愛染明王
73 件の小説思い出
オーラン君が図書館で本を読んでいた。……ドイツの歴史書、だったかな。僕はギリシャ文学が好きだから、そちらを読んでいたのだけれど……。彼のことが気になって、本よりそっちを気にしてたんだ。秋らしい暖色の服を着て、きれいな黄毛の頬。本当に、秋の妖精みたいだったから。 「ロース、何見てるの」 不意を突かれて、心臓がびくっと跳ねた。もう一遍、眼を向けてみると彼は顔を上げて蘭のような笑みを咲かせている。僕の血管はトクトクと脈打って、気がつくと顔に血が昇ってきた。体の芯から火照って、変になる。僕は咄嗟に眼を逸らしてしまった。 「……い、いや。椛が紅くて綺麗だなって。夕陽を落としたみたい」 「ふふ。面白いなあ、それ」 また、悪戯っぽく笑う。どんどん羞恥に染まり、俯く僕を見てじっとりと水気を孕んだ笑みを溢した。 「笑わないでよ。──恥ずかしいから」 「だって俺は本について訊いたのに」 「えっ」と手元の本を見る。何遍も同じページを見返しているからか、紙に癖がついて開きっぱなしになっていた。ああ、恥ずかしい。 「あっ、此はその、オデュッセイアっていう叙事詩で、イタケー島の英雄オデュッセウスがトロイア戦争の後に故郷へ帰還する話だよ」 「古代ギリシャ語原文で読んでるの? 凄いね」彼は席を立った。 「まだ辞書引かないと分からない単語もあるけどね」 焦りを隠すように字を追った。Ἄνδρα μοι ἔννεπε, Μοῦσα, πολύτροπον, ὃς μάλα πολλὰ……イーリアスと同じようにムーアへの祈り言葉が入っている──。 「でも、凄いな」 囁き声にびくりとした。胸が熱い、くるしい。吐息がすぐ側から秋風のように吹きつけてくる。まるで金木犀のようなあたたかい香がして、熱まで伝わってくる。頭がじんじんする、まるで酒に酔ったようだ。 「ねえ、近いよ」僕は喘いだ。 「もっとよく見せて」 そう言って、彼は黄色い鼻をちょんとつけて、口を開ける。僕が「あ」と声を上げる前に唇がついた。こんなにも柔らかい。甘い蜜のような接吻の後ろでは銀杏が散ってゆく。なんてロマンチックなのだろう……。そのまま僕達は本を置いて、二頭きりで家に帰ったんだっけ。その瞬間から、読書の秋が恋愛の秋に塗り替えられてしまった気がする。世間的には恋愛って、甘酸っぱいだとかほろ苦いって表現されるけど、僕とオーラン君の恋は甘いだけだったな。……それは嘘かもしれない。彼にとっては酸っぱくて、苦かったのかも。砂糖につけてない檸檬みたいにね。その年のクリスマスは家で二頭、映画を観たり、ピッツァなんかを食べてゆっくり過ごした。小さな頃から悪い子だったから、サンタクロースは来なかったけれど、その年からはオーラン君がプレゼントを贈ってくれるようになった。昔の僕に会えるなら、サンタクロースは居るよって伝えたいな。 翌年、有名な教授が近くの大学で講義をすると噂を聞いて彼と見に行った。あの頃の教授──ヘレッセン教授はあまりにも若かった。三十歳手前で、世界を揺るがすような大きな研究結果を残している。そして、最も優れた医者だと謳われている。何より、僕達の想像していた姿より遥かに美しく、貴族としての貫禄が窺えた。何より、鱗の金属光沢が甲虫のようで惚れたのだ。 「そういえば、近日、新たな研究を行った」 教授はそう切り出して、神経質そうな両手を触れ合わせた。 「脳神経が専門なのでね、神経回路を再構築するために両生類細胞を用いてシュミレーションを行った。将来的には指を一本失っても、また新たに生えてくるかもしれない」 まだ研究過程だと念を押されたものの、世界的にも有名になる発見の一つを、この場で僕達は聞いたのだ。 「凄いなあ、俺も彼のように成りたい」 オーラン君が夢を見たような顔をして言った。この講義がきっかけで、彼と僕は医者を志すようになった。それから、教授が所属している大学に決めて必死に勉強した。そんな雪解けの時期、オーラン君と二頭で珈琲屋に行った。 「たまにはさ、息抜きもいいよね」と、眼の下にある隈を擦って笑う。君は寝た方がいいよ、と言おうか迷ったけれど、少しくらいいいか。そんなことを思って相槌を打つ。今日も此処は曇天で、薄暗い。街灯頼りに夜みたいな道を歩いていく。マフラーを巻いて分厚い外套を着重ねた動物達とすれ違った。まだ冬だな、と実感する。徒歩少しして、洒落た木造の店が見えた。大胆にも珈琲と書いており、やや珍しい豆を使っているらしい。艶やかな木扉を押し開けると、僕達は言葉を失った。天井から吊り下がった角灯の淡い光に照らされた教授と、隣には薄茶色の外套を着た麒麟が座っている。二頭は静かに、香りを楽しむようにして珈琲を飲んでいた。彼らの他に客は居ない。そして、店員の姿もなかった。あの著名な教授と、僕達。たった四頭がこの角灯の下に居る。こんな機会があろうか。僕はどきどきして、オーラン君の方を振り返ってみた。彼は眼を爛々とさせて、今にも飛び掛かろうとしている。サインを顔に書いてくれとでも言いたげな様子だ。二頭でどうしようどうしようと慌てている間に、麒麟が振り返った。見れば、僕達と年齢が変わらないのではないかと思うほどに若い顔つきをしている。──ちょうど、教授に弟子入りして数年のクルル助教だった。 「顔が広くなったものですね。若い方から知られていらっしゃる」 クルル助教が揶揄うように言う。教授は困ったような顔をして、此方を見た後に咳払いした。 「……珈琲なら、ベルを押せば注文出来る。立ったままだとつらいだろうから座りたまえ」 「はっ、はい!」オーラン君が僕の肩を掴んで返事した。明らかに声が震えているし、膝が踊っている。なんだか、僕まで緊張して尻尾が垂れてしまった。 「教授、僕達、教授が以前行ってくださった講義に参加して……」 オーラン君がすこし畏まって言った。それに対して教授は、片眉をちょいと上げて「覚えている。後方の席だったな」とやや機嫌良さげに答えてくれた。僕も彼も驚いたと思う。 「え! な、何故」 「雪国生まれだろう、君。ペンギンのような毛色に、大鷲に似た四肢を見るにそれも高山生まれだろうと予想が立てられる。そして極めつけに、鮫肌の君だ。虹彩異色症を患っているな? 片眼が緋色なのもその為だろう。そんな独特な特徴を持つのは君達二頭のみ。前に立つ私からすると後方の席にいる君達はとても眼立っていた」 シャーロック・ホームズ顔負けの推理を披露する。教授は隅々まで僕達のことを観察していたようだ。思い返してみれば眼が何遍も合っていた気がする。僕は恥ずかしくなって、少し赤くなった。 「……そこまで眼が行き届いている所を見るに、さすがです。そして恐縮ですが、お隣に居る麝香鹿と獅子のハーフみたいな方は」 オーラン君が失礼なことを言った。当時のクルル助教は威厳があって……それでも猛からずといった様子だった。助教の眼は蒼穹のように澄み渡っていて、また、磨かれた水晶のようだった。 「私はクルル。彼の弟子です」竹笛のような綺麗な声に芯が通っている。思わず、オーラン君が「綺麗な声だよね」と耳打ちしてきた。僕もそう思う。だって、本当に綺麗なんだから。 「この子は私よりも知識が豊富だ」教授はそう言って、愛でるような眼をした。彼にとっていちばんの愛弟子なんだなあとすぐに分かる。青年の頃のクルル助教は教授から可愛がられていて、箱入り娘のような状態だった。ある日から互いに自律して別の絆で結ばれたようだけど、今でも双方の敬愛は変わらないと思う。むしろ、強まってるかな。そんな話をして、僕達は珈琲屋に居座っていた。クルル助教は容姿の割におしゃべりで、色々教えてくれた。東方には風獅爺が居るとか、琵琶を弾いて聴かせるんだとか。その中でも面白かった話を抜粋するならば、これだろう。 「東方には媚薬というものがありまして、それを作ったことがあります。地域差があるので出来るだけ試してみました。先ず、龍涎香の香りを嗅がせる。また鹿の角なんかを削いだものを漢方として呑ませる。あとは胡椒と朝鮮朝顔を混ぜたものを陰茎に塗る。次に、ある植物の根を辛口の葡萄酒に入れて呑ませます。どれも、欲情を引き立てたりするものです」 「そ、それはどうなったんですか。効果あります?」とオーラン君。 「ええ、ありましたね。でも胡椒と朝鮮朝顔は辞めた方が良い。そのまま寝床に誘ったとして脱いだら胡椒まみれの陰茎が出てくるんですよ? 嫌でしょ」 「やっぱ龍涎香? それとも漢方か、葡萄酒か」 どんどん身を乗り出す。クルル助教は申し訳なさそうに教授を見て、少し小声で言った。 「葡萄酒と龍涎香でしょう。漢方はそもそも不味いし、中和するために煎じても何にもなりません」 オーラン君と僕は感心して、その植物の根を買って今すぐにでも試してやろうという気を起こしていた。それを横眼に、教授は呆れたような顔をして外方を向く。窓の外には赤い椿がポツンと咲いていた。ある程度雑談が出来たのは、彼らが学会帰りで、而も祝日前だったからだ。彼らに会えて、ここまでゆっくり話せたのはこれが最初で最後だった。……──そして僕達は大学に入学したんだ。教授もいて、クルル助教もいる。その頃にはもう二頭共有名な医者になっていて、傷口をほとんど残さない手術や、後遺症を最小限に抑える治療を確立していた。僕達は最先端を学んだんだ。オーラン君は教授に憧れて、僕はクルル助教に憧れていた。そんなときだったっけ、同じ医学部の馴鹿に殴られて、刃物で傷つけられたおかげで口吻の皮膚がぺろっと捲れた。呼吸も出来ないし、海に突き落とされたから海水が沁みて痛かったな。そこをクルル助教が見つけてくれて、深夜だったから自分の皮膚を移植してくださった。だから今も僕の口吻は黄毛。もちろん、傷つけてきた馴鹿は退学した。色々あったけど大学生活も楽しかったな。でも、大学に五年で院に進もうと考えていた頃、教授とクルル助教が失踪したんだ。戦争が周囲の国で勃発していたし、彼らは軍と関わりがあったからまさかと思って、僕達医学生で確認しに行った。そしたら軍から簡単に捕えられて、強制収容所に詰められた。オーラン君と一緒に狭い空間。僕としては嬉しかった。彼の血の匂いも、汗の匂いも全て近くに感じるから安心したんだ。止血しながら「大丈夫だよ。教授たちは無事だから」と慰めれば、彼は力なく笑って「そうだといいな。本当に」と寝言のように呟いていた。僕達の体力が限界になる頃、青い豹が訪ねて来た。寒空の、碧い風景に溶けて、彼のうつくしい毛色もまた、ゴッホの描く夜空のような美しさを秘めていた。オーラン君は血を吐き、眼を剥いて、その美しい獣を見上げていた。 「可哀想に。みんなエヴァン君の教え子なのに」 発せられた声は低く、そして慈悲を持っていた。僕にはその慈悲が長年にわたり積み立てられた嘘だと直ぐに分かった。正義を知った眼も、その優しい手つきも、全て計算し尽くされた嘘なのだ。僕は何とも言えない気持ちで睨んだ。彼は仏のような笑みを作って、背後に向かって言う。 「解放してあげなさい。そして医師国家試験の為に勉強させて試験を受ける。研修は軍病院だけでなく各地の病院へ」 「良いのですか」眼、鼻の焼き爛れた背の高い虎犬が言った。青豹は構わないと言った様子で「もちろん。彼の教え子なのだから……」と笑う。そこから学生は地獄を見る羽目になる。大量の資料を処理して、国家試験まで密室に閉じ込められる。その中には工作員になる為の勉強も含まれていた。何頭か精神疾患を患って、発狂したり壁に向かって何か呟いたりしていた。仕方のないことだ。その頃だったな、オーラン君は青豹を過信して勉強に励んだ。同時に、僕に対して頻繁に愛を求めるようになった。寝床に入る時も、寒いと理由をつけて潜り込んでくる。そして接吻を求めては熱いと言って服を脱ぐのだ。都合の良い男……。月光に照らされたその顔があまりにも淫らで……──。僕達の精神がおかしくならなかったのは夜な夜な愛し合っていたからかもしれない。そして青豹に対する信頼が彼に芽生えていたからであろう。それから僕らはある事件を耳にした。世界が一変した、あの瞬間を忘れることはない。 「……舞踏会会場にてグラヴィナ大公爵の暗殺に成功した。その場に居たのはヘレッセン兄弟と──」 灯もついていない会議室で、天青石が青豹に向かって報告していた。僕は口を塞いで、気付かれまいとしながら耳を澄ませた。 「知ってるよ」青豹が面倒くさそうに答えた。微かな酒の匂いがする。 「白狼に酒を注がせたんだから、かの紳士を有罪にして報道させたまえ。北国の民が貴族を殺したんだ。大変遺憾だとお伝えして戦争に持っていこう」彼は酒を呑みながらそんなことを言った。天青石は唐辛子を噛み潰したような顔をして、ふと赤黒く染まった。僕は忽ち怖くなって、その場から走り去った。冷や汗でぐっしょりになった服が気持ち悪い。オーラン君に伝えなくちゃ、と思って階段を駆ける。すると背後から呼び止められた。振り返ると、オーラン君が立っていた。 「なあ、明日から研修だよ。寝ないと」逆光で顔が見えない。僕は眼を擦って「……そのつもり」と答えた。 「じゃ、ほら、戻ろう」オーラン君が手を差し伸べて、握る。辺りには根が焦茶の風切り羽根がはらはらと落ちていた。僕はその晩、眠れなかった。教授のこととクルル助教のことがあって、また、サーフィーさんのことで頭がいっぱいになった。サーフィーさんは此処に入る前から憧れていて、偶に会ったりしていた。彼は僕なんかより心が綺麗で、純粋で……心が爽やかになるんだ。教授と会えたのはこの件からしばらく経った後だ。医局で話しているところを通りがかって、見ただけ。きちんと話したのはその後の深夜だった。蝋燭の灯で紙を照らして書き物をしていたとき、扉がほんの少し開いて影が伸びた。 「君の心は選りすぐりの風景画だ その中でとりどりの仮面をつけてベルガマスクの一座が行き リュートを弾き、踊りながら歩く人々は 奇抜な仮装の下で何故か悲しげにみえる──」 彼はやや硬く、詩を詠んだ。僕はベルガマスクと聞いて、ハッとした。サーフィーさんは時々、ベルガマスク組曲の第三曲"月の光"を弾いてくれた。その元となった詩が、ポール・ヴェルレーヌより"月の光"だ。僕は振り返って「月の光ですか」と訊いた。教授は肯いて、壁に凭れる。 「君はどうなんだ。金緑石の名をもらって、朝に成れば変彩する日々を繰り返している」 僕は鼻の奥がつんとした。癪に障ったのかもしれない。それでも「哀しくありません。彼と一緒ですから」と字を綴りながら言った。教授はいつもと同じようにフウンと相槌を打って、遠くを眺める。 「……彼か、彼はすごく成長したな。クルルを処置する時に迷いがなかった。君のおかげかもしれない」 「いえ! そ、それは教授のおかげで!」 僕が思わず振り返ると、教授の頬を一筋の水滴が伝っていた。生気のない屍のような顔に差すそれは、彼に命を宿しているようで、美しくて胸がギュッと痛くなった。それは鱗の艶をより魅惑的にして、色気を孕ませていた。禁断の果実のような水々しさ……。 「教授……」僕は陶酔したようにクラクラとしながら呟く。教授は何事もなかったように眼元を拭き取ると、背を向けた。 「君が元気そうでよかった。では、良い夢を」 それから教授は僕の部屋を後にした。あの涙を忘れることはない。何故そんな詩を詠んだのか、その時は僕の金緑石という名を皮肉っているのだろうと考えていた。でも、グラヴィナ大公爵の謀殺を知った上で、オーラン君の前で何も知らなかったかのように振る舞う僕自身を皮肉っていたようだ。本当に教授は僕のことをわかっている……。その数年後、サーフィーさんが死んだ。青豹暗殺未遂事件から一ヶ月後のことだった。サーフィーさんの他にも海軍幹部は皆自決していた。僕はその遺体を司法解剖することになって、終始、震えた。損傷のひどい遺体を見たとき、その海の生臭さに涙が出た。 「サーフィーさんっ、サーフィーさん! 起きてよ! ねえ!」 オーラン君が崩れ落ちて泣いている。僕も、メスを持とうとしたのに震えて落としてしまった。何故、善い動物から死ぬのだろう。心も何もかも打ち砕かれた僕達は、慟哭して、喉が枯れるほど叫んだ。隙間風が痛い。固まって動かなくなった彼らを前にして、ここまで無力だなんて。思い出すだけでも、クラクラする。オーラン君なんて、途中で吐いて居なくなってしまった。僕が一頭で解剖していたら、青豹が入ってきて言った。 「残念だねえ、若いのに亡くなってしまって……国葬にしようかと迷ったが、戦争だし、仕方ないから此処で行うことにしたよ。国の為に死ねたんだから、きっと喜んでるさ。この英雄を毎日拝もう」と。そこから、僕は彼を憎むようになった。青豹が死んだ時も、葬儀に参加しなかったのはこの為だ。僕は軍医であり続けた。教授の背だけを追って、そしてオーラン君と共に生きる為に全力を尽くした。それでも、教授も殺されて、クルル助教も死んでしまった。僕は、僕はオーラン君のことしか考えられなくなった。そんな状況で、我が国は、ロザンデールは負けが決まった。途端にオーラン君は寝返って、北国に亡命した。──信じていたのに、君しかいないのに。何でだよ。僕じゃ足りなかったのか、死ぬのが怖いのか? 僕は亡命した彼を追い詰めて、拘束した。彼の顔は変わり果てていた。言葉の通用しないような眼をして、怯えていた。陽の昇らない環境でいよいよ鬱になったのだな、と、かつての仲間を思い返しながら悟った。 「……ロスヴィル」もう彼は僕のことをロースと呼ばなかった。 「俺を殺すのか? 俺達、友だちだろ」 僕達は友だち以上の関係だった。愛し合って、番だと思っていた。そして僕との再会より、自分の命の方が大事らしかった。僕は鞭を持って、勢い良く振り上げる。鞭は鰻のように畝って、彼の顔に打ち付けられる。耳を劈くような悲鳴が地下の密室に響いた。僕は彼に、北軍の情報を訊いた。彼は一向に吐こうとしない。僕は、彼を十字架に留めておこうと、両手首の骨を折って関節に釘を打ち込んだ。足は縛り上げて、翼は根っこから切り落とした。今日はそこまでにして、その翼を部屋に持ち帰った。オーラン君の匂いが染み付いていて、温もりを感じるからそれに顔を埋めて自分の陰茎を握った。そして上下させて、果てるまで愉しむ。矢張り、彼に入れなければ気が済まないと思った。僕はもう一度だけオーラン君に会いに行った。 「ねえ、一頭だと寂しいから、側にいてよ」いつものオーラン君だ。でも、何か違う。逃亡を企んで、見計らうような顔をしている。僕はまた頭に血が上って「そんなわけないだろ」と彼の尻尾を捻った。それからオーラン君は何も言わなかった。……何故、こんなに変わったのか。何もわからない。教授が患者に殺されてから、彼は医師という職業を尊く思わなくなったようだ。そんなこと、教授も、病死してしまったクルル助教も望んでいない。僕は彼が餓死するまで放置しようと、四日近くそこに来なかった。その間は、彼の羽根を帽子や腰巻につけたり、羽根ペンを作った。そして余りは枕にして、それを抱いて寝た。──四日経ったので、零時丁度に地下室に入り込んだ。 「友だちをこんなに拷問して──次はなんだ。放置プレイ……?」 また言った。都合の良いときは友だちだって言うんだ。僕は厭になって、マチェットを握り締めた。彼を救ってやらなければならない。 「友だちだから、放置しないよ」と愛嬌のある声を出して──……彼の顔に刃を滑らせる。手慣れた手つきで毛皮を剥いでいった。整形外科を過去に研修した時も、こうやっていたっけ。彼が暴れてうまくいかないから、何本か太い血管が切れた。僕は神経を傷つけてはいけないと呆れて、オーラン君の四肢を切り落とした。此の四肢も後で使おう。それより、もう暴れられないのだから強姦してもいいんじゃないか。そう思い始めてきた。オーラン君はあまりの痛みに痙攣を起こして、もがいていた。僕は四肢の皮膚を縫合して、点滴で薬を打ち込むと、千切った彼自身の肉を口に含ませてあげた。彼は空腹だったから、すんなりと噛んで食べた。 「……ロース」ああ、やっと呼んでくれた。僕は優越感に浸って、彼を犯した。彼も心なしか嬉しそうだったから、罪悪感はない。その朝、幹部の命令でオーラン君を北国に返却させる羽目になった。嫌だと反対しても聞かないし、諜報員だと疑われるので仕方がなく、北まで送り届けることにした。……それから、オーラン君が土に埋められて頭だけ出されているのをみた。今から処刑されるのだ。出来るだけ大きな石を投げられ、頭は潰れて、筋肉がぶつぶつとちぎれて骨が剥き出しになる。僕は居た堪れない心持でそれを見て、オーラン君の痙攣が治ったくらいに回収した。僕は、何のためにこんなことをしているのだろう。何頭かの同士を似たように送り出してきた。僕は何のために生きて、何のためにこんなことをしているのだろう。もう生きる理由もなくなったのだから、良い。僕はぐちゃぐちゃなオーラン君を抱いて、崖まで歩いた。 「帰ろう。オーラン君」僕はそこから飛び降りた。 教授、僕は彼を連れて、貴方と反対のところに行きます。
罪
恋とは、運命という切り裂き魔に背負わされた罪である。心臓を射抜かれ、頭の中まで掻き乱される羞恥。また、自己嫌悪という罰を負い人生を歩夢ことになる。純粋な彼女を愛してしまった自分を憎み、殺したくなる。そして手を出そうとしていることにも呆れ、水気を孕んだ希死念慮が北風のように吹きつけてくるのだ。 私は女に嫉妬した。万国に通ずる紳士の礼儀である「レディー・ファースト」を貫き通してきた以前の私ではあり得ないことだ。なんという悲劇だろうか? その嫉妬は軈て、跡形もなく溶けてしまって、水滴となり、それは後悔の湖へと還ってゆく。彼女のすべてに支配される哀れな脳は恋をしたという一つの事象に突き動かされている。彼女に好かれる為には彼女にとって都合の良い、金のある、頼りのある人にならなければならない。その為には当然、紳士の心得に礼儀作法を身につける必要がある。そしてありったけの金を用意してディナーに連れて行かなければならない。彼女に尽くしたい。その一心だ。 私は獣のような性格をしているので、愛し合いたくなる(性交)でも、汚したくない。神聖なままでいて欲しい、そして幸せになって欲しいという蒸留された美しい願望が、あまりにも眩しくそこに立っているのだ。その閃光に眼を灼かれつつ、彼女の白い裸体を想像しながら漲る。あまりの興奮に血管が浮き出て、また、体の芯から熱が籠る。その情を遮る願望、幸せという字に立ち止まり、苦しみ、嘆く。 私が彼女にとっての一位でなければ。 彼女からして私は視界にいないのでは。 私を憐んで接してくれているだけなのでは。 考えるだけで嫌になるし、周囲の人間皆死ねよと心の底から願う羽目になる。こうなったのも全て運命のせいだ、そう言い聞かせて、私は今日も運命に冤罪を背負わさせる。もしあの場所で、彼女と出会ってなければ双方幸せになれたのだろうか。もしあの場所で星の話をしていなければ、私は夜空を見るたびに胸を熱くしなくて済んだのではないか? 毎日、毎晩そう思う。数ある光の中で一番輝いて、一瞬だけでも彼女の中に星として残ることが出来るなら、今ここで死んでも構わない。その為なら麻酔なしで胸を開いてやろう。そのような覚悟を決めて、常に立つ。 もしも祇園で会えたら、そこで練り菓子でも食べて茶を飲みたい。
落書き
とある家庭 煌びやかな婦人はグラスに葡萄酒を注ぎ、召使を見上げてゐる。洋卓には投げ散らかされた真珠と林檎。東の茶葉やみずみずしい果実の数々。床には腐れて蠅の集る羊肉、革靴で踏み破られた聖書。珠のような壁蝨をぶら下げた白猫。物乞いから奪った籠には鋭く光る剣が差し込まれている。天鵞絨椅子に腰掛ける夫の背後には見知らぬ女。今にも噛みつきそうな形相で此方を睨み、左手には短刀を持っている。外には吠える犬。巻き起こる嵐に荒れる港。魚を引き揚げる髭だらけの漁師は腕を振るって、網を引いてゆく。船を揺らす怪物のような波に踏ん張る。宵には月も雲に隠れ、ざあざあと雨が糞尿を流してゆく。悪臭漂う噴水前を少年が鼻を摘んで通って行った。宮殿前の門では犬が彷徨い、吠え声を上げている。婦人らはそれも知らず、ただ晩餐を楽しんでいる。街のどこかで起こる一揆にも呑気に、そして飢えた豚のように物を食い待っていた。 かの人々へ告ぐ 叫べ 平和の声を 方舟から飛び立つ鳩の背は 誰よりも勇敢で 誇らしい その羽根を その嘴を 何に使おう 人の為に 世の為に 友の為に使おう 伸ばせ その羽根を 伸ばせ その勇気を 叫べ 平和の声を そして届けるのだ 時を渡り 世を渡り 届け伝えよ たとえその身を焦がしたとしても 君は方舟から飛び立ち 帰る オリーブの若葉を咥えて 友よ 窓からその頭を出し 夜空を仰ぐ君を一眼見てみたい 叶うことならば私を愛して その全てを見せたまへ その純白の骨を抜き 分厚い脂肪を剥がし 淋巴液に濡れる皮膚の下を探る 我が愛おしき君へ贈る 赤い一輪の花 人を信じられぬ君は きっと私さえ疑ふのだらう そんな君を待つ私は 君と同じ空を見て こんなにも美しい、と口遊むのだ その頬に落つる涙も軈て銀河に溶ける 君に贈る 君の思う美を貫き通せ 唯一無二《オリジナル》になるとは 人に笑われること 風にも負けず 根を張り 咲かす花のようになれ 笑われようが 呆れられようが そんなに君には関係のないことさ その美が その情熱が いつか花咲いて視界を美しくしてくれる その美は芳香となり漂い 人に想はせるのだ ああ きれいだ と 春 残雪溶けて桜咲く 朧月水面に影を落とす 雄鶏鳴けば朝が来る 庭には梅花 蝶の群れ 花弁乗せる春風の 香り暖か 陽の光
欲求
貴女を愛している。この熱情はどうしても抑えられない。それゆえに、態度として現れ、呆れられた末に私は貴女からの信頼を失うことになるのだ。 家で母が「独りなのは周りじゃなくてお前だ」と鷺のように喚くので、私はその都度腹を立てていた。その腹立たしさは事実を突かれたことに対する悔しさと怒りだろうと今になって気づく。そうだ、私は生まれながらにして独りで味方はいなかったのだ。そんなとき、友人達が胸に浮かんでくる。彼らは何なのだろうか。本当に私を気にかけているのだろうか。私を愛しているのだろうか! 違うのならば、消えて死ね。そういった行き場のない醜い感情が愛憎の如く湧き出してくるのだ。それは、理性という動物が持ち合わせた最も尊い美徳を打ち砕いて、ザァザァと流れ出てくるのだ。その度に私は彼らに嫌われる。私の愛が強まる度に、彼らは私を厭な眼で見てくる。その対比こそ黄金比。モナリザのような完璧さに精密かつ複雑な運命。私はそれに逆らえない。そして彼らを愛することを禁ずる。また、自身に切腹を催促し、また自分を慰める。それを反省と呼び悔い改める。この運命こそ原罪だ、神々が下した決断だと確信させられる。生まれながらに背負わされた錘。我君を愛す(我愛你)すら言えないこの世、想うことすら許されないこの世。自分以外の皆が死んで、ホルマリン風呂に浸かるなどして形を保ってくれたら、私は皆を平等に深く愛せるというのに。それ以外に愛する方法がないだなんて、酷だ。もしも許されるのならば、今すぐにでも愛する人々にフグ毒を注入してしまいたい。そして最後には接吻をして、彼女達は眠るように瞼を伏せるのだ。そうして永遠の眠りについた愛人を抱き上げ、薔薇や花車に囲まれたベッドの上にそっと置く。そこはきっと楽園のような芳香が漂っていて、あたたかく、しあわせなのだろう。ああ、頭の中で抱くことも愛すことも許さない神は何なのだろうか。私は預言者でもなければ、聖職者でもない。確かに、人として我々は善意に満ち溢れた言動をすべきだと承知している。そうだとしても、人の考えや想像まで感じる必要があろうか。神々は私をどうしたいのか。私は死亡後は遺骨を海に撒いて、全財産を人道支援を目的とする組織にお渡しする予定だ。それに生きているときはがむしゃらに人助けをしたいと思っているのだが、心の中まで純白にせよという思し召しなのだろうか? 残念ながら私は薄汚れた下水道のような心を持っている。そして野蛮だ。いつだって愛し合いたいと性欲を剥き出しにするし、本当に全て知りたいのだと叶うはずもない目標に執着する。死ぬだけの、宇宙にとってはただの塵のような私の人生は儚く、脆い。そんな可哀想な私に心の中まで理想を求めるなんて? ここではっきり言わせてもらおう。妄想の中だけでもいいからぶち込みたいし、放出して脳汁をドバドバと出したい。加えて過剰なまでに愛されたいし、時には鞭で打って嫌ってほしい。また、彼女の前では獣でありたいし紳士でもありたい。また、彼女は私の前で淫乱であってほしいし、淑女であってほしい。互いに都合のいい姿を剥き出しにしてほしい。自分しか知らない(相手しか知り得ない)姿を見たい(晒したい)。そしてそれを握られて脅され、飼い犬のように紐をつけられたい。また、引っ張られて首が締まって苦痛を味わいたい。彼女にとっての一番でありたいし、私にとっての一番であってほしい。そして頂点から底辺までの感覚を全て味わった上で一番上に居座りたい。そして彼女(たち)に関係する全員に舌を出して「お前達はそれしか知らないんだ。せいぜい頑張れ」と言ってやりたい。そのような傲慢な欲望が渦巻いている。悪魔の中でも最下級なのではと思わされるほどに汚い考えだ。神から汚物扱いされても仕方がない。 ただ、一つ褒めてほしいところは、これらを一度も口に出したことがないし、自覚して態度に表さなかったことである。
水の都
ディアーノ・ドメニコーニは、今日も水の都で休日を楽しんでいる。珍しく、酒屋ではなく料理店に足を運び、優雅に鱝のコンフィを食べている。そして窓越しに大運河を眺めて頬杖をついていた。上から羽織っているウール製のジャケットは脱がないらしい。追加で珈琲を二つ頼んで株価を見た。近日は戦況も関わって下落気味だったが、回復傾向にある。彼は牙を見せて北叟笑んだ。 「お陰様で利益が出そうだ。立ったままじゃ辛かろう」 振り返らずに言った。その背後には、首にストールを巻きダスターコートを着た猫科が立っている。その猫科は毛を露出しないように帽子を深々と被っており、絹の手袋までつけている。ディアーノは呆れたような顔をして、珈琲を勧めた。 「そいつは良かった」そう言って猫科は隣の席に掛ける。 「君は頭取になったそうだね。軍事企業に投資する気はないのかい。そうしてくれたら有難いな」 「嫌らしい奴! はあーっ、せっかく二頭だけでゆったりしようと思ったのになあ。こんな時にも金、金、金。全く嫌な世の中だぜ」 両鰭を上げミャイミャイと鳴き喚く。猫科はそれを慰めるように背を撫でた。そして外套の内側から包みを出す。何やら白く、長い臓物のようだった。 「冗談だよ。肥った君には鮫の肝の塩漬けをあげよう。鯱の好物だと聞いたのでね」 はい、と渡す。彼は分かりやすく喜んだ。鮮度が失われないうちにと呑み込む。喉越しはさっぱりとしていて爽快だ。 「聞いたって、まさかエヴァンに?」顔を上げて凝視る。猫科は平らな口吻を向けて、髭袋を吊り上げ「さあ?」と笑った。白い髭がぶるぶる震えている。 「昨日、エヴァンと図書館にでも行ってたんだろ」 彼は見透かしたような顔をして言った。「いいや」と否定して猫科は背伸びする。 「惜しいね。美術館に行った後、近くの本屋に寄ったのさ。印象派の描く光が美しくて、まるで記憶の一部を切り取ったようだった。想像力を掻き立て、また一つ視点を増やしてくれる。そんな有意義な時間だったよ」身振り手振りで素晴らしさを表現する。それに納得するようにディアーノは肯く。そして聞き流しつつ「で、エヴァンはどうだった?」と吐き捨てるように訊いた。そして血走った眼が初めて焦点を合わす。猫科は少し間を置いて「ああ」と顔を上げた。 「ご機嫌だった。僕と久々に会った時は怯えていたが、今はそこまで臆病じゃない。腕を組んでくれるよ。美術館まで馬車に乗って行こうと誘った時は乗り気で、美術館に着いてからもひとつひとつ解説してくれた。『私はこういう捉え方をしているが、君はどうだね』と訊いてくれるような至福のひととき。本屋でも面白そうな本を教えてくれた」 「お前は嘘をついている」 彼が言った。場都合の悪そうな顔をしている猫科を一瞥して、ふっとまた鼻で笑う。 「腹の底じゃあ、エヴァンの事ばっかり考えてる。あいつの態度とか対応なんて二の次だ。気にしてるわけがない。どうせ学生時代と似たような事をしようと企んでるんだろう」 尾鰭で床を叩いて返事を催促する。猫科は貼り付けたような笑みを浮かべていたが、それさえも消え失せてしまった。まるで木から毛虫でも落ちてきたかのように、厭そうな顔だ。 「知った上で、この質問をしたのか。君ってやつは性格が悪いよ。最高だったとでも言わせるつもりかい」 眉を顰める。ディアーノは肩を組んで囁くように「素直に答えてくれたら、文句は言わないぜ」とこそこそ言う。猫科は肩を落とした。 「仕方がないな。場所を変えよう」 色彩紙幣に金貨を加えて払うと、その場を後にした。ヴェネツィアの隅にある廃墟まで歩く最中、幾つも客船を見掛ける。運河の上をわーとかあーとか言いながら動物達が手脚を出す。今日も賑やかだなあ、あそこの女性は美しいな、と、そんなことを考える。建物の裏には河を挟む小道があり、一つ石橋が架かっていた。その下を沢山の船が通ってゆく。向かい合った建物はどちらも石造で、中世の歴史を感じる。彼らは橋を渡ってホテルまで行った。そのホテルは城のようで、外には古風な街灯が並んでいる。白い石階段を上ると、角灯の下がった玄関があり、押し開き式の扉があった。彼らは部屋に入ると、戸締りして鍵を掛ける。部屋はエヴァンの家と同じくらい広く、イタリアの偉人の肖像画が黄金の額に入れられ飾られていた。部屋中に豪華な暖色の角灯、また、四角い柱が四つ絨毯を囲むようにしてある。正面には天鵞絨製の長椅子があり、暖炉のある左端では小さな机を囲むように椅子が並べられていた。別室に入ると、シングルベッドが置かれており繊細な刺繍の施されたカーテンが何重にもなっている。ディアーノはそのベッドに腰掛けると、お前も来たまえと手招きした、 「で?」ジャケットを脱いで黄色いシャツ姿になる。猫科も帽子を脱ぎ、手袋を剥いだ。彼は青毛の豹だった。豹はベッドにうつ伏せるなり、ぐうと尻尾を上げて欠伸した。瑠璃のような毛が襟からも覗く。 「昔は痩せ細っていて、不安になる程だった。今もそれは変わらないけれど、背丈も一般的な竜より少し大きくて、顔が男らしくなっている。僕の知らないエヴァン君だ。唆るよ……逞しい、女を惚れさせるような男が、いまだに僕を心の中で飼っている。その事実に興奮して時々吐きそうになるんだ。腹の奥が疼く。まるで虫でも飼ってるかのように」 「それで?」とディアーノ。 「何が聞きたいんだ」 豹は呆れたというふうに肩を窄めた。それにディアーノは気まずそうに両鰭を突き当ててもごもごと言う。豹は苛ついて牙を剥いた。 「何が言いたいんだ」 「ええーと、奴はお前に体を許すようになったのか?」 「いいや、そりゃないよ。あの女と遊んでいるせいか、見向きもしないね」 「可哀想なボニファーツ」彼はそういうと、接吻《キス》をした。ボニファーツは不慣れな様子で、少し困惑したような顔をしてきょろきょろと室内を見廻す。そして毛布の中に潜った。 「でも僕は彼を想う。それが渇ききった知識の欲求なのか、または愛なのかは分からない。けれど、国益になるならそれで良いじゃないか」 「それが答えかね」毛布を捲り上げて顔を入れる。暗闇で白いアイパッチだけが浮かんで見えた。そこに巨体がスルスルと音を立てて入ってくる。きっと、氷河の上に逃げる海豹達はこんな気分なのだろうと彼は想像する。眼の前に居る肥った鯱は、明らかに常識が通じない眼をしている。 「……それが答えさ。もう僕の話はしたんだから、君の話を聞かせて欲しい」 ボニファーツが興味深そうに平たい口吻を撫で下ろした。ディアーノは期待に応えようと咳払いし、先刻の彼のように大きく身振り手振りする。また、声にも喜劇者のような滑稽さを滲ませた。 「銀行での話だ。ある海驢が情報を漏洩させてるっていう噂を聞いてな、"お仕置き"をしてやった。鯨共も煩いから舌を噛みちぎってやったぜ。理由はそれだけじゃあない。舌は珍味で、その旨い脂といったら天下一だと謳われている。興味半分で食ってみたら美味! 全員の舌を晩餐にした。豹海豹の兄ちゃんがペンギンを嬲り殺しているとの噂だったから、もちろん、腹の臓物をぶち撒ける勢いで噛みついて仕置きしてやった。そいつには岩塩を添えて、歯鯨一同で召し上がったよ。それで、ええと、一角と海牛が良い働きぶりをしている。特に一角はよく働くし、忠実だ。海牛達は奇妙な容姿だし、種族もよく分からないが、草食だし機敏だから生かしてやっている。なんだ、あとは中東の内戦が激化したから石油がなあ……キツイ!」 「軍需品は?」 「国内で賄えるだろ。はあ、欧州内でいくら軍需が儲かっとるとしても南、西アジア、中東じゃ通用せん。相場の変動によっては利益がマイナスになる。このときに北とお前らが戦争をした暁には、株価が暴落して銀行は潰れる。で、社会混乱と」 「耐えてくれよ。事実、僕らは数日後に南欧のある島に仕掛ける」 「此処で言って良いことか? 別に成功すると信じてるから咎めんがね」 「うん、対策してるよ。そもそも此のホテルは君のものだろう?」 僕は何でも知っている、という澄んだ眼に思わず嫌悪する。彼はベッドの手摺りに背鰭をぶつけながら「よくご存知で」と牙を見せた。 「洒落たところに作るね」 「まぁ、景色が良いからな」 窓際に鰭を掛けた。ボニファーツも背後から身を寄せて「此処が一番良い部屋かい」と陶酔したように言う。彼は振り向いて「もちろん」と答えた。 「エヴァン君を連れて来れば良かったんだ。きっと今頃"あの女"と」 「"あの女"って、レティーのことだろう」ディアーノが溜息をつくと、頭上からしゅうと温い息が出てきた。その生臭さに顔を顰める。 「彼女以外に誰がいるんだ? ずっと憂鬱だよ。あの淫乱な女に唆されて、可哀想なエヴァン君は餌食になるんだ。真夜中、灯の下で二頭だけ。シェリーで乾杯し、そのままベッドで愛し合うんだ。ああ、僕の知らないところで彼が汚れるなんて、考えたくもない」 自ら視る妄想に身を捩って、あゝ厭だと踠く。そうした挙句に顔を覆って仰向けになった。普段、冗談ばかり繰り返すディアーノも呆然としている。 「うげえ! 生々しい。あと、彼奴の好きな酒はテキーラサンセットだからシェリーは頼まないぞ」ヒソヒソ声を出した。 「あんな奴、糞虫《スカラベ》の陰茎《ペーニス》でもしゃぶって、総排出腔《クロアカ》に氷柱《スティリア》を刺しときゃいいんだよ」英訛りの拉丁語にディアーノが吐く素振りをした。そして「汚ねえ拉丁語を使うな」と怒りを示す。 「今夜は二頭っきりでジントニックを呑もう。な? 愚痴なら聞いてやる」そう言って冷凍庫の横から銘柄のドライ・ジンを取り出す。そして暖炉前の低い洋卓にタンブラー・グラスを置いて、氷をカランと入れる。その後は豪快にドライ・ジンを注いだ。そこに硝子瓶のトニック・ウォーターを加えてステアする。ボニファーツはその様をじっくりと見ていた。 「やけに準備が早いね。シチリア島の檸檬で頼むよ」 「注文が多いな。でもよかろう」 冷蔵庫から黄色い紡錘形の果実を出した。それは子供達がクレヨンで描く太陽を彷彿とさせる色彩で、彼の手の中で冴えて見えた。刃がざくりと入り込むと、鼻腔を通り抜ける爽やかな芳香が部屋に充満し、その実を露わにした。彼はそれを握り、ステアしたものに絞り加える。その白濁した汁は酒の中でうっすらと残ってじわじわと溶け込んでゆく。 「友愛に乾杯」 二頭はグラスを持ち、乾杯した。ディアーノは酒をそのまま呑む文化ではないので、魚身を漬けてちまちまと丸呑みする。一方でボニファーツはそれを舌の上で味わうようにして呑んでいた。 「懐かしいな。半年前はエヴァンと他の医者を呼んでアースクウェイクを作ってやった。泥酔してる奴が多くて困ったもんだ」 「味覚の退化した君には分からないと思うけど、激辛だよ。僕みたいな下戸は吐いてしまう」 「でも、エヴァンは余裕そうだったぞ。べろべろに酔ってたけど」 「へえ、彼が酔う姿は見たことがない。酔ったらどうなるのだろう?」 「ええと、愛弟子の話をする。麒麟で、頗る可愛い奴なんだと」 ボニファーツは険しい顔で「麒麟《Qilin》」と鸚鵡返しする。ディアーノは酒漬魚を呑みながら相槌を打った。 「草花も踏まず、直角に曲がり、声は譜の通り。丸い蹄を持って、黄毛、一角の肉角にずんぐりとした体の……」 「説明くさい。馬と鹿の間ってこった」 「牛みたいだと聞くよ。そんな奴が何故、西欧……而も、彼の元で医術を学んでいるんだろう」 「さあ?」腹の底から面倒臭そうに言う。ボニファーツは詰め寄って「顔は知ってるのか」と刑事のように尋問する。彼は頷いた。 「どんな顔をしている?」 「龍に似ているが、違う。眉があって、眼が大きく、唇があって二対の牙が見える。それで丸っこくって、山羊みたいな髭があり、黒っぽいさらさらした鬣が生えていた。俺的には好みだな。性がわからない」 「声は?」 「知ったもんか」 ちえと舌打ちして外方を向く。ボニファーツは只管考えて、じわじわと焔を燃やしていた。その夜、彼らは会話を交わして眠ったが、未明の頃、ボニファーツは姿を消していた。噂によると、ロンドンの列車で二日酔いの姿が確認されたそうだ。
IN JAPAN
巨大に恐れを抱いて、身を捻ってみた。そうして溶けたように手をそっと出して地面に着地するとぬるりと立ち上がる。サムエルは特に表情も変えずに「博戸さん」とだけ呼んだ。彼は大いに焦って、何から話そうかとアタフタしつつ「いやあね」と手を上げた。それでも事実を話せばどんな顔をされるかも分からない。 「根津さんですか」 「……何処でそんな情報を……」 「ピスキスが」と、指差す。ピスキスは激怒して仁王立ちし、顔を真っ赤に染め上げていた。髭もぴんと立っている。 「お前ッ!! いい加減にしたまえ! この私を置いてアメリカで賭博など! 笑止千万!」 「まあまあまあ」 「どうでしたか。根津さんは」 サムエルが頭だけを寄せてこちらを凝視してくるので、博戸は適当な料理店を指差して「あそこで話そう」と声をかけた。その料理店は至って平凡な見た目をしていた。机は木製で、酢と魚類の匂いに満ちている。その空間の中、眉の太い老人が素手で寿司を握っていた。手には包丁の古傷があって、目つきが鋭い。彼らは真ん中ら辺を選んで座り込む。そしてピスキスが「大将、大トロ!」と叫んだ。それに続くように博戸がコソコソ言う。 「彼は私だと気づいてないよ。どうせバレても彼にとってはどうでも良いと思うけどねえ……黑麒麟も、結局求めているのはピスキス君のような低賃金で蟻のように働く愚か者ってわけさ。私のように、人を真似ては賭博をして生きているだけの博徒に用なんてない」 「……お前、博徒なのか?」 「そうなるね」 「真っ当に働け! バイトならある」 「言っても無駄ですよ。賭博をすることが彼にとっての生き甲斐ですから」 そんな話になった時、大将が「ハイお待ち」と大トロを出してきた。それに一同眼を輝かせて見る。ちょうど良い力加減で握られた酢飯に、鮪の脂っぽい赤身が乗せられている。摘み、濃い醤油を纏わせて食べると、噛めば滲み出る海の味。さあて値段はと仰げば木の看板、大トロ六千円とある。そこでピスキスが大慌てで河童巻きを頼んで口に詰めた。 「……私はカジノで負けた奴の顔を見るのが好きでね。でも最近は調子が悪いのかなあ。運も悪い気がするよ。お祓いに行かなくちゃね」 「祓われるのはどっちでしょうかな」サムエルが自分の皮肉にくすくす笑った。そんな姿を博戸が眺めては、呆れたような顔をして「そうだったね」と肩を下げた。 「ところで、私達は黑麒麟と手を組んだし、彼らもよく君ことを承知しているらしいが、どのような魂胆なのだろう? 根津さんを口封じするのにそこまで回りくどいやり方をしなくても良いじゃないか」 「馬鹿野郎! 単純なやり方をすれば私のブランディングに傷がつくのだ! それにだ。奴らは反社会、面社会両方と関係している。そんな得体の知れん会社を敵に回したら、何されるか分からんだろう! そして奴らの会社は大都市圏にある。下手に動けない。情報によると複数の会社と会議を繰り返しており、人脈も広いと受け取る。そうなれば金銭面で太刀打ちできん! 犯罪系統にも強いのならば強行突破は不可能。ならば架空会社を作って、あくまで正式な取引にすることが最適解なのだ!」 「取引をして、どう口封じするの?」と博戸。サムエルは茶を啜りながらもごもご答えた。 「契約を結ぶんです。あ、勿論、それは黑麒麟も含めますが。彼は妻が居るし、ええ、部下想いですからね。どちらを殺すか、橋の上で思案していたところです」 「……それは、ちょっと……」 「ただ、現実的ではありませんね。裏についている組織が多すぎる。流石にカルテル組織に狙われたら私もコイツも博戸さんも死にますよ。……いや、博戸さんは自由に真似事が出来る。会社に侵入して適当に事故でも起こしてくれたら、マスコミに報道させて潰せますよ」 「無料でやると思うかい?」 「はあ、スリルは味わえると思います」 会計をした後は、寿司屋を出て、まず歩いた。日本の陽射しは強く、そして温暖湿潤気候特有の湿気で空気が水分を孕んでいる。彼らは布で肌を覆うなりして日陰を通る。電柱の上で鴉が一鳴した。 「……君、私が死んでると言ったよね」 「ええ」サムエルは肯いた。彼にとってはそれが鉛のように重く感じられた。胸の底が冷え切っているような気がしてどうしようもないのだ。 「私の見かけた人々には全員傷があったよ。私にはないさ」 「……私にもないぞ」パスキスが万歳の素振りをする。サムエルはそれに苛ついたらしい。軽蔑的に見下ろして鼻で嗤った。 「ふむ」絡みつくような相槌である。「ならば昏睡状態ということになりましょう」 「昏睡?」と二頭頭を揃えて鸚鵡返しする。彼は素直に肯いた。 「さようで。昏睡状態から迷い込んだ、とかね」 「だから色々とヘンテコなのか! 生きてるやつと混ざってるとか?」 「そうなりますね。Auschwitzにでも行きますか? きっと物凄いものが見れます」 「遠慮しておくよ。もしそうならケリー・パッカーと賭け合いたいね」 「あら、ラスベガスには不在だったんですか?」 サムエルが揶揄う。博戸はやや引き攣った笑顔を浮かべて、暗い声で言った。 「何故会えなかったのか、その頭でよく考えて欲しいな」 「すみませんね。でも黑麒麟には支払っておいたので、貴方の安全は保証されますよ。少なくとも……まぁ、殺されることはないでしょう」 「金? まさか、数億だとか。信じたくもないな、その金があったら賭け事に使いたいものだが……私なら上手く倍にしてみせるのにな」 「……どうでしょうね? 貴方に上手く使えたら良いのだが、それはそれはすっごい額でしてなあ、いやはや、見せられたもんじゃありません」 「この! 端金で!」真っ赤なピスキスが大激怒した。そうして肩を震わせたかと思いきや、飛び上がって掴み掛かった。 「たったあんだけのことで金を払って! 我々の生活はどうなるのだ」 「まあまあ、でも驚きましたね。人身売買だなんて、私はしたことがなかった。ただピスキス、お前のおかげでチャラです」 サムエルが掌からスマートフォンを出した。博戸は裾からそれを滑らせたのだろうと推察していたものの、ピスキスはそんなトリックに眼も向けず、ただ冷や汗を浮かばせている。そして声も喉の奥に溜めて、ただ胸だけを上下させていた。背後には背広の男達が、都合を窺うように身を潜めていた。 「貴方が居てくれたおかげで、私達は生きてこられた。感謝する」 「まっ、待て」彼は両手を出した。そこで博戸もその間に割り込む。 「待ってよ、サムエル君。それは酷すぎるんじゃないか? 彼は私達と行動を共にしてきたわけだし、少しは……」 「博戸さん、少ししたら始まるし、馬券を買って競馬をしましょう。今回は値段が跳ねますよ。では」 「待」ピスキスは鼬鼠のような男に顔を掴まれ、影に引き摺り込まれた。その後のことは誰も知らない。ただ、アメリカに連れてゆくという言葉を博戸が聞き逃さなかった。それから西風が吹いて、すき焼きの甘い匂いが香る。博戸は億劫だった。 「……博戸さん。新西蘭のあの通りを通ってみませんか。BTさんが標本屋の管理をしていますので」 「えっ、そうなのか。でも競馬があるから」 「今日じゃありませんよ。そもそも根津さんと会議やらあるんでしょう。……競馬場は左折です」十字路を指差した。博戸はあっと気づいて「すまないね」と笑う。賭博のことで頭が満たされ、魚猫のことはすでに忘れ去っていたらしい。偶にタクシーを乗り継いだりしながら、彼らは競馬場に辿り着いた。 「私は三番に賭けますよ」と馬券。その馬は白毛で筋肉質、艶やかで足取りの軽い様子だ。博戸も馬券を揺らす。 「そうかい? 私は……十二」 その馬は栗毛で大きく、それで暴れている様子だった。音楽隊によるファンファーレの合図で馬が放たれる。青い芝生を蹄で踏み、一番が先頭を走る。まだ十二番と三番は尻にいた。舌を出して並走、また汗さえ水蒸気のように風に流して、飛ぶようにして走る。それでも一番は抜かされない。そこでカーブ、一気に十二番が追い越して行った。そして三番も負けず、我武者羅になってその馬の背後に着く。一度は抜かし、抜かされを繰り返し、同着する。よく見ると十二番の蹄が少し前に出ていたので、その馬が勝利した。 「ほらね」博戸は嬉しそうに馬券を見せつけた。サムエルはやや薄笑いしてチッチと鳴く。そして道を通り帰って行った。 「次はどうしようか? 人が足りないな。麻雀がしたいよねえ」 「博戸さん、電話鳴ってますよ?」 「ん?」博戸がスマートフォンを取り出す。そこには見たことのない電話番号が載っていた。黑麒麟の幹部だろうと呆れて、応答ボタンを押してみると聞き覚えのある声が聞こえてくる。 「お久しぶりですねぇー……」 根津だった。博戸は水死体のように青褪め、また、サムエルは笑顔になった。
我が詩
Wie still der Polarstern über mir wacht, so bleib auch ich in ewiger Ruh. Wie unverändert die Vergangenheit ruht, so wandel auch ich mich niemals. Sie, gleich einer Blüte der Stechpalme, steht an meiner Seite. Und welch ein seliges Glück ist es, dass sie bei mir verweilt! 月光掌上掩 宵闇山冥冥 蝙蝠哀聲啼 蜘蛛引絲縈 蛾留絲網上 赤眼視吾行 孤燈照幽徑 北風逼我行 縦天嗤我何 縦海笑我何 ダチョウよ お前は三歩歩けば物を忘れてしまふ なんと幸せな生き様だらう 何も知らず 何も考えられぬ この醜い地球で ただ一羽 夢を観ている 夜でもないのに 廻る季節に思いを馳せて その思いさえ忘れ去る 生きよ 今を そして未来を見よ
凍てつく空に白い煙
エヴァンの精神が十五歳の時と入れ替わる。 エヴァン「あっ! 何処だここは」 クルル「? お家ですよ」 エヴァン「誰だい、君? 東洋出身に見える。その上で貴族みたいな発音をするなんて。俺を愚弄しているのかな? まぁいいや、今の年数と日付は?」 クルル「……202……8月21日であります」 エヴァン「なんてことだ。ということは、思ったとおりにいっていれば今の俺は……教授か? どうやら俺は十五歳の頃からの記憶が消え失せたらしい」 クルル「ええ、左様で。貴方が水を飲んだ直後ですから記憶喪失とは別だと思われます」 エヴァン「へえ、不思議だ。君と俺の関係は?」 クルル「私は貴方の弟子……のようなものです。脳神経外科助教を務めております。貴方は世界的に有名な脳神経外科医でマルム大学で教授、かつ今もなお研究をしている。私はその手伝いを少々。そして同居しております。もう十年近く」 エヴァン「同居? なんだ、君、俺に気は無いのか? この俺だぞ。少しは好きなんじゃないか。一緒の寝床で寝たりするのか。君に相手は? 居ない? 俺じゃないのか」 クルル「落ち着いてください。まず、手術の呼び出しが多いゆえに貴方と一緒に寝ています。そして私には相手がいません。貴方が望むのならばもちろんです。しかし、医者をしている今の貴方は恋愛などを愉しむ余裕がありません。無論、私にもありません。……ですから、話す内容も研究や手術、講義のことばかりです」 エヴァン「へえ、惚れているのか。矢張り、そうか。俺の顔も竜の中じゃ良い方だ。弟には負けるけどね。弟は、サーフィーは知ってるか?」 クルル「ええ、友達です。週に数回は映画を観ます。クリスマスにはホームアローンを」 エヴァン「へえ、あいつに友達なんて居たんだな。驚きだ。あっ、そうだ! ボニファーツに電話を掛けよう。電話番号は……変わってないようだ! 安心した」 クルル「……学生時代の先生はこんなに元気だったのか」 エヴァン「そりゃあ、もちろん。……電話機を借りる」 クルル「待ってください。貴方はその、昔の記憶しかないのだから電話をしたところで相手が混乱するのでは」 エヴァン「彼なら大丈夫だ。君よりも、下手すりゃ俺よりも頭が良い。分からないだろう? 一見するとただの馬鹿だが、全然! とても賢明だ」 [電話機に番号を入れて耳に当てる。二コールで取られる] エヴァン「ボニファーツ? ハロー」 ボニファーツ「何だい君、声が幼いな。若返ったかい」 エヴァン「大当たり。君は老けたらしいね、調子はどうだい? おじさん」 ボニファーツ「ははは、吃驚だな。僕は元気だよ」 エヴァン「はっ、どうせ君のアソコは役立たずで女も居ないんだろう。あーあ、俺には彼女がいるのになー」 ボニファーツ「何の話?」 エヴァン「君、なんて名前?」 クルル「クルル・シャムス」 エヴァン「クルルだってさ。小麦畑みたいな黄色い毛とキュートな蹄」 ボニファーツ「あー、それは女の子なのかな? 僕は彼を男だと思っていたんだけれど」 エヴァン「何で男と同居するんだ?」 ボニファーツ「そりゃ僕が君のことを諦めきれなかったように、君もゲイだからさ」 エヴァン「はあ? 君は俺のことを好いていたのか? 付き合えばいいじゃないか。振られたのか? この俺に?」 ボニファーツ「振られたどころじゃない。無視されたよ。そして僕は転校したさ」 エヴァン「俺が怒るってことは君が悪いんだろ? 謝れよほら」 ボニファーツ「あの頃の君って癪に障るよねえ」 エヴァン「今の俺は?」 ボニファーツ「現在のってこと? そりゃもう、淡白で、薄情で、血も流れてないよ。鬼さ、鬼」 エヴァン「そのくせ君は変わらないな。その年齢で余裕ぶってるところとか。俺の精神は若いから今からでもする」 ボニファーツ「何を?」 エヴァン「そりゃ真夜中のバレイよ。白鳥の湖でも流しておこうか。きっと上手くキメるさ」 クルル「比喩がいちいち鬱陶しいところは変わりませんね」 ボニファーツ「困ったな。僕は君と会って話がしたいのに」 エヴァン「え、まだ諦めきれてないのか。彼女探しに合コンでも行ってやろうか! どうだ?」 ボニファーツ「そういえば君はそんな奴だったさ」 エヴァン「好きなんだろう? 俺が」 ボニファーツ「まあ」 エヴァン「肯定した! ディアーノに言いつけてやるからな。君の恥ずかしい情報を街にも学会にも晒し尽くしてやる。泣いて待ってろ。ティッシュは要らないな? だって君は下が機能してなくて消費量が少ないから!」 ボニファーツ「君、落ち着いて聞いて欲しい」 エヴァン「?」 ボニファーツ「実は君が勃起不全なんだ。君が自ら選んだ選択だ。私のことが嫌いすぎて自ら機能しないようにした」 エヴァン「嘘だ……」 ボニファーツ「君は男に抱かれる以外選択肢はないよ」 エヴァン「じゃあクルルは本当に男だって言いたいのか!?」 クルル「どっちでもありません」 エヴァン「じゃあ女だ。何故かって俺はゲイじゃないから。こんなガリ猫と一緒にしないでくれ」 ボニファーツ「そのガリ猫とお揃いさ、親愛なる君。ただゲイと一括りには出来ないな。対象になるのは僕とディアーノだけだろう?」 エヴァン「そう思い込んでるのはお前だろ。ふざけるなよ。誰がお前らみたいな奴に惚れ込むか。公衆便所みたいな口臭した貧乏な女くらいだろ。眼の悪い盲目さ、盲目!」 ボニファーツ「好きなだけ罵れよ。戻ってから昔の僕に謝ると良い。……そうしてくれよ、頼む」 エヴァン「とにかく会って話がしたい。な、会わないか」 ボニファーツ「会ったら僕、君に何するか分からないよ」 エヴァン「その時は殺す。大丈夫だ」 ボニファーツ「僕は軍獣だ」 エヴァン「サーフィーを呼ぶ」 ボニファーツ「まぁ、それなら止められるだろうね」 エヴァン「ディアーノは今何してる?」 ボニファーツ「銀行のトップ」 エヴァン「凸っていいか」 ボニファーツ「辞めとけよ。多分怒られるから」 エヴァン「クソ……レティー! レティシアは!」 ボニファーツ「バイク乗り回してるよ」 エヴァン「会いたい」 ボニファーツ「会えば?」 エヴァン「何で冷たいんだよ。協力してってば。俺のこと好きなんだろ」 ボニファーツ「君のそれが演技なら、僕はどうなるか」 エヴァン「もし演技だったら君の前で服を脱いでぶちまけてやる」 クルル「はあ?」 ボニファーツ「正気?」 エヴァン「俺はこういう男だ。卵の時から!」 ボニファーツ「わかったわかった、駅前集合ね」 エヴァン「OK」 クルル「馬鹿なんですか。色々ぶっ飛んでますよ。下品だ」 エヴァン「君の前でお利口さんにしてるエヴァンHは偽物だ。糞垂れ! 強がってるんだ。どんな奴か知らないけれどね。……何してる、君も来なさい」 クルル「私のこと叱りつけたり、責めたてたのは何でですか」 エヴァン「君の出来が悪いからだろ。それか馬鹿だから。でも可愛がってたから敢えて時間割いて怒ってやってたんじゃないのか」 クルル「そんな……」 エヴァン「鈍間め、早く来たまえ。くそ、時間を無駄にした。私の下で何を学んできたんだ。足を止めるなクソッタレ」玄関を出て急ぐ。 クルル「どっちがクソですか。貴方の性格もガンジス川レベルですけどね。薄汚くて薄情です」 エヴァン「本当なことを言ったまでだろう。何で君みたいな出来損ないが家に居座ってるんだ? そもそも東洋出身じゃないか。お国に帰ったらどうなんだ? 布でも作ってろ」 クルル「酷い! ガキでも言っていいことと悪いことがあるのに!」 エヴァン「ガキだと? 君こそ言語覚えたての幼児に見えるがね?」 クルル「何を!!」 ボニファーツ「うわ、凄い場面見ちゃった」 サーフィー「最悪」タクシーから出てくる。 エヴァン「サーフィー!? 背が高いな! 兄ちゃんのこともう追い越したのか。ボニファーツも大きいー! 筋肉質だ、すごいな。顔は変わらない? 相変わらずだな。何も変わらない。いや、髭が増えたか。サーフィーは逞しくなった」 ボニファーツ「あんまり触られると僕のブルドーザーが黙っちゃいないから」 エヴァン「お言葉だが、君のやつはこんなもんだ」小指を出す。 サーフィー「いや、素直にいうと親指の関節くらい」 クルル「そんなに太くないだろ。失礼だ」 ボニファーツ「冗談は置いといて、レティシアに会いたいんだね」 エヴァン「ああ、あとディアーノ」 ボニファーツ「そう……馬車で行く?」 エヴァン「いや、一緒に歩いて行きたい」 ボニファーツ「電話で言いたい放題言ったくせに?」 エヴァン「あーすっきりした」 ボニファーツ「だから肩を組むなって」 サーフィー「マジで気持ち悪いからさ、二頭でボクシングでも行かない?」 クルル「は、賛成。エヴァンさん、私達向こうでボクシングしてくるんでさようなら。二度と会うもんか」 エヴァン「惨めに八つ当たりしてろ、(頭が)お可哀想なようで」 ボニファーツ「僕達、二頭きりになっちゃったね」 エヴァン「ところであの珈琲屋って潰れたのか?」 ボニファーツ「いいや? まだあるよ」 エヴァン「なあ、街に建物は増えたか?」 ボニファーツ「少しね。大して変わらないよ。増やすというより改造が多いかも。少し隣国寄りさ」 エヴァン「新聞は?」 ボニファーツ「全く」 エヴァン「へえ、あ、母校はどうだ」 ボニファーツ「そうだねえ、あそこは古いままだよ。トイレも」 エヴァン「トイレくらい新しくすべきだと思う。あんな古臭い……しかもカビだらけだぞ」 ボニファーツ「知ってるよ。……よく笑うね」 エヴァン「君は笑えなくなったのか?」 ボニファーツ「いいや、少し疲れてるだけ。君と居ない間がつらくて」 エヴァン「じゃあずっと居ればいいじゃないか、側に」 ボニファーツ「君が許してくれないよ。ほら、腹減ったんじゃないか? ピッツァ・ア・タリアータでも買っていこう」 エヴァン「まだこの店あるのか。うわあ、店長肥って老けてる」 ボニファーツ「ふふ、美味い証拠だろ。すみませーん! 二頭分!」焼きトマト、緑野菜から揚げ焼きした蠍肉が溢れんばかりに乗っかったピッツァ・ア・タリアーモを包み渡される。ボニファーツが金貨を数えて払った。既にエヴァンは齧り付いている。 エヴァン「あー! 美味い! これだこれ」 ボニファーツ「食べるねえ、トマトの汁が口についてるよ」 エヴァン「あ、本当だ。ありがとう。ボニファーツも食えば?」 ボニファーツ「食べるよ……あ、美味しい。たまにはいいかもね」 エヴァン「窯焼きは違うな」 ボニファーツ「ね」 エヴァン「何でさっきから舐め回すように見てくるんだ? 眼が据わってるというか」 ボニファーツ「据わってるのは肝だよ。それより、水着買って行かないか。レティシアは海にいると思う」 エヴァン「海獣の彼氏に浮気か?」 ボニファーツ「自由だから分からないね。でも、毎日海に来るんだ。居ないとしても必ず来るから、それまで泳ごう」 エヴァン「君って海が嫌いなんじゃなかったか?」 ボニファーツ「嫌いだよ。本当に」 エヴァン「無理して泳がなくてもいいだろ。木登りでもして遊べばいいし」 ボニファーツ「君にとっては楽しくないだろう?」 エヴァン「俺はそこらへんでヤドカリを探す」 ボニファーツ「僕に見せてよ」 エヴァン「言われなくても見せる。何でそんなに距離が近いんだ?」 ボニファーツ「不思議な感じだなって」 エヴァン「なにが?」 ボニファーツ「いつも老けてるけど、……笑顔が増えるだけでこんなに若々しい。僕がすごく老けて見えるよ」 エヴァン「元からだろ。際立つだけで」 ボニファーツ「いや、僕は若々しいよ」 エヴァン「どうかな」 ボニファーツ「ほら、海だよ海。ヤドカリ探してきな。僕はここにいるから」木を登って太い枝に抱きつく。 エヴァン「気楽だな。まぁいいや、探してくる」 ボニファーツ「……うん……」彼、寂しそうに背中を見送る。 一方、ボクシングジム クルル「クッッソ!!!! 悔しい!! あんなクソガキに!」 サーフィー「左ストレート! 良い力の入り方〜」 クルル「くそぉぉ……っ」 サーフィー「アッパー! 良い感じ」 クルル「私って先生にああやって思われてたのかな? 無能だって? 哀れだから丁寧に教えてた? 手放さなかった? 腹立ってきた」 サーフィー「思ってないと思うよ? 今入れ替わってるのは感情があった頃の兄ちゃんで、普段は感情が内側から破壊された兄ちゃんだから。そもそも失望って概念すらあるか怪しいよね」 クルル「ええ?」 サーフィー「でも思ったことはそのままストレートに言ってるわ、け」 クルル「で!」蹴り クルル「結局私に対しては何も思ってないということ?」 サーフィー「いいやー? 言葉通り、右腕だろ」 クルル「取れたら大変だな」 サーフィー「そういうことっ。ほら弱いよ、もう少し強く! フック」 クルル「どりゃ!」 サーフィー「いいね」 クルル「なんで軽く受け止めるんだ……」 サーフィー「だって特殊部隊だし……」 クルル「海軍だから格闘技しないと思ってた」 サーフィー「逆だよ」 クルル「じゃお前と喧嘩になったら殺されるんじゃないか?」 サーフィー「しないよそんなこと」 クルル「分からないだろ。酒に酔ってたら」 サーフィー「泥酔しても殴ったりはしないよ。過去に一回だけボニファーツのことボコボコにしちゃって、そのときに胸とか発泡されたからね。もうやらない」 クルル「胸撃たれて何で生きてるんだ?」 サーフィー「気合いだな、気合い!」 クルル「へえ……はあ、汗かいたな。アイス食わね?」 サーフィー「いいね、俺買ってくるよ。何味にする?」 クルル「キャラメル」 サーフィー「はーい」しばらく戻って来ない。それまでクルルは自動販売機で買った水を飲む。そしてエヴァンとの会話を思い出しては凹みら涙を浮かべる。後にサーフィーがアイスクリーム両手に戻ってきた。 クルル「……チョコミント?」 サーフィー「マジ美味いよ。一口食べてみて」 クルル「ん、うまい」 サーフィー「じゃキャラメル一口ちょうだい! おいしー!」 クルル「だろ、キャラメルが正義だよ」 サーフィー「いやチョコミントも美味いでしょ」 クルル「まぁ、そうだな」 サーフィー「クルルって兄ちゃんのこと考えてる時に変な顔するよね」 クルル「へんな?」 サーフィー「笑ってたり、泣きそうだったり、顔が皺だらけになったり」 クルル「今は?」 サーフィー「泣きそうな顔。どうしたよ」 クルル「さっき言われたことがフラッシュバックしてさ」 サーフィー「気にすんなよ。しなくて良いよ」 クルル「だって、本当に思われてるかもしれないし」 サーフィー「大丈夫、俺がいる」 クルル「もうサーフィーん家に住もうかな」 サーフィー「基地じゃん」 クルル「嫌だ」 サーフィー「俺は良いよ?」 クルル「冷房とかないだろ」 サーフィー「あるよ。一応」 クルル「一応がつく時点で嫌なんだわ」 サーフィー「ええ? そう?」 クルル「でも行きたくなったら行くよ。空けといてくれ」 サーフィー「言われなくても」 海 エヴァン「またヤドカリだ。あ、閉じこもった。出てこい」 ボニファーツ「いじめちゃ駄目だよ」 エヴァン「子供扱いするな」 ボニファーツ「弾圧するよ? 極左冒険主義者め」 エヴァン「自己紹介?」 ボニファーツ「僕がいつそんなことをしたんだ。いつだって客観的だよ」 エヴァン「そうだろうか、ん? あの赤いバイク……」 ボニファーツ「彼女が来たね。僕は外そうか?」 エヴァン「いや、側にいてくれ」 ボニファーツ「僕は彼女と仲が悪いんだけどな」 エヴァン「そんなわけないだろ。レティシアー!」 レティシア「? 何、アンタ達も夕日見に来たの?」 エヴァン「え、レティシアってそんなロマンチックな趣味があるのか」 レティシア「習慣さ。で、ボニファーツは相変わらず木の上に」 ボニファーツ「お気になさらず」 レティシア「はあ。エヴァンさ、相談乗ってくんない?」 エヴァン「いいよ、どうした?」 レティシア「最近さあ、エキドナと喧嘩してさ」 エヴァン「エキ……」 ボニファーツ「彼女はオペ看の仕事で忙しくて苛ついてるからねえ。あの紅い鱗もさ、もっと赤くしちゃって。カンカンに怒ってるさ」 エヴァン(ナイスボニファーツ)「喧嘩か」 レティシア「そうそう。困るんだよ。ウチが可愛がってやってんのにああやって抵抗されると腹立つわ。マジで最悪な気分。だからぶん殴ってやったよ。そしたらサーフィーに止められた」 エヴァン「へえ……流石俺の弟」 レティシア「アンタどうしたのよ? サーフィーを褒めることなんて滅多にないじゃないか」 エヴァン「いや何でもない」 レティシア「怪しいね」 エヴァン「続きをどうぞ」 レティシア「セックスしてくんないんだよ」 エヴァン「セッ!?」 ボニファーツ「レティシアが女好きなせいだよ。一途じゃない浮気性のヤリチンは嫌われるよ? 流石にそろそろ腹括んないと」 エヴァン(ありがとうボニファーツ)「良い感じの雰囲気にしたら?」 レティシア「そうねえー、なんか思いつく?」 エヴァン「灯りとか調節して、良い感じの映画垂れ流して、ティッシュとかをベッドに置いて……あと香水とかつける。ローションを置いとく」 レティシア「ヤること前提すぎて萎えない?」 エヴァン「そうか?」 ボニファーツ「アロマじゃない?」 エヴァン「アロマだろ」 レティシア「あー確かに。焚くか」 エヴァン「一回俺ん家で再現してみたらどうだ。君が良ければ」 レティシア「何? お誘い?」 エヴァン「いや、その、友達としてな」 レティシア「ふーん、クルルには飽きたの? 要らないならウチが貰うわよ」 エヴァン「どうぞご自由に」 ボニファーツ「彼、喧嘩したんだよ」 レティシア「なに、アンタら喧嘩でもしたの?」 エヴァン「まあ」 レティシア「まじ? ウケるわ。じゃあサーフィーと居んじゃん。迎えに行ってやりなよ。どうせアンタが悪いんだから」 エヴァン「俺が悪いわけないだろ」 ボニファーツ「謙虚になりなよ」 エヴァン「なるもんか」 レティシア「だから気を紛らわせに海まで来たわけ?」 エヴァン「いや、別に」 レティシア「何よ、可愛いとこあんじゃん」 エヴァン「……」 レティシア「沈んでいくねー」 エヴァン「儚いな」 レティシア「代わりに月が出てるでしょ。実質二十四時間営業年中無休よ」 エヴァン「ブラックだな」 レティシア「アンタの大学と一緒。ね、今日は暇?」 エヴァン「……暇」 レティシア「嘘でしょ。ほら、早くクルル迎えに行かないと」 エヴァン「何で俺が」 ボニファーツ「サーフィーに電話掛けとくよ」 レティシア「チッ、生意気だな。ウチもエキドナ探しの旅に行くんだから、アンタも大事な奴、見失わないようにしなさい」 エヴァン「……分かった」 レティシア「素直になるのよ。じゃ、また」 ボニファーツ「バイバイ」 エヴァン「じゃあな」 レティシア「じゃあねー」彼女はバイクに乗り、砂浜の上をエンジンを吹かして帰っていった。彼らは夕焼けに染まる海に残され、ポツンと木下にいる。 ボニファーツ「じゃあ、迎えにいこうか。エヴァン君」 エヴァン「そうだな」 ボニファーツ「……僕のこと嫌い?」 エヴァン「何でそんな質問の仕方をするんだ?」 ボニファーツ「NOと言って欲しくて」 エヴァン「……NO」 ボニファーツ「よかった」 エヴァン「こっちの俺にとことん嫌われてるんじゃないか」 ボニファーツ「そうだね」 エヴァン「体の距離は近いのに、心の距離が遠くなった。その他はあまり変わってないのにな」 ボニファーツ「近くありたい?」 エヴァン「いや、違和感があるだけ。別に密着したいとかずっぽり入り込みたいとかじゃないんだ」 ボニファーツ「わかってるよ。そう……」 エヴァン「過去の俺に縋って安心を求めてもあれじゃないか? 現状は変わらないだろ」 ボニファーツ「気持ちだけだよ。僕が許されないことは側から見ても明白。所詮、自己満足さ」 エヴァン「自己満足か、惨めになったな……」 ボニファーツ「そうだね」 エヴァン「俺はそこまでボニファーツを恨める自信がないから、大丈夫だろ。多分」 ボニファーツ「なんで?」 エヴァン「普通、友達のこと恨めるか? 情が湧くから無理だろ」 ボニファーツ「僕がどんなに酷いことをしていようとも?」 エヴァン「そこまで後悔してるなら大丈夫。しなくなったら終わりだ、終わり」 ボニファーツ「そう? じゃあまた一緒に話してくれるかな」 エヴァン「そこまで仲が悪いのか?」 ボニファーツ「うん」 エヴァン「ご愁傷様」 ボニファーツ「本当にね」 エヴァン「……もうすぐ着くぞ」 ボニファーツ「そうだねえ、僕はお暇しようかな」 エヴァン「そうだな。じゃあ」 ボニファーツ「じゃあね」 店に渋々入る。 サーフィー「あ、兄ちゃん。尻尾傷だらけじゃん」 クルル「は、見せて下さい。切り傷が……消毒しないと駄目でしょ」 エヴァン「? 痛みはないけど」 クルル「え?」 エヴァン「全く痛くない」 サーフィー「だから兄ちゃんって怪我しても反応薄いの?」 クルル「薬の副作用かもしれない」 エヴァン「何か薬でも盛ったのか? ほら、麻酔とか」 クルル「どうでしょうね」 エヴァン「クルル、さっきはごめん。俺はああ思ってるけど、こっちの俺は多分そう思ってないから」 クルル「別に良いですよ。どちらにせよこんなクソガキがあんな紳士に育つんです。気にしません」 サーフィー「良かったね、許してもらえて」 エヴァン「うん……お前身長高ッ」 サーフィー「何回目?」 エヴァン「すげーかっこいい。美貌だし彼女沢山いるんだろ」 サーフィー「残念ながらゼロだよ。ねっクルル」 クルル「美貌だから逆に」 エヴァン「相手がいると思われるのか。じゃあ童貞なんだな」 サーフィー「ゴツい男に抱かれたよ」 エヴァン「うわあ……」 サーフィー「じゃ、俺基地に帰るから。さっさと過去に戻ってくれよ」 エヴァン「酷いな。じゃ、また」 ♦︎ クルル「先生はどんなものが好きですか?」 エヴァン「ん? まぁ、食べ物なら果物が好きだ。果肉が詰まったやつ。趣味ならバイオリンとか絵画鑑賞。歌を歌うのも好きだな。学問は全分野に関心があって、そうそう、医学が好きだよ。父も医者だ」 クルル「……そうですか。知れてよかった」 エヴァン「同居してるくせにそんなことも知らないなんて、仲悪いのか」 クルル「いえ。自身のことを全く話してくれないので」 エヴァン「ふうん。君と俺はどうやって出会ったんだ」 クルル「私は東洋の国……南京というところで医者をしておりました。その地方では医師になる年齢などが設けられていないゆえに子供の頃から。その地方は内陸沿いだったので、世界大戦になった流れで紛争が勃発。そこで私は捕えられて西欧で売買されることになりました。ですが隙をみて抜け出して、逃げ切った先が貴方の家だった。そして先生が倒れている私を見つけて応急処置を施した。その際は戦争だったこともあって、帰すとまた捕まるといわれ同居することになり、外科医として医学を学び動物を助けている貴方に憧れて、正式に西欧の大学に入ったのです。その大学で先生は推教授をなさっていましたから。教わりつつ医者になり、助教という立場で支えています」 エヴァン「そうか。へえ! 珍しい。憧れか」 クルル「憧れてます。医師としての貴方にも、貴方自身にも。惹かれたから此処にいて、学ばせてもらっています。だから先生には無理してほしくないし、伸び伸びとしていてほしい。それなのに、無理をなさる」 エヴァン「……」 クルル「私のこと頼ってくださいね。貴方には欲が足りない」 エヴァン「君は本当に飄々としてる、まるで年上みたい。尊敬か愛かなんて俺には分からないけど」 クルル「そんな、熱っぽい眼差しで私を見ないでください。……あー、暑い。そんなに素直だとまるで別人だ」 エヴァン「……」 クルル「もう戻ってるんなら下手な真似しないことですよ。もう、でも私が言ったことは本当ですからね。頼ってくださいよ? 今からでも」 エヴァン「なんだ、気づいてたのか。つまらない」 クルル「いつからですか」 エヴァン「ボニファーツが帰ってから。私は過去に戻っていたらしい」 クルル「へえ……どうでした? 楽しかった?」 エヴァン「授業でボニファーツが手を挙げた刹那に答えを口頭で言う嫌がらせをしていた。七限目あたりにピカソから注意を食らったが言い負かしてやった。あと過去一難しいテストで満点を取ってディアーノに見せつけた」 クルル「復讐ですか、それ」 エヴァン「ああ」 クルル「もっとしたでしょ」 エヴァン「何をしたと?」 クルル「わかりませんけど、何か」 エヴァン「君の思うようなことはしていない」 クルル「本当ですかね?」 エヴァン「ああ、もちろん」 X年前 十五歳の冬 一限目 ボニファーツ「エヴァン君、今回の数学解けた? 三角関数だったね。大学の過去問をいきなり出すとは思わなくてびっくりした!」 エヴァン「ん? あ、ああ」(景色が違う。学校で、ボニファーツが幼い。年代はいつだ? カレンダーを……なるほどあの年の十二月。つまり私は十五歳だ) ボニファーツ「なんでぼおっとしてるんだ? らしくないな。徹夜でもしたの? ねえディアーノ、エヴァン君が疲れてる」 ディアーノ「ガチ? ほんなら保健室連れて行った方がいいんじゃないか……?」 エヴァン(ナポリの発言……純粋そうなボニファーツ……単純な問題……比較的綺麗な教室……この制服……) ディアーノ「エヴァン?」 エヴァン「ん? ああ、ごめん疲れててさ。数学解けた? 難しかったね」 ディアーノ「そりゃもうスラスラ解けた。図書館でお前らと予習してたんだから当たり前だろ」 エヴァン「ああ……そう。ボニファーツは?」 ボニファーツ「僕も」 エヴァン「へえ」 ディアーノ「今日のお前なんか変だぞ」 エヴァン「まぁ、な。ごめん、外の空気吸ってくるわ」 ディアーノ「おう」 ボニファーツ「……」(挙動がおかしい。僕に対してそんな視線を送るはずがない。彼は僕のことを好意的に思っているはずだ) エヴァン(廊下が懐かしいな。背後からボニファーツが尾行してくる。これに反応したら疑いを掛けられるだろうか? 無視することすら不自然か。じゃあ巻いてやろう)角を曲がって別通路に行き、裏から外に出る。 ボニファーツ「……? あれっ」 エヴァン(焦っている。この頃のボニファーツは骨格もしっかりしてきて声変わりしたんだっけな。まだ汚れてない彼だ) ボニファーツ「エヴァン君、どこ? あれ……」 エヴァン(親を見失った小鴨だな。背後から忍び寄って……) エヴァン「おい」肩を叩く。 ボニファーツ「!?!? うわあ!!」毛が逆立つ。 エヴァン「そんなに驚くことじゃないだろうに」 ボニファーツ「驚くよー 何してるのさ……! こっちは心配してきてるのに酷いや!」 エヴァン「……はは。怒ってる。授業開始まで時間があるから外に出ないか。ほら、自動販売機で珈琲買わないと」 ボニファーツ「え、君が珈琲を? 驚天動地だなこりゃ」 エヴァン「何を飲んでたっけ?」 ボニファーツ「いちごミルク。昨日も」 エヴァン「参ったな。なるほど」さりげなく肩を組む。するとボニファーツが頬を赤くしたので調子に乗る。 エヴァン「君は制服がよく似合う。シャツが黄色ならもっと良かった」 ボニファーツ「僕達の学年は赤だから仕方ないよ。一つ上にいかないと」 エヴァン「じゃあ、飛び級しようよ? 俺なら君を三学年程度に上げられる自信がある」 ボニファーツ「……ディアーノも、一緒がいいよ」 エヴァン「あいつは俺たちのこと気にして飛び級してないだけですげえ頭いいんだぜ。騙されるなよ」 ボニファーツ「そうなの?」 エヴァン「だから心配しないで。ほら、自動販売機だ。何買う? 奢るよ」 ボニファーツ「僕は、ええっと、水でいいよ」 エヴァン「本当に?」 ボニファーツ「本当にって、なに?」 エヴァン「好んで水を?」 ボニファーツ「いや、なんとなくだよ」 エヴァン「何となく、ね。まぁいいや、水な」 ボニファーツ「あっ、うん」 エヴァン「はい。俺はいちごミルク飲むから」 ボニファーツ「うん。ありがと……美味しいよ。すごく」 エヴァン「……」 ボニファーツ「何でそんなに見てくるの?」 エヴァン「いいや、何でもない。教室戻ろうか」 ボニファーツ「? うん」 エヴァン「なあ、ディアーノのこと好き?」 ボニファーツ「もちろん!」 エヴァン「俺も好き。だから酷いことはしないようにと思う」 ボニファーツ「そりゃ、そうだよ」 エヴァン「じゃあさ俺のこと好き?」 ボニファーツ「うん」 エヴァン「じゃあ裏切んなよ。……友達を。そうしたら俺は二度と君の前に現れるつもりはないし、縁は切る」 ボニファーツ「えっ、え……なんで。エヴァン君は僕のこと嫌い?」 エヴァン「好きだから言ってやってるんだ。理由を考えずに今の言葉だけを覚えておけ。次はないからな」 ボニファーツ「言葉足らずだよ。‘次は’って? なんで? 僕は君のことを裏切ったりしない! したことないよ!」 エヴァン「君は必ず俺を失望させる。また、君は勝手に俺に対して失望することになるだろう。でもいいよ、別に」 ボニファーツ「どういうこと? 僕に話して! 君は未来からきたの?」 エヴァン「……そうだよ」 ボニファーツ「僕が酷いことした?」 エヴァン「まあ」 ボニファーツ「ごめん。あ、その、縁切ったの? もう友達じゃないのか、僕のこと恨んでるんだよね」 エヴァン「もちろん。でも腐れ縁だ。切れなかった」 ボニファーツ「よ、よかった。中身だけ入れ替わるって不思議だね。変わったことによって過去を変化させたとして、それでもしも未来が変わったら、元々の君自体は変化するのかな? 過去のエヴァン君をA、今のエヴァン君をBとした時に、AとBの間に変化が起きたらBは変化してしまうのかってことね。君が戻ったら全て変わってるかもしれない。ごちゃごちゃになる」 エヴァン「それを覚悟して言っている。記憶が消えようがこれが夢や幻だろうが言っておきたい」 ボニファーツ「……何されたの」 エヴァン「君と同等になるように無理矢理矯正された。成績が君より良ければ削られて、悪ければ殴ったり晒しものにさせられる。また、罰という名の好き放題に付き合わされ強姦されては鱗を剥がされる日々。しまいに私は全てがどうでも良くなって、成績は良くなったが内面は渇いたまま大人になった」 ボニファーツ「……ごめんね、僕のせいだね。エヴァン君の大事な一生をぐちゃぐちゃにしちゃった……」 エヴァン「君は私以外に友達を作るべきだと考えた。それが解決方法だ」 ボニファーツ「ディアーノが!」 エヴァン「他にも」 ボニファーツ「そんな、自由に話が通じる相手は君達しか居ないのに」 エヴァン「通じさせる努力をしろ。あと君は軍獣になってはならない。私と別の大学に入り、数学を学べ」 ボニファーツ「う、うん」 エヴァン「ディアーノ、後をつけてきたのか。いやらしいやつだな」 ディアーノ「な、何で分かったんだ……?」 エヴァン「近くに寄れ」 ディアーノ「何」 エヴァン「ほら」メロンを平手打ちする ディアーノ「痛! 何お前!」 エヴァン「君はボニファーツのことを一番の友達だと思っている」 ディアーノ「お前も一番だろ。何なんだよ。何が言いたいんだよ」 エヴァン「もう私とは縁を切った方がいい」 ディアーノ「はあー? 嫌に決まってるやろ。理由説明しろ」 エヴァン「君の兄は殺される。そしてその兄を私が食うことになる、次に君は瀕死状態になる」 ディアーノ「は……」 エヴァン「私と縁を切れば幸せになる」 ディアーノ「嫌に決まっとる。なんで、未来なんて分からないもんだろ。予測すらできない! それをペラペラと!」 エヴァン「予測? いや、断言できる立場にいるんだ。君達と何歳離れてると思ってる? 私はもう既に三十。君達の倍生きてるんだな」 ディアーノ「は?」 エヴァン「残念だ。君との仲は大切にしたかった」 ディアーノ「嫌だ、ボニーも何とか言ってやってくれ。正気になれよ」 ボニファーツ「僕のせい?」 エヴァン「私のせいだ。どちらかといえば」 ボニファーツ「どういうこと」 エヴァン「君に話しかけるべきじゃなかった」 ディアーノ「そんな酷いこと、本人の前で言うもんじゃない!」 エヴァン「酷い男だろ。だから今日から私たちは友達じゃない。他人だ。……もうすぐ授業が始まる。戻ろう、それじゃ」
息抜き
三年生神経学授業の終わり、エヴァンとクルルは机に向かった。 クルル「お疲れ様です。昨日の最新刊で先生の論文が掲載されてたんで驚きましたよ。あんなに綺麗な結果が出るのは稀ですから」 エヴァン「ああ、私の中でも傑作だった。それより君の研究は進んでいるのか」 クルル「ああ、はい。原虫の研究なんですけど、脳マラリアの治療法についてです。脳マラリアのモデルを利用して、体内細菌との関与や影響を比較しています」 エヴァン「興味深い」 クルル「いや、そんな褒められたら調子に乗りますよ。まだ青二才ですから。先生は今、何の研究をなさってるんです?」 エヴァン「損傷した神経細胞の修復と神経回路の再構築だ。最近は薬剤の投与で中枢神経が再生する可能性が出てきた。だが、結果として論文にするのはもう少し時間が掛かる。末梢神経での修復実験では局所的だが再構築が窺えた」 クルル「凄い……此処で話して良いことなんですか? まだ掲載もされていないのに」 エヴァン「君にも一部手伝ってもらうから丁度良い」 クルル「光栄だなあ……ん、あれ……また飴が出てきた。あげますよ」 エヴァン「要らない」 クルル「そうですか。電話鳴ってますよ」 エヴァン「……失礼」彼、電話を取る。そこから雑音混じりの声が垂れ流される。クルルは既に荷物を置いて準備する。 エヴァン「脳底動脈瘤破裂による急性SAH発症、五十代、駱駝の男性、重症。急遽脳室ドレナージ。第二手術室」 クルル「はい」 エヴァン「今日は二例目だな。日本式固体ラーメンにお湯を入れようと思ったのだが」 クルル「カップラーメンにお湯を入れたら救急車が来るって噂を東洋で聞きましたよ」 エヴァン「はあ」到着後、手洗い手術衣の着衣。状況確認後、脳室ドレナージ術を行う。エヴァン執刀、クルル第一助手。麻酔医は蛇食鷲。 クルル「穿刺予定部位、剃毛お願いします。看護師さん、ポビドンヨード此方。私押さえますので」 看護師一「はい」渡されたもので指定部位を剃る。 エヴァン「局所麻酔を注射する。リドカイン」剃毛済み頭皮から骨膜に向けて局所麻酔薬の注射を行う。そして看護師からメスを貰い切開、穿孔器で頭蓋骨に穴を開ける。 エヴァン「電気メス」 看護師一「はい」硬膜を切開する。 エヴァン「カテーテルを」 看護師一「はい」脳室に向けて管を慎重に通す。軈て血性髄液が出てくる。 エヴァン「固定する」縫合し固定 エヴァン「滅菌ドレッシング材用意。排液バッグに接続する」 クルル「クランプします」空気の混入や過剰な髄液の流出を防ぐため適宜調整をする。 クルル「では高さ調節します……」 エヴァン「お疲れ様、詰まりには警戒するように」 看護師「はい」手術室から退散。脱衣、念入りに手を洗って戻る。だが経過観察もあるため休む暇がない。 クルル「血栓が心配ですね」 エヴァン「珈琲豆買っとけば良かった」 クルル「カフェインならエナジードリンクでも良いのでは?」 エヴァン「味が苦手だ」 クルル「刺激的ではありますよね」途端、クルルの電話が鳴る。 クルル「ああ、すみせん。出ますね」 クルル「はい、シャムスです。そうですか。神経学に直接関係ないけど良いんですか。ありがとうございます。先生は隣に居ますよ、何か用事でも? そうですか。ええ。報連相を大切にしてますから。要件はそれだけですか、では」 エヴァン「どんな内容だった」 クルル「原虫の研究内容が本に掲載されるらしいです」 エヴァン「めでたいな」 クルル「ええ」 エヴァン「……明日の授業はどうしよう。午前の九時に入っている」 クルル「オーランの所ですよね」 エヴァン「そうだ」 クルル「……彼、勉強熱心だから、先生が好きなタイプでしょう」 エヴァン「オーランの悪いところは友達に執着するところだ。何処かの豹に似ている」 クルル「?」 エヴァン「それより、患者はどうだ。出血量もあって油断出来ない」 クルル「連絡が来てないようですから、まだ異常はないかと。看護師の方が調整してくれていますから」 エヴァン「看護師は誰だ」 クルル「院長先生の隣にずっと居るイグアナです」 エヴァン「ベロニカだな」 クルル「私、看護師さんが怖くて話せないから名前知らないんですよね」 エヴァン「話さないと影で言われることになる。避けているとか臭いとか」 クルル「これだから看護師は嫌なんですよ。文句ばっか言うくせに私達の名前すら覚えてないんですよ。信じられますか」 エヴァン「……」振り向く。 ベロニカ「……」 エヴァン「お疲れ様です」 ベロニカ「お疲れ様です」微笑。 クルル「……あの、えっと、容態は?」 ベロニカ「考えてくださいね、容態が良好なら私は此処に居ませんよ。血栓で閉塞傾向なのでウロキナーゼ、投与しても良いですか」 エヴァン「すみません、はい」 ベロニカ「大概にしてくださいね。では」大股で退室する。 クルル「はっ、はい……」 エヴァン「怖いだろう」 クルル「殺されるかと思いました。自分より一回り小さいのに」 エヴァン「彼女は此処にいる老いた医師の弱みを全て握り尽くしている」 クルル「……様子見に行きますか」 エヴァン「いや、一時間経過してからにしよう」 クルル「心臓が今、震えてます」 エヴァン「……近いうち学会があるんだった。準備しておかないとまずいな。明日の授業……研究、論文、外来、研究、経過観察、他国での会議」 クルル「私、原虫関連で東南に行くんですよ。暫く会えませんね」 エヴァン「……胃が痛くなる話だ。最近はよく胃が痛む」 クルル「穿孔が出来てるんじゃありませんか。胃酸抑制の薬貰った方が良いですよ」 エヴァン「いいや、少し痛むだけだ」 クルル「我慢は駄目ですよ。参考までに、私は過去に穿孔が出来て吐血しました。酷かったので二週間の入院です」 エヴァン「一応診察しておくか」 クルル「友達に消化器内科医が居るんで紹介しますよ」 エヴァン「有り難い」一度会話が途切れる。一時間程度して様子を見に行くが良好であった。そのまま論文執筆などで数時間が経過して夜になる。その日は軽く研究室を見廻った後に二頭で帰宅した。 エヴァン「何か、軽食でもどうだ」 クルル「そうですね。パンとか」 エヴァン「分かった」袋から分厚いパンを取り出す。そしてナイフで切ると、ジャムを塗りつけた。そしてそれを皿に乗せて渡す。 クルル「ありがとうございます。……美味しい」 エヴァン「そうか。良かった」 クルル「……先生って私のことを眼で追う癖がありますよね。そして凝視してくる」 エヴァン「不愉快にさせたか? すまないな」 クルル「いえ、私も貴方に同じことをしてるので」 エヴァン「私ばかり見るより、本を読むなり景色を見るなりして視野を広げた方が良い。君の生涯に残された時間は有効活用すべきだ」 クルル「自分に返ってきてますよ、その言葉」 エヴァン「君は仕草や癖が面白い。成程と思う」 クルル「小馬鹿にしてるでしょ。先生も中々癖が強いですよ」 エヴァン「そうか。例えばどんな所が?」 クルル「小説を読むとき、後書きから読むでしょう。そして雑誌は読んだら積むし、新聞だったら切り取りますよね。それを貼り付けたり纏めて残す。側から見たら奇妙ですよ。あと話す時に機嫌が良ければ両手の指をつき合わせて、機嫌が悪いと腕か足を組む。親しい相手は隣に座らせず対面または斜めに座らせる。それで碌に話さず、しまいには煙草を投げて寄越す程度」 エヴァン「はあ、言われるまで気づかなかった」 クルル「そのくせ私は横に置きますよね。お嫌いですか」 エヴァン「手術になった時に肩を叩いて伝えられる位置は隣だ」 クルル「ああ……」 エヴァン「それに私が失神でもしたらすぐに対応出来るだろう。私の体調不良は成る可く君に任せたい」 クルル「そうですね。身に余る言葉です」 エヴァン「思ってもないことを言うな。……呼び出される前にシャワーを浴びた方がいいな」 クルル「そうですね。先生からどうぞ。電話が掛かってきたら叫ぶので。あ、お着替えなら用意してますよ。両方」 エヴァン「ありがとう」エヴァン、風呂へ行って素早くシャワーを浴びる。幸い、呼び出しはなかった。彼が出た後にクルルも急いで浴びるが、毛があるため時間が掛かる。仕方がなくじっくりと泡立ててお湯で流した。 クルル「入れました……寝ますか」 エヴァン「テストを作る」 クルル「ええ、今回の出題範囲は……微生物学あたりでしたね。どう出します?」 エヴァン「グラム染色と細菌分類。寄生虫の虫卵や臨床症状から原因菌を選択する問題。あと旅行歴や体の基本情報、症状から治療薬を選ぶもの」 クルル「治療薬……オーラン大丈夫かな」 エヴァン「苦戦してるのか」 クルル「かなり」 エヴァン「周りに教えてもらえたらいいが、頼れる友達が居ないだろうから仕方ないな。その時は単位を落とすだけだ」 クルル「む、無慈悲ですね。救済処置は?」 エヴァン「ない」 クルル「……赤痢アメーバの問題、今年も出すんですか?」 エヴァン「見ての通り。細菌検査の基本も出す」 クルル「流石に全問正解して欲しいところですね。基本ですよ。ところで、大学院に進みたいといった学生はいましたか」 エヴァン「少しだけ居る。膵臓の研究らしい」 クルル「面白いですね。膵臓か……惹かれる部位ではありますもんね」 エヴァン「君は体というより寄生虫に興味があるんだろう」 クルル「いや、私はあくまで脳について調べてるので。アメーバによる髄膜脳炎とか……実際興味深いですよ」 エヴァン「君は寄生虫に出会しても、症状を見ても眼を輝かせるからな。どちらもか。……原発性アメーバ性髄膜脳炎も問題に出そう」 クルル「良いですね」 エヴァン「君は寝なくて良いのか?」 クルル「先生を差し置いて眠るわけには」 エヴァン「睡眠時間を削って手術に支障が出たらどう責任を負うんだ。それに君の寿命が縮まるから早く寝ろ」 クルル「先生も一緒ですよ? 貴方の方が激務なんだから今くらい寝てくださいよ」 エヴァン「テスト作成は今日中に終わらせたい」 クルル「……じゃ、お先に失礼します」クルルが寝室へ行って眠る。その間も黙々と作業を続けた。やがて彼は作業を終えて、深夜の三時ごろに眠った。その少ない眠りの中で悪夢を見た。 エヴァン「!」尻尾が震える。汗なんてものは出ないが、何だか嫌な気分になった。旧友には見捨てられ、愛弟子からも軽蔑される夢だ。 エヴァン「クルル、目を覚ませ。もう朝だ」 クルル「うわあ! 国家試験に落ちた! なんだ夢か」 エヴァン「君は医者だ。早く着替えて顔を洗ってこい」 クルル「はい……」 エヴァン「私はシャワーを浴びてくる」 クルル「ええ」
Sandy Road
“You’ve come all the way from South Asia. Welcome. Have you decided what you’d like to order?” the snow leopard asked. Yeneos hesitated, then turned to the Marco Polo sheep. “What should we get?” The Marco Polo sheep looked at the snow leopard with an unmistakably displeased expression. Reluctantly, he said, “A salad of lichens and moss, and a scorpion soup.” After the snow leopard had left, Yeneos leaned toward him and spoke in a low voice. “You really don’t like snow leopards, do you?” “Of course I don’t,” the Marco Polo sheep replied, exasperated. They stretched their arms across the tribal rug spread over the table and waited. A painting hung on the wall, depicting red flowers and buds. From the ceiling hung Turkish lanterns, their brightly colored pieces of glass arranged in intricate geometric patterns, casting an almost fantastical atmosphere throughout the restaurant. Looking bored, Yeneos gazed up at the ceiling from time to time, flipping through the menu in the meantime. Before long, their dishes arrived. “There’s something distinctly foreign about this place. Even the seasoning of the food… it’s a little different,” the Marco Polo sheep remarked as he brought a piece of lichen to his mouth. Yeneos nodded in agreement and ate a scorpion. A faint sound reached his ears, like the soft crunch of fish roe being crushed between the teeth. After that They crossed the folded mountains that rose towards the sky, following the road along the salt lake. Vast stretches of coarse salt covered the earth, reaching all the way to the horizon.The Milky Way stretched across the sky, a shimmering expanse of silver scales.The inside of the car was freezing. The Marco Polo sheep shivered. "Oh, it’s freezing. Why on earth is it so cold?" “Here, I’ll wrap my shmagh around you.” Yeneos removed the orange shmagh he had wrapped around himself in a guerrilla-style knot and wrapped it around the Marco Polo sheep. The sheep winced, but somehow managed to act as though nothing was wrong. “Thanks! … It’s a little small, but I appreciate the thought!” They then descended the slopes and entered a small town. Smoke billowed into the sky, and the town was as bright as if it were daytime. The flashes of exploding gunpowder illuminated the streets. Keeping their heads down beneath the wails of animals and the rain of bullets that echoed through the streets, they made their way across the town before entering a rocky salt desert. “Looks like there might be travellers crossing this place,” they joked.And, as if on cue, there really was a camel crossing the desert. Yeneos asked the Marco Polo sheep to stop the car and rolled down the window. "Where are you going?" "I'm going to the Arabian Peninsula." The traveler said. “What, are you planning to become an oil tycoon? Arabia is a long way from here. Want me to give you a ride?” the Marco Polo sheep said teasingly. “No. I’m going to write down the story of my journey from here to the Arabian Peninsula. That’s why I’m going to make the journey on my own.” The camel’s tearful eyes burned with a flame as he stared intently at him. For some reason, Yeneos felt a pang in his chest. “I see. Good luck,” was all he could say. They continued across the salt desert for two nights. At last, they reached the border of their homeland, where leopards stood waiting with rifles in their paws.Right there, Yeneos stuffed the package into a cotton bag, wrapped it over and over again, and hid it inside the seat. He then prepared passports for both of them and stopped the vehicle at the checkpoint. “Hey. Let me see them,” one of the leopards said as he approached. The two of them got out of the vehicle and handed over their passports. As the leopard stamped them, he suddenly looked at them with a startled expression. “Well, I thought I recognized those faces. So it’s you two. Go on through.” “Yeah. Thanks.” The Marco Polo sheep said it lazily. They continued along the road toward their homeland.A city ravaged by war. Mosques riddled with holes. Children collapsed from hunger, their ribs protruding beneath their skin. Even just looking around was painful for them. “It’s a hell of a sight every time I see it. …The base is coming into view.” Yeneos said this as he pointed ahead. The facility was painfully bleak, utterly devoid of color. It was barely even a building anymore—just a square structure without so much as a roof. They were led through a heavily fortified gate that seemed utterly out of place with the building itself. Leopards checked their faces, then gave them permission to park inside the base. From somewhere beyond the parking lot came the roar of a man. It must have been a scream. Then some wildcats came to collect the weapons they had smuggled in. They were dressed in the familiar desert camouflage. “Ah, Russian guns sure are something. You think so too, kid?” one of the wildcats said. Yeneos answered with a voice tinged with an awkward smile. “Yeah.” On their way to the room, the Marco Polo sheep fastened the buttons at his collar and said,“Hey, I heard Jamshed’s become an executioner. Says it’s easy money if all he has to do is shoot someone dead. It’s fucking hilarious, really. Makes you wonder just how far the species called ‘beasts’ can be corrupted by money. I don’t want to end up like that.” Jamshed was a boy who had become an interrogator at the young age of thirteen. He was a leopard gecko the same age as Yeneos, and he was missing several toes. Yeneos vaguely pictured him in his mind and gave a sardonic smile. His hand drifted toward the leather eyepatch. “…Hmph. Jamshed will do exactly as the military tells him. Because he was taught that obedience was happiness. They make him memorize it over and over, almost like scripture, until it is burned into his mind. If you disobey, one of your friends gets stoned to death the very next day. Or perhaps they play soccer with a cow’s severed head?” “We ought to follow their example too, huh? By the way, what was it that happened to your right eye again?” Marco Polo asked. “You know perfectly well. This blind right eye was ruined by Jamshed. Want me to take off the eyepatch and show you? Who does something like that to one of their own? What a terrible bastard.” As Yeneos was about to continue hurling insults at him, he sensed a faint presence behind him. He spun around, startled. Standing there was a yellow leopard gecko, his clothes stained with blood. The blue shemagh wrapped around his neck was covered in countless stains, showing how worn it had become. He muttered to himself, “Jamshed.” "Assalamu alaikum. I was speaking to some pig over there. Forgive me.”