あ
15 件の小説熱帯夜
ゴミ袋は悪臭を放っている。中には煙草の吸殻や白いカビが生えた鯖缶、真っ黒になった豚肉や干からびている野菜のヘタが入っている。そこを小さなハエたちがせっせと飛び回りながら、彼らの国を築いていた。 私はどうしたらいいか分からなかった。分別が済んでいないままのこのゴミ袋を捨てるほど、私は非常識な人間ではない。かといって、このハエの国に私の手を突っ込んで、中からゴミを分別するほどの勇気も持ち合わせていなかった。結局、虫は寒いところが苦手という知識を基に、ゴミ袋ごと冷凍庫の中に押し込んで、それで完了ということにした。これでハエも死に、匂いも冷却される。見えなければ存在しないのだ。 部屋の明かりを消して間接照明を点ける。オレンジ色の光はベッドの側面だけを照らし、床に落ちている細かなゴミは見えなくなった。 換気のために窓を開けたところで、玄関の扉が開く。リサだった。彼女はハンディファンの電源を切って靴箱の上に放り投げる。 「は?なんでエアコン点いてないの?」 汗で額に張り付いた前髪を直しながら、彼女は私をギョッと睨んだ。 「いや、今換気のために窓開けてるから」 私も少し汗をかいていることに気が付いた。 「掃除でもしたの?」 彼女は小さなバッグをソファに置き、持っていたビニール袋の中からアイスクリームの箱を取り出した。バニラとチョコの二種類の味が五本ずつ入っているバラエティパック。幼い頃、祖母の家でよく食べたものだ。 「これ全部私のだから、あなたは食べないでよ」 そのまま彼女は冷凍庫を開けて悲鳴を上げた。 「ちょっとなにこれ」 先程のゴミ袋が見つかったのだ。私は何も言わずにそのゴミ袋を取り出し、ベランダへと投げて窓を閉めた。 「それで、なんでここに来たの」 「なんでって?来ちゃダメだったの?」 「ダメとかダメじゃないとかそういう話じゃなくて。そもそも俺の家知ってたんだ」 「知らなかったけど、ママに聞いたの。そしたら普通に教えてくれたよ」 冷凍庫にアイスをしまった彼女は、エアコンの電源を入れた。 彼女は何も喋らないまま、ただ私を見つめている。汗をかいたTシャツに冷風が当たって気持ちがよかった。 〇 リサと出会ったのは一年ほど前、酒に酔った勢いで訪れた新宿二丁目のスナック「マリアンヌ」だった。「マリアンヌ」は、マリアンヌというおネエさんが経営しているスナックで、私はそれが「アリス・クーパー」のアリス・クーパーみたいだなと思って、大層気に入っていた。 その日はたしか高校の同級生としょんべん横丁でおでんを突いていて、あまり美味くない日本酒を一升空けていた。私たちはそろそろ終電が近づいてきているのを知って、それぞれ帰路へと散っていった。私も散っていくふりをして、改札の前で踵を返し「マリアンヌ」へと向かったのだ。 ママの目の前のカウンターに腰をかけた。 ママは拭いていた瓶ビール用のグラスをそっと置き、「あら、ユウちゃん久しぶりねえ」とかなんとか言って、カウンターから手を伸ばして私の股間をがっちりと掴んだ。その時、横で中島みゆきを泣きながら歌っていたのがリサだった。 ママの手を振り払って彼女の方へ目をやると、丁度ラストのサビを歌い切ったところで、周りの客たちは拍手をしながら、彼女を大仰に囃し立てている。マイクを置いて紙ナプキンで目元を押さえながら、彼女は私の隣に座った。 「毎回『悪女』しか歌わないわね、あんた。それ以外の曲知らないの?」 彼女はママを無視して、スマホのカメラで自分の顔を確認した。アイラインが溶けて目の周りが黒く滲んでいる。 私は少し居心地が悪くなって、すごい歌いっぷりでしたねと声を掛けた。彼女はお冷を飲みながらありがとうございますと小声で応えた。 テーブル席からママを呼ぶ声がして、その後『悪女』のイントロが流れる。よっしゃ私も歌うわよと袖をまくったママはカウンターから離れてテーブル席へと行ってしまった。リサと呼ばれる女はまだ私の左で足を組んで座っている。 「おいくつなんですか?」 居た堪れなくなった私は彼女に声を掛けた。 「二十一です。今年で二十二になります」 「じゃあ三つ下だ、僕の。ていうことは二○○四年生まれ?」 「そうです。芦田愛菜ちゃんとか鈴木福くんとかと同い年です」 「今日は何をされてたんですか?」 「今日は仕事してて、十時にそれが終わって色んなとこでお酒飲んで、今です」 「十時までお仕事してたんですか?今日、日曜なのに」 後ろからママの『悪女』が聞こえている。ママの声はすごく女の人に似ている。似ているのだが、似ているだけだ。要所要所で男が顔を出す。私にはわかる。これは完全な女の声ではない。 「お兄さんは、今日何されてたんですか?」 「僕は高校の同期と飲んでて、それが終わって今です」 「明日は、お仕事ですか?」 「いや、明日は仕事ないんですよ。ちょっと特殊な仕事やってるので、平日も結構家にいる時間多いんです」 「特殊な仕事ってなんですか?小説家とかですか?」 「いやいや、そんな褒められた仕事じゃないです」 「えー、気になる。ずっと在宅とか超羨ましい」 「そういうリサさんは、どんなお仕事されてるんですか」 「私は風俗です。ここの前の通りの端っこにあるところです」 「あ、そうだったんですね」 「私の教えたから、お兄さんの教えてくださいよ」 「え?いやいや」 「えー、いいじゃんいいじゃん、教えてよ」 リサが私の左腕を掴んで引っ張る。その時の私は酔っ払っていたし、彼女が風俗店に勤務していると知って浮ついてしまったのだ。 「じゃあ俺とエッチしてくれたら教えてあげる」 言ってからすぐに後悔した。彼女の眉間に皺が寄る。 「きもちわる。じゃあいいわ」 彼女は財布から五千円札を一枚出してテーブルの上に置いた。その後、『悪女』を熱唱するママに向かってここ置いとくからと言って、荷物をまとめて店を出て行った。 すっかり酔いも冷めてしまった私は、今起こったかなり恥ずかしいことがママを始めとするこの店の人間たちにバレるのが怖くなった。次、あの女が来店した時、彼女は恐らく今起こったことをママに話すだろう。そしたら、私はママにどんな風に思われるのだろうか。ママは私のことを軽蔑するだろうか。もうこの店に来ないでと言われてしまうだろうか。そんなことを考えては消してまた考える。どうすればいいのだ。どうすればあの恥ずかしい私の発言をなかったことにできるのだ。 ママはまだ『悪女』を歌っている。客たちは体を揺らしながら歌っているママを見ている。ミラーボールの灯りが私の後頭部を照らす。 ふと顔を上げると、氷を砕く用のアイスピックが目に入った。その時の私の脳みそはごちゃごちゃしていたから、そのアイスピックを自らの頭に刺す妄想した。だけどそれでは解決しない。 気がついた時には、アイスピックを持って店を飛び出していた。あの女はどこへ行ったのだ。十二時を回っても新宿は人ばかりだ。とりあえず、あの女が勤める風俗店の方へと向かった。あの女をどうしてやろうとかはよく考えていなかった。だけど、アイスピックを持っているのだから、恐らく刺しに行くのだろう。自分でもよく分からないままとにかく女を探した。 角を曲がると派手な装飾の風俗店があった。そのずっと先にリサがいる。駅の方へ向かっているのだ。このままでは、どこかに行ってしまう。私は走って彼女を追い掛け、アイスピックを彼女の後頭部に目掛けて突き刺した。頭蓋骨は思ったよりも固く、針が奥まで届かない。彼女は最初何が起こったのか分からなかったようで、少し経ってからゆっくりと振り返った。私は彼女と目が合って、手からアイスピックを離した。後頭部にはまだアイスピックが刺さったままだ。 「今、何したの?ねえ今、何したの?」 彼女が私に問う。私は上がった息を整えながら、じっと彼女のことを見ていた。 次第に後頭部から首筋に掛けて血が流れる。彼女もそれに気がついたようで、顔が真っ青になる。 「ねえ、何したの?私に今、何したの?」 「刺した。アイスピック……まだ刺さってる」 私は彼女の頭を指した。 「なんか痛い。痛いかも。痛い!」 彼女の右手がアイスピックに触れる。 「刺さってる。これ刺さってるよ。痛い!痛い!」 「痛い!痛い!痛い!痛い!」 泣きながら叫び始める。 私はどうしたらいいのか分からなくなって、慌ててその場から逃げた。とにかく逃げなければならなかった。もう新宿には来られないだろう。アイスピックを他人の頭に突き刺すような男だとバレてしまったから。俺は悲しくて泣いた。駅まで走りながら泣いたのだ。失敗した。アイスピックを刺さなければマリアンヌに行けなくなるだけで済んだのに、アイスピックを刺してしまったから、もう新宿にも来れなくなった。どうしよう、どうしよう。あの女のせいだ。いや、やっぱり、でもあの女のせいではない。アイスピックを刺した私だ。私のせいだ。声を上げて泣く私をすれ違う人達は一歩引いて見ていた。訝しげな目たちがあらゆる方向から私を見つめている。やめてくれ。そんな目で私を見ないでほしい。私は泣いているだけなのだ。リサにアイスピックを刺してしまったから、泣いているだけなのだ。ああ、なんでそんな目で私を見るんだ。悲しい。悲しくてまた涙が出る。嗚咽が止まらない。息ができない。苦しい。やめてくれ。そんな目で私を見ないでくれ。私は大人なのだ。良識のある大人なのだ。親にも頼らず一人で生計を立てている。君たちと同じ立派な大人なのだ。私と君たちは同じだぞ、同じ種類の人間だぞ。同じ種類の人間をそんな目で見るな。君たちだって、今の私みたいになってしまう可能性を秘めているのだ。だからやめてくれ、やめてくれ。とにかくそんな目で私を見るのをやめてくれ。私を哀れだと思うのをやめてくれ。 家に着いた私は泣き疲れて、着の身着のまま布団にダイブしそのまま眠ってしまった。 新宿へは当分行かないことを決めた。これで、アイスピックの件は私の中から存在を消した。当然、リサのことも忘れた。 彼女がどんな顔をしていたとかどのぐらいの背だったとか、とにかく一切のことを忘れた。翌日から私は普通に生活した。あの夜私を好機な目で見つめていた彼らと同じような普通な生活を送った。 〇 「何しに来たの?」 何度も尋ねるが彼女は何も言わない。エアコンが冷気を吐き出す音だけが部屋に響いている。 「あの時の復讐みたいな?それとも警察呼んでるの?」 彼女は何も言わない。ピクリとも動かない。よく見ると、彼女の目元はアイラインが溶けて黒く滲んでいる。 次第に部屋がまた臭くなっていることに気づく。先ほどベランダに放ったゴミ袋の臭気を室外機が吸い込んでいるのだ。 私はベランダから飛び降りて、私という存在をなかったことにしようと考えた。私がいなくなれば、彼女にしたこともなかったことになるからだ。 私は勢いよく窓を開けてベランダへ飛び出した。ジメジメした暑さの中、ゴミ袋が悪臭を放っている。 飛び降りるのなら確実に死ななければならない。もう失敗はしない。ここは八階だから、頭から地面に落ちれば高い確率で死ぬだろう。 飛び降りようと身を乗り出したところで、サイレンが聞こえた。恐怖を煽る赤い光が点滅しながらこちらへと近づいて来る。遠くの方からパトカーが二台ほど向かってきている。私を捕まえに来たのだ。女にアイスピックを刺した容疑で警察が私を捕まえに来たのだ。 案の定、彼らはマンションの前に止まった。中から二、三人の警察官が出てきて、マンションのエントランスへと入ってくるのが確認できた。 慌てて振り返った時には、もう彼女は姿を消していた。戸惑っている内に警察が扉を開けて、私の部屋の中へと入ってくる。 その時初めて私はマリアンヌへ当分行けなくなることを後悔した。 余っている脳みそで、出勤中のリサの姿を想像した。頭の中の彼女は、あの夜『悪女』を歌ったあの唇で、汚れた男たちの反り立った精器を咥えている。 私は警察官に背中を押されながら、この部屋に帰るのも当分先だということに気が付き声を上げた。 「すみません、警察署に行く前に、ゴミだけ出してもいいですか?それはとてもクサイので、近隣の皆様に迷惑を掛けてしまうと思うのです」 警察官は黙れとだけ言って、私の両手を強く引っ張った。 とっくにTシャツの汗は乾いていて、生温く心地のいい風が私の背中を撫でた。
ユニバーサル
「スマホやめてください。危ないです」 自転車で私たちを追い越した警察官が、歩きながらスマホを操作していたおじいさんに注意をする。おじいさんはあっと口から空気をこぼした後、スマホをもんぺのポケットの中にしまった。警察官はそれを目で確認した後、またペダルを漕ぎ出した。彼の背中に張り付いている「POLICE 警視庁」という文字がどんどん小さくなっていく。 「歩きスマホしてる奴ってムカつくよな」 隣りを歩く遠馬が言った。 私はさっきのおじいさんの方を見た。おじいさんはヨタヨタと私たちとは逆の方向へ歩みを進めていた。 「一瞬チラッと画面見るとかなら分かるけど、平気で下向いたまま突進してくる奴とかいるからな。それでぶつかると舌打ち。どうかしてるよ、まじで」 ぶつかるのはあなたも前を見ていないからなのではないかと私は思ったが、それは言わなかった。 「まじでこの世には他人のことを考えずに生きてる奴が多すぎる。みんな自分のことしか見えてない」 クリスマスが過ぎ、役目を終えたイルミネーションが商店街の天井から吊るされている。おそらく年明けまで吊るされているだろう。クリスマスの時は赤や緑に光っていたが、正月は何色に光っていたっけ。幼い頃からこの道を遠馬と何度も通っている。それなのになぜか思い出せないのは、きっと正月とは全く関係の無い色だったからに違いないと私は思った。 遠馬はこの商店街の丁度真ん中辺りにある靴屋の息子だった。そして私はその隣の時計屋の娘だった。歳が同じだから、幼い頃は相当仲が良かった。お互いの家を毎日行き来して、一緒に寝たり一緒にお風呂に入ったこともあった。中学に入るとなんとなく疎遠になった。私は少し寂しかったが、思春期というのはそういうものだと知っていた。 「今日さみいな。俺ん家昨日やっとこたつ出したんだぜ」 遠馬がまた口を開いた。久しぶりに会うと何を話していいのか分からない。たぶん彼は気を使って沢山話してくれているのだ。 「うちも丁度昨日こたつ出したよ。でも全然温まらなくって。たぶん壊れちゃってるんだよね。買い換えればいいのに、ママはまだ使えるからもったいないって」 「お前の母さん、そういうところあるよな」 遠馬は笑って言った。笑った瞬間に唇が切れて血が出た。彼は舌でぺろっと血を舐めてから、上唇と下唇をギュッと閉じた。そして力を込めた後にパッと音を立てて唇を開いた。それでも傷口はパックリと割れたままで鮮やかな血の色がそこに見えていた。私は自分の精器が裂け、そこから血の線が伝うイメージをする。 「お前の母ちゃんと父ちゃん、俺のこと許してくれるかな」 「なんでよ。遠馬は全然悪くないじゃん」 「いや、俺が悪いんだよ。俺は、元々、あの人が、お前のこと、そういう目で見てるって、知ってたんだ」 彼の声が細くなっていく。唇からまた血が流れる。 「俺、小さい時、洗濯任されてたんだ、家で。畳み終わった洗濯物を、あの人のタンスに入れたんだ。その時はよく分からなかったけど、タンスの中に、キャミソールがあって、今思えば、あれ、お前のだよな。びりびりに破いてあって、俺、小さかったけど、それが女物の下着だって分かって、自分の部屋に、持ち帰って、それで、オナニーしてたんだ」 少し遠くで先程の警察官が自転車を止め、直立したまま私たちをじっと見つめている。両目が眼輪筋を飛び出しそうなほど、必死になって私たちを見つめている。 家に着いた頃には、遠馬の唇から血は流れていなかった。血が流れていなかっただけで、傷はまだ残っているのかもしれない。 玄関を開けるとママが出迎えてくれた。ママは遠馬のことを見るやいなや彼の頬を右手で張った。そこから泣きながら、もう顔も見たくないだとか、あんたの父親のせいでこの子はとか、早く荷物をまとめてこの街から出て行けだとか言った。ママの細い首には青い血管が浮き出ていた。遠馬は叩かれた左頬に手を当ててじっと俯いていた。私は何も言わなかった。 後ろを振り返ると警察官はまだ私たちのことを凝視していた。 ママの叫びが商店街のシャッターを揺らす。 天井のイルミネーションがまたピカピカ光る頃には、みんな仲良しに戻れるだろうか。 ああ、思い出した。正月は赤く光るんだ。 ママが私を玄関へ押し込む。遠馬はまだ俯いていて、警察官はいつの間にか姿を消していた。 後になって分かったことだが、私たちがあの日見た警察官は本当の警察官ではなかった。ここは長野県の南部にある小さな村で、東京を管轄としている警視庁の警察官などいるはずがないのだから。 あれから遠馬とは会っていない。 いってきますと声をかけて私は家を出た。 透明なイルミネーションは上から私を見つめている。
切断
私の家では、湯船に浸かる前に、一通り身体を洗い流すことになっている。それは誰に教わった訳でもないのだが、佐々木家に生まれた者としては、成すべき当然の所業であった。 ※ 小学校四年生の時に、私は少し早めの思春期を迎え、一人で風呂に入るようになった。ちょうど陰毛が生え始めた頃のことで、私はそれを両親に悟られるのが恥ずかしかった。クラスメイトのリクは、陰毛が生えるということは大人になるための第一段階なのだと、私たちに力説していたが、私には到底それを誇らしげに思える余裕はなかった。精器は他人に見せるものではない。それは小学校四年生の私にも理解できる至極当然の摂理で、ましてや同世代の皆より一足先に思春期を迎えた私にとっては、精器の周りに情けなく生えている縮れ毛を他人に見せる勇気などなかった。だから私は、堂々とパンツを下ろし、自らの陰毛を引っ張って、その役割を説くリクのことを少し尊敬していた。リクは私と同じような皮を被った粗末な性器を持っていたが、彼のそれは、私のより幾分も逞しいものに思えた。 リクと私はそれなりに仲が良かった。家が近かったことがその主たる理由だろう。 彼は休日になると決まって私の家のインターホンを押す。その後は二人で少し遠出をして、隣町のショッピングセンターへ行くことが日課となっていた。彼はいつも五つ入りのクリームパンを買っていた。 買い出しが終わると、そのまま近くの公園へ向かう。そこには小高い丘があって、その丘の上に二人で登り、先程調達したおやつを食べる。別に何か特別な会話をするわけではない。しかし、私はその時間をとても気に入っていた。時折彼は私の肩へ手を伸ばし、遠くの方へ指を差す。あの山の向こうにある東京のタワーマンションの一番上に住みたい。ユーチューバーになってゴールデンレトリバーを二匹飼いたい。その時には、お前も俺のユーチューブのアシスタントとして雇ってやるから、一緒にスマブラしたり、ケイドロしたりしようなどと言っていた。それが私は嬉しかった。しかし、もっと嬉しかったのは、彼がそうやって夢を語る時、彼の吐息が私の耳たぶを撫でることだった。それはすごく心地が良くて、なんとなく胸の奥が熱くなった。でもそれは、決して口に出してはいけないような気がして、ただ、彼の口から漂うクリームパンの匂いを必死になって覚えようとしていた。 リクはとても性知識ついて詳しかった。私はまだ小学生だったから、その手の話には興味津々だった。彼からセックスのことについても教わった。私は今まで父としかお風呂に入ったことがなかったから、女という生き物の身体の仕組みについてよく知らなかった。リクは母親とお風呂に入ったことがあるらしい。彼曰く、女の精器は男の精器と形状が違っているようだった。どうやら穴ぼこが空いているらしい。そこに、男性器を挿入することで、子供を作ることができるらしかった。一緒にリクの話を聞いていた周りの男たちは、必死になって股間を抑え、クラスメイトの女にも穴ぼこはあるのかとかそんなくだらない質問を彼にしていたが、私は少しおかしいと思った。女には穴ぼこしかなく、男には突起しかないのなら、女同士あるいは男同士でセックスをするときには、どうしたらよいのだろうか。男にも穴ぼこはあるにはあるが、それが排泄物を出す穴ぼこであるということを私は知っていた。 私は思い切って手を挙げて、彼に質問した。 「じゃあ、男同士でセックスをするには、どうしたらいいの?」 先程までわいわいとしていた周りの男たちが一斉に静まり返る。私は何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。 少し経ってから隣にいた男がフッと鼻で笑う。それと同時に爆笑の渦が起こった。 「お前、やっぱりゲイだよな。普通、男と男はセックスしないんだよ」 馬鹿にされていると思った。 私はすごく恥ずかしくなって、助けを求めるようにリクの方を見た。彼だったら、男同士でセックスをする方法を知っているかもしれない。そう思ってリクの方を見やると、彼は気まずそうに私を視界の端で捕らえていた。周りの男たちのように私を揶揄っていたわけではなかったから、私はすこし安堵したが、彼は私と目を合わせようとしなかった。 それから数日経ったある日、学校が終わり家に帰ろうと昇降口に向かうと、数人の男達が私の下駄箱に群がっていた。私に何か嫌がらせをしているのだと直感的に悟った。それは、先日の私の発言が発端となったものであると考えたが、それでも私はよく意味が分からなかった。どうして男と女はセックスができるのに、男と男はセックスができないのだ。悔しくなって、私は制服の袖を強く握った。そのタイミングで、私の下駄箱にいたずらをしていた男の内の一人が、私を見つけた。 「あいつ、萌え袖してる」 私の両手はすっかり袖に隠れていた。 「ほら、やっぱりあいつゲイだ。ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!」 昇降口の吹き抜けに私へのゲイコールが響き渡る。こんなことになるなら生まれてくるんじゃなかったと思った。 瞼の下が濡れているのを感じる。たぶん私は泣いているのだ。奥歯を噛み締めて素知らぬ振りをした。だけど涙は止まらない。 「ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!ゲイ!」 全世界へ私がゲイだということを言いふらされている気がして、私は居ても立ってもいられなくなってしまった。私は勢い良く昇降口を飛び出した。上履きのままだった。 校庭には、黄色い帽子を被った1年生たちが走り回っている。そこに私も混ぜて欲しいと思った。噛み締めた奥歯がグググと鳴って、歯茎から出血しているのを感じる。このまま死んでしまいたかった。 投げやりに車道へ飛び出した私を彼の手が掴む。振り返ると、リクの姿があった。彼は私の袖を握ったまま、気まずそうに下を向いている。 「俺、信じてるから」 彼が突然口を開いた。 「俺、お前がゲイじゃないってこと信じてるから」 その言葉に少し目眩がした。彼は私がゲイじゃないことを疑ってくれないらしい。目の奥が痙攣して、それが脳まで達する。私の目の前にいるはずのリクが、いつの間にか小さくなっていた。確かに彼は目の前にいるのに、どこかとてつもなく遠い場所にいるように感じた。 私は彼の手を振り払って、ありがとうとだけ言って帰路に着いた。隣家の木々がいつもより少し背伸びをして、私を嘲笑しているようだった。 中学生になった頃には、リクと私はすっかり疎遠になってしまっていた。彼はサッカー部に所属していて、センターフォワードとかいう何をするのかよく分からないポジションについていた。一方、私は吹奏楽部に入部し、フルートを演奏していた。特別な理由があって吹奏楽部に入ったわけではなかったが、私はそこでの出来事を今になっても鮮明に覚えている。それほど、吹奏楽部員として過ごした時間が特別な思い出になったのだろう。彼のことも次第に思い出さなくなっていた。お菓子を買って隣町の公園で食べていた日々が、もう何十年も昔のことのように思えた。しかし時々、彼の口から香るクリームパンの匂いを思い出すことがある。そうすると、彼の顔の皺や腕に浮き上がる血管や生暖かい吐息のこともずるずると思い出し始めてしまい、コンクールの最中に勃起してしまったこともあった。私は、それがいけないことだということを十分に理解していた。 中学三年生の十二月、駐輪場で、リクと二組の女が、手を繋いでいた。リクの股間を見やると、今にもズボンのチャックを飛び出しそうなほどの勢いで勃起していた。私は遥か昔、彼とよく行った隣町の小高い丘のことを思い出した。 その女は中村といって、私と同じ吹奏楽部に所属していた。彼女はオーボエを担当していたから、私とはあまり接点がなかった。素朴で幼い顔をした、こじんまりとした女らしい女だった。私は彼女の上履きに痰を吐き捨てたり、彼女のスクールバックの表面をカッターナイフで引き裂いたり、「死ね」とだけ書いた文書を彼女の机の中に忍び込ませたりなどしていたが、彼女は整然として私の反抗を意に介さず、日中は取り巻き共と仲むずましく笑い、放課後はオーボエの練習に打ち込み、リクと手を絡ませて帰路へついた。それで私は、私の味方はどこにもいないのだと悟った。現に彼女にいたずらをしていたのは私だけだったし、徐々に私はクラスでも孤立するようになっていた。尻の穴にボールペンを入れてオナニーをするようになったのも同時期だった。前立腺の奥を彼のぺニスの先端が何度も触れて溶けるのを私は想像する。その度に自分のぺニスが勃起するのに私は嫌悪感を抱いていた。私は女になりたかったし、彼のぺニスを正面から受け止めたかったのだ。 いつの日かの放課後、私は部活へ行く気にもなれず、家庭科室へと向かった。家庭科室の冷蔵庫には、家庭料理部の使う食材が保冷されており、私はそこからいくつかの食品を盗み食べることが日課となっていた。別に腹が減っていたわけではない。とにかく、盗んで食べることに意味があった。冷蔵庫からひっそりと失くなる食材達のように、私もいつかひっそりと消えたいと思っていた。 家庭科室の目の前まで迫る。放課後の学校では、ブオーと鳴く管弦楽器の音や野球の応援の声出しが反響している。節電のために校舎内の電灯は点々としていた。 ふと扉に手をかけると、中から女が喘ぐ声が聞こえた。直感的にそれは中村の声だと分かった。なぜなら、彼女とは同じ吹奏楽部に所属しているし、彼女を毛嫌いしている分、私は彼女のことについて詳しくなっていたからだ。 磨りガラス越しにふたつの影が重なって、少し離れて、また重なる。風船の口から漏れ出たような情けないリクの呼吸が聞こえたから必死に下唇を噛んだ。 私は耳を塞いで、教育テレビの「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」のまいんちゃんのことを考えた。まいんちゃんは私より少し年上の女で、料理が上手い。小学生の頃、リクは、「結婚するならまいんちゃんかな」と言っていた。だから私は、中学生になっても毎日その番組を録画していた。彼女みたいなパッチリとした二重幅を手に入れるために、隣の市のダイソーまで母とアイプチを買いに行ったり、変声期を迎えても可愛らしい声が出せるように、寝る前に喉仏を無理矢理押し上げて、その日のまいんちゃんのセリフをそっくりそのまま朗読したりしていた。 私は磨りガラス越しにリクを見ながら、両手を使って喉仏を押し上げた。定期練習を行っている吹奏楽部員が奏でるフルートの高い音が響く。それを掻き消すように私は「みんなも作ってアラモード!」と叫んだ。ぼやけたガラス越しにリクがこちらを見ている気がしたが、私はそのまま校舎を飛び出した。ドクドクと脈打つ股間を抑えて、家まで自転車を漕いだ。 ※ 私の家では、湯船に浸かる前に、一通り身体を洗い流すことになっている。それは誰に教わった訳でもないのだが、佐々木家に生まれた者としては、成すべき当然の所業であった。 脇の下も耳の裏も丁寧に石鹸で擦り上げる。 ある時、父は、「少しでも洗い残した部分があると、好きな人からクサイって言われちゃうぞ」と、幼い私の陰部の皮を捲って、亀頭の側面を丁寧に洗ってくれた。それが少し痛くてくすぐったくて、そしてなんとなく気持ちがよかった。不意に股関節が砕けたような衝撃が走って、木工用ボンドみたく白くてドロドロした液体が勢い良く亀頭から飛び出した。 父は気持ち悪いエクボを頬に作って、「お前も精子が出るようになったのか」と言った。私は父の前で堂々とお漏らしをしてしまったと、恥ずかしくなって必死にそれを掻き集めた。シャワーから漏れた水滴が床に落ちてポタポタと音を立てていた。 不意に父は私の股間へと顔を近づける。私は自らの精液を掻き集めるのに躍起になっていた。へにゃへにゃと萎れる私の精器を父は一心不乱にしゃぶっていた。先程出し切ったはずの精液が、再度父の口腔へと吸い取られていく。 粘膜と粘膜が接触することがこんなにも気持ちが良いなんて知らなかった。眼下には父の白髪混じりの後頭部が見える。彼の剃り残した頬の毛が下腹部に当たる。それも気持ちが良い。 顔面にはニキビ跡の凹凸があり、背中にも薄らと毛が生えている。そんな男が白目を剥きながら一心不乱に私の精器を咥えていた。 明日は母と衣料用品店に行って、キャミソールを買うことになっている。乳首の先を優しく撫でると、少しだけ女に近づけたような気がした。そして、私が無事女になれたら父のことを殺してやろうと思った。 一通り体を洗い終えたところで、正面を向くと、鏡には私の情けない陰毛が映っていた。今日のまいんちゃんは、確かキャベツの千切りしていた。トンカツのお供にキャベツの千切りはとても合うらしい。まいんちゃんにも他の女と同様に穴ぼこがあるのだろうか。まいんちゃんは私よりも年上だから、もう陰毛がびっしりと生えているだろう。その時の私は、もしかして本当にキャベツの千切りを食べたかったのかもしれない。 ずぶ濡れのまま浴室を出た。ネプリーグを必死に見ていた父が私に気づき、動揺して声を上げる。 「おい!しっかり体拭いたのか!」 私はそれを無視してキッチンの灯りを付ける。母が先程洗い物を終えたのだろう。食洗機の中から少し濡れた出刃包丁が剥き出しのまま私を見つめていた。 私は右手でそれを手に取って、股間へ押し当てる。精器ごと切り落とすにはとても力が必要だったから、私は暇そうにしていた左腕を強く噛んだ。幼い頃接種したはんこ注射の痕が見えた。 キッチンの床にボタボタと血が滴り、ぐちゃっと音を立てて精器が床に落ちた。 海綿体だった物はヒクヒク微動しながら、血溜まりを吸って少し大きくなった。 切断面は熟したトマトのように赤く、一定のリズムで血を吹き出している。その切断面の隙間から何らかの役割を果たしていたはずの管がニョロニョロとはみ出していた。その管を包丁ごと胎内に押し込んで、必死に腟を形成する。必死に子宮の形を思い浮かべた。その形の通りに臍の奥を掘る。手を動かす度に血が溢れた。私は瞼の裏を見ていた。 血液が体外へ出ていって、徐々に脳みそに意識が回らなくなってくる。それでも私は人差し指と中指を使って、股間に穴ぼこを掘った。ぴかぴかと脳みその中に青白い稲妻が走って、腰がガクガク痙攣した。私は次第に立っていることすら出来なくなり、そのまま膝から床へと崩れ落ちた。強く頭を打った。股間から吹き出していた血液が私の唇に付着する。なんだかそれがイカ臭くて、いつの日か彼を想って射精した精液のことを思い出した。 父が「何をやってるんだ!やめなさい」と叫ぶ。私の背後に回って、包丁を取り上げようとしている。依然として私の右手は子宮と腟を作るのに躍起になっていた。その時、耳たぶを撫でたのは、クリームパンの匂いではなく、臭い煙草の匂いで、私は明日少し見栄を張ってMサイズのキャミソールを買おうと決心した。
こわす
甲府南インターチェンジから高速道路に入る。目の前には「長野行き」と書かれた看板が左に、「東京行き」と書かれた看板が右にあって、私は少し迷ってから、右へハンドルを切った。 助手席に座るミサキが焼きそばパンを頬張っている。私は焼きそばパンを買う人間のことを軽蔑している。焼きそばが食べたい時には焼きそばを食べるし、パンを食べたい時にはパンを食べる。焼きそばには焼きそばの良さがあり、パンにはパンの良さがある。二つ合わせれば良いものになるというわけではない。車内に焼きそばの匂いが充満するのが嫌で、私は運転席の窓を少しだけ開けた。彼女に気づかれないように。 「仕事何時からだっけ」 窓を開けたことが悟られないように、私は彼女に尋ねた。 「シフトは21時から。でも別に間に合わなくても怒られたりとかしないし、ゆっくりでいいよ」 月曜日午後六時の中央道は空いていて、開いた窓からは排気ガスの匂いがする。 「てか、寒くね。なんで窓開けたの」 私はもごもごと言葉を反芻しながら、「外の空気を吸いたかったから」と言った。 ミサキは中学の同級生だった。と言っても、当時の私と彼女に主だった関係は無く、時々自転車置き場で話をする程度だった。彼女は吹奏楽部に所属していてフルートを専門に演奏していたらしい。私は家庭料理部という何をするのかよく分からない部活に所属していて、週に一回、イワシの蒲焼きや鮭のホイル焼きなどの低予算のおかずを作っていた。 彼女は、まず見た目からして群れの真ん中にはいなかった。落ち着いた黒髪を肩より少し下で結び、風に揺れるたびに光を吸い込むような艶があった。染めてもいないし、巻いてもいない。髪に余計な飾りもつけない。その自然体は一見地味に見えるけど、よく見ると妙に整っている。まるで触れたら、静かな水面に石を投げ込んだように、波紋が広がりそうな繊細さがある。顔つきは冷たく見えた。無表情というより、感情の出し方が控えめなだけなのだけど、私には何を考えているのか分からなかった。いつも一歩だけ後ろに下がってついていく。相手の話を静かに聞いているのに、会話に参戦しようとはしない。何か話しかけても短い返事ばかりで、そこに大きな抑揚はない。誤解を招きやすいけれど、それは素っ気ないわけじゃなく、ただ言葉を慎重に選ぶだけなのだ。そんな口下手なところがより一層私の中で彼女の神秘性を高めた。 また、彼女は男子との縁がなさそうに見えた。 彼女自身はただ感情の起伏が無いだけなのに、男子からするとハードルが高い。話しかけても反応が淡々としているから、男たちは勝手に諦めて距離を置く。 実際、彼女は恋愛に疎くて、誰かに好かれても気づかない。好かれている事実に実感がないから、無意識に距離を取ってしまうのではなかったのだろうか。興味がないんじゃなくて、どう接したらいいか分からないだけ。また、ほんの小さな特徴だけど、歩き方にも彼女らしさが出る。急がない、無駄に走らない、でも迷いがなくて静かに早い。まるで、誰の視線にも左右されずに、自分のペースだけを守っているような歩き方だ。制服のスカートを揺らして歩く彼女が視界の端に映るたびに、私は必死になってペニスに血液を集めていた。 焼きそばパンの匂いが完全に外に逃げたことを確認した私はゆっくりと窓を閉めた。可動域の限界まで倒した助手席に寝転がる彼女のうなじには、青色の静脈が通っている。 「食べてすぐ寝ると太るよ」と私は言った。 「私、太らない体質だもん」と彼女は言った。 「談合坂、そろそろだけど、寄る?」と、私が尋ねると、彼女は細長い首を縦に振った。 夕方の談合坂サービスエリアには、旅を終えた家族連れがゆっくりと流れ込んでいた。桔梗屋の信玄餅の紙袋を手にした子どもの顔が、沈みかけた陽の色と混ざり合い、遠くから見るとひとつの淡い灯のように揺れていた。その輪郭の柔らかさを眺めていると、胸の奥にあたたかいのか寒いのか判然としない風が吹き抜けた。 私はベンチに腰かけ、無料の緑茶が入った紙コップを手にしたまま、人々の行き交いを追っていた。誰もが少し疲れて、それでもどこか満ち足りて見える。家族という小さな船に乗って、日常へ戻っていく準備をしているのだろう。彼らの歩幅は妙にそろっていて、そこに自分の入る余地はないのだと気づいた瞬間、指先がわずかに痺れた。夕暮れは境界線を曖昧にする。空の青さは引き潮のように薄れ、その隙間を埋めるように車のテールランプが点々と灯る。その赤はどれも他人の帰路で、どの灯りも自分のためにはともっていない。そんな当たり前のことが、なぜだか胸に少し重く沈んだ。 ふと視線を感じ、振り返ると、ソフトクリームの看板の下でミサキがこちらに手招きをしていた。 顔の前で小さく手を合わせ、子どものように欲しがる仕草をする彼女の姿見て、私の心は少しおかしくなってしまった。 車内に戻って来た時には、ミサキは既にソフトクリームの半分を平らげていた。 鍵を刺し、エンジンをかけた所で、思い出したようにミサキは喋り始めた。 「そういえばこの間、お客さんのうんち食べたの」 私は、目の前に止まっているBMWに乗り込む家族連れを見ていた。 「うちの店、裏オプでそういうのはあるんだけど、衛生的にもちょっと怖いじゃん。だから、私、今までずっとスカトロ系は断ってきたんだけど、その人、すごいガシマンだったから、断ったら何されるか分からなくて」 左手に父の手を、右手に母の手を握ったまま、女の子は後部座席のチャイルドシートに座る。 「だけどね、その人、うんち食べたら、2万円くれたの。本番はしなかったのに」 チャイルドシートに座らされた女の子は、両手で野沢菜焼きを頬張っている。あんなに幼いのに野沢菜焼きの良さが分かるのだろうか。 「今日もたぶんその人来るんだよね。ダブルで予約してるから、たぶんまたうんち食べさせられると思う」 運転席に座った父親が、後部座席を振り返って声を掛けた後、エンジンをかける。 「じゃあ、そろそろ行こうか」 私はミサキに声を掛けた。 彼女はジーンズの中に手を突っ込んで、ナプキンの位置を探っている。そこから酸っぱい血の匂いがする。 私は思い切りアクセルを踏み込む。 叩き起された私のロードスターは、目の前のBMWへ向かって一直線に突き進んでいく。
破局
豚の鳴き声の端々にはどこか悲哀に似たものが混じっていて、私はそれを聞くと彼らに少しでも近づきたいと感じる。 小学四年生の頃、私はユイという同学年の女の子に恋をしていた。彼女は艶やかな黒髪に、陶器のような白い肌を持ち、それでいて男のことを軽蔑しているようであった。 同時期に開催された運動会で、4年生の私たちはソーラン節を披露することになっていた。北海道とは縁もゆかりも無い私たちはオリジナルのソーラン節を披露する他なく、その演目の最中に男女ペアを組んで、恋人繋ぎをしながらAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」に合わせて踊る時間が設けられていた。小学四年生ながらに私は、それは本家のソーラン節に対する冒涜なのではないのかと思っていたが、その当時の先生の言うことは絶対で、反論する余地などなかった。 普段異性と接点のない私にとっては、手を繋ぐことのできる絶好のチャンスだったから、私は意気揚々とペアになった子と手を繋ぎながら、恥ずかしげもなく踊ったのを覚えている。ペアになった奴の名前はもう覚えていない。 ふと目をやると、ユイちゃんの周りには何やら人だかりができていた。当時担任だった原田先生も困り果てた様子で彼女の話を聞いている。どうやら、ユイちゃんの極度の男嫌いが発症して、あろう事か彼女はペアになった男子と手を繋ぐことを拒み、それを気に病んだペアの男子が泣き出してしまったらしい。この事件は後にユイ事変と呼ばれることになるが、その事が私の中で彼女の神秘性をより一層高めた。私はとにかく彼女に触れたかった。 ある休日、私は友人らと遊んだ帰りに学童の前を通った。日は暮れ、人気のない学童を不気味に思った私が足早にそこを立ち去ろうとしたその時、低い獣の声が鳴った。豚の声だと私はすぐに気がついた。学童の裏手には豚小屋があり、番いの豚2匹がそこで飼育されていたのだが、糞尿の匂いが酷く、そこへは誰も立ち入らなかった。当然私も立ち入ったことが無かったのだが、その時の私はどういう訳か躊躇することなく豚小屋へと歩みを進めた。 学童の裏手に周り、彼らに察知されないように息を殺して観察することにした。一匹の豚が、もう一匹の豚に覆いかぶさって、唸り声を上げながらいそいそと腰を動かしている。それを見て、私は友人宅で興味本位に見たアダルトビデオのことを思い出していた。それは私たち人間とは違い、畜生の皮を被っていたが、私はそれに妙な興奮を覚え、喉の奥から何か熱いものがせり上がってくるのを感じた。 日はとうに暮れ、門限が迫っていたが、私は少しでも長い時間この景色を眺めていたかった。糞尿の匂いにも少し慣れ始めた頃、突然私の視界が真っ暗になる。 「だーれだ」 誰かが耳元で囁く。どうやら何者かに目隠しをされているようであった。 「ええ、わからないよ。だれだれ」 私は、隠れて豚の戯れ合いを眺めていたことが誰かにばれたと知って、急に恥ずかしくなった。すぐに眼前の手を退けて後ろを振り返る。そこにはユイの姿があった。彼女は驚く私に肩を寄せ、豚小屋の方を指して言った。 「あんまり大きな声出しちゃダメ。豚さんたち、交尾やめちゃうよ」 彼女の生暖かい吐息が私の耳や頬を撫でる。少し麦茶の匂いがした。さっきまで飲んでいたのだろうか。 「こうびってなに?あの豚たちは何をしているの?」 「あの豚さんたちは、今、子どもを作っているの」 私には彼女の言っていることがよく分からなかった。しかし、耳を撫でる彼女の声と豚たちの唸り声、そして彼女のその口から香る麦茶の匂いと糞尿の匂いが私を得も言われぬ快感へと導く。彼女が「交尾」について説明している間、私は自らの性器を撫でたい思いでいっぱいだった。 今にして思えば、私の性の目覚めはおそらくその時であった。私は初恋の女の子から性行為の何たるかを教わったのだ。それは今にしても当然私の劣情を加速させるものであった。 遠い昔の彼女の姿を思い浮かべる。最後に彼女と会ったのは小学校の卒業式だ。あれ以来、彼女の姿は全く見ていない。 そうだ。確か君は赤い色のランドセルを背負っていて、毎日通学路にいる猫に話しかけていた。確か君は肩まで伸びる黒髪を後ろでひとつに結んでいたし、君の口元には小さなほくろがあったんだ! 麦茶の匂いを嗅ぎながら、ジーンズの上から性器を撫でた。私はとてつもない闇の中にいた。 次の日の私はとても積極的で、事ある毎に彼女に話しかけた。今日の算数の課題は難しかっただの。昼休みにアイツが女子トイレに侵入しただの。そういうどうでもいい話を彼女のもとに届けて、彼女のご機嫌を伺った。五校時が終わったあと、彼女は訝しそうに私を見つめて、「ちょっと放課後、話があるから、音楽室まで来て」と言った。 放課後、私が音楽室を訪ねると、彼女は私を睨んで少し身構えるような素振りを見せた。それは他の男子に見せるそれであった。すぐに彼女は口を開く。 「ねえ、私のこと好きなの?」 ユイちゃんはそう言って私ののことを視界の端で睨んだ。私は正直に言うべきだと思った。 「うん。好きだよ。ずっと好きだった。豚小屋で話しかけられた時からさらに好きになっちゃって。もう本当に君のことが好きで、どうか私と付き合ってくれませんか」 これで告白を成功させたら革命だと思った。死んでもいいと思った。でも彼女の返事は少しよく分からなものだった。 「でも、あなたって女の子じゃない」 私はよく分からなかった。確かに私は女だ。しかし、女のユイちゃんに恋をしたのだ。劣情さえ覚えたのだ。それを今更確認する必要がどこにあるのだろうか。 「そうだよ。私、女だよ。それで、私と付き合ってくれる?」 「いや、無理だよ。女と付き合うのは。だって、私も女だよ?女と女が付き合うのって意味わからないでしょ。気持ち悪い」 意味がわからないのは私の方だった。彼女は確かに男を極度に嫌っていた。そんな彼女が女と付き合わなかったら、誰と付き合うのだ? 彼女は「気持ち悪い」と吐き捨てて音楽室を後にした。そこには私だけが残った。 久しぶりに豚小屋へ訪れると相も変わらず彼らは交尾をしていた。ツーンとした匂いが私の鼻腔を刺激して、それに反応した私の瞳が涙を流す。 彼女が男にも女にも恋しないと言うのなら、一体彼女は何に恋をするのだろうか。 豚か? 一つの答えが私の頭の中を過ぎって、もう一度ツーンとした糞尿の匂いが私の鼻腔を刺激した。気づいた時には、既に全裸で豚小屋に飛び込んでいた。 彼らと同じように糞尿を垂らしてみたが、それは思っていたよりも開放的で、私にかつての快感を思い出させた。 フェンスの向こう側から声がする。誰かに見られたのかもしれない。 自らの肛門を滴る糞尿の冷たさに気づいて、尻に鳥肌が立つ。 私は勢い良くブヒーーーっと鳴いて、彼女の口から香った麦茶の匂いを思い出してみた。その時の私は酷く泣いていて、尻を伝う糞尿にただ悲哀を感じていた。
アイドル
改札を抜けると、ブサイクな女が私を待っていた。 目は小さく唇は分厚い。そしてなぜだか、額と口元がもっこりと突き出ている。よくもまあこんなにブサイクな人間が出来上がるものだと感心してしまう。神様は片手間に彼女の顔面を造ったのだろう。よく見ると、ブスなりに化粧をしているではないか。ブスはブスなりに一丁前に世間の皆様から少しでも良く思われたいのだろう。そんなことを考えると、ブサイクとして生まれた彼女のことが気の毒でたまらなかった。私は心の中で少し泣いた。 「もう、ちょ〜待ったんですけど💢」 女はわざとらしく唇を尖らせる。私は小さい頃図鑑で見たナポレオンフィッシュのことを思い出した。 「ごめん、乗り換えミスっちゃって」 私は顔の前で手を合わせて、ナポレオンフィッシュの顔を覗き込んだ。 「別にいいけど、今度からは気をつけてね」 "今度"という言葉に引っかかる。このブスは、"今度"があると思っているのだろうか。ブスが調子に乗っていることを何よりも嫌う私は苛立ちを覚えた。 「わかった」 わざと素っ気ない返事をした。 彼女は一瞬怯んだ後、じゃ、行こっかと言って歩き出した。私は先程の苛立ちも忘れて彼女の影を追いかけた。 練馬高野台駅周辺にはこれといって目立った施設は無い。団地やマンションが立ち並んでいて、只々閑散としていた。 「ここから歩いてどれくらい?」 「うーん、5分ぐらいかな」 5分もこのブスと一緒に歩かなければならないのかと思うと少し憂鬱になる。 私と彼女しかこの街には存在していないのかと錯覚するほど、静かに街は私たちを凝視していた。 石神井川の沿道を通るタイミングで彼女が口を開いた。 「ここね、春になると桜がたくさん咲くの」 「へえ、そんなの絶対綺麗じゃん」 「めっちゃ綺麗だよ。でもね、私ここの桜嫌いなの」 「どうして?」 「ここでね元カレに振られたの。3年ぐらい付き合ったんだけどね、どうしても君の顔が好きになれないって言われて」 私は川の流れをじっくりと観察していた。大きな鯉がゆっくりと泳いでいた。 「本当に意味わかんない。私、こんなにかわいいのに!親からは宮崎あおいに似てるって言われて育ったのよ!!!絶対に私はかわいいに決まってる!!!だからね、絶対に見返してやるって決めたの。私のかわいさを知らしめてやろうって。だって私ってこんなにもかわいいんだから!」 彼女の家に着く頃には時刻は昼の12時を回っていた。なんとなくテレビをつけるとヒルナンデスが放映していて、南原清隆が共演者らとはしゃいでいた。 「ナンチャンで笑ったことある?」 私は不意に彼女に尋ねた。 「ない」 彼女はロープをほどきながら淡白にそう答えた。 私はふっと笑って彼女の手伝いをすることにした。 まずロープを真っ直ぐに伸ばす。その後、小さな輪っかを作る。輪の下から先端を通して、ぐるぐると回したあと、もう一度輪の中に先端を通す。あとはここに首を通すだけで完了である。 ロープの反対側をロフトベッドの柵にしっかりと結びつけた。私は深く息を吸った後、彼女に尋ねた。 「では、最後に言いたいことはありますか?」 彼女は唇を震わせながら答える。 「お母さん、お父さん、産んでくれてありがとう。ミキ、ユイ、こんな私と仲良くしてくれてありがとう。みんなの幸せをいつまでも願っています」 イスの上に立つ彼女の足はガタガタと震えている。ブサイクな女が奥歯を必死に噛み締める表情は少し可笑しくて、私は頬に力を入れてそれを悟られないように努めた。 「じゃあさようなら」 私は勢い良くイスを蹴り飛ばした。ぎゅぅっとロープが伸びる音が聞こえる。あと南原清隆の声も聞こえる。 血が滞って顔面が紅潮している。必死に息を吸おうとするその姿は、陸に打ち上げられた魚そのものだった。今にも飛び出しそうな眼球を必死に瞼で抑え、首を絞めるロープを爪で引っ掻きながら足をばたつかせている。 彼女はぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっと喉の奥から音を出し、最後の力を振り絞って泣きながら叫んだ。 フ゛サ゛イ゛ク゛に゛う゛ま゛れ゛て゛こ゛め゛ん゛な゛さ゛い゛!!! やがて動かなくなった彼女をロープから解き、服を脱がせた。カーディガン、シャツ、キャミソールを丁寧に脱がせると紫色の乳首が露出した。私は喉の奥から溶岩がせり上がってくるのを感じて、そのまま屍姦した。美人よりブサイクの方が滾る。 やがて絶頂に達し、ほとばしる精液が床を濡らして私は彼女のブサイクな顔面にまた苛立ちを覚えた。 「死ね!ブス!」 顔面と乳房を思いっ切り蹴って、シャワーも浴びずに部屋をあとにした。ちょうどミヤネ屋が始まる頃だったと思う。
禁物
ああ、人生なんてくだらないな 2004年の冬、フラスン共和国のリヨンで生まれた私には、左首に直径3cm程のアザがあった。この国でアザは悪魔の息が掛かった人間の印であることを知る由もない出生したばかりの私は、そのまま孤児院へと引き取られることとなった。悪魔の子供を産んだとされた実母は気を病み、私を産んですぐに自死を選んだ。実父はパリ大学で民俗学を教えていた教授であったらしいが、彼女の死の責任を私とそのアザに押し付け、私をリヨンの片田舎の孤児院へと預けた後、行方をくらませてしまった。 孤児院での生活は私にとって地獄そのものであった。私はアザを理由に皆から軽蔑され、いつも独りで過ごしていた。 私が6歳になる頃、1人の日本人が孤児院へとやってきた。孤児院で定期的に開催されていた異国語を教える授業の教師としてやって来た男だった。彼は自分を「キヨタカ・ナンバラ」と名乗った。私たちは彼をナンチャンと呼び慕っていた。 ナンチャンがやって来てから私は日本に恋焦がれるようになる。それは彼が教えてくれる日本の様々な文化に心惹かれてしまったためだ。特に私が心惹かれたものが「ハラキリ」という文化であった。日本では古来より自分の犯した不始末の責任を取るために、自らの腹を切るという文化があったのだ。私は衝撃を受けた。そしてこの時に私は自分の死に方を決めた。悪魔の子と軽蔑され、自らの母を死に追いやった私にぴったりな死に方だと思った。 時は経ち、18歳の頃、私は日本へ移住することを決意した。「ハラキリ」を行うなら日本だろうという安易な考えの為であったが、私はそこで運命的な出会いを果たす。 ある夜、私が新宿西口の小田急百貨店1階にある喫茶店に何気無く入店した時のことだった。 「こちらの席へどうぞ」 店員に誘導され席に着いた私はブレンドコーヒーとナポリタンを注文し、混み合う店内をただ眺めていた。 「あの、お隣いいですか?」 女の声が聞こえた。私は驚いて振り向くと、私と同年代くらいの女がこちらへ顔を覗かせていた。 「あ、僕ですか?」 「そう。あなた独りで来たでしょ」 随分馴れ馴れしい女だと思った。私は初対面で距離が近い人間を信用していない。 「ごめんなさい、ナポリタン食べたらすぐお店出ようと思っているので」 「じゃあ、あなたがナポリタンを食べ終わるまでならいい?」 図々しい女だ。しかし不思議と嫌な気分はしなかった。 「じゃあ少しだけなら」 女との会話は楽しかった。ナポリタンなどそっちのけで彼女と話し込んでしまった。政治、信条などについて熱い議論を交わしていた訳ではなく、飼ってる猫がどうだの、近所のおばさんがこうだのといった、本当にありふれた他愛無い会話であったが、妙に心地が良かった。3時間ほど話し込んでいただろうか。店員に声を掛けられ、店の閉店時間が近づいていることを知る。 「そろそろ帰ろうか」 彼女がコーヒーの最後の一杯を口に運んだ。 私はどうしても最後に訊ねておきたいことがあった。 「どうして、僕と話をしてくれたんですか」 彼女は私の目をじっと見つめ呟いた。 「あなたの首のアザ、素敵だと思ったから」 その瞬間、私の人生はこの時のためにあったのだと確信した。フラスン時代に悪魔だと蔑まれた私のアザをこの女は素敵だと言った。気が付くと私は涙を流していた。 「ちょっと、なんで泣いてるの」 彼女が驚いて、私の涙を拭う。 「ありがとう、ありがとう」 私は彼女にひたすら感謝をしていた。 会計を済ませ、店を出た。日付が変わったばかりの新宿にはまだたくさんの人がいる。 「最後に名前、聞いてもいいかな」 私は勇気を振り絞って訊ねた。また彼女を見かけた時に声をかけようと考えていたからだ。 「まんこ姫」 彼女は確かにそう言った。 「え?ごめんごめん、名前を教えて欲しいなと思って。まだ聞いてなかったから」 「だから、まんこ姫」 私は思わず吹き出してしまった。 「まんこ姫はだめだろ。名前にまんこが入ってちゃ」 私は彼女がふざけているのだと思った。だから大袈裟に笑った。 「名前に女性器が入ってたらやばいでしょ」 すると彼女は急に俯き、ぶつぶつとなにかを呟いた。 「あなたも、そうやって、ばかにするのね、わたしの、なまえを」 私は咄嗟に彼女をなだめようと顔を覗き込む。 彼女は涙を流していた。 状況を飲み込むことができない私は、まんこ姫の手を取り、とりあえず駅の方へ歩き出そうとした。しかし、まんこ姫はその手を振りほどき、駅とは反対の方向へ走り去って行ってしまった。小さくなっていくまんこ姫の背中を私はずっと見つめていた。私は自責の念に駆られた。 「ハラキリをするなら今しかない」 神がそう私に呟いた気がした。私は携帯していた日本刀を鞘から抜き、自らの腹部へと突き立てた。血が溢れ、やがて内臓が顔を見せる。私はそれを見て、その昔ドイツのウィーンで食べたソーセージを思い出した。 私に気づいた通行人が叫び声を上げる。大都会東京では様々な人間が生活を繰り返している。一人の酔っぱらいが私にぶつかり耳元で囁いた。 「ああ、人生なんてくだらないな」
JK
ペディキュアを塗りながら、映画を観ていた。夢中になって観ていたから、映画が終わっても手にペディキュアを握りしめていた。外が明るくなってきて、カーテンから朝日が差し込む。私はそれで映画が終わったことに気がついた。私の頭の中で映画の登場人物たちがふわふわしている。その狭間で私は文京区シビックセンターのことを考えた。幼い頃、父と母に連れられて一度だけ訪れたことがある。思えばそれが最初で最後の家族旅行だったが、当時の私はそのことを知らなかった。そして、父のことも母のことも愛していた。 ハードディスクからDVDを取り出し、CDラックの上に適当に置いた。今日は弁当を用意する必要はなかったから、長い時間を掛けて髪の毛を束ねることができる。いつもの私は行動に移すまでに長い時間を要するが、今日はまるで自分という映画のダイジェスト版を観ているかのように、朝の支度をこなしていた。タンスの上から二番目に入っているキャミソールを取り出す。腕を通そうとしたところ、脇の下辺りに小さな穴が空いていることに気がついた。どこかで引っかけたのだろうか。私はその穴を見なかったことにした。誰も私のキャミソールを見る機会など無いからだ。 ブレザーに袖を通すと憂鬱な気分になる。でもそれは学校を休む理由にはならない。今日は余裕をもって家を出ることができると思っていたが、気がつけば最寄り駅に電車が来るギリギリの時間だった。部屋には誰も居ないが、いつも私は玄関の扉を開ける前に「いってきます」と言うようにしている。もちろん返事はないが、ベッドの上でいつも私を見守る猿のぬいぐるみがいつか「いってらっしゃい」と返事をしてくれるのを期待しているのだ。私は扉を勢いよく開け、大きく息を吸い込んだ。 頭の中ではさっき観た映画の登場人物たちがまだふわふわしている。私はその狭間で愛している父と母のことを考えた。
うれしい出産
電車を乗り継いで汐留まで向かった。都営大江戸線の改札を出て右手にある商業施設に入る。有名なミュージカルシアターがある大きな入口ではなく、ファストフード店が近くにある簡素な入口だ。 ここまで来ればもう彼らも追ってくることはないだろう。ミサキは一息ついてから、自らの腹に手を当て我が子の胎動を感じた。一定のリズムで腹を蹴っている。ミサキは機械的なそれを少し不気味に思った。 ぎぎぎ 音が鳴ってから酷い鈍痛に襲われ、その後破水した。 ぎぎぎ それは明確な意志を持っているような(しかし機械的な)動きをしていた。 急いでトイレの個室に駆け込み、泣きながらいきんだ。激しい痛みとともにミサキのお腹の中から大きめのネジが出てきた。ナットも付いていた。ミサキはつい先の激痛も忘れ、ただただ困惑した。 この半年、私はこのネジを産むために様々な苦痛に耐えたのかと思うと、なにか悲壮感に近いものに襲われた。ひとり個室のトイレで泣いた。私はなんでこんなものを産んでしまったのだろう。激しく後悔した。自分を呪った。恐らくこのネジはひとりで生きていくことが出来ない。私は死ぬまでこのネジの扶養人として生きなければならない。そう思うと怖くてたまらなかった。 結局、そのネジはトイレに流すことにした。個室にはミサキの血と臍帯だけが残った。罪悪感は無かった。ミサキは海に行こうと思った。小型ボートを借りて、自らオールを手に取り、霧の向こうの幻想的な島に向かうのだ。そして、そこでひとり絵を描いて暮らす男と結婚する。ミサキはそういう妄想をした。性器に着いた血をトイレットペーパーで綺麗にふき取って、颯爽とトイレを後にする。 艶やかな長髪にビシッと襟を正したスーツ、そして僅かに血が付着したパンツとハイヒールを履く彼女の首には、大きく重厚なナットが何らかの明確な意志を持って、はめ込まれていた。
燃える自転車
自殺に失敗した帰り、マンションの駐車場で自転車が燃えていた。私のじゃないし、知り合いのでもないと思う。 小さい頃から火が好きだった。つい先まで存在していたモノが存在しないモノになる過程を見ることができるからだ。幼少期からマッチでよく遊んで母に叱られていた。 やがて人が集まり、火は消えた。 自転車は黒ずんで原型を留めていない。 その自転車だったモノも数分後には綺麗さっぱり無くなり、人も居なくなり、見慣れた静かな駐車場へと姿を戻した。 その一部始終を私はずっと見ていた。 自室に戻り、私は燃えていた自転車を想いながら自慰行為をした。その後、野菜炒めを作って風呂に入って髪は乾かさずに寝た。明日の自分に怒られそうだ。 布団に入ったタイミングでもう一度自慰行為がしたくなった。会社に務めるようになってから、欲に従順になった気がする。初恋の彼を思い出して湿った部分に折り曲げた指を入れたその瞬間、あの燃えていた自転車は完全にこの世から姿を消した。