一ノ瀬奏
10 件の小説一ノ瀬奏
いちのせ かなで(Ichinose Kanade)と申します。 創作の源泉は教室に響く乾いたチョークの音とどこか遠くから聞こえる先生の声。 そんな贅沢なBGMを拵えて、本来「有意義」と言われるべきだった時間に「無意味」をつらりと重ねること、それが私にとって何よりの至福でございます。 私の奏でる不協和音が退屈極まりない日常に、「ふっ」と鼻を鳴らして笑ってしまう、どこか間の抜けていて、でも確かにそこにある「ズレ」をお届けできれば幸いです。 もっとも、私の旋律が顔も名前も知らない貴方のお耳に馴染むかどうかは保証致しかねますが。
からくれなひの答案
テストや重要な仕事の期間、突然掃除をしたくなることはございませんか? どうしてあの衝動に耐えられないのか、私なりに考えてみたのです。 きっと、整理したいのかもしれません。 やらなければいけないこと、ストレス、ごちゃごちゃする心を落ち着かせるため。 現実逃避の一環なのでしょうか。 現在私のお部屋は、汚部屋。 テスト前になるとめっきり、掃除という概念を忘れてしまいます。 その代わり、と言ってはなんですが、テスト前になると決まって小説のネタが降ってくるのです。 そんなの無視して勉強しよう、小説なんかいつでも書ける。 そういう冷静さが血液と一緒に脳を巡ります。 ですが、その血液が身体を一周する間にあれよあれよと思考は濁ってしまう。 愚か、という言葉は私のためにあるのでしょう。 私はそのネタに乗せられて、テスト勉強なんか放って創作に没頭してしまうんですもの。 私の答案が紅く染まるのはいつか、とヒヤヒヤします。 そうなったら、それはそれでいいネタになりそうですね。
おでこのニキビは恋の予感?
少女漫画のヒロインって、誰もが憧れるでしょ? もちろん私もそう!そう、なんだけど。 バッ!! 「やっばい!!時間ない!!」 鏡に映るのは寝癖で爆発した髪に、夜ふかしでできてしまったクマに、おでこにできた馬鹿でかいニキビ。 こんなんで学校行けるわけない、けど、新学年初日で休むのもなんかやだ!! ピーンポーン 「げ、もしかして、」 うまく着れていない制服のまま、ニキビを隠そうとする私の背後から不穏なチャイムが響く。 奏多だ。うざい幼馴染の。 「おーい、朱莉ぃ〜早く出ないと電車乗れねぇぞー」 ニヤけたような、揶揄うような声と共にドアが開いた。 ガチャ 「何してんの?朱莉?別にどんだけ髪に時間かけたって誰もお前のこと、、」 奏多が私のおでこに視線をやる。 ぷっ 「何お前、仏様かなんかなの?」 奏多は吹き出して腹を抱えて笑った。 「うーるーさーい!!もう!!早く行くよ!!」 うまく前髪で隠して、奏多よりも先に部屋を飛び出す。 「おい!呼びにきてやったんだから置いてくなよ!!」 奏多は焦った顔をして駆け足で着いてきた。 「仏の朱莉様に反論ですか〜?」 ポニーテールを揺らしながら後ろを振り向く。 奏多が一瞬立ち止まって目を見開いた。 「はいはーい、すみませんでしたぁ〜」 かと思うと、すぐにいつも通りの顔で、ニヤ、と流し目を送ってくる。 そういえば、背、すごく高くなったな。幼稚園の時は私よりチビだったくせに。 寒さかなんだかよくわからないけど真っ赤になっている奏多の耳を横目に足を早めた。
パッシブスキル:諸行無常
鎌倉仏教はとても興味深いこと、ご存知ですか? 浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗。 一休さんは臨済宗のお坊さんだそうですよ。 臨済宗では、坐禅を組んで公案と呼ばれる無理難題を考えるそうです。 一休さんの考えるとんちなんて、答えがあるから簡単な方だそうで。 例えば、突然、師から紙切れ一枚を渡される。 正解はそれを窓の外へ投げ捨てる。 どこからその理論がきているか全然わからなくて面白いですね。 鎌倉仏教の中でもとりわけ私が惹かれるのが、浄土真宗なのです。 浄土真宗の特色に『悪人正機』というのがございます。 まぁ言葉の意味だけで言うと、悪い奴ほど救われるぜ、という、なんとも飛躍した考え。 掘り下げてみると、納得できるような道理があるのですが、これだけ聞くと、何を言ってんの、と思ってしまいますね。 願ったもん勝ち。 それが浄土真宗な訳ですが、もしそうだとしたら私はとっくに世界を牛耳る支配者になっているか、石油王と結婚しているような気がします。 もし私が世界の支配者になったら、私の誕生月は一ヶ月間祝月にしたいです。 みんなで休もうマンスということで。 まぁ、そうなっていないということは私は所詮、中途半端な善人なのでしょう。 善人ならそれで良い気すらしてきます。 デフォルトではうまくいかないのが人生。 苦労というパッシブスキルを抱えながら、幸せへいばら道を通って向かう。 大きな幸せを受け取ったと思えば足元の棘に足を突かれる。 諸行無常ですね。
刺青の刻まれた肌でココアを
こんな私でも、好きな作家はいます。 「青山美智子」と「谷崎潤一郎」 異色すぎると思われますが、ここには深い事情があるのです。 と言ってはみるものの理屈は簡単。 小説を書こうと思わせてくれた人。 それが谷崎潤一郎。 小説を書き始めて文体が決まってきたあたりで、感動をくれた人。 それが、青山美智子。 小説を書き始める前と後でガラリと好みが変わったのでしょうか。 それはというと、また違う気がするのです。 谷崎潤一郎の作品を読めば痺れるような耽美に心を震わせ、青山美智子の作品を読めばゆったりとした日常に心を震わせる。 美しい女性に心の全てを注ぎ込んで刺青を彫ったと思えば、マーブルカフェでココアを啜っている。 女物の着物に惹かれて女装をしたと思えば、カバヒコを撫でてリカバリーを願っている。 劇薬と飴玉をどちらも愛しているような、そんな気がしてくるわけです。 そう考えてみると、私の趣味は対極にあることが多いのです。 ラップとバラード。黒とピンク。オクラとハンバーガー。 二つの人格があるわけでもなく、表裏があるわけでもない。 常にどちらも心にあって、愛している。 人間ってそういうものなのでしょうか。 皆様のお好きな作家は、どなたですか? おすすめの作品などございましたら是非お教え願います。
春を忘るな
春眠、暁を覚えず。 そんな言葉がございますが、私は近ごろ夢うつつの日々を過ごしております。 この前なんかはけたゝましく鳴り響くアラームに苛立ってスマホの時間を見たところ、「六時半」。 「何故土曜日なのにこんな朝早く起きなきゃいけないんだ」 と二度目の深淵へ向かった矢先。 そこでハッと火曜日だと気づく。 なんてことがございました。 その時の肝の冷え様は最強寒波さながらでしたね。 まだまだ寒い日が続いているのにも関わらず、ひと足先に私の心は春へ連れ去られてしまっているようです。 季節といえば、毎年思うことがございます。 夏になると、 「冬が恋しい」 冬になると、 「夏が恋しい」 人というのは本当にないものねだり。 その中でどれだけ満足を見つけられるか。 それこそが人生の価値なのでしょうね。 まぁ、私が一番好きなのは秋な訳ですが。
月と太陽
三日月って、コスパいいよな。 満月みたいに気を張らなくていいし、だからと言って新月みたいに暗くない。 しかも、半月よりも注目してもらえる。 三日月がモチーフのアクセサリーは定番だもんな。 彼氏との買い物の最中、女物のアクセサリーケースの前でそんなことを考える。 「深月、決まった?」 おっとりとした、あったかい声が上から降ってくる。 「これにしようかな」 そう言いながら、私が指さしたのは三日月のかわいらしいネックレス。 普段より半音高い猫撫で声。 彼氏の前でしか出ない私。 本当は、その隣にあった、丸いリングのついたやつが欲しかった。 新月みたいで私っぽかったから。 「ほんとにこれでいいの?」 太陽は、私の目をまっすぐ見て聞いてきた。 彼はいつも、私に物を買ってくれるとき、そう質問してくる。 私は決まって頬をかきながら頷くのだ。 そうすると彼は、 「ふふ、深月っぽい」 一拍おいてそう言ったあと、微笑んで私の選んだネックレスを優しくレジに持っていく。 ああ。また、言えなかった。 太陽と付き合って三ヶ月。 私はずっと、可愛い彼女を演じてきた。 アクセサリーも、メイクも、食べ物も。 かわいさを重視して選んだ。 本当は、アクセサリーだって、ボーイッシュな方が好きだ。 メイクだって肌が荒れるし、時間もかかるからしたくない。 甘いものなんか、全然好きじゃない。 「お店の外で待ってて」 そう言われたから、すぐそこにあったベンチに座る。 太陽が戻ってきた。 「はい、どうぞ」 太陽はそう言いながら可愛くラッピングされた小包みを優しく手の上に置いてくれた。 「ありがとう、家で開けようかな」 そう上目遣いで笑いかけると、彼は嬉しそうに片手を差し出してくる。 手つなご、の合図だ。 私は素直に彼の手に触れる。 彼の大きな手が私の手を包んだ。 そして、二人で歩き出す。 二人の部屋に向かって。 部屋に着いた。 二人でソファに腰かける。 彼が、 「ねぇ、プレゼント、開けてみてよ」 柔らかくて、甘い声でそう言う。 「さっき、一緒に買ったじゃん」 私はそう笑いかける。 「いいから!」 彼に促されるまま、小包みを開いた。 呼吸が止まる。 そこに入っていたのは、私が本当に欲しかった、丸いリングのついたネックレスだった。 「なんで」 思わず、いつもの猫撫で声を忘れてしまう。 「これの方が深月っぽくて素敵だったから」 彼は申し訳なさそうにこう続ける。 「いつも、無理させてたよね」 私は、何も言えなかった。 「気付いてる?深月、嘘つく時、必ず頬かくの」 私、そんな癖、あったのか。 酷いこと、したな。 ずっと騙してたのと一緒だ。 そう思って、謝ろうとする。 でも、遮るみたいに太陽は、 「俺、そんな深月も大好きだよ」 そう言って抱きしめてくれた。 そのまま耳元で、呟く。 「だけど、俺の前で、無理しないでほしいな」 私はそこでやっと口を開く。 「太陽、大好き。」
荒廃した世界で貴方と 弐
キッチン、といってもIHコンロが一つあって、小さめな水道があって、小さい冷蔵庫があるだけ。 この世界の面白いところといえば、こんなに腐敗してるっていうのに水道や電気は問題なく使えるところだ。 そのくせ携帯やパソコンは繋がらないから、金属の塊と化してて、それでバランス取ってるんだろう。 私だってここはゲームの世界なんじゃないかって何度も考えたよ。 まず、生き返るってことが自然の摂理に背いてる。 日付が変わらないのもゲームでよくある設定だし、異性と出会うってのもそう。 ネット通信以外のインフラが妙に整ってるのも、ご都合設定みたいに感じる。 でもね、それにしてはおかしいんだ。 意識は夢みたいにもやもやふわふわしていない。 もしこれが夢だったら、起きている現実を疑いもしないで当たり前みたいに生活するはずだ。この超常世界の中でも。 そのうえ、薪ストーブの熱はしっかり分かる。カビを吸い込んだ時の肺の痛みも、それから食べ物の味も。 そういえば、もうだいぶ前になってしまった昨日、買い物に行ったのは記憶に確かだから食糧がいっぱいあったはずだ。 冷蔵庫を開ける。 そこにはウインナーに、ピーマンに玉ねぎ、あとは調味料と、牛乳、それ以外にもパンとか、色々ある。 牛乳はやめとこう。たぶん、やばい。 そう直感で分かっていながら怖いもの見たさで牛乳に手を伸ばす。 恐る恐る消費期限を見た。 8/1 未だ来る気もしない日付が刻印されていて、鼻で笑ってしまう。 そうだ、別に日付関係ないんだった。 「ねぇ、もしかしてそれ、飲む気?」 いつのまにか彼はキッチンまで来ていて、やめとけ、と言わんばかりに声をひそめる。 「やめといた方がいいよ、飲んだらまた今日の朝に戻ることになるから」 彼は少しオーバーに脅してきた。 「えぇ?でも日付、大丈夫だよ?」 日付が変わらないなら食べ物だって大丈夫なはずじゃん。 「コップに出してみなよ」 彼はキッチンの縁に腕をついて眉を上げる。 彼の茶髪がふわりと揺れた。 透明なガラスコップを置いて、牛乳を注ぐ。 「うぇ、何これ」 牛乳はビビッドピンクで、カビと同じかそれ以上のきつい臭いを放っていた。 「俺もよくわかんないんだよ、他の食べ物は大丈夫だけど牛乳だけはダメみたいでさ」 じゃあなんで飲んだのよ。 「俺牛乳大好きで、牛乳パックから直接飲むのが普通だと思ってたから、気づかなくって」 彼は頭をかきながら、苦く笑う。 「あの時が一番辛かったなぁ、痛みにずっと悶えて飯食えなくて餓死だぜ?酷いよなー」 もうあれは無理無理、と顔の前で手をひらひらとさせる彼。 その姿に緊張の糸が切れた。 「ふっ、あはは!!!」 こんなに笑ったの、いつぶりだろう。 少なくとも今日になってからは初めてだ。 「もー、そんなに笑わないでよ!まじで辛いんだぞ、あれ」 彼はぷくっと頬を膨らませて訴えてくる。 「あ、そういえば、名前、聞いてなかった」 私が息を整えるのを待たず、彼から質問が飛んできた。 ふぅ、と息を整えて口を開く。 「名前、あれ?私の名前、だよね?」 自分の名前もわからないなんて。 そんなに今日を繰り返したんだろうか。突然、怖くなってくる。 「やっぱり、君もわからない、か」 彼は、困ったように笑った。 「あ、でも、中学の時のジャージ!名札ついてたはず!」 私はクローゼットに駆け込んで勢いよく開ける。 いつもパジャマにしているクタクタになったそれを引っ張り出した。 「ない、洗濯した時に取れちゃったとか?」 慌てて中学の頃のノートをしまってある引き出しを開ける。 その光景を見て、私は絶句した。 全てから名前が消えていたから。 私の名前、どんなのだったっけ?かわいい名前だった気がする。 でも、だとしたらなんでわからないのだろう。思い出そうと思考を高速で回転させても、摩擦がないみたいにすっと空を切って消えてしまう。 どうしよう。どうしよう。なんで。 頭は「どうしよう」ばっかりで埋め尽くされて、同じ言葉が反芻した。 どうしても。どうしても。思い出さなきゃいけない。 頭の中の「どうしよう」は行き場を失って次第に形を変える。 焦りが脳を侵食して、気づけばクローゼットから何から私の部屋にある全ての引き出しをひっくり返していた。 額に汗が滲んで、床に跪く。 外、外でなら見つかるかも。 私は急いで立ち上がって、シェルターの鉄蓋に伸びる頼りない梯子に手をかけた。 「いいよ、そんなに必死にならなくて」 凛として、でも確かに優しい声が耳に刺さる。 彼は私の背中に優しく手を当てて、私を梯子からおろした。 「ほら、深呼吸しよ?」 彼は私の目をまっすぐ見つめてくる。 私は何もできなくて、ただ促されるまま深呼吸をした。 だんだん、脳の回転が正常に戻っていくのが分かる。 私、なんであんなに錯乱してたんだろう。 「飯、作ったから一緒に食おう、な?」 彼は私に手を差し伸べて、ぎゅっと握った。 そして、私と梯子の間に立つ。 ぐい、ぐい、とキッチンの方へ引っ張られた。 キッチンに入ると、美味しそうな香りが鼻腔をくすぐる。 焼けたパンの香りだ。 「勝手にキッチン使ってごめんな」 そう言いながら私を椅子に座らせたあと、彼は目を瞑るように言ってきた。 しっかり両手で目を覆って、従順に待つ。 「目、開けていいよ」 目の前から声が聞こえて、ゆっくりと目から手を放す。 すごい、美味しそう。 「じゃーん!料理名はしゅうまつのピザトースト!」 あぁ、そういえば、今日は土曜日か。 「終わりの世界だから、終末!」 彼は、ニカッと白い歯を見せて笑う。 「週の終わりだから週末なのかと思った」 私が言うと彼は呆気に取られたみたいに口をぽっかり開けた。 「あー!!ウィークエンドの方ね!」 それは思いつかなかったなー、と彼は頬をかいて微笑む。 「じゃ!食べよっか!」 彼の合図に目を合わせ、 「「いただきます」」 二人の声が重なって、優しく空気を波打った。
荒廃した世界で貴方と 壱
目を覚ます。 私の部屋だ。 また、今日が来てしまった。 デジタル時計に表示された数字を見て、呆れたようにため息をつく。 七月三十二日。八時二十七分。 夏なのに暑苦しいわけでもなくて、かといって寒いわけでもない。うまく説明するのは難しいけど、強いて言うなら温度がないという感じだろうか。 窓の外に目をやる。 日付としては夏なのに、白い雪のようなものがちらついていた。 まぁ、実際には雪のみたいにロマンチックなものなんかじゃなくて、気管に入れば猛毒に過ぎない、ただのカビの類いなんだけど。 何度あれを吸い込んだことか。 思い出すだけで、咳き込みそうになってくる。 うっすらと、甘ったるい臭いが鼻をつつく。 このなんとも言えないそれが、外に降りしきるカビの臭いだって気づいたのが、ちょうど十回前の今日。 いつも通りなら、そろそろ、 ピーンポーン ほら、チャイム鳴った。 今はこれに出ちゃダメだ。 なぜかって?もちろん生身で顔を出せばあのカビを吸うことになるし、私はどうしようもなく運が悪いから、家の真ん前にいつだかの戦争の爆弾が埋まってる。 いわゆる地雷ってやつだ。 ドアを開けた瞬間、それを来訪者が踏んでゲームオーバー。 また、同じ場所で目を覚ますことになる。 ボォォォォン 十分もしないうちに、頭上で轟音が木霊する。 あぁ、ご愁傷様。 運がいいのか悪いのか、私の部屋は地下シェルターになってて、あのチャイムの時に上に出なければとりあえずは生き延びれる。それに気づいたのが、確か、三回目くらいの時だったかな。 あの時は、珍しく寝坊してその爆音で目を覚ましたんだよな。 今思うと良いアラームだ。次はもう少し寝ておこうかな。 何度も戻ってこれるんだし、生き急ぐ必要もない。 カンカン シェルターの鉄蓋が叩かれる。 あ、来てくれた。 「おーい、防護マスク持ってきてやったぞ」 顔もわからない彼。 前回はここで油断して返事したせいですぐに扉が開いてカビを吸い込んだんだ。 「ちょっと待って、ハンカチで口覆うから、もう一回私がここ叩いたら開けて」 カンカン 片手で口を覆い、片手で鉄蓋を叩く。 ドサ、と男が降ってきた。 「おわぁ!!あはは!そっか、シェルターってこうなってんのか!」 男は尻もちをついて笑う。 ハンカチ越しでも、臭い、結構キツイな。 カビの甘い臭いが鼻を刺して、頭がキーンとする。 「あ、はい、これつけないと死ぬよ」 冗談混じりに彼はそう言って、防護マスクをつけてくれた。 「まだ生きてる人いるんだ、今時珍しいよね」 今時っていうか、毎日同じ日を繰り返してるから、今時も何もないけど。 私は皮肉っぽく言ったあと、急いで鉄蓋を閉め、箒を持ってくる。 最長記録達成。 心の中で拳を握って、部屋に入ってしまったカビを集めた。 「あの、さ、信じがたい事だと思うんだけど、」 男は言いづらそうに、口を開く。 カビを薪ストーブに突っ込んで火をつけながら、男の声に耳を傾けた。 どうやらカビの成分か何かで炎色反応が起こるようで、一瞬で炎はピンクに染まる。 このカビは熱に弱い。それは二回目、地雷に巻き込まれたときに気づいたことだ。 爆発したあたりだけ、一瞬にしてカビが消え去ったのを薄れる意識の中で確認したから。 「「ループしてんだよね」」 それを言うと思って、声を重ねた。 「え?もしかして、君も?」 小さく頷く。 「もう、それ外して大丈夫だよ」 私は自分の防護マスクをはずして言った。 「え、でもあのわたあめみたいなやつが」 男はおどおどする。 わたあめか、言われてみれば雪よりもわたあめの方が近い存在なのかも。甘い臭いするし。 「あのカビ、熱に弱いんだよ、燃料にちょうど良いかも!」 私はおどけてくるっと回ってみせた。 すると、男はようやく安心したみたいでマスクに手をかける。 世界が、スローモーションみたいに感じた。 マスクを外す、という一瞬の動作に、何故だか目を奪われてしまう。 まだ、薪ストーブの熱が回らず温度のない室内。 胸の辺りに生ぬるい何かがせりあがってくる。 私は、おどけた顔も忘れて立ち尽くした。 常識はずれだ。こんな何気ない一瞬で、目の前にいるこの人がどんな人間かもわからないのに、心を奪われるなんて。 でも、この世界がそもそも常識外れだし、あり得ないことなんてどこにもないのかもしれない。 胸に浮遊するなんともいえない熱を冷ましたくて、キッチンに向かった。
日の出
外が白み始めた。 とうとう、日が出てきてしまったようだ。 「最悪だ。」 意味もなく呟く。 まさか正月までパソコンと睨めっこをして、そのまま朝を迎えてしまうなんて思いもしなかった。 資料を作る手は止めず、ため息をつく。 マグカップの底にはコーヒーがこびりついて、乾いていた。 資料を作り終えて、ふと、部屋を見渡す。 机にエナジードリンクの缶が何本も横たわり、床にはもう使わないパソコンの説明書やら、会議の資料が散らかっている。 そのくせ、ベッドは綺麗に整えてある。 几帳面だからじゃない。 ベッドはほとんど使っていないのだ。 大抵、ソファか、机に突っ伏して寝落ちするから。 クローゼットにはスーツが二着かけてあるだけ。 私服なんかない。 コンビニに行けるくらいの部屋着と、あと下着。 それで十分なんだ。 仕事に行って、家に帰るだけの毎日。 休日も家から出ずに仕事。 つまらない人生だな。 そう思ってふっ、と鼻を鳴らす。 仕事も一区切りついたし、何か食べよう。 そう思って冷蔵庫を開ける。 エナジードリンクのストック、缶コーヒー、カロリーメイト、ゼリー飲料。 社畜かよ。 そう笑いたくなる。 呆れながら野菜室を開けた。 そこに、シナシナになったニラと消費期限の少し過ぎた野菜炒め用のパックを見つける。 正月だし、自炊でもするか。 そんな気が起きてきて、買ってから一度も使っていないエプロンを着た。 キッチンの棚をまさぐって、辛い袋麺を取り出す。 実家を出るまでは、袋麺なんか茹でるだけだから簡単だと思ってた。 けどその時間すら取れないのが社会人なんだと働きはじめてから痛感した。 カップラーメンか、出前か、簡易食、それが当たり前になってしまってから、どれくらいたっただろう。 ニラを切りながらぐるぐると考えていた。 お湯を沸かして麺を茹でる間に、野菜を炒める。 塩胡椒で味付けをして、 「あ」 胡椒の蓋が取れてしまった。 どば、と野菜の上に胡椒の山ができる。 舞った胡椒で鼻がムズッとして、大きなくしゃみが出た。 笑いが込み上げてきて、思わず吹き出した。 山になった胡椒を減らしながらしばらく笑う。 涙すら出てきて手でそれを拭った。 ピピピピピ けたたましくキッチンタイマーが鳴り、火を止めた。 できたラーメンの上に野菜炒めを乗せる。 お皿を出すのは面倒だから鍋のまま机に持っていく。 「いただきます。」 手を合わせてそう言って、一口スープを啜る。 うん、不味くない。 次に、上に乗った野菜炒めを口に運んだ。 「しょっぱ」 胡椒はできるだけ減らしたのになぁ。 少し残念に思う。 時計を見上げると、六時半を少し過ぎていた。 あ、そうだ、あの件のメール返ってきたかな。 そう思ってスマホに手を伸ばす。 その瞬間、ブブブ、とスマホが振動した。 母さんからの電話か。 久しぶりに出ようかな。 応答にスライドをして、スピーカーモードにする。 「あんた、今年は帰ってくるの?」 母さんの甲高い声が一人の部屋に響いた。 いつもなら、仕事が立て込んでて、なんて嘘をついて電話を切るが、今日だけはそうもいかない。 どこの会社も流石に一月一日は休みだからだ。 返事に迷って、麺をすする。 「あら、自炊してるのね。てっきり出前ばっかり取ってるかと思ってたわ。」 嬉しそうな声。 なんだか、こっちまで嬉しくなってくる。 「今日、帰ろうと思ってた。」 そう口からこぼれた。 「今日帰ってくるの?!早く言ってよ!」 だって、今決めたんだし。 そうも言えないから、 「仕事の関係で直前まで予定が分かんなかったから。」 とこじつける。 「次はちゃんと言ってよね、こっちだって準備があるんだから、掃除とかさ、」 別に実家だから汚くたっていいのに。 そう思いながら、 「ごめん。今から準備して行くから、着くの、昼くらいになると思う。」 と返す。 「そう?分かった、何か食べたいものある?私、今から作るよ」 母はすかさずそう言ってくる。 ここでなんでもいい、なんて言った日には、なんでもいいが一番困るのよと怒られる。 だから、お正月らしく、 「んー、お雑煮。」 と言って、そこから少し雑談をして電話を切った。 「よし、準備するか。」 そう呟きながらお皿を片付けようと立ち上がる。 今年の正月は、いつもよりマシに過ごせそうだ。
地獄のバレンタイン
また、地獄のバレンタインデーがやってきた。 バレンタインなんて金がかかるだけだし、気を遣うことばっかりで正直なところうんざりだ。 男の子にあげる人なんか、カップルの片割れか、両片想いだってわかってる勝ち組だけでしょ? それ以外は女子同士で配り合うだけ。 所詮、バレンタインなんてキラキラ女子のためのイベント。 私みたいに女子力も持ち合わせていない女はお呼びでないってわけ。 そもそも、私甘いもの大っ嫌いだし。 でも、チョコをもらえば、 「え〜!!私全然準備してなかったよ〜!お返し来週まで待ってて!!」 なーんて、チョコよりも甘ったるい声で愛もこもってない笑顔を向けてしまう。 お返し?なにそれ、勝手に配給されたものにお返ししなきゃいけない制度が意味不明なんだけど。 どうやらバレンタインにチョコを配るのは日本だけらしいし、チョコ会社の陰謀だ。絶対に。 教室に充満するチョコの匂いにのぼせる。 頭がクラクラしてきて、廊下へ飛び出した。 屋上で息を整える。 二月の冷たい風が頬を撫でてそのまま私を包み込んだ。 机の上に溜まっていくお菓子の山を想像するだけで、背中に蟻が登ってくる気持ちになってくる。 はー、と小さく息を吐いて、出来上がった白い靄を眺めた。 一人最高。って言いたいところなんだけど、そういう気持ちでもないのは自覚済み。 わかってる、これがジェラシーってやつだってことくらい、とっくに。 「あげる人なんかいないし!」 そう言って笑った自分の頬は重かった。 あげたい人は、いたじゃん。 でも、到底渡せる相手じゃないから、準備をしないって選択を取ったのは私だ。 どうせ、私のことなんか君は気にしてないんでしょ。キラキラ輝いて眩しい笑顔。 プリントを回すときの綺麗な指。 低くて、それでいてひどく優しい声。 全部が身体中を駆け巡って甘すぎるものを食べた時みたいに頭がキーンとした。 ピコン 携帯の通知音が乾いた空気を震わす。 どうせ、公式LINEかなんかでしょ。 ため息混じりに開いた画面を見て、なにもできなくなった。 「そこで待ってて」 え、は?なにこれ。夢? 君からのLINE、初めてだし。 頬を思いっきりつねってみても、涙が出るくらい痛くて、これが現実だって感覚がじわじわと指先を温める。 どうしよう、なんて返信する? のぼせた頭には言葉が全然思い浮かんでこない。 ギーー もたもたしている間に屋上の鉄扉が開く。 「やっぱり、ここにいた」 太陽は沈みかけてるっていうのに、彼の周りだけ一際綺麗に煌めいていた。 「なんで」 声が掠れる。 「渡したかったんだ」 彼は照れ隠しみたいに頬をかきながら、私の横に座った。 近い近い近い。やばい心臓の音聞こえちゃうよ。 「これ、どうぞ」 膝の上でぎゅっと握っていた私の手を彼は優しく開かせて、お弁当箱みたいなものを乗せる。 恐る恐る蓋を開けた。 「え、唐揚げ?」 そこには美味しそうな唐揚げが詰まっていた。 ジューシーな匂いを醸し出して。 「そう、君にだけ」 私、甘いもの苦手なんて言ったっけ?可愛くないと思われたくなくて、みんなの前ではイヤな顔せずに食べてたはずなのにな。 「甘いもの、苦手でしょ?いつも食べる時、手ぎゅっと握ってるじゃん」 なんでそんなに、分かるの。 唖然と彼の目を見つめる。 「残念ながら全然気づいてなかったみたいだけど」 彼は肩を落として、ふふ、と笑う。 「俺、君のことが好きだよ」 甘ったるい言葉が鼓膜を揺らした。 「私も」 なんとか絞り出して彼に肩を寄せる。 甘ったるいのも、悪くないのかな。