れ
17 件の小説夜、海、君と二人
「波って飽きないのかな」 海を眺めながら君が呟く。 「飽きる?」 「うん、寄せて引いて、それだけでさ。」 何かを含んだような横顔をじっと見つめる。 控えめな二重、眠そうな目、薄い唇、小さな耳たぶ。 何度も見てきた彼の横顔がやけに寂しそうに見えた。 「飽きないよ、きっと」 私もそっと口を開く。 不思議そうな顔をした君と目が合い、咄嗟に海に視線を移す。 「波の形って、それぞれちがうでしょう?同じことを繰り返すわけじゃないんじゃない?」 自分で言って、少し照れくさくなって誤魔化すように笑う。 迷子の手で髪の毛をくるりと掬って首を掻く。 それからは二人とも無言だった。 波の音がオルゴールのように響いているだけ。 「F分の1の揺らぎっていうんだっけ、これ」 「うん、規則性のない規則的な音。」 世界に君と私だけが残る。 潮だまりに映る影が一瞬だけ、ひとつに重なった。
標本
パシャリ。 深夜1時、しんと静まり返った街に、スマホのシャッター音が無機質に響いた。 写真フォルダを開くと、小さな灯りがいくつも並んでいる。 また、歩き出す。 袖を引っ張って手のひらを隠す。 数メートル先に街灯の光が見えた。 少し駆け足になって近付き、スマホを構える。 パシャリ。 前から走ってくる自転車に乗った人と目が合いそうになって、咄嗟に逸らす。 咳払いを一つ。 「誰もいないと思ったのに」 自転車のライトが見えなくなったのを確認してぽつりと呟く。 胸がそわそわして、スマホを開く。 開きっぱなしにした写真フォルダに浮かぶ灯りたち。 スッと、胸に風が吹いた気がした。 私の、私だけの、生きるための標本。
羅針盤
手元で心許なく揺れる赤い針を見失わないように睨みつける。 瞬きもせずに。 ずっと捉えてないとすぐに消えてしまいそうで。 赤い針とともに私の心が揺れる。 このまま、進んでいけば、 ここから抜け出せるのだろうか。 答えの出ない問いを頭の中でかき混ぜながら必死に足を動かす。 前へ、前へ。 ただ、前へ。 「いたっ」 ドンッ、と何かにぶつかる。 初めて、針から目を離す。 前を見つめると、透明な硝子。 ぐるん、と赤い針が回転する。 「あぁ、」 息が漏れる。 「最初から北なんて、」
気のせい
「気のせいだよ」 君の口癖だった。 あまりにも優しく、柔らかく、暖かい声で、 当たり前のように囁くから。 君が言うと、本当にそう思えたの。 もっと早く気付けたはずなの。 君が未来の話をしなくなったとき、 目が合ってすぐに逸らしたとき、 私の目よりスマホを見る回数が増えたとき、 それでも、気付きたくなかったから、 必死に自分に「気のせいだよ」って言い聞かせたのに。
23:47 寝室
「昔ね。」 そう言いながら、マグカップを両手で包む。 「月が綺麗な夜に、クラゲが空を飛びたいと思ったんだ。」 「無理じゃん。」 君が即答する。 「そう。」 俺も頷く。 「海の生き物だからね。」 「でもクラゲは諦めなかった。」 「毎晩毎晩、海面まで浮かんできて月を見てた。」 しばらく静かな時間が流れる。 「で?」 「ある日、月が言った。」 俺は窓の外の夜空を見上げた。 『君はずっと空に来たかったんだね。』 クラゲは答える。 『うん。』 『じゃあ、少しだけ貸してあげる。』 「その夜だけ、海面に映った月が橋になった。」 「クラゲはその光の上をふわふわ漂って。」 「ほんの少しだけ空を泳いだ。」 君が小さく笑う。 「それで満足したの?」 「どうだろう。」 俺も笑った。 「でもそのクラゲは、その日から月を見るのがもっと好きになったらしい。」
薄明
1 「明日には死んでますように」 毎晩、何かに祈るように、縋るように目を瞑る。 おやすみ、の代わりのおまじない。 ピピピピ、ピピ… 「はぁ…」 未だに願いは叶うことなく、残酷な程に眩しい朝日が、逃げられない現実を突きつけてくる。 たまらなくなって目を背けると、視界に優しい水色がチラつく。 「おはよう、ユラちゃん。」 小学二年生の時に出会ったクラゲのぬいぐるみ。 ユラちゃんだけが私の全てを知っている。 身支度を済ませ階段をおりる。 小さく深呼吸してリビングのドアを開けると、今日も変わらず重苦しい空気が広がっていた。 息が詰まる。 「…挨拶」 「お、はよう…」 こちらを一瞥もせずに小さく呟く父の声に、喉が跳ねる。反射的に握りしめた手が小さく震えている。 母は黙って父の弁当を詰めていた。 そのまま、無言。 箸が皿に当たる音、母が小さく鼻をすする音、咀嚼音、私の心臓の音だけが響いている。 ご飯を食べ終えた父が席を立つ。 ガタガタっと、乱暴に椅子を引きずる音が嫌にうるさく響く。比例するように、私の心臓も大きな音を立てる。 「行ってらっしゃい」 弁当を渡す母。黙って受け取る父。 それを横目で見る私。 昔は、もっと、普通の家族だったはずなのに。 2 「おはよう」 家ではあんなに重かったはずの言葉が、ここでは簡単に口から飛び出していく。 「今日の数学の小テスト、全然勉強してない」 席に着くやいなや、不安そうな顔をした友達が声をかけてくる。 「大丈夫だよ、まゆ、数学得意でしょ?」 自分を見失うほどに明るい声が無意識で出てくる。 えーん、とわざとらしく泣いてみせるまゆと笑い合ってるうちに始業のベルがなる。 徐々に静かになる教室に先生が入ってくる。 簡単な挨拶と報告を済ませて、「今日も一日頑張りましょう」と、お馴染みの言葉で締めると、そのまま教室を出ていく。 一時間目は世界史だ。 「このように、若者は自分たちから志願兵として名乗りを上げました。この時代の若者たちは、戦争にロマンを感じ、退屈な日常から逃避するため、愛国心を示すために自ら、手を挙げたのですね。」 戦争。 現代の私たちでは話を聞いても想像ができない。 自ら犠牲になって、国のために死んでいくなんて耐えられないと思う。 きっと志願した人たちも、死にたくて志願したわけではないのだろう。 すぐ終わると思っていた、勝てると思っていた、犠牲なんてないと、思っていたのかもしれない。 でも、私には分からない。 回りきらない頭で無駄なことを考えながら、言われたことだけをノートに書き写していく。 キーンコーンカーンコーン。 無機質なベルの音が響く。 私には今日も無事に終わったことを告げる祝福の鐘に聞こえる。 今日も頑張れたかな。小テスト、分からないところあったな。休み時間、いらないこと言ってなかったかな。 一日を振り返っていると、隣の席から明るい声が聞こえて我に返る。 「放課後、マック行かね?」 キラキラと太陽のような彼の笑顔に、思考が止まる。 いいね、と軽く返して荷物をまとめる。教科書、筆箱、くしやリップが入ったポーチ。一日の残骸をカバンに詰めていく。 「じゃあね〜、また明日!」 まゆが部活仲間と一緒に教室を出ていく。 「いってらっしゃい」 笑顔で手を振ると、心底嬉しそうな顔をして手を振り返してくれる。 「誠、準備できた?」 隣の席に声をかけると、もちろん、と準備万端な彼。 どうでもいい話をしながら学校を出る。 最近旬を迎えたラベンダーの香りがどこからか漂ってきていた。 3 店内は明るくて、少しだけ騒がしい。 トレーの上のポテトから、油の匂いが上がってくる。 向かいに座る誠が、ストローをくるくる回している。 「今日の小テストどうだった?」 「うーん。」 「私も分からないとこあったよ」 そう言って、ポテトを一本つまむ。 塩が少し多い。 「誠は?」 「聞くなよ」 笑いながら言うと、誠もつられて笑った。 くだらないやりとり。 それでいいはずなのに、少しだけ、間が空く。 氷が、カランと音を立てる。 「あのさ」 口が滑る。 言うつもりじゃなかったのに。 「死ぬのってさ、楽そうじゃない?」 自分でも軽い声だと思う。 冗談みたいに、少しだけ笑いながら。 誠の手が止まる。 「……なにそれ」 「いや、なんかさ」 ポテトをもう一本取る。 さっきより、しょっぱく感じる。 「寝るみたいに終わるなら、いいなって思っただけ」 大した意味はない、みたいに言う。 本当に、大した意味なんてないみたいに。 誠は何も言わない。 ただ、少しだけ視線が残る。 そのまま、話題は変わる。 さっきのことがなかったみたいに。 ナゲットのソースの話とか、 まゆの話とか、どうでもいいこと。 店を出る頃には、 ちゃんと、いつも通りに戻っていた。 4 店を出ると、外はもうすっかり夜だった。 昼間の熱がまだアスファルトに残っていて、少しだけ空気が重たい。 「食べすぎたかも」 誠が笑いながらお腹を押さえる。 ポテトの塩が指に残っていて、舐めると少ししょっぱい。 「いつもじゃん」 軽く返すと、誠は「ひど」と言いながらまた笑った。 どうでもいい話。意味のない会話。 それが、少しだけ心地いい。 歩きながら、ふと、風が通り抜ける。 甘いような、落ち着く匂い。 「ラベンダー?」 「この辺、公園あったっけ」 分からないまま、匂いにつられて歩いた。 紫色の公園のベンチに腰を下ろす。 「さっきさ」 誠が、少しだけ声を落とす。 「ん?」 「死ぬの、楽そうってやつ」 ああ、さっきの。 そんなに引っかかるようなことだっただろうか。 「冗談だよ」 そう言って、少し笑う。 「ほんとに、寝るみたいに終われるなら、いいなって思っただけ」 軽く。ほんの少しだけ。 何でもないみたいに。 誠は何も言わない。 ただ、少しだけ、こっちを見る。 その視線から逃げるように、前を見る。 「私さ、虐待、っていうのかな。お父さんがさ、ちょっと、厳しい人なんだよね。」 誠は黙っている。 「まぁ、きっと私のことを思ってくれてるから、だと思うんだけど。」 ふと我に返り、本気に取られないように少し笑いながら誤魔化したが、誠は何も言わない。 視界が少しだけ曇る。足元の花は風と遊びながら楽しそうに揺れていた。 何時間とも思えるような沈黙が続いたあと、誠が口を開いた。 「俺、そういうの許せない」 その言葉に顔をあげると、真っ直ぐ私の目を見つめる誠と目が合った。 「今から、君の家に行こう」 救ってくれる気がした。この人なら、私の手を取って、一緒に逃げてくれるような気がした。 5 「ふざけんな!!!」 何度も聞いた声が、家に響く。 慣れているはずなのに、身体は硬直して、口も動かない。みっともなく、目だけで父と誠を目で追う。 食器棚の下に倒れた誠、口元からは血が流れている。 父を見る。 いつものように真っ赤な顔、握りしめた拳、何かを喚く口元。何故か、今日は嫌に冷静に観察できる。 「あなたは間違っている」と、呟く誠には目もくれず、手元にあるものを投げつける父。 誠の目にも涙か溢れてきた。 「ごめん」 多分、私に言ったのだろう。必死に我が家から出る誠を何も言えずに見ていた。 「あ」 口が開く。 「待って、」 数秒の思考の後、勝手に体が動く。 待って、行かないで、置いてかないで。 思うように動かない手足を必死に動かして誠の後を追う。 キンと冷えた空気が頬を撫でる。 ラベンダーの香りが鼻を滑る。 誠の姿も見えないまま、どこかに歩き始める。 どこに向かっているかも分からないまま、どこか夢を見ているような感覚だ。 ふと、足を止める。 信号は赤。 遠くで、何かが軋む音がした。 風が止む。 ラベンダーの香りが、ふっと消える。 青に変わる。 隣で、誰かが一歩踏み出す。 その瞬間―― キィィィィィッ、と、耳を裂くような音。 何かがぶつかる鈍い音。 目の前で、女の人が宙を舞った。 視界いっぱいに広がる、 「死」 「死」 「死」 ただ、ゆっくりと終わりへ向かう「死」が目の前にあった。重く閉ざされた瞼、ドクドクと流れ出る血液、みるみるうちに悪くなっていく顔色。激しい悲痛の表情。 「え、」 一気に現実に引き戻される。 視界が真っ赤に染まり、ぐるぐると巡る思考に吐き気がする。 死ぬのは、救いじゃないのか。 何も無い、という感覚すらなくなるのか。 こわい、こわい、こわいこわいこわいこわい。 胸がぐっと鷲掴みにされるような感覚に初めて「死」に恐怖する。 私が馬鹿だった。こんなに苦しい痛み、耐えられない。私は、死ぬにはまだ苦しみ切ってない。 家族がなんだ、大切な人がなんだ、失っても失っても失っても、何もかも失っても、まだ私は生きている。生き延びてしまっている。 6 どうしていたのだろうか、気付けば朝日が私を照らしている。 周りを見渡すと見覚えのある公園。 ラベンダーの香りがする。 「あ、家、帰らなきゃ」 誰に告げるでもなく言葉を紡ぐ。 自分に言い聞かせなければ何も出来ない気がして、必死に言葉を発した。 家の中は真っ暗で異常なほど静かだった。 キーンと耳鳴りが聞こえる。 リビングにも電気がついていない。 父親の靴がない。しっかりと揃えられた母親の靴が真っ暗な玄関で異様に存在を放っていた。 静かに階段を上がる。そっと母の部屋を開ける。 「お母、さん、?」 真っ暗な部屋、人の気配がない。いない…?とドアを閉めようとしたとき、「もう、大丈夫だよ、お父さんは、いないから」と、静かに、でも確かに言葉を紡ぐ母親の言葉が耳に飛び込む。 「あのね、離婚するの。」 いつになく弱々しい母の声が静かに続ける 「今まで、たくさん怖い思いをさせてしまってごめんなさい。守ってあげられなくてごめんなさい。許して欲しいなんて言わない。 だけど、本当にごめんなさい」 だんだんと震えて今にも消えてしまいそうな母の声。私の頬も、一筋、また一筋熱くなる。 その晩は二人で涙が枯れるまで泣いた。今までの恐怖を、支配を、そっと溶かすように、二人の涙で流し切ろうとするように。 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。 窓から差し込む朝日が私を照らす。 「お母さん、朝だよ」 机に突っ伏して気絶したように眠る母親に声をかける。こんなの、いつぶりだろうか。ゆっくりと顔をあげる母。夜の闇の中では見えなかった顔。暖かい光に照らされるその顔は所々あざになっていて、紫色に腫れていた。 「話し合いの時に、ちょっとね」 困ったように笑う母。 初めて見る表情。 また胸が苦しくなって喉が詰まる。 最後に面と向かって母の顔を見たのはいつだっただろう。遠い昔のように感じる。 それからはたくさんたくさん話をした。 今までのこと。 母も、自分のことをずっと責めていたこと。 ずっと後悔していたこと。 昨日の晩のこと。 勇気をだして離婚を突きつけたこと。 それでも暴力の前に支配されそうになったこと。 私の顔を思い浮かべて、必死に思いを伝えたこと。 父親が怒りながら、出ていったこと。 最後に母親を見る瞳に一瞬、後悔と言葉にできない鈍い色が見えたこと。 そして、これからのこと。 7 朝、目が覚めてカーテンを開ける。今日もいい天気だ。 チュンチュンと、希望を囁きながらスズメが飛び立つ。 その後、私たちはマンションに引っ越した。 あの家は、二人で住むには広すぎる。 離婚の手続きや親権のこと、あの家の事、難しいことは全部母親の友人の弁護士が片付けてくれたらしい。 あの後から、母はよく笑うようになった。 いや、私が小さい頃はよく笑う人だった。 いつからか、父親の恐怖に怯えた顔しか見なくなってしまった。 きっともう、父親に会うことはないだろう。忘れることも、許すことも出来ない。相変わらず大きな音や声を聞くと心臓が跳ね上がる。腕の傷も古くなっていくだけじゃない。暗い闇の中で自滅のループを巡る夜も無くなった訳じゃない。 でも、朝起きると、そんな恐怖をかき消すように、キッチンから音が聞こえる。 トントン、と心地の良い包丁の音。 そんな当たり前の音が私の心を軽くする。 窓の外には、今日も空が広がっている。 薄い雲がゆっくり流れて、風に揺れた洗濯物がかすかに音を立てる。 私はベッドの上で膝を抱え、 ユラちゃんを胸に引き寄せた。 指先に伝わる柔らかさ。 何も語らず、何も求めず、ただそこに在る感触。 あの日、目の前に広がった「死」は、 今も私の奥深くに沈んでいる。 忘れることも、消えることもない。 それでも、朝は来る。 光は差し込み、 世界は、何事もなかったかのように続いていく。 私は小さく息を吸って、ゆっくりと吐いた。 生きている。 理由は、まだ分からない。 意味も、きっと分からないままだ。 だけど。 私は、生まれてきたから生きている。 そして、 死ぬまで、 ずっと、 生き続けるだけだ。
何十回も読んだ漫画、読む度にこれ
ワイングラスの底に、白い月が揺れている。 テーブルの上には、焼いたにんじんと、きのこと、砕いたナッツ。 とろりと溶けかけたブッラータが、あたたかい湯気の中でゆっくりと崩れている。 甘い匂いと、焦げた匂いと、ほんの少しの酸。 画面の向こうでは、金色の髪の少年が、何度目かの「諦めない」を叫んでいた。 私は、グラスを持つ手を止める。 眩しい。 でも、ただ眩しいだけじゃない。 あの子の笑顔は、きっと何度も夜を越えてきた顔だ。 泣ききった後の、あの明るさだ。 私はあんなふうに笑えるだろうか。 しんどいことを、笑って吹き飛ばせるような強さ。 裏切られても、失っても、それでも立っていられる足。 欲しい。 ずっと欲しかった。 だけど同時に、思う。 あの光を守る側でいたい、と。 傷だらけの誰かが、もうこれ以上傷つかなくていいように。 希望を信じる子が、そのまま進めるように。 私は守れるだろうか。 大好きな人に、もう一度会えると言われたら。 あのぬくもりが戻ると言われたら。 きっと一瞬で、道を踏み外す。 正しいかどうかよりも、 「会いたい」が勝ってしまう。 そんな自分を、私は知っている。 グラスの中で、白い月が揺れる。 強くなりたい。 泣かない人になりたいんじゃない。 揺れない人になりたいんじゃない。 揺れたあとに、 それでも光を選べる人になりたい。 少年はまた叫ぶ。 諦めない、と。 私は小さく笑う。 きっと強さって、 あんなふうに叫ぶことじゃない。 折れた心を拾って、 何度でも自分で縫い直すこと。 ワインを一口飲む。 甘い。 少し酸っぱい。 でも、ちゃんと美味しい。 人生みたいだ、と思う。 私はまだ途中だ。 でも、途中にいるってことは、 終わっていないってことだ。 画面の向こうの少年が、また立ち上がる。 私も、立ち上がる。 静かに。
月を拾う駅
夜の駅は、いつも少しだけ海の匂いがした。 ホームの端に、細長いベンチがある。 誰も座らない場所。 そこにだけ、小さな光が落ちている。 私はそれを「月」と呼んでいた。 丸くもないし、欠けてもいない。 ただ、手のひらに乗るくらいの淡い光。 拾っても怒られない。 誰も、それが落ちていることに気づかないから。 駅員さんは言った。 「終電が出る頃、たまに落ちるんだよ。 忘れ物みたいなものさ。」 忘れるほど軽いのに、 どうしてこんなに胸の奥に沈むんだろう。 ある日、ベンチの下で細い影が動いた。 小さな、丸い生き物だった。 つちのこみたいな、 でも絵本で見たより少しだけ寂しそうな顔。 「それ、食べるの?」 私は思わず聞いてしまった。 生き物は首を振った。 月は食べられないらしい。 太陽は暖かくて、寒い時にポカポカになるけど、 これはただ、冷たい光なんだって。 「じゃあ、なんでここにいるの。」 生き物は答えなかった。 ただ、私の靴先の影に体を寄せた。 誰かの足音が遠くで響く。 電車が来る合図の風が吹く。 私は手に持ったままだった月を、ベンチに戻した。 持って帰ると、 夜が空っぽになる気がしたから。 電車のドアが開く。 生き物は乗らなかった。 私も、今日は見送ることにした。 夜は長い。 月は、また落ちる。 それを拾う人がいる限り、 この駅は少しだけ、やさしいままでいられる。
私の日常の物語/2026.2.15
朝、目を覚ましてから、しばらくのあいだベッドの上で天井を眺めていた。 夢の名残が溶けきらないまま、身体だけが現実に戻ってくる、その境目の時間。 掛け布団の中で小さく伸びをして、今日という一日が、静かに始まる。 シャワーを浴びて、髪を乾かし、鏡の前でメイクをする。 窓の外は柔らかい光に満ちていて、それだけで、今日はいい日になる気がした。 支度を終え、ポチと一緒に外へ出る。 近くの公園まで歩き、ベンチのそばでおやつをひとつ。 そこからさらに、気の向くままに別の公園を探す。着いたら、またひとつ。 公園巡りは、私とポチのささやかな冒険だ。 道ばたで、見慣れない植物に出会った。 茶色く乾いた、指で包むと蕾の形になる不思議な殻。 その根元には、よく見なければ気づかないほど小さな、紫と白の花が咲いている。 誰に見せるわけでもなく、ただそこに在るその姿が、少し誇らしげに見えた。 角を曲がると、パン屋の前を通りかかる。 焼きたての香りが、空気ごと抱きしめるように漂ってくる。 ポチを連れているから、今日は看板の写真だけ撮って、通り過ぎた。 この匂いは、次の楽しみに取っておく。 家に戻り、コーヒーを淹れる。 職場でもらったお菓子をテーブルに置き、窓際に腰を下ろす。 庭では、ポチが好き勝手に歩き回っている。 その姿を眺めながら飲むコーヒーは、不思議なくらい深く、やさしい味がした。 しばらくすると、ポチが私の隣で丸くなった。 網戸を閉め、静けさの中に身を沈める。 そのとき、どこから入り込んだのか、猫が一匹、庭に現れた。 「お前たち、何してるんだ」と言いたげな顔で、じっとこちらを見ている。 そこは私の庭なのだけれど、そう言葉にするほど野暮でもない気がして、思わず笑った。 今日は、まだしばらくここで過ごす。 特別なことは何も起こらない。 それでも、この静けさと、光と、気配に包まれた一日は、 確かに、私の最高の休日だった。
一晩だけの宇宙旅行
ふわふわする。 アルコールに溶けた思考が、頭の中をゆっくりと漂っている。 仕事のこと。 生活のこと。 海のこと。 地球のこと。 宇宙のこと。 どこかにいるかもしれない、宇宙人のこと。 お酒を飲んだ日は、普段なら見ないふりをしている場所まで、考えが勝手に入り込んでくる。 海の底には、どんな生き物がいるんだろう。 光の届かない場所で、何を見て、何を感じて、生きているんだろう。 私以外の人は、どんな生活を送っているんだろう。 同じ夜に、同じ空を見上げながら、まったく違うことを考えているのかもしれない。 宇宙人は、いるのかな。 もし出会えたら、友達になれるかな。 想像すると、少しだけ胸が軽くなる。 宇宙人と友達になったら、何をしたいだろう。 一緒に宇宙を散歩してみたり、 「あの星、綺麗だね」って指をさして、理由もなく笑い合ったり、 太陽の光を浴びて、ぽかぽか温まったり。 広大な宇宙の向こうへ、 どんどん、どんどん、歩いていきたい。 もし、最後まで歩いてしまったら、どうしよう。 「今から戻るには、長く歩きすぎたね」 困ったように笑う君に、 私は、なんて言葉をかけるだろう。 「このまま、どこかにいっちゃおうか」 そんな無責任な言葉を、 私は、ちゃんと口にできるのかな。 宇宙人と友達になれたら、 私は、もう少しだけ、自分のことを好きになれる気がする。 ほんの一晩。 目を閉じるまでの、短い旅。 明日になったら、 また元の場所に戻るとしても。