愛染明王
9 件の小説青玉II
綴られた文字を静かに咀嚼して、夜も眠らずに黎明を迎える。薄青空には紫雲が靡き、太陽の輝きを巻いて静かに踊る。そんな天の舞踊に一種の安堵感を抱いて、ボニファーツは仕事用の万年筆を握った。持ち手には金が含まれ、中々の重さがある。すぅと隣に動かすと墨が出て英字のAが書かれた。新聞でも見ない美しい形。其の儘、北國に送り届ける作戦書類を完成させている最中、真夜中の事を思い出した。 突然、サーフィーが出航前にエヴァンの顔を見たいと言い出し、部屋へと自ら出向いたのだ。軍服の金釦を全て留めて、裾を揺らしながら部屋へと忍び込むと冷蔵庫に果実を詰め合わせて付箋紙を机に貼り付けた。全身を伸ばして眠るエヴァンの手を握り締めると、名残惜しむ間も無く艦艇へと急ぐ。そして、兄弟への別れでも交わすかの様に、ただ優しい眼で見ていた。其の眼の焔は死に対する覚悟ではなく、必ず生き延びるという決意の様に見える。ボニファーツが隣を歩きながら「叩き起こして、彼と握手でもすれば良かったのに」と残念そうにした。サーフィーは眉を吊り上げて、「握手なんてしたら戦場に行けなくなるし、司令執ってる間に淋しくて泣いてしまう」と俯く。興味の無い青豹は欠伸して、曖昧な相槌を打った。其の刹那、海豚の老媼から情報の通達があり、直ぐに出航する事となった。本部待機する軍獣達が制服を纏ったままズラリと整列し、敬礼で送る。ボニファーツも静かに敬礼をして見送った。堂々と艦艇へ向かう背を眺めて、消えたかと思えば白波を立てて水飛沫を撒き散らしながら艦艇は進んで行った。そして徐々に北西へ方向を変えて作戦通りの動きを開始した。 見送りの後、司令室を覗きに向かう。真ん中に腰を沈めた陸軍大将の一角獣《ユニコーン》が山羊髭を撫でながら全体の指揮を執っていた。背後から忍び寄り、電脳に映し出された映像を見ていると、大将はクルリと振り返って既に別基地の獣だけで西部を鎮圧したと報告した。無論、総帥である此の青豹は全軍の全体的な司令を執るのが正常であるが、大将や幹部に作戦を全面的に任せている。其れは州の会議などで多忙な故の判断であった。 資料がもう少しで終わるという最中に、聞き覚えのある重々しい足音が響く。潮の匂いと獣とは思えない影に唖然としながら、騒々しい扉の向こうを覗き込む。其処には古き友が居た。後頭の鰭を金属板で立てた鯱である。グルグルと周囲を見廻り、部屋が分からないのか番号を何度も見合わせていた。そんな彼を見て、扉の隙間から手を伸ばして招く。 「ディアーノ、僕なら此処だよ」 巨体は小さい歓声を上げてドタドタと扉へと突進した。首裏にある刺青は二筋の赤波で日に日に伸ばしている。何センチ伸びたのだろうかと考えていると、熱い抱擁を受けた。滑らかな肌に染み付いた海潮の香りが鼻を突く。全身に油を塗っているのか、撫でると滑った。暫くは互いの体温を感じていたが、ゆっくりと両腕を離すと椅子に腰掛ける様に手で示した。そしてディアーノは尾鰭を沈めて股を開いたままドスンと座り込み、背広を脱いで黒服姿になった。一方で、ボニファーツが尻尾をクネクネしながら紅茶を淹れようと動くと、ディアーノは肥えた白い下顎を下げて、大きく口を開ける。曲がった牙が文句を言いたそうに覗く。 「げぇっ、其れ不味いんだよ。俺は角砂糖を限界まで突っ込んだ珈琲が欲しいのに」 「はあ、なら砂糖の塊でも呑めば良い」 棚から角砂糖の敷き詰められた瓶を掴み出して、蓋を開ける。そして一つ摘みして洋盃から溢れるまで詰めた。そして偶然沸かしていた珈琲を注ぎ込むと、あっという間に角砂糖は崩れて、珈琲の熱と共に溶け込む。抱き締め合う様に絡まると、さぁと跡形も無く角砂糖が消えた。持ち手に指を通してクルリと回すと、奥底に薄ら溜まっている。ディアーノが巨体を持ち上げて背後から眼を輝かせていた。 「おお、馬鹿みたいに詰めてたのに全部溶けてる」 「呑んで良いよ」洋盃を口許に運ばせる。 「あちちっ、馬鹿、海獣に熱々の珈琲呑ませる気か。でも、呑んでやろう」 大袈裟に火傷をした振りをしつつ、珈琲とも呼べない砂糖液を呑み込む。ボニファーツは手を組んで紅茶を前に深刻そうな顔をした。 「此の儘だと糖尿病になるかもしれない」 真剣な忠告に愕然としたが、忽ち「そんな、大袈裟な」と空になった洋盃を置いて豪傑笑いした。ボニファーツは紅茶にアーモンドミルクを注ぎ込んで、表情を曇らせる。 「大袈裟じゃない。昔から心配なんだよ。魚に黒砂糖を塗って食べた事もあったな。味覚障害も懸念している」 味覚障害という言葉に首を傾げながらも、眼の前にある光景にディアーノは先刻よりも顔を顰めた。 「お互い様じゃないか。そんな酷い飲み物、此の世に無い」 「別にママの乳でも良いんだよ。所で、用事は何?」 「まあ、色々あるんだけども。まずはシデーロステアという軍事企業を買収した」 証拠の紙を丁寧に机に置く。特に大袈裟な驚愕は起こらなかった。ただ、ゆっくりと頷いて瞼の奥からは哀愁を香らせている。 「……うん、知ってるよ」 怯え気味の猫は態と冷然として、外方を向いた。沈黙が流れるかと思えば、代わりに鯨科特有の鳴き声が炸裂した。ミャイイと笑鳴を響かせ、牙を剥き出し、額のメロンに手を当てた。 「何だ、青褪めて! 青毛を超えて黒くなってるじゃないか。黒豹になるのか?」 まだ笑いは治らない。腹を抱えて地面に全身を打ちつけるのではないかと不安になる程、天を仰いで大きく口を開けていた。喉の奥までよく見える。ボニファーツは服の襟をパタパタと揺らして涼みつつ、フゥと深く息を吐いた。 「いいや、別に。うちで採用してる軍事企業買い取って兵器売り捌きたいのはよく分かるけど、何時も背後に居るみたいで気持ち悪いから不快なだけ」 売り捌く、という言葉にディアーノは表情を明るくした。黒肌に浮き出ているアイパッチの真下に居るであろう黄金の眼が煌めく。煌めきは純金よりも澄んで、喜びの色を増していた。 「よーく分かってるな。其方さんは毎日の様に戦場に向かってるから山の様に売れるわけよ。もっと戦争の範囲が広くなれば他國にも売りつけられるぞ」 儲けだけに思考を奪われた哀れな鯱は、鰭手を組み合わせて計画が上手く行ったと冬空に似た冷酷な笑みが隠せない。其の反面、ボニファーツは自身の斑点模様を指先で辿りながら言葉を吐き捨てた。 「利点の無い話は嫌いだし、僕は平和主義なんだよ」 「平和主義? 冗談だろ?」 流石に口角が引き攣る。悍ましい怪物でも見る様な眼に豹変して、兎に角距離を取ろうと位置をずらした。怪物は脚を組んで両手を広げる。 「僕は皆がニコニコと笑って暮らせて、國同士も上手く交流できて得るものがあるなら全然良い。戦争なんて醜い事、僕はしたくないよ。僕も、エヴァン君も、君も戦争を経験してるから分かる筈だ。名誉も何もかも失ったろう」 「海洋のど真ん中に居たんだから知るもんか。唯一見てきたものなら、餌の争奪戦か縄張り争いだ」 溜息を吐いて体を縮こませた。 「でも、変だな。そんなに平和主義者なら何故政府に関与しようとする? 今は平和だし、やる事もないだろう。此の國は軍事政権じゃなくて立憲君主制だ。議会の大半がヒラール軍だって噂毎日の様に聞くぞ」 「誰がそんな面倒な事をする? 軍事関係以外のことで関与なんてしてないよ。でも、少しは助言しないと國が壊れちゃうから、其れはしている」 ボニファーツは困った表情をして笑った。そして口許を押さえ「過激な陰謀論に触れるのも大概にしてね」と付け加えて椅子の背に凭れ掛かる。然し瞳孔は大きく丸くなり、心の奥底を覗く様にディアーノを捉えている。眸が多方面から突き刺してくる。彼は大きく身を捩ってみると話を逸らして鞄を置いた。 「ま、変な話は止して、疲労に悩まされる子猫ちゃんには同族を差し上げよう」 鞄を開けると、液体に似た柔らかい物体が飛び出してきた。透き通った透明だが薄毛が生えている。其れは触れば中身は水なのかブヨブヨとしていて、大きな眼と縦に耳が生えた猫の形をした何かだった。口は小さくあるが機能していないらしい。生物とも呼ばない其れは足もなく、首だけを擡げて液体の様な身体を揺らしている。 「何だ? 此の液体生物は」 「新しい生物兵器の開発で失敗したらしい。何をモデルにしたか分からないが水猫っていう名前だ。本来は、此の液体と反応させて大規模に爆破させるものらしい。色が変化して擬態も出来るし、形も平らになったりで変わるから良いんだと。でも此の駄作、攻撃も出来ないし踏み潰しても弾力があるだけだ。ま、疲労が溜まる総帥殿にとっておきだろ」 水猫の皮膚を摘んで伸ばす。鰭手を離して戻すと水だからか身体が揺れて広がった。破れていないかとボニファーツが急いで抱えると中身が完全に液体なだけで破れてはいない。安堵してひんやりとした身体に顔を沈めた。 「ふぅん。こんなに可愛い猫を殺戮道具にするなんて、脳味噌に海水でも詰めてるのかな? 殺獣行為だ」 水猫を両端から引っ張り、顔に当てて言う。機能していない口が力無く開いた。耳は言葉に反応してピクピクと揺れている。 「はあん、革靴にされた天国で兄貴もそう言ってると思う」 漸く、柔らかかった空間にヒビが入った。割れ眼から音を立てて崩れ落ちてゆく。破片が胸に刺さって、ジリジリと痛む。青豹は一瞬真顔になって、すぐ真夏の空に似た笑みを貼り付けた。 「かもね。それで、つまり君は僕を心配して来てくれたって事かな? なら一つ助言してあげよう。買収するなら兵器より医療機器、医薬品の企業だよ」 悪戯っぽく口角を吊る。黄金の牙がそっと下の上から飛び出す。ディアーノは顎下に手を当てて天を見上げた。黒白の図体と鰭が大きく動く。 「エヴァン一頭で売り上げが変わるかねえ?」 「賭けてみると良い。僕の勘は意外と当たるよ」 紅茶で唇を濡らした。水猫を膝上に乗せて窓の外を眺めていると、黒い煙が濛々と立ち上っている。何を燃やしているのだろうか、と考えているうちにディアーノは相槌を打って、荷物を纏めた。 「賭けてみよう。金は腐る程あるから」 「宜しく頼むよ。……あ、君に一つ土産がある」 軽い足取りで水猫を抱えたまま冷蔵庫の扉を開く。冷風が身を舐めて、色がある癖に殺風景に思える中身は薄暗く、肉ばかりが整頓されて置かれている。其処から透明の圧縮された袋を取り出した。中には巨大な舌が刻まれている。其れは最早、紅でもなく黒い塊だった。 「鯨か」ポンと膝を叩く。 「好きだったろう?」 鯨の舌をほいと投げた。ディアーノが背を低くして受け取る。凍りついた袋がヒヤリと鰭手を冷やした。 「大好きだよ、其れ。でも一体何処で仕入れたんだ?」 厚さを見てパァッと弾けて忘我混沌の喜びを体現した。観察をしながら過去最高の高級品じゃないかと微笑む。 「秘密。こんな可愛い子を貰ったんだから当然だ。いっぱい食べてくれ」 ディアーノは先刻まで水猫を入れていた鞄に嬉々として鯨の舌を詰め込んだ。今でも喜びの色は褪せない。黒い体に彩りの艶を纏って、鰭手を振り回した。 「ありがとう。早速帰って解凍してみよう。じゃあ、健闘を祈る」ビシッと海軍式の敬礼をする。ボニファーツは陸軍式の敬礼を返した。 「ヨルガン戦争が終わったら混合酒でも飲もう」 「……そうしよう」 扉がパタンと空気を叩いた様な音を立てて閉まる。シーンとした部屋に、奥の部屋からの司令の声が響く。騒めきも水に流された様に消え失せて先刻の時間も記憶から徐々に切り離された。何も居なかったみたいだ、と取り残された青豹は思いながら部屋を出る。司令室までの道のりは、遠く無かった。 ♪♪♪ サーフィーは迷う事なく、白銀に染まる指揮艦の中で通信した。 「陣形」 陣形の周りを援護のPLAの海軍が包囲する。八方包囲という短時間で円型に敵を包囲する伝統的な技だった。艦艇を幾つも抱く海は水飛沫を浮かべ、曇り空と同色に染まっている。ゴオオオと耳を劈くような音が重なるが、サーフィーは既に慣れていた。ヨルガン海軍は吃驚したのか攻撃を停止し、急に道を開けた。カポン海軍も同じく攻撃を止める。赤い爆弾が踊り狂っていた海は嘘の様に静まった。抵抗する気は一切無いらしい。 「青玉、両國の大将は相当思想が強いぞ。共産主義の最先端だ。今から停戦合意の会談をさせても喧嘩になる予感しかしない」 藍玉が呆れて言う。 「其れを仲介するのが今回の役目でしょ。……全艦、会談場所の確保。但し交渉航の通路は開けよ。代表を指定し、〇五〇〇に会談の有無を返答せよ」 短距離音声で伝える。暫くするとカポンからは了解の合図が送られた。然し、ヨルガンからは何の返答も無く、突然爆音と共に火花が散った。そして別の陣形に変形し、藍玉は艦艇の破片が散った海を愕然として見る。サーフィーは冷や汗も流さずさっと通信した。攻撃は止まない。炸裂する煙と紅。黒い塊が垂直に堕ちてくる。 「攻撃元はヨルガン海軍トロイ型駆逐艦である。此れを優先標的とし各自防御体制を取れ。対空ミサイルで迎撃」 「了解」 カポンが隙を見てヒラールに攻撃しようとすると、其の一瞬の間を見失う事なく付近の艦艇が攻撃準備をした。仕掛けることは無いが、其方が其の気なら直ぐにでもミサイルを放つぞという圧を掛けていた。此の刹那の間に、海洋は緊迫感に包まれる。鉄の塊は空へと飛び、標的へと墜ちてゆく。爆破、破滅を繰り返して沈む。心無しか、自分達のしていることが分からなくなった。何が正解なのかも分からず、攻撃を仕掛ける。獣の命を奪う。奪っているが、其れが正解だとは誰も思わない。ただ、居るわけのない架空の指導者を思い浮かべて責任を押し付けて戦争をしている。サーフィーは猛禽特有の手を机に置いて、冷徹に居た。色素の薄い毛を靡かせて、竜特有の力強い口吻を突き出したまま頭をグルングルンと働かせる。脳神経一本一本が燃える様に、熱い。憤怒か、哀か。其れすらも分からぬ程に心臓が煩い。 「応答無し。『ヨルガン軍からの一方的攻撃を受け其れに反撃』の趣旨を本部に報告。映像の送付準備を最優先せよ」 「了解。直ちに準備す」 途切れ途切れの応答が返ってくる。大きく揺れる司令艦の中でサーフィーは額に手を当てた。 「……攻撃される事は読み通りだが、ヨルガンから来るとは」 溜息混じりに言い放つ。藍玉も隣で怪訝な顔をした。鯨に似た喉を撫でて原因を考える。背後から深海鮫が近寄って小声で囁いた。 「調査部によるとヨルガン軍は我々がカポン軍の味方であり、ヨルガン軍の味方の振りをしている敵だと認識している様で……」 深刻な勘違いに巻き込まれているらしい。サーフィーは羽毛と髪をわしゃわしゃとして顔を歪める。何故、という疑問だけが頭にこびり着く。 「はあ、誤解を解こう。本部は?」 文字を書いているのか、机を指の腹でなぞる。鮫は粉々に砕いた硝子の如く顔が冷め、腹を震わせて居た。恐ろしさを感じる筈である牙も使い物になっておらず、ただ死への恐怖に立つ事も難しかった。 「く、三日月様が最高指導者達と、で、電話会談をしているそうです」激しい眼眩に崩れ落ちそうになる。 「出来る限り大規模な攻撃は避けて、あくまで自衛をしよう。此処で争っても何も生まれない。仲介役で居るんだから」 絶え間ない司令の合間に、微笑みを浮かべて返す。唖然としている鮫は頭から尾鰭まで絶望の色に染まり、壊れた縫いぐるみの様に動かなかった。藍玉が腹を蹴ろうと脚を動かしていると、サーフィーが眼線を合わせて命令する。 「諦めたり、絶望しないで」 「……は、はい」 濡れた鮫が少し上を向く。左手で頭を撫でて、また明瞭な声で司令した。軍獣は反って伸びる力強い角を背後から眺める。 「良し。作戦は敢えて此の儘で行こう! 隙を作るな。我々の艦は平和と名誉を乗せている。戦場でも紳士で居る事を忘れるな。ヒラールだからと言って手を出してはならないよ!」 「了解」 陣形を作っている艦艇がぐるっと変形してゆく。壁を作り、攻撃を避けて。三日月と月桂樹の旗が靡いて波に反した。ゴオオオという相変わらずの機械音と波の音。何かがおかしいと勘付いて命令をしようと口を開くと、トロイ型駆逐艦、白い化け物が音を立てて近づいてくる。 「おい、動きが変じゃ無いか?」 藍玉が身構えて、体制を整える様に指示する。止まれと命令していると、突然グラリと大きく傾いて、破片を全面に散らし崩壊した。ヨルガンの別艦艇が距離を取ろうとしたが、また傾いて墜ちてゆく。ザアアアと鯨でも叩きつけられたかの様に水飛沫を上げて沈み、破片や獣だけが浮かび上がる。何より眼を細めて見ると、焔が立ち上って破裂していた。恐怖と混乱に陥る中、「冷静になれ。救助を要請し、此方からも救命ボートを出す」と落ち着いて言う。火傷で爛れた獣と、大将らしき海竜が燃えて海に浮かんでいる。黒焦げになった鳥らしき物体も、細長くなって塵の如く揺れて居た。 「PLAの部隊が生身で飛び込んでいる。……救命だ。原因の特定を急げ。此方もだ。早急に!」 そう叫ぶと海へ海へと獣達が潜っていった。鯱から鯨、海竜に海馬。熊から魚まで数々が行く。生き残った黒焦げ獣を乗せて進み、カポンも遺体回収や溺れている獣の救助をした。次は出ない声を絞り出して鮫が報告をする。 「陸上暗殺科任務完了との連絡です。陸軍は暫くして撤退するかと」 「……了解。つまり、此れは暗殺科の仕業じゃないんだ?」 血相を変えて眼の奥を睨んだ。怒りと焦燥を混ぜた嫌な塊が喉に込み上げてくる。胸全体に砂を混ぜた様な厭な感じがへばりついて離れない。状況に得体の知れぬ気持ち悪さ、嫌悪感を感じずには居られなかった。鮫も怯えを隠して、鰓を動かしゆっくりと口を動かす。 「恐らく、PLAか東國の暗殺科かと思われます。然し、此処まで大規模にする必要は無い筈です。三日月様からの連絡も特に無く、詳しい原因は不明としか言えません」 溜息の音すら鳴らない。ただ声だけが静まる司令艦に響く。海ではヒラール、カポン、PLAが負傷兵をボートに乗せて運んでいた。荒い波に逆らい、水飛沫を浴びても諦めずに訓練通り泳ぐ。呼び掛けも忘れずに艦艇へと連れて行くと、数分もせずに全員運ばれた。特殊隊の訓練が役に立った、と全員が痛感しただろう。 「停戦だ。此処から一番近い、兄の居る別基地へ輸送しよう。何が起こるか分からない為、司令艦と幾つかの艦艇は一旦残る」 「了解。カポン側も負傷兵最優先との事です」 「分かった」 今頃、基地で忙しく治療をしている兄の姿を瞼裏に浮かべて下唇を噛む。地団駄を踏んで「クソ、何で」と叫びたくもなったが、深く息を吸って呼吸を整えた。 冷徹そうな顔には名誉の為でも無く、勝利の色も無く、ただ一欠片の愛國心がある。純粋で、そして澄み切った愛。全ての國に対する敬意が見て分かる。守りたい、傷ついて欲しくないという信念がたった一欠片に込められていた。
自己紹介
【名の由来】 一面六臂で忿怒相の紅い明王は微かに俯き、毛を逆立て、五鈷鉤の突き出た獅子の冠を垂らして居た。そして、宝瓶上に咲く蓮華に結跏趺坐で座り込み日輪を背負っている。第一の左手には五鈷鈴を強く握り、第二の左手には弓を、そして右手には矢を持ち合わせて第三手は握り締めた。 その姿、貌に慈愛を感じて名乗り始めたのが私である。元は東京国立博物館に展示されているであろう木造愛染明王坐像の絵図を見たところから始まるが、その皺から足の先までに溢れ出んばかりの浪漫を感じたのだ。 【好きな物】 鼻腔の奥を突き刺すような強烈な匂い、舌をひりつかせて逃げてゆく酸味。偏りなく丸く緑で、二つに切り分けると白い白い種の入った果実。カボスが好きである。酢橘と間違えてはならない。風味と酸味、大きさに違いがある。各自調べると良い。明白だ。そして有名な橙色の果実である蜜柑、冴えた色の檸檬、香り豊かな桃、そして女の子。絵を描くことと小説を書くこと、漫画を描くこと、造形、など。 【嫌いな物】 ブゥゥゥゥゥゥゥン、カチカチカチカチ…… 焦茶の羽を恐ろしく立てて近づき、巨大な顎を鳴らしている虫。そして常に触覚の下には大きな眼を持ち黄色と黒が縞になった腹を動かしている。その名も蜂、詳しく言えば大雀蜂だ。私は彼にトラウマがある。何度追いかけ回されたか分からない。もう一つ挙げるとしたら足が百本あり、細長い体と赤い頭と尾を持ち合わせた怪物である百足だ。刺されたら痛い。 【創作をするキッカケ】 友人全員に裏切られ、家庭でもネットでも居場所を失った結果自分の世界を作ることにした。そこで性癖を敷き詰めて、自分と同じ不幸なキャラを作る事に酷く没頭し、気がつけば創作家としてかなり叡智になったつもりだ。気づけば小説が普通に書けるようになっていた。意識せずに書けるようになっていた。もはや、清少納言の血に忠実でいたのかも知れぬ。家系図に清少納言の名がある故にその説は否定できない。 【最後に】 主な活動場所はTwitterである。
医者II
麒麟の体温により灼熱となってゆく寝床の上で、エヴァンは苦悶の表情を浮かべながら藻掻いた。炙られているのではないかと錯覚する程、鱗の表面に余韻が残っている。疲れの癒えた体をゆっくりと動かし、寝床から降りると、電脳の置かれている棚の前に腰を下ろした。端には寝ている内に差し込まれた紙の資料が置かれている。棚の角に貼られている付箋紙には、冷蔵庫を描いたのか長方形の絵図がある。其の隣には矢印と細長い字が残されていた。 【果物がある。明日の朝食はクラッカーとトルテリーニ。残さない様に】 寝惚け眼を擦り付箋紙を剥がす。此を書いた者の名前は書かれていないが、癖のある装飾文字を見るに彼であることに疑いの余地は無かった。 「サーフィーか。御丁寧に」 付箋紙をクルルの眉間に貼り付けると、冷蔵庫の扉を開けた。冷え切った風が巻くように鱗上を撫でる。少し寒いと両手を擦りつつ、中身を覗き込んだ。其処には木苺や檸檬が置かれている。多種多様な果実や肉がある隙間には、黄金の光を放つ甜瓜が分けられて皿に置かれていた。其れに手を伸ばそうとしたが、さっと引っ込めて木苺を一粒摘んで、扉を閉めた。口に放り込むと、甘酸っぱさが舌に広がり、噛む度にプツプツと潰れた音が鳴る。飲み込んでも尚残る味の余韻を感じつつ、電脳を開いた。蜘蛛の写真を眺めようと検索をしていると、大量のファイルが視界に映る。溜息と舌打ちを堪えて開くと、別基地への送迎についての詳細や現状。別基地にある医療薬や機器などが纏められていた。俄然興味が湧いたのか、医療に関する部分だけ眼の色を変えて読み進める。特に最新の内視鏡や医療用拡大鏡が気に入ったらしい。医学雑誌も何千とある。何気なく出版社を検索すると、度肝を抜かれた。円を描くような英字でコルラス・ポッサム社と書かれている。 「世界的有数の学術出版社だ。幾つも雑誌は持っているつもりだが、ヒラール版がここまで多いとは」 意外だと表情を曇らせながら、無我夢中になって読み進める。背後には足を踏み外して蹌踉めくクルルの姿があった。付箋紙に気が付かず欠伸をしている。 「んん? あれ、今日の朝食南欧料理じゃないですか。私は枯葉で十分なのに」 小言を漏らし、いつの間にか机にある林檎の芯を噛む。モグモグと頬を動かしてエヴァンの隣に座り込み、電脳の画面を覗き込むと「オオッ」と感嘆の声を上げる。雑誌の試し読みを勝手に押して文を眼で追う。飲み込む様に論文を端から端まで探り、尻尾を別生物の様に動かして騒いでいた。エヴァンは其れを横眼に紙の資料を捲り、基地の内部構造や地下の通路を重ね、電脳の光で透かして見ていた。 「資料によると、朝食後にある事前説明の後、輸送機に乗り七時間移動。数ヶ月は滞在する事になる」 何も無かったかのように、資料を重ねて戻す。クルルは残念そうに肩を落とす。べしゃと電脳の上に頬を乗せた。 「鬼の所業ですよ。先生からしても戦場に行くのは気が進まないでしょう? 明らかに青豹の嫌がらせです。タチが悪い」 「青豹と呼ぶな」 顔を顰めて、寝床へと戻る。薄墨闇の部屋で毛布を掛けたまま壁を見る。点滅する装置は配線用遮断器に似て、電線が数本伸びていた。装置の間にあるSの文字に嫌悪感を抱いて眼を瞑る。クルルは其の背を怪訝に眺めながら溜息をついた。窓越しの空は雲の洋服を纏い、紅を差している。微睡んだ直後、耳を劈くような喇叭《ラッパ》の音が基地内に鳴り響く。エヴァンは耳を塞いで飛び起きた。信じられないという顔で青褪めている。毛布を畳んでサッサと食堂に行こうと準備を始めた。 「先生、地下蟻の巣避難所って知ってますか?」 服を着替えながらクルルが訊く。毛が垂れているのを見て肥えているなと口走りそうになったが、咳払いで押し殺して頷く。 「災害時に逃げる地下通路だろう。其れがどうした」 尻尾を出して金釦を留める。切り込みから翼を出して胴締を締める。硝子窓から射す金具の反射光の様な朝日で構造色が紫を帯びた。 「先生は昨晩、ずっと其れを見ていたのでしょう。第五基地周辺に火山なんて無いのに、避難所が繋がってますよね。海中を通って」 神経みたいですね、と付け加える。襟許を整えて胸衣嚢に備忘録を仕舞う。扉を開けながらエヴァンが右腕を撫でた。影で艶が一瞬消え失せ、臙脂に染まる。 「私は、何かを作っている様に感じた」 眩しく、太陽の中に潜んだ様な気持ちで廊下を駆ける。 静寂の食堂には将校が並び、大きな鯱を見たとか昨日は暑かったとか寝惚け話を交わしている。其の影の中には羽毛に似た毛を持つ高山竜が混ざっていた。白い手を伸ばして、鋭い鉤爪が覗いている。眼尻には鮫鰭の白い模様があった。背には厳粛な雰囲気を纏い、周囲が身を小さくしているのが見て分かる。 「矢張り彼は眉目秀麗、でも朝だから機嫌が悪そうですね」 小声で囁くと、真後ろの狼に突かれた。エヴァンは顔を引き攣らせて、眉間に深い皺を作る。 「レティシア」 「パロマって呼びな。瑪瑙《アガット》中尉と黒瑪瑙《オニクス》」 訛った口調で呼ぶと、トルテリーニの乗った皿を持ち上げて運んだ。中身は薄く伸ばした生地に具材を詰め、三角に折り、その両端を重ねて指輪の様になったパスタをスープに浸している。そして席へと身を翻した。 「後、青玉は耳が良いから全部聞こえてるよ。機嫌悪いって」 背後の席から青玉が静かに睨む。果実を噛み潰す様に微かにエヴァンは嗤った。くつくつと喉奥で音を立てながら皿を持つ。 「……食べよう」 「はい」 席に運び、クラッカーをスープに浸して食べた。中々美味しいと絶賛しつつ口へと運ぶ。昆虫肉特有の弾力のある食感と濃い風味が充満した。ふと、クルルが隣を見ると鷲獅子《グリフォン》が座り込んでいる。上下が赤白の不可思議な容姿をして、猛禽には無い長い耳を動かしていた。そして、微笑む事も無く無表情で見つめ返した。 「生まれて初めて、麒麟という生物を見た」 ポツリと一言。唖然として、黄金の眼を煌めかせていた。エヴァンがクルルの影から顔を出す。 「後ろのは噂の玉蟲か。渾名にしては色が紅いぞ?」 絶滅危惧種でも見る様な眼を向けて、首を傾げた。いつの間にか前に座っている青玉が睫毛を伏せて『きっと、一眼見た軍獣が緑だと勘違いしたのだろう。兄は構造色の鱗だ』と言い放ち、席から離れた。 「青玉って何時も不機嫌なんですか?」 「いいや。訓練とか会議以外はいつも優しい」 鷲獅子が否定する。其の真後ろで食事を終えたエヴァンが荷物を片手に「胡蝶蘭でも枯らしたのだろう」と見解を述べた。 休憩を挟んだ会議二十分前、資料を纏めて会議室へと足を急がせる。永遠と続く階段を下りつつ時計に視線を移した。隣では弱く蹄を鳴らしてクルルが歩く。耳を垂らして、鼻を触ったり胸を撫でたりしてエヴァンの様子を窺っていた。 「何が言いたい」 眼も合わせずに俯く。足すら止めなかった。然し、尻尾はグネリと動き、只管返事を待っていた。 「何だか、思い返せば思い返す程にボニファーツさんが気持ち悪いのです。それを豹だと思えない。悪魔か、又は抜殻だと思ってしまう」 手で形を作って見せるが、独創的で伝わらない。「青くて、青くて」と言葉に詰まる。此の麒麟が言うには血が通っておらず、臓物も無ければ心の欠片も無い無生物らしい。豹の皮を被った化物だということを燻んだ眼が証明していると両手を広げた。エヴァンは仰向けになっている虫でも眺める様に哀れんだ視線を送る。 「それでも彼は豹だ」 一瞬怯んだクルルを放置して会議室前へ歩く。一頭残され、溜息を大きく吐くと憂鬱そうに額に手を当てた。其の儘、力の無い脚を滑らせて倒れ込む様に会議室へと足を踏み入れた。楕円机を囲み、軍獣や軍医であろう動物が座っている。其の中央にパロマが立ち、じぃっと周囲を睥睨していた。 「何でアンタら前見てんの? 資料が手にあるなら見なよ」 狼狽えている中でも容赦なくページを捲られる。エヴァンは用語だけでもと周囲に小声で訊いていた。其の合間に鱗を褒められると頬を染めて喜んだ。全員の顔を覚えた所で、隣にいる獅子に眼をつける。 「初めて来た翌日に任務へ駆り出される事って普通なんですか」 ペンで資料に字を書き込んでいる沈丁花に寄る。立髪が微かに曲がり垂れていた。落ち着いた眸をチラリと動かして微かに口を開く。手入れの行き届いた牙が並んでいた。 「左様。其れに耐えられる輩しか入隊出来ん」 「成程」 腕組みして納得して見せる。戦場での司令を担当する事になったであろうパロマ中将は雑談をしていると指摘して叱りつけた。 「本任務では、紛争の終結、被害の拡大防止、事両國の安全を確保する事を眼標とする。飽く迄、中立的な立場であり仲裁を助ける役目がある」 白板に貼り付けられた地図を指す。被害は淡々と拡大して、もう既にヒラールの艦艇が出発の準備を進めているらしい。艦艇の名称と番号が端に書かれ、軍獣の名も綴られている。陸軍との共同作戦についての詳細と援護について、補給班の準備、潜水艦部隊を設置するなどとあった。 「ヒラールだけでなくPLAも出動するという情報がある為、各自見つけても銃撃しないように。我々の担当は首都を含めた八地域。ウチは現地の陸軍司令として務める。本部より通信司令は三日月《クロワッサン》。そして海軍への司令は指令部艦艇より青玉大将」 場は一部戦慄とした。「PLAってあの部隊か?」と砂嵐の様に考察や不安が巻き起こる。クルルが小声で虎に訊いた。 「何ですか、其のPLAって部隊」 「ポメグラネイト・ラ・アティーシフス。ヴェンリーという北國にあるヒラールとは違う特殊部隊だ。表じゃ仲が良いけど互いに敵対しておる」 アティーシフスは北國の言葉で正義を意味するとも教えられた。怯えて縮まるクルルを横眼に、パロマは笑みを浮かべる。 「攻撃はしないと事前に連絡が来ているし、心配しなくても大丈夫。此の任務は数ヶ月前から決定してて、向こう部隊とも話し合いをつけたから」 頼もしく胸を張った。毛が揺れて犬科らしい耳をピンと立てる。周囲は安堵して胸を撫で下ろした。 「そして派遣される隊員。まず沈丁花は首都南部。甜瓜はヘリコフ。真桑はワンブルク。既に戦場にいる部隊と合流して指揮を執って。で、其処から派遣される医師は銀、銅、紫水晶、瑪瑙、黒瑪瑙、其の他保護班、看護師。詳しくは資料に明記してるから確認してね。まずは現地合流して被害の確認と戦車や武器の数を数えた後、待機。司令があるまで動くな。海軍艦艇が既に包囲する為に出動してる。こっちも急ぐぞ」 返事をして、医療班などの確認をしようと名前を追っていると、比較的若い手術室看護師《オペナース》が一頭居た。其の文字に紛れ込む様に、紅玉《カルブンクルス》と綴られている。拉丁《ラテン》語でしょうとクルルが予想した。 「派遣軍獣は残って最終確認とA部隊との打ち合わせ。医療班はそれぞれ集まって簡潔に患者数の確認を行って。各自集合後、輸送機に乗る事」 ハイと空気を切り裂く様な返事をして、別室に移動する事となった。ドロドロに液化した憂鬱を背負って重い脚を上げながら素早く向かう。日に照らされ、白銀を広げた様に殺風景な床に影を落とした。死んでしまうという恐怖では無く、やり場の無い虚無感だ。心という形が崩れ、粉となり、風に飛ばされた様である。其の背を追いながら、クルルは思う。 「何と哀れで、滑稽で、痛ましいものか」 ハッと息を呑んで隣を見る。其処には化物の様な体躯をした鯱が立っていた。黄金の縁をした黒眼鏡を掛けて、首後ろには赤波の刺青がある。白背広姿で尾鰭を出し、獣革の手袋を着けていた。驚き声の出した方を忘れ、唸りに似た醜い鳴き声を上げると、鯱はどっと大笑いした。 「先生、クルル先生。いやぁ、図星を突かれたって顔ですよ。私の事覚えてませんか? ディアーノ・ドメニコーニですよ。投資銀行の」 更に背後から黒獅子が現れる。エヴァンは素早く振り向いたが、眼が合う前に視線を戻して階段を上がった。クルルも小走りで後を追う。其の後ろからまた尾行する様に追いかけて来た。 「何故こんな所に?」 「此の軍に採用された兵器を製造している軍事企業を買収しまして、ご報告に参りました。我が友ボニファーツが喜ぶだろうと考えましてね。なぁエヴァン、ご機嫌よろしゅう?」 階段の連続だが、息切れもせずに絡む。痺れを切らして翼をばたつかせながら「忙しい。そんなに口寂しいのならおしゃぶりでも咥えていろ」と突き放した。遂に待っていた別室に到着すると、疲れ果てたクルルの腕を掴み扉の向こうへ引き摺る。頬を膨らませて文句を垂れている鯱を放置して、パタンと扉を閉めた。 「わ、わぁ! エヴァ……瑪瑙教授!」 悲鳴にも似た歓声が上がる。静かに白眼を剥いて、蓄積していた憂鬱と疲労の煙を吐く。鉄椅子に腰を下ろして、眉間に指先を当てていると、真っ先に斜め右に座っていた斑模様の兎が飛びついて来た。垂れ耳が揺れる。 「憧れていたんです」 激しく握手をして上下に振り回した。其れを見て焦り青褪め、前に座っている嵌合獣《キマイラ》が兎の肩を掴んだ。 「辞めて! 彼が可哀想だわ」 獅子頭が悲しげに眉を顰める。背の山羊は横長の瞳孔をグルグル動かしながら笑っていた。尻尾である赤蛇にも意識があるらしく、エヴァンは何処見て話せば良いのか迷う。 「誰ですか?」 クルルが先刻まで掴まれていた腕を優しく撫でて訊く。兎はひょいと跳ねて戻り、恭しく頭を下げた。 「自分は銀《シルバー》と申します。元々は別名でしたが、兄が戦死してしまい此の名に」 一瞬通り抜けた淋しげな空気にエヴァンが片眉を上げる。嵌合獣は脚を投げ出して天を仰いだ。 「私は紫水晶《アメジスト》。其処の資料見てる眼鏡が銅《クプルム》」 眼鏡と呼ばれた海猫は一瞬怒りの色を見せたが、文句も言わずに口を閉ざした。全員が一言ずつ名を述べていると、其の真ん中で喋るのが億劫だと眼だけで伝えている薄紅の毒竜が視界に入り込んだ。そんな彼女は両眼尻、口端に瑠璃の化粧に似た模様のある特徴的な容姿をしている。角は縞瑪瑙の様な青白であった。尻尾や手にも青い縞があり、時々、眼玉の如く丸い模様が挟まれていた。 「紅玉か」 「ええ、はい」 怪訝な表情を浮かべて視線を逸らす。左手で右手を掴んでいた。 「大体分かったかしら。なら患者数の確認と状態についての資料を配るわ。全体的だと軽傷が多いけれど、爆撃された場所では重症患者も多数。特に地雷による被害が広がってる。重症患者数は合計四千五百六十三頭」 トリアージの赤を指した。病院への襲撃や爆撃が後を絶たず、医療関係者や患者が全滅した報告も聞いた。主な脅威は酷い爆傷や熱傷だ。四肢を失う兵や一般獣も多数であり、食料を得られず栄養失調の末餓死する事も珍しく無い。此の様に戦場ならではの死亡方法が数々綴られていた。 「病院では担当する場所を分けてあるから、全体に患者が行き届く様にするわよ。時間の勝負だからね。図に乗せてるから現地で分かれて」 部屋が大きく分けられ、全員が別々になるかと思いきや、紅玉、エヴァン、クルルは一緒になっている。患者が雪崩の様に来るであろう一番大きく手前の部屋だ。看護師もしっかりと配分されていた。偶然にしても、嫌がらせにしか見えないなと顔を顰める。 「確認したかしら。戦場では判断力が命だから、一秒たりとも迷わない様に」 紫水晶がしつこく念を押す。返事をして、雑談を交わす暇もなく外へと向かった。 平にされた大地に細長い鉄の塊が眠っていた。其の輸送機は昔から使われていた物で、竜をモデルにした翼の形をしていた。ロザンデールと英語で綴られた頭を眺めながら塊の中に乗り込むと、天井には黒黒とした鉄の管や赤青の銅線が張り巡らされ、何とも言えぬ不安感が其の場に聳えていた。壁に張り付いた青白の椅子に座り込むと、矢張尻尾が少し沈む。 「ねえ先生。三日月さんとかディアーノさんとどういう関係なんですか? 何があって三日月さんが嫌いになったんですか? 誤魔化さずに言ってください。貴方の周囲は面倒なので話されないと分からないし、沈黙されても困ります」 ボニファーツと言いかけて咳払いする。エヴァンは先刻よりかは柔らかい眼線を投げて、曲がっていた背を正した。 「彼らとは大昔からの親友だった。今でも、ディアーノは文句のつけようが無く素晴らしい友人だ」 仮説の崩壊に驚きを隠せない。離れた席にいる紫水晶が口を押さえて唖然としていた。其の顔で相手を褒める事が出来るのか、とでも言いたげな顔に思わず舌を出したくなる。クルルは鼻を鳴らして、疑惑の眼差しを浴びせた。 「逃げていたのに?」 「素直な麒麟は騙される。あの眼は詐欺師の眼だった」 微かに震えた両手を組み合わせる。夜明けを思わせる桔梗色の滲んだ爪先に惹きつけられた。其の濃淡は皮膜と似ている。クルルが徐々に震えの強まる両手を包み込もうと翳したが、サッと避けられる。また、眼の奥が凍りつくのが見えた。結晶が広がる様に淡くなる表情に誰が気づくだろうか。 「後、三日月を嫌っていると決めつけられても困る。確かに、現在総帥として活躍しているであろう豹は常に皮肉屋で不貞腐れている。然し、子供達に対しては天使だ。必ず天国に連れて行ってあげている。つまり私は彼が大嫌いだ」 凍てついた空気が刺す様に皮膚を舐める。息が白くならないのが不思議で仕方ない。睫毛から全身の毛が音を立てて氷となるのを感じた。粛清されるぞ、俯きながら周囲は耳を立てる。クルルは熱で溶かそうと態とらしく笑った。冷や汗まで静止する、其の恐ろしい風。 「下手なこと言わない方がいいですよ。貴方も天国に連れて行かれます」 口角を無理に上げたまま肩を狭くする。尻尾はだらぁっと垂れて、耳も下がって居た。気を遣われたであろう竜は冷酷にも突き放した。 「どうでもいい。手脚を落とされても言う。私は彼が大嫌いだ。彼の両親が出会う前に遡り、去勢したい程に」 「言い過ぎ」 堂々と座っている斑《まだら》狼が口を挟んだ。周囲の胸を言葉にした様な、救世主としての姿を輝かせている。一方で指摘されたエヴァンは、ただ違和感の無い軍服姿を眺めて淋しさの色を残した。 「君は彼のことを好いているか、嫌いか」 「総帥として好き」 中将として毅然として答える。冷えた空気に熱が混ざり、頭の上から溶けてゆく。安堵で銀が大きく息を吐いた。 「ほう」 低音の、唸り声にも似た相槌を打つ。顎下に片手を添えた。 「具体的に何処が?」 ピシッとパロマの顔にヒビが入る。眸を動かさないまま何度か瞬きをして、手汗を拭って口を開く。長い口吻にしては短く単純な答えが放たれる。 「毛が、青い」 「彼が例え醜い猫に生まれ変わっても好きになれるか?」 疑問に殴られ、到頭パロマは眼を瞑る。冷然とした態度で居て、対抗するべきだと何度も言い聞かせた。然し、どんなに足掻いても心を覗いてみると、嫌悪感が拭えないのだ。 「……命令だ。黙れ」苦々しく吐き捨てた。 「私は部下じゃ無いので命令を聞き入れる筋合いは無い。医者として、強制的に送られている」 「黒瑪瑙先生がもうすぐ泣きます」 銅が口を尖らせた。其の通り、クルルが震えたまま顔を手で覆い隠している。指と指の隙間から静かに様子を窺っていた。そんな麒麟を見た刹那、ピタリと黙り込み無言になる。そして、数時間後に一言の爆弾が投下された。 「容姿は煌びやかなのに中身腐ってるのは二頭共一緒ですね」 熱風と化した冷えの余韻が輸送機内を包んで、他愛無い雑談までもが飛ばされた。「馬鹿!」と捻り潰した叫び声をぶつけて、銅の嘴を押さえようと必死になる。エヴァンは意外にも穏やかに笑っていた。 「だから親友を辞められなくて困っている」 「ええっ、其れは眼から鱗です! いやあ、素敵な悩みですね。もし、私も三日月さんみたいな性格だったら先生と友達になれましたか?」 突拍子も無くクルルが尻尾をばたつかせる。紅玉が草臥れて「何に納得したんだよ」と呟いた。 「遂に右腕じゃ満足出来なくなったか」 細い瞳孔をチラつかせて言う。其処には軽蔑も呆れも無い、疑問に似た呟き声だけが残る。爬虫は感情が読めないという愚痴に紫水晶の尾が動揺する。沈丁花は同情もせずに周囲を怒鳴りつけると、満ちた殺気と嫌悪感に終止符を打った。 「軍獣ならば堂々と言え。文句を垂れるな!」 付け加えてエヴァンにも大概にするよう指摘する。其の刹那、水を打った様な静寂を突き破り破滅音が響き渡る。騒々しいなと思いながら状況を聞くと、既にヨルガンに到着したらしい。下に散らばる街は火の海、誰かの働いていた建物は兵器という塊に粉々にされて、火の粉を撒いて倒れている。煙草から立つ煙とは違う硝煙は、此の輸送機へと向かって伸びていた。蒸せるような黒と赤の世界。黝の波を立てている海を横眼に基地へと離陸する。転ぶ獣、黒い悪魔の様な爆撃機。音が無くても鼓膜に響く泣き声。鼻腔に棲みつく血腥さが、今となっては涙が堪えられなくなる程苦しい。此の飛行により見捨てた命が何千を超えている事は明白だ。其の場に居る全員が死を覚悟して、輸送機から戦場へと足を踏み入れた。煙を吸って乾いた風を頬に浴びながら、待機していた別基地の軍獣が並んで敬礼をする。 「死んでたら許さない」 パロマが周囲を睥睨する。軍医軍獣は強く頷いて、返事をする。それからは互い別々に別れ、一方は軍病院へと足を向かわせた。数分もしない内にL字五階建ての病院が聳えて見え、各部屋へと分かれる。普段白い廊下には青い布が敷かれ、毛の燃え焦げた獣が横たわる地獄絵図が繰り広げられていた。服かと思えば垂れ下がった皮膚であったり、地雷で肉塊になったが尚、痙攣している何かが蠢いている。軽度火傷で煤まみれの鳥竜は精神が崩壊して笑い続けている。屍体と焦げた物体の行列が治療室まで絶え間なく続いている。愕然とする中、エヴァンが一言クルルに向けて発した。 「屍体の使える部位を剥がせ。移植する。壊死した部分は切断しろ。予想していたよりも急所は守れている」 「……わかりました。其処の方、此の死体を運ぶの手伝ってくれませんか!」 黒毛の月輪熊を呼び止める。すると、静かに振り返り、堪えていた物を吐き出すように返事をした。 「はい……先輩」 「えっお前、ペランサ?」 「知り合いですか?」 紅玉が興味深そうに身を乗り出した。三頭は恥ずかしそうに顔を見合わせる。 「医学部の後輩だ。私は治療室の患者からするから二頭でやれ」 エヴァンが硬直している紅玉を連れて部屋へ入る。残された二頭は返事をして次々と屍体を運び始めた。暗闇だからこそ燦然とする希望は太陽の様に動かない。然し手を伸ばしても届かない様にも見えて、患者は気力を失い眼を閉じる。絶望しなければ希望など見出せない筈である。
悪魔
悪魔と云う物は美しく着飾り、整った美貌を持ち、硝子玉の様な眼を煌めかせている。水晶の如く澄んだ白い肌、或いは酷く醜い身体をした者も居る。鱗の艶やかな蛇、巨体の魚、赤孔雀や毛の散る針を刺したような棘を持ち、歪んだ顔を傾ける犬。然し、どの悪魔にも知恵があり、神々に逆らった。憤怒した天の神は悪魔を地獄と云う閉鎖空間に閉じ込めて、封をしたのだ。 天使と云う物は醜い物を嫌い、悪魔を穢らわしいと云って蹴り捨てた。彼等は狂人共めと吐き捨てるが、神仏の前で這い蹲り、一つの者を疑いもせず信じて、それを信じぬ悪魔を攻撃するのも狂人と呼べよう。翼の塊に眼玉をこじ付けた様な醜い姿は見るに堪えない。だが、真実を知っていそうな其の眼だけは誠実だと思えた。 悪戯心に全てを捧げた悪魔も、無心に神々を信仰し拝めている天使も、何方も愚かである。想像の中で美しく佇む悪魔は、瑠璃色を纏い清水のような髪を解かして微笑む聖書の天使そのものなのだ。然し、地上の天使と云う物は神々を全知全能に描いたは良いが、悪魔を悪く拡張し醜く描いて、其れを神と信仰していた人々を潰した。気がつけば真実を揉み消して、神すら信じず考える事を辞めた天使で周囲は溢れ返る。私は朧げに考えた。聖書を疑わずして神を拝む勿れと。
楽鯱
白背広を纏い股を開いた鯱は、大麻の葉巻を咥えたまま踏ん反り返って椅子に沈んでいた。青白の煙を吸い込み、肺の端から端までを覆い尽くして鼻から吐く。そして恍惚とした眼を爛々とさせて眼の前の女を見ていた。首後ろにある赤波の二重模様や左腕の烙印、全身にある細長い切り傷も彫刻とは違う男らしさ、美しさを強調している。積み上げられた書類や聖書の上に一つ桜桃《チェリー》を置き、細長い牙を連らせてニィと笑みを浮かべていた。 「翼生やして空飛びたいわぁ」 胸を煙で膨らませて、脚を組む。女は裸体を毛布で隠して眼を細めた。硝子張りの窓の向こうには、相変わらず珊瑚礁が煌めいている。 「は、頭まで腐ったのか」 「海なんてつまらん。俺は死んだら鳥になるんや」 手を広げてパタパタと動かす。そして口を開こうとした女を遮って立ち上がった。 「金をなぁ、アンタみたいな女にばら撒いて去る」 「……それは、ごめん」 眉を顰めて眸を揺らす。鯱は表情を濁らせて、焦る様に動きを止めた。 「ちゃう。全部戦争のせいや。もし戦争なんて無かったら、アンタは身売りせんで済んどった」 「でも、戦争が無ければ此の頭おかしい鯱とも話さなかったけどね。もう数年も経つか。エヴァンに金返した?」 「さっさと返したわ」 本棚に挟んでいた書類を叩きつける。女は感心して「おおー」と書類を捲っていた。其の微かな間、鯱は夜景を見て過去の記憶を思い出す。波が寄っては逃げてを繰り返して波紋を作っていた。 「何考えてんの」 「淫乱女と会った時の事〜」 ぐぅと欠伸してほんの少し口を開ける。細い牙が無数に並んで覗いた。女は待ってましたと言う様に眼を輝かせて身を乗り出す。 「はぁー? 聞かせてよ」 「ええよ。面倒になるから最初から話したる」 返済の書類片手に、語り始めた──── ♪♪♪ 俺は路地裏を見るなり思わずドッと笑った。胸鰭に似た手を擦り合わせながら足音を立てずに近づき、さっと座り込む。尾鰭をドシャドシャ叩きつけて興奮気味になり、白い下顎と頬を撫でまくりながら狂喜する。すると、昨晩の喘ぎ声と何かを擦り付ける水を叩き弾く音が脳裏を突く様に蘇った。同じく此の真昼にも、熱い夜を過ごしていた彼らと同一動物が居るとは寝耳に水だ。そうして物陰からひょこりと鰭を覗かせ、アイパッチ下の眼をギラリと輝かせ凝視する。其の媾う二頭は伊太利亜紳士の様な美男と、痩せ細り肋骨の浮き出る狼の娘だ。許しを請う様に紳士の眼を見つめ、痛みに涙を流し、ガタガタと牙で下唇を噛み締め震えている。 「咥えろよ」 「……」 無理矢理口に押し込む。女は込み上げる吐瀉物を堪える様に顔を歪めると、頬をゴニョゴニョと動かす。喉奥を痛そうにして涙眼になった。俺は少しエッチだなと思いながら息を呑んで、じぃっと其の様を見届ける。背負っていた鞄に手を伸ばし、学校で使った鋏を取り出した。曇り無く冷たい光揺らす其の刃を向け、尾鰭をブンブン揺らして駆け出す。女は眼をギラつかせて、ただ動かなかった。 「糞餓鬼が!!」 毛の間、柔らかな皮膚に刃が入り込んだ時、初めて美男は焦りを見せた。助けを呼ぼうとした時、物陰に居た女が金槌で頭を殴る。ゴガンッと鈍い音が鳴り、バクバクと血が滴った。赤茶に染まる額、白眼を向いて液のような泡を垂れ流す青白い唇。俺は人殺しになってまうと思って何度か頬を叩いたが、依然として動かない。もう既に屍や。而も女は感謝の言葉も言わず、美男の財布を漁った。仕方なく其の姿を見ていると、或る事に気がつく。想像していたより遥かに美形で可愛い。柿毛と黒毛を掛けて合わせ、眼下から鼻筋を除く頬を覆う白毛と麻呂眉が特徴的である。乾いて毛の固まった口元や股間を見るに、相当酷い扱いをされていたのだろうと想像する。女はチラリと俺を見た。照れて笑ってしまう。 「二十万あった。ありがと」 倦怠感を顔に笑顔を貼り付けて、札束をヒラヒラとさせる。窶れていた。俺は此の末期癌を抱えた様な顔をした悲劇の娘に哀しみを覚える。いやあ、哀れだと。そしてゴミ箱や金属のガラクタに覆われた狭い路地まで屍体を引き摺り、アムアムと齧りつく。血の味が舌に広がり鼻の奥まで突いた。慣れた味で容姿と同じで美味しい。暫く夢中になって肉を食い千切り、骨を噛み砕いていると、屈んで不思議そうにそれを眺める女と眼が合う。 「あんさぁん売春してるんか。下品なやっちゃのう」 女は表情を崩して、何事も無かったかのように笑った。 「まあね。あっ、訊いたってことは金くれんの?」 「……いやいや、流石に渡せんわ。でも別嬪さんやしなぁ。一応、連絡先と名前だけ教えてくれへん?」 赤く濡れた白い下顎を拭い、顔を上げる。女は服の袖に腕を通しながら伸びをした。大きい襟が曲がる。胸が見える予感がして背伸びをしながら覗き込んだ。 「名前はレティシア・オベール。連絡先書く紙ある? アンタの連絡先と名前も知りたいんだけど」 「へー、レティシアちゃんか。俺ディアーノ・ドメニコーニ。連絡先と紙は鞄にあるで。何や、売春してる癖に字は書けるんか」 思わず笑いながら揶揄う。此の淫乱女、レティシアは嘲笑う様に麻呂眉をひょいと上げた。矢張り眼が綺麗で毛並みも乱れているが、整えれば美女と胸を張って言える。然し、帰ってきた答えは予想に反していた。 「ん、まぁアンタと同じ学校だからな」 「じゃあ、レティシア先輩か?」 穴だらけの屍体を焦って折り曲げる。いやいや、女好きの俺は校内の美女くらい全部把握している筈だ。震えながらも残りは晩餐として残そうと鞄に詰めて、地面を汚す焦茶の染みに砂を蹴って被せた。漠然と汚された地面にぽたりと水滴が落つる。勝手に学校でレティシアを先輩呼びする自分を想像して、口角がきゅうと吊り上がった。 「あんま行ってないし、そう呼ばれる筋合いは無いけどね」ははぁ、成程ね! 「本真、面倒な女やな。家あるん」 ドスリと構えて尾鰭で地面を叩く。砂埃が散った。すると、バツが悪い顔をしてレティシアは口許を拭く。勝手に俺の鋁水筒を傾けて、綿に水を染み込ませていた。気に食わねえと言う眼で睨みつけてやると、やっと顔を綺麗にして振り向く。倦怠感のせいか冷めた雰囲気を感じたが、笑みは可愛い。徐々に美男への怒りが積もり、また引きちぎった。 「あるよ。陸軍基地」 「なら三食食えるやろが。何でわざわざ売りよんねん」 並んだ牙を覗かせる。黒白の図体がぬうと立ち上がるのは怖かっただろう。後から申し訳なく思ったが、レティシアは思った通り怯えて後退りして厭と軽蔑を混ぜ合わせた様な意外な顔を向けた。 「アンタ三日月《クロワッサン》基地って知らないの?」 「三日月は海軍基地ちゃうん?」 「正確には陸・海・空あるよ。ウチは借金が多すぎて返済が間に合ってないだけ」 薄闇に染まり、伸びる影へ視線を落とす。俺は明らかにヤバい雰囲気を感じ取って、ワザと冗談でも言われたかの様に笑った。アイパッチが歪む感覚がする。 「へえ、借金。何千万や」 「二十億」奴は平然として答えた。 「おお、詰みか」 動揺を隠して微笑んだ。本真に何や此奴、むっちゃ腹立つわ。 「そう」 いや諦めんな、廃人かアンタ。いや狼やけど。 「ま、まぁ、ほんならアンタがくたばる前に返済したるさかい黒眼鏡作ってくれや」 指で丸を作り、眼鏡とアピールする。多額の借金による疲労と絶望に染まって焦点すら合っていない狼は、狐につままれた様な顔で呆気にとられていた。狼の癖に狐につままれるんやな。 「は? 黒眼鏡?」 「首にぶら下がってんの丸見えや。俺も欲しい。色硝子の美しう眼鏡……浪漫やん。せやろ?」 首から垂れた紐の先には金縁の黒眼鏡が下がっていた。レティシアは恥ずかしそうに笑うと、其れを胸ポケットに仕舞い頷く。 「アンタに貰うまでにウチが返済するから。でもアンタが先に返済したら作ったげる」 「はぁ? アホらしいやっちゃ。この屍体くれたる」 鞄を投げ捨てる。レティシアが其の鞄を抱き締めたが、頭を噛みちぎったのか軽い。生き物ではない、ただの重々しい物体の入った黒鞄。 「何で?」 「自分ん胸触ってみ。むちゃ痩せとるで」 肉肉しい自分の胸を揉んで見せる。俺のは筋肉でムッチムチだが、レティシアの胸許はぺっちゃんこで壁の様だった。辛うじて乳首が生えている。眼の前にいるぺちゃんこ女が恨めしそうに眼線を移した。 「……今まで胸見てたのか?」 「ああん? んなぺちゃんこに興味あるわけないやろ。俎板はんが」 「初対面で俎板!? 此の茄子が!」 小声を漏らしたが、腹は空腹の合図を送っていた。彼女は恥ずかしさに頬を薄紅にして俯く。俺は「食えよ」と押してさっさと家に帰った。 今宵、俺は全身の服を脱ぎ、白黒の全裸のまま硝子窓から夜景を見下ろしていた。此の金融大都市は光を絶やす事は無い。片手には金剛石に巻かれた電話機を握り締めている。頭の上でスゥ、ハァと息をして待っていた。暫く大廈高楼を静かに眺めていると、電話機が音を立てて震える。ゆっくりと鰭のような指で応答を押した。 「何だね。ドメニコーニ君」低い声が静かに響いた。 「夜分に申し訳ありません、メルクリオ頭取。実は考えが変わりましてね、海軍は諦めて其方の銀行で働かせて頂きたいのです。宜しいですかな?」 「あれ、それは本当か?」 「もちろんです」 「いやぁ、それは……朗報だねえ」 にちゃ、と粘り気のある笑みが音声越しに聞こえる。俺は腹を抑えて失笑と気持ち悪さに耐えながら、カラカラと軽く笑った。海豚は基本、雌以外キモい。腹が減るから焼豚でも頼もうかと思った。 「ええ、なのでね。私に投資をする覚悟で居て欲しく思います。こう言うのもアレですが……私、賢いですよ」 「ほう?」 咳払いの様な笑いが響く。軽蔑を交えた声に、俺も嘲笑の色を滲ませていた。ああ、もう死ぬのにな。勿体無い奴だ……と。醜い海豚は言った。 「鯱《オルカ》は眼玉も飛び出る程欲しい獣材だ。それに名門校のアンブロシア出身となればな。後何年で卒業かね?」 「残り二年です」脚を投げ出した。 「ほおう、隠れてバイトしてみないか。君なら社長も夢じゃ無いよ」 「えっ、そうですかっ! なら、喜んで引き受けちゃいますよ?」 渇いた笑いを浮かべる。電話機越しからくちゃくちゃと笑う音が漏れた。思わず、顔を顰めて別方向に向く。反吐が出そうだ。でも別嬪の為なら俺は命を投げることが出来る。ワンチャン、此が成功すれば抱けるかもしれない。其の可能性には浪漫と希望が全て詰まっていた。俺は胸の中でレティシアの名を呼び、姿勢を正す。 「ああ、大歓迎だよ」 「やったぁ、ならどうです? お礼に今度、一杯奢りますよ」 「良いねえ、楽しみにしてるよ」 この会話を最後に、プツリと切れた。一頭残された部屋でグダリと全身を伸ばす。白い腹を撫でて、はぁーと大きく溜息をついた。金持ち老人の薄汚い声で耳も汚れる。でも、俺には美狼が居る為どうでも良かった。 それで次の日、学校終わりに硝子張りの大廈高楼の裏側に入り込んだ。白背広を纏い、胸を張って裏道を突き進む。指定された個室の扉前で立ち止まると、二度軽く叩いた。 「良いよ」 「失礼します」 恭しく頭を下げる。其処には肥えた海豚《イルカ》が座り込んでいた。肉が溢れるのではと心配をしながら、椅子の前まで行く。「ああ、座って良いよ」メルクリオがにちゃにちゃする。俺は奴のメロンを眺めながら楕円の白い机を挟んで、肥えた脂っこい海豚と対面して座った。 「今からテストをして貰う。卒業してすぐに入れる様にね」 「はい」 返事して、置かれている鉛筆を握った。はじめ、という合図で紙を裏返すと数学の基本問題から心理について、兎に角考え方を問うものが多かった。俺はこういう問題が嫌いだ。正解が無い。冷や汗が滲むのをじわじわと感じながら問題を解く。心理テストなど知るものかと思っていたが、意外と奥が深かった。二十分程で全てを終わらせると、鉛筆を元の位置に戻して紙を裏返す。すると、いつの間にか背後に居た白長須鯨が回収した。 「よし、もう帰っていいよ。結果は後に分かる」 にぃ、と長い口吻から細い牙を覗かせる。俺は冷や汗を拭ってお辞儀をすると、失礼しましたと其の場から立ち去った。 ♪♪♪ 【合格】 その通知用紙を見て、安堵の溜息をついた。嗚呼、此で将来困る事は無いだろうなとニヤニヤする。相変わらず硝子張りの澄み切った部屋で転がっていると、電話が掛かってきた。番号を眼で追うと、思わずドッカァンと周囲の物を蹴散らして飛び跳ねた。海の上に居た頃を思い出して回転するが、床に叩き落とされる。 「レッ、レティシアちゃん?」 「あー、エヴァンって坊主知ってる?」 「は? 金持ち師匠がどないしたん」 此の淫乱女、浮気者か? 「何キレてんの? 其奴が道路でぶっ倒れてて学校までを運んだけど、どうしたらいいか分かんない。分厚い鞄だけあるんだけど、札束詰まってて……何者?」 「あいつぁ、ええしのぼんぼんやで」 尾鰭の尻尾を畝らせて、長椅子に仰向けになった。長い後頭部の鰭が椅子端から飛び出す。 「そうなの、あ!?」悲鳴にも似た奇声が響いた。 「ええい、やかましいなぁ……」 「ヘレッセン!? やば、名家だぞ。油燈で照らしてみたら凄い容姿。服脱がしたら打撲が物凄い数!」 興奮気味に鱗を撫でる音が聞こえる。俺はやり場の無い屈辱と羨ましさに青褪めた。 「げぇっ、何ちゅーことしてるんや?! 脱がしたらどつかれんで!?」 「あ、起きた」 「まっ師匠《マエストロ》大丈夫か?」 「触んな、クソビッチ! 俺は豹に犯されて汚れたから風呂に入るんだ! 腰が痛くて立てない! ああっクソ!!」 エヴァンの断末魔の様な叫びが響く。何となく面白そうな予感がした。直ぐに薄着を羽織って電話を繋いだまま駆け出すと、学校まで泳ぐ様に走った。夜道から見える黝い海は波紋を立てて、其の奥には灯台がある。そして光の粉をばら撒く繁華街を波の様に通り過ぎて、信号機の前で立ち止まる。衣嚢からは喧嘩の音が鳴っていてとんでもなく騒がしい。 「寝込みを襲うとか論外だろ?」 「変な所で寝てるからだろ」 「だからボニファーツに抱かれて……殴られて意識が飛んで」 「あーん、だから打撲?」 会話が徐々に重なる。現場まで足を運ぶと、電話を切った。眼の前には門の前で座るレティシアと、拗ねて怒っているが立てなくなっているエヴァンが居た。 「お前が此の淫乱連れてきたのか?」 レティシアの金釦を引っ掴む。レティシアは片脚で股間を蹴り上げた。前に比べて肉がついたのか、膨らんでいる様に見える。胸が。エヴァンは涙を浮かべて悲鳴を上げた。 「やめろ」 「喘げ雌蜥蜴」馬乗りになった。 「痛い。ディアーノ突っ立ってないで助けろ」 うつ伏せて股間に手を挟んだまま藻がいている。肩が痙攣で跳ねていた。屈んで眺める。 「んなと言われても知らへんで。其の女とよおーさん仲良くお喋りしてるんやし、流石に俺が手ぇ出したらあかんわぁ〜って思うやんか……」 「金的何回されたと思っ」また蹴られた。 「アンタが興奮しておっ勃ててるから痛いんだろ?」 「違う、最初上に乗ってたから」 「何期待してたんだ?」 尻尾を蹴飛ばした。悶絶して意識が朦朧としているエヴァンの角を鷲掴みにして眼を合わせる。爛々として頼み込んだ。 「あっせや、飢えてる子鹿たちに寄付するさかい金貸してくれへん? ま、百万くらいあらぁ水買えるんちゃう? 知らんけど」 「やるから帰れ。俺はボニファーツの家に行ってアイツをボコボコにする」 鞄から札束を投げると、フラフラと立ち上がった。砂埃を翼で払って大きく溜息をつく。俺は気がつくと鰭をばたつかせて狂った様に跳ねていた。 「おおきに! どついたれ」 「無駄金にしたら晩餐は鯱肉だからな」 脅す様に身を乗り出すと、翼を何度も大きく羽ばたかせて空へと溶け込んでいった。手をひらつかせて見送り、レティシアに札束を預ける。 「行くで」 「行くって何処に?」唖然として訊いた。 「物乞いの爺を金ちらつかせて買うんや」 コレ、と言って札束で腕を叩く。明らかに狼狽している狼は信じられないという表情を貼り付けて長い口を開けた。 「はぁ!?」 「ま、ま、付いてき」 手を引いたまま怪しい鯱が路地を駆け巡る。隣には怪訝そうな顔をした狼の姿があった。そして少しすると足を止めて、はぁーと大きく息をつく。 其処は、スラム街であった。麻薬売り場もあり、顔を布で覆った男が柱の裏に立っている。排出物のぶち撒けられた地面は濡れ、薬剤や服が転がり落ちている。此の地獄絵図の様な空間に並ぶ布の行列は、震えて痩せた両掌を差し出して、食べ物や金を求めていた。 「お兄さん、其の金ェ」 俺に向かって蛙が飛び出る。爛れた左顔と乾いた肌を見て虫唾が走り、カッと鳩尾に蹴りを入れた。蛙は吐瀉して地面と接吻すると、腹を押さえたまま腰を振っている。俺は唾で汚れた頬を撫でながら「コイツ頭イッてるんちゃう」と嘲笑う。レティシアは髪を櫛で梳かしながら「放っとけ」と低く言った。金を求めて襲い掛かる獣を避けながら、階段裏まで行くと元運転手である馴鹿が座り込んでいた。苔を貪りながら俺のことを見上げ、不思議そうに首を傾げている。 「御機嫌よろしゅう。キャメロン」 札束を膝の上に置いた。キャメロンと呼ばれた馴鹿はゆっくりと枚数を数える。 「随分と伊太利亜語が上手だな。米語を話すと思ったが」 「彼女が伊太利亜に居たので」軽く咳払いする。 「何だ、此の金は」 「運転手に戻ってください。其の為の金です」 「嫌だ」 札束を投げた。レティシアが急いで拾う。 「では、後日一億持って御伺いしますね」 涼しい顔をして背を見せると、刃物を持ち横から刺そうとした猫の腕を真逆に折り、睾丸を踏み潰した。血の混ざった精液が粘りを含み滲んでゆく。悲痛な叫びを背に去ると、レティシアは小声で呟いた。 「よくウチの為に犯罪が出来るよねー。一億って何」 「一億は俺ん金。暇やししゃあないやろ。犯されてるアンタ見てたら涙出てきたわ」 眼許を拭う。まぁ、事実だ。こんな美女が虫ケラ共の舌で覆われて堪るか! 其の涙だったのに其の美女は「眼、其処なのか」と言う。いやいや、普通此処だろう。そして耳は眼のちょっと向こう側だ。見えないのか? 「当たり前やん」 「へー」 薄い反応に腹を立てながら石ころを蹴る。でも作戦としては予想通りだった。 俺は其れからレティシアと何回も会って仲良くなった頃、投資銀行で株を持ちまくり周囲からは期待と憧れを抱かれていた。大儲けだったのだ。其れも、軍需品や医療機器なども狙っていた。毎日口笛を吹いてエヴァンやボニファーツに自慢する始末。此処で、俺にとっては凄く都合の悪い事件が起きた。エヴァンがレティシアに恋心を抱いたのだ。それを知ったのは或日の校舎、鯨の死にたてホヤホヤの舌弁当を貪っている時の話だ。エヴァンは相変わらず構造色を畝らせながら鉱石を呑んでいる。 「俺さ、レティシア先輩姐さんって感じで好きかも。告れば多分オーケーされるよね?」 自信満々という顔。恋愛相談というか、交際許可されるよねという確認である。瞳孔が細すぎてよく見えない。 「何や、変に自信あるな。弟に似てきてるで」 焦りすぎて舌がどっか行ってもうた。呂律も回らへん。何や此の気持ち。気ぃ悪なってきたわ。 「先輩俺の事好きだと思う!」 此奴、地雷の上で踊ってはる! 「げぇっ、きっしょいわ!! アンタマゾなんちゃう?」 「え、怖い。何でピリピリしてる?」悟られた。 「いやな、其れはその、ほら、あれやんあれ。友人が失恋する瞬間みとぉないやろ。ほら、石食う手が止まってるで。俺便所行ってくるわ」 逃走するしか無い。静かに立ち上がろうとすると、尾鰭を片手で掴まれた。血が滲んでいる。 「話を逸らすなって」 「いいいいいいいいや、漏れる漏れる。本真、本真に漏れる!」 鯱肉が抉れる。痛い。違う意味でちびりそう。振り返ると石は全て食べたのか、破片だけが散っていた。噛み砕いたのかゴリゴリと明らかにおかしい音が響いている。お前の骨も砕けるぞという顔だ。 「嘘だろ。例の金何処に突っ込んだ? 賭場《カジノ》だと思ってたけど違うみたいだな。レティシアの事買おうとしたのか。へえ、お前はもう少し賢いと思ったんだけど」 賢いという言葉を使っている時のエヴァンは大抵怒っている。激怒している時は沈黙し、其の直前は此だ。俺は毎晩の様に愚痴を聞いていたからこそ分かる。誤魔化して逃げなければネチネチだ。 「アンタにはボニファーツっちゅう彼氏がおるやんか! そんなんより、今日の梟先生おもろかったなぁ。メガネかけてんのに、『メガネメガネ〜』って探してはったで」 ゲラゲラ独りで焦り笑いをする。真顔のエヴァンが石の破片を吐き出して近寄って来た。不味い。歯茎にまだ菱苦土鉱挟まってるで、とは指摘出来ない。代わりに失笑してしまった。 「何笑ってる」 「勉強に熱心な師匠も、恋愛するんやなって」 「するよ」 悪いと思ったのか、手を離して撫でた。 「先輩は俺の事褒めなかったし、でも悪くも言わない。『どうですか』って訊いたら『良いんじゃない?』って言ってくれる。其れが一番楽で心地良かった」 何だか話を聞いていると、お似合いだろうなと思ってしまった。今まで掃除場所や擦れ違い際に挨拶をしてくれたという当たり前な話や、生徒会会議で世話になった事を聞かせてくれる。今まで見た事無いくらい楽しそうで、笑顔が輝いていた。構造色も鉱石を食べたからか紅紫で綺麗だ。こんな黒白より、見栄えは良いだろう。海を背に結婚式をして、青空の下で婚約指輪をつけるのだろうか。ドレス、似合うだろうな。と気がつけば色々想像していた。勝手に胸には輝かしい未来が広がっていて、二頭の幸せに少し潜りたいなと思ってしまった。弱い男だと笑う。 「ええんやない」 「何諦めた顔してるんだ」 すっとぼけた顔で訊いて来た事に腹が立ち、激しく接吻して其の場を去った。きっと吻が傷んでいるだろう。ザマァ見ろという気持ちで、あまり食べられなかった舌を齧る。 数ヶ月後、エヴァンは真っ当に告白をしたが、断られたという話を聞いたのは本人からでは無くボニファーツからだった。瑠璃の様な毛をした青豹で、身体は妙に細長く猫らしい眼をしている。外套に似た制服が肌蹴て首筋どころか鎖骨の下まで出ていた。何も得るものは無い。 「当たり前だよねえ。こんな事で学校来なくなったら寂しいな。でも良かったんじゃない? 最近少し成績下がってたし、恋愛なんてするものじゃないよ。僕と付き合ってれば良いのにね」 あの臭い海豚と何も変わらない。くちゃくちゃせずハキハキした気持ち悪さが身体にこびりつく海藻の様に癪に障った。 「やかましい!!」思わず叫ぶ。 「大声出さなくても聞こえてるよ。煩いな」 両耳を下げて上眼遣いした。捨て猫のフリだろう。自分の悲劇を強調、拡張して周囲の悲劇を塗り潰す悪魔だ。だけど其れが好きだった。エヴァンに関する事を除いて。 「アンタの執着とか知らへんわ。周囲が迷惑してるの分からん? エヴァンエヴァンエヴァンて、やかましいわ。時計見えへんの? ほら針何処向いてる? もう授業始まるやろが!」 激怒で自分でも何を言っているか分からない。堪忍袋の尾が切れたのか、今まで蓄積して来た怒りが雪崩のように溢れ返る。眼の前の青豹は鼻を撫でてよそ見していた。 「怒ってるね。発情期? 喉が渇いてるだろうから水分摂りなよ」 ぷち、と音を立てて糸が切れる。急に冷静になり全てがどうでも良くなった。虚無のまま教科書を取りに行く時、背後から迫り抱擁され、此の世にあるとは思えない程不愉快な感情に潰された事は覚えている。 俺は気がつけば鞄を持ったまま学校を飛び出し、エヴァンの家まで走った。そして扉を蹴り開けて数時間相手の言葉を聞かずに慰め続けた。半分は馬鹿豹に対する愚痴である。毛布に包まったままのエヴァンは静かに頷いて、相槌を打つ。気持ちが溢れて互いに慟哭していた。然し、俺にはチャンスというものが巡って来ていたのだ。レティシアは俺と遊ぶのを辞めないし、同じ部屋で何もせず寝る事がある。気がつけば、卒業した後も罪悪感を背負いながらも時間を共に過ごしていた。そして計画も淡々と進んでいる。久々に一億をゴミ袋に入れてスラム街へ足を踏み入れた。其処に居た筈の物乞いの行列は無い。代わりに焦げて腐った骨が並んでいる。独り、馴鹿が苔を舐めていた。 「一億」 「……有難う」 彼は初めて、感謝の言葉を明瞭に口にした。そして俺の事を見ながら涙を流して頭を下げた。 「息子に学費を払ってやれる……。私は何をしたら良い」 「成獣二頭を乗せた車を、崖から落とすだけ」 バーンと手でやる。キャメロンは酷く絶望し、窶れた顔をして唖然としていた。喉の奥が見える程に、ガックリと下顎を落としている。俺は点火器から煙のような焔を出して揺らしながら、袋に近づける。キャメロンは命乞いをするように地面に這い蹲り、頭を下げた。 「辞めて下さい」 震えて、涙と鼻水と涎の混ざった液体で顔が原型を留めていない。俺は焔を移そうと近づけてゆく。 「死にますから」 ぴたりと止めた。計画通り。俺はもう一人雇っていた殺し屋の白長須鯨を呼び出して見張るように命令する。キャメロンは怯えながら俺の背を眺めていた。一億円に縋りつきながら、惨めに座り込んでいる。たったあれだけの金、安いものなのに。 実行までに積み上げた功績や株。投資して稼いだ金は貯めて貯めて貯めまくった。世界金融すら握れる立場になり、寝る暇も無くなる。陰で運の空売りも繰り返していたからか儲けすぎて気が狂いそうだ。だが、此の日々積み重ねた金を全てレティシアに流す事が出来る。 「いやぁ、飲み会楽しみだね」 くちゃくちゃ海豚がニチャニチャ笑う。俺は前と違って引き攣らない自然な笑みを返した。 「ええ! 本当に」 鍛えられた馴鹿を一瞥した。別の車には鯨が座り込み、忙しく電話を掛けている。俺は本当の運転手が乗っている車に乗り込み、海豚や海牛などを馴鹿の車に乗せて出発した。最初は普通に酒屋に向かう。灯台の向こうを眺めながら向かい、興味の無い話を興味深く聞いて頷く作業を繰り返す。相槌をして、身振り素振り繰り返して成程と感心して見せた。 「いやね、ディアーノ君。君は良い子だよ」 「そんなぁー、ねぇ?」 周囲の幹部に笑いかけた。すると企鵝達が俺をどっと褒め始める。此処で脳内ボニファーツが謙虚にしろと訴えてきた。命令に逆らう事も出来ず、そんな事もないと謙虚な態度を取った。 「ではね、もうすぐ帰りましょうか」 俺は幸福の時間に陶酔する。もうすぐ彼は死ぬのだ。準備満タンな車に酔って眠る海豚や海牛を詰め込み、俺は別の車へと乗る。最後まで笑顔で偉いよ、と自分を褒めた。もうすぐだと考えるだけで胸が躍る。ああ、待ち侘びていた。此の瞬間を。 カァンと信じられない音を立てて、車が崖から落つる。金属片の散る音と潰れる音、悲鳴に似た霞んだ断末魔に遮られて車は塵となり消え失せた。俺は其の場で踊ろうと思ったが、態々車を降りて通報する。話しや経緯などを一生懸命説明して、涙を流して下唇を噛みながら尋問に応じた。周囲が同情する気持ち悪さと自己嫌悪を蹴り飛ばして、しっかりと演じる。其の事故から一年も経たないうちに、俺は頭取となった。 ♪♪♪ 「で、返済してやったんや」 自慢げにディアーノが煙を吐いた。眼の前のレティシアは冴えた眼を震わせて、胸糞悪そうにしている。眠気が覚めたらしい。 「……あっそ」 興味無さそうに知らん振りする。指先が震えるのを片手で抑えて、乱れた呼吸を整えている最中であった。 「レティシア」 纏っていた布を解く。レティシアは「何」と訊く声さえ押し潰れて、掠れた返事しか出来なかった。 「貰うてへんかったな。黒眼鏡」 激しくソファに押し倒した。レティシアはホッと溜息を吐いて、大きな影の下で衣嚢を探る。そして箱を渡した。ディアーノは首を傾げて箱を開く。其処には新品の黒眼鏡が入っていた。全体的に黄金である。 「……あるよ、大きさ合ってるか分からないけど」 「……嬉しいわ」 早速、と言わんばかりに紐を結ぶ。ぴったりだ。ディアーノは手を出そうとした事を後悔しながら、無言で退いた。手前で泳ぐ魚や海鼠を見るために、窓際へ向く。其の眼には殺し屋の色が滲んでいた。
I 青玉
サーフィー・ヘレッセンは胸を掻き毟り、悲鳴にも似た叫びを押し殺して眼覚めた。薄浅葱の透き通る巻き髪を垂らして、眼を大きく見開き尻尾を揺らす。夢から覚めたのかさえ曖昧なまま、荒い息をして肩を震わせた。水面から出てやっと息をしたかの様に喉を震わせ、眼尻にある鮫鰭に酷似した白模様を撫でる。そしてはぁと深く溜息を吐いた。口吻に片手を置いて起き上がりながら、恨めしそうに深緑の眸を潤ませる。此は悪夢だ、物凄く醜い悪夢だと独り言を呟いた。 口の中に滲む肉の塊、鼻へ上がる鉄の香り。眼の前にある母の脚。全ての記憶が鮮明に蘇り、浅い息をして倒れそうになった。幼い兄が母の屍体を噛み千切り、毛皮を剥いで口移しで喰わせる。全身の力が酷く抜け、ただ飲み込む事しか出来ない。弾力のある塊を無我夢中になり呑み込んだ。背後から常に聞こえる爆撃機のカァン、バァンという破裂音に怯えながら、終戦を祈り、岩陰に身を隠していた。 過去の事だと切り捨てようとしたが、サーフィーには到底無理な話だ。月日が経とうと残酷で堪らない。 「母様、私は何故か海軍に居ます。あれから二度戦争に出て、指揮を執りました。母様に頂いた此の肉体で國を守れるなら本望です」 自分に言い聞かせるように囁いて、静かに起き上がった。其の途端、彼は軍隊の竜として豹変する。掛け布団を畳み、整理して制服に着替える。猛禽の様な鋭い爪も入る白手袋を嵌めた。足音を立てない様、慎重に歩くと真夜中の古びた階段を汗だくになって上る。暗闇でも鉄の臭いが周囲に充満し、汗が湧き出る程暑い。そして、無慈悲にも背後にある硝子窓からは鋭く月光が射し、周囲は嘘だろうと言いたくなる程に静まり返っている。サーフィーは焦燥感に駆られた。夢では無い。現実の悪夢に向き合わねばならない。階段を登る度に、体感温度がどんどんと上がる。脳天から燃やされている様だ。そして思う。「何故、兄には鱗が生えているのに俺には毛が生えているのか」と。浅葱の毛は毎日剃って、なるべく伸ばさないようにしているが、矢張暑いのである。せめて灼熱地獄から逃れようと襟元を掴みばたつかせるが、熱風が巻き起こるだけで更に悪化する。軈て頭の後ろをガァーンと殴られた様な痛みに襲われた。震えながら前の頭を押さえ、立ち止まると髪からたらりと汗が落ちる。流石に不味いなと苦笑いし、眼的の部屋まで足を急がせる。 「F24……あった」 部屋前の数字を見つけ、把手に手を掛ける。いつも通り開けようと力を入れるが、ビクともしない。次は腕の筋肉を全て使い脚から踏ん張ると、破裂音を立てて扉が開いた。風に揺れて震えている扉を片手で押さえ、足を踏み入れた途端、埃が舞う。絹の布で鼻を覆い、部屋に入り込むと誰も入れないという強い意志を表したかのようにピシャリと扉を閉めた。床には段ボールが積まれ、永遠と続く本棚には組織……軍の機密情報が詰まっている。彼の居るヒラール・ポッセナ特殊軍では陸空海がある。そして彼は海軍の最高指揮官だ。國軍とは違い、ヒラールの中だけで話し合い暗殺を行うことが許可されている。國の裏側、とも言えよう。陸軍の資料を通り過ぎて、幹部たちの報告や今後の方針などを読み漁る。分厚い本のような報告書を指でなぞり、軍病院の医師についてという資料で指を止めた。すぐに取り出し広げると、パラパラと紙を捲り翡翠のような眸をチラチラと動かした。 「『マールム大学医学部附属病院よりエヴァン・ヘレッセン教授、クルル・シャムス助教』」 暑さとは全く別の冷や汗が滲む。読み進めていくと考案は首領のものであると明記されていた。而も此の基地に転属するのは数週間後。幹部なのに何も知らされていないということに疑問を抱く。サーフィーは睫毛を伏せて、静かに資料を元の位置に置いた。部下の居る演習場へ戻る為に、青と灰が混ざりきったような迷彩服の裾をピンと張って整える。そして、考え事をしながら階段を下りてゆく。ガチャガチャと色々な感情が混ざり、破裂しているうちに表情を普段よりも曇らせた。其時、肩幅の広い陸軍の水牛が顔を覗かせた。手入れの行き届いた蹄の様な指先を壁に置いて、周囲を睥睨している。見事な角と黄金の星のような眼は相変わらず、黝い毛に似合っていた。数歩下りると床に足をつけて、挨拶をする様にサーフィーが立ち止まり、敬礼をすると相手は吃驚した顔をして即座に敬礼した。 「おい、誰かと思ったらそんなに青褪めてどうした。ただでさえ青毛なんだからしっかりしろよ」 地面を貫くような低い声である。サーフィーは苦笑を浮かべて髪を掻き上げた。 「──青褪めている? ……最近の任務は海が多かったから染まっちゃったのかも」 「ふぅん? でも鯱《オルカ》に噛みつかれた様な顔を見るに、只事とは思えねえ。あっ、もしかして兄貴の……」 水牛が言いかけると、刃物のような眼線を向けられ口を噤んだ。 「ライラ一等陸曹、特務頑張って」 肩をぽんと叩く。ライラはジッと不安そうな眼を向けて「アンタもな」と敬礼する。サーフィーは頬を赤らめて笑い、静かに敬礼を返した。鯱の皮肉は比喩として上出来だと褒めながら。 ♪♪♪ 早朝から狙撃音の轟く演習場を歩き廻っていると、横たわり小銃を抱いていた隊員達が素早く立ち上がり、敬礼した。サーフィーも同じく敬礼を返して「頑張っていますね。続けてください」と微笑む。隊員は勢い良く返事をすると、腕捲くりして小銃を構えた。全員が私を見てくださいとばかりに命中させてゆく。一気に張り詰めたような空気になった。 それを遠眼で眺めていると、彫刻で見るような美しい体躯の獅子が近寄ってきた。敬礼を交わすと、ふと袖が捲れて手首の内側にある三日月の刺青が覗く。その三日月を囲う点の数で階級が決まるが、六しか無い。サーフィーは首の後ろで、点の数は二十八だった。然し、その刺青が気に食わず、巻いた髪を少し伸ばして隠していた。後は後ろに伸びる角の影に頼っている。だからか、獅子の手首を見るなり眼を細めて眉をギュッと顰めた。 「|青玉《サフィール》大将が来たので先刻より気合が入っていますよ。青玉さん麾下の部隊は矢張、他より優れているように見えます」 柔らかな声が耳を撫でる様だ。大将には穏やかな猫そのものだが、隊員達からは悪魔と恐れられている。この部隊訓練評価隊が好きな隊員なんてほぼ居ない。サーフィーは態度の違いに不愉快さを覚えながら胸の名前を一瞥した。沈丁花《ジンチョウゲ》と書かれている。部隊内での名が花の名称ということは、上から四番目かとサーフィーが顎に手を当てた。別に果物を名乗らせても良いのだろうがと俯いていると、狙撃が終わったのか、部隊に混ざっている子供が褒めて欲しそうにサーフィーを見つめている。その姿が、胸を突き破る様だった。 「そう言うには早いでしょう。武器を抱えてあの山全て越え、海を泳ぎ限界を越えなければ認められません。体力もそうですが、精神を一番鍛えないと壊れてしまう」 「……」 沈丁花が空を眺めた。陽の光を浴びた風が鬣を揺らす。そして眩しさに眼を閉じた。 「大将の言う通りですね」 「総帥から体で教えて頂いた事です」 苦笑を浮かべると、瞬きする間に真顔に戻り、サッと襟元を整える。冷や汗を滲ませている沈丁花を前に、ピシッと胸を張った。 「さて、恐縮ながら急遽八時三十分より陸海共同会議を執り行う事となりました。ですので、誠に急ではありますがご出席していただきたく存じます」 「了解しました」 緊張を混じえた敬礼を交わす。唇が、僅かに震えている様に見えた。 ♪♪♪ 屋上まで行くと、青に染まる空の下でサーフィーは屋上から街を眺めた。ただ巻き毛を朝風に靡かせて身を乗り出している。柵を掴んでいるのは、毛玉の様だが鋭い鉤爪を持つ手だ。可愛らしさの欠片も無いなと苦笑を浮かべて優しく撫でる。満足げに数歩下がると軍靴の音を鳴らして壁際まで歩いた。凭れると無言で力を抜き、眠る様に長い睫毛を伏せる。すると、煙草の噎せるような匂いが鼻を突いた。 「ボニファーツ。兄ちゃん、大丈夫だった?」 振り返り、眉を顰める。背後で涼しい顔をしている青豹は、黒い煙草を咥えたまま点火器でシュボッと火を点けた。煙を鼻と口から大きく吐くと、黄色の牙が覗く。瑠璃毛が冷めた風に揺れた。 「いやぁ、未だに冷めた態度だ。病院内部や薬剤の他に、実験や内部構成を気にしていたよ。深夜に誰を暗殺したのかを歴代から最近まで淡々と尋問されて、反応すらされず電話を切られた」 眉間を押えてハァ、と溜息をつく。眼には悦びの色が濃く映っていた。気色の悪さと肝の冷える感覚に不快な素振りをして、肩の力を抜いた。 「一般病院と違うから仕方無い。暗殺の事まで知られたんなら嫌われても文句言えないよ。だから来るのに反対した」 恨めしそうに顔を近づけた。長い口吻が当たり、牙が薄ら覗いた。だが牙を剥く事はせず、ただ顔を横眼で見つめる。嫋やかな猫科らしい顔立ちが眸に映り込んだ。眼まで淡青な故、其の表情の全貌が瑠璃に包まれていた。態々覗き込もうとも考えたが、躊躇して止まる。 「はあ、化け物でも見てるような顔」 煙草を手に持って、ゆっくりと吸い込む。喉の奥まで煙で満たされ、鼻まで匂いが込み上げた。恍惚とした眼が何処を見ているかさえ分からず、姿ごと白い煙に包まれた。サーフィーは嫌そうに手で払い除けると、口角をギュッと吊り下げた。 「思って無い。でも毛色のせいで表情が分からないから、気になっただけ」 「へえ」 見せてやろうとばかりに、背伸びして見上げると、丸い瞳孔の豹が明瞭に見える。口には微笑みが浮かび、豹紋はずらりと毛を覆い尽くしている。開いた口は薄紅であった。芸術作品でもなく、生物だと見て分かる。 「神獣って言われても信じるよ」 ボニファーツは口許に靨を薄ら残し、開かれた唇から言葉を漏らそうとした。然し、サーフィーが其の言葉を遮る。 「魔獣って言われても信じるよ」 「……そっか」 諦めた様に、輪郭を崩さず美しく口角を上げた。眼がぴくりと痙攣した様にも見えたが、その落胆に気づく事は無かった。冷えた風を身体に巻いて、ぐぅっと伸びをする。サーフィーが呆れたとばかりに大きく欠伸した。 「そんな哀愁漂う顔されても困る」 「哀しむよ。部下に酷い事言われたんだもの」 態とらしく綿で眼の下を拭く。隣でそれを冷たく眺めながら「じゃあ、其方も暇じゃ無いだろうから次の会議で」と敬礼して切り出すと、青豹は爽やかに微笑んで返した。 ♪♪♪ 窓の奥で太陽が燦々と輝いている。サーフィーは青空に浮かぶ雲を眺めて待った。チク、タクと時計の音が鳴り響く。鼓膜の奥で耳鳴りがする静けさを纏う会議室では机を囲む様に動物が座り、合図があるまで沈黙していた。電波で繋がっている海中の隊員や、艦艇内部で会議を見ている鯱達が映し出されている。長い鰭には番号札が付けられ、白模様のアイパッチだけは気持ちが悪い程に揃っていた。椅子に腰掛けている海猫も自慢げに胸を張り、陸軍の動物を凝視する。沈丁花が如何にも憂鬱だと言いたげな眼を隣の縞馬に向けた。だが耳をヒラっと動かすだけで、言葉は掛けない。 暫くの間、静寂の魔物に抱かれていると、チクリと時計の針が三十を向く。正面のボニファーツが顔を上げた。 「起立」 「気をつけ」 「敬礼」 歯切れの良い声が響き渡る。敬礼をする時のビシッという空気を切る音が三十程に重なり、銃声の様だった。着席してボニファーツの方を向くと、配られた資料を合図で開く。サーフィーが立ち上がった。 「現状報告。ヨルガン共和國とカポン人民共和國での紛争により、侵略地域はシュネピリア方面へ拡大。昨夜発表された報告によると合計死者数は二万五千二百八十四人。二ヶ月でここまで死者が出るとは異例であり、我々陸海軍も拡大防止作戦として、D作戦に移る事に決定した。そして、図一の通り、ヨルガン北部地方ヨルガンでは水爆の開発が進められている。第五別基地によると、八月二十七日にカポンのヨルスカ地方東部ル・ダーラ地区へ発射するという計画が正式に決定された模様。幹部会議にて八月十七日に此方から援軍を派遣する事を決定した。後に個獣へ通達されるD作戦の実行と、第五別基地との連携を取って貰う」 「あのう、水爆開発の規模や爆発の範囲について具体的に説明して欲しいのですがー……」 狼の女が眼を細める。サーフィーは冷然として見下ろすと「詳しくは言えないが、五十メガトンを上回ると予想されている」と言った。場は騒然とするどころか女を見たまま静まり返っていた。 「此より派遣される兵隊の名前を呼ぶ。國の役に立てることを誇りに思い、堂々と立ちなさい」 「沈丁花二等陸曹」 「はい」 沈丁花が敢えて堂々と立ち上がる。正面を向いた。 「真桑《マグワ》陸曹長」 「はい」 次に、犀が大きな体躯をグッと曲げて立ち上がった。片眼で沈丁花を睨みつける。場の空気は張り詰め、心臓が破裂しそうな程に悪化した。 「甜瓜《メロン》准陸尉」 「はい」 虎が優雅に立つ。縞模様に、千切れて痛々しく傷を残した耳や鼻。数本失った指。鍛え上げた身体は軍服を引き千切る様な勢いだ。傷の隙間に覗く爛々とした眼は、猫科の猛獣としての恐ろしさを体現していた。 「……パロマ陸少将」 「……はい」 柿毛に黒と焦茶を所々に残した狼の女が立ち上がる。口吻の筋を除き眼の下から頬にかけて白毛。そして白い麻呂眉を顰めて、立ち上がった動物を不安げに見つめていた。 「着席。他、瑪瑙空軍中尉と黒瑪瑙陸軍中尉も戦場医として同行します」 「其の瑪瑙陸空軍中尉は何処へ」 甜瓜が辺りを見回した。ボニファーツが誤魔化す様に笑って答える。 「来たばかりだから会議に参加させることは出来ない。それに、彼らはD作戦に直接関与はしないだろう」 「そう、ですか」 不服そうな顔をして、思わず漏れそうになった舌打ちを噛み潰す。見事な鱗をした竜だと噂に聞いていたから拝みたかったらしい。晩に食堂で待ち伏せても姿が見られなかったのだ。鋭い爪を毛に向けていると、サーフィーがチラリと覗き込んで瞼をパチクリさせた。 「……続ける。本任務では紛争集結を眼差して交渉を試みる他、軍事協力を主とした内容となっている。ページを進めて、図二から三の確認を」 一斉に捲る音が響いた。途端に、場は騒然とする。静寂にゴワゴワと呼吸音の乱れの様な、又は砂嵐の様な雑音が鳴った。 「図二の下に『暗殺科部隊の派遣を正式に決定した』とありますがー、此は幹部抜きの会議にて決定したことですか?」 パロマが倦怠感溢れる顔で訊く。ボニファーツは片眉をひょいと上げて、尻尾を大きく揺らした。 「軍事機密だ」 「……前回の会議で暗殺科の派遣や軍事作戦はまだ検討段階だってほざいてた癖に、身勝手な軍だな」 諦めて小言を呟いている様にしか見えないが、声に出さず共感している者も少なく無かった。風の音が聞こえる位静かな時間が数秒流れる。トンと机を指で弾く音が静寂を切り開いた。 「陸海の大中将で話し合った結果が派遣決定だった。もう此処で言ったんだから、良いじゃないか。青玉も同意していた。そうだろう?」 促す様に、爬虫を感じる顔で同意を求める。サーフィーは紺の濡れた鼻をヒクヒクとさせて、渋々頷いた。 「左様、陸軍大中将も無論同意であった」 「ほらね」 優越感に似た幸福を味わいながら、顔面に皺を寄せて踏ん反り返る。パロマは耳を反らして悔しそうに外方を向いた。そして、また静寂の魔物に襲われた場の空気は、徐々に重さが増している。 「兎に角、任務を遂行するのが我々の役目である。四の五の言わずに、内容を理解出来た者は各自解散しなさい」 隊員は黙り込んだまま資料を持ち、解散した。気がつけばボニファーツの姿は消え失せ、代わりにパロマが片付けていた。長い口吻を下に向けて、狼らしい毛が垂れている。サーフィーは隣で、小声だが低く、明瞭な声を出した。 「嗚呼、本当に不甲斐ない。ごめんね」 「気にするな。アンタは謝る程悪くないんだから、自信持って良いよ」 微笑むが、倦怠感と疲れの混ざった腰からは重度の疲労を感じた。胸衣嚢に垂れ下がる黄金の紐を辿ると、黒眼鏡がある。縁の隣にある金属の円に紐を通しており、此を頭の後ろで結んだり留める。此の手の眼鏡は珍しく無かったが、此は年季の入ったかなり昔の物だった。戦時中か、其の前だろう。 「これは?」 「……あー、此は兄貴の使ってた黒眼鏡。いいだろ」 掛けて見せた。サーフィーは感嘆の言葉を漏らして感心する。 「へえ、格好良い。俺も前に買った黒眼鏡あるよ」 「掛けたらウチとアンタ、どっちが格好良いと思う?」 悪戯っぽくニタリとした。先刻まで真面目そうに硬直させていた表情を崩して、サーフィーもクスクスと笑う。 「圧倒的に俺だね」 二頭で笑いながら廊下を歩いていると、背後から翼の音がした。海猫だ。ビッシリと敬礼をして、寄り添うように真横へ滑り込んでくる。 「青玉大将、藍玉《アクアマリン》中将からのお呼び出しです」 「分かった。ありがとう。それじゃあパロマも、晩餐までには送られた計画確認してね!」 「イエッサー」 二頭に敬礼をすると、サーフィーは重々しく足音を鳴らしながら裏階段を下った。汗が滲む。手摺に縋って溜息をつきながら、一階まで辿り着いた。兵隊の汗や泥の匂いに包まれた廊下を歩き、迷彩服の犬達に敬礼される。ゆっくりと敬礼を返して、個室のA20室へ入る。白く薄汚れた壁には機械があり、赤い光を点滅させていた。衣紋掛に掛けられている水着を着る。潜水服の様に重々しく重ねることも無く、身軽になると素早く鏡を一瞥して部屋を出た。石造の階段へ方向を変えて、一歩、まあ一歩と踏み出す。冷えて凍った段差にペシ、と自分の足音だけが響き渡る。薄暗くなると、鯨の唄が響いた。そして、青白い光が波で畝りながら、地面を照らしている。サーフィーは唾を飲んで、ゆっくりと光の方へと進んだ。すると、混凝土の壁が続く中、海面が浮かび上がり周囲を青一色に染め上げている。 「藍玉、来たよ」声を張り上げて叫ぶと、海へと飛び込む。紺青の世界へ吸い込まれると、泡が音を立てて海面へと逃げ、魚が大きく避けた。視界の先には鯨に似た斑点模様の竜が、光を反射させて優雅に泳いでいる。尾鰭を大きく動かすと、胸鰭にも似た指を伸ばし敬礼した。 「何で態々こんな所に呼び出したの? 少し生意気じゃないか」 頬を膨らませる。藍玉は海中を震わせる楽器の様な声で答えた。 「例の爆弾、開発が急に進んだって聞いてるけど完成してるんだ。お前の眼で確認して欲しい」 「……また新しくなった海洋兵器でしょ。確認する程の事か?」 呆れて、絡みつく水を掻いていると腹下に廻り込んで来た。其の勢いで体が揺れそうになるが、真っ直ぐに保つ。 「私がお前を呼び出す事なんて殆ど無いだろう」 「分かったよ、其の前に一度呼吸させて欲しい。息を吸わずに潜ってしまった」 「鰓でも作ればどうだ」 サーフィーを腹から持ち上げて海面に上げる。するとヒュッーと息を肺に溜め込み、深く沈んだ。背に乗せたまま藍玉が進むと、封鎖されていた混凝土の空間とは違う、紺碧の空が広がる外の景色へと飛び出した。大きく体を反らし跳ね上がると、海面に体当たりして尾鰭を打った。海軍基地の建物を通り越して深く潜ると、黒く塗り潰された金属が海底一面に広がっていた。基地の一部なのでは無いかと疑う程に、視界を覆い尽くしている。規模は聞いていたが此処迄とは、と軽い絶望に眼眩さえ覚えた。 「世界金融を握るドメニコーニという鯱が居る。青豹とも親友という仲だが、海洋兵器の開発には猛烈に反対していた」 サーフィーが睫毛を伏せる。藍玉は口の間から無数の牙を覗かせて口角を上げた。 「大喧嘩だろうな。お前の兄さんとも」 「兄ちゃんは関係ないじゃん。軍とも関係ないし、兵器なんて知ったこっちゃないんだから」 軽く小突くと、藍玉はカラカラと笑ってまた兵器を眺める。其処には、小さな文字でヒラール・ポッセナと刻まれていた。
I 医者
エヴァン・ヘレッセンは最後の手術を一通り終えると、手術室の前から名残惜しそうに立ち去った。鉱石のような尻尾を垂らし、翡翠の様な眸で睥睨する。これまで様々な動物紳士、淑女に出会ったが碌な奴が居ない。手術に難癖付けて喚き、竜なんて愚かで傲慢だと嫌そうな顔をする。なら、私の様な愚か者が教授になれるのにも理由があるだろうと問い詰めたくなる。此の医学部付属病院に対して良い印象などこれっぽっちも無い。然し、世間からは違った。縦にも横にも伸びた此の病院は世界最先端の技術だと賞賛を受けていたのだ。殆どの医師は申し分ない腕前であるが、大富豪の動物達は口を揃えて「|極光《オーロラ》色の竜に頼みたい」と頼み込む。その度に、エヴァンは名前も覚えていないのかと失望していた。 窓硝子から夜景を見下ろして、壁に触れると、嫌だった筈の記憶が妙に美化されて走馬灯のように蘇る。そして幼少期の記憶も同じく、エヴァンの瞼裏で明瞭に思い出された。今では極光しかと表現されないが、その艶を帯びた鱗はよく父から蝶のようだと褒められていた。あの空を飛び、花に止まる蝶を思い出すと胸が躍る。彼にとってはこの世で一番と言っても過言ではない褒め言葉だった。然し、唯一弟は褒め言葉を投げ掛けてはくれなかったのだ。その悪眼立ちする鱗が気に入らないとだけ文句を言われた。 記憶に鼻で笑いながら、もう歩くことのない長廊下を通り抜け、消毒液の匂いが染み付いた階段を下りる。眼立たない端の棚に置かれた賞状と金牌は、硝子窓から射す光に煌めく。生徒の幻が浮かんでは、花弁が散る様に消えた。懐かしさを踏み潰す様に歩き、玄関口で自分の履いている白鯱の革靴を見つめる。細い瞳孔を出口へと向けると、カツカツと音を鳴らし外へ出た。遠ざかる病院を何度か振り返っては、前へと伸びる道を見る。月光が濡れた土瀝青に反射していた。そして、視界の果てまで覆う構造建築物からは徹夜の光が漏れている。飛び立って、帰ってしまえば終わりだと翼を広げたその刹那、病院沿いの道から呼ぶ声がした。 「大先生、こんな夜遅くに会うなんて奇遇ですね。また執刀したんですか」 |企鵝《ペンギン》のような模様の黒い竜が、長外套姿で歩いている。エヴァンは眼を丸くして翼を畳んだ。くっきりとした濃淡のある皮膜が縮む。 「そうだが、君は一体何をしている。土砂降りの中で散歩でもしていたのか」 ずぶ濡れのオーランを見下ろした。毛が濡れて細くなっているのは言うまでもない。長外套は絞れば水が出るのではないかと思う程、重々しい姿になっている。 「そうですよ。勉強三昧で眠くなるので少し眼を覚まそうと思い、此処を走っていました。だって、大先生の出す難問は格が違いますから。……矢張、今回の試験にも難しい問題が出てきますよね?」 ポタポタと水を垂らしながら、笑みを浮かべるオーランに寂しさを感じた。もう、離れなければならない。別れの時が迫っていたのだ。 「既に出題範囲だ。普段より難問だが、考えれば分かる。緊張せずに解け。何処からでも応援している」 雨に体温を奪われたのか、冷えた声で言い放つと再び翼を広げて、二度三度大きく羽ばたく。そして黒外套を揺らし、空へと溶け込んでいった。一方、オーランは冷酷な教授である筈のエヴァンから出てきた激励の言葉に愕然とする。夜の街を覆う驟雨の中、胸に引っ掛かる言葉の意味について頭を悩ませた。 ♪♪♪ 眼にも留まらぬ速さでエヴァンは荷物を纏めて、鞄に詰める。それを玄関に置いていると、上の階から転げ落ちる様なドンという重々しい音が響き渡る。蹄の音と荷物の崩れる音だろうと予想できた。エヴァンは腕組みして下りてくるのを待つが、先が見えない。そして、待たずに時計の針はチクタクと音を立てて進んでゆく。硝子窓から覗いて、まだ暗いと安心した。 此の廃墟の様な豪邸から出奔する直前、エヴァンは年季の入った燕尾服を纏ったまま、眼の前にある姿見を|一瞥《いちべつ》した。そこには、有りの儘の姿、すなわち絹帽を被った竜の紳士が映し出されている。角は二本後ろに向かって伸び、その角に向かって両瞼の上から尖った鱗の突起が連なっている。そして、極光のように紅紫の艶を帯びた臙脂の鱗が、薄暗い部屋で燦然と煌めく。エヴァンはその容貌を見るなり眼を逸らした。何も無かったかの様に服の縒れが無いか服を張って確認し、裾についていた砂埃をサッと払い落とした。もう一度触ると、階段の向こうへ声を掛ける。 「クルル、寛いでいる暇は無い。早く支度しないと夜が明ける。紳士に会って『何処へ行く』と問い詰められるのは御免だ」 階段から、不似合いで皺のある燕尾服を着た麒麟が蹄を鳴らして駆けてきた。その麒麟は書にも綴られている通り、麕身、牛尾、馬蹄の通りである。髪は長く巻き毛で、顔は鹿と牛を合わせた様。額からは一本の角を生やし、黄蘗の毛だ。 クルルはエヴァンの冷淡を押し固めたような表情を見て、思わず眉を曇らす。威圧感のある眼に蹌踉めきそうになる。分厚い手紙のせいだと確信していた。 「……|疚《やま》しいことも無いし、有りの儘に答えれば良いでしょう。『暫くの間は隣街の病院へ移るのだ』と」 「口の軽い生徒に|出会《でくわ》したら大変だろう」 クルルは胸に罪悪感の入り混じった靄のようなものが掛かるのを感じた。もし、途中で会えたら幸運だと、心の何処かで思っていたのだろうか。言葉に表せない寂しさが込み上げ、俯いたまま頷く。今、喚けば止まらなくなる。クルルは下唇を強く噛んだ。そして、そのまま扉を内側に開く。冷え切った風が小麦色の巻き毛を揺らした。 「なら、行きましょう。私が貴方を背負って走りましょうか。此の脚なら何処まででも行ける気がします」 自慢するように蹄を見せる。然し、エヴァンは無表情に俯いたまま首を横に振った。そして、白鯱の革靴を履きながら少し顔を上げる。 「結構。いつか翼を怪我したら頼む」 「無論、頼まれなくても助けますよ」 苦笑して外へと踏み出す。先にエヴァンが重そうな鞄を両手に抱えて、隠していた翼を広げた。息を呑むほどに美しい、青みがかった皮膜をピンと張ったまま大きく羽ばたいて飛び立つ。徐々に青緑の艶を帯びて、紅紫と交ざりながら小さな影となり夜空へと溶け込んだ。クルルは恍惚としてそれを眺めていたが、直ぐに両腿を叩いて空へと駆けた。 この事の発端は、一通の分厚い手紙である。或日の朝方、呼鈴の音が鳴り響いた。突然の訪問にクルルが寝惚け眼を擦りながら扉を開けると、軍服を纏った虎毛の犬が立っていた。背後からは逆光が射し、ピンと立った耳や鍛え上げられた体の縁が淡い光を帯びている。袖が捲れ上がり、左手に上が欠けた三日月の刺青が覗く。烙印のようにも見えた。誰だと尋ねる前に、分厚い包を手渡される。只事ではないと思い、咄嗟に中身を開けてみると、達筆な字でボニファーツ・コリネリウスと記されていた。紙を広げ、一心不乱に読み進める。 ──親愛なるエヴァン・ヘレッセンへ。 ご承知の通り、此度の通達は國より直接の命に基づき、君の転属を速やかに伝えるために記すものである。 君は現在、マールム大学医学部にて教授職を務め、数々の功績と卓越した手術技術を以って、多大なる貢献を果たしていたと聞き及んでいる。其の才と実績を鑑み、國の上層部により、ヒラール・ポッセナ軍基地附属軍病院への転属が正式に選抜された。 当該施設は、陸・海・空軍の特殊部隊が集結する唯一の軍拠点であり、軍医としての任務は軍事的対策、外交支援、及び機密任務の遂行に至るまで、多岐にわたる。かくなる事情につき、転属手続きは既に一部進行中であり、今更ながら抗議に駆けつけても受理は困難だろう。急報により困惑されるかもしれ無いが、どうか此度は受け容れてくれ。 二日後には、國より日程を記した通達が紙面にて届く予定である。指定日にマールムを発ち、シュリーフェラまで赴いてもらいたい。到着次第、派遣された軍用動物が君を基地まで安全に搬送する手筈となっているので、移動に関しての心配は無い。 尚、転属に際し、以下三点の条件が附される。 一、第一助手であるクルル助教を同行させる事 二、本件を生徒含め、周囲に一切漏らさない事 三、無謀な逃亡行為を試みない事 医師として患者を見捨てるような振る舞いはしないと信じている。今後、軍事訓練も義務となるが、その際は僕が指導にあたる予定だ。宜しく頼みたい。 クルルは虎毛の犬を見た。上品で滑らかな紙を棚へ置くと、紅茶を飲まないかと部屋へ手招きする。然し、犬は眼を合わせたまま首を横に振った。 「私は手紙を届けるようにと頼まれただけです。何故、貴方から出された紅茶を飲まなければならないのですか?」 不遜な物言いだとクルルは舌打ちした。犬は朝露を踏みつけたまま長い口吻を撫でて見下ろしている。 「私が貴方の立場なら、同じ事を言って拒むでしょう。そう言えば、ボニファーツって誰ですか」 「青豹と呼ばれている方です。姿を見たことは一度もありませんが、染め上げたような青毛の豹だと伝えられています」 暫く聞いていると、どうやら青豹──すなわちボニファーツは華麗さと慈悲の心を携えた豹らしい。その説明で間違いないそうだが、その顔全体に皺を寄せたような表情から察するにこれは真っ赤な嘘である。クルルは思わず耳を垂らして、可哀想だと憐れんだ。 其時、階段の向こうから重々しい足音が響く。エヴァンが起きたに違いない。これは不味いなと追い出そうか逡巡した末、犬に深く頭を下げて追い出した。大急ぎで床に散らばった紙を片付けているうちに、包が風で吹き飛ぶ。包の裏には、上の欠けた三日月と、それを囲うように散りばめられた点のある印が押されていた。何事だと下りてきたエヴァンがヒラリと風に舞う紙を掴み取り、全てが明らかになったのだ。 パッラチエラの塔は暗闇を突き破るように、天へと聳え立っている。奥の道へと続く傾斜は一歩踏み出せば滑ってしまいそうだ。そんな静寂の街に甲高い女の声が響き渡る。エヴァンは気になって、周囲を注意深く見回した。途端に、隣の摩天楼から物を投げるような音がした。悲痛な女の叫び声と、子供の泣き声が交差して聞こえる。耳を澄ましてみると、彼女らは竜の家族だろうと勘づいた。クルルが「酷いですよね。本当に……」と顔を歪める。エヴァンは「私達に関係無いだろう」と突っ撥ねて、高性能携帯電話《スマートフォン》を取り出すと位置を確認してメールを送信した。早朝の冷えた風が二頭の頬を舐める。もう、空には紫雲が垂れ込めていた。 眼を瞑り、辛抱強く喧嘩の声を聞きながら待っていると、傾斜に一台の車が覗いた。運転手の顔は見えない。二頭の前で急に止まり、右後部座席の扉が開く。そして、抵抗もせずに乗った。クルルは物珍しそうに|操舵輪《ハンドル》を眺めて感嘆の声を漏らす。加工されているのか、硝子は墨のように黒く塗り潰されているらしい。座席でググッと欠伸していると、運転手が言った。 「噂に聞いた通り、艶が綺麗ですね。貴方の様な贅沢がこんな色の鱗を持つなんて、世界は不平等ですよ。私はこんなにも醜いのに」 嗄れ声の老耄が嫉妬か、とエヴァンは嘲笑う。明らかなその嫉妬の眼差しには妬みが込められていた。蚯蚓のような気持ち悪ささえ感じる。隣座席のクルルは苦笑で誤魔化していたが、エヴァンは顔に無理矢理な笑みを貼り付けて、口角を上げたままニコリとしている。顔面が痙攣でもするのではないかという余計な心配を与えた。 「|青玉《サファイア》でも食べてみたら、美しい毛が生えてくるのでは?」 「竜は青玉を食っているのですか」 遂に声が掠れて、風のような声になる。座席の隙間から虎毛覗くと、クルルは「あの虎犬だ! 紅茶を飲まないから喉が老けたんですよ。可哀想に」と騒いだ。犬は苦笑を浮かべる。 「強ち間違いとも言えませんね。親切を否定したのかと叱られた挙げ句、喉を切られて叫んでいたので腫れたのでしょう」 「喉を切られた? 深さは?」 途端にエヴァンは急に向きを変えて身を乗り出す。尻尾をゆっくりと畝らせ、洋紅の艶が鱗を撫でた。彼は医学に関する事だけ、眼の色を変える。犬は弱々しい笑みを浮かべた。 「気管を貫く寸前、ですかね。でも心配には及びません。専門のお医者様に治療していただいたので」 ケホケホと痛々しい咳をする。その時、車内が大きく揺れた。まるで車という玩具を赤ん坊に渡したかのようだ。エヴァンは体を揺らしながら、犬の頸を覗き込んだ。巻かれた包帯には血が滲んで赤黒く変色している。運転している最中にも痛みで顔を歪めていた。そしてエヴァンは突然、話し掛けた。 「君の名前は何だ」 「私? |彌猴桃《キウイ》ですよ」 果物の名前を答えられ、「彌猴桃〜?」とクルルが顔を顰める。本名だとしたら食い意地の張った親を持っているのだろう。エヴァンはへえと感心した振りをして腕を組んだ。 「組織内での名を名乗らなければならないのか」 「ええ、貴方もね。果実か石を名乗ると良いですよ。下っ端は草、真ん中は花、その少し上は酒や果実、上層部は宝石」 上層部じゃないのかと落胆する。考えてみればその筈である。態々上層部のお偉いさんが我々のような医者風情の為に出向くことなど無いのだろうと納得した。そして自分は何と名乗れば良いのか、俯いて考える。瞼裏には国旗が浮かび上がった。 「私は身分が高くないので、月桂樹と名乗る。どうせ覚えられない。此のエヴァンとかいう平凡な名前さえも覚えられないのだから、当然だろう」 風に翻る緑の国旗には月桂樹が描かれている。昔から多々見慣れていたからか、あっさりと決まった。それを聞いた犬は困ったように笑う。道は滑らかになったのか、上り坂を徐々に登っている。 「駄目ですよ。大抵の医者は直ぐ上層部になるし、蓋世之才を持つ貴方達なんだから明日には手の届かない所に居ます」少し恨めしそうだ。 「なら先生、|金剛石《ダイヤモンド》と名乗っても許されるのでは?」 クルルが眼を輝かせて、嬉々として言った。牛の様な尻尾を忙しくバタバタとさせている。日々の生活が楽しそうで羨ましいと心底思う。エヴァンは眼を瞑って金剛石を思い浮かべた。幾何学的な形に削り取られ、四方八方に燦々と光を撒き散らしている。その一粒でも輝きを凝縮した様な姿をしていた。魅力を感じるかと問われたら、全く感じない。寧ろ贅沢で高級だという偏見がその美を邪魔していた。 「──金剛石はお前が名乗れ。瑪瑙にしておく」 瑪瑙の曲がった縞模様が記憶から覗く。あの断面を超える石など無い。思い出すだけで胸に感動が染み込んだ。 「いやいや、私が名乗ったら鼻で笑われますよ。辞めます。……この毛色だし、|黄玉《トパーズ》と名乗りましょうかね。|閃亜鉛鉱《スファレライト》も綺麗だから悩みます」 「黄玉先生の方が呼び易い」 「まぁ、確かに。でも二頭で一つなんだから関係のある名前が良いなあ。後で考えましょ」 二頭で熟考して相談している内に、車内に電話の音が鳴り響いた。犬が電話を取ると、座席に乗せたまま話し始める。向こうの声も加工も無く有りの儘響き渡る。瞬く間に、エヴァンは怒りを煮詰め続けたような眼をして、凍ったのかと思うほど冷ややかな顔をした。 「此方、自動車番号二〇二二。本拠地到着」 『了解。基地裏一四駐車場へ駐車せよ』 「了解」 プツリと電話が切れる。窓を開けると、軍の狼に顔写真を見せて門を通り裏へと進んだ。既に軍服を纏った動物が並び待ち構えている。両手に軍用銃を抱えて真っ直ぐ前を向いている。海豚の旗が風に揺れて、車はキィと音を立てて止まった。そして扉が開き、冷たい風が二頭を包み込む。其処には視野一面を覆う基地があった。そして基地を囲い込むように塀がある。刑務所なのではないかと錯覚する程、頑丈だ。 数頭の軍獣に連れられ、玄関横の殺風景な個室で服を丸々脱がされた。翼を出している二重の布にある釦を外し、尻尾の釦も外して両手を広げる。クルルもそれを見て真似ると、二頭の服は回収され、鱗や毛の一つ一つを観察する様に検査された。 「おい、飴があるぞ」 「あっ、舐め忘れてました!」 クルルが頬を染める。軍動物はハァと溜息をついた。 「身分証明書を」 「はい」 二頭して紙を取り出す。機械を触っているもう一頭の動物にその紙を渡すと、数字を確認して頷いた。暫く裸のまま待機していると、色を混ぜ合わせた様なゴチャゴチャした迷彩服を渡された。エヴァンは空軍、クルルは陸軍の物だ。 「ねえ、兵隊さん。私達って将校なんですか?」 「そうだ」 「へ、へえ」 はあ、そうか。最初から階級が上なのかと納得して服を纏う。エヴァンは扉と壁を交互に見て、不信感を抱いた。そして囲まれたまま部屋を後にする。湿った灰色の床を歩き、食堂や会議室の前を通る。起床時間や任務の日程、持ち物の説明も受けながらの徘徊は一瞬であった。そして軍獣はようやく足を止めて、ふと二頭の前で振り返る。 「時間だ。至急地上四階作戦本部室へ同行願う」 「分かった」 苛立ちと無を掻き混ぜた、冷めた顔をする。クルルは怪訝そうに軍獣の背を見た。 「地下があるんですかね」小声で囁く。 「此の規模だとあっても不自然じゃない」 爬虫らしい瞼を動かして、サッと前を見た。また油のような液で汚染された階段を上り続ける。古びて、手摺は錆びている。脚が痛いとも言えず、耐えている内に「此の階だ」と背後から言われた。死刑部屋へ案内されるような気分で廊下を歩き、部屋の前に立つと扉を二度叩く。 「入りなさい」 穏やかな返事が聞こえたと思えば、今まで居た筈の兵隊が消えている。二頭は顔を見合わせて、その部屋へ足を踏み入れた。すると、青毛の豹が椅子に座り、煙草を吸っている。紫の煙を濛々とさせて、眼を金剛石の様に輝かせていた。二頭は途方に暮れる思いで立ち竦んで、じっとその様子を只管見ていた。青豹、すなわちボニファーツはニヤニヤと笑みを浮かべて近寄ると、一頭ずつに力強く握手する。引き寄せて上下に振った。 「其の助教はとても良い顔をしているね。いつも手術で第一助手をさせられていると噂を聞く。可哀想に」 同情を含んだ哀れみの眼を向けて、眉根に皺を刻んだ。鼻の髭を震わせて瞳孔を満月のように丸くする。クルルは耳を垂らした。 「可哀想じゃありません。私は先生を敬愛しています。だからこそ、医者を眼指したのです。今も、此れからも変わりません」 嘘一つない潔白の言葉だ。陽の光を満遍なく浴びて、黄金の艶を帯びた毛が巻き毛の隙間から覗く。麒麟特有の美にボニファーツは驚きの色を残したが、嘘のように消え失せる。そして微笑った。 「こんな子が居たらきっと、毎日が幸せなんだろうね。会えて凄く嬉しいよ」 愛おしいものを撫でるような恍惚とした表情に、胃液が込み上げるような感覚に至る。而も、瑠璃の様に美しい青毛が生気を感じさせない。俯いたままクルルは尻尾をダランと下げた。巻いた髪が視界で揺れている。エヴァンは冷然としていた。 「何の用事だ。クルルに同情したいのなら、私は扉の外で待っておくことにしよう」 ボニファーツが何歩か下がった。重なった無数の勲章を揺らして、後ろで手を組む。気持ちが萎えたように、鼻をヒクヒクと動かしていた。顎を引いて、ただ淡青の眸を煌めかせる。頬は紅を差したように染まり、涼し気な青毛でも興奮の熱が伝わった。 「僕は久々に君と話したかったんだよ。エヴァン君は揶揄うと拗ねるから──」 「私は君の顔すら見たくない。内容は」 遮って言う。常に眼すら合わせず、窓から見える景色ばかり眺めていた。ボニファーツはムッとした顔をして近寄る。 「数年振りに会って、抱擁すら交わさないのかい。酷いなあ。そういえば、名医って呼ばれてるんだろう。専門は?」 「脳神経外科だ」 爬虫類、両生類、哺乳類、鳥類……それぞれの脳、脊髄、神経を専門として手術をしている。鳥類専門の脳神経外科医と限れば多いが、エヴァンの様に全ての脳神経を手術出来る医者は少数だ。この全てを勉強する為に、どれだけの経験と書が要るか計り知れない。巨大な脳から繊細な神経まで、手で紡ぐ。眼の前の豹は嘲笑うように口を開いた。黄色い牙が上下に出ている。 「へえ、たった脳だけか。君からすれば物足りないだろう。僕は優しいから全種族の全身を手術出来る様にしてあげる。君なら出来て当然だろう?」 正気の沙汰とは思えない言葉に息が詰まる。エヴァンは眸の奥にジワジワと焔を揺らして、ただ睨みつけていた。言われたことに対してではなく、過去の事なのかは分からない。然し、怒りでも無く軽蔑の眼をしているとすぐに分かった。 「何も成長していないな」 全ての期待を捨てた、諦めた声。哀れみを含んだ表情を向けていると、視界が青毛で覆われた。肩に優しく置かれた手は、妙に体温が無い。屍体の様に凍っていた。 「お互い様さ。でも嬉しいでしょう?」 優しい、そして甘ったるい言い方。此の話し方を蜂蜜と喩えた鯱《オルカ》が脳裏を過ぎる。彼は酷く胸焼けした。 「君は、何年も掛かることを一年で終わらせるんだ。今だって天才として世間に崇められている君は、これから全知全能の神になれるよ」 全知全能、という言葉に初めてエヴァンが笑った。艶が角まで満遍なく広がる。顔を上げることが少ないからか、クルルは驚いて滑りそうになった。 「君は常に期待だけして、少しでも期待を裏切れば軽蔑していたな。また、繰り返すのか」 「悪かった。でも、今は昔話をしたいわけじゃないんだ。仕事のお話」 手をちょいちょいと動かす。二頭は古びた肘掛け椅子に腰掛けた。尻尾が深く沈む。低い机には資料が重ねられていた。 「簡潔に願いたい」 「そんなに嫌うんなら仕方無いね。まぁ、簡潔に説明すると、君達はヨルガンの首都ラディヌマに向かう。そこは今紛争が激化し、一般市民含め兵隊らは負傷。ヒラール別基地や戦場に居る軍医の援護をする」 エヴァンは頷いたまま何も言わない。その場に重苦しい静寂に包まれた。演習場からの音だけで無く、足音さえも聞こえる。幾つかの蹄の音と、軍靴の鳴る音が交互に響いた。其の恐ろしい静寂を破ったのはクルルの呟いた独り言だった。 「……そもそも、ヨルガンって何処だろう」 二頭の眸が、ジロリと忘れっぽい麒麟に向く。クルルは恥ずかしさに震えて顔を覆い隠した。エヴァンは説明を促す様に、その場で硬直している青豹の顔を覗き込む。彼はそれに気がつくと、資料に挟まった地図を広げ始めた。山岳から細かい川や地方の名前が書かれており、攻撃された部分には小さな点が無数に打たれている。エヴァンは無言でそれを凝視した。 「北にある峡湾で有名な島國だよ。付近にある國と仲が悪くて、貿易摩擦は勿論だし、学校教育で相手國を悪者に仕立て上げた教育をする徹底振り。それにヨルガンは兵器を作ってるから面倒な事になっててね」 此処だ、と地図の海沿い部分を指す。そして閉鎖地域の山沿いにも印が付けられていた。水爆と他国語で綴られている。 「医薬品の在庫と状況は」 「都市部には十分にある。でもヘリコフやワンブルクとかの田舎には行き届いてない。それも、生存者が居るかも不明で、空には爆撃機が多く侵入も困難連絡の途絶えた兵も多いから、此の後に会議をして小型無獣航空機で調べるつもり」 派遣した基地に赤い点を書き出す。数えると合計で八頭。そして、参考にと本を渡された。そこには派遣された動物の顔写真と履歴、階級がきめ細かく綴られている。エヴァンは重要な部分だけを読み上げて、クルルが影で備忘録に書き留めた。 「……上の欠けた三日月、階級によって周囲を覆う点の数が変わるんですね。上下に一つずつと、二つずつが多いようですけど、ボニファーツさんは幾つですか?」 「上下、合計で三〇だね」 「ええっ」 思わず驚きで青褪める。エヴァンは眼を細めて、嘲笑の声を漏らして外方を向く。パタリと本を閉じた。布が張り付けられているからか手触りが良く、繊細に花の刺繍が施されている。もう一度開き直すと、布が剥がれている部分があった。少し広げて覗くと写真が挟まっている。褪せた深緑の軍服を纏い、真っ直ぐな眸を正面に向けた狼が居る。身を覆う黒毛に、耳や頬の毛には柿色の毛が混ざっていた。眼や口吻周りには白毛が薄らとある。それを凝視していると、手が滑り、はらりと地面に写真が落ちた。クルルが屈んで拾う。 「凛とした方ですね。誰ですか?」 ボニファーツは瑠璃のような毛を黝くして、深く溜息をつく。カツカツと革靴の音を鳴らして近寄り、クルルの手から写真を抜いた。 「陸軍の隊員なんだ。尊敬していた先輩だけど、若くして……戦死した」 明らかに曇った表情に首を傾げた。真夜中の霧のような不気味さ、不可解さに疑惑の眼差しを向けずには居られない。然し、問い詰めるのは無鉄砲だと断念した。 「じゃあ、今日はお話終わり。これから二頭の部屋を外の軍動物に案内してもらって、今日はもう休んで貰う。狭いし古いけど、寝台はあるから生活に困ることはない。小さな冷蔵庫もある」 「分かった。なら、もう話す必要は無い」 クルルの腕を引いて部屋から出ていくと、扉を閉めた。その扉の隣に立っている軍獣に連れられ、次は階段を下がる。その途中にある大きな硝子窓からは航空機や訓練をしている若い軍獣が見えた。遠眼でも竜が数頭見え、狙撃練習をしているのか銃声が絶え間なく聞こえてくる。乾いているが、眼的を必ず始末するという強い意志を感じた。下手すれば自分の命を失う為、本気だ。クルルは尻尾を振って学生を褒めていたが、エヴァンは頷く事も無く、革靴の足音を鳴らして歩いていた。重りでも伸し掛かっている様にも見え、また酷い悲しみを浴びせられている様にも見えた。そして、突然、廊下を歩いて手前の部屋で止まる。たった数時間前に雑巾で拭かれたような金属の扉を開く。 「別に狭くないですよね。全然広い」 尻尾を振り回して蹄を鳴らしながら冷蔵庫に近づき、恐る恐る開ける。そこには冷えた飲み物と、昆虫肉が詰められていた。部屋の端には古びた寝台があり、本棚と机まで置かれている。擬態するように置かれた衣桁は木の枝の様だ。エヴァンは部屋の隅々を見渡して、何も言わずに寝台へ横たわった。暫く、寝転がって天井を見上げる。混凝土の褪せた色が、ただそこにあった。ふと、眼を閉じて横向きになる。軈て、死んだのかと勘違いする位動かなくなった。 「……先生、寝ましたか」 肩に触れて何度か揺らすが、特に反応は無い。ただ、胸だけがゆっくりと上下に動いていた。クルルは物置きから引っ張り出した布のような毛布を掛け、腕の隙間へと身を寄せた。鱗が鎧に似て頑丈な理由もあり、筋骨隆々な体躯に思える。羨ましさを感じながら伸びをしていると、服の間から古い火傷が覗いていた。然し、火山地方出身の竜は焔に耐性がある。だから焔による火傷は有り得ない。きっと、薬剤だろうとクルルは眠たい自分を納得させる。そして漠然とした不安に噛まれたまま、静かに眠りへと落ちてゆく。
藍苺
動物達は今日も、崩れ落ちた廃墟を通り過ぎてゆく。焦げた破片は粉々になり飛び散り、夕陽で茜色に染められていた。彼らの父は戦争で散っている。然し、その血が深く滲んだこの廃墟を気に留めない。故郷の為に戦い、命を散らした兵士達の苦しみを凝縮した、その灰は今や忘れ去られている。背広の胸に一輪の花でも挿して、呑気に歩いているのだ。 胸を突き破られるような思いで、一頭の|竜《ドラゴン》が立ち止まった。|企鵝《ペンギン》のような模様をした黒毛を靡かせて、ジッと破片を見つめる。聳える廃墟の穴から覗く空の色を何に例えよう。藻掻いて呻き声を上げながら死にゆく兵士達の顔が浮かんだ。舌が掴める程に腫れ上がり、皮膚が爛れ、毛が燃え落ちたその体を。「私は死にたくありません」と力なく言葉を漏らして、渇いた口を動かす犬達を。竜は突然、ガーンと煉瓦で殴られたように頭が痛くなった。そして、吐瀉物が喉に込み上げてきた。咽喉を溶かすような酸っぱさに顔を顰める。到頭、その荒廃した建物から眼を逸らすと、前へ向かってゆっくりと歩き始めた。 岩壁に貼られた絵の中で、最も眼立っていたのは瑠璃のような毛をした青豹である。陸軍の制服を身に纏い、上の欠けた三日月の旗を握り締めていた。竜は此の写真を破り捨ててやりたいと牙を剥く。握り締められた拳には鉤爪が食い込み、血が滲んでいた。恩師を返せと泣き叫びたくなる。そうして腹の奥から絞り出したような「クソッ」という情けない声を投げつけ、花蜜を前にした蝶の如く酒場へと吸い込まれてゆく。切り刻まれたような心を癒やす為なら、何だってする。この穴を埋めてくれとばかりに、長机へ項垂れた。混合酒を一つとだけ言って、そのまま動かない。 ──今日は、嫌なものを見た。ジリジリ灼かれて脂肪の剥き出しになった友人の姿が瞼裏から離れない。あの廃墟が、俺にそれを思い出させたのだ。 焦げた屍体の匂いがした気がした。考えると、精神が変になる。正常心を保たなければならないと涙を堪えて前を向いた。すると、背後から鈴の鳴る音が聞こえる。瞬発的に振り返ると、そこには双頭の鷲が居た。真夜中の空のような黒毛に、あの空に似た茜の嘴をしている。青い矢車菊の模様をした服は、皺一つも無い。双頭の鷲……左頭が竜を見つけるなり駆け寄ってきた。 「数年ぶりに会ったと思えば、此の世の終わりみたいな顔だね」 この嗄れた声はフェリクスだと竜が顔を赤らめる。微笑って「二年は経ちましたね」と恥ずかしげに角を撫でると、右頭が眼を細めて、首を長く伸ばした。胸が忙しくなり、拍動が速まるのを感じる。いつの間にか出された混合酒をサッと口にして、緊張を和らげようとした。 「先生は何処へ行った。暫くは他國に居たから、彼の噂すら聞いていないんだ」 パスカルが震えた言葉を漏らす。罪悪感にも似た重りが首の後ろに伸し掛かるようで、胸から何かが込み上げてきた。眼の下が熱くなる。黒毛なのに赤くなった気がした。 「もう……いや、既に大先生は此の世に居ません。ある限りの知恵を全て書き留めて、逝ってしまいました……」 「世の中、甘くないな」 竜からすれば、絶望を凝縮したような言葉だった。反論する暇も無く、フェリクスは笑顔でモスコミュールを頼み、パスカルは明様に不満そうな顔で嘴を触っている。竜は眼を細めて、睨むように二頭を見た。 「何で、お前が居て死ぬんだ?」 「なら」堪忍袋の緒を切らしたように机を叩いた。 「ならお訊きしますが、貴方が隣で支えていた筈なのに、どうして|青玉《サフィール》さんは死んだのですか」 青褪めて、鯨に呑まれたような顔をする。その鴉にも似た羽毛を逆立たせて、泥でも吐くのではないかと思わせる程に口を大きく開けている。その途端、時間が止まったような錯覚に襲われた。その静寂に嫌気が差し、隣を一瞥すると、二頭は焦点すら合っておらずピタリと動かない。悪いことをしたなと竜は双頭の鷲を慰めようとする。赤い嘴が此方を向いた。 「嫌になった。今のは、酒で忘れよう」 「はぁ、はい」 腑に落ちない。誤魔化されたような気がする。奥底に掛かる靄を忘れるためにも、出された混合酒を一口。切り分けられ、挟まれた果実をチラリと見てグラスを置いた。瑠璃硝子で花や林檎が繊細に細工されている。或いは緋や黄に染まっていた。竜が無心にそれを揺らしていると、双頭の左頭が思い出したように眼を見開く。 「そういえば、今日の新聞見たかい」 「いいえ。最近はずーっと見てませんね」 嘘ばかりですから、とは答えられずに竜は笑った。恩師の死に嘘や本当の事を上手く混ぜ合わせて売り捌いた奴らを許せない、と握り拳に力を入れた。フェリクスは鞄の中に手を伸ばしゴソゴソと何かを探る。そして破れて色褪せた新聞を掴んで渡した。 飾り文字で綴られた新聞を読み進めながら、満面の笑みを浮かべる竜を見る。その竜は左側は黒、角は緋。右側は緋、角は黒。何より眼立つのは、左右の角が二股帽子のようになっていることである。そして気色悪い事に瞳孔は山羊に似て横長い。眼線を隣にやると、左手には口吻の長い純白の狼が居た。片耳が酷く欠けている。 「三大名家失踪事件のうちブクセン家の長男が今更見つかったって。名前も何もかも変えていたらしい」 腹立たしそうに道化師のような竜を指差す。眼を凝らして見てみると、狡猾そうな笑みを浮かべていた。 「三大名家って、ヘレッセン家とグラヴィナ家とブクセン家でしょう。全員暗殺されたんじゃなかったんですか?」噂で何億回と聞いている。 「ブクセンは隣國の軍事組織に金を注ぎ込んで助けて貰ったとさ。これで暗殺された二家の財産が手に入るかもとか、色々書いてたよ。お前、よく名家の晩餐会や舞踏会に同席してたから知っているのかと思ってな」 羽毛を逆立てて黄色い瞳を丸くした。そして、またグラスを握り口へと運ぶ。鋭い爪と柔らかそうな手を眺めて、竜は絢爛の眸を向ける。 「何見てる」パスカルが唇を尖らした。 「見せませんよ。それより、今ブクセンは何処に住んでいるのですか。訪ねたい」 「正気か?」 右頭が憂慮に堪えないと掴み掛かる。竜は首周りでモサモサとしている襟巻を撫でて睫毛を伏せる。上へ伸びて曲がった角を少し下に向けた。 「大先生の事も少し訊きたいから、行きます。生徒としてあの死に方は許せません。せめて生き残った彼を殴ってやりたい」 「乱暴は辞めなよ」 フェリクスが眉根を寄せる。竜は構わないといった様子で胸を張った。軍で鍛えていることもあり、筋肉質な腕を胸に向ける。拳も硬かった。 「狡猾な手で逃げて、金を注ぎ込んで自分の命だけ守るような糞垂れは地獄に堕ちるべきです。そんな悪魔みたいな奴、毛虫でも呑んでしまえばいい」 ドンと音を立ててグラスを置くと、こうしちゃ居られないとばかりに|衣嚢《ポケット》から純金硬貨を出す。椿が描かれている事から他国では椿硬貨と呼ばれている物だ。 「早う教えてくださいよ。待てません」 「待ってろ」 |高性能携帯電話《スマートフォン》を指の腹で触りつつ、友人と連絡を取っている。画質が異常な程に良い。まるで現実を映し出した様だ。ポンと音がしたと思えば、住所がズラリと他国語で送られてきた。この複雑な形を見るに漢字だ。 「……驚くなよ。デューディールドルフ、メイリーン通り十八番地」 有名な金融都市だ。此処には西欧含め世界的に有名なサン・モーレ銀行がある。竜はゴクリと唾を飲んだ。大金持ちの大富豪しか立ち入らない街に、今から踏み込もうとしている。視界を覆い尽くす黄金の大廈高楼。深夜でも真昼のような輝きが途絶えることは無い。 「じゃあ、行ってくる」 「拳銃を忘れるなよ。何されるか分からない」 フェリクスが布に包んだ拳銃を手渡しする。常に持ち歩いているのかと感心の眼差しを向けて、竜は陸軍式敬礼をした。そして硬貨を代わりに渡して酒屋から立ち去る。茜に染まった空には星々が浮かび上がり、もう日が暮れようとしていた。大鷲のように白毛の脚を振って走り、列車まで急ぐ。もう出ないかもしれない。路地樹を横切り、街灯に照らされた道を突き進み、石を蹴っているうちに、廃墟の事は錆びた記憶として葬られた。こうして彼も、隣を歩く獣と同じく廃墟を通り過ぎる。染みた父の血に気づかず通り過ぎる。そして円蓋の城の様な駅を眼の前にして立ち止まった。石造りの柱に凭れて呼吸を整えると、切符を買いにフラフラと自動券売機へと歩いた。脚がふにゃりとなって力が入らない。今にも膝から崩れ落ちるような思いで、切符を手にした。そして電光掲示板で番号を確認すると、丁度来た列車に忙しく乗り込み、竜は青い座席に腰を下ろした。そして、耳を澄ましたまま眠ろうと、首にある襟巻に顔を埋める。遠くはないが、流れてゆく短い時間とは違って心は永い。数十分と揺られて、外にある都市を眺めているうちに不安が込み上げてきた。 ──大先生が、いつかブクセン家に短刀で刺されそうになったと言っていた。俺は大丈夫だろうか。 張り裂けそうな胸を押さえて、下唇を噛む。大丈夫だ。きっと。自分に言い聞かせて眼を閉じる。暫くの間は夢見心地で穏やかな表情をしていたが、いつの間にか冷や汗を滲ませて息を荒くしていた。 「熱いよ、痛いよう……ロスヴィル……たす、け……」 手を伸ばして藻掻いた。そこに友人の姿は、無い。耳奥に哄笑が響き渡った。アハハハハ。腹の底からおかしそうな声。皮膚が痛い。ジリジリと。獣が弾けた。バッチンと。手脚が墜ちた。バラバラに。形は違えど廃墟の記憶が思い出された。心の奥底を灼いた恐ろしい記憶が。 彼は過呼吸になって眼覚めた。もうデューディールドルフに着いたのだ。ぐったりと疲れて蹌踉めきながら列車から降りる。我ながらに過酷な夢を見たと汗を拭った。ふつふつと沸いた怒りの種を破裂させて、歩む。私情で殺められた恩師の敵を討つような思いを抱いてその黄金の街へと進んだ。 「十八番地、十八番地……」 ネオン一色に染まる賭場の前で漢字看板を読み進めながら歩く。高級食材店の周りで迷い、建物を見上げたりして途方に暮れる。街の光を浴びて、その筋を波のように揺らしている湖を眺めながら立ち止まっていると、腹の出た鼠が隣に来た。 「何かお困りですかな」調子の良い声だ。 「メイリーン通り十八番地を探しているのですが、迷ってしまって……」 金の首飾りと顔を交互に見て、眸をチラチラさせた。寝は腹と同じくらい胸を張って、自慢気に下顎を突き出す。 「案内しましょう。家が近いのでね」 「感謝します」 竜は口角を下げて身を縮めた。洗濯物のように干された漢字看板を通り過ぎ、大通りへと歩く。空は軽々しい格好をした竜が、雲を覆い隠す程の翼を広げていた。皮膜から漏れる月光の眩しさに手で眼許を隠す。この金融都市は星空が見えない。ただ、切り絵のような橋や柱からは紅紫の光が漏れている。そこに馴染んでいない竜と、慣れた道を庭のようにして歩く鼠。歩幅からして差は明らかだ。 「君、何処出身かね?」 「ヴェンリー共和國のシュネピリア出身です」 シュネピリアは地面も裂けて谷になるような極北の國である。この竜のように長い毛を持つのは極北雪竜と高山竜に限る。鼠は、「少し失敬」と手を伸ばして毛に触れた。細かく何層にもなっているからか、ブワッと沈み込んだ。 「珍しい……この辺は焔竜ばかりですよ。火山が連なっているのでね、過去には高山竜も居ましたが、今では耳にもしません」 頬を握ったりしていると、竜は少し不愉快そうな顔をして避けた。 「硬い鱗が羨ましいですよ。抜けると床が汚れるし、毛を刈ると後始末が大変ですから」 「そうか……ほら、あそこが十八番地」 指を差した先には、心臓が口から飛び出るような豪邸が聳えていた。城にも似たその豪邸には、丁度狙っていた影が伸びている。鼠に感謝を伝えて、小走りでその影を追いかけると、眼が合った。その二又帽子のような角と、横長の瞳孔を見るに間違いない。 「弟の生徒かい。長らく舞踏会に招待出来なくて申し訳ない。こんな時間に訪ねるなんて、何かあったのかな?」 薄気味悪い笑みを広げた緋の顔半分が見えると、影のような黒い鱗も同時に覗く。手元には尖った杖。そして聖書に描かれる様な濃紺の服を纏い、黄金の釦で留めていた。 「何故、姿を隠して……グラヴィナ家やヘレッセン家の葬儀に来なかったのですか」 「グラヴィナ家には後々行った。腹抱えて笑っていたがね、ヘレッセン家の可愛い弟達が亡くなったと聞いた時は悲しみで寝込んでいた」 檸檬を食べた時の様に眉を顰めて、悲劇だと顔で言った。わざとらしささえ感じる。 「う、嘘でしょう?」 「うん、嘘だ。何方にも笑ってたよ。悪かったね」 「涙一筋も流れなかったのですか」 竜は化け物を眼の前にしたと酷く青褪めた。悪魔だ。悪魔の子に違いないと確信した。 「悲しいと思わないよ。皆、自由になれて幸せ者だと思う。羨ましくて堪らない」 「貴方の愛してた|青玉《サーフィール》さんは」 「……誰、だろうね」 「知っている筈ですよ」 「部屋で話そう」 「ええ」 「喉が疼くから葉巻をくれ。何でもいい」 「はい、安物ですがどうぞ」 懐から太い葉巻を取り出すと、ふぅっと煙の様な火を吹いて点けた。先が夕焼け色に染まる。 「ありがとう」 木の頑丈な扉に細かい鍵を入れて、グルリと回して押し開けた。そして、ふぅっと紫の煙を玄関に充満させる。正面の彩色硝子が金の額縁に入れられた枯れた向日葵の絵画に反射している。床には紅い絨毯が敷かれていた。変に曲がった壺には一輪の薔薇。|窓帷《カーテン》は金の糸で刺繍のようにして紋章を主張している。長靴を脱ぎ、竜は長廊下を見た。 「豪華ですね」扉飾りの値段を考えながら言った。 「貴族の家だと思っただろう。でも、これはグラヴィナ家やヘレッセン家のゴミやガラクタを飾ってみただけなんだよ」 「この家の宝は無いのですか?」 「あるよ。見せてやろう」 居室まで案内され、白い石を削った机や昆虫標本が飾られていた。そして通り道を覆い尽くすような肖像画には恩師の姿もある。叡智を含んだ眸をギラリとさせて、窒素に触れた|極光《オーロラ》のような鱗を燦然とさせていた。見惚れている暇もなく通り過ぎてゆくと、籠には檸檬や無花果が雑に詰め込まれている。その居るだけで胃もたれするような空間に、急な隙間が見えた。そこには黒光りする像が聳えている。|高加索大兜虫《コーカサスオオカブト》に王冠と剣。そして黄、赤、白の三色と装飾の施された盾を持っている。その埃に塗れたその像が神殿の真ん中にあっても、不思議に思うことは無いだろう。恍惚として、その造形作品の前で崩れ落ちた。 「……素晴らしいだろう。僕の宝はコレだけで良い。僕が死んでも、この宝だけは守り抜こうと思う。それで、ねぇ。隠し味として青玉の骨はこの中にあるよ」 「……は、墓は……」 「墓に入る前に盗んだよ」 虫の屍を踏みつけるように、冷めて笑った。 「何故?」 震えが溝川のように氾濫する。今にも動顛してしまいそうなほど、酷く怯えた。頬に生える橙の毛を垂らして、黄金の化身のような眸を小さくした。眼の前の道化師は赤い赤い口を開けて笑う。笑っている。裂けた舌を覗かせて笑っている。 「別に凝った理由は無い。でもなぁ、寂しかったんだ。一頭で眠るなんて」 昏い眼には郷愁の影が落ちていた。窓からはサラリと月光が漏れ、二頭の姿を照らす。温もりを感じないや、と竜は襟巻に口吻を突っ込む。 「それだけですか」 「うん。彼だけは本当に弟と思っていた。誇りだよ」 口先を突き出すようにして、また煙を吹いた。そして誇らしげに像を撫で回す。埃の下にある煌めきは金箔か、それともコレ自体が金なのだろうか。ただ、息を呑んでその光景を眺めていた。高級品に埋まる部屋の、一角にあるその白い空間を。彼はただ、見ていた。 「嗚呼、彼はどのような人生を歩んできたのでしょうか」 耐えきれず、唇を緩めて言葉が漏れる。そうして、掴む前に花弁のように散った。道化師は嗤う。 「きっと、誇れるような素晴らしい人生だろう」
ころころと
或る雨の日の事だ。アンブロシア学校の一角は今日も色彩硝子から輝きを漏らしている。雫に色彩硝子の色が反射し、煌めいて落ちる。まだ空は重苦しく暗い。 そんな時、一頭の竜が石造りの外廊下を歩いていた。此の学校の制服……濃紺外套の下に緋色のシャツを纏って、静かに濡れていた。革靴を鳴らして進み、寮まで歩いているとフードを被った男とすれ違う。背筋を撫でられる様な感覚に、思わず心臓が震える。その竜、エヴァンは何も知らない振りをして、通り過ぎようとした。 「やあ、元気ないねー」 驚く程、地面を貫く様な低い声だった。青毛が覗き、淡青の眸がゆらりと揺れている。エヴァンは彫刻が上から崩れてゆくかの様に焦燥と怯えに駆られた。胸の中で砂埃が舞っている……そう思う位、ザワリと嫌な感覚が襲ってきた。 「……別に」喉の奥が震えた。 「へえ。そういえば、エヴァン君は今日のテスト九十九点だったよね。一点何に落としたの?」 絡み付くような、そして棘のある言葉だ。唖然としているエヴァンに近づきながら囁く。 「ディアーノも、僕も百点だ。あの能無しにも負けるなんて、君病気にでもなったのか」 「……ごめん、ごめんなさい」 涙を堪えて、足がふらついたのか蹌踉めく。その場から一刻も早く去ろうと後ろに一歩下がると、勢いよく胸倉を掴まれ壁に叩きつけられた。骨に響く痛みの余韻と、冷えた血が薄ら残る。視界に靄が掛かったように、白い。その中で青豹の顔だけが、ハッキリと見えた。 「謝れって、いつ誰が言ったの? だから理由は?」 「しゅ、終止符が無くて」 頭を守りながらぺたんと床に尻尾をつけた。青豹は口の端を吊り上げて、鼻で嘲笑う。フードが風で下り、冷めた笑いを貼り付けた青豹の顔が浮かび上がる。気がつけば、許しを求めて何千回も謝っていた。縋ろうとしていた。そうしなければ、クラスで晒し者にされる。その恐怖がエヴァンの胸を蝕んだ。後頭部の激しい痛みと、漏れ出す血。乾いて石に染みる血が、茶色に変色した。 「今からどうしようか。僕の部屋で謝ってよ」 「……」 これが最後の砦だ、と思いしがみついた。いつの間にか何でもすると縋り、部屋へと付いてきてしまった。歩いている最中も、青毛の手が背中を撫でている。柔らかい肉球が鎧のような鱗に触れた。呼吸が荒い。何よりも、身体が火照っていた。 「ボニファーツ」 「嫌なら良いよ。友達辞めるだけだし」 諦めたような、掠れた声を出した。そして眼をさっと逸らす。エヴァンは膝を震わせて、鉤爪を出したまま制服を握り締める。腹の奥に血が滲むような苦しみに襲われた。 「……嫌じゃない、ごめんね」 顎を引いて、許しを請う様に眸を揺らす。初めて、ボニファーツは優しく微笑った。扉に鍵を掛けて、パチパチと釦を外す。浅黄の毛をした、普通の豹の下半身が覗いた。腹元は青毛と混ざり妙な毛色になっている。エヴァンは恐怖に潰されたまま、その光景をただ眺めていた。まるで怪物を眼の前にしたように。見開いて、瞳孔を糸のように張って、口から青い舌を垂らす。そしてハラハラと垂れる涙を拭い、自ら服を脱いだ。緋色のシャツだけの姿になり、一瞬躊躇う。傷と火傷にまみれた、いつもの自分ではない姿を見られることに気がついた。そして影でグズグズしていると、背後から服を剥がされ、裸体を見られる。ボニファーツは眼を丸くして、その乾いた古傷を見た。美しい鉱石のような鱗と違い、爛れている。興奮に震え、狂喜し押し倒す。手を強く握り締めて、「離れないで」と呟いた。 ♪♪♪ 灼熱の太陽はジリジリと学校を照らしている。深い紺碧の空の下で、一頭の鯱、ディアーノが屋上から脚を出していた。そうしてフラフラと揺らし、尻尾で地面を打っている。その首には赤い波のような模様がが二つ、流れるように刻まれている。白黒の体を持ち上げ、跳ぶように柵の内側へと戻ると、教室へ口笛を吹きながら向かった。 「憂鬱や。今日もテスト返ってくるわ」 扉を蹴り開けるなり、大声で叫ぶ。ある獅子は憂鬱そうに椅子から転げ落ちて、「忘れてたのにっ」と顔を覆い天を仰ぐ。エヴァンは静かに片手を握った。体が、静かに震えていたのだ。心臓が脈打ち、口から飛び出てきそうになる。悲鳴に似たものを漏らしそうになるのを本気で堪える必要があった。 「どした。体調悪くなったん?」 屈んで、不安気に顔を覗き込む。眼覆い《アイパッチ 》の下から黒に紛れた優しい眼が出てきた。保湿油でつるりとした肌に触れて、エヴァンは深い溜息を呼吸と共に出した。気づかれないように。心配されないように、と、 「大丈夫。ありがとう」 布で冷や汗を拭った。二頭が話している内に、鐘の音が鳴り席へと戻る。古びた机にうつ伏せたまま、眸をキョロキョロとさせて梟の教師を眼で追う。尻尾は垂れ下がり、鱗にも煌めきを失ったようにも思われる。彼からすれば最悪の気分だった。何度も無理矢理に体を重ねられた夜を思い出す。股間に激しい痛みを感じながら、肩をガクガクとさせて過呼吸になった。バレないように頭を深く下げる。そして、滅茶苦茶に壊れて混ざった頭に自分の名前が響く。呼ばれた。 「……は」 用紙を受け取り、崩れ落ちそうになる。七十五点。過去最悪の点数だ。間違いを確認する前に、ボニファーツの顔色を見てすぐにトイレへと駆け出した。脚の筋が切れそうになりながら、急いで閉じ篭る。臓器という臓器が冷えるのを感じた。凍る、頭が真っ白になる。青褪めたまま床に座り込んでいると、何かの影が見えた。青豹。それだけで誰なのか予想がつく。裂けた下半身から血が漏れた記憶が蘇る。駄目だ、気がつくな。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。繰り返して、唇の皮が抉れるほど噛む。用紙をぐちゃぐちゃに丸めて、涙で滲んだ点数を隠すようにして衣嚢に詰めた。 「ねえ、エヴァン君。居るんでしょう」 甘い声が耳に絡みついた。その蜜のような声に胃液が込み上げるのを感じた。鱗が逆立つ。窓から射し込む光が、エヴァンの艶を深緑に染めてそれが彩色硝子のように壁に反射した。青豹の地面を這うような笑い声が響く。お終いだ、と頭を抱えて泣いた。 「何点だったの? 怒らないから答案用紙見せてよ」 「嫌だ。笑われる」 絞り出したような声を出す。ボニファーツはトイレの鍵に手を掛けて、「笑わないよ……」と甘く答えた。 「僕はエヴァン君の親友なんだから、侮辱したりなんかしない。もし悪かったらさ、ディアーノ誘って一緒に対策しよう」 触られてもいないのに全身の隅から隅までを丁寧に撫でられるような言葉に、思わず扉を開けた。青い悪魔は涙の滲む眼元を拭き、丸まった答案用紙をゆっくりと開く。涙の滲む点数を見て、思わず吹き出しそうになった。肩が笑う。それを必死に抑えようと、咳払いした。 「なぁんだ、計算ミスばっかり。疲れてたんでしょ。放課後図書館でやり直ししようよ」 口には歪んだ微笑みが火傷の痕のように張り付いている。エヴァンは蹌踉めいて立ち上がり、力無く頷いた。 「……うん」 ♪♪♪ その晩、ボニファーツは寝床で転がり笑っていた。腹を抱えて叫び声のような笑い声を炸裂させて、涙をボロボロと流している。彼の答案用紙を盗み、コピーして他学年にばら撒いた後の話だった。 「はぁ、ああ、おかしい。今から電話してやろう」 毛を撫でながら電話を掛けると、すぐに相手から情けない声で応答された。寝惚けたディアーノだ。 「聞いてよ。僕と君は今回のテスト百点だったろ? エヴァン君ったら、今回は七十五点! 七・十・五だ! あんな基礎的で間違えるなんて馬鹿だろう? それで僕に見つかるのが怖くて、トイレに逃げ隠れてさ。僕が少し優しくしただけで嬉しがって媚びてたよ」 「……その用紙、また貼り付けたん?」 刺すように訊く。ボニファーツはケラケラと笑った。そして本物の答案用紙をひらひらと揺らしながら脚を投げ出す。瑠璃のような毛が毛布に沈んだ。 「当たり前でしょ。明日はどうやって許して貰おうとするのかな。楽しみで眠れない。数日前は体をくれたんだ。途中から涎垂らして欲しがってたよ。そうだ、ディアーノもやらない?」 「……遠慮しとく。アンタも師匠が壊れる前に辞めとき」 力無く言葉を漏らし、倦怠感で苦しそうな溜息を残して、電話をプツリと切った。ボニファーツは暗い眼を薄闇に光らせて、兎に角面白そうに笑っている。 ♪♪♪ エヴァンは体の芯が溶けるような優しさが骨のようになって喉に刺さっていた。ゴチャゴチャした埃のようなものに覆われて、違和感のようなものが底に残っている。寝床に仰向けになり、天井を見上げていると扉をノックする音が響く。 「夜分に失礼」 浅葱の毛を靡かせ、藍白にほんの少しの青を差したような巻毛を結んだ少年が立っていた。月光で照らされ、睫毛と眼元にある鮫の鰭のような模様が明瞭になると、エヴァンはさっと起き上がった。サーフィーだ。 「寝てないから良いよ。どうした?」 照明を点けると、椅子に腰を掛けろと手で示した。 「兄ちゃんの答案用紙、学校に貼り出されてない? あんな点数取るなんて、調子悪いの?」 「え?」 青褪めた。まるで染められたように、真っ青な顔に変貌する。鱗が一枚一枚冷えてきた。紅紫の艶でさえ、その瞬間は冷えて震えたように見える。彼の絶望した瞼の奥には、混乱ではなく、疑問が浮かんでいた。 「貼ったのは、誰だ……?」 恨めしそうにサーフィーの顔を睨む。動じずに、首を横に振った。 「俺じゃないよ」 「そんなの分かってる」 怒りと悲しみを混ぜたような声が轟いた。焦燥は胃を切り裂くように暴れ回り、喉には言葉が詰まる。苦しみに悶えていると、サーフィーが持っていた檸檬の飴を渡した。 「大丈夫だよ。別に誰も気にしないでしょ」 頬杖をついてふぅと息を吐いた。エヴァンは飴玉を舌で転がして怒りを抑えようと必死になる。ツンと鼻に爽やかな香りが広がった。 「……そういうことじゃなくて、俺があの答案用紙を見せたのは親友だけだった。なのに、流出している。そこが問題なんだよ……」 憂鬱さを纏う声に淋しさの色が見えた。苦く酸っぱい味が舌全体に広がり、鼻から香りが通り抜ける。サーフィーはただ呆然と、その様を見ていた。 「う、裏切られたってこと?」 「……かも、な」 彼は諦めたように、微笑った。 ♪♪♪ ボニファーツは早朝から教室で待っていた。どんな反応をするのか、どう行動するのかを想像し、期待を膨らませて椅子に腰掛けている。広く長い黒板を上から眺めて、他の生徒が来るとにこやかに「おはよう!」と挨拶をする。それを永遠と続けたが、そこにエヴァンの姿は無かった。彼の席だけがポカンと空いて、そこだけ時空が歪んだように見える。教室も職員室も騒然としていた。 「ヘレッセンが休んだ? そんな、昨日は元気でしたよ」 「なら何で休んでるんですか。こんなの初めてですよ。理由は?」 ディアーノが興奮気味に責める。長く天に伸びる鰭に力が無いように見えた。ボニファーツは紙に問題を書き留めながら耳を傾ける。 「理由、休むとしか連絡が来ておらず……もしかしたら何者かが全教室に貼った答案用紙かと思われております。現場を見たり聞いたりした者は職員室へ──」 失望した。そこまで、弱いのか。ディアーノの楕円の眼覆いに怒りの色が差した。黒い背がくるりと振り返って、じっと深緑の眼を向ける。白い下顎が動いた。 「ふざけんのも大概にせえよ」 「あー、はいはい。今日行きますよ。お家に」 ニコニコと笑みを浮かべる。空が茜に染まるまでの時間は長く、欠伸を何回もしながら暇を潰していた。授業が終わると、二頭は別方向を向いて別れる。夕日が毛と肌を照らし、赤く染めた。水溜まりには黄金の光が映り、煉瓦の家や小さな珈琲屋を通り過ぎて歩く。背の高い竜や、水牛、そして熊や猫とすれ違いながら路地裏へ足を踏み入れた。近道だ。薄暗く、水滴の落ちる影道を進むと空は段々と薄紫の雲に覆われてゆく。夜行性だからか眼が冴えてしまうな、と苦笑を浮かべてゴミを踏みつけていると、豪邸が見えた。石造りで、相変わらず門の彫刻が美しい。神話の世に迷い込んだようだ。その門は開けられていた。火山から吹く熱風を背に浴びながら入り込むと、扉を何度かノックする。すぐに開き、黝の鱗をした竜が出てきた。大きな体躯で、瑪瑙のような角と青い化粧のような模様が眼尻にある。竜は眼を細めた。 「学生さん? 何の用事?」 「ご無沙汰しております。ボニファーツ・コリネリウスと申します。エヴァン・ヘレッセンに会いたいのですが」 部屋の中をさっと覗き込んだが、姿は無い。竜はニコニコと微笑んだ。そして入れと手で示す。 「なるほどね。二階の端にいるよ」 柔らかな口調は、サーフィーとそっくりだった。 「エヴァン君?」扉の隙間に指を突っ込むと、ひんやりとした鱗が肉球に当たる。それは鉱石の如くザラっとしていた。そして翡翠のような眸が現れる。 「……」 「貼られたらしいね。大丈夫?」 「お前がやったんだろ?」 眼からほろほろと涙が溢れた。指からは猛禽類のような鋭い爪が飛び出し、ボニファーツの手にプツリと刺さる。痛みに悲鳴をあげそうになった途端、部屋へと引き摺り込まれた。顔を見る前に手で覆い隠され、腹を蹴られる。 「なあ、何であんなことした?」 「君が僕を超えた時だって、かなり軽蔑した眼線を浴びせてきたじゃないか」 胸倉を掴み、頬に切り傷を入れた。赤い血が鱗の間から流れ出る。痛みがあったが、慣れているからか動じない。ボニファーツは焦りと恐怖で、衣嚢の中に片手を突っ込む。そして金属製点火器から青い火を出し、エヴァンの腕に浴びせた。すると燃えるのではなく、炙られるように青い焔が広がる。防火性だからか、服には広がることなく鱗だけを侵食した。熱さに悶絶し、水筒の水を掛けるとシュワと音を立てて消えた。痛みは尚、広がる。 「お前とは友達でも何でも無い。出ていけ」 冷たく言い放つと、扉の向こうへ青豹を投げ捨てた。床の上で寝転がりながら、岩のような壁を撫でる。 (僕は悪く無い……あいつが悪いんだ) チッ、というすり潰したような舌打ちを残し、その場から立ち去った。 ♪♪♪ 次の日の早朝、海辺に立つエヴァンの姿をディアーノは見逃さなかった。柵を飛び降り、背後から近づいて見せる。まだ空は真紫だ。 「早えな! 海の朝日は綺麗じゃろ」 「そうだな」 全身にある火傷の痕を撫でて、顔を出した朝日を睨みつけた。 「何や。その火傷」 「青豹に灼かれた。戦時中のように」 「復讐でもしに行くつもりか?」 皮肉だと笑う。然し、エヴァンは真剣な顔をして振り返った。その冷えた、寂しそうな顔に優しさは一切無くなっている。そこに居たのは、エヴァンじゃない別の生物だった。冷酷とは言い切れないが生物の持つべき心を失った屍。 「復讐などしない。俺は、やるべきことをする」 「そうかぁ」 微笑って安心させようとしたが、駄目だ。笑顔が崩れてしまう。何でそんなに悲しそうな穴の空いた顔をする。まるで、まるで声の無い慟哭だ。胸が叫んでいる。助けてくれ、と。 打つ波を眺め続けた後、二頭で学校まで歩いて行った。いつもの信号機、いつもの本屋、いつもの教会。それなのに、隣の彼だけ妙に浮いており、違う。化け物になっているようだ。得体の知れない雰囲気に怯えながら、学校の門を通り過ぎる。そこには、神獣から幻獣、そして鳥獣たちが歩き回っていた。濃紺の制服がひらひらと風に靡いている。ゆっくりと階段を登りながらエヴァンはディアーノの制服の裾を引っ張った。 「今頭を打ちそうだった」 「あ? ああ、おおきに」 狐に摘まれたような顔をして掴まれたまま、パッと離される。A組までの距離は段々と近づいてきていた。 「おはよう」 ニコリ、といつもの様に口角を上げた。その眼線の先には縮まった青豹が居る。 「お、おはようございます」 「改まるな。お前の言うに、親友なのだろう?」 「……そう、だよ。もちろん」 抵抗を混ぜて頷く。そうやって話しているうちに、鐘の音が激しく鳴った。エヴァンは青豹の頭を五回ほど撫で回すと、席へと戻る。ディアーノは頭から潮を噴きそうなくらい緊張した。 「次の条件を満たす最小の数nを求めよ……ボニファーツさん」 「あ、それは──」 「三十三ですね」 中国剰余定理を使ったのか、とディアーノが首を傾げた。それか予習済みの問題が運良く出たのだろうか。どちらにせよ、青豹は出番を奪われて眼を見開いている。怒りより、疑問だった。それから全ての問題を解き、一つも間違いなく、いつの間にか机の上は賞状や賞牌に溢れていた。医学においても、何においても全てで一位を取ると言う執念が付き纏っている。青豹は言葉を発することすらしなくなった。ただ、唖然として口を開き、虚に見ている。然し、その口から乾いた言葉を出した。 「僕がいなけりゃ、良かったんだ」 「嗤えよ」 エヴァンが机を蹴飛ばし、賞状の額を折る。割れた硝子はパリンと軽い音を立て、その場に散った。 「……俺がお前より下だったとき、お前いつも笑って喜んでたよな。でも間違いを全て指摘して、優越感に浸りながら教えもせず永遠と責め続けた。ディアーノにバラして、下学年にもバラして、俺は全員に顔すら見せられなくなった」 「ごめん」 「俺の生活は」 「ごめん」 「俺の生活は何処へ行った。疲れた。論文が書き終わらないから」 「ねえ、ごめんって」 視界を遮る。不愉快という文字が顔に浮かんだ。 「いいよと言えば視界から消えてくれるのか? 『いいよ』ほら、消えろ」 「……あ」 エヴァン君は壊れているんだ。僕が壊したんだ。そんな罪悪感を身に纏った時、今までに感じたことのない快感と優越感に崩れ落ちた。腹の底が疼くような気持ち良さに、思わず笑い声が漏れる。 「そっか。もうきみは、死んだんだね!」