遺書

遺書
 此の遺言を日々毎に更新して、死ぬ前にはワッ‼︎と消してやるのが私の生き甲斐である。私の小説は見ての通り、生きている間に有名になる事は無かった。此を塗り替えることが(書き換えることが)出来れば死ぬ理由も無くなるが、それじゃ面白くないと思うのも事実である。勇気は私を裏切るし、寧ろぐちゃぐちゃに捻り潰してきた。馬鹿げた事だと頭を抱えて、血と涙の混ざった液で顔を塗りたくって、あぁぁぁぁとだけしか叫べない。そんな日々が、今じゃ溶けた霜の如く淡い記憶として脳に置かれている。然し乍ら、勉学というものは私を必ず守っていた。いつでも其処に居る。常に手を差し出して微笑んでいる女神。私がどんなに挫けても、彼女はただ微笑んでいた。つい恍惚として見入ってしまい、手を握った途端に悪魔だと気付かされる。あんなものがあるから戦争があるのだろうし、また、世界は成り立つのだろうと思う。学問というものは現在あるものを知る事、あるということを知る事、どうすれば出来るのかを知る事だろうと思う。  是等の妙な私見は今、即ち学生時代に出したものであり、後々学ぶ事を繰り返すうちに刻々と変化してゆく事だろう。ハラハラハラハラ。  ここで一つ余談を挟む。私が小説を書き始めたのは、一つ罪を犯してからのことであった。一人の女に嘘をついて、其れを嘘だとも知らずに罪を塗り重ねた。あるときそれが嘘だと気がついた。眼を背けていたのだろうが、事実だと思っていた事は全て嘘であった。絶望の淵から突如として文が思いついてきたのだ。(スイスの)連なる山脈を越えてゆくと、其処には角砂糖の様に白い病院があった、と。中庭は植物で緑に彩られ、苔も生え茂っている。こう一つ一つ文が浮かぶともう止まらない。私は現実逃避をしてやるぞっと一言呟いて、馬鹿になって書き綴った。ああ、惨めな事に此の有様だ。きっと酒が入ればもっと良い文が書ける。然し、ふうむ、或日には繰り返した罪の懺悔に溺れてきたからこそ平和に両手両脚を持って生きている事が信じられなくなる。事実、私が犯してきた罪は腕一本、指二本に相当する程だ。どうせ、人をどれだけ助けても行き着く先は地獄だと思う程に。そうならば、此処を天国に見立てて楽しむしかないだろう。一つ臨むなら素直に人を愛してみたいと思った。そして、此の年の春、椛という女に惚れ込んで私の心は一直線である。矢が迷う事なく心臓を貫いて、大動脈まで塞いでしまったらしい。そのまま心臓が止まってしまえばいいものの、駄目だ。矢先が暴れて心臓が跳ね踊る。それも彼女は全てにおいて欠点が無いのだ。肌は陽に焼けて小麦色、髪は艶やかで長い。背もスラリとしていて、腰が滑らかな放物線を描いたかと思えば尻に向けて膨らんでいる。脚は太腿から脹脛にかけて筋肉が覆い、影を残していた。眼はこれ迄に見たことが無い程澄み渡り、焦茶と云うには勿体無いくらいだ。銀河より冴えて、惑星があるみたいに光を呑んでいる。唇も薄紅く、白い歯が覗いて絢爛。兎に角、見た人を狂わせる魅力が詰まっていた。臓物がブルルッと音を立てて震えてしまう。彼女の膨らんだ胸、細く締まった腰、艶のある唇、そして私を見る其の眸。手を差し出して、翳してみると血潮さえ見える。私はそれくらい紅潮して、堪らなくなっていた。いつも抱く夢を見る。何度、夜を共にしたことか。惚れて惚れて惚れ込んだ。人生でも指折りしか居ない良い女だった。然し、もうそろそろ彼女とは会えなくなるらしい。私は彼女の幸せを心より願っている。  我が裾に添えた君の手温かく  私の小説を担当する社など居ない故、出版等々はお好きにしておくれと言いたいところだが格好がつかないので出版権は【    氏】(生涯の中で最も優れていた恋人か親友)に譲与する。  ※此方はまだ、未定である。生涯で決まることがなければ話し合いで決める事。著作権は永遠に私のものであるため、名くらい刻んで頂きたい。  葬式は小規模かつ、泣く事は一切許さない。寧ろ花火でも打ち上げて叫び声を上げ、屍体を踏みつけて踊りなさい。火葬のボタンを争って喧嘩しても面白いと思う。そうして火葬して残った僅かの骨は一人一欠片食ってくれ。そして、別府湾に撒くこと。私は海に帰るのが使命である。  私は最後まで人を素直に褒めることができなかった。嫉妬心を丸出しにしている恥ずかしい人間だった。どうか死ぬ前に心の底から「素晴らしい。感激した」と伝えられる様にしなければ魂も天に昇らない。愛していると言葉にできないようでは格好もつかないわけである。人の不幸を花蜜だと言って吸い上げている様じゃあ、周囲の真っ当に生きている人間と肩を並べることすら出来ない。今でも、心の底からそう思う。  【此処からは個人に宛てての手紙となるが、内容が思いつかないので省略とさせて頂く】
愛染明王
愛染明王