愛染明王
15 件の小説君はもう居ない
春風に揺れる蒲公英に想いを馳せ 眩い陽の光に手を翳して街を覗く まるで君みたいだ 太陽みたいに(黄色い)眸 雲みたいに(白い)毛並み ただ遠くを見つめ 煌めく朝日に欠伸して 教会の鐘の音を背に今日もゆく 机に置かれた 花瓶に一輪のカーネーション 手を伸ばしても 其処に君は居ない 羽根の(嘴の)面影を 青い空に向かって 君は飛ぶだろう 旅をして 海を(空を) 歩んでゆく(そして) 大陸の雨風を受けるだろう きっとこれからも 歩む生涯 ずっと孤独だろう 秋風に揺れる金木犀に想いを馳せ 眩い夕暮れの光に手を翳して海を覗く まるで君みたいだ 夕陽みたいに(紅い)心 星みたいに(白金《プラチナ》の)鉤爪 ただ空を見つめ 暮れゆく夕陽に欠伸して 学校の鐘の音を背に今日も帰る 棚に置かれた 一冊の教科書 手を広げても 君には届かない 翼の(尾羽の)残像を 紅い空に向かって 君は行くのだろう 旅をして 川を(運河を) 渡ってゆく(そして) 雪山の粉雪を受けるだろう きっとこれからも 歩む生涯 ずっと孤独だろう 夏は暑さに枯れて 冬は寒さに凍えて 海を渡るよ(陸を越えて山々を) 軽々と君は舞う 君は舞う 僕らの心で
Hymn
That midnight hour, Evan sank into an armchair singing Protestant hymns, his legs stretched out before the fireplace. His mud-spattered shoes were white, made of orca hide. The lustre of scales across his entire body shimmered deep green and crimson purple as he rolled up the sleeves of his ill-fitting coat. ‘Well then, shall we have some hot wine?’ He clasped his cold hands together and let out a deep sigh. After a moment, he said, ‘Before the wine,’ and pulled a cigar from his pocket. Clipping off the end, he lit it with a puff of fire from his mouth, clamped it between his teeth, and drew in the smoke with evident relish. Then, purple smoke billowed thickly from his nose and mouth as he wiped the dust of memory from his mind. ‘You seem rather tired, don't you?’ Diano smiled and stroked his back with his fin-like hand. Evan looked slightly displeased, then promptly stood up and began preparing mulled wine. The cigar clenched between his teeth glowed red, steadily emitting smoke. ‘I feel most at ease when I'm with you. Don't you agree? You're the only bloke who'd touch gold bars with his bare hands.’ He placed the mulled wine on the low table, gave a dry chuckle, and sat back down in his chair. ‘Well, come to think of it, I suppose I am the only one who does that sort of thing. But Evan, you had an apprentice, didn't you? Come to think of it, I believe it was something like a divine beast or the like.’ ‘Ah, yes. There is. A lad called Kururu. He can apparently smoke ten cigars at once.’ He blew smoke from his mouth over Diano's face before taking a sip of wine. ‘But I feel at ease when I'm with you too. Your room isn't too tidy either—I find a bit of clutter more relaxing. What's that odd vase?’ He pointed at the lapis-blue vase behind him. It was ceramic, intricately painted with golden patterns. Inside stood a single rose, tilted so that a fragment of petal lay fallen. ‘This was given to me by a teacher who looked after me.’ ‘Ah, Picasso? He was your form tutor back in the day, wasn't he? I remember you dancing at the cultural festival.’ ‘Exactly. I'd just seen him recently and mentioned it. Then he gave me this vase.’ He smiled, fingering the thorny rose. Then the sound of hooves came from the garden. And the door creaked open. ‘Professor Evan, you're back?’ ‘Ah, I've come back at last.’ ‘I thought you might return about today, so I bought some chocolate. Oh? And who might that orca be?’ The orca, tail fin submerged in a chair, raised its fin and called out, ‘Hello!’ Then, adjusting the collar of his white suit, he took Kururu's hand and embraced her. ‘So you're Kururu! How adorable! I'm Diano Domeniconi, head of the bank. Pleased to meet you!’ He shook hands until her arm ached, pumping it vigorously up and down. Kururu, unexpectedly formal, rubbed her sore wrist and bowed her head. ‘Mr Diano, it's a pleasure to meet you. I am Kururu Shams, Professor Evan's assistant. I hope you remember me.' Kururu sat snuggled up close beside Evan and took a sip from her half-finished mulled wine. Then, looking blissfully content, she stroked her cheek. ‘You're quite fortunate to be able to hear Master Evan's hymns,’ Kururu murmured into Diano's ear, almost as if complaining. ‘I'm sure you'll have a wonderful Christmas. Master Evan would agree, wouldn't he?’ Evan shifted his cigar in one hand, looked down slightly, and nodded. ‘I hope so.'
需要ないインタビューやで
まず名前を教えてください。 「あっオーラン・ラネージュです、あははは…」 出身高校とかって? 「あえっと、っすね、モラディチカ校っていう所すねはい」 あっモラディチカ笑、なら大学は? 「あー、へへ、アンブロシア大学医学部です」 学部まで聞いてないんだけどな、好きな食べ物は? 「あえっと、ハンバーガーですね。あとピザトーストっす」 へえ、学生時代の思い出は? 「あー、小学校の時に滑翔大会一位でっしたよ」 へえ、高校でも滑翔大会あるっしょ?何位? 「さ、最下位です」 ふーん。家は? 兄弟とかいるの? 「えっ、一人っ子です。お父さんは戦争で手を失ったのと、大怪我してて医療費が馬鹿にならなくて、お母さんがずっと働いてまして、俺もバイトしたりしたんすけどね」 どんなお父さんでしたか? 「凄く優しくて、お酒をいっぱい飲むけど料理が美味くて。よくボルシチを作ってくれました。陸軍だから家にいる時間が短くてあまり話してないんですけどね、戦争の時は特に帰ってこれなくて。でも基地から時々手紙が来るんですよ。あっ、そう、絵がうまくて。元々空軍に憧れてたから爆撃機描いてくれるんです」 お母さんの性格は? 「あ、の、話したことあんまないんです。殴ってきた? 殴られたことはあります。でも近所の奥さん達と仲良くて世間話してますよ。毛が白毛で橙色の斑模様があって、よく紅い服を着てました。近所の獣達に好かれてて、俺も見た目はいいって思いましたよ」 嫌い? 「き、嫌いではないです。ほらだって教育費と生活費払ってくれてるし親に依存して生活するのが子供です。お父さんの分まで稼いでくれてるんですから、色々言っちゃいけないっていうか何というか」 はーん。恋人とかいる? 「恋人、みたいなのなら居ますよ。ロース……ロスヴィルっていう海竜なんですけど海の都市で生まれてて建物の半分以上が石や岩、珊瑚で海から少し顔を出してるくらいなんです。潮が引いたら建物が出てくるんですよ。きれいだった。ロスヴィルはそこ出身で海軍元帥のお父さんがいるんです。でも暴力を振られてて、苦しんでて。全身、見せられないところにも青いアザがあって折れてたりしてて。それで息ができなくなって海に浮かんで瀕死状態のところをエヴァン教授っていう俺の尊敬する先生が助けたんです。でもその時、鼻ら辺の皮膚が剥がされてて、クルル助教っていう凄い人が自分の皮膚をその場で剥がして移植したんですよ! その後でアンブロシアの医学部に来て同級生になって、それから仲良くなって付き合い始めたんです」 どんな子? 「臆病で、女の人と話せない。あ、それは俺もっすね。しかも凄く頭悪いんですよ。そして大きい音とか声を聞いたら過呼吸になって倒れるんです。それもあるけど暑さに弱くて干涸びる時もありますね。あとは人格が分裂してるってことくらいしか」 分裂? 「普通のロースと、他にゼノンっていうのが居るんです。暫く精神科で治療してたけど効果なくて、それもゼノンっていう女を喰ったり男を喰ったりするヤリチンの方が賢いし面白いし、好かれてるんですよ。ただね、きっと彼のお父さんを映し出してるんだと思います。暴力が凄くて、俺も良くされてます。怖くて、痛くて、でも何だか抵抗する気になれないんです。気持ちいいというか何だか抱かれながら痛いことをされると打ち消されるんですよね。苦しみって」 どっちが好き? 「ロースが好き。ゼノンはエヴァン教授と仲良いんで」 エヴァン教授ってどんな方? 「脳神経と心臓血管を専門にしてるけど、あ、この国では二種専門選択制を採用していて二つの分野を選択できるんです。それで教授は一番難しい二つで成り上がってるんすけどその中でも国、いや、世界を代表するスペシャリストで超頭良いんすよ。でも性格が心を捨てて慈悲を捨てたみたいな人で、同棲してる助教でさえも論文破いて叩きつけて終わり。返事してくれてもYESかNOくらい! ってイメージですね。けど結局は親切ですよ。親切すぎて冷たく感じるだけなのかなって思います」 自分で自分の性格どう思う? 「ああ、自己中心的だと思いますね。でも真面目な方だと思いますよ」 誕生日は? 「五月二十六日です」 自分の好きなところは? 「唯一挙げるとしたら頬の模様ですね。いや、ペンギンみたいで可愛いっしょ。このオレンジ」 特技は? 「パンツを秒速で履けます」 黒歴史は? 「エキドナっていう看護師の怖い竜が居るんすけど飲み会に行った時間違えて尻尾触っちゃって、調子に乗って揉んじゃって殴られましたね」 好きな色は? 「カラメル色と水色ですね」 好きな曲は? 「Chiquititaとかは好きですね」 性処理は? 「まずティッシュを用意するでしょう? 片手を動かしますよね。出るっっここでティッシュを余った手で取り出してキャッチ。これを捨てます」 憧れの人は? 「勿論、それはエヴァン教授ですよ。大好きです」 後悔してることは? 「生まれたことですね」 夜型? 朝型? 「いや夜型なんすよねー」 得意科目は? 「歴史と生物ですね」 苦手科目は? 「現代文です。何もわかりません」 大切なものは? 「家族写真です。お婆ちゃんに会いたい」 癖って? 「頬杖をついてしまう癖があります。教授が姿勢悪くなるし辞めろって言ってくれたんですけど中々治りません」 好きな本は? 「罪と罰ですね」 苦手なことは? 「女の子と目を合わせることです。無理ですねー」 生きててごめんなさいと思うことは? 「ありますね。いや友達が減るばかりでもう何が正解なのだか」 最高点数は? 「100点っすね」 童貞? 「は?」 何で抜いた? 「ぶっかけっすね。ほら、人と違って色んなモノがあるんで竜とか特に多種多様だから見てて楽しいし興奮しますよ。色は同じなんすけどね」 嫌いな人は? 「それはミスターコリネリウスです。理由はないけど態度がなあ」 恋愛を除いて好きな人は? 「へへ、ペランサさん結構好きですよ。いつも困ってたり悲しい時に飴くれるんですよね。檸檬とか桃とか」 手脚の毛が白いのって嫌ですか? 「鷲みたいでカッコいいっしょ」 楽器とか習ってましたか? 「習ってないけど、サーフィーさんにピアノを教えてもらいました。トルコ進行曲だけ弾けますよ」 最後に何かありますか? 「ポッキーの日誰かポッキーゲームしません?」
翠玉
白波の向こうからはある長く歪な形をした建物が一つ見えた。煙が立ち昇り、クウクウと空に広がる。見惚れる暇も無く、横長い旗を掲げた艦艇達は黒焦げの残骸を避けて次々と帰っていっていた。大波は薄く広がりいつの間にか晴れ渡った空を映して紺碧に染まっていた。藍玉は長く平たい口吻を撫でて、ほうと眼を四方八方揺らす。沈んだ船の旗は浮かび、金属片が無数に広がっている。その中に、白い制帽が流れていた。 「アレは回収しなかったの?」 サーフィーが指差して首を傾げた。背後で書類を片手に何かと悩んでいた藍玉が頭を突き出してさっと覗き込んだ。 「そうらしい」 「ふうん、酷な話だねえ。ならば取りに行って来よう」 制帽を脱ぐと、唖然としている藍玉の頭に帽子を被せた。大きさが合わないが、お構いなしに制服の釦を外す。水を弾く様な分厚い毛が覗いた。 「あっ! おい待て。どうするつもりだ?」 手を伸ばしたが止まる事も無く、はらりと制服が飛んでゆく。鯨や鮫の喧々たる声を背にすると、迷いなく手脚を伸ばし体を投げる。海に泡が立ち、呑まれ、姿が消え失せたと思えば艶やかな長い角が出て来た。油を塗られた様に水を飛ばし、すうっと一直線に泳いだ。張られた脚は尾鰭に見え、いつの間にか海藻の絡んだ制帽を掴んだまま空中を跳ねていた。艦艇へと水を掻きつつ戻ると、壁を掴んで飛び込んだ。海水の雫が音を立てて足元を濡らす。 「気でも狂ったのか?」 藍玉が爪を立てて叱り飛ばす。サーフィーは海藻を咥えたまま一瞬身を小さくしたが、眼だけは逸らさずに居た。少しして濡れきった制帽を何度か振り回して中へと戻る。 「名誉の為だよ。ほら、制帽乾かしておいて」呆然と背後で立っている座頭鯨の鰭に制帽を持たせると、疲れたと口にして制服に腕を通す。藍玉は頭に置かれたサーフィーの制帽を片手に俯いた。 「お前にとって名誉って何なんだ?」 両掌を見て黙り込んだ。書かれた物を読む様に、眼を揺るがせてチラと覗き込む。鷲より鋭く、黒々とした大きい瞳孔がパァッと澄んだ。 「そりゃあ、他者を尊重する紳士の心得だよ。俺は、永眠した同士に敬意を示したいし死を滑稽な物にしたく無い」 「そんなら、普通の軍に行った方が良いぜ。お前」 パッと制帽を渡す。サーフィーは海竜臭えなと揶揄を溶かした笑いをばら撒くと、大袈裟に其れを被った。 「俺は世界を変えるくらい強いぜ」 腕を曲げて筋肉を魅せる。柔らかい影や硬そうな肩が焼き付く。「おおっ、我らが大将」と言いかけた鮫の鼻を触り満足そうに笑った。 「はあ、自慢は置いておいて、どういう事だよ」 呆れたと眉間に爪先を置く。サーフィーは唸りつつも、航路図を片手に腕を組み合わせた。指先は妙に震えている。 「俺が物心ついた時、丁度終戦くらいだったんだけど高校になった時にまた始まって駆り出された。その時、俺を鍛え上げた黒毛の鷲が居たんだ。頭二つあって、花園の近くで出会った。もう花は枯れて焼けてたけどね。アイツも軍に駆り出されることになってたんだけど、士気を高めるというか。無理矢理戦争に行くことになった俺みたいな若造を鍛え上げてくれたんだ。時には鞭で嬲って、水に浸して。苦しかったけど友達みたいな存在だったし、貴重だろ? 俺はアイツのお陰で、最終的に一番強い原潜に乗って生き残ったんだ。そして、其処から帰ってきたらそう言った」 ふう、と鯨の潮吹きみたいな息をつく。鮫が眼を丸くして口をアングリと開けている中、藍玉は少し眉を顰めて眼を床に向けた。 「ああ、そういえばお前そんな歳で戦ってたのか」 「まぁね。それで功績を認められたのかヒラールにも行け、と。気がついたら提督になってたし、いつの間にか戻れなくなっちゃった。優秀だって褒められて舞い上がったのかも」 ふん、と鼻を鳴らして耳を立てる。濡れた毛の先が青い蝶の翅みたいに光を反射させていた。彼は常に胸を張って僥倖に出会ったくらい嬉々とした顔を見せているが、古い血の染みた角や惨憺たる景色を直視した眸が強く煌めいている。瞳孔の奥に刺す苦の跡も蚯蚓腫れみたいに広がっている。睫毛は其れを隠す様に伏せて、少し微笑んでいた。 「何回も駆り出されてる癖に図太いな」 遠くを眺めて笑う。サーフィーは口端を引き攣らせて、苦々しく眼許だけを歪めた。 「そうかなあ?」 「正気の沙汰とは思えん」乾いた声を漏らす。 「てをも、きっと、お前には死んでも分からない事だよ」 「はあ」 溜息にも似た相槌を打った。サーフィーはニヤついた眼を向けると、直ぐに真剣な顔をして手を組んだ。 「話はそこそこにしておいて、今回は大胆に出たが、解散だ」 「確かに、いつもは潜水艦なのに艦艇」 鮫が顎下に鰭を当ててウムと考える。隣に腰掛けていた斑点の多い座頭鯨が「艦艇は時々あるだろ」と突っ込んだ。 「一応、國軍として来てるから。相手は特殊部隊だとか全然知らないよ。偵察に近い筈だった。俺が駆り出されたのは少し変な話だけど」 「大体、机仕事だもんなあ」 「皆と艦艇乗りたかったし丁度いいよ。あ、本拠地に直行で」 司令を出しつつも悠々としている。艦艇は鳴き声を上げて動き始めた。珊瑚礁なんて見ている暇は無い。魚がピョンと飛ぶのもお構い無しに突き進む。白い水飛沫だけが泡となって波に溶けた。軈て夜になると、白い角砂糖の様な家々に黄金の光が灯り、窓の隙間から海へと光影が落ちているのが見えた。一睡も出来ず海図を広げては会議を続ける中、サーフィーの脳裏には様々な影が過った。思考を止める、考えの一部に空白を作り出す様な嫌な影。直視しようとしても眩しくて瞼が拒む影、光には戦慄さえも覚える。腫瘍と同じく張り付いている其れが青みを帯びている事だけは記憶に残っていた。 もう少しで到着すると座頭鯨に肩を叩かれ、会議室から出るとアンブロシアの都市部に聳える摩天楼が激しい光を放ち、煙を立てているのが見えた。空へと続く道路は竜だけが通り、速度規制などの看板が大量に建てられている。道路の下にある柱は高さが違い、道路自体も凸凹としていた。近づけば近づくほど深く安堵する。歓楽街の一角にある門灯、海沿いに伸びる白い灯台。そして基地のためにある様な島擬きには通り道の山だけが陸と繋がり、艦艇や潜水艦、軍用機が整列している。音を立ててゆっくりと止まると、青豹の影が見えた。海豚達は任務では無く救命の疲労で疲れた体を動かし、サーフィーは乾かした制帽を抱き、尻尾を垂らしつつ土瀝青を踏む。帰って来たという実感が嫌でも湧いた。豹の影が段々と近づく。 「おかえり」 「ただいま」 抱擁を交わそうと駆け寄ったボニファーツが海の臭いに退く中、サーフィーは苦笑しつつ近寄った。そんな彼の背後を通り過ぎようとした藍玉は袖元をピンと整えると、ごゆっくりして下さいなと言わんばかりに敬礼する。 「其の制帽は誰の物だろう?」 取り上げようと手を出す。爪は隠されていたものの、殆ど没収に近い素振りだった。其れを察したのか制帽を強く抱きしめた。 「ああ、此れは同士の形見だよ。俺はせめてコイツを持ってなくちゃいけない」 離れた方が身の為だ、と神経が悟る。ゆっくりと迷う足を入り口に向けて歩く。一面に敷かれた砂利を踏むと、思っていた以上にザッザと足音が鳴った。正義を気取っているのか、所詮聖獣の真似事だろう、とでも返されると思ったが恐れていた言葉よりもずっと肝が冷やされた。 「ふうん、ボロボロになったからこそ、素晴らしい価値があるんだろう。正に敵の首を持って来たみたいだ。僕は嬉しいよ」 顎下に手を添えて、恍惚とした表情を向ける。瞳孔は相変わらず真ん丸だ。サーフィーは急いで部屋へ戻る為に裾を揺らしながら、直ぐにでも羽ばたきたい気持ちを一生懸命抑える。翼の神経が脊髄反射で動きそうになっていた。 「はあ、価値を上げたのはボニファーツのお陰だもんね」 皮肉っぽく言うと牙を覗かせて冷たく笑う。ボニファーツは一瞬鈍器で頭を打たれた様に無になった。近づいてくる螺旋階段も遥か遠くに感じる。無駄なことを言ったかと自分に落胆した刹那、彼は眼許だけを吊り上げてゆっくりと黒い唇の上端を上げた。 「海軍の指導者は君でしょう? 責任転嫁は辞めなよ。君だって謀殺に同意したんだ」 ゆるりと尻尾を揺らす。癪に触ったのか声には熱が篭っていた。相変わらず眉間にはほんの少しの皺を寄せて、髭をピンと立てている。何故そんなに怒るのか、と訊きたくなるくらい逆上していたのだ。 「俺が海軍の指導者なら、俺の書いた作戦を修正しないで欲しい。此はお前の得意な助言だよ。宜しく頼む」 火に油を注ぐ気持ちで言葉を放つと、予想とは裏腹に彼は冷然として居た。螺旋階段が眼の前にある。 「ふむ、勘違いしてるようだけど、司令艦以外は全部自爆だからね」 「……」 手摺に凭れて淡々と上る。鉄臭い匂いと基地独特の獣臭がした。一面は眩しさを覚える位に白く洗練されているが軍獣の流した汗や血の匂いが凝縮されて吐き気を催した。而も基地内の喧騒は激しく、資料を抱えたまま廊下を駆けたり電脳に色々打ち込んでいる様子が扉越しに見えた。濡れた蹄の跡を追うと、角の欠けた白毛に黒斑の鹿が項垂れて歩いている。椅子には幼い猛禽の子が凭れて早朝に配られた色付新聞を見ていた。端には宗教の猛烈な皮肉が四コマ形式になり載せられている。横眼で眺めていると、【イエロー・オルカ銀行、十年ぶりに純利益が高水準! ディアーノ・ドメニコーニ頭取のガッツポーズ炸裂!】という見出しと共に、握り拳を掲げて牙を覗かせる鯱の姿があった。そして、其の下には【ヨルガン海軍、艦艇沈む】という見出しと傾いて海へと沈む艦艇の姿があった。死亡が確認された将校や二等兵達の顔写真と名前がズラリと載せられている。重く鉛の様になった息を怯えながら呑む。其処には若々しい提督の顔も載せられていた。部屋の前に着くと扉の持ち手に手を掛けて、一歩踏み入れたかという時に振り向いた。 「続きになるが」言葉を選ぶ様に青豹は眸を廻す。 「指導者が死んだら彼らは生きる理由が無くなるんだ。君が殺した様なものだと思わないかな?」 床を蹴っていた靴の音が止まる。代わりに、刹那の静寂を埋める様に下の階の獣達による雑談が流れた。サーフィーは穏やかな振りを最後まで突き通し、扉をゆっくりと閉めると素早く鍵を掛けた。ボニファーツときたら羸弱そうに肩を狭くして瞳孔を丸にしている。腹の奥を蛆虫が這っている様な不愉快感に口吻を皺だらけにして牙を剥き出した。其の拍子に落としそうになった制帽の鍔を強く握り締める。 「俺が軍隊に入ったのは無意味に獣を殺す為じゃない。國王陛下に命を捧げ國民を守る為だ。そして家族を守る為だよ」 キョトンとして聞いていたが、ボニファーツはぶわぁと髭を震わせ、口を大きく開けると大笑いした。機関銃にも似た声は天井の下でよく跳ねる。腹を抱えたりして膝から崩れ落ちそうになりながら天を仰いだりした。暫く其れが続くと涙を拭いながらまた口角を上げる。 「ええっ家族? 残っているのは血も涙も枯れたエヴァンだけだろう。父も母も骨一つ残さず殺されたじゃないか。え? 母は君とエヴァン君が貪ったんだろう? 実の血の繋がった尊い家族を喰らう様な不届き者に提督なんて務まらないさ。本当に馬鹿馬鹿しいね」 サーフィーは唖然として彼を眺めた。先刻まで腹の底から煮え返る様な激怒に支配されていたのに、突然プツリと音を立てて全てがどうでも良くなったのだ。然し、濡れて居ないのに裾が、服が酷く重たい。心なしか怒りで流れた汗が冷えて氷みたいになっていた。 「白鯱の皮を剥いで、靴やスープに変えてしまう極悪非道な豹こそ指導者失格だ」 考えても無い、サラリと口から流れ出た言葉だ。禁句だと思って居たからか口に出したという事実が胸の中で醜く冷え固まっていった。ボニファーツは退屈そうに欠伸して「弟が怒ってないんだから良いじゃない。しっかり弟の家に骨格標本も飾っているよ」と長椅子の上で伸びた。 「悪漢め」 思いつく限りの悪口だった。するとボニファーツは眼をツウと吊り上げると敢えて何も言わずに机まで歩いた。其処には潔白の分厚い花弁をした胡蝶蘭の生けられた花瓶が四つも置かれている。仮漆の塗られた其の机は高級そうだったが、脚にある海水を纏い、翼の生えた座頭鯨の絵を見て納得する。其れは紛れも無くヘレッセン家の紋章だった。「兄ちゃんも謹厚になったね」と嫌味っぽく呟くと横から丸められた新聞紙が投げられる。仕方なく捲って見ると度肝を突かれた。載せられた写真は宵の空に溶け込む瑠璃毛のボニファーツと茶褐色で金の髪を背に流した高山竜の姿があった。質素にも見える濃紺服の襟には細かく月桂樹や花の刺繍が施されている。黒々とした眸は潤み、そして頬は赤らんでいた。 「最愛なるヒュアキントス陛下さ。全く! 彼程に愛らしい王子は居ない」 そう唸ってヒュアキントス陛下を紙越しに撫でた。びゅっと空っ風に吹き付けられた様に毛が冷えたが、そんな事より記事が気になって仕方ない。読んでみると大分美化された嘘が綴られていた。此の新聞によれば北海での戦争で景気も悪く飢餓に耐えられず内部戦争が起こりそうな時に青豹が総帥となり國を纏めたらしい。北海戦争はきっとサーフィーが原子力潜水艦に入っていたであろうメアトニア海戦だろう。きっとあの時、國民に希望を与えていたのは当時の海軍元帥であったイオセポス・マーレに違いない。出鱈目な事を言いやがってと腹を立てながら読み進めていくと、どうやら戦争で怯え、気を病んでいたヒュアキントス國王陛下をボニファーツが支えてやっていたらしい。 「まるで英雄みたい、俺はあんなに血を流して國に命賭けても新聞にさえ載らないよ。でもこんなに写真貼り付けられてる。英雄、神の生まれ変わりだって」 飾り文字の大きな見出しを鉤爪で突いた。高級紙だからか尖った先を弾いたが色は少し褪せた。ボニファーツは新聞紙を掌に乗せて貴重そうに奪うと、机の上に乗せる。得意な自慢話を満喫している間だけは死んだ眼を除いて表情が踊っていた。 「それから不景気が回復したとか、活気が湧いたとか。まるで僕は神にでもなったみたい。ほら、君みたいに慎重じゃなくて単純だから有る事無い事でっち上げても騙されるんだ」 満足そうに平坦な口吻を撫で回す。猫科特有の滑らかで丸っこい輪郭はある意味似合ってた。薄紅色の鼻も黒い唇もそうだ。造形自体が完璧に限り無く近く、そして程遠い。そんな不完全な彼は、神を気取って両手を広げていた。 「……今は称賛されてるかもしれないが、過去にやった事は消えないよ。お前が総帥になる為に流れていった無駄な血は本当に無い? 失った命は無いと言える?」 「何にせよ僕のお陰で今、國民は生きてるんだ。ほんの一粒の犠牲なんて世間は気にしない」 顔が合った束の間の時に確信する。彼は部品ごとズレていて噛み合っていないのだ、と。眸にあるのは燃え上がる様な情熱でも無く、何処まで広がっているのか狭いのかも分からない虚無だった。数分にしては多すぎる疲労に眼下のツボを押す。そんな彼をボニファーツは細部を細かく見てふうむと唸った。腕組みした後、少し顔を離して眼を細めて見たり、立派に伸びた角を一瞥しては首を傾げたりした。 「男でこんなに綺麗な竜は見た事ないよ。神殿の前に彫刻があるだろう? 彫りの深い顔をしていて口吻も長くて、耳の形から筋肉の筋まで無駄が無い。睫毛を伏せてて、透き通る布みたいな服を肩から纏っていた。よく似ているよ」 舌に油を塗りたくられた様にペラペラと言葉が流れる。サーフィーは突然の饒舌に頭を悩ませ、ただ瞬きする事しか出来なかった。神殿に置かれた石像だとか布を纏った神々の様だとか褒められても、結局は女らしい顔つきだという比喩だろうと嫌悪に呑まれてしまう。彼に対する猛烈な偏見なのか、どうも心の底から喜べる気にはなれなかった。だから鉤爪の長い指を組んで態と「ははは」と笑って見せる。 「何? 急に褒めちゃって」 身を捩ってみたがボニファーツは思っていた以上に苦笑いを滲ませて鼻許を左手で覆った。 「いやあ、物凄く不細工に見えたから、褒めたら治るかなって思った。治らないね、ははは」 唇の間から鋭く伸びた牙が覗く。葉巻や紙煙草を咥えたと分かる黄色さが眼障りに映った。 「はあ。そう。私と反対に閣下は立派な様で」 蹌踉めいて椅子の背に凭れると、はぁと大きな溜息を吐いて肺の中を空にした。それでもまだ煙く、舌の上が砂を呑んだみたいにザラザラする。廃獣になって口をぽかんと開けたサーフィーを横眼にボニファーツは白い陶器製の急須を抱えた。茶袋の詰められた箱から何やら取り出して人差し指と親指でひょいと摘んだ。 「そうかもね。さ、折角帰還したし紅茶でもどう?」 「本当に自分勝手な奴だね」 心の底から呆れた様子で額に手を当てる。室内は広くも絢爛たる胡蝶蘭のせいで窮屈である。其処に青瑠璃の豹でも置いてみろ、こりゃもう堪ったもんじゃない。此処にある分厚い資料から小綺麗に棚に並べられた数千枚の手紙まで掃討してやりたいと内心、地団駄踏んでいた。先刻の会話がブワアと蘇ってあの毛並みや丸い眼、妙に感情豊かな動きをする眉の影までが頭の裏側で再生されていた。茶を淹れる音が掻き消されてまた腹が立つ。兄に似せて皮肉でも言ってみようと口を開いた時、二回扉を叩く音が響いた。そして扉が半分開き、直立したまま帽子を剥ぎ、万年筆で字が綴られた紙の束を抱えた座頭鯨が現れる。ボニファーツは洋盃を三つに増やすと「フェイジョアか、入って良いよ」と穏やかに言った。サーフィーが様子を窺う様に首を傾げると、パッと敬礼された。紙の束を見てみると名前だけは大きく筆記体でゼルリアーノ・グラヴィナと記している。 「グラヴィナ大公よりお手紙です」 そう言うと紙の束を手渡しする。掌で其れを受け取り一枚一枚を丁寧に捲って字を辿った。フェイジョアは其のまま挨拶をして帰ろうとしたが長椅子に座れと手で示され、紅茶の入った洋盃が三つ置かれる。そもそも呑めませんとは言えずに口をつける芝居をする羽目になった。サーフィーは最後の一枚をじっくりと眺めて何度か疑惑の眼差しをチラチラと投げると、退屈そうに束を机に置いて、代わりに紅茶を呑んだ。 「政治の事。後、飼っている桃という蛾が愛らしいって。家の近くに生えてる姫百合の花も夕陽を浴びて美しかったらしい。ええと、妻が子を孕んだって。お祝いのついでに久々に舞踏会でも開こう、と。惨めな弟を連れて来いってよ。高級葡萄酒を数本買ってくれたみたい」 一枚の光沢の畝る高級紙をヒラヒラとさせる。ボニファーツは顔を近づけて字を見ながら軽く首を傾げた。 「桃?」 「ゼルリアーノ兄様に贈った子の事だよ。野蚕みたいな奴でかなり珍しい桃色。ふわふわしてて可愛い奴」 フェイジョアは大きな鰭手を膝ら辺に置いて狭そうに背を曲げた。乾き切った体を見るに、椅子を汚さない為、布で水滴を拭いたのだろう。 「グラヴィナ家には代々決められた蛾が渡されるのでしょう?」 蛇腹にも似た畝のある顎をもごもごさせた。御苦労様だと右手で鰭手を撫でる。サーフィーはどう言おうかと逡巡して口を噤む。こうして悩んだ末、一つ一つ言葉を選んで言う。 「戦時中に蛾が燃え落ちたんだ。だから落ち着いた時期にしっかり選んで渡した」 「喜んでいましたか?」 上眼で見つめて訊く。サーフィーは乾いた鼻先を笑う様にピクピクと動かし、にっこりと笑う。其の鼻や唇辺りには海の塩が薄く纏わりついていた。 「勿論。彼は昆虫が好きだからね。例の惨めな兄ちゃんも好きなんだ」 「確か、其の惨めなエヴァン君は鋏角類が好きだったろう?」 「蜘蛛って言いなよ」 尻尾を撫でられた様な厭らしさに腹の細胞という細胞がわあと騒ぎ立てた。理由は要らない、言葉の一つ一つが花弁の如くはらりと落ちてゆく様さえも嫌いである。フェイジョアは其れを悟って笑い声で濁すと、鰭手をバシバシとサーフィーの背中に当てて「ボニファーツさんは頭が良いからな」と態と感心した。 「そんな事ない。あ、そういえば」 太く巻かれ、英文字で円を書いたリングを纏った葉巻を摘む。そして、躊躇せず刃物で先をパチリと切り落とした。二頭が顔を見合わせて首を傾げていると隙を見つけてボニファーツが手を伸ばす。膝の上の制帽に爪が食い込んだ。 「制帽をそんな所に放っていたら可哀想だよ。今、良い事を思いついたんだ。貸してごらん」 肉球で優しく鍔を持つ。 「どうして?」 硬そうな衣嚢から銀色の点火器を取り出すと、シュバっという風切り音が響いた。余韻を感じる間も無く青い火が煙の様に立ち、淡い火の頭は制帽に向けられた。 「ほら」 嗤って点火器を近づける。すると、火は制帽を舐めてボウと燃えた。同時に燃える帽子片手に葉巻に火を点けると口に咥えて旨そうに煙を呑んだ。 「フウ、部下の取った首は天下一品だ。君らも吸うかい? フェイジョアは吸えなくて可哀想だが頭に刺してやろう」 先の火照った葉巻を頭に近づけたが、驚きのあまりフェイジョアは潮を吹いて長椅子の背にピッタリと張り付いた。海臭さと煙の苦みにサーフィーは顔を歪め、ただただ火を見つめた。もう半分以上が黒く焦げ、灰となっていた。 「此以上俺を泣かせないでくれ」 喉の奥から絞り出した声だが、吃驚する程に冷たく響いていた。怯えて声も出ていないフェイジョアの背を撫でてやりながら睨む事しか出来なかった。此の奇行がどうか夢であります様にと心の中で祈る。 「笑え」奇獣は言った。 「死者を送り出すにはいつも笑顔で居よう。さあ、空を見て御覧。此の制帽を主人の元に遣ってあげたんだ」 紐を弄ると白く隙間のある窓帷がパッと上がる。眩しさに片眼を閉じて見ると、冴えた桔梗色が浮かんできた。ブワアと視界じゃ足りない位の青空に一筋の雲が残されて、悲しく空を横切っている。 「俺は……秋桜と共に、制帽を帰郷させようと……」 「はは、他國の物を持ち込むなよ」 ぷうとまた煙を充満させる。咳き込んでも辞めないからか勝手にズカズカと机まで行くと、背にある窓を開けて風を通した。南海からの汐風が煙ごと流した。資料が床に散るのを見てボニファーツは眉間あたりに皺を寄せたが却ってサーフィーは爽快だった。 「嫌な事をするね。君達にはまだ仕事があるよ。此の焦げ臭い灰を胡蝶蘭の土に混ぜておくからヨルガンに贈るんだ」 真っ直ぐに垂れた胡蝶蘭を指差して言う。サーフィーは紅茶を一気に飲み干すと、裾元を整えて立ち上がった。 「フェイジョア」 瘤だらけの黒い鰭手を拳で強く叩いた。すると我に返ったのか眼を大きく開いて立ち上がり、また蹌踉めくと「失礼しました」と、白い鰭の腹を見せて深く敬礼する。二頭は肩を揃えて扉から出ると分かりやすく舌打ちして脚を殴った。 「俺、藍玉ん所行くけど一緒に来るよね?」 慷慨を露わにして手摺が折れんばかりの力を込めた。 「当然ですよ。言いてえ事が山程あるんでね!」 二頭は階段を下るとき、自分の顔が気になって仕方が無かった。煮え滾る胸の中と何とも言い表せない哀愁に顔が歪んでいないか、と。周囲の軍曹らは壁に張り付いたまま脚を踊らせている。 「こ、こんにちは……お、お疲れ様です……青玉提督と、フェイジョア大佐……何か……ありましたか?」 赤毛の鸚鵡が嘴をカタカタさせて敬礼して見せる。サーフィーは空軍制服を一瞥すると微笑んで敬礼を返すと、屈んで眼線を合わせた。 「こんにちは、椿桃《ネクタリン》一等軍曹。疲れただけですよ」 「つ、疲れた?」 死刑直前の罪獣みたいな顔をして毛を逆立たせる。近くにいた焦茶の翼が大きい禿鷲が桃色の頭を傾けて、欠けた嘴で椿桃を強く突いた。白っぽい爪で黙っていろと言わんばかりに背後で羽毛を鷲掴みしている。赤い羽根が散った所で、フェイジョアが苦々しく「下がれ」と尾鰭を打って命令した。 一方でサーフィーはゼルリアーノとの舞踏会を楽しみに、先刻の地獄からは眼を背けた。
未来へ繋ぐ
椛の葉も落ちる秋の事である。私は遥々電車に乗って宇佐へ来た。カランと晴れ渡る青空に重々しい雲が山の上に伸し掛かって居る。今日はバイクで走るには絶好の日だ、と風を全身に浴びて思う。コンビニの付近を歩いて回りながら、金木犀の匂いに振り向いた。一面に立ち昇る香りは天まで届きそうだ。まだ燦々とした太陽に乾燥した空気が漂うが、朝方の肺まで冷める冷風が爽やかで、秋だと叫びたくなる心地よさがあった。私は肩に下げた牛革の鞄から手帳を出し、宇佐神宮までの道のりを一瞥した。ああ、意外と近いな。そう思って小走りに歩いていると、百舌鳥の鳴き声に耳奥が擽られる。霜の面影際立つ畑の影は白く霞んだ花が垂れていた。やれやれ、こんな陰に花を植えるとは何事だねと腕組みしてハァと溜息を漏らさずにはいられない。私ならば、此の美しい花を日向に植える。酷な人も居るものだと落胆した。神宮付近の馬鹿みたいに長広い駐車場を過ぎると、繁華街にも似た店が幾つか並んでいる。アイスクリームを頼もうと待つ子や、白濁色の宇佐飴を選ぶ人が並んでいる。ああそういえば藤井聡太も宇佐神宮に来たことがあるんだっけな、と思いながら歩いていると、朱色に塗られた鳥居が胸を張って建っている。私は何もいえず、ただ恍惚としてそれを見ていた。いつ来ても期待を裏切らぬ風貌である。私は思わず大きく首を垂れると、一歩踏み出し鳥居を潜り抜けた。そして廃れた機関車の隣を通り過ぎて、曲がる。椛の散った神橋が聳えていた。小走りして手摺から身を乗り出して川の底を覗くと、影昭和鯉や金鯉が鰭を揺らして泳いでいる。餌をやろうと、端にひっそりと佇む餌販売機に小銭を入れて袋を取ると、餌の塊をえいと投げ入れた。鯉達は徐に此方を覗き込み、頭を覗かせると餌に気づいて跳ねた。水飛沫を飛ばし、口を開けたり閉じたりして餌を争奪する。面白さに餌を四方八方に振り撒くと、満足してまた進んだ。段差に気をつけるように、と言い聞かせて降りると石鳥居を抜けて狛犬像が番で居る。頬を撫でてやると、笑いもしなかったが覗かれるように眼が合った。牙が覗き獅子を感じさせる体躯。堂々と胸を張り天を仰いでいた。私も上を見てみたが、ああ驚く事に紅葉した木の枝が垂れている。チラチラと枯葉が舞い、また砂利路を染めた。挨拶をして御手水へと足を急がせていると、朱印を書く場所なのか設置された神社にも似る建物を横切る。兎に角と作法通りに水を汲んで清めると、口も濯いでサラリとそこらに流した。鱗模様の手拭で爪まで拭き、酒樽の詰まれた角を回って長階段へと急ぐ。背後の八坂神社も後で参ろうと思いつつ上がると、視界が枯葉で覆われた。紅や黄に染まる樹木と階段。神域だということを体現している。此処に神が降臨していると言われても信じられる景色だ。ざぁざぁと風に鳴る木々の響めき。悲鳴。その裏にある静寂まで聞き分けて、ゴクリと唾を飲む。鞄の位置を戻して、カタカタと靴を鳴らし上へ上へとまた駆ける。すると、視界の全てが煌びやかな門と静謐なる神宮の雰囲気に満たされた。その場を突き破らん神聖さは紅葉と細かな彫刻によって編み出され、無論、その地の持つ自然の神力だって確かに込められていた。私は門を通り抜けて、小銭の枚数を数える。足りるなと安堵して、切妻屋根の宮を再度見てみる。恐ろしい、美麗な、見惚れてしまう様な美しさ。華麗さ。京都の橋に負けんばかりの朱。雨樋の間を見て馬でも通れそうな道があるのを見ては裏に覗く大きな橋を眺める。此こそ本場の八幡造である。私は少し違う作法をして小銭を入れると、無病息災を声に出して祈り、三棟繰り返した。満足すると、霊樹の幹の下で待人である菅原佳史を待つ。腕時計を確認しようと思ったが、生憎持っていない。仕方なく人の顔を眺めて遊んだ。老婆が震える手で杖に縋り、それでも手を合わせて拝む。若い夫婦が仲良さげに御守りを選び、同じ物を二つ手に取って帰ってゆく。そして、頬が薄紅の赤子が父に抱かれ笑っている。影は伸び、鳥は囀りを上げる。いい町じゃないか、と思わず笑いが溢れた。 「いいとこやろ」 痩せた男が矢守みたいな顔をして覗き込んできた。脚だけは陸上部だったからか鍛え上げられていて、薄ら筋肉が浮かんでいる。手は昔から血管が太く広がっていた。 「あっ、ふみさん」 佳史だから私は彼をふみと呼んでいる。ふみさんはニコリと微笑んで、手をひらひらとさせた。左腕に下がっている袋からは水滴が滲んでいる。 「そりゃお土産ですか」 首を傾げて訊く。仮に飲料だとして、而も此がカルピスならば私は彼に抱きついて喜ぶところだ。然し、彼に私の好みなど分かるはずがない。 「待たせたろ? 飲みもん買ってきた。本当はもっと高いの買いたかったけんど、値上げしたけえコイツで勘弁しろ」 濡れたペットボトルを掴んで渡される。いやカルピスに値上げとかあるのかよと嫌味が出そうになったが、仕方なく受け取った。 「いや、待ってないっすけど。麦茶かぁ、あんま好きじゃねえんだよなー。まあ、貰いますよ」 ごくりと一口。くう、沁みる! 今日は一度も水分を摂っていないからか縋るように飲んだ。麦茶の香ばしい風味が鼻腔に停滞する。 「好きじゃない言うとってそれかい」 「ふみさんが待たせるから悪いんですよ。アンタみたいに宇佐市民じゃないから割と時間掛かったし」 福岡の天神から此処まで来るまで至難の業である。早朝から荷物を纏めての大移動だった。それなのに来てみれば、当の本人は大遅刻である。 「すまんな。態々ありがとう」 「そんで、話って何ですか」 「見たんよ」 「何を?」 「知らんしわからん。でも雲みたいやった。空に浮かんでて、積乱雲かって思って無心にカメラ回したらこっち向いて、ぎゃあって転んだらニヤニヤ笑っちょった。黄色い牙で、眼が太陽みたいな不気味なバケモン」 空を見上げる。恐ろしく深い群青へと塗り変わっていた。薄い雲を纏った山とか、そういうものが幻に見えてしまうくらい、眼の奥を貫いて脳へと入ってくる青さをしている。青い、青い。でも私は彼の言う事が信じられなかった。それこそ、幻に過ぎないだろうと縋るような思いだった。だからこそ、落ち着いた表面裏にある焦燥を必死に隠して顔を覗く。 「酒呑み過ぎじゃないですか。前に九重で買った酒まだ呑んでるんでしょ」 成る可く笑って見せたが、ふみさんは真剣な顔つきだ。元剣道部の鋭い眼差しが刺すようにこちらを向いている。 「違う」 「まさか。そんな化物居たら話題になってますよ」 私は声が震えた。心なしか空へと届いてしまった気もする。すると彼はそっと声を潜めて身を寄せた。何かから隠れるかのように。 「なってる、昨日のネットニュース見たか?」 「そういえば疲れて見てませんけど」 「『アオムネ』が発生しましたって」 「『アオムネ』?」 私は思わず鸚鵡返しした。天人では意外にもよく聞く名前なのだ。ロシアの研究所で忽然として現れた謎の生物で、よく科学誌や隠棲動物学誌でも話題にされていたものだ。それが確認されたのは第二次世界大戦後らしいが、調べてゆくと地球誕生前から実在しているらしい。それは稀に酸性雨に似た毒性のある雨を降らし、ある時は生物を絶滅まで追い込むのだ。 「そう。アオムネ。自在に見た眼変えられる水素のバケモンって書いとった」 囁き声には得体の知れない恐怖が混じっている。 「水素って、あの水素?」 初耳なので思わず大声を上げた。 「そう。それこそ最近わかったらしくて、北海道の研究する人が太平洋沿岸部で見つけた細胞の破片とかで判明してきたらしい。やけど、それ以前にな、俺がアイルランドに旅行行っとったとき、そんバケモンが雨降らしとって濡れたんだわ」 「ぬ、れた? 大丈夫なんですか」 「……濡れたとこがな、硬くなった」 「え?」 絶望を誘う冷ややかな響きだ。周囲の朱も青に染まるくらい、なんだか暗くてシベリアみたいな冷気が漂っていた。どれだけ黙っているのだろう、数秒さえも私にとっては長いのに。 「腫瘍やと思う。そして背中に黒い斑点ができた」 「そんな、病院に行かないと」 「無理って言いよる。もう死ぬかもしれんしワクチンも無い、どうしようも無いって」 「俺にどうしろって言うんですか」 「もう世界中、アイツの雨に侵されるかもしれんし最後くらい後輩と過ごしたい。今更、和歌山のババァん家帰ったって誰もおらんし、家出て行った母ちゃんだって忘れてる」 「俺は一緒に過ごしたいです」そうとしか返せない。 「俺も」泣きそうな顔で俯かれる。ふと、山の端を見ていると、雲が腫れ上がり膨張していた。ま、ま、まさかと思って愕然としていると、太陽の光が舌みたいになってニョロんと出てきた。ヒイッと声を上げる間もなく、雲の影が俄かに微笑みかける。私は彼の服を掴んで御守販売所の屋根へと走った。雨宿りをしなければならない。そこでハアハアと荒い息を吐きながら空を見上げれば、雲ならば普通は動かないが、滑らかに首を傾げたりしている。人にも見えるが頭からは鹿のような角が生え、首周りには積乱雲を纏い、脚のない妙な形相をしていた。笑顔を絶やさない姿を見れば鬼や悪魔のようにも感じる。 「ふ、ふみさん、あれは」と肩を強く三度殴ってみたが鼻水を垂らして口を開けたまま動かなくなっていた。私も恐怖で震えていると、空一面が奴の顔で覆われ、青空は一欠片も見当たらなくなってしまった。黒い、顔。皺まで見え、日光の牙が鋭く向く。途端に拍手喝采みたいな音を立てて地面に雨粒を打ちつけ、乾いた音だけがその場に残った。見ていれば映画みたいに地面が溶けることもないし、違和感がない。しかし、雨に巻き込まれた幼児の肌に一つ黒子のようなものが増えて破裂寸前まで膨らみ皮膚が真紫に染まるのを見て冷や汗が垂れる。お母さんと叫び泣きながら雨粒が口へ眼へと入ると、ついに薄い膜に覆われて眼は真っ白になった。口の中の歯が溶けて黒くとろけた歯髄は丸出しになり、腐った臭いがその場を包む。少し前までの神聖な絶景もパタパタと崩れ落ちてしまった。口を噤んで瓢箪だけを眺めているふみさんはある時何を思ったのか土砂降りの中で走って飛び出した。止めようと手を出すと、雨粒が精虫くらい細かく細長い寄生虫みたいになって酷く皮膚が痛む。 「聞け! お前は害虫なんだぞッ」 悲痛の叫びが力無く零れ落ちた。水溜りから雑音みたいな返事が返ってくる。 「ガイチュウ」雨の音がそう聞こえただけかも知れない。私の肌は痛みを増していた。悲痛で呻いていると、彼は痛みにも屈する事なく、眼を見開いて水溜りを睨みつけた。 「寄生虫か?」 「五カ年計画カラ何年ダ」 質問を無視して言う。水溜りは一つの生き物で、顔なんて反射していなかった。虫のようにただウネウネとしている。 「は、八十三年」私は酷い頭痛に耐えつつ答える。 「フム、八十三年」 雨水はアメーバの如く仮足を伸ばして少し動いた。 「私ハネ、水ソノモノダ。毒ナンテ無イ。毒ヲ私ニ盛ッタノハ誰カシラ」 「雨を降らさないで」縋って頼む。 「イイケレド、困ルノハ、生物デショウ」 「死にたく無い」 「花ハ枯レナイヨ」 「川の水が汚される」 「汚シタノハ誰?」 「人だよ」 酷く声を潜めた。そう答えないと不味かった。いつの間にか止まった雨と曇り空には罪が見える。 「滑稽ネ」積乱雲であった物は笑った。 「ソノ男ハマダ生キテイルノヨ。信ジラレル? 有毒化学物質ノ含マレタ水飲ンダノニネ」 「日本語が不得意?」 「Я не понимаю」首を振る仕草を見せた。 「何人死んだの?」 「Бесчисленное количество погибло」 「ふみさんは何も悪いことをしていない」 「Это грехи предков. Мне до боли жаль людей будущих поколений, которым приходится страдать」 「それが罪か」 「Это великий грех」水は黒い影跡を残して消えた。また空には青い平和が訪れたが、隣で横たわる彼は眠ったまま動かなかった。葉も、花も嘘みたいに綺麗なのに人だけが抹殺されたみたいだった。神々の復讐か、と思ったが考えてみれば自業自得に過ぎないのだ。然しあまりにも綺麗すぎる。 彼らの被れた皮膚もこれくらい綺麗になればいいのに。
医者Ⅲ
暗闇の中、一筋の焔が立ち上っていた。上へ上へと火の粉を舞い上げて、周囲を赤一色に染め上げている。火の粉を纏った蛾は灯りに吸い寄せられたかのように舞い踊り続けていた。其の下で、焼け焦げた兵士は項垂れたまま、火傷で腫れ上がった太腿を掴む。然し、焦げた指は動かず、引っ付いているだけの物体となっていた。淋巴液でベタベタとする全身と、毛のない頭。徐々に焦げる香り。それでも無慈悲に、嗤う様に舞い続けている頭上の蛾を眺め、思わず眼を閉じた。瞼の奥に焼きついた焔の赤みを直視したまま、蝶なら良かったのにと薄く笑う。屍体の黒い煙が風に吹かれて、海へ海へと流れていった。 鮮明に傷口が見える高演色LED照明の下で、エヴァンは紅玉からメスを貰う。眼の前には壊死して黒くなった腕が力無く垂れ、象牙色の膿を纏っている。皮膚は変色して腫れ上がり、乾燥してジリジリになっている。顔も洗ったが焦げて黒い。 「脳外に腕を切らせるとは」 呆れの声を上げて、プスリと壊死している部分より上に刃を入れる。ジンワリと血が滲んで、サクサクと周囲を切り裂いていった。黄色い脂肪や紅い筋。筋肉がプツプツと音を立てて切れてゆく。最後に骨鋸で骨を容赦なく切断した。紅玉が其の腕を重そうに抱えて何処かへ持っていく。其の間に少し短く切断した骨を包み込むように皮膚を縫合器で糸を通して、結んで剪刀で切る。脳神経、脊髄と違う緊張感が漂い、何度も鱗で硬い手を揺らしたりして調子を確かめて居た。 「ねえ、瑪瑙先生ってサーフィーの兄ちゃん?」 暗闇から紅玉の声がする。エヴァンは着けていた手袋を剥がして替えながら、意外そうに眼を開いた。 「そうだ。弟の事、知っているのか」 「私、学生の時サーフィーに拾われて育ったから知ってる」 紅玉もパチパチと手袋を交換して、器具もさっと替えられる。悪運が強いのか重症患者はほぼ全員治療して、病室に移動されていた。しないはずの屍体の焦げた匂いが鼻腔の奥を通り抜ける。胸の奥を素手で触られた様な感覚に純粋な笑みを浮かべ、また口角を下げた。 「名前は」 「エキドナ」 エヴァンが口端に軽蔑の含んだ皺を寄せる。希臘神話に出てくる下半身が蛇で上半身が美女の怪物を思い浮かべたのだ。 「下半身が蛇でも無いのに、エキドナか」 「変な名前でしょ」 紅玉、すなわちエキドナが呆れて眼を逸らす。其の眼尻にある青い模様にふと古い記憶が揺らいだ。濃紺の鱗、同じく眼尻に滲んだ化粧の様な模様。翠眼で角が瑪瑙に似て山羊の如く伸びている。 「苗字はガルシアか。父の弟子にノエル・ガルシアという毒竜が居た。白内障手術が天才的に上手かった記憶がある」 円状に切り抜いて眼内レンズを素早く挿入する姿が脳裏に浮かぶ。エキドナは恥ずかしそうに頬を染めて、また外方を向いた。 「嬉しくないけど、その通り」 「娘さんに会えるなんて名誉な事だ。弟とは何処で出会った?」 また手を開いたり閉じたりした。手袋越しに鉤爪が苦しそうにしている。エキドナは少し悩んで眉間に皺を寄せると、運ばれてきた患者を横眼で見て言った。 「話すと長くなる。終わってから話さない?」 「そうするか」相槌を打って、準備を始める。熱消毒済みの器具も並べられた。麻酔を掛けた患者を手術台に乗せると、銀の鋭い光を煌めかせてサァッとメスを入れ込む。薄紅や白い筋を分けて、切り口から出ている影を鑷子で慎重に掴むと、硬い粒の様な鉄の塊が出てきた。弾丸だ。膿盆の上に転がる塊を数えると合計で八つも入り込んでいた。一つ一つの裂け眼を縫い合わせ、焦げた負傷兵の行列を怒涛の勢いで切り裂いた。 ♪♪♪ 獣臭い廊下を武装した行列が素早く駆ける。足音も無く、服の掠れる音だけが鳴った。倉庫に見える会議室に雪崩の如く入り込んでいくと、ほんの刹那で行列が消え去る。長机に並べられた質素な椅子に腰掛け、立った耳に付けられた機械に手を当てる。中心には護衛に囲まれたパロマと左耳の欠けた森林狼が居た。双方黒眼鏡を着けており、顔が明瞭では無い。 「従是、作戦を実行する。行け」 マイクに向かって小声で命じる。柿毛と黒毛の混ざり合った耳をちらつかせて周囲の音を聞き逃さず集中していると、隣の森林狼が身を寄せ耳許に口を当てる。 「パロマ、俺が来て不満に見えるけど」 沈黙したまま接吻をする素振りを見せると、悪戯っぽく笑って「金星は好き」と酷寒を極めた眼線を投げ、黒黒とした鼻先を撫でた。五臓に氷柱が下がるのを感じながら、ぶるっと毛を震わせて外方を向く。そして衣嚢から煙草の箱を覗かせて一本摘む。口許に運ぶと巻紙に任務完了と殴り書きで綴られている。一瞥して嗤うと、咥えたまま火を点けて凍った肺に吸い込む。軈て、ぷぅと白い煙を吐き出した。 軍基地の外は爆風で硝子片と木の枝で溢れかえっている。倒れた混凝土壁の後ろに隠れて風を防いでも、間から濁流の如く流れ込んで怪我をする。毛の隙間には砂が入り込み、眼も細かい硝子が暴れて猛烈に傷んだ。隠密偵察を担当している沈丁花は熱の籠った風に当たりながら基地裏の地面を手探りした。ゆっくりと親指の腹で撫でると砂の触感が変わった。生温かい砂が中にはあり、上には周囲と変わらない砂が乗せて態とらしく広げられている。途端に片手で押さえると用意していた無線機に唇を当てた。 「出動する」 ぐ、と爪を押し込んで持ち上げると地面だった場所が浮かび上がった。そして狭苦しそうな暗い地下には無数の階段がある。はあ、と煤の混ざった空気を肺に溜め込んだ。足を差し出し、身を屈めて下りてゆく。地面と同化していた扉らしき物を手を伸ばし戻すと、上から誰かが砂を掛ける音が聞こえた。完全に暗闇となった道は洞窟にも似て、何処か乾いている。自分の心臓の音以外は聞こえない。黒眼鏡のせいで眼も見えない。濡れた土の匂いが毛に染み付いて離れない。足を進めていくと、急に広い道に出た。両脇には地熱の光があり、其の真下に植物が植えられている。息苦しさもマシになった。地下通路を支える為の大きな柱や時々壁からちょろちょろと流れている水のお陰で殺風景では無くなった。安堵と恐れの混ざった息を一度吐き、足を速めて進む。 【地下避難所。安全区域】という看板文字を無視して逆走すると、足下に流れている排水溝を見つけた。植物の下に用意されている衣服に着替えると、躊躇する暇なく格子を外して中に入り込む。息が苦しいと藻掻いたが肺を膨らませて進む。過去に居た蛇の上官を思い出して畝りつつ息を吸う。地上が朝焼けに染まるまで地獄は続いた。 「ロザンデールはヒラールというテロ組織を持っている」 途端、上から声が聞こえた。最早通路とは表せない水の詰まった鉄の空間から耳を澄ます。胸につけられた録音機に声が入った。 「我々は、其れを阻止する為に武力行使するのだ。殺戮を繰り返す組織は許さない。其の組織に頼る國も殺戮國だ。我々が制圧して我が國にすれば良い。部隊を出動させよう」 しっかりと録音機を向ける。仲間らしき声が響いた。 「ロッキーバースを?」 「左様。まずはヒラールを潰さないといけない」 「あの殺戮主義達の妄想を醒ましてあげましょう。神は私達に味方している」 GPSのついた録音機を一つ貼り付けると、耳に機械を差し込んで会話を聞きながら引き返す。蛇になりきって華麗に通路を抜けると通信した。 「データを確認せよ」 「既に確認した。部隊も出動済み」パロマの声が響く。 「了解」 柔く答えて広い道に出ると、普段と別の通路から脱出を試みる。身を伸ばして地上に出ると、其処は森の奥だった。呼吸音も立てずに樹林に隠れて動かず居る。先刻まで潜入していた敵の拠点が枝の間から見えた。両手で機関銃を押さえぴったりと体に押し付ける。意識も薄れる内に存在ごと遮蔽して自然となった。いつでも撃てる様に警戒しつつ静まっていると、敵基地の建物裏に隠れていた真桑と甜瓜、そして黒山羊と白海豚が手で合図をした。大群がブワァッと音を立てて周囲を包囲すると、軍用機が空を覆い長い縄を投げて張った。空軍の鷲が窓から侵入したと思えば、真桑が機関銃を構えて重々しい足音と共に建物内へ入る。まるで雨粒が土瀝青を叩きつける様な乾いた銃声が降る。ダダダと夜まで続くかと思えば、前触れも無く静寂が落ちた。靴の音だけが妙に大きく響き、さぁと殺風景になる。全員を制圧してしまったかと首を傾げていると、屋上から一頭の白鷲が長い翼を広げた。黄色い曲がった嘴を突き出して爆弾を巻きつけている。暫くは無言で動かず、爆弾の重さで耐えられず、翼が歪になり体が沈んだ刹那、沈丁花は背を低くして狙うと、機関銃を固定して引いた。乾いた一発の音と雑木林の揺れる音が聞こえる。落ちてきた鷲の胸は緋色に染まっていた。 ♪♪♪ 一方、白い鷲の屍体が運ばれ、クルルとペランサは何も言わずに刃を入れた。「何故、此処まで綺麗なのでしょう」と話を切り出したい気持ちを堪えて解剖する。心臓以外何も傷ついていない中身を見て、はあと溜息をつきたくなる。心臓を切って膿盆にボトリと落とし込む。 「鳥、出来れば猛禽の皮膚と肝臓はあるか」 奥から声が響く。ペランサが「此処にある」と答えてツゥと腹を開いた。出血も最小限の『コレだ!』と大声を張り上げたくなる屍体。狙われていたかの様で脊髄から温度を失い冷えてゆく。喉仏だけが忙しく唾を飲んで動いた。震えに下唇を噛み、平然を装って堂々と胸を張ると必要な部分だけを丁寧に切って引き渡す。場はまた静寂に呑まれた。耳鳴りと機械音に身を委ねていると、クルルが小声で尋ねる。 「勝手に遺体から臓器を取っても許されるのか?」 「そういう遺体しか運ばれませんよ。特に軍獣は死後臓器提供の同意書を提出している事が多いので使える物が多いですね」 何を今更、と両手を広げる。手袋を捨て、羽根を集めてまた捨ててを繰り返し、器具を熱消毒している間に別の器具を用意する。其の間にまた屍体が運ばれてきた。着替えたいのだろうが、焦げた服を纏い手袋から血を滲ませている猫が黙って引き渡す。クルルは前に立つと、頭を深く垂れた。 皮下脂肪の黄色と細胞の薄い赤の混ざり合いをザクザクと切り、慎重に臓器などを取り出した。此の馬の屍体は唯一、骨が使えるのだ。ペランサは熊特有の大きい手に専用の手袋をして周囲の脂肪や膜を除いていく。筋肉に切り込みを入れると、組織の層によって綺麗に保存された骨が美しく輝いていた。 「此の扁平骨は使えますね」 呼吸を荒くし、興奮気味になって燥いだ。其の正面でクルルは手術衣から眼を覗かせて微妙な表情を浮かべる。解剖でもしている気分だと小声で呟いた。 「手脚が使える状態なら良いが、運ばれるのは一例を除いて全員地雷で死んでるからな。焼けてても皮膚はもう焦げてるし。どうしたもんかね」切り開かれた屍体の前で眉を寄せたまま耳を垂らす。手術帽越しにしゅんと動いた。 「運ですよ。まあ、それにしてもクルルさんは運が悪いですね。大学病院で助教してたら急に変な所に連れて来られて。俺は先輩方が来てくれて嬉しいですけど」 ペランサが落胆しているクルルを慰めて笑いかける。 「そうか?」手を止めないまま、疑惑の眼差しを鋭く向けた。「そうですよう」と、ペランサが可笑しそうに声を上げる。冷え上がった手術室に比べると、得体の知れない熱が篭っていた。 ♪♪♪ ブウウーンと遠くから艦艇の声が鳴り響く。化け物の遠吠えの余韻は鼓膜の奥をくすぐって、思わず手術の手を止めて振り返った。不審に思って居たのも束の間、重々しい軍靴の音が地面を割る様に、此方へと向かってきた。金属の重なる音、恐ろしい程に濃い潮の香り。担架に乗った鯨や海竜を背に、サッサと皮膚を縫った。 「瑪瑙先生!」 巨大な鰐が大声で叫ぶ。胸にはブランデー・クリスタと書かれていた。鰐の長い口吻からは牙が漏れ、焦っているのか地団駄を踏んでいた。 「私は此処に居る。看護師が運びに向かうから事情は扉の向こうから話せ」 エキドナが力強く了解の合図をして、素早く誘導に向かった。地下の階段からは箱を抱えた砂滑が列を成して各部屋へと踏み込む。丸い頭とスラリとして偏りの無い身体が泳ぐ様に畝っていた。ブランデーは眼を見開いて震え、軈て俯いてはあ、と息を吐いた。 「分かった。今、ヨルガンの艦艇が原因不明の爆発を起こし多くの怪我獣が出た為、ヒラールとカポンの二國に分かれて救命する事にした。死亡は百名、重症は四十五名。主に火傷や艦艇内での負傷、過度な挫滅、頭部外傷。死因はそれに加え窒息と圧死」 「化学物質は?」 「特に検出されていない」 「軍獣にアルコールや薬品のアレルギーがある者は?」 「右手首に紙を巻いている。それと、カポン海軍将校よりも他の兵を優先しろ」 言葉を頭から無視して、常に検査を終えて運ばれて来た海豚を前に手を動かした。まず、此は艦艇内での怪我らしい。出血多量を疑って捕液をし、ドレーンを挿した。肋骨骨折と空気が溜まる皮下気腫が起こっている。空気を抜きながら出血箇所を縫合し、蜘蛛膜下出血とLe Fort Ⅲ型骨折の最悪な状況を変える為、頭の皮膚を切り裂いた。慎重に、震えもせずに外傷箇所だけを選んで動く。頭蓋骨を取り除いて慣れた様子で出血を治めた。ぐちゃぐちゃになった、酷い姿だ。ブランデーの言葉を無視して海豚を治療していると、扉の向こうから叫び声が聞こえた。指先は動じない。 「其の患者は間も無く死ぬ。手術を中止しろ」 「名札を見つけてしまったから、中止出来ない。彼はアッセルという名らしい」 漏れ出した血液を吸入する。ザザザという残り少ない飲み物を啜る様な音が手術室に響いた。全員を運んで帰ってきたエキドナが代わりに居た看護師と交代する。ブランデーは牙を剥いて激怒した。 「戦場にも出ない医者風情が軍獣様に口答えをするな」 「ふうん」 硬膜から飛び出ている脳と、名前の通り帽子の形をしているはずの帽状腱膜が完全に切れた様を眺め、有茎弁を移植する事に決めた。そして邪魔である骨の破片を膿盆にカタカタと入れる。お前に構っている暇はない、話しかけるなと言いたくなったが徹夜と足腰の疲労で脱力していた。 「医者風情に言わせてもらうと、私達は君達の尻拭いをさせて頂いている。勝手に戦場に出ているせいだ」 ぼそっと呟く。エキドナが噛み潰した様な笑いを上げて、器具を両手に持ち渡す。エヴァンがメッツェンを持ち、鑷子で血管を掴んだまま間に入れて剥がしてゆく。背後で愚かな鰐が扉を蹴り開けた。 「不潔だ。病原体が入り込むな」 穿孔機を激しく回転させて、劈く様な音を立てながら其れを向けた。微かに露出した構造色の鱗に一瞬戸惑う。鋭い紅紫と玉蟲色に心臓がドッと跳ねて鳴いた。 「う、煩い。撤回しろ」 「しない。そういえば一頭で此の手術は疲れるから助手を四頭と外回りを呼べ。隣に居る鹿に似た麒麟と月輪熊をまず引っ張ってきて欲しい」 にいと爬虫の眼を震わせて細めた。笑い掛けているのではなく、疲労で瞼が痙攣している。 「はは、一頭で手術も出来ないのか」 ブランデーが皮肉っぽく口角を吊り上げる。此処の連中で気持ちのいい奴は誰も居ないなあと眼を強く瞑った。瞼裏には割れた頭蓋骨の隙間から見える赤い塊がある。青い物を見ないと気が狂いそうだ、と初めて心の底から青豹を求めた。だが何度も瞬きして「立ち話してる暇があるなら、早く動いてみると良い」と助言をした。 ♪♪♪ 静まった手術室で淡々と手を動かす。艦艇の沈没、爆破による怪我獣が次々と送られる中、屍体の需要は高まっていた。陸軍に比べると同種が多い為、鯨科の肝臓や肺が必要だったのだ。つねにカチャカチャと絡み合う金属音と、外からする破裂音で賑やかである。ペランサは慣れた様子で胸を切り開き、固定しつつ北叟笑んだ。 「此れ、脳震盪で死んでるから外傷が殆どありませんよ」 説明に似た言葉を投げて、直ぐに視線を胸へと移す。心臓の動脈、静脈を切断して虚脱させた。大動脈を遮断して心筋保護液を注入する。ふにゃんと柔らかくなった心臓を持ち上げて肺動脈をパチパチと切る。組織も鋏で切離して氷冷生食水で洗った。心腔内を保存液で置換し、心臓そのものを漬けたパックの空気を抜いて、二重に浸す。其の光景は作業そのものだ。 「君子曰、學不可以已。青取之於藍、而青於藍、冰、水爲之、而寒於水」 勧学という東國の書物に載っていた言葉をサラリと言う。嘗ては西欧ではなく東の大陸に居て書物を読む日々を繰り返していたのだ。麒麟だからか、時間にも囚われずのんびりと。微かに残った竹藪の香りを言葉に染みさせて、はあと小さく息を吐いた。ペランサは一瞬驚いた様な顔をしたが、胸を縫合しつつ弱く笑った。 「いやあ、まだ全然染まっていません。薄いどころか褪せてますよ」 「謙虚で良い」 クスッと表情を柔らかくした。すると扉の奥から大声で「エヴァンからのお呼び出しだ。至急、手術の助手をしろとの事である」と野太い声が響く。二頭は顔を見合わせて、さっと汚れた手袋を捨てた。 ♪♪♪ ペアン鉗子で組織を掴み、止血する。そして緋色で汚れた脳を洗浄液で洗い流した。兎に角、出血箇所は鉗子などで止血して縫う。言葉に表せない正確さと丁寧さがある。だが状況は一刻を争う為、素早かった。 「先生、獣工頭蓋骨は手配済みですから直ぐに来ますよ。DICですね。濃厚赤血球液の輸注しました?」 フンワリと苦い檸檬の匂いが通り抜けた。果実を擦り潰したみたいに、頭へ眼へと上ってくる。ツン、とした若干の痛みを感じるがエヴァンはもう慣れていた。例の悪漢、すなわち青豹も檸檬に似た嫌な香りを染みつけていたのだ。はあと一瞬呆れて頷く。 「先にした。抗凝固薬も投与しているから後は頼みたい。既に脳の処置は終わったが再出血する可能性がある。頭蓋骨以外に腰、肩などを骨折しているが重症ではないからCMで良い」説明しつつ手袋を剥ぐ。 「了解です。心拍も正常ですね。先生はやっぱり綺麗な縫い方だから見易くて助かります」 縫合された血管を覗き込むと、恍惚として顔を赤らめた。恋する少女か冬に熱いスープを飲んだ様に熱が籠っている。熱が冷めない内に、手術の形跡を一つ一つ眼で辿った。 「縫合能力はどうでも良い。私はこっちで重症患者の手術を行うから何かあったら呼べ」 「了解しました。でも疲れたら眼にも身体にも良くないので気軽に声掛けてくださいね」 器具を受け取って微笑み掛ける。エヴァンは顔を合わせないまま曖昧な返事をして体の向きを変える。鱗のせいか隣の痩せ細った熊より筋肉質で、古代の神殿にある彫刻か絵画を思わせる体躯をしている。弟と通ずる美にエキドナが眼を見開いた。 真横の殺風景な手術台に移動すると、せっせと検査を終えた海竜が運ばれてきた。熱帯に生息するからか尾鰭は鯨と瓜二つだが、顔は火山地帯と似てゴツゴツとしている。肌は鮫に似て、白い腹をしていた。唸り声か、鳴き声か判断の出来ないくぐもった呻き声を上げて何かを主張している。容姿は擦り傷や煤で汚れているだけだが、蜥蜴の看護師に耳打ちされて納得する。然し、途端に心の奥底から這い上がってきた言葉が吃逆の様に溢れた。 「俺を何医だと思っている。耳、聞こえていますか」 難聴だった友人の為に覚えていた手話を流暢に使いこなす。海竜は取り乱して青褪めたまま嗄れた声を絞り出した。其の姿は暗闇に放り出された赤子だ。 「聞こえ、ない。聞こえない。何て言ってんだ。みみ、耳が、耳が痛い」 文字を壊して散らした様な震えた声。喋る度に奥がツウンと痛んで耐えられないと付け加えて涙を流した。 「鼓膜穿孔だ。音で破れたらしい」ペランサの耳許で囁いて「鼓膜が破れているので、麻酔を掛けて手術をします」とゆっくり手を動かす。 耳に向かって麻酔液に浸した脱脂綿を使って局所麻酔を掛けた。知識としてはあるが急に実践する事になるとは、と静寂の中メスを握る。すると、扉越しに「宜しいかな?」と声が響いた。其の刹那、扉が開いて手術衣を纏った斑雪の様な羽毛を持つ白梟と、病弱そうな色素の薄い大鹿が入り込んでくる。青緑の手術衣で三頭はPLAの医者だと察した。 「助手として配置された水星《マーキュリー》である。まだ戦場では未熟者だが宜しく頼む」 黄色く真ん丸い眼を煌めかせる。エヴァンが「私も戦場じゃ雛鳥だ」と胸の底で呟いていると、水星の背後から色素の薄い大鹿が大胆に腰を折って挨拶した。片脚が曲がり、震え、義足の脚は妙に安定している。 「自分も助手として配置されました。冥王星《プルトゥーン》と申します。雑用として扱ってください」 焦茶と薄い灰色を混ぜて割った様な毛色が眼許から見て分かる。肝心の眼は焦茶で、気弱そうな声とは真逆に力強い。 「ふうん、隊員が惑星の名前なら、指導者は太陽か」 「いいや、指導者は北極星《ポラール》だ」 北國の呼び方か、と違和感を持ちながらフーンと声を鳴らす。すると水星が隣に立って鼓膜を覗き込んだ。エヴァンはいつの間にか思想の偏りが少なそうな指導者を思い浮かべて「其れは良さそうだ」と返した。視線を移し、手を細かく動かして鼓膜をメスで切り除く。学んだ通り膜は薄く張っている。音で破けても仕方が無いなと納得してしまう。水星が小声を上げた。 「ほう、上手ではないか。流石あの弟の兄だ」 感嘆の言葉を漏らす。気にせずに鼓膜再生を促す薬剤を含ませたゼラチンスポンジを入れた。そして組織接着剤をつける。 「弟は私の誇りだ。兄弟として誰よりも尊敬している」 器具を置いて、じっと細長い瞳孔を向けた。眸の中にある硝子玉の様な模様が澄んでいる。ほんの僅かに焦燥の色を残して、さっと眼を逸らした。 「何かが飛んだ」 手術台から離れて耳を澄ました。遠くからは避難する獣の足音とキイインという余韻が轟いている。生き物の様に焔が広がり、頭蓋骨が圧で粉々になる音まで明瞭だ。耳鳴りに混ざって教会がハラハラと地面に倒れ込み、砂と瓦礫の破片で道が塞がる。攀じ登るペタペタという肉の音と、尻尾を打ちつける音。逃げると地雷が破裂して水が噴き出す。然し、手術室は静寂に呑まれ、何も聞こえない。そんな中で水星だけが軽く頭を傾けた。 「今のは危ない。重要患者の輸送は済んでいるから安心したまえ」 エキドナに片手で回復室へ移すように命じる。彼女は其れに不機嫌そうに返事して、尻尾を横に揺らしながら患者を輸送用ベッドに移す。別の看護師と眼が合うと「早く手伝え」と牙を剥いた。 「重要患者とは?」エヴァンが器具を置いて訊く。 「議員や軍獣だ」あっさりと答えた。 「一般市民は?」 「少しの犠牲は仕方が無いだろう?」 眉を顰めて軽蔑した視線を投げる。短い嘴が布の下で動いた。冥王星が「まあ、戦場ですから。全員は守れませんよ」と分厚い毛の間に笑窪を浮かべる。嫌に長く掌の様な角をへし折ってやろうか、とペランサが身を寄せたが乾燥して燻んだ声色にふと止まる。外でも死にたく無い、なんて叫ぶ人は居なかった。皆、「子供だけは」とか「弟だけでも」と大切な人ばかり心配する。犠牲にしてでも、という眼の眩む程に美化された本能が輝かしく周囲に溢れ返っていた。どうにも責め立てるには可哀想だという空気の中、エヴァンは背を向けて手袋を外した。 「頭が痛い」途端に沈黙が落ちた。 ♪♪♪ 木は赤々とした実を抱き、落とし、枯れてまた花を咲かせた。世界からの寄付金は数々の花束に変わり、街の至る所に写真立てと共に置かれている。向日葵畑だった場所は墓場になり、赤白青に盾の國旗が淋しい風に吹かれて靡いていた。海豚の写真も岩の上に立てられ、青玉よりと書かれた胡蝶蘭が添えられている。瓦礫を持ち上げて運ぶ象や、布や石を使って外で言語を学ぶ鴉が並んでいた。戦車や軍用機が帰還し、花を投げたり囀りで歓迎する中、病棟であった場所は片付けられ、静まっている。 燦々と太陽が輝きを増す午後一時十五分、突然仮眠室にパロマが来た。毛は自分で切り落としたのか不恰好で、軍帽を深く被っている。 「撤退」とだけ告げられ、彼らは万年筆を拾う暇もなく連れて行かれた。色褪せた擬装網をぶら下げて燻んだ黄褐色の薄暗い車に乗る。泥が床に乾いてへばりついて軍靴が並べられている。クルルは疲労で口も開けず、ただ上を向いていた。汗の混ざった獣臭に嫌気が差して鼻を覆う。 「手術室に居たから何があったか分からない」 「海軍の将校死んだらしいね」 遮って悲しそうに耳を倒した。クルルが胸糞悪そうに角を向けたまま眼を向ける。嫌悪か、厭な部分を爪で突かれている様で何とも言えぬ気持ち悪さが嘔吐と混ざって出そうになる。ただ正常心を保とうとエヴァンの横顔を眺めるが、哀愁が漂って淋しそうな艶を鱗に残していた。追い討ちを掛けるが如くパロマが顔を寄せる。狼らしい長い口吻が接吻寸前まで近寄る。毛、一本一本が隅々まで見えた。黒毛と柿毛が混ざり合い斑模様が耳の端まで広がっている。 「手術したんだろ?」 「……ボニファーツに監視しろと命令されたのか」 項垂れて淡い眼を向けた。絶望でも無く、ただ滾滾と水が湧く様に疑問が流れてゆく。重々しく垂れていた尻尾が縦に揺れを刻んだ。パロマは耳をピンと立てて意外そうな顔をすると、麻呂眉を寄せて瞼を閉じた。 「軍では基本的に、どんな僅かな情報でも報告は全て受ける。網羅的にね、アンタの情報も、亡くなっている両親の情報も、恩師や友人、親戚、知人、生徒、生徒の親戚、生徒の知人、生徒の友人、元恋獣、好み、性格、患者、患者に関する獣、教授。ぜーんぶ伝わってる」 「気持ちが悪い」 唖然としてクルルが吐き捨てた。パロマは一瞬だけ牙を覗かせると、唇の間から言葉を溢そうとして態とらしく笑う。声も立てずに薄い皺だけを残して、鼻をスルッと撫でた。口吻を指腹でなぞって、眉間を軽く押す。彼女の癖だ、とエヴァンが頭を上げる。 「そうよ、気持ち悪いのよ。そういう事をして、何も知らない顔して生きてるのがヒラールの連中だから」 「それで、海軍将校を暗殺したのか」 金剛石を感じさせる硬い声である。だからと言って普段通りの冷えも無く、熱も無く、疑惑と暗い焔が眸の奥底で揺れている。パロマは唾を呑んで、じっと眼を合わせた。 「違う」 「神に誓って違うと言える」 グッとエヴァンの掌を両手で包み込んだ。疲労を抱えた鱗の並列、一枚一枚は硬く、鉤爪は真っ白で先端から桔梗を滲ませた色をしている。傷こそ無いが、老人の手でも握る様な気分に浸った。暫く頭を傾けて撫でていると、「俺の努力不足だ」と呟く。 「はあ、アンタ悪くないでしょ。あれは屍体同然の物だった」 溜息混じりに言って、パッと手を離した。不貞腐れて文句を漏らしているクルルの口を塞ぎながらエヴァンが口角をギュッと下げる。口周りの薄鱗の皺も同時に下がった。 「屍を生かすのが医者の責務だ」 口吻を掴まれたクルルもそうだとばかりに強く頭を振る。パロマは乾いた笑みを浮かべて、また鼻を撫でる素振りを繰り返す。毛並みが鼻ばかり整っていた。 「でも美辞麗句を連ねてるだけじゃないか。まず命には優先順位がある。位で価値が分かれてるんだから」 エヴァンはうーんと顎下に親指を添えて瞳孔をチラチラさせる。 「なら政治家とボニファーツが居たら政治家を助けないとな」 「ふーん。ウチなら優先順位関係無くそうするけどね」 脚を伸ばして大きな口を開くと喉奥を見せて欠伸した。戦車は木の葉に紛れ、泥に汚れた道を淡々と進んでゆく。 山は連なり聳え、雲を突き抜けて万年雪を山頂に残している。削られた窪地に溜まる濃浅葱の氷河湖は冴えた色を残し、薄く雲を纏っていた。青い青い氷が湖から空を見ている。黒黒とした煙の立ち昇る空を。
青玉II
綴られた文字を静かに咀嚼して、夜も眠らずに黎明を迎える。薄青空には紫雲が靡き、太陽の輝きを巻いて静かに踊る。そんな天の舞踊に一種の安堵感を抱いて、ボニファーツは仕事用の万年筆を握った。持ち手には金が含まれ、中々の重さがある。すぅと隣に動かすと墨が出て英字のAが書かれた。新聞でも見ない美しい形。其の儘、北國に送り届ける作戦書類を完成させている最中、真夜中の事を思い出した。 突然、サーフィーが出航前にエヴァンの顔を見たいと言い出し、部屋へと自ら出向いたのだ。軍服の金釦を全て留めて、裾を揺らしながら部屋へと忍び込むと冷蔵庫に果実を詰め合わせて付箋紙を机に貼り付けた。全身を伸ばして眠るエヴァンの手を握り締めると、名残惜しむ間も無く艦艇へと急ぐ。そして、兄弟への別れでも交わすかの様に、ただ優しい眼で見ていた。其の眼の焔は死に対する覚悟ではなく、必ず生き延びるという決意の様に見える。ボニファーツが隣を歩きながら「叩き起こして、彼と握手でもすれば良かったのに」と残念そうにした。サーフィーは眉を吊り上げて、「握手なんてしたら戦場に行けなくなるし、司令執ってる間に淋しくて泣いてしまう」と俯く。興味の無い青豹は欠伸して、曖昧な相槌を打った。其の刹那、海豚の老媼から情報の通達があり、直ぐに出航する事となった。本部待機する軍獣達が制服を纏ったままズラリと整列し、敬礼で送る。ボニファーツも静かに敬礼をして見送った。堂々と艦艇へ向かう背を眺めて、消えたかと思えば白波を立てて水飛沫を撒き散らしながら艦艇は進んで行った。そして徐々に北西へ方向を変えて作戦通りの動きを開始した。 見送りの後、司令室を覗きに向かう。真ん中に腰を沈めた陸軍大将の一角獣《ユニコーン》が山羊髭を撫でながら全体の指揮を執っていた。背後から忍び寄り、電脳に映し出された映像を見ていると、大将はクルリと振り返って既に別基地の獣だけで西部を鎮圧したと報告した。無論、総帥である此の青豹は全軍の全体的な司令を執るのが正常であるが、大将や幹部に作戦を全面的に任せている。其れは州の会議などで多忙な故の判断であった。 資料がもう少しで終わるという最中に、聞き覚えのある重々しい足音が響く。潮の匂いと獣とは思えない影に唖然としながら、騒々しい扉の向こうを覗き込む。其処には古き友が居た。後頭の鰭を金属板で立てた鯱である。グルグルと周囲を見廻り、部屋が分からないのか番号を何度も見合わせていた。そんな彼を見て、扉の隙間から手を伸ばして招く。 「ディアーノ、僕なら此処だよ」 巨体は小さい歓声を上げてドタドタと扉へと突進した。首裏にある刺青は二筋の赤波で日に日に伸ばしている。何センチ伸びたのだろうかと考えていると、熱い抱擁を受けた。滑らかな肌に染み付いた海潮の香りが鼻を突く。全身に油を塗っているのか、撫でると滑った。暫くは互いの体温を感じていたが、ゆっくりと両腕を離すと椅子に腰掛ける様に手で示した。そしてディアーノは尾鰭を沈めて股を開いたままドスンと座り込み、背広を脱いで黒服姿になった。一方で、ボニファーツが尻尾をクネクネしながら紅茶を淹れようと動くと、ディアーノは肥えた白い下顎を下げて、大きく口を開ける。曲がった牙が文句を言いたそうに覗く。 「げぇっ、其れ不味いんだよ。俺は角砂糖を限界まで突っ込んだ珈琲が欲しいのに」 「はあ、なら砂糖の塊でも呑めば良い」 棚から角砂糖の敷き詰められた瓶を掴み出して、蓋を開ける。そして一つ摘みして洋盃から溢れるまで詰めた。そして偶然沸かしていた珈琲を注ぎ込むと、あっという間に角砂糖は崩れて、珈琲の熱と共に溶け込む。抱き締め合う様に絡まると、さぁと跡形も無く角砂糖が消えた。持ち手に指を通してクルリと回すと、奥底に薄ら溜まっている。ディアーノが巨体を持ち上げて背後から眼を輝かせていた。 「おお、馬鹿みたいに詰めてたのに全部溶けてる」 「呑んで良いよ」洋盃を口許に運ばせる。 「あちちっ、馬鹿、海獣に熱々の珈琲呑ませる気か。でも、呑んでやろう」 大袈裟に火傷をした振りをしつつ、珈琲とも呼べない砂糖液を呑み込む。ボニファーツは手を組んで紅茶を前に深刻そうな顔をした。 「此の儘だと糖尿病になるかもしれない」 真剣な忠告に愕然としたが、忽ち「そんな、大袈裟な」と空になった洋盃を置いて豪傑笑いした。ボニファーツは紅茶にアーモンドミルクを注ぎ込んで、表情を曇らせる。 「大袈裟じゃない。昔から心配なんだよ。魚に黒砂糖を塗って食べた事もあったな。味覚障害も懸念している」 味覚障害という言葉に首を傾げながらも、眼の前にある光景にディアーノは先刻よりも顔を顰めた。 「お互い様じゃないか。そんな酷い飲み物、此の世に無い」 「別にママの乳でも良いんだよ。所で、用事は何?」 「まあ、色々あるんだけども。まずはシデーロステアという軍事企業を買収した」 証拠の紙を丁寧に机に置く。特に大袈裟な驚愕は起こらなかった。ただ、ゆっくりと頷いて瞼の奥からは哀愁を香らせている。 「……うん、知ってるよ」 怯え気味の猫は態と冷然として、外方を向いた。沈黙が流れるかと思えば、代わりに鯨科特有の鳴き声が炸裂した。ミャイイと笑鳴を響かせ、牙を剥き出し、額のメロンに手を当てた。 「何だ、青褪めて! 青毛を超えて黒くなってるじゃないか。黒豹になるのか?」 まだ笑いは治らない。腹を抱えて地面に全身を打ちつけるのではないかと不安になる程、天を仰いで大きく口を開けていた。喉の奥までよく見える。ボニファーツは服の襟をパタパタと揺らして涼みつつ、フゥと深く息を吐いた。 「いいや、別に。うちで採用してる軍事企業買い取って兵器売り捌きたいのはよく分かるけど、何時も背後に居るみたいで気持ち悪いから不快なだけ」 売り捌く、という言葉にディアーノは表情を明るくした。黒肌に浮き出ているアイパッチの真下に居るであろう黄金の眼が煌めく。煌めきは純金よりも澄んで、喜びの色を増していた。 「よーく分かってるな。其方さんは毎日の様に戦場に向かってるから山の様に売れるわけよ。もっと戦争の範囲が広くなれば他國にも売りつけられるぞ」 儲けだけに思考を奪われた哀れな鯱は、鰭手を組み合わせて計画が上手く行ったと冬空に似た冷酷な笑みが隠せない。其の反面、ボニファーツは自身の斑点模様を指先で辿りながら言葉を吐き捨てた。 「利点の無い話は嫌いだし、僕は平和主義なんだよ」 「平和主義? 冗談だろ?」 流石に口角が引き攣る。悍ましい怪物でも見る様な眼に豹変して、兎に角距離を取ろうと位置をずらした。怪物は脚を組んで両手を広げる。 「僕は皆がニコニコと笑って暮らせて、國同士も上手く交流できて得るものがあるなら全然良い。戦争なんて醜い事、僕はしたくないよ。僕も、エヴァン君も、君も戦争を経験してるから分かる筈だ。名誉も何もかも失ったろう」 「海洋のど真ん中に居たんだから知るもんか。唯一見てきたものなら、餌の争奪戦か縄張り争いだ」 溜息を吐いて体を縮こませた。 「でも、変だな。そんなに平和主義者なら何故政府に関与しようとする? 今は平和だし、やる事もないだろう。此の國は軍事政権じゃなくて立憲君主制だ。議会の大半がヒラール軍だって噂毎日の様に聞くぞ」 「誰がそんな面倒な事をする? 軍事関係以外のことで関与なんてしてないよ。でも、少しは助言しないと國が壊れちゃうから、其れはしている」 ボニファーツは困った表情をして笑った。そして口許を押さえ「過激な陰謀論に触れるのも大概にしてね」と付け加えて椅子の背に凭れ掛かる。然し瞳孔は大きく丸くなり、心の奥底を覗く様にディアーノを捉えている。眸が多方面から突き刺してくる。彼は大きく身を捩ってみると話を逸らして鞄を置いた。 「ま、変な話は止して、疲労に悩まされる子猫ちゃんには同族を差し上げよう」 鞄を開けると、液体に似た柔らかい物体が飛び出してきた。透き通った透明だが薄毛が生えている。其れは触れば中身は水なのかブヨブヨとしていて、大きな眼と縦に耳が生えた猫の形をした何かだった。口は小さくあるが機能していないらしい。生物とも呼ばない其れは足もなく、首だけを擡げて液体の様な身体を揺らしている。 「何だ? 此の液体生物は」 「新しい生物兵器の開発で失敗したらしい。何をモデルにしたか分からないが水猫っていう名前だ。本来は、此の液体と反応させて大規模に爆破させるものらしい。色が変化して擬態も出来るし、形も平らになったりで変わるから良いんだと。でも此の駄作、攻撃も出来ないし踏み潰しても弾力があるだけだ。ま、疲労が溜まる総帥殿にとっておきだろ」 水猫の皮膚を摘んで伸ばす。鰭手を離して戻すと水だからか身体が揺れて広がった。破れていないかとボニファーツが急いで抱えると中身が完全に液体なだけで破れてはいない。安堵してひんやりとした身体に顔を沈めた。 「ふぅん。こんなに可愛い猫を殺戮道具にするなんて、脳味噌に海水でも詰めてるのかな? 殺獣行為だ」 水猫を両端から引っ張り、顔に当てて言う。機能していない口が力無く開いた。耳は言葉に反応してピクピクと揺れている。 「はあん、革靴にされた天国で兄貴もそう言ってると思う」 漸く、柔らかかった空間にヒビが入った。割れ眼から音を立てて崩れ落ちてゆく。破片が胸に刺さって、ジリジリと痛む。青豹は一瞬真顔になって、すぐ真夏の空に似た笑みを貼り付けた。 「かもね。それで、つまり君は僕を心配して来てくれたって事かな? なら一つ助言してあげよう。買収するなら兵器より医療機器、医薬品の企業だよ」 悪戯っぽく口角を吊る。黄金の牙がそっと下の上から飛び出す。ディアーノは顎下に手を当てて天を見上げた。黒白の図体と鰭が大きく動く。 「エヴァン一頭で売り上げが変わるかねえ?」 「賭けてみると良い。僕の勘は意外と当たるよ」 紅茶で唇を濡らした。水猫を膝上に乗せて窓の外を眺めていると、黒い煙が濛々と立ち上っている。何を燃やしているのだろうか、と考えているうちにディアーノは相槌を打って、荷物を纏めた。 「賭けてみよう。金は腐る程あるから」 「宜しく頼むよ。……あ、君に一つ土産がある」 軽い足取りで水猫を抱えたまま冷蔵庫の扉を開く。冷風が身を舐めて、色がある癖に殺風景に思える中身は薄暗く、肉ばかりが整頓されて置かれている。其処から透明の圧縮された袋を取り出した。中には巨大な舌が刻まれている。其れは最早、紅でもなく黒い塊だった。 「鯨か」ポンと膝を叩く。 「好きだったろう?」 鯨の舌をほいと投げた。ディアーノが背を低くして受け取る。凍りついた袋がヒヤリと鰭手を冷やした。 「大好きだよ、其れ。でも一体何処で仕入れたんだ?」 厚さを見てパァッと弾けて忘我混沌の喜びを体現した。観察をしながら過去最高の高級品じゃないかと微笑む。 「秘密。こんな可愛い子を貰ったんだから当然だ。いっぱい食べてくれ」 ディアーノは先刻まで水猫を入れていた鞄に嬉々として鯨の舌を詰め込んだ。今でも喜びの色は褪せない。黒い体に彩りの艶を纏って、鰭手を振り回した。 「ありがとう。早速帰って解凍してみよう。じゃあ、健闘を祈る」ビシッと海軍式の敬礼をする。ボニファーツは陸軍式の敬礼を返した。 「ヨルガン戦争が終わったら混合酒でも飲もう」 「……そうしよう」 扉がパタンと空気を叩いた様な音を立てて閉まる。シーンとした部屋に、奥の部屋からの司令の声が響く。騒めきも水に流された様に消え失せて先刻の時間も記憶から徐々に切り離された。何も居なかったみたいだ、と取り残された青豹は思いながら部屋を出る。司令室までの道のりは、遠く無かった。 ♪♪♪ サーフィーは迷う事なく、白銀に染まる指揮艦の中で通信した。 「陣形」 陣形の周りを援護のPLAの海軍が包囲する。八方包囲という短時間で円型に敵を包囲する伝統的な技だった。艦艇を幾つも抱く海は水飛沫を浮かべ、曇り空と同色に染まっている。ゴオオオと耳を劈くような音が重なるが、サーフィーは既に慣れていた。ヨルガン海軍は吃驚したのか攻撃を停止し、急に道を開けた。カポン海軍も同じく攻撃を止める。赤い爆弾が踊り狂っていた海は嘘の様に静まった。抵抗する気は一切無いらしい。 「青玉、両國の大将は相当思想が強いぞ。共産主義の最先端だ。今から停戦合意の会談をさせても喧嘩になる予感しかしない」 藍玉が呆れて言う。サーフィーは言葉を噛み砕いて呑み込みながら、装置を隠す様に引いた。 「其れを仲介するのが今回の役目でしょ。……全艦、会談場所の確保。但し交渉航の通路は開けよ。代表を指定し、〇五〇〇に会談の有無を返答せよ」 短距離音声で伝える。暫くするとカポンからは了解の合図が送られた。然し、ヨルガンからは何の返答も無く、突然爆音と共に火花が散った。そして別の陣形に変形し、藍玉は艦艇の破片が散った海を愕然として見る。サーフィーは推測通りだと寧ろ笑みを浮かべて、通信した。攻撃は止まない。炸裂する煙と紅。黒い塊が垂直に堕ちてくる。 「攻撃元はヨルガン海軍トロイ型駆逐艦である。此れを優先標的とし各自防御体制を取れ。対空ミサイルで迎撃」 「了解」 カポンが隙を見てヒラールに攻撃しようとすると、其の一瞬の間を見失う事なく付近の艦艇が攻撃準備をした。仕掛けることは無いが、其方が其の気なら直ぐにでもミサイルを放つぞという圧を掛けていた。其の中で、ある一つの命令が短文で届く。読み上げる前に少し考えて、藍玉に耳打ちした。其の刹那の間に、海洋は緊迫感に包まれる。鉄の塊は空へと飛び、標的へと墜ちてゆく。爆破、破滅を繰り返して沈む。心無しか、自分達のしていることが分からなくなった。何が正解なのかも分からず、攻撃を仕掛ける。獣の命を奪う。奪っているが、其れが正解だとは誰も思わない。サーフィーは猛禽特有の手を机に置いて、冷徹に居た。色素の薄い毛を靡かせて、竜特有の力強い口吻を突き出したまま頭をグルングルンと働かせる。脳神経一本一本が燃える様に、熱い。憤怒か、哀か。其れすらも分からぬ程に心臓が煩い。 「応答無し。『ヨルガン軍からの一方的攻撃を受け其れに反撃』の趣旨を本部に報告。映像の送付準備を最優先せよ」 「了解。直ちに準備する」 途切れ途切れの応答が返ってくる。大きく揺れる司令艦の中でサーフィーは脚を伸ばして寛いでいた。背中は反対にピンと張っている。喉は震えていた。 「我が軍の巡洋艦の中で沈められると弱音を吐いた奴が居る」 「自分の艦を沈めないでください」 深海鮫が近寄って、声を潰して言った。 「そうだぞ。原因不明の攻撃を受けて苛立つのは分かるが」藍玉も隣で怪訝な顔をした。鯨に似た喉を撫でて原因を考える。先刻の鮫が咳払いして読み上げた。 「あのう、調査部によるとヨルガン軍は我々がカポン軍の味方であり、ヨルガン軍の味方の振りをしている敵だと認識している様で……」 深刻な勘違いに巻き込まれているらしい。サーフィーは羽毛と髪をわしゃわしゃとして顔を歪める。何故、という疑問だけが頭にこびり着く。 「はあ、其方には本部からの命令はどう来てる?」 文字を書いているのか、机を指の腹でなぞる。鮫は粉々に砕いた硝子の如く顔が冷め、腹を震わせて居た。恐ろしさを感じる筈である牙も使い物になっておらず、ただ死への恐怖に立つ事も難しかった。 「く、三日月様が最高指導者達と、で、電話会談をしているそうです」激しい眼眩に崩れ落ちそうになる。 「出来る限り大規模な攻撃は避けて、あくまで自衛をしよう。此処で争っても何も生まれない。仲介役で居るんだから」 絶え間ない司令の合間に、微笑みを浮かべて返す。唖然としている鮫は頭から尾鰭まで絶望の色に染まり、壊れた縫いぐるみの様に動かなかった。藍玉が腹を蹴ろうと脚を動かしていると、サーフィーが眼線を合わせて命令する。 「諦めたり、絶望しないでね」 「……は、はい」 濡れた鮫が少し上を向く。左手で頭を撫でて、また明瞭な声で司令した。軍獣は反って伸びる力強い角を背後から眺める。 「良し。作戦は敢えて此の儘で行こう! 隙を作るな。我々の艦は平和と名誉を乗せている。戦場でも紳士で居る事を忘れるな。ヒラールだからと言って手を出してはならないよ!」 「了解」 陣形を作っている艦艇がぐるっと変形してゆく。壁を作り、攻撃を避けて。三日月と月桂樹の旗が靡いて波に反した。ゴオオオという相変わらずの機械音と波の音。サーフィーは小声で藍玉に合図をして、直ぐに通信する。 「胡蝶蘭」 「用意」 全艦がブワァッと花が開いた様に変形してゆく。藍玉が何かがおかしいと勘付いて命令をしようと口を開くと、トロイ型駆逐艦、白い化け物が音を立てて近づいてくる。ソレは唸り声を上げて向かったが、艦艇は避けて距離を取った。PLAの補助艦も固まって、戦闘艦が前に出てくる。 「おい、動きが変じゃ無いか? 本当に作戦通りなんだろうな」 藍玉が身構えて、体制を整える様に指示する。止まれと命令していると、突然グラリと大きく傾いて、破片を全面に散らし崩壊した。ヨルガンの別艦艇が距離を取ろうとしたが、また傾いて墜ちてゆく。ザアアアと鯨でも叩きつけられたかの様に水飛沫を上げて沈み、破片や獣だけが浮かび上がる。 「……提督、此は」 「……」 無言で、水飛沫に隠れている黒い塊を眺める。跡形も無く、海面を裂く様に破裂する。沈んでゆく艦艇を見ると、焔が立ち上って破裂していた。恐怖と混乱に陥る中、「冷静になれ。救助を要請し、此方からも救命ボートを出す」と落ち着いて言う。火傷で爛れた獣と、大将らしき海竜が燃えて海に浮かんで居た。黒焦げになった鳥らしき物体も、細長くなって塵の如く揺れて居た。 「PLAの部隊が生身で飛び込んでいる。……救命だ。原因の特定を急げ。此方もだ。早急に!」 そう叫ぶと海へ海へと獣達が潜っていった。鯱から鯨、海竜に海馬。熊から魚まで数々が行く。生き残った黒焦げ獣を乗せて進み、カポンも遺体回収や溺れている獣の救助をした。次は出ない声を絞り出して鮫が報告をする。 「陸上暗殺科任務完了との連絡です。陸軍は暫くして撤退するかと。此方の連絡は如何しましょう」 「……了解。つまり、此れはヒラールの暗殺科の仕業じゃないんだ?」 血相を変えて眼の奥を睨んだ。怒りと焦燥を混ぜた嫌な塊が喉に込み上げてくる。胸全体に砂を混ぜた様な厭な感じがへばりついて離れない。状況に得体の知れぬ気持ち悪さ、嫌悪感を感じずには居られなかった。鮫も怯えを隠して、鰓を動かしゆっくりと口を動かす。 「恐らく、PLAか東國の暗殺科かと思われます。然し、此処まで大規模にする必要は無い筈です。三日月様からの連絡も特に無く、詳しい原因は不明としか言えません」 溜息の音すら鳴らない。ただ声だけが静まる司令艦に響く。海ではヒラール、カポン、PLAが負傷兵をボートに乗せて運んでいた。荒い波に逆らい、水飛沫を浴びても諦めずに訓練通り泳ぐ。呼び掛けも忘れずに艦艇へと連れて行くと、数分もせずに全員運ばれた。特殊隊の訓練が役に立った、と全員が痛感しただろう。 「さ、停戦だ。此処から一番近い、兄の居る別基地へ輸送しよう。何が起こるか分からない為、司令艦と幾つかの艦艇は一旦残る」 「了解。カポン側も負傷兵最優先との事です」 「うん、分かった」 今頃、基地で忙しく治療をしている兄の姿を瞼裏に浮かべて下唇を噛む。地団駄を踏んで「クソ、何で」と叫びたくもなったが、深く息を吸って呼吸を整えた。 冷徹そうな顔には名誉の為でも無く、勝利の色も無く、ただ一欠片の愛國心がある。純粋で、そして澄み切った愛。全ての國に対する敬意が見て分かる。守りたい、傷ついて欲しくないという信念がたった一欠片に込められていた。狭隘な艦艇内とは裏腹、咳も煙になる様な曇天を呑んだ海は、白い波を立てて怠惰に広がっている。別基地へと艦艇が揺れながら向かっていた。
自己紹介
【名の由来】 一面六臂で忿怒相の紅い明王は微かに俯き、毛を逆立て、五鈷鉤の突き出た獅子の冠を垂らして居た。そして、宝瓶上に咲く蓮華に結跏趺坐で座り込み日輪を背負っている。第一の左手には五鈷鈴を強く握り、第二の左手には弓を、そして右手には矢を持ち合わせて第三手は握り締めた。 その姿、貌に慈愛を感じて名乗り始めたのが私である。元は東京国立博物館に展示されているであろう木造愛染明王坐像の絵図を見たところから始まるが、その皺から足の先までに溢れ出んばかりの浪漫を感じたのだ。 【好きな物】 鼻腔の奥を突き刺すような強烈な匂い、舌をひりつかせて逃げてゆく酸味。偏りなく丸く緑で、二つに切り分けると白い白い種の入った果実。カボスが好きである。酢橘と間違えてはならない。風味と酸味、大きさに違いがある。各自調べると良い。明白だ。そして有名な橙色の果実である蜜柑、冴えた色の檸檬、香り豊かな桃、そして女の子。絵を描くことと小説を書くこと、漫画を描くこと、造形、など。 【嫌いな物】 ブゥゥゥゥゥゥゥン、カチカチカチカチ…… 焦茶の羽を恐ろしく立てて近づき、巨大な顎を鳴らしている虫。そして常に触覚の下には大きな眼を持ち黄色と黒が縞になった腹を動かしている。その名も蜂、詳しく言えば大雀蜂だ。私は彼にトラウマがある。何度追いかけ回されたか分からない。もう一つ挙げるとしたら足が百本あり、細長い体と赤い頭と尾を持ち合わせた怪物である百足だ。刺されたら痛い。 【創作をするキッカケ】 友人全員に裏切られ、家庭でもネットでも居場所を失った結果自分の世界を作ることにした。そこで性癖を敷き詰めて、自分と同じ不幸なキャラを作る事に酷く没頭し、気がつけば創作家としてかなり叡智になったつもりだ。気づけば小説が普通に書けるようになっていた。意識せずに書けるようになっていた。もはや、清少納言の血に忠実でいたのかも知れぬ。家系図に清少納言の名がある故にその説は否定できない。 【最後に】 主な活動場所はTwitterである。
医者II
麒麟の体温により灼熱となってゆく寝床の上で、エヴァンは苦悶の表情を浮かべながら藻掻いた。炙られているのではないかと錯覚する程、鱗の表面に余韻が残っている。疲れの癒えた体をゆっくりと動かし、寝床から降りると、電脳の置かれている棚の前に腰を下ろした。端には寝ている内に差し込まれた紙の資料が置かれている。棚の角に貼られている付箋紙には、冷蔵庫を描いたのか長方形の絵図がある。其の隣には矢印と細長い字が残されていた。 【果物がある。明日の朝食はクラッカーとトルテリーニ。残さない様に】 寝惚け眼を擦り付箋紙を剥がす。此を書いた者の名前は書かれていないが、癖のある装飾文字を見るに彼であることに疑いの余地は無かった。 「サーフィーか。御丁寧に」 付箋紙をクルルの眉間に貼り付けると、冷蔵庫の扉を開けた。冷え切った風が巻くように鱗上を撫でる。少し寒いと両手を擦りつつ、中身を覗き込んだ。其処には木苺や檸檬が置かれている。多種多様な果実や肉がある隙間には、黄金の光を放つ甜瓜が分けられて皿に置かれていた。其れに手を伸ばそうとしたが、さっと引っ込めて木苺を一粒摘んで、扉を閉めた。口に放り込むと、甘酸っぱさが舌に広がり、噛む度にプツプツと潰れた音が鳴る。飲み込んでも尚残る味の余韻を感じつつ、電脳を開いた。蜘蛛の写真を眺めようと検索をしていると、大量のファイルが視界に映る。溜息と舌打ちを堪えて開くと、別基地への送迎についての詳細や現状。別基地にある医療薬や機器などが纏められていた。俄然興味が湧いたのか、医療に関する部分だけ眼の色を変えて読み進める。特に最新の内視鏡や医療用拡大鏡が気に入ったらしい。医学雑誌も何千とある。何気なく出版社を検索すると、度肝を抜かれた。円を描くような英字でコルラス・ポッサム社と書かれている。 「世界的有数の学術出版社だ。幾つも雑誌は持っているつもりだが、ヒラール版がここまで多いとは」 意外だと表情を曇らせながら、無我夢中になって読み進める。背後には足を踏み外して蹌踉めくクルルの姿があった。付箋紙に気が付かず欠伸をしている。 「んん? あれ、今日の朝食南欧料理じゃないですか。私は枯葉で十分なのに」 小言を漏らし、いつの間にか机にある林檎の芯を噛む。モグモグと頬を動かしてエヴァンの隣に座り込み、電脳の画面を覗き込むと「オオッ」と感嘆の声を上げる。雑誌の試し読みを勝手に押して文を眼で追う。飲み込む様に論文を端から端まで探り、尻尾を別生物の様に動かして騒いでいた。エヴァンは其れを横眼に紙の資料を捲り、基地の内部構造や地下の通路を重ね、電脳の光で透かして見ていた。 「資料によると、朝食後にある事前説明の後、輸送機に乗り七時間移動。数ヶ月は滞在する事になる」 何も無かったかのように、資料を重ねて戻す。クルルは残念そうに肩を落とす。べしゃと電脳の上に頬を乗せた。 「鬼の所業ですよ。先生からしても戦場に行くのは気が進まないでしょう? 明らかに青豹の嫌がらせです。タチが悪い」 「青豹と呼ぶな」 顔を顰めて、寝床へと戻る。薄墨闇の部屋で毛布を掛けたまま壁を見る。点滅する装置は配線用遮断器に似て、電線が数本伸びていた。装置の間にあるSの文字に嫌悪感を抱いて眼を瞑る。クルルは其の背を怪訝に眺めながら溜息をついた。窓越しの空は雲の洋服を纏い、紅を差している。微睡んだ直後、耳を劈くような喇叭《ラッパ》の音が基地内に鳴り響く。エヴァンは耳を塞いで飛び起きた。信じられないという顔で青褪めている。毛布を畳んでサッサと食堂に行こうと準備を始めた。 「先生、地下蟻の巣避難所って知ってますか?」 服を着替えながらクルルが訊く。毛が垂れているのを見て肥えているなと口走りそうになったが、咳払いで押し殺して頷く。 「災害時に逃げる地下通路だろう。其れがどうした」 尻尾を出して金釦を留める。切り込みから翼を出して胴締を締める。硝子窓から射す金具の反射光の様な朝日で構造色が紫を帯びた。 「先生は昨晩、ずっと其れを見ていたのでしょう。第五基地周辺に火山なんて無いのに、避難所が繋がってますよね。海中を通って」 神経みたいですね、と付け加える。襟許を整えて胸衣嚢に備忘録を仕舞う。扉を開けながらエヴァンが右腕を撫でた。影で艶が一瞬消え失せ、臙脂に染まる。 「私は、何かを作っている様に感じた」 眩しく、太陽の中に潜んだ様な気持ちで廊下を駆ける。 静寂の食堂には将校が並び、大きな鯱を見たとか昨日は暑かったとか寝惚け話を交わしている。其の影の中には羽毛に似た毛を持つ高山竜が混ざっていた。白い手を伸ばして、鋭い鉤爪が覗いている。眼尻には鮫鰭の白い模様があった。背には厳粛な雰囲気を纏い、周囲が身を小さくしているのが見て分かる。 「矢張り彼は眉目秀麗、でも朝だから機嫌が悪そうですね」 小声で囁くと、真後ろの狼に突かれた。エヴァンは顔を引き攣らせて、眉間に深い皺を作る。 「レティシア」 「パロマって呼びな。瑪瑙《アガット》中尉と黒瑪瑙《オニクス》」 訛った口調で呼ぶと、トルテリーニの乗った皿を持ち上げて運んだ。中身は薄く伸ばした生地に具材を詰め、三角に折り、その両端を重ねて指輪の様になったパスタをスープに浸している。そして席へと身を翻した。 「後、青玉は耳が良いから全部聞こえてるよ。機嫌悪いって」 背後の席から青玉が静かに睨む。果実を噛み潰す様に微かにエヴァンは嗤った。くつくつと喉奥で音を立てながら皿を持つ。 「……食べよう」 「はい」 席に運び、クラッカーをスープに浸して食べた。中々美味しいと絶賛しつつ口へと運ぶ。昆虫肉特有の弾力のある食感と濃い風味が充満した。ふと、クルルが隣を見ると鷲獅子《グリフォン》が座り込んでいる。上下が赤白の不可思議な容姿をして、猛禽には無い長い耳を動かしていた。そして、微笑む事も無く無表情で見つめ返した。 「生まれて初めて、麒麟という生物を見た」 ポツリと一言。唖然として、黄金の眼を煌めかせていた。エヴァンがクルルの影から顔を出す。 「後ろのは噂の玉蟲か。渾名にしては色が紅いぞ?」 絶滅危惧種でも見る様な眼を向けて、首を傾げた。いつの間にか前に座っている青玉が睫毛を伏せて『きっと、一眼見た軍獣が緑だと勘違いしたのだろう。兄は構造色の鱗だ』と言い放ち、席から離れた。 「青玉って何時も不機嫌なんですか?」 「いいや。訓練とか会議以外はいつも優しい」 鷲獅子が否定する。其の真後ろで食事を終えたエヴァンが荷物を片手に「胡蝶蘭でも枯らしたのだろう」と見解を述べた。 休憩を挟んだ会議二十分前、資料を纏めて会議室へと足を急がせる。永遠と続く階段を下りつつ時計に視線を移した。隣では弱く蹄を鳴らしてクルルが歩く。耳を垂らして、鼻を触ったり胸を撫でたりしてエヴァンの様子を窺っていた。 「何が言いたい」 眼も合わせずに俯く。足すら止めなかった。然し、尻尾はグネリと動き、只管返事を待っていた。 「何だか、思い返せば思い返す程にボニファーツさんが気持ち悪いのです。それを豹だと思えない。悪魔か、又は抜殻だと思ってしまう」 手で形を作って見せるが、独創的で伝わらない。「青くて、青くて」と言葉に詰まる。此の麒麟が言うには血が通っておらず、臓物も無ければ心の欠片も無い無生物らしい。豹の皮を被った化物だということを燻んだ眼が証明していると両手を広げた。エヴァンは仰向けになっている虫でも眺める様に哀れんだ視線を送る。 「それでも彼は豹だ」 一瞬怯んだクルルを放置して会議室前へ歩く。一頭残され、溜息を大きく吐くと憂鬱そうに額に手を当てた。其の儘、力の無い脚を滑らせて倒れ込む様に会議室へと足を踏み入れた。楕円机を囲み、軍獣や軍医であろう動物が座っている。其の中央にパロマが立ち、じぃっと周囲を睥睨していた。 「何でアンタら前見てんの? 資料が手にあるなら見なよ」 狼狽えている中でも容赦なくページを捲られる。エヴァンは用語だけでもと周囲に小声で訊いていた。其の合間に鱗を褒められると頬を染めて喜んだ。全員の顔を覚えた所で、隣にいる獅子に眼をつける。 「初めて来た翌日に任務へ駆り出される事って普通なんですか」 ペンで資料に字を書き込んでいる沈丁花に寄る。立髪が微かに曲がり垂れていた。落ち着いた眸をチラリと動かして微かに口を開く。手入れの行き届いた牙が並んでいた。 「左様。其れに耐えられる輩しか入隊出来ん」 「成程」 腕組みして納得して見せる。戦場での司令を担当する事になったであろうパロマ中将は雑談をしていると指摘して叱りつけた。 「本任務では、紛争の終結、被害の拡大防止、事両國の安全を確保する事を眼標とする。飽く迄、中立的な立場であり仲裁を助ける役目がある」 白板に貼り付けられた地図を指す。被害は淡々と拡大して、もう既にヒラールの艦艇が出発の準備を進めているらしい。艦艇の名称と番号が端に書かれ、軍獣の名も綴られている。陸軍との共同作戦についての詳細と援護について、補給班の準備、潜水艦部隊を設置するなどとあった。 「ヒラールだけでなくPLAも出動するという情報がある為、各自見つけても銃撃しないように。我々の担当は首都を含めた八地域。ウチは現地の陸軍司令として務める。本部より通信司令は三日月《クロワッサン》。そして海軍への司令は指令部艦艇より青玉大将」 場は一部戦慄とした。「PLAってあの部隊か?」と砂嵐の様に考察や不安が巻き起こる。クルルが小声で虎に訊いた。 「何ですか、其のPLAって部隊」 「ポメグラネイト・ラ・アティーシフス。ヴェンリーという北國にあるヒラールとは違う特殊部隊だ。表じゃ仲が良いけど互いに敵対しておる」 アティーシフスは北國の言葉で正義を意味するとも教えられた。怯えて縮まるクルルを横眼に、パロマは笑みを浮かべる。 「攻撃はしないと事前に連絡が来ているし、心配しなくても大丈夫。此の任務は数ヶ月前から決定してて、向こう部隊とも話し合いをつけたから」 頼もしく胸を張った。毛が揺れて犬科らしい耳をピンと立てる。周囲は安堵して胸を撫で下ろした。 「そして派遣される隊員。まず沈丁花は首都南部。甜瓜はヘリコフ。真桑はワンブルク。既に戦場にいる部隊と合流して指揮を執って。で、其処から派遣される医師は銀、銅、紫水晶、瑪瑙、黒瑪瑙、其の他保護班、看護師。詳しくは資料に明記してるから確認してね。まずは現地合流して被害の確認と戦車や武器の数を数えた後、待機。司令があるまで動くな。海軍艦艇が既に包囲する為に出動してる。こっちも急ぐぞ」 返事をして、医療班などの確認をしようと名前を追っていると、比較的若い手術室看護師《オペナース》が一頭居た。其の文字に紛れ込む様に、紅玉《カルブンクルス》と綴られている。拉丁《ラテン》語でしょうとクルルが予想した。 「派遣軍獣は残って最終確認とA部隊との打ち合わせ。医療班はそれぞれ集まって簡潔に患者数の確認を行って。各自集合後、輸送機に乗る事」 ハイと空気を切り裂く様な返事をして、別室に移動する事となった。ドロドロに液化した憂鬱を背負って重い脚を上げながら素早く向かう。日に照らされ、白銀を広げた様に殺風景な床に影を落とした。死んでしまうという恐怖では無く、やり場の無い虚無感だ。心という形が崩れ、粉となり、風に飛ばされた様である。其の背を追いながら、クルルは思う。 「何と哀れで、滑稽で、痛ましいものか」 ハッと息を呑んで隣を見る。其処には化物の様な体躯をした鯱が立っていた。黄金の縁をした黒眼鏡を掛けて、首後ろには赤波の刺青がある。白背広姿で尾鰭を出し、獣革の手袋を着けていた。驚き声の出した方を忘れ、唸りに似た醜い鳴き声を上げると、鯱はどっと大笑いした。 「先生、クルル先生。いやぁ、図星を突かれたって顔ですよ。私の事覚えてませんか? ディアーノ・ドメニコーニですよ。投資銀行の」 更に背後から黒獅子が現れる。エヴァンは素早く振り向いたが、眼が合う前に視線を戻して階段を上がった。クルルも小走りで後を追う。其の後ろからまた尾行する様に追いかけて来た。 「何故こんな所に?」 「此の軍に採用された兵器を製造している軍事企業を買収しまして、ご報告に参りました。我が友ボニファーツが喜ぶだろうと考えましてね。なぁエヴァン、ご機嫌よろしゅう?」 階段の連続だが、息切れもせずに絡む。痺れを切らして翼をばたつかせながら「忙しい。そんなに口寂しいのならおしゃぶりでも咥えていろ」と突き放した。遂に待っていた別室に到着すると、疲れ果てたクルルの腕を掴み扉の向こうへ引き摺る。頬を膨らませて文句を垂れている鯱を放置して、パタンと扉を閉めた。 「わ、わぁ! エヴァ……瑪瑙教授!」 悲鳴にも似た歓声が上がる。静かに白眼を剥いて、蓄積していた憂鬱と疲労の煙を吐く。鉄椅子に腰を下ろして、眉間に指先を当てていると、真っ先に斜め右に座っていた斑模様の兎が飛びついて来た。垂れ耳が揺れる。 「憧れていたんです」 激しく握手をして上下に振り回した。其れを見て焦り青褪め、前に座っている嵌合獣《キマイラ》が兎の肩を掴んだ。 「辞めて! 彼が可哀想だわ」 獅子頭が悲しげに眉を顰める。背の山羊は横長の瞳孔をグルグル動かしながら笑っていた。尻尾である赤蛇にも意識があるらしく、エヴァンは何処見て話せば良いのか迷う。 「誰ですか?」 クルルが先刻まで掴まれていた腕を優しく撫でて訊く。兎はひょいと跳ねて戻り、恭しく頭を下げた。 「自分は銀《シルバー》と申します。元々は別名でしたが、兄が戦死してしまい此の名に」 一瞬通り抜けた淋しげな空気にエヴァンが片眉を上げる。嵌合獣は脚を投げ出して天を仰いだ。 「私は紫水晶《アメジスト》。其処の資料見てる眼鏡が銅《クプルム》」 眼鏡と呼ばれた海猫は一瞬怒りの色を見せたが、文句も言わずに口を閉ざした。全員が一言ずつ名を述べていると、其の真ん中で喋るのが億劫だと眼だけで伝えている薄紅の毒竜が視界に入り込んだ。そんな彼女は両眼尻、口端に瑠璃の化粧に似た模様のある特徴的な容姿をしている。角は縞瑪瑙の様な青白であった。尻尾や手にも青い縞があり、時々、眼玉の如く丸い模様が挟まれていた。 「紅玉か」 「ええ、はい」 怪訝な表情を浮かべて視線を逸らす。左手で右手を掴んでいた。 「大体分かったかしら。なら患者数の確認と状態についての資料を配るわ。全体的だと軽傷が多いけれど、爆撃された場所では重症患者も多数。特に地雷による被害が広がってる。重症患者数は合計四千五百六十三頭」 トリアージの赤を指した。病院への襲撃や爆撃が後を絶たず、医療関係者や患者が全滅した報告も聞いた。主な脅威は酷い爆傷や熱傷だ。四肢を失う兵や一般獣も多数であり、食料を得られず栄養失調の末餓死する事も珍しく無い。此の様に戦場ならではの死亡方法が数々綴られていた。 「病院では担当する場所を分けてあるから、全体に患者が行き届く様にするわよ。時間の勝負だからね。図に乗せてるから現地で分かれて」 部屋が大きく分けられ、全員が別々になるかと思いきや、紅玉、エヴァン、クルルは一緒になっている。患者が雪崩の様に来るであろう一番大きく手前の部屋だ。看護師もしっかりと配分されていた。偶然にしても、嫌がらせにしか見えないなと顔を顰める。 「確認したかしら。戦場では判断力が命だから、一秒たりとも迷わない様に」 紫水晶がしつこく念を押す。返事をして、雑談を交わす暇もなく外へと向かった。 平にされた大地に細長い鉄の塊が眠っていた。其の輸送機は昔から使われていた物で、竜をモデルにした翼の形をしていた。ロザンデールと英語で綴られた頭を眺めながら塊の中に乗り込むと、天井には黒黒とした鉄の管や赤青の銅線が張り巡らされ、何とも言えぬ不安感が其の場に聳えていた。壁に張り付いた青白の椅子に座り込むと、矢張尻尾が少し沈む。 「ねえ先生。三日月さんとかディアーノさんとどういう関係なんですか? 何があって三日月さんが嫌いになったんですか? 誤魔化さずに言ってください。貴方の周囲は面倒なので話されないと分からないし、沈黙されても困ります」 ボニファーツと言いかけて咳払いする。エヴァンは先刻よりかは柔らかい眼線を投げて、曲がっていた背を正した。 「彼らとは大昔からの親友だった。今でも、ディアーノは文句のつけようが無く素晴らしい友人だ」 仮説の崩壊に驚きを隠せない。離れた席にいる紫水晶が口を押さえて唖然としていた。其の顔で相手を褒める事が出来るのか、とでも言いたげな顔に思わず舌を出したくなる。クルルは鼻を鳴らして、疑惑の眼差しを浴びせた。 「逃げていたのに?」 「素直な麒麟は騙される。あの眼は詐欺師の眼だった」 微かに震えた両手を組み合わせる。夜明けを思わせる桔梗色の滲んだ爪先に惹きつけられた。其の濃淡は皮膜と似ている。クルルが徐々に震えの強まる両手を包み込もうと翳したが、サッと避けられる。また、眼の奥が凍りつくのが見えた。結晶が広がる様に淡くなる表情に誰が気づくだろうか。 「後、三日月を嫌っていると決めつけられても困る。確かに、現在総帥として活躍しているであろう豹は常に皮肉屋で不貞腐れている。然し、子供達に対しては天使だ。必ず天国に連れて行ってあげている。つまり私は彼が大嫌いだ」 凍てついた空気が刺す様に皮膚を舐める。息が白くならないのが不思議で仕方ない。睫毛から全身の毛が音を立てて氷となるのを感じた。粛清されるぞ、俯きながら周囲は耳を立てる。クルルは熱で溶かそうと態とらしく笑った。冷や汗まで静止する、其の恐ろしい風。 「下手なこと言わない方がいいですよ。貴方も天国に連れて行かれます」 口角を無理に上げたまま肩を狭くする。尻尾はだらぁっと垂れて、耳も下がって居た。気を遣われたであろう竜は冷酷にも突き放した。 「どうでもいい。手脚を落とされても言う。私は彼が大嫌いだ。彼の両親が出会う前に遡り、去勢したい程に」 「言い過ぎ」 堂々と座っている斑《まだら》狼が口を挟んだ。周囲の胸を言葉にした様な、救世主としての姿を輝かせている。一方で指摘されたエヴァンは、ただ違和感の無い軍服姿を眺めて淋しさの色を残した。 「君は彼のことを好いているか、嫌いか」 「総帥として好き」 中将として毅然として答える。冷えた空気に熱が混ざり、頭の上から溶けてゆく。安堵で銀が大きく息を吐いた。 「ほう」 低音の、唸り声にも似た相槌を打つ。顎下に片手を添えた。 「具体的に何処が?」 ピシッとパロマの顔にヒビが入る。眸を動かさないまま何度か瞬きをして、手汗を拭って口を開く。長い口吻にしては短く単純な答えが放たれる。 「毛が、青い」 「彼が例え醜い猫に生まれ変わっても好きになれるか?」 疑問に殴られ、到頭パロマは眼を瞑る。冷然とした態度で居て、対抗するべきだと何度も言い聞かせた。然し、どんなに足掻いても心を覗いてみると、嫌悪感が拭えないのだ。 「……命令だ。黙れ」苦々しく吐き捨てた。 「私は部下じゃ無いので命令を聞き入れる筋合いは無い。医者として、強制的に送られている」 「黒瑪瑙先生がもうすぐ泣きます」 銅が口を尖らせた。其の通り、クルルが震えたまま顔を手で覆い隠している。指と指の隙間から静かに様子を窺っていた。そんな麒麟を見た刹那、ピタリと黙り込み無言になる。そして、数時間後に一言の爆弾が投下された。 「容姿は煌びやかなのに中身腐ってるのは二頭共一緒ですね」 熱風と化した冷えの余韻が輸送機内を包んで、他愛無い雑談までもが飛ばされた。「馬鹿!」と捻り潰した叫び声をぶつけて、銅の嘴を押さえようと必死になる。エヴァンは意外にも穏やかに笑っていた。 「だから親友を辞められなくて困っている」 「ええっ、其れは眼から鱗です! いやあ、素敵な悩みですね。もし、私も三日月さんみたいな性格だったら先生と友達になれましたか?」 突拍子も無くクルルが尻尾をばたつかせる。紅玉が草臥れて「何に納得したんだよ」と呟いた。 「遂に右腕じゃ満足出来なくなったか」 細い瞳孔をチラつかせて言う。其処には軽蔑も呆れも無い、疑問に似た呟き声だけが残る。爬虫は感情が読めないという愚痴に紫水晶の尾が動揺する。沈丁花は同情もせずに周囲を怒鳴りつけると、満ちた殺気と嫌悪感に終止符を打った。 「軍獣ならば堂々と言え。文句を垂れるな!」 付け加えてエヴァンにも大概にするよう指摘する。其の刹那、水を打った様な静寂を突き破り破滅音が響き渡る。騒々しいなと思いながら状況を聞くと、既にヨルガンに到着したらしい。下に散らばる街は火の海、誰かの働いていた建物は兵器という塊に粉々にされて、火の粉を撒いて倒れている。煙草から立つ煙とは違う硝煙は、此の輸送機へと向かって伸びていた。蒸せるような黒と赤の世界。黝の波を立てている海を横眼に基地へと離陸する。転ぶ獣、黒い悪魔の様な爆撃機。音が無くても鼓膜に響く泣き声。鼻腔に棲みつく血腥さが、今となっては涙が堪えられなくなる程苦しい。此の飛行により見捨てた命が何千を超えている事は明白だ。其の場に居る全員が死を覚悟して、輸送機から戦場へと足を踏み入れた。煙を吸って乾いた風を頬に浴びながら、待機していた別基地の軍獣が並んで敬礼をする。 「死んでたら許さない」 パロマが周囲を睥睨する。軍医軍獣は強く頷いて、返事をする。それからは互い別々に別れ、一方は軍病院へと足を向かわせた。数分もしない内にL字五階建ての病院が聳えて見え、各部屋へと分かれる。普段白い廊下には青い布が敷かれ、毛の燃え焦げた獣が横たわる地獄絵図が繰り広げられていた。服かと思えば垂れ下がった皮膚であったり、地雷で肉塊になったが尚、痙攣している何かが蠢いている。軽度火傷で煤まみれの鳥竜は精神が崩壊して笑い続けている。屍体と焦げた物体の行列が治療室まで絶え間なく続いている。愕然とする中、エヴァンが一言クルルに向けて発した。 「屍体の使える部位を剥がせ。移植する。壊死した部分は切断しろ。予想していたよりも急所は守れている」 「……わかりました。其処の方、此の死体を運ぶの手伝ってくれませんか!」 黒毛の月輪熊を呼び止める。すると、静かに振り返り、堪えていた物を吐き出すように返事をした。 「はい……先輩」 「えっお前、ペランサ?」 「知り合いですか?」 紅玉が興味深そうに身を乗り出した。三頭は恥ずかしそうに顔を見合わせる。 「医学部の後輩だ。私は治療室の患者からするから二頭でやれ」 エヴァンが硬直している紅玉を連れて部屋へ入る。残された二頭は返事をして次々と屍体を運び始めた。暗闇だからこそ燦然とする希望は太陽の様に動かない。然し手を伸ばしても届かない様にも見えて、患者は気力を失い眼を閉じる。絶望しなければ希望など見出せない筈である。
悪魔
悪魔と云う物は美しく着飾り、整った美貌を持ち、硝子玉の様な眼を煌めかせている。水晶の如く澄んだ白い肌、或いは酷く醜い身体をした者も居る。鱗の艶やかな蛇、巨体の魚、赤孔雀や毛の散る針を刺したような棘を持ち、歪んだ顔を傾ける犬。然し、どの悪魔にも知恵があり、神々に逆らった。憤怒した天の神は悪魔を地獄と云う閉鎖空間に閉じ込めて、封をしたのだ。 天使と云う物は醜い物を嫌い、悪魔を穢らわしいと云って蹴り捨てた。彼等は狂人共めと吐き捨てるが、神仏の前で這い蹲り、一つの者を疑いもせず信じて、それを信じぬ悪魔を攻撃するのも狂人と呼べよう。翼の塊に眼玉をこじ付けた様な醜い姿は見るに堪えない。だが、真実を知っていそうな其の眼だけは誠実だと思えた。 悪戯心に全てを捧げた悪魔も、無心に神々を信仰し拝めている天使も、何方も愚かである。想像の中で美しく佇む悪魔は、瑠璃色を纏い清水のような髪を解かして微笑む聖書の天使そのものなのだ。然し、地上の天使と云う物は神々を全知全能に描いたは良いが、悪魔を悪く拡張し醜く描いて、其れを神と信仰していた人々を潰した。気がつけば真実を揉み消して、神すら信じず考える事を辞めた天使で周囲は溢れ返る。私は朧げに考えた。聖書を疑わずして神を拝む勿れと。