愛染明王
3 件の小説再会
エヴァン・ヘレッセンは最後の手術を一通り終えると、手術室の前から名残惜しそうに立ち去った。鉱石のような尻尾を垂らし、翡翠の様な眸で睥睨する。これまで様々な動物紳士、淑女に出会ったが碌な奴が居ない。手術に難癖付けて喚き、竜なんて愚かで傲慢だと嫌そうな顔をする。なら、私の様な愚か者が教授になれるのにも理由があるだろうと問い詰めたくなる。此の医学部付属病院に対して良い印象などこれっぽっちも無い。然し、世間からは違った。縦にも横にも伸びた此の病院は世界最先端の技術だと賞賛を受けていたのだ。殆どの医師は申し分ない腕前であるが、大富豪の動物達は口を揃えて「|極光《オーロラ》色の竜に頼みたい」と頼み込む。その度に、エヴァンは名前も覚えていないのかと失望していた。 窓硝子から夜景を見下ろして、壁に触れると、嫌だった筈の記憶が妙に美化されて走馬灯のように蘇る。そして幼少期の記憶も同じく、エヴァンの瞼裏で明瞭に思い出された。今では極光しかと表現されないが、その艶を帯びた鱗はよく父から蝶のようだと褒められていた。あの空を飛び、花に止まる蝶を思い出すと胸が躍る。彼にとってはこの世で一番と言っても過言ではない褒め言葉だった。然し、唯一弟は褒め言葉を投げ掛けてはくれなかったのだ。その悪眼立ちする鱗が気に入らないとだけ文句を言われた。 記憶に鼻で笑いながら、もう歩くことのない長廊下を通り抜け、消毒液の匂いが染み付いた階段を下りる。眼立たない端の棚に置かれた賞状と金牌は、硝子窓から射す光に煌めく。生徒の幻が浮かんでは、花弁が散る様に消えた。懐かしさを踏み潰す様に歩き、玄関口で自分の履いている白鯱の革靴を見つめる。細い瞳孔を出口へと向けると、カツカツと音を鳴らし外へ出た。遠ざかる病院を何度か振り返っては、前へと伸びる道を見る。月光が濡れた土瀝青に反射していた。そして、視界の果てまで覆う構造建築物からは徹夜の光が漏れている。飛び立って、帰ってしまえば終わりだと翼を広げたその刹那、病院沿いの道から呼ぶ声がした。 「大先生、こんな夜遅くに会うなんて奇遇ですね。また執刀したんですか」 |企鵝《ペンギン》のような模様の黒い竜が、長外套姿で歩いている。エヴァンは眼を丸くして翼を畳んだ。くっきりとした濃淡のある皮膜が縮む。 「そうだが、君は一体何をしている。土砂降りの中で散歩でもしていたのか」 ずぶ濡れのオーランを見下ろした。毛が濡れて細くなっているのは言うまでもない。長外套は絞れば水が出るのではないかと思う程、重々しい姿になっている。 「そうですよ。勉強三昧で眠くなるので少し眼を覚まそうと思い、此処を走っていました。だって、大先生の出す難問は格が違いますから。……矢張、今回の試験にも難しい問題が出てきますよね?」 ポタポタと水を垂らしながら、笑みを浮かべるオーランに寂しさを感じた。もう、離れなければならない。別れの時が迫っていたのだ。 「既に出題範囲だ。普段より難問だが、考えれば分かる。緊張せずに解け。何処からでも応援している」 雨に体温を奪われたのか、冷えた声で言い放つと再び翼を広げて、二度三度大きく羽ばたく。そして黒外套を揺らし、空へと溶け込んでいった。一方、オーランは冷酷な教授である筈のエヴァンから出てきた激励の言葉に愕然とする。夜の街を覆う驟雨の中、胸に引っ掛かる言葉の意味について頭を悩ませた。 ♪♪♪ 眼にも留まらぬ速さでエヴァンは荷物を纏めて、鞄に詰める。それを玄関に置いていると、上の階から転げ落ちる様なドンという重々しい音が響き渡る。蹄の音と荷物の崩れる音だろうと予想できた。エヴァンは腕組みして下りてくるのを待つが、先が見えない。そして、待たずに時計の針はチクタクと音を立てて進んでゆく。硝子窓から覗いて、まだ暗いと安心した。 此の廃墟の様な豪邸から出奔する直前、エヴァンは年季の入った燕尾服を纏ったまま、眼の前にある姿見を|一瞥《いちべつ》した。そこには、有りの儘の姿、すなわち絹帽を被った竜の紳士が映し出されている。角は二本後ろに向かって伸び、その角に向かって両瞼の上から尖った鱗の突起が連なっている。そして、極光のように紅紫の艶を帯びた臙脂の鱗が、薄暗い部屋で燦然と煌めく。エヴァンはその容貌を見るなり眼を逸らした。何も無かったかの様に服の縒れが無いか服を張って確認し、裾についていた砂埃をサッと払い落とした。もう一度触ると、階段の向こうへ声を掛ける。 「クルル、寛いでいる暇は無い。早く支度しないと夜が明ける。紳士に会って『何処へ行く』と問い詰められるのは御免だ」 階段から、不似合いで皺のある燕尾服を着た麒麟が蹄を鳴らして駆けてきた。その麒麟は書にも綴られている通り、麕身、牛尾、馬蹄の通りである。髪は長く巻き毛で、顔は鹿と牛を合わせた様。額からは一本の角を生やし、黄蘗の毛だ。 クルルはエヴァンの冷淡を押し固めたような表情を見て、思わず眉を曇らす。威圧感のある眼に蹌踉めきそうになる。分厚い手紙のせいだと確信していた。 「……|疚《やま》しいことも無いし、有りの儘に答えれば良いでしょう。『暫くの間は隣街の病院へ移るのだ』と」 「口の軽い生徒に|出会《でくわ》したら大変だろう」 クルルは胸に罪悪感の入り混じった靄のようなものが掛かるのを感じた。もし、途中で会えたら幸運だと、心の何処かで思っていたのだろうか。言葉に表せない寂しさが込み上げ、俯いたまま頷く。今、喚けば止まらなくなる。クルルは下唇を強く噛んだ。そして、そのまま扉を内側に開く。冷え切った風が小麦色の巻き毛を揺らした。 「なら、行きましょう。私が貴方を背負って走りましょうか。此の脚なら何処まででも行ける気がします」 自慢するように蹄を見せる。然し、エヴァンは無表情に俯いたまま首を横に振った。そして、白鯱の革靴を履きながら少し顔を上げる。 「結構。いつか翼を怪我したら頼む」 「無論、頼まれなくても助けますよ」 苦笑して外へと踏み出す。先にエヴァンが重そうな鞄を両手に抱えて、隠していた翼を広げた。息を呑むほどに美しい、青みがかった皮膜をピンと張ったまま大きく羽ばたいて飛び立つ。徐々に青緑の艶を帯びて、紅紫と交ざりながら小さな影となり夜空へと溶け込んだ。クルルは恍惚としてそれを眺めていたが、直ぐに両腿を叩いて空へと駆けた。 この事の発端は、一通の分厚い手紙である。或日の朝方、呼鈴の音が鳴り響いた。突然の訪問にクルルが寝惚け眼を擦りながら扉を開けると、軍服を纏った虎毛の犬が立っていた。背後からは逆光が射し、ピンと立った耳や鍛え上げられた体の縁が淡い光を帯びている。袖が捲れ上がり、左手に上が欠けた三日月の刺青が覗く。烙印のようにも見えた。誰だと尋ねる前に、分厚い包を手渡される。只事ではないと思い、咄嗟に中身を開けてみると、達筆な字でボニファーツ・コリネリウスと記されていた。紙を広げ、一心不乱に読み進める。 ──親愛なるエヴァン・ヘレッセンへ。 ご承知の通り、此度の通達は國より直接の命に基づき、君の転属を速やかに伝えるために記すものである。 君は現在、マールム大学医学部にて教授職を務め、数々の功績と卓越した手術技術を以って、多大なる貢献を果たしていたと聞き及んでいる。其の才と実績を鑑み、國の上層部により、ヒラール・ポッセナ軍基地附属軍病院への転属が正式に選抜された。 当該施設は、陸・海・空軍の特殊部隊が集結する唯一の軍拠点であり、軍医としての任務は軍事的対策、外交支援、及び機密任務の遂行に至るまで、多岐にわたる。かくなる事情につき、転属手続きは既に一部進行中であり、今更ながら抗議に駆けつけても受理は困難だろう。急報により困惑されるかもしれ無いが、どうか此度は受け容れてくれ。 二日後には、國より日程を記した通達が紙面にて届く予定である。指定日にマールムを発ち、シュリーフェラまで赴いてもらいたい。到着次第、派遣された軍用動物が君を基地まで安全に搬送する手筈となっているので、移動に関しての心配は無い。 尚、転属に際し、以下三点の条件が附される。 一、第一助手であるクルル助教を同行させる事 二、本件を生徒含め、周囲に一切漏らさない事 三、無謀な逃亡行為を試みない事 医師として患者を見捨てるような振る舞いはしないと信じている。今後、軍事訓練も義務となるが、その際は僕が指導にあたる予定だ。宜しく頼みたい。 クルルは虎毛の犬を見た。上品で滑らかな紙を棚へ置くと、紅茶を飲まないかと部屋へ手招きする。然し、犬は眼を合わせたまま首を横に振った。 「私は手紙を届けるようにと頼まれただけです。何故、貴方から出された紅茶を飲まなければならないのですか?」 不遜な物言いだとクルルは舌打ちした。犬は朝露を踏みつけたまま長い口吻を撫でて見下ろしている。 「私が貴方の立場なら、同じ事を言って拒むでしょう。そう言えば、ボニファーツって誰ですか」 「青豹と呼ばれている方です。姿を見たことは一度もありませんが、染め上げたような青毛の豹だと伝えられています」 暫く聞いていると、どうやら青豹──すなわちボニファーツは華麗さと慈悲の心を携えた豹らしい。その説明で間違いないそうだが、その顔全体に皺を寄せたような表情から察するにこれは真っ赤な嘘である。クルルは思わず耳を垂らして、可哀想だと憐れんだ。 其時、階段の向こうから重々しい足音が響く。エヴァンが起きたに違いない。これは不味いなと追い出そうか逡巡した末、犬に深く頭を下げて追い出した。大急ぎで床に散らばった紙を片付けているうちに、包が風で吹き飛ぶ。包の裏には、上の欠けた三日月と、それを囲うように散りばめられた点のある印が押されていた。何事だと下りてきたエヴァンがヒラリと風に舞う紙を掴み取り、全てが明らかになったのだ。 パッラチエラの塔は暗闇を突き破るように、天へと聳え立っている。奥の道へと続く傾斜は一歩踏み出せば滑ってしまいそうだ。そんな静寂の街に甲高い女の声が響き渡る。エヴァンは気になって、周囲を注意深く見回した。途端に、隣の摩天楼から物を投げるような音がした。悲痛な女の叫び声と、子供の泣き声が交差して聞こえる。耳を澄ましてみると、彼女らは竜の家族だろうと勘づいた。クルルが「酷いですよね。本当に……」と顔を歪める。エヴァンは「私達に関係無いだろう」と突っ撥ねて、高性能携帯電話《スマートフォン》を取り出すと位置を確認してメールを送信した。早朝の冷えた風が二頭の頬を舐める。もう、空には紫雲が垂れ込めていた。 眼を瞑り、辛抱強く喧嘩の声を聞きながら待っていると、傾斜に一台の車が覗いた。運転手の顔は見えない。二頭の前で急に止まり、右後部座席の扉が開く。そして、抵抗もせずに乗った。クルルは物珍しそうに|操舵輪《ハンドル》を眺めて感嘆の声を漏らす。加工されているのか、硝子は墨のように黒く塗り潰されているらしい。座席でググッと欠伸していると、運転手が言った。 「噂に聞いた通り、艶が綺麗ですね。貴方の様な贅沢がこんな色の鱗を持つなんて、世界は不平等ですよ。私はこんなにも醜いのに」 嗄れ声の老耄が嫉妬か、とエヴァンは嘲笑う。明らかなその嫉妬の眼差しには妬みが込められていた。蚯蚓のような気持ち悪ささえ感じる。隣座席のクルルは苦笑で誤魔化していたが、エヴァンは顔に無理矢理な笑みを貼り付けて、口角を上げたままニコリとしている。顔面が痙攣でもするのではないかという余計な心配を与えた。 「|青玉《サファイア》でも食べてみたら、美しい毛が生えてくるのでは?」 「竜は青玉を食っているのですか」 遂に声が掠れて、風のような声になる。座席の隙間から虎毛覗くと、クルルは「あの虎犬だ! 紅茶を飲まないから喉が老けたんですよ。可哀想に」と騒いだ。犬は苦笑を浮かべる。 「強ち間違いとも言えませんね。親切を否定したのかと叱られた挙げ句、喉を切られて叫んでいたので腫れたのでしょう」 「喉を切られた? 深さは?」 途端にエヴァンは急に向きを変えて身を乗り出す。尻尾をゆっくりと畝らせ、洋紅の艶が鱗を撫でた。彼は医学に関する事だけ、眼の色を変える。犬は弱々しい笑みを浮かべた。 「気管を貫く寸前、ですかね。でも心配には及びません。専門のお医者様に治療していただいたので」 ケホケホと痛々しい咳をする。その時、車内が大きく揺れた。まるで車という玩具を赤ん坊に渡したかのようだ。エヴァンは体を揺らしながら、犬の頸を覗き込んだ。巻かれた包帯には血が滲んで赤黒く変色している。運転している最中にも痛みで顔を歪めていた。そしてエヴァンは突然、話し掛けた。 「君の名前は何だ」 「私? |彌猴桃《キウイ》ですよ」 果物の名前を答えられ、「彌猴桃〜?」とクルルが顔を顰める。本名だとしたら食い意地の張った親を持っているのだろう。エヴァンはへえと感心した振りをして腕を組んだ。 「組織内での名を名乗らなければならないのか」 「ええ、貴方もね。果実か石を名乗ると良いですよ。下っ端は草、真ん中は花、その少し上は酒や果実、上層部は宝石」 上層部じゃないのかと落胆する。考えてみればその筈である。態々上層部のお偉いさんが我々のような医者風情の為に出向くことなど無いのだろうと納得した。そして自分は何と名乗れば良いのか、俯いて考える。瞼裏には国旗が浮かび上がった。 「私は身分が高くないので、月桂樹と名乗る。どうせ覚えられない。此のエヴァンとかいう平凡な名前さえも覚えられないのだから、当然だろう」 風に翻る緑の国旗には月桂樹が描かれている。昔から多々見慣れていたからか、あっさりと決まった。それを聞いた犬は困ったように笑う。道は滑らかになったのか、上り坂を徐々に登っている。 「駄目ですよ。大抵の医者は直ぐ上層部になるし、蓋世之才を持つ貴方達なんだから明日には手の届かない所に居ます」少し恨めしそうだ。 「なら先生、|金剛石《ダイヤモンド》と名乗っても許されるのでは?」 クルルが眼を輝かせて、嬉々として言った。牛の様な尻尾を忙しくバタバタとさせている。日々の生活が楽しそうで羨ましいと心底思う。エヴァンは眼を瞑って金剛石を思い浮かべた。幾何学的な形に削り取られ、四方八方に燦々と光を撒き散らしている。その一粒でも輝きを凝縮した様な姿をしていた。魅力を感じるかと問われたら、全く感じない。寧ろ贅沢で高級だという偏見がその美を邪魔していた。 「──金剛石はお前が名乗れ。瑪瑙にしておく」 瑪瑙の曲がった縞模様が記憶から覗く。あの断面を超える石など無い。思い出すだけで胸に感動が染み込んだ。 「いやいや、私が名乗ったら鼻で笑われますよ。辞めます。……この毛色だし、|黄玉《トパーズ》と名乗りましょうかね。|閃亜鉛鉱《スファレライト》も綺麗だから悩みます」 「黄玉先生の方が呼び易い」 「まぁ、確かに。でも二頭で一つなんだから関係のある名前が良いなあ。後で考えましょ」 二頭で熟考して相談している内に、車内に電話の音が鳴り響いた。犬が電話を取ると、座席に乗せたまま話し始める。向こうの声も加工も無く有りの儘響き渡る。瞬く間に、エヴァンは怒りを煮詰め続けたような眼をして、凍ったのかと思うほど冷ややかな顔をした。 「此方、自動車番号二〇二二。本拠地到着」 『了解。基地裏一四駐車場へ駐車せよ』 「了解」 プツリと電話が切れる。窓を開けると、軍隊の狼に顔写真を見せて門を通り裏へと進んだ。既に軍服を纏った動物が並び待ち構えている。両手に軍用銃を抱えて真っ直ぐ前を向いている。海豚の旗が風に揺れて、車はキィと音を立てて止まった。そして扉が開き、冷たい風が二頭を包み込む。其処には視野一面を覆う基地があった。そして基地を囲い込むように塀がある。刑務所なのではないかと錯覚する程、頑丈だ。 数頭の兵隊に連れられ、玄関横の殺風景な個室で服を丸々脱がされた。翼を出している二重の布にある釦を外し、尻尾の釦も外して両手を広げる。クルルもそれを見て真似ると、二頭の服は回収され、鱗や毛の一つ一つを観察する様に検査された。 「おい、飴があるぞ」 「あっ、舐め忘れてました!」 クルルが頬を染める。兵隊はハァと溜息をついた。 「身分証明書を」 「はい」 二頭して紙を取り出す。機械を触っているもう一頭の動物にその紙を渡すと、数字を確認して頷いた。暫く裸のまま待機していると、色を混ぜ合わせた様なゴチャゴチャした迷彩服を渡された。エヴァンは空軍、クルルは陸軍の物だ。 「ねえ、兵隊さん。私達って中佐なんですか?」 「そうだ」 「へ、へえ」 はあ、そうか。最初から階級が上なのかと納得して服を纏う。エヴァンは扉と壁を交互に見て、不信感を抱いた。そして囲まれたまま部屋を後にする。湿った灰色の床を歩き、食堂や会議室の前を通る。起床時間や任務の日程、持ち物の説明も受けながらの徘徊は一瞬であった。そして兵隊はようやく足を止めて、ふと二頭の前で振り返る。 「時間だ。至急地上四階作戦本部室へ同行願う」 「分かった」 苛立ちと無を掻き混ぜた、冷めた顔をする。クルルは怪訝そうに兵隊の背を見た。 「地下があるんですかね」小声で囁く。 「此の規模だとあっても不自然じゃない」 爬虫らしい瞼を動かして、サッと前を見た。また油のような液で汚染された階段を上り続ける。古びて、手摺は錆びている。脚が痛いとも言えず、耐えている内に「此の階だ」と背後から言われた。死刑部屋へ案内されるような気分で廊下を歩き、部屋の前に立つと扉を二度叩く。 「入りなさい」 穏やかな返事が聞こえたと思えば、今まで居た筈の兵隊が消えている。二頭は顔を見合わせて、その部屋へ足を踏み入れた。すると、青毛の豹が椅子に座り、煙草を吸っている。紫の煙を濛々とさせて、眼を金剛石の様に輝かせていた。二頭は途方に暮れる思いで立ち竦んで、じっとその様子を只管見ていた。青豹、すなわちボニファーツはニヤニヤと笑みを浮かべて近寄ると、一頭ずつに力強く握手する。引き寄せて上下に振った。 「其の助教はとても良い顔をしているね。いつも手術で第一助手をさせられていると噂を聞く。可哀想に」 同情を含んだ哀れみの眼を向けて、眉根に皺を刻んだ。鼻の髭を震わせて瞳孔を満月のように丸くする。クルルは耳を垂らした。 「可哀想じゃありません。私は先生を敬愛しています。だからこそ、医者を眼指したのです。今も、此れからも変わりません」 嘘一つない潔白の言葉だ。陽の光を満遍なく浴びて、黄金の艶を帯びた毛が巻き毛の隙間から覗く。麒麟特有の美にボニファーツは驚きの色を残したが、嘘のように消え失せる。そして微笑った。 「こんな子が居たらきっと、毎日が幸せなんだろうね。会えて凄く嬉しいよ」 愛おしいものを撫でるような恍惚とした表情に、胃液が込み上げるような感覚に至る。而も、瑠璃の様に美しい青毛が生気を感じさせない。俯いたままクルルは尻尾をダランと下げた。巻いた髪が視界で揺れている。エヴァンは冷然としていた。 「何の用事だ。クルルに同情したいのなら、私は扉の外で待っておくことにしよう」 ボニファーツが何歩か下がった。重なった無数の勲章を揺らして、後ろで手を組む。気持ちが萎えたように、鼻をヒクヒクと動かしていた。顎を引いて、ただ淡青の眸を煌めかせる。頬は紅を差したように染まり、涼し気な青毛でも興奮の熱が伝わった。 「僕は久々に君と話したかったんだよ。エヴァン君は揶揄うと拗ねるから──」 「私は君の顔すら見たくない。内容は」 遮って言う。常に眼すら合わせず、窓から見える景色ばかり眺めていた。ボニファーツはムッとした顔をして近寄る。 「数年振りに会って、抱擁すら交わさないのかい。酷いなあ。そういえば、名医って呼ばれてるんだろう。専門は?」 「脳神経外科だ」 爬虫類、両生類、哺乳類、鳥類……それぞれの脳、脊髄、神経を専門として手術をしている。鳥類専門の脳神経外科医と限れば多いが、エヴァンの様に全ての脳神経を手術出来る医者は少数だ。この全てを勉強する為に、どれだけの経験と書が要るか計り知れない。巨大な脳から繊細な神経まで、手で紡ぐ。眼の前の豹は嘲笑うように口を開いた。黄色い牙が上下に出ている。 「へえ、たった脳だけか。君からすれば物足りないだろう。僕は優しいから全種族の全身を手術出来る様にしてあげる。君なら出来て当然だろう?」 正気の沙汰とは思えない言葉に息が詰まる。エヴァンは眸の奥にジワジワと焔を揺らして、ただ睨みつけていた。言われたことに対してではなく、過去の事なのかは分からない。然し、怒りでも無く軽蔑の眼をしているとすぐに分かった。 「何も成長していないな」 全ての期待を捨てた、諦めた声。哀れみを含んだ表情を向けていると、視界が青毛で覆われた。肩に優しく置かれた手は、妙に体温が無い。屍体の様に凍っていた。 「お互い様さ。でも嬉しいでしょう?」 優しい、そして甘ったるい言い方。此の話し方を蜂蜜と喩えた鯱《シャチ》が脳裏を過ぎる。彼は酷く胸焼けした。 「君は、何年も掛かることを一年で終わらせるんだ。今だって天才として世間に崇められている君は、これから全知全能の神になれるよ」 全知全能、という言葉に初めてエヴァンが笑った。艶が角まで満遍なく広がる。顔を上げることが少ないからか、クルルは驚いて滑りそうになった。 「君は常に期待だけして、少しでも期待を裏切れば軽蔑していたな。また、繰り返すのか」 「悪かった。でも、今は昔話をしたいわけじゃないんだ。仕事のお話」 手をちょいちょいと動かす。二頭は古びた肘掛け椅子に腰掛けた。尻尾が深く沈む。低い机には資料が重ねられていた。 「簡潔に願いたい」 「そんなに嫌うんなら仕方無いね。まぁ、簡潔に説明すると、君達はヨルガンの首都ラディヌマに向かう。そこは今紛争が激化し、一般市民含め兵隊らは負傷。ヒラール別基地や戦場に居る軍医の援護をする」 エヴァンは頷いたまま何も言わない。その場に重苦しい静寂に包まれた。演習場からの音だけで無く、足音さえも聞こえる。幾つかの蹄の音と、軍靴の鳴る音が交互に響いた。其の恐ろしい静寂を破ったのはクルルの呟いた独り言だった。 「……そもそも、ヨルガンって何処だろう」 二頭の眸が、ジロリと忘れっぽい麒麟に向く。クルルは恥ずかしさに震えて顔を覆い隠した。エヴァンは説明を促す様に、その場で硬直している青豹の顔を覗き込む。彼はそれに気がつくと、資料に挟まった地図を広げ始めた。山岳から細かい川や地方の名前が書かれており、攻撃された部分には小さな点が無数に打たれている。エヴァンは無言でそれを凝視した。 「北にある峡湾で有名な島國だよ。付近にある國と仲が悪くて、貿易摩擦は勿論だし、学校教育で相手國を悪者に仕立て上げた教育をする徹底振り。それにヨルガンは兵器を作ってるから面倒な事になっててね」 此処だ、と地図の海沿い部分を指す。そして閉鎖地域の山沿いにも印が付けられていた。水爆と他国語で綴られている。 「医薬品の在庫と状況は」 「都市部には十分にある。でもヘリコフやワンブルクとかの田舎には行き届いてない。それも、生存者が居るかも不明で、空には爆撃機が多く侵入も困難連絡の途絶えた兵も多いから、此の後に会議をして小型無獣航空機で調べるつもり」 派遣した基地に赤い点を書き出す。数えると合計で八頭。そして、参考にと本を渡された。そこには派遣された動物の顔写真と履歴、階級がきめ細かく綴られている。エヴァンは重要な部分だけを読み上げて、クルルが影で備忘録に書き留めた。 「……上の欠けた三日月、階級によって周囲を覆う点の数が変わるんですね。上下に一つずつと、二つずつが多いようですけど、ボニファーツさんは幾つですか?」 「上下、合計で三〇だね」 「ええっ」 思わず驚きで青褪める。エヴァンは眼を細めて、嘲笑の声を漏らして外方を向く。パタリと本を閉じた。布が張り付けられているからか手触りが良く、繊細に花の刺繍が施されている。もう一度開き直すと、布が剥がれている部分があった。少し広げて覗くと写真が挟まっている。褪せた深緑の軍服を纏い、真っ直ぐな眸を正面に向けた狼が居る。身を覆う黒毛に、耳や頬の毛には柿色の毛が混ざっていた。眼や口吻周りには白毛が薄らとある。それを凝視していると、手が滑り、はらりと地面に写真が落ちた。クルルが屈んで拾う。 「凛とした方ですね。誰ですか?」 ボニファーツは瑠璃のような毛を黝くして、深く溜息をつく。カツカツと革靴の音を鳴らして近寄り、クルルの手から写真を抜いた。 「陸軍の隊員なんだ。尊敬していた先輩だけど、若くして……戦死した」 明らかに曇った表情に首を傾げた。真夜中の霧のような不気味さ、不可解さに疑惑の眼差しを向けずには居られない。然し、問い詰めるのは無鉄砲だと断念した。 「じゃあ、今日はお話終わり。これから二頭の部屋を外の軍動物に案内してもらって、今日はもう休んで貰う。狭いし古いけど、寝台はあるから生活に困ることはない。小さな冷蔵庫もある」 「分かった。なら、もう話す必要は無い」 クルルの腕を引いて部屋から出ていくと、扉を閉めた。その扉の隣に立っている軍動物に連れられ、次は階段を下がる。その途中にある大きな硝子窓からは航空機や訓練をしている若い軍動物が見えた。遠眼でも竜が数頭見え、狙撃練習をしているのか銃声が絶え間なく聞こえてくる。乾いているが、眼的を必ず始末するという強い意志を感じた。下手すれば自分の命を失う為、本気だ。クルルは尻尾を振って学生を褒めていたが、エヴァンはただ寂しいような薄闇の表情で歩いている。重りでも伸し掛かっている様にも見え、また酷い悲しみを浴びせられている様にも見えた。そして、突然、廊下を歩いて手前の部屋で止まる。たった数時間前に雑巾で拭かれたような金属の扉を開く。 「別に狭くないですよね。全然広い」 尻尾を振り回して蹄を鳴らしながら冷蔵庫に近づき、恐る恐る開ける。そこには冷えた飲み物と、昆虫肉が詰められていた。部屋の端には古びた寝台があり、本棚と机まで置かれている。擬態するように置かれた衣桁は木の枝の様だ。エヴァンは部屋の隅々を見渡して、何も言わずに寝台へ横たわった。暫く、寝転がって天井を見上げる。混凝土の褪せた色が、ただそこにあった。ふと、眼を閉じて横向きになる。軈て、死んだのかと勘違いする位動かなくなった。 「……先生、寝ましたか」 肩に触れて何度か揺らすが、特に反応は無い。ただ、胸だけがゆっくりと上下に動いていた。クルルは物置きから引っ張り出した布のような毛布を掛け、腕の隙間へと身を寄せた。鱗が鎧に似て頑丈な理由もあり、筋骨隆々な体躯に思える。羨ましさを感じながら伸びをしていると、服の間から古い火傷が覗いていた。然し、火山地方出身の竜は焔に耐性がある。だから焔は有り得ない。きっと、薬剤だろうとクルルは眠たい自分を納得させる。そして明日の不安を抱え、眠った。
廃墟
動物達は今日も、崩れ落ちた廃墟を通り過ぎてゆく。焦げた破片は粉々になり飛び散り、夕陽で茜色に染められていた。彼らの父は戦争で散っている。然し、その血が深く滲んだこの廃墟を気に留めない。故郷の為に戦い、命を散らした兵士達の苦しみを凝縮した、その灰は今や忘れ去られている。背広の胸に一輪の花でも挿して、呑気に歩いているのだ。 胸を突き破られるような思いで、一頭の|竜《ドラゴン》が立ち止まった。|企鵝《ペンギン》のような模様をした黒毛を靡かせて、ジッと破片を見つめる。聳える廃墟の穴から覗く空の色を何に例えよう。藻掻いて呻き声を上げながら死にゆく兵士達の顔が浮かんだ。舌が掴める程に腫れ上がり、皮膚が爛れ、毛が燃え落ちたその体を。「私は死にたくありません」と力なく言葉を漏らして、渇いた口を動かす犬達を。竜は突然、ガーンと煉瓦で殴られたように頭が痛くなった。そして、吐瀉物が喉に込み上げてきた。咽喉を溶かすような酸っぱさに顔を顰める。到頭、その荒廃した建物から眼を逸らすと、前へ向かってゆっくりと歩き始めた。 岩壁に貼られた絵の中で、最も眼立っていたのは瑠璃のような毛をした青豹である。陸軍の制服を身に纏い、上の欠けた三日月の旗を握り締めていた。竜は此の写真を破り捨ててやりたいと牙を剥く。握り締められた拳には鉤爪が食い込み、血が滲んでいた。恩師を返せと泣き叫びたくなる。そうして腹の奥から絞り出したような「クソッ」という情けない声を投げつけ、花蜜を前にした蝶の如く酒場へと吸い込まれてゆく。切り刻まれたような心を癒やす為なら、何だってする。この穴を埋めてくれとばかりに、長机へ項垂れた。混合酒を一つとだけ言って、そのまま動かない。 ──今日は、嫌なものを見た。ジリジリ灼かれて脂肪の剥き出しになった友人の姿が瞼裏から離れない。あの廃墟が、俺にそれを思い出させたのだ。 焦げた屍体の匂いがした気がした。考えると、精神が変になる。正常心を保たなければならないと涙を堪えて前を向いた。すると、背後から鈴の鳴る音が聞こえる。瞬発的に振り返ると、そこには双頭の鷲が居た。真夜中の空のような黒毛に、あの空に似た茜の嘴をしている。青い矢車菊の模様をした服は、皺一つも無い。双頭の鷲……左頭が竜を見つけるなり駆け寄ってきた。 「数年ぶりに会ったと思えば、此の世の終わりみたいな顔だね」 この嗄れた声はフェリクスだと竜が顔を赤らめる。微笑って「二年は経ちましたね」と恥ずかしげに角を撫でると、右頭が眼を細めて、首を長く伸ばした。胸が忙しくなり、拍動が速まるのを感じる。いつの間にか出された混合酒をサッと口にして、緊張を和らげようとした。 「先生は何処へ行った。暫くは他國に居たから、彼の噂すら聞いていないんだ」 パスカルが震えた言葉を漏らす。罪悪感にも似た重りが首の後ろに伸し掛かるようで、胸から何かが込み上げてきた。眼の下が熱くなる。黒毛なのに赤くなった気がした。 「もう……いや、既に大先生は此の世に居ません。ある限りの知恵を全て書き留めて、逝ってしまいました……」 「世の中、甘くないな」 竜からすれば、絶望を凝縮したような言葉だった。反論する暇も無く、フェリクスは笑顔でモスコミュールを頼み、パスカルは明様に不満そうな顔で嘴を触っている。竜は眼を細めて、睨むように二頭を見た。 「何で、お前が居て死ぬんだ?」 「なら」堪忍袋の緒を切らしたように机を叩いた。 「ならお訊きしますが、貴方が隣で支えていた筈なのに、どうして|青玉《サフィール》さんは死んだのですか」 青褪めて、鯨に呑まれたような顔をする。その鴉にも似た羽毛を逆立たせて、泥でも吐くのではないかと思わせる程に口を大きく開けている。その途端、時間が止まったような錯覚に襲われた。その静寂に嫌気が差し、隣を一瞥すると、二頭は焦点すら合っておらずピタリと動かない。悪いことをしたなと竜は双頭の鷲を慰めようとする。赤い嘴が此方を向いた。 「嫌になった。今のは、酒で忘れよう」 「はぁ、はい」 腑に落ちない。誤魔化されたような気がする。奥底に掛かる靄を忘れるためにも、出された混合酒を一口。切り分けられ、挟まれた果実をチラリと見てグラスを置いた。瑠璃硝子で花や林檎が繊細に細工されている。或いは緋や黄に染まっていた。竜が無心にそれを揺らしていると、双頭の左頭が思い出したように眼を見開く。 「そういえば、今日の新聞見たかい」 「いいえ。最近はずーっと見てませんね」 嘘ばかりですから、とは答えられずに竜は笑った。恩師の死に嘘や本当の事を上手く混ぜ合わせて売り捌いた奴らを許せない、と握り拳に力を入れた。フェリクスは鞄の中に手を伸ばしゴソゴソと何かを探る。そして破れて色褪せた新聞を掴んで渡した。 飾り文字で綴られた新聞を読み進めながら、満面の笑みを浮かべる竜を見る。その竜は左側は黒、角は緋。右側は緋、角は黒。何より眼立つのは、左右の角が二股帽子のようになっていることである。そして気色悪い事に瞳孔は山羊に似て横長い。眼線を隣にやると、左手には口吻の長い純白の狼が居た。片耳が酷く欠けている。 「三大名家失踪事件のうちブクセン家の長男が今更見つかったって。名前も何もかも変えていたらしい」 腹立たしそうに道化師のような竜を指差す。眼を凝らして見てみると、狡猾そうな笑みを浮かべていた。 「三大名家って、ヘレッセン家とグラヴィナ家とブクセン家でしょう。全員暗殺されたんじゃなかったんですか?」噂で何億回と聞いている。 「ブクセンは隣國の軍事組織に金を注ぎ込んで助けて貰ったとさ。これで暗殺された二家の財産が手に入るかもとか、色々書いてたよ。お前、よく名家の晩餐会や舞踏会に同席してたから知っているのかと思ってな」 羽毛を逆立てて黄色い瞳を丸くした。そして、またグラスを握り口へと運ぶ。鋭い爪と柔らかそうな手を眺めて、竜は絢爛の眸を向ける。 「何見てる」パスカルが唇を尖らした。 「見せませんよ。それより、今ブクセンは何処に住んでいるのですか。訪ねたい」 「正気か?」 右頭が憂慮に堪えないと掴み掛かる。竜は首周りでモサモサとしている襟巻を撫でて睫毛を伏せる。上へ伸びて曲がった角を少し下に向けた。 「大先生の事も少し訊きたいから、行きます。生徒としてあの死に方は許せません。せめて生き残った彼を殴ってやりたい」 「乱暴は辞めなよ」 フェリクスが眉根を寄せる。竜は構わないといった様子で胸を張った。軍で鍛えていることもあり、筋肉質な腕を胸に向ける。拳も硬かった。 「狡猾な手で逃げて、金を注ぎ込んで自分の命だけ守るような糞垂れは地獄に堕ちるべきです。そんな悪魔みたいな奴、毛虫でも呑んでしまえばいい」 ドンと音を立ててグラスを置くと、こうしちゃ居られないとばかりに|衣嚢《ポケット》から純金硬貨を出す。椿が描かれている事から他国では椿硬貨と呼ばれている物だ。 「早う教えてくださいよ。待てません」 「待ってろ」 |高性能携帯電話《スマートフォン》を指の腹で触りつつ、友人と連絡を取っている。画質が異常な程に良い。まるで現実を映し出した様だ。ポンと音がしたと思えば、住所がズラリと他国語で送られてきた。この複雑な形を見るに漢字だ。 「……驚くなよ。デューディールドルフ、メイリーン通り十八番地」 有名な金融都市だ。此処には西欧含め世界的に有名なサン・モーレ銀行がある。竜はゴクリと唾を飲んだ。大金持ちの大富豪しか立ち入らない街に、今から踏み込もうとしている。視界を覆い尽くす黄金の大廈高楼。深夜でも真昼のような輝きが途絶えることは無い。 「じゃあ、行ってくる」 「拳銃を忘れるなよ。何されるか分からない」 フェリクスが布に包んだ拳銃を手渡しする。常に持ち歩いているのかと感心の眼差しを向けて、竜は陸軍式敬礼をした。そして硬貨を代わりに渡して酒屋から立ち去る。茜に染まった空には星々が浮かび上がり、もう日が暮れようとしていた。大鷲のように白毛の脚を振って走り、列車まで急ぐ。もう出ないかもしれない。路地樹を横切り、街灯に照らされた道を突き進み、石を蹴っているうちに、廃墟の事は錆びた記憶として葬られた。こうして彼も、隣を歩く獣と同じく廃墟を通り過ぎる。染みた父の血に気づかず通り過ぎる。そして円蓋の城の様な駅を眼の前にして立ち止まった。石造りの柱に凭れて呼吸を整えると、切符を買いにフラフラと自動券売機へと歩いた。脚がふにゃりとなって力が入らない。今にも膝から崩れ落ちるような思いで、切符を手にした。そして電光掲示板で番号を確認すると、丁度来た列車に忙しく乗り込み、竜は青い座席に腰を下ろした。そして、耳を澄ましたまま眠ろうと、首にある襟巻に顔を埋める。遠くはないが、流れてゆく短い時間とは違って心は永い。数十分と揺られて、外にある都市を眺めているうちに不安が込み上げてきた。 ──大先生が、いつかブクセン家に短刀で刺されそうになったと言っていた。俺は大丈夫だろうか。 張り裂けそうな胸を押さえて、下唇を噛む。大丈夫だ。きっと。自分に言い聞かせて眼を閉じる。暫くの間は夢見心地で穏やかな表情をしていたが、いつの間にか冷や汗を滲ませて息を荒くしていた。 「熱いよ、痛いよう……ロスヴィル……たす、け……」 手を伸ばして藻掻いた。そこに友人の姿は、無い。耳奥に哄笑が響き渡った。アハハハハ。腹の底からおかしそうな声。皮膚が痛い。ジリジリと。獣が弾けた。バッチンと。手脚が墜ちた。バラバラに。形は違えど廃墟の記憶が思い出された。心の奥底を灼いた恐ろしい記憶が。 彼は過呼吸になって眼覚めた。もうデューディールドルフに着いたのだ。ぐったりと疲れて蹌踉めきながら列車から降りる。我ながらに過酷な夢を見たと汗を拭った。ふつふつと沸いた怒りの種を破裂させて、歩む。私情で殺められた恩師の敵を討つような思いを抱いてその黄金の街へと進んだ。 「十八番地、十八番地……」 ネオン一色に染まる賭場の前で漢字看板を読み進めながら歩く。高級食材店の周りで迷い、建物を見上げたりして途方に暮れる。街の光を浴びて、その筋を波のように揺らしている湖を眺めながら立ち止まっていると、腹の出た鼠が隣に来た。 「何かお困りですかな」調子の良い声だ。 「メイリーン通り十八番地を探しているのですが、迷ってしまって……」 金の首飾りと顔を交互に見て、眸をチラチラさせた。寝は腹と同じくらい胸を張って、自慢気に下顎を突き出す。 「案内しましょう。家が近いのでね」 「感謝します」 竜は口角を下げて身を縮めた。洗濯物のように干された漢字看板を通り過ぎ、大通りへと歩く。空は軽々しい格好をした竜が、雲を覆い隠す程の翼を広げていた。皮膜から漏れる月光の眩しさに手で眼許を隠す。この金融都市は星空が見えない。ただ、切り絵のような橋や柱からは紅紫の光が漏れている。そこに馴染んでいない竜と、慣れた道を庭のようにして歩く鼠。歩幅からして差は明らかだ。 「君、何処出身かね?」 「ヴェンリー共和國のシュネピリア出身です」 シュネピリアは地面も裂けて谷になるような極北の國である。この竜のように長い毛を持つのは極北雪竜と高山竜に限る。鼠は、「少し失敬」と手を伸ばして毛に触れた。細かく何層にもなっているからか、ブワッと沈み込んだ。 「珍しい……この辺は焔竜ばかりですよ。火山が連なっているのでね、過去には高山竜も居ましたが、今では耳にもしません」 頬を握ったりしていると、竜は少し不愉快そうな顔をして避けた。 「硬い鱗が羨ましいですよ。抜けると床が汚れるし、毛を刈ると後始末が大変ですから」 「そうか……ほら、あそこが十八番地」 指を差した先には、心臓が口から飛び出るような豪邸が聳えていた。城にも似たその豪邸には、丁度狙っていた影が伸びている。鼠に感謝を伝えて、小走りでその影を追いかけると、眼が合った。その二又帽子のような角と、横長の瞳孔を見るに間違いない。 「弟の生徒かい。長らく舞踏会に招待出来なくて申し訳ない。こんな時間に訪ねるなんて、何かあったのかな?」 薄気味悪い笑みを広げた緋の顔半分が見えると、影のような黒い鱗も同時に覗く。手元には尖った杖。そして聖書に描かれる様な濃紺の服を纏い、黄金の釦で留めていた。 「何故、姿を隠して……グラヴィナ家やヘレッセン家の葬儀に来なかったのですか」 「グラヴィナ家には後々行った。腹抱えて笑っていたがね、ヘレッセン家の可愛い弟達が亡くなったと聞いた時は悲しみで寝込んでいた」 檸檬を食べた時の様に眉を顰めて、悲劇だと顔で言った。わざとらしささえ感じる。 「う、嘘でしょう?」 「うん、嘘だ。何方にも笑ってたよ。悪かったね」 「涙一筋も流れなかったのですか」 竜は化け物を眼の前にしたと酷く青褪めた。悪魔だ。悪魔の子に違いないと確信した。 「悲しいと思わないよ。皆、自由になれて幸せ者だと思う。羨ましくて堪らない」 「貴方の愛してた|青玉《サーフィール》さんは」 「……誰、だろうね」 「知っている筈ですよ」 「部屋で話そう」 「ええ」 「喉が疼くから葉巻をくれ。何でもいい」 「はい、安物ですがどうぞ」 懐から太い葉巻を取り出すと、ふぅっと煙の様な火を吹いて点けた。先が夕焼け色に染まる。 「ありがとう」 木の頑丈な扉に細かい鍵を入れて、グルリと回して押し開けた。そして、ふぅっと紫の煙を玄関に充満させる。正面の彩色硝子が金の額縁に入れられた枯れた向日葵の絵画に反射している。床には紅い絨毯が敷かれていた。変に曲がった壺には一輪の薔薇。|窓帷《カーテン》は金の糸で刺繍のようにして紋章を主張している。長靴を脱ぎ、竜は長廊下を見た。 「豪華ですね」扉飾りの値段を考えながら言った。 「貴族の家だと思っただろう。でも、これはグラヴィナ家やヘレッセン家のゴミやガラクタを飾ってみただけなんだよ」 「この家の宝は無いのですか?」 「あるよ。見せてやろう」 居室まで案内され、白い石を削った机や昆虫標本が飾られていた。そして通り道を覆い尽くすような肖像画には恩師の姿もある。叡智を含んだ眸をギラリとさせて、窒素に触れた|極光《オーロラ》のような鱗を燦然とさせていた。見惚れている暇もなく通り過ぎてゆくと、籠には檸檬や無花果が雑に詰め込まれている。その居るだけで胃もたれするような空間に、急な隙間が見えた。そこには黒光りする像が聳えている。|高加索大兜虫《コーカサスオオカブト》に王冠と剣。そして黄、赤、白の三色と装飾の施された盾を持っている。その埃に塗れたその像が神殿の真ん中にあっても、不思議に思うことは無いだろう。恍惚として、その造形作品の前で崩れ落ちた。 「……素晴らしいだろう。僕の宝はコレだけで良い。僕が死んでも、この宝だけは守り抜こうと思う。それで、ねぇ。隠し味として青玉の骨はこの中にあるよ」 「……は、墓は……」 「墓に入る前に盗んだよ」 虫の屍を踏みつけるように、冷めて笑った。 「何故?」 震えが溝川のように氾濫する。今にも動顛してしまいそうなほど、酷く怯えた。頬に生える橙の毛を垂らして、黄金の化身のような眸を小さくした。眼の前の道化師は赤い赤い口を開けて笑う。笑っている。裂けた舌を覗かせて笑っている。 「別に凝った理由は無い。でもなぁ、寂しかったんだ。一頭で眠るなんて」 昏い眼には郷愁の影が落ちていた。窓からはサラリと月光が漏れ、二頭の姿を照らす。温もりを感じないや、と竜は襟巻に口吻を突っ込む。 「それだけですか」 「うん。彼だけは本当に弟と思っていた。誇りだよ」 口先を突き出すようにして、また煙を吹いた。そして誇らしげに像を撫で回す。埃の下にある煌めきは金箔か、それともコレ自体が金なのだろうか。ただ、息を呑んでその光景を眺めていた。高級品に埋まる部屋の、一角にあるその白い空間を。彼はただ、見ていた。 「嗚呼、彼はどのような人生を歩んできたのでしょうか」 耐えきれず、唇を緩めて言葉が漏れる。そうして、掴む前に花弁のように散った。道化師は嗤う。 「きっと、誇れるような素晴らしい人生だろう」
ころころと
或る雨の日の事だ。アンブロシア学校の一角は今日も色彩硝子から輝きを漏らしている。雫に色彩硝子の色が反射し、煌めいて落ちる。まだ空は重苦しく暗い。 そんな時、一頭の竜が石造りの外廊下を歩いていた。此の学校の制服……濃紺外套の下に緋色のシャツを纏って、静かに濡れていた。革靴を鳴らして進み、寮まで歩いているとフードを被った男とすれ違う。背筋を撫でられる様な感覚に、思わず心臓が震える。その竜、エヴァンは何も知らない振りをして、通り過ぎようとした。 「やあ、元気ないねー」 驚く程、地面を貫く様な低い声だった。青毛が覗き、淡青の眸がゆらりと揺れている。エヴァンは彫刻が上から崩れてゆくかの様に焦燥と怯えに駆られた。胸の中で砂埃が舞っている……そう思う位、ザワリと嫌な感覚が襲ってきた。 「……別に」喉の奥が震えた。 「へえ。そういえば、エヴァン君は今日のテスト九十九点だったよね。一点何に落としたの?」 絡み付くような、そして棘のある言葉だ。唖然としているエヴァンに近づきながら囁く。 「ディアーノも、僕も百点だ。あの能無しにも負けるなんて、君病気にでもなったのか」 「……ごめん、ごめんなさい」 涙を堪えて、足がふらついたのか蹌踉めく。その場から一刻も早く去ろうと後ろに一歩下がると、勢いよく胸倉を掴まれ壁に叩きつけられた。骨に響く痛みの余韻と、冷えた血が薄ら残る。視界に靄が掛かったように、白い。その中で青豹の顔だけが、ハッキリと見えた。 「謝れって、いつ誰が言ったの? だから理由は?」 「しゅ、終止符が無くて」 頭を守りながらぺたんと床に尻尾をつけた。青豹は口の端を吊り上げて、鼻で嘲笑う。フードが風で下り、冷めた笑いを貼り付けた青豹の顔が浮かび上がる。気がつけば、許しを求めて何千回も謝っていた。縋ろうとしていた。そうしなければ、クラスで晒し者にされる。その恐怖がエヴァンの胸を蝕んだ。後頭部の激しい痛みと、漏れ出す血。乾いて石に染みる血が、茶色に変色した。 「今からどうしようか。僕の部屋で謝ってよ」 「……」 これが最後の砦だ、と思いしがみついた。いつの間にか何でもすると縋り、部屋へと付いてきてしまった。歩いている最中も、青毛の手が背中を撫でている。柔らかい肉球が鎧のような鱗に触れた。呼吸が荒い。何よりも、身体が火照っていた。 「ボニファーツ」 「嫌なら良いよ。友達辞めるだけだし」 諦めたような、掠れた声を出した。そして眼をさっと逸らす。エヴァンは膝を震わせて、鉤爪を出したまま制服を握り締める。腹の奥に血が滲むような苦しみに襲われた。 「……嫌じゃない、ごめんね」 顎を引いて、許しを請う様に眸を揺らす。初めて、ボニファーツは優しく微笑った。扉に鍵を掛けて、パチパチと釦を外す。浅黄の毛をした、普通の豹の下半身が覗いた。腹元は青毛と混ざり妙な毛色になっている。エヴァンは恐怖に潰されたまま、その光景をただ眺めていた。まるで怪物を眼の前にしたように。見開いて、瞳孔を糸のように張って、口から青い舌を垂らす。そしてハラハラと垂れる涙を拭い、自ら服を脱いだ。緋色のシャツだけの姿になり、一瞬躊躇う。傷と火傷にまみれた、いつもの自分ではない姿を見られることに気がついた。そして影でグズグズしていると、背後から服を剥がされ、裸体を見られる。ボニファーツは眼を丸くして、その乾いた古傷を見た。美しい鉱石のような鱗と違い、爛れている。興奮に震え、狂喜し押し倒す。手を強く握り締めて、「離れないで」と呟いた。 ♪♪♪ 灼熱の太陽はジリジリと学校を照らしている。深い紺碧の空の下で、一頭の鯱、ディアーノが屋上から脚を出していた。そうしてフラフラと揺らし、尻尾で地面を打っている。その首には赤い波のような模様がが二つ、流れるように刻まれている。白黒の体を持ち上げ、跳ぶように柵の内側へと戻ると、教室へ口笛を吹きながら向かった。 「憂鬱や。今日もテスト返ってくるわ」 扉を蹴り開けるなり、大声で叫ぶ。ある獅子は憂鬱そうに椅子から転げ落ちて、「忘れてたのにっ」と顔を覆い天を仰ぐ。エヴァンは静かに片手を握った。体が、静かに震えていたのだ。心臓が脈打ち、口から飛び出てきそうになる。悲鳴に似たものを漏らしそうになるのを本気で堪える必要があった。 「どした。体調悪くなったん?」 屈んで、不安気に顔を覗き込む。眼覆い《アイパッチ 》の下から黒に紛れた優しい眼が出てきた。保湿油でつるりとした肌に触れて、エヴァンは深い溜息を呼吸と共に出した。気づかれないように。心配されないように、と、 「大丈夫。ありがとう」 布で冷や汗を拭った。二頭が話している内に、鐘の音が鳴り席へと戻る。古びた机にうつ伏せたまま、眸をキョロキョロとさせて梟の教師を眼で追う。尻尾は垂れ下がり、鱗にも煌めきを失ったようにも思われる。彼からすれば最悪の気分だった。何度も無理矢理に体を重ねられた夜を思い出す。股間に激しい痛みを感じながら、肩をガクガクとさせて過呼吸になった。バレないように頭を深く下げる。そして、滅茶苦茶に壊れて混ざった頭に自分の名前が響く。呼ばれた。 「……は」 用紙を受け取り、崩れ落ちそうになる。七十五点。過去最悪の点数だ。間違いを確認する前に、ボニファーツの顔色を見てすぐにトイレへと駆け出した。脚の筋が切れそうになりながら、急いで閉じ篭る。臓器という臓器が冷えるのを感じた。凍る、頭が真っ白になる。青褪めたまま床に座り込んでいると、何かの影が見えた。青豹。それだけで誰なのか予想がつく。裂けた下半身から血が漏れた記憶が蘇る。駄目だ、気がつくな。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。繰り返して、唇の皮が抉れるほど噛む。用紙をぐちゃぐちゃに丸めて、涙で滲んだ点数を隠すようにして衣嚢に詰めた。 「ねえ、エヴァン君。居るんでしょう」 甘い声が耳に絡みついた。その蜜のような声に胃液が込み上げるのを感じた。鱗が逆立つ。窓から射し込む光が、エヴァンの艶を深緑に染めてそれが彩色硝子のように壁に反射した。青豹の地面を這うような笑い声が響く。お終いだ、と頭を抱えて泣いた。 「何点だったの? 怒らないから答案用紙見せてよ」 「嫌だ。笑われる」 絞り出したような声を出す。ボニファーツはトイレの鍵に手を掛けて、「笑わないよ……」と甘く答えた。 「僕はエヴァン君の親友なんだから、侮辱したりなんかしない。もし悪かったらさ、ディアーノ誘って一緒に対策しよう」 触られてもいないのに全身の隅から隅までを丁寧に撫でられるような言葉に、思わず扉を開けた。青い悪魔は涙の滲む眼元を拭き、丸まった答案用紙をゆっくりと開く。涙の滲む点数を見て、思わず吹き出しそうになった。肩が笑う。それを必死に抑えようと、咳払いした。 「なぁんだ、計算ミスばっかり。疲れてたんでしょ。放課後図書館でやり直ししようよ」 口には歪んだ微笑みが火傷の痕のように張り付いている。エヴァンは蹌踉めいて立ち上がり、力無く頷いた。 「……うん」 ♪♪♪ その晩、ボニファーツは寝床で転がり笑っていた。腹を抱えて叫び声のような笑い声を炸裂させて、涙をボロボロと流している。彼の答案用紙を盗み、コピーして他学年にばら撒いた後の話だった。 「はぁ、ああ、おかしい。今から電話してやろう」 毛を撫でながら電話を掛けると、すぐに相手から情けない声で応答された。寝惚けたディアーノだ。 「聞いてよ。僕と君は今回のテスト百点だったろ? エヴァン君ったら、今回は七十五点! 七・十・五だ! あんな基礎的で間違えるなんて馬鹿だろう? それで僕に見つかるのが怖くて、トイレに逃げ隠れてさ。僕が少し優しくしただけで嬉しがって媚びてたよ」 「……その用紙、また貼り付けたん?」 刺すように訊く。ボニファーツはケラケラと笑った。そして本物の答案用紙をひらひらと揺らしながら脚を投げ出す。瑠璃のような毛が毛布に沈んだ。 「当たり前でしょ。明日はどうやって許して貰おうとするのかな。楽しみで眠れない。数日前は体をくれたんだ。途中から涎垂らして欲しがってたよ。そうだ、ディアーノもやらない?」 「……遠慮しとく。アンタも師匠が壊れる前に辞めとき」 力無く言葉を漏らし、倦怠感で苦しそうな溜息を残して、電話をプツリと切った。ボニファーツは暗い眼を薄闇に光らせて、兎に角面白そうに笑っている。 ♪♪♪ エヴァンは体の芯が溶けるような優しさが骨のようになって喉に刺さっていた。ゴチャゴチャした埃のようなものに覆われて、違和感のようなものが底に残っている。寝床に仰向けになり、天井を見上げていると扉をノックする音が響く。 「夜分に失礼」 浅葱の毛を靡かせ、藍白にほんの少しの青を差したような巻毛を結んだ少年が立っていた。月光で照らされ、睫毛と眼元にある鮫の鰭のような模様が明瞭になると、エヴァンはさっと起き上がった。サーフィーだ。 「寝てないから良いよ。どうした?」 照明を点けると、椅子に腰を掛けろと手で示した。 「兄ちゃんの答案用紙、学校に貼り出されてない? あんな点数取るなんて、調子悪いの?」 「え?」 青褪めた。まるで染められたように、真っ青な顔に変貌する。鱗が一枚一枚冷えてきた。紅紫の艶でさえ、その瞬間は冷えて震えたように見える。彼の絶望した瞼の奥には、混乱ではなく、疑問が浮かんでいた。 「貼ったのは、誰だ……?」 恨めしそうにサーフィーの顔を睨む。動じずに、首を横に振った。 「俺じゃないよ」 「そんなの分かってる」 怒りと悲しみを混ぜたような声が轟いた。焦燥は胃を切り裂くように暴れ回り、喉には言葉が詰まる。苦しみに悶えていると、サーフィーが持っていた檸檬の飴を渡した。 「大丈夫だよ。別に誰も気にしないでしょ」 頬杖をついてふぅと息を吐いた。エヴァンは飴玉を舌で転がして怒りを抑えようと必死になる。ツンと鼻に爽やかな香りが広がった。 「……そういうことじゃなくて、俺があの答案用紙を見せたのは親友だけだった。なのに、流出している。そこが問題なんだよ……」 憂鬱さを纏う声に淋しさの色が見えた。苦く酸っぱい味が舌全体に広がり、鼻から香りが通り抜ける。サーフィーはただ呆然と、その様を見ていた。 「う、裏切られたってこと?」 「……かも、な」 彼は諦めたように、微笑った。 ♪♪♪ ボニファーツは早朝から教室で待っていた。どんな反応をするのか、どう行動するのかを想像し、期待を膨らませて椅子に腰掛けている。広く長い黒板を上から眺めて、他の生徒が来るとにこやかに「おはよう!」と挨拶をする。それを永遠と続けたが、そこにエヴァンの姿は無かった。彼の席だけがポカンと空いて、そこだけ時空が歪んだように見える。教室も職員室も騒然としていた。 「ヘレッセンが休んだ? そんな、昨日は元気でしたよ」 「なら何で休んでるんですか。こんなの初めてですよ。理由は?」 ディアーノが興奮気味に責める。長く天に伸びる鰭に力が無いように見えた。ボニファーツは紙に問題を書き留めながら耳を傾ける。 「理由、休むとしか連絡が来ておらず……もしかしたら何者かが全教室に貼った答案用紙かと思われております。現場を見たり聞いたりした者は職員室へ──」 失望した。そこまで、弱いのか。ディアーノの楕円の眼覆いに怒りの色が差した。黒い背がくるりと振り返って、じっと深緑の眼を向ける。白い下顎が動いた。 「ふざけんのも大概にせえよ」 「あー、はいはい。今日行きますよ。お家に」 ニコニコと笑みを浮かべる。空が茜に染まるまでの時間は長く、欠伸を何回もしながら暇を潰していた。授業が終わると、二頭は別方向を向いて別れる。夕日が毛と肌を照らし、赤く染めた。水溜まりには黄金の光が映り、煉瓦の家や小さな珈琲屋を通り過ぎて歩く。背の高い竜や、水牛、そして熊や猫とすれ違いながら路地裏へ足を踏み入れた。近道だ。薄暗く、水滴の落ちる影道を進むと空は段々と薄紫の雲に覆われてゆく。夜行性だからか眼が冴えてしまうな、と苦笑を浮かべてゴミを踏みつけていると、豪邸が見えた。石造りで、相変わらず門の彫刻が美しい。神話の世に迷い込んだようだ。その門は開けられていた。火山から吹く熱風を背に浴びながら入り込むと、扉を何度かノックする。すぐに開き、黝の鱗をした竜が出てきた。大きな体躯で、瑪瑙のような角と青い化粧のような模様が眼尻にある。竜は眼を細めた。 「学生さん? 何の用事?」 「ご無沙汰しております。ボニファーツ・コリネリウスと申します。エヴァン・ヘレッセンに会いたいのですが」 部屋の中をさっと覗き込んだが、姿は無い。竜はニコニコと微笑んだ。そして入れと手で示す。 「なるほどね。二階の端にいるよ」 柔らかな口調は、サーフィーとそっくりだった。 「エヴァン君?」扉の隙間に指を突っ込むと、ひんやりとした鱗が肉球に当たる。それは鉱石の如くザラっとしていた。そして翡翠のような眸が現れる。 「……」 「貼られたらしいね。大丈夫?」 「お前がやったんだろ?」 眼からほろほろと涙が溢れた。指からは猛禽類のような鋭い爪が飛び出し、ボニファーツの手にプツリと刺さる。痛みに悲鳴をあげそうになった途端、部屋へと引き摺り込まれた。顔を見る前に手で覆い隠され、腹を蹴られる。 「なあ、何であんなことした?」 「君が僕を超えた時だって、かなり軽蔑した眼線を浴びせてきたじゃないか」 胸倉を掴み、頬に切り傷を入れた。赤い血が鱗の間から流れ出る。痛みがあったが、慣れているからか動じない。ボニファーツは焦りと恐怖で、衣嚢の中に片手を突っ込む。そして金属製点火器から青い火を出し、エヴァンの腕に浴びせた。すると燃えるのではなく、炙られるように青い焔が広がる。防火性だからか、服には広がることなく鱗だけを侵食した。熱さに悶絶し、水筒の水を掛けるとシュワと音を立てて消えた。痛みは尚、広がる。 「お前とは友達でも何でも無い。出ていけ」 冷たく言い放つと、扉の向こうへ青豹を投げ捨てた。床の上で寝転がりながら、岩のような壁を撫でる。 (僕は悪く無い……あいつが悪いんだ) チッ、というすり潰したような舌打ちを残し、その場から立ち去った。 ♪♪♪ 次の日の早朝、海辺に立つエヴァンの姿をディアーノは見逃さなかった。柵を飛び降り、背後から近づいて見せる。まだ空は真紫だ。 「早えな! 海の朝日は綺麗じゃろ」 「そうだな」 全身にある火傷の痕を撫でて、顔を出した朝日を睨みつけた。 「何や。その火傷」 「青豹に灼かれた。戦時中のように」 「復讐でもしに行くつもりか?」 皮肉だと笑う。然し、エヴァンは真剣な顔をして振り返った。その冷えた、寂しそうな顔に優しさは一切無くなっている。そこに居たのは、エヴァンじゃない別の生物だった。冷酷とは言い切れないが生物の持つべき心を失った屍。 「復讐などしない。俺は、やるべきことをする」 「そうかぁ」 微笑って安心させようとしたが、駄目だ。笑顔が崩れてしまう。何でそんなに悲しそうな穴の空いた顔をする。まるで、まるで声の無い慟哭だ。胸が叫んでいる。助けてくれ、と。 打つ波を眺め続けた後、二頭で学校まで歩いて行った。いつもの信号機、いつもの本屋、いつもの教会。それなのに、隣の彼だけ妙に浮いており、違う。化け物になっているようだ。得体の知れない雰囲気に怯えながら、学校の門を通り過ぎる。そこには、神獣から幻獣、そして鳥獣たちが歩き回っていた。濃紺の制服がひらひらと風に靡いている。ゆっくりと階段を登りながらエヴァンはディアーノの制服の裾を引っ張った。 「今頭を打ちそうだった」 「あ? ああ、おおきに」 狐に摘まれたような顔をして掴まれたまま、パッと離される。A組までの距離は段々と近づいてきていた。 「おはよう」 ニコリ、といつもの様に口角を上げた。その眼線の先には縮まった青豹が居る。 「お、おはようございます」 「改まるな。お前の言うに、親友なのだろう?」 「……そう、だよ。もちろん」 抵抗を混ぜて頷く。そうやって話しているうちに、鐘の音が激しく鳴った。エヴァンは青豹の頭を五回ほど撫で回すと、席へと戻る。ディアーノは頭から潮を噴きそうなくらい緊張した。 「次の条件を満たす最小の数nを求めよ……ボニファーツさん」 「あ、それは──」 「三十三ですね」 中国剰余定理を使ったのか、とディアーノが首を傾げた。それか予習済みの問題が運良く出たのだろうか。どちらにせよ、青豹は出番を奪われて眼を見開いている。怒りより、疑問だった。それから全ての問題を解き、一つも間違いなく、いつの間にか机の上は賞状や賞牌に溢れていた。医学においても、何においても全てで一位を取ると言う執念が付き纏っている。青豹は言葉を発することすらしなくなった。ただ、唖然として口を開き、虚に見ている。然し、その口から乾いた言葉を出した。 「僕がいなけりゃ、良かったんだ」 「嗤えよ」 エヴァンが机を蹴飛ばし、賞状の額を折る。割れた硝子はパリンと軽い音を立て、その場に散った。 「……俺がお前より下だったとき、お前いつも笑って喜んでたよな。でも間違いを全て指摘して、優越感に浸りながら教えもせず永遠と責め続けた。ディアーノにバラして、下学年にもバラして、俺は全員に顔すら見せられなくなった」 「ごめん」 「俺の生活は」 「ごめん」 「俺の生活は何処へ行った。疲れた。論文が書き終わらないから」 「ねえ、ごめんって」 視界を遮る。不愉快という文字が顔に浮かんだ。 「いいよと言えば視界から消えてくれるのか? 『いいよ』ほら、消えろ」 「……あ」 エヴァン君は壊れているんだ。僕が壊したんだ。そんな罪悪感を身に纏った時、今までに感じたことのない快感と優越感に崩れ落ちた。腹の底が疼くような気持ち良さに、思わず笑い声が漏れる。 「そっか。もうきみは、死んだんだね!」