙れ!! 女の癖に品性の欠片もない! お前なんか、電化製品に例えたら中古で売り出されてるセール品の癖に!」 「はぁー!? 中古の何がいけないのよ!? 女よりも新幹線とトンネルを見てる方が好きなガキの分際で!」 「意味分かるか!? 何だよ!? トンネルって!?」 「……まるで小学生並の喧嘩だなあ……」 あぐらをかいて座る少年姿の蜻蛉さんは私となっちゃんの言い合いを冷静に見つめる。蜻蛉さんの横には阿武徒さんがお茶を点てていて咳払いをした。 「私はどちらかと言うと、女性のトンネルの方が……」 「阿武徒、それ以上は言うな。黙ろうか」 蜻蛉さんが阿武徒さんの発言を遮った所で私は二人に声を掛けた。 「蜻蛉さん! 阿武徒さん!」 「まあ、瞳子、座れ。茶でも飲むか?」 「夢の中の食べ物を食べると私、風邪を引くからやめとく」 「これは特別だから大丈夫だ。夢の中の食べ物は黄泉のものだから体調を壊すんだよ」 「へええ! そうなんだ~!」 「何だ? こいつらは……? 瞳子の知り合いか?」 二柱の存在と状況について行けず、なっちゃんは戸惑う。 「神社の倅も図体だけはでかくなったなあ……。頭が空なのは変わってない。いい所はその見目だけだな」 しみじみと語る蜻蛉さんになっちゃんは癇に障ったのか、蜻蛉さんに指を指す。 「瞳子。……こいつ、ぶっ飛ばしていいか?」 「なっちゃん。落ち着いて。相手、神様だから! 蜻蛉さんも変な事言わないで……!」 「深杜に求婚してからつけ狙われて十年弱か? 難儀だな。お前も」 お茶を飲みながら言う蜻蛉さんになっちゃんはぎくりとする。阿武徒さんは二人分のお茶を丁寧に出した。 「なっちゃん。深杜様にプロポーズしたって本当なの? それで苦悩してるって聞いたんだけど……」 「何なんだ? 此処は。人の話を聞かないで会話が成立する場なのかよ」 「……まあ、夢ですからなあ」 「蜻蛉さん。あのね。お願いがあるの」 「? 何だ? 瞳子?」 思い切って、私は蜻蛉さんに向き直った。蜻蛉さんは不思議そうに湯呑みを片手に首を傾げている。 「なっちゃんを助けたいの。なっちゃんは今でも苦しんでる。だから力を貸して! お願い!」 一瞬の沈黙の後、蜻蛉さんは即答する。 「嫌だ」 ☆ 「……え?」 目を開ければ見慣れた天井。 夢から覚めたと言うより、夢を遮断されたような気分になった。 雀の囀りが聞こえる中、朝日がカーテンの隙間から漏れていた。 【続く】
【欟乃華】虜(上)
何度も何度も泣いた。ひとりぼっちで泣き続けた。 どんなに待っても大好きなお母さんは迎えには来ない。 私の幼少期の頃の記憶。とてもとても寂しくて虚しさが残る。 ☆ 「えー……次は粕川村、粕川村に到着します。お忘れ物のないようにお願い致します」 バスのアナウンスにはっとする。 不意に幼少期の頃の夢を見ていた。うたた寝をしながら。 この町の中で一番奥にある村、粕川村に私、有川瞳子は帰って来た。 私が小学生の頃に住んでいた故郷だ。 「はー……やっと着いた……。うー……お尻痛い……。あれ? 待ち合わせ場所、此処で合ってるよね? 今……十二時、か。」 バスから下りると、バス停でとある青年と目が合う。 「……トーコ?」 「! ……あ、えっと……なっちゃん?」 一瞬、誰だか分からなかった。黒髪の外見が整った青年は、小学生時代の幼馴染、柏木夏乃。通称なっちゃんだ。 「あ、良かった。やっぱり、トーコだ。迷わずに来れた?」 私だと分かるとなっちゃんは安堵した様子で笑った。 「なっちゃん! 久し振りー! わー! 十年振りだよね?」 「瞳子が十歳の頃に都会へ越したから九年振りだな」 二人で田んぼ道を並んで歩きながら私は言葉を続ける。 「そっかあ。……あのね、なっちゃん。本当にいいの? アパートの工事が終わるまでなっちゃんの家に居候させて貰っちゃって」 「別にいいよ。うちの親からも許可取れたし……。第一、此処は泊まる所って言ったら民宿くらいしかないだろ。あ、そうだ。おばさんの容態、大丈夫そう?」 「お母さんなら大丈夫。私生活を送れるくらいには安定してるから」 「……そっか。なら、良かった。まあ、うちの親がトーコの居候のオーケーを出したのも俺が子供の頃におばさんには世話になったからだと思うよ」 「うん。ありがとう。あれ? なっちゃん。此処まで何で来たの?」 「徒歩だよ。徒歩」 なっちゃんはあっけらかんと無表情で答える。 「なっちゃん家の神社から……此処まで?」 「片道一時間くらい?」 「まじで!? なっちゃん、何でけろっとしてるの?! タクシーとかは……?」 「そんな洒落たものは、この村にない。ほら、リュック、貸せよ。持ってやるから」 「うん。ありがと……」 私が手渡したリュックをなっちゃんが取ろうとした瞬間、なっちゃんは慌てて手を引っ込めるように離した。とても動揺している。私は何故、そんなになっちゃんが動揺しているのかが分からなかった。 「え……? なっちゃん? ご、ごめ……。私、何かした?」 「……ッ。何でもない……。悪い。リュックを落として。ほら、行くぞ」 「なっちゃん……。もしかして、女嫌い、まだ治ってないの? 小学生時代、女の子に触られると蕁麻疹が出来ちゃう体質だったよね?」 「別に……女嫌いじゃねえ」 素っ気なく返答するなっちゃん。そう言えば、思い出した。なっちゃんは小学生時代、全ての女性に対して疑心暗鬼だった。どうしてそうなったのかまでは分からないが、大の女性嫌いで親しい私でも触れることが出来ずにいた。 「だ、大丈夫だよ! なっちゃん」 「何が……?」 「私、今も昔もなっちゃんの事は異性として見てないから! それは変わらないし! てか、なっちゃんは私の中で彼氏にしたくないランキング一位だし! だから、ね? 安心して!」 「お前なんて爆散すればいいと思う」 精一杯のフォローの言葉を入れたが、なっちゃんに真顔でツッコミを返される。 ☆ 「夏乃様。おかえりなさいませ」 なっちゃんの家の玄関先で使用人に会釈をされて慌てて私は会釈を返した。 「ただいま。トーコをあの空き部屋に通して。瞳子、今居間で昼飯食べてるから。刺身とか平気だったっけ?」 幾分かなっちゃんの顔が固い気がする。使用人の前だからだろうか? 「うん。生魚は大丈夫だよ。私、偏食でもないし」 「そっか。じゃあ、俺、部屋に戻って着替えてから居間へ行くから。瞳子も部屋に荷物を置いておいで」 「うん。分かった」 「では、行きましょうか。お荷物をお持ちしますね」 「あ、ありがとうございます」 なっちゃんを残して私と使用人は客間へ向かった。 ☆ 蝉の鳴き声が煩わしい。頭の中を喧しく喧しく木霊する。邪魔する声音。 自室へ向かう先でとてもとてもとてつもなく、後悔をした。 瞳子のリュックを持つ時に、瞳子の指に触れてしまった。 それを何度も何度も言われる。口喧しい程に。 「……っ。分かった……。分かったよ……。五月蝿いな……。仕方ないだろ。わざとじゃ、ない……。分かってるよ。次からは気をつける……」 ☆ 「瞳子ちゃん。此処まで遠かったでしょう。疲れていない? 大丈夫?」 客間に荷物を置いてから居間に通された。なっちゃんのお母さんの向かい側の座布団の上に座る。 「あ、いえ。三時間くらいなので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」 「そう。あ……稲荷寿司とかは食べられる?」 「はい。大好きです」 「はい。取り皿によそっておいたから適当に食べてね」 なっちゃんのお母さんからお皿を受け取ると、タイミング良く襖が開いた。 「はい。あ……なっちゃん」 「おかえりなさい。夏乃様、日差しが強かったですけれど、お加減は大丈夫ですか?」 柔らかいが、幾分か固い口調でなっちゃんのお母さんはなっちゃんに言う。なっちゃんは無表情のままで使用人とはまた違う態度で固いように捉えられる。 「別に……平気だよ」 「長時間歩かせてごめんなさいね」 「……トーコ、食べ終わったら少し話せるか? 部屋だと悪いから散歩にでも行こう」 なっちゃんは私の隣に座ると、微笑む。私はぎこちなく頷いた。 「う、うん……分かった」 ☆ 「なっちゃん。あの……さ、大丈夫?」 外に出てから私はなっちゃんの顔色を伺う。なっちゃんは無表情で何を考えているのかが分からない。なっちゃんの意図を読み取る事は出来なかった。昔からなっちゃんは自分の気持ちを隠すのが上手いと思う。 「何が?」 「えっと、子供の頃、凄い……嫌がってたから……。家族や村の人達に特別扱いされるのを」 「……別に。ガキの頃は嫌だった時期があったけど、もう慣れたし、今は特に何にも感じないかな」 なっちゃんの家は神社で、少し特殊な家柄だ。なっちゃんが生まれた時に神の啓示というものがあったらしく、なっちゃんはこの村の守り神の深杜様の生まれ変わりだと言われている。私は半信半疑だが、なっちゃんの身内や大人の村民の殆どはそれを信じ込んでいる。なっちゃんへの扱いは崇拝に近く、この村でなっちゃんを普通に扱う人はほぼいない。 「そんな複雑そうな顔すんなよ。大丈夫だって」 「あの……なっちゃん。……話って、何?」 「ああ、居間に皆いたから居辛いかな? と思っただけだよ」 「気を遣ってくれたんだ。ありがとう」 「後は……もう土地勘ないだろうからスーパー辺りは道を教えておこうと思って」 「コンビニがあれば別に」 「村にあった唯一のコンビニは先日潰れたよ」 「まじで!? ないの!? コンビニ!」 「まじでない」 なっちゃんは首を横に振る。私はがっくりと肩を落とした。 「不便だ……。就活もしないとならないのに……」 「トーコ、此処に本格的に暮らすの?」 「うん。高校卒業したし、お母さんの施設の仕送り資金さえ仕事して確保すれば、何処にいても許されるでしょう?」 「そりゃそうだけど。都会からこの村に移住するってわりと大変だと思うんだが……」 「うん。不便過ぎる……。バスは一日一本だし、コンビニはないし、電車は現金のみだし……この村にいっぱいあるものって何だろう?」 「いっぱいあるもの……? ……田んぼくらいしかないぞ」 なっちゃんは目の前にある田んぼに指を指す。私はげんなりとした。 「役立つツールから除外されてるよお~!」 「でも戻って来るって事は、愛着はあるんだな。この村に」 「そりゃあるよ。あ、そうだ。なっちゃん」 私はとあることを思い出した。 「……ん?」 「はるちゃんとあきちゃん、元気?」 はるちゃんというのは、鷹野春。あきちゃんと言うのは、岡崎彰人。私となっちゃんが小学生時代に仲良しだった幼馴染の二人だ。私達は四人グループで子供の頃は良く遊んだ。私は久し振りにはるちゃんとあきちゃんに会いたい気持ちに駆られていた。 「? なっちゃん……?」 言葉を詰まらせるなっちゃんに私は首を傾げた。 「いない」 「え?」 なっちゃんは気まずそうに目を逸らすとぶっきらぼうに答える。 「大学進学して北海道と沖縄に行ってるよ。二人共」 「へ!? 何で二人共、端っこにいるの!?」 「後、あの二人の話はもうするな。村の連中にもするなよ」 「何で?」 「絶縁してんだよ」 「どうして? 二人と喧嘩でもしたの?」 「別に。トーコには関係ないだろ」 不機嫌そうななっちゃんに私はそれ以上追求する事をやめた。もしかしたら、何か事情があるのかもしれない。二人と会えないことに実感が湧くと、今更ながらにまた寂しさが募る。 「そっかあ……。はるちゃんとあきちゃん、いないのかあ……」 「好きだったもんな」 なっちゃんは真顔でぼそりと呟く。私はぎくりとした。 「え?」 「そりゃ会いたいよな。ガキの頃からずっとずーっと見てたしなあ。トーコ。彰人の事」 淡々としみじみとなっちゃんは答える。 「……え。え!? 何で!?」 「お前さ、気づかれてないと思ってたの? バレバレだったから。彰人以外全員知ってたからな」 驚く私に、なっちゃんは無表情のままつらつらと捲し立てた。 「……っ。五月蝿いよ! 確かにあきちゃんの事は好きだったけど! 本当に純粋な好きーっていう、感覚で!」 身振り手振りで言い募る私になっちゃんはからかうように笑う。 「あぁーはいはいはい。分かった。分かりましたよ。純粋な乙女心ってやつですね」 「何で敬語口調!?」 「で、スーパーに行く道だけど、このまま道を真っ直ぐ行くとポストがあるからその道を右に行って、次はー……」 「ちょっと待って!? なっちゃん! そんな早く言わないで! スマホでメモ取らないと忘れるそれ!」 急いでポケットを漁ってスマホを取り出す私になっちゃんは間延びしたテキトーな言い方で呟く。 「一回で覚えろぉー」 「無茶、言わないでよ!?」 ☆ 「じゃ、俺、これから用事があるから。お前は先に帰ってろ。疲れたなら部屋で昼寝しててもいいから」 「……何でそう昔からゴーイングマイウェイなの!? せめて、スーパーまで案内するとかさあ! そーゆー優しさはない訳!?」 むっとする私になっちゃんは無造作に適当に言葉を続ける。さもどうでも良さそうに。 「俺に彰人の優しさを求めるな。アプリでナビ使えばどうとでもなる。テキトーに歩けば辿り着く筈。ああ、山まで行くと電波圏外になるから注意な。……あ、まずい。時間がない。じゃな。俺は行く」 なっちゃんがすたすたと去る足音を聴きながら私はなっちゃんの背中に向かって思い切り叫ぶ。 「そんなんだからなっちゃん、恋人出来ないんだよ! なっちゃんの甲斐性無し!」 なっちゃんは無言で来た道を足早で戻ると、私の頬を掴んで力強く引っ張った。 「お前にだけは言われたくないんだが? この口か? この口だよな? 減らず口叩く口は?!」 「いだだだだだだだだだだだ!? いひゃいっ! なっちゃん! いひゃいぃっ!」 「…………はぁっ。五月蝿いな……」 私の頬から手を離すなっちゃんは溜め息を吐いた。 「ぅぅぅぅ……。ほっぺ……ほっぺを……縦縦横横された……。痛いよう~」 「もし、どうしても分からないようだったら、言え。案内するから」 「……うん。……うぅ……ヒリヒリする……なっちゃん……思い切りつねらくたっていいじゃん……」 「トーコ!」 「え!? 何!? わっ」 なっちゃんに突然、とある物を投げられて私は慌ててそれを受け取る。 「それやるよ」 「何これ……? 身代わりのお守り?」 私はまじまじとお守りを眺めた。なっちゃんの家の神社のお守りだと分かる。 「持ってろ。気休めにはなるからさ」 「? うん。じゃあ、私はこれあげるよ。キーホルダー」 「……なんだこれ? 不細工な招き猫?」 鈴の音が鳴る猫のキーホルダーを見てなっちゃんはぽかんとする。 「可愛いでしょ?」 「お前、相変わらず……センスないよなあ……」 「悪かったな! 占い友達がおすすめしてくれたの!」 「何……。瞳子、占いなんて、好きだったっけ?」 「ああ、高校卒業した時くらいに誕生日プレゼントで友達の佳代ちゃんからタロットカードを貰ってそこからはまったというか、なんというか……」 「ふうん……」 「? どうしたの? なっちゃん」 「別に。そのお守り、スマホのケースにでもつけとけよ」 なっちゃんはぶっきらぼうに言う。相変わらず、何を考えているのかが分からない。私はたどたどしく頷いた。 「う、うん。分かったー……」 ☆ 「夏乃様、夏乃様!」 「夏乃様、危ないです! 池から離れて下さい!」 「鯉が近くで見たいのならご用意しますから」 切迫した口調で言い募る使用人の言葉たち。 「貴方が生まれて来てくれて私は幸せです。夏乃様」 母に呼ばれる言葉。俺の名前を呼んでいるようで呼んでいない。等身大の俺を、見てはいない。 「神様……深杜様……。お願いです! 誰も俺を普通の人として扱ってくれない。それが苦しいのです。でも、神様の深杜様ならきっと俺の事を普通の人として接してくれますよね? だから、お願いします。深杜様、俺が大人になったら……俺と結婚して下さい……!」 参拝で強く強く、そう願った。自分の唯一の願い事。一生の願い事。直感でやってはいけない行いだとは思った。でもそうしないと、自分自身を保てそうになかった。 ☆ 「……!! はぁ……はぁ……はぁ……っ。夢、か……。何で今更、こんな夢……」 夢から覚めて飛び起きた。寝巻きが汗で張り付いて気持ちが悪い。 「夏乃様?」 襖越しに控えている使用人に声を掛けられる。俺はぎくりと大袈裟に反応してしまう。 「……何でもない。水を一杯くれ」 「かしこまりました」 固い口調で返すと事務的な態度で使用人の足音が遠ざかって行った。 「……ふー……。何だよ。やめろ……。汗くらい自分で拭ける……。やめろよ。今、何時だよ。……まだ深夜じゃねーか……。……はあっ……」 夢見の悪さに溜め息を吐く。夢ではない。あれは確かに現実で起こった事柄だ。現実なのだ。今更、どうすることも出来ない。避けられようのない、無情な事実。 ☆ とある平日の日中。変わらず、無職な私は肩を落としながらアルバイト雑誌と睨めっこする。道中、歩きながらぶつぶつと呟いた。相変わらずの田んぼ道。通行人は誰もいない。人っ子一人いない。 「はあーあ……。就活、書類審査段階で全滅……。絶対なっちゃんに無能だって馬鹿にされる……。誰でもいい。救いの手を……。ん? んんん? アルバイト急募……? あ、時給良くて深夜勤務なくて家から近くて……。個人店の……アンティークショップ? あ、ちょっと聞いてみよ。電話番号は……?」 「……はい? もしもし、サイハテ商店ですが?」 直ぐに電話が繋がった。呼び出し音数秒で。心の準備が出来ていない私はきょどった声で早口で話した。 「あ、もしもし! お忙しいのにすみません。有川と申しますが、雑誌の求人広告を見てご連絡をしたのですけど……」 「取り敢えず、面接をしたいから写真付きの履歴書を持って来てくれる?」 「は、はい。ご都合のいい日は……」 「今日の午後五時に来て頂戴。それじゃ……」 用件のみを伝えると電話の主はがちゃりと電話を無造作に切った。 「へ!? えぇー……。凄い急……。人手が足りないのかなあ? 何か……なっちゃん並にマイペースな店主さんの予感が……」 ☆ 「履歴書も持ったし、メモ帳と筆記用具も一応用意したけど……。取り敢えず、入ろう……」 アンティークショップの入口を開けると、アンティーク調のものたちに囲まれた私は圧倒される。 「わっ……。凄い……!高そうなものばかりだ……。えっと、あのー……すみません。今日、面接の電話を入れた有川ですけど~」 「……あら、こんにちは」 奥の部屋から女性の店主が出て来た。電話の主と同じ声だ。外見が美人で私は気後れしてしまう。 「こんにちは……」 「そこ、適当に座って」 椅子に指をさすと店主も目の前の椅子に座る。私は緩慢な動作で椅子に座った。 「はい……」 「履歴書は?」 「はい。お、お願いします……」 両手で履歴書を手渡すと店主はそれを見ながら淡々と言う。 「そうね。どうして此処に応募してくれたのかしら?」 「えっと、実は都会に住んでて最近、この村に帰って来たんです……。それで働く場所が……」 たどたどしく話す私を店主はじっと見つめる。 ☆ 「採用するわ。明日の午前中から来てくれる? 週休二日制でシフトを組んでもいいかしら?」 「へ? いいんですか!?」 「分からない事があったらその都度聞いて頂戴。私の事は茅と呼んで。よろしくね」 驚く私に店主、茅さんは微笑んで頷いてくれた。 「はい。ありがとうございます! よろしくお願いします!」 丁寧に茅さんに向かってお辞儀をした。こんなに早く決まるとは思わなかったが、よしとしよう。ブラック企業ではありませんように!! ☆ 「仕事決まったんだ。おめでとう」 「うん! でも、アルバイトだけどね」 私の部屋で夕食を食べていると、なっちゃんもお膳を持って参加して来て、食事を共にする。 「別にいいだろ。繋ぎで働く感じでも」 「うん。お醤油取って。なっちゃん」 「……ん」 なっちゃんは醤油を手渡すと私は受け取った。率直な疑問を投げ掛ける。 「ありがとう。なっちゃんの家って、ごはん食べるの皆、バラバラなの?」 「俺が別なだけ。家族は皆で食べてるよ」 「そう……なんだ」 私は俯くと、なっちゃんは不思議そうに首を傾げる。私が何を考えているのか分かるだろうに。それでもなっちゃんは私の言葉を待った。つまり、言えという事だ。 「いつもごはんを持って部屋に来るから何でなのかな? と思って……。それに、なっちゃんのごはんだけ……」 「別に気にしてない」 なっちゃんのお膳はお米と野菜の手料理だけだった。所謂、精進料理というやつで。 「私のお肉とお魚と卵、食べていいよ。なっちゃん」 「いいよ。もう慣れたから」 手を振って断るなっちゃんに私は更に追求する。 「……ずっとお米と野菜しか食べてないの? なっちゃん」 「……」 なっちゃんは無言で肯定する。 「なっちゃん。私と一緒に都会に戻る?」 「ぶふっ! 急に笑わせるような事を言うなよ。食べ物が器官に入るだろ。お前、何言ってんの?」 吹き出して笑うなっちゃんに私はぎこちなくそう言うしかなくて。 「だ、だって……」 「親父の職、継がなきゃならないのにどうすんの? 家は? 役目は? 俺の立場と状況、分かってるようで分かってないだろ。お前。……短絡的過ぎる」 笑顔から無表情に戻る、なっちゃんに私は何とも言えない気持ちになる。微かに動揺してしまう。ここまでの扱いをされるとなると、最早、差別に近い。 「でもさ……こんなの……酷過ぎるよ……。幾ら何でも……いきすぎてない?」 「じゃあ、何だよ。俺と道行きでもしてくれんの?」 「へ? 何それ? 道行きって何?」 聞いた事のない言葉で私は戸惑うとなっちゃんは呆れた様子で答える。 「同衾とか懸想とか知らなそうだよなあ。……お前」 「取り敢えず、馬鹿にされている事だけは分かった! 人が心配してるのに!!」 「あーはいはいはい。よしよしよし。分かった分かった」 むっとする私になっちゃんは柔らかい口調で宥めた。 「なっちゃん。私の事、小動物かなんかだと思ってるでしょう!?」 思い切って言い放った私。なっちゃんは変わらず真顔で。 「ノーコメントで」 「腹立つ!!!」 ☆ これは数年前の記憶だ。俺が中学生の頃、布団の中で咳をする俺を彰人は心配そうに眺める。 「なっちゃん。大丈夫? 桃のゼリーを買って来たよ~。食べられそう?」 「彰人、風邪が移るから……そろそろ帰れ」 掠れた声で言う俺に彰人は優しそうに微笑む。無愛想に言っても彰人は気にせずに安心させるように優しい口調で答える。 「大丈夫だよ」 「ごめんな。今日、トーコの所に行く約束だったのに……。俺が風邪を引いたから行けなくなって……」 「大丈夫だよー。また都会に行こうと思えば行けるし、お年玉も残しておくから。なっちゃんはお風邪、ちゃんと治しなよ」 「会いたかっただろうなって思って……本当にごめん……」 落ち込む俺に彰人は俺の確信を突く。 「それはなっちゃんもでしょう?」 「そう……だけど……」 内心、ぎくりとした。トーコの初恋の想い人である、彰人にそう言われると内心おどおどしてしまう。彰人はトーコの気持ちには気づいていない。でもなら、何故、俺はこんなに罰が悪いのだろう? と思う。 「はるちゃんは家族旅行中だし、今度は三人で瞳子の所に行けるといいね」 「……うん」 「なっちゃん。枕元にゼリーとか色々置いとくから食べてね。じゃあ、僕、そろそろ帰るよ。お大事にね」 「うん。またな」 「なっちゃん。治ったらまた遊ぼうね~」 「……うん」 手を振る彰人に手を振り返す。意識がぼんやりとしている中、その後は布団の中に体重を預けて大人しく寝た。確かこの時は夕方だった。そんな気がする。 ☆ 「夏乃様、お加減は如何ですか?」 翌日の朝。何だかんだで夕方から朝にかけて眠ってしまったと思う。事務的な態度の使用人にぎこちなく答える。未だに様呼びには慣れなくて、内心、嫌な気持ちになる。 「……うん。熱が下がったから学校に……」 「今日は大事を取ってお休み下さい。夏乃様。ぶり返したら大変です」 「分かった……」 不本意だったが、渋々了承した。不意に廊下から足音がする。 「夏乃様、鷹野春さんからお電話が……」 子機の受話器を別の使用人から手渡された。 「ああ、替わる。…………もしもし、春?」 「なっちゃん! あきちゃんが……」 開口一番、切迫した春の声が聞こえて来て俺は戸惑った。 「彰人? 彰人なら昨日、家に来たけど。お見舞いに来てくれて……」 「昨日からあきちゃん、家に帰って来なくて……夜に村の人間総出で山狩りをしたんだよ。それでも見つからなくて。なっちゃん、風邪で伏せってたから知らないと思って……もし彰人の事で何か知ってたら……教えて欲しい」 「!?」 震える声音の春に驚愕する。息を呑むしかなかった。まさかまさかまさか。そんな事はない。そんな筈はない。彰人が失踪。消えた?何故だ。どういう事だ? 「なっちゃん。治ったらまた遊ぼうね~」 脳裏に過ぎる彰人の声と最後の姿。いつもと変わらず笑顔で手を振っていた。あの後、彰人は……忽然と姿を消えた……? ☆ 「ですから、夏乃様はご不在ですので……」 「どうして嘘をつくんだよ!? 夏乃から家にいるって、さっき電話で……」 「春を通せ。話があるから来てくれたんだ」 「な、夏乃様!」 「下がれよ」 俺は強く言う。使用人は慌てて頭を深く下げた。 「申し訳御座いません……」 ☆ 春と場所を変えて話した。俺の部屋で話すが、春は何処となくぎこちない。 「なっちゃん……。あのさ、ごめん。俺が家族旅行に行ってる間にこんな事になって……」 「春は悪くないだろ。こっちこそ、ごめん。うちの使用人が……」 「なっちゃん。……俺、あんまり此処に来ないようにするよ。なっちゃんに迷惑が掛かるから」 「……そ、っか」 俺は何て言えばいいのかが分からなかった。ここで春にまた来て欲しいと頼めば良かったのだろうか。突然、春は人差し指を静かに口元にあてた。不思議そうに俺は小声で話し掛ける。 「春?」 「部屋の外に使用人がいる」 「!!!」 「夏乃の部屋の窓に三回小石を投げるからそうしたら開けてくれる?」 「う、うん……!」 「これから、それで会いに行くようにするから」 「分かった。ありがとう。……春」 春の言葉が純粋に嬉しかった。春の言葉に救われる。救われてしまう。俺を普通に扱ってくれる人は、まだいる。だから大丈夫。大丈夫だ。だが、この時の俺は、春に二度と来ないで欲しいと言うべきだったのだ。 ☆ 翌日の夕方頃の日曜日。部屋の窓に小石が三回ぶつかる。俺は春が来たのだと思い、部屋の窓を静かに開けた。 「なっちゃん! おでこに熱冷まシート貼ってる。大丈夫?」 「べ、勉強のし過ぎで……。頭痛が酷くて……」 具合の悪い所を春に見られて罰が悪い。春の心配そうな顔があの日の彰人と重なった。 「中学の勉強?」 「……いや、家の……」 春は俺の言葉に俯くと取り繕うように笑ってスーパーに売られている小さい花火をビニール袋から出した。 「そっか。なっちゃん。これ持って来た。バケツある? バケツに水汲んで花火しようよ!」 「蔵の中でもいいか……? 外だと使用人の目があるから」 「うん!」 ☆ 「なっちゃん。大丈夫? あんまりさ、無理すんなよ」 「……うん」 俯く俺に春は俺の背中をばんっと叩く。軽く咳き込みながら頷いた。 「言いたくない事は言わなくていいから。でも、苦しい時は言って?」 「うん」 「夏乃様?」 使用人の呼び掛けにはっと顔を上げる。俺は振り返り、小声で春に焦りながら言う。 「!! 春は蔵の奥に隠れてて……!」 「う、うん!」 「あの……」 平静を装いながら使用人と顔を合わせた。使用人は不審そうに俺を見る。 「どうしました? 夏乃様、何か探し物でも?」 「調べ物を……してて」 ☆ なっちゃん。大丈夫かな? あ……! 花火に火がついてる! さっき消した筈なのに……。バケツの水があそこにある。駄目だ! 届かない。消さないと……! 「ぐっうううぅ……あつっ……ぅ……」 手で花火の火を消す。熱い熱い熱い。自分の肌の焦げた異臭が蔵の中に漂う。 声を出したら使用人に気づかれる! 見つかったら、夏乃と引き離されてもう会えなくなる! 夏乃と遊べなくなるのは嫌だ!! 熱い熱い熱い! 痛い……っ!!!! ☆ 「何ですか? この焦げ臭い匂いは? そこの蔵の中に誰かいるのですね?」 「ちが、違う! 話を……!」 俺は使用人の前に立ちはだかるが、使用人は俺の体を無理矢理退かすと勢い良く扉を開ける。蔵の扉が開いた瞬間、炎上する炎が使用人の顔面半分を焼いた。 「ぎゃっ!? 」 真っ赤な炎と黒い煙が蔵一面を覆う。蔵の中にいる春は燃え盛る火に囲まれていてその場に取り残されていた。 「っ!?」 「……消えない……。火が……消えなっ……い」 春の髪にぼっと火が燃え移る。春は涙を零して途方に暮れていた。 「春ッ!!?」 春を助ける為に蔵の奥へ入ろうとした。だが、使用人に羽交い締めにされて自分の行動を強制的に止められる。 「夏乃様! 危ないです!! それ以上、近づかないで下さい!」 「離せ! 離せよっ!! まだ蔵の中に春が!! 春が!! やめろ!! 離せぇぇぇぇぇぇ!!」 俺の叫び声は火の燃え盛る音によって吸い込まれていった。何度、春の名を呼んだのか覚えてはいない。 ☆ 「村の子供が二人も事件で……? 不吉ね」 「夏乃様と接点があった子供でしょう?」 「夏乃様に何か粗相を働いたんじゃないかしら?」 「罰当たりな事を? 何だか。まるで……祟りみたいね」 村を歩く度に聞こえる噂話は針のむしろのようだった。 村民たちは春と彰人が原因だと言う。 違う。違う違う違う。そう言いたいのに、そう叫びたいのに、言葉が詰まる。そう原因は全て……俺が悪いんだ。なのに、どうして村民たちは俺を責めないのだろう。逃げ出したい。この村から。一刻も早く。だが、何処までも村そのものは俺を追い掛けて来る。逃げる事は決して許されない。 ☆ 夜。鈴虫が鳴いている。その音を頼りに、童謡の歌を歌っていた。うろ覚えだが、歌えるこの歌は「白の縁」という名前らしい。 「はあ……」 現在。俺の気分は鬱屈としている。トーコがこの村に帰って来たことで俺は春と彰人の事を思い出していた。振り返りたくはない記憶。真っ黒に塗り潰して忘れ去りたい記憶。未だにあの時の赤い炎は網膜から離れる事はない。 俺は背後から抱き締められた。ふわっと花の香りがする。いつもの彼女の所作に慣れきった俺はもう無駄な抵抗はしなかった。言葉を詰まらせて舌打ちをする。深杜はくすりと微笑んだ。 「……またあの歌を歌っているの? 夏乃」 「……っ」 凛とした声で俺をじっと愛おしそうに見つめる。俺にしか見える事のない、この神社に祀られている女神、深杜は手を俺の体に回したまま、再度、ぎゅっと優しく抱き絞め直した。 「何か考え事?」 「……人の心を読むな……っ」 イライラしながら答えると、背後にいる深杜はまた微笑む。姿形はこんなにも綺麗なのにも関わらず、俺にとっては災いの元でしかない。 「別に読んでいないわ。読まなくても顔に書いてあるわよ」 「神通力で頻繁に人の心を読む癖に。良く言う……」 「あの子の事を考えているのね。そんなにあの子が気掛かり? そうね……」 途端に深杜の眉間に皺が寄った。不機嫌になった瞬間に俺は勢い良く立ち上がって叫ぶ。 「トーコには手を出すな! 俺の家族にも……村の人達にもだ!」 「ふっ……ふふふふっ……。まだ何も言ってないわよ」 俯く深杜はくすくすと含み笑いをした後に顔を上げてじっとりと俺を睨みつける。好戦的な笑みに俺は体が震えた。 「……っ」 「何度も言っているでしょう。夏乃。私と……約束、したものね?」 約束という、二文字に体が固まる。そうだ。俺はこの女神と約束をしたのだ。俺が十歳の時に。俺はあの時、人生最大の過失を犯した。 首を傾げる深杜に俺はぐつぐつと煮え滾る怒りを抑えながら言葉を続けた。 「……ああ。今も昔もこれからも……ずっと。俺は……お前の約束を守っている。破った事は一度もないよな? 深杜」 「そうね」 「なのに、春と彰人を向こうに連れて行ったのは、どうしてなんだよ!? いい加減、答えろよ!?」 「対価をくれるなら答えるわ」 平然と涼やかに言う深杜に俺はもう何も言い返しはしなかった。 「……っ。分かった。もういい……」 「夏乃。これ頂戴」 トーコから貰ったキーホルダーを奪われて手を伸ばすが、一足遅く、深杜の手の中で音を立てて砕け散る。 「あ……返せよっ」 「……貴方には要らないモノでしょ? こんなモノ……魔除けにすらならないわ」 「……トーコを向こうに連れて行くなら、俺を連れて行けばいいだろう? 何故、そうしない?」 「夏乃があの日、私に約束したからよ。夏乃が天寿を全うするまで私は貴方を守らなければならないの。契約の時に夏乃がそう言ったからね」 「契約の内容を……」 「契約の撤回は出来ないわ。そういう決まりになっているの」 俺の心許ない発言を深杜は遮った。 「……本っ当にやめてくれっ! トーコには何もするな!」 「なら、あの子とは深く関わらないで頂戴。夏乃、分かった……?」 「……っ。分かった……っ」 力んでいた腕を力なくだらりと落とす。乾いた口調で諦めたようにそう言うしかなかった。 【続く】
【欟乃華】秋の聲
嫌な事から全て、逃げ続ける私。あらゆる事に立ち向かわない私。 窓の外は、紅葉の景色が広がっていた。涼しい秋風が髪をふわりと揺らす中、衣替えしたばかりの長袖のセーラー服がまだ着慣れない。 私には、腹違いの年の離れた兄がいる。私が生まれる前に兄の実母は病死していて、父は私の母と再婚したらしい。私は何不自由なく、この家で育った。兄の自室の扉を数回ノックする。私は内心、いつもこの数秒間、意味もなく緊張してしまう。 「誰?」 いつだって、兄は穏やかで他者を安心させる声音で人と関わろうとする。人間不信なのに。いや、人間不信だからこそ、その笑顔を絶やさない。 「刹那です。お見舞いに来ました。終夜兄さん」 「どうぞ」 「……昨日、倒れたと聞きました」 扉を開けた後、兄はベッドの上に座っていた。ベッド周りに原稿用紙の切れ端と万年筆が転がっていて、倒れても仕事をする生真面目な兄に、むっとした。私と目が合うなり、にこりと微笑む兄は、いつも通りだ。 「今は大丈夫。問題ないよ。いつもの事だ。心臓が弱いというのは難儀だよねえ。……ねえ、僕の代わりに朝ごはんを食べてくれない?」 テーブルに置かれた食事を目でさしながら兄は困っていないのに、困り顔を表情に浮かべながらまた笑う。 「ちゃんと自分で食べて下さい」 「使用人が五月蝿いんだもの……」 「えっと……」 返答に困っていると、兄の方から「ねえ」とまた声を掛けられた。開けっ放しの窓から入って来る秋風、ざあっと音を立てて揺れる木々を見つめながら兄はその笑顔に影を含ませる。 「余り僕の部屋にいると、義母さんが良く思わないだろうから、もう行きなよ」 兄と私の母は折り合いが悪い。私が生まれる前から。兄は兄の実母に良く似ているらしく、母はずっと兄を疎ましく思っていた。それは私も知っている。 「はい。学校に行って来ます」 「気をつけて。行ってらっしゃい。刹那」 緩慢な動作で手を振って見送る兄に私は会釈をして部屋を退室した。扉の開閉音の後、視線の気配を感じて反射的に見上げた。母だ。二階のバルコニーから母が私を見下ろしていた。冷酷な瞳で。背中に氷を落とされたような錯覚の後、ぞわりと鳥肌が立ち、その場から駆け足で立ち去った。 ☆ 「僕の妹だよ。……可愛らしいでしょう? 更紗」 「……ああ、そう」 窓の外に鞄を持って学校へ向かう妹の後ろ姿を見守りながら微笑む。壁側に立つ無表情の着物姿の女性は素っ気ない反応を取る。彼女を知らない、無関係な他者が彼女の表情を伺ったら彼女の真意は汲み取れないだろうとも思う。 「そんなにむっとしなくても。不服かい?」 「その話は耳にタコが出来る程聞いた」 「そうだっけ……?」 首を傾げて万年筆の筆を紙に走らせる僕をじっと見つめる彼女は、人の姿をしているが、人ではない。人とは異なる者だ。 浅葱色の生地に桜が咲き誇る模様の着物に身を纏った、色素の薄い銀色の長髪を三つ編みにまとめて結っている。一言で言い表すなら優美という言葉が相応しいのではないだろうか。 不満そうな更紗に「大丈夫だよ」と微笑み掛けて、場の沈黙を打ち消した。タイミング良く木々の揺れる音が、場の沈黙が続かないようにしてくれる。 「心配しなくても、約束は守るから。……安心して?」 ☆ 子供の頃から奇妙で不可思議なモノを見た。 普通の人には見えない者。物心つく頃には見えない者と人との区別がつかなくて苦労した。見え過ぎるというのは、いい事ばかりではない。 「ねえ、一人で何してるの? 一緒に遊ぼうよ」 小学校に上がる前の幼少期、公園の砂場で遊んでいたら同い年の子供に話し掛けられて一緒に遊んだ。砂場で砂の城を作り、トンネルを作って手を繋いだ時、近所の人に声を掛けられたのだ。 「あ、おばさん。こんにちは」 「終夜君。もう夕方だからお家に帰りなさい。一人だとお母さんが心配するだろうから」 「え」 目の前に座っている子供はきょとんとして微笑んでいる。近所の人の一言で凍りつく僕はその場で呆然とした。公園で一緒に遊んでいた子供は、人ではなかった。 ☆ 無我夢中で林道を走った。第六感というのだろうか。 中学生にもなると、目利きが出来るようになる。ソレが善いものなのか、悪いものなのか、判別がつくようになった。目が合っただけで悪いものに襲われるのはもう日常茶飯事の事で。自分を襲って追い掛け回してどうするのか? と思った。 「お前を食いたい。美味そうだ」 その言葉だけで答えは明白だ。何処にいても逃げられない。どうする事も出来ない袋小路の頃。そんな時に出会った、人ではない類いの者と名乗る、更紗と。 「貴方に懸想しています。わたくしと契りを交わして下されば、生涯守ります。貴方の事を」 懸想という言葉の意味を、後で知った。 更紗は嘘を吐いていない。自分はもう逃げられない宿命なのだろう。黒からも白からも。 追い詰められた果てにした約束。それしか道が残されていなかった。だが、契約後に漸く更紗の考えが分かったのだ。仮に自分が契約を拒否したとしてもいずれ契約せざるえないように仕向けていた。悪い者を自分に襲わせて、自分を危険に晒すようにする事で。 「終夜お兄ちゃん。ねえ。誰と話しているの?」 妹には、見えない。何も。この子にだけは、知られたくはない。真実を。 ☆ 「体は大丈夫ですか?」 刹那の声にはっと我に返った。物思いに耽っている場合ではないなと作り笑いを自分の顔に貼り付けた。庭の椅子に座り、ぼんやりとしていたところ、妹の足音に気づく事が出来なかった。 「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」 妹の指に視線がいった。絆創膏を貼っている。それはいい。妹の指に自分にしか分からない気配を感じた。 「指、どうしたの?」 「あ、紙で切っただけです」 「そう……」 心穏やかではなかった。だが、取り繕うように話題を変える。 「近くに雑貨屋さんが出来たそうだよ。綺麗なものが多そうだ。万年筆を見たいな……」 「終夜兄さんは、いつも何処か一人きりで侘しそうです」 姿勢の悪い妹は俯いたまま、僕に向かって呟いた。妹の瞳は透き通るように綺麗で。僕は内心、罰が悪かった。それが図星だったから。 「そう見えるかい?」 「はい」 刹那は僕と目を合わせて言う。どうやら僕に何かを言われるのではないか? と心中不安だったようだ。僕は数秒思案する。 「人よりも人じゃない者の方が信用出来るからかな」 妹の的確な物言いにこんな言葉でしか返せない、不甲斐なき自分。ほとほと自己嫌悪が過ぎるなと思う。のらりくらりとやり過ごす自分の処世術は余り好きにはなれなかった。 「どういう……意味ですか?」 「人の心程、頼りにならないものはないよ。人間は、約束事を破る生き物だからね」 妹の言葉に自分は驚きを感じられない。どう返答するのかが読めたからだ。 「終夜兄さんは、人じゃない者が見えるのですか……?」 沈黙の後、秋風が追い掛けるように吹く。また風が止んだ沈黙の後に僕は笑顔を浮かべる事しか出来なくて。妹は心許ない表情をする。今の自分は憂いのある微笑を浮かべているに違いない。 「何か……辛い事でも?」 「じゃあ、仮に、僕に困り事があったとして、事情を全て吐露したら、刹那は僕を助けてくれるのかい?」 妹は口を噤んで俯いた。何も言えなくしたのは自分だ。それでも罰が悪い。こんな兄をどうか許して欲しいと思う。それでも妹を自分から遠ざけるのは、どうしてもこの子を守りたいから。 「人の君に、何が出来るというの?」 「…………死にたいのですか?」 「迎えが来るのを待っているだけだよ」 数秒の沈黙の後、そう言い残してから立ち上がると踵を返した。妹の表情は伺う事が出来ず、逃げるようにその場から去る事しか出来なかった。 ☆ 「嫉妬っていい事ばかりじゃないと思うよ」 「何?」 自室で更紗に切り捨てるように冷たく言い放った。更紗の顔色は変わらない。 「妹には危害を加えないで。妹の指の怪我、更紗が何かしたんだろ」 「何もしてない」 「嘘をつくな」 目を逸らす更紗に、無理矢理、更紗と目を合わせるように胸ぐらを掴んだ。掴む手を緩めて離した後、一瞬考えて僕からある提案をする。 「何の嫌がらせ? 約束は守るよ。そんなに焦るなら、さっさと僕を連れて行けばいいだろう」 ☆ 私に兄の世界は分からない。いつも笑顔を絶やさない穏やかな兄。 もしかしたら、私の想像以上に兄が思い詰めているとしたら? 自分に何か兄に出来る事はないだろうか? その悩みを、事柄を、打ち明けて欲しい。私に。 だったら、私に出来る事をすればいい。 「お父さん。お仕事が忙しいのにごめんなさい」 「刹那か。珍しいな。用件は何だ?」 兄と別れた後、父の書斎に向かった私は、厳格な父に萎縮しながらも自分の決めた事を懸命に言った。自分の意志を。 「短期間だけでいいので、アルバイトがしたいです」 もう秋の季節は終わり、冬になる。冬の時期は終夜兄さんの誕生日が来る。それまでにお金を貯めて贈り物をしようと思った。 年賀状を仕分けする短期間の郵便局のアルバイトはあっという間に終わった。でも、その時間は濃くて。どんなに世間知らずで恥をかいたとしても逃げたくはなかった。兄の為に。自分の為に。 兄の見る世界は、景色は、私には分からない。 自分に出来る事は限られている。 出来ない事の方が多いけれど。 自分に出来る事はある。絶対に。 ☆ 「あの……この万年筆、プレゼント用に包めますか?」 喜んでくれるだろうか? と思いながら雑貨屋に長時間居座る形で兄の贈り物を選んだ。 帰宅した玄関先で血相変えた使用人に呼ばれて、母の自室へ向かった。母が自分を呼んでいると。それだけしか言わない使用人の顔色は青ざめていた。状況が読めない私は不安の感情が胸の中に滲む中、不思議に思いながらも足を進める。 「え。終夜兄さんが……亡くなった……?」 亡くなった名前を出された、確かに耳で拾ったのに、何かの間違いではないか? と思う。今、私の足は、現実の地に立っているのか? とすら疑う。 「そうよ。これからお通夜だから。本当に良かった。不気味な子がいなくなって清々するわ」 母の本音から置いてきぼりになった意識は引き戻され、気がつけば声を荒らげていた。 「お母さん! 私も行く!」 「刹那は家で待っていなさい」 「どうして!」 「自殺だから」 「!?」 もうそれ以上、二の句が告げなくなり、その場に蹲る形で何も出来なくなった。母は使用人を呼び、駆けつけて来た使用人に何度も呼ばれるが、呆然とする他なくて。どうやって自室まで戻って、ベッドに入ったのか、もう記憶がない。 ☆ どうして? 終夜兄さん、どうしてですか? 「刹那、これから学校かい?」 「はい」 今朝、玄関先で靴を履いていると兄に呼び止められた。変わらず兄は笑顔で、何処となく、疲労が表情に出ている雰囲気で。私の疑問に答えるように兄は口を開く。 「徹夜明けでね。やっと仕事が終わったよ」 「お疲れ様です」 「ありがとう。これから寝るよ。気をつけてね。行ってらっしゃい」 「行って来ます」 いつも通りだった。いつも通り過ぎて気づけなかった。 「……っ」 兄の苦しみに。 ☆ 「ごめんね。刹那」 兄の声音に顔を上げた。ああ、自分は今まで眠っていたのだと思う。 申し訳なさそうな、罰の悪そうな兄の横には、知らない女の人。 その女性が手のひらを差し出して、兄はその手を掴む。 女性と兄の後ろ姿は徐々に消えて行く。 直感で、兄が、連れて行かれる、と思った。 兄を繋ぎ止めたくて、必死に手を伸ばした。 「兄さん! 待って! 私! 行かないで!!!」 「……ごめん」 兄の謝罪を耳で拾った時には、もう女性も兄の姿も消えていた。 私は兄の表情を見て、兄は行きたくて行く訳ではなかったのだと悟る。 本意ではなかったのかもしれない。 「貴方が、終夜兄さんを連れて行ったんだろう!? 返せ! 終夜兄さんを返せええええええええ!!!!」 今は冬の筈なのに、紅葉が広がる木々に、木々が揺れる風の音と共に私は叫んだ。叫び続けた。そして、自分の叫び声で夢から覚めたのだ。 「終夜兄さん。どうして……?」 雀の囀りを聞いて、人がこの世を去ったとしても変わらず、朝は訪れるし、空腹になるのだと悟った。悟った瞬間、意味もなく涙が零れた。これが現実なのだと、私はひたすらに思い知る。 ☆ 「すまない。巻き込みたくはなかった。どうか許して欲しい」 兄の葬式が静かに終わった後、父が届けてくれた手紙。兄からの遺書は一言だけ。私は最後まで何に関する事なのかがさっぱり分からなかった。 唯一、分かる事は一つだけ。 私は、兄を助けられなかった。 兄は兄なりに、心の何処かで助けを求めていた。 その気持ちを隠し続けたのは、兄なりの思い遣り。 私は気づけなかった。気づく事が出来なかった。どうしても。 兄の見えない気遣いにまで。 いつだって、私は終夜兄さんに守られている。 いつだって、私は逃げている。この家からも、冷たい薄情な母からも。 あの時、ああしていれば、良かったなんてものはこの世には通用しない。 あの時、どうしていれば、何が、正解だったのだろう? 私は兄の世界を少しでも見たかった。 今の自分に分かる事は、私はこの思いを抱えて、生きていかなければならないのだということ。ただ、それだけ。 「刹那さん。今、大丈夫?」 母の声音の後、私は自室の扉を開けてから母に向かって微笑んだ。 「はい。何でしょう? お母さん」 兄に渡せなかった贈り物の万年筆は机の上に飾ってある。 いつでも眺められて、あの時の気持ちを忘れないように。
【はじめアキラ】ありがとな。
七月二十五日 どようび はれ 今日から、なつやすみです。 先生が、なつやすみのしゅくだいで日記をかいてくださいと言ったので、ぼくも日記をかこうとおもいます。 あんまりじょうずじゃないけど、でも、できればいっぱいかけるといいなとおもってます。 まえに、ママに字がきたないとしかられたので、がんばってていねいにかきます。 でも、日記なんかやったことがないので、何を書けばいいのかよくわかりません。 今日のできごとをかくといいと先生はいってました。おうちのこととか、お出かけしたこととか、そういうのをかけばいいそうです。 でも、ぼくはあんまりお出かけしないので、お出かけのはなしはかけないと思います。 もし、パパが生きててくれたら、どうぶつえんとか、お出かけできたのかなあ。 ママはいっつも、おしごとでいそがしいです。 *** 七月二十六日 にちようび はれ きょうもママはおしごとです。 とってもあついので、まどをあけました。エアコンをせつやくしないとママにしかられるので、あついけどガマンです。 そしたら、まどから黒いねこさんが入ってきました。もふもふですっごくカワイイです。ぼくがナデナデすると、ゴロゴロとのどをならしてよろこんでくれました。 黒いねこさんだから、きっとぼくよりもあつくてタイヘンなんだとおもいます。ぼくは、せんぷうきの風をあててあげました。 せんぷうきなら、そんなにでんきだいもかからないので、きっとママもおこらないとおもいます。 でもねこさんを入れたらおこられるかもしれないので、今日は、ねこさんがおうちに帰ってから、そうじきをかけようと思います。 ねこさんの毛がおちてたらおこられちゃうかもしれません。 ねこさんはすごくあつそうだったので、れいぞうこのぎゅうにゅうをあげました。 ちょっとしかないけど、ねこさんにあげたぶん、ぼくがガマンすればだいじょうぶです。 *** 七月二十七日 げつようび はれ きょうもとってもいそがしいです。 まどをあけてると、ねこさんがきょうも来ました。ぼくのおうちが気に入ったのかな? でも、あんまりすずしくないおうちだけど、ねこさんはいいのかな? ねこさんの体をさわったら、すっごくあつかったです。 ママはおこるかもしれないけど、ねこさんのためには、エアコンをつけたほうがいいのかも。ねこさんが、ねっちゅうしょうになっちゃったらカワイソウです。 ぼくは、エアコンをつけてあげました。ねこさんはうれしそうに、にゃあ、と言っていました。 今日もママはおしごとで、夜までかえってきません。だから、夜になるまえにエアコンをきって、ねこさんをおうちに返してあげればきっとだいじょうぶです。 ぼくは、コンビニでにぼしをかってきました。 ぼくのきょうのばんごはんのお金だったけど、ねこさんがおなかすいた方がいやなのでがまんです。 お水はあるので、 一回くらいたべなくてもだいじょうぶ。 *** 七月二十八日 かようび くもり きょうはくもっているので、ちょっとだけおんどがマシです。 ねこさんは今日は来てくれませんでした。しょうじき、とってもさみしいです。 ひょっとしたら、ねこさんには他にもたくさんおうちがあるのかもしれません。自由にお外を歩いて、いろんなところにいけてうらやましいな。ぼくも、いろんなところに行きたいのに、ママがだめだって言います。 かいものいがいでお出かけしたら、ヘンだと思われるからだめだそうです。あと、おうちのせんたくとか、ごはんのじゅんびとか、ぼくがやらないといけないのでダメなのです。ママはとてもいそがしいので、しかたありません。 今日はママが家にいてくれてうれしかったけど、今日はおうちでおしごとなので、にかいのおへやに来るなと言われました。 男の人がいっしょでした。ママは、男の人と、おしごとをするそうです。 ぜんぜん下に来てくれないのでしんぱいでへやの前までいったら、ママがなんだかないてました。ベッドがぎしぎしなっていて、ママはくるしそうだったけど、だいじょうぶかな?中をみようと思ったら、カギがかかっていて開けられませんでした。 おしごとの男の人がいっしょにいるから、だいじょうぶだよね? *** 七月二十九日 すいようび はれ きょうも、ママはにかいで男の人とおしごとです。 ぜったいに来るなとしかられてしまいました。それから、やっぱりエアコンはつけたらもったいないからつけちゃだめだそうです。ママのいるおへやはとてもすずしかったので、うらやましいと思いました。ぼくも、すずしいところにいたいけど、ダメだそうです。 ごはんを買うお金がなくなってきたので、ママにもうちょっとお金をちょうだいと言いたかったけど、ママはおへやにはいってカギをかけちゃったので、お話ができませんでした。 もうパンものこってないし、おにぎりを買ったらきょうのばんごはんがないです。どうしようかすごくこまってしまいました。 しかたないので、今日もまどをあけたら、ねこさんがきました。 ねこさんごめんね。今日は、エアコンつけてあげられないよ、と言ったらねこさんがふくろをくわえてました。スーパーのふくろです。なかに、スイカのかけらが入ってました。 ぼくにくれるの?と言ったらにゃあ、とないてくれました。ぼくはねこさんといっしょにわけわけしました。 あんまりにもおいしくて、泣いてしまったです。 スイカって、きゅうしょくでしか食べたことなかったけど、こんなにおいしかったんだ! *** 七月三十日 もくようび はれ 今日は、ママはお外でおしごとです。 まどを開けたらねこさんがきたので、今日はねこさんのためにエアコンをつけました。 ねこさんが、今日はスーパーのふくろにはいったたまごを持ってきてくれました。どこかでだれかにもらったんでしょうか?さすがに、スーパーのふくろにはいったじょうたいで、ねこさんがぬすむのはムリだとおもうので、きっとくれる人がいるんだとおもいます。 ぼくはねこさんにありがとうと言って、めだまやきを作りました。とってもおいしかったです。 きのう、ごはんのお金がないから、もっとお金をくださいとママに言ったら、ものすごくおこられてしまいました。 ぼくがムダづかいするからだめなんだと言われました。でも、どうすれば、セツヤクができるのか、ぼくにはよくわかりません。 さいきん、ママはぼくといっしょにごはんをたべません。ママはどこかでごはんを食べているのでしょうか。このあいだは、やきにくみたいなニオイがしました。ぼくは、やきにくを食べたことがほとんどありません。いつか、ぼくにも食べさせてもらえるでしょうか。 お金があったら、ねこさんにも、おいしいごはんをあげられるのに。 ぼくも、さいきん、すごく目がぐるぐるします。おそうじしないといけないのに、こまってます。 *** 七月三十一日 きんようび はれ ママにエアコンをこっそりつけてたことがばれちゃった お金のむだづかいはだめだっておこられちゃった ママ、ごめんなさい ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい *** 八月一日 どようび あめ エアコンのリモコン、かくされちゃった ねこさんごめんね。まどもあけちゃだめだって。ぼくが外ににげたらだめだからって。 どうしよう、ねこさん、あそびにきてくれてるのに、入れてあげられない。どうしよう。かおがいたい。水でひやしたらなんとかなるかな。 そしたら、ねこさん、まどをすりぬけて入ってきた。すごい。 ねこさんが、ぼくの顔をなめてくれました。ざらざらしてるのに、ママになぐられたとこ、あんまりいたくなくなった。すごい。 ねこさん、今日はぎゅうにゅうと、パンをもってきてくれた。 いつもどこからもってきてくれるの?って聞いたけど、ねこさんはしゃべれないからムリかな。 ぼく、君が、ほんとうのかぞくだったらよかったのにな。 *** 八月二日 にちようび あめ ねこさんを家にいれたの、ママにばれた。 ママがおこってねこさんをけろうとしたから止めたら、ぼくがけられた。 おまえがじゃまだって。 おまえがいるせいでケッコンできないんだって。 おまえがいなくなればいいんだって言われた。なんで?ママ、ぼくのこと好きじゃないの?ぼく、ここしか、おうちないのに。出ていけって言われても、どうすればいいの? そう言ったら、頭をつくえにぶつけられた。血が出た。いたい。 しねって言われて、ママが、イスをふりあげて きづいたら、ママがたおれてた。 ねこさんが、ママをばりばり食べてた。 ねこさん ねこさんって、しゃべれたの?ありがとな、って。 *** 八月三日 月曜日 晴 おい、この日記を読んでる教師。いや、他の誰でもいい、大人ども、聞いてるか? 此処に書かれてることが全てだ。俺様が何かを言わなくてもわかるよな?お前らの中には、こいつがどんな目に遭ってるか知ってて見て見ぬふりしてた馬鹿もいるんだろう。ふざけてんじゃねえぞ。俺様が見つけなかったら、こいつはとっくの昔に死んでた。そうなったら、お前ら誰も責任なんか取れねえだろうが。 この日記を見ても何もしねえってなら、もうお前ら人間なんかにゃ期待しねえよ。 こいつは俺の仲間にする。 次に会った時、お前らの敵になってるかもしれねえが、そんなもんは知らねえな。 自業自得だぜ、ざまあみろ
【こびとの靴屋さん】手記
ーーこの手記を持つ者、彼がいなくなった時、名乗り出て欲しい。 これを書き残す事は不敬になるだろう。 だが、記さずにはいられなかったーーおそらく、これは語られる事の無い、この国の真実だから。 旦那様が跡目争いに大敗し、一族郎党を乗せた船はこの流刑地に流された。 船から降り立ち、最初に目にしたのは高い山に囲まれた不毛の大地を何やらかきむしる人々の姿だった。 やがて、そこかしらで聞こえる、呻き声。 身体のどこかしらが獣ーーとは違うものもあっただろうが、よくわからないものに変わる者、それは1種類だけではなく、複数の獣の手足が生える者、頭や背中からツノや羽根が生える者は皮膚を突き破って、それらが突き出している。 多くは息も絶え絶えで苦悶の表情を浮かべていた。 明らかに絶命してる者もいる。 旦那様は異形との理由で、兵に命じ、それ等に槍を突き立て、火を放つ。 火種が出来れば、そこに次々と放り込み、燻った臭いがする。 坊ちゃまが旦那様に楯突いた。 旦那様が手を上げるのが見えた瞬間、坊ちゃまを抱えて走り出した。 早く、早く、この地獄から坊ちゃまを引き離したかった。 それだけが頭にあった。安全な場所など何処にも無いというのに。 背後で幼い子どもの悲鳴が聞こえた。 槍を突かれ、火の中に投げ入れられたのだろう。 熱い、熱い、と。 そのまま消え入る筈の声がーー獣の咆哮に変わった。 見上げた先にいたのは神話に描かれたドラゴンが山を砕き、砕けた破片が雨あられとなって降り注ぐ。 坊ちゃまを抱え、這いつくばってでも、この場を離れなければ、とその一心で無我夢中だった。 気付くと、かつての看守等が使っていたであろう建物が見えた。 振り返ると山は無くなり、緑豊かな大地が広がっていた。 どさり、と音がした。 音の方を振り返ると、そこに1人の子どもがいた。 頭に山羊のような渦を巻いたツノが生え、背中には蝙蝠のような羽根が生えていた。 一目で、異形のソレ、とわかった。身体は動けないだろうが、眼は獰猛な獣の眼をしていた。 坊ちゃまが近付き、ソレに手を差し伸べた。償わせてくれ、と。 館は年月や潮風の影響も少なく、多少の手入れをする程度で人が住むには十分な状態だった。 旦那様は一連の出来事を『神の奇跡』とし、我々はこの『奇跡』を広める為にやってきた宣教師とーーそれが後の宗教国家の礎になった。 ソレーーいつの間にかツノと羽根が無くなり、少年を保護した。 旦那様は屋敷に保護されてるとは露ほど思わぬだろう。 旦那様が気にされるのは坊ちゃまの仕事の事だけ。親に使い潰されるのは何とも不憫で仕方ないが、使用人風情が意見など出来る筈もなく、ただ使われるのを見てるしかない。なんとも歯痒い。 ……やれやれ、この屋敷にはお人好しが多いみたいだ。 少年は数日、熱にうなされた。 持参した薬を飲ませるも効いてるのかわからない。 この国ーー新たに出来た大地の上に形成された中心街周辺の植物は異常な速さで成長する為、食糧には困らないのはありがたいが、植物の生態系が違う為、持参した植物図鑑が役に立たない。 持参した薬が切れた場合、郊外で買い付けるしかない。 その前に少年の熱は引き、数日後には元気に走り回るまでに回復した。 回復するなり、少年は屋敷から姿を消した。 坊ちゃまに報告すると、坊ちゃまは決まって、こう仰られる。 "腕の立つのを連れて来て欲しい”と。 少年は決まって、闘技場や腕試しの場に現れ、勝ち登る。 全て倒し、歓声が上がる中心にいる。 賞賛の拍手を送り、事実を述べ、主人がお待ちです、と伝えると嬉々としてついてくる。やがて、顔を見るだけで、苦い顔をするようになったが、連れ立って屋敷に戻る。 そんなやりとりが幾度と続いた、ある日、彼奴が珍しく、文字をおしえろ、と言ってきた。 珍しい事もあるのだな、と思い、文字を教えると、飲み込みがよく、読み書きが出来るようになる頃には我々が持ち込んだ、あの、役に立たない、植物図鑑を読み耽る姿が目撃された。 ーー彼奴が消えた。 昨今では闘技場を開いている所などない。 手掛かりがない中、老体に鞭打って彼奴を探さなければならない。 飲食店をしらみ潰しに探すか、全く骨が折れそうだ。 ーー……カラカラ…… 何やら乾いた、ーー骨のような音が聞こえた。 藁にも縋る思いで、思わず、口走っていた。 彼奴はどこだ、教えてくれ、と。 郊外の草原に彼奴はいた。 何かを燃したのだろうか、燻った臭いが鼻をつく。 事務的に、坊ちゃまがお待ちだ、屋敷に戻るぞ、と伝えると、彼奴は無言でついて来た。 命の灯火が尽きようとしていた。 だからだろうか、このような手記を書き残そうと思い、筆を取った。 ああ、目が霞む。 願わくば、この手記を持つ者、彼奴がいなくなった時、名乗り出て欲しい。
【マルゲリータ】七月二十二日の憂鬱
朝方、親友の零が死んだと聞かされた。死因は刺殺。意外と感情は湧かなかった。夏休み前ということもあり、毎日暑い日々を過ごしていたがそんなことは忘れてしまうくらい衝撃的で同時に虚しくもあった。現実は受け入れていたが、それでも目の前は暗く感じた。普段なら学校に行っていたが、今日は行く気にはなれなかった。 朝食も摂れなかった。あの日、何故一緒に帰らなかったのか後悔だけが押し寄せて来る。なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。いくら壁に頭を打ち付けても答えは出なかった。死神なんてこの世に居なければ、僕と零が親友にならなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。そう考えることにした。 昼時、今日の夜通夜が行われると言われた。零の顔を見るのは行方不明になった1週間以来だ。殺されたと聞いたが、安らかな顔をしているだろうか。そんなことを思いながら、零が好きだったゲームを遊んでみた。滅多にゲームをしない僕がゲームに触れた。最初はタジタジだったが、慣れてからはスラスラと進めることができた。だが、楽しいと思うことは無かった。 少し回復するために、散歩をした。真夏の暑さだったが、余り気にはならなかった。帰り道、1匹のトンボが着いてきたような気がした。零が転生して帰ってきたような気もした。だが、僕の心は晴れる気はしなかった。 帰ると、そこには駄菓子屋で売っていた零の大好物のカップアイスが置いてあった。カップアイスを見た途端、涙だけが溢れ出た。今もし神に一つ願うなら零を生き返らせて欲しい、零に再び合わせて欲しいと願う。どれだけ金欠であろうが、どれだけ辛くあろうが、アイスを食べさせてやりたい。これが零に対しての好きの感情ということなのか。 通夜の会場へ向かう途中、散歩の時に見たトンボを見た。僕に着いてきてるような感じがした。トンボに零かどうか問おうとしたが、怖くて聞くことが出来なかった。零が短い寿命の間、会いに来てくれたのだろうか。 通夜の会場に着いた。棺の中で零は清らかな顔をしていた。とても綺麗だった。そして驚く程感情が湧かなくなった。刺殺とは聞いていたが、思いのほか身体は綺麗だった。零の両親と会った。両親は僕に感謝と謝罪をした。そして手紙をくれた。手紙を読んだ途端、今まで消えていた感情が吹き返してきた。涙が少しずつ頬を濡らしていく。そして、零を追い詰めていたのが僕だと分かり、目の前が真っ黒になっていくように感じた。 俺は決意をした。そして今日が最後の日記になるだろう。明日は忙しくなるであろう。その為、今日はもう寝ることにした。