愛染明王
44 件の小説アブサンの夜
病院の受付でサーフィーは兄の居場所を訊いた。受付はお偉いさんに話し掛けられて、医師の居場所を問われた事に当惑しているらしかった。そして冷や汗を流して言葉を濁し、只管周囲を見ている。軈て、手の空いていた看護師を捕まえて案内してくれないかと頼み込んだ。看護師は厭そうな顔をしていたが案内して、薄暗い白い廊下を通って静寂の手術室前まで連れて来てくれた。手術室からは蝿の翅音のようなブゥゥゥゥンという音が鳴っている。金属っぽい手術室の重々しい扉は固く閉ざされ、電灯は赤く光っている。 「兄はまた手術を?」彼は唖然とした。看護師は気の毒そうな顔をして手術室の方を向くと「いえ、手術指導だけです」と答える。サーフィーは顎に手を添えて思い馳せた。昔、少年の頃に帰還して家に帰って来た時も居なくて、探したら手術室に篭っていた。何時間も待って、それでも出て来なくて寝転がって寝ていたらいつの間にか手術を終えた兄に部屋まで運ばれていた。 「ふーん、偉くなったもんだね。指導だなんて!」 皮肉っぽく言う。彼は眠らずに待とうと胸を張ってじいっと電灯を見た。時計の針が刻々と時を指し、宵の空になる時、チカチカと赤い灯が揺れてサアと暗くなった。暫くするとエヴァンが颯爽と飛び出して来て眼が合った。 「終わったか。勝手に待ったのが悪いけれど、待ち草臥れたよ」 思わず立ち上がって両肩を持つ。エヴァンは少し片眉を上げて彼の眸を覗く。疑惑の眼差しに、普段の姿からは想像もつかない穏やかな色が溶けている。爬虫の鱗に畝る毒々しい金属艶も、此の時だけは淡かった。 「君から顔を合わせに来るなんて珍しいな」熱っぽい頬を逸らした。サーフィーは声が裏返って、照れ隠しにへへと笑う。 「そうだよね。時間が空いたから少し話したいなって思ったんだけど、どう? 兄ちゃんが好きな緑の妖精あるからさ」 「じゃあ、行こう。先ずはアブサンで喉を潤したい」 エヴァンは気まぐれっぽく背伸びすると、靴を鳴らして廊下を歩く。消毒液独特の匂いは高い天井までしっかりと張り付いていた。鼻を押さえて突き当たりの角を曲がると窓硝子越しに裏口から動物達が帰ってゆくのが見える。その中にはオーランも居た。 「今日はどうだった? 確か、此処の病院は初めてだったよね。一般病院とは違う?」平たい沈黙を裂く。エヴァンは敢えて歩幅を合わせて歩きながら答えた。 「放射線にやられて先天性奇形の狼だった。損傷した細胞を少しずつ戻す為に両生類と同じような事をしている。だがそれでも調節は必要だから薬剤の投与と同時進行だ。また、発症していた甲状腺癌は長期間放置していると転移して取り返しがつかなくなるから先刻、金緑石が摘出した」 「放射線実験の餌食になったんだ。可哀想にね」 サーフィーが憂鬱そうに俯く。瞼の影は深々として、すうと長い口吻まで伸ばしていた。エヴァンはふと足を止めて彼の方を向く。淡い月明かりに照らされて、海のような毛が風に揺れた。階段を下りて外に出ると、生温い風がブワと吹いて全身を包み込んだ。エヴァンは言葉を咀嚼出来ず呆気に取られていた。 「実験? どのような?」 「核戦争になったときの為に放射線を一切通さない物質を開発してたんだ。兵器や基地の素材に使う為にね。それを作る為に色んな種族を使い素材を身に纏わせて放射線を浴びせた。その失敗した奴らが此の病院によく廻されるんだ。兄ちゃんの教え子達の来た地下避難場も素材に囲まれていて、地下の向こうから避難所の壁に向かってずっと放射線を浴びせて実験してたんだよ! それで、成功した。今じゃ土に埋め込んだり壁の素材に使ったりして凄い事になってる。まさか、知らなかったの?」 「……ボニファーツが俺に隠してたわけじゃないだろうな?」 螺旋階段の手摺を握る。サーフィーは「そうかもね」と哀しそうに笑い出した。廊下は薄闇で今にも途切れそうな照明に照らされている。自室に辿り着く前に仕事終わりの将校達が通り掛かった。そしてヘレッセン兄弟を見るなり青褪めて、跳ね上がって敬礼をした。兄弟敬礼を返し、少し遠廻りする。外には航空機が並べられており、海辺には厳つい艦艇が浮かんでいた。エヴァンは階段を上りながらハアと息を吐く。 「彼は好き勝手してくれるが、私や君達が自由に出来ることといえば紅茶を飲むことくらいじゃないか」 「はは、兄ちゃんは自由な方だろう」 サーフィーは可笑しそうに笑って、口許を隠した。ふと隣から顔を見ると彼の輪郭は穏やかで、油の染みた撥水の迷彩毛が美しく流れていた。淡青や紺に白毛が混ざりあって、角は硬く反って伸びており、長かった髪も少し切っている。海の父みたいだと思っているうちにエヴァンが慌てて相槌を打つと、サーフィーは照れたようにまた笑った。その笑窪にある悲哀は儚く、儚く映し出されてハラリと消えてしまった。 「……少し前からイングヴィ兄様と書簡でやり取りをしてたんだ。兄様は投資家だし不動産もしてるから多忙だろうけど、幾つも寄越してくれたよ。手に馴染む万年筆で書いた品の良い字が曲を帯びて、必ず季節の挨拶を入れている。秋には銀杏の押し花を挟んでくれて、偶に酒をくれる。軍では時間が決まっているけどお酒が呑めるからね。兄ちゃんに届けてくれた緑の妖精も彼に貰ったんだ。書簡には『お兄様と仲良く分けなさい。喧嘩してはならない』って書いてある。変だよねえ、俺達は仲悪いって思われているみたい」 彼は記憶を辿るように、ぼんやりと言った。最上階から見える夜景は、小さな星が灼けているみたいで夜の街を彩っていた。国会議事堂の宮殿に聳える時計塔は明るく、天辺には月を乗せていた。エヴァンは母國の景色に陶酔したように穏やかな表情をする。 「イングヴィ兄様は昔から物を贈ってくれる。何かお返しをした方が良いかもしれない。昆虫の銅像とかどうだろうか。ブクセン家の紋章といえば高加索大兜虫じゃないか」 「矢張り兄弟似た考えだね。実は、まだ未完成だけど、戦後に造ったものがあるんだよ」 「家でそんな内職を? 見たことがない」エヴァンが眼を丸くした。 「そりゃ隠してたからね。分かるわけがないさ」 「ふうん。君にとっては、そんな密かな趣味が面白いんだろうな」 「嫌味みたいに言うけど、兄ちゃんだって変な趣味隠してたじゃん」 「変な趣味?」思わず訊き返す。 「あの提琴だよ。母様の毛を弦にして、真夜中にヴィヴァルディの冬とか弾いてさ。綺麗な音色なのに部屋までは遠くて響かなかった。少し不気味さもあったしさ。ずぅっと変な趣味だと思ってたんだよ」 酒も入ってないのに管を捲いて舌を出すと、エヴァンが眉を寄せて困ったような顔をした。後ろ側に両手を組んで、少し年老いた紳士のような風貌である。 「そう言われても、私が好んで弾いたわけじゃない。ボニファーツやディアーノが部屋に入り込んで提琴を弾いてみろと騒ぎ立てていたからだ。それに、前に宮殿でイングヴィ兄様達と晩餐会をしていたときにヴィヴァルディの四季が流れていたから、それを選んだ」 「えっ、アイツらって協奏曲集なんかに興味があるの?」 「彼らは協奏曲に限らず、小説や長編詩、絵画から彫刻まで好んでいる。皮を剥がしてみれば薄汚い芸術家じゃないか」 薄汚いと冷たく言ったが、彼らの話をするときエヴァンの表情は優しくなる。何度も見てきたその顔にサーフィーは靄のような寂しさに覆われた。 「ふうん。独裁者って、意外に穏やかな趣味してるね」 「芸術家の中でまともな動物など居ない。必ず何処か一つ欠けている。残念なことに彼らは倫理観だな」 サーフィーは淋しそうに俯くと、水の泡が弾けたような相槌を打って少し前を歩いた。奥まで続いている長廊下は月光で白く輝いている。そんな光に照らされ、影を伸ばしながら左側の扉前でふと止まった。そして「此処だよ、俺の部屋」と紹介して扉を開ける。途端に、小さな驚きがぽんと訪れた。彼の部屋は推理に反して綺麗だったのだ。資料や聖書は纏められて本棚に詰められ、少し前に贈った万年筆は箱に整頓されている。寝床も皺一つなく、小さな机には新聞だけが折り畳まれてあった。ただ一つ壁に飾られた版画は矢守の女性で、影から柔らかそうな鱗まで繊細に色付けされている。エヴァンは部屋に入るなり周囲を見廻してみた。 「おや? 君にしては殺風景な部屋だ。一見すると整理整頓が得意に見える。昔はあんなに玩具を散らかしていたじゃないか」 天鵞絨の張られた椅子に腰掛けると懐かしそうにした。サーフィーは赤面して尻尾を逸らすと「何もかも捨ててしまったよ」とまた小さく笑う。染みついた潮の香りを嗅いで、正面にある小さな窓を見た。頑丈にされているが薄ら海が見える。月光に磨かれ澄んだ波が押し寄せている。 「そういえば海に出たのは十歳か。帰って来るまでの四年間、何をして過ごしていた?」 出された緑妖精洋盃と葉のような鉄匙を弄って訊いた。端に置かれた硝子瓶には角砂糖が詰められていてサーフィーは棚の酒を探している。棚の中には度数の高い蒸留酒が数々並んでいた。 「ずーっと、俺は艦艇の上に居たよ」 ぽつりと言って、十九世紀の花緑青のような酒を片手に持った。冷水を容器に入れて、括れた洋盃に毒々しい酒を注ぐと匙を乗せて、角砂糖を並べる。そして待つ間も無く、上からシトシト冷水を垂らして酒に魔術を掛けた。白濁してゆく様子を眺めて嬉しそうに細眼する彼を見て、サーフィーも思わず頬を緩ませる。 「怒られながら筋肉を鍛えてみたり、音波や暗礁を元に海図を作った。思い返してみると良い思い出だったな。生き残ったし、ある程度の功績は残したからこうやって司令が出来る。母様に頂いた身体のお陰で救える動物が増えるよ」 哀しそうに、それでも爽やかに海の向こうを見た。エヴァンは乳白色に染まった酒を手に取ると、香りを楽しんで一口呑んだ。香草の濃縮された風味に苦味が加わって、そこに角砂糖の甘さが溶けている。度数が高いからか鼻も頬も熱くなって酔いが廻ってきた。 「そういえば海軍の鷲が言っていた。君は物事に真摯に向き合う謙虚さを忘れない好青年だったと」 「まあ、兄ちゃんに比べたらね」 腕をだらんと下げて天井を向いた。天使のような微笑みを顔に残すが、矢張り拭えぬ淋しさがある。エヴァンは部屋をまた一度見廻してから「そうかもしれない」と返す。すると、また室内が薄暗い静寂の膜に覆われた。洋盃を持ち上げるときの、妖精の接吻みたいな音が何度かして、窓の外から風が吹きつける音が時々した。サーフィーは時計を一瞥して時刻を覚えると、積まれた箱の中から選んで机まで運んできた。開けてみると脚の節に尖った三本角をした甲虫が金属製で手作りされていた。 「凄いじゃないか。艶も見事だ、艶を出すために金属にしたんだな? 銅像だろうか。翅が開く……ほう、触角から眼まで美しい。でも銅像にしては軽いな」 高加索大兜像を持ち上げたり関節を指先で曲げてみる。重さに不思議さを感じつつも絶賛しているエヴァンを見て、サーフィーは素直な喜びを露わにした。彼は手品の種を明かすような気持ちで像を手に取ると腹側からパカンと開ける。中は貝殻に似た色で空洞になっていた。 「容器みたいなものでね、長く使えるように工夫したんだよ。後世にも受け継げるような頑丈な容器」 「何を入れるんだろうか。私は金貨しか思いつかない」 エヴァンが眼を近づけて覗き込む。角は空洞になっていないらしい。爪で叩いてみても頑丈な作りになっていた。 「金貨を入れても良いんじゃない? イングヴィ兄様ならきっと、金庫代わりに使ってくれるよ。大事なものを仕舞ってくれる」 そう答えると、エヴァンはフウンと相槌を打って細部まで裏返して見る。暫くの間、彼はその作品に釘付けになっていた。風が止んで波が静まる頃、空の月は雲を脱ぎ捨て、寒さに冴え渡った星が満遍なく広がっていた。サーフィーは一口水を飲むと、照れ臭そうに口を開く。 「提琴で四季以外を弾いて欲しいな」 滅多にない弟からの頼みに兄はもっと恥ずかしそうにした。それでも何だか面白くなったらしく微笑んで「何を弾いて欲しい」と身を乗り出す。爬虫の眼が窓外の景色を映してなんだか蜻蛉玉みたいである。 「サラサーテよりツィゴイネルワイゼンを」彼は双眼を瞑って頼んだ。 「提琴は? いつか君に渡したろう」 「あるよ」 椅子から立って、隣に取り付けられた鍵付収納箱に鍵を差し込んだ。中に掛けられた提琴は手入れが行き届いていた。薄暗い部屋の中で灯りに照らされた提琴の胴は丸みを帯びて、弦の一本一本が浮き出ている。エヴァンは弓を受け取ると、立ち上がり、膨らんだ所に顎を乗せた。首を曲げたりして調節すると、手を震わせて弦を弾きながら弓を真っ直ぐ引き下ろした。そうして悲哀を帯びて何処か自信に溢れた旋律を弾く。その弦から出される音は一つ一つが繊細で、それでも低く地を這うような音。哀を帯びた音色は旋律を走り抜けていくと、まるで薔薇が咲いたような溌剌とした色を宿した。今までの悲しげな音は、蕾が雨風に揺らされていたのだ。そして今、晴れた空の下で咲いたのだと言わんばかりだ。弓の動きは一層激しさを増して、指先も忙しくなる。旋律はどんどんと舞踊でも舞っているかのように華麗になった。また貴族が窓から街を見渡すような優越感に浸る最後だ。演奏が終わるなり、サーフィーは圧巻だと拍手した。 「兄ちゃんの音色は矢張りその曲が合ってるように見える。兄ちゃんは甲高い音が重くなるんだよねえ。でも逆に低い音が馴染んでて軽く感じる。それが逆に良いんだ。旋律の一つ一つが生きていて、まるで生涯を丸々旋律に変えたみたいだったよ」 褒め言葉がずらりと舌を通して並べられる。エヴァンは少し眉を上げて「偉そうに。評論家かね、君は」とつまらなそうにした。彼は悪戯っぽく笑ってチラリと時計を見る。 「こういう偉そうなことを言ってみたかったんだよ。面白いんだ。あっ、もう仕事に戻る時間だから、最後に渡したいものがある」 古い紙袋を手渡した。中を覗いてみると分厚い書簡が幾つか入っている。エヴァンは吃驚したのか眼を大きく開いて、細い瞳孔を向けた。 「此は書簡か。君が? 珍しい」 「赤い書簡をロースに。他は兄ちゃんとクルルのものだよ。じゃあ行ってくるから、お酒は置いたままで良い」 押し付けるような形でエヴァンに抱かせると、肩を何度か叩いて背を向けた。兄の言葉も聞かずに扉を強く閉めて廊下を歩く。鼓膜にはあの提琴の音色が粘り強く張り付いている。壊れかけの照明はチカチカと消えたり光ったりを繰り返して、軈て虫が留まると暗くなった。そうして薄闇の階段を上がっていくと、エキドナが腕に包帯を巻いて立っていた。 「もう寝る時間だよ、いつまで起きてるの」 離れた所から呼び掛ける。突っ立ったエキドナの背にある部屋は今向かおうとしているボニファーツの部屋だ。廊下の角から様子を窺う将校の光る眼や、毛が薄ら見えた。もう海軍は殆ど揃って隠れているらしい。サーフィーは背に手をやって腰から銃に手を掛ける。もしもの為に、と心に言い聞かせて彼女の前まで寄った。海軍の海鳥らは今にも吶喊せんとばかりに嘴を伸ばしている。 「寝れないから此処に立ってるのよ。青玉も?」 「大丈夫、毛布に包まればいつの間にか眠っているよ」 一歩近づいて腕を背に廻すと、頬を擦り寄せた。彼女は片手を添えるようにして、雨粒のような涙を流す。綺麗な楔石のような眸に蹌踉めいた。彼女はそれでも真っ直ぐに見つめて口を開く。 「ライラが、研究所が蛻けの殻になっていたと言っていた。動物も研究に使う水瓶も薬品もスッカラカンだって。ヨルガン方面にある……核兵器の研究所もそう。私、一日抜け出してペランサに話を聞いたり陸軍を廻ったんだ。聞けば聞くほど腹が苦しくなるくらい青豹は悪いことをしていた。殆どの犬科を排除したし、狼は姐さん以外もう國内に居ない。そして、大量の工作員を送った。それに地下に設置した兵器が起動したら地中を掘り進めながら炸裂するから青玉も天青石も動けない。後、青豹が自決してもどうせ陸軍の誰かが装置を押すから意味がないって」 「いいや、意味はあるよ。自分のしたことを少しでも悔いたということだから彼の印象はマシになる。それに、兄ちゃんだって此の監獄みたいな所で働くより北欧に行った方が為になるのだから。どちらにせよ、紅玉は関係ない。部屋に戻ってくれ」 彼は眼を瞑り、敢えて強い言葉を放った。彼女は叩き落とされた蝿よりも呆気に取られた顔をして、また深い悲しみを抱いた。角を向けて一度突いてやろうかと構えたくらいである。然し、膝が踊って動けなかった。曲がり角から海豚が駆けて来る。 「海軍こそ、関係ないでしょ」 「エキドナ、手紙なら部屋に置いてるから。読みたくなければ良いよ。俺行かなきゃいけないんだ」 「何で、どうして」 涙を滴らせて言葉一つ一つを吐き出した。サーフィーは顔を合わせずに窓硝子の向こうを向いた。其処には昔から変わらない、墨色の紙の上に金粉を散らしたような景色が満遍なく広がっている。彼は此の故郷を愛していた。兄よりも愛して、何度も記憶の蓋を開けてきた筈だ。 「だって、もう戦争にはなりたくないから……」 そう言って、彼は海豚に彼女のことを頼んだ。彼女は抵抗せず、黙って受け入れると扉の前から渋々離れていった。隠れていた部隊の動物達は胸を撫でてふうと息を吐いた。
白鷺
夏頃になると、白鷺の群れが空を覆う。そしてザアッと押し寄せる濁流の河を通り過ぎて古い樹の上に留まるのである。木の上に留まっている白鷺らは、その美しい白毛に首を埋めて長い嘴を此方に向けている。そうして此方を窺っている間に、沢山の鷺達が翼を広げて飛んできて、木の枝を足で掴んで留まった。中には忙しく翼を広げる鷺も居れば、うとうとと微睡む鷺も居た。人々は彼らを舂鋤と呼んだり、雪鷺と呼ぶ。それでも、私はあの風貌を見て思わず白鷺と言ってしまうのだ。ワサワサと動く彼らを見ていると陽が射して、濛々と上がる温泉の煙を照らした。途端に覗いた青空は瑠璃のように磨かれて街全体を澄み渡らせている。水溜りに反射したその青さ、何処迄も広がる冷たい色が映って心の悪意が流れていった。濁流に流れてザアザアと。そうして愉快な気持ちで鷺達を見ていると、突然、鷺が翼を広げて脚を伸ばした。そして鏡のように透き通る水面に細い足をつけて屈む。白鷺は首をSの字に曲げて縮めると、魚を見つけて嘴で咥えた。そして上を向いて丸呑みし、満足そうに水面を歩くのである。私はこれほどに鷺が自由奔放な旅人だと思ってもいなかった。肩を吊り上げた鷺達はバラバラと並んで魚を呑んでは、田を散歩したり木の上で休んだ。その隣には胸毛を伸ばした青鷺が留まり、怪訝そうに白鷺達を見下ろしている。隣にいた、嘴の黄色い白鷺は何やら不愉快そうに彼を見た。青鷺は硝子玉のような眼を向けて、青い濃淡の風切羽を向けた。 「グアッ」そう嘲るように鳴く。白鷺は厭そうに外方を向くと、翼を広げて飛び去っていった。また青鷺は「グア──」と鳴いて此方を向いた。青鷺は両瞼の上から紺の毛が流れており、ピンと飛び出ている。首も斑模様で、処女のような白鷺とは大違いであった。そうしてまた彼は灰の翼を広げて川へと両脚を向ける。彼は白鷺の群れを脅かして魚を食らった。なんとも傲慢な、愚かな鷺なのだろうか。苛立って爆竹を取り出そうとしたが、白鷺の純粋無垢な眸に心を打たれて手を止めた。軈てある絵を思い出す。それは葛飾北斎の描いた一筆画譜の中にある群鷺という鷺の絵で、一羽一羽の個性がよく現れているのだ。まさにその景色が今、眼の前にある。雪のような白い毛に包まれた天の遣い達が、謙虚にも木の上で眠り、川で魚を呑んで暮らしているのだ。
IN SINGAPORE 5
「じゃあ俺帰るわ。仕事が残ってるからなぁ」 根津がそう突拍子もなく言って荷物を担ぐ。博戸は慌てて止めようとしたがサムエルはさらばと英国風に言ってその場で別れた。 「変ネ。協力シテモラウノデハ?」BTが不自然そうに溶けた顔を支える。「そうだよ、私は彼と話すことがあったのに」と博戸も動揺を隠せぬ。サムエルは言葉を無視して義眼を嵌めると何度か瞬きした。 「私が頼るのはかの鼠ではなく、彼の会社です。私はBTさんや博戸さんの弱みを握ってますが、彼の弱みを握ったところで彼の心身に傷をつけることは難しいので私としても考えたいところです」 大きな欠伸だ。 「どういうことだよ。弱みだって?」と彼は思わず眼を見開く。隣でBTは話も碌に聞かず林檎飴を貪っていた。そしてサムエルはスマートフォン購入をした後に買った楓糖蜜の掛かった薄い培根を頬張る。 「BTさんを此処に輸送した組織は先刻私が襲った組織ではないわけです。此の小説を推理小説にするのは私も厭なので、簡単に説明しましょう。BTさんの殺害した二人組は亜細亜人男性で、博戸さんや私を殺そうとしたあの厳つい人々と協力関係にあるとする。此の地区担当というわけではなく、各地を転々としているわけです。と言ってもまぁ、つまり渡り鳥のようなものだ。そんで、その渡り鳥に覚醒剤を安く売って大量に買ってもらう墨西哥の暴力組織であり麻薬輸入組織。それらと鉢合わせたわけです。まぁ二人組を殺している時点で混乱を招いたでしょうけど、私がその組織を潰したから暴力組織の利益は〇どころかマイナスですねえ。指名手配になった利点としては基本的に犯罪でも何でもやり放題、ということですかな」 咀嚼音で内容が掻き消されたが、動物特有の鋭い聴覚で聞き逃さない。博戸は手を振って「いやいや」と苦笑いを浮かべた。 「私はそういうのに消極的なんだけどなぁ。サムエルがそうやって処刑を繰り返したところで世界は変わらないよ」といった具合に真っ当な事を言う。BTがそれを聞いて北叟笑んでいたがサッと口許を手で覆って誤魔化した。然し手が結晶化して隙間から見える。そんなBTを見てサムエルが眼鏡を爪でずらした。 「BTさん、貴方には決まった形がありませんよね。でも貴方が行ったことの全ては歴史に刻まれて変わることはないんですよ。それだけは」淡白に、少し病弱そうな声を出した。 「変ワラナヰ? デモ過去ノ記憶ハ今ノ解釈デドウトデモ変ヱラレル」 BTがぼんやりと呟く。博戸は果実の炭酸を知らない老紳士から受け渡されて苦い顔をしていた。危ない匂いがするからと道端に置いて帰る。 「解釈が変化しようと事実は変わりません。罪を重ねれば他人の人生を奪ったり汚してでも存在した記憶が強く残ります。そうやって大罪を犯した独裁者や犯罪者は、後々喜劇映画に変えられたりして子供達にも印象に残るわけです。同時に被害者もね、特にイエス・キリストだってユダに裏切られて十字架に架けられたから有名になったんでしょう」 「屁理屈言われても困るね。君はそう受け継がれるほどに偉大な、大胆なことをしたかい」 少し苛立った博戸が割り込む。すると彼は懊悩し間も無く「羊飼いの美男にとぷとぷ油を注いでやりましたな」と言って高笑いした。 「其レヨリモドウスル?」話題をすり替えるように博戸の肩から触手のような、菌類の先端のようなものを生やす。博戸は毛を逆立て飛び上がる勢いで吃驚していた。サムエルは腕組みして迷う。 「取り敢えず、見た目を変えましょう。博戸さんは真似生物とはいえ何だか面影があるし、うーん。真似する対象がなきゃ難しいですよねえ。ちょっと待ってて下さいな」 スマホを漁って指の腹で操作をすると、写真集を見た。昔にと遡ると一人の男の写真がある。短髪で眼が吊り上がっており、肌の白っぽい男で体は骨も太く筋肉質だった。 「ほうら、佐藤恭介っていう防衛大学校の学生です。知り合いで」 「良いけど……向こうも真似することくらい予想してるんじゃ……」 写真を凝視しながら外方を向く。その頃には家に着いていたため部屋に入り込んで戸締りした。 「真似できる、それは世の中に居る八十三億人近くの人々のうち誰になるか予想が出来ないということです。仮に博戸さんが八十三億人の中で無作為に抽出した人を完璧に真似たとすると、連中も判断がつかないし同一人物が二名になるということなら本人を殺害すれば一般社会に自然に溶け込めます。そしてこの事件は不可解なものとして片付けられるし、都市伝説程度になるでしょうな! 梶原友美も良いけど」 「何デ個人情報ヲソンナニ握ッテルノ?」 BTが不可思議そうな顔をする。結晶化している部位が段々と柔らかくなってきてシリコンのようか弾力を持ち始めている。眼の位置が少しずつ動き、元の位置に細胞が集まって再生してきていた。 「まぁまぁ。それでBTさんは紳士っぽくなってくださいね。それで私と腕を組むんです」 「何ソレ、厭ダヨ……」 ぶるっと震え上がる。そうしている間に博戸は振り返って顔を見せた。む、写真と瓜二つではないか! 流石は真似生物と称されるほどの腕前である! まア、そういう種類の生物だろうが腕前は良いわけだ。 「変えたけどサムエル君はどうするんだ?」 「梟鸚鵡《カカポ》に成りすましますよ」 真紅の絹布を被って博戸に捲ってもらうと梟鸚鵡に変化していた。義眼までもが再現されており誰かわからない。飛べない、肥えた鳥だからBTの頭の上に乗った。そして情熱的な求愛踊りをしてみせる。 「フーン、賢明ダネ」BTが嘸かし不機嫌そうに言った。 「腕が落ちてますよ」と梟鸚鵡の指摘が入る。BTは腕を拾って「ヱ、丫,シマッタ」と額を押さえた。 「周りから見たら体が服ごと砂みたいに崩れるグロテスクな光景だよ」 博戸がまた押し付けられた大麻の葉巻を捨てて言う。近くの老人はそれを受け止めて黄色い歯を見せニヤニヤとした。BTが蹴りを入れると薬の混じった消化物を吐いて恨めしそうにする。 「これで、根津さんの会社に行くわけです」フフと笑った。 「うん?」思わず博戸が段差に躓いた。 「同じ飛行機に乗って日本《JAPAN》に行き、それで詰めに行きます」 「日本ダッテ? 犯罪ニ厳シイヨ」 「と言っても、人によるがねえ。最近は移民が増えるわ税金が上がるわ」 「色々あるのは何処の国も同じでしょ。英国や仏蘭西に住むと貴方死んじゃうかもしれませんね」サムエルがあははと笑った。 「かもね」博戸はそう答えると裸体になり、鏡と写真を見比べて調節した。閉められた窓帷から漏れ出る光に照らされ、影はクッキリと喉から胸、筋肉の間まで流れる。面影を感じないまでに真似るが、声や性格などの情報がないので風貌だけになった。そんな時である、サムエルのスマホから日暮の鳴き声がした。 「あ、電話」と応答を押した。電話越しに鳥の鳴き声や叫びがぎゃあぎゃあと聞こえて物の落ちる音が度々響いた。サムエルはまだ腹が満たされないのか卵を割って眼玉焼きを作りながら耳を傾ける。ジューっという音と共に美味しそうな匂いが充満した。そして胡椒をふりかけて半熟くらいになるとパンの上に乗せる。そして黄身を潰して齧りついた。きっと彼の胃は銀河より広い。 「……はい、はい……あゝ、ごめんなさいね、そうでしたか。……はい、ご冥福をお祈りいたします。……うん、はい、そうですな、葬儀ですか? 参加出来そうになくてねえ、すみませんねえ。東洋に居るんですよ、ナァニ、すぐ帰ってきますさ。ピスキスがねえ、彼と仲良く話をしていたんです──もうこの場に居ないがね! ほう! そうですか。金ですかな、ありませんねえ私貧乏人なもので……向日葵の種を手向に行きますさかい……ん? はあ、そうでしたか。君達の餌ですか。ウーム! すみませんねえ貧乏なものでね。鶏の餌でも持って帰りますから待っててくだせえませ。む? そいつはいけませんねえ。彼? あっそいつは博戸さんですね。連れて帰るかって言われても……どうかなあ。ラスベガスの賭博場に行く予定なので帰りにちょろっと寄るかもしれませんな。え、来ますか。渡り鳥ならどうぞ。まぁ羽根を切られてるから無理でしょうね! だっはっは! あら? はあて道化師がタッタカ訪ねてきて鳥相手に姦淫ですって! 阿呆鳥も驚愕だ! きゃつは淫乱で畜生如きに腰振ることしか能のねえ屑です。諦めたまえ友よ。孕まぬ種に犯される気持ちを味わいなさい。ウーム、そんで手紙が? あゝ、すみません。貴方の近況なんて興味がないんですよね。手紙ね、手紙。あら珍しい、中国而も上海ですって? 私に上海の友なんて居ませんけど……。あ、そうか。ピスキスの爺やですよそれ。私からすると息子のような存在で……ええ、新西蘭に引っ越す? 濠太剌利にしとけとお伝えくださいな。ほんなら、宜しく頼みますよ」 皿洗いが済んで、愛想笑いする。手伝いつつ会話を盗み聞きしていた博戸は少し面白そうにして訊いた。 「また怪体《ケッタイ》な関西弁混ぜ込んで……どうしたんだい」 「言ってもわかりませんよ」とサムエル。 「解ル」BTが頬を膨らませた。その頬が膨張して風船みたいになると音を立てて破裂する。また博戸は飛び上がる羽目になった。 「鳥から電話が掛かってきたんです。色々ありますが、簡単に言えば鳥がザカリアを殺したわけです。理由は単純、鳥人が鳥を見下しているのが許せぬというもの。無論、私からは言い返せませんな。むしろ、鳥人という汚れた種より野生の鳥達の方が高貴ですから」 「解ラナクナッタ。臆病鳥ガ鳥如キニ殺サレタ? 噓ダア〜」 「鳥籠から脱走して、一斉に肉を食い破ったんですよ。彼らは私が大量に保存している羊肉や畜生の肉に果実の種を糧に生きているそうです。あの家は居心地がいいから住んでるらしいが、因果応報ですよ」 はあーっと溜息をつく頃には無花果を切っている。また貪って向日葵の種を詰め込み始めた。まさか冬眠でもするのだろうか。 「それは悲しいことだが、君達鳥人って何処から来たんだ?」 博戸が顔を整えて訊いた。するとサムエルは聖母マリアのような微笑を含んで、眼の奥に悪戯心を宿らせて答えた。 「──ま、風刺画から飛び出たとでも言っておきましょう。私は奇術師で夢を見せる鳥ですから……」
IN SINGAPORE 4
外でコーエルと鬼郭公が鳴いた。高い樹木の枝に立って黄色い嘴で葉を弄る。そんな朝一番に眼覚めたのは根津で次はサムエルだった。博戸は傷だらけで体を起こす気力もなく、BTは深夜に遊び疲れて近くで溶けた。 「お早よう御座います。お腹が減りましたな。あとで作ってくれませんか。私は買い出しに出掛けますんで」 徐に帽子を手に取り被る。義眼は外して机に置いていた。根津は少し意外そうに「俺が作るのかぁ……」と言う。その隣でサムエルは毛繕いして嘴を鳴らした。 「蜚蠊って好きですか? 中身の白い身をソースにしてみては」 「汚ねえ、ウエッ」 茶翅を引き千切ってぶりぶりした身を出すところを想像して胃液が込み上がってきた。根津の顰めっ面を見るなりサムエルは哀しそうな顔をして背を向ける。 「あら、嫌いなようですね。そんなら、別のもの買ってきますんで珈琲でも飲んで待っててください」 そう微笑むと扉から朝の街へ出て行った。根津は彼の腰に差された短刀と拳銃を記憶したが気にせず、言われた通り珈琲を注いだ。多分、伯剌西爾の珈琲豆だろう。風味が独特だが比較的まろやかである。半分飲んだくらいのところでやや中性的な風貌のBTが飛び起きて博戸の背中を平手打ちした。 「朝ダヨ! ハクト起キロ! 昨日ノネズミ! サムヱルハ?」 「あいつなら買いもん」 グイッと洋盃を傾けて言う。博戸は電流を流されたような激痛に飛び起きて機嫌悪そうに背中を撫でる。 「うるさいな。背中痛いのに叩くなよ」 「火疵?」服を捲って訊いた。 「そうだねえ。サムエル君が居ない間に爆竹で派手にやられたよ。BT君は一体連れて行かれて何してたの」 「男二人ニ叩キ潰サレテ、詰メラレテ冷却サレタ! 拳銃ヲ使ッテ人ヲ撃ッテタカラ何カ訊ヰタラ教エテクレテ、待ツヨウニ頼マレテタ。アナタタチノ事ヲ訊イテミルト男ガ『殺スカラ安心シロ』ッテ云ウ。ダカラ私ガ拳銃デ殺シタ」 「それって不味いんじゃないかい? もしもバレたら私達が共犯になるだろう」 「今更だろぉ? あの鳥、何人殺してんだ。指名手配されてるしな」 「多分、五十人は殺してるよ」 乱れた髪を掻いて伸びる。服を着替えたり歯を磨いているうちに上機嫌のサムエルが帰ってきた。背中の抉れた羊の屍が四頭、担がれて運ばれてくると数々の野菜果実や昆虫を袋に詰めたピスキスがやってくる。ピスキスの顔は熱で紅潮し、湯気が出ていた。 「いや、何というか相変わらず物凄いねえ」 顎に手を添えて屍を物色する。やけに大きくみずみずしい野菜達は艶があり良い匂いがした。昆虫類も生きていて、蟋蟀から飛蝗に幼虫まで肉付きが良い。わなわな震えるピスキスを放置してサムエルは背広を脱いだ。いつもと高まって真っ黒い襯衣は血に濡れても構わぬという決心を示していた。 「羊肉です。私は此の儘食べますから皆さんはピスキスの持ってきた食材でどうにかしてください。料理鼠は根津さんです」と鉤爪を向ける。ピスキスはサムエルに乗り掛かって引っ掻くと猫拳で打撃を加えた。 「あれだけ苦労した私の分も作ってくれるよな!?」 「帰っていいぞピスキス」 「顔見られたのに帰れるわけないだろ! 人の眼を盗んで羊を殺し業者のふりして担いで。その間に俺が野菜や果実を買いに行く! 何人かに見られたわ! お前のせいで人生ぐっちゃぐちゃになったんだぞ」 「キーアー」サムエルは鋭い鳴き声を上げるとピスキスの頭蓋骨を鷲掴みした。そのまま窓から投げようとするので博戸とBTが押さえつける。ピスキスはその扱いに慣れているらしく余裕の表情だった。 「鳴き声で誤魔化すな! 其処のなんか薄汚い溝鼠なんとか言え!」 「良い野菜だなぁ」 膨らんだ伊太利亜産の蕃茄を片手に見廻す。チーズさえあればピッツァでも作れそうだが窯がない。ピスキスはサムエルの顔面に猫拳を入れて眼玉を引っ掻くと根津の眼の前に立った。 「そりゃあ勿論! 新加坡の食材は世界一! どっかの国と違って衛生面もばっちりだぞ! えっへん。褒め称えろ」と胸を張る。根津は顔には表さないがにこやかに誘い込む。 「偉いなぁ? ところで職を失いそうなら是非とも……」 「こら、勧誘はいけないよ。サムエル君が悪いんだからね」 眼をギタギタにされたサムエルを肩で支える。サムエルは片眼を押さえてケラケラ笑った。 「お腹が減ったからいつも通り羊を殺しただけです。普通の深山鸚鵡ですよ」 「倫理観を持ち合わせない職なし外来種め!」 悪化した悪口を投げつけた。然しサムエルは飄々として寧ろ面白そうである。 「低賃金長時間労働の社畜ですからね。私のことが羨ましいんです」 「まあまあ、お腹減ったから食べないと」博戸が手を振って何とか椅子に座らせると根津に擦り寄った。 「大丈夫? 私が手伝おうか。洗うのと切るのだけね」 「そうしてもらうか」 根津は笑って龍眼を投げた。榴蓮や菴羅に鳳梨がズラズラ並んでいる中、言われたものを選んで蛇口を捻る。そして泥や虫を落としていると(肥った幼虫はサムエルが咥えてピスキスに口移しした)根津は渡された果実を神経質そうに見て指差す。 「おい。此処に泥がついてるぞぉ、ちゃんと洗え」 爪の垢程度の泥だが、彼の性格だろうかと博戸は見上げて「本当だ。ごめんね」と謝り洗い直した。一方でBTに羊の皮を渡して遊ばせているサムエルが居る。もう腹が満たされたのか余った肉はジップロックに詰めて保存していた。ピスキスは口を檸檬で洗い流して窓から吐き出している。博戸は気にしないように心掛けて野菜を切り分けた。するとまた隣から声が入る。 「間隔が一ミリズレてるじゃねぇか。ちゃんと切れぃ」 「ズレてる……?」ほぼズレてないが、と思って根津の手元をみると綺麗に並べられた飛蝗の脚と翅が見えた。確かに一ミリもズレてないが変な気持ちになる。軈て眼玉の大きい頭や触覚も取られて置かれた。見入っていると割箸で頭を掴んで「そんなに食いてぇんならやるぜ」と差し出す。博戸は遠慮すると蜜柑を見つけ出して一口齧った。野菜類を盛り合わせて果物を添えて、と根津が細かく並べた。ドレッシングに柑橘類、唐辛子などの香辛料などを合わせて葡萄酒を混ぜると煮てアルコールを飛ばし絡めた。BTに味見させると美味いらしい。ピスキスはBTに驚いて腰を抜かしたのでサムエルが近くのゴミ捨て場に捨てに行った。 「博戸さん方、後で神経衰弱しませんか」 苦瓜を摘んで言う。博戸は身を捩って「ババ抜きが良いな」と答えた。 「じゃあ負けた人、人じゃないか。所持金の半分下さいね」 人差し指と親指を交わせてチップを手で表す。BTが頬に手を添えて溶けた眼を細めた。 「所持金ノナヰ私ガ負ケタラドウスル?」 「うーん。そうですねえ、博戸さん、どうしましょう?」 「まさか私に……」さぁっと冷めた。根津はクツクツ笑って同情の声を掛ける。盛られた料理は机に置かれて、皿上に並べられた上品な昆虫らもソースやらが絡められていた。味噌が合うだろうが味噌が近くに売られてなかったので仕方がない。ピスキスも西洋料理で育っているので和食の調味料を知る由もない。それぞれが合掌したりして箸で食べ始めた。両者、鋭い牙で噛み潰して食べる中、BTは思っていたより行儀よく、吸入するように食べていた。食べ終わる頃にサムエルが口を開ける。 「私が勝ったら日本に行きませんか? 沖縄県に行きたい気分です」 「指名手配されてるって」博戸が飲み込んで言った。 「人間の博戸さんって猫の博戸さんに影響ないんですよね? じゃあ整形すれば良いんです。根津さんも裏の組織と知り合ってるようですし協力してくれますよ、させますよ。BTさんだって変形できるから入国は簡単です」 「じゃあ俺が勝ったら此奴貰うからなぁ?」 「ヱ! ナラ私ガ勝ッタラスマートフォン買ッテ!」 「賭博場連れてってね」 「よし。良いですね」と掌からトランプ・カードを出してシャッフルすると一人一人に滑らせた。被ったカードを捨ててやると時計廻りに博戸、根津、サムエル、BTとなる。博戸は眼のトランプ・カードを捲ってポーカー・フェイスすると根津の真ん中にあるカードを摘んだ。根津は死んだ魚みたいな眼のお陰か表情がわからない。瞬きしていないようだ。引いたカードは幸いスペードのエースだった。根津は振り向いてサムエルのカードを迷わず引く。それは肥った道化師の描かれたジョーカーだった。若干汗が滲んだ。博戸が引けば良いだけの話だ。サムエルはBTの顔を見て嘴を鳴らすと、端を引いた。お、二が揃ったから捨てられる。BTもルールが分かってきたらしくすぐに博戸から引っこ抜いた。博戸はジョーカーを持っている疑惑を根津に向けて、カードを引くのに少し悩んだ。 「おーい、どうしたぁ? 引かないのか」 「焦るってことはジョーカー持ってるんだね?」 左寄りのカードを引いた。ハートのキングだ。揃ったので捨てられる。図星を突かれた根津は表情を変えず、斜めにされたサムエルのカードを引いて見てみる。クラブの九だ。二枚揃って捨てる。サムエルもBTのものを引いた。ダイヤのエースだ。もう一度捨てる。一番少ないBTは博戸からスペードの五を抜き取った。こうして淡々と続けているとサムエルが口を出す。 「暖炉の前で遊ぶと火が燃え移るかもしれませんねエ」 「火?」博戸が青くなる。そうして選んだカードはジョーカーだった。 根津は内心落ち着いたのか少し力を抜くと、サムエルから引く。博戸はそれでも放心しているようだった。 「テンサ、此ノ暖炉ニ火ハツヰテナヰゾ。惑ワサレテル」 「BT君って時々すごく冷然としてるよねえ、サムエル君のお陰で少し不愉快になった」赤い口を開けてカラカラ笑う。根津はその様子を眺めて怪訝そうにする。またカードを引いて、と同様に繰り返した。BTがカードを投げて「アガリ」と一言。サムエルは苦笑いした。次に根津が上がったので博戸と根津の一騎打ちになる。最終的には慈悲かサムエルが負けた。仕方なくBTに一億五千万渡すと林檎会社のスマホを今度買いに行こうと約束した。
IN SINGAPORE 3
部屋の隅々を探しているのに居ない。見つけるのには流石の根津も骨折った。なんと塊になって瓦礫に紛れていたのだ。而も口も塞がっており意識もないらしく、相談の結果、サムエルが鞄に詰める羽目になった。 「不思議ですね。此の塊触るとあったかいし、心臓の拍動が伝わるんですよ。持ってみますか」 掴んだ肉塊を向ける。博戸は眉を寄せて口角を下げた。 「私は遠慮しておくよ」 「俺も。あ、待て。お前ら近寄るんじゃねぇぞぉ? 薄汚え体してんだからな」根津が厭そうに数歩下がる。脆い床がぎしぎしと音を立てた。忽ち天井から細かい石や砂が落ちて来て被る。脊髄反射で眼を瞑ったが、砕かれた破片が入ったらしくジリジリと痛み悶えた。サムエルは掌からペットボトルを出して根津の眼に注ぐ。 「鼠とかいう衛生害獣の象徴が私のような鳥や猫を不潔呼ばわりするのは前代未聞ですよ。ほら博戸さんなんて……血まみれですね」 布で下半身を隠しても傷だらけの上半身は露出したまま仁王立ちしている。朱殷に濡れる肌は糊みたいに乾いている。革を鞣したような筋肉も打撲に黒ずんで膨らみ、凸凹している。 「はあ、全身が痛いねえ。猫の姿だったら最悪だった」 「猫かあ。何で人の真似してんだ?」根津が興味深そうに眼を向けた。汚れないようにと外套を脱いで畳み裾を持ちつつ砂埃を払いながらである。博戸は激痛に朦朧としながら笑った。 「さあ……特別な理由はないけどねえ。人になりたくて願って、一番身近で見てきた主人に似たのさ。似せるものが彼しか居なかったし、彼になりたいと思っていたのかもしれないね」 「主人? まさか愛玩動物ぅ?」と驚きの声が白っぽく上がる。サムエルが羽毛を撒き散らして嘴を鳴らした。 「彼、元々一般的な猫ですよ。それより風呂場とかないんですか。というか、何故こんな犯罪者の集う廃墟に来たんですか? あ、分かった。私の事鳥の照り焼きにするんですね? そして博戸さんのことを猫の刺身にするわけだ。一歩でも動いたら拳銃で撃ちますよ。職業は?」 ある時、豹変して持ち手が木製銃把の拳銃を突きつける。根津は慣れた様子で拳銃を睨むと、体調の悪そうな博戸を一瞥した。壁際にある黒黴、硝子の割れた豆電球の吊り下がった古い天井、床に落ちたコンドームと風船に瓦礫の山……。窓から差し込む茜色の夕陽に染まる。もう街は宵闇に染まる頃である。そういえばあそこの店の列……左から順に風俗店の順番があって……外観はこうで……記憶を辿るとキリがない。だからといって忘れられるわけでもないがね。 「──んな一気に質問されてもなあ。先ず風呂は下だ。俺の立ち上げた企業がお前らで言う求人企業みたいなやつで、社会不適合者をそこら辺に転がってるゴミ共……主に裏社会の企業に繋げてやって利益を得てんだ。交渉の案件で来たら眼の前でぶっ倒れててよお。代理探したらそいつも死んでて、よく見たら一同頭を揃えて鏖殺ってかぁ?」 ケタケタ笑う溝鼠である。サムエルは拳銃を下げると腰に差し込んで、博戸に翼を向けた。羽根の内毛の朱色が夕陽に混ざり煌めいている。博戸は薄ら幻覚が見えていた。隣にいる鳥が三羽に見える。大麻も吸っていないのに。 「へえ、求人ですって。博戸さん仕事探した方が良いですよ。あと近づかないでください」 理不尽に言い放つ。博戸は嫌がらせのつもりで一歩近寄った。 「賭博が仕事だからね。連中から金入るだろうし」 「連中?」 根津が鸚鵡返しする。背でサムエルが可笑しそうにした。 「私みたいに人の真似事をしてる真似生物を守ろうとする卑猥な集団だよ」と言って何か窓硝子越しに見える。黒く長い車が五台も停車して背広の男達が行列して出てくる。そして此の建物に向かって小走りしてくるのだ。 「だから何でこっちに歩いて来るんですか」サムエルが呆れた調子で声を出した。博戸は見る見る青褪めて「窓の外に何か居る」と指差す。 「お前らは逃げた方が良いかもなぁ」 根津は眼を見開いて窓の向こうを眺める。博戸が自分の裸体を指差して「裸だよ」と恥ずかしそうにした。根津は背広男の顔を見るなり何か思い出した。 「お前猫なんだろぉ? さっさと戻って走れや」 博戸は仕方なく猫に戻るとトランプ柄の尻尾を揺らしてサムエルの隣に座り込んだ。どうにか背を向いて火傷痕を舐める。 「博戸さん鞄の中に入ってください」鞄を広げた。 「先刻の恨みで投げたりしないよね? そうしたら私も怒るよ」 「しません。早く」 猫は液体というようにピッタリと鞄に流れ込む。そうして手脚を畳んで頭を下げた。サムエルは釦を留めて塞ぐと片手に抱えて瓦礫裏に隠れる。絹帽に手を入れて探った。根津も隣に隠れつつ迫ってくる足音に大きな耳を傾けた。 「げえっ見つかるぞぉ、あれ墨西哥で亜細亜方面に麻薬輸入してる暴力団だからな」 「根津さん違法麻薬に興味ありますか」 「お前には俺がどう見えてんだ」 「柄の悪い高級な服を着た溝鼠です。社長にしては細い体してますがね。少食に見えます。肉の食えない完全菜食主義者《ヴィーガン》みたいですよ」 「流石に偏見じゃない?」博戸が思わず声を出した。 「昆虫くらい食う」と根津。サムエルは重たい腰を渋々上げて博戸の入った鞄を肩に掛けると軽く関節を鳴らした。 「ふーん。仕方ない。私が行ってきますから」 「あ? 何て言うんだ?」 「事故でみんな死んだので麻薬は私が代理で全て貰います……と」 絹帽から爆竹と煙玉を出す。博戸は鞄の中で暴れ廻った。それすらにも眼を向けず、淡々と階段を下った。軈て死体を見て唖然としている男達の前に颯爽と現れる。男達は猿のような顔をして、鼻の穴を膨らまし口を開けて顔面蒼白。髭を生やしているが頭の毛は全く足りない。 「すみません。先刻、別の暴力団と戦争になりして私だけ残ってしまいました。麻薬は私が預かっておくのでお金渡しますね」 死体の懐から金を出すと、組織の数人にばら撒く。 「ひぃっ、化け物……っ」 若者が膝を震わせて崩れる。周りもワアと震えた声を出して数人は逃げ出し、動けなくなった人は顔を覆って神に祈った。サムエルは敢えて堂々とすると大将らしい人物の胸倉を掴み銃口を頭に突きつける。 「見ての通り口止めの銭です。死にたくなければ逃走用の車を用意しろ」 「アンタが此の暴力団を潰した怪鳥か! 日本、韓国、中国全域で指名手配になってるぞ。おかしなトランプ尻尾の猫もな!」 一人が声を上げる。そうして指名手配書を見せつけられて流石に苦笑いが漏れた。そういえば私が持ってる此の猫野郎、先刻私のこと売ったよな……と思い出して仕返しを試みる。 「参りましたねえ。じゃあ就職先は矢張り、根津さんに頼んだ方が良さそうですな! 博戸さんもう諦めて捕まりましょうよ。こんなに殺しちゃったら友人である私も掩護できかねます」 「え」博戸が当惑の声を上げる。 「猫がやったのか?」 「左様でございます。此処に居る猫がやりました」 サムエルがもう可笑しくなって、必死に笑いを堪えながら言った。 「こんの、此の下衆猫が! 毛皮を剥がして海に投げ捨ててやる!」 男達が鞄に向かって飛び掛かる。サムエルは鞄を抱いたまま華麗に避けて見せた。博戸は焦って耳を倒し叫ぶ。 「違う違う、待っておくれよ。其処の怪鳥信じてどうするんだ」 サムエルは少し笑うと、片手を鞄に突っ込んで口を塞いだ。相変わらず尖った嘴を擦り合わせて言う。 「まぁ落ち着いてください。引き渡す前に、私の本職は奇術師なので現実に疲れ切ったあなた方に奇術を披露させて頂きたく……」 「奇術ぅ?」 男が眉を上げる。サムエルは立つと窓の外にいる機関銃を構えた人に鉤爪を向けた。そして絹帽から布を取り出すと手に掛ける。 「こいつを退かすとね……」布を摘んで投げ捨てると、手には銃が握られていた。そして素早く撃ち抜くと人影が倒れ込む。 「ほら消えた。車は? 頼みましたよね」また銃を向けた。 「正気の沙汰とは思えないよ」と博戸。窓の向こうには車が出されていた。サムエルは煙玉を投げると白い煙の中、外に爆竹を投げて叫ぶ。 「根津さん車出てきましたよ。我々に免許などないので運転してください」 「イカれた野郎だ、紳士とは思えんなあ」 根津が眉を顰める。そして向かってくる男を蹴り飛ばして車の座席に乗り込む。根津は運転席に座ると持ち手を握って大きく廻した。車は廻転して物凄い勢いで進む。 「後ろから仲間来てるからぶっ飛ばしてください。ほら博戸さん出てきて」 「あのね、いや困ったな。BT君が手脚に絡んで動けないんだけど」 「BT?」と根津。 「どろっどろになった蝋人形みたいな生き物です。固体になったり姿を変えるおかしな人なのです」サムエルが簡潔な説明を足した。 「お前ら一同変だなあ。どっから来た」 「新西蘭です。ICT会社まで飛ばしてください」 窓から頭を出して看板を見る。道は分かってると根津が言った。 「ICT会社ぁ? そりゃ都市部だろぉ。殺されるぜ?」 「知り合いの青猫が居るんですよね」サムエルが座席を蹴り上げる。 「青豹の劣化版か?」ケタケタ笑った。 「いや、あいつと比べ物にならないくらいチビです」 「何、青い豹とか居るのか」BTの血管に紛れた博戸が頭を出す。 「博戸さんは知らない方が良いです。そういった寓話があるんですよ」 「寓話ねえ」 ふうんと鼻を鳴らしたが興味も無い。窓の外を見ると景色は歪み真っ白くなっていく。車から放たれる音も甲高く妙な気がした。体がやけに揺れるような、道すら見えないが……。 「此の車、時速何キロです? 景色が歪んで見えないんですけど」 「俺も知らん。一番早い方が良いと思ってよお……」 更に速度を上げた。するとガンッと鈍い音がして何かが吹っ飛ぶ。博戸はBTを剥がした瞬間に衝撃で飛び窓に張り付いた。 「今何かに当たりませんでした?」 「え? 今残像が……え、猫じゃない? まさか轢いたわけじゃないよね? 止まれる?」博戸が座席の頭に立つ。道路脇に硝子を纏った青い何かが見えた。 「分かった分かった。面倒くせえな、其処の店でUターンするから」 「一回轢き殺すつもり? 明らかに青かったよ?」 「幻覚では? ほら、貴方殴られてますし」とサムエルが面倒にする。 「幻覚だろぉ?」また続いた。 「冗談じゃないね……同族が眼の前で轢き殺されたのに」 「じゃあ戻って念仏でも唱えるかあ。南無阿弥陀?」 「何ですか? Requiem æternam dona eis, Domine,et lux perpetua luceat eisでは?」 扉から出て歩きながら言う。根津が不気味そうに眼をやって「あゝ、鎮魂ミサ」と呟いた。横たわる青い猫は魚眉で血を流しており、硝子の破片が散っていた。周辺の建物を見るとぶつかった痕がある。博戸は肉球を頸動脈に当てて確認した。 「息してない」 「してるしてる」根津が焦って手を重ねて体重を乗せた。 「とか言いつつ心肺蘇生してるじゃないですか。あとさっき音はしたけど彼、膝をぶつけたんですよ」サムエルが膝を握る。博戸はもっと冷めた。 「膝折れてる!?」 「反動で吹っ飛んで頭を打ったわけで、根津さんは悪くありません」 「いや……」 どうしようかと思うと急に猫が呼吸をした。上下する胸を見て博戸が眼を丸くする。 「あ、ほら生き返った。いつも車に撥ねられて蘇生されるんですよ」 「事故に巻き込まれると分かってるのなら、君が守ってあげたら良いのにねえ……」 「そうしたいけど腐れ縁なんですよお。おいピスキス、眼を覚ませ。朝だぞ、企画の資料終わったのかね? 君の作り置きの麻婆豆腐が床に落ちてしまった。拭きたいのだよ。雑巾を貸してくれないか」 嘴で濡れた毛を咥える。ピスキスはカッと眼を開くなり立ち上がった。 「企画の資料! え! 此処は何処だ。あ、関節も神経も抉れて痛え、嫌だ痛い。また撥ねられた。此の糞溝鼠! 不潔で性格の悪い! うっ、痛い痛い。車は静かに走るものなのだぞ! 痛い痛い……慰謝料請求してやるからな! そこの猫……猫……誰なんだろう? 鼠に飼われる猫なんて、現代社会の縮図? 狭いよ世界。あー仕事仕事。出勤しなきゃいけないのに怪我した。上司に休むって言ったら辞めろって言われるかなあ。退職届出さなきゃ、でもそう云う時だけ辞めさせてくれないんだよなあ。ちぇっ!」 「金貸せ、ピスキス。三億」サムエルが掌を見せる。ピスキスは激怒して顔を紅潮させると爪を剥き出して詰め寄る。髭をぶるぶる震わせて耳を倒し、牙を剥いた。 「馬鹿野郎、職なしの鳥頭め、性格が腐ってるぞ!」 「その傷だらけの脚をちょん切られたくなけりゃ現金を今すぐ振り込んで来い」 「引っ掛かるもんか! 脚一本なくても仕事は出来るぞ!」 サムエルの胸倉を掴んで引き寄せる。彼は太々しい笑みを浮かべて顔に唾を吐いた。 「此の鞄の中に両腕を詰めるぞ、ピスキス」 「はっ! それじゃパソコンが打てない! 振り込んでくる!」 ピスキスは尻に火をつけられたかのように飛び出すと銀行まで一目散に駆けて行った。根津とBTを頭に乗せた博戸は呆気に取られてぽかんとしている。 「ほおう、凄え。こんな部下が欲しかったなぁ……」 「両脚落とされても仕事の事しか考えない凄いやつですよ。三億手に入ったんで焼肉でもしますか」 車に乗り込みつつ言う。博戸は形が戻りつつあるBTを咥えて苦笑いしていた。竜宮使の尾鰭みたいな髪が透き通って垂れている。 「血も涙も無いよねえ君って……」座席に転がり込んだ。 「懐中電灯に羽根を翳すと血潮が透けて見えますよ。あと有精卵も中身がよく透けて見えます」 「あー、そういえば前に動画で流れてきたなぁ」 「友達と車でドライブするのは楽しいですね。見てください、海が綺麗ですよ」 博戸の首根っこを掴んで抱き上げると窓の向こうを見せた。夕日の沈む海が煌めいていて、空の上の方には星が見えた。宵の明星だろうか。 「根津君、鳥って罪を犯したら刑務所に入れることって出来ないの」 「はは、刑務所って。殺処分だろぉ」 「私を豚小屋に入れるつもりですか。酷い男ですね」 「酷いのはそっちだと思うけどねえ」 痴話喧嘩に似たことを繰り返していると、人擬きの形になったBTから唇が生えてきた。そして皮膚が剥がれて歯が見える。そうして起き上がった。 「ウ、頭痛ヰ。拳銃何処?」 「博戸さんを恨む理由がお有りですか」博戸を見て嗤う。 「心外だな。私は何もしてないよ」と両手を上げて見せる。 「恨ムッテ、何? カノ拳銃ガ樂シヰカラ使ッテタ。大人ノ爺共ガ喜ブカラ」 BTは首を傾げて少し混乱したような表情を見せた。 「拳銃を使うと博戸さんが泣いてしまいますよ。まぁどれだけ殴っても涙一筋流す事はないでしょうがね。私が悲しいです」 「君ガ悲シヰノガ私ニ関係アルノ?」 「サムエル君、まともな話なんて出来ないよ。生まれたばかりの赤ん坊の話すつもりでいなきゃ」 博戸が毛繕いして助言する。サムエルは少し考えて閃いたように指を立てた。 「つまりね、私が悲しくなると貴方の原型が無くなってしまいます。もっと貴方の形は無くなって、周囲から認識されなくなるのです。それは嫌でしょう? じゃあ私の言うことに従うべきです」 「赤ん坊に言う言葉じゃないねえ。ごめんねBT君、彼って少し気が狂ってるから許しておくれ」 「崩レルノハ嫌ダ。我慢スル」 BTはぶるっと震えて大人しくした。博戸は思わず喉を鳴らす。 「いやお見事だよサムエル君。荒療治としか思えないが見事に成功した」 サムエルは照れ臭そうに鼻を隠して鳴き声を上げる。幽霊猫も隅に居るのもあって百足が歩いていたりで車内は一気に動物園になった。根津はハンドルを廻して渋滞を回避すると別道に進む。 「あーもう、車内が混沌としてやがらぁ、結局俺は何処まで行きゃ良いんだ?」ドンと叩く。BTが頓狂な声を上げた。 「ギャア! 誰ダ! 不審者ガ車運転シテルゾ!」 「だーかーらー不審者じゃねぇって見りゃあ分かんだろぉ?」 振り向いてみるとBTは溶けた指を指して「見テ言ッタ。其ノ変ナ服!」と大声を出す。明らかに根津の表情にヒビが入った。脆い硝子のようだが、何もなかったかのように正面を向く。博戸は二足歩行で立ち上がり顔を窺うとBTの口に手を当てた。 「BT君、根津君の尊厳が破壊されるから大人しくしようか。あ、ほら、サムエル君が奇術見せてくれるってさ。きっと掌から薔薇でも出すよ。根津さん、人気のない所まで」 「手カラ?」サムエルに気が逸れる。サムエルは袖の中をわたわたさせると白薔薇を何輪か出してみせた。それを握らせると襟を正し姿勢を整えて、指から金貨を出してみせる。 「大丈夫かな、根津さん」サムエルの耳許で呟いた。 「今、明らかに顔にヒビ入ったよね。あの飛び出た赤い眼で表情が読めないけれど、愉快ではないことは一目瞭然だった」 「ならば、服を褒めて中和してみては?」 サムエルの提案だ。博戸は一瞬だけ考えると二度、咳払いして声色を変えた。 「根津君は服のセンスが良いねえ。どうやって選んでるのかな?」 「揶揄……それって煽ってませんか?」 「嫌だねえ、煽ったつもりは無いのだけれども」 どんな顔をしているだろうかと想像する間も無く、声の明るい返事が返ってきた。 「そうだろぉ? 俺ぁセンスがある」 「いやあお見事ですね、博戸さん。上手くいくと微塵も思っていませんでした。根津さんは自己肯定感が高いんですね」 バラバラバラと拍手喝采。絹帽からぽんぽん花弁を出して撒き散らした。最中に出てきた蜘蛛は海の向こうに捨てて、兎に角色んなものを出す。口からは国旗のついた紐を引っ張り出す。彼の言うことに根津さんは肯いて答えた。 「良い事ですね。きっと」サムエルが微笑む。車は北へ北へと進んで誰も知らぬ町へと出た。宵の空に星が浮かんで川にまで映って見える。砂利の一粒一粒が月光を吸って煌めいていて海は深い青に包まれていた。都市部で大暴れしてきた動物団は家主の居ない家に車を停めると、やっと落ち着いて座りことに成功した。扉の鍵は空いていたので博戸を風呂に入れて血を流したり、傷を洗う。BTは溶けたら水を吸って膨らむので、水を染み込ませた布で汚れを拭き取った。服も洗濯すると長椅子に寝転んで天井を見る。こんな豪邸に鍵を掛けないなんて、家主はどんな輩なのだろうか。考えているうちに根津は掛けられた絡繰時計をじいっと見て陶酔していた。部屋の奥には暖炉と本棚があり、推理小説から恋愛モノまで勢揃いである。中にあるバイクの雑誌を手に取って見ていると、間に曲馬団の新聞の切り取りが挟まっていた。その切り取りをよく見てみるとサムエルである。不気味に思ってそれを屑箱に捨ててまた寝そべった。漸く寛げるのに胸騒ぎがする。あれだけのことに巻き込まれたら仕方がないか。待っていると博戸が上がってきて人の姿に戻った。そうして荷物から予備の服を取り出すと纏って着る。それから「あー疲れた」とだけ言い残して横になって眠った。
未来の私へ
今の私はこう理想を語りました。 「書簡のある家を建てたい。その書簡には世界中の小説や学術雑誌を詰めておきたいんです。そして木の家がいい。願いが叶うならば私の書く小説の家が良い」と。そして私は自身についてこう続けました。 「私は学者のように知恵を蓄えて、研究などに活かしたい。全てを知り尽くしたい。知った後に、後の人がもっと多くを知れるように何かを発見したい。そして仁義を大切にして謙虚な人になりたい。人の生命を助けて、後には小説を書き、必要なものを残して死にたいのだ。青豹という小説だけは火葬の時、一緒に燃やしてくれたまえ」と。こう本心で語りました。今どうなってるかなんて知りません。でもきっと、根本的なところは変わってないと思います。過去、神官になりたいと言った理由は人の夢を叶える手伝いをしたいから。今はそれの物理バージョンです。神様に一緒に願うのではなく、夢を叶えられそうにない病に犯された本人を治療して生き返らせる。神様側に廻ってるだけです。貴方はもっと、神より上に行っているのかもしれない。超えてはないが、考え方がということです。どんな将来だとしても私は自分を認めます。でも書斎のある家は叶えてください。昆虫標本も欲しいし、学術雑誌も読みたい。洋書は沢山欲しい。せめて語学、哲学、医学、物理学、数学、生物学くらいは嗜んでください。お願いします。でも無理してください。甘えないでください。筋肉も鍛えてください。誰かに負けてもその人を褒められるような人になってください。そしてその人にいつか勝ったら、いつもより少し堂々としてください。考えたことはなるべく紙に残してください。見返す人の楽しみになりますから。本もいいやつだけ買って残してください。後で見つけたひとが開いた瞬間あっと驚くようなものだけ集めてやれば死んだ後大人気です。オーケストラは生で聴いてください。心が安らかになります。時計には金を掛けてください。一緒に時を刻む仲間です。鳩が飛び出してきたらもっといい。ぽっぽー。小説を書くのは辞めないでください。どんなに短編でもいいから、兎に角書きましょう。両手が失せるまで。そして貴方は立派な医者になるのです。人を助けて、その人が治って病室から出る時は笑顔で居ましょう。そしていつだって患者さんを優先に考えましょう。時間がなくても考えることをやめないようにしましょう。恋人を作って、抱いて、キスして、酒を飲んでまた寝て、手を握って、朝を迎えましょう。甘いが度の高い酒を飲んで喉を焼きましょう。肝臓悪くなっても知りません。でもそれがいいでしょう。煙草は吸わないでください。肺が弱いので、死んでしまいます。もしも恋人が出来なかったら友人と数日の旅をしましょう。イギリス、ニュージーランド、ドイツ、オランダ、アメリカ、エジプト、フィンランド……………沢山あります。そこで学びましょう。学んだことは好きなだけ共有しましょう。そしてその素晴らしい友人を家に呼び込むのです。兄弟のように笑い合って一晩を過ごす。暇になれば学術雑誌を開き、小説を読み、研究をして、娯楽を求めるのならば喜劇映画を鑑賞して笑ったり泣いたりする。偶には朝に家を出て散歩して、知らない道を通ってみたり焼きたてのパンを買って食べてみましょう。小麦の香りと噛めば噛むほど広がる甘さはたまりません。早寝早起きより遅寝早起きを心掛けましょう。大きなペットを飼うのならば爬虫類か魚類に限ります。小さなペットならば昆虫、菌類、原生生物、刺胞動物、扁形動物なんでもいいです。興味があります。また、そのような動物達はぜひ沢山写真を撮るなり増やすなりしてください。あと私はウミウシやヒラムシに対して謎の執着心がありまして、そこも気になるので教えてください。あとここに書いたこと一つも忘れないでいてください。定期的にテストしてください。( )方式で。最近カモノハシの変なキャラを作り出したんですよ。まだいますか?名前は決まりましたか?ぜひ教えてください。青豹は読み返してどうでしたか?最高ですか?最高なら、今窓の向こうに向かって親指を立ててください。やったあ、見えてますよ。ウミウシって可愛いですよねえ。この大きな感情を忘れてほしくないです。作中でボニファーツがイソギンチャクやクラゲ、ヒラムシやウミウシ、魚からヤドカリまで海の生き物を信じられないくらい愛してる描写があります。ないとしても設定ではそうです。忘れないでください。それだけは。あとね、色を忘れないでくださいね。貴方を変えた色です。青色、碧色です。紺碧の空に海です。貴方を変えた色です。その色に囚われるのは駄目ですが、死ぬまで纏わりつく色は青なんです。どう足掻いても貴方は青から離れられません。そして絵を描くときにはどうしても青と白に手を伸ばすのです。哀れな生き物です。青豹も青じゃあないですか。今の貴方は赤色ですか?茜色ですか。もしそうならばビー玉を飛ばしてください。自分の目玉に。貴方の目玉がイカれた証拠ですよ。面白い趣味ですね?はあ、なんだか疲れて眠たいので寝ます。今宵の月は綺麗です。眼が悪くてはっきり見えないけど、何だか檸檬みたいな色をしています。今夜、まだ私の隣には彼女が居ません。このまま一晩も共に過ごせず亡くなるのでしょうか。私を愛してくれる素敵な女性は居ましたか?居たのなら、今すぐ乾杯して万歳です。貴方にはもう悔いなどないでしょう。
IN SINGAPORE 2
道路の広いゲイラン地区は中心部に比べて建物が低い。而もまだ真昼で太陽も燦々と光を放っていて、街中は静まり返っていた。此が最大の歓楽街なのか、と驚きを隠せずに博戸が見廻す。欧羅巴風の建物も幾つかあり、植民地時代を彷彿とさせた。そして置屋が紛れて並んでおり風俗嬢らしき女性も歩いている。きっと夜になると男達が遊びに来るでしょう、とサムエルが笑う。風俗店を彷徨っていても埒が開かないので脚が疲れるまで街を隅々まで歩き廻った。すると路地裏のようなところに塗装の剥がれた廃墟が建っているのを見つける。その廃墟は扉を一度壊されており、新品で頑丈な扉に付け替えたらしかった。 「どうしたもんかねえ。見つけたけど入る?」と博戸。サムエルは考え込んで扉を蹴った。それでも開かないので博戸も後ろから蹴る。一羽と一匹で蹴って、幽霊猫の百足にも手伝わせて二匹。八度目になると扉は崩壊して崩れた。その先は砂埃が舞っていて、生活感溢れている。スプレー缶で落書きをしたのかマリファナを吸う死神、そして風船みたいな英字が壁に描かれている。床には煙草の吸殻、コンドームが落ちていて覚醒剤の檸檬みたいな消毒液みたいな嫌な香りが漂っていた。咳込みながら入っていくと床が濡れている。尿だ。誰かが糞尿を垂れ流していたらしい。その場だけ治安が桁違いに悪い。いや、他国の反社が荒らしているだけだろう。拠点はきっと亜細亜各国にある筈だ。此処だけじゃない。進めば進むほどに塵は増えた。同時に乾いた精子が壁に散っていたり、爪痕があったり悲惨になってゆく。強姦の跡を辿るようだった。今にも崩壊しそうな階段に片足を乗っけると、博戸が耳を澄ましてシーっと指を立てる。上の階から鼻唄が聴こえた。 「……BTの声に聞こえないかい」 「随分と満喫しているようで」サムエルが遺憾そうな顔をする。すると上の階からドタドタ足音が鳴り響いて此方に向かって来た。サムエルが拳銃を向ける。 「ワア、サムヱルトテンサダ!」 溶けてもはや何だかわからない物体に口が生えている。肉の断片が細胞を痙攣させて動いているような容姿だ。それでも愛嬌だけは何故か残っていた。博戸はBTを抱き抱えようと両手を広げて歩き寄ったが、BTは純粋そうな顔で拳銃を取り出し銃口を額に突きつけた。 「教ヱテクレタ! アノネ、引キ金? 此ヲ引クト死ヌッテ」 眼も溶けているが純粋無垢な声をしている。更に震え上がると銃口が頭蓋骨を突き破るくらい押し付けて来た。サムエルが庇うように拳銃を向ける。 「博戸さん殺したら帰国出来なくなるので貴方を殺します」 「君って本当に……私を何だと思ってる?」 博戸が苦く笑った。特に賭け事で暴力を振られることは日常茶飯事だがこんなにも唐突に、そして純粋に銃口を向けられるのは猫生で初である。悪意のない、殺意のない好奇心で向けられた銃口ほど怖いものはない。いつ弾が発射されるか見当もつかぬのだ。サムエルは飄々として応えた。 「友猫です。友猫なのに、猫肉は脂身が多いって事しか今頭に浮かんでいません」 「死ぬ前に千円くれるかい? あの時賭けたよね。君の負けだ」 博戸が手を向ける。サムエルは皺だらけの紙幣を掌に置いて笑う。 「差しあげますよ。たった千円くらい」 「ボク仲間外レ? ジャ引ケバ良ヰ?」ガチャと金属音が鳴る。冷や汗が最高潮に達した。階段が濡れている気がする。服の間が気持ち悪くなって来た。別に猫の姿じゃないから良いのに、不気味という意味で緊張している。だがそれさえ悟られてはならない。 「少し待とう。賭け、そう。賭けをしようじゃないか。ほうら、弾を一つだけ詰めて、頭に当てて引き金を引く。死ぬか死なないか最高の賭けだ」声を大きくして言う。BTはわあと笑って身を乗り出した。 「樂シ?」 「勿論さ。サムエル君もそう思うだろう……?」 縋るような上眼遣いが羽毛を這う。サムエルはハアと息を吐いてチラと後ろを向いた。絶句した男達が尻餅をついて此方を見ている。全員の手には銃が握られており、刺青を入れて綺麗な背広を着ていた。 「勿論ですとも。ところで背後にいる人達は反社の方々ですかな?」 「えらいやっちゃなあ。此処狙うなんてのう。ワレ、何処ん組じゃ」 「はあ、誰に……」 博戸が癖で苦笑する。サムエルは顔を羽毛に埋めて箸に寄った。BTは気にせずロシアンルーレットをして引き金を引いている。此の可笑しい光景を見て博戸はまたニヤニヤしてしまった。色々と混沌に塗れていて限界である。笑わない人間などいるのだろうか。あ、人間じゃなかった。 「なア、おい。ワレ。ワレに言うとるんじゃ。ワシん言う事が聞こえへんのか? 其処んアンちゃん」 声を荒げて怒鳴り散らす。博戸が気づかずに無視していると胸倉を掴まれて気付いた。博戸はまたかと笑って両手を前に出す。 「私ですか。冗談もそこそこにしてくださいよ。ほーら、見ての通り一般人です」 「笑い事ちゃうやろ。人んアジト来といて、扉も壊しといてなあ。心臓引っこ抜いて詫びろや」と拳で頬から斜め左方向にぶん殴る。鼻血が薔薇の如く散った。それでも博戸は笑ってしまう。 「いやいや壊したのは此方にいらっしゃる鳥の怪物でして、私は此の怪物を止めるために此処で奮闘していたわけです。ははははは」 「近所ん奴らが日本人が扉を蹴ってたって言ってたのは嘘なん? なわけないやろが、ふざけたこと言うのも大概にせえよ。ごら、日本じゃあ嘘つきは閻魔大王に舌を抜かれるんやってな」 「は? 違」男は博戸を階段から蹴落とすと集団で囲って蹴り始めた。軈て鋏を持ってくると口に捩じ込む。そこでサムエルが拳銃で男達を次々に撃ち殺した。口の中が錆びた鉄の味に染まって、歯を真っ赤にした博戸は縮まったまま死体の中で踠いている。そして死体の吐いた痰が髪に絡まり気分は氷山の下の下の下まで落ち込んでいた。最悪の中でも最底辺だ。だが蜂の巣に石を投げたように反社の人間が集まり、サムエルは首を絞められて地下室に閉じ込められた。そして博戸は顔面を踏みつけられて服を脱がされると、大きな容器に入れられて混凝土を詰められた。そうして地下室に投げ入れられるが幽霊猫が隠れて飛び出し、男達の全身には無数の百足が張り付いた。数万の脚が蠢いて針を突き刺すと死体まで貪るらしい。だが一歩遅く、博戸は血塗れ痣まみれで混凝土風呂に浸かっていた。サムエルは酸欠で意識が無い。幽霊猫の親切でヤクザの男の骨が落ちてくる度に数を数えて暇を潰していた。すると上らへんから確かな声が響いてくる。 「げえ、きったねエな……全くよお」 死体を避けながら爪先で歩いているらしい。高級そうな革靴のカツカツという歯切れの良い音が響いた。それと同時に細長い尻尾の揺れる音が聞こえてくる。そして鼠の匂いが漂って来た。相手も人間とはかけ離れているらしい。姿は一切見えないが死体を観察しているのか、ただ見に来ただけなのかどうにか歩いているらしかった。そして二階へと上り、BTを探しているのか連れと話をしている。 「サムエル君起きて。何かいらっしゃるらしい」博戸が容器に詰められたまま飛び跳ねる。サムエルは咳をしながら起き上がった。 「出してあげるからじっとしててくださいな」容器に手を突っ込むとサムエルの脇を探り当てて引き上げる。混凝土が付着して不愉快にはなったものの、固まって埋められるよりかは遥かにマシだった。思い返してみればあの連中は耳に穴を開けて金属飾りをつけていたり、中国で彫ったのか鯉の繊細な刺青を入れていた。指が第一関節や第二関節で切られていたり覚醒剤を乱用しすぎて焦点も合っていなかったと思う。体から香水と性液の匂いがして臭い。地下から登る時も精子と血の匂いがして吐き気が込み上げた。不意打ちにコカイン、ヘロインなどの粉末が散らばって嫌な匂いが漂っている。サムエルは「失礼ですが」と言って屈むと外方を向いて死体に向かって吐瀉物を撒き散らした。未消化の野菜が多い。地上に上がると指輪も散るわ百足が這っているわともっと状況は悪くなった。死体を踏み潰して階段を駆け上ると、縦に細く柄の悪い鼠紳士が立っていた。薄めた墨みたいな毛で、皺があり皮が垂れて口が広く長い。牙が生え揃っており鼻が突き出て、眼こそ真ん丸で真紅である。丸く大きな瞳孔は動かず、表情が一切読めない。そして額にも眼玉がついており、それも此方を捉えている。長く立った耳の内毛は瑠璃にも近い青。分厚く質の良い外套は右が青、左が赤という奇妙なもので下に着ている襯衣は白色で黒い縦縞模様が波打っている。洋袴は竜胆色で靴下は革靴を際立たせるような質素だが似合う色合いである。そんな恐ろしい鼠紳士は青く長い尻尾を揺らして此方を見ていた。 「先ずは、私がサムエル・ジョーンズという新西蘭の奇術師で、隣で絶句している胡散臭い男が賭博師の博戸甜詐さんです」と先ずは紹介する。素っ裸の博戸は極まり悪そうに眼を逸らした。鼠紳士は汚物を見る眼で見ると品定めをするように観察しているらしかった。三つの眼が向いて何だか緊張が肌上を走る。 「ほぉう……? 俺《オレ》ァ根津美織」 「美織さん? 此の顔面で女性ですか」 サムエルが文句しかなさそうな顔をして指を向ける。博戸が失礼だからと言って指を握り下げた。 「あぁ? ちゃんと生えてんぞぉ。見るか」 下に手を伸ばす。サムエルは思い出したあと豆電球を浮かばせた。 「雄だけの環境で育った鼠の陰茎は、雌と一緒に育った時よりも太くなるって西濠太剌利大学で研究結果が出ているそうですよ。見せる自信があると言うことは女が居るわけですね」 自分の勝手な推理に納得したのか微笑んでいる。博戸は隙間風にさらされて震えが止まらない。全てがスースーする。特にすっきり整頓された股間が。 「どうでも良いけど寒いから毛布とか無いかな。裸なのわかる?」 「去勢されてらぁ! ツルッツルじゃねえかあ」 根津がゲラゲラ豪快に笑う。その場には遺体と彼らしか居ないから声が響こうが誰も気づかないのである。サムエルは適当な布で隠してさあと引いて「種も仕掛けもありません。股を開けば此の通り」と囃し立てた。博戸はニヤニヤ薄笑いしていたが内心は耳を紅潮させるほど不愉快だったらしい。仕方なく綺麗な布を貰って被せてもらうとBT探しを続けた。
覚悟を決める
診察を待つ間もボニファーツは饒舌だった。友好的なヴェンリー國が多方面から批判されて可哀想だとか同盟を組むべきだと意見を並べて、終いには「偏見や差別は何も生まないよ」と正義を掲げる指導者らしく説教をする。エヴァンは最初の話だけは真剣に聞いていたが、直ぐに飽きて壁を眺めた。受付募集の紙と病院の内部が描かれた図が大きく載せられていた。そして上の方には滅創の説明が簡潔に書かれた紙も貼り付けられている。字を眼で追っていると、ガラガラと第二診察室の扉が開いた。誰かと思えば、若いのに背を曲げて白衣を纏った企鵝竜が此方を向いて愕然としている。頬毛は橙で角は赤褐色で大きく反っている。朦朧として傷を押さえていたクルルも思わず顔を上げて「オーラン」と譫言のように言った。頷く彼の首からはお馴染み石名の名札が下げられており、黝簾石《タンザナイト》とある。黝簾石ことオーランは徐に歩き出すと自分の水晶体を疑った。何かを探すような手つきで二頭を触った。するとブワと大粒の涙が溢れ出す。ボニファーツを放って敬礼もせずに抱きつくと胸に顔を埋めてワンワンと声を上げて泣いた。一頻り喚いた後、顔を真っ赤に染めて彼らとボニファーツを診察室に案内した。そのまま凹んだ廻転椅子に座らせる。まだオーランの眼には澄んだ涙が浮かんでいた。 「そんなに酷い傷なのか。困った。どうやら私達は助からないらしい」 彼は皮肉っぽく笑った。椅子の上で細長い尻尾を垂らして抉れた翼も半ば広げたまま顎を上げて見上げてみる。背後で護衛の如く立っているボニファーツは顔を真っ青にして髭を震わせていた。教授時代から変わらない物腰にオーランは苦笑いした。 「なあに、助かりますよ。超音波検査しましょうか。見た感じ肉離れと内出血……ですね。クルル先生は傷が深いんで先に縫いましょう」 そう言ってクルルの紡錘形に開いた傷を指した。光を照らして見ると皮下脂肪が丸出しになっており砂で汚れている。オーランは看護師に頼んで生理食塩水とポピドンヨード消毒液を手渡して貰う。傷口を洗って消毒する為に布を浸して当てた。 「アッ! 痛い、痛いッ!」 クルルは耳を劈くような甲高い悲鳴を上げて椅子に座ったまま脚を上げて大暴れした。 「暴れると傷がもっと開く。力を抜いて深呼吸だ」 エヴァンが残った体力を振り絞ってクルルを両手で押さえ込んだ。ある程度の範囲が終わると、次に麻酔注射の穿刺針を端から刺し込んだ。丘疹を作りながら麻酔液を注入していくと忽ち痛みは消えて、感覚を失った違和感だけが残る。ボニファーツは興味深そうに横から覗き込んで「手際が良いね。迷いがないから見てて安心する」と舌を巻いた。また苦笑いをしたオーランは居心地悪そうに糸を仕込んで持針器を向け、開かれた傷の奥から埋め込むように縫い上げた。あの見るに堪えない傷も塞がって、而も治療を担当した医者が手塩に掛けていた学生だとは! クルルは大喜びして有頂天となっていた。漸く順番の廻ってきたエヴァンは超音波画像観察装置の隣に寝かされて機械を当てられる。先ずは切り傷しかない右脚だ。白黒の映像に白い筋膜が真っ直ぐ伸びていて細い筋繊維が張り巡らされている。此方は正常らしい。眼に見えて痛めつけられた左脚を映し出すと度肝を抜かれた。筋膜は見え辛く、大きく離れて血腫が広くある。完全な断裂には至らなかったが、腱も筋肉も出血したり千切れていたり散々だ。全身検査しようという提案で磁気共鳴画像を撮ったら急所以外の殆どが傷だらけになっている。画像を貼り付けるの最中、オーランは気まずそうに「酷いけれど、青玉さんだから仕方ありませんね」と眉を寄せて笑った。それから受付で鎮痛剤などの内服薬から湿布まで大量に用意してもらうと、袋に詰めて手渡された。基地に帰る時、ふと思い返して見るとボニファーツは終始無口で様子を見ていた。いつもの饒舌は何処に消え失せたのだろうか、と寧ろ心を躍らせる。ボニファーツは敢えて食堂ではなく、自分の部屋へ案内した。初めて此の基地を訪れた以来であった。相変わらず艶のある机には食堂と同じものが丁寧に並べられている。二頭は傷口を押さえて座り込むと、一口食べた。缶蕃茄の飾らぬ甘酸っぱさに、冷えて伸びた麺が濃厚に絡まる。羅勒の葉も噛めば噛むほど口内を爽やかにした。クルルが夢中になってがっついているのを見るなり、エヴァンはボニファーツの方を向いて言った。 「そういえば、君は私に言うべき事があるんじゃないか」 言葉が途切れると窓の外から風の鳴る声がした。その途端、掛けられている時計の針がチッと動いた。ボニファーツは「いや」と濁して淡青の眼をちらちらと動かす。彼はしきりに両指を突き合わせた。 「はあ、そうだった。空軍との会議と被っていてグラヴィナ大公の葬式に参列できなかったんだ。申し訳なかったね。代わりに豪華な胡蝶蘭を手向けたから」 「多忙な身だ。仕事を優先してくれて構わない。そんな事、承知しているがね。君はもう少し根本的な所を謝らなければいけないだろうに」 エヴァンは憐れむような顔をして言った。正面の入り口ではなく裏の螺旋階段を通りましょうとクルルが指で示すと、二頭は眼で返事して方向を変えた。ボニファーツは只管俯いて唇を硬く結んでいる。 「自分の責任じゃないか。そう被害者面をされても困る」 焦燥感に駆られて沈黙を切る。言葉を最後まで聞かぬ内に、ボニファーツは一瞬、顔を真っ赤にさせると髭をピンと立てた。飛び掛かって牙でも剥いて来そうな形相だ。それでも彼は唇を噛んで堪えて見せるといつものような優しい微笑を含んで首を傾けた。 「まさか! 僕が殺せと命じたとでも考えているのかい。いや、いや、そりゃあ無いよ。新聞は読んだろう。参列していたヴェンリー國の白狼が主犯だった。裁判で有罪になったじゃないか。僕が計画していたとしたら青玉は把握しているし」 両手を組み合わせて強く握った。大昔からの彼が困った時の癖である。その刹那、彼は尻尾を掴んだとばかりに溌剌とした。一方、麺を巻いていたクルルは学会での発表で質問を投げ掛けたあの時と姿を重ねる。瞼の奥には当惑したボニファーツの残像が濃く残っている。 「本当に? 毒を混ぜたのではなく、硝子部分に塗りつけていたのならば他者でも成立するだろう。それに、神経毒はエキドナのものだった。……まあ、考えようによっては此は良い作戦かもしれない。何故なら君は『どうだい、エキドナを主犯にしない為にも白狼を主犯だったという事にして平和に解決しないかね』とでも言って私を共犯にする事が出来るのだから」 「そんな根拠もない憶測を言われても困るよ。第一、下手な事を言うと逆に自分達の名誉を傷つけてしまう。ほら! 君達は働かないといけないんだから沢山食べなさい」 痰の絡んだ咳を何度かする。クルルは窓の外から海を見て「失望しました」と呟く。手を組んだままボニファーツは極まり悪そうにして適当な相槌を打った。 「そうやって逃げてても何にもなりませんよ。臆病者だと批判されるだけです」 化けの皮も皮下も剥がされ、ボニファーツはさあと冷ややかになった。そして月のような丸い瞳孔を向ける。 「世の中、都合が良いように見せるのが礼儀だからね。僕が嘘を吐いていようがどうでも良い。君達のように都合の悪い部分に視点を当てるような獣達の方が社会にとっては癌だ。彼はもう既に息を引き取っている。悲しいのは分かるけど、ずっと引き摺っていても仕方ないだろう? もう少し明るい話をしようじゃないか……」 「今日の新聞は?」 エヴァンが試しに尋ねてみた。ボニファーツは自分の机まで歩くと、棚を引いて新聞を取り出す。年と日を確認しようと指を舐め、捲って見ると長い新聞紙を抱えて来た。飾り文字が相変わらず派手に綴られている。ボニファーツは椅子に座り込むと、新聞を眼で辿りながら読み上げていった。 「国防相曰く、ヨルガンの大統領が公邸の爆発によって意識不明、朝方に首都郊外のメラク・カーダ軍病院で死亡が確認されたよ。あと滑空大会で火山竜のフラビアンが世界記録を更新して優勝だった。それと、明日から悪天候になるらしいね。後は、石油の価格高騰だって。嫌だねえ……カ当局は戦争の本格的な収束を宣言して軍事祭を開いた。流石あそこの偵察機は優秀だね。ヴェンリー國の観光客が何割か減少したって。そんなに申し訳ないと思ってくれるなんて、國民性が違うよ。素晴らしいね。そしてまたヴェンリー國の首都では示威運動が繰り広げられていて──ほら、見て。旗を掲げたり化粧して進行してるよ!」 意気揚々と不謹慎な新聞を読み上げて満足すると新聞を破り捨てた。クルルが口をパッカリ開いて絶句している隣で、エヴァンは二度三度頷く。 「流石、フラビアン。滑空記録だけが世の中を明るくしてくれる」 「凄いよねえ。千キロだ。火山竜は特に……エヴァン君もそうだけど、翼が長いから気流に乗ると滑空が凄く長いんだ。それにしても凄いよ。僕の軍でも航空機に翼の構造を取り入れている」 「へえ、君は兵器開発にも携わっているのか?」 「航空機を兵器呼びするのは気に食わないな。でもそうだね。直接改善点を提案したり現場まで行って指揮を執るよ。各軍の最高司令官らとも話し合いをするんだ。今日も兵器開発専門との会議があって進める」 「なら、水素爆弾や核兵器の開発にも携わっていたわけだ」 「うん。自國防衛の為に、規模もきっちり計算して進めてるよ。他ほど多く保有していないが威力だけなら十分だ」 迷う事なく答えるボニファーツにクルルは意外そうな顔をする。 「驚いた。素直に答えるんですね」頓狂な声を上げる。心外だと言った様子でボニファーツは眼を逸らす。視線の先は古びた時計だった。森閑とした部屋にパチパチと針の音が跳ねている。 「僕は常に素直だ。そうだろう? ……さてと、時間も経った。病院に行って挨拶をすると良いよ。君達の挨拶を聞く獣なんて居るかも怪しいけれど」皮肉を込めてそう言う。そして少し淋しそうに口を開けて笑った。頻繁に吸っている煙草のせいで牙は真っ黄色になっている。エヴァンは渋々腰を上げた。 「医師が医師の話なんて聞くもんじゃない。彼らが聞くべきは患者の声だ。そういう事なら、失礼させて頂こう」 鈍臭いクルルの手を引いて扉から出ていった。廊下はやっと起きた軍員達の欠伸や、深夜からの訓練に疲れて汗を拭きに来た動物達で埋め尽くされている。そんな群衆を掻き分けて進むと、例の螺旋階段を下る。クルルは腕を組み合わせてぐうっと背伸びした。 「矢張り、厭な奴ですねえ。何処迄も気が合いませんよ。存在自体が不愉快なのに此以上悪化されたら堪ったもんじゃありません。彼の親友として一言言ってあげたら良かったのに!」と文句の連続である。エヴァンは足を速めて下っていった。柵には海軍の旗が掲げられており、強い風にたなびいている。エヴァンの顔には疲労が浮かんでいた。眼の下には隈があり、鱗の艶も失せて色褪せている。彼は小さな溜息を漏らして俯いた。 「そう言われても、ボニファーツは愛に飢えているのだから仕方ないだろう。綺麗な貴婦獣が見つかれば少しくらい変わるだろうが、あの青毛故に婚約すら許されていない。じゃあ、君が彼の相手をするのが最善だな」 「面白くない冗談ですね。私にとって彼は重すぎると分かるだろうに」 調子良く答えた。エヴァンは苦しそうに胸を何度か叩くと、無言で淡々と歩いていった。道は真っ直ぐで広く、基地なので見渡す限りが殺風景だった。それでも病院前には樹木が植えられていて、青い葉を着ている。病院は扉が開いた途端から消毒液臭くて鼻の奥がツウンとした。歩いていると看護師らしい蛙から白衣が彼方にありますのでと言われ、更衣室に案内される。更衣室には金属製の収納棚が並んでおり鍵がついていた。その棚には二頭の名簿もきっちりとあった。そして腕が上がらず着るのに二頭で服の裾を引っ張ったり腕を出し合った。クルルが「また寝れない日々が続きますね。白衣を着たら負けですよ」と笑った。襟を整えて医局まで歩くと、扉の前で獏が待ち構えている。長い鼻を垂らし、忙しそうに貧乏揺すりをしていた。恐れながらも近づくと、獏は急いで顔を上げた。 「クルル医師! エヴァン医師も……まあ、そんなに怪我をして!」 上唇を引っ付けようとしてくるのでクルルは図々しそうに顔を歪めた。そしてエヴァンの腕に身を寄せていた。獏はそれでも近寄る。接吻するかしないかの距離になった。 「お気になさらず。私らの名は名乗らずとも知っているようですね」 エヴァンが軽く押して離れる。獏はやっと迷惑だったのだと気づいて何遍か謝った。声は若々しいが仕草、顔の皺を見るに年配らしい。獏は首を触ったり落ち着かない様子だった。医局の扉を開けると資料の積み上がった机が並んでいるのが眼に飛び込んでくる。棚にも学術雑誌が詰められている。整理整頓とはかけ離れていて、同時にその多忙さを色濃く反映させていた。獏は席まで案内すると座らせる。 「勿論、知らぬ者などおりません。学術雑誌を開けばいつも素晴らしい論文が掲載されている。過去に書かれた両生類の性質を利用した方法で細胞の復活、再現の論文はお見事でした。あの研究をしてくれたお陰で兵隊らが失った手脚も再生が見込めるようになりました」 周りからも尊敬を込めた褒め言葉が降り掛かる。エヴァンは極めて不名誉そうに肩を縮めて翼もぴっしり畳んでいた。 「それは良かった。私が附属病院に居る間は批判が殺到しましたがね。私があの研究を出してから國民が戦争に駆り出される数が増えたんですよ。どうせ手脚が千切れても治るのだ、と」 敢えて声を小さく、そして明瞭にした。場は森閑そのもので静まり返っていたが、ただ一羽嘲笑していた。見てみると海猫だった。相変わらず無愛想で眼鏡を掛けていて毛が真っ白い。彼こそ戦場を共にしたであろう銅医師である。銅は嘴を大きく開けた。 「陸軍の上層部が全く同じ事を言ってましたよ。何処かの青い豹が『やっぱりエヴァン君は凄いねえ。こんな都合の良い研究内容を発表してくれるなんて!』と付け加えて」 皮肉に加えて声真似も交える。エヴァンは何だか疲れた気がして肩を何度か廻した。彼とは何度も会話を試みたが平和に終わった覚えがない。面倒だから話をすり替えよう、そう心に決めた時だった。視界の端に立っているクルルに眼が止まる。 「はあ。私ではなくクルルの研究はどうでしょう。新しい細菌を発見したり、心臓の新たな手術法を見つけて数種類に分けてみたりと。序でに昆虫の記憶や遺伝についても調べてましたね。彼の方が平和的かつ優秀です」 想像すらしていなかった褒め言葉に尻尾の動きが止まらない。どれだけ廻るのだと思うほどバタバタと五彩の尾毛を振る。熱った顔には含羞みが含まれていて、恥ずかしそうに耳を逸らした。 「クルル医師が出版した細菌類の本、全巻持ってますよ!」 医師の一頭が声を上げる。クルルは昔から菌類の研究をしていて、採取しては増殖させたり顕微鏡で観察していた。そんな成果もあり、研究などを纏めた書はエヴァンに太鼓判を押されて本となった。東の國から北の果てまで、そして西から南の果てまでを調べ尽くした一冊である。勿論、此処の医師達もその本の存在には気づいていたらしく研究に役立てていた。菌類の話題で騒めく部屋で一頭の言葉が鼓膜に刺さってきた。 「幾つか生物兵器に使われたっけ。ほら第二次南海戦争の」 「戦争の時って本当に御二方に助けられましたよねえ。我が研究所も来てくださると聞いた時は小躍りしましたよ」と銀。数頭は青褪めて話題を止めようとしていたらしい。態と大声で新聞の話題を出してみたが、クルルにとっては逆効果だ。あの青豹から聞いたばかりなのに。そう耳をピンと立てて震え、血潮も沸騰し騒ぎ立てる有様だ。それでもエヴァンに肩を叩かれて正気に戻ったのか、何とか平然を装った。 「何もかも戦争に使われたんですね。そんなつもりで研究した覚えはありません。先生はきちんと研究なさっていたが、私は本当に偶然の発見でした」 「まぁ、役に立ったのだから良いじゃありませんか」 獏が笑い飛ばす。エヴァンが話題を変えてやろうと気を遣って間に立った。 「ところで、貴方達の名前は?」 声を柔らかくして名を訊いた。銅は彼に感謝したまえとばかりにジロリと睨む。クルルは少しばかり極まり悪そうに下唇を噛んだ。獏は自分からで良いのかと辺りを見廻すと人差し指を自分に向けて確認した。そして順番が決まったらしく、コホンと咳払いをする。 「私は精神科医のミックです。あそこの馬が整形外科医のニコラス、向こうで座っているのが歯科医のぺぺイン」 「宜しくお願いします」 エヴァンが右手を差し出す。そしてミックと硬く握手を交わすと、外科部長や後々から来た病院長、看護師長らに挨拶をしに向かった。クルルは終始固まっていて緊張に冷や汗をかいていたらしい。やっとの思いで自分の席まで戻ると、廻転椅子に腰掛けて手脚を伸ばした。それでも身は休まらない。挨拶終わりは病棟を歩く事になった。病棟は幾つか分かれていて、全体を見ると陸基地よりも遥かに大きい。海軍や陸軍、空軍は診察室は同じだが情報が漏洩しないようにと病室は別々だった。そして主治医も違う。そうなると診察室や病室が縦や横に伸びて摩天楼のようになってしまったのである。全体図が分かると、医師に会議に誘われた。誇り一つ落ちていない階段を下って部屋に入ってみると、明るい照明で窓は閉められておりズラリと椅子が並んでいるのが分かる。奥側には投影機で患部の詳しい検査結果や画像を映し出している。大人しく画像を眺めてどの治療を施すのか予想を立てていると、後ろの大きな扉からオーランが飛び出して来た。 「また会いましたね! 先生と大先生。金緑石が手術終わりで参加するそうです。金緑石はロスヴィルの事ですがね。組織内ではこう呼ばないと……。そういえば、此処って大学病院より遥かに激務だから気をつけた方が良いですよ。鬱になって辞めた同級生は治療される側になりました」 愛想笑いしたが言葉の輪郭に、淡く哀愁が巻き付いていた。聞いていたエヴァンも普段より視線を下に落としてまた顔を見た。 「なら見舞いに行ってやろう。君はまだ大丈夫か」 恐れるような、強張った言い方をする。オーランは脂に汚れた眼許を擦って吹いて、あははとまた愛想笑いした。触ると毛並みも悪く、抜け毛が酷い。乱された羽毛には確かな疲労の軌跡が残っている。大丈夫ですよ、と言って笑って欲しかった。クルルが腹膜を破られたような顔を向ける。 「全く、私達のせいでお前達の未来を捨ててしまったらしい。あんな馬鹿な事をして、困るのは自分だろうに。考えて行動出来なかったんですか。ずっと悲しかった」 此にはエヴァンも頷く。オーランは驚いた様子で手を前に出すと慌てて言った。 「どうせ病院の犬になってましたから、今の方が幸せですよ。尊敬してる先生と働ける。それ以上に幸福な事なんてありません」 「私達が死んだらどうするつもりだ。働くのか」 また、死という言葉は彼を混乱させた。オーランは意味を呑み込むのに時間が掛かった。想像している間も、今すぐ泣き出しそうな顔で固まる。きっと、此の瞬間は抜け毛が最高潮に達していただろう。 「……働きますよ。俺も、皆も」 「そうか」エヴァンは頷いて、不安気にクルルと顔を見合わせた。気がつくと会議室の席は満たされていて、前に立っている動物が患者について説明を始めた。映し出されたのは狼の子供だ。奇形で脚が蛙のようになっており、腕が関節を抜いたくらい短くなっていた。片手は殆どない。而も甲状腺癌が進行していた。医師曰く先天性奇形だったらしい。 「放射線を浴びましたね。母体が、而もたっぷりと!」 クルルが青褪めて言った。確かに、それは過去に見てきた放射線を浴びた胎児とよく似ている。大量に浴びた放射線で多重先天性奇形になり、小さな肉塊として出産される。あの光景だ。劣化ウラン弾の微粒子を吸い込んで癌を引き起こしたり、腹の胎児が奇形になった事が脳裏に浮かぶ。 「左様。そして私達は核戦争に備えて、放射能を浴びて損傷した細胞を完治させる為の研究を進めています。今回はその検証です。教授らにも是非見学をしていただきたく思う」 「喜んで」エヴァンが眼を輝かせて言った。活気に満ち溢れた室内で耳を澄ましても、幾つか期待していた声は聞こえなかった。クルルは何故だろうと不安に思って辺りを見廻してみる。案の定、その場にエキドナとペランサは居なかった。その代わり、遅れて来たロスヴィルが端の席に座って此方を恨めしそうに見ていた。 作戦会議室ではサーフィーを中心に海軍特殊部隊が全員並んでいた。普段明るい照明は消えて、扉には鍵を掛けている。硝子窓もぴっしり閉め切って窓帷で覆い隠していた。 「PLAがさあ、攻撃をしたの知ってるよね。友好的だった彼らが突然、攻撃を仕掛けたのは何故だろう? 説明しなくても分かるだろうがね。俺はお前達に説明する義務があるんだよ」 穏やかな表情とは逆に、声は凍てついていた。それでも怒りを抑えようと唇を噛んでいる。隊員は圧倒されて眼も合わせられなかった。不甲斐ない、と席から声が湧き出る。幹部席近くでフェイジョアは縦皺のある顎を膨らませ、今にも泣きそうになっている。 「……すみません。阻止していれば」 彼は悔しそうに言った。サーフィーは薄く笑って額に手を当てる。 「後の祭りだよ。でもこうなると連帯責任だ。PLAが求めた説明を無視して不正な判決を下した國も悪だろう。提督として、司令官として事実を伝える。……良いか。軍病院の医師ペランサが健康診断で行った採毒した際の毒を持ち運び、陸軍に手渡した。そして、それは総帥の命令だった。その毒を部隊の奴らに持たせて、大公が愛用していた洋盃に塗らせた。それをヴェンリー出身の白狼に注がせたんだ。注いでくれませんか、と頼んでね。そして大公は踊ると毒が廻って死んだ。葡萄酒を注いだ白狼に罪を擦りつけて、ヴェンリー國の組織的犯行に違いない、貴族暗殺だ、奴らは戦争を始めたがっていると他國に印象付けた。勿論PLAはちゃんとした説明を求めたよ。それでも陸軍は説明を拒否した。答えないので向こうが攻撃して来たわけだ。どう? 俺の責任でもあり空海の責任だよね。勿論、総帥が最も獰悪だが止められなかった我々にも罪がある」 「……それで」 隊員の一頭が、震えて訊いた。顔は蒼白で毛も垂れ下がり、濡れていた鼻すらも乾いて髭を揺らしている。他の隊員も顔を見合わせたり小声で打ち合わせて返事を待っていた。神に祈る者も居た。然し、サーフィーは淡々と言い放つ。 「謝罪をする為にヴェンリー國へ向かう。総帥の代わりに、ね」 舌が硬った。軈て、石のようになり味覚を失った。口内がざらざらして砂が入って来たようだ。心なしか眼の奥がツウンとして鼻の奥も酸っぱい。肺は破裂したらしい。息を吸うと酸素が抜けて、窒息しそうだった。静まり返る部屋で、藍玉が大声を出す。 「大将が決定した事だ。明日には向かう。家族に手紙を書くように」 「……──待ってください。それは遺言ですか。我々は殺されますか」 苛立った少佐の鮫が口を開ける。サーフィーが眼を閉じて静かに言った。 「彼らからは絶対に殺されない。断言する」 「なら何故?」鮫が艶っぽい鰭手で頭を抱える。 「今からする作戦が失敗した場合、俺達は自殺する必要があるからね。嫌なら出て行くと良いよ。俺一頭で出来る話なんだ。深夜二時に陸軍を拘束して、空軍に空を張ってもらい、三十分には総帥の元へ行き名誉の為に死んで貰うだけ。簡単な話だよ。彼は別の作戦の一つに大規模な殺戮を考えてるんだ。阻止する義務がある」 「いえ、我々が作戦を行います。でも成功の見込みは僅かだと思われます。それでもするのならば、私達は付いて行きますよ」 大佐が握り拳を掲げて大きく声を上げる。黙り込んでいた隊員も顔を上げ、大声で同意の声を叫んだ。 「来なくても良いんだよ。どうせ、自ら死ぬことになるんだから」 淋しそうに、でも成る可く鮮やかに笑った。顔には哀の字が浮かんでいる。次々に「サーフィーさんが行くのならば、喜んで死のう!」と声が上がり気合いが入った。藍玉が黙れと一喝すると、咲いていた声が枯れてゆく。サーフィーは笑って、困ったように眉を寄せた。 「家族には伝えないでね。『いつかは必ず帰る』と言うんだよ。……作戦は二時だ。強力な麻酔銃を使用する。良いね」 「イエッサー」 次々に敬礼をする。サーフィーも一息置いてびっしり敬礼で応えた。 「それまでは家族の元に行くなり、友と過ごすなりするように」 そう言うと、家族に連絡する海獣らや家族を失って友達と肩を組む者に分かれた。会議終わりということもあり盛り上がって、花火でも打ち上げようという話になっていると、二等兵らしき海驢がサーフィーに近寄る。 「恐れ入りますが、青玉大将は誰とお過ごしになられますか?」 サーフィーは一瞬、驚いた顔をした。そして海驢と眼を合わせて「エヴァン」とだけ答える。適当な挨拶をして彼は早々に部屋から出て行くと、海豹や騾馬達を掻き分けて螺旋階段を駆けた。今すぐにでも会わなければ、という焦燥感が胸を蝕む。其処で走っていたのは総帥としての彼ではなく、青年としての彼だったのかもしれない。そう階段口に立っていた藍玉が見下ろして思った。
IN SINGAPORE 1
サムエルが長椅子に腰掛けて休んでいると、背中の焼き焦げた博戸が鬼の形相で此方を見ていた。博戸は激怒を抑えられず毛を立てて威嚇していたが、力尽きてその場に倒れ込んだ。サムエルは鉄砲玉のように弾き飛んで博戸を抱えると、姿も隠さず翼を広げて病院を探し飛んだ。群衆から化け物だ、怪鳥が飛んでいると騒ぎ立てられていつの間にか警察も集まっている。それでも飛んで、足で落ちていたペットボトルを掴むと山奥まで消え去った。霧の濃い竹藪で蓋を開けると背中に水を掛ける。見てみると彼は呼吸も荒く、体も熱っていた。仕方なく啄木鳥の如く竹に穴を開けて水を増やすと、自分の上着を脱いで着せてやった。こうしたところでどうするのか、という話である。もう姿は見られたのだから終わりだ。群衆を殺すか、人に成り済ますしかない。後者の方が現実味がある。なら彼をどうしよう。既に彼は何者かによって攻撃された。きっとBTを捕獲した者だろう。つまり猫の姿が知られたというわけである。チェックメイトだ。どうしても捕まる。……待てよ、捕まった方が得なのではないだろうか。内部に侵入して全員殺せばいい。ぶち殺して国外逃亡が簡単だ。鳥が殺人しようが罪に問われることはないし、攻撃されても生き残ればいいだけの話だ。サムエルは博戸を膝に乗っけて考え込んだ。人に変装して、連中の前で化けの皮を剥ぎ捨てる。そして有りの侭の姿を見せつけて、態と捕獲されるのだ。生憎、このような状況なのだから仕方がない。そう考えて袖を捲り早速準備を始めた。大きな岩を探して亀裂を探し、穴の空いた部分はないか偵察してから博戸を隙間に入れる。そして竹藪の竹を運んで巣を封鎖すると完成だ。目印に足で泥を吹っかけてまた空港に戻った。その頃、博戸は眼覚めてからも悪い夢だと信じ込み、また眼を瞑っている最中である。 サムエルは空港で大柄な男を見つけると、数時間観察した挙句、外に出てきた途端に頭を掴んで人影のないところまで引き摺った。男は助けを叫ぼうとしたが頭蓋骨を潰されて何もいえない。大脳が押し潰れて、単語のようなものだけが裏返って反響していた。そんな彼のパスポートを見てみると、過去には日本や韓国にも訪れていて最近は濠太剌利に行っている。名前はジェームズというらしい。私物を全て確認すると男の下半身に全て詰め込んで餃子のようにし、巣まで持ち帰った。警察も巡廻していたそうだが建物に紛れて見えなかったらしい。あんな摩天楼が聳えているのだから仕方がない。きっと気づいた警察官も居ただろうが、恐怖で仰け反って震えていたのだろう。餃子男を持ち帰ると竹藪を丁寧に避けて博戸の顔を見る。博戸は心底不愉快そうにしていた。 「死んでる?」 真っ先にしたのは生死の確認だった。サムエルは被害者のような顔をして頷く。また持っていた包丁で皮膚を剥いで当然の如く解剖を始めた。博戸は竹を拾い上げて閉じ籠ると無口になってしまう。皮下脂肪……筋肉……骨……取り除いて、臓器も何もかも削ぎ落とした。薄い皮だけになると、それを着て、足りないところは筋肉を擦り潰して詰めたり鼻の部分に嘴を当てたりして男になりすました。残った臓器を半分食べて土の下に跡形も無く埋め込む。博戸は覗きながら信じられぬといった調子である。 「真似生物でも珍しい方向だねえ。ご覧の通りドン引きさ」 頗る厭そうだ。サムエルは依然として堂々としていた。何処からその自信のようなものが湧き出てくるのだろうか。焔に塗れた猫を見たことがあるが別の方向で捻子が取れていた。サムエルは男の体を使いこなして腕を組んだり大股になる。 「貴方も着皮しますか。断末魔を元に声を再現してみたのです。仕草もうまくまねてるでしょう」太く低い声だ。筋肉質で一見すると鳥だなんて予想すらできない。でも背中は穴が空いており、翼が生えていて天使みたいになっている。押し込めば収納できると言われたものの、触ると肌が硬く冷たくて押し込む気にもならなかった。 「遠慮させてもらうよ」苦笑して言った。 「そして、偵察を頼みましたが何かありましたか?」 「……男が二人組でねえ。聞く話によると新加坡の連中だそうだ。それでBTを商売に使う気らしい。オークションを開くのだとか……。それでタクシーで空港の方に向かって、私に勘づいたらしく爆竹を投げてきたわけさ」 「そいつは大事件ですな。作戦変更です。人に戻って新加坡まで行きましょう。鳥と猫だけで行くと貧弱な桃太郎ですかね」と皮肉る。博戸は仕方なく人に戻ると、少し汚れた服を着て何とか立ち上がった。相変わらず背中は痛いらしい。 「BTさん、生きてますかね」 「私は生きてるに五千万円賭けよう」 博戸が眼を爛々とさせた。サムエルは少し考え込んで答える。 「じゃ、逆に千円賭けますよ」 「弱気だね」博戸が腰に手を当てる。服の隙間から爛れているのが見えた。「病院に寄りますか」と誘うと博戸は首を横に振って早く空港に向かうように促す。サムエルは仕方なく服で翼を隠し、荷物を背負って山道から抜けて行った。ぶわあと暖かく風が吹いた。空は曇天で土の匂いが辺りを覆い尽くしている。蚯蚓が出てきた。岩の間を蠕動運動で蠢く。博戸がそれを踏み潰したのでサムエルは残念そうに涎を拭った。やっと道路に出るとバスに乗って空港に向かい、すぐに新加坡まで飛行機に乗った。座席でも博戸は呼吸が苦しそうで、痛みに顔を歪ませている。 「まだ痛みますかな。鎮痛剤を持ってなくて申し訳ない」 「君は医者じゃないんだろう。持ってなくても当然だよ」と噛み潰したような声を捻る。吐き気もしているのか青褪めて、いつもの胡散臭い笑顔が消えていた。怪我自体は浅く、水疱が出来る程度だろうが場所が悪かったらしい。痛みが数倍は酷く感じている筈だ。サムエルは気の毒そうに首後ろをさすることしか出来ない。そんな雑談を挟みつつ、四時間もすれば新加坡に到着した。その景色は澳門に匹敵して素晴らしい。近代的な摩天楼の集合に、用途も分からない建物がぎっしりと詰まっている。空は青く澄んでマリーナベイサンズが映える。眼の前のマリーナ湾では噴水があると噂を聞いた。そして歩けば混凝土で下半身が魚の獅子……マーライオンが堂々と居た。口から噴水を噴き出し、尾鰭を折り曲げて遠くを眺めている。 「写真撮る?」博戸が懐からスマホを出した。 「この姿で?」とサムエル。確かに誰だか知らないガタイの良い男と写真を撮っても何の思い出にもならない。 「どうにかならないのかい、そのガタイの良い皮」 「どうしましょうかねえ」サムエルが頭を捻っていると、背後から刺青だらけの男が話しかけてきた。 「おい、ジェームズ。誰だその男? そんな男許した覚えはねえぞ」 「連れの博戸君だけど」 ドン引きしたサムエルが唖然とした声を出す。男はそれでも詰め寄ってきて曲がった鼻をつけてきた。 「恋人の俺に連れを御紹介か。偉くなったなあ随分と」そう言って胸倉を掴むと胸から破れてヒビが入り、羽毛が飛び出した。急いでサムエルは鸚鵡に姿を変えて皮から脱出する。男は咆哮にも似た悲鳴をあげて路上に倒れ込むと、皮を抱きしめて慟哭する。 「う、あ、ああああああああああ!?」亡き恋人がそこには居た。皮を脱がされ其処に横たわっていた。恋人くり抜かれた眼、乾燥した顔がくっきりとある。サムエルは極まり悪そうに毛繕いした。 「人生、山あり谷ありですよ。今が谷ですけど……」 「ジェームズを返せ、ジェームズは! 投資家で世界的にも有名な凄い人なんだ。東京でも、北京でも……亜細亜は各国訪れたさ。東洋の星って言われるくらい凄いんだ」 涙と鼻水に顔を汚す。サムエルは博戸の顔を見て慰めの言葉を考えた。こんな男を慰めるだけ時間の無駄だが、通報されるより良い。現時点でされてると思うけど。 「東洋の星が消えましたね。でも星って暫く空に残るから大丈夫ですよ。誰も分かりませんって」 「この人殺し……」震えている。 「そういえば紺碧色の猫見ませんでした? 企業で働いてる社畜だと思うんですけど、眉毛を魚の形に剃り上げてて眼が横に長い背の低い猫の事なんですが」 「全員知ってるだろ……新加坡じゃ有名だよ。数年前、二千二十七年に躍り出てきた人の言葉を話す猫。普通に街歩いてるぜ」 呆れた様子だ。博戸はあら意外と口をぽっかり開けた。それも新加坡全体に浸透しているなんて、吃驚である。 「切り替えが早いね……此処にも真似猫が居るのか」 「まぁ俺の周囲全員死んだしな。慣れるわ。真似猫は知らんがそういう類は偶に見る。たまーに。英国でも似たことがあったからな。当たり前だぜ。そして英国で突如現れた喋る兎は撃ち殺されて剥製にされた。お前らも治安悪いところは気をつけろよ」 念を押すように言う。剥製という言葉には恨みもこもっていたが、残酷には聞こえなかった。寧ろあの数の昆虫標本を見てきて震えることなんてない。針で刺して乾燥される方が嫌だ。 「何処かな、其処は。まさか此の輝かしい街に妙な組織でも?」 「反社が居るってよ。それを支持する外国企業があるとかでどんどん向こうが有利になってやがる。ゲイラン地区の端っこにある小さい建物があって他の国の奴らが覚醒剤取引したり、ぼったくった金で酒呑んでるとか」 「ゲイランは売春地区ですよね。行きたいけど私達はきっと無理です」 「誘われて脱がされて、見てみるとありませーんって?」 博戸がサムエルを真似て皮肉っぽく言う。サムエルは乾いた笑みを残した。彼らは男に詳しい場所だけ聞くと口止め料に数万を詰めて別れた。付近に警察が居たが彼が適当に誤魔化して隠蔽したらしい。彼の服の中にはジェームズの皮膚を畳んだ物が入っていたが、警察も流石にそんなこと予想しないだろう。気づいたとしたら、度肝を抜かれるに決まっているのだ。
IN MACAU 3
「博戸さん、一瞬だけ路地裏に来てもらえますか」 娯楽場に戻るなりサムエルが小声で囁く。博戸は荷物片手にチップを現金にしつつ「……何?」と明らかに吃驚していた。答えることもなく博戸を引っ張る。そして翼で誘導し、店を出て薄暗く幅の狭い路地裏へと走る。途中で博戸の首締めを嘴で緩めて剥ぎ取ると、服を噛みちぎろうとした。軈て、誰も見えないような壁に囲まれた場所に辿り着いた。蜚蠊が長い触覚を伸ばして壁際を這い、上には蜘蛛の巣が網状に張り巡らされていた。地面は雨に濡れていて管を辿って雫が落ちてくる。 「貴方、猫科になれるんでしょう。探って来てもらえませんか。私が空から偵察している間に」 鉤爪で服を剥がされて腹が露出した。弾力のある肉に胸下からスウと線が下って筋骨に影を落としていた。そうして腹中の臓物のせいか緩やかに張っている。彼は服の裾を持って隠すと壁に張り付いた。 「乱暴はそこそこにしておくれ、私にそんな事頼まれても……」 「生きるか死ぬかの賭けのつもりで行ってきてください。良いですか。BTさんが黒い乗用車に乗せられて標本屋のことをうっかり口にしてしまったら私達はどうなるのでしょう? 一生賭博なんて出来ませんよ。ほら、下も上も脱いでください」 そう言ってまた黒繻子みたいな革帯を解いて道端に捨てた。下半身は長く筋肉の浮いた脚と下着一つにされて、上半身は黒襯衣だけになった。重ねられた服を探って下だけでもと隠すと耳頬を少し染めて四角っぽい眉を寄せる。 「だから脱がすなって。そうだとしても、大きな怪我は勘弁だね。此の姿じゃいけないのかい」 「BTが姿を言っていた場合、すぐにバレてしまう。でも猫の貴方は誰も知らない」 「冗談よしておくれ。それに、私の姿を知ってる奴が何人か居るんだよなあ……私達のような変わり者に執着する擁護団体様とかね」と両手を広げてはあと溜息を吐いた。 「ならば仕方ありませんな。鳥人のまま変装して、拳銃を持って行きましょう。もし捕まったら私が出て来て飼い主だ、と嘘を言い張るのです。それでも疑われたら射殺して逃げます」 「紳士とは思えないね。でも……まあ少しなら良いよ」 「じゃ、聞き込み調査をするので地面や路地裏、屋根裏まで調べてくれませんか」 「仕方ないねえ」 博戸は影に隠れながら体を縮めると、見る見る内に猫になった。体は黒く、相変わらず鋼を打ったように顔面、耳先、足先が紅い。そして一の目の賽子眉にクラブとスペード模様の眸がある。大胆に湾曲した尻尾はトランプ・カードのようになっていた。艶やかな洋紅の耳は右がダイヤ、左がハートになっており左だけ倒れている。肉球の左右で黒赤と異なっていた。サムエルも鳥人に戻って深緑の背広を纏い絹帽を被り準備を整える。予め持っていた偽の髭で口許を覆い隠し、酷く背を丸くして老紳士に扮した。派手派手しい容姿の博戸を見て、サムエルは思わず苦笑いする。 「随分と派手な姿で……賭博の為だけに創られたような」 「私だって元々は歴とした猫だったがね。主人も居たよ」と尻を持ち上げて背伸びする。サムエルは空気の抜けたような相槌を打つと、空港の方面まで手で示して歩いて行った。悟られぬように、と博戸は屋根を移って歩いたり細長い道を通る。人が通り掛かるとニャアニャア鳴いて誤魔化した。随分歩いていくと空港前で煙草を吸っている女が居る。彼女は指先に傷があって、服が少し濡れていた。サムエルは女に駆け寄ると、咳払いと共に嗄れ声に変えて声を掛ける。 「お嬢さん、帽子を深く被り布で顔を隠した綺麗な女性を見ませんでしたか」 「いいえ。見てないわよ」 女は冷たく言い放つ。傷のある指には指輪の痕が残っていた。サムエルは頭を深く垂れて「そうですか」と淋しそうにする。そして背を向けると礼を口にして別の人に声を掛けた。海沿いに居るのは瞳孔の曇った老人で、皮膚が垂れ下がり左手が赤黒く膨れている。指先にかけて紫になって斑点が浮かんでいた。老人は蒼白く薄い唇をパクパクさせて海を眺めていた。 「やあ、良い景色ですな。ところで帽子を被った女を見ませんでしたか」 「……見ておりません」 老人の声は容姿と違って若々しかった。サムエルは残念そうに俯いたが、隣に並んで海を見る。海はただ真っ直ぐに広がっていて、静かだった。紺碧に煌めいて、太陽を浮かべている。サムエルは当てもなく歩いて、その場に居る全ての人に聞き込んでいた。 一方で博戸は屋根の裏で毛繕いしていた。痕跡を探しているのに足跡すら見つからない。どうせ車なのだから何処に行ったのかさえ見当がつかないだろうに、と見下ろす。屋根とはいえ先刻の驟雨で湿ったおかげか、蚊がブンブン飛び廻って鼻に噛み付いたりしていた。蚊に翻弄されながらも崩れそうな管や建物を飛び越えてゆくと怪しい人影を見つける。手には鞄を持ち、領収書のような長い紙を相手に渡していた。相手は赤の派手な服を着ていて馴れ馴れしい態度だ。ゲラゲラ笑ったりして流暢な仏蘭西語、葡萄牙語が聞こえてきた。 「いやあ! それにしてもあんな生物──」 男の一人が空を見上げ言う。相手も口を大きく開けて感嘆の声を漏らした。博戸はしめたと尻尾を揺らして耳を向ける。途端に男はシッと声を上げて此方を片眼で見てきた。眸が青灰で、彫りが深く西欧人特有の顔をしている。博戸は態と欠伸して外方を向いた。 「変ですね、あの猫! 僕達の話を聞いていましたよ!」 「馬鹿野郎、畜生に物が分かるかってんだ」 男が相手の頭を叩く。博戸は内心冷や汗を流してフウと小さく安堵の溜息を吐いた。此の姿で歩くのは疲れが溜まる。もし連中に見られたら……。攻撃されたら……。他の奴らのようにはならないと身震いした。博戸は一歩、また一歩と抜き足差し足で去るとゴミ箱の影から男達を覗き見した。肉球が地面につく度に空気を潰したような僅かな音が鳴る。其処を男達が通り掛かった。 「今からシンガポールに行ってどうしますか? オークションを開くのなら上の方に伝えた方が良いかと。億を超えるのは確定ですけどね」 「ふん。今は兎に角持ち帰ることが最優先だ」 彼らはケラケラ笑うと、タクシーに乗って何処かへ行ってしまった。だが情報は取ったぞ、と博戸は細道を走る。斜面から緩やかになっていくと、空き缶や煙草の吸殻にお菓子の残骸で周囲は汚れてゆく。足場が悪いなと思いつつタクシーを追っていくと、何処かから赤いものが投げられた。先端には火がついている。急いで避けなければと立ち止まり避けるとバチバチバチッという耳を劈くような爆破音が響いて肩から背中に激痛が走った。少し毛が燃えている。避けてからも自家製の爆竹のようなものは暫く飛び跳ねたりして、破裂を繰り返していた。博戸は火傷痕を見ようと水溜りを見た。矢張り、背中が焼き焦げてどくどくと血が滲んでいる。血が風で固まると焦げた毛を固めて余計に痛みが増した。早く戻らねば、何をしているんだあの鳥は、と行き場のない怒りを積もらせていた。胸の奥でのたうち廻る焦燥と神経を触られるような痛みに涙も出てくる。人の姿なら此処までじゃなかったという後悔も半分あった。走れば風がひりひり傷を触ってくる。また血が固まって毛が硬くなる。肩も焼けて熱い。焦げ臭い匂いと錆びた鉄の匂いがする。手脚が疲れた。もう少し走らないと空港は見えない。まだ着かない。此の屋根を飛べば早いだろうか? そう身を捩ると乾いて固まった傷口が開いて激痛が走った。まだ空港までの道は遠いのに。