アムセット
8 件の小説滑稽でくだらない大袈裟な話
次のニュースです。 昨日、県立病院において、生命維持装置の故障により死亡したとみられていた長期入院患者が、何者かに殺害された可能性が強まりました。 警察によりますと、昨日夕方、県立病院で、生命維持装置の機能不全により患者が死亡した件で、装置と患者を繋ぐ管に、鋭利な刃物で切断した痕跡を確認したとのことです。 入院患者はいわゆる植物状態で、意識不明であったことから、県警では今後他殺の線で捜査を進めるとしています。 次です。今日未明、中川河川敷において、子どもの体の一部とみられる遺体が発見され、現在身元の確認が行われているとのことです。 この地域では、付近に住む母親と六歳の娘が行方不明となっており、警察では発見された遺体との関係を慎重に捜査するとしています。 「知ってる?」「何を」「ミガワリさんの話」 「知らねえけど、おまじないとか怪談っぽいのはわかる。そういうの、面白がる歳じゃねーでしょ、お互い」 「は? まだ現役で面白がる年齢ですが? 若いので。お子さまなので。キミだってまだ、正月に親戚巡りして臨時収入稼いでんでしょ?」 「稼いで……、いや、この話はやめよう。で? ミガワリがどうしたって?」 「聞いた話だと、日が沈むちょうどのタイミングで、姿見に向かって『お前は誰だ』って言うんだって。それを七十二日間繰り返すと、その鏡が曇るの」 「長いな。あとタイミングが地味に難しくないか? 雨降ってたらどうすんだよ?」 「がんばってどうにかするんじゃない?」 「まあ、二ヶ月以上そんなこと続けようっていう気合い入った奴ならなんとかするんだろうけど。そんで、鏡が曇って、そのあとは?」 「曇った鏡に向かって、『俺はお前か?』って言うの」 「……そのあとは?」「さあ?」「何もないのかよ」 「やったことないからわかんない、って」 「いや、こういうのはさ、なんかこう、すげえ効果とかご利益とか、好奇心刺激するとかで試してみようかなって気分にさせるもんだろ。全然そうならねえよ」 「いや、そういうの、アタシに言われても」 「お前が言い出したんだろ。……でもまあ、身代わりって名前と鏡と呪文からすると、やっぱり分身とか出すのかな」 「おー、すごいじゃん。探偵か?」 「ムカつく。しかし、どっちにしろ、そんなめんどくさい儀式なんてこなす奴、いるわけねーんだろうな」
取るに足らない小さなお話
鏡を見た。 随分と曇っている。これを覗いても何もわからない。もうどれくらい自分の顔を見ていないのだろうか。鏡はいつから曇っているのだろうか。 鏡を新しくしたら、そこにはよく知る自分が映るのだろうか。それとも知らない誰かが映るのだろうか。 草をむしった。 よくもまあ、こんなところまで飛んだものだと感心する。ベランダの室外機から流れる排水からできた泥に、それは蕾をつけていた。 愛らしくもあるそれをどうしたものかと思ったが、抜くことにした。もしこの草が深く根を張れば、下の階で雨漏りでもするかもしれない。 その根は繊細で、コンクリートを些かも傷つけてはおらず、表面の泥とともに剥がれた。元のように置いてみたけれど、茎は立ち上がることはなかった。 猫が鳴いていた。 親を呼んでいるのか、けたたましいその鳴き声は、日が沈む町によく響いた。猫らしさやかわいらしさをかなぐり捨てたようなその声は、ひどく不細工だった。 悲しくなった。声は知っているのだ。その声を相手が聞いていないことを。相手が聞いているなら当然に混ざる虚飾が、その声には少しも混じっていなかった。 それでも、猫は鳴かずにいられないのだろう。そこまで賢くはなれないのだろう。けれど、賢さとは、大切なものがすでにないと知ってなお、維持すべきほど貴いものなのか。 猫は鳴かなくなった。 草は捨ててしまった。 鏡は曇ったままだった。 町からはいつも何かが失われていた。 それ以上の何かが流し込まれていた。 以前の私から連続するはずの私には、すでに元の私が持っていたものは何もなく、新たな材料でもって私の形を成していた。 鏡を新しくしたならば、そこには何かが映るだろう。けれど、失われたものは、そこには決して映らないのだ。 鏡の中で、何かが私を見ていた。
俺にはうまく卵が割れない
不器用だなとは思う。 周りからもそう言われてきた。 そんなことはないだろうと言い返してはきたけれど、割り落とした卵を見ると、否定する気が失せてくる。 どうやら俺は不器用らしい。 俺が卵を割ると、毎回黄身を潰してしまう。 不器用じゃないという反論にも根拠はあった。 大学も就職も大体希望が通ったし、仕事も順調な方だ。浮き沈みの激しい世の中にしては、うまく渡っていると思う。 それに、お前にも会えた。いや、そこはただの幸運でしかないんだろうが、その後はうまくやったんじゃないかと思う。競争相手は多かった。お前は知らないかもしれないけどな。 こんな風に挙げていくと、俺は決して不器用じゃないと思えてくるんだが、俺が割った卵は、どうもそんな結論を許してくれないらしい。 黄身が漏れ崩れた卵入りのボウルを前に、記憶を辿る。 五回続けて潰れていた時は流石に笑った。 それが十回に至ると苛立ち紛れに流しに捨てた。 十五回目はまた笑いが出た。面白かったわけじゃなかった。 二十回目にはもう驚きもしなかった。 それから数は数えていない。 そんなに卵を割ることなんてなかったんだ。お前がいなくなるまでは。 卵を茹でてみたりもした。ちゃんと作り方も調べたんだぞ? これくらいできるって言ってやりたかったからな。時間も分量も守った。卵も優しく扱った。 茹でた五個が五個ともマーブル模様の中身になってたのを見て、俺は二度と卵なんか茹でないと決意した。 そんなあれこれも、お前がいれば全部笑い話だ。お前がうまく卵を割れるなら、お前だけは俺を不器用だって笑っていい。 だけど……だめなんだ。俺はお前を探しに行けない。 言っておくぞ。 俺は、お前に戻ってきてほしいと思ってる。 お前に会いに行きたいと思ってる。 お前に、俺の名前を呼んでほしいと思ってる。 そのために、お前を探しにいくべきなんだってわかってる。 でもな、だめなんだ。怖くなったんだ。 勘違いするなよ。お前なんか怖くない。お前が俺をどんな風になじったって、恨み言をぶつけたって、何もかも俺のせいだと言ったって、全部聞いてやる。俺にとってお前は怖くなんかないんだ。 でも、俺は怖い。だって、俺が手にとった卵は、みんな中身が潰れてたんだ。怖いに決まっているだろう? だって、俺はお前を卵みたいに触れてきたんだ。割れないように、強く握りすぎないように。 お前はずっと綺麗だ。出会った時からずっと綺麗なままだ。俺に足りないところがあったって、お前にはそんなものはないんだ。 でも、卵だって殻が割れてたわけじゃない。中身だけ潰れてたんだ。俺は怖い。お前はずっと綺麗だけど、卵みたいに俺は、お前の中身をぐちゃぐちゃにしてたんじゃないかって。 まさか、お前を割って確かめようとは思わない。たぶん、こんなのは妄想だ。だから、一回でもうまく卵が割れたら、きっとお前に会いにいく。 お前がもう誰かと暮らしていくというなら、それでもいい。 でも、お前が俺をまだ待っているなら、その時は……。 卵をひとつ取り出し、包むように握る。祈るように。
フットスタンプ・アンド・ハンドプリント
廃校の廊下には砂が積もり、靴底を滑らせてくる。 「見て」ヒナの短い呼びかけを受けて、前方の床に目を凝らす。 「……足跡、か」 「人の足、同じ形、一種類だけ。……どう思う?」 「不自然だな」結論から口にする。「なぜ、まだ新しい跡がある? どうして一人分だけなんだ?」 「誘い込んでるね、間違いなく」ヒナが目を上げ周囲を見渡す。「“手形”の奴とセットだ。どっかに仕掛けてあるはず」 頷いて、廊下の奥に目を向ける。足跡が向いているのは、この先。だが、足跡の群れがあちこちから合流してきている。教室のドアや、外に通じる窓の下はおろか、到底歩けるはずのない壁や天井まで、重なり合うように足跡が伸びている。 いや、増えている。足跡の主もいないまま、足跡だけがいつのまにか増えていて、 「……ミコト、そこ!」 振り向いた先の壁で、足跡に埋まるかのように、手形が目の前にあった。 咄嗟に腕で体を庇った瞬間、衝撃が腕と、腕に守られない体を押しのけた。何十人という人間が一斉に両腕を伸ばしてきた感触。踏みとどまれず、足が滑る。 投げ出されるように背中から倒れると、嘘のように斥力が消えた。既に受けた通り、手形の斥力には発生位置と方向がある。流れから外れれば影響はなくなる。 そして、そのことを罠の主はよく知っている。 砂にまみれるのを無視して転がった刹那、先程まで私が倒れていた床が音を立てて軋み、突然『超重量の何か』が乗ったかのように、脆くなっていた床が割れ砕けた。 なんとか立ち上がりつつ見ると、廊下の幅一杯まで大穴があいていた。もう少し転がる距離が短ければ巻き込まれていただろう。転がった向きが悪く、ヒナは対岸にいる。 分断された? その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、 「バカ、後ろだ!」 ヒナの声に振り返った時には、闇からこちらに白い両手が向けられ、空間に浮かんだ無数の黒い手形が迫っていた。 何度も。 もう何度そうしてきたかわからないほど何度も、馬鹿を追い払ってきた。 来てはいけないところに立ち入る。そんな馬鹿は無数にいる。そのことを自分は知っている。 けれど、あと何度。 あと何度繰り返せば、それが終わるのか。 今の奴らはしぶとかった。残りが逃げるならそれでいいが、なお足跡を辿ってくるなら、もう一度潰さなくては。 疲れからか、ひどく眠い。だが、もう少し、無理をしてでも起きていなければならない。 重い体を起こして、もう一度狩りに行こうとした時、 「体育館跡か。こんな広いところを拠点にしているとは思わなかった。盲点だな」 呟くような声が、高い天井の建物によく響いた。 続けて、足音。土足が板張りの床を踏む音がする先へ目を向けると、先程直接手形を叩き込んだはずの少女が近づいてきていた。 「お前、どうして」 「直接、能力をぶつけたはずなのに、かな? それとも、どうして内臓がぐちゃぐちゃになっても動けるんだ、か?」 少女は肩をすくめて、首を傾げる。 「あの手形、張り付いたもの自体は壊さないんだよな。壁でも、窓でも、手形が張り付いたものはそのままで、手形の先にあるものを押しのける。だとしたら、気になるじゃないか。人の体にその手形を直接付けたら、中身はどうなるんだろうな、って」 十歩ほど距離を置いて、少女が立ち止まる。 「あんたは、それを何回試してきたんだ?」 耳障りな言葉を掻き消したい衝動を抑えて、尋ねる。 「なぜ、ここに来た。足跡は、ここには通じていなかったはず」 少女が指を一本立てた。 「理由はひとつ。最初からあんたが私たちの目的だったから。……そう答えたら、なんで足跡を追ってたか、わかるんじゃないか?」 他の奴らと同じように、足跡を追っていた少女たち。自分は同じように、彼らの隙を突き、確実に仕留めるために…… 何をされたか思い至り、奥歯を噛み締める。 「私を誘き寄せるために……!」 ご名答、というように少女は笑った。 「やりすぎたんだって、先生」 その言葉に、煮えた頭が冷や水を浴びせられたように静まる。 「元先生、なんでしょう? だから、忘れられてた災害用の備蓄食料も知ってたし、どこなら隠れられるかも、どこなら効率的な罠を張れるかも知っていた。あんたじゃなきゃ、こんなに長くはできなかったよね」 でも、 「これ以上は守りきれないよ。あんたの宝物、足跡の先を、あんたは自分で怪談に変えちゃったんだ。あんたの生徒はもう…」 「生徒?」 こいつは何を言っているんだ? 生徒? ここにきてそんな言葉を聞くとは。可笑しい。喉から、いや、全身から震えるほどの笑いが込み上げてきて、耐えられない。 違う。違う違う違う違う違う。 「渡さない。決して渡さない。私の子を、……私の赤ちゃんを」 少女がよくわからない言葉を呟いた。 「やはり、足跡の鬼は、他人の渇望を投影するのか」 「死ね!」 敵に、これまでしてきたように、両手を向けた。 両腕から剥がれ落ちるように現れた手形が、渦を巻くような軌道で敵に殺到する。 着弾/少女の体が後方に吹き飛ぶ=必殺の確信/……否/膨れ上がる違和感=なぜ吹き飛ばされる? 命中したなら、衝撃は全て内臓に向かうはず。 ガラン、と金属質の重い音が騒々しく響く。まるで、盾のような鉄の塊。 その後ろで、赤い唾を吐きながら少女が立ち上がる。 「加速するのか。十分距離をとったと思ったのに、避けるのが間に合わなかった」 そして、こちらを見て、不思議そうな顔をする。 「驚いたみたいな顔して、どうした? 考えたことなかった? 自分みたいなことが他人にもできるかもって。あんたが、その超能力っぽいのを何で呼んでるかは知らないけどさ」 少女の脚が鉄塊に触れると、意思を持った軟体動物のように形を変えながら足を這い上り、袖の中に消えていった。 「これが私の手品。あんたの奇襲で生きてるのも、これが理由。手形と体の間に別のものが挟まれば、威力を逃がすこともできる。私は、あんたを防御できる存在ってわけ」 忌々しい悪足掻きをしてくれる。ならば、防ぎきれない量で押すまで。 「じゃあ、物量で押し切ろう、とか思ってるよね、きっと」考えを見透かしたように言葉を投げてくる。「ところでさ、……戻るあんたの後ろをつけて、居場所を私に伝えた『もう一人』は、今どこにいると思う?」 その言葉の意味するところを悟って、辺りを見渡す。だが、付近には誰の姿もなく、 「準備は終わっただろ、ヒナ。選手交代だ」 誰もいない、囲われた校庭。 「これはわたし。ふれるものがわたし」 囁くように、歌うように。 「わたしはわたしをうごかす。しゅがわたしをそのようにさだめたもうゆえに」 泣くように、微笑むように。 「なげくなかれとおっしゃった。だからわたしはあなたのおとずれをまつのです」 目は虚ろに、建物を映して。 「のぞむはふたつ。“ロード・リメンバー・ミー”」 砲弾が放たれるような轟音に、地鳴りのような振動が続いた。 外を窺おうとするより早く、体育館がひしゃげ、崩れだしていた。何か重いもの、土石流に巻き込まれているかのように。 いつのまにか、少女の姿も消えている。 あれを殺しに行かなくては。いや、そんなことよりまずは脱出を……。 その時。 ふと、突然に思った。なんでもないこと。取るに足らない疑問。 私の子供は、どこだっけ。 いつも、私を迎えてくれた、私の宝物。 私はいつも、あの子のいるところに帰ってきて。 私は、あの子のために働いていて。 だから、私は、あの子を置いていったりはしていなくて。 だから、誰も私を責めたりしなくて。 今も、あの子を守っていて。 それなのに今も、あの子のそばにはいられなくて。 私の全てが、思い出せなくて。 ふと、疑問に思った。 あの子は今、どこにいるんだっけ。 ヒナが土砂に埋まった体育館を見ていると、見慣れた影が近寄ってきた。 「派手にやったな」 「やれって言ったのはあんたでしょ」 「まあ、後始末は大人がしてくれるらしいから。これが一番楽だし」 ミコトが隣に立って土砂の山を見る。 「鬼は?」 「死んでた。足跡もそのうち消えるでしょ」 「となると、人ひとり殺しただけか。骨折り損だな」 「あんたはほとんど何もしてないでしょ」 「時間は稼いだだろう?」 不意に会話が途切れる。 独り言のように、ミコトが呟いた。 「足跡があれば、人は追いかけていくよな。そう期待して、足跡を消さずに残しているなら、どうして人は他人に期待するんだろうな?」 ヒナは答えなかった。
角を隠す
鐘が鳴る時はいつも誰かが死んでいた。 鳴らせるのだから時鐘として使えたはずなのだけれど、うちの教会堂では特別な時以外は鳴らさなかった。加えて、どういうわけか、結婚式はそこではほとんど行われなかった。 だから、鳴る時はいつも弔鐘だった。ここでなら土葬にできたので、火葬を忌む人たちに求められたのだ。 幼い時、夏になると外では帽子を乗せられた。白い鍔広の帽子は、すぐに風で煽られるので面倒だった。 それでも、都合は良かった。頭に生えた感触に、気を遣わなくても済んだからだ。 私の頭には角がある。 目には見えず、鏡にも映らない。他人にも見えないらしい。けれど、自分の皮から離れた場所に確かな感触があって、額に程近いところに生えたそれは、角としか言いようがなかった。 それをどう伝えていいかわからず、言葉を覚えるたび失望が強まった。伝えるのを諦めた私は、頭に触れられることを避けるための口実をいつも探していた。 帽子で頭を覆いながら、幼い私が鳴り続ける鐘を見上げている。宗派のためか、十字架は飾られていなかった。そういうところも、イメージされる教会像とずれていて、慶事に縁がなかった理由かもしれない。 最後にその鐘の音を聞いたあと、私はひとりになった。私は引き取り手が見つかるまで、たくさんの知らない子と過ごすことになった。 その頃には、無理に頭を隠そうとはしなくなった。どうせ、目には見えないのだから、堂々としていればいいと気づいた。 そのうち、白い帽子はどこかでなくしてしまった。探したりはしなかった。邪魔だと思っていたし、もう必要もなかった。そして、それを欲しがっていた子がいるのも知っていた。だから、私はなくしたそれを見つけようとは思わなかった。 「君が滝沢御言か?」突然やってきた女は、流暢な日本語で言ったあと、私にだけ聞こえる声で付け加えた。「小鬼の」 「どちら様ですか」 私は、精一杯の礼儀として、控えめに訊いた。女の容姿はどう見ても自分の親戚には見えなかったからだ。 「名前か? 私は辻ゆりと言う。苗字でも名前でもどちらで呼んでもいいぞ」 「その髪は根元まで染めてて、目にはカラーコンタクト入れてるんですか?」礼儀をしまった私は、率直に皮肉を言うことにした。「私は、初対面でいきなり嘘吐く人は好きじゃないです」 「小憎たらしいガキだな、君は」 そこで女は膝を折って、私の低い目線に合わせてきた。 「偽名じゃないぞ、実際に使ってるんだから」言い訳がましく言って、「元の名はガブリエルだ。だが、ここは日本なんだから、さっきの名前で呼べ」 私は頷いて言った。 「わかりました、ガブリエル」 「……いい性格してるな、お前」 そういうわけで、私にまた家族ができた。
啓示と破壊
「なるほどね。その時から既に、それまでの君というものは破壊されていたわけか」 「客観的に見ればそうだろうね」僕は、彼女の言い方に対して譲歩する。それなりの長さの付き合いだ。彼女が極端な言葉選びを好むことは、よく知っていた。 「けれど、僕の主観としては、それを啓示と呼びたい。サウルがパウロとなったように、その人生観の変転を喜ばしいものと思っているから」 「しかし、君の転向は、君自身を救済しない。君がしてきたことは、君自身が正当化できない。君が捨て、今は殻だけが残っているそれの方が、よほど君に優しいのではないか?」 彼女の言葉は、僕自身が鏡に向けて発したことそのものだった。それをこれまで何度唱えて、……沈黙を返し続けてきただろうか。 僕の顔に何を見たのか、彼女はため息を吐いた。 「……ナザレのイエスを救世主とする人々には同情を禁じえない。君のような存在が、彼をキリストと呼ぶことはまさしく福音だった。彼らにとっての終末も遠ざかったことだろう」 「鐘が鳴ったんだよ、ガブリエル。鐘の音を聞く人は、その音を止めることができない。鐘楼の元へ行くにしろ、音から逃れて離れるにしろ、目を覚まさなくてはならない」 彼女がぼくを睨みつけた瞬間、彼女の手は、僕の襟を掴み上げていた。 「ならば、伊藤、お前は寝ていればいい。何故、よりによってお前が鐘に応える? もっとうまくやる奴がいくらでもいる。今からでもいい、お前は目を閉じていろ!」 背中に押しつけられた壁が冷たかった。 「君らしくないね、ガブリエル。分断の使徒にして、不和の騎士である君ならば、もっとうまいやり方がいくらでもあっただろうに」 「それを」 お前に使えと言うのか? 言葉を続けないままで、彼女の瞳は怒りに揺れていた。 彼女の目が伏せられ、襟から手が離される。背を向けて、彼女は言った。 「昔の誼だ、小鬼の世話はしてやる。どうせ、本国に新しい成果を伝えねばならんところだった。精々役立ててやろう」 「君なら、きっと彼女と仲良くやれると思っているよ」 「抜かせ。私は子供が嫌いなんだ。馴れ合うつもりはない」 そう言って、彼女は振り返らずに去っていった。 壁は冷たいままだった。それを覚えていたくて、少しの間そのまま立っていたけれど。 僕も、彼女の去っていった道に背を向けることにした。
主上、星と暦に計るる事
いと高く畏く、祖は天に連なり、末まで地をしろしめしますること確かな、尊上の主、並び立つ者なき天子、主上の事績より、以下、書き記す。 大川の外岸、赤鳥山の囲い、荊福城の領内にて、乱起こる。男、周囲を騒擾し、人心を欺導し、天子の威光揺らがせんとして、都に攻め寄せる気を見せたり。 上、星読みを寄せさせ給う。星読みの官長、星を語るに、 「畏れ多くも、天上の体現にして、神聖の具現たる主上に愚口、言上するに、星運び、変あることを示してございます。 ここに見ます通り、日の道に干赤録が現れております。全知たる方に説くは恐縮なれど申し上げれば、これは惑星と呼ぶ鏡でございます。自ら輝かず、他の輝きを映す故、これらのある時は、地上にあることを写すものと申します。 干赤録の反映は、枯渇、血河、没交渉とあります。これらが史上、如何に表れたかは、記録にあたるべきかと存じます」 上、頷きて、これを下がらせ、史吏を上らせ給う。 書庫長、召し出されて申すに、 「尊上の問いに、臣、恐懼してお答え申し上げれば、この星巡りの暦を史に照らしますと、必ず兵乱がございます。 暦より、二百歳に七度あることでございますが、いずれにも乱あり、また前後に飢饉あるものと見えます。一例挙げますれば、前の朝、天命を失いました時も、この星、天に座する歳にございました。 臣、これの意するところを知るものでなければ、語る言を持ち得ません。恐縮ながら、これよりは治世の分限と弁えまして、答申と致します」 上、書庫長の拝辞したるのち、道化に思う所を語らせ給う。道化、口を開くに、 「なるほど、信仰と統計とは、なんとも現実をよく縛るものだな。これを迷信と恣意的な解釈と捨てるのは容易いが、それは勿体無いことだ。 君、これは筋立てと登場人物だけ決めてあって、配役が決まっていない演劇だよ。打ち倒される悪役はいるが、誰がそうなるかは決まっていない。飢餓を理由に王が打ち倒されるかもしれないが、誰がその王の役を演じるかは別の問題だ。 さて。どんな配役が君にとって好ましい?」 賊徒率いたる男、都に攻め上らんとして、徐峯に至る。城主、門を開いて迎うるに、賊、穀倉を開きて、これを奪う。徐峯炎上して三日、城下に生きて歩く者なし。 主上、ここに至りて、旅を発し、賊を討滅せしむ。捕われたる首領、五体を千分せられたるのち、門外に投げうたる。 民、天子の御心に深く感じ、これより、主上の治世に欠けたるものなかりしも、宜なるかなと語り合うなり。
波形と心音
赤ん坊を抱く時は、左胸に頭が来るように、と聞いたことがある。 鼓動が、胎内の音と似ているのだとか。 どう似ているのか知らないし、その話が確かなものかもわからない。 今になってみれば、まったくどうだっていいことだ。 私の目の前に横たわるこの男の命を、電子的な波が伝えている。 私は、その波を機械越しに見て、この男の横に座っている。 「お加減いかがですか」と、看護師が入ってくる。 どうも、意識が戻る見込みがなかろうと、患者には声をかけるのが作法らしい。 「今日は顔色がいいですね。きっと元気になりますね」 看護師は点滴を替えながらそう言うが、私は申し訳ない気持ちになる。 あなたには悪いが、そいつは起き上がらないんだよ。 私がここにいるから。 私が、この男の魂だか生き霊だか言うものなのかは知らない。 だが、生きる価値のないこの男をどうにかする気はさらさらない。 だから、こうして、波の音がする部屋で待っている。 私が消える時を。 この男から潮騒が途絶える時を。 看護師が部屋から去って、私は、男の胸に耳を当てる。 まだ、海の音が残っていた。