やみ

83 件の小説
Profile picture

やみ

はじめましてやみです。空いている時間に作成してます。沢山の人が読んでくれると嬉しいです😊まだまだ初心者なので宜しくお願いします

再び繋がる手

第十八章 約束の春 風に乗って、花びらが舞っていた。 校庭の桜並木の下で、紬は制服のリボンを直しながら空を見上げた。 紬 (もう、卒業か……) 長かったようで、あっという間だった三年間。 笑った日も、泣いた日も――すべてがこの校舎の中に詰まっている。 そしてそのどの日にも、いつも“橘直人”がいた。 紬 (出会って、変わったな、あたし) 初めての友達。 初めての想い。 初めての涙。 それを全部くれたのが、直人だった。 直人 「紬」 声のするほうを振り向くと、少し背が伸びた直人が立っていた。 卒業証書を片手に、少し照れたように笑っている。 直人 「似合ってるよ、そのリボン」 紬 「もう……またそれ?」 直人 「だって最初に会ったときと同じリボンでしょ。なんか、あの頃の紬を思い出すんだ」 紬は小さく笑った。 紬 「じゃあ、ずっとこのリボンにしようかな」 直人 「うん、いいと思う」 沈丁花の香りが風に混じる。 校庭のあちこちで、友達たちが写真を撮ったり笑い合ったりしていた。 けれど、紬と直人のまわりだけは、不思議と静かだった。 紬 「直人くん、進学するんだよね」 直人 「うん。警察官になりたくて、勉強頑張るつもり」 紬 「そっか。あたしは……」 紬は少しだけ視線を落とした。 紬 「まだ決められない。でも、誰かを守れる人になりたい」 直人 「紬なら、きっとなれるよ」 その言葉に、胸の奥があたたかくなった。 紬 「ねぇ、直人くん」 直人 「ん?」 紬 「覚えてる? あの日の“お互い守り合おう”って約束」 直人 「もちろん」 二人は見つめ合い、同時に笑った。 紬は制服のポケットから、小さな封筒を取り出した。 紬 「これ、受け取って」 直人が受け取って封を開けると、中には水色と白の二羽の折り鶴のキーホルダーが入っていた。 紬 「これ、あたしと直人くんの分。……これからも、同じ空の下で頑張ろうって意味」 直人 「……ありがとう。俺、ずっと大事にする」 風が吹き、桜の花びらが二人の間を舞った。 直人 「じゃあ、また春に会おう」 紬 「うん。次の春も、きっと笑って会おうね」 直人が右手を差し出し、紬がその手を握り返した。 その瞬間、風がふっと止まり、世界が静まったように感じた。 紬 (離れても、きっと大丈夫。だって、あたしたちは――) 桜の花びらが二人の肩に落ち、淡い光のようにきらめいた。 ――それは、“再会の約束”を告げる春の風。 白と水色、二羽の鶴のキーホルダーが並んで、未来へと羽ばたいていった。 最終章 未来へ 春の風が、街の通りをやさしく撫でていく。 白と桃色が入り混じる桜並木の下を、ひとりの女性が歩いていた。 ――花垣紬。 制服姿だった少女の面影は、もうどこにもない。 それでも、笑うと少し口の端が上がるところは、昔のままだった。 手には、小さな包み。 中には、あの日の“白と水色の折り鶴”。 ほんの少し色あせているけれど、それが年月の証のように見えた。 紬 (……あれから何年経ったんだろう) 中学を卒業して、それぞれの道を歩き始めてから、もう数年。 連絡はたまにしか取っていない。 けれど、心のどこかで、ずっと彼を想っていた。 橘直人。 彼は夢を叶え、警察官として働いていると聞いた。 ――強くて、まっすぐで、優しい。 昔と変わらないその姿が、紬の胸の中にずっとあった。 今日は、桜坂公園で会う約束をしていた。 あの頃、放課後によく歩いた道。 あの頃と同じように、春の空はどこまでも青かった。 直人 「紬」 呼ばれて振り向くと、そこに直人が立っていた。 背が伸び、制服ではなくスーツ姿。 でも、その笑顔は――あのころのまま。 直人 「久しぶりだね」 紬 「……うん。すっごく、久しぶり」 二人の間に、春の風が吹き抜ける。 懐かしさと嬉しさが混じって、胸の奥がじんとした。 直人 「変わらないね、紬」 紬 「直人くんこそ。なんか、“大人”って感じ」 直人 「はは、まぁ仕事柄ね」 少し笑い合ったあと、紬は手にしていた包みを差し出した。 紬 「……これ、また持っててほしくて」  直人は受け取り、ゆっくりと包みを開く。 中には、少し折り目のついた“白と水色の鶴”。 紬 「覚えてる?」 直人 「もちろん。……ずっと大事にしてた」 直人は胸ポケットから、小さなビニール袋を取り出した。 中には、まったく同じ折り鶴が二羽。 直人 「俺も、ずっと持ってた。ボロボロになっても捨てられなくて」 紬の目に、涙がにじんだ。 紬 「……嬉しい」 直人 「俺、あのとき言えなかったけどさ」 直人は少し息を吸い込んで、まっすぐに彼女を見た。 直人 「俺、ずっと紬のこと守りたいって思ってた」 その言葉に、風がやさしく吹いた。 桜の花びらが舞い上がり、二人の間に降りそそぐ。 紬は涙を拭き、笑顔で答えた。 紬 「……あたしも、そう思ってた。ずっと。 兄ちゃんがいなくても、直人くんがそばにいるだけで、心が強くなれた」 しばらくの沈黙。 でもそれは、悲しい沈黙ではなく、あたたかなものだった。 直人がポケットから、小さな箱を取り出した。 直人 「これ……受け取ってくれる?」 箱の中には、淡い桜色のリボンの髪飾り。 紬 「え……これ、まさか……」 直人 「昔のあのリボン、もう古くなってたでしょ? だから、新しい“約束の印”を」 紬は涙をこらえながら微笑んだ。 紬 「……ありがとう」 直人 「ううん。こっちこそ、ありがとう」 二人は見つめ合い、笑った。 それは、子どもの頃と同じ笑顔。 でもそこには、確かに“未来”があった。 風が止まり、桜の花びらが静かに落ちる。 その中で、二人の影がゆっくりと重なった。 ――あの日の約束は、今、叶った。 そしてまた、新しい約束が始まる。 花垣紬と橘直人。 幼い出会いから始まった二人の物語は、 やさしい春風とともに、未来へと続いていった。 【完】

1
0

再び繋がる手

第十三章 「揺れる気持ち」 文化祭が終わってから数日。 学校のざわめきが少し落ち着いた午後、紬は教室の窓から空を見上げていた。 青い空には、うすい雲がゆっくりと流れている。 紬 (……あれから、直人くんの顔を見ると、胸が苦しい) 鞄の中には、あの日もらった水色の折り鶴。 放課後、こっそり取り出しては何度も眺めてしまう。 そのたびに、胸の奥がじんと熱くなった。 友達B 「花垣さん、帰ろ?」 友達の声で、紬ははっとして顔を上げる。 紬 「う、うん! すぐ行く!」 そのとき、廊下の向こうから直人が歩いてくるのが見えた。 少し汗をかいた額を拭いながら、優しい笑顔を浮かべている。 直人 「紬、また鞄重そうだな」 紬 「だ、大丈夫! 兄ちゃんに似て、荷物多いだけ!」 直人 「はは、そっくりだね」 笑い合いながらも、二人の間には小さな“照れ”が生まれていた。 以前のように自然に話せない。 でも、話したい。 そのもどかしさが、日々を少しだけ特別にしていた。 その夜。 武道が夕食のあと、ソファでテレビを見ていると、紬が隣に座った。 紬 「兄ちゃん」 武道 「ん?」 紬 「……好きな人って、どんな感じ?」 武道の手が止まった。 武道 「ど、どした急に……!」 紬 「べ、別に! ちょっと聞いてみたくなっただけ!」 紬は慌てて顔をそむけたが、耳まで赤く染まっていた。 武道は苦笑しながら頭をかいた。 武道 「うーん……難しいけどさ。その人のこと考えると、勝手に笑っちまう。でも同時に、苦しくもなる。……そんな感じ、かな」 紬は黙ってうなずいた。 兄の言葉が胸に刺さる。 紬 (やっぱり……あたし、そうなんだ。直人くんのこと考えると、胸がぎゅってなる) 静かに涙がこぼれた。 それは悲しい涙ではなく、どこか温かいものだった。 武道が心配そうに覗き込む。 武道 「おい、紬?」 紬 「ううん、大丈夫。……ありがと、お兄ちゃん」 笑いながら涙を拭うその横顔に、武道は小さくため息をついた。 武道 (……そっか。紬にも、もう“好きな人”ができたんだな) 少しだけ寂しい。でも、誇らしい。 そんな複雑な感情を胸に、武道は妹の頭をそっと撫でた。 武道 「いい人だといいな」 紬 「うん」 紬は小さくうなずきながら、胸の奥にある名前を思い浮かべた。 橘直人。 その夜、枕元に置かれた水色の折り鶴が、月明かりにやさしく光っていた。 第十四章 「言えない想い」 秋が深まり、街の木々が色づき始めたころ。 紬は、放課後の帰り道をひとり歩いていた。 ランドセルを背負う小学生のときとは違い、制服のスカートが風に揺れるたびに、 少しだけ“大人”になった自分を感じていた。 紬 (……直人くん、最近ちょっと遠い) そう感じるようになったのは、文化祭終わってから一ヶ月経った。 以前のように笑い合う時間が減り、話しかけてもどこか上の空。 それでも、彼は優しく接してくれる。 それが余計に、胸に痛かった。 廊下で偶然すれ違ったとき、「ごめん、今ちょっと用事あるから」 そう言って走り去る直人の背中が、妙に遠く見えた。 放課後。 屋上に続く階段で、紬はポケットから水色の折り鶴を取り出した。 あの日、直人が渡してくれたもの。 陽の光を受けて、少し色が褪せている。 紬 「……これ、ちゃんとお守りになってるよ」 小さく呟いて、ぎゅっと手の中に握りしめた。 でも、その温もりだけでは寂しさを埋められなかった。 紬 (どうしてだろう。話したいだけなのに、うまく言葉が出てこない) その夜。 夕食のあと、兄の武道がリビングで書類をまとめていると、紬が顔を出した。 紬 「お兄ちゃん……人ってさ、“好き”って言えないとき、どうする?」 武道はペンを止めて、少しだけ考えた。 武道 「言えないってことは、言いたい気持ちが本気だからだろ。……無理に言わなくてもいい。ちゃんと伝わるまで、大事にしてりゃいいんだよ」 紬 「……大事に、かぁ」 紬はその言葉を胸の中で繰り返した。 紬 (ちゃんと伝わるまで、待つ……) 翌日。直人は教室でクラスメイトに囲まれていた。 クラスメイトA 「橘くん、生徒会の仕事、任されてるんでしょ? すごいね!」 直人 「いや、まだ見習いみたいなもんだよ」 楽しそうに笑う直人の姿に、紬は胸がちくりと痛んだ。 紬 (すごいな……どんどん遠くなっちゃう) その日の放課後、校門の外で二人はばったり出会った。 夕焼けの光が、二人の影を長く伸ばしていく。 直人 「……紬」 紬 「……直人くん」 お互いに言いたいことがあるのに、言葉が出ない。 気づけば、沈黙だけが続いた。 風が吹き、紬の髪が揺れる。 その香りに気づいた直人が、ふと目を細めた。 直人 「……その髪のリボン、似合ってる」 紬 「え?」 直人 「なんか、“あのころの紬”みたいだ」 それだけ言うと、直人は笑って歩き出した。 紬は立ち尽くしたまま、心の奥で小さく息をのむ。 紬 (……あのころの、紬?) 胸の奥に、あたたかくて切ないものが溶けていく。 涙がこぼれそうになりながら、紬はそっと空を見上げた。 紬 「……好き、って言えないけど。ちゃんと、伝わってるといいな」 小さな声でつぶやいたその言葉は、風に乗って静かに消えていった。 第十五章 「君の隣」 季節は冬へと移り変わり、吐く息が白くなるころ。 紬は通学路を歩きながら、ふと手袋の中で指先をこすった。 冷たい風が頬にあたるたび、少しだけ胸の奥が温かくなる。 ――最近、また直人と話せるようになった。 すれ違いの日々が続いたあと、ある日、直人のほうから話しかけてくれたのだ。 直人 「この前、図書委員の資料ありがとう。助かった」 紬 「ううん、全然! むしろ、あたしのほうが助けてもらってばっかりだし」 それだけの会話だったのに、心がふっと軽くなった。 紬 (やっぱり……直人くんと話してると安心する) 放課後、帰り道を並んで歩くことが増えた。 冷たい風のなか、二人の影が寄り添うように並んで伸びていく。 直人 「紬、クリスマスって武道くんと過ごすの?」 紬 「うん、兄ちゃん仕事で忙しいけど、夜には帰るって。……直人くんは?」 直人 「うちは家族でケーキ食べるかな」 紬 「いいなぁ、橘家のケーキ、お母さんの手作りでしょ?」 直人 「うん。紬ちゃんも来れば?」 不意の言葉に、紬は足を止めた。 紬 「えっ……?」 直人 「いや、その……。来たらきっと、母さん喜ぶよ」 そう言って笑う直人の横顔に、胸がじんとした。 ――この人の隣が、好き。 ただそれだけで、世界が明るくなる気がする。 家に帰ると、兄の武道がソファでコーヒーを飲んでいた。 武道 「おかえり、紬。なんか、最近楽しそうじゃん」 紬 「え……? そ、そう?」 武道 「顔見りゃわかるよ」 武道はニヤリと笑って、妹の頭を軽く小突いた。 武道 「ま、あんま無理すんなよ。……大事なもんほど、焦らなくていい」 紬 「うん」 その言葉に、紬は静かに微笑んだ。 紬 (焦らなくていい……そっか。今のこの距離、悪くないのかも) 数日後の放課後。 校門の前で待っていた直人が、紬に声をかけた。 直人 「なあ、紬」 紬 「ん?」 直人 「前に渡した鶴、まだ持ってる?」 紬 「もちろん」 紬はポケットから、水色の折り鶴を取り出した。 紬 「ちょっと色あせちゃったけど、大事にしてる」 直人 「……そっか。ならよかった」 そう言って、直人は鞄の中から過去に紬から もらった折り鶴を見せた。 直人 「なんか、これ見ると頑張れるんだ」 風が吹き、二人の髪が揺れる。 夕陽が差し込むなか、互いの折り鶴が並んで光った。 直人 「これからも……お互い守り合おっか」 紬 「うん!」 その笑顔は、どこまでもまっすぐで、やさしかった。 言葉にはできないけれど、確かに伝わるものがあった。 ――“君の隣”にいられるだけで、今は十分。 雪の気配を感じる風の中、二人の影がゆっくりと重なっていった。 第十六章 兄の願い 十ニ月の終わり。 街にはイルミネーションが灯り、花垣家の窓にも小さな星形の飾りが揺れていた。 武道は湯気の立つマグカップを手に、ベランダから外を眺めていた。 夜の冷たい空気の中、家の中からは紬の笑い声が聞こえる。 電話の相手は、たぶん橘直人だ。 武道 (……ほんとに、あいつと話すと声のトーンが違うんだよな) 武道は苦笑しながら、湯気の向こうにぼんやり浮かぶ月を見上げた。 妹の恋を感じるたび、心の奥が少しだけ寂しくなる。 けれど、それと同時に――誇らしさもあった。 あの小さかった紬が、ちゃんと誰かを想えるようになった。 それは兄として、何より嬉しいことだった。 武道 (……ただ、泣かせるようなやつじゃなきゃいい ……ほんとに、あいつと話すと声のトーンが違うんだよな) 小さくため息をついたとき、背後から足音がした。 紬 「兄ちゃん、寒くないの?」 紬がマグカップを両手で抱えて、隣に並んだ。 武道 「ん? おぉ、紬。電話、終わったのか」 紬 「うん。直人くん、冬休みの宿題が多いってぼやいてた」 武道 「はは、真面目そうに見えて意外と人間味あるな、あいつ」 二人で並んで笑う。 白い息が、夜空に溶けていく。 少し沈黙があって、紬がぽつりと言った。 紬 「ねぇ、兄ちゃん」 武道 「ん?」 紬 「兄ちゃんは……どうして、そんなに優しいの?」 不意の言葉に、武道は目を瞬かせた。 武道 「え? 俺、優しいか?」 紬 「うん。いつもあたしのこと見ててくれるし、何も言わなくてもわかってくれる」 武道は苦笑して、マグカップを口に運んだ。 武道 「それはさ、俺が“お前がいなかった時間”を知ってるからだよ」 紬は不思議そうに首をかしげる。 紬 「いなかった時間?」 武道 「……昔、親の都合で離れてたろ? あのとき、俺、毎日思ってたんだ。“もう一度、紬に会いたい”って。 だから今は、ただ一緒にいるだけで十分なんだよ」 その声は穏やかで、どこか切なかった。 紬は言葉を失い、ただ兄の横顔を見つめた。 紬 「兄ちゃん……」 武道 「なに?」 紬 「……ありがとう」 小さな声でそう言うと、紬は武道の腕にそっと寄りかかった。 兄は少し驚いたあと、ゆっくりと妹の肩を抱き寄せた。 武道 (あぁ……こんな日がずっと続けばいいのにな) けれど、心のどこかで知っている。 いつか紬は、自分の道を歩き出す。 それでもいい。 その日まで、兄として、精一杯支えていこう。 ――それが、花垣武道の“願い”だった。 紬 「兄ちゃん」 武道 「ん?」 紬 「……あたし、今すごく幸せ」 武道 「そっか。それならいい」 月明かりが二人の背を照らし、静かな夜に雪の気配が降りてきた。 やさしい沈黙の中、兄妹の絆は静かに強く結ばれていった。 第十七章 白い夜、君に贈るもの クリスマス・イブの夜。 外は静かに雪が降っていた。 街の灯りが白く滲み、どこか幻想的な空気をまとっている。 花垣家のリビングでは、兄の武道がケーキの箱を開けながら、笑っていた。 武道 「おぉ、見ろよ紬! 兄ちゃん、頑張って買ってきたぞ!」 紬 「コンビニのケーキじゃん!」 武道 「いやいや、最近のコンビニケーキはすごいんだぞ!」 二人で笑い合うその空気は、どこまでもあたたかかった。 けれど――紬の心の奥では、別の鼓動が早く鳴っていた。 紬 (今夜、渡したい。このプレゼント、ちゃんと自分の手で) 机の上には、小さな包み。 中には、自分で折った“白い折り鶴”が入っている。 それは、あの日もらった水色の折り鶴と対になるもの。 ――あのときの「お互い守り合おう」って約束、ずっと大事にしてる。 その気持ちを、今度は自分から伝えたかった。 紬 「兄ちゃん、ごめん、ちょっと外行ってくるね」 武道 「え? もう夜だぞ? 危ねぇって」 紬 「すぐ帰るから!」 武道が何か言いかけたけれど、紬はもうマフラーを巻いて外へ飛び出していた。 冷たい風が頬を刺す。 でも、不思議と寒くなかった。 ――胸の奥が、ぽかぽかしていたから。 橘家の玄関前に立つと、明かりの下に直人の姿があった。 直人 「紬……? こんな夜にどうしたの?」 紬 「えっと……これ、渡したくて!」 紬は両手で小さな包みを差し出した。 雪が静かに降り積もる中、直人は驚いたように目を瞬かせた。 直人 「……俺に?」 紬 「うん。前に、直人くんがくれた折り鶴。ずっとお守りにしてたの」 紬の声は少し震えていたけれど、その瞳はまっすぐだった。 紬 「だから今度は、あたしの番。白い鶴。直人くんのこと、ずっと守ってくれますようにって」 直人はしばらく黙っていた。 けれど、やがてゆっくりと笑った。 直人 「ありがとう、紬」 その声は、雪よりも優しく響いた。 直人 「俺、ずっと思ってた。紬って……強いね」 紬 「え?」 直人 「誰かを想う気持ちを、ちゃんと行動にできるって、すごいことだよ」 紬の頬が真っ赤になる。 紬 「そ、そんなの……強くないよ。怖かったし……でも、言わなきゃ後悔する気がして」 直人 「うん。……俺も、そんな紬を見て、頑張れる気がする」 静かな夜。 雪の音だけが、二人を包みこんでいた。 直人は手袋越しにそっと紬の手を包み込む。 直人 「この鶴、大事にする。……今度は俺からも何か渡すよ」 紬 「ほんと?」 直人 「うん。次に会うときまで、楽しみにしてて」 二人は顔を見合わせて、少し照れながら笑った。 空から舞い落ちる雪が、二人の肩に優しく積もっていく。 白い夜の中で、紬の胸に灯った小さな勇気が、やわらかく輝いていた。 ――“想い”はまだ、言葉にならない。 けれど確かに、届いていた。 ー続くー

0
0

壊れゆく日常の、その先に

第十九章 来ないんじゃなかった 翌朝。 病室のカーテン越しにやわらかな光が差し込んでくるのに、 灯花は布団の中で丸くなったまま、 まったく起き上がる気になれなかった。 目は開いている。 でも胸の奥に、夜からずっと消えない“ざわざわ”がある。 灯花 「……今日も来ないのかな……」 ぽつりと呟く声は、自分でも驚くほど弱かった。 看護師が朝ごはんを持ってきても、灯花は小さく首を振るだけ。 「少しでも食べられそう?」と優しく聞かれても、返事はできず、 視線は毛布の端に固定されたままだ。 心配した担当看護師が 「無理しなくていいからね」と言って下げてくれたが、 それでも胸の不安は晴れない。 リハビリの時間になっても、ベッドから降りる気になれなかった。 「今日はお休みにしましょう」と言われても、 灯花の表情は沈んだまま。 病室から出たくなかった。 もし留久が来たとき、会えなかったら……そう思うだけで、 足がすくむ。 なんで……来ないの……? 考えれば考えるほど胸が苦しくなり、 灯花はベッドの上でぎゅっと両手を握りしめた。 ●翌朝の留久 留久は、布団の中で目を開けた瞬間、 自分の体がまだ熱にうなされていることを悟った。 留久 「……まだ、だめか……」 視界は霞むようにぼやけ、 体を少しでも動かすと頭が割れそうに痛む。 由美が冷たいタオルを額に乗せながら言った。 由美 「熱、下がらないどころか上がってるのよ。今日は絶対に無理」 留久 「……でも……灯花……」 名前を口にした瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。 昨日行けなかっただけでも苦しかったのに、 今日も無理だと言われた。 由美 「行ったら、もっと悪化するわよ。 それに、病院に熱のある子が行ったらだめでしょう?」 それは正しい。正しいのに、納得できない。 灯花、どうしてるかな……俺のこと…… 不安が胸に刺さり、留久はタオルの下で両目を強く閉じる。 声がかすれていて、話すのもしんどい。 留久 「……連絡……だけでも……」 由美 「今日はゆっくり休みなさい。 熱が下がるまで、灯花ちゃんのためにも動いちゃダメ」 わかってる。わかっているからこそつらい。 ベッドに沈み込みながら、留久は弱く息をこぼした。 留久 「……灯花……ごめん……」 その声は、誰にも届かないまま、枕に吸い込まれた。 昼近くになっても、灯花の心は晴れなかった。 窓の外は明るく、 病棟の廊下からは他の子どもたちの声が聞こえてくるのに、 灯花のいる病室だけは薄暗い気がした。 時計の針が進むたびに、胸が締めつけられる。 灯花 「……来ない……」 声に出すと、涙がにじんだ。 昨日も来なかった。今日も来ない。 “また明日来るね”と言った留久の笑顔が、 頭の中で何度も繰り返される。 お昼ごはんが運ばれてきても、灯花は横を向いたまま。 「少しだけでも食べようか?」と看護師が優しく声をかけても、 返事ができない。 胸の奥がぎゅうっと痛くて、息を吸うだけで苦しい。 もしかして……嫌われた? もう来たくなくなっちゃった……? 事故のこと、迷惑かけてるって思ってる? それとも…… 考えたくないのに、悪い想像ばかりが浮かんでしまう。 気づいたら、涙がぽろぽろこぼれていた。 枕にしみこむ涙の跡が増えていく。 灯花 「……いやだよ……」 声を押し殺しても、震えは止まらない。 両親の心配する声も、看護師の優しい声も、 灯花には届かなかった。 不安が大きく膨らんで、胸いっぱいに広がっていく。 もうどこにも逃げ場がない。 灯花 「……留久……」 その名前を呼んだ瞬間、胸の奥の糸が切れたように、 灯花は声を上げて泣き出した。 灯花 「いやだ……来てよ……来てよ……!!」 両手で顔を覆っても、涙は止まらなかった。 息が上手くできなくなるほど泣いて、体が震える。 灯花の不安はついに限界を迎えていた。 泣き声が小さくなったころ、病室の中には、 しんとした静けさだけが残っていた。 灯花は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、 天井をぼんやりと見つめていた。 胸が苦しい。 息を吸うたび、ひりっと痛む。 誰も悪くない。 わかっているのに、 それでも――ひとりにされるのが、怖かった。 灯花は、ゆっくりと布団をめくった。 病室の隅に置かれた車いすに、灯花はそっと手を伸ばす。 看護師を呼ぶことも、両親に声をかけることも、しなかった。 誰にも、今の気持ちを説明できる気がしなかったから。 きぃ……と、小さな音を立てて車いすが動く。 その音がやけに大きく感じて、灯花は一瞬、動きを止めた。 ……大丈夫。 自分に言い聞かせるように、小さく息を吐く。 病室のドアを、そっと開ける。 廊下は明るく、 ナースステーションの方から話し声が聞こえていた。 見つかったら、止められる。 でも今は、止められたくなかった。 灯花は、壁づたいに、音を立てないように進んだ。 エレベーターの前に着くと、一瞬、迷いが胸をよぎる。 ……屋上。 前に、リハビリの帰りに看護師さんが言っていた。 看護師 「天気のいい日は、屋上が気持ちいいのよ」 それだけの理由。 それだけの場所。 ボタンを押す指が、少し震えた。 エレベーターが到着し、中に乗り込む。 扉が閉まる瞬間、灯花は思わず、病室のある階を振り返った。 ……留久。 胸の奥が、きゅっと縮む。 灯花 「……すぐ、戻るから……」 誰に向けた言葉かもわからないまま、小さくつぶやく。 エレベーターが上昇し、屋上階で静かに止まった。 扉が開くと、外の光が一気に流れ込んでくる。 空は高く、青くて、雲がゆっくりと流れていた。 灯花は、車いすを押しながら屋上に出た。 風が、頬をなでる。 病室よりも、少し冷たくて、でも、どこか優しい。 フェンスの近くまで行くと、灯花は車いすのブレーキをかけ、 その場に座り込んだ。 ここなら、少しだけ、考えられる気がした。 留久は、来ないんじゃない。 来られないだけかもしれない。 ……でも。 そう思おうとしても、 胸の奥の不安は、簡単には消えてくれなかった。 灯花は、空を見上げたまま、静かに涙をこぼした。 誰にも気づかれず、誰にも頼らず、 ひとりでここまで来てしまったことに、 自分でも気づかないほど、心は追い詰められていた。 そのとき―― 屋上の扉が、カチャリ、と小さな音を立てて開き、 ゆっくりと閉まる音がした。 灯花は、振り返らなかった。 振り返る気力が、もう残っていなかった。 風に揺れるフェンスの音と、遠くで聞こえる街のざわめき。 それだけが、世界のすべてみたいだった。 「……灯花ちゃん……?」 かすれた、でも確かに優しい声。 灯花の肩が、びくりと跳ねた。 聞き間違いだと思った。 そう思いたかった。 でも―― 「灯花ちゃん、よね……?」 その声は近づいてくる。 足音は控えめで、急かす様子はない。 灯花は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと振り向いた。 そこに立っていたのは、担当の作業療法士 有村さんだった。 手には書類を抱え、息を少し切らしている。 有村 「……いなくなったって聞いて、探してたの」 灯花の顔を見た瞬間、有村さんの表情が、はっと変わる。 泣きはらした目。 真っ赤な鼻。 今にも崩れそうな小さな体。 有村 「……ひとりで、ここまで来たの?」 灯花は、何も答えられなかった。 ただ、ぎゅっと両手を握りしめて、うつむく。 有村さんは、すぐに叱らなかった。 止めもしなかった。 ゆっくりと灯花の横にしゃがみ、視線を同じ高さに合わせる。 有村 「……すごく、つらかったんだね」 その一言で、灯花の胸の奥に張りつめていたものが、 ぷつん、と音を立てて切れた。 灯花 「……来ないの……」 声は震えて、か細い。 灯花 「昨日も……今日も……留久、来ない……」 言葉が、止まらない。 灯花 「約束……したのに……また明日って……言ったのに……」 有村さんは、何も否定しない。 ただ、そっと灯花の背中に手を添える。 有村 「……不安になっちゃったんだね ひとりで、いっぱい考えちゃったんだね」 灯花は、こくりと小さくうなずいた。 有村 「灯花ちゃん。留久くん、今日も来たかったと思うよ」 灯花のまつげが、わずかに揺れる。 有村 「さっきね、ご家族から聞いたの。 留久くん、熱が下がらなくて……動けないんだって」 その言葉が、ゆっくりと胸に落ちてくる。 灯花 「……びょうき……?」 有村 「うん。かなりつらそうだって」 灯花は、息をのむ。 来ないんじゃない。 来られなかった。 それがわかった瞬間、胸の奥にあった不安が、 別の痛みに変わった。 灯花 「……じゃあ……私のこと……」 有村 「心配してる。すごく、ね」 有村さんは、少しだけ笑った。 有村 「だからね、灯花ちゃん ひとりでいなくなったら、もっと心配させちゃう」 灯花の目に、また涙が浮かぶ。 灯花 「……ごめんなさい……」 有村 「謝らなくていいよ。でも……一緒に戻ろう」 灯花は、しばらく空を見上げていた。 青い空。 流れる雲。 留久も、どこかでこの空を見ているかもしれない。 灯花 「……電話……できる……?」 有村さんは、少し驚いた顔をして、すぐにうなずいた。 有村 「うん。できるよ。病室に戻ったら、かけよう」 灯花は、ぎゅっと唇を噛んでから、小さく、 でも確かにうなずいた。 有村さんが車いすのブレーキを外し、ゆっくりと押し始める。 屋上の扉が、また静かに開く。 灯花は、振り返って、もう一度だけ空を見た。 灯花 「……待っててね……」 その声は、風に溶けながら、 確かに前よりも少しだけ、強さを持っていた。 病室に戻ると、 さっきまでの静けさが嘘みたいに、人の気配があった。 両親の慌てた声。 看護師たちの足音。 扉が開いた瞬間、恵がはっと灯花を見て駆け寄る。 恵 「灯花……っ! どこに行ってたの……!」 声は震えていて、怒りよりも、怖さのほうが滲んでいた。 慎吾も、胸をなで下ろすように息を吐く。 慎吾 「……無事でよかった……」 灯花は、何も言えずに俯いた。 有村さんが、そっと前に出る。 有村 「屋上にいました。誰にも頼らず、ひとりで……」 それ以上は言わなかった。 責める言葉も、付け足さなかった。 恵は、灯花の前にしゃがみ込み、ぎゅっと抱きしめる。 恵 「……いなくなったって聞いて…… 心臓、止まるかと思った……」 灯花の額に、ぽたり、と温かいものが落ちる。 ……泣いてる。 灯花 「……ごめ……なさ……」 声が詰まって、それ以上言えなかった。 しばらくして、病室に静けさが戻る。 有村さんが、ベッドの横でそっと言った。 有村 「……電話、する?」 灯花は、こくりとうなずいた。 看護師が、スマートフォンを持ってきてくれる。 登録された名前―― 《留久》 画面を見るだけで、胸がきゅっと締めつけられた。 通話ボタンを押す指が、震える。 ……出てくれるかな。 寝てたら、どうしよう。 コール音が、やけに大きく聞こえる。 ――プツ。 留久 『……もし、もし……?』 かすれた声。 でも、間違いない。 灯花 「……る、く……」 それだけで、涙が一気にあふれた。 留久 『……っ、灯花!?……ごめん……ごめんな……』 息が荒く、話すのも苦しそうなのが伝わってくる。 灯花 「……来ないから……きらわれたのかと……」 留久 『ちがう……!そんなこと、あるわけない……!』 声を張り上げようとして、途中で咳き込む音がする。 留久 『……ごめん……熱……下がらなくて…… 行きたかった……ずっと……』 その言葉で、灯花の胸の奥に固まっていた不安が、 少しずつ溶けていく。 灯花 「……びょうき……なんでしょ……むり、しないで……」 留久 『……灯花……ありがとう……』 少し、沈黙。 でも、さっきまでの沈黙とは違った。 切なくて、あたたかい、沈黙。 留久 『……ひとりで……いなくなったって聞いて ……俺……怖かった……』 灯花の目が、大きく見開かれる。 灯花 「……ごめんなさい……もう……しない……」 留久 『……約束な……次は、ちゃんと行く……絶対……』 灯花は、涙を拭きながら、小さく笑った。 灯花 「……うん……まってる……」 通話が終わるころ、灯花の顔色は、 少しだけ明るくなっていた。 スマートフォンを胸に抱きしめる。 来ないんじゃなかった。 想われていなかったわけでもなかった。 ただ、お互いに、苦しんでいただけ。 恵が、そっと髪を撫でる。 恵 「……今日は、少し休もうね」 灯花は、こくりとうなずいた。 ベッドに横になると、窓の外の光が、さっきよりも優しく見えた。 胸の奥に残る不安は、まだ完全には消えていない。 でも――もう、ひとりじゃない。 灯花は、目を閉じながら、小さくつぶやいた。 灯花 「……はやく……よくなってね……」 その言葉は、確かに、留久のいる場所へと届いていた。 ー続くー

0
0
壊れゆく日常の、その先に

壊れゆく日常の、その先に

第十八章 約束の翌日、届かない足音 翌朝。   カーテン越しに差し込む淡い光が、 静かに灯花のまぶたを照らした。 ゆっくり目を開けると、胸の奥がまだほんのり温かい。 留久に言われた「好きだよ」という言葉が、 まるで昨夜のことじゃなく、 いまも耳元で響いているみたいだった。 ——どうしよう。 思い出しただけで、またドキドキする。 身体を起こそうとすると、すこしだけ足が重い。 でも、気持ちは昨日よりずっと軽かった。 恵 「灯花、起きた?」 恵が穏やかな声でのぞき込み、灯花はこくりと頷いた。 灯花 「おはよう、ママ」 恵 「おはよう。昨日、よく眠れた?」 灯花はしばらく考え、それから小さく微笑んだ。 灯花 「……うん。すごく、安心して眠れた」 恵はそれを聞いてほっとしたように息をつく。 その瞬間、また胸が少し高鳴る。 留久が来るかもしれない。 昨日みたいに笑って話せるだろうか。 目を合わせたら、変に意識してしまわないだろうか。 そんな考えが、朝のうちから灯花の心をそわそわ揺らす。 でも—— その揺れが、なんだか少し嬉しい。 身体はまだ思うように動かなくても、 心の中だけは、昨日よりもう少し前に進んでいるような気がした。 朝ごはんを食べ終え、少し休んでいると、 病室の扉がノックされた。 佐伯 「失礼しまーす、灯花ちゃん。今日の予定を伝えに来たよ」 担当医の佐伯先生が、タブレットを手に入ってくる。 灯花は背筋を少し伸ばし、「はい」と返事をした。 佐伯 「まずね、午前中はいつも通りの病室での軽いリハビリをするよ。足のストレッチと、上半身の動かし方の練習だね」 灯花はこくりと頷く。もう何度もやってきた内容だ。 佐伯 「それから——午後なんだけど」 佐伯先生は、ふっと穏やかに笑う。 佐伯 「車いすを使って、リハビリ室まで行く練習をしてみようか。 灯花ちゃんの体力も戻ってきてるし、 そろそろ移動の練習を始めてもいい頃だと思う」 灯花 「……リハビリ室まで?」 灯花の目がほんの少し丸くなる。 佐伯 「うん。無理はしないよ。途中で疲れたらすぐに戻る。 でも、少しずつ“自分で進める場所”を増やしていくとね、 自信にもつながるから」 恵がそっと灯花の手を握り、 「大丈夫よ、一緒に行こうね」と声をかけた。 灯花は胸の奥が少しきゅっとしたけれど、それでも小さく頷いた。 灯花 「……うん、やってみる」 佐伯 「よし。灯花ちゃんのペースでやっていこう」 そう言って佐伯先生は軽く会釈し、病室を出ていった。 扉が閉まると同時に、灯花は小さく息を吐く。 ——リハビリ室まで、自分で行く練習。 昨日より前に進む一歩。胸が少しだけ高鳴る。 ……そして、午後にはきっと——留久が来る。 そのことを思うと、灯花は表情を緩め、そっと窓の外を見つめた。 時計の針が十時を指した頃、 リハビリ担当の有村さんが病室に入ってきた。 有村 「おはよ。灯花ちゃん、今日もよろしくね。 まずはいつものストレッチから始めようか」 灯花は「お願いします」と言い、 恵の支えでゆっくり姿勢を整える。 足を優しく伸ばされると、まだ少しだけ痛みが走る。 でも以前よりうんと軽くなっていた。 有村 「痛すぎない? 大丈夫かな」 灯花 「……大丈夫。できるよ」 灯花がそう言うと、有村さんは頷き、動きをゆっくり続ける。 上半身の運動はすこし楽しく、灯花は慎重に腕を上げたり、 ボールを軽く押したりしていた。 有村 「お、いい感じだね。前より身体が動いてるよ」 そう言われて、灯花は小さく笑った。 ——昨日より、できてる。 それがほんの少し誇らしくて、胸の奥が温かくなる。 リハビリ後の休憩 リハビリを終えた灯花は、ほっと息をついた。 恵 「疲れたでしょ、灯花。お水飲む?」 恵が優しく声をかけ、灯花は頷いてストローをくわえる。 水が喉を通ると、緊張がゆっくりほどけていく。 灯花 「……うん。でもね、ちょっと頑張れた」 恵 「うん、頑張ってたね。ママ、ちゃんと見てたよ」 その言葉に、灯花は照れくさそうに笑った。 お昼が近づくと、病棟は少しざわざわしてきた。 どこかの部屋から子どもの笑い声が聞こえ、 ナースステーションには看護師たちの足音が行き交う。 灯花はベッドの上でぼんやりと、窓の外を眺める。 ——午後は、リハビリ室まで行く練習。 緊張するけど、行けるかな。 でも、できたらちょっと誇らしいだろうな。 そんなことを考えていると… コンコン。 ドアがノックされた。 灯花の胸が、一瞬だけ跳ねた。 看護師 「はーい、入りますね〜」 看護師さんの声だった。 灯花の期待がほんの少ししぼむのを、 恵はすぐに察したようだった。 恵 「……留久くん、今日も来ると思うよ」 恵が小声で言うと、灯花は思わず顔を赤くして横を向く。 灯花 「べ、別に……そんなの待ってないもん」 恵 「そうなの?」 灯花 「……うん」 でも、声が小さくて、恵はくすっと笑った。 灯花自身も、胸の奥がくすぐったくなる。 食堂からワゴンの音が近づき、昼食の配膳が始まった。 午後のリハビリ。 そして……留久が持ってくると言っていた、勉強のプリント。 胸が、またそわそわと高鳴る。 午後のリハビリ ― リハビリ室まで行く練習 昼食を食べ終えて少し休んだころ、 病室の扉がゆっくりノックされた。 有村 「灯花ちゃん、準備はいいかな? 午後のリハビリに行こうか」 有村さんが穏やかな笑顔で立っている。 灯花は少し緊張した顔で頷いた。 灯花 「……はい」 恵 「大丈夫よ、灯花。ママも一緒に行くからね」 恵の言葉に背中を押され、灯花は車いすへゆっくり移動する。 まだ足には力が入らず、介助が必要だ。それでも、 自分で“進む”ということが、 今日はいつもより大きな意味を持っていた。 車いすのブレーキを外し、有村さんが灯花の後ろに立つ。 有村 「最初は私が押すね。慣れてきたら、 自分でタイヤを動かしてみよう」 灯花は小さく深呼吸をした。 灯花 「……うん」 病室の扉が開くと、廊下の空気が少しひんやりしていて、 灯花は無意識に肩をすくめた。 病室の外に“自分の意思で出る”のは、事故後初めてだった。 数歩進むたびに、灯花の胸がどくん、と大きく脈を打つ。 有村 「灯花ちゃん、景色が変わるとちょっと緊張するね。 でも、すごく頑張ってるよ」 有村さんの声に、小さく笑みが戻る。 自分の手で車いすを動かす 廊下の真ん中あたりまで来たところで、有村さんが声をかける。 有村 「ここから、灯花ちゃんが少しだけ自分で動かしてみる?」 灯花は手元のタイヤを見つめる。 手首がまだ少し痛む。でも……挑戦したい。 灯花 「……やってみる」 恵がそっと背中をさする。 灯花は両手で車いすのタイヤをゆっくり握り、 腕の力で前へ押した。 きゅ、きゅ、と小さく音を立てて車いすが動く。 ほんの数十センチ。 でも灯花にとっては、大きな一歩だった。 有村 「すごいよ、灯花ちゃん!ちゃんと進んでる!」 灯花 「……ほんとに?」 有村 「ほんと。見てたよ。自分の力で動かしたね」 灯花は思わず、ぱっと顔を明るくした。 リハビリ室の前に到着 再び有村さんが車いすを押し、数分後。 大きなガラス窓のついた部屋の前に着いた。 有村 「ここがリハビリ室。今日の目標は、 ここまで来ることだったからね。ちゃんと達成したよ」 有村さんの言葉に、灯花は胸を張るように小さく頷いた。 灯花 「……できた」 有村 「うん、できたね。すごい進歩だよ」 恵の声が少し涙ぐんでいて、灯花は照れくさくて顔をそむけた。 リハビリ室の中で少し練習 今日は疲れすぎないよう、簡単な上半身の練習だけを行った。 腕を上げる。 ボールを押す。 背筋を伸ばす。 そのたび、灯花の胸の奥に 「私、できてる」という温かさが広がっていった。 病室へ戻る リハビリを終え、帰りも少しだけ灯花が車いすを動かしてみた。 ゆっくり、ゆっくり。 病室に戻ったころには、額に少し汗がにじむほど頑張っていた。 ベッドに戻ると、母がタオルで額を拭いてくれる。 恵 「灯花、よく頑張ったね。ほんとうにすごいよ」 灯花 「……うん。ちょっと疲れたけど……やってよかった」 その言葉は、灯花の中から自然に出てきた。 ベッドに横になると、灯花の胸にそっと浮かんだのは—— 留久の顔。 灯花 「今日、来るかな……」 小さくつぶやいた声は、誰にも聞こえないくらいだった。 リハビリを終え、少し休んで体力が戻ってくると、 灯花はなんとなく落ち着かなくなった。 いつもの時間。 いつもなら、廊下の向こうから元気な足音が近づいてきて—— 明るい声で「灯花ー!来たぞ!」と飛び込んでくるはずだった。 でも今日は、廊下は静かなままだ。 時間だけが、ゆっくり過ぎていく。 灯花 「……今日、来ないのかな……」 ぽつりとこぼれた声を母は聞いていたが、 灯花の気持ちを尊重してあえて何も言わなかった。 灯花は、膝の上でそっと指を重ねる。 胸が、少ししゅんとして、空気が冷たく感じる。 灯花 「昨日、あんなこと言ってくれたから…… 今日も来るって思ってたのに……」 心の中でつぶやくと、胸がちくりと痛くなった。 泣きたいわけじゃない。 でも、なんだか寂しい。 来るはずの誰かが来ないということが、こんなにも不安で、 こんなにも心を小さくするなんて——灯花は知らなかった。 その頃の留久 同じ時間。 留久の家では、ベッドの上で布団にくるまった小さな影があった。 留久 「……うぅ……さむ……」 留久は熱で頬を赤くし、息が少し荒い。 朝から体がだるくて起き上がれず、 病院に行くこともできなかった。 由美が額に手を当てると、体温はまだ高い。 由美 「留久、今日は絶対に外出ちゃだめよ。 灯花ちゃんのところにも行けないからね」 留久 「……行きたいけど……ムリ……」 小さな声で答え、目を閉じる。 頭の中には、病院のベッドで待っている灯花の姿が浮かんだ。 ——今日、行けないって伝えられたらいいのに。 ——灯花、心配してるかな……。 胸が苦しくて、眠っても眠っても不安が消えない。 灯花に昨日気持ちを伝えたばかりなのに、 今日会いに行けないなんて、なんだか心が痛んだ。 布団の中でぎゅっと拳を握る。 留久 「……ごめん、灯花……」 誰にも聞こえない声が、弱々しく漏れた。 夕方。 窓の外はだんだんとオレンジ色に染まり、 病棟の廊下も静かになっていく。 それでも——留久は来なかった。 灯花はベッドの上で絵本を開いていたけれど、 まったく頭に入ってこない。 ページをめくる手が止まり、胸の奥が少しぎゅっと縮む。 (……どうして来ないんだろう) 昨日「また明日くるから!」って言っていた。 その言葉が嘘みたいに遠く感じる。 胸がずっとそわそわして、息が浅くなる。 恵 「灯花、大丈夫?」 恵が心配そうにのぞき込む。 灯花はうつむいたまま、小さな声で言った。 灯花 「……なんでもない」 恵 「留久くん、来ないから心配?」 その言葉に、灯花の肩がびくっと動いた。 図星だった。でも素直に言うのが恥ずかしい。 灯花 「……べつに。来なくても……いいし」 うそだ。 本当は、来てほしかった。 昨日あんなふうに胸が熱くなる言葉を聞いてしまったから。 恵 「灯花……」 恵がそっと頭を撫でるが、灯花は俯き続ける。 廊下から足音がすると、灯花は思わず反応した。 でも、その足音はすぐ別の部屋に消えていく。 何度も、何度も同じことを繰り返すうちに—— 胸の奥が痛くなる。 (……私、嫌われちゃったのかな) そんな考えがよぎり、灯花は慌てて頭を振る。 灯花 「そんなわけないもん……」 でも、不安はしぼんでくれない。 事故でみんなに心配をかけている。 体も前のようには動かない。 迷惑ばかりかけている自分が急に小さく感じた。 (……留久まで、離れちゃったらどうしよう) ぐっと唇を噛みしめる。 胸が苦しくて、涙がにじみそうになるのを必死でこらえた。 恵は灯花の横に腰を下ろし、優しく背中に手を回した。 恵 「灯花、ちゃんと言っていいんだよ? 寂しいとか、不安とか……ママはぜんぶ聞くから」 その優しい声に、灯花の心がすこし揺れた。 でも、灯花はぎゅっと布団を握りしめて、震える声で言う。 灯花 「……留久……なんで来ないの…… きょう……来るって言ったのに……」 ついに涙がぽろりと落ちた。 恵は灯花の頭をそっと抱き寄せた。 恵 「きっとね、理由があるよ。 灯花を置いていくような子じゃないでしょう?」 灯花は涙をふきながら小さく頷く。 でも、不安は胸に残ったままだった。 ー続くー

0
0
壊れゆく日常の、その先に

再び繋がる手

第九章 「未来へ」 季節は巡り、あの日の春から一年が過ぎた。 中学校の制服に袖を通した花垣紬は、少し大人びた表情で鏡の前に立っていた。短くまとめた髪。 胸元のリボンを整える仕草は、どこかぎこちない。 紬 「よしっ……」 小さく呟く声に、玄関の方から兄の声が響く。 武道 「紬ー! 遅刻すんぞー!」 紬 「わかってるって!」 慌ててカバンを持ち、玄関へ駆け出す。 ドアを開けると、そこには相変わらずの“兄バカ”な笑顔があった。 武道 「おー、似合ってんじゃん! 中学生っぽい!」 紬 「もー、兄ちゃんうるさい!中学生っぽいって私今日中学生なんだけど……」 言葉ではそう言いながら、紬の口元は笑っていた。 あの一年前武道が家にきてくれてその日から一緒に住むようになった。 兄と過ごす毎朝の時間が、今はかけがえのない日常になっている。 家の外に出ると、門の前にはひとりの少年が立っていた。 橘直人。 制服の襟を軽く直しながら、こちらに気づいて手を振る。 直人 「おはよう、花垣さん」 紬 「おはよ、直人くん!」 武道がすぐに二人の間に割って入る。 武道 「おいおい、ナオト。妹の迎えは早すぎだろ」 直人 「べ、別に迎えに来たわけじゃ……!」 紬 「うん、でも来てたじゃん」 紬が笑いながらそう言うと、直人は耳まで赤くなった。 そんな光景に、武道は呆れたように頭をかきながらもどこか嬉しそうだった。 家族がいて、友達がいて、守りたい人がいる。 紬の世界は、少しずつ広がっていく。 学校への道を歩きながら、紬はふと空を見上げた。青く澄んだ空に、春の雲が流れていく。 紬 (あのころのあたしは、知らなかった。こんなに大切な人たちが、近くにいるってこと……) 隣では直人が真面目な顔で話していた。 直人 「部活どうするの?」 紬 「うーん……兄ちゃん、何部だったっけ?」 武道 「え? 俺? 帰宅部……!」 紬 「だめじゃん!」 三人の笑い声が重なって、春の街に響いた。 武道はそんな二人を少し後ろから見守りながら、静かに思う。 武道 (これでいい。紬には、俺が守れなかった“普通の幸せ”をちゃんと掴んでほしい) 風が吹き抜け、花びらがひとひら、紬の肩に舞い落ちた。紬はそれをそっと指先で拾い上げ、微笑む。 紬 「行こう、直人くん」 直人 「うん」 二人は並んで歩き出す。その背中を、武道は穏やかに見送った。 桜が散り、また咲く季節。 花垣紬の物語は、まだ始まったばかりだった。 第十章 「心の距離」 放課後の教室。 西日に照らされた窓辺で、花垣紬はノートにシャーペンを走らせていた。 静かな空気の中、カリカリと紙を削る音だけが響く。 直人 「……また居残り?」 声の主は、橘直人だった。 教室の扉から顔をのぞかせるその姿に、紬は少し笑った。 紬 「うん、数学の小テスト、ダメだった……」 直人 「はは、らしいね。手伝おうか?」 紬 「え、いいの?」 直人は隣の席に座り、ノートをのぞき込む。 指先が軽く触れた瞬間、紬の心臓がどくん、と鳴った。 紬 (なんで、こんなに近いと……落ち着かないんだろ) 直人 「ここ、符号の向きが逆なんだよ。だから答えがマイナスになっちゃう」 紬 「あっ、ほんとだ……」 直人 「花垣さんって、ちゃんと理解してるのに焦ると間違えるんだよな」 紬 「うっ……図星」 二人の笑い声が、夕方の教室にやわらかく響いた。 そのあとも少し勉強を続け、ノートのページが埋まっていくころ。 窓の外は、すっかりオレンジ色に染まっていた。 紬 「ねぇ、直人くん」 直人 「ん?」 紬 「……あたしね、兄ちゃんが迎えに来てくれると、すっごく安心するんだ」 直人 「うん」 紬 「でも最近、同じくらい……直人くんといると、安心するの」 その言葉に、直人の手が止まった。 紬もすぐに気づいて、慌てて続けた。 紬 「あっ、変な意味じゃなくてね!? なんか、こう……一緒にいると、落ち着くっていうか……」 直人 「……うん。俺も、そう思うよ」 紬はほっとしたように笑った。 けれどその笑顔の奥で、自分の心が少しずつ変わっていることに気づいていた。 ただの友達じゃない。でも、言葉にできない。 もし言ったら、きっと今の関係が壊れてしまう気がする。 その夜。 帰り道を歩く二人の間には、風の音だけが流れていた。街灯の下で、直人がふと口を開く。 直人 「花垣さんさ、最近……笑うこと、増えたよね」 紬 「え?」 直人 「前より、ずっと。お兄さんのことも、友達のことも、大切にしてるのが伝わる」 紬 「……うん。 だって、今が一番幸せだから」 紬は小さく微笑んだ。 そしてその横顔を見つめながら、直人は胸の奥に、言葉にならない想いを抱えた。 直人 (……俺も、そう思うよ) でも、その想いを声に出すには、まだ少しだけ時間が必要だった。 第十一章 「秘密の約束」 秋の風が校舎を抜ける午後。 教室では、文化祭の準備が本格的に始まっていた。 紙の切りくずが床に散らばり、ガムテープの音があちこちで響く。 友達A 「橘くん、絵の具取って!」 直人 「はいはい、これ?」 友達A 「ありがとー!」 直人は頼まれるまま、てきぱきと作業をこなしていた。 真面目で落ち着いた彼の姿に、紬は何度も目を奪われていた。 紬 (……なんでだろ。見てると、胸があったかくなる) 気づけば筆を持つ手が止まり、ぼんやりと直人を見つめていた。 直人 「……花垣さん?」 紬 「へっ!? あっ、なんでもないっ!」 慌てて顔をそむけた紬の頬は、ほんのり赤い。 直人は少し困ったように笑って、何も言わず隣に座った。 そのあとも作業は続いた。 教室の壁に飾る看板を作り終え、二人で廊下に出るころには、夕焼けが差し込んでいた。 静かな廊下に、足音がふたつだけ響く。 紬 「ねぇ直人くん」 直人 「ん?」 紬 「……もし文化祭、うまくいったら。なにかごほうびちょうだい」 直人 「ごほうび?」 紬 「うん。約束、ってやつ」 紬が笑いながら指を一本立てる。 直人は少し考えてから、真剣な表情で言った。 直人 「じゃあ……俺からもひとつ」 紬 「え?」 直人 「もし花垣さんが緊張してもうまくやりきったら俺、秘密教える」 紬 「ひみつ?」 直人 「うん。……俺の、大事な人のこと」 その言葉に、紬の心臓が跳ねた。 紬 (大事な人って……もしかして……) けれど、直人の横顔は穏やかで、どこか優しい笑みを浮かべていた。 紬は何も言えず、ただうなずいた。 紬 「……わかった。じゃあ、約束ね」 直人 「約束」 二人はそっと小指を絡めた。 指先が触れた瞬間、どちらも少し照れくさそうに笑う。 その小さな約束が、二人の間に静かな灯をともした。 それはまだ、恋とは呼べない。 けれど確かに、心が動き始めた瞬間だった。 廊下の窓から差し込む夕陽が、二人の影を長く伸ばしていく。 その影は、やがて重なり、一つの形を描いた。 第十二章 「大事な人」 文化祭の朝。 校庭の向こうからは、クラスの笑い声や出店の呼び込みが響いてくる。 花垣紬は、自分の作った看板を見上げながら深呼吸をした。 紬 「……よし、がんばろ」 緊張で少し手が震えていた。 兄の武道はバイトの合間に見に来ると言ってくれたけれど、いちばん心に残っているのはあの約束のこと。 紬 (うまくできたら、直人くんの“秘密”を教えてもらえる……) 胸の奥が、くすぐったいようにざわめく。 午前の展示が始まり、紬は自分の班の受付に立った。 お客さんに説明して、笑顔を見せて、声をかけて最初は緊張していたけど、直人が遠くから手を振ってくれた瞬間、少しだけ勇気が出た。 お客さん 「橘くんの妹さん、すごいしっかりしてるね」 直人 「妹じゃないよ」 そう言って笑った直人の声が、どこか照れて聞こえた。 夕方。文化祭も終盤に差し掛かったころ、紬は屋上に呼び出された。 扉を開けると、夕暮れの空の下に直人が立っていた。 直人 「来てくれて、ありがとう」 紬 「どうしたの?」 直人 「約束、果たさなきゃ」 直人は少し照れくさそうに笑って、ポケットから小さな折り紙を取り出した。 それは、淡い水色の鶴。 細かく折られた翼が、風にふわりと揺れる。 直人 「これ……昔から、俺が緊張したときに握ってるお守りなんだ」 紬 「きれい……」 直人 「実はね、これを作ってくれたの、花垣さんなんだよ」 紬 「……え?」 直人 「小さいころ、俺が保育園で泣いてたとき。“泣かないで”って言って、紬ちゃんが折ってくれた」 紬の目が大きく見開かれた。 忘れていた記憶の奥で、小さな自分が笑っている姿が浮かぶ。 幼いころ、まだ兄の記憶も曖昧だった頃。確かにそんな男の子がいた。 紬 「……あれ、直人くんだったんだ……」 直人 「うん。だから俺にとって、花垣さんは“大事な人”なんだ」 夕陽が、二人の間に淡く射し込む。 紬は胸の奥がじんと熱くなって、何も言えなかった。 紬 (大事な人――) その言葉の意味が、心の奥に静かに落ちていく。 ただの友達じゃない。 ただの思い出でもない。 それは、初めて感じる“恋”の痛みとあたたかさだった。 直人は少し照れたように笑って、鶴を紬の手にそっと乗せた。 直人 「だから、これ。今度は花垣さんが持ってて」 紬 「……いいの?」 直人 「うん。俺より、きっと似合う」 風が吹いて、二人の髪が揺れる。 紬は小さくうなずいて、ぎゅっとその鶴を胸に抱いた。 紬 「ありがとう、直人くん」 直人 「……ありがとう、花垣さん。……今後から紬って呼んでいいかな」 紬 「うん!」 言葉よりも静かな想いが、屋上の夕陽の中でひとつに重なった。 ー続くー

0
0

新年

新年明けましておめでとうございます 昨年は色々とありました。 今年はもっと楽しくそして無駄遣いをしないようにしたいと思ってます。 2026年もよろしくお願いします!

1
0

再びつながる手

第五章 「直人の決意」 あの日から数日が過ぎた。 雨の日に紬が出会った“優しい人”の話は、何度か直人の耳にも届いた。 紬 「ねぇ、橘くん。この前の人、すごく不思議だったの。初めて会ったのに、なんか……懐かしい感じがして」 紬は笑いながらそう話すが、直人は笑えなかった。 彼女の言葉一つひとつが、まるで胸の奥をそっと突かれるようだった。 直人 (……やっぱり、武道くんだった) 日向の話から、武道がその日、偶然あの校区に用事があったことを知った。すべてがつながってしまった。 紬が言っていた「優しい人」は、間違いなく武道。 けれど、その真実をどう伝えればいいのか。 直人は、机に突っ伏してため息をついた。 紬 「……橘くん、どうしたの?」 放課後の教室。ノートをまとめながら、紬がのぞきこむ。 彼女の瞳はいつもまっすぐで、少しでも嘘をつけば見透かされてしまいそうだった。 直人 「ううん、ちょっと考えごと」 紬 「真面目だねぇ」 直人 「そうでもないよ」 そんな他愛のないやり取りの中にも、直人の胸にはずっと迷いが渦巻いていた。 直人 (もし言ったら……紬はどうする?突然“兄が生きてる”なんて知らされても、混乱するだけじゃないのか) 彼女の笑顔を壊したくなかった。でも、知らないままでいるのも違う気がした。 家に帰ると、リビングから日向と武道の声が聞こえた。 玄関で靴を脱ぎながら、直人は思わず立ち止まる。 日向 「ねぇ武道くん、最近ちょっと元気ない?」 武道 「……いや、そんなことねぇよ」 日向 「本当に? なんか、何か思い出したみたいな顔してたよ」 日向の声に、武道は少し黙り込んだ。 武道 「……この前、雨の日にさ。小学生の女の子に会ったんだ。傘に入れてあげただけなんだけど」 日向 「ふふ、優しいね」 武道 「その子がさ……“お兄ちゃんみたい”って言ったんだ」 武道の声が、少しだけ震えていた。 武道 「なんか……頭の奥がチクッとした。小さい頃に別れた妹がいた気がしてさ。こないだ、久しぶりにアルバムを見たんだ。そしたら俺、小さい頃に妹がいたってこと、初めて知ったんだ」 その言葉を聞いた瞬間、直人の胸が大きく脈打った。 武道も――“気づき始めていた”。 リビングの扉の前で、直人は拳を握った。 直人 (……やっぱり、伝えなきゃいけない。紬にも、武道くんにも。二人が本当に家族に戻れるように) けれど同時に、心の奥では恐れも渦巻いていた。 その瞬間、何かが変わってしまう。そんな予感があった。 それでも、直人はそっとつぶやいた。 直人 「俺が……つなぐ」 夕焼けが窓の外を赤く染めていた。 静かな決意の光が、直人の瞳の奥に宿っていた。 第六章 「紬の記憶」 夜、雨上がりの窓の外では、街灯の光が静かに濡れた道を照らしていた。 机に向かっていた紬は、ノートの端にふと、丸い文字で「お兄ちゃん」と書いてしまっていた。 ーーお兄ちゃん。 その響きが、胸の奥で何かを揺らす。 どうしてだろう。顔も、声も思い出せないのに、確かに“誰か”を恋しく思う気持ちがあった。 深夜。紬は夢を見た。 小さな公園、夕暮れの光。 手を繋いで歩く、少年と、自分。 少年は転びそうな紬を支えて、優しく笑っていた。 『つむぎ、泣くなよ。俺が守ってやるからな。』 ーーその声を聞いた瞬間、胸が熱くなった。けれど顔が霞んで見えない。 紬 「お兄……ちゃん……?」 目を覚ますと、枕が少し濡れていた。 窓の外には朝日が差し込み、まるで夢が残した涙を照らすように光っていった。 ランドセルを背負いリビングに降りた。当然のように母の姿はない。 テーブルには「温めて食べてね」という置き手紙が置いてあった。 朝食食べながらも夢のことを考えていたらいつの間にか登校時間が迫っていた。 慌てて食べた食器を片付けた。 紬 「……いってきます」 誰もいない我が家に紬の声だけが響いた。 学校向かう道中でも、紬はその夢のことを考えていた。 紬 (誰だったんだろう。あの声は…どこかで聞いたような気がする。) 直人 「おはよう、花垣さん」 直人の声が後ろから響いた。 直人 「さっきからずっと呼んでたんだけど…気づかなかった?」 紬 「ご、ごめん。」 直人 「考え事?」 紬は考え込むように言った。 紬 「ねぇ、橘くん。私、昨日変な夢見たの」 直人 「夢?」 紬 「うん。小さい時、誰かが“つむき”って呼んでくれたの。でも、顔が思い出せなくて……」 直人の心が静かにざわついた。彼女の記憶が動き始めている。 直人 「その人、優しかった?」 紬 「うん。すごく」 紬の声はどこか懐かしげで、愛おしさが滲んでいた。 紬 「……橘くん。私、お兄ちゃんに会いたい…もし近くにいるなら会いたい…こんなこと橘くんに言ったって意味ないことわかってるけど…」 その言葉に、直人は少しだけ目を閉じた。心の奥に決意が宿る。 直人 「花垣さん……今度、少し時間ある?」 紬 「え?う、うん」 直人 「会わせたい人がいる」 紬は不思議そうに首をかしげた。その横顔に、春の風がやさしく吹き抜ける。 彼女の記憶と現実がいよいよ重なろうとしていた。 第七章 「再開」 直人に時間を作ってと言われた日がやってきた。 その日の午後は、春の終わりを告げるように少し冷たい風が吹いていた。 直人は校門の前で小さく深呼吸をした。 心臓が高鳴る。これから起こることが、二人の人生を変えてしまうそんな気がしてならなかった。 紬 「橘くん。おまたせ!」 直人 「花垣さん。来てくれてありがとう」 紬 「家のことしてたら少し遅くなっちゃった。ごめんね」 直人 「大丈夫だよ。花垣さんのお母さんって忙しいんだっけ?」 紬 「そうなの。洗濯物とかしてたら家出る時間遅れちゃった……。ねぇ、橘くん、今日来る人ってどんな人なの?」 隣で紬が、不安そうに笑っている。 直人 「優しい人だよ。会ったらわかる」 直人の言葉に、紬は少し首を傾げた。 待ち合わせ場所に移動するため直人と紬は歩いて公園へ 公園に着くとベンチに座る一人の青年が顔をあげた。 白いシャツの袖をまくり、風に髪を揺らしながら、どこか遠い目をしている。 花垣 武道 直人が呼び出したのは、紬の兄。 けれど彼自身も、まだ確信が持てていない。 直人は一歩、二歩と前に出て、小さな声で言った。 直人 「武道くん……彼女を紹介したいです」 武道が立ち上がる。 その瞬間、紬も自然と歩みを進めた。 目の前の青年の顔を見た瞬間、胸が強く鳴る。 紬 (この人……この前私に傘を貸してくれた人…) 紬 「……こんにちは。この前は、傘に入れてくれてありがとうございました」 武道は一瞬、驚いたように目を見開いた。 次の瞬間、微かに息を呑む。 武道 「……あぁ」 短いやりとり。けれど、互いの瞳がぶつかった瞬間、世界が静止したようだった。 武道の表情がわずかに揺れる。 心の奥に、あの日の夕暮れが蘇る。 小さな手、泣き顔、離したくなかった手。 まさか 唇が自然と動いた。 武道 「……つむぎ……なのか?」 その名前が零れ落ちた瞬間、紬の目に涙が溢れた。 紬 「お兄……ちゃん?……お兄ちゃんなの?」 風が止まり、世界が息を潜める。 紬は走り出していた。 リックサックの肩ひもが揺れ、涙の粒が光を散らす。 紬 「お兄ちゃんっ!!」 武道は迷うことなく、その小さな体を受け止めた。 抱きしめた瞬間、胸の奥に押し込めていた“空白の時間”がすべてあふれ出した。 武道 「ごめんな……! 本当にごめんな。紬と別々で暮らすことになるとは思ってなかった。それに俺紬のことを忘れてた……。本当にごめんな……」 紬 「ううん。私の方こそごめんなさい……私の方こそお兄ちゃんのこと忘れてた……。お母さんからあなたにはお兄ちゃんがいるってずっと聞いていたから……本当にこんな近くでお兄ちゃんに会えるなんて……嬉しいよ…」 声にならない言葉が、二人の間で何度も交わされた。 直人は少し離れた場所で、その光景を静かに見つめていた。 胸が熱くて、涙出そうだった。 長い時間を越えて、ようやく繋がった絆。 紬の記憶の中の「優しい声」と、現実の「兄の声」がひとつになった瞬間だった。 武道は紬の髪をそっと撫で、微笑んだ。 武道 「もう離れねぇ。今後は、絶対に…」 紬は涙を拭いて、小さく頷いた。 紬 「うん……約束、だよ」 春風が再び吹き抜け桜の花びらが二人を包み込む。 直人はその景色を見つめながら、静かに微笑んだ。 これでよかった。 第八章 「兄妹の時間」 再開から数日経ったある日。 武道は紬の学校の門の前で立ち尽くしていた。 夕焼けが街を赤く染める中、校舎から元気な声が響く。 紬 「お兄ちゃん!」 その声に顔を上げると、ランドセルを揺らしながら紬が走ってきた。全力で走るその姿は、まるで幼い日の記憶そのまま。 武道の胸に、自然と笑みが浮かぶ。 紬 「おそいー! 迎えくるの、今日で三回目だよ」 武道 「はは、学校終わってからダッシュしてんだそ。偉いだろ?」 紬 「うん。……でも、もうちょっと早く!」 そんな何気ない会話が、武道にはたまらなく嬉しかった。 ずっと奪われていた時間が、ようやく戻ってきた気がする。 道を歩きながら、紬はぴったりと兄の横を歩いた。 紬 「ねぇ、お兄ちゃん、昔の私のこと教えて」 武道 「昔の紬は…泣き虫だったなぁ。。母さんに走ったらだめって言われてるのにも関わらず無視をしてさ。。。派手に転けて泣いてたんだよなぁ」 紬 「昔の私ってそんなんだったの?」 武道 「うん。あとは虫見て泣いて、俺の後ろにずっと隠れてた」 紬 「うそ!そんなに!?」 武道 「ほんとだよ。可愛かった」 紬 「今も?」 武道 「……まぁな」 武道が照れくさそうに笑うと、紬は嬉しそうに頬を染めた。 公園に寄ると、ブランコの鎖がカラン、と鳴った。 紬が座って軽く漕ぐと、風が頬をなでていく。 武道 「……なぁ、紬」 ブランコの鎖が小さく軋む音の中で、武道が静かに口を開いた。 武道 「……あの雨の日覚えているか?俺が紬に傘を貸した日」 紬は少し驚いたように目を瞬かせ、そして小さく頷いた。 紬 「うん。……すごく優しい人だなって思った」 武道は少しだけ笑って、空を見上げた。 夕暮れの光が、彼の横顔をやわらかく照らしている 武道 「あのときの俺、偶然にあそこにいたわけじゃないんだ」 紬 「……え?」 紬の声が小さく揺れる。 武道はゆっくりと視線を紬に戻した。 武道 「実は……あの雨の日の少し前、紬を見かけたんだ。確かあれは……直人の姉と一緒に直人を迎えに行った時に」 紬は息をのんだ。兄の目に、あの日と同じ優しさと涙が光っている。 武道 「でも……確かめるのが怖くて、声をかけられなかった。本当に“あの紬”なのか、自信がなかったんだ」 紬はそっと微笑んだ。 紬 「……でも、ちゃんと傘に入れてくれた」 武道 「……あぁ。あのとき、もう一度お前に会えた気がした。あの日の雨、俺にとっては……奇跡だったよ」 紬の目から、静かに涙がこぼれ落ちた。武道はそっとその頭を撫で、微笑んだ。 紬 「……ありがとう、お兄ちゃん」 武道 「こっちこそだ。もう二度と離さねぇ」 手を伸ばして、そっと紬の頭を撫でた。 温もり。それは、十年以上の空白を埋めるような優しいぬくもりだった。 その頃、公園の入り口から、直人が二人の姿を見つめていた。 声をかけることもせず、ただ静かに微笑む。 直人 (これでよかったんだ。やっと……兄妹が、ちゃんと家族に戻れた) 紬がブランコから降り、兄の腕に軽く抱きつくのが見えた。その笑顔は、どこまでも柔らかく、幸せそうだった。 直人 「……おめでとう、花垣兄妹」 直人はそう呟き、公園をあとにした。 春の終わりを告げる風が吹く中、二人は並んで公園のベンチに座っていた。 どこか照れくさそうに笑い合ったあと、武道がふと真顔になる。 武道 「……なぁ、紬。お母さん、元気か?」 その言葉に、紬は一瞬だけ視線を落とした。 靴の先で小石を軽く蹴りながら、小さな声で答える。 紬 「……うん。元気、だよ」 少し間をおいて、寂しそうに笑った。 紬 「でも、最近あんまりおうちに帰ってこないの。お仕事が忙しいんだって。夜も遅いし、朝はあたしが起きる前に出ちゃうの」 武道の胸がきゅっと締めつけられる。 小さな肩が少しだけ震えているように見えた。 紬 「だからね、いつも一人で宿題して、一人でごはん食べて、お風呂も自分で入るの。……でも、もう慣れたよ」 そう言って笑う紬の笑顔は、どこか無理をしていた。 武道は何も言えず、ただ黙ってその横顔を見つめた。 やがて、ゆっくりと手を伸ばし、紬の頭を優しく撫でる。 武道 「……頑張ってるな、紬」 その声は、少し震えていた。 紬はびっくりしたように兄を見上げたあと、小さく「うん」と頷いた。 武道 「母さんもな、きっと紬のこといっぱい思ってるよ。だから今度、俺も会いに行く。……いいか?」 紬の目が少しだけ輝いた。 紬 「ほんとに? お兄ちゃん、来てくれるの?」 武道 「当たり前だろ。……家族なんだから」 その言葉に、紬の目にまた涙が滲んだ。けれど今度は、寂しさじゃなくて、あたたかい涙だった。 その日の夜。 夜のキッチンには、食器を洗う水の音だけが響いていた。 紬は袖をまくり、泡立てたスポンジで静かに皿をこすっていた。 胸の奥は、ずっとあの再会のことでいっぱいだった。 紬 (夢みたい……本当に、お兄ちゃんだった……) まだ手のひらに、あのときの温もりが残っている気がした。 そのとき、玄関のドアが開く音がした。 母 「ただいまー……紬、起きてたの?」 思わず手を止めた。母の声が、思いのほか早い時間に聞こえたからだ。 紬 「お母さん、今日は早かったね」 母はコートを脱ぎながら微笑んだ。 紬の母 「たまたま仕事が早く終わってね。紬が頑張ってるかなーって思って帰ってきたの」 紬 「……うん」 その“うん”の中には、言いたいことが詰まりすぎていて、声が少し震えた。 母は首をかしげてる。 母 「どうしたの? なんか嬉しそうね」 紬は深呼吸をして、手を拭いた。心臓がどくどくと鳴っている。言わなきゃ。今日のことを。 紬 「ねぇお母さん……今日ね、すごいことがあったの」 母はテーブルにカバンを置きながら、柔らかく笑う。 母 「なに? 学校でいいことでもあった?」 紬は小さく首を振って、真っすぐ母を見つめた。そして、静かに言葉を落とした。 紬 「……あたし、“お兄ちゃん”に会ったの」 母の動きが止まった。 母 「……え?」 その一言で、部屋の空気が変わった。母はゆっくり紬の方へ近づく。 母 「……紬、今……なんて言ったの?」 紬の瞳が潤む。 紬 「お兄ちゃん……“武道”に会ったの」 母の手が小さく震えた。 紬 「……生きて……たの?」 その声は、十年以上の後悔と祈りを押し殺すように震えていた。 紬は頷いた。 紬 「うん。雨の日に偶然会って……今日、ちゃんと会って話したの。お兄ちゃん、あたしの名前、覚えてたよ。“もう離れねぇ”って言ってくれた」 母は唇を押さえ、涙をこぼした。 母 「……武道……」 その姿を見て、紬の胸がじんと熱くなった。 紬 「ねぇお母さん。今度、三人で会おうよ」 母は目元を拭いながら、小さくうなずいた。 母 「……そうね。会わなきゃね……。私も、ちゃんと“母さん”って呼ばれたい」 紬はほっと微笑んだ。 春の夜の雨音が、静かに窓を叩いていた。まるで、あの再会をもう一度祝福するように。 翌日の午後。 春の風が少し冷たく感じるその日、武道は紬の家の前に立っていた。 玄関先の小さな花壇には、黄色いチューリップが並んでいる。 けれど武道の胸の中は、どんな花よりもざわめいていた。 武道 (……何年ぶりだろ。母さんに会うの、どんな顔して……何を言えばいいんだろう) インターホンのボタンに指を伸ばす。 押す直前、玄関の扉が少し開いた。 紬 「……お兄ちゃん」 紬が顔を出した。少し緊張した笑みを浮かべている。 紬 「お母さん、今日早く帰ってくるみたい」 武道はうなずいた。 武道 「そっか……」 その声もどこか震えていた。 玄関の奥から、足音が聞こえる。 そして 母 「……紬? 誰か来ているの?」 その声を聞いた瞬間、武道の呼吸が止まった。 ゆっくり扉が開き、そこに懐かしい女性の姿が現れた。 時の流れを感じさせる穏やかな表情。 けれど、瞳の奥にはあの日と同じ、優しい光が宿っていた。 武道 「……母さん」 その一言で、母の目に涙が浮かんだ。 母 「……その声……まさか……」 武道は深く頭を下げた。 武道 「母さん……俺だよ。武道」 母は口元を押さえ、声にならない嗚咽を漏らした。 武道 「……生きてたのね……ずっと、探してたのに……」 武道は唇をかみしめながら、ゆっくり顔を上げた。 武道 「ごめん……母さん。何も言えずに、何もできずに……でも、今はもう……逃げないって決めた」 母は小さく首を振った。 母 「いいのよ……生きていてくれた、それだけで十分」 その言葉に、武道の頬を涙が伝った。 紬は黙って二人を見つめながら、そっとマグカップをテーブルに置いた。 母の肩に手を添える。 紬 「お母さん……お兄ちゃん、優しいでしょ?」 母は涙をぬぐい、少し照れくさそうに微笑んだ。 母 「……そうね。あなたにそっくり」 その言葉のあと、母は静かに立ち上がった。 時計の針は午後の時を指している。 母 「そろそろ仕事に行かないと……」 玄関に向かいながら、母は振り返った。 母 「武道」 呼ばれた名に、武道が姿勢を正す。   武道 「……はい」 母は穏やかな笑みを浮かべた。 母 「紬のこと、お願いね。少しの間だけど……あなたに任せるわ」 武道は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから力強くうなずいた。 武道 「……あぁ、任せて。もう二度と、紬を一人にはしねぇ」 母は安心したように息をつき、「ふふっ……頼もしくなったわね」と微笑んだ。 玄関の扉が開き、春の風がふわりと入り込む。 紬 「いってらっしゃい、お母さん」 紬の声に、母は振り返って手を振った。 扉が閉まり、静かな空気が部屋に戻る。 その中で、武道は紬の頭を優しく撫でた。 武道 「……じゃあ、兄ちゃんと一緒に夕飯の支度でもするか」 紬 「うん!」 窓の外では、やわらかな陽光が二人を包んでいた。“家族”の時間が、またひとつ動き出していた。 ー続くー

0
0

再びつながる手

第一章 「春風と転校生」 四月の朝、桜の花びらが校庭をふわりと舞っていた。 橘直人(たちばな なおと)は、新学期のざわめきの中で退屈そうに窓の外を眺めていた。 先生 「今日から新しい転校生を紹介します」 担任の先生の声に、クラスが少しざわめく。 教室の扉が開き、小柄な女の子が入ってきた。 少し緊張した面持ちで、けれど背筋だけはまっすぐ伸びている。 紬 「……花垣紬(はながきつむぎ)です。よろしくお願いします」 先生 「花垣さん自己紹介ありがとう。新学期そうそうの転校生だけど皆さん仲良くしてあげてくださいね」 直人の心がふと引っかかった。“花垣”どこかで聞いた名前。 だが、思い出そうとしても、記憶の中で答えは見つからない。 授業が終わった昼休み。 校庭の隅で、紬は一人でお弁当を食べていた。 クラスにまだ馴染めないのだろう。 直人はなんとなく気になって、隣に腰を下ろす。 直人 「……その、隣いい?」 紬 「え? うん……」 小さくうなずく紬の声は、春風みたいに柔らかかった。 話してみると、思っていたより明るくて、少し抜けているところもあって直人はつい笑ってしまった。 紬 「なに?」 直人 「いや、ごめん。……なんか変に真面目そうに見えて、意外だったから」 紬 「ひどーい!」 笑いながらも、紬の目はどこか寂しげだった。 ふと、直人は気づく。 昼休みの校庭で遊ぶグループの輪に、彼女の居場所はまだない。 直人 「ねぇ、花垣って……珍しい苗字だね」 何気なくそう言うと、紬は一瞬だけ、箸を止めた。 紬 「……うん。なんかね、昔はお兄ちゃんがいたらしいの」 直人 「お兄ちゃん?」 紬 「でも小さいときに離れちゃって、全然覚えてないんだ。お母さんもあんまり話してくれなくて」 その言葉を聞いた瞬間、直人の胸がかすかに締めつけられた。 どこかで聞いたことがある気がする。 “花垣”という名前と“兄”という言葉。 桜の花びらが二人の間を舞う。紬は小さく笑って言った。 紬 「いつか会えるのかな、お兄ちゃんに」 その無邪気な声と、直人はしばらく黙って聞いていた。 心のどこかで、何かが静かに繋がり始めていることにも気づかずに。 第二章 「気づき」 春の陽が傾きかけた放課後。 橘直人は、姉の日向に迎えに来られるのを待ちながら、校門の前のベンチに腰を下ろしていた。 教室ではまだ、帰り支度をしている子どもたちの声が響いている。 ふと見ると、校庭の隅で紬が一人、靴ひもを結び直していた。 直人 「……また転んだのか」 昼休みにも足をすりむいていた。落ち着きがなくて、どこか抜けている。 だけど、その不器用さが直人には嫌じゃなかった。 直人 「花垣さん、またケガ?」 紬 「うん、ちょっとね。でも平気!」 元気に笑う紬。その笑顔に直人はつられて笑ってしまう。 そのとき。 日向 「直人ー!」 校門の向こうから姉の声が聞こえた。 橘日向が小走りでやってくる。その隣には見覚えのある少年がいた。 武道 「ひ、ひな!」 武道は日向の隣で照れくさそうに笑う。 日向 「ごめんね、武道くんも一緒に帰るって」 武道。そう呼ばれて、直人は思わず顔を上げた。 花垣 武道 頭の中で、昨日聞いたばかりの“花垣紬”という名前と重なった。 武道は相変わらず少し頼りなさそうで、けれど優しい目をしていた。 直人にとっては姉の大切な恋人であり、兄のような存在。 だが、彼が“花垣”だという真実が、今になって重く響く。 直人 (まさか……同じ苗字なんて偶然だよな) 直人は自分に言い聞かせるように目を伏せた。 けれど胸の奥がざわついて仕方がない。 日向 「直人、帰ろっか?」 直人 「……うん」 立ち上がろうとしたとき、背後から紬の声が飛んできた。 紬 「橘くーん! 明日、ノート見せて!」 武道がその声に反応し、ゆっくりと振り返る。 視線の先に、ランドセルを背負って手を振る少女。 その顔を見た瞬間、武道の表情が一瞬だけ止まった。 まるで何かを思い出そうとするように、遠い記憶を探るように。 日向 「どうしたの、武道くん?」 武道 「……いや、なんか……あの子、どっかで見たような……」 春風が吹き抜ける。直人はその場面をただ黙って見ていた。 けれどその瞬間、心の中に確かな確信が芽生えた。 やっぱり。あの“花垣紬”という少女は、武道くんの……。 だか、それを言葉にすることはできなかった。なぜだが、今はまだその「真実」を口に出してはいけない気がした。 第三章 「秘密の約束」 数日後の夕暮れ、帰りの道の空は淡い橙に染まっていた。 校門を出た直人は、紬が一人で歩いているのを見つけた。 ランドセルの肩ひもが少しゆるくて、背中が揺れている。 直人 「花垣さん、家こっち?」 紬 「あ、うん。ちょっと遠いけど……慣れたら平気かな」 紬は笑って見せたが、その笑顔の裏にほんの少し寂しさが見えた。 転校したばかりで、まだ友達も少ない。家も新しく、兄の記憶もない。 それでも前を向こうとしている姿に、直人の胸がきゅっと締めつけられた。 しばらく沈黙が続いたあと、紬がふと口を開いた。 紬 「ねぇ、橘くん。もしさ、ずっと会ってない家族がいたら……どうする?」 直人 「……どうするって?」 紬 「会いたい、って思うかな」 直人は足を止めた。横顔に映る紬の表情は、少しだけ風に揺れて見えた。 直人 「思うと思うよ。だってきっと、相手も同じ気持ちだと思うから」 紬は目を丸くして、すぐに照れくさそうに笑った。 紬 「そっか……じゃあ、あたしもそう思いたいな」 その笑顔を見て、直人は心の中で小さく決意する。 教えてあげたい。“君の兄は、生きていて、今も誰かのために頑張っている”って。 けれど同時に、それがどれだけ重い事実になるかもわかっていた。 彼女が今、過去を知る準備ができているのかそれが怖かった。 だから直人は、違う言葉を選んだ。 直人 「じゃあさ、もしその人を探したくなったら……俺も手伝うよ」 紬 「……ほんとに?」 直人 「うん。約束な」 紬の瞳がぱっと輝く。 紬 「ありがとう、橘くん!」 手を伸ばして差し出された小さな指。直人は少し迷ってから、自分の指を絡めた。 その瞬間、二人の間に小さな風が通り抜けた。 春の終わりを告げるように、桜の花びらが一枚、紬の髪にとまる。 直人はそっとそれを取って、笑った。 この秘密は、もう少しだけ俺の中にしまっておこう。 彼女が本当の「兄」に出会える日まで。 第四章 「すれ違う兄妹」 一週間経った放課後。急な雨が降った。黒い雲が空を覆い、校舎の屋根を叩く雨音が大きく響く。 傘を持っていなかった紬は、昇降口の柱の陰で膝を抱えていた。 クラスメイトたちは親に迎えに来てもらい、次々と帰っていく。 紬は母に連絡をしたが連絡が来ない。 紬 (お母さん……やっぱり仕事忙しいのかな……) 泣きそうになっていると 武道 「……傘、ないのか?」 顔を上げると、そこには濡れた髪を軽く拭きながら立っている人がいた。 黒いブレザーに白いシャツ。どこか、不器用そうで、でも優しい目をしていた。 紬 「え……はい。忘れちゃって」 武道 「そっか」 武道は、手に持っていた傘を少し傾けて見せた。 武道 「ほら、入れよ。どうせ俺、すぐ近くだし」 紬 「て、でも……」 武道 「大丈夫。濡れて風邪ひいたら、もっと困るだろ?」 その言い方があまりに自然で、紬は戸惑いながらも頷いた。 雨の音が、遠い世界のように静かだった。 紬 「お兄ちゃんみたいだね」 何気なく紬が呟いた言葉に、武道の動きが止まった。 武道 「……え?」 紬 「なんか、優しいから。あたし、小さい頃にお兄ちゃんいたらしいんだけど……覚えてないの」 武道は一瞬、息をのんだ。胸の奥で、何かがずっと昔に引っかかっていた。 幼い日の記憶。泣きながら手を離した、小さな女の子の顔。 武道 (……いや、まさかな) ほんの一瞬、手の中の傘が震える。けれど武道は、笑って誤魔化した。 武道 「そっか。……そいつ、きっと今でもお前のこと、覚えているよ」 紬 「そうかな」 武道 「間違えねぇ」 その声は、雨の音に溶けて消えた。 校門の前に着くと、紬の家の隣に住むおばさんが傘を差して立っていた。 隣の人 「あら、つむちゃん! 迎えに来たのよ。お母さんが連絡くれてね」 紬 「ありがとうございます!」 紬はぴょんと武道から離れて、笑顔でおばさんのもとへ駆け寄った。その姿を見て、武道は小さく微笑む。 紬 「お兄さん!ありがとうございました!」 紬が振り返って言うと、武道は軽く手を振った。 武道 「おう。気をつけて帰れよ」 おばさんと並んで歩く紬を見送りながら、武道は雨の中へと消えていった。 その背中を、紬は不思議そうに見送った。 なぜだか、胸の奥が少しだけ温かく、少しだけ痛かった。 紬 「……なんか、懐かしい感じがしたな」 小さく呟く紬の声は、雨音にかき消されていった。 紬と別れたあと、武道はゆっくり傘を閉じた。雨脚はまだ強いのに、不思議と濡れても構わないと思った。 アスファルトを叩く雨の音が、耳の奥に遠く響く。 さっき紬を傘に入れた際にランドセルの横にぶら下がるコップ袋のタグに、小さく刺繍された名前。 「花垣 紬」 その文字を見た瞬間、武道の心臓がひとつ大きく鳴った。 (……花垣、紬、か) ぽつりと、自分の口からその名がこぼれる。 “花垣”という苗字は、そう多くない。 けれど、それ以上にその音の響きが、胸の奥をざらつかせた。 武道 (まさかな……そんな偶然、あるわけ……) 言葉にした瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。“ない”と言い聞かせる声が、かえって震えていた。 小さな手を離した、ある日の夕暮れ。泣きながら「お兄ちゃん、だいすき」と言った幼い声。 それが、まるで昨日のことのように蘇る。 武道は足を止め、しばらく空を見上げた。 頬を流れるのが雨か涙か、自分でもわからなかった。 武道 (……もし、あの子が本当に紬だったら) 胸の奥に、温かくて苦しいものが広がる。 嬉しさと後悔と、少しの希望が入り混じった感情。 武道 「……元気でいてくれれば、それでいい」 誰にも聞こえないような声で呟いた。 そのまま、武道は傘をささずに歩き出した。 雨が全身を打つ感覚が、なぜか心地よかった。 どこかで、また会える気がした。 それは確信ではなく、祈りに近い想い。 灰色の空の下、武道の背中は静かに遠ざかっていった。 その胸に、まだ知らぬ「妹」への想いを抱えたまま。 夜になっても、雨はやまなかった。 アパートの屋根を叩く音が、静かな部屋の中にずっと響いている。 武道は濡れた服を脱ぎ、タオルで髪を拭きながらリビングに腰を下ろした。 あのとき、ランドセルの横にぶら下がっていた、小さなコップかけ。 そこに書かれていた名前が、どうしても頭から離れない。 武道 (花垣……紬) 何度も心の中でその名を繰り返すたび、胸が締めつけられる。 ふと、押し入れの奥にしまいこんだ古いダンボール箱の存在を思い出した。 武道 「……たしか、あの頃の写真が……」 箱を引きずり出し、埃を払いながら中を覗く。 中には、色褪せたアルバムや、幼い頃に母が撮った写真が何冊も詰まっていた。 武道はその一冊を開く。ページをめくるたびに、過ぎ去った時間の匂いがふっと蘇る。 笑っている自分。そして隣に、小さな女の子。 ふわふわの髪に、まだ舌足らずな笑顔。 写真の端に書かれた文字が、滲んで読みにくい。 けれど確かに、そこには「紬(つむぎ)」と書かれていた。 武道 「……やっぱり、いたんだ」 指先が震えた。胸の奥が、温かいのに苦しい。 ずっと心の奥で信じていた“記憶”が、写真という形で今、確かになった。 幼い紬が笑っている。自分の腕の中で、小さくピースをしている。 その笑顔を見ているうちに、武道の視界が滲んでいく。 武道 「……紬……お前、どこにいるんだよ……」 呟いた声は、雨音にかき消された。 その夜、武道は久しぶりに眠れなかった。 心の中で繰り返し、あの小さな笑顔を探していた。 そして、もう一度出会えた日の傘の下のぬくもりが、何度も何度も、夢の中で蘇った。

0
0

壊れゆく日常の、その先に

第十六章 隣にいてくれる人 翌朝。 病室のカーテン越しに差し込む淡い朝の光が、 灯花のまぶたをそっと揺らした。 ゆっくりと目を開けると、昨日より少しだけ体が軽い。 胸のドキドキも落ち着いていて、代わりに “今日も頑張ろう”という気持ちがふわりと胸に広がった。 ベッドの横には、すでに恵が座っていて微笑んでくれる。 恵 「おはよう、灯花。よく眠れた?」 灯花は眠たそうに目をこすりながら、こくんと頷いた。 灯花 「うん……」 ほんのり寝癖のついた髪を恵に整えてもらいながら、 灯花はぼんやりとした頭をゆっくり動かす。 昨日はいろんなことがあった。 それでも今日もちゃんと朝が来たことが、 なんだか不思議でうれしかった。 廊下からは看護師さんたちの明るい声や、 他の子どもたちが起きだす気配が聞こえてくる。 いつもの病室の朝。 だけど、どこか少しだけ特別な朝だった。 午後 ゆっくりした空気が病室に流れていたころ── コンコン、と軽いノックが響いた。 留久 「灯花ー、入っていい?」 その明るい声に、灯花の表情がぱっと明るくなる。 灯花 「……るく?」 恵 「はーい、留久くんどうぞ」 恵が微笑んで声をかけると、 留久が大きめのリュックを背負って元気よく入ってきた。 留久 「灯花! プリント持ってきたよ!」 そう言って、リュックをごそごそと探り、 教科書とプリントの束を取り出す。 留久 「先生がさ、『灯花ちゃんに渡してね』って。 だからオレ、ちゃんと覚えて持ってきたんだ!」 胸を張る留久に、灯花はくすっと笑う。 灯花 「すごい……いっぱいある……」 プリントの束は思った以上に分厚かった。 事故の翌日から止まっていた勉強の分が、 そこにすべて詰まっていた。 留久 「ほら、これ算数で、こっちは国語。あとね、美術のやつも。 絵はさすがに病院で描けないかもだけど……先生がね、 “できるところだけでいいよ”って言ってたよ!」 留久は一枚ずつ説明しながら、 灯花のテーブルに丁寧に並べていく。 灯花はその様子を、目を輝かせて見つめていた。 灯花 「ありがとう、るく……」 灯花は少し恥ずかしくなって、毛布の端を指でちょんとつまんだ。 灯花 「でも……こんなにいっぱい……」 留久はすぐに前のめりになる。 留久 「大丈夫だって! オレも手伝うよ! 算数とか一緒にやれば楽しいよ!」 灯花 「……ほんと?」 留久 「ほんと! 明日も来るしさ!」 胸を張って言う留久は、本当に頼もしかった。 少し離れたところで恵が優しく微笑みながら二人を見ていた。 灯花がプリントを手にして、小さく嬉しそうに笑ったのが分かる。 事故以来、こんなふうに前向きな表情をしたのは久しぶりだった。 恵 「留久くん、本当にありがとうね。灯花、すごく嬉しそう」 留久 「えへへ……灯花、がんばり屋なので。 勉強もついて行けなかったら学校行きづらいかなと思ったので」 その言葉に灯花の目がまた少し潤む。 灯花 「……るく、ありがとう」 その小さな声に、留久は照れくさそうに頭をかいた。 留久 「いいっていいって! 友達だし!」 そのやりとりがなんだかあたたかくて、 病室の空気がほんのり明るくなるのだった。 第十七章 新しいお知らせと留久が気持ちを伝える 季節がゆっくりと変わり始める頃、 灯花が事故に遭ってから、ちょうど二ヶ月が経っていた。 病室の窓から差し込む光は少し柔らかく、 時間の流れを感じさせる。 灯花はまだ歩ける状態ではなかった。 足には力が入りにくく、リハビリでも車椅子を使う時間が多い。 けれど──骨折した部分は、 ついに“完全にくっついた”と診断された。 その日の午後。 佐伯先生がカルテを片手に静かに病室へ入ってきた。 佐伯 「灯花ちゃん、骨の状態、すごく良くなってきたよ」 椅子を引いて灯花のベッドのそばへ座りながら、 先生は穏やかに言う。 灯花は少し緊張した様子で、まっすぐに佐伯の顔を見つめた。 灯花 「ほ、本当に……?」 佐伯 「本当だよ。二ヶ月前のあの状態から、 ここまで回復したのは立派だね。 骨折部分は完全に治ってる。これからは“歩くための” リハビリが中心になっていくよ」 恵と慎吾は顔を見合わせて、安堵の息を漏らした。 佐伯先生はカルテをめくり、少し言葉を区切って続ける。 佐伯 「そして……退院の目安についてお話ししたいと思います」 灯花の胸がどきんと跳ねた。恵の手をそっと握りしめる。 佐伯 「今の灯花ちゃんは、骨自体は問題なし。 ただし筋力が落ちていて、足の後遺症が残る可能性も まだゼロじゃない。だから──」 佐伯先生は優しい表情で、家族を順番に見つめた。 佐伯 「退院の目安は “歩行補助具を使って 安全に立位が保てるようになった時” です。 だいたい……今の様子なら、あと数週間から一ヶ月くらいかな」 灯花 「……本当に、帰れるの?」 灯花が小さく問いかける。 佐伯 「帰れるよ。焦らなくていい。 灯花ちゃんのペースで、一歩ずつだ」 佐伯先生は安心させるように微笑んだ。 灯花は小さく息を吸い込み、恵の手をぎゅっと握った。 灯花 「……わたし、がんばる。歩けるようになりたい」 その言葉に恵は涙をこらえながら微笑み、 慎吾は優しく頭を撫でる。 慎吾 「うん。灯花なら絶対できるよ」 恵 「焦らないで、一緒に頑張ろうね」 灯花は小さく、でも確かに頷いた。 事故で失ったものも、怖かった記憶もまだ消えていない。 けれど── 「帰れる」という未来が、灯花の心に小さな光を灯していた。 午後の穏やかな光が病室に差し込み、 灯花は佐伯先生から聞いた “退院の目安”の言葉を何度も胸の中で反芻していた。 あと少しで——家に帰れる。 そんなとき、コンコン、と軽いノックの音。 留久 「灯花、入っていい?」 聞き慣れた声に顔を向けると、 ドアの隙間から留久がのぞいていた。 いつもより少し息が上がっていて、走ってきたのが分かる。 灯花 「る、留久……!」 灯花の顔が自然とほころぶ。 留久も安心したように笑って、手に下げていたバッグを見せた。 留久 「プリント、今日の分も持ってきたよ。 この前したプリント先生に渡しといた。 そしたら先生が“がんばってるね”って言ってた」 灯花 「……ありがとう。毎日ほんとに……」 お礼を言おうとすると、 留久は照れたみたいに耳を赤くして首を振る。 留久 「いいって。今日も来たかったし。あ、そうだ!」 ベッドのそばまで小走りで近づいて、 留久は灯花をじっと見つめた。 留久 「さっき、お医者さん来てたでしょ? いい話だった?」 灯花は小さく頷いた。 灯花 「うん……。あのね、退院の話が出たの。 歩く訓練はまだだけど、骨は全部治ったって」 留久 「そっか……よかった……!」 留久は胸の前でぎゅっと拳を握りしめ、 心の底から嬉しそうに息を吐いた。 留久 「退院したらさ、また一緒に学校行けるね。 ……あ、でも焦らなくていいから。ゆっくりでいいよ」 その言い方がなんだか優しすぎて、 灯花の心臓がまたドキンと鳴った。 灯花 「……うん。ゆっくりね」 笑い合う二人の間に、少しだけ照れた沈黙が落ちる。 笑い合ったあと、ふと、病室の窓から入る光が少し傾いた。 その静けさの中で、留久がバッグを握り直す。 留久 「……灯花」 名前を呼ぶ声が、さっきまでより少しだけ真剣で、 灯花は自然と顔を向けた。 留久は息をのむように一度だけ黙り、 それから、覚悟を決めたみたいに灯花の目を真っ直ぐ見つめる。 留久 「事故のあと……ずっと、心配で。 毎日、早く良くなれって願ってて……」 灯花の胸がふわりと締めつけられる。 留久 「今日、退院の話を聞けて、ほんとに嬉しかった。 灯花が元気になるのが……すっごく嬉しい」 ここまで言って、留久は小さく唇を噛んだ。 耳が赤くなり、視線が逸れそうになってーーでも、逸れなかった。 留久 「……灯花のこと、好きだよ」 ストン、と落ちるように静かな声だった。 でも、その一言には震えるほどの勇気が詰まっていた。 灯花は目をぱちぱちさせ、胸が一気に熱くなる。 灯花 「……す、すき……?」 確認するようにつぶやくと、留久は恥ずかしそうに笑った。 留久 「うん。灯花が笑うと安心するし、 泣いたら一緒に泣きたくなるし…… 退院したらまた……いっぱい話したい。隣にいたいって思う」 灯花の心臓が、また強く跳ねた。昨日よりも、さっきよりも、 理由のわからないドキドキが大きい。 灯花 「……わたし……」 胸に手を置くと、トクトクとうるさいほど音が響いていた。 灯花 「留久といると……安心する。だから……その……」 言葉がうまく出てこない。 けれど、それでも留久はふわりと優しく笑った。 留久 「灯花の気持ちは、ゆっくりでいいよ。 返事は急がなくてもいいから。ね?」 その笑顔が嬉しくて、灯花は小さく頷いた。 灯花 「……うん」 病室の中にふんわりとした静けさが満ち、 二人の間だけがすごく温かい空気になった。 ー続くー

0
0
壊れゆく日常の、その先に

鍵のない部屋

その部屋には、鍵がなかった。 正確に言えば、最初から鍵を必要としない部屋だった。 古い二階建てのアパート。 私はそこで、大学時代からの友人 三枝 唯都と同居していた。 事件が起きたのは、雨の夜だった。 春田 「……おかしい」 浴室から戻った私は、リビングに立ち尽くした。 テーブルの上にあったはずの、一通の封筒が消えている。 それは、先週亡くなった隣人 老人の部屋から見つかったものだった。 宛名はない。 中には、ただ一行だけ、鉛筆で書かれた文字。 『見てはいけない』 意味はわからなかった。 だが、捨てる気にもなれず、私はそのまま部屋に持ち帰った。 そして今、それが消えた。 春田 「唯都、封筒知らない?」 キッチンにいた唯都は、振り向きもせず答えた。 唯都 「知らないよ。それより、隣の部屋、また電気ついてる」 隣――老人の部屋だ。 警察が封鎖したはずなのに、確かに薄明かりが漏れている。 私たちは顔を見合わせ、廊下に出た。 老人の部屋のドアは、内側から少しだけ開いていた。 鍵は、最初から壊れていたと聞いている。 だから、誰でも入れた。 春田 「……失礼します」 中は、生活感のない部屋だった。 家具は最小限。 だが、壁一面に、新聞の切り抜きが貼られていた。 全て――十年前の失踪事件。 そして、その中心に貼られた写真。 写っていたのは、若い頃の――唯都だった。 春田 「……これ、どういうこと?」 私が振り返ると、唯都はもうそこにいなかった。 背後で、音もなくドアが閉まる。 ガチャリ、と乾いた音。 春田 「え?」 私はドアノブを掴んだ。 ――回らない。 この部屋には、鍵がないはずなのに。 唯都 「ごめん」 ドアの向こうから、唯都の声がした。 唯都 「君には、知ってほしくなかった」 春田 「何を……?」 唯都 「僕は、あの事件の“唯一の生存者”じゃない」 一拍、沈黙。 唯都 「……加害者なんだ」 思い出した。 十年前、失踪したのは一人じゃなかった。 もう一人――名前が伏せられた人物がいた。 それが、老人だった。 彼は、私たちを監視していた。 真実を暴くために。 だから、あの封筒には書かれていた。 見てはいけない ――見てはいけなかったのは、唯都の過去。 ドアの外で、足音が遠ざかる。 私は、鍵のない部屋に閉じ込められたまま、 壁一面の切り抜きを見つめ続けていた。 そして、最後の一枚に、気づく。 そこには、新しい記事。 《大学生一名、失踪》 写真は――今の私だった。

1
0
鍵のない部屋