とある奥さんの依頼 一
【そのストレス、晴らします】
そう書かれた看板が目立つ此の店は、北半球最高の諜者《スパイ》と呼ばれる従業員が依頼者の鬱憤を晴らす為に強盗から殺人、法を超えた事まで何でもする知る人ぞ知る名店である。然し諜報機関に悟られない様にひっそりと暮らし、珈琲店の隣に隠れて建っていた。そんな店から道路を横断し五分程度歩くと豪華絢爛な日光東照宮の陽明門が見える。権現造に極彩色に彩られる神獣の彫刻は従業員にとっても日光に住む人々にとっても宝であった。そんな東照大権現に見守られる此の街道は今日も宮帰りの人々で賑わっている。その代わりに店内は息を殺し、窓には窓帷をぴっしりと閉めていた。木製の椅子に腰掛けてパソコンを開いたまま長袖の男達が資料片手に悩んでいるのだ。
「コイツは参った。運が悪い依頼だ」
手を翳せば透き通って見えるのではと疑うほどに真っ白な肌をした男が金髪を掻き乱した。訛った北ロンドン寄りの英語と燦然と煌めく殿茶の眸で英国から遥々やって来た紳士だと分かる。胸にはピアーズ・ラングフォードとあり、若々しい体とは真逆に疲労で削れた精神が浮き彫りになっていた。正面に座って書き物をしているのは太陽で肌の焼けた明るい茶髪の若い崑崙《クンルン》という男だ。鼻は高く青い眸を持っていて頬から鼻までチョンと雀斑がある。スイス人だと数人が主張するが実際は何処生まれなのかは謎だ。
「運も何もありませんがね。変な依頼から国家機密異常の事までやってるんだから……やっとメキシコからモンゴルに行って中国から日本まで渡ってきたんだから文句言っちゃいけない」
当然の如く書類に印をつけていく彼に、ピアーズは舌打ちして「でもこれは酷いぜ。ちゃんと見てみろ」と紙を見せた。まず中央には森山寛人という黒縁眼鏡で三十代後半の男の写真が貼られている。下には数々の経歴と共に二週間観察した時の行動が細かく書かれていた。卸売の仕事が終わった後、頻繁にキャバクラへ行ったり知らない女と会っていたらしい。然し、森山には妊娠している妻が居るのである。そんな中で遊び歩いているのだから獰悪極まりない。崑崙は紙を受け取ると顔を近づけて見て、皺を寄せたり眉を寄せて不快そうにした。
「ふーむ、どの国にもランダムで出現するクソ垂れ野郎だ。つまり依頼者は此の妊婦の奥様という事で?」
「勿論。そして内容は男をコテンパンにして懲らしめてやれと。代わりに一千万振り込まれた」
金額を聞いて指折りに数える。四万七千ポンドくらいかと考えていると背後からガタッと物が転がり落ちる音が聞こえた。革靴の音が忙しく駆けてくると扉が開いて急いで鍵を掛けているらしい。外から女の声が壁を貫いて轟いて来た。
「お礼させてくださいっ」
0
閲覧数: 50
文字数: 5917
カテゴリー: SF
投稿日時: 2025/12/27 15:04
愛染明王