江戸嚴求(ごんぐ)

82 件の小説
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江戸嚴求(ごんぐ)

ノベルアップ+でエッセイなど発表している、五十路の雑文家です。江戸厳愚から江戸嚴求と改名しました。

汝、怒るべからず

短気は損気と言います。 今日怒りに任せてボールペンをへし折ってしまった。昨日に続いて二回目で我ながら呆れるしかない。原因はインクがまだ充分残っているのに書けなかったことで、たかがこれくらいでと我が身を責めたくもなる。 とはいえ、小説を執筆していて興が乗ると書けないという物理的事実がどうしても許せなくなる。余白に何度も試し書きしてもインクが出ないなら、諦めて別のボールペンを使えばいいだけのことである。 そう、事はそれだけ単純なことなのだ。しかし、執筆を邪魔された怒りで頭は熱くなってしまっており、冷静な判断を下せず昨日、今日と暴発してしまった。 かつて大指揮者の名を欲しいままにしたアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)は有名な癇癪持ちで、オーケストラが自分の思いのままに演奏をしないとタクトをへし折ることで言う事を聞かせようとした。 本人も自分の癇癖を悩んでいたようで、 「神は何故、八十を過ぎた自分に十七、八の若者のような熱情を残したのか」 と嘆いたという。実際彼の振る舞いが、指揮者とは独裁者であるという悪いイメージを浸透させたのは事実だろう。人たる者、己の感情をコントロールできるようにならないと。自らも鑑みて思わずにいられない。

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古(いにしえ)の頃:完全版

いうても、たかだか37、8年前の話ではある。とはいえ、私個人に即するならば遠い昔の話になる。当時高校3年生だった私は、進路について真剣に考える必要があった。埼玉県下でも一、二を争うバカ高校であったとはいえ、就職するか一部の生徒は進学の希望を担任に申請しなければいけなかった。 私はといえば、父親の言でなんとなく大学を目指そうかと考えていたに過ぎない。今では考えられないことだが、なまじあの頃の私は学業が良かった。最終的にはクラスで三番目に落ち着いたものの、成績が良好だという事が父に変に期待させてしまった。 「お前なら、父さんが入れなかった早稲田も夢じゃないかもしれん」 よせばいいのに父のそんなおだてに乗ってしまい、私はすっかり翌年の今頃には大学生として青春を謳歌している気になっていた。 そこで勉学に一層励んでいれば話もわかる。しかしどこかで大学受験を甘く見ていた私は、高校受験に毛の生えたものとは訳が違うぞという先生の忠告も聞かず、当時所属していた文芸部の活動に重きを置いていた。 思えばあの頃は、私が極楽トンボでのんびりやってこれた最良の時期だったかもしれない。大学受験の苛酷さを顧みようともせず、とにかく大学に入ったら今以上に小説の執筆に心血を注ぐのだ。 一見もっともらしく聞こえて、てんで的外れな努力をしていた。そうは言っても、文芸部の部長としては充実していた。他の後輩部員のことは全く関心を示さず、自分個人の文芸誌を季節毎に配信して意気軒昂としていた。 あれは正に、私の、私による、私のための文芸誌だった。高校入学後、文芸部という遊び場を得た私は小説執筆に淫するあまり我を忘れていた。 あれは、そう、確かに精神上のマスターベーションであったと思う。少年時代の一時期からノストラダムスの大予言を盲信していた私にしてみれば、時間がなかったというのが一種の言い訳だった。 1999年の7月に恐怖の大王が襲来してきたら、自分は30歳になる前に死んでしまう。半ばそう信じていただけに始末に負えない。 今小説を書き続けることは、この先訪れる自分の決して長くはなりそうにない作家生活を支えるための研鑚と本気で思っていた。 あるいは目前に迫る入試を、そんなファンタジーを信じ込むことで忘れたかったのかもしれない。大学など端から諦めて、働きながら小説を書くというのがまだ現実的であっただろう。 しかし夢見がちな文芸部の部長殿は、恐怖の大王よりも真っ先に訪れる受験失敗というカタストロフィーから目を反らし、ひたすら小説や雑文をせっせと書いて文芸誌に発表していった。 今年の正月はとうとうお年玉を貰えなかった。そんなのんきな編集後記で最後の個人文芸誌を締め括った私は、この期に至ってようやく入試に目を向け始めた。 時既に遅し、いや遅過ぎるくらいで、間もなく受験勉強を散々さぼってきたツケを払わせられることになる。その年の三月、進路が決まっていない数少ない一人として母校を卒業した。 この半年後、浪人生としても頑張れなかった私が受験を断念して社会人になる事はまだ予想だにしていなかった。 ※編集前に落丁に気づかず投稿してしまいました。お詫び申し上げます。

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古(いにしえ)の頃

いうても、たかだか37、8年前の話ではある。とはいえ、私個人に即するならば遠い昔の話になる。当時高校3年生だった私は、進路について真剣に考える必要があった。埼玉県下でも一、二を争うバカ高校であったとはいえ、就職するか一部の生徒は進学の希望を担任に申請しなければいけなかった。 私はといえば、父親の言でなんとなく大学を目指そうかと考えていたに過ぎない。今では考えられないことだが、なまじあの頃の私は学業が良かった。最終的にはクラスで三番目に落ち着いたものの、成績が良好だという事が父に変に期待させてしまった。 「お前なら、父さんが入れなかった早稲田も夢じゃないかもしれん」 よせばいいのに父のそんなおだてに乗ってしまい、私はすっかり翌年の今頃には大学生として青春を謳歌している気になっていた。そこで勉学に一層励んでいれば話もわかる。しかしどこかで大学受験を甘く見ていた私は、高校受験に毛の生えたものとは訳が違うぞという先生の忠告も聞かず、当時所属していた文芸部の活動に重きを置いていた。 思えばあの頃は、私が極楽トンボでのんびりやってこれた最良の時期だったかもしれない。大学受験の苛酷さを顧みようともせず、とにかく大学に入ったら今以上に小説の執筆に心血を注ぐのだ。一見もっともらしく聞こえて、てんで的外れな努力をしていた。そうは言っても、文芸部の部長としては充実していた。他の後輩部員のことは全く関心を示さず、自分個人の文芸誌を季節毎に配信して意気軒昂としていた。 あれは正に、私の、私による、私のための文芸誌だった。高校入学後、文芸部という遊び場を得た私は小説執筆に淫するあまり我を忘れていた。あれは、そう、確かに精神上のマスターベーションであったと思う。少年時代の一時期からノストラダムスの大予言を盲信していた私にしてみれば、時間がなかったというのが一種の言い訳だった。 1999年の7月に恐怖の大王が襲来してきたら、自分は30歳になる前に死んでしまう。半ばそう信じていただけに始末に負えない。今小説を書き続けることは、この先訪れる自分の決して長くはなりそうにない作家生活を支えるための研鑚と本気で思っていた。 あるいは目前に迫る入試を、そんなファンタジーを信じ込むことで忘れたかったのかもしれない。大学など端から諦めて、働きながら小説を書くというのがまだ現実的であっただろう。しかし夢見がちな文芸部の部長殿は、恐怖の大王よりも真っ先に訪れる受験失敗というカタストロフィーから目を反らし、ひたすら小説や雑文をせっせと書いて文芸誌に発表していった。 今年の正月はとうとうお年玉を貰えなかった。そんなのんきな編集後記で最後の個人文芸誌を締め括った私は、この期に至ってようやく入試に目を向け始めた。時既に遅し、いや遅過ぎるくらいで、間もなく受験勉強を散々さぼってきたツケを払わせられることになる。その年の三月、進路が決まっていない数少ない一人として母校を卒業した。この半年後、浪人生としても頑張れなかった私が受験を断念して社会人になる事はまだ予想だにしていなかった。

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私が生まれた瞬間:前編

何故私は作曲するのだ?私の内にあるものは外へ向かって出なければいけない。だから私は作曲するのだ。 -ベートーヴェン- 私が小説らしきものを書いたのは、中学三年生の秋頃だった。十年近い歳月を継母に虐げられ、その憤懣が計三回にわたる家出という形で表面化した。三回目の家出から戻ってきた時、私はもはやこれまでのような生活は懲り懲りだと覚悟を決めた。これからは継母に徹底的に逆らおうと決意したのである。 継母はもはやこれまでのように私を支配できないと匙を投げた。弟を連れて家を出て行き、私は父と二人暮らしをすることになった。後ろめたさがないと言えば嘘になる。父に一度だけ責められたことがある。その時、自分のやった事の重大さを認識せざるを得なかった。 だが、後悔はしていなかった。私と継母の関係はもはや修復できないほどにこじれていた。これまでのように、彼女が懲らしめのために実家へ帰ってその度に父が呼び戻しに行くという悪循環を繰り返してほしくはなかった。 結局翌年二人は正式に離婚した。血を流さなければ、自由というものは得られないことをこの時実感した。それまでの過程で、私は一編の小説を著した。家族がバラバラになりかけながらも修復していくという内容で、あるいは自らの手で分解してしまった家族への懺悔が多少なりとも込められていたのかもしれない。 とはいえ、もはやこの世に存在しない事実上の処女作を書き上げた私は、高校入試にも目を向けなければいけなかった。だが、考えてみるがいい。他の同級生が受験へ向けて青息吐息の中、一人家出を繰り返したり暇を持て余して小説を書き始めた私に入れる高校などあるのか? あった。埼玉県立越生高等学校という所が。当時の私は知る由もなかったが、受験で名前さえ書ければ受け入れてくれるという底辺校だった。それでも自分の居場所を確保できたことは喜びであった。そしてここから、私の創作活動が本格的に始まる。 前編終わり

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愛はどうだ

親の愛には敵いません。 今週の木曜日、X(旧Twitter)にて知人が、朝ドラ「虎に翼」でヒロインが母親の死を前に思わず泣きじゃくったシーンに涙ぐんだと投稿していた。その後、自分も親を亡くしたらどうなってしまうか今から心配だと結ばれていた。その気持ちよくわかる。 私は三十九の時に父親に先立たれた。その心痛は何年経っても癒えることはなかった。親孝行らしいことを何一つしてやれず、それが何よりも心残りだった。涙が乾く暇もなく、心の中はいつも土砂降りであった。 何故なのか、今ならその理由がわかるからだ。親の愛情というのはある意味無償だからだ。そりゃ確かに、将来面倒を見てもらおうと思っている人も少なからずはいよう。しかし、それくらいは思ったとて罰は当たるまいと見逃してもらいたい。 何しろ、親は何十年もかけて子どもに愛情を注ぐ。これが仮に子が引きこもりにでもなったら、死ぬまで面倒を見ることになりかねない。将来を悲観して、子どもを手にかけてしまう不幸な親も中にはいよう。しかし、親は原則として子を見捨てない。 何故か?これは人の親になったことがない私にはわかりにくいことである。ただ、想像することだけはできる。水木しげるの代表作「ゲゲゲの鬼太郎」で主人公の鬼太郎が悪い妖怪に敗れて、その肉体が滅んでしまうくだりがあった。当然、父親である目玉の親父は嘆き悲しんだ。ところが鬼太郎の遺灰から地面に芽が出て、鬼太郎そっくりの花が咲く。それを見た父親は涙を流しながらつぶやく。 「どんな形であれ子どもが生きていれば、親はうれしいものだ」 これは水木しげるが親になったからこそ描き得たエピソードであろう。子どもが生きてさえくれれば親は嬉しい。この言葉は重い。これ以上は何もつけ加えようがない。 今朝体調がすぐれなかった。そういえば今日は父の月命日、たまには顔を見せろとせっつかれたのだろうか。墓参りに行こう。 ※六月二十二日脱稿。

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さらば、酢豚よ

欽ちゃんこと萩本欽一が全盛期だった頃の話。欽ドン!か欽どこ、かは忘れたが、欽ちゃんがコントの中で奥さんに頼んで出前で酢豚を注文するエピソードがあった。しかし電話先のラーメン屋では既に酢豚は品切れとなっていた。妻にそう告げられた欽ちゃんは悲しげに、 「さらば、酢豚よ〜♪」 と歌い上げるオチとなる。これが先日他界した谷村新司の代表曲「昴」からの替え歌であることは明白であろう。明白などと偉そうに書いたが、私がこの事実に気がついたのは意外と遅い。 自宅で即席酢豚の素で調理していた時だ。刻んだ玉ねぎとピーマンを強火で炒め、酢豚の素も投入しその香りにまみれた時に、 「さらば、酢豚よ〜♪」 という歌詞が欽ちゃんではなく、谷村新司の声で脳内再生された。正に、あの替え歌は「昴」が元歌だと思い至った瞬間であった。この事実にハッとしたのは実に、今夜の夕食前でのことだ。たぶん四十数年前に目にしたコントでの替え歌が、急に思い起こされたことになる。 欽ちゃんも故人も、今頃遅い!とツッコミを入れるところだろう。ただ言い訳させてもらうなら、当時は私は「昴」の存在自体知らなかった。ましてや、十九か二十歳の頃今では懐かしいカセットテープで谷村新司のものを購入した。その間、冒頭に入っていた代表曲はテープが擦り切れるほど聴いていた。 にも関わらず、欽ちゃんの替え歌とどうしても結びつかなかったのは、コント自体を忘れていたせいもあろう。それが今月に入ってからの谷村氏の訃報が入り、珍しく今夜私が夕食を作るという偶然が重なって干からびていた記憶から一つの事実に思い至った。 私と氏との作品との縁はお世辞にも深くはなかった。とはいえ、なかなか結びつかなかった記憶の糸が四十数年の時を経て繋がったことにより、まるで故人によるいたずらを発見したようなおかしみを感じた。 こんな形で彼を思い出すのは失礼かもしれない。しかし大阪出身だった谷村氏なら、かまへんかまへんとあの世で笑って許してくれるかもしれない。「白い鷲」や「陽はまた昇る」が好きだった。合掌。 追伸:先日、iPhoneからXperia(Android)に機種変しました。ただNovellのアプリは、たしかiPhoneにしか対応していないような記憶があったので、この原稿はiPhoneで打ち込んでいます。 iPhoneから送信

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たとえばの話

もしもこの世から消費税がなくなったらどうなるだろう。れいわ新選組の山本代表の言うように、その分が消費に回されればわが国の経済は確かに潤う気がする。こういうことを言うと反対派の人たちは必ず、社会保障に回すべき予算がなくなると騒ぎ出す。しかし実態はといえば、高齢者などの社会保障に大して使われてないことがバレてしまった。消費税=社会保障費というロジックはもはや通用しなくなった。 この延長線上にあるのが、10月から施行されるインボイス制度である。単に個人事業主が非課税なのが気に食わないという、いわゆる財務省の増税病からくる不都合な真実からだけではやらぬがましなのだ。 こういうことを言うと、またぞろ反対派は合唱するだろう。増大する防衛費をどうやって賄うのか、と。しかし、それらはまず議員の給料を減らすなど身を切る改革とやらを率先してやってくれなくては国民の心には響かない。国会議員=暇さえあれば選挙ばかりやっているという図式から離れなければ、誰も議員先生とやらに期待しないしむしろなくしてしまえという極論にさえなりかねない。 消費税廃止、まずはここから始めてはいかがか。 iPhoneから送信

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店じまい

 そろそろ人生にピリオドを打ちたい 病に臥している時は つい弱気になる そんなことまだ無理なのわかっている 私の脳髄に遺されている人たちの記憶 それを記録として書き留めねば 死ぬに死ねないとわかっている だけど怠惰で臆病な私の心は 何度もへこたれながら 何度も涙にくれながら それでもペンを執ることを選んだ あとどれだけの桜を愛でるか どれだけの花火に酔いしれるか どれだけの月夜を眺め どれだけの鍋に舌鼓を打ちながらも 生き切ったと実感するまでの歳月 噛み締め噛み締め歩んでいこう あとどれくらいあるだろう ※コロナ療養中に詠めり iPhoneから送信

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売れない小説家

いかなる作品をもってしても 冷笑をもって迎えられ 書き継いだものはいずれも 二束三文ほどの価値しか見出せぬ ああ、文学や文学や 我、何故(なにゆえ)に汝と出会ったか 出会わなければ心の平静を保ち いささかの社会的地位も得たであろう 同時に思う もし汝と出会わなければ 我、今日(こんにち)まで生き長らえたか 私の書くものは一文の得にも なりはしないだろう だけど傷ついた者の心を 癒すオアシスにはなろう 私の残したものは後世まで 語り継がれないであろう それでも立ち止まりし人たちの 胸に刻まれるかもしれない ただ歩め ただ書け お前がお前でいることの 一つの証明として たとえ一瞬で消え去る 流れ星であっても iPhoneから送信

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終戦記念日に

なんということであろう。ここ数年間は、この日に黙祷するのを忘れ果ててしまっている。日本人としていかがなものかと思うが、それだけ昭和は、戦争の記憶は遠くなりにけり、ということなのか。 父が健在であれば今年83歳。当時の事をもっと尋ねておけば良かったとも思うが。 「戦争が起きたこと、それは仕方のなかったことだ」 ある時つぶやくように語ったきりで沈黙してしまった。父にとっては、あの頃のことを振り返るのは疼痛のような思い出したくもない痛みを再現するようなものだったのかもしれない。 どこまで本気かわかりかねたが、シンパとして日本共産党を支持し続けたのは、遠い厄介な記憶への一種の復讐だったのではないか。この政党のいかがわしさが年を追う毎に明らかになっても、頑なに日本共産党支持を訴えていたのはある種の意地だったのだろう。 なんにせよ、終戦の日の翌日に生を受けた我が身としては、この時期を無意識に生きることは正直できない相談だった。日本の軍部はかつてアジアの人たちにこんなに迷惑をかけていた。そんな教育を子供の頃から受けていれば、嫌でも愛国心が薄れていく。 現在の若い人(特に男性)の右傾化は、保守陣営からの反撃もあろう。同時に自分の生きざまに誇りを持てないでいる人たちの、ささやかな抵抗もあろう。はっきりしていることは正しい歴史教育を継承するということだ。 左翼のこれまでの、旧日本軍が一方的に悪いとする史観は既に破綻している。さりとて右翼側の、栄光の旧日本軍などというおためこがしな、軍部を批判すると反日のレッテルを貼られるヒステリック史観も正直ごめんだ。 我が国からは前の大戦の生き証人は、年を追う毎に少なくなっている。これまでの国民総懺悔史観はたしかにいただけないが、戦争の悲惨さは忘れずに語り継ぐべきだ。 日本はこの先、否応なしに少子高齢化社会に突入する。もはや入りつつあるが。国民が減少していく現実を踏まえながら、今後どのような国づくりをしていくか刮目しなければいけない。 今ではコンビニやホテルの従業員が、アジア系など外国人の方々が勤め上げることも珍しくなくなった。このことを直視し、どうしたら国内で働く海外の人たちと仲良くしながら社会を築いていくのか。待ったなしの状況である。 もはや戦後ではないかもしれない。しかし、アジアの人々との共存共栄は過渡期に入ろうとしている。独りよがりたるべからず。 iPhoneから送信

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