やみ
61 件の小説雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
どれほどの時間が経ったのだろう。 澪は、まぶたの裏にあたたかな光を感じて、ゆっくりと目を開けた。 淡い朝日が障子を透かして差し込み、部屋の中はやわらかな金色に包まれている。 かすかな花の香りと、外から聞こえる小鳥のさえずり。 そして――耳に届いたのは、小さな泣き声だった。 澪 「……あ……」 体を起こそうとした瞬間、腕にやさしい手が添えられた。 春馬 「無理するな。まだ休んでていい」 春馬の声はかすかに震えていた。 けれど、その瞳には確かな安堵と優しさが宿っている。 澪が視線を向けると、春馬の腕の中で、小さな赤子が眠っていた。 その頬はほんのり赤く、呼吸は穏やかでまるで夢を見ているようだった。 澪 「……この子……」 澪がそっと手を伸ばすと、赤子は小さく指を動かし、彼女の指先をぎゅっと握った。 その瞬間、澪の目から静かに涙がこぼれ落ちる。 澪 「……生きてる……本当に……」 春馬はその隣で微笑み、澪の髪をそっと撫でた。 春馬 「澪が頑張ってくれたからだ。……ありがとう、澪」 澪は首を振り、微笑みながら囁いた。 澪 「ううん……この子が……私に力をくれたの。ねぇ、春馬くん。この子……名前、どうしようか」 春馬は少し考えて、朝の光に照らされる赤子を見つめた。 春馬 「夜を越えて、朝の光の中に生まれてきたんだ。……“陽葵(ひまり)”ってのはどうだ?」 澪 「陽葵……」 その名を口にした瞬間、澪の胸に温かいものが広がった。 澪 「うん……いい名前だね。太陽みたいに、優しい子に育ちそう」 春馬は微笑み、赤子の頬をそっと撫でた。 ――蝶屋敷の朝。 澪と春馬、そして新しい命。 その部屋には、静かであたたかな幸福の光が満ちていた。 外では風が木々を揺らし、桔梗の花びらがやさしく舞う。 新しい一日が、確かに始まろうとしていた。 外の空がすっかり白み始めたころ――。 蝶屋敷の門の方から、慌ただしい足音と声が響いた。 善逸 「澪ーーっ!! 生まれたってほんとかーーっ!?」 炭治郎 「お、おい善逸、走るなって! しのぶさんに怒られるぞ!」 善逸 「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!? めでたいんだぞ!? 早く見に行かなきゃ!」 ばたばたと廊下を駆け抜ける音が、館中に響く。 アオイが慌てて手を広げて制止した。 アオイ 「こ、こらっ! 静かにしてください! 赤ちゃんが起きちゃいますよ!」 善逸 「ご、ごめん! でも! 見たいぃぃ!」 炭治郎は苦笑しながら頭を下げる。 炭治郎 「すみません、アオイさん……」 アオイがため息をつきつつも、「少しだけですよ」と言って部屋の襖を開けると、 そこには――穏やかに眠る澪と、その傍らで赤子を抱く春馬の姿があった。 炭治郎 「……生まれたんだね」 声を潜めながら、炭治郎はそっと微笑む。 善逸も思わず目頭を押さえた。 善逸 「うぅ……小さい……ちっちゃいよぉ……! なんだこの尊さは……!」 アオイ 「泣かないでください、善逸さん。あなたが泣いたら、赤ちゃんもびっくりします」 春馬は少し照れくさそうに笑いながら、赤子を見つめた。 春馬 「……ありがとう、みんな。元気に生まれてきたよ」 炭治郎 「よかった。本当によかった……! 澪ちゃんも、お疲れさま」 澪は弱々しく微笑み、そっと口を開く。 澪 「……ありがとう……二人とも……この子……“陽葵(ひまり)”っていうの……」 炭治郎 「陽葵ちゃん……いい名前だね。あたたかくて、優しい名前だ」 善逸 「ひまり!? か、かわいい! もう俺、この子の将来が楽しみすぎる!」 アオイ 「善逸さん、抱かせませんよ」 善逸 「えぇぇぇ!?」 部屋の中に、小さな笑い声が広がった。 その笑いが、澪の心にゆるやかに染みこんでいく。 ――蝶屋敷の朝は、命のぬくもりと笑顔に満ちていた。 窓の外では、朝日が優しく庭を照らし出す。 桔梗の花が風に揺れ、まるで“おめでとう”と囁いているようだった。 春馬 「……じゃあ、少しだけ家に戻ってくるよ。親にも、ちゃんと報告しておきたいんだ」 澪 「うん……そうだね。ご両親も心配してるだろうし」 春馬は澪と陽葵の傍らにしゃがみ込み、そっと赤子の頬に指を触れた。 陽葵は小さなあくびをして、またすぐに眠りに落ちる。 春馬 「すぐ戻る。日が暮れる前には帰るから……無理はしないで。何かあったら、しのぶさんかアオイさんに言うんだよ」 澪 「うん、大丈夫。……いってらっしゃい」 春馬は名残惜しそうに澪の手を握り、静かに部屋を出た。 障子が閉じると、部屋の中は再び静寂に包まれる。 外では鳥の声、そして遠くで風が木々を揺らす音。 澪はゆっくりと息を吐き、胸の上に眠る陽葵を見下ろした。 澪 「……陽葵。お父さん、すぐ帰ってくるって」 小さな手を握りながら微笑む。 けれど、その頬にほんのり熱が宿っているのに気づいたのは、しばらくしてからだった。 澪 「……あれ……ちょっと……熱い?」 額に手を当てる。 自分の手のひらが、じんわりと熱を感じる。 それは自分自身の体からも放たれていた。 澪 「……私、かな……」 息が少し苦しい。喉の奥がひりつき、体の奥から重たさが込み上げてくる。 それでも、澪は陽葵を起こさないように、そっと布団を整えた。 澪 「……大丈夫。ちょっと、横になれば……」 その声は、誰に言うでもなく、空気の中に溶けていった。 額から流れた汗を拭うこともできず、澪は赤子の寝息を確かめるように目を閉じる。 外の光が少しずつ傾き、障子の影が長く伸びていく。 その間も、澪の意識はゆるやかに霞んでいった。 ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
十六 子どもの誕生 澪は部屋の灯を落とし、寝具に横になっていた。 外からは虫の声と、遠くで流れる水の音。 静かな夜――けれど、心はどこか落ち着かない。 春馬くんは夕方には村へ戻っていった。 「仕事があるから」と笑って手を振っていたけれど、 その背中が見えなくなるまで、澪はずっと縁側に立っていた。 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。 澪 「……もうすぐ、会えるのにね」 お腹を撫でながら、小さく呟く。 すると、内側からふっと動きを感じた。 澪 「ふふ……そうだね、ちゃんと伝えなきゃね。“お父さん、ありがとう”って」 その瞬間、また小さな胎動が返る。 まるで赤子が「うん」と頷いたように思えて、澪は微笑んだ。 だが、次の瞬間。 澪 「……あれ……?」 下腹部に鈍い痛みが走った。 最初はほんのわずかだったが、間をおいてもう一度、今度ははっきりと、波のように押し寄せてくる。 澪 「……い、痛……っ……」 澪は布団を掴み、浅い息を繰り返した。 体の奥で何かが動き出している。 その感覚は、恐ろしくもあり、どこか神聖なものでもあった。 だが、痛みは次第に強くなり、呼吸を整えることも難しくなっていく。 澪 「……っ、あぁ……っ!」 思わず、声が漏れ、涙が頬を伝った。 澪 「こ、怖いよ……でも……頑張らなきゃ……」 唇を噛みしめながら、澪はお腹を両手で抱きしめた。 その手の中には――春馬の母からもらった、小さな布のお守りがあった。 「母の代わりに、これがあなたを守ってくれるわ」と微笑んで渡してくれたもの。 澪は震える手でそれをぎゅっと握りしめ、祈るように胸に押し当てた。 涙がぽろぽろと枕を濡らす。 それでも、その手のひらの下には確かな命の温もりがあった。 澪 「……大丈夫……一緒に……頑張ろうね……」 襖が静かに開き、アオイが顔をのぞかせる。 アオイ 「澪さん……? どうかしましたか?」 澪 「……アオイさん……たぶん……」 息を整えながら、澪はお腹に手を当てた。 アオイは一瞬で状況を察し、慌てて振り返る。 アオイ 「しのぶ様っ!! 澪さんが――!!」 廊下を駆ける足音が響き、蝶屋敷の夜が一気に慌ただしく動き出した。 しのぶが駆けつけると、澪は苦しそうに息をしていた。 けれどその瞳は、どこか覚悟に満ちていた。 しのぶ 「……もうすぐかもしれませんね」 澪 「……春馬くんに……伝えて……」 しのぶ 「ええ。すぐに知らせます。大丈夫、あなたは一人じゃないわ」 しのぶの穏やかな声に、澪は小さく頷いた。 頬にはまだ涙の跡が残っていたが、その瞳は強く、真っ直ぐだった。 澪の指先には、まだあの小さなお守りがしっかりと握られている。 夜空には雲が流れ、月が顔を覗かせる。 そして――新しい命の鼓動が、確かにこの夜に刻まれようとしていた。 それから、あっという間に夜は更けていった。 蝶屋敷の灯りが次々と灯され、廊下を人の足音が駆け抜ける。 アオイは湯を沸かし、キヨたちは清潔な布や産着を整えていた。 しのぶは澪の傍に膝をつき、静かに呼吸を整えるよう声をかける。 しのぶ 「落ち着いて。深呼吸をして……そう、その調子。痛みが引いたときに少し休んで」 澪 「……はい……っ……」 額に浮かぶ汗をアオイが丁寧に拭う。 その手は少し震えていたが、瞳は真剣だった。 アオイ 「大丈夫です、澪さん……。しのぶ様がついてますから」 澪は小さく頷き、再び波のような痛みに耐える。 その度に、手のひらでお腹を撫でながら小さく囁いた。 澪 「……もうすぐだよ……頑張ってね……」 その頃、村では…… 春馬は仕事場の明かりを落とし、静かな夜道を歩いていた。 ふと、胸の奥にざわめくような感覚が走る。 春馬 「……澪……?」 理由もなく、心がそわそわと落ち着かない。 嫌な予感ではない。むしろ、何かが呼んでいるような温かい気配。 空を見上げると、雲の切れ間から月が覗いていた。 春馬はその光を見つめながら、足を止めた。 春馬 「……もしかして、今……」 そして、気づけばもう走り出していた。 草履の音が夜の村道に響く。 春馬 「澪……!」 息を切らしながら蝶屋敷へ向かう道を駆け抜ける。 ――一方その頃。 蝶屋敷の中では、澪の呼吸が荒くなっていた。 しのぶは手際よく指示を飛ばしながらも、澪の手を握る。 しのぶ 「大丈夫、もうすぐです。……この子、ちゃんと前を向いて出てこようとしています」 澪 「っ……はい……! ……が、頑張ります……」 痛みの波が最高潮に達したその瞬間――。 小さな産声が、静かな夜を切り裂いた。 「……!」 アオイの瞳に涙が浮かび、しのぶが柔らかく笑む。 しのぶ 「――はい、元気な子ですよ」 澪の腕の中に、温かな小さな命がそっと抱かれた。 息を荒げながらも、澪はその顔を見て微笑んだ。 澪 「……やっと……あなたに……会えたね……」 小さな指が、澪の指をぎゅっと握る。 その力の確かさに、澪の瞳から静かに涙がこぼれた。 しのぶ 「よく頑張りましたね、澪ちゃん。……おめでとうございます」 アオイ 「本当に……元気な赤ちゃん……!」 そのとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。 春馬 「澪っ!!」 戸が開き、息を切らした春馬くんが立っていた。 顔には汗と涙が入り混じり、目の前の光景に息を呑む。 澪は微笑み、腕の中の赤子をそっと見せた。 澪 「春馬くん……ほら……あなたにそっくり」 春馬くんは膝をつき、震える手で赤子の頬を撫でる。 小さな命が、彼の指先にぬくもりを返した。 春馬 「……澪……ありがとう……本当に……ありがとう」 その声を聞きながら、澪はほっと息を漏らした。 安堵と幸福に包まれた表情のまま、まぶたがゆっくりと閉じていく。 澪 「……春馬くん……この子を……お願いね……」 かすかな声を残し、澪の体が力を失った。 赤子を抱く腕をそっと受け取るように、春馬が支える。 春馬 「澪……!? おい、澪!! しのぶさん!!」 春馬の叫びに、しのぶがすぐ駆け寄り、脈を確かめる。そして、静かに頷いた。 しのぶ 「大丈夫。気を失っただけです。……すぐに目を覚ましますよ」 その言葉に、春馬くんは胸を押さえ、震える息を吐いた。 腕の中の赤子が小さく泣き声を上げる。 まるで母を呼ぶように――確かに、生きている声で。 春馬くん 「……澪……この子、元気だよ……お前の頑張り、ちゃんと届いた……」 夜明け前、東の空がわずかに白み始める。 鳥の声が遠くで響き、蝶屋敷には新しい朝が訪れようとしていた。 ――そして、その朝。 新しい命が確かに生まれ、澪と春馬の物語は 静かに、けれど力強く、新たな章を迎えたのだった。 ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
しはらくして、炭治郎が心配そうに澪を見た。 炭治郎 「……澪ちゃん、この前、体調が悪かったけど……大丈夫?顔色は、ちょっと……」 澪は一瞬、息を呑んだ。 視線を落とし、指先をそっと膝の上で組む。 澪 「……はい。今は……もう大丈夫です」 炭治郎 「そう? 無理してない? 疲れが残ってるときは、ちゃんと休まないと」 やさしい声に、胸の奥がきゅっと痛む。 澪は少し迷ったように唇を噛み、それから小さく口を開いた。 澪 「……炭治郎さん。あの……ひとつ、お話ししたいことがあって」 炭治郎 「うん? なに?」 月明かりの下、澪は静かに自分のお腹に手を当てた。 その仕草に、炭治郎の表情がわずかに変わる。 澪 「……私、お腹に……赤ちゃんがいるんです」 炭治郎 「……えっ……!」 炭治郎は思わず目を見開いた。 しばし言葉を失い、澪の顔と、その手の動きを交互に見つめる。 澪 「まだ小さいけど……春馬くんとの子です。今日、ちゃんと話して……それで、もう隠したくないって思って」 炭治郎は驚きながらも、すぐに表情を和らげた。 まっすぐに澪を見つめ、ゆっくりと頷く。 炭治郎 「……そうだったんだ。あのとき、体調が悪かったんだね。澪ちゃん、無理して笑うことがあるから……心配してたよ。」 炭治郎はやさしく微笑みながら、まっすぐ澪を見つめた。 その瞳には、驚きよりもむしろ深い気づかいと温かさが宿っていた。 炭治郎 「大変なこともあると思うけど……守りたいものがあるなら、きっと乗り越えられる。澪ちゃんは、強い子だから」 澪の瞳が少し潤む。 それでも、今はもう涙ではなく、温かなものがこみ上げていた。 澪 「……はい。怖いけど、守りたいです。この子のこと」 炭治郎 「うん。怖くても、前を向こう。澪ちゃんの笑顔は、きっとこの子の力になるよ」 澪は小さく頷き、そっとお腹を撫でた。 夜風が二人の間をやさしく吹き抜け、虫の声が遠くで響く。 炭治郎 「……もう遅いし、冷えるから。部屋に戻って、あったかくして寝てね」 澪 「はい。ありがとうございます、炭治郎さん」 炭治郎は微笑んで立ち上がり、軽く頭を下げて廊下へと歩いていった。 その背を見送りながら、澪はお腹に手を当て、静かに囁く。 澪 「……ねえ、聞いてた? 優しい人だね、炭治郎さん」 月の光が縁側に差し込み、 澪の頬をやわらかく照らしていた――。 数ヶ月後――。 澪のお腹が少し目立ち始めた頃。 蝶屋敷の庭には初夏の風が吹き抜け、薬草の香りが静かに漂っていた。 その日の午前 門の外を掃いていたアオイが見慣れない青年がこっちに向かって歩いてくるのを見つける。 荷を背負い、少し日焼けした顔。 けれど、その瞳は真っすぐで、どこか澪に似た優しさを宿していた。 春馬 「あ、あの!蝶屋敷はこちらですか?」 アオイ 「……そうですが、どなたですか?」 春馬は少し緊張したように背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。 春馬 「突然すみません。俺は春馬といいます。澪に……会いに来ました」 アオイは一瞬目を丸くした。 澪の名前を出した来客など、これまでなかったからだ。 アオイ 「澪さんに……ですか?澪さんは今、縁側にいます。私が案内しますね」 春馬 「ありがとうございます」 アオイに案内されて蝶屋敷の廊下を進む。 白木の床を踏むたびに、柔らかな木の香りが漂った。 廊下の向こうからは、鳥のさえずりと風鈴の音がかすかに響いている。 やがて縁側が見えてきた。 そこには澪が座り、穏やかな光の中で針仕事をしていた。 お腹の膨らみを気遣うように、ゆっくりとした手つきで。 アオイ 「澪さん。お客さまが来ています」 澪は顔を上げて――目を見開いた。 そこに立つ春馬の姿を見つけ、思わず息を呑む。 澪 「……春馬くん……!」 アオイは二人の様子を見て、静かに微笑み、そっと一歩下がった。 アオイ 「それでは、私はお茶の用意をしてきますね」 そう言って離れていくアオイの背を見送り、春馬は小さく息を吐いた。 春馬 「……久しぶりだね。元気そうでよかった」 澪 「はい……。まさか、来てくれるなんて」 春馬は少し照れたように笑いながら、澪の前まで歩み寄った。 そして――澪のお腹に目を落とす。 春馬 「……もう、こんなに……」 澪は頬を染め、お腹をそっと撫でた。 澪 「ええ。少しずつ……元気に育っているよ」 春馬は静かに荷を下ろし、包みを差し出した。 春馬 「これ……村で分けてもらった木綿なんだ。赤ちゃんの肌着を作れるかなと思って」 澪 「……ありがとう。やさしい布!」 アオイが少し離れた廊下の陰から、そんな二人の姿を見守っていた。 その表情はどこか柔らかく、まるで家族の幸せを見届けるようだった。 縁側を渡る風が薬草の香りを運び、 澪と春馬の間に、静かなぬくもりが流れていた――。 ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
蝶屋敷へと続く道の途中、澪は何度もお腹に手を当てた。 お守りの温もりが掌を通して伝わり、胸の奥に確かな光を灯す。 澪(心の中) 「……わたし、ひとりじゃない。春馬くんも、この子も、ちゃんと一緒にいる」 やがて蝶屋敷の屋根が見えてくる頃には、澪の心は穏やかで満ちていた。 春馬の家・丘の上にて 澪を送り届けたあと春馬はひとり、村の裏手の丘に立っていた。 夜空には無数の星が瞬き、風が稲穂を揺らしている。 春馬 「……澪、ちゃんと着いただろうか」 呟く声は、静寂に溶けていく。見上げた空にひときわ大きく輝く月。その光が大地をやさしく照らしていた。 春馬は胸に手を当てて心の奥がじんわりと熱く、そして静かに震えていた。 春馬(心の中) 「……おれが、父親になるんだ」 信じられないような実感と同時に、守りたいものができたという確かな重みが胸を締めつける。 春馬 「……澪も、この子も……絶対に守る」 その誓いは、夜風に溶けながらも、確かに空へと届いていった。 月の光が彼の頬を照らし、その瞳には迷いのない強さが宿る。 春馬は小さく息を吐き、星空に向かって微笑んだ。 春馬(心の中) 「……ありがとう、澪。おれに、こんな気持ちをくれて」 風が優しく吹き抜け、稲穂がさざめく。 その音はまるで、新しい命の鼓動のようだった――。 蝶屋敷前・澪の視点 春馬に村のはずれまで見送ってもらい、澪は月明かりの道をひとり歩いていた。 背中には、まだ彼の手の温もりが残っている。 静かな夜風が頬を撫でるたび、胸の奥がふわりと温かくなった。 澪(心の中) 「……春馬くん、ありがとう」 彼のまっすぐな瞳と、あの言葉が何度も頭に浮かぶ。 “俺が守る”――その一言が、どれほど心を支えてくれたか。 蝶屋敷の門が見えたころ、澪はふと足を止めた。 月明かりの下、門の前に人影が立っている。 澪 「……兄ちゃん?」 善逸がこちらを振り向いて安堵したように笑い、手を振る。 善逸 「おーい!無事だったか!? 暗くなる前に戻ってこいって、しのぶさんが心配してたんだぞ!」 澪 「……ごめんなさい。少し話をしていて……」 善逸は首をかしげ、澪の顔を覗き込む。 いつもより優しい目で、どこか安心したように息をついた。 善逸 「……泣いてない。よかった」 澪は小さく笑って頷く。 澪 「……泣きそうにはなったけど、ちゃんと話せたよ」 善逸 「そうか……うん、それならよかった」 彼は少し照れくさそうに頭をかきながら、けれどその表情はどこか誇らしげだった。 善逸 「澪は、えらいな。ちゃんと向き合ったんだもんな」 澪 「……うん。兄ちゃんが言ってくれたおかげだよ」 善逸 「……え?」 澪 「“泣きたくなったら来い”って。あの言葉、ずっと心にあったの」 その言葉に、善逸は照れくさそうに笑いながらも、目を細めた。 善逸 「……そっか。ちゃんと届いてたんなら、よかった」 しばらくして、善逸は澪の荷を代わりに持ちながら門を開けた。 善逸 「もう夜は冷えるから、早く中に入ろう」 澪 「……うん。ありがとう、兄ちゃん」 屋敷の明かりが見えた瞬間、澪はそっと振り返り、遠くの丘の方角を見つめた。 澪 (春馬くん……また、きっと会おうね) 月の光がやさしく降り注ぎ、彼女の頬を淡く照らしていた――。 玄関の戸を開けると、あたたかな灯りと薬草の香りがふわりと迎えてくれた。 澪は小さく息を吐き、胸の奥の緊張が少しずつ解けていく。 奥の廊下からしのぶが姿を現した。 白衣の袖を軽くたくし上げたまま、ほっとしたように微笑む。 しのぶ 「……澪ちゃん。よかった、帰ってきたのね」 澪 「しのぶさん……すみません。遅くなって」 しのぶは澪の顔を見て、そっと近づき指先で髪に触れ、優しくその頬をなぞる。 しのぶ 「顔色は悪くないわね……でも、目が少し赤い。泣いた?」 澪は小さく首を振り、笑みを浮かべた。 澪 「……泣きそうにはなったけど、平気です。ちゃんと話して、気持ちが少し楽になりました」 しのぶは静かに頷き、澪の肩にそっと手を置いた。 しのぶ 「……そう。よかった。心配していたのよ、あなた、無理して笑うことが多いから」 澪 「……え?」 しのぶ 「辛いときでも、誰かを気づかって先に笑ってしまう。だから本当の気持ちを誰にも見せられなくなるの。……わたしも、そうだったから」 澪の胸が静かに揺れた。 しのぶの声はやさしいのに、どこか切なげでそれがまるで、自分の心の奥を見透かされたように感じた。 澪 「……ごめんなさい。心配、かけちゃいました」 しのぶ 「いいの。無事に戻ってきてくれたなら、それだけで十分よ」 しのぶは微笑むと、軽く澪の頭を撫でた。その手の温もりが、母のようにあたたかい。 しのぶ 「さあ、もう夜も遅いわ。お風呂を少し温めてあるから、身体をあたためてから休みましょう」 澪 「……ありがとうございます」 玄関の灯を背に、澪は小さく頭を下げた。 ふと、背後の夜空を見上げる。 月はまだ高く、やさしい光を庭に落としている。 澪 (春馬くん……わたし、もう大丈夫だよ) 心の中でそう呟いて、澪は屋敷の中へと歩みを進めた。 しのぶはその背を静かに見送りながら、まるで自分の妹を見るように、やさしく微笑んだ。 お風呂から上がった澪は、髪を拭きながら廊下を歩いていた。 湯の香りと薬草の匂いがほのかに混じり、静かな夜気が肌を撫でていく。 部屋の灯を消し、澪はそのまま縁側へ出た。 夜風が心地よく、庭の方からは虫の声がかすかに響いている。 月明かりが白く降り注ぎ、草木の影をやわらかく揺らしていた。 澪 (……眠れないな) 胸の奥が静かにざわめく。 春馬と話を終えてから、安心したはずなのに、心のどこかがまだ熱を帯びていた。 そのとき、門の方から足音が聞こえた。 澪が顔を上げると、見慣れた姿が月の下に現れた。 炭治郎 「……あ、澪ちゃん。起きてたんだね」 澪 「炭治郎さん……! お帰りなさい」 炭治郎は少し疲れた様子で、それでも穏やかに笑った。 額にはうっすらと汗が滲み、肩の隊服には土の跡が残っている。 炭治郎 「ただいま。みんなもう寝たの?」 澪 「はい。しのぶさんも、薬草を片付けて部屋に戻られました」 炭治郎はふぅと息をつき、澪の隣に腰を下ろした。 夜風が二人の間を抜けていく。 ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
春馬の言葉に、澪の瞳からぽろりと涙がこぼれた。 けれど、それはもう悲しみの涙ではなかった。 胸の奥で、確かな希望が灯っていた。 二人はしばらくそのまま静かに手を取り合い、やがて、囲炉裏の部屋の方から足音が聞こえてきた。 春馬の父と母が、湯飲みを手にして戻ってくる。 春馬の母 「……二人とも、話は済んだかしら?」 春馬は少し照れくさそうに澪の手を離し、姿勢を正した。 春馬 「……ああ。母さん、父さん……実は――」 言葉を選ぶように、春馬は一瞬澪を見てから、真っ直ぐに両親を見つめた。 春馬 「澪のお腹に……新しい命があるんだ」 囲炉裏の火がぱち、と音を立てた。 春馬の父と母は、短く息を呑む。 けれど、すぐにその表情は驚きから穏やかなものへと変わっていった。 春馬の母は、しばらく二人を見つめ、それからゆっくりと微笑んだ。 春馬の母 「……そう。澪ちゃん……ありがとうね」 澪 「……え?」 春馬の母 「怖かったでしょう? でも、ちゃんと話してくれて……嬉しいわ」 その声には、まるで春馬の未来を見守るような優しさがあった。 春馬の父も静かに頷き、低い声で言った。 春馬の父 「……春馬。お前が決めたことなら、私たちは反対はしない。澪ちゃんを、しっかり支えていきなさい」 春馬 「……はい。必ず」 春馬の母は澪のそばに歩み寄り、そっとその手を包んだ。 温かい手のひらが、澪の震えを静かに受け止める。 春馬の母 「ねぇ、澪ちゃん。春馬は小さいころから不器用なの。優しいけれど、心配性でね。だからきっと、これからもいろいろ言いたくなると思うけれど……仲良くしてあげてね」 澪は涙をこらえながら、こくりと頷いた。 澪 「……はい。ありがとうございます」 春馬の父 「いい風が吹いてきたな……まるで、お前たちを祝福してるようだ」 窓の外では、朝の風が草を揺らし、陽光が差し込んでいた。 小さな花がゆらりと揺れ、光の粒が室内をやさしく照らす。 春馬は澪の隣に立ち、静かに言った。 春馬 「これから先、どんなことがあっても……澪と、この子と、一緒に歩いていく」 澪はその言葉に微笑み返した。 涙の跡が頬を伝っても、瞳の奥には確かな光が宿っていた。 春馬の母は二人を見つめながら、そっと目を細めた。 春馬の母 「……きっと、いい家族になるわ」 静かな朝の光の中で―― 新しい命の物語が、確かに動き出していた。 春馬の両親の言葉を受けて、澪は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。 しのぶにも、善逸にも支えられて―― そして今、春馬と、その家族にも受け入れられている。 その事実が、何よりも嬉しかった。 春馬の母がふと優しく声をかける。 春馬の母 「澪ちゃん、朝から歩いてきたんでしょう? 少し休んでいきなさい。お腹、冷やしちゃだめよ」 澪 「……ありがとうございます」 春馬の母は囲炉裏に火をくべ、温かい粥と野菜の汁を用意した。 香ばしい味噌の香りが部屋いっぱいに広がり、どこか懐かしい空気に包まれる。 春馬の母 「はい、どうぞ。あまり無理しないでね」 澪 「……いただきます」 匙を口に運ぶと、ほのかな甘みが広がった。 胃の奥まで染みわたるような優しさに、澪の目にまた涙がにじむ。 春馬の母はその様子を見て、何も言わずに微笑んだ。 春馬の父 「若い者の力はすごいもんだな。……だが澪ちゃん、澪ちゃんの身体は澪ちゃんだけのものじゃない。これからは、春馬にもしっかり甘えるんだぞ」 澪 「……はい」 春馬 「父さん、母さん……ありがとう」 春馬の母 「お礼なんていらないわ。家族なんだから」 その言葉が、澪の心にそっと染みこんだ。 “家族”――その響きが、こんなにも温かいものだと、今ようやくわかった気がした。 食事を終え、少し休んだあと。 春馬は澪を外に誘った。 春馬 「……少し、いいところに行こう。見せたい景色があるんだ」 澪 「うん」 二人は丘の道を登りはじめた。 木々の間からこぼれる光が揺れて、葉の影が澪の頬を優しく撫でる。春馬は転ばないようにと、澪の手をそっと取った。 その掌のぬくもりが、心の奥に沁みていく。 やがて丘の頂に出ると、眼下に村が広がっていた。 畑の緑、屋根の連なり、流れる川のきらめき。 遠くには蝶屋敷の森の影も見える。 春馬 「ここ、子どもの頃から好きな場所なんだ。いつか、大切な人と見たいって思ってた」 澪はその言葉に目を瞬かせ、そっと春馬の横顔を見た。 朝の風に揺れる髪、まっすぐ前を見つめる瞳。 その姿に、胸がじんわりと熱くなる。 澪 「……綺麗だね。春馬くんの村、優しい色をしてる」 春馬 「澪も、ここにいていいんだ。無理しないで、笑って……この景色を、この子にも見せてやりたいな」 澪は思わずお腹に手を当て、微笑んだ。 風の音がやさしく包み込み、草花が小さく揺れる。 まるで、三人を祝福するように。 澪 「……ねぇ、春馬くん。この子が生まれたら、一緒にまたここに来よう」 春馬 「……ああ、約束だ」 二人は並んで空を見上げた。 青く広がる空の下、新しい命の息吹が確かにそこにあった。 風が頬を撫で、蝶がひらひらと舞う。 それはまるで、未来へと続く小さな祈りのように――。 丘の上からの帰り道。 日が傾きはじめ、空が茜色に染まりつつあった。 春馬の母は家の前で待っており、二人の姿を見つけると優しく微笑んだ。 春馬の母 「まぁ……二人とも、いい顔してるわね」 春馬 「母さん……澪、もうすぐ蝶屋敷に戻るよ」 春馬の母は頷くと、そっと部屋の中に入り、小さな布包みを持って戻ってきた。それを澪の手のひらにそっと乗せる。 春馬の母 「これね、私が若い頃に母からもらったお守りなの。ずっと、大切にしてたの。でもね――今度は澪ちゃんに持っていてほしいの」 澪 「……わたしに……?」 春馬の母 「うん。お腹の子が、元気に生まれてきますように。澪ちゃんが笑顔でいられますようにって、願いを込めてあるの」 澪は思わず胸が熱くなり、両手でお守りを包み込んだ。 その小さな重みの中に、確かに優しさと祈りが宿っている気がした。 澪 「……ありがとうございます。大切にします」 春馬の母 「ええ、きっと守ってくれるわ」 春馬の父が玄関から顔を出す。 春馬の父 「春馬、しっかり送っていけ。澪ちゃんの歩幅に合わせてな」 春馬 「わかってるよ、父さん」 春馬の両親に見送られながら、澪は深く頭を下げた。 澪 「……本当に、ありがとうございました」 春馬の母 「いつでも帰ってきていいのよ。ここは、あなたの家でもあるから」 その言葉に、澪の瞳がまた潤んだ。 春馬はそんな彼女の肩にそっと手を置き、微笑む。 春馬 「行こう、澪」 そして二人は並んで村を出て澪を近くまで送った。 夕暮れの風が頬をなで、遠くで鈴虫の声が鳴く。 その音が、不思議と心を落ち着かせてくれた ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
そして翌朝、 新しい一日とともに、澪は春馬に会いに行く決意を固めていた。 薄い朝靄が蝶屋敷の庭を包み、草木の葉には夜露が光っていた。 澪は、まだぼんやりとした意識のまま目を開けた。 胸の奥に、鈍い吐き気がこみ上げてくる。 澪 「……っ……」 慌てて布団から身を起こし、洗面桶の方へ駆け寄る。 胃の中のものを吐き出すと、冷たい汗が額を伝った。 全身の力が抜け、澪はその場に膝をつく。 澪(心の中) 「……また……」 昨夜、善逸の言葉が頭をよぎる。 “泣きたくなったら、いつでも来いよ”―― その温もりを思い出しながらも、 澪はふとお腹に手を添えた。 澪(心の中) 「……大丈夫。わたしが守る。どんなことがあっても……」 そのとき、障子の外から控えめな声が聞こえた。 しのぶ 「澪ちゃん? 入ってもいいかしら?」 澪 「……はい」 戸が静かに開き、朝の光の中でしのぶが姿を現す。 彼女は澪の顔を見て、すぐにそっと膝をついた。 しのぶ 「少し顔色が悪いわね……。吐き気、出てきた?」 澪 「……はい。ついさっき……」 しのぶは微笑んで頷き、濡らした手拭いで澪の額を拭った。 しのぶ 「これは体が命に慣れていく途中の反応よ。無理をせず、今日は安静にしましょう」 澪 「……はい」 澪の声はか細いが、どこか決意の色があった。 しのぶ 「善逸くんから聞いたわ。……話したのね」 澪は少し頬を染めて頷いた。 澪 「……はい。びっくりしてたけど、喜んでくれました」 しのぶ 「ふふっ。善逸くんらしい。……それで、春馬くんには?」 澪は一瞬だけ目を伏せ、息を吸った。 澪 「今日……話そうと思います」 しのぶの瞳がやわらかく光る。 しのぶ 「ええ。焦らなくていいけど……ちゃんと伝えることは、大事なことよ。春馬くんなら、きっと澪ちゃんの想いを受け止めてくれるはず」 澪はしのぶの言葉に背中を押されるように、小さく頷いた。 澪 「……はい。怖いけど……逃げたくないです」 しのぶ 「そう。それでいいの」 しのぶはそっと立ち上がり、優しく微笑んだ。 しのぶ 「支度ができたら、少し庭を歩いてみるといいわ。外の空気を吸えば、気持ちも整うはずだから」 澪 「……ありがとうございます、しのぶさん」 しのぶが部屋を出ると、澪は静かに息を吐いた。 手のひらをもう一度お腹に当て、心の中で小さくつぶやく。 澪(心の中) 「……行こう。ちゃんと、春馬くんに話そう」 ――数刻後。 蝶屋敷を出た澪は、澄み渡る青空を見上げた。 夜の雨はもう跡形もなく、空気は澄み切っている。 澪の心の奥にも、ほんの少しだけ光が差していた。 その光を胸に抱きながら、 澪は春馬のもとへ、ゆっくりと歩き出した――。 春馬の村は、蝶屋敷から少し離れた丘の向こうにあった。 朝の光が差し込み、風が木々の葉を揺らすたびに、澪の頬を優しく撫でていく。 鳥の声が響き、どこからか子どもたちの笑い声が聞こえてきた。 澪は両手を胸の前で重ね、深呼吸をした。 澪(心の中) 「……春馬くんの家、もうすぐだ。どう話せばいいんだろう……春馬くんの、ご両親にも……」 胸の奥がぎゅっと締めつけられる。 それでも、お腹にそっと手を添えると、温もりが小さく背中を押してくれた。 澪(心の中) 「……大丈夫。ちゃんと、伝えなきゃ」 村の道を抜けると、木柵に囲まれた立派な家が見えてきた。 それが、春馬の家だった。 軒先には干された洗濯物が風に揺れ、庭先では朝の水やりをしている人影が見える。 澪が門の前に立つと、その気配に気づいたのか、中から声がした。 春馬の母 「……あら、澪ちゃんじゃないの?」 姿を現したのは、春馬の母だった。 優しげな目元に、少し驚いたような表情を浮かべている。 春馬の母 「まぁまぁ、どうしたの? こんな朝早くに。蝶屋敷にいるって聞いていたけど……」 澪 「おはようございます……あの、春馬くんに……お話があって……」 春馬の母は一瞬だけ澪の顔を見つめ、それから穏やかに微笑んだ。 だが、その瞳の奥にはどこか察したような気配があった。 春馬の母 「……そう。春馬なら、もうすぐ戻ってくると思うわ。中に入りなさいな」 そう言って澪を中へ招き入れる。 木の香りがする家の中は温かく、囲炉裏の火が小さくぱちぱちと音を立てていた。 春馬の父が囲炉裏のそばに座っており、澪を見ると静かに頷いた。 春馬の父 「おや、澪ちゃんか。久しぶりだな。蝶屋敷では元気にしているか?」 澪 「はい……。お世話になっています」 春馬の母が湯飲みにお茶を注ぎながら、柔らかく言葉を続けた。 春馬の母 「春馬は、最近村の仕事で忙しくしてるの。……もうすぐ戻るはずよ」 澪 「……はい」 その間にも、心臓がどくんどくんと早鐘を打つ。 伝えなければならない言葉が胸の奥にあるのに、うまく息ができない。 やがて、外から足音が近づいてきた。 玄関の戸が開き、春馬が顔をのぞかせる。 春馬 「……澪?」 澪が立ち上がると、春馬の両親が静かに席を外した。 残された二人の間に、柔らかな朝の光が差し込む。 春馬 「どうしたんだ? 蝶屋敷じゃなかったのか?」 澪は小さく息を吸い、手をお腹に当てた。 澪 「春馬くん……あのね。大事な話があるの」 春馬は真剣な表情で頷く。 そのまなざしに背中を押されるように、澪はそっと告げた。 澪 「……しのぶさんに言われたの。……わたし、お腹に赤ちゃんがいるって」 部屋の空気が静まり返る。 囲炉裏の火の音だけが、かすかに響いていた。 春馬の目がゆっくりと見開かれる。 それは驚きと、信じられないという戸惑いの混ざった表情だった。 澪 「……怖かった。でもね、兄ちゃんが喜んでくれて……それで、ちゃんと春馬くんにも伝えなきゃって……」 春馬は黙ったまま澪の手を取った。 少し震える手を包み込み、静かに息をつく。 春馬 「……ありがとう。言ってくれて……澪……おれ、嬉しいよ」 澪 「……春馬くん……」 春馬 「大丈夫。これから先、いろんなことがあると思うけど――おれは、ずっとそばにいる。澪も、この子も、絶対に守る」 澪の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。 それでも、その表情にはもう迷いはなかった。 澪 「……ありがとう。春馬くん……」 外では、朝の風がそよぎ、花の香りがそっと部屋に流れ込んだ。 二人の未来を祝福するように――。 ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
廊下の向こうから足音が近づいた。 戸の外から、少し低いけれど優しい声がした。 善逸 「……澪、まだ起きてんのか?」 澪は顔を上げた。 灯の揺らぎの中、頬を伝う涙が光を受けてきらりと光った。 善逸 「……澪?」 戸をそっと開けた善逸は、その姿を見て一瞬言葉を失った。 泣き腫らした目、震える肩。 澪は、ただ小さく首を振るだけで何も言えなかった。 善逸 「お、おい……どうしたんだよ……」 善逸はおどおどと近づき、澪の隣に膝をつく。 けれど、澪は答えず、ただ声を殺して泣き続けていた。 善逸 「……泣くなよ、澪。どうした? 誰かに何か言われたのか?」 彼女の肩がさらに小さく震える。 善逸はどうしていいかわからず、しばらく黙っていた。 けれど次の瞬間、堪えきれずにそっと手を伸ばした。 善逸 「……もう、泣くな」 戸惑いながらも、澪の肩を引き寄せ、優しく抱きしめた。 澪はその胸の中で、抑えていたものが一気にあふれ出す。 澪 「……兄ちゃん……っ」 善逸 「大丈夫だ、大丈夫……泣いていいから」 善逸の手が、澪の背中を何度も優しく撫でる。 その掌の温かさが、澪の冷えた心を少しずつ溶かしていった。 澪 「……しのぶさんに言われたの。……わたし、お腹に……赤ちゃんがいるって……」 その言葉が静かな部屋に落ちた瞬間、善逸はぴたりと動きを止めた。 目を丸くして、まるで時間が止まったように澪を見つめる。 善逸 「……え……い、今……なんて……?」 澪は唇を震わせながら、もう一度小さく繰り返した。 澪 「……赤ちゃんが……いるって……」 しばらくの沈黙。 灯の揺らぎが二人の影をゆらゆらと揺らす。 そして善逸は、突然「……そっか!」と声を上げた。 驚きのあとに、ゆっくりと頬が緩み、涙ぐんでいる妹を前に優しく微笑んだ。 善逸 「……そうか……すげぇじゃねぇか、澪……!お前、ちゃんと……新しい命、守ってるんだな……!」 言葉を詰まらせながらも、善逸の声には嬉しさが滲んでいた。 澪はその反応に驚いて顔を上げる。 澪 「……兄ちゃん、怒らないの……?」 善逸 「怒るわけねぇよ……! 泣いてる妹見て、怒る兄貴がどこにいるんだよ。むしろよ……お前が泣くほど怖かったって聞いて、オレが情けなくて泣きそうだわ」 そう言って、善逸は笑いながらも少し鼻をすすった。 それから、そっと手を伸ばして澪の髪を撫でた。 善逸 「……よしよし。泣くなって。澪は悪くねぇ。怖かったら泣いていいけど、悲しまなくていい。だって……それ、きっと、嬉しいことなんだろ?」 澪の瞳から、またぽろりと涙がこぼれた。 けれど今度は、どこか柔らかい涙だった。 澪 「……兄ちゃん……ありがとう……」 善逸 「へへっ……当たり前だろ。オレはお前の兄貴だからな。それに、赤ちゃんが生まれたら……オレ、絶対にいい叔父ちゃんになるからな!」 その言葉に、澪は思わずくすりと笑った。 泣き顔のまま微笑むその表情に、善逸もようやく肩の力を抜く。 灯の光が二人を包み、外では夜風が優しく葉を揺らした。 静かな夜の中、澪の心の中に――少しだけ、明るい光が灯った。 兄の言葉が胸の奥深くに染みこんでいく。 “嬉しいことなんだろ?”――その一言が、不安で押し潰されそうだった心を少しずつ温めていった。 澪 「……兄ちゃんって、ほんとに変わったね」 善逸 「へ? な、なんだよ急に……!」 澪 「昔は、すぐ泣いて逃げてばっかりだったのに。今は、誰かのために泣いてくれる」 善逸は目を瞬かせたあと、照れくさそうに頬をかいた。 善逸 「う、うるせぇな……俺だって、少しは成長したんだよ。だってさ……妹が泣いてたら、もう逃げられねぇもん」 その言葉に、澪はふっと笑った。 その笑みはまだかすかに震えていたけれど、 確かに希望の色を帯びていた。 善逸は小さく息を吐いて、再び澪の肩に手を置く。 善逸 「なあ、澪。春馬には、もう話したのか?」 澪は首を横に振った。 澪 「……まだ。どう伝えたらいいのか、わからなくて……春馬くんにちゃんと話さなきゃ、だよね……」 善逸 「無理に話さなくてもいいぞ。俺はどっちでも、澪の味方だから」 澪 「……ううん。ちゃんと話したいの。春馬くんには……伝えなきゃいけない気がするの」 善逸は静かにうなずいた。 その目には、妹の成長を見つめる兄の優しい光が宿っていた。 善逸 「……そうだな。あいつ、きっと澪のこと心配してる。ちゃんと話せば、わかってくれるよ」 澪 「うん……」 澪はお腹に手を当てる。 指先の下には、まだ小さな命の気配。 それを確かめるように、そっと撫でた。 澪(心の中) 「この子にも……ちゃんと話しかけられる日が来るのかな……」 そう思うと、少しだけ怖さがやわらいでいく気がした。 そのとき、外の風鈴がかすかに鳴った。 夜風が障子を揺らし、月明かりが部屋に差し込む。 善逸は立ち上がり、窓の外を見ながらぽつりとつぶやいた。 善逸 「……おふくろが生きてたら、きっと喜んだだろうな」 澪はその背中を見つめ、静かに笑った。 澪 「うん……お母さん……どんな人だったんだろう」 善逸 「……優しかったよ。オレが泣き虫でも、ずっと笑ってくれたし澪のことも……たくさん抱きしめてた」 澪 「……覚えてないけど……なんとなく、そんな気がする」 二人の間に、あたたかな沈黙が流れた。 夜空の星々が、まるで遠い記憶を静かに照らしているようだった。 そして澪は小さく息を吸い、もう一度お腹に手を置いた。 澪 「……お母さんみたいに、強くて優しい人になりたいな」 善逸 「なれるさ。澪なら絶対に」 優しく告げる兄の言葉に、澪は涙を拭い、静かにうなずいた。 やがて夜が明け、東の空が白み始める頃。 澪の決意は、ほんの少しだけ形を持ち始めていた――。 ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
十五 澪の異変 季節がいくつも巡った。 蝶屋敷の庭には新しい花が咲き、澪は十八の春を迎えていた。 かつて倒れるほど無理をしていた頃が、遠い日のように思える。 今の澪は、呼吸も技も格段に磨かれ、隊士たちの中でも一目置かれる存在になっていた。 彼女の使う技は、まるで風と光が混ざり合うように美しく――見る者を惹きつける。 その日も、炭治郎や善逸たちと共に訓練を終え、庭に風が吹き抜けた瞬間、澪は竹刀を静かに下ろした。 呼吸の流れも安定している。体も軽い。……はずだった。 片付けを終えたあと、ふいに視界が揺れた。 めまい。 胸の奥がふわりと浮くように、体の芯が熱を持つ。 澪 (……あれ……? 少し、立ちくらみ……?) すぐに炭治郎が気づいた。 炭治郎 「澪ちゃん、大丈夫?」 澪 「ううん……平気。ちょっと疲れただけだから」 笑ってごまかしたが、足元の感覚はどこか頼りない。 その夜、澪は一人で部屋に戻ったあと、急に胸の奥から吐き気がこみ上げた。 口を押さえて息を整える。 喉の奥が熱く、体が妙にだるい。 何かがおかしい。けれど、理由がわからなかった。 その翌朝。 蝶屋敷の廊下を歩く澪の足取りは、どこかふらついていた。 朝の光の代わりに、静かな雨の音が障子越しに響いていた。 外はしとしとと降り続く雨。庭の花々が濡れ、淡い香りが湿った空気に溶け込んでいる。 薬棚の前にいたしのぶが、その様子にすぐ気づく。 しのぶ 「澪ちゃん? 顔色が真っ青よ……」 澪 「……あ、しのぶさん。すみません。吐き気と少しめまいがして……たぶん、寝不足かもしれません」 そう言って笑おうとしたが、その笑みは弱々しく、声も震えていた。 しのぶはそっと澪の肩を支え、近くの布団へ導く。 しのぶ 「無理しちゃだめ。ほら、横になったほうがいいわ」 澪は少しためらったが、素直に頷き、静かに横になった。 しのぶ 「寝不足の域じゃないわね……。原因をはっきりさせたほうがいいわ」 澪はうつむき、小さく頷いた。 胸の奥で、まだ名前のつかない不安がゆっくりと膨らんでいく。 澪 (……どうして。最近は体調も安定してたのに……) しのぶは優しく微笑み、湯気の立つ白湯を差し出した。 しのぶ 「とりあえず、これを飲んで。少し休みましょう」 澪はその言葉に従い、湯飲みを両手で包み込む。 温かな香りが鼻を抜けた瞬間、心が少しだけ落ち着いた。 しのぶは静かに立ち上がり、薬棚から何かを取り出しながら言った。 しのぶ 「澪ちゃん、後で少し詳しく診せてもらうわね。気になることがあるの」 澪 「……はい」 その声は、どこか小さく頼りなかった。 窓の外では、春の花びらが静かに舞っている。 その美しい朝の光の中で、澪の中に起こっている“変化”は、まだ誰も知らなかった。 蝶屋敷の午後。 雨上がりの庭には、しっとりとした草の匂いが漂っていた。 診療室の障子をそっと閉め、しのぶは澪を見つめる。 澪は布団の上に静かに座っていた。 顔色はまだ優れないが、吐き気は少し落ち着いたようだった。 それでも、その瞳の奥には、不安が隠しきれない。 しのぶは机の上の記録帳を開き、柔らかい声で問いかけた。 しのぶ 「澪ちゃん、最近の体調の変化をもう少し詳しく教えてくれる?」 澪 「……はい。えっと、ここ数日、ずっと食欲がなくて……朝起きると吐き気がして、めまいもあります。あと……月のものが、少し前から来ていなくて……」 その言葉に、しのぶの指が一瞬止まる。 しかし表情は崩さず、穏やかに澪の手を取った。 しのぶ 「……なるほど。澪ちゃん、少しだけ脈を診せて」 澪は黙って手首を差し出した。 しのぶの指先が脈を探り、しばらく静寂が続く。 やがて、しのぶは息を整え、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳は優しく、けれどどこか真剣な色を帯びていた。 しのぶ 「澪ちゃん……落ち着いて聞いてね。もしかすると――あなたの体の中には、新しい命が宿っているかもしれないわ」 澪 「……え?」 言葉が喉で止まった。 鼓動が一瞬で早まる。 しのぶの声は静かで、揺るがない。 しのぶ 「まだ確定とは言えないけれど、体の反応や脈の調子を見ても……その可能性は高いわ。これからしばらくは、無理をせず、戦いにも出ないようにしましょう」 澪は両手を胸の前で握りしめた。 驚きと戸惑いが交錯する中で、胸の奥に小さな温もりが広がっていく。 澪 「……わたしの中に……命が……?」 しのぶは穏やかに頷き、澪の肩に手を置いた。 しのぶ 「そう。とても大切な命よ。澪ちゃん、これまで本当によく頑張ってきたわ。でも今は、その命を守ることを一番に考えて」 澪の目に、静かな涙が浮かんだ。 それは恐れではなく――何かを確かに感じ取った涙だった。 澪 「……はい……」 しのぶは微笑みながら、そっと立ち上がる。 しのぶ 「澪ちゃん、しばらく休みましょう。今は体を一番に考えるときよ。任務のことは心配しなくていいわ」 澪はうつむいたまま、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。 胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。 澪 「……はい。ありがとうございます、しのぶさん」 かすれた声でそう答えると、しのぶは小さく微笑み、澪の髪をそっと撫でた。 しのぶ 「ええ。それでいいのよ。あなたはずっと頑張ってきたんだから」 その手の温もりに、澪の肩からふっと力が抜ける。 外では、雨雲の隙間から光が障子を透かして差し込み、濡れた庭の緑がきらめいていた。 淡い光が畳に模様を描き、静かな朝の空気に新しい息吹を感じさせた。 夜 部屋の中、澪はひとり、灯を落とした薄明かりの中で膝を抱えていた。 しのぶに告げられた言葉が、何度も頭の中を回る。 しのぶ 「……澪ちゃんのお腹には、新しい命が宿っています」 その一言が、まるで遠い夢のようで。 現実だと理解しても、心が追いつかない。 澪(心の中) 「……わたし、本当に……お母さんになるの……?」 その言葉が頭の中で何度も反響する。 “お母さん”――けれど、その響きに胸がざわついた。 小さなころの記憶をたどろうとしても、霧のようにぼやけていく。 誰かに抱きしめられたような温もりの断片はあるのに、顔も、声も、思い出せない。 澪(心の中) 「……お母さん……どんな人だったんだろう……」 怖い。けれど、どこか温かい。 そんな相反する想いが、胸の奥でゆっくりと渦を巻いていった。 ー続くー
雷と光の絆〜兄妹をつなぐ勇気〜
翌朝。 障子の隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。 鳥の声が遠くで響く中、澪はゆっくりと瞼を開ける。 ぼんやりとした視界の中で見えたのは、枕元に座る炭治郎と善逸の姿。 二人ともほとんど眠らずに看病していたようで、炭治郎の目の下にはうっすらと隈ができていた。 澪 「……炭治郎さん……にい……ちゃん……」 声はかすれ、体を起こそうとした瞬間、炭治郎が慌てて止めた。 炭治郎 「澪ちゃん、無理しないで! まだ熱が下がってないんだ」 澪は困ったように微笑み、額に手を当てた。 指先から伝わる体温は、まだ少し高い。 澪 「……また、迷惑かけちゃったね」 善逸 「何言ってんだよ! 迷惑なんかじゃない! 俺たちが澪を守る番だろ!」 勢いよく言いながらも、善逸の目は心配そうに揺れている。 澪はそんな二人を見つめ、申し訳なさそうに唇を結んだ。 澪 「……わたし、みんなの足を引っ張っちゃうんじゃないかって、思ってた。もっと強くならなきゃって……それで……」 炭治郎は首を横に振り、優しい声で答えた。 炭治郎 「強くなることも大事だけど、倒れるまで頑張るのは違うよ。澪ちゃんが元気でいるだけで、俺たちは十分力をもらってる」 その言葉に、澪の目が少し潤む。 しのぶの言葉と同じように、炭治郎の真っ直ぐな声が胸に染みた。 善逸 「そうだよ。澪はさ、笑っててくれるだけでいいんだよ。そのほうが、俺たちも安心できるんだからさ」 澪は小さく笑みを浮かべ、まぶたを閉じる。 澪 「……ありがとう。二人とも、ほんとに優しいね……」 布団の中で小さく息を整えながら、澪は再びまどろみに落ちていった。 炭治郎と善逸はしばらく無言でその寝顔を見つめていた。 外では、風が木々を揺らし、柔らかな光が障子越しに揺れている。 澪の寝息はまだ少し熱を帯びているけれどその表情は、どこか穏やかだった。 澪の回復訓練 朝露が光る蝶屋敷の庭。 木々の葉を渡る風が心地よく、空は青く晴れ渡っていた。 澪は縁側に立ち、深く息を吸い込む。 あの高熱から数日、ようやく体調も完全に戻ってきた。 まだ身体の奥に少しだけ重さが残るけれど――もう大丈夫。 背後から、炭治郎の明るい声がした。 炭治郎 「澪ちゃん、準備できたか?」 澪が振り向くと、炭治郎と善逸が庭に立っていた。 二人とも訓練着姿で、顔には優しい笑みが浮かんでいる。 澪 「うん……もう大丈夫。今日はちゃんと動けると思う」 善逸 「でも無理はすんなよ!? 倒れたらまた俺が抱えて運ぶ羽目になるんだからな!」 炭治郎 「はは、善逸が言うとなんだか心配になってくるな」 そんなやり取りに、澪は思わず笑みをこぼした。 その笑顔が戻ったことが、何よりも嬉しい 炭治郎はそう思いながら、竹刀を構える。 炭治郎 「じゃあ今日は、型の確認から始めよう。呼吸を整えることを意識して」 澪は頷き、静かに立ち姿を整える。 ゆっくりと息を吸い、吐く。 胸の奥が温かく広がっていくのを感じながら、一歩を踏み出した。 竹刀が風を切る。 その音はまだ軽やかとはいえない。けれど、確かなリズムがあった。以前よりも無駄な力が抜け、心が澄んでいくような感覚。 炭治郎 「いい動きだよ、澪ちゃん。焦らなくていい、その調子だ」 澪 「……はい!」 額に汗がにじむ。でも、それは苦しさではなく、嬉しさの汗。動けること、またみんなと一緒にいられることが、こんなにも嬉しいなんて。 何度か呼吸を繰り返しながら、澪は竹刀を振り続けた。 足の運び、腕のしなり、呼吸の流れ――どれも少しずつ感覚を取り戻していく。 炭治郎はその様子を見つめながら、時折穏やかに声をかけた。 炭治郎 「いいね。その呼吸の流れを崩さないように。雷の呼吸は速さが命だけど、速さだけじゃ体が持たないから」 澪 「うん……! 息を、乱さないように……!」 額から汗が伝い、頬をつたって落ちる。動くたびに筋肉がわずかに軋むが、その痛みすら嬉しかった。自分が“戻ってきた”という実感が、胸の奥で小さく灯をともす。 少し離れた場所で、善逸は手を口の横に添えて大げさに叫ぶ。 善逸 「澪ー! あんまり頑張りすぎるなよー!? 休憩は大事だからなー! 俺はもう限界だぁぁ!!」 炭治郎 「善逸はまだ一本も振ってないだろ!」 善逸 「見てただけで疲れたんだよぉ! 真面目に見守るのも体力使うんだって!」 思わず澪が吹き出し、竹刀を下ろした。 緊張がほどけたように、空気が柔らかくなる。 炭治郎も苦笑しながら頷いた。 炭治郎 「……まあ、そろそろ休憩にしようか。焦る必要はないしね」 澪は「はい」と素直に頷き、竹刀を置いた。 指先が少し震えていたけれど、心は穏やかだった。 頑張るだけが強さじゃない。 少し立ち止まって、呼吸を整えることも――前に進むために必要な時間。 木々の間を抜ける風が、優しく汗を冷ましていく。 光が差し込む庭の真ん中で、澪は静かに息を吐いた。 そして、炭治郎と善逸と共に縁側へ向かう。 休憩の合間、澪は庭の木陰に腰を下ろし、湯飲みを手にした。 その隣では善逸が寝転び、炭治郎が静かに水を飲んでいる。 善逸 「なあ澪、ほんとに元気になってよかったよ……心配で寝られなかったんだからな」 澪 「ふふ、ありがとう。もう大丈夫。今度はちゃんと、自分の体も大事にする」 炭治郎 「うん。それが一番大事だよ。澪ちゃんの呼吸は、優しいけど芯が強いんだ。その強さは、焦らなくてもちゃんと育っていく」 その言葉に、澪は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。 自分の歩幅で、少しずつ。 それでいい――そう思えるようになっていた。 木漏れ日の下、再び澪は立ち上がる。 竹刀を構え、息を吸い、吐く。 澪(心の声) 「今度こそ、ちゃんと前を向いて進みたい」 その一振りは、風を裂き、光を纏うようにまっすぐに伸びた。 澪の回復訓練は、ゆっくりと、しかし確かな力を宿しながら続いていくのだった。 ー続くー
禰豆子が鬼にならない世界 三十四
〜前回のあらすじ〜 蝶屋敷で善逸と雛子の微笑ましい朝を迎えた後、禰豆子と街へ出かけた雛子は花や団子に喜びながら無邪気な笑顔を見せ、二人は穏やかな時間を過ごすのだった。 団子をほおばりながら歩いている雛子と禰󠄀豆子。 人混みの中、雛子は楽しそうに跳ねるように歩いていた。 雛子 「ねぇね、あっちにもおいしいのある!」 そう言って駆け出した瞬間、通りの隅で何かがカラン、と音を立てた。 振り返ると、泥棒のような男が落とした袋の中から、銀貨や小物がこぼれ落ちている。 雛子 「……あっ!」 雛子は思わず駆け寄ろうとしたが、ふと足元に落ちていた小さな鉄の部品に足を取られ、つんのめってしまう。 その拍子に、手に持っていた団子を落としてしまい、体勢を崩して倒れ込む。 禰󠄀豆子 「雛子……!」 雛子は地面に倒れ、手や腕に擦り傷を作り少し血が滲んでいる。 禰󠄀豆子はすぐさま駆け寄り、雛子を抱き上げる。 雛子 「……いたい……でも、へーき……」 雛子は泣きそうな顔をしているが、泣くのを我慢し禰󠄀豆子は優しく頬をなで、落ち着かせる。 禰󠄀豆子 「大丈夫、雛子。もう安全だよ」 通りの人々も慌てて散らばる泥棒を追いかけ、落ち着きを取り戻す。 雛子はまだ少し赤くなった手を見つめながらも、禰󠄀豆子の腕の中で小さく息をつく。 雛子 「これ見たら、にぃにびっくりしちゃう?」 禰󠄀豆子はそっと笑みを浮かべ、雛子を抱きしめたまま、街のざわめきの中で二人の時間をゆっくり取り戻す。 夜の帳がすっかり降り、街の灯りも遠くに霞んでいた。 蝶屋敷の門前で、炭治郎は落ち着かない様子で立っていた。 炭治郎(心の中) 「……遅い。禰󠄀豆子と雛子、どうしたんだろう……」 何度も門の外を見やり、額にはじんわり汗がにじんでいる。 そのとき――遠くから小走りで駆け寄る二つの影が見えた。 炭治郎 「禰󠄀豆子! 雛子!」 声を上げ、駆け寄る炭治郎。 灯りに照らされた雛子の手に、小さな擦り傷が見えた瞬間、彼の顔が強張った。 炭治郎 「雛子! 怪我してるじゃないか……!」 雛子は目をぱちくりさせ、慌てて笑顔を作る。 雛子 「……ちょっとこけちゃっただけ! だいじょうぶ! へーき!」 その子どもらしい強がりに、炭治郎は膝をつき、雛子と視線を合わせた。 炭治郎 「……無理しなくていいんだ。痛かっただろう」 雛子 「……う、うん……」 最初は強がろうとしたけれど、炭治郎の真っ直ぐで温かい眼差しに触れた途端、雛子の目にじわりと涙が浮かんだ。 雛子 「……ほんとは、ちょっと……すごくいたかった……」 その声は小さく震えていた。 炭治郎はそっと雛子を抱き寄せ、頭を撫でる。 炭治郎 「そっか……言ってくれてありがとう。痛かったのに、よくがんばったな」 雛子は炭治郎の胸に顔をうずめ、ようやく安心したように小さな嗚咽を漏らした。 禰󠄀豆子 「ごめんなさい……私がついていながら……」 炭治郎は首を振り、柔らかい笑みを浮かべた。 炭治郎 「禰󠄀豆子のせいじゃないよ。二人とも無事に帰ってきてくれて……それだけで十分だ」 夜風が三人の間を優しく撫で抜ける。 小さな擦り傷は痛んでも、家族のぬくもりの中で、雛子の心はすっかり安心に包まれていた。 雛子は炭治郎に抱かれたまま、蝶屋敷の明かりの下に入った。 すぐに、薬草の香りと、静かな足音が迎える。 しのぶ 「おかえりなさい。雛子ちゃん、禰豆子ちゃん。街は楽しかった?結構遅くまで行っていたけど……あら、少し擦りむいてしまったのですね」 しのぶは落ち着いた笑みを浮かべながら、棚から薬を取り出した。 清潔な布に薬を染み込ませ、雛子の小さな手をやさしく支える。 その瞬間、ふわりと甘い香りが室内に漂った。 炭治郎(心の中) 「……この匂いはなんだ? 血か? いや、違う……こんなに甘くて澄んだ匂い、初めてだ……」 しのぶも気付いたように一瞬だけ目を細めたが、すぐに微笑みを取り戻す。 雛子 「……しみる?」 不安げに見上げる雛子。 しのぶはふわりと目を細め、声を和らげた。 しのぶ 「大丈夫。すぐ終わりますよ。雛子ちゃんは強い子ですから」 薬が触れると、雛子は少し顔をしかめたが、泣くのを我慢して炭治郎の袖をぎゅっと握った。 炭治郎 「えらいぞ、雛子。少しだけ我慢すれば、すぐに良くなるから」 処置を終えたしのぶは、包帯を軽く巻いてから、にこりと笑った。 しのぶ 「はい、おしまい。これで明日にはもう痛くなくなります」 雛子 「ほんと? ……ありがと、しのぶさん!」 ぱぁっと顔を輝かせる雛子を見て、しのぶは思わず柔らかく頬を撫でる。 しのぶ 「かわいい患者さんですね」 炭治郎と禰󠄀豆子は顔を見合わせ、ほっと息をついた。 夜の街での小さな出来事は、こうして蝶屋敷のぬくもりの中に溶けていった。 たくさん街を満喫した雛子は布団の中に入って目を閉じ、すうすうと寝息を立て始め炭治郎は優しく雛子の頭を撫でた。 しのぶは炭治郎と禰豆子を呼んだ。 しのぶ 「……少し、こちらへ。大事なお話があります」 薬棚の向こう、灯りの落ちた静かな一室へと導かれる二人。 その背筋に、ただならぬ気配が走っていた。 灯りの落ちた静かな部屋に入ると、外のざわめきも届かず、ただ薬草の匂いと淡い灯明の光だけが漂っていた。 しのぶは戸を閉めると振り返り、微笑みを浮かべたまま、しかしその瞳には冷静な光が宿っていた。 しのぶ 「……炭治郎さん、禰豆子ちゃん。雛子ちゃんのことについて、お話ししなくてはなりません」 炭治郎は無意識に背筋を伸ばし、禰豆子も眉を寄せて真剣な眼差しを返す。 しのぶは少し間を置き、静かに言葉を選ぶように続けた。 しのぶ 「雛子ちゃんの血……先ほど処置の際に感じましたがあまりに異質です。普通の人の血にある鉄の匂いではなく、甘く、花蜜のようで……鬼であれば抗えないほどの強烈な香り」 炭治郎 「……しのぶさんも感じたんですね。……俺も、あの匂いを嗅いで……ただの血じゃないとすぐに分かりました」 しのぶは小さくうなずき、表情を引き締める。 しのぶ 「このままでは……雛子ちゃんは鬼にとって、何よりも魅力的な“獲物”になってしまいます。たとえ小さな擦り傷でも、匂いに釣られて鬼が群がる危険がある。加えて雛子ちゃんは時に死者の声を聞き、死者の姿すら目にしてしまう。その力は計り知れないけれど、同時に……鬼舞辻にとって格好の標的となりかねません」 禰豆子は思わず雛子の眠る方角へ目を向け、両手を強く握りしめた。 炭治郎の胸にも冷たいものが落ちる。 炭治郎 「……じゃあ……雛子は……」 しのぶはその言葉をそっと遮るように、けれど優しい声で告げた。 しのぶ 「だからこそ、私たちが守らなければなりません。彼女の血は“異質”であると同時に、危険でもあります。……絶対に鬼に嗅ぎつけられてはならない」 淡々とした声に込められた強い決意。 炭治郎と禰豆子の胸に、その重さが静かに響き渡った。 ー続くー