愛染明王
21 件の小説自分語りにしては長すぎる
「私が小説を書き始めてもう四年になる。題名は伏せておくがサーフィー系統の物語では良い賞を貰って、次にエヴァンとクルルの外科手術の小説でも表彰された。然し過去一番の力作は評価されず、塵となって消えた。今では小説のデータもなく(而も手書き原稿用紙で廃棄物として処理されたのである)悲しみに暮れている。そもそも何処のアプリで小説を書いても評価されない。絵もそうだが一部の層にしか人気はない。生きる価値は微塵子以下だが自己満足はしている。だが読者の気持ちを考えてみると仕方ない。漢字を読むのが難しいのかもしれないし、もしかすると私の事が嫌いなだけかもしれない。それは多い。これまでいろんな女を誑かして遊んできたんだから恨みは端まで買っている。喧嘩は腐りかけだから半額で売り捌いてきた。友人の方が文下手じゃねと思っても人権作文で賞状を貰ってるから世間が大間違いしていると思う。私は何も悪くないし私の文章能力を否定する生物は例外なく、石に変わってしまえばいい。そして堆積して埋まれば良いのだ。謝るのも嫌いだし怒られても私は何にも悪くないです。常識が分からないんじゃない。常識そのものが間違ってるし、俺のしていることが違うのであれば認識と概念そのものが間違えているのです。宇宙は私中心に動いているはずですし、それは当たり前の話です。私が死んでしまえば宇宙は崩壊して銀河もパァンと砂みたいになっちゃえばいい。私は神です。宗教勧誘はお断り。私の説く教えは欲望に従って生きることです。周りに配慮をしながら欲を満たす。その為には知恵が必要なので人は学ぶと思います。色欲?どんどん発散しなさい。金銭欲?良いでしょう億万長者になりましょう。殺人欲はやめましょう。排便欲のある人は今すぐトイレへ行きましょう。仁義は大切です。我々の思っている範囲よりもっと広く使うことができますし、礼として非常に重要な鍵となります。さあこれを見ている暇な皆さんは外にでも出て風邪を引いてください。馬鹿ですねえ」こう言われたらすごくウザくないっすか? 俺だけ? いや自分の意見だけど割とウザいよね。けど自分の間違いは認めたくないし恥ずかしいから、相手を責める気持ちもわかる。嘘いっぱいついてきたし周りを馬鹿にしたこともあった。自分の無能さから目を背けて生きてきたんだ。だからこそ自己中になっていって視野が狭くなった。でも足元から上を見たら空の広さが良くわかる。井蛙不可以語於海者,拘於虛也;夏蟲不可以語於冰者,篤於時也曲士不可以語於道者,束於教也。と道理を解いた者が居るように言っている事そのままである。私はこの話通りだと井戸にいる蛙だ。確かに狭い中で生きてきて大海など知らないが、空の広さと井戸の深さはよく知っている。自分がどれだけ落ちぶれて小さな存在かわかる。それでも蛙は跳ねる。井戸から出たら大海があるかもしれないし水溜りや川があるかもしれないから這い上がるのだ。どんなに無知でどん底にいてもそこを抜けたら意外と広い世界があると思う。それに人生の半分を賭ける意味があるかもしれない。価値があるならそれは馬券を買うより良い事だ。競馬の馬なんてカーブで一気に列やら順が変わるんだから予想じゃわからないじゃないか。地道な努力ほど雨垂れ石を穿つように大きな力に変化していくと思う。競争とは全く別の自分の道に進む努力ならばほぼ無駄にならない。必需品は根性と金と友達だ。根性は周りに流されないように支えてくれる脊椎のようなもので、金は実現させる道具だ。そして友達は自分では解決できない悩みなどを打ち明けたり相談できる最高の宝だ。大体それらがあれば勝ち確だと思う。自分が自分に負けなければいい。でも友達に頼るべきだと思う。悩みや愚痴は全部吐いて良いだろう。申し訳ないとは思うが、それをしたくらいで離れるのは友達と呼べるのか曖昧だ。そういうのやめようねとかいう掟があるなら話は別だが、そんなのあるか?私は頼りまくるし頼られまくる。五時間も愚痴と惚れ話を聞かされて俺は数時間愚痴ってるんだからお互い様だと思う。このように割と限界まで頼ってる人は一部いる。学年には五万くらい借りて返すような奴もいる(金蔓で草)まぁ金の貸し借りは置いといて愚痴るとか相談は全然良いと思うしお互いそういう関係なら疲労も楽になるのではないだろうか。聞いてもらえるだけでも落ち着く奴がいるし。そんで根性は本人次第だから強く根を張って欲しい。樹木みたいに倒れず雨風に耐えて立って欲しい。金は汗流しで働いて作れば良いし学費なら親に頭を下げるしかない。ただ金については将来の自分を見据えてじっくりと考えてほしい。老後となれば孫とか周りにどれだけ金を残すとかも。まぁ金は後からでもどうにかなるが根性からだと思う。因みに私は小指を切るくらいの根性を持ちたいなという願望がある。指を落とすと痛いし、物を握る時には力が抜けるので相当な勇気がいるだろう。変な語りはそこそこにしておいて前半の気持ち悪い台詞は無しとして終わりましょう。さあ、明日は大晦日です。美味しいものをいっぱい食べて年を迎える準備を始めましょうか!
絵師
霧の濃淡に包まれる岩峰は白く、小雨に濡れた木を抱いて荒くも繊細に聳え立っている。神もうたた寝する早朝の崑崙山では開明獣が欠伸をしながら門番をしていた。虎模様に肉の垂れ下がった胴体に九つの小僧の頭が乗っている。そして鋭い爪で砂を掻いて砂埃を立てて周囲を睥睨しているのだ。私は恐れと神秘さに息を呑んだが、直ぐに太腿に力を入れて獣の眼の前まで堂々と歩いて行った。 「やれやれ」開明獣は私を見るなり溜息をついて首を振る。長い尻尾を畝らせると避けてくれた。そして古びて色褪せた門の扉が見える。 「通って良いのか。私は瑶池に用がある」 黄色い土の下に腰を下ろして落ち葉を弄った。今日は一段と尖った石が多い。開明獣は私の隣で膝肘を畳んで座り込んだ。十八個の眼が此方に向くと流石にゾォっと背筋が冷える。一人一人に名はあるのか。 「良いとも。然し蟠桃会は今日じゃ無いよ」 「いや。偶には此処の景色も書き留めておこうと思ったのだ」 見上げると霧で白いが建物が見える。屋根の美しさ、装飾の彫り物は人には出来ぬ技術である。細胞まで彫り上げたかのような花弁や蝶の翅とは比べ物にならない脆さ儚さ、此を一つの水墨画として仕上げねばならぬ。 「……今日は天気も良い。日の輪も一段と美しいだろう。きっとあそこに生えている梧桐に鳳凰が居るから挨拶してみると良い。酒があれば誘えたが」 私は肩に下げている瓢箪を片手にとって栓を抜いた。すると発酵した米麹の香りが薄らと漂う。開明獣は意外そうに瓢箪の中を覗き込むと、二度見してきた。私はそれを向けて「酒なら腐るほどある」と笑って見せる。獣は舌なめずりしてグイと九首を擡げた。 「どれ、一口頂くとしよう」 私は全員の唇に瓢箪口を当てて傾けた。獣は自分で呑めると言って瓢箪を取り上げると唇を濡らす程度だけ呑む。私は米を蒸して麹菌を振り掛けて育て上げた酒の味が気になって仕方が無かった。 「どうだ」焦って訊くと開明獣はニヤリと笑って「旨い」と頭を下げた。海の方から仙人を乗せた船がやって来るのを見て私は飛び上がると、直ぐに開明獣に礼をして門を通って行った。瓢箪の栓を戻すとまた掛けて、墨があったかなと思い出しつつ登ってゆく。すると梧桐が葉を抱いて腕を伸ばしている。上には鳳凰が五彩絢爛な翼を閉じて魚のような尾羽を垂らし、眼を細めて居た。鶏冠を立て緋色の飾り羽を首に巻いた姿を見ると圧巻である。見惚れていると蛇のような首を前に出して嘴を動かしてきた。 「景色を描きますか。崑崙山の?」 琴の弦を弾いたような声が鼓膜の中で鳴る。心臓が縮んだり緩まって血液を循環させた。血管の端々が緊張して固まっている気がする。落ち着く為に澄んだ空気を肺いっぱいに吸い上げた。 「はい。水墨画を描く為に遥々やって来ました」 「貴方は仙人を前に描きましたね」 長く細い味が見える。翼が音を立てて広がった。飛び立つのかと思えば二度羽ばたいて地面に片足をつけると眼の前まで歩いて来てくれた。すると鼻と嘴が接するくらい近づいて来る。 「鍾離権様の事ですか」 「ええ。何を思って描きましたか?」鋭い言葉に問い掛けるような口調。更に心臓が動く。胸を掻きむしりそうになった。ああ、良い答えが浮かんでも嘘を吐く気にはなれない。 「其の儘描きました。面白く腹と胸を出して髪を結び上げた仙人を」 「そして崑崙山も其の儘に描いてしまう?」 「……はい」言い返せず、答えた。鳳凰は言葉に迷うように地面の花を撫でるとまた顔を向けて二本近寄った。朱い毛と青い毛が交わって服の裾に当たる。陽に当たって煌めいていた。 「此の山には命があります。地面を触ってください。そして木の幹に触れてみてください。まるで蜘蛛の巣のように命の脈が広がっています」私は跪いて、まず土に手を乗せる。脈拍は感じないが雨の湿りと温もりを感じた。そして木に触れると生命の強さが弾力に表れて伝わる。雨や風に晒されても耐え抜いた根が地面に埋まって今でも伸び続けている。土は此の地を支える為に力一杯栄養を廻していた。 「その脈を、どう描くのですか」ポツンと吐き出すと、鳳凰は外方を向いて尾羽を広げると背を低くして羽ばたく。 「それを考えるのが絵を描くものの宿命ではないのですか?」 一言言い残すと高々と鳴いて世に朝を告げた。一斉に空の鶴や歩いている金鶏が声を上げる。いつの間にか紫に染まった雲を見上げて、私は頬を赤らめた。龍が蛇腹を畝らせ空を飛んでいる。四肢に焔を巻いて髭を靡かせて飛んでいた。角は枝分かれして尖り、朱い唇の端から牙を出している。鯉よりも枚数の多い鱗は黄金の艶を纏って、尾の飾りをひらつかせながら雲上を横断して行った。私はふと頭に景色が過ぎって、土を踏み駆ける。潔白な花からは芳香が漂い嗅覚を魅了して来るがお構いなく、森へ森へと突き進む。子鹿が水を飲んで顎毛を濡らす。母鹿は上手い飲み方を教えようと口を開いてゴクゴクと飲んだ。あら、次は泥がついている。それを見て青蛙が苔岩の上でクアッと欠伸をした。嘲笑かねと蟋蟀が尋ねると「呆れただけよ」と笑った。大きな亀の甲羅に乗って朱い紐を折り結んだ飾りをつけた少年が長い髪を風に靡かせて私を指差した。 「絵描き先生」 「ん?」振り向くと、少年の手には水晶がある。呆気に取られる私を見ると少年は可笑しそうに笑って、亀も口を開けてゲラゲラ笑っていた。よく見ると亀は髭を蓬蓬とさせて顔には皺があった。 「先生、果実があるよ」 水晶を撫でると薄紅色に膨らんだ蟠桃が出てきた。驚いているとパカッと割って差し出されたので一口齧る。美味だと伝えれば少年はキャッキャと笑い声を上げて大喜びした。 「西王母様に貰ったのかい?」齧った桃をまたガブリと行く。何をしても少年は面白そうにして、顔を真っ赤にしつつ腹を抱えた。 「絵描き先生が来るって教えてくれたから! 一番良い果実なんだよ」 「凄く美味しい。御礼にお酒があるけど開明獣に飲ませちゃったんだ、一口くらい」ほぼ減っていない瓢箪を持ち上げる。少年は首を傾げつつ小さな白い手で瓢箪の腹を撫でた。 「良いよ。それより先刻、白雉が鳴いてたよ」 「何と?」 「竹の実が実ったらしい。鳳凰に知らせてたんだ」 竹の実が実なんてなんて縁起が良いのだろうか。私は興奮して真っ赤になるのを感じながら「描いても良いだろうか」と訊いた。 「良いよ。描いたら見せて」少年がにんまりとする。私は挨拶をして亀に頭を下げた後、せっせと瑶池へ向かった。歩いていると飾りを身につけて背に香炉を乗せた鹿が通り掛かった。そして一礼するとだったと蹄を鳴らして駆けていく。その先には翠色の池が広がり、蓮の花から芳香が漂っている。神々を乗せる船は黄金を溶かして模様を作っているが軽々と浮かんで、波紋までに楽器らしい音がついて聞こえる。コレこそが……と感動して跪き、直ぐにと墨を用意して筆につけた。一つ残さず、生命の脈を感じて……染みる水、花の先までと神経を集中させる。墨の濃淡、筆の毛の向きを斜めにしてツウと真っ直ぐに引くと手が止まらなくなる。見える。網状の脈が。循環が。指先まで熱くなって到頭何も聞こえなくなった。景色、景色だけが描くごとに色彩豊かになり極彩色に生まれ変わる。金の雲よ、濃い霧よ、空を駆け巡る龍よ。竹の実を突く鳳凰よ……と感謝を告げていると鼻腔を桃の香りが包んだ。ふ、と手が止まり振り向くと天の衣を纏い髪を括り結んだ美女が立っていた。私は頭を深く下げて「西王母様」と言う。西王母様は微笑んで私の絵を見ると「美しいですね」と褒めた。 「まだまだです。未熟者ですよ」謙虚にしていると西王母様は私の瞳を覗き込んでまた笑う。奥には桃の実を孕んだ木々が茂っていた。 「自信があるように見えます。私は少なくとも良い絵だと思いますよ」 言い残して去ろうとした西王母様の背に私は思い出して声を上げた。 「あっ、待ってください。桃ありがとうございました。お酒あるので貰ってください」 瓢箪の栓を抜いて差し出すと、西王母様はゆっくりと戻って来て丁寧に酒を流し込んだ。唇の紅がもっと濃くなったかと思えば耳を薄紅色にされて嬉しそうに口許を隠す。 「ご馳走様でした。ふふ、美味しいお酒をありがとうございます」 また、微笑う。次は何度か振り返って帰りつつ桃の木の前に坐っている龍に自慢をしていた。龍には翼があって、それを大きく広げたりしながら私を見て一礼する。私も深々と礼を返した。そして絵を見ると何か足りない。思いついて桃の木と西王母様を描き出して波紋に陽の光を反射させると上出来になった。満足して紙を包み容器に入れると何だか興味が湧いて来て山奥に入りたくなった。桃の木が無い方面を歩いてみると獣の気配は一切しない。花が咲いて苔が岩を覆い、木の枝が分かれて垂れ下がっている。周りを歩いて一周しようと試みると澄んだ水が流れているのを見つけた。丁度良く座れそうな岩があったので腰掛けると水の流れている先には池のようなものがあって鯉が泳いでいる。何を思ったのかまた墨をつけて鯉を描くと、何も考えずに水の流れに紙を捨ててしまった。濡れて墨が滲んで行くのを眺めながらポカンとしていると紙は溶けて墨が黒い鯉に変化した。 「ワアッ」素っ頓狂な声を上げて岩から転げ落ちると、頭を打って痛くなる。茂みからシャランと蹄の音が聞こえた。ずっしりと構えた雄黄色の毛をした麒麟である。牛と鹿を掛け合わせたような堂々とした胴に虹色の背毛。顎からも髭を生やして巻き毛を流している。額から生えた角は真珠色の角が生えていた。短く毛の長い絢爛な尾を揺らしてやってくると私の眼の前で申し訳なさそうに水を飲んだ。 「こ、鯉が」震えながら助けを求めるように縋った。麒麟は落ち着いた様子で此方を一瞥して、鯉の泳いで行った池の方を眺める。眼は叡智を感じさせ何にも変えられぬ光があった。丸みを帯びて皮膚毛に包まれた角が此方を向いたと思えば頭を上げると弓形なので後ろを向く。そして水を飛び越えて長い毛を靡かせ飛んできた。 「画に命が宿れば動くだろう。細部まで拘り心が無になるまで真剣になった証拠じゃないか」と嬉々として告げて空中を蹄で蹴って飛んで行った。私の筆には紺の混じった墨がついて、乾かなくなっている。私は歩みを止めなかった。歩きながら素晴らしい稲穂のような竹の実を眺めて勝手に麒麟を描いては隣に鳳凰を描いて、と繰り返している。旅が終わる気がしない。コレには開明獣も大欠伸であろう。仙人と会っては描かせてもらい、果実を恵まれて齧り、もう数千年は此処に居る。崑崙山の全体を一発で隅々まで描けると自慢げになっていたあの頃の自分は何処だろうか。今となっては獣一頭を描くだけでも難しい。此の広い、物語の詰まった山をどう描こう。毎日それを考えては青雲の間から頭を出す月に問う。嗚呼、何を想うか、故郷の崑崙山に。
とある奥さんからの依頼 二
約束していた魚料理店前でスマホを弄りつつ待っていると、眼鏡を掛けた男がすぐ隣に来る。見覚えのある髪と眉に気を取られて思わず顔を向けると男はニヤニヤとして「ブルーフラワーさん?」と粘ついた声を出した。 「あっ……はい! もしかして森山、さん? イケメーン!」 飛び上がって喜んで見せる。此はハニートラップに弱いぞと思い肩を寄せてみると森山は乾いた唇を歪ませて笑っている。既に、眼が爛々としていた。 「此の店ほんと美味しいんで! 入っちゃいましょ」腕を組むと、店に引き摺り込む。木の扉を引いて開けると暖房の熱風に晒され、鰻の匂いがした。広々とある畳と木の柱があり、机の端には箸が置かれている。店員からお冷を貰ってメニュー表を見ると、香りの通り一番人気の鰻や鯛の料理があった。 「どれにしますう? 鰊は無いみたいですけど」母国でよく食べていた塩漬けも無いらしい。だが鮭はあった。森山はアルフィーの胸を凝視しつつ適当に頷く。 「うーん、悩むねえ。鰻にしちゃおっかな? ブルーフラワーさんはどれがいい?」 揺れている胸と会話しているのか目が一ミリも合わない。取れかけている気がして胸を触りつつ押し付けていると森山の目は細くなって頬肉で押し上げられニンマリとして来た。 「あー、なら鯛で! あと「さん」って付けなくて良いですよ」 「ブルーフラワーちゃん? じゃあブルーフラワーちゃんも僕の事森山って呼んで良いよ」 「森山君?」あざとく上目遣いした。昔、彼女に同じ仕草をされて騙された記憶がある。五万くらいの化粧品やらを買わされたと思えば電話で別れを告げられた。悲しい過去である。森山はまんまとそれに嵌って赤面した。縋りつくかと思えば照れ臭そうに笑って「そういえば」と切り出した。 「お酒って強い? 頼む?」乾いていた唇が濡れてきた。泡にも似たものが垂れ出ているのを見ると競馬終わりの馬が浮かぶ。色の薄い舌を出せば完璧だ。興奮気味の男を一瞥してメニュー表を遡ると酒の欄があった。 「あっ、そうそう。お酒ありますよ。弱いけど飲むの好きなので頼みましょ」 「ええ、弱いの? 強そうなのになー」 珈琲臭い息が近付いて熱を感じる。アルフィーは正座のまま後ろに下がるとお冷を一口だけ飲んだ。話しているだけで疲労が襲ってくる。咽喉を狭めて話しているからかキツイ。早く終わらせなければ……。店員に真鯛の刺身を頼むと電話が掛かったフリをして大急ぎで外に逃げた。 「はあー、本当に無理……。兄ちゃんから連絡来てないかな」 通知を見てみると一通だけメッセージが来ていた。 『ホテルに居る。部屋は五番目だ。防音対策バッチリ』 黒猫のミームを送りつけられて戸惑ったがいつものやつかと溜息ついた。そしてハッと思い出す。 「やっべえ、コンドーム忘れた。森山からパクろ」 時計を見て時間を確認するとさっさと戻った。席に座り直すとお冷の量が半分以下に減っている。たった一口しか飲んでいないのに。森山の唇はもっと濡れていた。髭までもが水滴を纏っている。アルフィーは水分補給が出来なくなった。自動販売機で水を買うべきだったと後悔したが運ばれて来た真鯛の刺身で一気に機嫌を取り戻す。 「わあー美味しそう」 長い両手を組み合わせて脂の乗った分厚い刺身を箸で掬い取る。そして醤油の上を滑らせると「頂きます!」と口に運んだ。 「お酒も頼んでおいたよ」 コトンと透明の酒が置かれた。嗅いで一口呑んでみると日本酒らしい。米麹の匂いや味が疲れに沁みて伝わる。樽から出した酒や蒸留酒と違って呑みやすい。そして旨いし香りが強い……刺身を取る手が止まらないぞとグイグイ呑んでいると怪しい目を向けられるので顔を赤らめた。 「久しぶりに呑んだからちょっと辛いですー」 「そっかあ、辛かったら言ってね?」 「はーい」 「心配だから隣行って良い?」そう言って勃ち上がると、隣に座って太腿同士が触れ合った。背中に手を回されて撫でられる。そしてバレると思ったのか脊髄反射で方向をずらすと箸で刺身を摘んで森山の口に突っ込んだ。 「お、美味しいですよね!?」 「美味しいー。フラワーちゃんって運動とかしてた?」 体の話にすり替えたなと睨んだが、天井を見て落ち着いた。 「クリケット部ですね、小学校の時はフットボールしてました」 「ク、クリ? クリケットって何」 日本でクリケットと言うのは無謀かと焦ったが誤魔化して笑う。別に間違いでは無い。ピアーズもアルフィーもクリケット部だった。 「えっと、楕円形のフィールドの中で、長方形のピッチを中心に其々のチームが交互に攻撃と守備をして、得点数の優劣を元に勝敗を決めるゲームです。野球の板バージョンみたいな」 「へえ……」納得いかないらしく片眉を上げて顎を突き出して見てくる。何故そんなに気色悪い顔が出来るのか。青髭を剃らないのか。絶対に奥さんとか浮気相手と接吻するときザラザラして不愉快だろう。酒も減って来た事だし、と仕方なく身を委ねて肩に頭を乗せた。机の下では本気で脚を伸ばして身長を縮めて見せている。 「ねえ、ホテル行きません?」到頭、強気に仕掛けた。漢は一瞬だけ目を丸くしたが首が落ちるくらい頷いて支える。 「何処にするっ? 色々あるよ」 「Kホテルが良いです〜」 「其処いつも行ってるから。もう行く?」 「う〜ん」 「あっ待って会計しといて。電話してくる」 走って出て行く背中を眺めながらアルフィーは酒を呑み干して残った刺身を頬張った。魚の硬さや本来の味が出ていて本当に旨い。身も透き通って見える。会計の額を見てうんざりしたが札を出してお釣りを貰うと頭を下げて椅子に座った。壁越しに耳を澄ますと電話する声が聞こえる。 「仕事で遅くなるから、先に寝ててくれ」 「今日は定時で帰るって言ってたじゃない」 「急用なんだよ!」ブワッと怒鳴り声が耳を劈いてきた。本当に腐った驢馬の糞みたいな性格してやがるぜ、やれやれと両手の関節を鳴らして扉をゆっくりと開けた。そして電話途中の森山にぐうっと忍び寄る。 「もーりーやまさん!」背中に両手をついて顔を覗き込んだ。 「わ、あっ!!」楽器を鳴らしたように悲痛な叫び声。同時に焦りで震える指が電話を切るとスマホを仕舞って壁に仰反る。 「あれ、誰と電話してたんですか?」首を傾げると森山はブルブルと首を横に振ってKホテルはすぐそこにあるからと話を逸らした。さあ、面白くなってきたじゃないか……。まだ賑わう日光市の路地を歩いていると土瀝青のヒビ割れた隙間から蒲公英の花が生えていた。序でに言えば月が薄雲を纏って朧に見えていて山々の影が曲を描いていて美しかった。景色を凝視するくらい彼の話がつまらなかった証拠の一つだ。空を見ながら城みたいなホテルに着くと袖を少し捲って襟を出してスッと寄り添った。 「暑いですね」襟元を見えない程度にパタパタさせる。森山は下半身を押し付けてきた。 「シャワー浴びないとねッ」 「フラフラするから一緒に入ってくれますか?」 「勿論」食い気味の返事だ。アルフィーは今すぐにでも脱ごうかと内心ワクワクしていた。お互いに軽い足取りで受付まで行くとピアーズが黒いマスクをして立っている。彼は笑う事もなく部屋を指す。五番室以外は全て在室だった。五千円で割と安い筈だがアルフィーにとっては真鯛といい無駄金を溝川に捨てているだけである。緊張と期待に押し潰されそうになりながらピンクに染まった廊下を歩くと五番室がある。周囲と見ても大差ないが壁が盛られている気がした。渋々扉を開けてみると広々としていて紅い枕が二つ並んでいる。 「広いですね」 「広いね。シャワー室あるよ」 「本当だー」服の裾を捲り上げる。脱衣室まで歩いて行くと森山がまず上を脱いだ。汚く積み上げると下着を脱いで下の粗末を披露する。赤く腫れた魚肉ソーセージを揺らしチラリと振り向く。アルフィーは華麗に服を壁に投げつけるとブラジャーのフックを外して偽の胸も捨てた。 「え?」青褪めて、口を開けたまま棒立ちしている。アルフィーは下を脱いで三本脚になった。粗末の逆は立派である。尻餅をついて四足歩行となった男を浴室まで追いやると扉を閉め切った。 「男? 嘘、何で? は? は?? おかしいだろ」粗末が縮んで粗である。漏らしそうなのか脚をもじもじさせてバタバタと暴れていた。敢えて何も手を加えずにアルフィーはシャワーのスイッチを入れると普通に髪を洗い始める。化粧が爛れ落ちると美男の顔が現れた。前髪を後ろに流すと筋肉の端から端まで洗って泡立てる。 「洗えば良いじゃん。今までシてきてるのに慣れてないなあ」 ゲラゲラ笑いながら屈んで顔を見る。森山は尻を交互に動かしつつ水と泡で滑り転けながら浴槽に逃げ込んだ。 「イッアッあああ、嫌だあああッッ」 叫び声が浴室に反響して木霊する。アルフィーはシャワー片手に浴槽に飛び込むとシャンプーを掛けて髪の毛を掻き回した。泡立って膨張してゆく。お湯で洗い流して勝手に体を洗っていると森山はシクシク泣き出していた。 「ほら綺麗にして。お尻も洗うんだったね。汚ねえから自分でやってくれる?」 「あうっ嫌だ! 俺は犯されたくない! 俺は女を抱きに来た! 俺のブルーフラワーちゃんが!! 可愛い肉便器があ!!!! どうしてくれるんだよ!? 返せよ!!」 行き場のない手をアルフィーの胸に当てる。彼はそれを払い除けて腕組みした。 「それは俺だってば。コンドーム持ってるよね。早く洗うよ」 「違う違う違う違う違うウウウ! お前は!」 「煩いな。浣腸した事ある? トイレまで走る準備した方が良いよ」 指を二本用意して構えた。片手で森山の腰を押さえて持つ。それは怒涛の勢いだ。 「何する! 何するんだよ! 助けてくれ! 助けてえええ!!!」 森山の悲鳴も虚しく、シャンプーを潤滑油の代わりに指を突っ込んだ。腹で周りを掻き回して撫でていると森山は意味の分からない単語を叫び続けている。肥えた腹の肉がのたうち回っていた。 「結構痛いでしょ。此処に俺のが入るんだよ? 信じられる?」 「信じたくない! 信じたくない! 腹痛いいい!!」お腹を押さえて仰向けになる。アルフィーは背中を支えると鍵の外されたトイレへと連れて行った。そして全部出たのかを確認しつつまた浴槽に閉じ込める。次はシャワーヘッドを外して尻に直接当てた。流れるのは綺麗な水だけだ。ずっと手入れされていない庭の雑草みたいな毛を除いて清潔である。 「よし綺麗だね」頷くと水を出し切って、タオルで体を拭きながらベッドへ連行した。ふかふかの毛布が今となっては地獄の舞台と化している。死の舞踏という曲があるがまさにそれが流れ続けているようだ。暗闇の部屋に微かな月明かりが差し込んで照らしている。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった森山は助けを求めて手を伸ばしていた。代わりに立派だが落ち込んだ物を差し出される。 「今から奇術《マジック》をします! てれれれ……」 薄い毛布を上まで持ち上げると確認してから手を離した。するとブルジュ・ハリファが聳えて天を向いている。雲さえ突き抜けそうだ。此の数秒でドバイ旅行に行けるのだから感謝して欲しい。森山はあまりの感動に嗚咽を漏らして震えていた。軈てそれは吃逆に変わって変な動きになる。 「バヒッ化け物ッッ」腐敗した桃を掴まれてブルジュ・ハリファが勢いよく貫いてくる。中で大暴れすると奥を突いて天空の楽園まで辿り着いた。森山が行くのは天国か地獄か? イエスキリストも思わず笑顔で見守る。助けてくれ助けてくれと仏に助けを祈るが、あの仏も思わず般若みたいな顔をして睨みつけてくる。鉄球を入れたみたいに煮え滾る腸の奥。大腸検査よりも辛い苦痛に耐えながら踠くその姿はまさに頭を落とされた鰻。広がった尻の中で暴れるのもまた電気鰻みたいなものだ。おっと繋がったまま逃げようとするその姿は交尾中の蜻蛉。そんなに暴れられたら困る。両手で押さえつけて奥に擦り付けると突如森山は咆哮を上げた。 「あああああああああああああああああああああああああがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」 遮ったのはピコンという通知音だ。その音が響いた瞬間、共鳴するように何度も何度も何度も同じ通知音が鳴ると同時に着信の音がリズムを刻む。批判のオーケストラを観察しようと蜻蛉状態でスマホを取ってみると十人を超える彼女(妻を除く)から激怒のメッセージが届いていた。 「何でやあああああっ????????」 叫びつつ履歴を遡ると彼女との会話履歴を全彼女にランダムで送信している。崑崙の開発した不死鳥の効果だ。男は屈辱と怒りと混乱に暮れて発狂を繰り返しながら天使と手を繋ぎ楽園へと導かれた。花畑を歩き、雲の上で彼女の顔が浮かんだり消えたりする。今日あった出来事が走馬灯のように蘇り脳の中を走り続けている。そんな八方塞がりな状況下で浮かんだのは甲虫だ。小学校の時に網で捕まえていた、甲虫。紐を巻きつけて石を運ばせていた、甲虫。昆虫ゼリーを買って食わせていた、甲虫。青春にはどんな時でも甲虫が居た。 「オオッッッッカブトムシッッッッ」 彼はカバーを鷲掴みにしたまま、掠れた声を腹の底から出し切るとぐったりと倒れ込んだ。通知音の鳴り止まないスマホを放置して。
とある奥さんの依頼 一
【そのストレス、晴らします】 そう書かれた看板が目立つ此の店は、北半球最高の諜者《スパイ》と呼ばれる従業員が依頼者の鬱憤を晴らす為に強盗から殺人、法を超えた事まで何でもする知る人ぞ知る名店である。然し諜報機関に悟られない様にひっそりと暮らし、珈琲店の隣に隠れて建っていた。そんな店から道路を横断し五分程度歩くと豪華絢爛な日光東照宮の陽明門が見える。権現造に極彩色に彩られる神獣の彫刻は従業員にとっても日光に住む人々にとっても宝であった。そんな東照大権現に見守られる此の街道は今日も宮帰りの人々で賑わっている。その代わりに店内は息を殺し、窓には窓帷をぴっしりと閉めていた。木製の椅子に腰掛けてパソコンを開いたまま長袖の男達が資料片手に悩んでいるのだ。 「コイツは参った。運が悪い依頼だ」 手を翳せば透き通って見えるのではと疑うほどに真っ白な肌をした男が金髪を掻き乱した。訛った北ロンドン寄りの英語と燦然と煌めく殿茶の眸で英国から遥々やって来た紳士だと分かる。胸にはピアーズ・ラングフォードとあり、若々しい体とは真逆に疲労で削れた精神が浮き彫りになっていた。正面に座って書き物をしているのは太陽で肌の焼けた明るい茶髪の若い崑崙《クンルン》という男だ。鼻は高く青い眸を持っていて頬から鼻までチョンと雀斑がある。スイス人だと数人が主張するが実際は何処生まれなのかは謎だ。 「運も何もありませんがね。変な依頼から国家機密異常の事までやってるんだから……やっとメキシコからモンゴルに行って中国から日本まで渡ってきたんだから文句言っちゃいけない」 当然の如く書類に印をつけていく彼に、ピアーズは舌打ちして「でもこれは酷いぜ。ちゃんと見てみろ」と紙を見せた。まず中央には森山寛人という黒縁眼鏡で三十代後半の男の写真が貼られている。下には数々の経歴と共に二週間観察した時の行動が細かく書かれていた。卸売の仕事が終わった後、頻繁にキャバクラへ行ったり知らない女と会っていたらしい。然し、森山には妊娠している妻が居るのである。そんな中で遊び歩いているのだから獰悪極まりない。崑崙は紙を受け取ると顔を近づけて見て、皺を寄せたり眉を寄せて不快そうにした。 「ふーむ、どの国にもランダムで出現するクソ垂れ野郎だ。つまり依頼者は此の妊婦の奥様という事で?」 「勿論。そして内容は男をコテンパンにして懲らしめてやれと。代わりに一千万振り込まれた」 金額を聞いて指折りに数える。四万七千ポンドくらいかと考えていると背後からガタッと物が転がり落ちる音が聞こえた。革靴の音が忙しく駆けてくると扉が開いて急いで鍵を掛けているらしい。外から女の声が壁を貫いて轟いて来た。 「お礼させてくださいっ」 扉を拳でコンコンと叩いて来る。麦藁帽子を着けた背の高いロシアっぽい顔つきの男が頬を真っ赤に染め上げて逃げ惑っていた。「いやいや、大丈夫だから!」と日本語で真剣になって叫ぶとピアーズに身を寄せた。 「あ、アルフィー。外の女ってまさかストーカー?」 素っ頓狂な声を上げて顔を覗き込む。アルフィーは麦藁帽子を叩きつけて机にあった麦茶を飲み干すと首をブンブン横に振った。 「んなわけないでしょ! オッサンがあの女性にオッサンのナニを擦り付けてたから俺がバックからしてやったんだ。そしたらあのザマだよ」 それを聞くなり崑崙はひっくり返って腹抱えたまま爆笑、大喜びしていたがピアーズにとっては頗る不愉快らしく口端を歪ませていた。外からまたノックする音が聞こえると、膨れた不満に割れ目が広がってタラタラと液が垂れて来たらしい。白い陶器のコップに冷やした緑茶を注ぐと玄関口まで持っていった。 「どうぞ」 「あのう、先刻の方は」腕に袋を下げた、茶色い制服を着た女子高生だった。モジモジと指先を遊ばせつつピアーズの目を見つめた。それから青白い頸筋や尖った喉仏を見て樹木の幹のように堂々とした脚に視線を流した。ピアーズは他所を向いて薄紅い唇を少し上げる。 「向こうでせっせと仕事してますよ。プレゼンを今日までに作らなければなりませんから」 「な、なら此を渡してくれませんか。採れたばかりの苺なんです」 袋には大粒で真紅に輝き、艶を纏う苺が六粒もあった。食べたら甘かろうと涎が出そうな気持ちになるが堪える。 「立派ですね。よし、渡しておきます」 受け取ると少し下がって頭を下げた。長い胴体を折り曲げると邪魔になるのは此の大陸に来てからよく分かっている。女子高生も小さく頭を下げて「ありがとうございましたとお伝え下さい」と微笑んだ。軈て玄関からコップを持って戻って来たピアーズにアルフィーが駆け寄って来た。 「ねえ、それ何?」 「見ての通り苺だ。お前の大好きな」 「良いね。それで此の資料って依頼? 何時予定?」 「夜が良い」 「拳銃で?」 「だとしたら何口径?」 「三十五口径」 「馬鹿、日本で銃を撃つと銃刀法違反で捕まる」 「そうなれば暴力だって駄目ですよ。そりゃ」 「でもさアメリカで似た事したよね。去勢手術だったかな? あれはアメリカの法律上大丈夫なわけ?」 「彼処は自由の国だろ。此処は神の国だ」 「なら自由の女神もいるかもね」 「じゃあ良いでしょう?」 「辞めてくれ。英国の友達にバレたら反感食らう」 「そいつ英国人でしょ? 関係あんの?」 「馬鹿、日本出身だ。而も運の悪い事に栃木県の」 「じゃあこうしよう。本人に許可取れば良いんだよね」 「まあ」 「女のフリして近づいて驚かしてやろうよ」 「……どう思いますか?」 「一千万の価値がある復讐なんだからもう少し攻めて良いんじゃないか。ぶっ飛んでも」 「んじゃあ此の作戦はどうです。アルフィーが卑猥なアカウントに扮して近づき、眼鏡男にDMを送って例のホテルに誘い込む。二人が戯れてる地獄の間に俺がスマホを勝手に操作した後にウイルスをぶち込んで機能しないようにする。ピアーズさんはホテルの従業員のフリして忍び込むとか」 「ラブホテルに英国人? 変だろ」 「最近の日本は人口減少が進んで外国人を雇う店が多いんですよ。土産屋さんとかで見たでしょ。気づかれませんし例のホテルと俺は繋がってるんで電話一本で話が通じます」 「へえ……」顎に手を添えてジッと見た。疑惑と、探りを入れるような眼差しを向けて心まで透かしている。崑崙は笑いながら手を差し出して「別に変なのじゃないんで。口先が上手いだけですよ」と笑った。 「媚び売り上手なんでしょ。そのホテルって何処?」 面倒くさそうにしているアルフィーを見て崑崙が何やらスマホをパタパタと打ち始めた。そして真っ白な城状ホテルの画像を見せる。其処にはKホテルと名が綴られ、星型の色付き具合で評価が分かる。四つ星だった。Wi-Fiは無料である。 「へえ、近くに自動販売機ある?」 「覚えてないな。どうでしたっけ?」 「通らないから知らない」 アルフィーは口を開けて欠伸すると背伸びして骨をゴキゴキ鳴らした。筋肉が服越しからでもしっかり膨らんで見える。 「行ってからのお楽しみか。さっさとアカウント作ろうよ」 言葉を聞いた途端にピアーズが椅子から立ち上がる。そして棚を漁りながら「女装だ。先ずはプロフィール画像から」とファンデーションと箱を片手に戻って来た。机に化粧道具を端から端まで詰めた箱を置くとアルフィーの顔を凝視して強引に触る。骨は太いが睫毛はしっかり長い。そして鼻が高く眉毛は弓形で少し吊り上がっている。前髪は下ろすと丁度いい長さだった。 「どう?」片目を開けて不安そうに訊く。ピアーズは肩の骨を掴んだり筋肉を叩いてウーンと唸った。 「顔は少しやって髪の毛付け加えれば良いだろうが骨が全体的に太い。脱ぐ前に悟られるぞ。腰を締めろ。そして胸を出せ。筋肉を求めてるわけじゃない」 腹を触ったり後ろに回って背の筋肉を触った。太腿に多少の脂肪はあるが、殆どが筋肉で硬くなっている。アルフィーは呆れ顔で溜息をついた。 「どんだけ上手く化けても声とか喉仏でバレるよ。胸に何か付けても腹筋がある詰め物して誤魔化すの? 割れ目に?」 「喉は服で隠せる。それに、どうせ下から脱がされるんだから気づかれるだろ。見た目だけで良い」 「じゃあ好きな感じでやってよ。てかその男の好みって何?」 すかさず崑崙がパソコン画面を見せた。其処には森山の保存した画像が並んでいる。黒髪かつ濃い口紅に革靴を履いているのが共通で当て嵌まっている。時々コメントで「〇〇ちゃん可愛いね」とか「髪の毛に〇〇ちゃんで取った出汁を絡めて食べちゃいたい」とか胃から消化液が上がって来るほど気色の悪い文が並んでいる。 「調査によると黒髪なら気にしない感じみたいだぞ。裏垢で黒髪で胸と穴があれば良いって書いてる」 「よし、染めるか。洗面所の下にあるから染めて来い」 「マジかよ、わかった」 「アカウント勝手に作り上げるからな」アルフィーの背中に向かって叫ぶと「後で自己紹介の文だけ書かせて!」と返事が返って来た。それから待ち時間で適当に紅茶を飲みつつ森山のアカウントを観察していると吃驚させられた。たった一人、妻と別に孕ませていたのだ。 「堕したらしい。いや"堕ろすように頼み込んで"逃げたのか」 ツンと針で脳を突かれた気分だ。怒りで腸が煮えるとか紅潮すると聞くが激怒を超えて胸が晴れやかなくらいだ。澄み渡るイライラ、客観的に見た本能的な拒絶。気持ち悪さ。沸点を超えて麻痺する感覚神経。指先が震えて堪らない。此の屑を去勢しなければという衝動と焦燥感に駆られる。 「ぶちかましても良いですね。気合い入れていきましょう。兎に角今はアルフィーの女装を髪の毛一本までしっかりやるんです。俺はお気に入りのウイルスを育て上げてますから」 崑崙は操作不可能になり情報が漏れ出るウイルスを作り上げたらしい。それはアルフィーとDMで会話する事により時間差で出て来る。何度再起動しても効かず、他のパソコンでアカウントを開いても逆に感染する事から不死鳥と名付けたらしい。そんな話を聞いているとアルフィーが黒い髪を靡かせて走って来た。白い肌に似合って男前になってしまったが化粧次第だとピアーズが頷く。 「どう!? 眉毛とかも染めてみた!」 黒く染まった柳眉を指差して得意顔である。崑崙が驚いているのを横目にピアーズが化粧道具を渡した。 「結構良いじゃないか。じゃあ化粧をしないと。目をパッチリさせて紅っぽいアイシャドウとかどうだ?」 「流行ってるやつ調べてやってみるから」ブラシを手に取ると紅寄りの色を選んで塗り始めた。見る見るうちに女らしさが滲み出て閉月羞花という顔に成り上がる。仕上げにと見よう見真似で紅を差すと此には二人も顔を見合って驚いた。高嶺の花か海の真珠だ。美しいと表現するには勿体無い。すると正気に戻る為なのか正気を失ったのか「じゃあ脱げ」と言い放って忙しく二階へと駆け上がる。アルフィーは渋々服を脱ぐと白い肌に薄い艶があり皮を張って貼り付けた様な筋骨の影や筋の造形が見えて来た。但し、女とはかけ離れた体躯をしている。「此の筋肉を剥がして胸を引っ付けてやりたい」と崑崙が悔しがった。軈てピアーズが帰って来ると何やら女用の服やら下着を抱えている。その中でもシリコン性で肌の色に合った物を掲げた。 「ヌーブラだ。それを貼り付けて上からブラジャーを着けろ。そして下着だ。紐だと大惨事になりかねないから少し薄いやつにしておく」 受け取って胸に付けると粘着力で剥がれない。揉んでみると胸筋も合わさって巨乳感が出ていた。其処に黒いブラジャーを着け、下着を履き替えて喉ら辺の見え難い白い服を着た。褲はジーンズで良いだろうと適当に履く。 「そういえば何で女物が多いの? そんなに俺に女装させたかった?」 「フランスの彼女のやつをパクって来た」悪びれもせずニヤッとした。 「遠慮すれば良かったな、化粧結構使ったよ。それで、声はどうするの?」 「咽頭共鳴腔を狭くして声を出すのと高めを意識すると良い。メラニー法ってやつ」咽を狭めて女声をしっかり出して聞かせた。美女らしいが見てみれば英国紳士で混乱する。アルフィーは頭を抱えて仕方ないと拳に力を入れた。 「何時間か練習してみる」 それから五時間、彼は喘ぎ声やら単語やらを女声で言い出し始めた。最初は嗄れて濁った声だったが徐々に熱を帯びた若々しさを手に入れて繭から生まれ変わる蝶の如く美しい翅を伸ばして成長した。自分の容姿を鏡で見て声の調子を合わせつつ、完成。アカウントも本人の写真を加工してプロフィール画像にしてクルルが勝手に送った。自己紹介欄はサーフィー作で【趣味は料理です。美味しい物が好きです。彼氏ぼしゅーちゅー】とだけ簡単に書かれている。森山をフォローした瞬間、見間違いかと疑う速さでフォローを返して来た。而も、仕掛ける暇もなく向こうからDMが来たのだ。 『フォローありがとうございます! ブルーフラワーさんってお料理好きなんですね。僕も好きなんです。良ければ美味しい物食べに行きませんか? 美味しい場所知ってますよ』 疑う暇もない。明らかに文字が勃起しているではないか。涎を垂らして腰巻の外し方も忘れてガチャガチャ弄りながら話しているのだ。期待を裏切るわけにはいかないと崑崙の何かが弾けて燃え始めた。キーボードを恐ろしい速さで弾く。 「わあっDMくださって嬉しいです! 是非是非! そういえば最近知ったんですけど、魚料理店華とかどうでしょう? すごく美味しかったんで森山さんと食べたいな……」 『ええ笑 いいんですか? 行っちゃおっかな? いつが空いてます?笑』 「う〜ん、そうですね、今日の夜なら全然空いてますよ〜!」 『マジか笑 僕も空いてるんで行きましょうか!笑』 途端に笑の数が増えて不気味さも急激に上昇して来た。眩暈と闘いながら一時間も会話していると、予定の時刻が近づいて来たらしい。完成体になったアルフィーがノスノスと近寄って来た。 「俺行って来るわ。此が正解だから」 自信に満ち溢れた表情は清々しささえ感じられる。仕上げとお守り代わりの熊さん靴下を履いて、革靴の紐を結ぶ。まだ足りないと文句を捨てて悩むと、ピアーズのサングラスを借りて行った。無駄と思える努力を積んでは減らして削って整えて来た完成体は格好良ささえ感じる。二人はそれを見送ると、次の段階へと準備を進めていった。
赤葡萄円舞
♪♪♪ 騒音を鳴らして蜿蜒たる道を進んでいくと、峡湾の上にある道路へ出た。黄色く丸い標識には曲がりくねった英字が綴られている。そして砂と枯れ草をタイヤで擦り潰して通った。軈て赤茶の岩が聳えて空港会社や大手企業会社の建物が覗く。 「獣と生塵臭い。都市に向かっていますね。何故ですか」 鷹揚に片耳を傾けて、黒い鼻をヒュンと向けた。パロマは伸び切った柔毛を指先に巻きつけながら溜息を吐く。 「理由は後々分かる。所で、良い報せと悪い報せ、何方から聞きたい?」 「良い報せ」 エヴァンが乾いた笑みを浮かべた。然し明らかに痙攣しつつある口許と引き攣っている瞼。きっと悪い報せが二つあるんだろうなあ、とクルルは裾を握って唾を飲んだ。 「アンタら二頭はグラヴィナ大公から舞踏会に誘われたから基地に戻らなくて良い。だから、此のまま会場まで送迎する話になってる」 想定以上に冷えた声だった。残念と思っているのかと一瞥してみても、耳を立てて気怠そうな顔を向けてくるだけである。クルルは少し考えて、ワーイと歓声を上げ、喜んだ。踊り出すのかと思っている内に、当然不安気に眉を顰めて俯く。 「でも、私は関係ないから行けないんじゃないですか」 エヴァンは口角を下げると、普段と変わらない鋭い眼差しを向ける。糸を張り詰めた様な瞳孔が微動だにせず此方を捉えている。 「踊り相手だと名乗れば良い。麒麟特有の太い胴を縛って調節すれば立派に……」 大きい手を伸ばすと腰辺りをガッシリと掴み上げた。然し、麒麟特有の太い骨と筋肉のせいで締まらない。遠眼で見たら肥って見えるなと辟易して、黙る。暫くは強く握ってみたり背を触ったりして考えていた。 「何故、肉も口にしないのにこうも肥えるのか」 ぼそっと呟くと、途端にクルルの頬には薄紅が差した。五彩の毛の混じった尻尾を座席にペタンと叩きつけて御立腹の様子である。 「あら、勘違いなさっている様ですが、脂肪じゃありませんよ」 「分かっている。衣裳が似合わない事も。旗袍《チーパオ》が許されるなら其れを着た方が似合うが」 口許に手を当てると誤魔化しの咳払いをして、パロマの方を向いた。クルルが「なら言わせてもらいますが先生は白衣が似合いません」と反撃していたが一瞥もくれず、只管続く静寂で言い返された。 「確か、パロマは昔、赤い背広をよく着ていたな」 「今でも着るよ。赤は可愛いじゃないか」 若干射した陽の光に眼を閉じて黒眼鏡を掛ける。エヴァンは赤背広を纏い、黒眼鏡に紙煙草を咥えた姿を思い出し、記憶を捲った。一頭、酒屋で蒸留酒を呑みながら微睡んでいると背後から突然、淫靡な狼が来てスッカリ醒めてしまったという物だ。其の畢竟は二頭顔を合わせて話してみれば、学生時代の先輩だったという事であった。懐から使い古した拳銃でも持ってそうな風貌であったが、何処か似合っていた。 「黒や柿色が交錯した毛に似合っていた。私は此の鱗のせいで何色も合わない」 「……私にも似合わないって言ってたでしょ」拗ねて頬を膨らませる。 「何を拗ねる事がある。君は衣裳が似合わないだけだろう」 臙脂の鱗から金緑の艶を指で撫でる。腕をくるっと動かせば艶もスルスル動いた。此の時、クルルから見たエヴァンは深緑の鱗であった。もし臙脂に似合う服を見つけても、角度によっては滑稽になるのだろう。パロマは麻呂眉を寄せた。 「アンタ、濃紺の服よく着てるじゃないか。裏地が赤くて、絹で出来てる高級そうなやつ。青玉に作って貰ったとか」 「制服に似ているから安心する」 少し眠そうにする。隣でクルルが人差し指を立てた。 「あっ、腰を帯革で絞めた長外套みたいなやつですよね。釦があって、襯衣が真紅の」 脳にチョコンと置かれ、埃を着た記憶によると容姿はそうらしい。まるで貴族じゃあないか、と笑みを広げる。パロマは思い返すなり頗る厭な顔をした。 「いや、でも、いつも外套脱いで襯衣のままだったじゃないか」 状況の呑み込めない麒麟は愕然として眼を丸くしている。長い隧道へ入るとエヴァンは影で臙脂をもっと深くさせて、顔すらも殆ど見えなかった。 「ボニファーツに燃やされた。贈呈品の点火器で炙られた」 「えっ」 双方、真っ暗闇に光る眼を合わせた。ガタガタという揺れと頭を突く耳鳴りを感じつつ数分もせず隧道を抜けた。光が入ると、矢張り鱗には艶が舞う。不快とも愉快とも取れない表情には、微かな皺も瞼の閉じ具合も哀愁を秘めていた。 「悪い報せは」 スッパリと断ち切る。パロマは伸びた毛を背に流して両脚を伸ばした。関節の鳴る音がペキペキと響く。 「あー、悪い報せはね、言い辛いんだけど落ち着いて聞いて。御宅の学生さんが……」 「訪ねて来たのか?」 「……そう。地下の避難所や海から侵入して来た」 「そんな……」 切り取った大腸を手術中に額へ投げつけられた様な衝撃である。予想外の事に驚いて呂律が廻らなくなっては困ると思ったが、戦場での手術のお陰もあって指示をする舌だけはしっかりと動いていた。序でにあのエヴァンでも流石に肝を冷やしているだろうと一瞥してみたが、寧ろ、軽蔑を混ぜた笑みを浮かべている。 「……成程。避難所から来るのは予想外だ。放射線の研究をしているから被爆すると思ったが、また違うのか。何方にせよ三日月閣下は大層お怒りだろう?」 「放射線、あの壁にあった機械でしょう?」 「……いいや、放射線ではあるけどまた別の研究。危ないのは同じだ。でも幸い全員に異常はなかったらしいから」 「それで奴は?」 「ええ、どうだろうねー」黒眼鏡越しに半眼を向ける。 「あの赤煉瓦の収容所に閉じ込めているのか」 「何、知ってるの?」 頗る退屈そうにして、煙草を吸いたい代わりに腕組みしたり煙草の箱に触れた。螽斯や蠍の絵が描かれ、飾り文字や模様が載せられている。貨幣三枚で買える安物にしては旨いらしい。クルルは好奇心を露わにし、ソロリと手を伸ばしてみたが、鋭く睨まれて直ぐに箱を避けられてしまった。惨劇は骨牌倒しで、隣からは呆れ切ったエヴァンに賤しまれて笑われる事すら無く、出来事其の物を抹消された。 「昔、見た事がある。屍体小屋みたいで殺虫剤を消毒液の代わりにしていた所だろう。それで、一酸化炭素ガスで彼らを殺したという報告でもしたいのか」 背に月でも背負った気分だった。兎に角、陰鬱な重圧が見えない所に伸し掛かって心臓、肺、肝臓までもがプツプツと潰れてしまいそうだ。彼女は負けずと身を乗り出してニヤニヤと笑った。敢えて牙を剥かずに、ただ口角だけを上げる。 「ウチの性格分かって言ってる?」エヴァンは黙って頷いた。 「アンタの言う通り、前まで収容されていたけど、後々ボニファーツの命令で解放されて、今では医師免許を早めに取らされて國外の病院にも派遣されてるらしい。オーランとかロースって子はヒラールの軍病院勤務よ。電話越しに聞いたけど資料とか手術記録見てるって」 クルルが羨ましそうに澄んだ眼を煌めかせた。紺碧の海よりも、青空よりも、青玉よりもずっと澄み切った色が広がっている。極彩色の水晶玉に見られると堪ったもんじゃない。脳を焼いた針で突いた様。 「はあ」エヴァンが相槌と溜息の間の様な声を上げた。 「私の教え子が迷惑を掛けた。悩める羊を救済する心優しいボニファーツはどう仰っていた?」 「優秀な医師が育つのが楽しみだとか、きっと都市部だけでなく國外でも活躍出来るからロザンデールの株は上がるとかね。頭の螺子が全て外れてる様な事言ってたよ」 ブルブルっと震えて悍ましいと口にする。エヴァンは皮肉っぽく笑おうとしたが辞めて、憂鬱そうに脚を眺めた。尻尾の先を揺らして、窮屈そうな翼を軽く畳んでみると関節の音が鳴る。クルルは両耳をギュッと寄せて口吻に薄い皺を寄せた。 「頭が良いのを優秀だとは呼べませんよ。技術とかはこれから磨いていくし、其の為には環境が必要なんです」 地団駄踏んで泥に汚れた蹄をパカパカさせる。此の儘、駆け出して行くのかと思いきや、エヴァンから「煩い」と一喝される前に脚を止めた。パロマは黒い耳を傾けると、焦茶色の濡れた鼻を突き出して「そうね──」と何か悩んだ顔を見せた。 「酷な話。工作員みたいな物じゃない」 「……舞踏会が終わったら二頭には会える」 クルルの顔をチラリと覗き込む。視線に気がつくと、口許に手を添えて隠し「楽しみですね」と悪戯を仕掛ける子供の様に頬を緩ませた。 ♪♪♪ 医学生による教員解放騒動が終わり数ヶ月の事だった。寒葵が咲き、時計塔の屋根が白くなる冬。街路灯は煌々と光り、薄暗く青白な街を暖色で照らしている。煉瓦造の家や、似合わない硝子の摩天楼が彩る街には同盟罷業《ストライキ》を繰り返し、英文字を赤く強調した看板を掲げる鹿や豚で溢れ返っていた。そんな中、聖誕祭の雰囲気も色濃く、店には松毬や夜帽、赤い靴下が売られている。ヒラール基地はそんな冬らしく明るい都市から遠く離れて島に似た場所にあるからか、聖誕祭という行事すら忘れ去られている様だった。然し、基地の隣にある角砂糖みたいな建物は違う。中だけは電飾に彩られ、赤く艶やかな林檎や鐘まである。オーランは赤い襟巻きを巻いて、色褪せた古い長外套を纏ったまま満足そうに飾り付けをしていた。 「此で良し」 柊や赤い実を丸く巻いた飾りを置いて、さっと埃を払う。石造で暖炉も無い収容場内がぽっと暖かくなった気がした。 「いや、良く出来たね……。こ、コレって軍獣さん達に怒られないのかなあ?」 ぺたぺた足音を立ててロスヴィルが来た。痩せ細っていた体は魚を食って肥ってきている。然し、まだ肋骨は浮き出て骨が見えた。オーランはそんな姿を見る度に眉を顰めて、気の毒そうにする。俺の体に付いてる分厚い脂肪を分けてやりたい、と常に胸の中で呟いていた。そして飾りの山を睥睨して、軽く頷く。 「それが、良いらしい。収容所内の学生も何人か他國とか別地域に連れて行かれたし、きっと慈悲だよ」 「でも残ったのが此の三頭とは」 噴水式水飲み場の影から禿鷲の様な姿に小さな角を二本生やした竜が顔を覗かせる。手脚だけは毛むくじゃらで雷鳥を思わせた。迷彩服の胸元にはウランと名がある。瞼の上から伸びる黒く長い毛が垂れていて、空よりも青い眸である。収容場の雰囲気に不似合いな派手さを身につけている。ロスヴィルが少し身を縮めて「そう、本当に……」と細い声を上げた。 「いや、でも基地内の病院に勤務させてもらえて有難いよ。部屋が無いのは酷いが、後々帰ってくる大先生と話せるし、何より! 沢山の資料がある」 雨漏りする個室の棚を指すと、濡れたり泥に汚れた資料が放置されていた。赤い付箋紙が覗く中、ファイルに挟まれたまま何も手をつけていないものもある。紙を折って作った入れ物には小指の第一関節程の鉛筆が入っていた。ウランは共感だと頭を縦に振っていたが、ロスヴィルは猜疑心を露わにした視線を投げていた。 「で、でもあの病院って色々妙じゃ無い? そもそも、此の施設……基地が不可思議だよ。而もセレスティノ君にウランなんて名前を与えるのだって失礼すぎる」 「確かにウランは馬鹿にされてるが、基地も変? かなりキチンと整備されてる様に見えるけどな」 「うん。言葉には出来ないけど、軍の思う壺に見えるよ……。ディアーノっていうイエロー・オルカ銀行の頭取も変じゃない? 掌で転がされてる気がする。掌なんて彼に無いけど、でもさ、地下の基地だって広がり具合が可笑しいと思う。北國に向かって海を通ってるんだよ。しょ、正気の沙汰とは思えない……。此処だってまるで監獄みたい。偶に変な研究押し付けてくるけど、施設内の医者によると暗殺に使うんだって」 「ふーん。確かに。放射線の研究施設も遠くにあるって聞いてるし。俺らが軽々と地下から侵入出来たのも変な話だ。海兵の噂じゃあ、地下には変な放射性物質が置かれていて俺らを実験台にしたんだってよ。成功したら戦争に使うとか、兵器にするとか」 「もし実験してたとしても、放射能を防ぐ実験だろ。壁に其れを防ぐために素材がぎっしり詰められてて、後遺症が出るのか出ないのかしっかり調べられたんだ。閉じ込められて精密検査何回もやらされたろう?」 「……教授、大丈夫かな?」 「あの腐れた猫に煮て焼いて食われてるかもしれない」 ぶるっと毛を逆立てて震える。すると我慢ならないとオーランが壁を殴りつけた。こびりついていた乾いた泥がハラハラと落ちると急に静まり返った。 「冗談言うな。青豹は親切だろ? 殺される覚悟で来たのに、寧ろ世話してもらってる。独裁者が、悪魔がそんな事しないだろ」 悪魔や独裁者に喩えるなんて、お前も馬鹿にしてるじゃないかと叫びたい口を塞ぐ。ボニファーツこと青豹を批判する根拠が無い事にロスヴィルは猛烈に腹を立てて、必死に頭を働かせていた。彼の前ではウランが距離を詰めて「そうか? でも毛が青いじゃないか」と嘲笑う。 「そんな事で判断するなんて馬鹿馬鹿しい。新聞とか雑誌見たろ? 不景気だって青豹が総帥権を握ってから好景気になったし、他國からも信頼されてるよ。停戦仲介もしたし、戦争を幾つも終わらせてる。南海戦争だって……」 南海、と言った瞬間にロスヴィルの顔が見る見る内に変わる。蒼白く、口吻には皺が寄り、眉を吊り上げて牙を剥き出す。そして胸倉を千切る勢いで掴むと壁に叩きつけた。ゴツンという音と共に血が薄ら滲む。 「黙れ! アレは青豹じゃない! 南海戦争は、僕のお父さんと青玉さんが! 血を流して終わらせたんだろう? お前の父親だってそうだ。極北の大陸で戦争して、結果的には勝って、でも湖に落とされて凍死したろ? あの時の指導者は青豹だ、分かるか! 正当化するなよ」 「でも……」 涙をポタポタと落として小さな声を漏らす。軈て其の声は悲痛な泣き声に豹変した。それでもロスヴィルは詰め寄って言う。 「勿論、表向きには経済も回復して、外交だって上手くいってるよ。でも犠牲者は何万と居る。それに一般獣を殺したら、軍服を着せて偽装した事だってある。何処からどう見ても、あの化け猫は獣の皮を着た化け物だろうが!」 拳を高く掲げると、ウランが間に入り頭を打ったオーランの肩を持った。そして「落ち着けよ、オーランが潰れちまう……」と許しを請う。ロスヴィルはハアと白い息を吐くと、走って扉の外に飛び出す。そして雪玉を抱えたまま帰ってきた。 「何だ、雪なんて持ってきて」 「……頭を冷やさないと」泣きべそをかいているオーランの後頭部に手巾で包んだ雪を当てた。ヒヤッとした冷たさに呻いたが慣れたのか悲しげにする。刻々と時間が過ぎるにつれて、冷たい収容所の雰囲気は殺伐とした。まるで針の風が吹きつけるかの様に。 ♪♪♪ サーフィーは会議から戻ると、静まった白い部屋で肩を震わせて大笑いした。舌を覗かせて牙を剥き出し、悲鳴にも似た鳴き声を轟かせた。そして椅子に深く腰掛けて尻尾を左右に揺らして天井を仰ぐ。 「あっはっは! アイツったらぁ、俺を馬鹿にしすぎだ!!」 笑って、笑って、笑う。軈て何も無かった様に静寂に包まれ、耳鳴りだけが残った。不意に窓硝子を眺めると、自分の姿が明瞭に映っている。顔にあった筈の笑いの余韻も消え失せ、今まで汚して来た大きな手が膝の上にある。鉤爪は鋭く尖り、青白磁色の毛が生え揃っている。紺斑模様がポツポツと重なった羽根みたいに指から続いて、脚にもある。白毛の混ざった尻尾、皺のある服、顎下から首の淡青。睫毛の下に隠れる翡翠の様な眸と、眼尻にある鮫の鰭みたいな模様。狼くらい長い口吻と立派に伸びた、角鞘が覆う太く長い角。容姿だけは貴族と呼べる、舞踏会の会場で恥をかく事も無いなと顎下に手を添えた。椅子の錆びた足を尻尾で払うと立ち上がり、ぐうっと骨を鳴らして背伸びした。薄浅葱の巻き毛が頸に垂れる。それにしても静かすぎるなと首を傾げてみたが矢張り足音もしない。銃声もしない。そこで 「ドゥラーク、今日は教会に行く日だった!」と突拍子もなく呟いて、くそうと落ち込む。窓硝子越しに円を描くように造られた軍病院を見た。雪が降り積もり睫毛から尻尾まで氷になりそうな天気の中、手首の落ちた牛や眼下に隈を作る蛇、怯えた黒い蜥蜴や鼠が列を成していた。教会に行っていないのは俺とコイツらだけなのか、とサーフィーは少し寂しくなる。すると、靴箱から足音がした。軈て小声の愚痴がポツポツと階段を上がってくる。徐々に愚痴を漏らす女の全貌が見えて来た。 「紅玉?」 TAC名を呼びにくそうにして、冷えた指先を合わせる。扉から颯爽として入って来たエキドナは微笑む事も無く缶珈琲片手にドカンと椅子に座り込んだ。そして缶を口で咥えるとごくごくと喉を動かして飲む。口から垂れたら青舌で舐めとった。 「ああ、教会には行って来た? 寒かったでしょ」 隣に立って衣嚢から薄紅の苺飴を取り出した。掌に乗せてエキドナに差し出すと、彼女は一瞬だけサーフィーの顔を覗いて握った。 「教会なんて行ってない。代わりに浪漫も無い病院で検診でも受けて来た。血液検査とか毒素の検査が長引いたから遅くなったけど。あの看護師刺すの下手だから、ほら、跡がいっぱい。而もペランサと会ったから余計に時間が掛かった」 袖捲りして穴だらけの腕を見せる。鱗越しにも血の出た跡があった。 「うわあ、痛そう…。検査に異常は? ペランサどうだった?」 「別に。ペランサは放射線の実験云々で大変だから憔悴してた」 「ふーん……」 宙を睨むサーフィーを横眼に、エキドナは包を開けて飴玉を投げ込むとガリガリと噛む音が響く。舐めた方が上品なのにな、と残念そうに眺めたが彼女の性格には似合うから何も言えなかった。暫くは頬や顎が忙しく動いていたが、突然ピタリと止まるとゴクンと飲み込んでしまった。 「……ねえ、今晩の六時頃から舞踏会があるんだけど、一頭踊り相手を探さなくちゃいけないんだ。どうかな?」 背を曲げて格好をつける。エキドナは忽ち、鼻に泥がついたみたいな顔をした。 「私? 踊れない事もないけど、舞踏靴とか無い」 「そう言うと思って! パロマの靴、拝借して来たぜ。俺の部屋にあるけど……」 「ふーん。じゃあ大丈夫か。でも後で姐さんに何か奢らないとな……」 彼女はパロマの事を決まって姐さんと呼ぶ。敬愛や信頼を込めた様な声色に喉を突き破ってしまう位の熱を感じてサーフィーは少し頬が赤くなった。 「そんなの後で考えたら良いじゃんか。果実は駄目? 甘蕉なら友達が作ってるから送ってもらうよ」 「いや、果実は偶に食えるし。渡すなら高い珈琲とか、アップルパイの方が良い」 「へえ、アップルパイ。作ってあげようか?」 「私が借りるんだから私が作らないと」 真剣らしい顔を向ける。緋梅みたいな鱗が艶を帯びて眼尻の青模様も際立っている。サーフィーは噛み潰した様な笑いを浮かべて、窓を向く。 「黒麦麺麭に牛酪塗るのが精一杯な癖によく言うよ。はは、あの壊滅的なボルシチは傑作だった」 「ハア、何かと煩いな。何時に出るの?」 恥ずかしそうに俯いて更に顔を紅潮させている。破裂寸前かと思わず鼻で笑うと、太腿を尻尾で蹴られた。 「もう直ぐ出るつもり。何、珍しく化粧でもする? もう派手だし十分でしょ?」 痛んだ尻尾を指差す。瑪瑙みたいな青が眼玉模様を描いて先まで広がっている。指先や腕にも波紋の様に広がっていた。 「化粧なんてしないけど、せめて鱗の艶を出さないと恥ずかしい」 「相手俺だから良いじゃん」 「余計に私の身体が悪眼立ちする。そっちは大理石の石像みたいに適怨清和だけど、こっちは毒々しいから悪女みたいで嫌」 空になった缶珈琲を片手に両脚を伸ばした。柑橘類の様に爽やかな言葉の裏には、皮を剥がせば剥がす程に柔い身が現れる。 「綺麗だよ。青い模様が腕とか尻尾とか、身体に広がってて瑪瑙みたい。角の縞模様だって誰よりも綺麗じゃん」身を寄せて突いた。 「なら、胸を張って踊れる」眸を煌々とさせて見上げた。 「そう来なくっちゃ! 沸かしてやろう」 手を差し伸べて、握ったのを見ると支えて立たせた。そして重々しい扉を引いて行く。冷めた廊下の空気を吸うと、肺が凍ってきて堪らない。歩く度に、爪先から温度が奪われていく。少しは毛に守られているが寒いのには変わりなかった。エキドナはどうなっているかと一瞥したところ、肩を縮め青褪めていた。色褪せた彼女の手に添える様握ると、ジンワリと熱が伝わった。殺風景な部屋に戻ると予め整えておいた燕尾服と夜会服を着て尻尾の根部分を留めておいた。そしてエキドナは艶を出す為にと花由来の油を少し塗って、サーフィーは巻き毛をしっかりと固める。部屋を出る前に、エキドナが「会場だと腹が減る」と言って冷蔵庫から紡錘形に膨らんだ檸檬を取り出し、厚い皮ごとガッツリと齧った。酸の舌を麻痺させる味と渋く残る苦味に声を漏らしつつも、脳に昇る爽やかさに思わず笑みが溢れる。あっという間に食べ終わったかと思えば、一口だけ水を飲んだ。サーフィーは丸い眼を向けて立っていたが終わったのを確認すると「じゃあ兄ちゃんなんかより先に行こう」と軽く翼を広げた。そして長々と続く螺旋階段を下って黒い艶のある高級車に乗り込む。座席の敷物は絹に似た触り心地で硬い。樹木の香水が染みついていて薄ら香る。誰の車だと運転席を覗き込むと虎毛の犬が居た。 「彌猴桃……凄いね、こんな高級車出してくれるんだ」 彌猴桃は傷の入った喉を指で撫でつつ、爛れた顔を向けた。 「自分ではなく総帥に貰ったものですから。まぁ、自分が乗っても似合わないから青玉提督にお渡しした方が良いとは思いますがね」 「似合うよ。お前、格好良いじゃん」 「薬剤を掛けられたせいで毛も禿げて抉れて、片眼すら見えていないのにですか?」 寂寞に閉じ込められた哀愁が頭蓋骨からドスンと降ってくる。案の定、怒っている彼にサーフィーはニヤニヤと牙を出して笑っていた。 「容姿の話じゃ無い。今日の朝だって沈丁花が怪我した時に氷で冷やしてあげたり、荷物を運ぶの手伝ってたでしょ。俺にとっては、そういうさりげない優しさが格好良い」 聖母マリアに匹敵する言葉は接吻よりも甘く、そして濃厚である。正義とか秩序とか、硬い物ではなく彼の胸から飛び出して来た純粋な褒め言葉だった。而も薬の効果もあるのか、心無しか傷の痛みもすっかり癒されて、彌猴桃は赤面してしまった。耳を垂らして尻尾を振り回す音だけが車内にペシペシと響き、誤魔化すようなエンジン音が掛かる。クスッとエキドナが影で笑った。 ♪♪♪ 会場近くの金融都市デューディールドルフの教会は白鼠色で天井だけがポカンと抜けていた。するとクルルが「寺院ですか、曼荼羅はありますかね」と訊くとエヴァンはゆっくり首を横に振る。車はいつの間にか絨毯屋の隣にある駐車場に停車していた。パロマは周囲を三度見て、袋から服を出す。しっかりと整えられていたが多少の皺はあった。 「ほら、アンタらの服なら勝手に取ってきたわ。夜会服……あと舞踏靴。さっさと着替えて徒歩で行く事。そして明日の朝に迎えに来るから、此の絨毯屋にまた来て」 追い出すかの様な手つきをする。エヴァンが服を受け取るとクルルは服を大雑把に脱いで片手で畳む。彼が燕尾服を着ている間に背中にある翼辺りの釦を留めて、クルルも着替えを手伝ってもらっていた。腰を限界まで締めて整えると荷物を纏め、煙草を一箱だけ貰って、車から出た。久々に吸う故郷の空気は澄んでいる。道路標識の色と字体にも懐かしさを感じて歩き進めた。高級料理店や宿泊施設の並ぶ街を黙々と歩いているとクルルが歩きづらそうにフラフラとする。それからは歩き方を身に付けたのか蹄の先で跳ねていた。煉瓦の橋やお世辞にも綺麗だとは呼べない溝川も、寧ろ此の街に合っている気がして何だか嬉しさが込み上げてきた。 「先生、嬉しそうですね」 「もう手脚の散った軍獣が縋ってくる事も殆ど無いからな」 雛芥子の看板でも見ながら笑っていると、すぐに店舗の量も減って宮殿が見えてきた。静謐とした空気が張り詰めて、神でも居座っているかの様に燦然としている。エヴァンは腹が動く位に大きく深呼吸して、クルルに手を差し出した。そして添えられた小さな手を握ると、甲に接吻する。熱の無い唇は細かな鱗が揃って並んでいる。隙間からは群青の舌が覗いていた。手を繋いだまま靴音と蹄を鳴らして歩く中、クルルは酒でも呑まされた様に眩暈がして、熱で火照った体を抑えるのに骨折っていた。隣から聞こえる讃美歌の鼻歌も耳から入って抜けてゆく。黄金で造られた太陽と王冠のある宮殿の門を通り過ぎると、雪の積もった噴水や天使の像が見えて来た。そして、警備をしている黒狼と斑の狼が真紅の軍服を纏い立っている。群がる紳士の隣を過ぎて、靴跡の残る道を進んでゆくと開かれた扉へ入って行った。蹄を地面にトンと叩きつけて雪を落とすと、思わず「あっ」と驚いた。玄関の両端には純白の胡蝶蘭が飾られている。天井には薔薇や聖書の場面が極彩色で繊細に描かれ、吊り下げられている大飾灯《シャンデリア》は蝋燭に火が灯されて煌々と輝いている。汚れ一つも無い絨毯の敷かれた廊下を歩けば全面が明層窓で、彩色硝子《ステンドグラス》が嵌められていた。進んで行くうちに薄闇の影や光の濃淡は深まり、着飾った紳士や淑女が奥に現れた。四方八方を装飾する豪華さ、幼少期から洗練された華麗さは眺めるだけでも精神が削られる。もう良い、十分だ、と胃もたれしてしまうのだ。行く道行く道、真っ白い柱に青く描かれた裸体の女に圧巻され、真っ白な夜間服《イブニングドレス》を纏う淑女達から香るベルガモットに巻かれる。隣をエヴァンが胸を張って歩くと、周囲の淑女が頬を染めて寄り集まった。獲物を見つけた蜘蛛の様な眼を向けて、舌舐めずりする。 「ヘレッセン大公家の長男だわ! 綺麗ねえ」 「見て。あの逞しい姿と角。翼も美しい……」 二頭の獅子の姉妹が恍惚と眺めた。クルルが思わず振り返って顔を凝視していると「珍しい光景だろう。どうだ」とエヴァンが掠れた笑い声を鳴らした。すると態とらしく微笑んで耳を倒す。 「ええ、淑女達が札束を見つけた眼をしています。私の事は視界に入っていないみたいですね」 「彼女らは搾りたての鱣子を真珠の匙で食ってる贅沢者の集まりだ。蝶鮫が可哀想でならない」 「どうやって搾り取ってるのかは分かりませんから。惨い事してるんだろうな……、あっ……──……」 ふと廊下の奥を見つめると、鳳凰が居た。頭は金鶏の様で赤毛を龍頸に巻き、鸚鵡に似た嘴を鳴らし、麒麟に似た胴前をしている。肉髭を垂らして叡智を持ち合わせた眼を爛々とさせ、胡蝶蘭にも似た尾羽は五彩に彩られ絢爛だ。クルルが思わず口を開けて眺めていると、鳳凰と眼がばっちりと合った。互いに澄んだ眸をパチクリとさせると、鳳凰は朱や緑、青の羽根の組み合わさる翼を曲げて広げ、鶴に匹敵して細い脚で歩いて来た。 「こんばんは。麒麟と会うなんて、今宵は縁起が良いですね」 鈴を揺らした様な声が澄み渡って響いた。クルルは少し言葉を選ぶ様に俯くと、一歩踏み出して微笑んだ。 「因縁と言われた方が腑に落ちますがね。あ、此の方は私が世話になっているお医者様で……」 「あら、珍しい。こんなに鱗の美しい竜はお眼に掛かったことがありませんわ……。そういえば、東國には来た事がある? 崑崙山に寄って行ってくれればゆっくりお話し出来るのに」 僥倖其の儘の表情で頗る悔しがっていた。ただの獣なら此処で止まるが鳳凰は細い眼でエヴァンの顔を覗き込み、ジィッと動かない。心まで透かして見られている様で気持ちが悪かった。 「うーん、崑崙山はありませんね。張家界や黄河ならありますよ。此の子に案内して連れて行ってもらいました」 「そうでしたか。誰かと話しましたか?」 長い首を下げてまた見た。心臓がキュッと縮まって血を吐き出す。だが冷然と眼を細めて、青い舌で唇をチョロンと舐めた。 「いえ、中華街も通りましたが提灯以外何もありませんでしたよ。龍も蛙も見かけていませんね」 「ふむ、残念です」 眼尻に涙が浮かんだ様に見えた。かと思えば、数歩、細い脚で下がる。そうして淋しげな笑みを顔に残して、 「舞踏で舞う貴方は嘸かし美しい事でしょう。またお会い出来る事を楽しみにしています」と去っていった、 先刻、今居た鳳凰の影、羽根の色までもが眼に焼きついて離れない。宮殿など豪華なだけで寧ろ下品だと思う様になった。クルルは歩きながら「先生」と声を上げる。 「サーフィーの姿がありませんよ」 「会場に居る」悠然として答えた。 「何故お分かりに?」 「地面に縞模様の羽根が落ちていた。あと靴の跡が大きく、異常に深い」 「へえ、よく観察してるんですね。それにしても会場まで道が長過ぎませんか。もうずっと歩いてますよ」 廊下の道が永遠と続いて見えるのも仕方がない。景色も変わらず、天井にある絵画だけが場面場面優雅に舞っている。 「急かすな。向こうに見える行列が会場の扉だ。行きたくないだろう」 純金で造られた上半身だけの鯨の像を指した。矢張り、驚く程に白い扉が開かれて混み合っている。扉と扉の間にある隙間の壁には蝶の絵画と花、そして蔓が丁重に描かれ桃色に染めていた。 「いえ、私は行きたいと思っていますよ」 「そう思うか。なら、早く骨でも折って帰ってしまえ」 強く手首を掴んだ、が、動脈に指の腹が当たり急に緩んだ。肝が凍るくらい脈拍が落ち着いている。 「酷いですよ。先生と踊りに来たのに、そんなに嫌でしたか?」 「いいや、私からすれば楽しみだ。然し他はどうだろうか。直ぐにでも入ってみれば分かる」 踏み出すと、通路を除いて黒白に身を包んだ紳士淑女が列を成していた。中でも眼を惹きつけていたのは端に置かれた管弦楽団である。顎で支え中提琴を弾く猫、隣には鼻の突き出た獅子の提琴奏者、手慣れた様子で喇叭を吹く狩猟豹が並び猫科の動物が身を寄せ合っている。周囲の囁き声によれば皇帝円舞曲が演奏されるらしい。そして、白い壁には年季の入った額縁がびっしりと飾られ、中には絵画が入っている。正面には紙幣の絵にもなったアウレ・ブクセンが濃紺の軍服を纏い旗を片手にした肖像画がある。左壁にはエヴァンに酷似《そっくり》な紳士が時計台の前に立ち、痩せ細った犬に手を差し伸べている絵画もあった。だが全面は塗り潰され、薄ら別の絵が浮かび上がっている。右壁にはグラヴィナ夫妻や國王陛下、貴族同士の舞踏の絵がある。顎を上げて黄金に装飾された天井や絵画を見廻していると、周囲がフッと静寂に包まれた。開かれた眼だけがクルルの方に向く。 「蹄紳士が紛れ込んでいる」一頭の虎が長い顔をして言った。 「鴨鹿ね、汚らしい……! 誰があんなの招待したのよ」 背後の淑女が続いて言うと、また別の所から声がする。 「いいや、鴨鹿には見えない。鹿の淑女だろう?」 「気味が悪い……あんな物が参加するくらいなら帰るか」 奇妙な物でも見たかの様に熊が背を向ける。 「どうせ掃除係よ。あんな醜い生き物の舞踏なんて誰が見るの?」 紳士淑女の顰蹙を買い、ザワッと風に揺れる木の如く雰囲気が荒れ果ててゆく。一瞬、何が起きているのかさえも分からず呆気に取られて、細かく震える唇の間から掠れた声を漏らした。 「何故……」唇が真っ青に染まり汗が垂れる。 「怯えるな。此処に居る紳士、淑女達は蹄のある動物を動物だと認めていない。元々、線路を作ったり荷物運びをしている印象があるだろう」 説明しつつ言葉を頭に押し込んでやって、にこやかに周囲へ挨拶を投げた。途端に会場の獣は顔色を変えて「エヴァン大公に挨拶された!」と沸き上がっている。飛び交う歓声、拍手喝采が風の如く吹きつけて鼓膜を突く。直ぐ隣を歩く麒麟は今にも泣き叫び縋りつきそうな顔に、忍耐の皺を刻んでいる。エヴァンは其れを覗き込んで見ると酷く悲愴を含んだ眼差しが返って来て、忽ち惘然と絵画の方を眺めた。 「私は鴨鹿じゃありません」空気を裂くような声が落ち着いて響く。 「……兄様に挨拶をしなければならない。今、喧嘩をして体力を擦り減らしたら踊れなくなるだろう」 「喧嘩なんて、する気ありませんよ。ただ……──私が何者なのかだけでも知って欲しいんです。私は麒麟ですし、歴とした動物でしょう? ね、先生。分かるでしょう」 恐れを含んだ声は動脈瘤の様に膨らんで、今にも破裂してしまいそうだった。それでも、しっかりと服の裾を掴んでジッと動かない。すると、エヴァンの顔からは愛想笑いが粉々に散った。軈て痛々しそうな顔をして見返す。 「君は動物だ。今、意思を持って私と話している。それに……、兄様の所に行って御目出度うと拍手してやらないと可哀想だろう。花は用意していないから代わりに紙を折った。此も渡す」 手品に似せて取り出したのは、彩色紙幣を細かく折り曲げて作られた鳳蝶である。煌びやかにも見える翅を見るなり「あら! 器用ですね」とクルルが手を叩いて喜んだ。其れからは挨拶を交わしながら獣混みの間を通って忙しそうにした。動物紳士らは青褪めてクルルを避けたが、唇の間から覗く牙を見て愕然とし、すっかり静かになる。二頭で周囲の動物達の中からグラヴィナ大公を探していると、明らかに高級そうな燕尾服を纏った紳士が一頭居た。高山竜だと一眼で分かる山藍摺の毛並み、紺の斑点模様が顔から雀斑の如くある。角は太く反って艶やかで両瞼の上には赤い飾り羽がある。そして緋色の眸を輝かせていた。何やら、背の高い白狼と談笑しているらしい。エヴァンは少年心が芽生えたのか、密かに背後から忍び寄り鳳蝶を見せつけた。 「やあ、兄様。お久し振りです。結婚式に参加出来ず、申し訳ありません……遅れましたが御結婚御目出度うございます」 恭しく頭を下げてぐっと身を寄せた。ゼルリアーノは戸惑いもせずに鳳蝶を指で摘んで「此で貴殿から貰った鳳蝶は三四匹だな」と仕舞う。 「こんな弟を持った覚えは無い。而も、何だね? 隣に居る輩は」 「クルルという麒麟ですよ」 腰に手を廻して正面に差し出した。すると叱る事も無く、微笑んで優しく握手する。鉤爪は短く切られていた。 「ふーん、安心した。私に黙って結婚して妻でも連れて来たのかと」 「はは、弟が結婚してしまうのは矢張り淋しいですか」 揶揄を含んだ言い方にゼルリアーノがにやっとする。 「勿論、寂しいとも。弟はいつだって近くに居て欲しいものだ。ほら葡萄酒でも飲むと良い。君、注いでくれるかね」 戦慄している白狼の肩をポンと叩いた。すると、白狼はハッと眸を揺らして瓶のある所までトコトコと走ると、グラスを傾けて全て注いだ。サラサラと透き通って入ると、生血よりも紅く溜まる。そして予め用意されていた幼虫の料理を指して「さあ、ポワレと御賞翫くださいませ」と手を差し出した。エヴァンはゼルリアーノの顔を一眼見ると先に飲めと言われ渋々グラスを持つ。 「先に一口」傷が入らない様に指の腹で持ちつつ、軽く揺らして匂いを嗅ぐと、小さく相槌を漏らしグイッと傾けた。舌を濡らす程度しか飲んでいないのに、腐植土に尿でも掛けた様な匂いと果実の渋みが口中に広がる。然し苦い顔一つせず陶酔した様な心地の良い顔をした。 「ふむ、まろやかだ。舌触りも良い……」 鉄砲虫のポワレをサッと口に運んで葡萄酒を飲む。クルルは相当不味いんだろうと震えて飲んでみたが、口に合ったのか飲み干した。 「そういえば近日、北欧戦争より凱旋したサーフィー提督は?」 「また寝惚けたことを訊く。後ろに居るだろうが」 信じられないと振り返ってみると燕尾服に締めつけられて辛そうなサーフィーが立っていた。堂々と胸を張り、伸び過ぎていた巻き毛を揃えてワックスで塗り固めている。クルルはエヴァンの翼に隠れてブワァッと物凄い声を立て大笑いしていた。 「はあ、こんばんは。兄ちゃんとクルルも態々御足労頂きありがとう。先刻ディアーノさんが向こうに居たよ。俺はしたけど、どうせ挨拶すらしえないんでしょ? して来たらどう?」 喉に氷でも詰めたのかと訊きたくなる程に冷ややかな態度だった。空気も同時に緊迫感を増してゆく中、エヴァンは神経の奥から軽蔑して吐きそうだったが笑みをどうにか貼り付けた。 「態度が良いとは言えないな。踊り相手は居るのか? 残念な事に俺は相手をしていられない」 「俺ならもう相手は居る。馬鹿親父の娘と踊るよ。彼女の事はよく知ってるでしょ? もう行かないといけないから」 怠そうに背を向けると靴を鳴らして獣混みに紛れた。エヴァンは周囲から見て分かるように不快そうな顔をすると、深い溜息をついて葡萄酒を傾けた。 「全く、貴方の父に酷似していますよ。燕尾服に灯油を掛けて燃やしてやれば良かった。馬鹿親父って誰の事だと思います? 両親が死んで私と彼を育ててくれたあのノエル・ガルシアの事です」 「腐れた名を私の家で出すな。不愉快だ……汚らしい」 汚れた雑巾を投げつけられた様に皺を寄せて、顎の髭を弄った。 「何で其の方は嫌われてるんですか?」 クルルが頭を傾けた。するとエヴァンは少し酔ったのか熱の籠った眼を向けた。怒りなのか悲しみなのか分からない、全ての感情を鍋に突っ込んで混ぜ廻した様な眸が潤んで見える。 「私の家にあった私物を売った金で女を買い、孕ませて、いつの間にか逃げていた記憶上で三番目に最悪な悪漢だ。サーフィーはあの男から酷い仕打ちを受けていた」 「へえ、酷い仕打ち」顎下に手を添えてみる。 「鞭で滅茶苦茶になるまで打っていた。庇って私が押さえつけてやろうとしても敵わない。後は道化師みたいにサーフィーを見せつけて触らせて金稼ぎをしたり餓死寸前まで飯を抜いていた。だから木苺だけでもと兄様とかに貰ってたんだ」 「ふーん、木苺。私が渡していた林檎は口に合わなかったのかね?」 怪訝そうな顔をして暫くは口角を下げていたが、エヴァンは冷や汗を拭う振りをして「そんな失敬な事」と尻尾を揺らした。 「悪友が食べてしまいましてね。……あら、彼女は奥様ですか。イングヴィ兄様と話している様ですが」 覗き込むと、左右で赤黒と鱗が全く違い、黒赤の二股帽子に似た角を持ち合わせた紳士が微笑んでいた。其の隣には赤毛の高山竜が長い毛を櫛で解いている。 「左様、マルゲリータだ」 「ふーん、イングヴィ兄様とマルゲリータ夫人は共に踊るんですかね?」 クルルが一瞬の隙に頬を緩ませたが大急ぎで口許を覆った。一方でゼルリアーノは顔を林檎よりも真っ赤にして鉤爪を剥き出しにした。そして頭を下げると立派に伸ばした角を向けて唸る。 「私と踊るに決まっているだろうが。身分を弁えろ」 「ふーむ、身分か。シッカリと弁えていますよ。ほんの少し冗談を言っただけなのに怒るなんて。もしかしてイングヴィ兄様に最愛の妻が取られるのは、想像上だとしても気に食わなかった? 純愛じゃあないですか」 「そもそも招待したのが間違いだったのだ」額に手を当てて項垂れた。 「過去の自分を責めないであげてください。私は舞踏よりも兄様を祝福する為に来たのですから」 「祝福だと? 馬鹿にしに来ただけだろう」 噛み付く様な形相で鼻を近づける。彼は怯む事無く微笑むと肩を軽く叩いて手を握った。 「いいえ。動物紳士、淑女達に膾炙されていらっしゃる兄様ならばお分かりでしょうが、貴方の御結婚は世界中にとってお目出度いのです。まぁ、でもそうですね……。此処は狭苦しいし、体格の大きい私なんかを招待するよりも鼠を沢山招待した方が良かったのかもしれませんね」 不穏な空気が張り詰めていく中、クルルは頭にある案を繋ぎ合わせては離してを繰り返していた。縫合糸で紡いでいく様に少しづつ選んで凝縮する。 「私は踊りたかったので招待してもらえて嬉しいです」 悩む時間も無く、一喝を受けるかもしれないと眼を瞑った。然し幾ら待っても拳は飛んで来ない。寧ろ、にこやかである。 「ふーむ、残念だ。埃と大差ない弟と踊るには勿体無いじゃないか」 エヴァンは口を噤んだまま頷くと、「メリークリスマス」とお辞儀した。周りを見ると舞踏が始まるぞ、と周囲も列に並んで手を取る。演奏される曲も円舞《ワルツ》と呼ぶ程なんだから円陣に廻るのだろうとクルルは予想した。 静寂が訪れると、グワンと指揮者が腕を振る。そして進行曲かと思われる音調で曲は始まった。曇天から陽が射して濡れた葉の上にいる瓢虫が列を成す様な大提琴の演奏が広がる。エヴァンは腰に手を廻したまま手を取って、クルリと廻転しながら円を描いて踊る。クルルは身を任せて滑らかに舞った。カツ、カツと舞踏靴の音が鳴り、淑女だけが身を廻して前に動けば、後に紳士も身を廻して動いた。また手を取り合って背に手を添える。気がつけば円から形を変えて交差したりした。軈て、曲は音を立てて流れる川、森を覆う樹木、そして街並みへと移り変わり國全体の景色へと場面が捲られる。絵画の如く景色が繊細に奏でられてゆくと舞姫が脚を高く上げて踊り廻る姿が眼に浮かぶ。広い大理石の床、皇帝さえも陶酔する美しさ。徐々に高々と鳴っていた音は階段を下るが如く小さくなり、刹那の間に静まる。ゼルリアーノが魅せてマルゲリータの手を握り物凄い勢いで廻った。円の端に居るサーフィーが一瞬表情を崩して、直ぐにエキドナの手を支えて廻る、廻る、廻る。そして仕掛けて抱き上げると淑女達はまた宙を舞った。透き通った汗が散る。それでも曲は終わらない。ヴァイオリンの音色が重なり、熱が差した。衣裳の襞飾りや飾られた花の彩り、優雅に舞う動物。噴水の波紋までもが鮮明に見える。微かな低音が轟くと、花弁が散って地面に張り付くまで見える。優雅な音は鳳凰の鳴き声にも聞こえた。そして提琴の蔓の様に緩やかな音が暫くの間漂う。楽器達の掛け合いが始まると賑やかになった。ディアーノが淡い毛色の大山猫が笑顔を弾かせて大きく廻る。胸を張り、存在を主張しながら派手に決めていた。楽器も熱っぽく歌っていたが、疲れたのか静まっていった。高潔だが静かな音色の後には、喇叭の煌びやかな音色が高々と鳴ると曲は終わりへと近づく。終わりを飾る絢爛たる花の如く咲き誇った。サーフィーが慣れた様子でエキドナを支え睫毛の隙間から顔を見つめる。 円舞曲が終わると、場に居る動物達は葡萄酒を交わして乾杯していた。当然、ゼルリアーノももう一杯呑もうとグラスを持ち上げたが手が震えてガシャンと落とした。硝子の破片が砕けて散る中、赤葡萄酒の跳ねた服は濡れて染みがある。遠くから見ていたエヴァンが急いで駆けつけると床に散らばった破片を一つ一つ拾い、手巾に包んだ。 「申し訳無い。汚れてしまったから浴室で洗って来る」 「いえ、お気になさらず……」 手に染みた血を手巾で強く押し付けて穏やかにした。それからゼルリアーノが恥ずかしそうに退室した後、クルルが興味半分でイングヴィに話しかけて面倒な事になる。麻雀の牌の話から回転盤に球を入れる方法まで話している内に、クルルは感心して眼を輝かせていた。 「ははあ、イングヴィさんは博識多才な方なんですね。容姿端麗だし欠点がまるで無いじゃあないですか」 回転盤の様な色合いのイングヴィは左右色の違う顔を向けて、頬を染めていた。そして向こう側で硝子を集めては捨てているエヴァンの姿を一瞥してクスクスと笑い声を立てると声色を黒砂糖よりも甘くする。 「そう褒められても困りますな。ほら、仮にもエヴァンと来ているんだから。彼、不機嫌になってしまうだろう」 名を呼ばれ聴覚が冴えたエヴァンが頭を擡げた。 「勘違いされてる様ですが、先生は嫉妬なんてする男じゃありません」 「へえ意外。サーフィーはよく嫉妬するじゃないか」 背後で菓子を頬張っていたサーフィーも心外だと怒りを露わにした。牙を剥き出してぐわっと頭にでも噛みついてやりたかったがぐっと堪えて他所を向いた。 「ふん、分かりやすい嘘を軽々と吐かないでくださいよ。此の頭に花を生やした麒麟が勘違いするでしょ」 冗談と皮肉を煮て、友愛を加えた様な言い方だ。胸の一部が抉れたが爪先程の大きさで痛みは無かった。それでも腹の奥では矢張り腹が立つ。クルルは一歩踏み出すと対抗して「頭の中がお花畑なのはどっちかね」と言葉に棘を生やした。二頭はたった此の会話だけでカチンと来て喧嘩腰に「毛むくじゃら野郎」だとか「角が薄汚い」だとか口論して、何方が悪いのか判断してもらっていた。流石のイングヴィもお手上げで宥める事しか出来なかったが、片付けを終えたエヴァンに二頭共軽く蹴られて落ち着いた。 「すみません、弟と連れの者がご迷惑をお掛けした様で」 不貞腐れたサーフィーの背を強く叩いた。バンっと太鼓にも似た筋肉の音が響くと叩かれなかったクルルがニヤリとした。次の瞬間には蹄に激痛が走る。 「いやいや、賑やかで良いね。随分と若いじゃないか」 横に長い瞳孔を向けると、二頭は愚痴をダラダラと漏らし、肩を窄めて何か言いたそうに互いを指差していた。 「何を言っているんです……兄様も未だお若いでしょう」 「無理して言わなくても良いのに謙虚だね。それにしても……ゼルリアーノはいつ帰って来るんだろう?」 粘つく疑惑が畝って頭一杯に蟠る。サーフィーは苦い唾を呑み込もうと咽喉を動かした。だが唾すらも通らない。ヒヤリとした物が背中をそっとなぞって下へ下へと消えてゆく。交わした言葉も円舞や口論等が全て塊になり傾斜を下り落ちる。途端に心臓が跳ね上がり、大動脈から絞り出された血が全身に巡るのを感じた。バクンバクンと音を刻んで膨張する。抑えろ、静かにしろと心で怒鳴りつけながら平然を装う。 「几帳面だけど、こんなに掛からないよね。見て来ようか」 サーフィーが走ろうと脚を曲げると、エヴァンが首を横に振った。 「私とクルルで見て来る」 切り捨てる様に言い放つとさっさと扉の向こうへ消えていった。廊下を過ぎて階段の隣を走り、曲がると広々とした大理石に囲まれた浴室があった。細かな模様が刻まれており、紅の襯衣だけが丁寧に折り畳まれて置かれている。直ぐに扉に手を伸ばして開けると、心臓に穴が空いた。服の乱れる浴槽には湯が溜まり、ゼルリアーノが手脚を伸ばしたまま深い眠りについている様に見えた。顎は落ちてガックリと項垂れ、耳は立ったまま動かない。毛は濡れて垂れ、瞼が重く下がっている。黒い唇は乾いて、牙や色褪せた舌が見えた。 「兄様」 一言呼び掛けて、手を握ると氷の様に冷えて硬い。首に手を回すと筋肉や脂肪が硬直してガッチリとしていた。揺さぶっても、頭がグランと下がるだけである。床に転がるシャワーは勢い良く水が吹き出していた。エヴァンの口許には噛み締める様な微笑がしっかりと張り付いている。 「先ずは会場に居る動物に此の事を伝えて、速やかに警察を呼べ」 クルルが「遺体を火葬しなければ」と叫ぶ暇もなく冷ややかに言われた。此処はロザンデールであった、思い出しつつ「わ、分かりました」と返事をする。獣の死に慣れきった自分が何だか恐ろしかった。 「イングヴィ兄様、マルゲリータ夫人、サーフィーとエキドナ、ディアーノにも説明を」 「連れて来ます」 蹄を鳴らして掛けていくと、真っ先に眼の下を濡らしたマルゲリータが飛んで来た。涙をハラハラと落として唖然として口を塞いだ。 「ア、貴方ッ」 そう叫んで濡れた屍体に縋りついた。硬く冷え切った体にゴワゴワとした毛並み。死を触れて感じて肌の下まで貫いてくる。あんあんと慟哭して崩れ落ちる彼女を横眼に、不服そうな鯱が出てきた。 「今日初めての挨拶が此か。毒殺? 持病?」 舌を見せゲラゲラと豪快に笑って見せるが、明らかに引き攣っている。マルゲリータはカッと振り向いて怒りの形相で「主人は病気なんか持っていません……アレルギーも……」と細く弱い声を出した。ディアーノは胸に刺してある造花を取るとゼルリアーノの角許に留めて、哀しげに毛を撫でる。騒ぎを聞きつけたサーフィーは愕然として膝を震わせていた。 「毒殺か。ロザンデール史であったよな。名門家同士での交流で片方が相手に毒を盛って殺したんだとか……もしかしたらエヴァンにも盛られていたのかもしれん」 「毒なのかは司法解剖をしないと分からない。最初に、今日の舞踏会が始まる前の流れから纏めなければ」 彼の唱えた毒殺説を聞かなかった事にして頭で説明を促した。するとディアーノは此処で話すのもいけないと思う、と周囲を態とらしく見廻した。 「なら、二階の部屋へ行こう。奥様は側に居てあげてください」 イングヴィに案内されるがまま、広々とした階段を上った。天井画も広がり遂には黄金の空と雲が広がり、神が赤と青の服を靡かせて手を差し伸べている。ゼルリアーノ兄様はあそこへ行ったんだ。きっと、甘い泉のある楽園に違いない。見上げてそう信じ、暗い廊下を歩く。絨毯は薄汚れて泥がついていた。使用獣の鈍臭いズボラな性格が滲み出て見える。呆れて溜息も出ずにいると、艶のある黒檀の扉が眼の前に出てきた。入れば窓帷も机も寝床も紅一色に染まっている。肘掛け椅子は六つあり、其れを綺麗に並べると其々ズシンと腰を下ろした。 「俺から話そう。俺は時間を間違えて早く来てたんだ。だから随分と待ち時間が長くなって、待機室みたいな所で菓子を食ってた。そして暫くしてから俺の銀行、イエロー・オルカの幹部を連れて来ていたから彼らと周りに挨拶をしてから雑談していたな。ゼルリアーノ大公は後々出てこられて俺らと話して、それからはお前が来るまで赤葡萄酒を一口も飲まずに北國から来た狼と話してたなあ。クラウジーとか名乗ってた。三十分かな、お前とクルルが来て話したろう。喧嘩腰になっちゃったりして、赤葡萄酒を飲んで舞踏が始まった。此の後からは此処の全員が知ってる通りだ。赤葡萄酒が服についたから洗うとか言って浴室に足を運んだ。それから随分と時間が過ぎたから不審に思ってエヴァンが向かうと浴槽でグッタリとして死んでいた。俺の知る限りでは此で全てだ」 いつの間にか安そうな紙煙草を咥えて旨そうに吸っている。部屋中を充満している副流煙にサーフィーが咳き込んでいるとエヴァンは疑惑の眼差しを向けて訊いた。 「フム。サーフィーはどう行動していた」 「……先ず部隊の経過報告集会後にエキドナを誘って車に乗って来た。それからは喫煙所も無いから門の向こうでエキドナに煙草吸わせて、そうしてる間にディアーノさんに挨拶をした。そうだよね? 其れからは少し遅れてきたゼルリアーノ兄様に挨拶をし、踊った後には用意されていたショートブレッドを食べたよ。直ぐにでも帰ろうと思ったが、俺は手紙で高級な赤葡萄酒を買ったと聞いていたのを思い出して会場に行ったんだ。でも瓶すら見えなかったからマルゲリータ夫人に『こんばんは。今宵は兄様が素晴らしい赤葡萄酒を用意してくださっているとお聞きしましたが何処にあるのでしょう?』って訊いてみたんだ。そしたらイングヴィ兄様に渡したわとお答えになった。だからイングヴィ兄様の元へ行って呑んだよ。そしてずーっと話してた。此処から先は兄ちゃんの知ってる通り。嘘だと思うならイングヴィ兄様に尋ねてみては?」 エヴァンは瞼をパチクリしてイングヴィの顔を見た。すると声を掛ける前に黒い横顔に黄緑の眼玉が彼を捉えてジイっと見つめられた。 「左様。僕は会場に来てから真っ先にマルゲリータ夫人と談笑して、其れからはずーっとサーフィーの隣に居たよ。勿論、会場の紳士、淑女の皆様に挨拶を済ませてからね。後々、エヴァンが来たから話していた」 ニヤ、と不自然に下瞼が吊り上げられる。サーフィーは芋虫が落ちてきたかの様な顔をして青くなっていた。震えが止まらないなあと両手を組んで気を紛らわせていた時、エヴァンが放心しているクルルの肩に手を添えた。まるで棚に凭れるみたいに力を抜いて、安心し切っている。 「俺とクルルは一緒に来て、ご存知の通りゼルリアーノ兄様と話していた。踊った後はイングヴィ兄様の言う通り遅めの挨拶を交わしたところだ」 ほう、と一言。それからは鋸もお手上げな厚みのある静寂が天井からガーンと落ちてきて頭が痛くなる。シーーン…………キィ──ン…………と耳鳴りが絡まったと思えばサーフィーが靴の音を鳴らし、椅子から立った。 「軍に報告の電話しないといけないから席外して良い?」 「此の場で電話出来ないのか」溜息混じりの声には失望という言葉が似合っている。思わず身を乗り出して両肩を物凄い勢いで掴んだ。爪を剥いて食い込ませながら、牙をガッチリと噛み合わせて震えている。 「報告を態々此処でしないといけない? ははは、そりゃあ無いよ……」 「そうか。まさか、逃げるつもりじゃないだろうな?」 まるで針だ。尖りすぎている。そして言葉の針が一本、二本と増えて心に穴を作った。そして返す言葉を考えようとすると心が脈打って針を落とし、穴からドバドバと何かが噴き出してくる。 「……逃げたら此処で頭を擦り潰してやる。安心して待つと良いよ」 「ほう、頼もしい」爬虫特有の細い瞳孔を向けて一瞬素直に笑った。 ♪♪♪ そんな兄を背に部屋から出てゆくと、サーフィーは堪えていた不満を吐き出して雪で冷めた空気を一気に呑み込むと胸を張った。階段を下り、廊下を歩いていると警察とすれ違う。事情聴取をされる前に、軍へ報告がありますのでと言って其の場を後にした。彫刻も見ず、淡々と進めば玄関まで来る。そしてアッと肝が凍る音がした。鳳凰の尻尾の様な胡蝶蘭が垂れて両端ある。白い息を吐きながら蹌踉めいて外へと駆け出すと、警備の狼が入れ替わっていた。「どういう事だ」と問い詰めて壁へと押しやると焦茶の痩せた狼は外方を向いて「本部からの命令であります」と苦々しく答えた。暗礁に頭を打った様な眩暈と衝撃に血管を浮き上がらせつつも、大きく深呼吸してしっかりと狼を見る。 「命令を一文一句間違える事無く言ってみなさい」 「……『十二月二十五日に開催されるゼルリアーノ・グラヴィナの結婚式祝いの舞踏会がある。其処での警備はPLAの者が警備をする事になっている。彼らは我々ロザンデール國を崩壊させる為、まずは國の象徴とも呼べる王室に行く前に大公から始末するつもりだ。我が軍は國の為に戦う。國家の重大危機を阻止する為に現場に潜入せよ』と」 「……──そしてPLAをどうした?」 「連行しました。現在事情聴取しているとの事で」 説明をしようと手を出したのを見て咄嗟に「もう良い」と怠そうに言った。倦怠と焦燥で気が狂いそうになりながら噴水の近くへ行くと電話番号を押して高性能携帯電話を耳に当てた。プルルと音を鳴らして揺れると直ぐに声に変わる。青玉だと一声掛けると想像とかけ離れた言葉が聞こえた。 『此方、天青石《セレスタイト》。要件は?』 掠れた声でバサバサと毛と机が触れ合う音が聞こえる。不信感を抱きながらも素早く説明した。 「今日六時半より私、エキドナ、エヴァン、クルルが参加していたデューディールドルフのパトラッカ三百番地にて開催されていた舞踏会場でゼルリアーノ・グラヴィナが八時三十四分に遺体で発見された」 『了解した。死亡原因の見通しはあるか』 「赤葡萄酒を口につけた後から足取りがおかしかった為、其れが原因だと考えられる。ゼルリアーノが落として割ったグラスの硝子片がある為、成分を調べてみれば分かるかと」 『現場に居た全員の名を挙げろ』 自分の名を言ってから次々に名を出していく。途端に電話相手は相槌も打たず紙に名を書き記している様だった。軈て数を数えて『此方でも調べる。現場で待機せよ』と命令した。 「はい」 『後、落ち込むな』 歯切れの良い声に頭を上げる。涙が頬を流れるかと思えば、何も出なかった。心は声を上げて泣いているのに、何故出てこないのか。 「……ありがとう。一つ訊いても」 『簡潔に』 「何故、総帥に電話を掛けたのに天青石が応答したのか」 『総帥は多忙で別案件に対応している。故に私が応答した』 「はあ、了解」溜息混じりに電話を切ると、海軍に同じ事を言って門に深く凭れた。分厚い衣嚢から飴玉を一粒取り出し口に入れる。舌で転がして眼を瞑った。さて、どう仕掛けてやるか……と。 ♪♪♪ 愉快な鯱は面白おかしく銀行であった話をしながら煙草を次から次へと咥えて煙をふかしていた。白長須鯨のマキュラスが投資しようとして辞めた会社が倒産した話、眼玉のデカい変な顔をした南象海豹と南極旅行に行こうと集まったら妻が何十頭も居て驚いた話などだ。聞かされる内にクルルは憂鬱になって西洋溷廁《トイレ》に立て籠もり、イングヴィは眠気を我慢し黙って頷いていた。エヴァンが其の話を折ってやろうと立ち上がり「外で、煙草吸わないか」と肩を叩く。ディアーノは自分が誘われたと信じられず、見上げているだけだったが直ぐに立つと後を付いて行った。話は其れでも途切れず、企鵝の色が俺と酷似してるから白い絵の具で塗り潰してやったとか、鯨の前で魚と嘘をついて鯨肉を食ってやったとか散々である。疲労で脳が潰れそうな時、やっと岩階段のある裏門に辿り着いた。景色は一面真っ白で爪先が冷える。 「おお! こんな所があったんだな。掘り起こしたら財宝でも……」 チラッと舌を見せて掘る振りをした。エヴァンは呆れ切って「無い」と答えると螽斯の絵がある紙煙草を咥えてフーッと火を吹いた。 「やってみなきゃあ分からない。お腹を壊した麒麟さんでも呼んで来て掘ってもらおう」 「もし純金や真珠が出てきたらどうする」 「家にある標本と剥製に飾りつけをしてやる」 呆気に取られて「兄様も剥製にするのか?」と小声で訊いた。すると笑いもせず、真剣な顔つきに変わり白顎を撫で始める。 「うーむ、流石に難しい。見つかったら困る……でも毛皮くらい貰いたいな。俺の下着が古くなったから」 敗れそうになった燕尾服を脱ぎ捨てると、焦茶のゴワゴワとした毛皮が露わになった。毛は長々として古いが手入れが行き届いている。まるで生きている様な触り心地だ。少し油っぽい皮に爪を立てて撫でながら「誰の毛皮だ」と顔を一瞥した。するとディアーノは口角を上げてアッハッハと豪快に笑った。 「コイツは後輩のベネットという麝香牛だ。彼、体臭がキツくて吐きそうだったから同僚に虐められておかしくなって、風車に頭突きして死んだから加工してやった。着てみるか?」 「嫌だ」 「誘った癖にノリが悪い」 何が言いたいのか、と黄色い眸を向けた。乾燥したのか潮で傷めたのか結膜が真っ赤に染まって眼が不気味に見える。ジイと眺められて渋々に「悪かったな、色々」と煙を吐いた。 「何でお前が謝る? 罪悪感でもあるのか、らしく無いなあ」 訛った那保里《ナポリ》弁に押されて胃が痛んだ。胸を短刀で切り開いて顔を引っ付けて覗かれた位、厭な気持ちになった。 「ある。だが、おかしな事に俺はゼルリアーノが死んで安心している。表すなら虚しいと嬉しいの狭間だ。可笑しい」 灰の落ちる煙草を持ってみる。先は紅くパラパラと火の粉を落としていた。流れる煙は白く瑠璃紺の空に溶けて消えた。ディアーノは燕尾服を着直すと砂埃を落として木製の箱を開いた。すると真緑の葉に紫の帯を巻いた葉巻が詰めて入っている。先を切り落とすとエヴァンの煙草に当てて火を移し、口に咥えてからフウと煙を吐いた。 「……なあ、お前、身内を何頭失った?」 「両親と親戚は大体死んだ。数え切れない」 「はは、多分お前はいつか失うかもしれないと恐怖に思っていたのが失ってから不安も失せて安心したんだろう。分かる、分かる」 クツクツ笑いながら腹を抱える。徐々に眸が別の方向を向いて虚を捉え始めた。夢の中に居るのか現実に居るのか区別もつかず、ただ笑い転けていた。エヴァンは眉間に皺を寄せて離れると別方面を見た。枯れ木に雪が積もって白い。 「皮肉でも言いたそうに見える。幸せだっただろうに突拍子も無く兄を失った奴には分からないだろうが……」 「そう臍を曲げるなよ、臍なんて無いだろうけど。でも安心より嬉しかったな」 「何故」驚愕して噛み付く様な視線を浴びせた。 「親友に叩き殺された後、黄青椒や珊瑚樹茄子を詰め合わせた派手なスープされて刎頚の友に食べられるなんて。而も革は鞣されて靴にされ、骨は骨格標本となり俺に贈られる。死んだ後こんなに再利用される奴が居るか? 悲しみより羨ましさが勝った」 スープを食べる振りをしてまた笑う。エヴァンの舌には芳醇な風味と苦味のある味、出汁が広がり、数年前に飲んだスープの味が染みて思い出された。噛めば肉の旨みが出てプツンと弾力のある所が切れる。そしてあの日も赤葡萄酒を添えていた。当時の彼は何故、白葡萄酒ではないのかと訊いたがボニファーツに誤魔化されたらしい。腹でグチャグチャに混ざっている消化物が音を立てて上がっているのか、酸味を感じた。 「……信じたくはないが美味かった」 「ふん。高級魚なんかより美味いだろう。そりゃあそうだ!」 「でも俺はあれからボニファーツに出された料理が一口も食べられなくなった」 「食ってやれ。あの時は不景気で飯も貰えなかったから仕方無い」 「お前の兄貴は死んだんだぞ?」 ディアーノは葉巻を一度鰭手に握ると、暫く空を眺めて「ウン」と頷いた。気がつけば火山灰の様な雪が空からサラサラと舞う。雲の間から顔を出した月から流れた光を纏い、地面へと重なっていった。 「でも、お前の血肉になったと思えば気にしないよ」 「其の、俺の血肉となっている筈のクロイツや母様が俺を呪ってるんじゃ無いかと時々思う。夢に何度も何度も花束を抱えて嗤っているから寝れない」 「そんなに臆病な奴が医者になって良いのかね」 乾いた冗談を折り曲げてカラカラと笑う。エヴァンは屈んで雪を掬うと丸く固めた。そして転がしながら「悪い」と言い切った。球は雪面を転がって大きくなると壁際に置かれた。 「だが死ぬのがどうしても怖いから医者になったんだ。医学の知恵があれば爆破に巻き込まれたりしてもどうにかなると思った」 「馬鹿だなあ」釦を千切って球の腹につけると、また雪を丸めて上に乗せた。そして地面を掘って丸い石を見つけると顔につけて眼と口と鼻をつけた。木の枝を二本つけて両手、口には煙草を咥えさせて火を点ける。二頭は雪達磨の隣に腰を下ろして壁に凭れた。 「でもさあ、医者は大事だよ。志せる時点で優勝じゃ無いか。俺なんて銀行だ。金なんて焼けたら紙屑なのにね」 雪達磨の背を撫でながら満足そうな顔をする。煙草の熱で顔は溶けかけていた。 「だが、イエロー・オルカが倒れたら世界はどうなる」 「大恐慌だよ。何処を見ても倒産倒産倒産倒産!! 株は大暴落して畜生共は大混乱。関税でもして縮まれば不況。俺らが子供の時と瓜二つになる。又はもっと最悪かも」 両手を広げて、また天を仰いで大笑いした。雪が舌に積もるのでは無いかと心配になる位口を大きく開けている。エヴァンも頬を緩ませて「抱えている物が大きいな」と感心した。 「豪放磊落な俺に適してるだろう! こんな汚い性格だからボニファーツと合うんだ。お前は汚れている所が違うから、奴とは合わん。奴も俺も倒錯的なんだ」 「其の一言でヘレッセン家の名誉は守られたな。今更、名誉なんて一欠片も無いが」歴史的にも冷え切った冗談に思わずディアーノも苦笑いを浮かべていた。然し眼を開くとエヴァンは青褪めて酷く震えている。小声で「寒いか」と訊けば「違う」と言われ、軈て泣きそうな顔になった。悲愁に怒りの紅が差して火照っていた。 「何だ其の形相は。憤怒の悪魔にでも取り憑かれたのか? 教会で聖水を浴びせなければ」 雪を掬って投げつけた。だが命中して鱗の隙間に積もって白くなる。そしてハラハラと粉になって落ちた。白息を漏らして両手で顔を覆うと項垂れる。 「酔いが醒めてきたらしい」 憂鬱そうに地面の雪を見る。熱で雪が溶けたのか泥が混ざり黒ずんで洋袴と尻尾の腹を汚している。其の間にディアーノはせっせと木箱を取り出すと先刻の葉巻を握らせて「なら、此でも吸ってろ」と渡した。エヴァンは大麻と書かれた帯を見て返そうとするが止まり、握り締めて衣嚢に入れた。 「受け取っておく」
遺書
此の遺言を日々毎に更新して、死ぬ前にはワッ‼︎と消してやるのが私の生き甲斐である。私の小説は見ての通り、生きている間に有名になる事は無かった。此を塗り替えることが(書き換えることが)出来れば死ぬ理由も無くなるが、それじゃ面白くないと思うのも事実である。勇気は私を裏切るし、寧ろぐちゃぐちゃに捻り潰してきた。馬鹿げた事だと頭を抱えて、血と涙の混ざった液で顔を塗りたくって、あぁぁぁぁとだけしか叫べない。そんな日々が、今じゃ溶けた霜の如く淡い記憶として脳に置かれている。然し乍ら、勉学というものは私を必ず守っていた。いつでも其処に居る。常に手を差し出して微笑んでいる女神。私がどんなに挫けても、彼女はただ微笑んでいた。つい恍惚として見入ってしまい、手を握った途端に悪魔だと気付かされる。あんなものがあるから戦争があるのだろうし、また、世界は成り立つのだろうと思う。学問というものは現在あるものを知る事、あるということを知る事、どうすれば出来るのかを知る事だろうと思う。 是等の妙な私見は今、即ち学生時代に出したものであり、後々学ぶ事を繰り返すうちに刻々と変化してゆく事だろう。ハラハラハラハラ。 ここで一つ余談を挟む。私が小説を書き始めたのは、一つ罪を犯してからのことであった。一人の女に嘘をついて、其れを嘘だとも知らずに罪を塗り重ねた。あるときそれが嘘だと気がついた。眼を背けていたのだろうが、事実だと思っていた事は全て嘘であった。絶望の淵から突如として文が思いついてきたのだ。(スイスの)連なる山脈を越えてゆくと、其処には角砂糖の様に白い病院があった、と。中庭は植物で緑に彩られ、苔も生え茂っている。こう一つ一つ文が浮かぶともう止まらない。私は現実逃避をしてやるぞっと一言呟いて、馬鹿になって書き綴った。ああ、惨めな事に此の有様だ。きっと酒が入ればもっと良い文が書ける。然し、ふうむ、或日には繰り返した罪の懺悔に溺れてきたからこそ平和に両手両脚を持って生きている事が信じられなくなる。事実、私が犯してきた罪は腕一本、指二本に相当する程だ。どうせ、人をどれだけ助けても行き着く先は地獄だと思う程に。そうならば、此処を天国に見立てて楽しむしかないだろう。一つ臨むなら素直に人を愛してみたいと思った。そして、此の年の春、椛という女に惚れ込んで私の心は一直線である。矢が迷う事なく心臓を貫いて、大動脈まで塞いでしまったらしい。そのまま心臓が止まってしまえばいいものの、駄目だ。矢先が暴れて心臓が跳ね踊る。それも彼女は全てにおいて欠点が無いのだ。肌は陽に焼けて小麦色、髪は艶やかで長い。背もスラリとしていて、腰が滑らかな放物線を描いたかと思えば尻に向けて膨らんでいる。脚は太腿から脹脛にかけて筋肉が覆い、影を残していた。眼はこれ迄に見たことが無い程澄み渡り、焦茶と云うには勿体無いくらいだ。銀河より冴えて、惑星があるみたいに光を呑んでいる。唇も薄紅く、白い歯が覗いて絢爛。兎に角、見た人を狂わせる魅力が詰まっていた。臓物がブルルッと音を立てて震えてしまう。彼女の膨らんだ胸、細く締まった腰、艶のある唇、そして私を見る其の眸。手を差し出して、翳してみると血潮さえ見える。私はそれくらい紅潮して、堪らなくなっていた。いつも抱く夢を見る。何度、夜を共にしたことか。惚れて惚れて惚れ込んだ。人生でも指折りしか居ない良い女だった。然し、もうそろそろ彼女とは会えなくなるらしい。私は彼女の幸せを心より願っている。 我が裾に添えた君の手温かく 私の小説を担当する社など居ない故、出版等々はお好きにしておくれと言いたいところだが格好がつかないので出版権は【 氏】(生涯の中で最も優れていた恋人か親友)に譲与する。 ※此方はまだ、未定である。生涯で決まることがなければ話し合いで決める事。著作権は永遠に私のものであるため、名くらい刻んで頂きたい。 葬式は小規模かつ、泣く事は一切許さない。寧ろ花火でも打ち上げて叫び声を上げ、屍体を踏みつけて踊りなさい。火葬のボタンを争って喧嘩しても面白いと思う。そうして火葬して残った僅かの骨は一人一欠片食ってくれ。そして、別府湾に撒くこと。私は海に帰るのが使命である。 私は最後まで人を素直に褒めることができなかった。嫉妬心を丸出しにしている恥ずかしい人間だった。どうか死ぬ前に心の底から「素晴らしい。感激した」と伝えられる様にしなければ魂も天に昇らない。愛していると言葉にできないようでは格好もつかないわけである。人の不幸を花蜜だと言って吸い上げている様じゃあ、周囲の真っ当に生きている人間と肩を並べることすら出来ない。今でも、心の底からそう思う。 【此処からは個人に宛てての手紙となるが、内容が思いつかないので省略とさせて頂く】 以上
君はもう居ない
春風に揺れる蒲公英に想いを馳せ 眩い陽の光に手を翳して街を覗く まるで君みたいだ 太陽みたいに(黄色い)眸 雲みたいに(白い)毛並み ただ遠くを見つめ 煌めく朝日に欠伸して 教会の鐘の音を背に今日もゆく 机に置かれた 花瓶に一輪のカーネーション 手を伸ばしても 其処に君は居ない 羽根の(嘴の)面影を 青い空に向かって 君は飛ぶだろう 旅をして 海を(空を) 歩んでゆく(そして) 大陸の雨風を受けるだろう きっとこれからも 歩む生涯 ずっと孤独だろう 秋風に揺れる金木犀に想いを馳せ 眩い夕暮れの光に手を翳して海を覗く まるで君みたいだ 夕陽みたいに(紅い)心 星みたいに(白金《プラチナ》の)鉤爪 ただ空を見つめ 暮れゆく夕陽に欠伸して 学校の鐘の音を背に今日も帰る 棚に置かれた 一冊の教科書 手を広げても 君には届かない 翼の(尾羽の)残像を 紅い空に向かって 君は行くのだろう 旅をして 川を(運河を) 渡ってゆく(そして) 雪山の粉雪を受けるだろう きっとこれからも 歩む生涯 ずっと孤独だろう 夏は暑さに枯れて 冬は寒さに凍えて 海を渡るよ(陸を越えて山々を) 軽々と君は舞う 君は舞う 僕らの心で
Hymn
That midnight hour, Evan sank into an armchair singing Protestant hymns, his legs stretched out before the fireplace. His mud-spattered shoes were white, made of orca hide. The lustre of scales across his entire body shimmered deep green and crimson purple as he rolled up the sleeves of his ill-fitting coat. ‘Well then, shall we have some hot wine?’ He clasped his cold hands together and let out a deep sigh. After a moment, he said, ‘Before the wine,’ and pulled a cigar from his pocket. Clipping off the end, he lit it with a puff of fire from his mouth, clamped it between his teeth, and drew in the smoke with evident relish. Then, purple smoke billowed thickly from his nose and mouth as he wiped the dust of memory from his mind. ‘You seem rather tired, don't you?’ Diano smiled and stroked his back with his fin-like hand. Evan looked slightly displeased, then promptly stood up and began preparing mulled wine. The cigar clenched between his teeth glowed red, steadily emitting smoke. ‘I feel most at ease when I'm with you. Don't you agree? You're the only bloke who'd touch gold bars with his bare hands.’ He placed the mulled wine on the low table, gave a dry chuckle, and sat back down in his chair. ‘Well, come to think of it, I suppose I am the only one who does that sort of thing. But Evan, you had an apprentice, didn't you? Come to think of it, I believe it was something like a divine beast or the like.’ ‘Ah, yes. There is. A lad called Kururu. He can apparently smoke ten cigars at once.’ He blew smoke from his mouth over Diano's face before taking a sip of wine. ‘But I feel at ease when I'm with you too. Your room isn't too tidy either—I find a bit of clutter more relaxing. What's that odd vase?’ He pointed at the lapis-blue vase behind him. It was ceramic, intricately painted with golden patterns. Inside stood a single rose, tilted so that a fragment of petal lay fallen. ‘This was given to me by a teacher who looked after me.’ ‘Ah, Picasso? He was your form tutor back in the day, wasn't he? I remember you dancing at the cultural festival.’ ‘Exactly. I'd just seen him recently and mentioned it. Then he gave me this vase.’ He smiled, fingering the thorny rose. Then the sound of hooves came from the garden. And the door creaked open. ‘Professor Evan, you're back?’ ‘Ah, I've come back at last.’ ‘I thought you might return about today, so I bought some chocolate. Oh? And who might that orca be?’ The orca, tail fin submerged in a chair, raised its fin and called out, ‘Hello!’ Then, adjusting the collar of his white suit, he took Kururu's hand and embraced her. ‘So you're Kururu! How adorable! I'm Diano Domeniconi, head of the bank. Pleased to meet you!’ He shook hands until her arm ached, pumping it vigorously up and down. Kururu, unexpectedly formal, rubbed her sore wrist and bowed her head. ‘Mr Diano, it's a pleasure to meet you. I am Kururu Shams, Professor Evan's assistant. I hope you remember me.' Kururu sat snuggled up close beside Evan and took a sip from her half-finished mulled wine. Then, looking blissfully content, she stroked her cheek. ‘You're quite fortunate to be able to hear Master Evan's hymns,’ Kururu murmured into Diano's ear, almost as if complaining. ‘I'm sure you'll have a wonderful Christmas. Master Evan would agree, wouldn't he?’ Evan shifted his cigar in one hand, looked down slightly, and nodded. ‘I hope so.'
需要ないインタビューやで
まず名前を教えてください。 「あっオーラン・ラネージュです、あははは…」 出身高校とかって? 「あえっと、っすね、モラディチカ校っていう所すねはい」 あっモラディチカ笑、なら大学は? 「あー、へへ、アンブロシア大学医学部です」 学部まで聞いてないんだけどな、好きな食べ物は? 「あえっと、ハンバーガーですね。あとピザトーストっす」 へえ、学生時代の思い出は? 「あー、小学校の時に滑翔大会一位でっしたよ」 へえ、高校でも滑翔大会あるっしょ?何位? 「さ、最下位です」 ふーん。家は? 兄弟とかいるの? 「えっ、一人っ子です。お父さんは戦争で手を失ったのと、大怪我してて医療費が馬鹿にならなくて、お母さんがずっと働いてまして、俺もバイトしたりしたんすけどね」 どんなお父さんでしたか? 「凄く優しくて、お酒をいっぱい飲むけど料理が美味くて。よくボルシチを作ってくれました。陸軍だから家にいる時間が短くてあまり話してないんですけどね、戦争の時は特に帰ってこれなくて。でも基地から時々手紙が来るんですよ。あっ、そう、絵がうまくて。元々空軍に憧れてたから爆撃機描いてくれるんです」 お母さんの性格は? 「あ、の、話したことあんまないんです。殴ってきた? 殴られたことはあります。でも近所の奥さん達と仲良くて世間話してますよ。毛が白毛で橙色の斑模様があって、よく紅い服を着てました。近所の獣達に好かれてて、俺も見た目はいいって思いましたよ」 嫌い? 「き、嫌いではないです。ほらだって教育費と生活費払ってくれてるし親に依存して生活するのが子供です。お父さんの分まで稼いでくれてるんですから、色々言っちゃいけないっていうか何というか」 はーん。恋人とかいる? 「恋人、みたいなのなら居ますよ。ロース……ロスヴィルっていう海竜なんですけど海の都市で生まれてて建物の半分以上が石や岩、珊瑚で海から少し顔を出してるくらいなんです。潮が引いたら建物が出てくるんですよ。きれいだった。ロスヴィルはそこ出身で海軍元帥のお父さんがいるんです。でも暴力を振られてて、苦しんでて。全身、見せられないところにも青いアザがあって折れてたりしてて。それで息ができなくなって海に浮かんで瀕死状態のところをエヴァン教授っていう俺の尊敬する先生が助けたんです。でもその時、鼻ら辺の皮膚が剥がされてて、クルル助教っていう凄い人が自分の皮膚をその場で剥がして移植したんですよ! その後でアンブロシアの医学部に来て同級生になって、それから仲良くなって付き合い始めたんです」 どんな子? 「臆病で、女の人と話せない。あ、それは俺もっすね。しかも凄く頭悪いんですよ。そして大きい音とか声を聞いたら過呼吸になって倒れるんです。それもあるけど暑さに弱くて干涸びる時もありますね。あとは人格が分裂してるってことくらいしか」 分裂? 「普通のロースと、他にゼノンっていうのが居るんです。暫く精神科で治療してたけど効果なくて、それもゼノンっていう女を喰ったり男を喰ったりするヤリチンの方が賢いし面白いし、好かれてるんですよ。ただね、きっと彼のお父さんを映し出してるんだと思います。暴力が凄くて、俺も良くされてます。怖くて、痛くて、でも何だか抵抗する気になれないんです。気持ちいいというか何だか抱かれながら痛いことをされると打ち消されるんですよね。苦しみって」 どっちが好き? 「ロースが好き。ゼノンはエヴァン教授と仲良いんで」 エヴァン教授ってどんな方? 「脳神経と心臓血管を専門にしてるけど、あ、この国では二種専門選択制を採用していて二つの分野を選択できるんです。それで教授は一番難しい二つで成り上がってるんすけどその中でも国、いや、世界を代表するスペシャリストで超頭良いんすよ。でも性格が心を捨てて慈悲を捨てたみたいな人で、同棲してる助教でさえも論文破いて叩きつけて終わり。返事してくれてもYESかNOくらい! ってイメージですね。けど結局は親切ですよ。親切すぎて冷たく感じるだけなのかなって思います」 自分で自分の性格どう思う? 「ああ、自己中心的だと思いますね。でも真面目な方だと思いますよ」 誕生日は? 「五月二十六日です」 自分の好きなところは? 「唯一挙げるとしたら頬の模様ですね。いや、ペンギンみたいで可愛いっしょ。このオレンジ」 特技は? 「パンツを秒速で履けます」 黒歴史は? 「エキドナっていう看護師の怖い竜が居るんすけど飲み会に行った時間違えて尻尾触っちゃって、調子に乗って揉んじゃって殴られましたね」 好きな色は? 「カラメル色と水色ですね」 好きな曲は? 「Chiquititaとかは好きですね」 性処理は? 「まずティッシュを用意するでしょう? 片手を動かしますよね。出るっっここでティッシュを余った手で取り出してキャッチ。これを捨てます」 憧れの人は? 「勿論、それはエヴァン教授ですよ。大好きです」 後悔してることは? 「生まれたことですね」 夜型? 朝型? 「いや夜型なんすよねー」 得意科目は? 「歴史と生物ですね」 苦手科目は? 「現代文です。何もわかりません」 大切なものは? 「家族写真です。お婆ちゃんに会いたい」 癖って? 「頬杖をついてしまう癖があります。教授が姿勢悪くなるし辞めろって言ってくれたんですけど中々治りません」 好きな本は? 「罪と罰ですね」 苦手なことは? 「女の子と目を合わせることです。無理ですねー」 生きててごめんなさいと思うことは? 「ありますね。いや友達が減るばかりでもう何が正解なのだか」 最高点数は? 「100点っすね」 童貞? 「は?」 何で抜いた? 「ぶっかけっすね。ほら、人と違って色んなモノがあるんで竜とか特に多種多様だから見てて楽しいし興奮しますよ。色は同じなんすけどね」 嫌いな人は? 「それはミスターコリネリウスです。理由はないけど態度がなあ」 恋愛を除いて好きな人は? 「へへ、ペランサさん結構好きですよ。いつも困ってたり悲しい時に飴くれるんですよね。檸檬とか桃とか」 手脚の毛が白いのって嫌ですか? 「鷲みたいでカッコいいっしょ」 楽器とか習ってましたか? 「習ってないけど、サーフィーさんにピアノを教えてもらいました。トルコ進行曲だけ弾けますよ」 最後に何かありますか? 「ポッキーの日誰かポッキーゲームしません?」
翠玉
白波の向こうからはある長く歪な形をした建物が一つ見えた。煙が立ち昇り、クウクウと空に広がる。見惚れる暇も無く、横長い旗を掲げた艦艇達は黒焦げの残骸を避けて次々と帰っていっていた。大波は薄く広がりいつの間にか晴れ渡った空を映して紺碧に染まっていた。藍玉は長く平たい口吻を撫でて、ほうと眼を四方八方揺らす。沈んだ船の旗は浮かび、金属片が無数に広がっている。その中に、白い制帽が流れていた。 「アレは回収しなかったの?」 サーフィーが指差して首を傾げた。背後で書類を片手に何かと悩んでいた藍玉が頭を突き出してさっと覗き込んだ。 「そうらしい」 「ふうん、酷な話だねえ。ならば取りに行って来よう」 制帽を脱ぐと、唖然としている藍玉の頭に帽子を被せた。大きさが合わないが、お構いなしに制服の釦を外す。水を弾く様な分厚い毛が覗いた。 「あっ! おい待て。どうするつもりだ?」 手を伸ばしたが止まる事も無く、はらりと制服が飛んでゆく。鯨や鮫の喧々たる声を背にすると、迷いなく手脚を伸ばし体を投げる。海に泡が立ち、呑まれ、姿が消え失せたと思えば艶やかな長い角が出て来た。油を塗られた様に水を飛ばし、すうっと一直線に泳いだ。張られた脚は尾鰭に見え、いつの間にか海藻の絡んだ制帽を掴んだまま空中を跳ねていた。艦艇へと水を掻きつつ戻ると、壁を掴んで飛び込んだ。海水の雫が音を立てて足元を濡らす。 「気でも狂ったのか?」 藍玉が爪を立てて叱り飛ばす。サーフィーは海藻を咥えたまま一瞬身を小さくしたが、眼だけは逸らさずに居た。少しして濡れきった制帽を何度か振り回して中へと戻る。 「名誉の為だよ。ほら、制帽乾かしておいて」呆然と背後で立っている座頭鯨の鰭に制帽を持たせると、疲れたと口にして制服に腕を通す。藍玉は頭に置かれたサーフィーの制帽を片手に俯いた。 「お前にとって名誉って何なんだ?」 両掌を見て黙り込んだ。書かれた物を読む様に、眼を揺るがせてチラと覗き込む。鷲より鋭く、黒々とした大きい瞳孔がパァッと澄んだ。 「そりゃあ、他者を尊重する紳士の心得だよ。俺は、永眠した同士に敬意を示したいし死を滑稽な物にしたく無い」 「そんなら、普通の軍に行った方が良いぜ。お前」 パッと制帽を渡す。サーフィーは海竜臭えなと揶揄を溶かした笑いをばら撒くと、大袈裟に其れを被った。 「俺は世界を変えるくらい強いぜ」 腕を曲げて筋肉を魅せる。柔らかい影や硬そうな肩が焼き付く。「おおっ、我らが大将」と言いかけた鮫の鼻を触り満足そうに笑った。 「はあ、自慢は置いておいて、どういう事だよ」 呆れたと眉間に爪先を置く。サーフィーは唸りつつも、航路図を片手に腕を組み合わせた。指先は妙に震えている。 「俺が物心ついた時、丁度終戦くらいだったんだけど高校になった時にまた始まって駆り出された。その時、俺を鍛え上げた黒毛の鷲が居たんだ。頭二つあって、花園の近くで出会った。もう花は枯れて焼けてたけどね。アイツも軍に駆り出されることになってたんだけど、士気を高めるというか。無理矢理戦争に行くことになった俺みたいな若造を鍛え上げてくれたんだ。時には鞭で嬲って、水に浸して。苦しかったけど友達みたいな存在だったし、貴重だろ? 俺はアイツのお陰で、最終的に一番強い原潜に乗って生き残ったんだ。そして、其処から帰ってきたらそう言った」 ふう、と鯨の潮吹きみたいな息をつく。鮫が眼を丸くして口をアングリと開けている中、藍玉は少し眉を顰めて眼を床に向けた。 「ああ、そういえばお前そんな歳で戦ってたのか」 「まぁね。それで功績を認められたのかヒラールにも行け、と。気がついたら提督になってたし、いつの間にか戻れなくなっちゃった。優秀だって褒められて舞い上がったのかも」 ふん、と鼻を鳴らして耳を立てる。濡れた毛の先が青い蝶の翅みたいに光を反射させていた。彼は常に胸を張って僥倖に出会ったくらい嬉々とした顔を見せているが、古い血の染みた角や惨憺たる景色を直視した眸が強く煌めいている。瞳孔の奥に刺す苦の跡も蚯蚓腫れみたいに広がっている。睫毛は其れを隠す様に伏せて、少し微笑んでいた。 「何回も駆り出されてる癖に図太いな」 遠くを眺めて笑う。サーフィーは口端を引き攣らせて、苦々しく眼許だけを歪めた。 「そうかなあ?」 「正気の沙汰とは思えん」乾いた声を漏らす。 「でも、きっと、お前には死んでも分からない事だよ」 「はあ」 溜息にも似た相槌を打った。サーフィーはニヤついた眼を向けると、直ぐに真剣な顔をして手を組んだ。 「話はそこそこにしておいて、今回は大胆に出たが、解散だ」 「確かに、いつもは潜水艦なのに艦艇」 鮫が顎下に鰭を当ててウムと考える。隣に腰掛けていた斑点の多い座頭鯨が「艦艇は時々あるだろ」と突っ込んだ。 「一応、國軍として来てるから。相手は特殊部隊だとか全然知らないよ。偵察に近い筈だった。俺が駆り出されたのは少し変な話だけど」 「大体、机仕事だもんなあ」 「皆と艦艇乗りたかったし丁度いいよ。あ、本拠地に直行で」 司令を出しつつも悠々としている。艦艇は鳴き声を上げて動き始めた。珊瑚礁なんて見ている暇は無い。魚がピョンと飛ぶのもお構い無しに突き進む。白い水飛沫だけが泡となって波に溶けた。軈て夜になると、白い角砂糖の様な家々に黄金の光が灯り、窓の隙間から海へと光影が落ちているのが見えた。一睡も出来ず海図を広げては会議を続ける中、サーフィーの脳裏には様々な影が過った。思考を止める、考えの一部に空白を作り出す様な嫌な影。直視しようとしても眩しくて瞼が拒む影、光には戦慄さえも覚える。腫瘍と同じく張り付いている其れが青みを帯びている事だけは記憶に残っていた。 もう少しで到着すると座頭鯨に肩を叩かれ、会議室から出るとアンブロシアの都市部に聳える摩天楼が激しい光を放ち、煙を立てているのが見えた。空へと続く道路は竜だけが通り、速度規制などの看板が大量に建てられている。道路の下にある柱は高さが違い、道路自体も凸凹としていた。近づけば近づくほど深く安堵する。歓楽街の一角にある門灯、海沿いに伸びる白い灯台。そして基地のためにある様な島擬きには通り道の山だけが陸と繋がり、艦艇や潜水艦、軍用機が整列している。音を立ててゆっくりと止まると、青豹の影が見えた。海豚達は任務では無く救命の疲労で疲れた体を動かし、サーフィーは乾かした制帽を抱き、尻尾を垂らしつつ土瀝青を踏む。帰って来たという実感が嫌でも湧いた。豹の影が段々と近づく。 「おかえり」 「ただいま」 抱擁を交わそうと駆け寄ったボニファーツが海の臭いに退く中、サーフィーは苦笑しつつ近寄った。そんな彼の背後を通り過ぎようとした藍玉は袖元をピンと整えると、ごゆっくりして下さいなと言わんばかりに敬礼する。 「其の制帽は誰の物だろう?」 取り上げようと手を出す。爪は隠されていたものの、殆ど没収に近い素振りだった。其れを察したのか制帽を強く抱きしめた。 「ああ、此れは同士の形見だよ。俺はせめてコイツを持ってなくちゃいけない」 離れた方が身の為だ、と神経が悟る。ゆっくりと迷う足を入り口に向けて歩く。一面に敷かれた砂利を踏むと、思っていた以上にザッザと足音が鳴った。正義を気取っているのか、所詮聖獣の真似事だろう、とでも返されると思ったが恐れていた言葉よりもずっと肝が冷やされた。 「ふうん、ボロボロになったからこそ、素晴らしい価値があるんだろう。正に敵の首を持って来たみたいだ。僕は嬉しいよ」 顎下に手を添えて、恍惚とした表情を向ける。瞳孔は相変わらず真ん丸だ。サーフィーは急いで部屋へ戻る為に裾を揺らしながら、直ぐにでも羽ばたきたい気持ちを一生懸命抑える。翼の神経が脊髄反射で動きそうになっていた。 「はあ、価値を上げたのはボニファーツのお陰だもんね」 皮肉っぽく言うと牙を覗かせて冷たく笑う。ボニファーツは一瞬鈍器で頭を打たれた様に無になった。近づいてくる螺旋階段も遥か遠くに感じる。無駄なことを言ったかと自分に落胆した刹那、彼は眼許だけを吊り上げてゆっくりと黒い唇の上端を上げた。 「海軍の指導者は君でしょう? 責任転嫁は辞めなよ。君だって謀殺に同意したんだ」 ゆるりと尻尾を揺らす。癪に触ったのか声には熱が篭っていた。相変わらず眉間にはほんの少しの皺を寄せて、髭をピンと立てている。何故そんなに怒るのか、と訊きたくなるくらい逆上していたのだ。 「俺が海軍の指導者なら、俺の書いた作戦を修正しないで欲しい。此はお前の得意な助言だよ。宜しく頼む」 火に油を注ぐ気持ちで言葉を放つと、予想とは裏腹に彼は冷然として居た。螺旋階段が眼の前にある。 「ふむ、勘違いしてるようだけど、司令艦以外は全部自爆だからね」 「……」 手摺に凭れて淡々と上る。鉄臭い匂いと基地独特の獣臭がした。一面は眩しさを覚える位に白く洗練されているが軍獣の流した汗や血の匂いが凝縮されて吐き気を催した。而も基地内の喧騒は激しく、資料を抱えたまま廊下を駆けたり電脳に色々打ち込んでいる様子が扉越しに見えた。濡れた蹄の跡を追うと、角の欠けた白毛に黒斑の鹿が項垂れて歩いている。椅子には幼い猛禽の子が凭れて早朝に配られた色付新聞を見ていた。端には宗教の猛烈な皮肉が四コマ形式になり載せられている。横眼で眺めていると、【イエロー・オルカ銀行、十年ぶりに純利益が高水準! ディアーノ・ドメニコーニ頭取のガッツポーズ炸裂!】という見出しと共に、握り拳を掲げて牙を覗かせる鯱の姿があった。そして、其の下には【ヨルガン海軍、艦艇沈む】という見出しと傾いて海へと沈む艦艇の姿があった。死亡が確認された将校や二等兵達の顔写真と名前がズラリと載せられている。重く鉛の様になった息を怯えながら呑む。其処には若々しい提督の顔も載せられていた。部屋の前に着くと扉の持ち手に手を掛けて、一歩踏み入れたかという時に振り向いた。 「続きになるが」言葉を選ぶ様に青豹は眸を廻す。 「指導者が死んだら彼らは生きる理由が無くなるんだ。君が殺した様なものだと思わないかな?」 床を蹴っていた靴の音が止まる。代わりに、刹那の静寂を埋める様に下の階の獣達による雑談が流れた。サーフィーは穏やかな振りを最後まで突き通し、扉をゆっくりと閉めると素早く鍵を掛けた。ボニファーツときたら羸弱そうに肩を狭くして瞳孔を丸にしている。腹の奥を蛆虫が這っている様な不愉快感に口吻を皺だらけにして牙を剥き出した。其の拍子に落としそうになった制帽の鍔を強く握り締める。 「俺が軍隊に入ったのは無意味に獣を殺す為じゃない。國王陛下に命を捧げ國民を守る為だ。そして家族を守る為だよ」 キョトンとして聞いていたが、ボニファーツはぶわぁと髭を震わせ、口を大きく開けると大笑いした。機関銃にも似た声は天井の下でよく跳ねる。腹を抱えたりして膝から崩れ落ちそうになりながら天を仰いだりした。暫く其れが続くと涙を拭いながらまた口角を上げる。 「ええっ家族? 残っているのは血も涙も枯れたエヴァンだけだろう。父も母も骨一つ残さず殺されたじゃないか。え? 母は君とエヴァン君が貪ったんだろう? 実の血の繋がった尊い家族を喰らう様な不届き者に提督なんて務まらないさ。本当に馬鹿馬鹿しいね」 サーフィーは唖然として彼を眺めた。先刻まで腹の底から煮え返る様な激怒に支配されていたのに、突然プツリと音を立てて全てがどうでも良くなったのだ。然し、濡れて居ないのに裾が、服が酷く重たい。心なしか怒りで流れた汗が冷えて氷みたいになっていた。 「白鯱の皮を剥いで、靴やスープに変えてしまう極悪非道な豹こそ指導者失格だ」 考えても無い、サラリと口から流れ出た言葉だ。禁句だと思って居たからか口に出したという事実が胸の中で醜く冷え固まっていった。ボニファーツは退屈そうに欠伸して「弟が怒ってないんだから良いじゃない。しっかり弟の家に骨格標本も飾っているよ」と長椅子の上で伸びた。 「悪漢め」 思いつく限りの悪口だった。するとボニファーツは眼をツウと吊り上げると敢えて何も言わずに机まで歩いた。其処には潔白の分厚い花弁をした胡蝶蘭の生けられた花瓶が四つも置かれている。仮漆の塗られた其の机は高級そうだったが、脚にある海水を纏い、翼の生えた座頭鯨の絵を見て納得する。其れは紛れも無くヘレッセン家の紋章だった。「兄ちゃんも謹厚になったね」と嫌味っぽく呟くと横から丸められた新聞紙が投げられる。仕方なく捲って見ると度肝を突かれた。載せられた写真は宵の空に溶け込む瑠璃毛のボニファーツと茶褐色で金の髪を背に流した高山竜の姿があった。質素にも見える濃紺服の襟には細かく月桂樹や花の刺繍が施されている。黒々とした眸は潤み、そして頬は赤らんでいた。 「最愛なるヒュアキントス陛下さ。全く! 彼程に愛らしい王子は居ない」 そう唸ってヒュアキントス陛下を紙越しに撫でた。びゅっと空っ風に吹き付けられた様に毛が冷えたが、そんな事より記事が気になって仕方ない。読んでみると大分美化された嘘が綴られていた。此の新聞によれば北海での戦争で景気も悪く飢餓に耐えられず内部戦争が起こりそうな時に青豹が総帥となり國を纏めたらしい。北海戦争はきっとサーフィーが原子力潜水艦に入っていたであろうメアトニア海戦だろう。きっとあの時、國民に希望を与えていたのは当時の海軍元帥であったイオセポス・マーレに違いない。出鱈目な事を言いやがってと腹を立てながら読み進めていくと、どうやら戦争で怯え、気を病んでいたヒュアキントス國王陛下をボニファーツが支えてやっていたらしい。 「まるで英雄みたい、俺はあんなに血を流して國に命賭けても新聞にさえ載らないよ。でもこんなに写真貼り付けられてる。英雄、神の生まれ変わりだって」 飾り文字の大きな見出しを鉤爪で突いた。高級紙だからか尖った先を弾いたが色は少し褪せた。ボニファーツは新聞紙を掌に乗せて貴重そうに奪うと、机の上に乗せる。得意な自慢話を満喫している間だけは死んだ眼を除いて表情が踊っていた。 「それから不景気が回復したとか、活気が湧いたとか。まるで僕は神にでもなったみたい。ほら、君みたいに慎重じゃなくて単純だから有る事無い事でっち上げても騙されるんだ」 満足そうに平坦な口吻を撫で回す。猫科特有の滑らかで丸っこい輪郭はある意味似合ってた。薄紅色の鼻も黒い唇もそうだ。造形自体が完璧に限り無く近く、そして程遠い。そんな不完全な彼は、神を気取って両手を広げていた。 「……今は称賛されてるかもしれないが、過去にやった事は消えないよ。お前が総帥になる為に流れていった無駄な血は本当に無い? 失った命は無いと言える?」 「何にせよ僕のお陰で今、國民は生きてるんだ。ほんの一粒の犠牲なんて世間は気にしない」 顔が合った束の間の時に確信する。彼は部品ごとズレていて噛み合っていないのだ、と。眸にあるのは燃え上がる様な情熱でも無く、何処まで広がっているのか狭いのかも分からない虚無だった。数分にしては多すぎる疲労に眼下のツボを押す。そんな彼をボニファーツは細部を細かく見てふうむと唸った。腕組みした後、少し顔を離して眼を細めて見たり、立派に伸びた角を一瞥しては首を傾げたりした。 「男でこんなに綺麗な竜は見た事ないよ。神殿の前に彫刻があるだろう? 彫りの深い顔をしていて口吻も長くて、耳の形から筋肉の筋まで無駄が無い。睫毛を伏せてて、透き通る布みたいな服を肩から纏っていた。よく似ているよ」 舌に油を塗りたくられた様にペラペラと言葉が流れる。サーフィーは突然の饒舌に頭を悩ませ、ただ瞬きする事しか出来なかった。神殿に置かれた石像だとか布を纏った神々の様だとか褒められても、結局は女らしい顔つきだという比喩だろうと嫌悪に呑まれてしまう。彼に対する猛烈な偏見なのか、どうも心の底から喜べる気にはなれなかった。だから鉤爪の長い指を組んで態と「ははは」と笑って見せる。 「何? 急に褒めちゃって」 身を捩ってみたがボニファーツは思っていた以上に苦笑いを滲ませて鼻許を左手で覆った。 「いやあ、物凄く不細工に見えたから、褒めたら治るかなって思った。治らないね、ははは」 唇の間から鋭く伸びた牙が覗く。葉巻や紙煙草を咥えたと分かる黄色さが眼障りに映った。 「はあ。そう。私と反対に閣下は立派な様で」 蹌踉めいて椅子の背に凭れると、はぁと大きな溜息を吐いて肺の中を空にした。それでもまだ煙く、舌の上が砂を呑んだみたいにザラザラする。廃獣になって口をぽかんと開けたサーフィーを横眼にボニファーツは白い陶器製の急須を抱えた。茶袋の詰められた箱から何やら取り出して人差し指と親指でひょいと摘んだ。 「そうかもね。さ、折角帰還したし紅茶でもどう?」 「本当に自分勝手な奴だね」 心の底から呆れた様子で額に手を当てる。室内は広くも絢爛たる胡蝶蘭のせいで窮屈である。其処に青瑠璃の豹でも置いてみろ、こりゃもう堪ったもんじゃない。此処にある分厚い資料から小綺麗に棚に並べられた数千枚の手紙まで掃討してやりたいと内心、地団駄踏んでいた。先刻の会話がブワアと蘇ってあの毛並みや丸い眼、妙に感情豊かな動きをする眉の影までが頭の裏側で再生されていた。茶を淹れる音が掻き消されてまた腹が立つ。兄に似せて皮肉でも言ってみようと口を開いた時、二回扉を叩く音が響いた。そして扉が半分開き、直立したまま帽子を剥ぎ、万年筆で字が綴られた紙の束を抱えた座頭鯨が現れる。ボニファーツは洋盃を三つに増やすと「フェイジョアか、入って良いよ」と穏やかに言った。サーフィーが様子を窺う様に首を傾げると、パッと敬礼された。紙の束を見てみると名前だけは大きく筆記体でゼルリアーノ・グラヴィナと記している。 「グラヴィナ大公よりお手紙です」 そう言うと紙の束を手渡しする。掌で其れを受け取り一枚一枚を丁寧に捲って字を辿った。フェイジョアは其のまま挨拶をして帰ろうとしたが長椅子に座れと手で示され、紅茶の入った洋盃が三つ置かれる。そもそも呑めませんとは言えずに口をつける芝居をする羽目になった。サーフィーは最後の一枚をじっくりと眺めて何度か疑惑の眼差しをチラチラと投げると、退屈そうに束を机に置いて、代わりに紅茶を呑んだ。 「政治の事。後、飼っている桃という蛾が愛らしいって。家の近くに生えてる姫百合の花も夕陽を浴びて美しかったらしい。ええと、妻が子を孕んだって。お祝いのついでに久々に舞踏会でも開こう、と。惨めな弟を連れて来いってよ。高級葡萄酒を数本買ってくれたみたい」 一枚の光沢の畝る高級紙をヒラヒラとさせる。ボニファーツは顔を近づけて字を見ながら軽く首を傾げた。 「桃?」 「ゼルリアーノ兄様に贈った子の事だよ。野蚕みたいな奴でかなり珍しい桃色。ふわふわしてて可愛い奴」 フェイジョアは大きな鰭手を膝ら辺に置いて狭そうに背を曲げた。乾き切った体を見るに、椅子を汚さない為、布で水滴を拭いたのだろう。 「グラヴィナ家には代々決められた蛾が渡されるのでしょう?」 蛇腹にも似た畝のある顎をもごもごさせた。御苦労様だと右手で鰭手を撫でる。サーフィーはどう言おうかと逡巡して口を噤む。こうして悩んだ末、一つ一つ言葉を選んで言う。 「戦時中に蛾が燃え落ちたんだ。だから落ち着いた時期にしっかり選んで渡した」 「喜んでいましたか?」 上眼で見つめて訊く。サーフィーは乾いた鼻先を笑う様にピクピクと動かし、にっこりと笑う。其の鼻や唇辺りには海の塩が薄く纏わりついていた。 「勿論。彼は昆虫が好きだからね。例の惨めな兄ちゃんも好きなんだ」 「確か、其の惨めなエヴァン君は鋏角類が好きだったろう?」 「蜘蛛って言いなよ」 尻尾を撫でられた様な厭らしさに腹の細胞という細胞がわあと騒ぎ立てた。理由は要らない、言葉の一つ一つが花弁の如くはらりと落ちてゆく様さえも嫌いである。フェイジョアは其れを悟って笑い声で濁すと、鰭手をバシバシとサーフィーの背中に当てて「ボニファーツさんは頭が良いからな」と態と感心した。 「そんな事ない。あ、そういえば」 太く巻かれ、英文字で円を書いたリングを纏った葉巻を摘む。そして、躊躇せず刃物で先をパチリと切り落とした。二頭が顔を見合わせて首を傾げていると隙を見つけてボニファーツが手を伸ばす。膝の上の制帽に爪が食い込んだ。 「制帽をそんな所に放っていたら可哀想だよ。今、良い事を思いついたんだ。貸してごらん」 肉球で優しく鍔を持つ。 「どうして?」 硬そうな衣嚢から銀色の点火器を取り出すと、シュバっという風切り音が響いた。余韻を感じる間も無く青い火が煙の様に立ち、淡い火の頭は制帽に向けられた。 「ほら」 嗤って点火器を近づける。すると、火は制帽を舐めてボウと燃えた。同時に燃える帽子片手に葉巻に火を点けると口に咥えて旨そうに煙を呑んだ。 「フウ、部下の取った首は天下一品だ。君らも吸うかい? フェイジョアは吸えなくて可哀想だが頭に刺してやろう」 先の火照った葉巻を頭に近づけたが、驚きのあまりフェイジョアは潮を吹いて長椅子の背にピッタリと張り付いた。海臭さと煙の苦みにサーフィーは顔を歪め、ただただ火を見つめた。もう半分以上が黒く焦げ、灰となっていた。 「此以上俺を泣かせないでくれ」 喉の奥から絞り出した声だが、吃驚する程に冷たく響いていた。怯えて声も出ていないフェイジョアの背を撫でてやりながら睨む事しか出来なかった。此の奇行がどうか夢であります様にと心の中で祈る。 「笑え」奇獣は言った。 「死者を送り出すにはいつも笑顔で居よう。さあ、空を見て御覧。此の制帽を主人の元に遣ってあげたんだ」 紐を弄ると白く隙間のある窓帷がパッと上がる。眩しさに片眼を閉じて見ると、冴えた桔梗色が浮かんできた。ブワアと視界じゃ足りない位の青空に一筋の雲が残されて、悲しく空を横切っている。 「俺は……秋桜と共に、制帽を帰郷させようと……」 「はは、他國の物を持ち込むなよ」 ぷうとまた煙を充満させる。咳き込んでも辞めないからか勝手にズカズカと机まで行くと、背にある窓を開けて風を通した。南海からの汐風が煙ごと流した。資料が床に散るのを見てボニファーツは眉間あたりに皺を寄せたが却ってサーフィーは爽快だった。 「嫌な事をするね。君達にはまだ仕事があるよ。此の焦げ臭い灰を胡蝶蘭の土に混ぜておくからヨルガンに贈るんだ」 真っ直ぐに垂れた胡蝶蘭を指差して言う。サーフィーは紅茶を一気に飲み干すと、裾元を整えて立ち上がった。 「フェイジョア」 瘤だらけの黒い鰭手を拳で強く叩いた。すると我に返ったのか眼を大きく開いて立ち上がり、また蹌踉めくと「失礼しました」と、白い鰭の腹を見せて深く敬礼する。二頭は肩を揃えて扉から出ると分かりやすく舌打ちして脚を殴った。 「俺、藍玉ん所行くけど一緒に来るよね?」 慷慨を露わにして手摺が折れんばかりの力を込めた。 「当然ですよ。言いてえ事が山程あるんでね!」 二頭は階段を下るとき、自分の顔が気になって仕方が無かった。煮え滾る胸の中と何とも言い表せない哀愁に顔が歪んでいないか、と。周囲の軍曹らは壁に張り付いたまま脚を踊らせている。 「こ、こんにちは……お、お疲れ様です……青玉提督と、フェイジョア大佐……何か……ありましたか?」 赤毛の鸚鵡が嘴をカタカタさせて敬礼して見せる。サーフィーは空軍制服を一瞥すると微笑んで敬礼を返すと、屈んで眼線を合わせた。 「こんにちは、椿桃《ネクタリン》一等軍曹。疲れただけですよ」 「つ、疲れた?」 死刑直前の罪獣みたいな顔をして毛を逆立たせる。近くにいた焦茶の翼が大きい禿鷲が桃色の頭を傾けて、欠けた嘴で椿桃を強く突いた。白っぽい爪で黙っていろと言わんばかりに背後で羽毛を鷲掴みしている。赤い羽根が散った所で、フェイジョアが苦々しく「下がれ」と尾鰭を打って命令した。 一方でサーフィーはゼルリアーノとの舞踏会を楽しみに、先刻の地獄からは眼を背けた。瞼の裏に書かれた希望を見つめて。 激昂していた二頭も最後の階段を下る時には落ち着いていた。混凝土の薄白い床に尾が垂れた時に走る冷えと塩の匂い。相変わらず窓も光も無い空間に反射する海は青い。そして、角のある壁やらの奥からツウと一筋の光が射していた。フェイジョアは我慢ならないと釦を外し、脱いだ服を纏める。壁を削って作られた棚に服を置くと、黒い巨体を露わにした。起伏のある尾鰭、白い腹。海獣の姿を有りの儘に晒し、鰭手を広げるとブワッと飛び込んだ。最後に尾鰭の分かれた先が覗いたかと思えば白い水飛沫が散った。サーフィーは雫を払うと、壁まで寄り服を脱ぎ捨て、背伸びをした。骨がパキパキと音を立てて響く。フェイジョアが頭だけを出して「遅いですよ」と嗤って囃し立てると、彼は返事の代わりに尻尾で床を叩きつけた。 「藍玉さん、藍玉さん」 甲高く鳴いて叫ぶも、返事は一切無い。ただ、岩の間にサラサラと反響が吸い込まれていった。暫くは腕組みして仁王立ちしていたサーフィーも表情を一変させる。耳を立てて四つん這いになり、全身の神経、血管、細胞を警戒させた。垂れた巻き髪は濡れたが、気にせずに耳を近づけてゆく。反響が重なって聴こえた。 すると、微かに藍玉の背に生えた棘みたいな突起が珊瑚に擦れる音と全身を打ちつける音が聞こえた。一息置いて、直ぐに空気を吸うと拳銃を隠し持って一直線に飛び込む。フェイジョアの上に乗っかって、見渡してみると斑模様が見えた。尻尾と脚が縛りつけられ、手も縄で括られている。サーフィーは海藻の濃い所で拳銃から手を離した。重々しい塊は海藻の間を通り過ぎて落ちる。音がする前に砂を蹴って被せると、左足で踏みつけた。 「あっははは、醜態を晒して恥ずかしく無いの? 全く。鯨みたいなもんなんだから縛られても泳げるでしょ?」 白い腹を見せて仰向けになっている藍玉を前に落胆を溶かした微笑を浮かべた。隣でフェイジョアが眼を見開いて吃驚しているのを見ると、藍玉は身を起こそうと捩りつつ大暴れした。 「馬鹿が! 胴を見ろ。岩に縛られてる!」 暴れる毎に透明の縄が擦れ、細長い傷が肌を覆った。紺碧の身を傷だらけにするのは如何なる物かとサーフィーは全身を畝らせ結び眼を見つけると噛みちぎった。解けた縄を持つと手首に軽く巻く。 「何処のどいつがこんな事?」 フェイジョアが怒りで鰭手を振り上げる。水の風が二頭の背を撫でたが毛や棘が揺れた程度だ。藍玉は海面に一度上がって潮を噴くと、また潜り「いや」とくぐもった声を出した。 「名前は知らん。でも鮫みたいな鱗で熱帯系の海竜で、魚の鰭みたいな耳があって……そうだ、眼ん玉の左右の色が違う。左は紅緋色。右は活色だった。角は真っ白で後ろに向かって伸びてて、指の間には水掻きがあった。それで変なのが、口吻だけ全く色が違う。金色、いや、黄色? 兎に角其処だけ多種族から抉り取ったみたいに違った。而も、すげえ怯えてて、俺を見るなり泣きそうだった。縛りつけた後にずっと抱きついててよ、ぎゃんぎゃん泣いて岩に当たりながらヨロヨロ彷徨ってた」 欠伸か威嚇かと迷う間も無く口が開かれる。口腔が青緑に煌めいて発光すると、金牙が並んで見えた。サーフィーは酷く青褪めて珊瑚礁に身を寄せると、耳を反らす。 「……ロースだよ」 「肉にしてやるって事ですか?」 フェイジョアがもっと青くなった。サーフィーは「そんな事しない」と両手を振って微笑う。 「彼はロスヴィルっていう子だ。医学部の生徒で俺とも面識がある。きっと兄ちゃん達を奪還しに来たんだろう。ならば、他にも生徒が居るよ」 浮かんだまま困ったように眉を寄せた。宝探しする子供の様にニヤついて、眸をキョロキョロ彷徨わせると背後に広がる海藻の隙間からポツリと泡が出ているのを見て、ふんと鼻を鳴らす。フェイジョアは鰭手を擦り合わせて全身を大きく畝らせた。 「勝手に瑠璃閣下が引っ張り出したから悪い。瑪瑙先生と黒瑪瑙さんが可哀想」 「兄ちゃんは当然の報いだろ」サーフィーが眉を寄せる。 「それで、ロスヴィルっていう小僧は何で俺の事縛ったんだ?」 呆れて、痒そうに傷だらけの腹を掻く。海藻から湧く泡の数が一気に増えて明らかな音がした。冷や汗も流れない。 「多分、怖かったんだよ。何かあればオーランっていう同行してる筈の友達に説得して貰えると思ったんじゃない?」 「たった二頭で? 説得?」 ギョッとして黄金の眸を見開く。細かい螺旋模様が浮き上がり、純金よりも鋭く光っていた。 「舐められたものだ」と言うなり癪に障ったらしく色の淡い舌をべろんと出した。上の欠けた三日月の刺青の周りを点が二重程囲っている。フェイジョアが慰めの言葉を掛けてみたが無言の睨みに鰭手も尾鰭も出ず戦慄した。 「お前は頑固だから説得なんて無理な話だと分かってるよ、少なくとも俺はね。フェイジョアもそうだろう?」 フェイジョアは困った笑みを浮かべると無言で頷いた。 「褒めてるのか?」 鑒識の眼差しを向けて落ち着きなく尾を揺らした。サーフィーは返事の代わりに泡を口から出した。円になってプカリと浮くと海面までスウと走ってゆく。彼はただ手を擦り合わせてニコニコとすると、鉤爪を少し出して岩を触った。 「そういえば、今日は訪問者が居ると伺っている」 「フーン、訪問者とは……」 フェイジョアが鰭を広げて下を見る。黒い巨体の尾鰭が水飛沫を上げて海面へと出現した。相変わらず海藻揺れる海中は静寂に包まれている。岩の隙間に生える磯巾着《イソギンチャク》や桜みたいな珊瑚の行列からも声はしない。然し、緑岩の隙間から大きな泡がブクブクと溢れ出して上へ上へと上がっていった。サーフィーは片眉を上げると緑岩に近寄る。砂の塊が震えて蠢いている。「まるで虫の真似事みたいだ」と込み上げる笑いを咳で誤魔化した。酸素に逃げられてしまう。 「それにしてもボニファーツは血が鉄製の悪魔ですね」 そんな時、突拍子も無くフェイジョアが呟いた。口調には青豹という存在に対する嫌悪が根強くある。いや此方だって命懸けて黙ってるのに此処で管を捲かれても困るぜ、とサーフィーが困り顔になる。 「突然そんな事を言われても」 「だって、命があるとは到底思えません。何処か心に欠陥がありますよ。だって、ねえ? あの男きっとお母さんを火炙りにしている」 此の無鉄砲が、と拳を振り上げそうになった自分を制して、ギャストンが鰭手を翳して海面の光を仰いだ。 「実弾をギチギチに詰めたロシアンルーレットで死にたくなければ黙った方が良い」 「自害じゃないですか」 「日常茶飯事だ。そんなの。ボニファーツの悪口は言うなよ、俺とかサーフィーだってもっと痛い眼見てる」べっと刺青入りの舌を出した。 「頭に管とか繋がれて電気流されたり、戦争途中は鞭打ちとかされたな。今でも蚯蚓腫れがある。罪によっては射殺されるから」 蚯蚓に喰われた様に腫れ上がった毛、肌を蝕む痕を見せつける。赤紫の痛々しい瘡蓋と抜け落ちた毛は、寧ろ強靭ささえ感じられた。其の背中に浮かぶ筋骨の影は傷を引き立て、海に馴染む浅葱の毛に深みを加えている。滑らかな腰、と視線を移してゆくとサーフィーは真っ赤になって二頭の頭を小突いた。そして背からも熱っぽい視線が落ちてゆく。 「誰だ?」 藍玉とフェイジョアが岩の間から漏れ出る泡に向かって訊く。石を削って整えた様に白く真っ直ぐな角が飛び出た。鮫肌が覗いたと思えばもう止まらない。藍玉が物凄い勢いで突っ込み、爪を剥き出して掴み上げた。海竜は悲痛な叫びを上げたかと思えば岩に張りつこうと水掻きのある手でペタペタと海藻を触る。然し、そうしている間にずるずると落ちた。 「尋問部屋に連れて行け」 ロスヴィルは麻痺した神経を針で突かれた様に怯えていた。軈て何かを思い出した様に眼を見開き、青痣まみれになった脚を隠すとグルリと丸まる。腕越しにも激しい拍動が伝わった。 「お前から態々来てくれて嬉しいよ」藍玉が金牙を剥き出す。 「す、す、すみません。そんなつもりじゃ……!」 サーフィーは辺りを睥睨して微笑を含んだ口許から泡を漏らした。そして暴れている両肩に手を添える。かと思えば、関節を妙な方向に廻した。すると、金属音に似た音が反響してカパンと外れてしまう。 「あああああああああああああッ」 悲痛な叫びが響いた。脚だけでもと尾鰭の如く動かして見せるが効き眼も無い。鉄製なのか、と思ってしまう程にサーフィーの身体は硬過ぎた。筋肉なのか、と余韻の絶望に眩暈がする。パタパタと肉を叩く柔らかい音だけが残ると、ロスヴィルは俯いて虚な眸を向けた。 「ぼ、僕は、僕なんて……煮ても美味しく無い。し、信じて……」 縋るような言葉を文頭から無視して、先刻、藍玉の胴に巻かれていた縄で縛り上げた。藍玉は、束の間に手脚の結眼や強さを手で触って考えると、巨体を揺らして陸まで泳いで行った。そして、潮に汚れた小さな黒い電話機を片手に忙しく機嫌を取る。音質の悪いボニファーツの声が砂みたいにザラザラとして聴こえた。一方で、サーフィーの渦潮に飛び込む様な精神にはフェイジョアも舌を巻いた。楽観と言えば楽観、怖いもの知らずといえば怖いもの知らずだ。彼の耳なら何キロ離れて居ようが分かるだろうに。そしてサーフィーは気が狂ったのか鳴き声を上げて笑った。珊瑚礁や海藻のへばりついた岩の間を突き抜けて海洋を劈く哄笑が終わると、腹を抱えてまた「アッハッハ」とか「ハハハ」とか声を絞った。 「あっ、そういえば三鞭酒《シャンパン》を用意する筈だった! いや……本当に参った。うっかり忘れてたな。態々戻ってくるなんて思うわけないじゃん。何で戻って来たの?」 口を大きく開けて、またゲラゲラと笑う。牙は成る可く引っ込めていたが時々可笑しさに歯茎ごと剥き出して、鋭く口の中で煌めいていた。あっという間に拘束されたロスヴィルは、鮫みたいな体を縮こませ、水中銃の銃口に囲まれたまま挙動不審になっていた。水掻きに傷が入って破れかけているのにも気づかず、ただ迷う様に眸を廻す。軈て「えっと」と切羽詰まった微笑を浮かべた。 「し、締め付けすぎたかなって、緩めようと戻って来ました」 「フェイジョア、彼はこんなに良い子なんだ。爆撃犯だとか暴虐党だと思う? きっと此の周りに居る彼らだって──」 硬くなったロスヴィルの体を締め付けて脚の関節を外そうとする。すると正面にある海藻の間から鰐の長い口吻が覗く。サーフィーが足でぎっしりと拳銃を掴むと片手に持って八発響かせた。何か小さな硝子が張り付いた針が飛ぶと波も遮って頭に刺さり、鰐や海竜、鮫が動かなくなった。 「な……何を……」 「殺されたく無いならじっくり話を聞くよ。護衛さんと藍玉! 彼の事、連れて行って」 海から七頭の鱓が出て来た。全員容姿が瓜二つで、蛇よりも滑りがあり艶のある体は長く、斑点模様が薄ら浮かんでいる。床に頭から滑ったかと思えばどうにか上半身を持ち上げ、顔を向けた。 「はい」 顔に似合わない若々しい声だ。一方で電話機を置いた藍玉は、初めて珈琲を飲んだ子供みたいな顔を向けてグッと口角を下げていた。サーフィーは仕方なくホッと溜息をついて、「猪口齢糖《チョコレート》でも買って来てあげるから、機嫌直してよ」と親指を立てる。藍玉は黄金の眼をギラギラさせてチロッと長い舌を出すと、上機嫌にロスヴィルの元へ舞い寄った。尾が躍っている。其の裏腹、ロスヴィルは動悸に襲われてますます青褪めていった。サーフィーは「あっ、コイツは不味いな」と呟いて、鱓に支えられつつ抱き抱えたまま海面へと上がる。途端に、湿った空気に包まれ薄汚れた混凝土の低い天井が角上に広がっていた。すると忽ち深刻そうに頬から雫を垂らして「うーん。此処じゃ駄目だよな」とも呟く。濡れた体を素早く動かして混凝土の床まで辿り着くと、ロスヴィルを横にして自分の制服を掛けた。其の上から藍玉の物を重ねる。 「ご、ご、ごめんなさい……本当にっ、ごめんなさい……ひ、酷い事するつもりなんて、な、無いんですよ……僕……」 涙を浮かべるとポロポロ溢し始めた。石灰色の地面に薄墨を垂らした様に滲む。サーフィーは眉間を指の腹で押さえてウーンと唸った。 「悪い事か決めるのはこれからの会議次第だよ。ロースは体を毛布で温めて尋問だ」角許を掻いて、海の方を振り向いた。 「大将、眠らせた奴ら回収しときましたぜ」 斑点の太い鱓がニヤッとした。其の刹那、濡れ切った鰐やら白肌に青い手脚のある海竜が打ち上げられる。既に腕はしっかりと縛られていた。 「最初から居るんなら俺ん事も助けて欲しかったな」 藍玉が嫌味たらしく鱓に駆け寄る。濡れた脚がビチャビチャ音を立てて混凝土を黒く染めていく。蜘蛛の巣に似た亀裂に水溜りが溜まっていった。色褪せた鱓の一頭は身を捩らせると「命令を受けてませんので」と素っ気無く答える。藍玉はジロリと睨むとチェッと舌打ちした。 「喧嘩しないでよ。ロスヴィルの事お前ら連れて行ってくれない? 会議に行かなきゃならないから」 サーフィーが透き通るほど純白の布を手に取ると海水を拭き取って搾り、腰に巻きつけた。胸筋の影が滲んで翼の羽根一枚一枚がピンと伸びている。バサバサと広げたり畳んだりすると数枚、羽根が散った。 「イエッサー。ですが、裸でよろしいのですか」 「布を巻いて参加するよ。見せて恥な筋肉は無い」 「……了解しました」 口を開け、焦点の合わない眼を向けた。背後の鱓が胴を使い押して、前に立つ鱓が上手く引き摺った。遠くから見てみると滑稽だと鼻で笑う。 「あっっ、え、エヴァン教授、教授は?」 麒麟の様に黄色い口吻を突き出して、手摺に咬み付く。脚に力を入れて、何頭かの鱓を尻尾で打ち殴った。然し、蹌踉ける事も無く寧ろ反撃を喰らって階段に倒れ込んだ。序でに唾が妙な所に落ちて咳き込む。 「戦場を知る為の訓練を含めて別基地に派遣されてる。数ヶ月して帰還しても御三家が開く舞踏会に参加しないといけないから暫くの間は会えないと思うよ」 「そ、そんな」 想像を遥かに超える絶望に気を失う寸前である。もし死んでしまったら、という憶測が脳を貫き、胸を潰し、骨髄を抉る。ロスヴィルはアッと声を上げて床に伏せてしまった。三度叩いてみても泣き声すら上げない。 「兄ちゃんは状況すら分からないまま行ってしまったんだ。きっと可哀想な事だよね」 耳許で囁くと、眼を伏せたまま「連れて行ってくれ」と鱓に頭を垂れた。パトリックは其の姿を海の遠くから頭を出して見た。怯懦な海竜を心配しているのか、眼の前で膝を崩す大将を心配しているのか。ただ不安の影を滲ませて、口を半分開けて居る。鱓の姿が消えて、キィィィン……という耳鳴りが残った時、初めてサーフィーは肩を震わせて口許を覆い隠した。赤く爛れた酸塊の果実を胸に隠して。