佐伯すみれ
18 件の小説主人公と友達になろう
――そして更に1週間後 「お嬢様、馬車の準備が整いました」 執事の声に、私は深呼吸をひとつ。 魔法学園『アカデミア・グランヴェール』。 貴族子弟と特待生が通う王国随一の名門校。 そして、乙女ゲーム『薔薇と罪の舞踏会』のメイン舞台。 「……行ってきます」 私は完璧に巻かれた銀髪を揺らしながら、馬車に乗り込んだ。 破滅フラグを回避するための第一歩。 “悪役令嬢”としてではなく、“改革令嬢”としての登校。 頭の腫れが無くなったので、今日から投稿することになった。 ちなみにまだ『記憶混濁中』である。 学園の門をくぐると、周囲の視線が一斉に集まった。 「ローゼン家の令嬢が戻ってきた」 「あの冷酷なヴァイオレットが……」 ざわめきが、まるでゲームのイベント開始の合図みたいだった。 でも、私は知っている。 このあと、主人公アメリア・ブランシュが登場する。 そして、ヴァイオレットが彼女に嫌味を言うことで、破滅フラグが立つ。 ──だから、言わない。 むしろ、逆をやる。 破滅フラグ立ててたまるか! 「きゃっ……!」 廊下の角で、誰かがぶつかってきた。 書類が床に散らばり、少女が慌てて頭を下げる。 「す、すみません!私、急いでいて……!」 その顔。 栗色の髪に、澄んだ青い瞳。 ゲーム主人公、アメリア・ブランシュ。 「……大丈夫?」 私はしゃがんで、彼女の書類を拾い集めた。 周囲がざわめく。 「ヴァイオレット様が……庶民に……?」 でも、気にしない。破滅フラグより、推しに好かれる方が大事。 「あなた、特待生のアメリアさんよね?初めまして。ヴァイオレット・ド・ローゼンです」 「え……あ、はい!初めまして……!」 アメリアは驚いたように目を見開いた。 ゲームでは、ここでヴィオレッタが 「庶民が学園に来るなんて」と嫌味を言う。 でも私は、微笑んで言った。 「あなたの努力、素晴らしいと思うわ。学園での生活素晴らしいと思うわ。良かったら、仲良くしてくださらない?」 私はありったけの愛想を込めて微笑んだ。 アメリアの瞳が、ぱっと輝いた。 私とアメリアは握手をかわし、ひとまず『友達』になった。 よし!破滅フラグ、回避成功。 「よし!第一関門突破。これで、ルシアンに“嫉妬する婚約者”って思われずに済む……はず!」 でも、廊下の奥でそのルシアン公爵がこちらを見ていた。 氷のような瞳が、ほんの少しだけ揺れていた。 「……君は、本当にヴァイオレットなのか?」 その視線に、私は背筋を伸ばした。 攻略サイトなしの世界で、私は自分の言葉と行動で、推しに好かれてみせる。 王立魔法学園『アカデミア・グランヴェール』。 春の光が差し込む講堂には、貴族令嬢と子弟たちが整列していた。 今日の授業は「魔法礼儀演習」。 魔法を用いた舞踏の所作を学ぶ、貴族教育の華とも言える科目。 しおり――いや、ヴァイオレット・ド・ローゼンとして生きる私は、緊張で指先が冷えていた。 「……ルシアン公爵と踊るイベント。これ、ゲームだと好感度+20のやつじゃん……!」 でも、今は攻略サイトもセーブもない。 彼に嫌われたら、破滅フラグ一直線。 しかも、ここでヘマする訳にはいかない! 緊張で心は震えるが、流石お嬢様チート炸裂! 鏡の前のわたしは、落ち着いて背をのばし優雅に立っている。 「……でも、やるしかない。推しに好かれるために、私は踊る」 講師がペアを指名する声が響く中、私は一歩前に出た。 「公爵様。もしよろしければ、私と踊っていただけますか?」 ざわめきが広がる。 ルシアン・ヴァルモンは、誰の誘いも断ることで有名だった。 でも彼は、静かに私を見つめた。 「……君が、そう言うとは思わなかった」 そして、手を差し出した。 その瞬間、心臓が跳ねた。 推しの手。推しの声。推しの瞳。 全部が現実になって、私の前にある。 「よろしくお願いいたします」 私は令嬢らしく微笑んで、スカートの端を摘み、優雅に一礼した。 でも、内心では語彙力が崩壊していた。 (無理無理無理、尊すぎる……!) 音楽が流れ始める。 氷属性の魔法が舞踏に合わせて空気を冷やし、白い霧が足元に広がる。 ルシアンの手は、思ったよりも温かかった。 「君の動き……以前とは違うな」 「ええ。少し、変わったかもしれません」 訝しるルシアンの質問に笑顔でかわす。 「……君は、本当にヴァイオレットなのか?」 その言葉に、私は一瞬だけ足を止めそうになった。 でも、踏み出す。 今の彼のつぶやきが届いていない様に。 目覚めてから感じるのだが、ルシアンは私になにか疑いの眼差しを向けている。 そして私も感じてた。なんか……乙女ゲーのルシアンと、ここにいるルシアンは感じが違う。 しかし、考え込む暇は無い。 今は好感度をあげて、破滅フラグ回避だ! この世界で、私は“しおり”として生きている。 推しに好かれるためじゃない。 推しと、選び合うために。 「今の私は、あなたに好かれたい私です」 わたしの正直な言葉にルシアンの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。 そして、彼は微笑んだ。 「……なら、踊ろう。」 氷の花が舞う中、私たちは踊り続けた。 講堂の空気が、静かに変わっていく。 ざわめきは尊敬に変わり、視線は憧れに変わる。 私は、悪役令嬢じゃない。 推しに好かれるために、世界を変える令嬢になる でも…… 踊った。 推しと。 ルシアン・ヴァルモン公爵と。 この手で。この距離で。この空気で。 ──無理。無理無理無理。尊すぎて無理。 彼の手が、思ったより温かくて、 彼の瞳が、思ったより深くて、 彼の声が、思ったより低くて柔らかくて、 もう、全部が“神楽坂蓮”だった。 (これ、現実?本当に現実?) ゲームの中で何度も見た“好感度+20”の舞踏イベント。 でも、画面越しじゃ分からなかった。 彼の魔力が空気を冷やして、白い霧が足元に広がるなんて。 彼の手が、私の腰に添えられる瞬間、魔力がふわっと共鳴するなんて。 (ちょっと待って、魔力ってこんなに尊いの!?) しかも、彼が言った。 「……君は、本当にヴァイオレットなのか?」 ──え、ちょっと待って。推しが“違和感”感じてる!? それって、私の中身が“しおり”だって、気づきかけてるってこと!? それって、運命じゃない!? それって、選び合うフラグじゃない!? (いや、落ち着け私。今はまだ“好感度+20”の段階。 ここで暴走したら、逆に破滅フラグだぞ) でも、無理。 推しが目の前で、私の変化に気づいてくれてる。 しかも、手を取ってくれてる。 しかも、踊ってくれてる。 しかも、魔力が共鳴してる。 (これ、実質プロポーズでは?) 講堂の空気が冷えていく中、私の心は逆に燃え上がっていた。 氷属性の舞踏なのに、心は火属性。 好感度は+20どころか、+200くらい跳ねてる気がする。 ──でも、令嬢としては優雅に微笑む。 スカートの端を摘み、優雅に一礼する。 語彙力が死んでも、姿勢は崩さない。 (だって私は、推しに好かれる令嬢になるって決めたんだから) 「ヴァイオレット様、今日もご一緒しても?」 昼休みの中庭。アメリア・ブランシュが、少し遠慮がちに声をかけてくる。 栗色の髪を揺らしながら、彼女は手作りのサンドイッチを差し出した。 「もちろん。むしろ、私の方こそお願いしたいくらいよ」 わたしは笑顔で受け取りながら、心の中でガッツポーズを決めた。 破滅フラグ回避どころか、友情ルートに入ってる。 ゲームでは絶対に見られなかった、アメリアとの穏やかな昼下がり。 「ヴァイオレット様って、思ってたよりずっと優しいんですね」 「……そうかしら。昔の私は、少し意地悪だったかもしれませんわね」 「でも、今のあなたは……すごく、お優しくて素敵です!他の貴族の方とは随分違いますね」 アメリアの言葉に、私はは少しだけ目を伏せた。 推しに好かれるために始めた“改革令嬢”計画。 でも、こうして誰かに“素敵”と言われるのは、やっぱり嬉しい。 「ありがとう、アメリア。……あなたにそう言ってもらえると、少し救われる気がしますわ」 「えっ、救われるって……?」 「ふふ、なんでもありませんわ。ちょっと、昔の自分に呆れていただけですの」 アメリアは首をかしげながらも、にこっと笑った。 「でも、私、今のヴァイオレット様のこと、もっと知りたいです。……もっとヴァイオレットさんの事知りたいです!いいですか?」 その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。 ゲームでは、絶対にありえなかった展開。 アメリアは、ヴァイオレットを“敵”としてしか見なかったはずなのに。 「……それは、私の方こそお願いしたいくらいですわ」 「わあっ、やった!」 アメリアが嬉しそうに笑う。 その笑顔は、まっすぐで、あたたかくて、 私の胸の奥に、じんわりと灯をともした。 「このお菓子、すごく美味しいですね!これ、ヴァイオレット様が選んだんですか?」 「ええ。ここのパティシエは、季節の果物を使うのが得意なの。今日は苺のタルトがあると聞いて、つい」 「苺……!私、大好きなんです!」 「ふふ、よかった。じゃあ、次はあなたのおすすめも教えてくださる?」 「もちろんです!庶民の味、侮れませんよ!」 アメリアが誇らしげに胸を張る。 その姿に、しおりは思わず笑ってしまった。 (ああ、こんな時間が、ずっと続けばいいのに) 息苦しい貴族社会の真似事も疲れる。 だって私庶民だもん!ゲームのお嬢様チートでどうにか回避してるけど…… (破滅フラグを回避するために始めた“改革”だった。 でも今は、それだけじゃない。 私は、誰かに好かれるために変わったんじゃない。 誰かと、ちゃんと向き合いたいから、変わったんだ) この世界で、私は“悪役令嬢”じゃない。 誰かをいじめる役でも、推しに嫌われるための存在でもない。 私は、藤咲しおり。 そして今は、ヴィオレッタ・ド・ローゼンとして、 この世界で“選び合う”未来を探している。
悪役令嬢に転生したけど、推しが中の人だった件について
「この選択肢、好感度+20でしょ?はい、攻略完了っと」 乙女ゲーム『薔薇と罪の舞踏会』。 推し声優・神楽坂蓮が演じるルシアン公爵を攻略するため、私は何周もプレイした。 破滅ルート?嫉妬イベント?全部攻略サイトで潰してある。 推しに嫌われるなんて、絶対にありえない。 ──そう思っていた。 目が覚めるまでは。 「……え、ちょっと待って。この髪、巻くのに何時間かかるの?ていうか、ドレス重すぎ!」 鏡に映ったのは、ゲーム内で主人公をいじめ抜いて破滅する悪役令嬢ヴァイオレット・ド・ローゼン。 しかも、推しキャラ・ルシアン公爵の婚約者。 「待って待って待って。これ、嫌われるルートじゃん!?」 攻略サイトもない。セーブもロードもできない。 推しに嫌われたら、破滅確定。 ――私は決めた。 悪役令嬢なんてやめて、推しに好かれる令嬢になる。 礼儀?慈愛?庶民感覚?全部身につけてみせる。 ――それは1週間前の出来事だった。 「う……うーん……」 頭痛で目を覚ましたら、知らない天井があって、銀髪に 瞳は紫がかったグレーの少年が私の顔を覗き込んでいた。 どっかで見覚えのある顔だったが、思い出せない。 それより頭が痛い。 それに少年の瞳も何処か気になる。 グレーに紫がかった瞳って、カラコンかよ? まだ中学生くらいだろうにませてんな。 そう思いながら、わたしは2度寝しようとしたところでは たっと気がついた。 知らない天井!?てことは家じゃない!? わたしどこで寝てるの? 急いで私が起き上がると、少年は驚いて少しベットから離れた。 そして、やおら大声で 「父様ー!母様ー!姉様が気がついたよー!」 と叫んだ。 (え?姉様って誰のこと?) 私が不思議そうに少年に目をやる。 少年は銀髪で、色が白く、瞳は紫がかったグレイ。 上等なシルクかな?光沢のある白いシャツにブルーのスラックスを履いている。 部屋を見渡すと、高価そうな調度品に彩られた大きな部屋になにより、天蓋付きの広いベットにネグリジェ姿でわたしは上半身を起こしていた。 しばらくして、慌ただしい足音が聞こえると、部屋にこれまた高価そうな、スーツ?なんだろ?まるでゲームの世界の貴族が着てるようなジャケットと、セットアップのコーデに、栗色の髪をオールバックにした男性と、同じく銀髪の少年と同じような銀髪に紫がかったグレーの瞳の女性が、私に向かって足早に駆けてきた。 「おお!無事だったか!」 二人の見知らぬ人に涙されて抱擁される居心地の悪いこと。つか、二人ともどなた? 頭痛が、まだ収まらない。頭には包帯らしきものが巻かれていた。 あたし、怪我してるの? 疑問符が脳裏でダンスしてる中に、私に抱きついてきた栗色の髪の男性が 「目が覚めて、よかった。お前は馬に蹴られて、頭を打ってそのまま倒れてたんだよ。もう3日も寝たきりだったんだ!」 すると、銀髪の女性が続けて発言した。 「そうよ。ヴァイオレット!もう目覚めないんじゃないかと思ったわ!」 女性の発言に更に疑問符が飛び出た。 「あの……勘違いをされてるようですが、私はヴァイオレットじゃなくて、藤咲しおりと申しまして……」 おずおずと、しかしはっきり自分の名前を名乗った私に抱きついた2人は顔を見合せて 「おい!医者を呼べ!ヴァイオレットがおかしいぞ!」 と、慌てて医者を呼びに行かせ、銀髪の女性は青ざめた顔で私を覗き込み 「何を言ってるの?ヴァイオレット……あなたは我が公爵家の娘、ヴァイオレット・ド・ローゼンよ」 と、真剣な眼差しで私を見つめてきた。 ん?どっかで聞いたことある名前だぞ? 私の中の疑問符が、なにかの形をなそうとしてる。 それは徐々に固まって、あるひとつの結論を出した。 わたしは2人の腕をすり抜けると、急いでベットから降り、壁に備え付けられた姿見まで走った。 急いで自分の姿を映し出して驚愕する。 綺麗に巻かれた銀髪のロングヘアに、高い身長。 女性や少年と同じ紫がかったグレーの瞳。 そこに写っていたのは、私が知ってる私の姿ではなかった。 「――ええぇぇぇ!?」 自分の変わった姿を見て脳より遅く驚愕の声が上がる。 鏡は私の知ってるもう1人のわたしを写し出していた。 私が今プレイしてる乙女ゲーム『薔薇と罪の舞踏会』に出てくる主人公のライバルであり、破滅フラグ製造機であり、推しの婚約者である―― ヴィオレット・ド・ローゼン。 「……うそでしょ……」 鏡の中の私は、まさしく“あの”悪役令嬢だった。 銀髪、紫がかったグレーの瞳、完璧すぎる顔立ち。 攻略対象のルシアン公爵に嫉妬して、主人公アメリアをいじめ抜いて、最終的に断罪される“破滅令嬢”。 「待って待って待って……これ、嫌われるルートじゃん!!」 私は鏡に向かって叫んだ。 でも、鏡の中のヴァイオレットは、ただ優雅に眉をひそめているだけだった。 いや、こんな所でお嬢様チート要らんから! 鏡の前で苦悩する私を、多分父であろう栗色の髪の男性が、医師とともに私を姿見からひっぺがすと、ベットになかせて、傷の具合を見る。 「外傷は大したことありませんな」 医者の判断にローゼン公爵は納得いってない様子で 「でも、自分の名前は間違えるし、なんだか、家族を理解してないようなんだが?」 疑問を口に出すと、医師は眉間に皺を寄せ、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。 「記憶混濁の可能性があります。頭部を強く打たれた影響で、一時的に自分の身分や家族関係を認識できない状態かと」 「記憶喪失……ということか?」 ローゼン公爵が低く呟くと、銀髪の女性――おそらく母である人物が、私の手をそっと握った。 「ヴァイオレット……あなたが誰か分からなくても、私たちはあなたを愛しているわ。少しずつ思い出していきましょうね」 いやいやいや、違うんです。 私は“思い出す”んじゃなくて、“知らない”んです。 だって、私は藤咲しおりであって、ヴァイオレットじゃないんだから。 でも、ここで「実は乙女ゲームの世界に転生してきました」なんて言ったら、完全に頭がおかしいと思われる。 医者の「記憶混濁」という診断は、ある意味で都合がいい。 「……すみません。ちょっと、混乱してて……」 私はそう言って、母らしき女性の手を握り返した。 その手は、思ったよりも温かくて、優しかった。 「しばらくは安静にしていただき、様子を見ましょう。記憶は、環境や人との関わりで自然に戻ることもあります」 医師の言葉に、公爵は深く頷いた。 「分かった。だが、学園の登校は延期だ。舞踏会も見合わせる。今は回復を優先しよう」 舞踏会──その言葉に、私はピクリと反応した。 そうだ。舞踏会はこのゲームの分岐イベントのひとつ。 誰と踊るかで、ルートが確定する。 「ちょっと待てよ……」 ベッドの上で、私は頭を抱えた。 銀髪。紫がかったグレーの瞳。天蓋付きベッド。貴族の両親。 そして、私の名前が“ヴァイオレット・ド・ローゼン”。 (これ……どう考えても、乙女ゲーム『薔薇と罪の舞踏会』じゃん!?) あのゲーム。 推し声優・神楽坂蓮が演じるルシアン公爵を攻略するために、何周もプレイした。 破滅ルート?嫉妬イベント?全部攻略サイトで潰してある。 推しに嫌われるなんて、絶対にありえない。 そう思っていた。目が覚めるまでは。 (ちょっと待って。まずは整理しよう。冷静に、冷静に……) 私は脳内で、ゲームの構造を思い出す。 ここが薔薇と罪の舞踏会の世界として、舞台は、魔法と貴族制度が共存する王国の名門学園と、王宮舞踏会。 プレイヤーは庶民出身のヒロイン、アメリア・ブランシュになって、5人の攻略対象と恋を育むのが目的。 1人は推しであるルシアン・ヴァルモン公爵。 属性魔法は氷。 王国最年少の公爵。冷静沈着で完璧主義。 魔法と剣術の両方に秀で、王族からの信頼も厚い。 その容姿端麗眉目秀麗さで貴族令嬢から人気が高いが、 またの名を『氷の公爵』と呼ばれるほど、クール。 王国最年少の公爵だが、そのせいで貴族連でも敵が多い。 冷静沈着で完璧主義。 魔法と剣術の両方に秀で、王族からの信頼も厚い。 攻略はルシアンと、舞踏会で踊る『氷の誓約ルート』 そして残りの攻略対象は 炎のレオン・クロード。 属性魔法は炎。 性格:熱血・庶民派・正義感が強い。 王国に忠誠を違う熱血騎士一族の出身。 貴族でありながら庶民寄り。 魔法学校の騎士科首席で庶民派。 攻略の鍵は共に戦う姿勢と、舞踏会での“庶民的な踊り” 攻略は『庶民改革ルート』 そして次は ノエル・アルベリッヒ 魔法属性は雷。理論魔法の天才。 学園の首席。感情表現が苦手な理論派。 魔法と学問一筋のと言えばき声はいいが、ちょっと変わり者。無感情・理論派だが、実際は人間関係に疎い。 舞踏会は人間観察目的に現れるが、踊りは苦手。 攻略は知的な会話と舞踏会での”理論を超える感情の揺らぎ゛『共鳴と感情ルート』 そして最後は従兄弟である ユリウス・ローゼン 属性魔法は風。 ヴァイオレットとは幼少期は仲が良かったが、幼少期優しかったヴァイオレットが成長するにつれ、わがまま傲慢令嬢になってしまい疎遠に。 成績トップクラスで生徒会会長。 性格は物腰が柔らかく、優雅で気品があるが、気に入らない人には皮肉も飛ばす。 過去になにかあったらしく、傷を抱えてるちょっとミステリアス。 王宮舞踏会では、常に完璧なパートナーとして名を馳せる。 攻略は過去の記憶と、舞踏会での“心の距離を縮める一歩” 『私の兄・世界改変ルート』 あとは、誰も選ばない”自我覚醒゛で『世界改変ルート』 もちろん攻略がわかってれば全員おとしてハーレム無双ルートもできるが、えらべるのは結局ひとり。 (そして、私は……主人公じゃない。 よりによって、主人公をいじめ抜いて破滅する“悪役令嬢”ヴァイオレット) そしてわたし、悪役令嬢ヴァイオレット・ド・ローゼンの役割は ルシアン公爵の婚約者(初期設定) 嫉妬イベントでアメリアをいじめる。 舞踏会で選ばれないと断罪される。 破滅ルートでは、魔力暴走→退学→婚約破棄→国外追放 (いやいやいや、これ嫌われるルートじゃん!?最早破滅しか残ってない確約設定じゃん!?) しかも、攻略サイトもない。セーブもロードもできない。 推しに嫌われたら、破滅確定。 (……でも、逆に言えば、ここで好感度を上げれば、ルートを変えられるかもしれない) 私は決めた。 悪役令嬢なんてやめて、推しに好かれる令嬢になる。 礼儀?慈愛?庶民感覚?全部身につけてみせる。 そして、私は“藤咲しおり”として、この世界で生きる。
現世に帰ることになりました
仁菜の意識が回復に向かっているせいか、頭の魂と肉体を繋ぐ糸が、目に見えて太くなっていた。地獄の管理タブレットに表示された『復活者』の欄に、仁菜の名前が移動した瞬間、見学者としての滞在は終わりを告げた。 現世に生き返ることが決まった仁菜は、地獄の空気を名残惜しそうに吸い込んだ。洗濯地獄、アイロン地獄、料理地獄、収納地獄——彼女が手を入れた場所は、どこも少しずつ人間らしさを取り戻していた。 アゼルは、仁菜の前に立ち、何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じた。彼の表情には、複雑な心境が滲んでいた。 「……次に会う時は、ちゃんと迎えに行く」 不器用な言葉だった。けれど、その言葉には、確かな約束の温度があった。 仁菜は微笑みながら頷いた。 「うん。その時は、ちゃんとアイロンかけた服で来てね」 光の粒が彼女の周囲を包み、魂の糸が現世へと引き戻されていく。アゼルはその光の中に、仁菜の姿が溶けていくのを、ただ黙って見送った。 ——そして、病院。 白い天井の下、仁菜はゆっくりと瞼を開けた。機械の音、消毒液の匂い、窓の外の風。事故の記憶は曖昧だったが、彼の存在だけは鮮明に残っていた。 黒い制服、赤い瞳、そして、あの不器用な言葉。 「……アゼル」 彼女は呟きながら、ベッドの脇に置かれた吸い飲みから、ゆっくりと水を飲んだ。現世の感触が、少しずつ指先に戻ってくる。 「……生きてる……」 アゼルのことを考えると複雑な、心境だった。 所々仁菜の体は複雑骨折をしており、起き上がるのも難儀な状態だった。 事故の状況はよくなく、右直事故だったため、過失割合が、仁菜の方が重く、保険金はあまり期待出来ない状況で、その事で母親は嫌悪の表情を隠さなかった。 母と、弟妹のお見舞いは気が重く、仁菜は早く退院して、家に戻りたかった。 3ヶ月ほど、入院をしながらリハビリをすると、杖は手放せないが、退院の目処がついて、ホッとした。 時々思い出す、黒い髪と赤い瞳の不器用な人……アゼル。 仁菜はアゼルを、想いながら、退院までの日々を過ごしていた。 退院の日、仁菜は持ってきて貰った服に袖を通し、街の風を感じながら歩き出した。日常は変わらず流れていたが、彼女の中には確かな予感があった。 「いつかまた会える。きっと、あの人が迎えに来てくれる」 その夜、仁菜はベランダに立ち、夜空を見上げた。星の瞬きの中、風がふわりと吹き抜ける。 そして——一枚の黒い羽が、風に乗って舞い降りた。 仁菜はそれをそっと手に取り、胸元に抱きしめる。 それは、遠い世界からの静かな合図。 再会の予感を秘めた、ひとひらの羽。
最後のゲーム−−後編−−
咆哮が王都を揺らした。 人々は逃げ惑い、兵士たちは剣を構えるが、誰もその魔獣を止めることはできなかった。破壊の本能に支配されたシーリウスは、王都の中心で暴走していた。 『咎獣の咆哮、翼の剣が応える時』 「エミリウス!」 扉が激しく開かれ、部屋の空気が一変した。レオニスを先頭に、アジノ、メイアース、ガイアス、イザークが雪崩れ込むように駆け込んできた。 「王都の中心に現れたあの魔獣……あれは一体なんなんだ!?」 レオニスが叫ぶ。背には、伝説とされている魔剣『翼の剣』が光を帯びていた。 エミリウスは、静かに立ち上がった。濡れた髪をタオルで拭きながら、仲間たちの視線を受け止める。 「……あれは、シーリウスよ」 一瞬、空気が凍りついた。 「嘘だろ……あの化け物が、シーリウスだって……?」 アジノが呆然と呟く。メイアースは唇を噛み、ガイアスは拳を握りしめた。イザークだけが、目を伏せたまま何も言わなかった。 「彼は、自分の中に眠る魔王因子の覚醒を感じていた。理性が侵される前に、私に“終わらせる役目”を託したの」 「……そんなの、あんまりだ」 メイアースが震える声で言った。 「もと恋人に、引導を渡すような役目をさせるなんて……」 「だからこそ、彼は自分で選んだのよ。誰かに殺されるより、わたしの手で終わることを」 エミリウスの声は、静かで、しかし揺るぎなかった。 「私は行く。彼を止める。……それが、私たちの“最後の約束”だから」 「待て、俺たちも行く」 レオニスが一歩前に出る。 「お前一人に背負わせるわけにはいかない」 「そうだ。俺たちも、嬢ちゃんには世話になった。何より騎兵団の役目は王都を守る事だ」 ガイアスが力強く言った。 「僕も行くよ。あまり得意ではないが、いないよりマシな程度の魔術は使えるよ!」 アジノも、前に出た。 「……ありがとう。でも、これは“決着”なの。彼の中の自我が保てるうちに、終わらせなきゃいけない」 沈黙が落ちた。だがその中で、レオニスが静かに剣を抜いた。 『翼の剣』が、まるで意思を持つかのように光を放つ。 「なら、俺達は“道を切り拓く”。お前がシーリウスに辿り着けるように」 「私にもお手伝いさせて下さい!エミリウスさん程強くなくてもに何かお役に立てるはずです!」 イザークがようやく顔を上げた。 「……それが、仲間ってもんだろ」 エミリウスは微笑んだ。涙はなかった。ただ、胸の奥に熱いものが灯っていた。 「ありがとう。みんな……」 そして、彼女は剣を手に取り、仲間たちと共に王都の中心へと駆け出した。 その空の向こうで、咎獣が再び咆哮を上げる。 それは、理性の最後の灯火を求める、かすかな祈りのようでもあった。 「さぁ!行きましょう!シーリウスの元に!これが最後のゲームよ!」 エミリウスは、皆をしたがえて王宮の外に出た。 王都では、突如現れた魔物の咆哮に、民衆は騒然としていた。 その魔物――咎獣は、硬質なドラゴンのような皮膚を持ち、剣も魔法も通じない。 凪いだだけで衝撃波が生まれ、兵士たちは物の見事に吹き飛ばされた。 咎獣の暴れ方は凄まじく、王都は一瞬にして瓦礫の山へと化していた。 エミリウスは、崩れた塔の上からその姿を見上げる。 咎獣の瞳に、かすかに残る“彼”の面影を見つけて、そっと名を呼んだ。 「……シーリウス」 その声は、暴れる赤子をあやすような、穏やかな優しさを含んでいた。 「苦しいわよね?――今、終わらせてあげる」 その言葉を合図に、エミリウスは剣を抜き、咎獣へと駆け出した。 レオニスとガイアスがすぐにそれに続く。 「レオニス、ガイアス! 先に住人の避難を騎兵団と兵士に伝えて。なるべく王都から遠く離れた場所へ!」 「了解!」 ガイアスは即座に全騎兵隊へ命令を飛ばし、怪我人の救出と避難を徹底させた。 「騎士団は王族と貴族の救助、避難の護衛に回れ!」 レオニスも指示を飛ばし、『翼の剣』を背に、咎獣の動きを見据える。 「アジノ、メイアース、イザークは後方支援をお願い!」 エミリウスの声に、三人は頷いた。 「魔力障壁を展開する! 市街地の崩壊を防ぐ!」 アジノが桜色の染料を作ると目にも止まらぬ速さで、王都の城門前と、城門に通じる道にいくつもの描き出した。 魔法陣は淡く光を放つと、それが防御壁になり、飛んでくる瓦礫や、衝撃波から、皆を守った。 ついでに、自分の立ち位置と、メイアースのたってる場所に防御魔法陣を描いた。 そして、エミリウスと、メイアース、イザークの体に赤い染料で魔法文字を描く。描かれた、魔法文字はひかると、三人の武器や衣服に吸い込まれるように光って消えた。 「攻撃力強化の魔術!ありがとうございます!アジノさん!私は雷撃で動きを止めます!」 そういうと、メイアースは魔導書を広げ、杖を咎獣に向けて 『命の息吹を呼ぶ風の精霊よ……雷雲を呼び、我が敵に降り注げ!”ユーピテルアロー”』 咎獣の咆哮が王都の空を裂いた。 黒炎を纏ったその巨体は、空へと舞い上がり、まるで破滅そのものが翼を得たかのようだった。 「くっ……雷撃でも止まらないなんて……!」 メイアースの放った雷撃は、確かに咎獣の脚を貫いた。だが、硬質な魔殻に弾かれ、動きを止めるには至らなかった。 普段なら落ち込む彼だったが、今の彼に迷いはなかった。 彼もまた、“覚悟を決めた一人”だった。 「防御を強化します!”セラフィムプロテクト”!」 彼の叫びとともに、見ど色の魔法陣が空中に浮かび上がり、仲間たちの身体に吸い込まれていく。 温かな光が全身を包み、魔力の盾が彼らを守る。 「攻撃強化と防御強化とはありがたいな」 イザークが静かに呟き、指先を咎獣へと向ける。 「俺は精神干渉を試みる……彼の“意識”を探る」 彼の詠唱が始まると、空気が静まり返った。 咎獣の奥底に残る“シーリウス”の意識を探るため、彼の魔力が深淵へと潜っていく。 その様子を見ながら、エミリウスはふっと口角を上げた。 「……みんな、ありがとう。これで、私も心置きなく、彼を送れるわ」 その瞬間、咎獣が再び咆哮を上げた。 黒炎が翼のように広がり、空を焦がす。 その姿は、かつての英雄の面影をかすかに残しながらも、今や破滅の象徴へと変貌していた。 「来たか……!」 地上では、避難誘導を終えたレオニスとガイアスが、ついに戦線へと合流した。 「住人の避難は完了した。王族と貴族も安全圏に移送済みだ」 レオニスが報告しながら『翼の剣』を抜く。その刃が、黒炎を裂く光を帯びる。 「ならば、全力で行くぞ」 ガイアスが拳を握りしめ、地を踏み鳴らす。 アジノとメイアースは、すかさず二人に強化魔法を施した。 魔法陣が再び輝き、彼らの身体に力が満ちていく。 「これで、準備は整ったわね」 エミリウスが剣を構え、咎獣を見据える。 「シーリウス……あなたの痛みを、私たちが終わらせる!」 仲間たちが一斉に駆け出す。 空を裂く咎獣の咆哮に、彼らの叫びが重なる。 「行くぞ――!」 そして、運命の戦いが、ついに幕を開けた。 仲間たちが一斉に駆け出す。 空を裂く咎獣の咆哮に、彼らの叫びが重なる。 レオニスが空を舞い、『翼の剣』で咎獣の翼を斬り裂く。 ガイアスが槍で地を砕き、咎獣の脚を封じる。 「障壁展開!”セラフィム・プロテクト”!」 アジノの声が響くと同時に、空間に幾重もの光の壁が出現し、仲間たちを包み込む。 咎獣の黒炎が襲いかかるが、障壁は軋みながらも耐え抜いた。 「補強魔法、継続!”アグニ・ブースト”!」 メイアースは息を切らしながらも、絶え間なく魔法を紡ぎ続ける。 仲間たちの剣が光を帯び、拳が雷を纏う。 さらに、咎獣の動きを封じるため、彼は『ディフェンス・ブレイク』を詠唱し、防御低下の魔法を放った。 だが―― 「効かない……!」 咎獣の体を覆う魔殻は、魔力を拒絶するかのように、まったく反応を示さなかった。 その装甲は、かつて魔王が纏った“絶対防壁”の残滓。 通常の魔法では、傷一つつけることすら叶わない。 「ならば、意識の深層へ――」 イザークが静かに目を閉じ、詠唱を始める。 「”エイドロン・リンク”……精神干渉、開始」 彼の魔力が咎獣の精神へと潜り込む。 黒炎の奥、暴走する本能のさらに奥――そこに、かすかに残る“彼”の声を探す。 「……シーリウス……聞こえるか?」 闇の中で、声が返ってきた。 『……お前は確か……イザーク……?』 その声は、かすれていた。 苦しみに満ち、理性の残滓がかろうじて形を保っている。 『……俺は……もう……止まらない……』 「違う。お前はまだ“人”だ。お前の意志は、ここにある」 イザークの魔力が、咎獣の精神に光を灯す。 その瞬間、咎獣の動きが一瞬止まった。 「今だ、エミリウス!」 エミリウスが跳躍し呪文詠唱を始める 『白き眼差し持つ氷の帝王よ。我が力、我が身となりて、我らに楯突くものを滅せよ!”ヴェルディネス”』 エミリウスの魔剣の宝玉が光、『氷の帝王』の力が剣に宿った。 黒炎の渦を突き抜けて咎獣の胸元へ剣を振るう。 だが、魔殻が再び硬化し、刃は弾かれた。 「くっ……!」 レオニスが空から急降下し、『翼の剣』で咎獣の翼を斬り裂くように衝撃波を飛ばすが、翼にはかすり傷程度の怪我しか負わせられない。 ガイアスが、大槍を揮うが魔力で、強化した彼の攻撃も弾かれてしまう。 アジノの障壁が再展開し、メイアースの補強魔法が再び仲間たちを包む。 イザークはさらに深く、精神の底へと潜る。 『……エミリウス……俺を……終わらせてくれ……』 その声が、確かに届いた。 「彼の意識が戻りつつある……! 今なら、届く!」 エミリウスは剣を握り直し、涙をこらえながら叫ぶ。 「高位魔族の黒魔法じゃ、倒せない!大技を使うから、アジノ、メイアース!協力して強固な防御壁を作って!」 エミリウスは、指示を出すと二人は協力して、五重の魔法防御壁を展開する。 その中に、仲間全員が守られてるのを見届けると、 エミリウスは剣を抜き咎獣となったシーリウスと対峙した。 破壊を繰り返すシーリウスの姿はまるで苦痛で暴れ回っているようだった。 彼はエミリウス目掛けて、黒煙立ち上る炎を浴びせたが、すんでのところで、彼女は浮遊魔法で躱す。 そして、悲しみを湛えた瞳で彼を見下ろした。 「おまたせ。シーリウス。あなたを解放してあげる……」 そういうと、エミリウスは呪文詠唱を始める 『黒の世界に佇む、黒の中の黒。闇の中の闇。五つの悪の根源たる者たちの王の中の王……裂け目にたゆたう闇の一つ柱……ノクス・ヴァル・アビスの御名において、闇の力の行使を願わん……』 エミリウスの魔法詠唱を聞いてメイアースが驚愕の声を上げる。 「あの詠唱は……!」 「何なんだ!?」 レオニスと、イザーク、ガイアスが声を揃えて叫んだ。 「古の古代魔法、闇の1つ柱”ノクス・ヴァル・アビス”の力を借りて攻撃する黒魔法です。まさか、”闇の神”の力が使える人が、いたなんて…」 メイアースはにわか信じられないという目でエミリウスを、見ていた。 アジノは、ただ黙って彼女を見守っていた。 『魔王顕現《オブシディアン・エンペラー》』 そうエミリウスが叫ぶと、彼女の宝玉が黒い禍々しい闇の炎を発した。 その威力は大地を揺るがし、空気を震わせた。その場に居なくても、その魔力が莫大であることが分かる。 黒い炎がその切先まで覆い尽くすと、エミリウスは、切っ先をシーリウスの心臓目掛けて突進する。 彼女の瞳から、一筋の雫が宙に流れた。 エミリウスが祈るように突進して行ったその時、咎獣の目に光が朧気に揺れた。そして、抱きしめるのを待つように僅かに醜く膨れ上がった腕を開いたように見えた。 『まだ――あなたの中に――シーリウス、あなたがいるなら!』 ――ズブリ。 闇の炎を纏った剣が、切っ先から根元まで、咎獣の胸を貫いた。 刃は、確かにその心臓へと届いた。 その姿は、まるで―― 咎獣とエミリウスが、抱き合っているかのようだった。 黒炎が静かに揺らぎ、咎獣の巨体が崩れ落ちていく。 シーリウスの残骸からは、黒い黒曜石のような意思が残されていた。 エミリウスは、それをそっと拾い上げると、銀の鎖に下がった涙型の石にそっと、シーリウスの残骸である石を押し付けた。 すると、スーッと涙型の石は残骸の中にあった黒曜石と同化した。 そしてやっと、エミリウスはそっと目を閉じた。 「……おやすみ、シーリウス」 そう言うと、彼女は力なく地面に倒れ込んだ。 慌てて仲間が彼女を支える。 彼女は膨大な魔力を使い切り、その反動で深い眠りについたようだった。 支える彼女からは規則正しい寝息が聞こえる。 風が止み、空が静かに晴れていく。 王都に、ようやく夜明けが訪れようとしていた。 戦いが終わってから、すでに一ヶ月が経とうとしていた。 王都の空は、ようやく穏やかな青を取り戻しつつあった。 瓦礫に埋もれていた街は、人々の手によって少しずつ形を取り戻し、崩れた塔の跡地には仮設の広場が設けられていた。 そこでは、子どもたちの笑い声が、かすかに風に乗って響いていた。 だが、英雄はまだ目を覚まさない。 エミリウスは、レオニス執務近くの用意されていた客間で昏々と眠り続けていた。 魔力の枯渇と、咎獣との戦闘による深い疲労――それは、肉体だけでなく魂にも刻まれていた。 彼女の傍らには、常に誰かがいた。 「……少し顔色が戻ったな」 レオニスが窓辺に立ち、陽の光を調整しながら呟く。 彼は『翼の剣』を磨きながら、静かに彼女の呼吸を見守っていた。 「魔力の循環は安定してる。もう少しで目を覚ますはずだ」 イザークは、魔力測定の術具を手に、淡々と記録を取っていた。 だがその声には、どこか安堵の色が滲んでいた。 「……エミリウスさんがいないと、なんだか周りの空気が違う気がしますね」 メイアースは、彼女の枕元に花を添えながら、ぽつりと呟いた。 その花は、王都の再建地で最初に咲いた“希望の花”だった。 アジノは、あの戦いの場面を思い出しながら詳細にスケッチをして時折窓越しに彼女の姿を確認していた。 「……僕たちが守るべきものは、まだここにある」 ガイアスは、復興作業の合間を縫って、毎日短時間だけ彼女の部屋に立ち寄った。 「街は少しずつ元に戻ってる。嬢ちゃんが目を覚ましたら、きっと驚くぞ」 外では、騎兵団と市民が協力し、瓦礫の撤去と仮設住宅の建設が進められていた。 かつて咎獣が暴れた広場には、慰霊碑が建てられ、そこに刻まれた名の中には――“シーリウス”の名もあった。 そして、ある静かな朝。 エミリウスの指が、わずかに動いた。 その瞬間、部屋にいた全員が息を呑んだ。 「……エミリウス?」 レオニスがそっと声をかけると、彼女の瞼が、ゆっくりと開かれた。 「……おはよう、みんな」 その声はかすれていたが、確かに“彼女”の声だった。 そして、王都に本当の夜明けが訪れた。 ――エミリウスが、目覚めて1週間後。 王都の復興が進み、街にようやく平穏が戻り始めた頃―― エミリウスに宛てがわれた城の一室では、異様な光景が広がっていた。 「お願いだよ、エミリウス!連れてってくれ!」 「君と一緒に旅がしたいんだってば!」 床に頭を擦り付けて土下座する二人――レオニスとアジノ。 一国の王子と、名高い貴族出身で、王室お抱え絵師たちが、まるで子犬のように懇願していた。 その様子を見ながら、イザークは椅子に腰掛け、くすくすと小さな笑い声を漏らしていた。 「……まるで、旅芸人の一座だな」 エミリウスは腕を組み、二人を見下ろすように立っていた。 その瞳には、呆れと微かな楽しさが混じっている。 「やーよ。めんどくさい」 そっぽを向いて、つまらなそうに言い放つ。 その一言に、レオニスが今にも足にすがりつきそうな勢いで叫んだ。 「そこをなんとか、エミリウス!俺ちもお前の旅に連れてってくれ!」 エミリウスは、ブーツを履いた足でレオニスを軽く蹴る真似をして、断固拒否の姿勢を見せた。 「……あんた、王都の再建指揮官でしょ?逃げようとしてんじゃないわよ」 「違う違う!これは“現地視察”ってやつだってば!」 アジノも負けじと食い下がる。 「君と一緒に旅がしたいんだよ!一緒に戦った仲間だろ?そんな邪険にしないでよ、エミリウス!」 「……ふーん。じゃあ、旅の荷物全部持ってくれる?道中の食事も全部作ってくれる?夜は私の髪、梳いてくれる?」 「えっ、それは……」 「やるやる!荷物持ちだって何だってやる!」 レオニスが即答する。 「髪も梳く!毎晩でも!」 アジノも勢いで乗っかる。 イザークは笑いを堪えきれず、肩を震わせながら呟いた。 「……これはもう、旅というより“エミリウス奉公”だな」 エミリウスはしばらく彼らを見つめていたが、やがてふっと笑みを漏らした。 「……じゃあ、気が向いたらね」 その言葉に、土下座していた二人は顔を上げ、歓喜の声を上げそうになるが―― 「でも、気が向かなかったら置いてくから。あとレオン! 約束通り、クエストが終わったから、あなたの防具一式と”風の剣”私にちょうだいね」 エミリウスは、レオニスに片手を差し出し、ホレホレと、手のひらを曲げ伸ばしした。 「いや……この剣を取られたら、俺何も出来なくなるし……武具は王室の、財産だから、俺の一存で譲る訳には……」 レオニスの反応に、エミリウスは半眼で彼を睨め据えると 「あらぁ?一国の王子が約束を反故にするの?有り得なーい」 と皮肉たっぷりの言葉を浴びせた。 「まぁ、武具はしょうがないにしても、”風の剣”は、功労賞品として、王様にねだるのもいーわね〜」 と、二人に背を向けて、背中で手を組みながら呑気に言い放つ。 徐々に王都は活気を取り戻し、仲間も徐々に日常を取り戻していた。 ――そして2日後 王都の復興が進み、瓦礫の街に再び人々の営みが戻り始めた頃―― 王城の大広間には、かつてないほどの静謐と光が満ちていた。 天井のステンドグラスから差し込む陽光が、赤絨毯の上に五つの影を落とす。 女魔剣士エミリウス、王子レオニス、王室お抱え絵師アジノ、白魔法使いメイアース、そして国家隠密集団《ヴェイル》の統括官イザーク。 咎獣戦線を生き抜いた五人の英雄が、今、王と宰相の前に立っていた。 「……よくぞ、我が王国を救ってくれた」 王は玉座から立ち上がり、深く頭を下げた。 その姿に、列席していた貴族たちもざわめきを飲み込む。 「あなた方の勇気と犠牲がなければ、王都は今も闇に沈んでいたでしょう」 宰相もまた、胸に手を当てて敬意を示す。 王は一人ずつ名を呼び、言葉を贈った。 「エミリウス・レイヴェル!」 「はっ!」 王に名前を呼ばれ、前に進み出る。 「そなたは、王国最高位の勲章《星冠の剣章》を授けよう。その剣は、闇を断ち、希望を導いた。そなたの名は、王国史に永久に刻まれるだろう」 さらに王は、彼女に「王国特命遊撃官」の称号を与えた。 それは、国境を越えて行動する自由と、王の名のもとに剣を振るう権限を意味していた。 「レオニス・アルセイン」 「はっ!」レオニスが前に進みでる。 「王子でありながら、前線に立ち、民を守ったその姿勢は、王族の誇りそのものだ。 あなたには《蒼翼の盾章》を授け、王国軍総帥補佐の任を与える」 王は微笑みながら言葉を添えた。 「……だが、旅に出るなら、せめて報告書は残していけよ、レオニス」 王の囁きにレオニスが破顔したのは言うまでもない。 「アジノ・ルクヴェール」 「はい!」アジノが、王の前に礼を持って立つ。 「そなたの絵は、戦場の記録であり、心の灯でもあった。 その筆は、王国の記憶を未来へと繋ぐ」 王は《銀筆の栄章》を授け、王立記録院の名誉筆頭画師としての地位を与えた。 さらに、王子付きのまま、旅の記録画家としての自由な活動も許可された。 「メイアース・セルフィア」 「はいぃぃ!」 正式な場で初めて王に名を呼ばれたメイアースは緊張のあまり、声が裏返ってしまった。真っ赤になりながら、前に出ると 「そなたの癒しは、剣よりも強く、盾よりも堅かった。 その魔法は、民の命を繋ぎ、街を再び立ち上がらせた」 王は《白光の癒章》を授け、王都再建局の魔術顧問に任命した。 また、魔法医療の研究と普及のための資金援助も約束された。 「イザーク・カルデロ」 「はっ!」 イザークは優雅な足取りで前に進みでると、統括官らしい毅然とした態度で礼をとった。 「そなたの働きは、表には出ぬが、誰よりも深く王国を支えていた。その沈黙の剣に、我らは感謝する」 王は《影の栄章》を授け、国家隠密集団《ヴェイル》の独立運用権を正式に認可した。 宰相は小声で付け加えた。 「……ただし、報告書の“黒塗り”はもう少し減らしてくれ」 イザークはわずかに口元を緩め、無言で頷いた。 王は最後に、五人を見渡し、静かに言った。 「そなた達は、王国の“希望の五星”として、永遠にその名を刻まれる。どうか、これからも――それぞれの道で、民を導いてほしい」 大広間に拍手が鳴り響き、ステンドグラスの光が英雄たちを照らした。 その光は、かつて闇に沈んだ王都に、確かな未来を告げていた。 ――その夜。 「……やっぱり、誰にも言わずに出るのが楽ね」 エミリウスは小さく笑い、王都の北門をくぐろうとしたその瞬間―― 「待てえぇぇぇぇぇ!」 土煙を立てながら、レオン――レオニスを先頭に、アジノ、メイアース、イザークが追いかけてきた。 「不味っ!見つかった!」 エミリウスは急いで城を出ようとしたが、必死の形相で追いかけてきたレオニスに肩を掴まれて、足を止めざるを得なかった。 「ちょっとちょっと離して!」 叫ぶエミリウスをこれ、王子?と疑いたくなるような形相で、彼女の肩をがっちり掴んだレオニス。 「置いて……行くな……」 肩で息をしながら、腰に下げたマジックバックから、高価そうな、武具一式と、アミュレット(魔具)を取り出して 「あの鎧とこの”風の剣”は、渡せんが、それに遜色ない、武具とアミュレットを持ってきたぞ。窃盗にならんよう父から賜ったものだ。これで、手打ちにして、俺を連れてけ!」 鬼気迫る表情を浮かべ、ガッツリエミリウスを掴んで離さない。 そんなレオニスの後からアジノと、メイアースと、イザークが追いついてきた。 アジノは肩で息をしながら 「もう……レオンてば……足速すぎるって!」 アジノは疲労感いっぱいの顔で言うと、エミリウスのマントを掴み 「連れてくれるまで離さない!」 と、こちらも凄い根性を見せてしがみついてきた。 エミリウスはため息を、つきながら二人を見据えてから、視線をメイアースとイザークに向けた。 「こいつらが追いかけてくるのはわかるとして、何であんた達まで?お城での役目があるでしょ?」 そう言うと、メイアースは、杖と魔導書を抱きしめるように胸の前で抱えると、前髪で隠れた目線を熱くして 「あの……エミリウスさんの魔法は魔道回路もさることながら、魔術への蔵子の深さ、実力……どれをとっても凄くて……今回の戦いでも、あんな魔術を使えるなんて……私!感動しました!」 熱を込めて語るメイアース。 「だから……弟子とはいいません!私はエミリウスさんについて行って、もっと魔術師として、成長したいんです!お願いです!私も、連れて行って下さい」 そう言うと、ガバッと頭を下げた。 「俺は王子として見聞を広める名目で、父王から旅に出る許しを得たぞ。」 まるで『苦しゅうない』と言いたげな態度で胸を張るレオニスに、エミリウスは突っ込んだ。 「いや、あんたの理由なんてどうでもいいし。殴っても着いてくる気なんでしょ?」 と、呆れながら言うと、今度はアジノが顔を出し 「はいはーい!僕は思うに世界はもっと美しくて素晴らしい!それを美しい君の元で描いたら作品がもっと華やかになると思うんだ」 キラキラと、ビー玉のような透き通った栗色の瞳でエミリウスの目線まで屈むと『連れてってくれるよね?』と、愛嬌いっぱいのおねだりポーズで彼女を見つめた。 これが、アジノファンの宮廷人ならイチコロなんだろうが 「だから、その手は効かないってば!」 じとりと睨んで、返すエミリウスに、心の中で舌打ちしながら、マントを掴む手は緩めない。 イザークは、片手をあげ 「俺はこいつらの引率兼、護衛と、定期報告係で同行を、命じられた」 サラッといいのける。 ガイアスは、城での立場と任務のため、それと家庭があるため、長旅は出来ず、今回の同行を断念したそうだ。 四人に見つめられ、エミリウスは根負けしたように両手を挙げると 「どーなってもしーらないっ!」 これが彼女流の同意なのだろう。 レオニスから貰ったお宝を拾ってマジックバックに入れると、スタスタと城を出ようとして振り返る。 「あたしは足をとめないわ。付いてこれるもんなら、ついてらっしゃい」 そう行って、再び『パーティ五人』は城を後にした。
修理地獄!罪も整理整頓しちゃいます!
料理地獄を改善し終えた私は、アゼルと並んで歩きながら、次なる業務地へと向かっていた。地獄の奥にある、ひときわ静かな空間。そこは「収納地獄」と呼ばれていた。 「ここでは、亡者たちが自分の罪を箱に詰め込み続ける。整理もせず、分類もせず、ただ押し込むだけだ」 アゼルの説明通り、そこには無数の棚と箱が並び、亡者たちが黙々と罪の記憶を紙に書き、折りたたみ、箱に詰めていた。箱は膨れ上がり、蓋は閉まらず、棚は崩れかけていた。 「……これ、収納っていうより、圧縮爆弾じゃん」 私は思わずそう呟き、棚の一つに手を伸ばした。すると、バランスを崩した箱が頭上から落ちてきた。 「わっ、危なっ――!」 反射的にアゼルが私を抱き寄せ、箱の直撃を避ける。だがその拍子に、私は彼の胸元に倒れ込み、棚の隙間に押し込まれるような形になった。 「っ……!」 「……なんか柔らかい……?」 アゼルの手が、私の腰のあたりを支えていた――いや、支えているというより、揉んでいた。 そこへ狙ったかのようにセロスが現れた。 品のある金髪を後ろに束ねて、ポケットに手を突っ込んで、歩いてくる様は彼の持つ品格を無くし、あたかも輩のようだった。 「よーよー!アゼルさんよぉ!またラッキースケベでっか?最早そこまで来るとわざとちゃいます?」 荷物の下敷きに、なって身動きが取れないでいる私にセロスが近づいて 「仁菜ちゃん、さっさと、こんなところ見切りつけて『白の世界』おいでーな。わしもラッキースケベ味わいたいわ。」 と、はやし立ててるのか本気なのか分からない口調で耳元で囁いた。 わたしは、擽ったさに肩をあげ、まだ私の胸元に顔を埋めて、おしりを揉みながらに抱きついているアゼルに、私は反射的に彼の頬を叩いた。 パシーン!という音が棚の崩れる音と重なって、地獄内に響き渡る。 亡者たちは手を止め、こちらを見てざわつき始める。 「なんだ?なんだ?」 と、亡者の野次馬が集まって、私達の上京を遠巻きに見ながら 「地獄で一番罪深いの、案内人じゃ……?」 「いや、叩いたのは女の子の方……」 と、ヒソヒソと声を潜め、話し始めた。 アゼルは、荷物をどかして立ち上がった。顔が耳まで赤くなってる。私も顔を真っ赤にしながら、崩れた棚を整え始めた。 「もう!いいから!収納に集中して!」 アゼルは耳まで赤く染めながら、そっと箱を拾い直した。 その後、私は収納地獄の構造を見直し、罪の分類と整理を提案した。亡者たちは、自分の罪をただ詰め込むのではなく、ラベルを貼り、時系列で並べ、必要に応じて“取り出して向き合う”という新しい儀式を始めた。 「罪って、しまい込むだけじゃダメなんだよ。時々、取り出して、見直して、整えて、またしまう。それが、本当の収納」 亡者たちは静かに頷き、棚の中に整然と並んだ箱を見つめていた。 アゼルは私の隣で、そっと呟いた。 「君が来てから、地獄が少しずつ人間らしくなった。……俺も、少しずつ変わってる気がする」 私は彼の言葉に、少しだけ照れながら笑った。 「じゃあ、次は何を整えようか。地獄、まだまだ詰め込みすぎてるよ」 収納地獄の棚に、静かな風が吹いた。罪の箱が、ふわりと揺れた。 ──収納地獄、改善完了。 仁菜とアゼルは、次なる地獄へと歩き出す。 その距離は、少しずつ、こぼれ落ちた罪の隙間で縮まっていく。
最後のゲーム−−前編−−
――キィ…… 「誰?」 軋んで開いた扉。 殺気も気配もなく、入り込んで来た影は、苦しそうに床に倒れた。 「ちょっと!大丈夫!?」 殺気がないので、警戒はしつつもエミリウスは慌ててその影を助け起こした。 なんと、自分の腕に捕まって立とうとしているのは、かつての恋人で今は敵になった゛星霜の賢者゛シーリウスだった。 彼女は突然の彼の来訪に驚いて、思わず声を上げた。 「シーリウス……!? どうして、今――」 部屋の扉を閉めた彼は、少しだけ疲れた笑みを浮かべていた。 そして、何の前触れもなく――彼女を抱きしめた。 「――っ!ちょっと!」 部屋の扉を閉めた彼は、少しだけ疲れた笑みを浮かべていた。 驚きと戸惑いの声を上げながらもがくエミリウスを、彼は軽々と抱き上げ、ベッドにそっと横たえた。 その動きに力はなく、ただ、彼女の温もりを確かめるような優しさがあった。 彼は覆い被さるようにして、彼女の頬に手を添えた。 その指先が、彼女の輪郭をそっとなぞる。 「お前は、こんなにも強く、美しく成長したんだね。私の愛しいエミリウス……」 その声は、今までの残酷な恍惚感を帯びた今迄彼の姿ではなく、共に暮らし、歩んできた愛しい男性の彼だった。 エミリウスは、彼の瞳を見つめ返す。 そこには、後悔も、罪も、赦しも、すべてが混ざった光が揺れていた。 二人は、言葉にならない想いを抱きながら、静かに寄り添った。 それは、戦いの余白に訪れた、ほんのひとときの安らぎだった。 「……最後に、お前と睦あいたかったんだよ」 その言葉に、彼女は目を伏せた。 そして、そっと彼の手を握り返す。 「……なら、ちゃんと覚えててよ。私が、あなたを許したことも。あなたが、私を選んだことも」 シーリウスは微笑んで、彼女を抱きしめ、何かを囁いた。 それを聞いてエミリウスは静かに頷く。 「……そう。最後のゲームが始まるのね。」 何もかも飲み込むようにエミリウスは答えた。 「ゲームを、終わらせよう。私の”自我”が保てる間に」 ――『私を殺してくれ』 彼女にはそう聞こえた。 「分かったわ」 決別するように2人は互いの体を離した。 シーリウスは、衣装を整えると、そっとその場を後にした。 エミリウスは、今までの全てを洗い流す禊の様にシャワーを浴び直し、床についた。 ――来るべき日が近づいてる。 夜が明ける頃、王都は不穏な気配に包まれていた。空気が重く、鳥たちは沈黙し、街の灯火さえも揺らいで見えた。 シーリウスは、王都の中心にある古の祭壇へと足を運んでいた。かつて魔王が封じた秘術――“深淵の契約”を行使するために。 彼の内に眠る魔王因子は、すでに理性の境界を侵し始めていた。人を守りたいという思いは、破壊したいという衝動に塗り替えられ、孤独は怒りへと変わっていく。 「……私は、もう”人”ではいられない」 彼は祭壇の前に立ち、静かに目を閉じた。エミリウスとの最後の夜が、脳裏に焼き付いていた。彼女の温もり、彼女の覚悟――それが、彼の最後の理性を繋ぎ止めていた。 「エミリウス……お前だけが、私を終わらせられる……」 秘術が発動されると同時に、シーリウスの身体は黒炎に包まれた。骨が軋み、皮膚が裂け、彼の姿は伝説に語られる魔獣“咎獣”へと変貌していく。 咆哮が王都を揺らした。
地獄の食卓、私が変えます!
闇鍋地獄、洗濯地獄、アイロン地獄と改革を重ねた私は、次なる業務地へと足を踏み入れた。アゼルの案内で辿り着いたその場所は、重たい鉄扉の奥に広がる、蒸気と焦げ臭さに満ちた空間だった。 「ここが……料理地獄?」 私は思わず眉をひそめた。厨房と呼ぶにはあまりに荒れ果てたその場所では、亡者たちが黙々と調理を続けていた。だが、その様子は“料理”とは程遠い。 調理器具は錆びつき、鍋の底は焦げ付き、包丁は刃こぼれしている。食材は腐敗し、色も匂いも異常だった。レシピは壁に貼られていたが、手順は支離滅裂で、意味を成していない。 亡者たちはその無意味な指示に従い、腐った食材を煮詰め、焼き焦がし、異臭を放つ料理を延々と作り続けていた。そして出来上がった料理を陰鬱な顔で、黙々と食べている。 「……これが、料理地獄?」 私はもう一度問いかけるように呟いた。 アゼルは厨房の奥を見つめながら、静かに答えた。 「罪の献立を煮詰め、苦しみを味わう儀式だ。食材は過去の記憶、調理は償いの工程。食べることは贖罪。焦げた料理は、歪んだ心の象徴だ」 私は焦げた鍋の中身を見つめながら、首を振った。 「これじゃ、ただの食材虐待だよ。罪を煮詰めるって言うけど、腐った材料で焦がすだけじゃ、何も整わない。苦しみだけが残って、自分の罪と向き合えないただの苦行だよ。」 アゼルは言葉を詰まらせ、黙って私の横顔を見つめていた。 私は厨房の中央に立ち、手を腰に当てて言った。 「よし、まずは冷蔵庫の点検と鍋の洗浄から。罪の味を整えるなら、衛生と誠意が基本でしょ?」 私は厨房の中央に立ち、まずは冷蔵庫の扉を開けた。中からは、腐敗した野菜と異臭を放つ肉が現れた。色も形も原型を留めておらず、食材というより“罰の塊”だった。 「……これ、食材って呼んじゃダメでしょ」 私は鼻をつまみながら、使えるものと使えないものを分け始めた。アゼルが少し驚いたように言う。 「君、料理もできるのか?」 「うん。バイトのない日は私が食事係だった。お弁当も自分で作ってたし……メニュー決めて、買い出しして、下ごしらえして……って、地獄より忙しかったかも」 私は笑いながら、錆びた鍋を洗い、包丁の刃を研ぎ直した。亡者たちは戸惑いながらも、私の動きをじっと見ていた。 「料理ってね、誰かのために作るものなんだよ。罪を煮詰めるより、心を込めて整えることが大事。そうすれば、食べる人の心に届く」 私はそう語りながら、亡者たちに問いかけた。 「ねえ、みんな。覚えてる?最後に誰かのために料理した日のこと」 しばらく沈黙が続いた後、一人の亡者がぽつりと呟いた。 「……娘の誕生日に、オムライスを作った。ケチャップで“おめでとう”って書いたけど、卵が破れて、泣かれた」 私はその言葉に微笑みながら、冷蔵庫から卵とケチャップを取り出した。 「じゃあ、もう一度作ろうよ。今度は破れないように、丁寧に。罪も卵も、優しく包むのがコツだから」 亡者は戸惑いながらも、卵を手に取った。鍋の火が、少しだけ柔らかく灯る。 私は食材を並べながら、献立を再構成していく。亡者たちの記憶に寄り添いながら、“懐かしい味”を再現する試みが始まった。 焦げた鍋の代わりに、澄んだスープ。腐った肉の代わりに、香ばしく焼かれた魚。異臭の漂う厨房が、少しずつ温かな匂いに包まれていく。 アゼルはその様子を見つめながら、静かに呟いた。 「君の料理は、罪の味を記憶の味に変えていくんだな」 私は鍋をかき混ぜながら、笑った。 「そう。料理って、罪も思い出も、全部混ざってる。でも、整えれば、誰かの心を揺さぶりそれは『思い出』になるんだよ」 鍋の中で、スープが静かに煮立っていた。腐敗の匂いは消え、代わりに出汁の香りが厨房に広がる。亡者たちは、整えられた食材を前に、戸惑いながらも手を動かし始めていた。 一人の亡者が、焦げた鍋を見つめながらぽつりと呟いた。 「これは……父に最後に作った味噌汁だ。塩を間違えて、喧嘩になった。あれが最後だった」 私はその言葉にそっと耳を傾け、彼の記憶をたどるように材料を並べた。 「じゃあ、もう一度作ろう。今度は、ちゃんと味を整えて。誰かのために作るって、そういうことだよ」 彼は震える手で味噌を溶かし、火加減を見ながら具材を入れていく。私は隣で見守りながら、静かに言った。 「焦げた記憶も、塩辛い後悔も、全部混ざってる。でも、整えれば、それは『思い出』となって、料理した人、食べた人の心に残るモノになるんだよ。料理って、そういうものだから」 味噌汁が完成すると、彼は一口だけすくって、口に運んだ。次の瞬間、彼の目から涙がこぼれ落ちた。 「……あの日の味だ。父に、もう一度食べてもらいたかった」 厨房が静まり返る。亡者たちはその涙を見つめながら、自分の鍋に向き直った。 アゼルが私の隣に立ち、低く呟く。 「罪の味が、記憶の味に変わった……君の料理は、地獄に灯りをともすんだな」 私は鍋の火を少し弱めながら、笑った。 「灯りっていうより、湯気かな。罪を煮詰めるんじゃなくて、温め直すの。冷えた心に、もう一度火を入れるために」 味噌汁の湯気が、静かに立ち上る。亡者の頬を伝う涙は、鍋の縁に落ちることなく、彼の胸元で止まった。 厨房の空気は、焦げと腐敗の匂いから、出汁と焼き魚の香ばしさへと変わっていた。亡者たちはそれぞれの記憶に基づいた献立を整え、自分で作った物を苦痛を浮かべて一人で食べるのではなく、互いに料理を振る舞い始めていた。 「これは……母が作ってくれた卵焼きに似てる」 「俺のは、妻が最後に作ってくれたカレー。……甘口だったんだ」 食卓はなかったはずの地獄に、鍋を囲む輪が生まれていた。亡者たちは、罪の記憶を料理に込め、互いに差し出すことで、少しずつ心を開いていく。 私は鍋の火を止め、布巾で取っ手を拭きながら、静かに呟いた。 「罪って、食べられるんだね。苦いままじゃなくて、整えて、誰かに渡せる形にすれば」 アゼルは私の隣で腕を組み、厨房の様子を見渡していた。 「君が来てから、地獄に味がついた。……それも、優しい味だ」 私は少し照れながら、鍋の蓋を閉じた。 「次はどこを温めようか。地獄、まだまだ冷えてるよ」 アゼルは笑みを浮かべ、扉の向こうを指差した。 「次は、収納地獄かな。罪を詰め込んで、溢れさせる場所だ」 私は頷き、エプロンの紐をほどいた。 「よし、次は整理整頓。罪も記憶も、しまい方が大事だからね」 料理地獄の厨房に、静かな風が吹いた。湯気の向こうに、少しだけ光が差し込んでいた。 ──料理地獄、改善完了。 仁菜は、次なる改革の地へと歩き出す。
静かなる布陣
王妃の脱獄は、王国の威信を揺るがす一大事として、極秘裏に調査が進められていた。 彼女は王侯貴族の血を引く身であり、貴族層に多くの支持者を持つ。そのため、潜伏先の特定が叶ったとしても、軽々しく踏み込むことは政治的に困難であった。 加えて、王妃自身も外部との接触が難しい状況にあり、強行策は避けられ、当面は監視という形見守ることとなった。 この任務は、イザーク率いる国家隠密部隊《ヴェイル》と、王直属の密偵たちによって遂行され、王妃の一挙手一投足は厳重な監視下に置かれることとなった。 王妃が匿われてる実家と懇意にしている貴族屋敷の一室 夜は深く、灯火の揺らめきが王妃の影を壁に踊らせていた。 ロクサーヌは椅子の肘掛けを握りしめ、沈黙の中で焦りと絶望を隠せないでいた。 「どうして、あの子が…」 声は誰に向けたものでもなく、ただ漏れた。 マリオンの継承権放棄――それは彼女にとって、王冠を失う以上の痛みだった。 王妃としての誇り、母としての願い、そのすべてが否定されたように思えたのだ。 そのとき、部屋の奥から一歩、音もなく現れた男がいた。 シーリウス。『星霜の賢者』と呼ばれ、その誉高い名声で知られる奇跡の賢者。 王子マリオンを王位継承者にするべく、彼の力を借りようと、金を積み、権力を行使し、呼び寄せた今は王妃の知恵袋である。 「焦っておられるようだ、王妃殿下」 彼の声は柔らかく、だが冷たい水のように心に染みた。 ロクサーヌは顔を上げる。 「あの子は王になるべきなの。誰よりも…」 「ならば、奪うのではなく、選ばせるのです」 シーリウスはゆっくりと歩み寄り、王妃の前に立った。 「王が自ら、マリオンを選ぶように仕向ける。それが最も確実で、最も適切な道です」 「選ばせる…?」 その言葉に、ロクサーヌの眉がわずかに動いた。 「民の支持を得るのです。学者としての功績を積ませ、慈善事業にその名を冠する。 王は民の声に耳を傾けざるを得ない。やがて、王自身が“彼こそふさわしい”と口にするでしょう」 沈黙が落ちた。 ロクサーヌは目を伏せ、指先を震わせながら思案する。 それは遠回りに見えて、確かに王の意志を動かす道だった。 「ならば、そのように動いて」 彼女の声は低く、だが確かだった。 シーリウスは微笑んだ。 「王妃殿下の野心は、いつも美しい。だからこそ、私はこうして戻ってきたのです」 厳重にカーテンに覆われた窓辺。 光が差し込まないその部屋の中で、ランプの明かりだけが、温かみを部屋に添えていた。 ロクサーヌの思いは過去に飛んでいた。 玉座の間に差し込む朝の光は、まるで私を透かすように冷たかった。 絹の衣をまとい、宝石を飾っても、この身は空洞の器にすぎない。 私は王妃――けれど、それは「誰かの代わり」として与えられた名にすぎなかった。 これは政略結婚だった。 王侯貴族の家柄を持つ私が、”出奔した王妃セレナ”の代わりに王妃の座に就いた――それだけのこと。 王は私に優しかった。礼儀正しく、穏やかに接してくれた。 けれどその優しさは、私へのものではなかった。 彼は自分を慰めるために、私に優しくしたのだ。 その奥にあるのは、いつもセレナ。 彼の心は、過去に縛られたまま、彼女だけを見ていた。 私は、王の隣に座っていても、決してその目に映らない。 それでも、王妃として微笑み、沈黙を守ることが、私に課された役目だった。 王は私に優しかった。礼儀正しく、穏やかに接してくれた。 『愛されていない』――そんな感覚は、私にとって初めてではない。 けれど、王妃として、妻として、母として、その痛みはあまりに深かった。 私はただの代替品。王の心に触れることは、決して許されない。 そんな私の世界を変えたのは、息子マリオンの誕生だった。 彼は私の血を引き、王の血を継ぐ者。 王位継承権を持つ、正統なる王子。 その瞬間、私は初めて「選ばれた」と感じた。 王にではない。運命に、歴史に。 私は王妃としてではなく、”次期国王の母”として、王国に意味を持ったのだ。 マリオンには望むものは何でも与えた。 学問、礼儀、人望、名声――すべてを。 彼が王になるために、私は王妃としてのすべてを捧げた。 王の心は私に向かなくてもいい。 だが、王冠は――マリオンの頭にこそ、ふさわしい。 それが私の誇りであり、復讐であり、唯一の愛だった。 シーリウスは窓辺に立ち、夜の帳に沈む王都を見下ろしていた。 その横顔には、情ではなく、計算の光が宿っている。 「王妃ロクサーヌは、愛されていないことに気づいている。だが、それでも王妃であり続ける。なぜか? それは“王妃であること”が、彼女の唯一の武器だからだ」 彼は帳に散りばめられている星を見ながら独白していた。 彼の思いはエミリウスへと馳せていた。 「私はその執着を利用する。彼女の焦り、孤独、母としての誇り――それらすべてを、策の駒に変える。 彼女はマリオンを王にしたい。ならば、私は“王に選ばせる”道を示す。民の支持、学者としての名声、慈善の名を借りた印象操作。すべては、王の心を揺らがせるための布石だ」 シーリウスは手元の赤ワインを持ったグラスをくゆらせ 「情は捨てろ。王国は感情で動かぬ。動かすのは、利と理と、恐れと希望だ。 私はそれを知っている。だからこそ、誰よりも深く、王の心を読むことができる」 彼は再び窓の外を見やった。 「ロクサーヌは、私の策にすがるしかない。だがそれでいい……」 王都では、いつしか市民の声が変わり始めていた。 『次期王位補佐』などという控えめな呼び名では足りぬ――そう囁かれ始めたのだ。 代わりに響くのは、『王太子にふさわしい』という声。 それは王都だけに留まらず、遠く他の大陸からも届き始めていた。 その流れの裏には、シーリウスの冷徹な手腕があった。 彼はマリオンの財源を巧みに操作し、貧民街の整備、炊き出しの支援、孤児院への寄付―― ありとあらゆる善行を、マリオンの名のもとに積み重ねていった。 民の心は見事にシーリウスの策略へと落ちていった。 王子が自らの手で国を癒していると信じた。 そして、信じた者は語る。語る者は広める。広まった声は、やがて王の耳にも届く。 シーリウスは語らぬ。 だが、彼の布陣は着々と進んでいた。 王妃の執念を燃料に、王子の名を冠した善意を盾に、王国の空気そのものを塗り替えていく―― それが、彼の策だった。 王は沈黙の中で、マリオンを呼び出した。 玉座の間に響いたのは、ただ一言 「お前が望んだのか」 その声は静かだったが、問いの奥には怒りと疑念が潜んでいた。 王都に広がる“王太子に”という声。 それが、王の心を揺らがせたのだ。 マリオンは、まっすぐに父を見て、首を横に振った。 「私は…望んでいません。そんな器ではないと、わかっています」 その言葉は誠実だった。だが、王の目はなおも鋭く、答えを測るように彼を見つめていた。 その頃、セリウスは民衆の熱狂に目を伏せていた。 炊き出し、孤児院、貧民街の整備――善行は積み重ねた。 だが、マリオンの否定は、そのすべてを虚しくした。 「やはり、私ではなく、あの子の方が王の器なのではないのか?…」 その思いは、静かに彼の胸を冷やしていった。 一方、レオニスは王妃ロクサーヌの動きに憤りを隠せなかった。 慈善事業の裏にある意図。民の声を操る手。 「王妃は、王冠を飾りにするつもりか…」 その怒りは、義理とはいえ王家の名を背負う者として、王国の秩序を揺るがすものだった。 彼にとってロクサーヌは母ではない。だが、王家の誇りを汚す者として、彼女のやり方は許しがたかった。 沈黙の中で、誰もが次の言葉を待っていた。 怒りはある。疑念もある。だが、今必要なのは衝動ではなく、策だった。 最初に動いたのはイザークだった。 彼は椅子の背に手をかけ、低く言った。 「ならば、盤を崩すのではなく、盤の外から揺らすべきだ。騒ぎを鎮めるには、民の熱を冷ます手が要る」 メイアースが頷いた。 「善意の仮面を剥がすのは得策ではないです。むしろ、マリオン王子自身が一歩退くことで、民の期待を静める方が自然ですね。彼の言葉で、騒ぎは収まると思います」 レオニスは眉をひそめたが、黙って聞いていた。 彼の怒りはまだ消えていない。だが、王家の名を守るためには、感情よりも秩序が優先される。 アジノが静かに口を開いた。 「マリオン王子を説得して、民の前で語らせよう。 “王位は望まぬ”と。だが、同時に“国のためには尽くす”と。 それで民は納得する。”王太子”ではなく、賢者としての道を示せば、騒ぎは自然と沈む」 エミリウスは皆の言葉を聞き終え、ゆっくりと立ち上がった。 「じゃ、マリオン王子にお願いしに行きましょ。でも、民衆にそれを伝える場その場はわたし達でが整える。 王妃の手が届かぬ場所で、王の耳に届くように。 この騒動は、静かに終わらせる。盤を壊すのではなく、盤を整え直すのよ」 誰もが頷いた。 怒りはまだ残っている。だが、それを燃やすのではなく、冷たい知略に変える時だった。 こうして、騒動を鎮めるための策が動き出した。 それは、戦ではなく、言葉による収束。 そしてその言葉は、マリオン自身の口から語られることになる―― 王国の空気を、もう一度静けさへと戻すために。 エミリウスは一歩前に出て、マリオンの視線を受け止めた。 「夜会でお会いしました。あのとき、あなたが孤児院の寄付について語っていたのを覚えています」 その声は柔らかく、だが芯が通っていた。 マリオンは少し目を細めた。 「…あぁ!あの夜お見かけしました!父王を庇ってくださったこと、お礼を申し上げます。父を傷つけていたら、母の罪はもっと重くなっていたでしょう…まぁ、今の母も充分罪は重いのですが…」 と、肩を落としマリオン王子は呟くようにランプに点ったロウソクのゆらめきに視線を落としながら言った。 「大丈夫です。王子のお気持ちは分かってるつもりです」 エミリウスは柔らかく言ってから、表情を引き締めた。 「今は、あなたの言葉が必要です。あなたの言葉が、王国の空気を変えるのです」 レオニスが横から口を挟んだ。 「マリオン、民は騒いでいる。だが、それはお前を見て王にしたいからではない。 お前が“国を見ている”と感じたから、声を上げたんだ。 だからこそ、今、お前自身がその声に応えるべきだ」 マリオンは沈黙した。 彼の中で、王位への拒絶と、民への責任がせめぎ合っていた。 彼は王の器ではない――そう思っていた。 だが、器でなくとも、国のために立つことはできるのではないか。 「……私に、何を語れと?」 その問いは、迷いの中にある決意だった。 エミリウスは静かに答えた。 「“王位は望まぬ”と。だが、“国のためには尽くす”と。 それだけでいいのです。あなたの誠実さが、民の熱を静める。そして、王妃の策を、言葉で封じることができる」 マリオンは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。 「……わかりました。語りましょう。私の言葉で、私の立場を」 レオニスは頷き、エミリウスは静かに微笑ん マリオンは目を伏せた。 「私は…望んでいない。王位など、私には重すぎる」 マリオンはしばらく黙っていた。 その沈黙の中に、彼の葛藤があった。 王の器ではないという自覚。 だが、民の期待を裏切ることへの恐れ。 そして、母ロクサーヌの執念に、自分が巻き込まれているという痛み。 「…それで、騒ぎは収まるのですか?」 彼はようやく口を開いた。 「ええ。あなたの言葉が、最後の鍵です」 エミリウスは確信を込めて言った。 「我々が場を整えます。王妃の手が届かぬ場所で、王の耳に届くように。 あなたはただ、真実を語ればいい」 その夜、王都の中央広場に、静かに人が集まった。 騒ぎを煽る者はおらず、ただバルコニーに立ったマリオン王子の言葉を待つ者だけがいた。 マリオンはバルコニーに立ち、深く息を吸った。 そして、静かに語り始めた。 「私は、王位を望んでいません。 それは、私の器ではないと、よく知っています。 ですが――この国のために、私ができることがあるなら、 それには、命をかけて尽くします。です”王太子補佐”の座に恥じぬよう!」 その言葉は、風のように広場を包んだ。 誰も叫ばず、誰も騒がず。 ただ、静かに頷いた。 こうして、騒動は収束した。 王妃の策は、民の静かな理解によって封じられ、 王の疑念も、息子の誠実によって和らいだ。 盤は壊されなかった。 ただ、整え直されたのだ。 そしてその中心には、王冠ではなく、言葉を選んだ王子が立っていた。 ――3日後 王宮は祝賀の空気に包まれていた。 セリウスの王太子即位式典と、マリオン王子の”王太子補佐着任式が同時に行われたのだった。 セリウスの金糸の衣が揺れ、マリオンは銀糸の衣を身にまとい、両者の忠誠の言葉が交わされる。 だが、その荘厳さの奥に、誰も気づかぬ火種が潜んでいた。 式典の最中、突如として騒ぎが起きた。 王妃ロクサーヌの協力者が、王宮内に潜入し、式典の進行を妨害したのだ 警備が乱れ、民衆がざわめき、王宮のは混乱の渦へと突き落とされた。 その混乱の中で、マリオンは静かに壇上へと歩み出た。 銀糸の衣が風に揺れ、彼の瞳は冷静そのものだった。 「落ち着いてください。王宮の安全は確保されています」 その声は、堂々としていて、とても落ち着いていて騒ぎを鎮めるには十分だった。 民衆は彼の言葉に耳を傾け、騒ぎは次第に静まっていった。 その姿に、王は動揺した。 病に伏しながらも即位したセリウスの背後で、民衆の信頼を集めるマリオン。 『マリオンにあんな一面があったとは――もし彼が王位を望むなら……』 その思いが、再び王の胸に迷いを生んだ。 その瞬間を、シーリウスは見逃さなかった。 彼はマリオンの前に現れ、静かに耳元で囁いた。 「あなたは、王太子になりたいのではないのか?常に兄たちの影に身を隠し、兄達を敬い続けた――でも自分で気づいているんだろう?自分は兄たちと遜色はないと。影に身をやつしてる毎日に癖癖としてると、王太子にふさわしいのは自分だと!――さぁ、縛りは無くなった。己の想いを解き放て!」 その言葉は、マリオンの内に眠る魔王因子を揺さぶった。 理性の仮面の下で、欲望と焦燥が交錯する。 ドクンと大きな胸の鼓動が耳の中で木霊した。 そして――因子は暴走した。 「おおおぉぉぉぉっ!」 マリオンは咆哮をあげ、体から衝撃波を飛ばす。 周囲の魔力が制御不能に陥り、空気が震えた。 魔導士たちが驚愕し、王宮の結界が軋む。 マリオンの瞳は、感情を失ったように冷たく光っていた。 「おかしいです!エミリウスさん!マリオン王子の魔法回路の形が変わりました!」 メイアースが、杖で結界を作りながら、マリオン王子に、起こってる異変を告げた。 レオニスは、父王を庇いながら剣を抜き、メイアースに、問いかける。 「メイアース!マリオンに何が起こっているんだ!?」 「分かりません!こんな現象初めてです!」 戸惑うメイアースにエミリウスは声を張り上げ 「分かってる!私に任せて!」 そう言って、エミリウスは飛行魔術を使い、マリオン王子の元に飛んでいった。 「やめて!」 その声が、暴走の中心に届いた。 エミリウスだった。 彼女は、机の端に置いた手の記憶を胸に、マリオンの名を呼んだ。 「あなたは、そんな人じゃない。 民の痛みに寄り添っていた、あの夜会のあなたを、私は知ってる」 その言葉は、理性の奥に沈んでいた感情を揺らした。 エミリウスは、彼の頭を抱えるように抱き締めた。 彼女の胸の鼓動が、規則的にマリオンの耳に響いていた。 それは、秩序ではない。温もりだった。 その言葉が、胸の音が、マリオンの自我を呼び戻した。 暴走していた魔力の波動が収まり、空気が静けさを取り戻す。 彼は、ゆっくりと目を閉じた。 「……違う! こんなんじゃない!」 その声は、嗚咽混じりだった。 「私は王位を望まない! 母上の政治の道具でも、兄上たちの影でもない!私は私だ! 望んでこの道を選んだんだ!」 その叫びは、民衆の胸に届いた。 誰もが息を呑み、静かにその言葉を受け止めた。 エミリウスの胸から解放されたマリオンは、自らの意思で強く立ち上がった。 銀糸の衣が風に揺れ、彼の瞳には確かな覚悟が宿っていた。 「母の策略も、王冠も、私には不要だ。 私は、民のために立つ。だが、王にはならない」 その宣言は、静かだった。 だが、誰よりも力強かった。 王はその言葉を聞き、深く頷いた。 セリウスは、咳をこらえながらも微笑んだ。 そして、エミリウスは静かに目を伏せた。 彼女の手は、あの日のまま、彼の中でまだ机の端に置かれていた。 その距離が、彼の心に触れたのだ。 「――マリオン……」 民衆に紛れ、彼の姿を見守っていたロクサーヌは、膝から崩れるように落ちた。 その瞳には、涙が溢れていた。 息子の思いが、彼女の策略を超えて届いたのだ。 その涙は、敗北ではなかった。 それは、母としての誇りと悔いが混ざった、静かな祈りだった。 そして、王宮の空気は変わった。 王冠の重みは、もはや一人の頭上にあるものではなかった。 それは、選ばぬ者の覚悟によって、王国全体に広がっていくものとなった。 その後民衆に紛れていたロクサーヌは、イザークに見つかり、身柄を拘束された。 式典に曲者を侵入させた咎、牢を脱出した咎により、本来は処刑でも、おかしくはないのだが、マリオンの嘆願と、”王子を産んだ功績”もあり、彼女の身柄は王宮の牢獄の最上階にある部屋での一生涯の幽閉で済んだ。 彼女が牢へ送られる時、囚人服に身を包み、それでも、金髪の髪をきっちりと結い上げ、凛と立つロクサーヌの姿は王妃然としていた。 見送りに来たのは、マリオン、エミリウス、レオニス、アジノ、メイアースだった。ガイアスはいつも通り騎兵団の部下の特訓に精を出していた。 「お母様……」 マリオンが静かに声をかけた。 その声には、怒りも反発もなかった。ただ、確かめるような響きがあった。 だが、ロクサーヌはキッと彼を睨みつけ、言葉を叩きつけた。 「私の息子は“王位継承権”を持つ者です。それを放棄したあなたは、私の息子ではありません!さっさと立ち去りなさい!」 その言葉に、マリオンは視線を落とした。 胸の奥が、静かに軋んだ。 レオニスがその場に立ち上がり、ロクサーヌに掴みかかろうとした。 だが、エミリウスとアジノが素早く彼を止めた。 「待って。分かるでしょ?本心じゃないわ。今は、彼女の言葉の奥を汲み取って」 エミリウスの声は、冷静だった。 ロクサーヌは、マリオンに背を向けながら、なおも言い放った。 「マリオン、今日からあなたという息子は、私の中から消えました。精々、兄弟仲良く政をすることね」 その言葉は、冷たく、突き放すようだった。 だが、レオニスの目には、違うものが映っていた。 彼女の手は、わずかに震えていた。 その背中は、強く見せようとするあまり、張り詰めていた。 そして、最後の言葉「兄弟仲良く政をすること」 それは、マリオンを完全に否定するものではなかった。 ロクサーヌは、王家の秩序を守るために、母としての情を切り捨てた。 だが、彼女は知っていた。 マリオンが王位を拒んだのは、弱さではなく、選択だったことを。 そして、その選択が、王国に必要なものだということを。 だからこそ、彼女は冷たく当たった。 王妃として、母として、彼を突き放すことで、彼の道を守ろうとした。 そして、レオニスに目を向けずに、言葉を残した。 「あなたは、兄として、王家を支える者として、彼を見守りなさい。それが、私の最後の願いです」 その言葉は、誰にも聞こえないほどの小さな声だった。 だが、レオニスには届いた。 彼は静かに頷き、マリオンの肩に手を置いた。 「行こう。お前の選んだ道を、俺が見届ける」 マリオンは、母の背中を見つめながら、何も言わなかった。 だが、その瞳には、涙ではなく、決意が宿っていた。 ロクサーヌは振り返らなかった。 その背中は、王妃としての誇りと、母としての痛みを背負っていた。 「ちょっと待ってください」 アジノはみんなから抜け出して、ロクサーヌの、元に戻ると、彼女にそっと耳打ちしてから戻ってきた。 「……母に、何を話したんですか?」 「マリオン殿下に同じ贈り物をしましたよーって。あ!王様の、許可は取ってありますからね。安心してください!」 アジノの言葉に皆クエッションマークを飛ばしている中、彼だけが先立つように意気揚々と歩いていった。 マリオンが、自室に帰ると、そこには垂れ幕がかかったイーゼルが置いてあった。 『マリオン殿下に同じ贈り物をしましたよー』 という、セリフが同じように牢に置かれた布のかかったイーゼルを見つける王妃とマリオン王子の胸に去来する。 2人が同時に布を取ると、そこには銀糸の衣に身を包んだマリオンと、王妃の冠を被ったロクサーヌの姿が描かれていた。 暖かく微笑むロクサーヌの横で、『民の為に政を――』そんな意思を感じさせる、目をした『王太子補佐官』マリオン王子の堂々たる姿が描かれていた。 「――お母様……」 マリオンは、肖像画を胸に涙を流し、同じように牢の部屋では声にならない声を上げて、肖像画に取縋るロクサーヌの姿があった そして、王宮の空気は、静かに変わっていった。 王、そして王太子、レオニス、マリオンの家族の絆と確固たる王族の姿が確立されていた。 騒動が収まり、王宮は静けさを取り戻していた。 民衆は帰路につき、王は玉座へ戻り、マリオンは自らの道を選んだ。 だが、その夜、地下のシーリウスの私室では、別の戦いが続いていた。 シーリウスは、一人、魔導陣の中心に座していた。 周囲には、砕けた魔導石と、焼け焦げた記録装置の残骸。 空気は冷たく、魔力の残響がまだ壁に染みついていた。 彼の指先は震えていた。 それは、魔力の暴走によるものではない。 因子の波動が、彼の意識の奥にまで入り込んでいたのだ。 「……静かにしろ」 シーリウスは、誰にともなく呟いた。 その声は、かすれていた。 まるで、自分自身の中に潜む何かを宥めるように。 「私は、まだ壊れる訳にはいかない……」 彼は額に手を当て、深く息を吐いた。 意識が、波にさらわれるように揺れていた。 理性が、少しずつ削られていく。 だが、彼はまだ抗っていた。 魔導陣の中心に座り、記録を手繰り、思考を繋ぎ止める。 自我を保つための、最後の防壁。 「――くっ……うっ!」 ガリッとシーリウスは何かを抑え込むように石畳を引っ掻いた。 床には指の形のまま血の跡がのこる。 彼は苦しみを飲み込んで、顔をあげた。 長い髪の間から深灰色の瞳が妖しく光る。 「さぁ――ゲームを終わらせようか?エミリウス……」 そう絞り出すようにつぶやくと、彼はまたどこかへと歩き出した。
ゲームの始まり
沈黙が、刃のように場を裂いた。 誰もが息を潜める中、ただ一人、エミリウスだけが一歩、また一歩と男に近づいていく。 「……ここにあなたがいるってことは、もう……時間がないのね」 独白のような言葉が、彼女の唇からこぼれ落ちた。 シーリウスは、その圧倒的な存在感とは裏腹に、柔らかく、どこか愛しげな眼差しで彼女を見下ろしていた。 まるですべてを見透かすように。 「わかったわ、シーリウス。あなたの“ゲーム”に乗るしかなさそうね」 対峙するエミリウスの青い瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。 「ゲームを始めましょう。結末は――お楽しみよ」 彼女は次第に自分を取り戻し、背筋を伸ばすと、少し屈んだシーリウスの首に腕を回し、その唇に自らの唇を重ねた。 その唐突な行動に、一同は言葉を失い、ただ見守るしかなかった。 「お互い、楽しみましょう」 シーリウスから離れたエミリウスは、挑むような眼差しで微笑みを浮かべる。 シーリウスの瞳には、愉悦の兆しが宿っていた。 そして、すべてを飲み込んだようなエミリウスの視線と交差し、絡み合う。 ふっと口元に笑みを浮かべ、シーリウスは皆に背を向ける。 「がっかりさせないでくれよ、愛しのエミリウス」 そう言い残し、シーリウスは霧のようにその場から立ち去った。 「エミリウス! 今のは……なんなんだ!?」 恋人たちのやり取りを目の当たりにし、レオニスの胸には言いようのない感情が渦巻いていた。 その熱は怒りとも嫉妬ともつかず、ただ彼の心をじりじりと焦がしていく。 他の仲間たちもまた、言葉を失ったまま、複雑な面持ちでエミリウスを見つめていた。 「話をするわ。ついてきて」 短くそう告げると、エミリウスはくるりと身を翻し、迷いのない足取りで城の外へと歩き出した。 その背中からは感情の一切が読み取れず、ただ静かな決意だけが滲んでいた。 促されるように、レオニスを含む仲間たちは、言葉もなくその後を追った。 彼女の沈黙が、何よりも多くを語っているように思えた。 ――その影で、王宮にはどす黒い陰謀が垂れこめていた。 日に日に衰弱していく王の容態を受け、王妃をはじめとする王侯貴族の間では 「早急に次期王を推戴すべきだ」 という声が高まりつつあった。 アルセイン王家には、王位継承権を持つ三人の王子がいる。 第一王子・セリウス・アルセイン。 初代王妃の遺児であり、王族として恥じぬ魔力と高い学識を備えている。 王太子としての資質に不足はないが、何より健康面に恵まれず、床に伏すことが多いため人前に出る機会が少なく、彼を推す貴族は多くなかった。 第二王子・レオニス・アルセイン。 王族に求められる魔力こそ持たないが、それを補って余りある身体能力と豪胆な性格を持ち、王の寵愛も厚い。 その人柄から自然と民の信頼を集め、宰相アグナス・ヴァルトの後見もあり、最も王座に近い人物と目されている。 しかし、レオニス自身に権力欲はなく、冒険者として生きることを望んでおり、奔放な行動も目立つため、王太子擁立の意見は貴族の間で真っ二つに割れていた。 そして、もう一人の有力候補が現王妃ロクサーヌの息子――第三王子・マリオン・アルセインである。 王侯貴族出身の王妃を母に持ち、貴族たちの支持も厚く、王族としての魔力と高い学識を備えている。 しかし、彼もまた権力欲がなく、学者を志している。 問題は、その性格だった。 気弱で心優しい彼は、王としての英断力を欠いていた。 それが、王侯貴族が彼を押し切れない最大の要因である。 つまり、王の器ではないのだ。 マリオン自身もそのことを理解しており、王太子には長子セリウスが就き、補佐としてレオニスが摂政となることを望んでいた。 だが、母ロクサーヌの野望は尽きることなく、マリオンはその母に逆らうことすらできない気の弱さを抱えていた。 王宮の盤上には、静かに駒が揃い始めていた。 そして、誰が最初に動くか――それが、すべてを決っする。 王妃はジリジリと焦りを隠せずにいた。 「王はいつになったら、マリオンを王太子に据える決断をしてくださるのかしら?」 その言葉は誰に向けられたものでもなく、薄暗い私室の空気に溶けていった。 窓の外では、王宮の庭が静かに揺れていたが、王妃の心は嵐のように荒れていた。 王の容態は日々悪化していた。 だが、それは自然の衰えではない。 王妃が密かに買収した侍医が、処方薬に微量の毒を混ぜ続けていたのだ。 急激な死は疑念を招く。 だからこそ、王妃は“ゆるやかな死”を選んだ。 王が退位を決断するまでの時間を、毒と焦燥で削り取る。 だが、思惑通りには進まなかった。 王は頑なに王太子の指名を避け、三人の王子の間で揺れていた。 第一王子セリウスは病弱、第二王子レオニスは奔放、そして第三王子マリオン――王妃の息子は、気弱で王の器ではない。 「このままでは、あの子は玉座に届かない」 王妃は唇を噛み、机の上の書簡に目を落とした。 そこには、ある名が記されていた。 星霜の賢者――シーリウス。 エルナ族の末裔とされ、その知識と魔力で、諸国を放浪し奇跡を数多く残した今は消息不明とされていた男。 王妃は密かに彼を召喚し、私室に招いた。 「あなたの知恵が必要なの。盤を整えて。マリオンを王太子に据えるために」 シーリウスは静かに現れ、王妃の言葉を聞き終えると、薄く笑った。 「盤上の駒は揃っています。あとは、誰が最初に動くか――それだけです」 その夜、王宮の空気は一層冷たくなった。 そして、王妃の策略は、静かに動き始めた。 エミリウスは宿屋の自室に皆を招き入れた。 窓の外には、夜の帳が静かに降りていた。街灯の灯りが遠くに滲み、風が木々を揺らす音だけが、宿の一室に微かな気配を残していた。 ランプの柔らかな光が、木製の壁に淡い影を落とす。誰もが言葉を探しあぐねる中、エミリウスは窓辺の椅子に腰掛け、頬杖をついたまま外を見つめていた。彼女の背中は、どこか遠くを見ているようで、誰もその表情を読み取ることができなかった。 窓の外には、夜の帳が静かに降りていた。街灯の灯りが遠くに滲み、風が木々を揺らす音だけが、宿の一室に微かな気配を残していた。 ランプの柔らかな光が、木製の壁に淡い影を落とす。誰もが言葉を探しあぐねる中、エミリウスは窓辺の椅子に腰掛け、頬杖をついたまま外を見つめていた。彼女の背中は、どこか遠くを見ているようで、誰もその表情を読み取ることができなかった。 レオニスが問いかけようと口を開きかけたが、エミリウスの気配に押し返されるように、口を噤んだ。彼女の沈黙は、どんな言葉よりも重く、誰もがその言葉を待つしかなかった。 やがて、エミリウスはゆっくりと口を開いた。青い瞳が、街の灯りに照らされて静かに揺れる。 「あの男の話をする前に……これから、エミリウス・レイヴェルのある物語を話すわね」 宿の一室。ランプの灯りが揺れる中、エミリウスは窓辺の椅子に腰掛け、静かに語り始めた。声は独白のように、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。 「風の大陸にある、セレナ=ヴェイル公国の貧民街に、一人の孤児の少女がいました。彼女は、ある理由で国を離れなければならなくなり、あてもなく放浪して……たどり着いたのは、炎の大陸にあるソル=マグナ公国だったのでした」 その語り口は、まるで他人の人生をなぞるように淡々としていた。 「エミリウスは、当時十二歳。金も、家も、家族もなく、ただの孤児として街を彷徨っていた。口にできるのは、オアシスの水か、捨てられた残飯くらい……そんな生活を続ける彼女は、ある日、食べ物を求めて『炎の神殿』に忍び込んだのです」 彼女の瞳は、今もその夜の闇を映しているかのようだった。 「供物に手を伸ばしたところで神殿の者に見つかり、捕らえられて……長巫女アゼリアの前に連れていかれました。アゼリアは、彼女の姿を見て気の毒に思ったのか、巫女見習いとして神殿に引き取ることにしのです。そして、彼女に”炎の儀式”を施し、その身に”炎の加護の烙印”を刻んだのでした。」 『……炎の烙印』 ぽつりと、メイアースがつぶやいた。 「なんだ? その”炎の烙印”ってのは?」 レオニスが小声で尋ねると、メイアースはテーブルの中央に身を乗り出し、囁くように答えた。仲間たちも自然と耳を寄せる。 「”炎の烙印”とは、一生を”炎の精霊・イグナリア”に捧げる誓いとして、”炎の儀式”によって魔法経路に刻まれる加護の印です。授けられるには、基本的に”清い身”であることが前提で……つまり、一生の”貞節”を誓わなければならないんですよ」 「”清い身”とか”貞節の約束”って、具体的にはどういう意味だ?」 イザークが眉をひそめて問いかける。 「例外もあるけど、基本的に神殿に仕える者は異性交渉を禁じられているんです。精霊の加護を受ける代わりに、生涯を精霊に捧げるってこと。もしその誓いを破れば……それ相応の罰があるとされています。」 メイアースの声はさらに低くなり、部屋の空気がひときわ重くなる。 そのとき、ガイアスが顔を真っ赤にしながら、もじもじと口を開いた。 「でも……エミリウスは、その……あの髪の長い男に……接吻をしておったぞ」 沈黙が落ちた。 「そうね」 エミリウスの声が、静かに響いた。まるで他人の話を肯定するように、淡々と。 その一言に、誰もが言葉を失った。彼女の過去と現在が、静かに、しかし確かに交差していた。 その声は、まるで自分自身に語りかけるように、静かで、しかし確かな響きを持っていた。 エミリウスは窓辺の椅子に腰掛けたまま、遠く霞む空の向こうに、過去の記憶を見つめていた。 十四歳の頃――。 アゼリアの友人として紹介された男性、シーリウスとの出会いは、彼女の人生を大きく変えた。 青銀に輝く長い髪。 そして、深く底知れぬ星霜の瞳。 その眼差しに見つめられた瞬間、エミリウスは初めて「恋」というものを知った。 シーリウスもまた、彼女を欲した。 彼女の身に刻まれていた『炎の烙印』に触れるため、彼は自らの右手を炎に焼かせた。 痛みを超えて、彼女に触れたその瞬間――烙印は消え去り、二人は禁を破った。 母のように、姉のように接してくれたアゼリアの元を、何も告げずに去ったことへの後悔。 それでも、エミリウスはシーリウスの背を追い、共に放浪の旅へと踏み出した。 彼の傍で、魔術を学び、剣術を磨き、学問に触れ、生きる術を身につけた。 そして、ある夜――初めて結ばれた夜。 その記憶は、静かな叙情詩のように、彼女の脳裏に優しく蘇り、そして過ぎ去っていく。 窓の外に広がる風景は変わらずとも、彼女の胸の内には、あの夜の星々が今も瞬いていた。 そして、紡がれる彼女の物語を、誰も言葉を挟まずに黙って聞いていた。 エミリウスの声は静かだったが、その響きは確かに空気を震わせていた。 「そして……ある日、シーリウスがわたしに提案したの」 彼女の時間は、あの日へと遡っていた。 思い出すだけで背筋が凍る、あの言葉が脳裏に蘇る。 ――それは、夜の帳が降りた静かな森の中だった。 焚き火の揺らめきが彼の横顔を照らし、星々が沈黙の証人となっていた。 シーリウスは、炎を見つめながら言った。 「どうやら私は、終わりを迎えそうだ。 過去に封印した魔王因子が、今にも封印を破ろうとしている。 封印が破れれば、私は魔王と化し、すべてを滅ぼすだろう。 エミリウス……君の存在も、記憶も、何もかも忘れて、私は魔の性に飲み込まれ、世界を破滅へと落とす。 だから、エミリウス……君とゲームをすることに決めた。 世界を賭けたゲームを始めよう。 ――君が私を殺して、世界の安寧を守るか。 それとも、私が魔王因子に飲み込まれ、己の性に従い、世界が崩壊していく様を見守るか。 二つに一つだ。愛するエミリウス……君が決めるといい。 安寧か――滅亡か……」 その言葉を聞いた瞬間、彼女の世界は音を立てて崩れた。 愛していた人が、自らの破滅を語り、彼女にその命を託すという現実。 それは告白ではなく、選択だった。 そしてその選択は、彼女の心を引き裂いた。 焚き火の音だけが、沈黙の中で燃え続けていた。 エミリウスは、静かに口を開いた。 彼の言葉――世界をかけた選択の記憶を、仲間たちに告げる。 誰も口を開かず、ただ彼女の声に耳を傾けていた。 その沈黙は、彼女に課された重さを、誰もが理解していたからだった。 「……わたしは、気づいたらイザークの宝物庫から、旅に必要なものをかき集めて逃げ出していたの」 声は震えていなかった。けれど、その言葉の奥にある感情は、誰の胸にも届いた。 「彼の中に潜む”魔王因子”を消し去る方法を探す旅――そう言えば聞こえはいいけど、ただの言い訳だったのよ」 エミリウスは、自嘲するように微笑んだ。 その笑みは、過去の自分を許せないまま、それでも前を向こうとする者のものだった。 焚き火の灯が、彼女の横顔を揺らめかせる。 誰も言葉を返さなかった。 ただその場にいた全員が、彼女の物語の続きを、静かに待っていた。 た。 「でも、運命って言葉は嫌いだけど……逃げられないものって、あるのねー!」 沈黙を破るように、エミリウスが明るく言った。 彼女は笑顔を浮かべ、焚き火の灯に照らされた顔を仲間たちへ向ける。 「わたしが彼に唇を重ねたのは、誓いよ。あれは、始まりの合図ね。 ……この“ゲーム”に、わたし達も乗るしかない。盤上は、シーリウスが整えているはず。 なら、わたし達も駒を進めて――勝つしかないわ!」 その言葉には、迷いのない決意があった。 燃えるような青の瞳に宿る光が、焚き火よりも強く、静かに場を照らす。 誰もがその瞳に魅せられ、そして頷いた。 それぞれの胸に、戦う理由が芽生え始めていた。 この物語は、もう彼女ひとりのものではない。 仲間たちの物語として、盤上に刻まれようとしていた。 「盤上とやらは、多分――王位継承権争いだろうな」 レオニスが静かに口を開いた。 その言葉は焚き火の揺らめきに溶けるように、場の空気を変えた。 「彼は王妃の呼んだ客人だ。確か……”星霜の賢者”とやらを、弟のマリオンの師として召喚する願いを、義母上が父上に伝えていたな」 遠い記憶を手繰るように、レオニスは言葉を紡ぐ。 その名が出た瞬間、メイアースが息を呑み、驚愕の声を上げた。 「――”星霜の賢者シーリウス・ノクス・ヴァルディア”ですか!?」 悲鳴にも似たその声に、エミリウスは静かに頷いた。 名前を聞き、イザークも思案するように顎を撫でた。 「何じゃ?あやつは有名なのか?」 大きな体躯には似合わぬキョトンとした顔で、ガイアスが尋ねる。 その問いに、メイアースは目を輝かせながら、熱を帯びた声で語り始めた。 「エルナ族の末裔と噂される稀代の賢者――”放浪の魔力と知恵”の異名を持つ、シーリウス・ノクス・ヴァルディアを知らないんですか!? 定住をせず、各地に数々の奇跡を起こしたと伝説に語られる大賢者ですよ! 知力、魔力、武術――そのすべてにおいて、中央公立図書館の七大司書ですら足元にも及ばないと噂されているんです! 私が憧れる方の一人です!エミリウスさんの師匠が、あんな有名な方だなんて……!」 メイアースの瞳は、憧れと羨望に満ちていた。 その視線がエミリウスに向けられたとき、彼女は少しだけ目を伏せた。 「”星霜の賢者”の噂なら、多少耳にしたことがある」 イザークが低く、静かに口を開いた。 焚き火の灯が彼の横顔を照らし、その瞳には揺るぎない光が宿っていた。 「弱気を助け、強気をくじく――”正義の大賢者様”って噂では聞いてたんだが、エミリウスの話を聞くと、随分身勝手な男だな」 その言葉には、怒気が滲んでいた。 誰かを裁くような鋭さではなく、誰かを守りたいという熱が込められていた。 「俺だったら……惚れた女に、そんな選択は迫らねぇ」 そう言い切ると、イザークは熱い視線をエミリウスに向けた。 その眼差しは、過去の彼女ではなく、今ここに立つ彼女を見つめていた。 エミリウスはその視線を受け止めながら、何も言わずに微かに笑った。 その笑みは、痛みと誇りを抱えた者だけが浮かべられるものだった。 焚き火の揺らめきが静かに場を包む中、レオニスが真剣な面持ちで口を開いた。 「王室は……父上の具合が悪くなったことを皮切りに、今、あまりいい状況とは言えない状態にある」 その声には、王子としての責任と、ひとりの人間としての葛藤が滲んでいた。 「父上が病に伏すやいなや、”王太子擁立”の声があがり始めてな。今や王侯貴族までが動き出している。これが、シーリウスの言う盤上だとしたら、まるで、動く俺たちは王座を奪い合う盤上の駒のようだ」 仲間たちは静かに耳を傾けていた。 「アルセイン王家には、王位継承権を持つ三人の王子がいる。 長兄――第一王子セリウス・アルセイン。初代王妃の遺児で、魔力も学識も申し分ない。 だが、兄上は残念な事に健康面に恵まれず、床に伏すことが多い。人前に出る機会も少なく、彼を推す貴族は少ないのが現実だ」 レオニスは一息つき、焚き火の炎を見つめた。 「次が……俺だ。第二王子レオニス・アルセイン。魔力はないが、身体能力と胆力には自信がある。 幸いなのかどうなのか父上の寵愛も厚く、なぜ俺なのか知らんが、宰相アグナス・ヴァルトの後押しもある。 民の信頼も、ありがたいことに集まっている。 だが、俺自身に王座への欲はない。冒険者として生きたいと願っている。 そのせいで、貴族たちの間では俺を推す声と否定する声が真っ二つに割れている」 その言葉に、エミリウスはそっと彼を見つめた。 彼の奔放さの裏にある、静かな誠実さを知っていたからだ。 「そして、もう一人。現王妃ロクサーヌの息子――第三王子マリオン・アルセイン。 貴族出身の母を持ち、魔力も学識も備えている。貴族たちの支持も厚い。 だが、彼もまた権力欲がない。学者を志していて、こう言ってはなんだが、マリオンは気が弱くて王としての英断力には欠ける。 気弱で心優しい彼は、王の器ではないと見られている。 本人もそれを理解していて、王太子には長兄セリウスが就き、俺が摂政として補佐することを望んでいる」 レオニスの声は、静かに締めくくられた。 その語りは、王宮の盤上に並ぶ駒たちの姿を、誰の目にも鮮やかに映し出していた。 焚き火の灯が揺れる中、レオニスは沈黙を破った。 その声は低く、しかし確かな重みを帯びていた。 「何より疑問なのは、父上のご病状だ」 皆が彼に視線を向ける。レオニスは炎を見つめながら、言葉を続けた。 「父上は元々、体は丈夫だった。胆力もある。 だが、侍医の治療はまったく成果が見られず、白魔法も効かない。 衰弱していく一方だ。……俺は、これには何か裏があるんじゃないかと踏んでいる」 その言葉に、場の空気が張り詰めた。 誰もが、王の病がただの自然な衰えではないことを、薄々感じていた。 イザークが焚き火越しにエミリウスを見た。 彼女の瞳には、すでに覚悟が宿っていた。 そして、彼自身もまた、気づき始めていた。 これはただの王宮の権力争いではない。 これは――シーリウスが仕掛けた「ゲーム」の盤上なのだ。 「駒は揃っている。王妃、王子たち、そして……俺たちもだ」 イザークは静かに呟いた。 その言葉に、アジノが眉をひそめ、メイアースが息を呑む。 「シーリウスは、盤上を整えている。王の病も、王妃の動きも、すべて彼の意図の中にある。 そして俺たちは、知らぬ間にその盤上に立たされている」 エミリウスは立ち上がった。 その瞳は、かつてシーリウスに向けたものとは違う。 迷いを越えた者の、静かな炎が宿っていた。 「なら、わたし達も駒として動くしかない。 でも、ただの駒じゃない。――選ぶ者として、盤上を揺るがす者として――」 その言葉に、仲間たちは次々に頷いた。 王の病の真相を暴き、王妃の陰謀を止める。 そして、シーリウスの「ゲーム」に、ただ巻き込まれるのではなく――挑む。 物語は、盤上の中心へと進み始めていた。 焚き火の炎が静かに揺れる中、エミリウスはぽつりと呟いた。 「とりあえず、これからどう動くのか……。相手の動きを見ながら、私たちも動くしかないわね」 その声は決して大きくはなかったが、場にいた全員の胸に深く響いた。 迷いを越えた者の言葉には、静かな力が宿る。 彼女の瞳は炎の向こうを見据え、すでに盤上の先を読もうとしていた。 仲間たちはその言葉に黙って頷いた。 それぞれが、自分の駒としての役割を胸に刻みながら―― 「まず、侍医を探ってみよう。父上のお体が心配だ」 レオニスの声は鋭く、場の空気を引き締めた。 焚き火の灯が彼の横顔を照らし、王子としての威厳が静かに滲み出る。 「アジノ、メイアース。侍医に気づかれぬよう動向を探り、父上の薬から治療法まで、すべて洗い出してくれ」 アジノとメイアースは黙って頷いた。 それぞれの役割を理解し、すでに動く覚悟を固めている。 「イザーク、お前は裏で王妃が何をしているのかを探ってくれ。父上に何か手出しをしてこないよう、影の護衛も頼む」 イザークもまた、無言で頷いた。 その瞳には、任務を遂行する者の鋭さが宿っていた。 「ガイアスと俺は、普段通りに行動しよう。こちらの動きを怪しまれてはかなわん」 その言葉に、ガイアスはレオニスを真っ直ぐに見据え、膝を折って礼を取った。 「レオニス王子の仰せのままに!」 軍人としての礼儀が自然と滲み出たその所作に、誰もが一瞬、感心の眼差しを向けた。 そして何より、今のレオニスには、かつての奔放な姿はなかった。 そこにいたのは、王子然とした風格をまとった、ひとりの「指導者」だった。 「そして、エミリウス。君はシーリウスの動向から目を離さないでくれ。 何かあったら、すぐに報告してほしい」 真剣な声でそう告げられ、エミリウスは思わずレオニスを凝視した。 まじまじと見つめられたレオニスは、居心地の悪さに眉をひそめる。 「な……なんだその目は!」 声を上げるレオニスに、エミリウスは唖然とした口調で言った。 「嘘でしょ?バカレオニスが、ちゃんと王子に見える……」 「バカレオニスとはなんだ!?バカとは!お前、一国の王子捕まえて失礼だぞ!」 たまらず叫ぶレオニスに、エミリウスは平然と肩をすくめて言い放った。 「だって、遺跡探索の時は正直、足でまといだったじゃない」 その言葉に、レオニスを除く全員が、無言で頷いた。 焚き火の灯が揺れる中、場には一瞬だけ、穏やかな笑いが広がった。 だがその笑いの奥には、確かな絆と、これから始まる戦いへの覚悟が、静かに息づいていた。 翌日から、アジノは王の肖像画を描くという王命を受けたとして、リアリティを増すために王の普段の生活をスケッチするという名目で、王の執務室や、寝室へ堂々と出入りを始めた。 そこで行われる、王の食事や治療風景を精密にスケッチしていった。 メイアースは、白魔道士と、『中央王立図書館』の『副司書』として、王の健康管理を任され、今までの治療方法の記録を調べたり、侍医の治療から食事の献立までつぶさに調べあげた。 また、王に回復魔法を施す王直属の白魔法使いの術を見守り、術式や魔導回路に異常は見られないかを念入りに観察した。 イザークは、隠密部隊の総隊長として、路地裏や街中、宮中の至る所に部下を配置し、隠密部隊ならでわの動きで 噂話や機密情報を集める傍ら、王妃と、表に全く出ないシーリウスの動向に目を光らせ、王の影の護衛を務めた。 特に王の寝所では、怪しい者は全て排除する覚悟で護衛に当たっていた。 アジノは、絵筆を手に王宮の回廊へと向かう。 侍医の動向を探るため、彼は絵師としての立場を利用し、王族の肖像画制作を名目に医務室の近くへ出入りする。 絵の中に密命を隠す技術を持つ彼は、侍医の手元にある薬草や処方を、絵の細部に記録していくつもりだった。 メイアースは、白魔法使いとして王族の健康管理を任されている。 彼は侍医の補佐という名目で医務室に入り、王の治療記録を確認しながら、魔力の流れを診る術を使って病の正体を探る。 白魔法が効かない理由――それがシーリウスの術によるものかどうかを、彼は誰よりも知りたかった。 イザークは、影のように王宮の裏路地へと消えていった。 王妃の動向を探るため、彼は隠密部隊の技術を駆使し、王妃の私室や侍女たちの会話を密かに記録する。 同時に、王の寝所の周囲に目を光らせ、誰かが不審な動きを見せれば即座に排除する覚悟でいた。 ガイアスとレオニス、エミリウスは、あえて普段通りに振る舞た。 ガイアスは、己の騎兵隊を鍛えるべく、普段と変わらず訓練を隊員たちと重ねる毎日。 レオニスは、王室鍛錬場で、護衛兵士相手に剣を振るって鍛錬を重ね、たまにクエストに繰り出すエミリウスにくっついては、手伝うつもりが何かしら邪魔になり、その度彼女に正座させられ、こっぴどく叱られ、時にはどつかれたりしていた。 エミリウスは、『冒険者ギルド』で、クエストを受けつつ、レオニスに邪魔されて、彼を説教し、時にはどついたりして、表向きは平凡な毎日を送っていた。 しかし、影では誰よりもシーリウスの動向に目を光らせていた。 盤上は『王位継承権争い』――駒も揃ってる。 この状況でどう動くのか…予想もつかないまま、内心ジリジリと焦燥に胸を焦がしていた。 五人は時々エミリウスの部屋に集まって定例会を開いていた。 「じれったいな」 ただ何も無く過ぎていく毎日。しかし何かは動き出してる気配はするが、手を出せずにいる自分にレオニスは、焦りを感じて歯噛みした。 王位継承権争いは膠着状態で、進展のないまま王侯貴族が己の権力争いを続けている。 そして、アルセイン王の容態は目に見えない速さだが、確実に弱まっていた。 アジノも首をかしげながらスケッチブックを取り出し、ページをめくりながら 「見てのとおり、特別な異変はないよ。王の侍医が容態を見て治療する様子も特におかしい所はなく、食欲もあまりなさそうだが、それでもしっかり、少しでも召し上がってる……しかし、絵で見てもわかるように、王の顔色、から顔つき、体つきは、徐々にではあるが悪化している。」 イザークが、アジノのスケッチブックをめくりながら 「よく描けているもんだ。」 と感心しながら眺めた。 アジノはテーブルに垂れ下がった赤いマントをバサりと肩に掛け直すと、少し自慢げに 「これでも代々王室直属の絵師・ルクヴェール一族の次期当主だよ?ナメて貰っちゃ困るね!」 と鼻を膨らませた。 アジノの様子に部屋の空気が少し和んだ。 次にメイアースが口を開く。 「侍医の治療薬、処方まで見ましたが、不信な点はありませんでした。白魔法医療も、魔導回路に以上はなく、通常施される『精霊の加護』の強化魔法、魔力を安定させて体の抗体を強める『魔導回路回復魔法』そして、病魔を祓う『身体回復魔法』どれも正常に施され、王の体にある魔導回路にも正常に起動されています」 メイアースも、自身のレポート用紙の束をいくつかめくって、成果を報告した。 そんな中、イザークが鋭い視線をメイアースに向けて、慎重に口を開いた。 「お前さん、『サナーレドロップ』って薬草を知ってるか?」 射抜かれるようなイザークの視線に縮み上がりながら、 メイアースは、自分のレポート用紙をめくる手を止めた。 「”サナーレドロッ”ですか?もちろん知ってますよ。怪我の治癒に使われる古代植物でなかなか手に入りませんが……それが何か?」 突然出てきた薬草名に、メイアースはキョトンとした表情を浮かべイザークを見つめ返す。 「実は部下の報告によると、街の裏路地にある、まぁ、正直真っ当とは言えないであろう薬店でこの”サナーレドロップ”を腕に包帯を巻いた女が買って行ったらしいんだが、あまり市場に出回ってない薬草の上にどうやら、マントから見えた女の服装が侍女の制服だったらしい。しかし、治療に使われるなら……」 と、イザークが何か考え込むように腕を組んだ瞬間、メイアースはあ!と、声を上げた。 「確か……!」 と、メイアースは自分の魔導書を広げ、レポート用紙と組み合わせる。 「あった!」 メイアースは、魔導書を広げ、机の上置くとあるページを指さした。 そこには『サレーナドロップ』と書かれており 「この薬草は古代から外傷の薬として重宝されていたんです!しかし、その取扱と、入手の難しさに、薬店からはほとんど姿を見れなくなった、古代草なんですよ。 今は白魔法も発達してますし、安価で手に入りやすい傷薬が市場に出回ってますからね!見てください。『サレーナドロップ』は、本来傷にすり潰して、患部に塗布するものなんです。 しかし……ここの部分をよく読んでください。 ”サレーナドロップ”は、クラレ草・トクニム・アドヴァレースや、レフキェンダース等の強壮作用のある薬草と併用して煮詰めると、微弱ながら毒性を発します。 その症状は”即効性は無いが服薬者の病勢を強化し、体内に蓄積され、臓腑の疾患を引き起こし、頭痛、倦怠感などの症状が出て…”」 メイアースが口を噤むと 「”服薬者を徐々に死に至らしめる…”父上の症状じゃないか!」 メイアースは頷く。 「もちろん薬草だけじゃありません。」 「”トニック”・”ロボランス”・”フォルティス”系の回復魔法が施されてたら病弱は悪化する一方ね」 メイアースの言葉に続けて、窓の外に目を向けながら、エミリウスが呟いた。 「クラレ草やアドヴァレースが王の薬に使われています。更に”トニック”の魔法も施されていますね……」 レポート用紙を捲りながら、王の医療記録と、魔導書を照らし合わせながら、メイアースが独白のように言った。 「しかし……王妃が”サレーナドロップ”を知っていたとは……それにどうやって、僕たちの目を盗んで”サレーナドロップ”の液体を?」 驚きを隠せないメイアースに、エミリウスはボソッと口を開いた 「シーリウスよ」 と、その名を口にした。 「彼は言ったでしょ?”盤上は用意した”と……それが”王位継承権争い”だとしたら、国王も、王妃も――レオニス、あんた達王子達も格好の駒だわ。自分で”駒”だと認めたでしょ?」 エミリウスはこともなげに言い放った。 そして、首を傾げながら魔導書を見つめるメイアースに 「王宮の食事は色んな人間の手を通って、王の口に入るわ。元々薬草の汁なら毒薬反応は示す事の方が稀よ。」 と、メイアースに言うと 「面白いじゃないの……!このわたしを駒にして、ゲームを始めたこと、アイツに後悔させてやるわ!」 エミリウスは、まるで見えないシーリウスの胸ぐらを掴むような勢いで窓枠を掴むと燃える瞳を皆に向けた。 「イザークのゲームに乗ったからって思い通りに動いてやるもんですか!皆もそうでしょ?あんた達が黙って人の指示で、動くタマじゃ無いって事は遺跡のクエストで旅してよくわかってるわ。」 エミリウスは、ニヤリと口元を歪ませると皆を見回して 「黙って言いなりに動くわけないわよね?」 と、確かめるように皆に言った。 皆も笑みを浮かべて、頷く。 「さー!”思い通りにならない駒”として、番上の上で暴れるわよ!」 エミリウスの決意あるかけ声にみんなは 「おう!」 と声をかけあって、シーリウスと王妃に立ち向かう決心を新たにした。 皆が解散する部屋の中で、イザークだけが残った。 「何?なんか用?」 訝しげに問いかけるエミリウスにイザークは 「ちょっと、これから俺と城までデートしね?」 と、彼女の耳に囁くように耳打ちした。 「はぁ!?デート!?」 イザークの突然の申し出にエミリウスは、素っ頓狂な声を上げる。 「あんたねー。これから何が起こるか分からないってこんな状況で何を……」 と、言いかけてなにかに気づく イザークは、優雅に礼をすると 「それでは”王の間”まで、ご案内致します。お嬢様」 と、軽くウィンクして手を差し出す。 エミリウスは、その手を取って夜の帳が降りた室内をイザークと共に後にした。 「まさか、貧民街にある古代水路が王宮の水路と繋がっているなんね……」 初めて『空中階段』を使わずに王宮の水路を、イザークと共に歩くエミリウスの声が水路に僅かに反響する。 「この王宮は古代遺跡あとの上に立てられてるからな。下町にも遺跡あとが、ゴロゴロあるだろ?そんな遺跡あとのの一部と繋がってるんだよ。足元気をつけろ。滑るからな」 イザークは後ろにエミリウスを連れて、王宮内部の隠し通路を歩いていた。隠し通路には転々と、ろうそくが灯り、淡い光で通路内を照らしていた。 イザークは、なんの迷いもなく、影が滑るようにエミリウスを気にしながら、王宮通路内を二人で歩いていた。 2人は水路から遺跡の残骸を抜け、言葉を交わすことなく、王宮内部へと足を運んでいた。 エミリウスは、自分のことやイザークの事をあまり詮索せず、静かに寄り添うように行動するイザークには好感が持てた。 「あたしと、シーリウスの事、聞かないの?」 不意に沈黙を破って、エミリウスはイザークに問いかけた。 イザークは言葉が詰まった。本当は聞きたいことが山ほどある。でも、それを根掘り葉掘り聞いてどうする? 彼女に、科せられたゲーム。 元恋人と戦う覚悟を決めた彼女――どれも容易に聞いてはいけないものだと感じ取っていた。 「過去のアンタに興味は無いさ。あんたがなんと言おうと、あの野郎なが言うゲームとやらは始まってるんだろ?だったら、そのゲームとやらに乗っかって、”駒”として、俺は奴の思い通りにならないジョーカーとして動いてやるよ。それが、あんたの望みでもあるんだろ?エミリウス」 一瞬足を止めて、振り返りざまにエミリウスにそうなげかけた。 輝石のような緋色の瞳には、優しさと覚悟が揺らめいていた。 その瞳にエミリウスは、驚くように目を見開くと、口の端に笑みを浮かべて 「そうよ。期待してるわイザーク」 というと、彼女も穏やかな陽光のような優しい光を湛えた瞳でイザークを見返した。 彼女の笑みにシーリウスは口角を上げてニッと笑った。口の端から犬歯が零れる。そんな親しみを感じさせる笑顔だった。 「さ……お嬢様。そろそろ出口だぜ。」 イザークがそういうと、何が仕掛けを引いた 『ガコン』 と音がして、石壁と思っていた場所がスライドして開く。 石壁の扉の向こうは『王の間』に、繋がっていた。 エミリウスが扉を潜ると、石壁は大きな本棚の裏であることがわかった。イザークは順番に本を動かす。すると、本棚は横にスライドして、隠し通路の入口を塞いだ。 「ようこそ……エミリウス・レイヴェル……」 柔らかいが、重圧のある威厳が宿った声が、室内に広がった。 エミリウスは、王座に鎮座する全ての大陸国家を取りまとめる中央国家の頂点に君臨する『セオリス王国』国王・アレックス・アルセイン王の前に立っていた。 エミリウスは慌てて膝を折り、正式礼儀をとった。 続けて、エミリウスの後ろで、イザークが、同様に礼をする。 アルセイン王は、魔導繊維でできている王服を着て、王冠を被り、黒目がちな瞳を携えていた。 たくさんのクッションが、王座の背に、置かれ、アルセイン王は、目に見えて憔悴仕切っていた。 おちくぼんだ眼窩、深いシワが刻まれた顔、やつれきった顔に、筋肉の衰えが見える手足。 それでも王の威厳を損なうことなく、背を伸ばして悠然と玉座に腰掛けていた。 「密命により、イザーク・カルデロ、エミリウス・レイヴェルと共に王に拝謁致します」 キリッとした、王子でも通じるような口ぶりで、イザークはそう言うと、深く礼をした。 「いきなり呼び出して、驚いたであろう……エミリウス」 王は優しく語りかけると、濃い茶色い瞳で彼女を玉座から見下ろした。 「いえ、アルセイン国王に拝謁出来ましたこと、光栄に存じます」 そう、例に乗っ取った挨拶を交わすエミリウスに、王は小さく笑い声を上げた。 「形式ばった挨拶はよい。今日はちと、お主に頼みがあって、そこのイザークに連れてきてもらったんだよ」 齢40を過ぎた王は、壮年の面影は今は見る影もなく、実年齢より年嵩に見えた。 しかし王は、病の進行を示すかのように時々咳をしながら、優しい瞳でエミリウスを見つめた。 「君は、セレナに少し似ているね。色は違うが、そのアーモンド型の瞳や、なにか言いたげに薄く開かれた唇が……彼女も風の大陸の出身だったかな……」 アルセイン王アレックスはエミリウスを見ながら、遠い記憶を遡って、思い出を彼女と重ねていた。 「……は?」 そんな王の独白めいたつぶやきにエミリウスは思わず声をかけた。 王はすまなそうに笑うと 「いや、ちょっとした昔を思い出していたんだよ」 と、どこか懐かしむ視線を宙で漂わせていた。 そんな王の様子をエミリウスとイザークが見守っていると、その視線に気づいたのか、王はハッとして咳払いを一つすると 「エミリウス・レイヴェル」 と、改めて重々しい口調で彼女の名前を呼ぶ。 「はっ!」 さらに礼を深くしてエミリウスが答えると 「これから、其方に密命を下す。第二王子レオニスの、護衛をせよ」 「――は?」 王の命に、エミリウスは思わず聞き返した。 こう言ってはなんだが、レオニスはお馬鹿だが、身体能力が高く、剣の扱いも熟練していて、感も鋭い。 自分の身くらい自分で守れそうなものだか… とエミリウスが思っていると王は言葉を続けた。 「マリオンの勉学の師として、”星霜の賢者”を王妃が招いたのだが、あれをどうしても儂は信用出来ん。レオニスには其方も気づいておろうが、魔力がない。唯一使える”魔剣・翼の剣”を与えているが、肝心のところでどうもあやつは抜けているところがあってな。魔法戦に持ち込まれたり、陥れられたらどうにもならん。それで、エミリウス、イザークはレオニスの護衛を頼みたい。」 確かに父親。よく息子を見てる。 エミリウスは、レオニスの欠点を上げて息子を気遣う父親の姿に影で小さく笑った。 レオニスも同様に王から、顔を背け小さく肩を震わせている。 「……どうした?何かおかしなことでもあるのかな?」 不遜と捉えかねられない二人の反応を見て、アルセイン王は瞳を少し伏せて、二人に声をかけた。 「自分でも親バカなのはわかっておる。しかし、レオニスは、わしの青春の結晶だ。どうにも儂はあの子が愛おしい。分かった上での命令じゃ」 二人の心中を察し、王は少し顔を紅潮させると、恥ずかしさを隠すため、咳払いをひとつした。 その咳払いが、二人を現実に引き戻す。 また2人が、深く頭を下げると声を揃えて 「密命……賜りました。陛下」 と言うと、アルセイン王は、少し口の端を上げて笑みをつくると 「エミリウス・レイヴェルには、王子護衛の為、王宮への滞在を命ずる」 「――え!?」 アルセイン王の考えもしなかった命令に、エミリウスは驚きの声を上げる。 イザークも何か言いたげだったが、王はそれを手で制し 「仮にも王位継承権を持つ王子の護衛じゃ、片時も離れず、その身の安全を確保するのに、街からの通いは難儀じゃろうて、其方の部屋を王子の部屋の近くに用意させよう。2人して、しかと王子を守るように」 王の打診に断ることができようか? エミリウスと、イザークは深く礼をして 「王のお心のままに」 と、快諾すると、立ち上がり、もう一度礼をしてその場を後にした。 「なんか言いたげじゃな。アグナス」 王が声をかけると、衝立の裏から、宰相アグナス・ヴァルドが姿を現した。 宰相アグナスは、あごひげをに手をやり、毛を撫でつけるような上下させると少し厳しい目線で2人が、消えた扉に視線をやり 「確かに王子には魔導回路がなく、魔力が、ありません。しかし、剣術、武術は国随一でございます。護衛はイザークと、メイアースの二人で充分では?」 宰相アグナスは不満げに王に進言した。 「なにやらあのエミリウスとやらが、何かしてくれそうで楽しみでな」 そう、イタズラを思いついた子供みたいな様子を見せる王に、宰相アグナスは、呆れたため息をついたのだった。 ――翌朝。 エミリウスは一旦宿を引き払い、イザークと共に城入りした。 今度は空中階段を、使っての正規の入城だった。 それは場内に 「王子に魔剣士の護衛がついた」 という王妃側に対しての牽制であり、シーリウスに対しての宣戦布告だった。 「ちょっと――なによ!これー!?」 王子の事実近くの部屋に通されたエミリウスは、その部屋の大きさ、調度品の豪華さに目を剥いた。 どう考えても護衛の部屋ではない。 その上メイドも二人ついて、どう考えても貴族の令嬢レベルの客人扱いだった。 あまりの待遇の良さに呆気に取られてると、イザークが目を細め 「あのおっさん、やろうとしてる事が、透けて見えるんだよ」 と、小さいながらも忌々しそうに呟いた。 入口で立ち尽くすエミリウスとイザークの前に、レオニスとアジノが姿を現した。 レオニスは、魔導絹の白い上下に藍色のマントを軽やかに羽織り、プラチナブロンドの髪が光を受けてきらめいていた。 その姿は、王子としての品格を如実に表していた。 後ろを歩くアジノは、赤い『アカデミーマント』を肩にかけ、白い絹のチュニックを皮のベルトで引き締めていた。 腰にはパレットホルダーと染料入れ、マジックバックを下げ、濃紺のスラックスが彼の容姿に見事にマッチしている。普段の彼の常装だった。 二人が並ぶと、エミリウスは開口一番、目の前の豪奢な部屋を指さして言った。 「レオン……何?この部屋」 レオニスは満面の笑みで振り返り、誇らしげに答えた。 「あぁ、この部屋か?どうだ?気に入ったか?」 その無邪気な問いに、エミリウスは呆れた顔で肩をすくめた。 「……あのね、普通護衛にこんな豪華な客室を与えるバカがどこにいるのよ!しかもメイド付きなんて、悪目立ちするじゃない!」 レオニスは首を傾げ、まったく悪びれずに言い返す。 「そうか?俺付きの護衛なんだから、これくらいの待遇当然だろ?」 その言葉に、エミリウスは地の底を這うような深い息をついた。 「王子の感覚って、ほんとズレてるわね……」 アジノは苦笑しながら視線を逸らし、イザークは肩をすくめて黙っていた。 王宮の高塔にある書斎。 夜の帳が降り、窓の外には星々が瞬いていた。 その光を背に、シーリウス・ノクス・ヴァルディアは静かに立っていた。 彼の指先が、見えない盤上の駒をなぞる。 セリウス、レオニス、マリオン――王位継承権を持つ三人の王子。 そして、その周囲に集う者たち。 護衛、学者、魔導士、影の者。 すべてが、彼の意図通りに配置されていた。 「ようやく、揃ったか……」 低く、満ち足りた声が書斎に響く。 その瞳は、盤上ではなく、盤の“先”を見ていた。 「王位継承権という盤上。 それに伴い揃った駒たち。 それぞれが己の意志を持ち、動き始める。 ――美しい。実に、美しい」 シーリウスは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。 指先でグラスを回しながら、口元に笑みを浮かべる。 「さあ、始めよう。エミリウス――これはただの争いではない。 これは、安寧と、破壊を“選ぶ者”たちの物語だ。 そして私は、その物語の“語り手”であり、“仕掛け人”である。 君が勝ち、安寧を取るのか、このまま見過ごし傍観者になってしまうのか。実に楽しみだね。」 彼の声には陶酔があった。 だが、それは狂気ではない。 冷徹な知略と、深い確信に裏打ちされた歓喜だった。 ――翌朝。 王宮の厨房に、いつもとは違う空気が流れていた。 銀の鍋に火が灯り、香草の香りが立ち上る。 その前に立つのは、エミリウスとガイアス――毒の混入を防ぐためエミリウスの提案で、レオニスの指示として、エミリウスと料理が趣味のガイアスが、王の厨房に立つことになった。 エミリウスはなれた手つきで包丁を操り、味を整え、数々の料理を披露していった。 意外なのはガイアスであった。 その体躯に似合わず、彼は家からレシピ本を持って、大きな体見合わない小さな包丁を巧みに扱い、数々の家庭料理を作っていった。 王の周りの給仕は皆宰相の息がかかった者に入れ替わり、イザークの監視の元、王の前には次々と暖かい料理が運ばれていった。 ご馳走とはいえ、宮廷料理ではなく兵士と冒険者の作った料理だ。見栄えは劣るがその心のこもったある意味『素朴』な食事を王は久しぶりに心から楽しんだ。 その裏で、メイアースは侍医と共に密かに動いていた。 王の衰弱の原因――『サレーナドロップ』という希少薬草の痕跡を突き止めた彼は、解毒のための魔力調整と薬草調合に取り掛かっていた。 メイアースの白魔法の光が、希望の光のように王に注がれた。 数日が過ぎるごとに、王の顔色は少しずつ戻っていった。 声に力が宿り、目に意志が戻る。 侍医は首を傾げながらも、奇跡のような回復に驚きを隠せなかった。 だが、仲間たちは知っていた。 これは奇跡ではない。 それぞれが役割を果たし、ひとつの命を繋いだ結果なのだ。 王の寝室の窓が開け放たれ、秋の風が静かに吹き込む。 その風に乗って、王の回復を祝う夜会の準備が始まっていた。 だが、誰もが知っていた。 この夜会は、祝福だけでは終わらない。 盤上はまだ動いている――そして、次の一手が迫っていた。 数日すると王は完全とは行かないが、良好な回復をみせ、体つきも少しずつ以前のように骨ばった手足に肉がつき、顔色も良くなっていた。 王の回復を祝う夜会は、王宮の大広間で盛大に開かれた。 黄金のシャンデリアが灯り、絹のカーテンが夜風に揺れる。 楽団の奏でるワルツが、祝福と陰謀の狭間を漂っていた。 エミリウスは、アジノの婚約者・フローラに手を引かれ、鏡の前に立っていた。 淡い藍色のドレスに身を包み、髪は緩やかな編み込みでまとめられ、耳元には月光石のピアスが揺れていた。 太腿には、もしもの自体に備え、密かに仕込んだ短剣がひとつ。 フローラは、貴族令嬢とは思えない人柄の良さと、親しみがこもった接し方をする女性だった。 エミリウスの、髪を整えながら 「もし……私に妹がいたらこんな感じなのかしら?ドレスを替えっこしたり、こうやって髪を整えてあげたり……ほら!できたわ。可愛いから見てご覧なさい」 フローラはエミリウスを鏡の前に押し出して彼女の姿を見て、満足そうに微笑んだ。 フローラは、エミリウスの腕をとって 「今日は姉妹として楽しみましょう!仕事があるのは承知してるけど、時には休んで殿方に面倒事はまかせましょ!」 と、エミリウスと腕を組むように会場へ向かった。 夜会の中、エミリウスはレオニスとイザーク、二人からワルツに誘われた。 レオニスは王子らしい優雅さで手を差し出し、イザークは影のような静けさで彼女を見つめていた。 エミリウスは一度だけ迷い、そして微笑んで二人の手を取った。 三人の踊りは、まるで盤上の駒が交差するようだった。 レオニスの手は温かく、イザークの手は鋭く、どちらも彼女を守ろうとしていた。 だがその均衡は、突如現れた暗殺者によって破られた。 黒衣の影が舞踏の輪に飛び込み、刃が閃いた。 目標はレオニスと、国王だった。 エミリウスは即座に短剣を抜き、王を庇うように立ちはだかり、レオニスが剣を抜きイザークが影のように動いた。 だが、混乱の中でイザークの刃が誤って刺客諸共レオニスの肩を裂いた。 急所を突かれた刺客は絶命した。 血が舞い、音楽が止まる。 「反逆者だ!」 という声が響き、イザークはその場で拘束された。 レオニスは痛みに顔をしかめながらも、何かを言おうとしたが、衛兵たちの動きは早かった。 牢に投獄されたイザークの無実を晴らすため、仲間たちは動き始めた。 メイアースは侍医と共に毒の痕跡を纏め、アジノは晩餐の日のスケッチを纏めてメイアースと共に報告資料を纏めた。 刺客に狙われた王は警備兵とともに自室に避難し、 怪我を負ったレオニスは、侍医の治療と、メイアースの白魔法の処置を受けていた。 貴族たちは千々に散り、夜会は中止となった。 誰もいなくなったはずの会場でエミリウスはシーリウスに呼び止められた。 「踊ってくれるか、エミリウス」 彼は静かに手を差し出した。 その瞳は、すべてを見通す者の深さを湛えていた。 音のないワルツの旋律が2人の間に流れていた。 エミリウスは無言で頷き、シーリウスの腕の中へと身を預けた。 「駒が揃った。だが、盤上はまだ動き始めたばかりだ」 「イザークは誤った。だが、それもまた“選ぶ者”の試練だ。君が何を選ぶかで、この物語は形を変える。――さて、どちらを救う?」 シーリウスの声は、舞踏のリズムに乗って耳元に届く。 その言葉に、エミリウスは目を伏せ、そして静かに答えた。 「私は、誰も失いたくない。だから――私が動く」 シーリウスは微笑んだ。 「ならば、盤上は君のものだ。踊れ、エミリウス。選ぶ者として」 夜会の灯が揺れる中、エミリウスの瞳には、もう迷いはなかった。 イザークが反逆者として牢に囚われた日、王宮は事件に騒然していた。 だが、仲間たちは沈黙しなかった。 彼の無実を証明するため、それぞれが動き出していた。 メイアースは、王に盛られた毒――『サレーナドロップ』の痕跡を調査し、侍医と共に解毒の経過を記録していた。 その資料は、毒の性質と回復の兆候を克明に示していた。 一方、アジノは舞踏会の様子を詳細にスケッチしていた。 誰がどこに立ち、誰が動いたか――その絵は、生きているように当時の事実と時間克明に描き綴っていた。 二人はそれらを一つにまとめ、報告書として王に献上した。 さらに、エミリウスはその場で王を庇った自身の証言を提出し、 ガイアスは護衛としての配置位置と、イザークの動きに不審な点がなかったことを証言した。 そして何より、レオニスが自らの傷を負った経緯を語り、イザークの無実を強く訴えた。 審理の場で、証言と資料が重なり合い、真実が浮かび上がる。 王は静かに頷き、イザークの無罪を宣言した。 晴れて牢からイザークは解放され、仲間の元に戻ることが出来た。 だが、真の敵はまだ盤上にいた。 その頃、アジノはロクサーヌ王妃から、マリオン王子との母子肖像画の依頼を受けていた。 彼は言葉巧みに制作期間を引き延ばし、王妃の寝室、私室、マリオンの部屋、自室へと密かに足を運んだ。 絵師としての出入りを利用し、彼は静かに調査を進めた。 そして、王妃の所蔵する絵画の裏に隠された一枚の羊皮紙を発見する。 それは――王暗殺の計画書だった。 筆跡、印章、日付。 すべてが、王妃の関与を示していた。 アジノはこの計画書を王に渡し、王は王妃にその証拠を突きつけ、王宮裁判を設け、そこで正式に王妃はその地位を剥奪され、王室の牢に幽閉されることになった。 王はエミリウスとガイアスの料理、そして『サレーナドロップ』の解毒を完全にし、以前のように国政を摂ることになった。 王宮の空気は、事件の余波を静かに引きずっていた。 王妃ロクサーヌの陰謀が明るみに出たことで、王宮の秩序は一時揺らいだが、仲間たちの尽力によって真実は暴かれ、王の命も守られた。 その中で、マリオン・アルセインは静かに決断を下した。 事件そのものに関与はなかったが、母の罪の重さに耐えかね、彼は自ら王位継承権を放棄した。 「私は、王の器ではありません」 そう告げた彼の声は震えていたが、確かな意志が宿っていた。 王はその決断を受け入れ、王子としての地位は保たれることとなった。 マリオンは学者としての道を選び、より一層勉学に励むようになった。 彼の書斎には、古代語の辞典と魔導理論の書が積み重ねられ、夜ごと灯る蝋燭の光が、彼の静かな誓いを照らしていた。 王はこの一連の出来事に深く思うところがあり、ついに王太子を定める決心をした。 暫定的に、最初に打診されたのは第二王子レオニスだった。 だが、レオニスはこれを辞退した。 「俺は、王座よりも外の風を選ぶ。兄上こそ、王太子にふさわしい。そして……兄上の補佐はやはりマリオンに、任せたい。父上、もう俺を自由にしてくれ。俺は冒険者になってもっとこの世の中を見てみたい」 その言葉に、王は静かに頷き、第一王子セリウス・アルセインを正式に王太子として任命した。 そして、半ば強引にマリオンに、王太子補佐の役を命じた。 病弱ながらも誠実で、王族としての資質を備えた彼の即位は、王宮に安堵をもたらした。 ――これで終わった。 エミリウス以外の誰もがそう思ってた。 しかし、彼女は知っていた。 これはシーリウスのしかけたゲーム。 そう簡単に終わりはしないと…… そう――影では、まだ盤上が動いていた。 王妃ロクサーヌは、密かに協力者の手によって牢から解き放たれていた。 その協力者は、王宮の監視の目をかいくぐり、自身の屋敷に彼女を匿っていた。 王位継承権を失ったとはいえ、マリオンはまだ王子である。 その可能性を、ロクサーヌは諦めていなかった。 ある夜、彼女は密かに使いを出し、シーリウス・ノクス・ヴァルディアを呼び寄せた。 屋敷の奥、仄暗い客間で、二人は再び顔を合わせる。 「あなたの知恵が必要なの」 ロクサーヌの声は、かつての威厳を失っていなかった。 「マリオンを、再び盤上に戻したい。彼こそが、王にふさわしい」 シーリウスは黙って彼女を見つめた。 その瞳には、計算と興味が交錯していた。 「盤上は崩れたようで、まだ形を保っている。 駒を戻すには、盤そのものを揺るがす必要がある。 ――それでも、あなたは動かす覚悟があるのか?」 ロクサーヌは静かに頷いた。 その頷きは、母としての執念と、王妃としての野心が重なったものだった。 シーリウスは微笑んだ。 「ならば、物語はまだ終わらない。“選ぶ者”が誰であれ、盤上に立つ限り、私は語り続けよう」 夜の帳が深く降りる中、再び駒が揃い始めていた。 そして、王宮の静寂の奥で――新たな一手が、静かに打たれようとしていた。
地獄でアイロン掛け極めます!
洗濯地獄の改革を終えた私は、洗濯場の隅に立ち、澄んだ水面を見つめながら深呼吸をした。空気は少しだけ澄み、亡者たちの表情にもわずかな柔らかさが戻っていた。 その亡者達の落ち着いた顔を見ながら、私はアゼルの方へ振り返った。 「……次はどこに手を入れようか?」 改革の手応えに満足しつつ、私は次なる改善の地を探す。アゼルは小さく笑い、少しだけ考える素振りを見せた。 「洗濯地獄の次は……アイロン地獄かな」 「アイロン地獄?」 私は首を傾げた。洗濯の次にアイロンという流れは家事としては自然だが、地獄での“アイロン”とは一体どんな刑罰という名の『労働』になるのか? アゼルに案内されて辿り着いたその場所は、岩壁に囲まれた蒸気のこもる作業場だった。亡者たちが黙々と、巨大なアイロンを手に、しわくちゃの衣を押し続けている。 だがその様子は、どこか異様だった。 アイロンは高温すぎて、衣は焦げ、蒸気は濁り、亡者たちの腕には火傷の痕が浮かんでいた。押しても押しても、しわは伸びず、むしろ焦げ跡が増えていく。 「……これが、アイロン地獄?」 その壮絶な光景に、私は目を疑った。 アゼルは静かに頷いた。 「罪の象徴である“歪んだ衣”を、熱で伸ばす儀式だ。歪みを正すことで、罪を整える……そういう意味合いだな」 私は焦げた衣を見つめながら、眉頭を寄せた。 「でもこれ、罪を整えるどころか、焼き増してるだけじゃない。火傷して、焦げて、形も崩れて……これじゃ、罪と向き合うどころか、罪に押し潰されてるよ」 アゼルは言葉を詰まらせ、黙ってアイロンの蒸気を見つめた。 私は一歩、作業場の中へ踏み出す。 「よし、じゃあまずは温度調整から。罪を整えるなら、焦がさず、丁寧に。ふわっと仕上げて、心も軽くしてあげなきゃね」 私は作業場の中央に置かれたアイロン台に近づき、焦げた衣をそっと持ち上げた。布地は硬く、焼け跡が黒く広がっている。蒸気は濁り、空気は重く、亡者たちの表情もどこか諦めに満ちていた。 「これじゃ、罪を整えるどころか、余計な罪作りだよ…」 私はぽつりと呟き、アイロンの温度調整ダイヤルに手を伸ばした。案の定、壊れていた。最大温度で固定され、蒸気の噴出口も詰まっている。 「まずは温度を下げて、蒸気を澄ませる。焦がさず、丁寧に。罪も衣も、ふわっと仕上げるのが理想でしょ」 工具箱を開き、私は手慣れた動きでアイロンの内部を分解し始めた。アゼルが驚いたように目を見開く。 「君……また慣れてるな」 「うん。昔、家族の制服とか、よくアイロンかけてた。父のシャツしわだらけでさ。母親に怒られたくないから、必死で伸ばしてた」 私は笑いながら、蒸気の噴出口に詰まった黒い塊を取り除いた。すると、アイロンからふわりと澄んだ蒸気が立ち上る。 亡者たちがざわつき始める。 「……蒸気が、白い」 「焦げない……?」 「これなら、ちゃんと整えられるかも……」 私はアイロン台に衣を広げ、ゆっくりとアイロンを滑らせた。焦げ跡の隣に、まっすぐな布地が現れる。 「罪って、焼き捨てるんじゃなくて、整えて残すものだと思う。形を整えることで、心も整う。もともとそういう儀式のはずだよ。さっきのやり方じゃ、罪に向き合うどころか、衣類をダメにして、罪を重ねる事になっちゃうよ」 アゼルはその言葉に、静かに頷いた。 「君のやり方は、罪を否定しない。でも、未来を肯定してる」 私は少し照れながら、アイロンをもう一度滑らせた。 「じゃあ、次は亡者たちにもアイロンを渡して、整える作業をしてもらおう。自分の罪を、自分の手で整えるの」 亡者たちは戸惑いながらも、アイロンを手に取り、衣を広げ始めた。焦げた布地に、少しずつまっすぐな線が生まれていく。 そのとき、一人の亡者がぽつりと呟いた。 「これは……俺が母に暴言を吐いた日の服だ。焦げ跡は、あの日の記憶だ」 私はその衣をそっと手に取り、焦げ跡の周囲を丁寧にアイロンがけした。 「焦げ跡は消えない。でも、整えることはできる。それが、償いの第一歩だよ」 彼の手元のアイロンが、ゆっくりと動き始める。 作業場の空気が変わっていく。焦げた蒸気の代わりに、静かな熱と香りが漂い始める。亡者たちは、整えられた衣を胸に抱きしめながら、静かに自分の罪と向き合っていた。 アゼルが私の隣に立ち、洗濯地獄のときと同じように、少しだけ笑みを浮かべる。 「君のやり方は、罪を否定しない。でも、未来を肯定してる。……それが、地獄に必要なものだったのかもしれない」 私は彼の言葉に、少し照れながら頷いた。 「じゃあ、次はどこを整えようか。地獄、まだまだ歪んでるよ?」 アゼルは空を見上げた。曇っていた空は、ほんの少しだけ、光を通していた。 「君がやりたいようにやればいい。俺は、それをできるだけ支える」 その言葉に、私は力強く頷いた。 アイロン地獄の風が、ふわりと衣を揺らす。 地獄の空気が、ほんの少しだけ、澄んだ気がした。