江戸嚴求(ごんぐ)
87 件の小説風の中で待っている
上條恒彦氏が亡くなられた。85歳で老衰であったという。当初この方のイメージは俳優としてであり、地味ながらも存在感のある人だった。元々は歌手であったと知ったのはいつ頃であっただろう。確か小学5、6年生の頃だと思った。音楽の授業で、シューベルトの「魔王」を鑑賞した。そのレコードの歌い手が氏だった。 「お父さん、お父さん、魔王が今、坊やを掴んで連れてゆく〜♪」 上條氏の臨場感ある歌声にたちまち惹き込まれたのを、今でもよく覚えている。思えば、歌手としての彼と接する事の出来た私は幸せだったのかもしれない。役者としてが最初だったか、歌手としてが初めてだったのかいまいち記憶が定かでない。ただ、私の記憶の中では歌い手としてのイメージが強い。 彼の代表曲といえば、「だれかが風の中で」だ。これを主題歌にした「木枯し紋次郎」自体、私は鑑賞していない。しかし、とはいえ、時代劇としてではなく西部劇を模して製作されたというドラマは、当時斬新で爆発的な人気を誇ったことは歌を聴いているだけで想像できる。 ドラマそのものは、主演の中村敦夫の出世作となっただけでなく、故蟹江敬三や故阿藤快など後に個性派俳優として名を成す人たちもゲスト出演していた。正に一時代を築いたテレビドラマだった。 上條氏も同様といえる。「木枯し紋次郎」の主題歌ということもあり、この年のヒット曲となった。しかし、である。仮にドラマが当たらなかったとしても、この歌は彼の代表曲として残っただろう。それだけの芯の強さを「だれかが風の中で」には感じられる。彼が最期に、風の中で見つけたのは誰だったのだろう。謹んでお悔やみ申し上げます。
お前ら、あのなあ…
昨日友人からLINEがあった。 "◯◯✗✗に投票おねがいします。今回は情勢が厳しいようです。" それへの返信は次の通りだ。 "昨夜、期日前投票に行ったよ。" すぐにお礼のLINEが送られてきた。やれやれだぜ。 そして今日昼過ぎ、スマホに連絡が入った。ちょっと遠くへ引っ越した年配の女友達だった。 「お久しぶりです。◯◯✗✗に投票してほしいんだけど」 「あ、もう、期日前投票済ませました」 「え、そうなの?◯◯✗✗さんに入れてくれた?」 「確か、そんな名前だったような気がします」 「ありがとうね。じゃあ」 まったく毎度これである。何年かに一度、国政選挙の度に来る彼らのお願いにいい加減うんざりしていた。コメットさん、どうやら今回は自滅党と共倒れになりそうな雰囲気だ。まあ、はっきり言って消化海会の信者でもなんでもない私としては、コメットさんが連立政権の座から滑り落ちようが知ったこっちゃない。 大体、コメットさんもだらしがない。内閣が発足する度に、国土交通大臣という鼻薬を嗅がされてそれでおとなしくなるのだから。仮にも与党の一翼を担っているんだから、総理大臣は無理にしてももっと重要なポストに就けてくれと何故言わない?要は自滅党に舐められているのだ。雪駄の雪と同じで、一旦くっついたら離れることはあるまいと高を括られてるのである。 責任政党としての自覚など微塵もないのだ。ただ政権欲しさに利権に群がりたいだけに過ぎんのである。破廉恥極まりない。亡くなった阿呆田盗作共々、地獄へ堕ちてしまえ!と思う。 さて、今回の参議院選確かに期日前投票には行った。嘘はついていない。ただ、一票を投じた候補者と政党が違うだけの話だ。裏切りと批判されようが構うことはない。本来選挙とは、意中の人に託すものだ。誰かに頼まれての投票など、もう、まっぴら御免だ。選挙区の候補者 、比例区の政党は当選してくれるだろうか。
負の連鎖を乗り越えて
有名人の自死、あるいはそれに近い亡くなり方を聞いた時、ひょっとしたらそれは未来の自分の姿かもしれないと暗澹となる。今回自宅マンションで息を引き取っていた女優さんは、自殺ではなく事故によるものだという。しかし、彼女の母親が自死していたといった報道を目にすると、まるで導かれたような最期にさえ思える。 彼女自身、摂食障害やパニック発作などさまざまな苦難に巻き込まれながらも懸命に生きようとしていた節がある。でも、精神障害を克服出来なかったのが命を縮める元だったとするならあまりに悲しい。もっとも精神障害というのは、克服するというより共存共栄で生きていくべきものかもしれないが。 閑話休題。私自身、うつ病で軽度のADHDというちょっとした事故物件だ。発達障害の特性上、交通事故を起こすこともしばしばである。おかげで我が家のマイカーは、家内名義だがしばしば起こした事故によりとうとう車両保険に加入出来なくなってしまった。 自分が物凄くこの世に必要とされていない人間に思えてくること度々であり、四十代までは希死念慮で自殺未遂を繰り返していた。入院という話もあったが、家内が頑として首を縦に振らなかったおかげで、どうにか世間と関わりを持つことが出来た。 何しろ地方でのことだ。世間体が悪いという思いもあったかもしれない。当時、家内の両親もまだ健在だった。もしも私が精神疾患で入院となればどう言い繕うかと考えていた可能性もあろう。その点のことは深く聞いたことはないが、病院に丸投げしなかったのが彼女なりの愛情であったと思っている。 翻って亡くなった女優さんはどうだろう。彼女は生前、結婚と離婚を繰り返していた。それはこの方の両親が離婚していたことと、母親に虐待されていたことといくらか重なるのかもしれない。実際虐待を受けた人というのは、愛情に飢えている反面愛情表現が下手か欠落していると見える節がある。 ただ思う。もしも彼女が心底愛せる人と巡り会えていたなら、その心の傷は長年の生活によって少しずつでも癒えていたのではないか。ひょっとしたら、穏やかな老後を迎えるのも可能だったかもしれない。自分が妻との繋がりで人がましく生きてこられただけに、その一点がとても無念で他人事とは思えない。 あるいは将来離婚を突きつけられたり、家内に先立たれた時私は自分の足で立ち続ける事が出来るだろうか。彼女と同様強い人間ではないので、未来の姿と重なりそうで怖い。
何故か、今夜眠れない
ある女優が交通事故を起こした末、傷害で逮捕されてしまった。テレビでこの報道に接した時、馬鹿だなあと呆れたし彼女の過去を知る身としては起こるべくして起こった出来事のようにさえ思えた。 たとえばこの人が十九になるかならないかの頃、某有名大学に入学した。確か推薦入学か何かで、その大学に入りたいと密かに熱望していた私などは芸能人て得だなと羨望を禁じ得なかった。 そんな誰もが羨む有名一流大学を、彼女は俳優業に専念したいという理由で中退してしまった。にも関わらず、その舌の根が乾かないうちに、この方は妊娠したので結婚すると発表してしまった。私がこの人の言動の不一致に疑念を抱いたのはその頃からだったと思う。 その後、離婚、再婚をし三児の母になりながらも二年前に自らの不倫が元でまた離婚してしまった。一体、この人は何がしたいんだろう。他人事ながら理解に苦しんだ記憶がある。 そして今回の事故と事件である。ひょっとしたら彼女は大人の発達障害ではないのか。自らがそのような傾向があっただけにそう思わずにはいられなかった。確かにこの人の問題を起こす前からの言動は尋常ではなく、警察が違法薬物の使用を疑ったのも無理はない。だが、大人の発達障害だとしたら、今まで判明しなかっただけで本人のやり方次第ではどうにかなるのではと、救いを見出したい。 なんにせよ、このところ有名人の不祥事が続き過ぎている。彼女がこのまま、表舞台から消え去ることがないことを祈るのみだ。
そこまでせんでも
こんな夢を見た。二年前に亡くなった弟が私のために、わざわざ再就職先を斡旋してくれたのだ。弟とは私が十五の時に別れて以来音沙汰がなかった。当然訃報が伝えられた時、彼は既に遺骨を残すのみで本人とは対面せずじまいだった。にも関わらず、夢の中の彼は大人の風貌で(何故それと知れたのは、夢であればこそだろう)だらしない兄貴のために奮闘してくれたのだ。 生前弟には世話をしたことこそあれど、世話をかけたことはついぞない。何しろ別れたのが先方がまだ九才くらいの時だ。下手をすれば弟のほうが、こちらの記憶を失っていてもおかしくない、それくらいの幼い年頃だ。 にも関わらず、夢の中の弟は私のために十二分なくらい骨折りをしてくれたのだ。このような状況に出くわすと、何故生きている時に再会しなかったのかその事ばかりが悔やまれる。 ひょっとしたら自分を忘れないでくれという謎かけだったのか。今年の1月に3回忌を迎えながら法要をしなかった薄情な兄を恨んでであろうかと、さまざまな想いが交錯する。大丈夫、忘れてないよと、墓前に報告しようか。
汝、怒るべからず
短気は損気と言います。 今日怒りに任せてボールペンをへし折ってしまった。昨日に続いて二回目で我ながら呆れるしかない。原因はインクがまだ充分残っているのに書けなかったことで、たかがこれくらいでと我が身を責めたくもなる。 とはいえ、小説を執筆していて興が乗ると書けないという物理的事実がどうしても許せなくなる。余白に何度も試し書きしてもインクが出ないなら、諦めて別のボールペンを使えばいいだけのことである。 そう、事はそれだけ単純なことなのだ。しかし、執筆を邪魔された怒りで頭は熱くなってしまっており、冷静な判断を下せず昨日、今日と暴発してしまった。 かつて大指揮者の名を欲しいままにしたアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)は有名な癇癪持ちで、オーケストラが自分の思いのままに演奏をしないとタクトをへし折ることで言う事を聞かせようとした。 本人も自分の癇癖を悩んでいたようで、 「神は何故、八十を過ぎた自分に十七、八の若者のような熱情を残したのか」 と嘆いたという。実際彼の振る舞いが、指揮者とは独裁者であるという悪いイメージを浸透させたのは事実だろう。人たる者、己の感情をコントロールできるようにならないと。自らも鑑みて思わずにいられない。
古(いにしえ)の頃:完全版
いうても、たかだか37、8年前の話ではある。とはいえ、私個人に即するならば遠い昔の話になる。当時高校3年生だった私は、進路について真剣に考える必要があった。埼玉県下でも一、二を争うバカ高校であったとはいえ、就職するか一部の生徒は進学の希望を担任に申請しなければいけなかった。 私はといえば、父親の言でなんとなく大学を目指そうかと考えていたに過ぎない。今では考えられないことだが、なまじあの頃の私は学業が良かった。最終的にはクラスで三番目に落ち着いたものの、成績が良好だという事が父に変に期待させてしまった。 「お前なら、父さんが入れなかった早稲田も夢じゃないかもしれん」 よせばいいのに父のそんなおだてに乗ってしまい、私はすっかり翌年の今頃には大学生として青春を謳歌している気になっていた。 そこで勉学に一層励んでいれば話もわかる。しかしどこかで大学受験を甘く見ていた私は、高校受験に毛の生えたものとは訳が違うぞという先生の忠告も聞かず、当時所属していた文芸部の活動に重きを置いていた。 思えばあの頃は、私が極楽トンボでのんびりやってこれた最良の時期だったかもしれない。大学受験の苛酷さを顧みようともせず、とにかく大学に入ったら今以上に小説の執筆に心血を注ぐのだ。 一見もっともらしく聞こえて、てんで的外れな努力をしていた。そうは言っても、文芸部の部長としては充実していた。他の後輩部員のことは全く関心を示さず、自分個人の文芸誌を季節毎に配信して意気軒昂としていた。 あれは正に、私の、私による、私のための文芸誌だった。高校入学後、文芸部という遊び場を得た私は小説執筆に淫するあまり我を忘れていた。 あれは、そう、確かに精神上のマスターベーションであったと思う。少年時代の一時期からノストラダムスの大予言を盲信していた私にしてみれば、時間がなかったというのが一種の言い訳だった。 1999年の7月に恐怖の大王が襲来してきたら、自分は30歳になる前に死んでしまう。半ばそう信じていただけに始末に負えない。 今小説を書き続けることは、この先訪れる自分の決して長くはなりそうにない作家生活を支えるための研鑚と本気で思っていた。 あるいは目前に迫る入試を、そんなファンタジーを信じ込むことで忘れたかったのかもしれない。大学など端から諦めて、働きながら小説を書くというのがまだ現実的であっただろう。 しかし夢見がちな文芸部の部長殿は、恐怖の大王よりも真っ先に訪れる受験失敗というカタストロフィーから目を反らし、ひたすら小説や雑文をせっせと書いて文芸誌に発表していった。 今年の正月はとうとうお年玉を貰えなかった。そんなのんきな編集後記で最後の個人文芸誌を締め括った私は、この期に至ってようやく入試に目を向け始めた。 時既に遅し、いや遅過ぎるくらいで、間もなく受験勉強を散々さぼってきたツケを払わせられることになる。その年の三月、進路が決まっていない数少ない一人として母校を卒業した。 この半年後、浪人生としても頑張れなかった私が受験を断念して社会人になる事はまだ予想だにしていなかった。 ※編集前に落丁に気づかず投稿してしまいました。お詫び申し上げます。
古(いにしえ)の頃
いうても、たかだか37、8年前の話ではある。とはいえ、私個人に即するならば遠い昔の話になる。当時高校3年生だった私は、進路について真剣に考える必要があった。埼玉県下でも一、二を争うバカ高校であったとはいえ、就職するか一部の生徒は進学の希望を担任に申請しなければいけなかった。 私はといえば、父親の言でなんとなく大学を目指そうかと考えていたに過ぎない。今では考えられないことだが、なまじあの頃の私は学業が良かった。最終的にはクラスで三番目に落ち着いたものの、成績が良好だという事が父に変に期待させてしまった。 「お前なら、父さんが入れなかった早稲田も夢じゃないかもしれん」 よせばいいのに父のそんなおだてに乗ってしまい、私はすっかり翌年の今頃には大学生として青春を謳歌している気になっていた。そこで勉学に一層励んでいれば話もわかる。しかしどこかで大学受験を甘く見ていた私は、高校受験に毛の生えたものとは訳が違うぞという先生の忠告も聞かず、当時所属していた文芸部の活動に重きを置いていた。 思えばあの頃は、私が極楽トンボでのんびりやってこれた最良の時期だったかもしれない。大学受験の苛酷さを顧みようともせず、とにかく大学に入ったら今以上に小説の執筆に心血を注ぐのだ。一見もっともらしく聞こえて、てんで的外れな努力をしていた。そうは言っても、文芸部の部長としては充実していた。他の後輩部員のことは全く関心を示さず、自分個人の文芸誌を季節毎に配信して意気軒昂としていた。 あれは正に、私の、私による、私のための文芸誌だった。高校入学後、文芸部という遊び場を得た私は小説執筆に淫するあまり我を忘れていた。あれは、そう、確かに精神上のマスターベーションであったと思う。少年時代の一時期からノストラダムスの大予言を盲信していた私にしてみれば、時間がなかったというのが一種の言い訳だった。 1999年の7月に恐怖の大王が襲来してきたら、自分は30歳になる前に死んでしまう。半ばそう信じていただけに始末に負えない。今小説を書き続けることは、この先訪れる自分の決して長くはなりそうにない作家生活を支えるための研鑚と本気で思っていた。 あるいは目前に迫る入試を、そんなファンタジーを信じ込むことで忘れたかったのかもしれない。大学など端から諦めて、働きながら小説を書くというのがまだ現実的であっただろう。しかし夢見がちな文芸部の部長殿は、恐怖の大王よりも真っ先に訪れる受験失敗というカタストロフィーから目を反らし、ひたすら小説や雑文をせっせと書いて文芸誌に発表していった。 今年の正月はとうとうお年玉を貰えなかった。そんなのんきな編集後記で最後の個人文芸誌を締め括った私は、この期に至ってようやく入試に目を向け始めた。時既に遅し、いや遅過ぎるくらいで、間もなく受験勉強を散々さぼってきたツケを払わせられることになる。その年の三月、進路が決まっていない数少ない一人として母校を卒業した。この半年後、浪人生としても頑張れなかった私が受験を断念して社会人になる事はまだ予想だにしていなかった。
私が生まれた瞬間:前編
何故私は作曲するのだ?私の内にあるものは外へ向かって出なければいけない。だから私は作曲するのだ。 -ベートーヴェン- 私が小説らしきものを書いたのは、中学三年生の秋頃だった。十年近い歳月を継母に虐げられ、その憤懣が計三回にわたる家出という形で表面化した。三回目の家出から戻ってきた時、私はもはやこれまでのような生活は懲り懲りだと覚悟を決めた。これからは継母に徹底的に逆らおうと決意したのである。 継母はもはやこれまでのように私を支配できないと匙を投げた。弟を連れて家を出て行き、私は父と二人暮らしをすることになった。後ろめたさがないと言えば嘘になる。父に一度だけ責められたことがある。その時、自分のやった事の重大さを認識せざるを得なかった。 だが、後悔はしていなかった。私と継母の関係はもはや修復できないほどにこじれていた。これまでのように、彼女が懲らしめのために実家へ帰ってその度に父が呼び戻しに行くという悪循環を繰り返してほしくはなかった。 結局翌年二人は正式に離婚した。血を流さなければ、自由というものは得られないことをこの時実感した。それまでの過程で、私は一編の小説を著した。家族がバラバラになりかけながらも修復していくという内容で、あるいは自らの手で分解してしまった家族への懺悔が多少なりとも込められていたのかもしれない。 とはいえ、もはやこの世に存在しない事実上の処女作を書き上げた私は、高校入試にも目を向けなければいけなかった。だが、考えてみるがいい。他の同級生が受験へ向けて青息吐息の中、一人家出を繰り返したり暇を持て余して小説を書き始めた私に入れる高校などあるのか? あった。埼玉県立越生高等学校という所が。当時の私は知る由もなかったが、受験で名前さえ書ければ受け入れてくれるという底辺校だった。それでも自分の居場所を確保できたことは喜びであった。そしてここから、私の創作活動が本格的に始まる。 前編終わり
愛はどうだ
親の愛には敵いません。 今週の木曜日、X(旧Twitter)にて知人が、朝ドラ「虎に翼」でヒロインが母親の死を前に思わず泣きじゃくったシーンに涙ぐんだと投稿していた。その後、自分も親を亡くしたらどうなってしまうか今から心配だと結ばれていた。その気持ちよくわかる。 私は三十九の時に父親に先立たれた。その心痛は何年経っても癒えることはなかった。親孝行らしいことを何一つしてやれず、それが何よりも心残りだった。涙が乾く暇もなく、心の中はいつも土砂降りであった。 何故なのか、今ならその理由がわかるからだ。親の愛情というのはある意味無償だからだ。そりゃ確かに、将来面倒を見てもらおうと思っている人も少なからずはいよう。しかし、それくらいは思ったとて罰は当たるまいと見逃してもらいたい。 何しろ、親は何十年もかけて子どもに愛情を注ぐ。これが仮に子が引きこもりにでもなったら、死ぬまで面倒を見ることになりかねない。将来を悲観して、子どもを手にかけてしまう不幸な親も中にはいよう。しかし、親は原則として子を見捨てない。 何故か?これは人の親になったことがない私にはわかりにくいことである。ただ、想像することだけはできる。水木しげるの代表作「ゲゲゲの鬼太郎」で主人公の鬼太郎が悪い妖怪に敗れて、その肉体が滅んでしまうくだりがあった。当然、父親である目玉の親父は嘆き悲しんだ。ところが鬼太郎の遺灰から地面に芽が出て、鬼太郎そっくりの花が咲く。それを見た父親は涙を流しながらつぶやく。 「どんな形であれ子どもが生きていれば、親はうれしいものだ」 これは水木しげるが親になったからこそ描き得たエピソードであろう。子どもが生きてさえくれれば親は嬉しい。この言葉は重い。これ以上は何もつけ加えようがない。 今朝体調がすぐれなかった。そういえば今日は父の月命日、たまには顔を見せろとせっつかれたのだろうか。墓参りに行こう。 ※六月二十二日脱稿。