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12 件の小説破局
豚の鳴き声の端々にはどこか悲哀に似たものが混じっていて、私はそれを聞くと彼らに少しでも近づきたいと感じる。 小学四年生の頃、私はユイという同学年の女の子に恋をしていた。彼女は艶やかな黒髪に、陶器のような白い肌を持ち、それでいて男のことを軽蔑しているようであった。 同時期に開催された運動会で、4年生の私たちはソーラン節を披露することになっていた。北海道とは縁もゆかりも無い私たちはオリジナルのソーラン節を披露する他なく、その演目の最中に男女ペアを組んで、恋人繋ぎをしながらAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」に合わせて踊る時間が設けられていた。小学四年生ながらに私は、それは本家のソーラン節に対する冒涜なのではないのかと思っていたが、その当時の先生の言うことは絶対で、反論する余地などなかった。 普段異性と接点のない私にとっては、手を繋ぐことのできる絶好のチャンスだったから、私は意気揚々とペアになった子と手を繋ぎながら、恥ずかしげもなく踊ったのを覚えている。ペアになった奴の名前はもう覚えていない。 ふと目をやると、ユイちゃんの周りには何やら人だかりができていた。当時担任だった原田先生も困り果てた様子で彼女の話を聞いている。どうやら、ユイちゃんの極度の男嫌いが発症して、あろう事か彼女はペアになった男子と手を繋ぐことを拒み、それを気に病んだペアの男子が泣き出してしまったらしい。この事件は後にユイ事変と呼ばれることになるが、その事が私の中で彼女の神秘性をより一層高めた。私はとにかく彼女に触れたかった。 ある休日、私は友人らと遊んだ帰りに学童の前を通った。日は暮れ、人気のない学童を不気味に思った私が足早にそこを立ち去ろうとしたその時、低い獣の声が鳴った。豚の声だと私はすぐに気がついた。学童の裏手には豚小屋があり、番いの豚2匹がそこで飼育されていたのだが、糞尿の匂いが酷く、そこへは誰も立ち入らなかった。当然私も立ち入ったことが無かったのだが、その時の私はどういう訳か躊躇することなく豚小屋へと歩みを進めた。 学童の裏手に周り、彼らに察知されないように息を殺して観察することにした。一匹の豚が、もう一匹の豚に覆いかぶさって、唸り声を上げながらいそいそと腰を動かしている。それを見て、私は友人宅で興味本位に見たアダルトビデオのことを思い出していた。それは私たち人間とは違い、畜生の皮を被っていたが、私はそれに妙な興奮を覚え、喉の奥から何か熱いものがせり上がってくるのを感じた。 日はとうに暮れ、門限が迫っていたが、私は少しでも長い時間この景色を眺めていたかった。糞尿の匂いにも少し慣れ始めた頃、突然私の視界が真っ暗になる。 「だーれだ」 誰かが耳元で囁く。どうやら何者かに目隠しをされているようであった。 「ええ、わからないよ。だれだれ」 私は、隠れて豚の戯れ合いを眺めていたことが誰かにばれたと知って、急に恥ずかしくなった。すぐに眼前の手を退けて後ろを振り返る。そこにはユイの姿があった。彼女は驚く私に肩を寄せ、豚小屋の方を指して言った。 「あんまり大きな声出しちゃダメ。豚さんたち、交尾やめちゃうよ」 彼女の生暖かい吐息が私の耳や頬を撫でる。少し麦茶の匂いがした。さっきまで飲んでいたのだろうか。 「こうびってなに?あの豚たちは何をしているの?」 「あの豚さんたちは、今、子どもを作っているの」 私には彼女の言っていることがよく分からなかった。しかし、耳を撫でる彼女の声と豚たちの唸り声、そして彼女のその口から香る麦茶の匂いと糞尿の匂いが私を得も言われぬ快感へと導く。彼女が「交尾」について説明している間、私は自らの性器を撫でたい思いでいっぱいだった。 今にして思えば、私の性の目覚めはおそらくその時であった。私は初恋の女の子から性行為の何たるかを教わったのだ。それは今にしても当然私の劣情を加速させるものであった。 遠い昔の彼女の姿を思い浮かべる。最後に彼女と会ったのは小学校の卒業式だ。あれ以来、彼女の姿は全く見ていない。 そうだ。確か君は赤い色のランドセルを背負っていて、毎日通学路にいる猫に話しかけていた。確か君は肩まで伸びる黒髪を後ろでひとつに結んでいたし、君の口元には小さなほくろがあったんだ! 麦茶の匂いを嗅ぎながら、ジーンズの上から性器を撫でた。私はとてつもない闇の中にいた。 次の日の私はとても積極的で、事ある毎に彼女に話しかけた。今日の算数の課題は難しかっただの。昼休みにアイツが女子トイレに侵入しただの。そういうどうでもいい話を彼女のもとに届けて、彼女のご機嫌を伺った。五校時が終わったあと、彼女は訝しそうに私を見つめて、「ちょっと放課後、話があるから、音楽室まで来て」と言った。 放課後、私が音楽室を訪ねると、彼女は私を睨んで少し身構えるような素振りを見せた。それは他の男子に見せるそれであった。すぐに彼女は口を開く。 「ねえ、私のこと好きなの?」 ユイちゃんはそう言って私ののことを視界の端で睨んだ。私は正直に言うべきだと思った。 「うん。好きだよ。ずっと好きだった。豚小屋で話しかけられた時からさらに好きになっちゃって。もう本当に君のことが好きで、どうか私と付き合ってくれませんか」 これで告白を成功させたら革命だと思った。死んでもいいと思った。でも彼女の返事は少しよく分からなものだった。 「でも、あなたって女の子じゃない」 私はよく分からなかった。確かに私は女だ。しかし、女のユイちゃんに恋をしたのだ。劣情さえ覚えたのだ。それを今更確認する必要がどこにあるのだろうか。 「そうだよ。私、女だよ。それで、私と付き合ってくれる?」 「いや、無理だよ。女と付き合うのは。だって、私も女だよ?女と女が付き合うのって意味わからないでしょ。気持ち悪い」 意味がわからないのは私の方だった。彼女は確かに男を極度に嫌っていた。そんな彼女が女と付き合わなかったら、誰と付き合うのだ? 彼女は「気持ち悪い」と吐き捨てて音楽室を後にした。そこには私だけが残った。 久しぶりに豚小屋へ訪れると相も変わらず彼らは交尾をしていた。ツーンとした匂いが私の鼻腔を刺激して、それに反応した私の瞳が涙を流す。 彼女が男にも女にも恋しないと言うのなら、一体彼女は何に恋をするのだろうか。 豚か? 一つの答えが私の頭の中を過ぎって、もう一度ツーンとした糞尿の匂いが私の鼻腔を刺激した。気づいた時には、既に全裸で豚小屋に飛び込んでいた。 彼らと同じように糞尿を垂らしてみたが、それは思っていたよりも開放的で、私にかつての快感を思い出させた。 フェンスの向こう側から声がする。誰かに見られたのかもしれない。 自らの肛門を滴る糞尿の冷たさに気づいて、尻に鳥肌が立つ。 私は勢い良くブヒーーーっと鳴いて、彼女の口から香った麦茶の匂いを思い出してみた。その時の私は酷く泣いていて、尻を伝う糞尿にただ悲哀を感じていた。
サカナ
改札を抜けると、ブサイクな女が私を待っていた。 目は小さく唇は分厚い。そしてなぜだか、額と口元がもっこりと突き出ている。よくもまあこんなにブサイクな人間が出来上がるものだと感心してしまう。神様は片手間に彼女の顔面を造ったのだろう。よく見ると、ブスなりに化粧をしているではないか。ブスはブスなりに一丁前に世間の皆様から少しでも良く思われたいのだろう。そんなことを考えると、ブサイクとして生まれた彼女のことが気の毒でたまらなかった。私は心の中で少し泣いた。 「もう、ちょ〜待ったんですけど💢」 女はわざとらしく唇を尖らせる。私は小さい頃図鑑で見たナポレオンフィッシュのことを思い出した。 「ごめん、乗り換えミスっちゃって」 私は顔の前で手を合わせて、ナポレオンフィッシュの顔を覗き込んだ。 「別にいいけど、今度からは気をつけてね」 "今度"という言葉に引っかかる。このブスは、"今度"があると思っているのだろうか。ブスが調子に乗っていることを何よりも嫌う私は苛立ちを覚えた。 「わかった」 わざと素っ気ない返事をした。 彼女は一瞬怯んだ後、じゃ、行こっかと言って歩き出した。私は先程の苛立ちも忘れて彼女の影を追いかけた。 練馬高野台駅周辺にはこれといって目立った施設は無い。団地やマンションが立ち並んでいて、只々閑散としていた。 「ここから歩いてどれくらい?」 「うーん、5分ぐらいかな」 5分もこのブスと一緒に歩かなければならないのかと思うと少し憂鬱になる。 私と彼女しかこの街には存在していないのかと錯覚するほど、静かに街は私たちを凝視していた。 石神井川の沿道を通るタイミングで彼女が口を開いた。 「ここね、春になると桜がたくさん咲くの」 「へえ、そんなの絶対綺麗じゃん」 「めっちゃ綺麗だよ。でもね、私ここの桜嫌いなの」 「どうして?」 「ここでね元カレに振られたの。3年ぐらい付き合ったんだけどね、どうしても君の顔が好きになれないって言われて」 私は川の流れをじっくりと観察していた。大きな鯉がゆっくりと泳いでいた。 「本当に意味わかんない。私、こんなにかわいいのに!親からは宮崎あおいに似てるって言われて育ったのよ!!!絶対に私はかわいいに決まってる!!!だからね、絶対に見返してやるって決めたの。私のかわいさを知らしめてやろうって。だって私ってこんなにもかわいいんだから!」 彼女の家に着く頃には時刻は昼の12時を回っていた。なんとなくテレビをつけるとヒルナンデスが放映していて、南原清隆が共演者らとはしゃいでいた。 「ナンチャンで笑ったことある?」 私は不意に彼女に尋ねた。 「ない」 彼女はロープをほどきながら淡白にそう答えた。 私はふっと笑って彼女の手伝いをすることにした。 まずロープを真っ直ぐに伸ばす。その後、小さな輪っかを作る。輪の下から先端を通して、ぐるぐると回したあと、もう一度輪の中に先端を通す。あとはここに首を通すだけで完了である。 ロープの反対側をロフトベッドの柵にしっかりと結びつけた。私は深く息を吸った後、彼女に尋ねた。 「では、最後に言いたいことはありますか?」 彼女は唇を震わせながら答える。 「お母さん、お父さん、産んでくれてありがとう。ミキ、ユイ、こんな私と仲良くしてくれてありがとう。みんなの幸せをいつまでも願っています」 イスの上に立つ彼女の足はガタガタと震えている。ブサイクな女が奥歯を必死に噛み締める表情は少し可笑しくて、私は頬に力を入れてそれを悟られないように努めた。 「じゃあさようなら」 私は勢い良くイスを蹴り飛ばした。ぎゅぅっとロープが伸びる音が聞こえる。あと南原清隆の声も聞こえる。 血が滞って顔面が紅潮している。必死に息を吸おうとするその姿は、陸に打ち上げられた魚そのものだった。今にも飛び出しそうな眼球を必死に瞼で抑え、首を絞めるロープを爪で引っ掻きながら足をばたつかせている。 彼女はぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっと喉の奥から音を出し、最後の力を振り絞って泣きながら叫んだ。 フ゛サ゛イ゛ク゛に゛う゛ま゛れ゛て゛こ゛め゛ん゛な゛さ゛い゛!!! やがて動かなくなった彼女をロープから解き、服を脱がせた。カーディガン、シャツ、キャミソールを丁寧に脱がせると紫色の乳首が露出した。私は喉の奥から溶岩がせり上がってくるのを感じて、そのまま屍姦した。美人よりブサイクの方が滾る。 やがて絶頂に達し、ほとばしる精液が床を濡らして私は彼女のブサイクな顔面にまた苛立ちを覚えた。 「死ね!ブス!」 顔面と乳房を思いっ切り蹴って、シャワーも浴びずに部屋をあとにした。ちょうどミヤネ屋が始まる頃だったと思う。
禁物
ああ、人生なんてくだらないな 2004年の冬、フラスン共和国のリヨンで生まれた私には、左首に直径3cm程のアザがあった。この国でアザは悪魔の息が掛かった人間の印であることを知る由もない出生したばかりの私は、そのまま孤児院へと引き取られることとなった。悪魔の子供を産んだとされた実母は気を病み、私を産んですぐに自死を選んだ。実父はパリ大学で民俗学を教えていた教授であったらしいが、彼女の死の責任を私とそのアザに押し付け、私をリヨンの片田舎の孤児院へと預けた後、行方をくらませてしまった。 孤児院での生活は私にとって地獄そのものであった。私はアザを理由に皆から軽蔑され、いつも独りで過ごしていた。 私が6歳になる頃、1人の日本人が孤児院へとやってきた。孤児院で定期的に開催されていた異国語を教える授業の教師としてやって来た男だった。彼は自分を「キヨタカ・ナンバラ」と名乗った。私たちは彼をナンチャンと呼び慕っていた。 ナンチャンがやって来てから私は日本に恋焦がれるようになる。それは彼が教えてくれる日本の様々な文化に心惹かれてしまったためだ。特に私が心惹かれたものが「ハラキリ」という文化であった。日本では古来より自分の犯した不始末の責任を取るために、自らの腹を切るという文化があったのだ。私は衝撃を受けた。そしてこの時に私は自分の死に方を決めた。悪魔の子と軽蔑され、自らの母を死に追いやった私にぴったりな死に方だと思った。 時は経ち、18歳の頃、私は日本へ移住することを決意した。「ハラキリ」を行うなら日本だろうという安易な考えの為であったが、私はそこで運命的な出会いを果たす。 ある夜、私が新宿西口の小田急百貨店1階にある喫茶店に何気無く入店した時のことだった。 「こちらの席へどうぞ」 店員に誘導され席に着いた私はブレンドコーヒーとナポリタンを注文し、混み合う店内をただ眺めていた。 「あの、お隣いいですか?」 女の声が聞こえた。私は驚いて振り向くと、私と同年代くらいの女がこちらへ顔を覗かせていた。 「あ、僕ですか?」 「そう。あなた独りで来たでしょ」 随分馴れ馴れしい女だと思った。私は初対面で距離が近い人間を信用していない。 「ごめんなさい、ナポリタン食べたらすぐお店出ようと思っているので」 「じゃあ、あなたがナポリタンを食べ終わるまでならいい?」 図々しい女だ。しかし不思議と嫌な気分はしなかった。 「じゃあ少しだけなら」 女との会話は楽しかった。ナポリタンなどそっちのけで彼女と話し込んでしまった。政治、信条などについて熱い議論を交わしていた訳ではなく、飼ってる猫がどうだの、近所のおばさんがこうだのといった、本当にありふれた他愛無い会話であったが、妙に心地が良かった。3時間ほど話し込んでいただろうか。店員に声を掛けられ、店の閉店時間が近づいていることを知る。 「そろそろ帰ろうか」 彼女がコーヒーの最後の一杯を口に運んだ。 私はどうしても最後に訊ねておきたいことがあった。 「どうして、僕と話をしてくれたんですか」 彼女は私の目をじっと見つめ呟いた。 「あなたの首のアザ、素敵だと思ったから」 その瞬間、私の人生はこの時のためにあったのだと確信した。フラスン時代に悪魔だと蔑まれた私のアザをこの女は素敵だと言った。気が付くと私は涙を流していた。 「ちょっと、なんで泣いてるの」 彼女が驚いて、私の涙を拭う。 「ありがとう、ありがとう」 私は彼女にひたすら感謝をしていた。 会計を済ませ、店を出た。日付が変わったばかりの新宿にはまだたくさんの人がいる。 「最後に名前、聞いてもいいかな」 私は勇気を振り絞って訊ねた。また彼女を見かけた時に声をかけようと考えていたからだ。 「まんこ姫」 彼女は確かにそう言った。 「え?ごめんごめん、名前を教えて欲しいなと思って。まだ聞いてなかったから」 「だから、まんこ姫」 私は思わず吹き出してしまった。 「まんこ姫はだめだろ。名前にまんこが入ってちゃ」 私は彼女がふざけているのだと思った。だから大袈裟に笑った。 「名前に女性器が入ってたらやばいでしょ」 すると彼女は急に俯き、ぶつぶつとなにかを呟いた。 「あなたも、そうやって、ばかにするのね、わたしの、なまえを」 私は咄嗟に彼女をなだめようと顔を覗き込む。 彼女は涙を流していた。 状況を飲み込むことができない私は、まんこ姫の手を取り、とりあえず駅の方へ歩き出そうとした。しかし、まんこ姫はその手を振りほどき、駅とは反対の方向へ走り去って行ってしまった。小さくなっていくまんこ姫の背中を私はずっと見つめていた。私は自責の念に駆られた。 「ハラキリをするなら今しかない」 神がそう私に呟いた気がした。私は携帯していた日本刀を鞘から抜き、自らの腹部へと突き立てた。血が溢れ、やがて内臓が顔を見せる。私はそれを見て、その昔ドイツのウィーンで食べたソーセージを思い出した。 私に気づいた通行人が叫び声を上げる。大都会東京では様々な人間が生活を繰り返している。一人の酔っぱらいが私にぶつかり耳元で囁いた。 「ああ、人生なんてくだらないな」
JK
ペディキュアを塗りながら、映画を観ていた。夢中になって観ていたから、映画が終わっても手にペディキュアを握りしめていた。外が明るくなってきて、カーテンから朝日が差し込む。私はそれで映画が終わったことに気がついた。私の頭の中で映画の登場人物たちがふわふわしている。その狭間で私は文京区シビックセンターのことを考えた。幼い頃、父と母に連れられて一度だけ訪れたことがある。思えばそれが最初で最後の家族旅行だったが、当時の私はそのことを知らなかった。そして、父のことも母のことも愛していた。 ハードディスクからDVDを取り出し、CDラックの上に適当に置いた。今日は弁当を用意する必要はなかったから、長い時間を掛けて髪の毛を束ねることができる。いつもの私は行動に移すまでに長い時間を要するが、今日はまるで自分という映画のダイジェスト版を観ているかのように、朝の支度をこなしていた。タンスの上から二番目に入っているキャミソールを取り出す。腕を通そうとしたところ、脇の下辺りに小さな穴が空いていることに気がついた。どこかで引っかけたのだろうか。私はその穴を見なかったことにした。誰も私のキャミソールを見る機会など無いからだ。 ブレザーに袖を通すと憂鬱な気分になる。でもそれは学校を休む理由にはならない。今日は余裕をもって家を出ることができると思っていたが、気がつけば最寄り駅に電車が来るギリギリの時間だった。部屋には誰も居ないが、いつも私は玄関の扉を開ける前に「いってきます」と言うようにしている。もちろん返事はないが、ベッドの上でいつも私を見守る猿のぬいぐるみがいつか「いってらっしゃい」と返事をしてくれるのを期待しているのだ。私は扉を勢いよく開け、大きく息を吸い込んだ。 頭の中ではさっき観た映画の登場人物たちがまだふわふわしている。私はその狭間で愛している父と母のことを考えた。
喫茶ぼけかす
二度も三度も同じこと繰り返して、その度に嫌な気持ちになるんやったら、一度目が終わってダメやったらそこで諦めた方がお前にとって得ちゃうんか。いやまだや。俺ならイける。そないな気持ちでおるのがあかんねん。ええか。次何かに失敗した時はまず俺に連絡せえ。そしたらお前が諦めつかずに同じこと繰り返して、結果嫌な思いするのを防いだるから。ええか、絶対連絡せえよ。 そう言って先輩はくしゃくしゃの領収書に自分の住所と電話番号を殴り書いて、まるでごみを放るかのように俺に渡してきた。 ありがとうございます。ほんなら、次何かあったら真っ先に連絡させてもらいます。 そうしいや。ほんで、話変わるねんけど、あっこの駅前にぎょうさん人入る百貨店出来たやろ。俺、そこにある喫茶店で珈琲飲んどったんや。一人で。ほんなら、ウエイトレスが俺に、お煙草はお吸いになられますかって聞いてきよったんや。俺そんときパチンコ負けてごっつうムカついとったから、珈琲飲む時は煙草も吸うに決まっとろうがボケ、言うて、そのウエイトレスの頭を灰皿でかち割ってやったんや。ほんならな、そのウエイトレスの頭から青い血が出てきてん。青い血やで。普通、血っちゅうんわ赤いもんやろ。俺もうびっくりしてもうて、その時、さすがに灰皿で頭かち割ったのはやりすぎやったわって思ってん。いくら俺の前世がハンマーやったからってな。そうやろ?だから俺が思うのはな、 二度も三度も同じこと繰り返して、その度に嫌な気持ちになるんやったら、一度目が終わってダメやったらそこで諦めた方がお前にとって得ちゃうんか。いやまだや。俺ならイける。そないな気持ちでおるのがあかんねん。ええか。次何かに失敗した時はまず俺に連絡せえ。そしたらお前が諦めつかずに同じこと繰り返して、結果嫌な思いするのを防いだるから。ええか、絶対連絡せえよ。 ありがとうございます。ほんなら、次何かあったら真っ先に連絡させてもらいます。 そうしいや。ん、あれ、あかん、もうこんな時間や。家帰らな嫁はんに怒られてまう。ほんなら、また。 えぇ、また。 俺は先輩が急いで喫茶店から出ていくのを珈琲を飲みながらじっと見ていた。 おんなし事何回も言うねんな、先輩。 独り言を言いながら珈琲をすする俺に、首が無いウエイトレスが話しかけてきた。 お客様、お煙草はお吸いになられますか。 姉ちゃん。俺はな、前世、国語辞典やったんや。ページをめくられる度にな、俺気持ちよくって気持ちよくってたまらんかったんや。あの時の快感、忘れようとしても忘れられるもんやないねん。姉ちゃんは、そういう前世の記憶ないの? 私の前世は画家でした。西洋のどこかの小さな湖畔で絵を描いてたんです。細かいことは憶えとらんのですけど、片足の無い、義足の女の子の絵を描いてたんです。なんで描いてたかはもう憶えてないんですけどね。でもその女の子が時々夢に出てくるんです。それはそれは可愛らしい女の子ですわ。 そうなんや。それで君、首無いのに、どこから声出てんの? さあ、毛穴でもなんでも、人間声が出そうなところなんていっぱいあるでしょう。何事にも意味なんてないんです。 その時の直感で生きるのが良いんでしょ。何も伝えようとはしてないのよ。読んで楽しければそれで良いの。 そやな。それが一番や。ほな、俺はもう行くで。今日はユイちゃんのシフトの日や。多分今、コールセンターに電話すれば繋がれんねん。既に二、三度デートに誘っとんのやけど、断られてしもてな。声聴いただけで好きになったなんて信じられへんって言われてもうてん。でも今日はイける気がすんねんなあ。 カラスが鳴きよる夕方に あなたが帰らぬ報せ聞き つらつら涙流せども わしら生きとるさかいに人間万事塞翁が馬やちゅうてね
うれしい出産
電車を乗り継いで汐留まで向かった。都営大江戸線の改札を出て右手にある商業施設に入る。有名なミュージカルシアターがある大きな入口ではなく、ファストフード店が近くにある簡素な入口だ。 ここまで来ればもう彼らも追ってくることはないだろう。ミサキは一息ついてから、自らの腹に手を当て我が子の胎動を感じた。一定のリズムで腹を蹴っている。ミサキは機械的なそれを少し不気味に思った。 ぎぎぎ 音が鳴ってから酷い鈍痛に襲われ、その後破水した。 ぎぎぎ それは明確な意志を持っているような(しかし機械的な)動きをしていた。 急いでトイレの個室に駆け込み、泣きながらいきんだ。激しい痛みとともにミサキのお腹の中から大きめのネジが出てきた。ナットも付いていた。ミサキはつい先の激痛も忘れ、ただただ困惑した。 この半年、私はこのネジを産むために様々な苦痛に耐えたのかと思うと、なにか悲壮感に近いものに襲われた。ひとり個室のトイレで泣いた。私はなんでこんなものを産んでしまったのだろう。激しく後悔した。自分を呪った。恐らくこのネジはひとりで生きていくことが出来ない。私は死ぬまでこのネジの扶養人として生きなければならない。そう思うと怖くてたまらなかった。 結局、そのネジはトイレに流すことにした。個室にはミサキの血と臍帯だけが残った。罪悪感は無かった。ミサキは海に行こうと思った。小型ボートを借りて、自らオールを手に取り、霧の向こうの幻想的な島に向かうのだ。そして、そこでひとり絵を描いて暮らす男と結婚する。ミサキはそういう妄想をした。性器に着いた血をトイレットペーパーで綺麗にふき取って、颯爽とトイレを後にする。 艶やかな長髪にビシッと襟を正したスーツ、そして僅かに血が付着したパンツとハイヒールを履く彼女の首には、大きく重厚なナットが何らかの明確な意志を持って、はめ込まれていた。
燃える自転車
自殺に失敗した帰り、マンションの駐車場で自転車が燃えていた。私のじゃないし、知り合いのでもないと思う。 小さい頃から火が好きだった。つい先まで存在していたモノが存在しないモノになる過程を見ることができるからだ。幼少期からマッチでよく遊んで母に叱られていた。 やがて人が集まり、火は消えた。 自転車は黒ずんで原型を留めていない。 その自転車だったモノも数分後には綺麗さっぱり無くなり、人も居なくなり、見慣れた静かな駐車場へと姿を戻した。 その一部始終を私はずっと見ていた。 自室に戻り、私は燃えていた自転車を想いながら自慰行為をした。その後、野菜炒めを作って風呂に入って髪は乾かさずに寝た。明日の自分に怒られそうだ。 布団に入ったタイミングでもう一度自慰行為がしたくなった。会社に務めるようになってから、欲に従順になった気がする。初恋の彼を思い出して湿った部分に折り曲げた指を入れたその瞬間、あの燃えていた自転車は完全にこの世から姿を消した。
卵
妻の妊娠が発覚した。 僕たちは四十代半ばで結婚したから、正直子どもは諦めていた。 僕は嬉しかった。 彼女も嬉しそうだった。 妊娠が発覚してから七ヶ月後、彼女は元気な男の子を産んだ。 そして、彼女は卵になった。 そこからは忙しかったから、順序よく説明はできない。男手ひとつでその子を育てた。優しく逞しい子に育ってくれたと思う。つい先日成人を迎え、彼は上京していった。 ここには僕と卵だけが残った。 もういいだろう。 息子の引越しを済ませ家に帰ってきた明くる日の朝、僕はフライパンに油を敷き、その卵を割って落とした。 「ジュンジュワ〜」 中からネプチューンの堀内健が出てきた。 「あ、待って熱い熱い待って」 僕はそれを薄く伸ばし、予め用意しておいたケチャップライスに丁寧に被せた。 「いただきます」 堀内健はもう喋らなかった。 僕はその沈黙に感謝した。
オーボエ
五十七歳の浅井が高校の音楽室に忍び込んだ理由は、笹本のオーボエを舐めるためでした。 もうとっくに日は落ちています。音楽室どころか、校内にすら誰もいません。 笹本のオーボエを見つけた浅井はマウスピースを外し、それを口に含みました。粘膜の全てにその先端が触れるまで、浅井は舐め続けました。口の中が彼女の味でいっぱいになります。 何も怖がる必要はありません。 見られたら殺せば良いのです。 浅井は一心不乱に舐め続けました。彼女のマウスピースが彼の口の中を湿らせ終えた時、廊下から足音が聞こえてきました。 とんとん とんとん とんとん とんとん あしおと、おおきくなってきた とんとん とんとん とんとん とん、 ガチャ 「久しぶり〜笹本で〜す。」 見違えた笹本でした。 「あ、ふきでふ」 口の中にはまだマウスピースが残っています。 「え?なに?」 告白は伝わりませんでした。 マウスピースの味はもうしませんでした。
変身
俺ちゃんの彼女のグレゴール・ザムザちゃんが朝起きたら中森明菜になっていたらしい。 中森明菜になっただけではなく、一生逆立ち生活を課せられたらしい。(ほんこんによって課せられました怒) 普通に生涯愛した。 (ここでヒルナンデスが始まり、南原清隆が日本刀を振り回す。)