井上雛
8 件の小説井上雛
暖かくて儚い、そんな話を紡ぎたい。 閲覧してくれてありがとうございます。 『貴方』に届きますように。 開始 7月13日 2022年。 もう一度会えるのならば。連載中。
もう一度会えるのならば。IF
犯した罪が消えることはない。 その事実をわたしは誰よりも知っている。 貴方は言った。 『君の所為なんかじゃあない』 そう言った。一言一句、噛み締めるように。 あれは。あの時、感じた思いは。 心の内から這い出たものだと思う。 世界が可笑しくなった。世界は変になった。 『世界』。 それは誰の為の世界なのだろう。分からない。分からなくて良い。分かりたくない。掠れた声で呟く。 「変になったのは、私の方──ねぇ。ははは」 呟いたのも束の間。笑いが込み上げて来る。目尻に涙を溜めながら腹を抱え、嗤う。何分が経過したかは定かではないが、長い時間嗤っていたような気がする。だが、ふとして意識は現実へと引き戻される。だれかの呼ぶこえが鼓膜を覆う。煩い、煩い、煩い。 こえは鳴り止まない。煩いと思うのに。どうして鳴り止んでくれないのだろうか。だれかに願うこえも。だれもが羨むこえも。だれかの温もりも。要らない、要らない、要らない! 強く願えば願う程。わたしは『私』では居られなくなるのだろう。それでも良いと願う。わたしは私でなくなること。思いが消えてゆくこと。 全て、無に帰せば良い。けれどもその全てが無に帰すことはなかった。何故なら──。 「無理をして笑わないでくれと言った筈だよ」 声が響いたからだ。 「無理なんてしてない」 「強情過ぎる所も好きだけれど」 「好きって言わないで」 私は言う。 「……済まないね」 「嘘。言って」 貴方は噤む。躊躇っているのが手に取るように分かる。 だから私は──。 「言ってくれないと帰らない!」 言うのだ。あえて声を張り上げて。帰らないと。私が帰らないと言えば貴方は目を見開き、今にも泣き出しそうな表情で言うことは分かりきっている。故に言い続けるのである。 「……す」 「す?」 「……好、き……だよ」 まるで熟した林檎のように紅くなりながら。貴方は告げる。 「嬉しい。言ってくれたから、けんきゅーじょに帰る!」 「嗚呼、帰ろう。僕達の家に」 帰ろうと。私は笑う。今度は可笑しいとは思わない。思いたくない。何より──はかせを失いたくない。 「今日のごはんはなぁに?」 「そうだなぁ。……温かい物……かな」 「それ、ごはんじゃない!言葉の羅列!」 「……僕より知能高くなっていないかい」 「きのせい!」 にんまりと笑えば、はかせも笑ってくれる。早く家に帰りたいと思った。後ろは振り向かなかった。振り向く必要もないと思ったから。唯、其処には静寂が満ちているだけだった。
140文字の世界③
月が、綺麗だった。まあるく輝く月が。綺麗だった。だから行けるんじゃないかと思った。なのに可笑しい。私は行けなかった。 何故かと言われたら、だ。 「ねぇ、」 声を掛けた。 「…何だ」 不細工?不格好?な声が反芻して溶けた。 「月に行こうよ」 「愚問だな。」 鼻で笑われたからだった。
もう一度会えるのならば
要らない、要らない、要らない。……そう思って居た。居た、筈なのに。 「……離して」 雑音混じりに声が反芻する声。声の正体は幼馴染である。その声は雑音混じりに反芻しては泡沫のように消えゆく。消えゆく声を、音を聞きながら。か細く、言う。 「……離れないから、離して」 嫌な感覚。温もり何て知らない。見えない。生温い関係は嫌いではないが、好きでもない。唯、一つ。言える事があるとするのならば。『分からない』と言う事だけだ。 「……本当。だから離して」 離して。 『離さないで』 その日は雨が降っていた。分からなかった。何故、震えているのか。分からなかった。何故、嗚咽が漏れていたのか。分からなかった。何故、応えてくれなかったのか。分からなかった。 否、分かりたくなかったのかも知れない。受け入れたくなかった。受け入れてしまえば心が堪えられず、壊れてしまう事を知っていたから。だから受け入れずに来てしまった。なのに、おかしいと思った。常識を逸脱している。確かに私はそう思った。そう、私は受け入れずに来てしまったのに。いつの間にか『貴女』は私の心に寄り添ってくれていた。 「………嘘、離れないで。このままで居て」 だから今度は私が貴方に寄り添えたら良い。そう願いながら。私は今日を過ごそうと貴方の体を抱き締め返すのだった。 あの日を境に少女は笑わなくなった。 そして蝋人形の如く、無表情で居る事が多くなった。しかし、初めから笑わなくなった訳ではない。それは少女が今の学園に来る、少し前の話。そして少女──菊地沙智子がまだ『感情』を持っていた頃の話である。 「……甘い物、食べに行きたい」 沙智子は後ろを向きながら、ぼそりと呟いた。後ろに誰も居らず否、ひとつの影が揺らめきを見せた。 「甘い物……か。喫茶店にでも行くかい?そうしたら」 ひとつの影──沙智子と同じくらいの背格好をした──男子生徒が言う。沙智子は躊躇いがちにけれども意思を持って応えた。 「……行く」 男子生徒──芹澤瑛は沙智子の手をしっかりと握り締めながら学校を出て、街中を歩いていた。だが、そう簡単に、易々と周りの者が沙智子と瑛を見過ごす訳がなかったのである。 「ちょっと君達、良いかな」 一人の警官が瑛を引き止めたからだ。瑛は沙智子の手を握り締めながら「はい」と一言、告げた。 「君達、学生だよね」 警官が言う。瑛は黙考し、視線を彷徨わせる。そして数秒後、応えるのだった。 「そうだとしたら、どうするつもり何ですか」 「それは学校に連絡す──あっ!」 警官が応えるよりも早く、瑛は沙智子の手を先刻よりも強く握り締め、走り出した。後ろから警官の引き留めようと応援を要請する声が反芻するが瑛の耳には届いていなかった。二人は無我夢中で駆けた。それはもう周りの景色など見えぬかのように。駆けた。そうして辿り着いたのか、顔を上げた。 「着いたよ。瑛……?」 瑛へ嬉しそうに、けれども。照れているかのような雰囲気で告げる沙智子。だが、その声は嬉しさよりも切羽詰まったような声へと変わってゆく。 「瑛っ!」 沙智子は声を張り上げ、瑛の名を呼んだ。 瑛は──。 「……沙智は、心配性だなぁ。…大丈夫だから。そんな声を出さないでくれ」 笑っていた。 「心配、するよ」 沙智子は唇を噛み、言った。『心配』する──と。そんな沙智子を見つめながら瑛はか細い声で。 「……とりあえず入店しようか」 笑いながら言ったのである。 二人は見晴らしの良い窓際に座る事にした。向かい合わせではない座り方で座る。所謂、『相席』と言う奴だった。沙智子は瑛の様子を不安げに眺めながら隣に座る。勿論、瑛の心配をしながら。 「瑛……」 沙智子は尚も不安げに瑛を眺めていた。瑛の額から一粒の滴が滑りゆく。すると予期して居たのか定かではないが、店員が水を持って来たのである。沙智子は机に水が置かれるのを見つめながら。少しだけ安心していた。沙智子は瑛の額をハンカチで優しく拭ってやりながら、来た水を勧めた。瑛は震える手で傍にあった鞄を開き、箱を取り出した。中には様々な薬が収納されていたが瑛は迷う事なく、口に入れ。冷たい水で流し込んだ。暫くすると、瑛の顔色は良くなっていった。それは鈍い沙智子でも目に見て取れる程に。 「……ごめん、沙智。ごめん」 良くなったと同時に瑛は頭を垂れた。沙智子は弱々しく首を振ると幼子を宥める母親のような口調で応えた。 「瑛は悪くない。…だから、大丈夫」 「……君はそう言うけれどね、僕は良くないんだよ」 本当に。そう独り呟く瑛の横顔は。寂しそうであり、沙智子の方からは見えなかった。 「……君の彼氏なのに情けないと思っているのだから」 瑛は不服そうに唇を噛み、再び水を飲んだ。沙智子はそんな瑛の話を黙って聞いていた。 「駄目だね。僕の悪い癖だ。忘れてくれ。……沙智?」 否、黙って聞いて居るだけではなかった。沙智子は聞きながら泣いていたのだ。瑛は困惑する。困惑するもすぐ様。ハンカチで涙を拭ってやり、背を叩いてやろうとした刹那。沙智子が声を上げた。 「助けて貰っているのは、私の方なのに」 唇を噛みながら。 「瑛はいつまで抱え込むつもりなの…?私、は」 あなたまで失いたくはない。 沙智子の言葉を聞いた瑛は微かに口角を上げるも真剣な表情で言うのであった。 「あれは…沙智の、君の所為じゃない。」 沙智子は狼狽えていた。だが、平然を装い、言葉を紡ぐのだった。 「私の所為だよ」 沙智子の解答に瑛は間髪入れずに続ける。 「違う。あれは傍に居た会長が倒れただけだ。」 瑛の言っている事に間違いや嘘偽りなどは一切としてない。それでも沙智子は腑に落ちないのか瑛の瞳を見据えていた。瑛はそっと視線を逸らしながら、器用に言葉を並べゆく。まるで踊り子がそこに居るかのように。 「だから……沙智が気に留める事ではないんだ。……ねぇ、沙智は言葉が好きだったりするかい…?」 脈絡のない話。それは沙智子にとって、無下に等しい。そう言っても過言ではない。感想を抱くのも面倒だった。そう言う話の類だったから、尚更「面倒」だと沙智子は感じていた。 言葉と言う弾丸は器用に、且つ正確に己の核──心臓を穿つ。 「そんな事、どうでも…!」 沙智子は言う。そんな話、どうでも良いのだ。そう、入店する前に瑛の名を呼んだ時と同じように。 だが、瑛は止める事を知らぬかの如く、鋭利な眼差しで返すのだった。 「良くはないんだ。聞いてくれ、沙智。僕に残された時間は少ないんだよ。」 瑛の言葉と言う弾丸がまたしても沙智子の心を正確且つ、器用に穿ってゆく。沙智子は己の喉が渇きを発している事に気付きながらも、口を開こうと足掻いた。だが、ついで出た言葉は余りにも弱々しく同時に頼りない言葉だったのだ。 「な、何でそんな事……」 沙智子が反論しようとした刹那。瑛の体内時計が無慈悲なまでに鳴り響いた。 瑛は照れたように微笑むとか細い声で言うのだった。それはまるで心の底から望んでいた事のように。 「……注文しようか、沙智。折角来たのに、注文しないと言うのはお店の人に失礼だからね」 二人が入店してから既に一時間が経過していた。日はゆっくりと傾き始めていた。誰も何も言わぬ、そこには二人だけの『時』が確かに在った。 だが、沙智子は言い足りなかったお陰もあり、口をへの字にしながら瑛に問おうと息巻いていた。しかし、肝心の瑛は空腹に勝てぬのか。はたまた沙智子の話を聞きたくないのか。メニュー表の虜になっていた。沙智子は口と同時に眉もへの字にさせながら。己はどのスイーツを食べようかメニューに目を移す。 映しながら沙智子は時機を見計らっていた。見計らっていた沙智子だったが。 我慢の限界…否、堪忍袋の緒が切れたのか、気付けば瑛に問うていた。 「…さっきの質問の意味が知りたいな、瑛」 瑛は少し目を細めながら。 「冗談に決まっているだろう?」 独り言ちる。矢張り納得の行かぬ沙智子を目の前に瑛は飄々としながら、述べる。 「沙智が嫌でなければ詩を、否」 瑛は水を仰ごうとするも止め。 「歌詞を紡いで見ないかと思っただけなのさ」 何て矢張り変わることなく、飄々としながら。 沙智子は戸惑っているのか。忙しなく視線を彷徨わせ、呆然としていた。当たり前である。何せ、急な展開に脳髄が追い付いていないのだから。 瑛は呆然としている沙智子を他所に再び、メニューを見据える。そしてか細い声で言ったのだ。 「僕は『くまちゃんパンケーキ』にするけれど沙智は?」 無論、今の沙智子に正常な判断が出来ない──かのように思われた。 「……私は『うさちゃん生クリームパフェ』にしようかな…」 ぽつりと零した沙智子の声を瑛は聞き逃さずに店員へと伝えた。そうして話は先刻へと戻る。 「……普通、作詞は男性なら男性、女性なら女性の歌詞を書く事が一般とされているけれど、逆に宛てて書いて見ても良いと思うんだ、僕は」 何て、一呼吸で言い切り。本日何杯目かの水を仰ぐ瑛。 沙智子は呆然としたまま、それでも何とか脳を稼働させようと、瑛の言葉を理解しようと必至になっていた。瑛は必至になっている沙智子を優しげに眺め、手を髪へと移す。気付いた沙智子が声を上げると微笑んで謝罪し、もう一度と──何て攻防を敷いている内に、だった。店員が二人を温かい視線で見守りながら目当ての物を運んで来たのである。 「……来たよ、沙智」 「……来たね、瑛」 二人は前を向き、同じ時機で口へと運び入れた。 「……美味しいや、頗る」 「……美味しい」 じっと瑛の甘味物を覗き込む沙智子。沙智子の目には美味しく映っているようだった。瑛は小さく、けれども沙智子に聞こえぬように笑うと。パンケーキを切り分け、沙智子に訊ねたのだった。 「沙智、食べるかい?」 それはある意味、沙智子にとっては──否、異性であり、意中の者であるのならば尚更の事。無視などと言う陳腐な態度を執るのは失礼すぎる。と思いながら、ひとつ頷くも中々、口を開けようとはしなかった。 「……沙智、口を開けてくれないかい?」 瑛は試すような口振りで沙智子に訊ねる。沙智子はこれから何が起こるのか。思考を回した。そして気付くのだ。瑛は己を試しているのだ、と。故に羞恥に塗れていようがいまいが、拒否権など皆無であるのだ、と。沙智子の視線がゆらゆらと揺れ、瑛を捉える。瑛は熱帯びたような沙智子の瞳を見据えながら、切り分けたパンケーキを沙智子の口へと運んだ。 沙智子は──。 ──美味しそうに咀嚼していた。幸せに満ちながら。瑛は改めて沙智子の様子を見て感じるのだった。感じながらパンケーキを口に含み、咀嚼する。適宜な甘さが鼻腔と腹を満たしゆくのを堪能するかの如く咀嚼し続けた後。二人の時は止まった。正確には止まったのではなかった。この場合は『凍てついた』と言う表現が適切だったからだ。沙智子の口腔には甘い風味が広がり、周囲の客からは厳かな歓声が湧き上がる。誰が予期していただろうか。沙智子は目を見開き、頬を微かに紅潮させながら瑛を見た。見てから息を呑む。 「……ご馳走様、美味しかったよ」 瑛の頬も僅かに紅くなっていたからである。だが、瑛は済ました顔で沙智子を見据え、零すのだった。 「沙智、作詞の件は了承してくれるかい?」 曇りなき眼で瑛は沙智子に問うた。 「……瑛も書くのなら。」 沙智子はどこか迷っているようだった。だが、瑛の曇りなき眼に圧され。 『瑛も書くのなら』 思わず首を振ってしまったのである。 「勿論、書くに決まっているだろう?」 瑛は窓の外を眺めつつ、言った。手には筆記具──黒く光る──万年筆を持ちながら。器用にも窓の外を眺めつつ、書き記していく。 「二週間後のこの時間、いつもの所で待ち合わせよう。……何か不備があれば連絡する事。良いかい?」 「……大丈夫」 書き記した紙を沙智子は微笑みながら見つめていた。沙智子とは対照的に瑛の表情は浮かないような感じだった。それから、その約束が果たされる事はなかった。何故なら瑛が。亡くなってしまったからだ。 「……な、んで……?」 寒い、寒い、寒い。急激に冷えてゆく体に脳が追い付ける筈もなく。立ち竦み、座り込んでしまう。ぺたん、と可愛いなどとは言い難い格好で座り込み、下を向く。周囲の人の視線が痛い。否、そんな事はどうでも良い。心が痛い。叫びたい。けれど、叫べないのがもどかしく、悔しい。手を、差し伸べられなかった事が何よりも悔しくて。 「瑛……」 独り揺蕩うかのように噎せる。嗚呼、そうだ。いつも私がむせたら声を掛け、背を撫でてくれるのに。居ない。その事実が嫌と言う程に突きつけてくる。雨が降る。器用に合わせられた両手に、閉じきっている瞼。全てに雫が降り注いでゆく。 「…嫌。嫌、だよ…ねぇ…」 目を開けて。お願いだから。何て届くことの無い祈り。祈りは高く清くあるべきだ。分かっている。信じている。けれど駄目だと思った。『貴方』が居ない世界なんて。 友人だと思っていた『貴方』 「綺麗な物が好きなんだ」微笑んで言った『貴方』 『君の傷痕に気付かない僕は愚か者なのかも知れないね、否。僕は偽善者なのかも知れない』 どこか遠くを見据え、恐る恐る私の手を握ってくれた『貴方』 貴方の言葉に、温もりに私の心は弾んでいった。好きだと思った。互いに分かり合えたと思った。だから伝えた。間違いではなかったと思いたかった。出逢えた事は奇跡である。そんなふうに、貴方のように思いたかった。貴方の居ない世界何て。祈りの届かない世界なんて。 『──だから言ったでしょう?』 聴こえる筈のない、声。 『これから起こる事は変えようのない事だって』 熱の籠っていない声が告げる。 「……なら、変わると信じている私は、愚かだと貴女は言いたいの…?」 『……どうかしら。少なくともあの頃の貴女では考えられない事ね。けれど──』 声は区切りを付けた刹那、一陣の風が吹き荒れる。 「!」 気付くと沙智子の目の前には変哲のない、屋上から見える景色が映っていた。 「貴女が償うべき罪は数え切れない程あるわ」 映っていたのは景色だけではない。少女も映っていたのだ。 「──ようこそ。菊地沙智子。……ここで話すのは何度目かしら。矢張り、私にはどうでも良いけれど」 少女は言う。どうでも良いと。だが。鋭利な視線で沙智子を見据える姿はどこか、焦がれている様にも見て取れるのだった。少女の物憂いた視線は沙智子を美事なまでに射抜いていた。そして少女──時乃鈴は変わらぬ声で告げる。 「貴女はいつまで留まり続けて…違うわね。迷っているのかしら」 沙智子に向けて、『いつまで留まり続けている』のかと。 「貴女に残された選択肢は二択だと私は言った筈。……それなのに何を迷う必要があると言うの?」 鈴の言葉に沙智子は何と答えるべきなのか、迷っていた。限りなく迷っていた。風はまだ、止みそうにない。だが、止みそうになくとも沙智子が諦める理由には至らないのである。 「私、は」 「私は、…何?」 「私は瑛を救いたい」 「……なら踠くと良いわ。──時の中で。……ね」 刹那、沙智子の体はしゃぼん玉のような物に包まれた。その様を見ていた鈴は口の中で何かを呟いた。 沙智子の意識は覚醒しようとしていた。そんな中、誰かの気配を感じた。覗き込まれているような、そんな気配を。優しくも慈愛に満ちた声が、新雪の様に降り注ぐ。私はこの『声』の正体を知っている。沙智子は確信していた。否、知り過ぎていると。 「……良く眠れている様だね」 『声』の正体を忘れる筈がない。忘れたくても忘れられない、声なのだから。 「……お早う、瑛…」 「!……嗚呼、お早う。沙智」 沙智子は声を上げる。お早うと。沙智子の挨拶に瑛は何故か、頬を紅く染めながら返す。 沙智子は怪訝そうに眉をひそめながらゆっくりと瑛に対して問うた。 「大丈夫…?痛い…?」 沙智子の問いに対し、瑛は。 「否。痛くはないさ。大丈夫だけれど……もう少し、君は危機感と言う物を持ってくれないかい…?」 更に紅くなりながら「大丈夫」と返すのだった。 「何──…!」 何。そう返そうとした刹那、温もりが訪れたのは。錯覚ではなく、現実であると沙智子は理解していた。 「……他の奴に笑み何て向けないでくれ。頼むから」 瑛のか細い声が鼓膜へと響く。それが又、擽ったくて沙智子は身を捩らせた。 「む、向けないから……離して?」 だが、瑛が沙智子を離す筈がなかった。きつく、それも逃がさぬと言う風に抱き締め続けた。だが、それは唯の杞憂でしかならない。瑛の口から呻き声が小さく聞こえ始めたからだ。沙智子は介抱したいと切に思った。しかし、今の自分の現状を把握するのに差程、時間は掛からなかった。そう。今、己は瑛にきつく、抱き締められ続けていると。だが、何かが可笑しい。不審に思い沙智子は瑛の方を見やる。瑛は堪えていた。額に汗を浮かべながら、必至に。 『離して』 そう声を出した。だが、瑛には届いていない。喘鳴に近い音が心臓の深い所まで染み渡ってゆく。やがて音は止み、腕の中で静かに佇んでいった。沙智子の瞳から雫が舞い落ちる。落ちたと同時に引き戻された。気付けば、再び鈴と対峙している己が居ることに戸惑いを隠せないでいた。 「……ど、して……」 沙智子の口から掠れた声がついで出る。鈴は沙智子の方を向くことなく、呟いた。 「私は言った筈よ。『時の中で踠くと良い』と」 鈴の言葉に沙智子は脳震盪のような衝撃を受ける。嫌な汗が頬を伝い、手が痺れを成してゆく。何を言えば良いのか分からなかった。だが、言わず終いでは呑まれてしまうことを悉知していた。沙智子の口唇から細く、紡がれる。 「貴女は何が、したいの…?」 沙智子の問いに鈴が答える事はなかった。代わりにと言うように視線を手元へと移した。忘れず筈もない、忘れようがない、その手帳に。沙智子の口唇は震える。鈴に歩み寄ろうとした。だが、再び風が吹き荒れる。 ──もう何度繰り返したか。分からない。分かりたくもない。叫んでも声は届かない。沙智子の心は確実に磨り減っていた。咳も嗚咽も止まらない。どうしたら瑛を救うことが出来るのか。分からない。だからこそ、踠いていると言うのに。 「瑛……っ!」 『救えない』。 救いたい、のに。肝心な所で手が、届かない。思考が歪み行っている所為か考えられない。けれど、それでも。沙智子の中には救わない何て選択肢がある筈もなく。どうにかして、向き合おうとするのである。そうして沙智子が次に瑛に出会ったのは、あの場所──交差点だった。沙智子は瑛の姿がないか視線を彷徨わせる。人通りが多い、交差点で。たった一人。そう、たった一人でも良い。そう心に刻みながら、捜し続ける。何が遭っても、助けたい。その気持ちだけが今の沙智子を動かす原動力となっていた。そうして、ついに待ち焦がれていた瑛が音もなく、顕れた。だが、その瑛の様子がおかしい。否、おかしすぎると言っても良かった。何せ、足元が覚束ず、交差点の真ん中で佇んでいたからだ。通行人が瑛に忙しなく、危ないと告げる。だが、矢張り瑛には届いていない。それを傍観していた沙智子の脳が告げていた。今度こそ助けなければ、もう後がないかもしれないと。故に沙智子が執った行動は一つだった。 「瑛っ!」 ドンと鈍く、弾ける音が響いた。覚束ないと思っていた瑛の体が僅かに揺れる。 「さ、ち……?」 瑛の澄んだ瞳が罅割れてゆく。何が起きた。その瞳は目の前の現実が受け入れずにいた。軋む体を律し、紅が広がる泉へと身を浸そうと瑛は藻掻き、沙智子の体を抱き締める。抱き締めると同時に痛みが広がって行くのが分かる。 (嗚呼、もうここで終いなのだろうか──。) そう瑛は沙智子を離さまいと強く抱き締め続け、思いながら。意識を遮断した。 白く暖かい光が仄かに煌めく。此処はどこだろうと。沙智子はぼんやりとしながら、天井を見つめていた。どうやら助かったらしい。だが、安心するのはまだ早かった事を沙智子はしらない。何故なら、己の罪の象徴である少女の姿があったからだ。沙智子の顔が暗く、引き攣ってゆく。息が出来ない。それは瑛を救えなかった時とは違う種の辛さ。少女は何も言わない──かのように思われた。 『沙智子ちゃん、元気にしてた?』 少女は鈴が転がるような声で言う。元気にしていたかと。だが、沙智子は答えない。否、正確には答えられないと言った方が正しかった。いたたまれない。怖い。気持ち悪い。見れない。何よりもその感情が凄かった。少女は沙智子に気を遣いながらもゆっくりと続ける。 『……お姉ちゃんがごめんね』 少女の言葉に漸く、顔を上げた。お姉ちゃん。その顔には困惑と言う紙が貼られている。 「お姉ちゃん──?」 沙智子が誰に言うでもなく、呟いた。そう誰に言うでもなく、呟いた筈だった。 「茉莉は私の双子の妹よ」 いつからそこに居たのか分からない、鈴が言った。少女は妹だと。沙智子の頭が疑問符で埋め尽くされる。理解が及ばない。しかし、理解が及ばない──奇跡が起こる事を沙智子が知るのはこの後だった。沙智子は茫然としながらも隣に誰かが居ることに気付く。格好からして男性だろうか。そう沙智子が心の中で思った矢先、鈴が隣のカーテンを躊躇なく引いた。そこに居たのは──。 「沙智」 まだ顔が蒼白いが微かに微笑む、瑛だった。沙智子の喉から不規則な音が漏れるも、咄嗟に呑み込む。 「沙智」 もう一度、呼ばれる。澄んだ瞳が己を蝕みゆく。この時ばかりは、要らない。言葉なんて要らない。そう強く願い、沙智子は。 「瑛」 呟き返すも声が上ずっていないか不安で、下を向いてしまう。だがそれも無に帰した。 「沙智、ありがとう。僕を助けてくれて」 瑛の声に、言葉に。沙智子の心は震え、泣いていた。 「助けて、何て」 「助けてくれたさ、何度も。だからありがとう」 「……私の方こそ、ありが……っ」 沙智子は声を上げて泣いた。道に迷った稚児の如く。泣いて泣いて泣きじゃくった。瑛も鈴も少女も誰も何も言わなかった。唯、沙智子の声だけが病室に響いていた。 ──程なくして沙智子は瑛の腕の中に収まりながら、黙って鈴の話に耳を傾けていた。 「まずは謝らせて頂戴。菊地沙智子。私は貴女が彼をどう助けるのかを知りたくて今回、遡行して貰ったわ」 「!?」 鈴が言った言葉に沙智子の顔が強ばった。それと同時に瑛の腕を強く掴んでしまう。瑛は少しだけ顔を顰めながらも沙智子の髪を撫でる。落ち着くようにと呪いを込めて。鈴は沙智子の様子を見ながら続けた。 「あの手帳の通りに進むのか、それとも違う未来を進んで行くのか──それが知りたかった。いえ、知らなくてはならなかったの」 段々と鈴の言葉に重みが相まってゆく。沙智子は矢張り顔を強ばらせながら、聞いていた。 「……けれどこれで見納めね。沙智子、今まで悪かったわ。この借りは必ず返すから。だから貴女は彼と幸せになりなさい。それがお姉ちゃ……茉莉との約束でもあるから、だから良いわね」 鈴の顔が夕陽のように紅くなってゆく。沙智子はそんな鈴の態度を見て笑った。皆、沙智子に釣られて笑った。穏やかで優しい風が四人の間を過ぎて言った。ふと、鈴が窓の外を見上げた。沙智子も鈴が向いている方を見上げた。そこには沙智子や鈴よりも上の年齢であろう、青年達が静かに、けれども優しげな雰囲気を纏いながら見下ろしていた。青年達は沙智子と鈴の顔を慈しむように見つめると、そっと零した。 『契りを守ってくれてありがとう、僕らの愛しい子孫達。幸せになるんだよ』 沙智子と鈴は青年達の言葉を固唾を呑んで聞いた。そして彼等が消え行くその時まで見守るのだった。 時は流れゆく。いつだって僕らを置いて。静かに、けれども優美に。流れゆく。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。その中で僕らは──沙智子と瑛は。契りを交わしたのだった。
140文字の世界② その後
明日、世界が終わるとしたら。僕は君の手を引き、遠くへと行きたい。だってそうすれば。 「君は居なくならずに済むだろう……?」 口唇が震える。それを僕は気の所為だと捉え、前を見据えた。君は何も言わなかった。 「……こんなにも愛おしいと思ったのは。」 僕は。 「君を、」 世界が本当に終わるのなら。僕は何をするのだろう。分からない。分からないからこそ、君に訊ねたのだ。 『居なくなる』 その事実を受け止めるには些か遅すぎた。時は流転する。 いつだって僕を置いて。 君だけが居なくなる。 この世界から。 君だけが。 何て無慈悲なのだろう。 神様は居ない。 霊は見えても。 神様は居ないのだ。 居ると思えば居るのだろう。 けれど、僕は祈ることを止めた。 それは世界と君が終わるかも知れないと思ったから。 「君を、……君だからなのかも知れない。別れの言葉は言わない。僕にも僕なりの矜恃があるから」 だから行ってしまえ。 世界が終わるその前に。 僕の世界に君は居ない。 君の世界にも僕は居ない。 唯、あるのはひとひらの花と愛だけ。 それだけ。 太陽の光が 届かない程 暗き水底で 誰よりも君を想ふ。
140文字の世界 ②
明日、世界が終わるとしたら。 僕は君の手を引き、遠くへと行きたい。 だってそうすれば。 「君は居なくならずに済むだろう……?」 口唇が震える。 それを僕は、気の所為だと捉え。 前を見据えた。 君は何も、言わなかった。 「……こんなにも愛おしいと思ったのは。」 僕は。 「君を、」
140文字の世界
別に良いじゃあないか。僕は僕、君は君で。何て言えやしなかった。言えやしなかったんだ。 どうしてだろうね? どうして、言えやしなかったんだろうね……? 僕のせいなのだろうか。 それとも君の所為なのだろうか。 嗚呼、嗚呼! 「思考が、覚束ない」 独りごちた。 何の脈絡もなくごちた。
煙草
薄暗い部屋だった。否、正確には部屋であった。その部屋の中で影が揺らめきを見せていた。影は女の形をしていた。女は疲弊した様子で部屋の中央に立っていた。だが、立っていたかと思えば、かくんと膝が折れたのである。女は歪みゆく景色を見据えながら。 思い出していた。女、緋鷺結は軽快な足取り……否、重い足取りで木漏れ日の中を通り、病院へと向かう。病院内は閑静と言うより、厳かな雰囲気で満ちていた。満ちていた空気を露とも思わず、結は目的の病室へと入ってゆく。そして言うのだった。 「病室では吸わない約束だったよね。」 葉巻に火を付け、吸う男に。男はにっこりと微笑むと返した。それは所謂、営業スマイルと言う奴だった。否、もしかしたら心からの笑顔だったのかも知れない。だがしかし、今の結には判断が上手く付かずにいた。何故なら、沸点が頂点へと達するのが早かったからだ。 「結、人間と言う生き物はね。口元が侘しいとその侘しさを埋めようとする生き物なんだ」 男、緋鷺悠は露ともせずに言い、再び笑うと。結を手招きするのだった。結は不審がりながらも悠の傍へ、椅子へと腰掛けた。だが、それは虚しくも。ほんの一瞬の出来事に過ぎなかった。 「……本っ当、最低…!」 「最低と言っている割には嬉しそうだけれど?」 流れゆく、結の髪を掬いながら悠は飄々と告げる。そう。まるで『怒り』と言う感情を愉しんでいるかの様に。 「…『好き』の間違いだろう?結」 悠の言葉に結は口を噤むしかない、そう思っていたのが間違いだった事を痛感したのは。数秒が経過してからの事であった。 「君が最低と言う時は大抵が気分が高揚し掛けている時だからね」 さっき同様、笑みを讃え言う姿に結は既視感を覚えた。確か前にもこんな場面があったようなと。だが、そんな物に耽っている場合ではなかった。言い終えた後、悠がひとつ、咳き込んだからだ。 「悠…苦しいのに、ごめんね。けど、もう少しだけ耐えて。医師が来るまで。それまでは私が傍に居るから」 悠の体躯は留まることのない、波のように押し寄せては弾み行った。結は血相を変え、背を擦り出す。そして同時に擦りながら懺悔していた。咳き込ませてしまったのは己の所為なのだと。その数分後。慌ただしく来た看護師達により、悠は治療室と運ばれて行く。結は病室の外で待つように言われた。結は脱力した体を否が応でも動かし、長椅子に腰掛けた。そして浮かない表情否。悠の容態が落ち着くのを唯、唯々。両手を握りしめ、祈っていた。程なくして。生気に満ちた様子で悠は戻って来た。 「今回ばかりは生きた心地がしなかったなぁ」 カラカラと嗤いながら言う。生きた心地がしなかったのは結の方だと言う事を本人はしらない。 「……当、……底」 「何だって?」 今し方気付いたかの様な口調で問う。悠の言葉を聞いた結は唇を噛み、息を吸い込んで言うのだった。 「……本っ当、最低…!何が『今回ばかりは生きた心地がしなかったなぁ』よ…!生きた心地がしなかったのは私の方なのに…何で!何…で……」 心が締め付けられている事に気付かない振りをしながら、結は言い続ける。結の言葉を静かに聞いていた。だが躊躇っているのか、瞳が揺らめく。それでも伝えなければと悠は紡ぎ続けるのだった。 「何でそんな事が言えるか……それは」 それから春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が巡った。深々と積もりゆく、白銀の中。結と悠は。 「結、緋鷺君、結婚おめでとう!」 祝福の渦に包まれていた。まるで我が子を見守る様に中央を共に歩く二人を誰もが慈愛に満ちた顔で眺めていた。そして今、天は二人を更なる祝福へと導かんと蠢く。 「それでは誓いのキスを」 神父は右手をかざし、言う。結は高鳴る鼓動を抑えながら瞼を閉じた。 「……結、僕と契りを交わしてくれてありがとう」 優しい愛が訪れたのは。瞼を閉じてから数分が経過した頃であった。やがて離れゆく愛に結は少し、物足りなさと名残惜しさを感じつつ首を降り、答えた。 「私の方こそ色々、言ってしまってごめん。……私と結婚してくれてありがとう」 とめどなく流れ出る雫を拭いながら。そうして拭っていたお陰で気付けなかった事が、後に己を追い込んでしまう事を結は知らない。否、この場合。知らない方が良い……幸せに浸れるだろう。 「君だから良いのさ、僕は。僕の方こそ本当に、ありがとう」 そして不幸な事に。天が祝福へと蠢いたのは二人を導く為ではなく、一種の呪いへと誘う為だった。 「……結に出逢えて本当に良かったと思っているから」 そしてその呪いは今まさに、悠を届かぬ所へ連れて行こうとしていた。 だから一足先に、僕はいってしまうけれど。 結には悠が微かに微笑んだ後で、そう呟いたような気がした。 「…………痛い」 どうやら知らぬ間に眠っていたらしい。金槌で打たれたような痛みに顔を歪ながら、立ち上がろうと藻掻く。そうして立ち上がった途端、気付いてしまう。床に伏した時、それが転がっていたことに。 「……」 おもむろに取り、火を付けた。ふわっとした匂いに嘲笑うかのような煙が結を包んでゆく。何度も咳き込みながら、それでも吸い続けた。吸い続けながら、再び思い出していた。 『思ったんだけれど。悠、暇を見付けると吸ってるじゃない?私が見てない所で吸うのがそんなに美味しいの?』 結は訊ねた。美味しいのかと。 『前にも言ったけれど美味しいと言うより、口元が侘しいから吸うのだけれど…美味しいか否かで問われたのならば解答は前者だね』 悠は口唇に人差し指を宛てがいながら返す。思ったよりもつまらないな。と結は聞いていて思うのだった。 『ふぅん』 『……今、面白くないと思ったろう?結』 悠の一言を聞いた結の顔色が仄かに変わる。それを悠が見逃す訳がなかった。結は吃りながら言った。 『私より煙草の方が好きなのかと錯覚してしまうわ』 だが、その解答が愚かであったことを結はしらない。 『愚問だなぁ…僕は結しか好きじゃないよ』 『本当?』 『本当だよ。……いつか結も煙草の美味しさが分かる時が来るさ。それと美味しさが分かったら並んで吸おう。あの日のように』 悠は言った。いつか煙草の美味しさが分かる時が来ると。ならば、その『いつか』は今ではないのか。尚も咳き込みながら、吸い続ける。吸いながら目線を下へと下げれば、穏やかな表情で笑う悠と目が合った。結は悠が居るかのような錯覚に視界が滲んでゆくのを堪えながら、零した。 「……やっと分かったよ、悠。美味しくないって言ったのは、貴方への当て付けだったのかも知れない」 結はそう呟きながら、最後の一本を慈しむように吸うと、灰皿に投げ捨てた。 「……大好き」 結はか細い声で無くなってゆく煙草を見つめながら言う。 居たかったのは。何故だろうと。結は思いつつ、言葉に出してみる。 「謝りたかったから」 嗚呼、そうだ。謝りたかったんだ。言いながら結は腑に落ちていた。言葉は止むことなく、溢れ出る。誰に言うでもなく。暖かな風が薄暗い部屋の中を駆け巡る。結は揺蕩い、手を広げた。 侘しがったのは。 「声が聞きたかったから」 声が聞きたくて何度も掛けた夜。居てくれたらと願っては踏みとどまっていた夜。結が紡ぐ度に風が呼応しているのか、吹き荒れてゆく。吹き荒れていても結は言うのを止めようとはしなかった。止めてしまえば、この風は止んでしまうと思ったから。 悔しかったのは。 「会えなくなる事を知っていたから」 嫌と言う位に聞いた、残酷で無慈悲なる事実。突き付けられる度に胸が傷んだ。風はまだ吹き荒れている。だが、結が最後に言った言葉で風が止んだ。 忘れたかったのは。 「思い出せば否が応でも捜してしまうから」 まるでそこに誰かが居るように。 「だから思い出さなかった。けれど、けれどね。思い出して良かったよ!ありがとう、悠。貴方に出逢えて本当に良かった。……愛してる」 もう結の目に雫はない。あるのはひとひらの花と笑み。それに大切な思い出たちだけだ。結は微笑んだまま、写真立てを机の上に置くと静かに扉を閉め、歩き出した。新たなる道へと進む為に。結が小さく、去ってゆく。手には悠が愛用していた煙草の箱を持って。写真立ての中に映っている悠が微かに笑ったような気がした。思い出は色褪せようとも消えない。何年、何十年が過ぎようとも。悠から教わったことを胸に今日を懸命に生きてゆく。
荊棘
この世界と言う箱庭の中で きみと出逢えたことを ぼくは忘れはしない。 きみの笑った顔が好きです。 だから笑っていて下さい。 それだけでぼくは 明日を生きて行けるから。 だから笑っていて下さい。 人間です。 ぼくもきみも。 明日も明後日もその次も 変わることのない約束。 惑うこともあるでしょう。 悲しいこともあるでしょう。 較べることもあるでしょう。 ぼくもきみも。 固執してはなりませぬ。 ぼくもきみも。 己の正しいと思う 道を歩めば良いのです。 惑うこともあるでしょう。 だから良いのです。 惑って良いのです。 人間の本質は惑うことです。 良いのです。 きみよ、惑って下さい。 「産まれて来てくれてありがとう」