愛染明王
26 件の小説朝雲暮雨
夏が眼の前で死のうとしている。街路樹から聴こえる蝉の声は弱く、枯れていた。まだ土瀝青の上に立つ陽炎は辺りを歪めている。向日葵はまだ燃えるような輝きを秘めて太陽に向かって微笑んでいた。 思い返してみれば、もうエヴァン先生と話さなくなって五ヶ月も経つ。発端は私の書き上げた論文だった。西欧では珍しく、熱帯に多い細菌類についてのものと、昆虫は脳の構造を変化させることでギャンブル中毒になるのかというものだ。私も何故その題材にしようとしたのか覚えていない。だが当時の私は天才的だと舞い上がって、あの医学誌に載るかもしれないぞ、先生は立ち上がって私を抱き締めてくれるだろうと大いに期待を抱いて見せたものだ。すると怪訝そうに、あの爬虫の瞼をパチクリさせながら一瞥すると、ポツンポツンと欠点だけを挙げ始めた。言葉の一つ一つ、丁寧に磨き上げられた針が巻きつけられていて胸に突き刺さった。言われたことを一言に要約すると、面白い視点だが結論が固まっていないから書き直せとのことだ。そして調子に乗るな、お前は医者の端くれであり世界的に有名なわけでもないと付け加えられる。話を聞いているうちに私は堪忍袋の緒が切れて怒り狂った。顔も耳も紅潮して茹蛸みたいになっていただろうと思う。そして万年筆を入れた木箱も何もかもばら撒いて閉じ籠ってしまった。先生は鼻で嘲笑うと論文に赤字で修正をして扉の隙間から入れて来た。到頭、私は先生と会話を交わさなくなってしまった。 でも頭がツウンと冷えてくると罪悪感やらが吐瀉物になって散らばってゆく。先生の隣を通ると胸が締め付けられて眩暈がするし、胃が鉛のようになるのを感じた。ごめんなさいと言おうとしても彼の軽蔑した顔を思い出すだけで眼が熱くなって、涙がほろほろと出て来てしまう。泣いてはいけないしっかりせねば……考えても涙は止まらない。泣いているところを見られたくないから、顔すら合わせることが減ってしまった。もしかすると先生は私のことなど忘れているのかもしれない。そんな恐怖が膨張して、私の頭の中で破裂しようとしていた。過ぎゆく灼熱の夏は私の心を腐らせるだけで、爽快の爽の字もなかった。気分転換に歩いていても、先生の事以外考えられない。あゝ、申し訳ないことをした。貴方の弟子は、助手は愚か者です。本当にすみませんでした。そう言えたらどんなに幸せだろうか。謝罪したところで彼が私を罵って今更何を言うと責めて来ても、謝らないよりマシだろうと思う。此の蛆虫の沸いた心を潰して捨ててくれるのならば何だってする。地べたに膝をついてまで頼みたい。兎に角、砂浜に打ち上げられた海月のように苦しい。こんなに苦しい思いするのなら、いっそ溶けてしまえばいいのに。 気がつけば私は家の門の前で立ち竦んでいた。今、先生は書斎で研究の結果を纏めている。今のうちに話しかける事は出来ないだろうか。明日は大学の授業で一緒だから、内容を聞くふりをして謝れるのではないかという考えが頭をよぎった。それから鉄砲玉のように弾き飛んで、髪を乱しながら家の中まで駆けて行く。普段よりも長い階段を軋ませながら上がって書斎まで行くと、丁度良く扉が開いた。机には医学誌や法律の本が開かれてメモの書かれた付箋紙が幾つもついている。そしてノートは数式や南欧の言語が溢れて散らかっていた。覗き見していると、直立している先生は私を見るなり軽蔑の眼差しを向けて来た。相変わらずの大きな体躯とゴツゴツした臙脂の鱗は構造色で金緑の艶は凄まじい。緊張と圧迫感に思わず言葉を忘れていると、彼は痺れを切らして「何か用事でもあるのか」と言った。私は咄嗟に「いえ、ありませんが」と冷たく返す。先生は淋しそうに私の顔を見た後、ふーんとだけ反応を見せて立ち去る。どうにか服を掴もうかと思ったが大袈裟に私を避けて通るのでそれは叶わなかった。仕方なく書斎に入って散らかっている論文などを探ると、どうやら私の論文に足りないところを修正するためだけに何百冊も読んだり研究を続けているらしかった。考えを知る為、ノートの最初から辿りページを捲っているうちに私は腹の底から慟哭した。咽喉の奥がツーンと痛んだ。私は先生に頭を下げて謝らなければならない。だが、今日も言えなかった。あゝ、先生はこんなにも私を想っているのに。黙っているうちに涙も乾いていた。眼許の毛がパサパサしてくっついている。取り乱してはいけない、取り乱しては……。冷然として書経を開いて文字列を辿ってゆく。 嗚呼、夙夜罔或不勤。不矜細行、終累大德。爲山九仞、功虧一簣。 書から引用したものになるが、先生はこうとでも言いたかったのかもしれない。きっと私はあの論文の何処かで大きな失敗をしているのだ。ならば先生に頂いた修正の原文を基に書き直さなければならぬ。拗ねて部屋に篭っている場合ではない。先ずは勉学をする。善は急げと書斎から飛び出ていくと自室で紙を広げた。鉛筆を刃で削って、調べた事を挙げたり研究結果を見直して、と繰り返す。宵の空が真っ暗闇に染まって、月が廻るまで書き続けた。その間、先生は深夜に出て行って開頭術の執刀をしたらしい。此の頃、救急車で運ばれてくる患者が多く、当直になっても暇な事がない。午前の患者が少ない分、深夜に来る事が多いのだ。私はある程度で区切りをつけると、仰向けになって眠った。餡子屋の羊から饅頭を貰って、それを先生と分けて食べる夢だ。もっと夢の中に居たいのになと寝ぼけ眼を擦って窓を開ける。朝の冷えた風が秋の匂いを運んでやって来た。薄暗い雲の淵には太陽の針が滲んでいる。早朝の街ではパンやチーズを買いに来た紳士達が靴音高々に歩き進んでいる。私は隣の部屋を覗いて先生の帰宅を確認しようとした。すると、先生は堀の深い顔を横にしてぐったりとしている。寝息は荒く、冷汗のようなものが垂れていた。角が反って枕を傷つけるからか、枕は置いていない。ただ薄い毛布だけが掛かっていた。私はそろりそろりと近寄ると口吻に顔を近づけてじっくりと観察してみた。どうやら悪夢にうなされて踠いているらしい。すると、私は別の所に眼が届いた。その無防備に放られた鱗の分厚い手は何だろうか。思わず指を絡めてみると力強く握り返されて喉を締められた鶏のような声が飛び出て来た。先生も驚いたのか飛び起きて更に強く掴んでくる。突然の事に私は混乱したまま「違う違う、ごめんなさい」と叫んで逃げようとする。力は弱まったが解けることは無かった。 「君は何がしたい?」 はあ、ご尤もな質問である。私は謝らなければということしか頭になく真っ白になってしまった。 「あ、あ、申し訳ありません。その、苦しそうにしていたので。本当にごめんなさい」頭を下げ続けて寝室を飛び出すと、背後から待てとか細い声が聞こえた。だが振り返らず外に飛び出してしまう。家に帰る気分にもならず、結局フラフラと親友の家まで歩いて行った。路地裏は薬物中毒者が棒立ちしていたり、関節を捻じ曲げて寝そべったまま戯言を言っている。口からは泡と涎の混ざったものが滴り落ちていた。成る可く眼を向けないようにしながら動物の混んだ道を歩き進むと、牛の営むピッツァ屋が見えた。あの店を曲がると親友(先生の弟)の家があるのだ。林檎の樹が何本か生えていて、花壇には色彩豊かな花を敷き詰めている。そして深緑の三角屋根に白い煉瓦の古き良き家だ。私は古い木の扉を叩いて一心不乱にサーフィーと呼ぶと、彼は返事をして階段から下りてきたらしい。どたばたと音が転がって来た。 「朝早くにどうしたの? 早く入れ。もう、そんなに窶れてしまって」 彼は過保護に私の背を撫でると部屋まで案内してくれた。暖炉の前には机があって、それを囲むように絹を張った椅子が四つ置かれている。私は暖炉に近い方に腰掛けると、出された紅茶を啜って茶菓子を食べた。サーフィーは前に座り込むと足を放り出して、暖炉の火に手を翳す。いやあ、朝晩は冷えるなとにこにこ笑っていた。 「私は先生と喧嘩してしまった。悪いのは私なのに、謝ることすら出来ない。寧ろ不愉快にさせて出て来てしまった。最低だ、誇り高き麒麟として惨めだ」 惨敗を告げると、友は牙を剥いて笑う。少しの間返事はなくて、周りを見るしかなかった。棚の上に置かれている人形には落ちたばかりの羽根が挿されていた。海軍迷彩のような縞模様の美しさ。高山竜で彼の美しさを凌駕する者は居ないだろう。青灰の頬毛に手を添えたと思えば、彼は足を崩して私の顔を凝視した。 「なあに、兄ちゃんの事を考える奴なんてお前くらいだよ! だって奴、冷酷だろう? あんな輩放っておけばいいのに」 「尊敬してるんだよ。ずっと近くに居たいし学ばせてもらいたい」 「じゃ、素直にそう言えばいい。どんな内容にせよ兄ちゃんが九割悪いのは予想がつく。クルルの普段を見てるから悪い事しないって知ってる」 茶菓子に手を伸ばして一口齧る。半分は無くなってしまった。私は少し気まずくなって言うのを迷ったが腹を括る。 「それが、ブチギレて万年筆の箱を投げてしまった……」 サーフィーは口を開けたまま愕然とした表情をしている。そして眉を顰めると、紺の鼻をチラリと舐めた。 「それはいけない。代わりの万年筆を買って戻そう。そして、これまでの事をしっかり弁解する事!」 「でも、話すのが怖くなってしまって家に帰るのも気が進まない」 顔を見るだけで戦慄する、あれじゃあ失礼ではないか。座ったまま俯いて悩んでいると、彼は冷たい手で私の耳朶を触ってきた。 「じゃあ一晩しなよ。ベッドあるから……寝たら? 眠そうだよお前」 「ありがとう、眠る」 払い除けてふらっと立った。何だか心が乾いて薄ぺらくなって張り付いている気がする。サーフィーは洋盃を片付けながら「兄ちゃんには俺から言っとくから、万年筆買いに行こう」と声を掛けてきた。私は相槌を打って階段を上ると、寝床に横たわって眠る。夢は見なかった。ただ、ぼんやりとした土臭さが鼻腔に入ってきて、屋根から垂れた雨粒がパタンと音を立てて落ちるまでは動く気力すら湧かなかった。雨脚は強まり、窓硝子の向こうは真っ白になった。そんな騒めきに起こされて、寝返りを打つと青白縞模様の角が視界に覗いた。エキドナかなあと頭を撫でてやると腕を掴まれて頸筋を甘く咬まれた。 「そこ私のベッド。寝込んでどうしたの?」 は、と気づいて毛布を見ると藍色だった。私は飛び起きると「間違えた」と寝床から降りた。エキドナは退屈そうに寝そべって毛布に鼻を埋める。 「聞いたよ。エヴァンと喧嘩したから仲直りに万年筆渡すって」 「うん。謝る勇気が無いから」 「金掛けすぎても嫌われるよ?」 痛いところを抉られるような痛みがした。でも、言い返せないから頷くしかない。 「ちゃんと選ぶよ。お揃いがいいんだ」 彼女の顔を見てからヨロヨロと扉から出てゆく。下でサーフィーは服を脱いで全裸になっていた。年季のある筋骨の影。古傷の周りは毛が抜けて禿げている。それでも漢の品格があり、周辺の空気は冴えていた。椅子に両腕を掛けて煙草を咥えつつも、一口だけガンと強い琥珀色のウイスキーを口に流している。きっと地下の樽から絞ったものだろう。私が背後から一言声を掛けると、表情を一変させてへにゃりと笑ってきた。 「兄ちゃんと電話で話してると腹立ってきてさ! 酒呑んだんだ、くっそぉー……暑い、暑い! 明日から当直なのに二日酔いだったらどうしよう!?」 両脚を机に上げて天を仰いだ。股間にある陰茎は背伸びして、先を硬くしていた。牡丹色の頭が出ていて血管の筋が膨れ上がっている。私は視線をどこにやれば良いのか迷って、壁を見た。 「寝た方が良い。それより、良い万年筆の老舗を知らないか?」 「そうだなあ……煉瓦橋から大通りに出て、イタリア料理店と本屋の間にあるピーヤシヒトっていう所が有名だよ。樽材の万年筆があったり木彫りもあるんだって」 「じゃあそこ行って選んでくる」 札束と金貨をポケットに詰めて逃げるように出て行く姿を背後から見られた。それでも振り向かず傘を片手に走っていると霧の奥に医学部附属病院が見えてくる。先生は今頃診察室に居るだろう。又は、手術室で頭を開いて頭蓋骨に孔を開けていることだろう。水溜りにネオンの光を反射する赤煉瓦の橋を渡っていくと、言われた通りのpizzaと綴られた料理店が見える。その隣には硝子張りで細長い文房具屋があった。扉には手書きの看板が掛けられていて文具に愛を、と書いている。開くと鈴が鳴って驚いたがそれよりも景色にドキッとした。古びた棚は磨き上げられていて万年筆がこれでもかと並べられている。木材だってイタリア産であったりドイツ産であったりと出身地を詳しく書いている。私は迷わず樽材のものを手に取ってみた。模様は渦になっていて一つ一つ違う。天井近くには地球儀、積み上げられた葉書がある。どれも素晴らしく個性があるので、私は何万とある万年筆を一つずつ手に取って試す羽眼になった。此処で幾つかお気に入りを紹介しておく。一つは焦茶の樽材だ。何より手に収まりやすく書き心地が滑らかだ。全体は太くて使えば使うほど味が出てくるらしい。もう一つは鉄刀木製でもっと模様が濃い。此は少し細くて長く書いていても疲れなさそうだ。それに長持ちすると青蛙の老紳士に言われた。最後に握ったのは樹脂の塗られた真っ黒い胴だ。ペン先は装飾されて刻印もある。 「うーん。どれが良いのだろうか……」手に取りながら悩むが日が暮れそうだ。するとまた老紳士が背後から現れて、長く先の丸い舌で眼玉を舐め廻していた。そして私の持っていた万年筆を指で掴んだ。 「ウーム、お眼が高い。あ、そこにある樽万年筆には名前が入れられますよ」 「名前? 本当ですか。二組買いたいんですけど」私は興奮気味に訊いた。老紳士は微笑んでまた眼玉を舐めると「ええ。彫りましょうか」と言う。私は念入りに選んでおいた二組を渡すと、私の名前と先生の名前を教えておいた。壁掛けの古時計がチクチクと針を揺らすうちに英文字をハッキリと彫られたものが布を敷かれた木箱に入って渡される。私は金貨と紙幣を数えて渡すと、何度も頭を下げて店から出て行った。サーフィーにも自慢しなければならない。軈て私は通りを戻って緑の三角屋根の家に帰ってきた。サーフィーは酔いから醒めてボルシチを作っているらしく鍋を掻き混ぜている。エキドナの行方を訊ねると手術が入ったらしいのでオペ看として行ったらしい。あの病院は休みでも容赦無いのだ。教会で祈るべき日曜日も駆り出されてしまう。私はすぐに木箱から万年筆を取り出すとサーフィーに見せつけた。 「悩み抜いて買ってきた。先生喜ぶかな?」 彼は口を開けたままポカンとして万年筆を受け取ると、眼を輝かせて子供のような笑みを浮かべた。 「凄い! 名前が入ってる! 喜ぶに決まってるよ。明日の早朝にでも土下座して渡そう」手を握られて上下に振られる。手頸は疲労で草臥れて痕を負った。痛い痛いと撫でているうちに、サーフィーは木箱に万年筆を戻して机の上に置く。冷静になって気づいたらボルシチの良い匂いが部屋中に漂っていた。私はその晩、二頭でボルシチを食べると論文の続きをした。まだ、雨は止まないらしい。耳を澄まして心地の良い雨音に癒されていると、騒々しさを貫いて電話の痛々しい鳴き声が上がった。サーフィーは電話を取って、「はい、はい、兄が? まさか。はい、はい、直ぐに行きます」と相槌を打ちつつも当惑した眼差しを此方に寄越してくる。只事ではない、と神経が訴えてきた。電話が切れると、サーフィーは振り返って眉を顰める。 「兄ちゃんが事故に巻き込まれて重症だって。死に太いから意識あるらしいけど、行かないとどうなるか分からないよ」 私は弾かれたように飛び上がると木箱を服の中に仕舞って慌てた。何故私に連絡がなかったのかと考えてみたが、きっと彼が私への連絡を断ったのだろう。嫌われているのに違いない。然し「直ぐに行く」と脊髄反射で答えてしまった。それからはサーフィーに背負われて鉛色の雨空を飛ぶといつもの病院に着く。たった数キロ飛んだだけでも我々の全身は濡れて獣臭かった。体を振るって毛から水を落とし、受付に病室を訊いて急いだ。意識があるうちに間に合ってほしい。消毒液臭くてやたらと自動販売機の多い廊下を歩いて、二番目の部屋を叩く。横になった先生は包帯に巻かれて、点滴をしていた。顔は殆ど見えないが明らかに苦しそうで手先が震えている。後になると顔見知りの整形外科医が入ってきて容態について説明してくれた。大腿骨骨折と右脛骨骨折、骨盤骨折、顎裂傷が酷いらしい。下半身はボロボロだが手と頭を守ろうとしたらしく脳外傷はないそうだ。私とサーフィーは安堵して二頭で喜びを分かち合った。すると先生が顔を向けて見てきた。出て行って今更何の用だと言われた気がしてならない。向こうが口を開く前に全部伝えようと饒舌になった。 「先生、私は確かに間違ってました。あの論文は論点が定まっていないし結論も緩いです。だから先生は指摘してくれて、調べようとしてくれた。でも私は貴方を拒絶して関係を断とうとしてしまった。ですが、私は先生の事が嫌いなわけじゃないんです。離れたくないし、近くでもっと学びたいと思っていますから、また論文読んでくれませんか」整形外科医の見ている所で両膝をついて深く頭を下げた。エヴァンは起き上がろうとしたが無理らしく、腕だけを伸ばして私の口吻を握る。そして上を向かせた。 「持ってきたのか」肝も怯えるような冷えた声がする。私は胃から赤い消化物が上がりそうになった。 「い、いえ。死ぬ前に謝ろうと思って来たので」 「君は私に死んで欲しいと思っていたのか」 あゝ、先生の逆鱗に触れたのかと自分の発言に後悔する。不味い、本当に絶交してしまったらきっと気を病んで死んでしまう。絶望で床にぺたんと座り込んでしまった。するとサーフィーが身を乗り出して止める。 「もうクルルを責めないでやってよ。警察官の尋問みたい。……仲直りする為に万年筆選んだんだよね? 見せてあげないと、眼大丈夫なんでしょ」 私は焦りつつも服の中にある木箱を開くと万年筆を渡した。そして次の過ちに気づく。私の名前が綴られた方を渡したのだ。どんどんと青褪めて全身の血が収縮してゆくのを感じた。末端からスウと冷えて硬くなってゆく。先生は黙って万年筆を触ると、私の名前の書いた胴を興味深そうに見た。そして指で廻しながら此方を見る。乾いた唇が動いた。 「私も悪かった。何故、相手の気持ちも考えずに責めたのだろう。私は新しい視点の研究だからこそ今の医学が発展するように、結論が定まっていて詳しい情報を書いて欲しかった」 ご尤もな言葉にしっかりと胸が痛む。それは一生の中で感じるべき痛みだった。真実を書くのだから嘘や曖昧な部分などあってはならない。特に、医学ではそうだ。私は「そうですよね。すみません」とまた頭を下げる。先生はサーフィーの顔を一瞥すると、また此方を向いた。 「二頭で来るということは今までサーフィーの家に居たのか。それは良かった」 「良かった? どういうこと?」サーフィーが怪訝そうに訊く。私も腰をさすりながら立ち上がった。先生は動こうとして激痛が走ったのか顔を歪め、また真顔に戻る。尻尾が一瞬痙攣しているのを見逃さなかった。 「家に帰るいつもの通りで事故があった。クルルは麒麟だからもっと重症になっていたかもしれない」 「そんな……」 愕然として眼を見開いていると、先生は万年筆を私の手に握らせる。 「素晴らしい万年筆だ。特に君の名前が良い」 「お揃いで先生の名前もありますよ……」 先生の手で温かくなった万年筆を握り締める。先生は上半身だけ外方を向くと首を横に振った。仕方ないので万年筆を箱に仕舞って、病室の棚に詰めておく。それからは整形外科医から下半身の骨折が治るのに二ヶ月は掛かると告げられ同意書などの書類を受け渡された。サーフィーは朝早いので早々に帰ったが、私は病室に残って先生と眠る。とはいっても先生は弟の前だからと痛みを我慢していたらしく、二頭きりになると辛そうな顔をして牙を剥いていた。なので私もなるべく寝ないように手を握ったり話しかけて眠気を飛ばした。先生は冷や汗を流して上を向いたり縮こまったりと暴れている。整形外科医に頼んでレントゲン画像を見ると亀裂が入っていたりしっかり折れていて悲惨だ。顎もやっているので話す時も辛いだろう。まだ雨脚の速い真夜中、突然先生がポツリと「君は私にあれだけ言われたのに気を病まないのか」と呟いた。私は無論否定して、先生の唇に小さく接吻をした。
素直
私が大学を卒業した頃の話だ。街は終戦祭で賑わい、ある店舗では樽を出して火酒《ウヰスキー》をそのまま配っている。私も一杯欲しいと手を出してみたが「竜に飲ませる酒はねえんだ。そこで紅茶でも買ってみたらどうだね」と肥った狐に叫ばれた。そして仕方なく料理店にでも寄ろうと歩くと視界がごちゃごちゃと色づく。いつもは枯れている街路樹に紐を括り付けて国旗を吊しているのだ。隣では子供達がそれを見てキャアキャアと声を立てていた。そんな花束がそこらに散っているような明るい時期、私は医師免許を取って就職先を決めている最中であった。毎日吐くような緊張感に襲われ、時々頭痛に悩まされる。それも、幼稚園に通って高校を卒業するまで同じ禽獣と過ごしてきた。初めて社会に出てて知らぬ動物と触れるのだ。考えるだけで胃潰瘍が悪化する。大学に入ってから友達が出来るかと思ったが、出来たとしても幼稚園からの親友には勝てない。楽しくないし心が通じ合わないと思えばさっさと縁を切ってしまう。お前は冷たい男だな、と周りに睨まれて休日は遊びの誘いすら来なくなった。 暫くすると街灯に照らされた老舗料理店が現れる。赤い看板が吊るされて色褪せた文字が大きく書かれていた。私は何だか面白くなって、壁色に同化した扉を押し開けて入ってみた。途端に、眼を疑うような内装に心惹かれてしまう。床には赤い絨毯が敷かれており、古びた壁や棚には骨董品を置いている。暖炉の上には貴族を描いた絵画があり、花瓶には薔薇を詰めていた。自分が生まれる前から動いていたであろう時計は未だ止まることなく、チクタクと針を震わせている。さてどんな輩がこの素晴らしい店にいるのだろうと心躍らせながら座席を覗き込むと、客は殆どいなかったが一頭だけ見覚えのある動物が座り込んでメニュー表を見つめている。私は近づこうかと迷ったが彼の後ろの席にしようと息を殺して隣を通った。すると彼はメニュー表から眼を離し、私の手を力強く掴む。そして興奮で熱を帯びた顔を近づけてきた。 「心外だねえエヴァン君。僕は君がこんな店に来ると思わなかったよ。何処を見ても風刺画や昆虫標本だ。君、そういうものが嫌いだろう。それに通り過ぎるなんて、友情の欠片もないじゃないか。ほら……隣に座るといいよ」 声を上げる間もなく、四年ぶりの旧友に腕を引かれた。軈て絹の張地で、花の象嵌が施された十八世紀らしい椅子に座らされる。こういう椅子は高級だが、ずらそうとすると猫脚が擦れて音が出るのであまり好みではない。私は机に寄って旧友の顔をまじまじと見た。相変わらず瑠璃みたいな青毛で豹柄がびっしりとある。髭は白くてピンと張っていた。そして喫煙者特有の黄色い牙が唇の間から覗いている。高校の時と比べて筋肉質になり、手には軍の訓練で刻まれた傷がびっしりとある。眼は相変わらず磨いたばかりの硝子みたいだった。 「……街中で火酒を配っていたが俺は対象外だったらしい。妙に腹が立って、偶には美味しいものでも食べてやろうと来たわけだ」 「フーン、君らしいな。それにしても随分と痩せたねえ。肋骨が飛び出てるんじゃないか。それくらい大学の勉強は難しい?」 悪戯っぽく笑う豹に思わず苦笑いしてしまう。獣臭い大学の食堂での思い出は口にするだけでも胃が溶けてしいそうだ。 「いいや、勉強のせいじゃない。知らない禽獣が多いと疲労で飯が喉を通らなくなる」 「意外だね。何された?」勘の鋭い旧友は私の眼を真っ直ぐに見つめて、じいっと動かなくなった。蛇さえも勝てない圧倒的な圧力に怯んだが、よく考えてみると昔からこんなものだった。 「貴族だからと発情した女に集られて、男からは嫌われて無視された」 「でも耐えて卒業したんだね。地獄だったろうに」 甘ったるい蜂蜜のような声が鼓膜を飛び交う。私は何だか暑くなって窓を開けると苹果畑をぼうっとして見た。よくあそこで走って遊んだ後、苹果を齧って帰っていた。果汁が甘くて砂糖にでも浸したようだった。いいや、砂糖なんかよりも遥かに美味しかったがあの味より甘くて美味しい喩えが思い浮かばない。今でも忘れない紅く艶やかな果実。料理よりも上手いだろうに、と思いつつ旧友のメニュー表を借りて料理名を一瞥した。肉料理が多いがいくら迷迭香で誤魔化しても昆虫肉は臭いし、魚にしても大好物のアクアパッツァは見当たらない。 「はあ、フィッシュ&チップスで」 「ええ? 此処で? 僕は蝸牛にするよ。殻が好きなんだ」 メニュー表を片付けながら笑う。私は蝸牛料理を一度思い出して、ううんと悩んだ。一度も食べたことはないが、貝類に似た味だと蛙に聞いたことがある。だが、食べようとしたことはない。 「珍しい趣味だな。パエリアにでも混ぜ込むつもりか」 ならば美味しいだろうが、「いいや、普通に食べるよ」と簡単に返事されて呆気に取られた。そして鈴を鳴らし、店員を呼ぶと素っ気ない態度で頼む。軈て雑談を交わしている内にフィッシュ&チップスが運ばれてきた。狐色で太く切られたフライドポテトを口に運んで、揚げられた白身魚も押し込む。俺にとってフィッシュ&チップスとは辛い時も人生を共にしてきた身体の一部のようなものだが、此処の店は凄い。初めて食べた時の美味しさは日々記憶上で美化され続けているが、軽々とそれを乗り越えて見せた。ふと皿の音で振り向くと、店員が大量の蝸牛を運んで此方へと歩いてくる。旧友は興奮で立ち上がって蝸牛の乗った皿を要求しているようだった。 「凄いだろう。美しいじゃないか」 和蘭芹だらけの身が飛び出た蝸牛をカトラリーで突いたりして私に見せびらかした。そして金属製の細長いものを殻の隙間に突っ込んで掻き混ぜると身がずるっと出てきた。バターなどで味付けされ泡立っているそれを躊躇なく口に運ぶと、感嘆の声を上げながら静かに震える。それを見ている内に私は白身魚の味を忘れ、唖然としていた。次々にくり抜かれて転がる渦巻き模様の残骸と汁の跡。絶品だろうと想像は出来ても、私の食欲は本能で削がれていった。一生懸命に眼を瞑ってフライドポテトを食べ尽くすと、何だか唇に柔らかいものが当たっている。眼を開けると蝸牛の身と接吻していた。 「君も食べてみようよ。美味しいんだから」 断ろうとしたが、久々に会った旧友だから仕方がないと諦める。そして当てられた身を舌で取って咀嚼すると、味わいもせず呑み込んだ。 「美味しい」 急いで白身魚に噛み付く。旧友は不満げな顔をしていたが、態とらしく微笑んだ。暫くして双方が食べ終わると料理店を出てまた街の通りに出てしまった。 「僕の家に連れていってあげようか。どうせ、暇だろう?」 「へえ、よく分かってるじゃないか。残念な事に土産は持ち合わせていない。皺だらけの紙幣なら財布にある」 古い財布を見せつけると、旧友はおかしそうに笑った。 「そんなもの要らないよ。此処からは近いから徒歩で行こう」 腕を引っ張られてジメジメとした路地裏の方を歩くと、電線の垂れ下がった危険な道に出た。壊れたテレビや洗濯機が転がり、処理水が垂れ流しになっている。もしかするとスラム街に住んでいるのかもしれない、と腰の拳銃に手を当てながら進む。廃墟になり窓硝子の割れた電気屋や狭いのに空まで高い住宅が並んでいた。斜塔に囲まれた場所だと周囲を見渡していると見慣れた珈琲屋の裏側が見える。小さな小屋が幾つか置かれていた。ゴミ捨て場から離れた噴水の近くで売春をしている少女は暇そうに欠伸をしている。狭いのに隙間からはいつもの街の裏が見えているような気がして、気がつけば最大限に好奇心を膨らませていた。 「エヴァン君もこの通りが好きみたいだね。僕も好きなんだよ。気分転換に通ると知らないものが見えてきたりするんだ。而も、雨が降っていれば蝸牛が葉の上を歩いてるからね」 地面の亀裂から生えた雑草を指差す。眼を凝らして見ると蝸牛が通ったであろう滑りが乾いて残っていた。それを見てから、ああ、私はこれからどんなに綺麗な花を見ても綺麗だと思えなくなるんだろうなと虚しくなった。俯いて歩いていると、急に日差しが増えて眩しくなる。片眼を瞑って顔を上げると芝生が広がり、多角形の複雑な家が上に伸びている。近づくと全てが混凝土で屋根も無く、上が切り抜かれていると気がついた。冷えた壁を触っていると旧友は何故か幸せそうな顔をして私を見た後、扉を開けて「どうぞ」と私を押し込んだ。部屋には絨毯もなく、窓には窓帷もない。ただ青空の明るさだけが入り込んでいる。壁は装飾すら無い白で、兎に角殺風景だ。浴室を覗いても色がない。煙もないのに咽せてしまう。唯一ある収納棚には本だけが詰められていて、小さな机には煙草の箱だけが置かれている。ソファも無い。寝室は一階にあって、扉も無く抜けていた。そして天井を見上げると青空だ。硝子張りなのかそうでないのかは分からない。青くて眩しい。寝室に置かれた洋灯は夜用なのだろうが月の光で部屋は明るいだろうと思う。 「そうだ、エヴァン君に見て欲しいものがある」 次は翼の根本から押されて階段を登らされると変な部屋に連れて行かれた。矢張、扉など無い。屍体でも見せられるのかと構えたが視界を覆ったのは無数の水槽だった。一つ一つの水槽を覗くと、円筒形で足盤で岩にへばりついたものが居た。白いもやしみたいな触手を無数に持っており、何やら蠢いていた。そんな磯巾着の隣を見ると子供も張り付いている。他の水槽を見ると、壺みたいな海綿や珊瑚が彩豊かに置かれていた。唯一、海星や縁取り模様の平虫達は可愛らしかったが他には何も思わなかった。だが、それも申し訳ない気がして感想を練り出していると、背後から毛が当たったかと思えば筋肉と皮膚の弾力が押してくる。飛膜を避けて脇下から腕を廻すと、肩に顎を乗せて擦り寄ってきた。あまりの気色悪さに磯巾着に向かって助けを求めていると背から不服そうな声が聞こえた。 「君は僕に気を遣うねえ。何様なんだろうかと思うよ。久々に会ったから仕方がないと思うけど、流石に傷ついてしまった。……うん、君の鱗は相変わらず硬くて冷たいね」 「離してくれないか。気なんて遣った覚えがない」 振り解こうと翼を動かしたが流石は陸軍だ。恐ろしい力である。このまま刺胞動物達に見られながら何かをされるのだろうか。笑い事にならない。そんな事をしてきたら私が旧友の大腸を蝸牛みたいにくり抜いてやる。私は頭を強く後ろに振り、角で頭突きすると鉤爪を剥き出して濁流を掻くように暴れた。そして尻尾を鞭にして旧友を勢い良く叩いた。力が弱まったのを確認すると、水槽を倒さないようにと廊下に蹴り飛ばす。旧友はきょとんと眼を丸くして、瞬きせずに私の顔を凝視していた。 「嘘が下手だねえ」 ちらと眼を逸らした時、一筋の涙が垂れているのが見えた。そして壁際に顔を向けて、下唇を噛んでいる。私がすまないと言えば良かったのだろうが何も言わずに階段を降りてしまった。そのまま帰るのは良くないと思ったのか床に座ったまま、ただ青空を見上げる。思い返してみるとあの時に彼の陰茎は勃ってすらいなかった。思い違いをしていたのかもしれない。淫乱な頭をした野郎だと思われたなと絶望していたところ、ぺたぺたと旧友が申し訳なさそうに下りてきた。 「ごめんね。抱きつかれるの嫌だったか」 「何で抱きついた」 腸が煮え滾っていたからか声がいつもより熱を帯びていたと思う。そして旧友は不貞腐れたように煙草を咥えると、さっと火を点けて煙を吸った。軈て落ち着きを取り戻したらしく、隣に座り込んでくる。 「腹が立っただけだよ。僕はね気を遣われるのが世界一嫌いなんだ」 「…………俺は蝸牛が嫌いだし刺胞動物にも良い思い出が無い」 「それで良いよ。言ったところで僕は君を嫌いにならないよ」 クスクスと面白そうにしているのを見て何だか嫌な気分になった。そして加虐心がくすぐられて「じゃあ、俺が君のことを嫌いだって言ったらどうする」と悪戯を仕掛けた。彼は動揺して口を開こうとしたが黙り込み、そして呟くような声で言った。 「仕方ないなって、思う。でも離れたくはないから好かれるように努力はするよ」 私は青褪めて冷え上がった。自分のした愚問に対する怒りがどっときた。そして罪悪感と自分に対する嫌悪感に押し潰される。 「嘘だ。嫌いじゃない」 付け加えるように言うと、旧友は表情を一変させてパァと向日葵のように明るくなった。此処からの話だ。旧友からは毎日手紙が送られて、返事が面倒になって放置すれば倍の数になってくる。「煩いからやめてくれ」と素直に書けば彼は黙って手紙を遣さなくなったし、代わりに電話が鳴った。虱潰しに全てのことにやるなと躾けていくといつの間にか会うこともなく、六年が過ぎようとしていた。嫌いじゃないと言ったことが発端かもしれないし、そうじゃないかもしれない。悩んでいても無駄だとクルルに相談すると「それは先生が悪いと思いますよ。責任を取らなきゃあいけませんね」と笑われてしまった。その数年後に旧友が国の上に立ち演説を行うなんて誰が予想するだろうか。そして彼が発端となり社会が動くなんて誰が思うだろうか。彼の変わった性癖を治せなかった私は医者失格かもしれないと時々思う。
Fuck
My mates are a bunch of scumbags. They're always swarming round asking for money. Like a bloody swarm of ants. ‘I've no money,’ I told them. Then they tried to rip my gold tooth out by pulling back my lip. It was the dead of winter. They stripped me and threw me onto the freezing tarmac. ‘Come on, you're joking, right? We're mates, aren't we?’ I begged, crying. But they pulled the gold tooth out without mercy. Before I knew it, the white tarmac was stained with rose petals. And I broke Stabbing and gouging the head sprawled on the floor with my pickaxe The skull Ping ping ping Is it diamonds or sapphires that come out? Ping ping ping Is it gold or silver? The fun begins after I've discarded this brain
没作品
星の薄まる朝、私は誰も居ない豪邸で目覚めた。豪邸といっても、仏蘭西貴族のような豪華さや絢爛さは無い。今横になっている寝床に敷かれた布は、真っ白で質素だが使い古されていて歴史を感じる。だが、布と真逆に桃花心木の机や椅子は新品に見えるまで磨き上げていた。 私が此の豪邸に住むことになったのは数週間前の事である。私の住んでいた山が放火されたと聞いて急いで駆けつけると、火焔に隠れていた狼や犬に取り押さえられて車に詰め込まれたのだ。其の儘、東洋の大陸を越えて西欧まで連れて来られてしまった。狸寝入りして狼の話を盗み聞きすると「麒麟の皮を剥がして売る」と聞こえたのでまさに火事場の馬鹿力なのか車の天井を突き破り、無我夢中になって街を走り廻った。手脚は傷だらけで火傷も酷く、息も絶え絶え辿り着いたのが此の豪邸である。豪邸の主である竜の医者は私の傷に包帯を巻いて、これまで色々と世話をしてくれた。そして傷が治った後も「治安が悪いから此処に住むと良い」と住まわせてくれて家事を任せられた。 その先生は最近医師免許を取ったばかりで大学病院に寝泊まりしたり、戦場に駆り出されて軍医として務めているので家には殆ど居ない。思い返してみれば、最後に会ったのは一週間前の晩餐である。私はそれから暇を持て余して毎日書斎に引き篭もり、医学雑誌や図鑑、法学や寓話の本を読み込んで欠かさず新聞を確認した。いつ帰ってくるのかさえも分からず、馬鈴薯や人参だけは買い占めておいたが一頭には多すぎる。麒麟が外を歩いていると全員が不気味そうに睨んでくるので気分も悪い。ずんぐりむっくりな鹿擬きが街を歩いて何が悪いのだろうか。西欧に来てからは毎日が兎に角窮屈で居心地が悪い。然し、良いところも沢山ある。例えば此の豪邸は書斎の窓を開けると一面が青く澄んだ海で、寝室の窓を開けると街が一望できる。何処から顔を出しても最高の眺めだ。そして先生の部屋は面白いものが沢山ある。例えば三本しか無い万年筆は全て柄が違って、一本目は白金製で淡青の宝石を纏っており、尖ったペン先には細かく花の模様が彫れている。二本目は冴えた白色に月光のような金剛石で鱗を造り上げて万年筆そのものを魚に見立てている。三本目は琥珀の万年筆で手に収まりやすい。そんな三本を硝子のペン立てに入れて、頻繁に使っている。棚に収まっている木の入れ物は提琴が入っていて、時々先生が取り出して曲を弾く。前にはヴィヴァルディの「四季」より冬を弾いているのを聴いた。先生の奏でる繊細かつ根の生えた音が耳から離れなくて今でも求めている。彼の言葉にも背筋にも似合った音が好きで、性格はまだ分からないがそのうち好きになるだろうと分かった。目が覚めて初めて彼の顔を見た時、込み上げてくるものがあった。智恵を貯めた努力の結晶とも思える眸。心の底まで傷ついて今にも崩れ落ちそうな身体を繋ぎ止める金牌の数々。先生は全員に見捨てられてきたんだろうな、と一目で分かった。それでも頭脳明晰と見て、自律し自立していた。数日過ごしたくらいじゃ全く分からないから四六時中時間を共にしたいと思う。そういえば先生の服装だが、私が見た中では緑色の襟締にウエストコート姿が定説である。洒落た姿を見た事がない。それに服を掛けている部屋を覗いてみると全て黒で、まるでお葬式だ。でも靴には拘りがあるのか白い革靴で、いつも暇があれば手入れしている。孤独かと思えば偶に誰からか分からない手紙が溜まっていたり、他国から郵便が来たりもするから彼の事が本当にわからなくなった。手紙の内容にはお土産を持って向かうとか、論文が面白かったとか色々とある。私は内容よりも色彩に満ち溢れた切手を眺めるのが好きだ。例えば鯨夫人だったり、花園に蝶々、国王陛下、薔薇と月、海の波と国旗などがある。偶に先生が書こうとして諦めた手紙の返事が出て来て腰を抜かす事があった。内容は少し陰気で「お前が俺を殺そうと企んでも俺にはお見通しだし、馬鹿馬鹿しいから早く済ませてくれないかなとも思う」という冒頭から始まり火葬の話に移り変わってゆく。その返事に繋がる手紙を探そうとしたが一枚も見当たらなかった。日付も時々ズレていて不都合な手紙だけを取り除いているように見える。もしかすると肝も冷えてしまうくらい恐しい手紙が届いて捨てたのかもしれない。封筒やらの束を棚に戻していると電話がジリンジリン鳴った。 「はい」慌てて答えると、どうも疲れたらしい鼻息が聞こえる。 「クルル」 「先生、お久しぶりです。手術は順調でしたか?」 「予定の手術は問題なかったが、寝不足で倒れて骨折した」 耳を澄ましてみると杖をつく音がコツコツと聞こえる。「それは大変ですね、お気の毒に」と心配したくもなったが、此の竜は心配されたり親切にされることを嫌っている。私は敢えて冷然と返事した。 「はあ、医者が怪我するってどうなんです。帰れますか」 「足趾骨折だから歩いて帰ろうと思う」 「迎えに行きます。怖いので」 私の良心は放置を許さなかった。彼は骨折しても助けを求めない勇敢さがあるだろうが、自分に対して優しさの欠片もない男である。先生は焦る様子もなく、寧ろ微笑んでいるようだった。 「夜、女性が外に出たら危ないだろう」 「決めつけはよくないですよ。骨折している人が出歩くのもどうですかね? 居候させていただいている身からすると、こんな事を言うのは大変恐縮ですが」 流石に嫌味がすぎたか、と心臓を揺らして返事を待つ。矢張り、先生は笑っているらしくクツクツと喉奥が鳴っていた。 「なら、帰りに二頭で酒でも呑もう」 二頭で、と強調されたので私は心の底から安堵していた。そして息を吐くと同時に言葉がパラパラと漏れていってしまった。 「良いですね。訊きたい事が沢山ありますんで丁度よかった」 「訊きたい事?」 怪訝そうに訊き返されて、あの爬虫特有の眼が浮かんだ。対面しているわけでもないのに顔の毛細血管が拡張して暑くなるのを感じた。赤面とは此の事だろう。恥じても仕方がないので素直に答える事にする。 「医学雑誌、全て読んでみました。そしたら分からないところが沢山あって」 様子を窺うようにして耳を当てると、先生は愉快そうにしていた。私が怯えているからか彼は痛快そうにして声を出して笑う。 「なぁんだ、医療に興味があるんじゃないか。弟子入りでもするつもりか」 「出来たらな、って思いますよ。尊い仕事じゃないですか」 顔が紅梅色に染まって湯気が出る。頭が沸騰してぐつぐつと音を立てているようだった。先生は「ふぅん」と感心したように鼻を鳴らして、ならば早く呑みに行こうかと話を纏めた。私は暫く身動きも取れずに顔をモシャモシャと撫でていたが、埒が開かないので荷物を鞄に詰めた。何冊か雑誌や本を入れて財布も入れる。最後に着物の袖や皺を確認すると部屋の戸締りをして鍵を閉めた。空を走りながら少し考えてみたが、西欧の酒屋に中国酒や霊酒があるわけない。私は何を呑めば良いのだろうか?
後書き「仮」
【仮】 私は周りの人を気持ち悪く感じて自分さえも卑下している故に、人というモノを書こうとすると手が震えて気が狂いそうになる。私の抱える人に対する恐怖、獰悪と思い込むその心理は心奥底に隠されていることであろう。それらは文字として書き起こされ、文の裏側に滲み出ていたり普段の口調でよくわかるものだ。 然し、畜生めが人様に手紙なんぞを贈る差し出がましい生物が此の私である。鴨嘴や面梟と鬣蜥蜴の混血とまで言われてきた私は愚かなことに筆を持ち紙に七五調の詩を書き詰めて季節の過ぎる風に乗せて友人に贈っている。返事が返ってきたことはないが、微笑みは返ってきた。大抵、真夏かクリスマス・イブに顔を合わせている。彼女も不可思議な女だ。向日葵の字が入った可愛らしい子で硝子玉みたいな眼をいつもキラキラとさせている。私、自然界における肥満の権化にとっては堪らないくらい痩せ細った身をせっせこせと動かして歩いているのだ。まるで初めて南極のペンギンを見た男のように私はひっくり返ってしまう。彼女は昔から寓話や動物、主に鳥や騏驎を描いていた。当時は私の影響だろうと推測していたが違うのかもしれない。イソップ寓話を読んで感激したのかもしれないな、と最近ではよく思う。私も「青豹」という寓話を書いているが社会を動物に喩えて書くのは至難の業だ。そして困難より先には眼も眩むほどの美しさ、絢爛さが溢れかえっていて度々私の書く世界に呑み込まれてしまう。此処が何処だか分からぬと云った調子である。こうして何万文字と修正しては撫でて読み返してきた物語は此処で、そして此を読んだ数人の心に溶け込んで泡となり消え失せることであろう。完成したとき此処にある小説は全て消してしまう。悲しいが、私の心を覗き込んだ人々が日本や世界に一人でも紛れ込んでると思えば素敵だ。 動物達は今日も、一冊の本を横眼に店を通り過ぎてゆく。 (追加) 私には恋人が一人も出来ませんでした。だからセックスやキスの味が一切分からないのです。恋の甘い味を教えてください。女の子のお尻の柔らかさとか、胸のふっくらとした輪郭の揺れる様がよくわからないのです。慈悲をください。死ぬ前にお乳を恵んでくださいまし。私は牛乳が好きなので、きっと嬉しいはずです。そして叶うことなら一つ頬にキスをしてください。それで十分です。それでも矢張り、胸を揉みたいと思います。死ぬ前には胸に挟まれ、夢見心地のまま死にたいと思います。ああ、その汗ばんだ頸、骨の浮き出た背中を舌の先でなぞりたい!! 汗の塩辛さと、骨の凸凹に私は涙を流すことでしょう! 貴方の垂らす黒い艶やかな髪は一つに結ばれていて、椿油の良い匂いがします。さあ、恐れないで。その谷間を見せてください。私は母の腹に還りたいのです。貴方の子宮へ、GO. (追加) 南極に返してください。私は南極の氷の上がお似合いです。賭け麻雀はしたいので、それだけ置いてってください。いいや酒も欲しい。ウイスキーを南極の氷水に浸して、氷の盃に注いで呑んでみたい。 こう云うモノを、世の中では贅沢者や我儘小僧と呼びます。 (追加) 胴の太い短足な麒麟が丸い蹄の跡を残して行ってしまいました。面白そうに長安の山奥をトットコトットコしています。薄紅の桃の実を手に取ると手触りが良かったので急いで齧り付いてみました。甘くて良い匂いのする果汁が垂れてきて、それを舐めとるのに必死になってしまいました。もう紙を買う小銭は尽きてしまいました。お元気ですか。 (追加) 貴方のことが好きです。骨をばら撒いてくれたら、私は急いで骨粉を舐めとります。惨めですから、どうか散骨するのならば私の口の中にどうぞ。
旋廻
私は、生まれてから人を何度も好きになって来たが、二十五回も裏切られて孤独になってきた。小説を書いたり、絵を描こうと筆に墨をつけると気分が昂るので良い。だが裏切った人の顔が頭に浮かんでは消えてを繰り返すので憂鬱である。それも思い返してみれば全員蛇だった。蛇のように長い胴を畝らせて、シュルシュルと草を掻き分け登ってくる。気づいた頃には首を絞めてきて二股に分かれた紅い舌をチラリと覗かせるのだ。あの気持ち悪い……瞼のない眼を向けて牙を剥く。言葉の刃というものがどれほど恐いものか。爬虫類みたいな人に囲まれて嘘なのか本当なのかさえも分からず翻弄されているように感じる。そうやって何度も何度も、夢の中でふわりふわりと浮かぶ憂鬱さを噛み締めて起き上がってきた。さあ今日は何をしよう? 天井を見て考えようとしたが、思考を遮る大馬鹿者が居座っていた。部屋の角に大きな蜘蛛の巣が張っていて、長い脚をした気持ちの悪い野郎が糸の上をお散歩しているので箒で叩き落としてやった。而も若干亀裂が入っており昨日の大雨のせいか雨水が垂れている。まさかと思い服を触ると全て濡れていた。私のお気に入りである狐の毛皮も濡れて臭いので先ずは天日干しすることに決めた。外で皮を広げて、こびりついた小さな焦茶色の足を握りつつ人間の皮は着るものになるかと考えてみた。人は毛が少ないから温かくないし生きてなければ膜にしかならない。矢張、生きている人こそ美しい。屍は土の栄養にしかならない塵である。 さてと、面倒事も終わったし、今日は良い天気なので散歩をするぞ。山奥の獣道を歩いて、野兎を猟銃で殺して、屍を吊るして狼を誘き寄せて殺す。ベートーヴェンの交響曲第五番をデカデカと垂れ流して、「煩いッ」と苦情を言いにやって来たやつを拳銃で脳幹撃ち抜いて殺してやる。今日は良い天気だ。何処までも広がる青空には邪魔な雲が一筋、薄らと伸びている。先ずは街まで歩くことにする。そういえば近日、気温は氷点下で朝は霧に包まれ山々は霞んでいるし道傍にある畑を見ると霜が降りて葉が凍っていた。可哀想だから、足で優しく踏んで割ってやった。葉が血を流していた。あららら。よく見てみると路上生活者の屍が変色して白黴が生えているだけだ。私は何だか騙された気分になって、苛ついて髭まみれの顔を蹴った。新品の靴が汚れてしまったのはお前のせいだ。私は冬という季節が好きだ。いつもの山は碧いが冬になると木も花も枯れ果ててすっかり色褪せてしまう。すると派手な服を着た私だけに色がつく。なんて素敵なのだろう。餃子しか魅力のない老麺屋を通り過ぎて店員の煩いことで有名な床屋まで歩くと、いつの間にか家に戻って来ていた。せっかくなので銃を抱えて山に登ると、矢張、商店街を散歩するより気持ちいい。私は不意に空を見上げた。三羽の鳶が空を旋廻して獲物を探している。翼を大きく広げてギロリと地上を睥睨していた。イラ…………。何だか私は厭な気持ちになって地上へと降りてくる鳶に銃を向けてパァンと一発かましてやった。 「俺の勝ちだぞ」 赤い鮮血をドクドクと流し項垂れた屍にそう言う。死人に口なしか、と嗤ってみるが人じゃなかった。畜生に口なしだ。ぴーひょろろろ。鳴声を真似たが上手くないので嘴を鋏で切り取って口に当てて鳴いてみた。ぴーひょろろろ。少し上手くなった気がする。ぴーひょろろろ。
自分語りにしては長すぎる
「私が小説を書き始めてもう四年になる。題名は伏せておくがサーフィー系統の物語では良い賞を貰って、次にエヴァンとクルルの外科手術の小説でも表彰された。然し過去一番の力作は評価されず、塵となって消えた。今では小説のデータもなく(而も手書き原稿用紙で廃棄物として処理されたのである)悲しみに暮れている。そもそも何処のアプリで小説を書いても評価されない。絵もそうだが一部の層にしか人気はない。生きる価値は微塵子以下だが自己満足はしている。だが読者の気持ちを考えてみると仕方ない。漢字を読むのが難しいのかもしれないし、もしかすると私の事が嫌いなだけかもしれない。それは多い。これまでいろんな女を誑かして遊んできたんだから恨みは端まで買っている。喧嘩は腐りかけだから半額で売り捌いてきた。友人の方が文下手じゃねと思っても人権作文で賞状を貰ってるから世間が大間違いしていると思う。私は何も悪くないし私の文章能力を否定する生物は例外なく、石に変わってしまえばいい。そして堆積して埋まれば良いのだ。謝るのも嫌いだし怒られても私は何にも悪くないです。常識が分からないんじゃない。常識そのものが間違ってるし、俺のしていることが違うのであれば認識と概念そのものが間違えているのです。宇宙は私中心に動いているはずですし、それは当たり前の話です。私が死んでしまえば宇宙は崩壊して銀河もパァンと砂みたいになっちゃえばいい。私は神です。宗教勧誘はお断り。私の説く教えは欲望に従って生きることです。周りに配慮をしながら欲を満たす。その為には知恵が必要なので人は学ぶと思います。色欲?どんどん発散しなさい。金銭欲?良いでしょう億万長者になりましょう。殺人欲はやめましょう。排便欲のある人は今すぐトイレへ行きましょう。仁義は大切です。我々の思っている範囲よりもっと広く使うことができますし、礼として非常に重要な鍵となります。さあこれを見ている暇な皆さんは外にでも出て風邪を引いてください。馬鹿ですねえ」こう言われたらすごくウザくないっすか? 俺だけ? いや自分の意見だけど割とウザいよね。けど自分の間違いは認めたくないし恥ずかしいから、相手を責める気持ちもわかる。嘘いっぱいついてきたし周りを馬鹿にしたこともあった。自分の無能さから目を背けて生きてきたんだ。だからこそ自己中になっていって視野が狭くなった。でも足元から上を見たら空の広さが良くわかる。井蛙不可以語於海者,拘於虛也;夏蟲不可以語於冰者,篤於時也曲士不可以語於道者,束於教也。と道理を解いた者が居るように言っている事そのままである。私はこの話通りだと井戸にいる蛙だ。確かに狭い中で生きてきて大海など知らないが、空の広さと井戸の深さはよく知っている。自分がどれだけ落ちぶれて小さな存在かわかる。それでも蛙は跳ねる。井戸から出たら大海があるかもしれないし水溜りや川があるかもしれないから這い上がるのだ。どんなに無知でどん底にいてもそこを抜けたら意外と広い世界があると思う。それに人生の半分を賭ける意味があるかもしれない。価値があるならそれは馬券を買うより良い事だ。競馬の馬なんてカーブで一気に列やら順が変わるんだから予想じゃわからないじゃないか。地道な努力ほど雨垂れ石を穿つように大きな力に変化していくと思う。競争とは全く別の自分の道に進む努力ならばほぼ無駄にならない。必需品は根性と金と友達だ。根性は周りに流されないように支えてくれる脊椎のようなもので、金は実現させる道具だ。そして友達は自分では解決できない悩みなどを打ち明けたり相談できる最高の宝だ。大体それらがあれば勝ち確だと思う。自分が自分に負けなければいい。でも友達に頼るべきだと思う。悩みや愚痴は全部吐いて良いだろう。申し訳ないとは思うが、それをしたくらいで離れるのは友達と呼べるのか曖昧だ。そういうのやめようねとかいう掟があるなら話は別だが、そんなのあるか?私は頼りまくるし頼られまくる。五時間も愚痴と惚れ話を聞かされて俺は数時間愚痴ってるんだからお互い様だと思う。このように割と限界まで頼ってる人は一部いる。学年には五万くらい借りて返すような奴もいる(金蔓で草)まぁ金の貸し借りは置いといて愚痴るとか相談は全然良いと思うしお互いそういう関係なら疲労も楽になるのではないだろうか。聞いてもらえるだけでも落ち着く奴がいるし。そんで根性は本人次第だから強く根を張って欲しい。樹木みたいに倒れず雨風に耐えて立って欲しい。金は汗流しで働いて作れば良いし学費なら親に頭を下げるしかない。ただ金については将来の自分を見据えてじっくりと考えてほしい。老後となれば孫とか周りにどれだけ金を残すとかも。まぁ金は後からでもどうにかなるが根性からだと思う。因みに私は小指を切るくらいの根性を持ちたいなという願望がある。指を落とすと痛いし、物を握る時には力が抜けるので相当な勇気がいるだろう。変な語りはそこそこにしておいて前半の気持ち悪い台詞は無しとして終わりましょう。さあ、明日は大晦日です。美味しいものをいっぱい食べて年を迎える準備を始めましょうか!
絵師
霧の濃淡に包まれる岩峰は白く、小雨に濡れた木を抱いて荒くも繊細に聳え立っている。神もうたた寝する早朝の崑崙山では開明獣が欠伸をしながら門番をしていた。虎模様に肉の垂れ下がった胴体に九つの小僧の頭が乗っている。そして鋭い爪で砂を掻いて砂埃を立てて周囲を睥睨しているのだ。私は恐れと神秘さに息を呑んだが、直ぐに太腿に力を入れて獣の眼の前まで堂々と歩いて行った。 「やれやれ」開明獣は私を見るなり溜息をついて首を振る。長い尻尾を畝らせると避けてくれた。そして古びて色褪せた門の扉が見える。 「通って良いのか。私は瑶池に用がある」 黄色い土の下に腰を下ろして落ち葉を弄った。今日は一段と尖った石が多い。開明獣は私の隣で膝肘を畳んで座り込んだ。十八個の眼が此方に向くと流石にゾォっと背筋が冷える。一人一人に名はあるのか。 「良いとも。然し蟠桃会は今日じゃ無いよ」 「いや。偶には此処の景色も書き留めておこうと思ったのだ」 見上げると霧で白いが建物が見える。屋根の美しさ、装飾の彫り物は人には出来ぬ技術である。細胞まで彫り上げたかのような花弁や蝶の翅とは比べ物にならない脆さ儚さ、此を一つの水墨画として仕上げねばならぬ。 「……今日は天気も良い。日の輪も一段と美しいだろう。きっとあそこに生えている梧桐に鳳凰が居るから挨拶してみると良い。酒があれば誘えたが」 私は肩に下げている瓢箪を片手にとって栓を抜いた。すると発酵した米麹の香りが薄らと漂う。開明獣は意外そうに瓢箪の中を覗き込むと、二度見してきた。私はそれを向けて「酒なら腐るほどある」と笑って見せる。獣は舌なめずりしてグイと九首を擡げた。 「どれ、一口頂くとしよう」 私は全員の唇に瓢箪口を当てて傾けた。獣は自分で呑めると言って瓢箪を取り上げると唇を濡らす程度だけ呑む。私は米を蒸して麹菌を振り掛けて育て上げた酒の味が気になって仕方が無かった。 「どうだ」焦って訊くと開明獣はニヤリと笑って「旨い」と頭を下げた。海の方から仙人を乗せた船がやって来るのを見て私は飛び上がると、直ぐに開明獣に礼をして門を通って行った。瓢箪の栓を戻すとまた掛けて、墨があったかなと思い出しつつ登ってゆく。すると梧桐が葉を抱いて腕を伸ばしている。上には鳳凰が五彩絢爛な翼を閉じて魚のような尾羽を垂らし、眼を細めて居た。鶏冠を立て緋色の飾り羽を首に巻いた姿を見ると圧巻である。見惚れていると蛇のような首を前に出して嘴を動かしてきた。 「景色を描きますか。崑崙山の?」 琴の弦を弾いたような声が鼓膜の中で鳴る。心臓が縮んだり緩まって血液を循環させた。血管の端々が緊張して固まっている気がする。落ち着く為に澄んだ空気を肺いっぱいに吸い上げた。 「はい。水墨画を描く為に遥々やって来ました」 「貴方は仙人を前に描きましたね」 長く細い味が見える。翼が音を立てて広がった。飛び立つのかと思えば二度羽ばたいて地面に片足をつけると眼の前まで歩いて来てくれた。すると鼻と嘴が接するくらい近づいて来る。 「鍾離権様の事ですか」 「ええ。何を思って描きましたか?」鋭い言葉に問い掛けるような口調。更に心臓が動く。胸を掻きむしりそうになった。ああ、良い答えが浮かんでも嘘を吐く気にはなれない。 「其の儘描きました。面白く腹と胸を出して髪を結び上げた仙人を」 「そして崑崙山も其の儘に描いてしまう?」 「……はい」言い返せず、答えた。鳳凰は言葉に迷うように地面の花を撫でるとまた顔を向けて二本近寄った。朱い毛と青い毛が交わって服の裾に当たる。陽に当たって煌めいていた。 「此の山には命があります。地面を触ってください。そして木の幹に触れてみてください。まるで蜘蛛の巣のように命の脈が広がっています」私は跪いて、まず土に手を乗せる。脈拍は感じないが雨の湿りと温もりを感じた。そして木に触れると生命の強さが弾力に表れて伝わる。雨や風に晒されても耐え抜いた根が地面に埋まって今でも伸び続けている。土は此の地を支える為に力一杯栄養を廻していた。 「その脈を、どう描くのですか」ポツンと吐き出すと、鳳凰は外方を向いて尾羽を広げると背を低くして羽ばたく。 「それを考えるのが絵を描くものの宿命ではないのですか?」 一言言い残すと高々と鳴いて世に朝を告げた。一斉に空の鶴や歩いている金鶏が声を上げる。いつの間にか紫に染まった雲を見上げて、私は頬を赤らめた。龍が蛇腹を畝らせ空を飛んでいる。四肢に焔を巻いて髭を靡かせて飛んでいた。角は枝分かれして尖り、朱い唇の端から牙を出している。鯉よりも枚数の多い鱗は黄金の艶を纏って、尾の飾りをひらつかせながら雲上を横断して行った。私はふと頭に景色が過ぎって、土を踏み駆ける。潔白な花からは芳香が漂い嗅覚を魅了して来るがお構いなく、森へ森へと突き進む。子鹿が水を飲んで顎毛を濡らす。母鹿は上手い飲み方を教えようと口を開いてゴクゴクと飲んだ。あら、次は泥がついている。それを見て青蛙が苔岩の上でクアッと欠伸をした。嘲笑かねと蟋蟀が尋ねると「呆れただけよ」と笑った。大きな亀の甲羅に乗って朱い紐を折り結んだ飾りをつけた少年が長い髪を風に靡かせて私を指差した。 「絵描き先生」 「ん?」振り向くと、少年の手には水晶がある。呆気に取られる私を見ると少年は可笑しそうに笑って、亀も口を開けてゲラゲラ笑っていた。よく見ると亀は髭を蓬蓬とさせて顔には皺があった。 「先生、果実があるよ」 水晶を撫でると薄紅色に膨らんだ蟠桃が出てきた。驚いているとパカッと割って差し出されたので一口齧る。美味だと伝えれば少年はキャッキャと笑い声を上げて大喜びした。 「西王母様に貰ったのかい?」齧った桃をまたガブリと行く。何をしても少年は面白そうにして、顔を真っ赤にしつつ腹を抱えた。 「絵描き先生が来るって教えてくれたから! 一番良い果実なんだよ」 「凄く美味しい。御礼にお酒があるけど開明獣に飲ませちゃったんだ、一口くらい」ほぼ減っていない瓢箪を持ち上げる。少年は首を傾げつつ小さな白い手で瓢箪の腹を撫でた。 「良いよ。それより先刻、白雉が鳴いてたよ」 「何と?」 「竹の実が実ったらしい。鳳凰に知らせてたんだ」 竹の実が実なんてなんて縁起が良いのだろうか。私は興奮して真っ赤になるのを感じながら「描いても良いだろうか」と訊いた。 「良いよ。描いたら見せて」少年がにんまりとする。私は挨拶をして亀に頭を下げた後、せっせと瑶池へ向かった。歩いていると飾りを身につけて背に香炉を乗せた鹿が通り掛かった。そして一礼するとだったと蹄を鳴らして駆けていく。その先には翠色の池が広がり、蓮の花から芳香が漂っている。神々を乗せる船は黄金を溶かして模様を作っているが軽々と浮かんで、波紋までに楽器らしい音がついて聞こえる。コレこそが……と感動して跪き、直ぐにと墨を用意して筆につけた。一つ残さず、生命の脈を感じて……染みる水、花の先までと神経を集中させる。墨の濃淡、筆の毛の向きを斜めにしてツウと真っ直ぐに引くと手が止まらなくなる。見える。網状の脈が。循環が。指先まで熱くなって到頭何も聞こえなくなった。景色、景色だけが描くごとに色彩豊かになり極彩色に生まれ変わる。金の雲よ、濃い霧よ、空を駆け巡る龍よ。竹の実を突く鳳凰よ……と感謝を告げていると鼻腔を桃の香りが包んだ。ふ、と手が止まり振り向くと天の衣を纏い髪を括り結んだ美女が立っていた。私は頭を深く下げて「西王母様」と言う。西王母様は微笑んで私の絵を見ると「美しいですね」と褒めた。 「まだまだです。未熟者ですよ」謙虚にしていると西王母様は私の瞳を覗き込んでまた笑う。奥には桃の実を孕んだ木々が茂っていた。 「自信があるように見えます。私は少なくとも良い絵だと思いますよ」 言い残して去ろうとした西王母様の背に私は思い出して声を上げた。 「あっ、待ってください。桃ありがとうございました。お酒あるので貰ってください」 瓢箪の栓を抜いて差し出すと、西王母様はゆっくりと戻って来て丁寧に酒を流し込んだ。唇の紅がもっと濃くなったかと思えば耳を薄紅色にされて嬉しそうに口許を隠す。 「ご馳走様でした。ふふ、美味しいお酒をありがとうございます」 また、微笑う。次は何度か振り返って帰りつつ桃の木の前に坐っている龍に自慢をしていた。龍には翼があって、それを大きく広げたりしながら私を見て一礼する。私も深々と礼を返した。そして絵を見ると何か足りない。思いついて桃の木と西王母様を描き出して波紋に陽の光を反射させると上出来になった。満足して紙を包み容器に入れると何だか興味が湧いて来て山奥に入りたくなった。桃の木が無い方面を歩いてみると獣の気配は一切しない。花が咲いて苔が岩を覆い、木の枝が分かれて垂れ下がっている。周りを歩いて一周しようと試みると澄んだ水が流れているのを見つけた。丁度良く座れそうな岩があったので腰掛けると水の流れている先には池のようなものがあって鯉が泳いでいる。何を思ったのかまた墨をつけて鯉を描くと、何も考えずに水の流れに紙を捨ててしまった。濡れて墨が滲んで行くのを眺めながらポカンとしていると紙は溶けて墨が黒い鯉に変化した。 「ワアッ」素っ頓狂な声を上げて岩から転げ落ちると、頭を打って痛くなる。茂みからシャランと蹄の音が聞こえた。ずっしりと構えた雄黄色の毛をした麒麟である。牛と鹿を掛け合わせたような堂々とした胴に虹色の背毛。顎からも髭を生やして巻き毛を流している。額から生えた角は真珠色の角が生えていた。短く毛の長い絢爛な尾を揺らしてやってくると私の眼の前で申し訳なさそうに水を飲んだ。 「こ、鯉が」震えながら助けを求めるように縋った。麒麟は落ち着いた様子で此方を一瞥して、鯉の泳いで行った池の方を眺める。眼は叡智を感じさせ何にも変えられぬ光があった。丸みを帯びて皮膚毛に包まれた角が此方を向いたと思えば頭を上げると弓形なので後ろを向く。そして水を飛び越えて長い毛を靡かせ飛んできた。 「画に命が宿れば動くだろう。細部まで拘り心が無になるまで真剣になった証拠じゃないか」と嬉々として告げて空中を蹄で蹴って飛んで行った。私の筆には紺の混じった墨がついて、乾かなくなっている。私は歩みを止めなかった。歩きながら素晴らしい稲穂のような竹の実を眺めて勝手に麒麟を描いては隣に鳳凰を描いて、と繰り返している。旅が終わる気がしない。コレには開明獣も大欠伸であろう。仙人と会っては描かせてもらい、果実を恵まれて齧り、もう数千年は此処に居る。崑崙山の全体を一発で隅々まで描けると自慢げになっていたあの頃の自分は何処だろうか。今となっては獣一頭を描くだけでも難しい。此の広い、物語の詰まった山をどう描こう。毎日それを考えては青雲の間から頭を出す月に問う。嗚呼、何を想うか、故郷の崑崙山に。
とある奥さんからの依頼 二
約束していた魚料理店前でスマホを弄りつつ待っていると、眼鏡を掛けた男がすぐ隣に来る。見覚えのある髪と眉に気を取られて思わず顔を向けると男はニヤニヤとして「ブルーフラワーさん?」と粘ついた声を出した。 「あっ……はい! もしかして森山、さん? イケメーン!」 飛び上がって喜んで見せる。此はハニートラップに弱いぞと思い肩を寄せてみると森山は乾いた唇を歪ませて笑っている。既に、眼が爛々としていた。 「此の店ほんと美味しいんで! 入っちゃいましょ」腕を組むと、店に引き摺り込む。木の扉を引いて開けると暖房の熱風に晒され、鰻の匂いがした。広々とある畳と木の柱があり、机の端には箸が置かれている。店員からお冷を貰ってメニュー表を見ると、香りの通り一番人気の鰻や鯛の料理があった。 「どれにしますう? 鰊は無いみたいですけど」母国でよく食べていた塩漬けも無いらしい。だが鮭はあった。森山はアルフィーの胸を凝視しつつ適当に頷く。 「うーん、悩むねえ。鰻にしちゃおっかな? ブルーフラワーさんはどれがいい?」 揺れている胸と会話しているのか目が一ミリも合わない。取れかけている気がして胸を触りつつ押し付けていると森山の目は細くなって頬肉で押し上げられニンマリとして来た。 「あー、なら鯛で! あと「さん」って付けなくて良いですよ」 「ブルーフラワーちゃん? じゃあブルーフラワーちゃんも僕の事森山って呼んで良いよ」 「森山君?」あざとく上目遣いした。昔、彼女に同じ仕草をされて騙された記憶がある。五万くらいの化粧品やらを買わされたと思えば電話で別れを告げられた。悲しい過去である。森山はまんまとそれに嵌って赤面した。縋りつくかと思えば照れ臭そうに笑って「そういえば」と切り出した。 「お酒って強い? 頼む?」乾いていた唇が濡れてきた。泡にも似たものが垂れ出ているのを見ると競馬終わりの馬が浮かぶ。色の薄い舌を出せば完璧だ。興奮気味の男を一瞥してメニュー表を遡ると酒の欄があった。 「あっ、そうそう。お酒ありますよ。弱いけど飲むの好きなので頼みましょ」 「ええ、弱いの? 強そうなのになー」 珈琲臭い息が近付いて熱を感じる。アルフィーは正座のまま後ろに下がるとお冷を一口だけ飲んだ。話しているだけで疲労が襲ってくる。咽喉を狭めて話しているからかキツイ。早く終わらせなければ……。店員に真鯛の刺身を頼むと電話が掛かったフリをして大急ぎで外に逃げた。 「はあー、本当に無理……。兄ちゃんから連絡来てないかな」 通知を見てみると一通だけメッセージが来ていた。 『ホテルに居る。部屋は五番目だ。防音対策バッチリ』 黒猫のミームを送りつけられて戸惑ったがいつものやつかと溜息ついた。そしてハッと思い出す。 「やっべえ、コンドーム忘れた。森山からパクろ」 時計を見て時間を確認するとさっさと戻った。席に座り直すとお冷の量が半分以下に減っている。たった一口しか飲んでいないのに。森山の唇はもっと濡れていた。髭までもが水滴を纏っている。アルフィーは水分補給が出来なくなった。自動販売機で水を買うべきだったと後悔したが運ばれて来た真鯛の刺身で一気に機嫌を取り戻す。 「わあー美味しそう」 長い両手を組み合わせて脂の乗った分厚い刺身を箸で掬い取る。そして醤油の上を滑らせると「頂きます!」と口に運んだ。 「お酒も頼んでおいたよ」 コトンと透明の酒が置かれた。嗅いで一口呑んでみると日本酒らしい。米麹の匂いや味が疲れに沁みて伝わる。樽から出した酒や蒸留酒と違って呑みやすい。そして旨いし香りが強い……刺身を取る手が止まらないぞとグイグイ呑んでいると怪しい目を向けられるので顔を赤らめた。 「久しぶりに呑んだからちょっと辛いですー」 「そっかあ、辛かったら言ってね?」 「はーい」 「心配だから隣行って良い?」そう言って勃ち上がると、隣に座って太腿同士が触れ合った。背中に手を回されて撫でられる。そしてバレると思ったのか脊髄反射で方向をずらすと箸で刺身を摘んで森山の口に突っ込んだ。 「お、美味しいですよね!?」 「美味しいー。フラワーちゃんって運動とかしてた?」 体の話にすり替えたなと睨んだが、天井を見て落ち着いた。 「クリケット部ですね、小学校の時はフットボールしてました」 「ク、クリ? クリケットって何」 日本でクリケットと言うのは無謀かと焦ったが誤魔化して笑う。別に間違いでは無い。ピアーズもアルフィーもクリケット部だった。 「えっと、楕円形のフィールドの中で、長方形のピッチを中心に其々のチームが交互に攻撃と守備をして、得点数の優劣を元に勝敗を決めるゲームです。野球の板バージョンみたいな」 「へえ……」納得いかないらしく片眉を上げて顎を突き出して見てくる。何故そんなに気色悪い顔が出来るのか。青髭を剃らないのか。絶対に奥さんとか浮気相手と接吻するときザラザラして不愉快だろう。酒も減って来た事だし、と仕方なく身を委ねて肩に頭を乗せた。机の下では本気で脚を伸ばして身長を縮めて見せている。 「ねえ、ホテル行きません?」到頭、強気に仕掛けた。漢は一瞬だけ目を丸くしたが首が落ちるくらい頷いて支える。 「何処にするっ? 色々あるよ」 「Kホテルが良いです〜」 「其処いつも行ってるから。もう行く?」 「う〜ん」 「あっ待って会計しといて。電話してくる」 走って出て行く背中を眺めながらアルフィーは酒を呑み干して残った刺身を頬張った。魚の硬さや本来の味が出ていて本当に旨い。身も透き通って見える。会計の額を見てうんざりしたが札を出してお釣りを貰うと頭を下げて椅子に座った。壁越しに耳を澄ますと電話する声が聞こえる。 「仕事で遅くなるから、先に寝ててくれ」 「今日は定時で帰るって言ってたじゃない」 「急用なんだよ!」ブワッと怒鳴り声が耳を劈いてきた。本当に腐った驢馬の糞みたいな性格してやがるぜ、やれやれと両手の関節を鳴らして扉をゆっくりと開けた。そして電話途中の森山にぐうっと忍び寄る。 「もーりーやまさん!」背中に両手をついて顔を覗き込んだ。 「わ、あっ!!」楽器を鳴らしたように悲痛な叫び声。同時に焦りで震える指が電話を切るとスマホを仕舞って壁に仰反る。 「あれ、誰と電話してたんですか?」首を傾げると森山はブルブルと首を横に振ってKホテルはすぐそこにあるからと話を逸らした。さあ、面白くなってきたじゃないか……。まだ賑わう日光市の路地を歩いていると土瀝青のヒビ割れた隙間から蒲公英の花が生えていた。序でに言えば月が薄雲を纏って朧に見えていて山々の影が曲を描いていて美しかった。景色を凝視するくらい彼の話がつまらなかった証拠の一つだ。空を見ながら城みたいなホテルに着くと袖を少し捲って襟を出してスッと寄り添った。 「暑いですね」襟元を見えない程度にパタパタさせる。森山は下半身を押し付けてきた。 「シャワー浴びないとねッ」 「フラフラするから一緒に入ってくれますか?」 「勿論」食い気味の返事だ。アルフィーは今すぐにでも脱ごうかと内心ワクワクしていた。お互いに軽い足取りで受付まで行くとピアーズが黒いマスクをして立っている。彼は笑う事もなく部屋を指す。五番室以外は全て在室だった。五千円で割と安い筈だがアルフィーにとっては真鯛といい無駄金を溝川に捨てているだけである。緊張と期待に押し潰されそうになりながらピンクに染まった廊下を歩くと五番室がある。周囲と見ても大差ないが壁が盛られている気がした。渋々扉を開けてみると広々としていて紅い枕が二つ並んでいる。 「広いですね」 「広いね。シャワー室あるよ」 「本当だー」服の裾を捲り上げる。脱衣室まで歩いて行くと森山がまず上を脱いだ。汚く積み上げると下着を脱いで下の粗末を披露する。赤く腫れた魚肉ソーセージを揺らしチラリと振り向く。アルフィーは華麗に服を壁に投げつけるとブラジャーのフックを外して偽の胸も捨てた。 「え?」青褪めて、口を開けたまま棒立ちしている。アルフィーは下を脱いで三本脚になった。粗末の逆は立派である。尻餅をついて四足歩行となった男を浴室まで追いやると扉を閉め切った。 「男? 嘘、何で? は? は?? おかしいだろ」粗末が縮んで粗である。漏らしそうなのか脚をもじもじさせてバタバタと暴れていた。敢えて何も手を加えずにアルフィーはシャワーのスイッチを入れると普通に髪を洗い始める。化粧が爛れ落ちると美男の顔が現れた。前髪を後ろに流すと筋肉の端から端まで洗って泡立てる。 「洗えば良いじゃん。今までシてきてるのに慣れてないなあ」 ゲラゲラ笑いながら屈んで顔を見る。森山は尻を交互に動かしつつ水と泡で滑り転けながら浴槽に逃げ込んだ。 「イッアッあああ、嫌だあああッッ」 叫び声が浴室に反響して木霊する。アルフィーはシャワー片手に浴槽に飛び込むとシャンプーを掛けて髪の毛を掻き回した。泡立って膨張してゆく。お湯で洗い流して勝手に体を洗っていると森山はシクシク泣き出していた。 「ほら綺麗にして。お尻も洗うんだったね。汚ねえから自分でやってくれる?」 「あうっ嫌だ! 俺は犯されたくない! 俺は女を抱きに来た! 俺のブルーフラワーちゃんが!! 可愛い肉便器があ!!!! どうしてくれるんだよ!? 返せよ!!」 行き場のない手をアルフィーの胸に当てる。彼はそれを払い除けて腕組みした。 「それは俺だってば。コンドーム持ってるよね。早く洗うよ」 「違う違う違う違う違うウウウ! お前は!」 「煩いな。浣腸した事ある? トイレまで走る準備した方が良いよ」 指を二本用意して構えた。片手で森山の腰を押さえて持つ。それは怒涛の勢いだ。 「何する! 何するんだよ! 助けてくれ! 助けてえええ!!!」 森山の悲鳴も虚しく、シャンプーを潤滑油の代わりに指を突っ込んだ。腹で周りを掻き回して撫でていると森山は意味の分からない単語を叫び続けている。肥えた腹の肉がのたうち回っていた。 「結構痛いでしょ。此処に俺のが入るんだよ? 信じられる?」 「信じたくない! 信じたくない! 腹痛いいい!!」お腹を押さえて仰向けになる。アルフィーは背中を支えると鍵の外されたトイレへと連れて行った。そして全部出たのかを確認しつつまた浴槽に閉じ込める。次はシャワーヘッドを外して尻に直接当てた。流れるのは綺麗な水だけだ。ずっと手入れされていない庭の雑草みたいな毛を除いて清潔である。 「よし綺麗だね」頷くと水を出し切って、タオルで体を拭きながらベッドへ連行した。ふかふかの毛布が今となっては地獄の舞台と化している。死の舞踏という曲があるがまさにそれが流れ続けているようだ。暗闇の部屋に微かな月明かりが差し込んで照らしている。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった森山は助けを求めて手を伸ばしていた。代わりに立派だが落ち込んだ物を差し出される。 「今から奇術《マジック》をします! てれれれ……」 薄い毛布を上まで持ち上げると確認してから手を離した。するとブルジュ・ハリファが聳えて天を向いている。雲さえ突き抜けそうだ。此の数秒でドバイ旅行に行けるのだから感謝して欲しい。森山はあまりの感動に嗚咽を漏らして震えていた。軈てそれは吃逆に変わって変な動きになる。 「バヒッ化け物ッッ」腐敗した桃を掴まれてブルジュ・ハリファが勢いよく貫いてくる。中で大暴れすると奥を突いて天空の楽園まで辿り着いた。森山が行くのは天国か地獄か? イエスキリストも思わず笑顔で見守る。助けてくれ助けてくれと仏に助けを祈るが、あの仏も思わず般若みたいな顔をして睨みつけてくる。鉄球を入れたみたいに煮え滾る腸の奥。大腸検査よりも辛い苦痛に耐えながら踠くその姿はまさに頭を落とされた鰻。広がった尻の中で暴れるのもまた電気鰻みたいなものだ。おっと繋がったまま逃げようとするその姿は交尾中の蜻蛉。そんなに暴れられたら困る。両手で押さえつけて奥に擦り付けると突如森山は咆哮を上げた。 「あああああああああああああああああああああああああがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」 遮ったのはピコンという通知音だ。その音が響いた瞬間、共鳴するように何度も何度も何度も同じ通知音が鳴ると同時に着信の音がリズムを刻む。批判のオーケストラを観察しようと蜻蛉状態でスマホを取ってみると十人を超える彼女(妻を除く)から激怒のメッセージが届いていた。 「何でやあああああっ????????」 叫びつつ履歴を遡ると彼女との会話履歴を全彼女にランダムで送信している。崑崙の開発した不死鳥の効果だ。男は屈辱と怒りと混乱に暮れて発狂を繰り返しながら天使と手を繋ぎ楽園へと導かれた。花畑を歩き、雲の上で彼女の顔が浮かんだり消えたりする。今日あった出来事が走馬灯のように蘇り脳の中を走り続けている。そんな八方塞がりな状況下で浮かんだのは甲虫だ。小学校の時に網で捕まえていた、甲虫。紐を巻きつけて石を運ばせていた、甲虫。昆虫ゼリーを買って食わせていた、甲虫。青春にはどんな時でも甲虫が居た。 「オオッッッッカブトムシッッッッ」 彼はカバーを鷲掴みにしたまま、掠れた声を腹の底から出し切るとぐったりと倒れ込んだ。通知音の鳴り止まないスマホを放置して。
とある奥さんの依頼 一
【そのストレス、晴らします】 そう書かれた看板が目立つ此の店は、北半球最高の諜者《スパイ》と呼ばれる従業員が依頼者の鬱憤を晴らす為に強盗から殺人、法を超えた事まで何でもする知る人ぞ知る名店である。然し諜報機関に悟られない様にひっそりと暮らし、珈琲店の隣に隠れて建っていた。そんな店から道路を横断し五分程度歩くと豪華絢爛な日光東照宮の陽明門が見える。権現造に極彩色に彩られる神獣の彫刻は従業員にとっても日光に住む人々にとっても宝であった。そんな東照大権現に見守られる此の街道は今日も宮帰りの人々で賑わっている。その代わりに店内は息を殺し、窓には窓帷をぴっしりと閉めていた。木製の椅子に腰掛けてパソコンを開いたまま長袖の男達が資料片手に悩んでいるのだ。 「コイツは参った。運が悪い依頼だ」 手を翳せば透き通って見えるのではと疑うほどに真っ白な肌をした男が金髪を掻き乱した。訛った北ロンドン寄りの英語と燦然と煌めく殿茶の眸で英国から遥々やって来た紳士だと分かる。胸にはピアーズ・ラングフォードとあり、若々しい体とは真逆に疲労で削れた精神が浮き彫りになっていた。正面に座って書き物をしているのは太陽で肌の焼けた明るい茶髪の若い崑崙《クンルン》という男だ。鼻は高く青い眸を持っていて頬から鼻までチョンと雀斑がある。スイス人だと数人が主張するが実際は何処生まれなのかは謎だ。 「運も何もありませんがね。変な依頼から国家機密異常の事までやってるんだから……やっとメキシコからモンゴルに行って中国から日本まで渡ってきたんだから文句言っちゃいけない」 当然の如く書類に印をつけていく彼に、ピアーズは舌打ちして「でもこれは酷いぜ。ちゃんと見てみろ」と紙を見せた。まず中央には森山寛人という黒縁眼鏡で三十代後半の男の写真が貼られている。下には数々の経歴と共に二週間観察した時の行動が細かく書かれていた。卸売の仕事が終わった後、頻繁にキャバクラへ行ったり知らない女と会っていたらしい。然し、森山には妊娠している妻が居るのである。そんな中で遊び歩いているのだから獰悪極まりない。崑崙は紙を受け取ると顔を近づけて見て、皺を寄せたり眉を寄せて不快そうにした。 「ふーむ、どの国にもランダムで出現するクソ垂れ野郎だ。つまり依頼者は此の妊婦の奥様という事で?」 「勿論。そして内容は男をコテンパンにして懲らしめてやれと。代わりに一千万振り込まれた」 金額を聞いて指折りに数える。四万七千ポンドくらいかと考えていると背後からガタッと物が転がり落ちる音が聞こえた。革靴の音が忙しく駆けてくると扉が開いて急いで鍵を掛けているらしい。外から女の声が壁を貫いて轟いて来た。 「お礼させてくださいっ」 扉を拳でコンコンと叩いて来る。麦藁帽子を着けた背の高いロシアっぽい顔つきの男が頬を真っ赤に染め上げて逃げ惑っていた。「いやいや、大丈夫だから!」と日本語で真剣になって叫ぶとピアーズに身を寄せた。 「あ、アルフィー。外の女ってまさかストーカー?」 素っ頓狂な声を上げて顔を覗き込む。アルフィーは麦藁帽子を叩きつけて机にあった麦茶を飲み干すと首をブンブン横に振った。 「んなわけないでしょ! オッサンがあの女性にオッサンのナニを擦り付けてたから俺がバックからしてやったんだ。そしたらあのザマだよ」 それを聞くなり崑崙はひっくり返って腹抱えたまま爆笑、大喜びしていたがピアーズにとっては頗る不愉快らしく口端を歪ませていた。外からまたノックする音が聞こえると、膨れた不満に割れ目が広がってタラタラと液が垂れて来たらしい。白い陶器のコップに冷やした緑茶を注ぐと玄関口まで持っていった。 「どうぞ」 「あのう、先刻の方は」腕に袋を下げた、茶色い制服を着た女子高生だった。モジモジと指先を遊ばせつつピアーズの目を見つめた。それから青白い頸筋や尖った喉仏を見て樹木の幹のように堂々とした脚に視線を流した。ピアーズは他所を向いて薄紅い唇を少し上げる。 「向こうでせっせと仕事してますよ。プレゼンを今日までに作らなければなりませんから」 「な、なら此を渡してくれませんか。採れたばかりの苺なんです」 袋には大粒で真紅に輝き、艶を纏う苺が六粒もあった。食べたら甘かろうと涎が出そうな気持ちになるが堪える。 「立派ですね。よし、渡しておきます」 受け取ると少し下がって頭を下げた。長い胴体を折り曲げると邪魔になるのは此の大陸に来てからよく分かっている。女子高生も小さく頭を下げて「ありがとうございましたとお伝え下さい」と微笑んだ。軈て玄関からコップを持って戻って来たピアーズにアルフィーが駆け寄って来た。 「ねえ、それ何?」 「見ての通り苺だ。お前の大好きな」 「良いね。それで此の資料って依頼? 何時予定?」 「夜が良い」 「拳銃で?」 「だとしたら何口径?」 「三十五口径」 「馬鹿、日本で銃を撃つと銃刀法違反で捕まる」 「そうなれば暴力だって駄目ですよ。そりゃ」 「でもさアメリカで似た事したよね。去勢手術だったかな? あれはアメリカの法律上大丈夫なわけ?」 「彼処は自由の国だろ。此処は神の国だ」 「なら自由の女神もいるかもね」 「じゃあ良いでしょう?」 「辞めてくれ。英国の友達にバレたら反感食らう」 「そいつ英国人でしょ? 関係あんの?」 「馬鹿、日本出身だ。而も運の悪い事に栃木県の」 「じゃあこうしよう。本人に許可取れば良いんだよね」 「まあ」 「女のフリして近づいて驚かしてやろうよ」 「……どう思いますか?」 「一千万の価値がある復讐なんだからもう少し攻めて良いんじゃないか。ぶっ飛んでも」 「んじゃあ此の作戦はどうです。アルフィーが卑猥なアカウントに扮して近づき、眼鏡男にDMを送って例のホテルに誘い込む。二人が戯れてる地獄の間に俺がスマホを勝手に操作した後にウイルスをぶち込んで機能しないようにする。ピアーズさんはホテルの従業員のフリして忍び込むとか」 「ラブホテルに英国人? 変だろ」 「最近の日本は人口減少が進んで外国人を雇う店が多いんですよ。土産屋さんとかで見たでしょ。気づかれませんし例のホテルと俺は繋がってるんで電話一本で話が通じます」 「へえ……」顎に手を添えてジッと見た。疑惑と、探りを入れるような眼差しを向けて心まで透かしている。崑崙は笑いながら手を差し出して「別に変なのじゃないんで。口先が上手いだけですよ」と笑った。 「媚び売り上手なんでしょ。そのホテルって何処?」 面倒くさそうにしているアルフィーを見て崑崙が何やらスマホをパタパタと打ち始めた。そして真っ白な城状ホテルの画像を見せる。其処にはKホテルと名が綴られ、星型の色付き具合で評価が分かる。四つ星だった。Wi-Fiは無料である。 「へえ、近くに自動販売機ある?」 「覚えてないな。どうでしたっけ?」 「通らないから知らない」 アルフィーは口を開けて欠伸すると背伸びして骨をゴキゴキ鳴らした。筋肉が服越しからでもしっかり膨らんで見える。 「行ってからのお楽しみか。さっさとアカウント作ろうよ」 言葉を聞いた途端にピアーズが椅子から立ち上がる。そして棚を漁りながら「女装だ。先ずはプロフィール画像から」とファンデーションと箱を片手に戻って来た。机に化粧道具を端から端まで詰めた箱を置くとアルフィーの顔を凝視して強引に触る。骨は太いが睫毛はしっかり長い。そして鼻が高く眉毛は弓形で少し吊り上がっている。前髪は下ろすと丁度いい長さだった。 「どう?」片目を開けて不安そうに訊く。ピアーズは肩の骨を掴んだり筋肉を叩いてウーンと唸った。 「顔は少しやって髪の毛付け加えれば良いだろうが骨が全体的に太い。脱ぐ前に悟られるぞ。腰を締めろ。そして胸を出せ。筋肉を求めてるわけじゃない」 腹を触ったり後ろに回って背の筋肉を触った。太腿に多少の脂肪はあるが、殆どが筋肉で硬くなっている。アルフィーは呆れ顔で溜息をついた。 「どんだけ上手く化けても声とか喉仏でバレるよ。胸に何か付けても腹筋がある詰め物して誤魔化すの? 割れ目に?」 「喉は服で隠せる。それに、どうせ下から脱がされるんだから気づかれるだろ。見た目だけで良い」 「じゃあ好きな感じでやってよ。てかその男の好みって何?」 すかさず崑崙がパソコン画面を見せた。其処には森山の保存した画像が並んでいる。黒髪かつ濃い口紅に革靴を履いているのが共通で当て嵌まっている。時々コメントで「〇〇ちゃん可愛いね」とか「髪の毛に〇〇ちゃんで取った出汁を絡めて食べちゃいたい」とか胃から消化液が上がって来るほど気色の悪い文が並んでいる。 「調査によると黒髪なら気にしない感じみたいだぞ。裏垢で黒髪で胸と穴があれば良いって書いてる」 「よし、染めるか。洗面所の下にあるから染めて来い」 「マジかよ、わかった」 「アカウント勝手に作り上げるからな」アルフィーの背中に向かって叫ぶと「後で自己紹介の文だけ書かせて!」と返事が返って来た。それから待ち時間で適当に紅茶を飲みつつ森山のアカウントを観察していると吃驚させられた。たった一人、妻と別に孕ませていたのだ。 「堕したらしい。いや"堕ろすように頼み込んで"逃げたのか」 ツンと針で脳を突かれた気分だ。怒りで腸が煮えるとか紅潮すると聞くが激怒を超えて胸が晴れやかなくらいだ。澄み渡るイライラ、客観的に見た本能的な拒絶。気持ち悪さ。沸点を超えて麻痺する感覚神経。指先が震えて堪らない。此の屑を去勢しなければという衝動と焦燥感に駆られる。 「ぶちかましても良いですね。気合い入れていきましょう。兎に角今はアルフィーの女装を髪の毛一本までしっかりやるんです。俺はお気に入りのウイルスを育て上げてますから」 崑崙は操作不可能になり情報が漏れ出るウイルスを作り上げたらしい。それはアルフィーとDMで会話する事により時間差で出て来る。何度再起動しても効かず、他のパソコンでアカウントを開いても逆に感染する事から不死鳥と名付けたらしい。そんな話を聞いているとアルフィーが黒い髪を靡かせて走って来た。白い肌に似合って男前になってしまったが化粧次第だとピアーズが頷く。 「どう!? 眉毛とかも染めてみた!」 黒く染まった柳眉を指差して得意顔である。崑崙が驚いているのを横目にピアーズが化粧道具を渡した。 「結構良いじゃないか。じゃあ化粧をしないと。目をパッチリさせて紅っぽいアイシャドウとかどうだ?」 「流行ってるやつ調べてやってみるから」ブラシを手に取ると紅寄りの色を選んで塗り始めた。見る見るうちに女らしさが滲み出て閉月羞花という顔に成り上がる。仕上げにと見よう見真似で紅を差すと此には二人も顔を見合って驚いた。高嶺の花か海の真珠だ。美しいと表現するには勿体無い。すると正気に戻る為なのか正気を失ったのか「じゃあ脱げ」と言い放って忙しく二階へと駆け上がる。アルフィーは渋々服を脱ぐと白い肌に薄い艶があり皮を張って貼り付けた様な筋骨の影や筋の造形が見えて来た。但し、女とはかけ離れた体躯をしている。「此の筋肉を剥がして胸を引っ付けてやりたい」と崑崙が悔しがった。軈てピアーズが帰って来ると何やら女用の服やら下着を抱えている。その中でもシリコン性で肌の色に合った物を掲げた。 「ヌーブラだ。それを貼り付けて上からブラジャーを着けろ。そして下着だ。紐だと大惨事になりかねないから少し薄いやつにしておく」 受け取って胸に付けると粘着力で剥がれない。揉んでみると胸筋も合わさって巨乳感が出ていた。其処に黒いブラジャーを着け、下着を履き替えて喉ら辺の見え難い白い服を着た。褲はジーンズで良いだろうと適当に履く。 「そういえば何で女物が多いの? そんなに俺に女装させたかった?」 「フランスの彼女のやつをパクって来た」悪びれもせずニヤッとした。 「遠慮すれば良かったな、化粧結構使ったよ。それで、声はどうするの?」 「咽頭共鳴腔を狭くして声を出すのと高めを意識すると良い。メラニー法ってやつ」咽を狭めて女声をしっかり出して聞かせた。美女らしいが見てみれば英国紳士で混乱する。アルフィーは頭を抱えて仕方ないと拳に力を入れた。 「何時間か練習してみる」 それから五時間、彼は喘ぎ声やら単語やらを女声で言い出し始めた。最初は嗄れて濁った声だったが徐々に熱を帯びた若々しさを手に入れて繭から生まれ変わる蝶の如く美しい翅を伸ばして成長した。自分の容姿を鏡で見て声の調子を合わせつつ、完成。アカウントも本人の写真を加工してプロフィール画像にしてクルルが勝手に送った。自己紹介欄はサーフィー作で【趣味は料理です。美味しい物が好きです。彼氏ぼしゅーちゅー】とだけ簡単に書かれている。森山をフォローした瞬間、見間違いかと疑う速さでフォローを返して来た。而も、仕掛ける暇もなく向こうからDMが来たのだ。 『フォローありがとうございます! ブルーフラワーさんってお料理好きなんですね。僕も好きなんです。良ければ美味しい物食べに行きませんか? 美味しい場所知ってますよ』 疑う暇もない。明らかに文字が勃起しているではないか。涎を垂らして腰巻の外し方も忘れてガチャガチャ弄りながら話しているのだ。期待を裏切るわけにはいかないと崑崙の何かが弾けて燃え始めた。キーボードを恐ろしい速さで弾く。 「わあっDMくださって嬉しいです! 是非是非! そういえば最近知ったんですけど、魚料理店華とかどうでしょう? すごく美味しかったんで森山さんと食べたいな……」 『ええ笑 いいんですか? 行っちゃおっかな? いつが空いてます?笑』 「う〜ん、そうですね、今日の夜なら全然空いてますよ〜!」 『マジか笑 僕も空いてるんで行きましょうか!笑』 途端に笑の数が増えて不気味さも急激に上昇して来た。眩暈と闘いながら一時間も会話していると、予定の時刻が近づいて来たらしい。完成体になったアルフィーがノスノスと近寄って来た。 「俺行って来るわ。此が正解だから」 自信に満ち溢れた表情は清々しささえ感じられる。仕上げとお守り代わりの熊さん靴下を履いて、革靴の紐を結ぶ。まだ足りないと文句を捨てて悩むと、ピアーズのサングラスを借りて行った。無駄と思える努力を積んでは減らして削って整えて来た完成体は格好良ささえ感じる。二人はそれを見送ると、次の段階へと準備を進めていった。