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16 件の小説第一回NSS 桜は永遠に知らず
黙祷した。疲れて座り込んだ道路に一匹、小鳥は死んでいた。名もなく、その小鳥の種さえ私には分からぬが、ひどく胸が痛んだ。自身にその悲しみがまだ残っていた。泣いてはやれないが。 ふと思い立った。私は何も知らぬ。だから、小鳥に名をつけてやろうと。私の記憶だけでもこの子を存在を遺しておきたい。だが名付けの経験もなく雪だるまをせいぜい「しろ」と呼んだ程度。 思った以上に苦戦した。面影は女の子だ。花?ピーちゃん?しかし、どれもこの小鳥に合わない。もっと淡くて凛とした名がいい。何時間も考えた。終電など、とうの昔に駅舎へと眠りに向かった。 「さくら。さくらにしよう」 幼馴染の妹の名前だ。男子校に揉まれてきた自分にとって、唯一身近にいた異性。それはもう、うんと可愛がった。何一つとして知らないくせに流行りのコスメなども買ってやった。愛おしいひとの名前なら、きっと。きっと、俺は覚えていられる。 ーーそれが愛おしさを感じるものにつく名前なのだから。 さくら。 お前はどんな声で鳴いたんだ? 恋人はいたのか? 俺が最後でごめんよ。 愛してるなんて宛先不明のものを、 お前の幻想に押しつけたんだ。
わたくしの
わたくしは往ぬ。 貴方の元から。 そう言いかけた唇を塞いで。 あなたは静かに言葉を落としたの。 和歌ひとつ詠まず、 わたくしを抱きしめたから。 「そこで寝てはいけないよ」 そう声をかけられて、目を瞬かせた。 「だぁれ?」 脇息にもたれかかり、こちらをみる男がいた。 「お前は、妹の童女だろう。こちらに来てどうしたんだい?」 はっとした。 「あのね、あのね、姉さまにこのふみを届けてねって」 つとその男は思案顔を見せた。 「姉さま…。あぁ、なるほど」 男が動くたび、薫きしめた香の香りが鼻をくすぐった。 「お前の母はなんと言う」 頭を必死に働かせながら答えた。 「えぇとね、ふ…なんとかのつぼ」 微かにその人は笑った。父様のような、いやな気持ちのする笑い方ではなかった。じーっと見つめていると、手招きをされた。 「お前も私の妹だね。随分と小さな子が来たものだ。渡された文を見せてごらん?」 文を袖から取り出すとくしゃくしゃになっていた。 「ごめんなさい…!!ごめんなさい!!」 姉さまはきっと怒らないけれど、悲しませてしまう。 「こちらの方が趣というものがあるから、構わないよ」 兄と名乗るその人は私の頭を優しく撫でてくれた。齢十七、私より十三年上の兄だった。 それからというもの、姉に文を頼まれるたび兄の寝屋に向かった。兄は遊んでくれたりはしなかったけれど、いつも私の話を聞いてくれた。私の夫を紹介してくれたのも、兄だった。 「お前はあの人に似て美しいのだから」 そう言った口元だけ、いつも歪んでいた。 いつか、聞いたことがある。 「兄様は、母上のことが好きなの?」 兄はいつものような穏やかな表情のまま、首を横に振った。 「いいや、私が好きなのはお前の母様ではない」 「じゃあ、わたしは誰に似ているというの?」 「私の、一番古い記憶の中にいつもいる人だよ」 あぁ、これ以上聞いてはいけない。兄様を悲しませてしまう。 「そうなの……」 あの頃のわたくしは、泣いていたのかもしれない。唯一、兄の顔を顰めさせてしまったのは、わたくしを「わたくし」と兄の前で言ってしまった時だ。彼はわたくし自身がこう言うのを嫌った。 わたくしの夫はとても静かな歌人だった。風景の歌しか詠まない。恋のひとつでもしていたでしょう、と問うても「いいや」と言葉少なに否定するだけだった。もしかして、わたくしの存在が、いけないのかしら。好きに恋人も作れないの?わたくしたちは愛しあっていたけれど、どちらかというと信頼しあっていたのだ。連れであるけれど、きっと正しくあの人の妻になれたことはなかった。それでも、人恋しさに明朝、背中に額を押し当てたのなら、彼は丁寧に抱きしめてくれた。言葉を扱う人なのに、私のために生涯、歌を詠んではくれなかった。 彼が流行り病で死んで、彼の友人から見せられた歌はどれも相も変わらず、風景のものばかりだった。それなのに、わたくしは涙を止められなかった。ぜんぶ、ぜんぶ、わたくしが彼と共にいた時のものだったの。歌の中の景色はとても淡くて、美しいものだった。 あの人はわたくしの隣でこれほどに美しい世界を見ていたのかしら。 あの人が何も伝えなかったのは。 わたくしが兄様にまだ、恋のようなものを抱いていると知っていたからだろうか。 ぜんぶ、ぜんぶ、彼が描いた世界は散っていくものばかり。 それはわたくしの髪であったり、涙だったのだろうか。 世の男たちは愛を囁くというのに、あの人は何も囁かなかった。使い込まれた文箱に、うんと昔に送ったわたくしからの歌が何枚も丁寧に入れられていた。遺品を整理していくたび、わたくしについぞ贈られなかった櫛のようなものまで見つかった。そこに、わたくしが好きな花々の絵が描かれていた。わたくしが一度本物を見に行きたいと彼を無理やり外に連れ出した理由の花だった。 死んでから、知っても。 わたくし、あなたに返歌なんておくれないの。 わたくしが歌をおくるたび、あなたの口元がふんわりと綻ぶのを知っていたから。とても嬉しそうに、「ありがとう」とひとことそう言うのを知っていたから。 なんて、自分勝手な女なのかしら。 あのとき、唇を塞いで。 「お前が愛らしいよ」と言ってくれたのに。
ほしのなみだ
ふるふると。 小さく首を横に振った。 ふるふると。 少し空を仰いで、 手のひらで雨を受けようとしました。 ことりと。 机に鍵を置きました。 ことりと。 私は共に囀りましょう。 とても小さな砂粒を。 星の涙と呼んだあの頃。 私たちはきっと。 世界で一番、透き通った涙を知っていた。 そのしょっぱさにしかめた顔が。 美しいと私は知っている。 今、隠れて流した涙が。 蒸発されて忘れられていくことを傍観している。 それでいいと、私が目を逸らした。 それがいいと、私が流されて頷いたの。 自分のカサついた唇に触れて、 明日にキスはできないわねと諦めたの。 星の涙は握り込まれて。 いつの間にか手の皺の中に隠れて、 私が失くなったと手を開いて探せば、 地面にひと知れず落ちてしまった。 その哀しさはとてもちっぽけで。 あの頃の私にとって、最も哀しいことだった。 メイプルシロップみたいに。 ゆるやかに広がっていく哀しみの跡を。 私はまだ胸の奥に残している。
もうずっと前のことよ
ーー禁忌に触れた音がした。 耳元で鐘を思いきり打ち鳴らされたような衝撃が襲う。 酩酊した意識の中、必死に己を保とうとした。 まだだ。まだ、声を出してはならぬ。 私は返してはならぬ。伝えてはならぬ。 「かがりび」 潜めた細い声が自分を呼んだ。 「どうなされた」 声の元へ、許される限り近くへ寄った。 「近うへ来い」 「これ以上は許されませぬ」 「昨夜はもう少し近う寄っていた」 「お許しくださいませ。明泉様」 「………。どこかぇ?」 「小指にございまする」 明泉と呼ばれた女は、深く息を吐いた。 「私が見えるか」 御簾の間から、裸体がしなやかに外へ出てきた。 「申し訳ございませぬ」 「両の目がやられてしもうたか」 「のぅ、かがりび」 目が見えずともその声が震えていることはわかった。 「はい」 ならば、自分が応えねばならぬ。 「蛍が美しいぞ」 ーー私は少女一人すら慰めもできぬのか。 「如何に……?」 「私の手のひらの上で懸命に輝いておる」 「……きっと、それは美しきことでしょう」 「そうかもしれぬ。私はこの光が哀しく思えてならぬ」 「ほんの少ししか、彼らは光らないのですから」 「いいや。その光にわたくしは灼かれそうだ」 「……おやめくださいませ…」 「めいせん」 彼の両の腕が引きちぎれた。 「やめぬかッ!!」 男は一歩、一歩と女の元へ歩いていく。 その度に足の指が一本、一本と消えていった。 女が身動きもとれず、男を見つめいるうちに、 歩いてくる男が傾いていく。 暗闇の中、男の足元を見た。 片の足が消えていた。 「やめてくれ……」 その禁忌を女は恨んだ。 触れ合えば。 ほんの少し、想いを伝えれば。 気遣えば。 憎み合えば。 ひとつ、ひとつ。 相手の身体が失くなっていく。 たとえ言葉に出さずとも。 想いが伝わってしまえば。 愛する人が刻々と消えていく。 「すまない」 耳すら削がれ、自分からの返事すら聞こえないというのに。 まるで、聞いているように。 彼の滅多に動かぬ口元が少しだけ緩む。 あちらが語りかけている。 もう、わたくしの声をあの人の耳に入れることはできない。 「私はもうお前を抱きしめられぬ」 「お前がどのような顔をしているのか」 「どのようにこれから微笑うのか」 「私はもう見えぬ」 「春の風のようなお前の声も」 「すぐに震える泣き声も」 「私はもう聞こえぬ」 恋人が縁側の下で四肢がない状態で、転がっていた。 「いやよ……」 「いやよ、いやよ……」 「ねぇ……、かがりび!!」 温もりが残る胸に必死に抱きつく。 こうすれば、いつもそっと腕の中で庇ってくれたでしょう? 頭を撫でてくれたでしょう? ヒューと喉元から音がした。 「いずみ」 泣き枯れてしまうほど、 優しい声だった。
左様なら
朱鷺よ。朱鷺のまま死ね そう言った婚約者を男は穏やかに見つめていた。女は血を吐き、艶のなくなった髪を無惨に散らばせて、男を探した手が彷徨う。男はその手に小指を握り込ませた。男の手からは血がとめどなく溢れている。 「ときにぃちゃん」 気丈に振る舞っていた女の表情がふと崩れた。その形と温もりを彼女は忘れるはずもなかった。 男は自身の小指を匕首で切り落としたのだ。 「小指の一つや二つ、私が失くしたところで何も困らぬ。おゆう、お前にやろう」 淡々と朱鷺は言い放った。脳裏に母の言いつけを破って見にいった赤ん坊の泣き顔と、同じ人なのかと確認するために頰をつついた指をしゃぶられた温かさがよぎる。何より、夕暮れの道で、彼女が自分の小指をひっとしと握る様子が懐かしい。 「お前に死に顔を見られとうないのだ」 「左様ならば」 男は婚約者の願いを聞き届けた。膝を立て立ち上がり、音もなく部屋から出ていく。襖を閉めるときに見たのは、小指を片手に握り嗚咽を堪えている婚約者の姿だった。 「よくある話だ」先に好い人に死なれた男の過去など。 独りごちた声に震えがあったことなど知らされるはずもない。 男は旅の途中で捨て子を拾った。とても聡明なおのごだった。男は深く慈しんだ。その子が山菜をとりに行き熊に襲われた時、男は自身の腕を切り、それを投げ熊が腕を食べるうちに家へと連れて帰った。おのごは何度も男に謝った。申し訳ございませぬ、父様。申し訳ございませぬ、申し訳ございませぬ。 男は軽く首を振り、おのごの肩に手を置いた。その手に小指はなかった。 「腕一本のみでお前を助けられたことに、私は感謝する。父が子を守らで、誰が守るというのか」 「しかし、父様」 嗚咽を混じらせて、おのごは言った。 「それでは彫り師の仕事ができのうございまする」 「仕事ひとつできなくなったところで、何も困らぬ」 捨て子は美しい青年へと成長していった。しかし、美しすぎるが故に地頭の娘の妾にやられ、男は返し給うと願いに行けどその度に鞭に打たれた。捨て子はその様子を見て、自ら死した。自分がいれば父は苦しむばかりだと。男は返された遺体を見つめ、自分が助けられなかったばかりに妾として生きるのに苦しみ、自死したと悲しんだ。死ななければ、あの子は苦しみから救われなかった。そのようでないといけないのなら。 「左様なら」 男はまた独りごちた。 齢六十を超えるころ、男に友人と呼べる人が出来た。かたわれを喪くした女だった。 穏やかな日々が続いた。彼女と人の生を語り合い、晩酌をした。 彼女はとても寂しがりだった。夫のいない日々に耐えられなくなっていた。何度も男に自分を一度でいいから、抱きしめてほしいと言っていた。男は彼女の夫を侮辱するような真似は決して出来なかった。私をお前の夫と並べてはならぬ。そちの方はとても素晴らしい人ではないか。 ある夜、女の家にいい酒があるからと家へ呼ばれた。戸の前で女の名を呼べど、返事が来ない。家の中へ入ってみれば、女は首を吊っていた。男は急いで、女を床へ下ろし、呼吸を確認した。まだ生きていた。 「ねぇ、後生だから私を抱きしめてちょうだい」 「……友人としてでしか、抱きしめぬぞ」 男が女を抱きしめた時、彼女の息子が帰ってきた。男たちこ様子を見、吊るされた縄を見、男に何度も礼を重ねた。額には、畳のささくれが何本も刺さっていた。 そして彼女の息子は目に涙を溜め込んで男に頼んだ。 「母様のお心は、もう平常にはあられませぬ。わたしくは母様を故郷へお連れしとうございまする」 意を決したかのように、口を開いた。 「叔父様、どうかお許しくださいませ」 男は静かに目を閉じた。 「さよう、なら…」 愛する人が、自分の前でずっと美しくありたいのなら。 自分の息子が、苦しまずにすむのなら。 友人が、心穏やかに過ごすためなら。 そうでないといけないのなら。 「私は別れ話が多いな」 ふと自嘲気味に一人、夜酒をあおぐ。
すいとーよ
首が隣に並べば上々。 そんな相手が欲しかった。 死に際に恨み言を吐かなくてすむ誰かを探している。 「相対死なんてして、何がいいんだか」男がぽつりと呟くと、隣で聞いていた若い女は、 「そりゃ、あんた。誰にも盗られずに好い人と共にいれるからさ。死と引き換えに手に入るけどね」 「お前さん、やろうとしたことがある口か」 「江戸の女なら、一度や二度は考えることさ」 「また、なんで。あんた、隣に旦那さんいるじゃねぇか」 「昔の話だよぉ。今じゃこの人の奥さんだ。まぁ相対死したいなんて、抜かしたら蹴飛ばすけどね」 「はっは。酷いこと言ってくれるよ全く」 柔和な顔つきの男がちっとも怒った様子を見せずに言い放った。 「馬鹿抜かせ。相対死なんぞしなくとも、ずっと一緒に生きて、最後に死んでやるって言ってんだ」 「おっとそれはすまねぇな。うちの奥さんにゃ、めんこいやつでな」 「お兄さん、めんこいってなんだ」 「可愛いってことよ。訛っちまった」 「あたしが一目惚れして、押し倒したんだよ。結婚してくれってね。商人としてこっちに来てたときさ」 「そうさ。俺もその勢いに惚れちまった」 「でも、あんた。西から来てるだろう。東の方言使って、何がしたいんだい?」 「俺の奥さんは、鋭いなぁ」 相対死の話がずれてしまったと、男はその場を去ろうとした。 「ちょっと、色男。あたしたちの家に寄ってきな。いい簪くれてやる。そっちの人なんだろ?」 片眉を上げた。 「人の旦那をいやらしい目で見るんじゃないよ」 男は苦笑した。 「あんたにはお手上げだ」 「ふんっ。見てるこっちが可哀想になってきただけだよ。どうせ、恋人だと思っていた男が女と相対死なんぞやったんだろう?」 「そんなことまで、分かるのか」 「その辺の水たまりでも覗いてきな。酷い顔だよ、全く」 語尾に「全く」とつけるのはこの夫婦の癖なのだろうか。ぼんやりとそう思いながら、二人の後ろをついていった。 もらったのは、値が張るような簪だった。若い女、お花曰く「それさえつけていれば二、三人は釣れる」とのことだった。 お花が言う通りになった。数年は、男に困らない生活を送り、満足したという意味で相対死なんているのかと考えていた頃だった。 久しぶりに街の角であった、あの柔和な男は、ひどくやつれていた。名を嘉平と言ったらしい。 「どうしたんだい、お前さん」 男は聞いた。 「あんた……?」 「この簪もらった男色だよ」 「あぁ、あの時の色男」 ふと懐かしげな表情を見せた。 「で?どうしたんだい?」 「お花がね、少し早く逝ってしまうみたいなんだ」 男は顔色を変えた。 「そりゃまたなんで…?流行り病か。知り合いの薬師に何か頼もうか?」 「ありがとうよ。でも、今日が山場なんだ」 「じゃあ、あんたが傍にいないといけないだろう!」 「……別れたんだ」 「……はっ」 「お前が浮気でもしたのか!!!」 男は張り倒す勢いで詰め寄った。 「違う!!!」 思いの外、大きな声を嘉平は出した。 「お花が、街に出てる時無理やり犯されたんだ……。手紙にその旨を書いてどこかへ消えちまった!!探したんだ!!何年も!」 「逢いたいんだけどよぉ…。逢わせてもらえないんだ。お花は、逃げ出した遊女だったんだよ」 逢いに行け、と男は言えなかった。何が彼女の望みか分かるほど、男はお花について何も知らなかった。ただ、ひとつ。男はお花のいる妓楼で一番安い女を一晩買った。嘉平に手紙を書かせ、その女に「お花」という人に渡すように言った。男の美貌で、女は眩んでいた。嘉平には女を買わせなかった。それが唯一できる、お花への恩返しだった。 嘉平は自分の情けなさに唇を噛み締めていた。男を好く友人に、女を抱かせてしまったのだ。 ーー何を言ったところで、俺は臆病者だ。 数日後に、お花がいた妓楼から簡素な手紙が届いた。夫である彼に、彼女の死んだ旨を伝えねばと思ったのだろう。誰かが急いで書き足したように、墓の場所が記してあった。 嘉平は男に墓がどの辺りにあるかを尋ねた。 丁寧に礼を尽くしてから切り出した。男はその場所に訪れたことがあると言う。元の恋人がお花のところの妓女と相対死していたのだ。墓に酒でもかけて文句を言ってやろうと行ったらしいが、あまりに酷い死人の扱いに花を供えたという。 「連れていってくれまいか」 男は二つ返事で了承し、三日後にそこへ訪れた。 酷い有様だった。 丸い石が無造作に置いてあった。その前に、一つずつ遺品らしきものがある。誰の墓か分かるようにするためだろう。 お花がいつもつけていた簪を、嘉平は見つけた。自分が贈ったものだった。 男は静かに後ろに下がって、嘉平を見守っていた。地面に膝をつき、小さな石を抱きしめる後ろ姿をずっと見ていた。 「好いとーよ」 ひどく優しい声がした。 すいとーよ、すいとーよと小さく繰り返す男が目の前にいた。 「すいとーよ」 男は静かにその場を離れた。 引き留めるお花はもういなかった。 首が隣に並べば上々。 そんな相手が欲しかった。 死に際に恨み言を吐かなくてすむ誰かを探している。 そんなものは嘘に近しい。 罪人になる勇気もなく、誰かを怨む前提の自分に、彼らのように愛し合うことなどできぬのだ。 死んだ後でも。 恨み言などない愛おしい人に。 片想いでも、伝えることは許されるだろうか。 「俺にゃ、あの人より長生きしなければならん」 膝から崩れ落ちて泣いている男の背中を、切なげに見ていた。
pray
カサついた両手を ぴたりと逢わせる。 あなたとおでこを ひっつけ合わせた。 痛いの痛いの飛んでいけと 接吻をした。 両膝をついて 刻一刻と流れる雲に 頭を垂れた。 それは春のある日。 いつも通りの朝。 この四十億年ほど、 回り続けるスノードーム。 もしくは 幼児が作った丸い泥だんごの球。 大地の呼吸と共に跳ねた。 嗚呼。 見よ。 唇からこぼれ落ちた水。 蛇口の先で堪える水滴。 お前の瞳。 生きている。 どくどくと溶岩の如く。 鼓動を打っている。 烏が開けていく夜の幕。 ひとこえ、あけぼのに鳴いた。 祈っている。 私は祈っている。 誰にも応えは求めず、 私は祈っている。 叶うことなど気にもせず。 私は瞬きのたびに祈っている。 嗚呼。 雲よ。 海よ。 大地よ。 鹿よ。 鳥よ。 お前らのその生命と巡りゆく旅に。 私は祈っている。 私は祈っている。 私は祈っている。 私は祈ったのだ。この人生をかけて。
ひとつのし
私の命に頬ずりをしたとき。 私の頬は濡れるのだろうか。 私の足に接吻したとき。 二度にいっぺんの一歩に痛みを感じないだろうか。 もし、命が。 瑞々しくなくて、 重くもなくて、 河原のチャートだとしたら。 もし、死が凝縮した ちっぽけな塊だったとしたら。 特別な言葉はいらなかっただろうか。 それがなくても。 私は大切にできただろうか。
第6回N 1『愚性』
エントリーナンバー2 「ランデヴー」 スウプをひとくち、口に運ぶ。匙の丸みが唇に吸いついた。喉に流し込まれたスウプが、喉仏を動かす。また一口、ゆっくりと匙を口元へ持っていく。もう匙では掬えないほどの量しか残っていないことを知り、静かに目を伏せた。 飴色のちゃぶ台と変色した畳が、終身刑を待つ罪人のように、春の日差しを静かに受けていた。 鶯の姿が葉桜の隙間から見えた。とうに散るものも散らし人々の関心から外れた葉桜は鳥を休ませることのみに価値を担っていた。 男は荒屋に住んでいた。一人の従姉妹を除いて、血の繋がりのある親戚はみな死に絶えた。その従姉妹も随分と前に嫁いで、行方を知らない。その日暮らしで生きていた身である。遺産を残すのに、相談しようとて連絡を取りたくなったわけではない。しかし、唐突に、従姉妹をこの目で見たくなった。裕福な商家に嫁いだと記憶している。どうにか探せぬものか……。 今やどのような顔つきをしているのだろうか。子供のころのように映えた藍色を好んでいたりするのだろうか。それとも、もう桃色のような服ばかりを着るようになったのであろうか。子はいるのだろうか。彼女の夫はどのような人なのか。叔父のように彼女に手をあげはしないだろうか。 ふつふつと懐かしさと心配が胸から込み上げてくる。それを語る兄弟も父も母もいない。そのことがやけに悲しく思えた。 さて実家の近所にでも訊いてみようか、と感傷から抜け出した頃である。ふと、鍵の壊れた箪笥に積み上げられた郵便物に見慣れぬ葉書があることを目に留めた。ただの保険会社からのものであった。 近所にききこんで分かった住所に、男は保険会社からの勧誘の葉書を送った。自分がいつ死ぬかは分からないものなので、入っておくのは如何かなどの文を添えて。男の覚えている従姉妹は未来に対して何の対処もしないような女であったので、それを送っても大した違和感は抱かせないだろうと考えていた。しかし、男が臆病であるが故の理由付けであったことは明白である。 男は返信をいたく気にしていたが、ポストなどを毎日のように覗くという無様な真似はしたくないという矜持があった。 その葉書を送って、一週間と半分は経たぬころである。数日に一回覗いていたポストにすこし可愛らしい葉書が届いていた。姓が変われど、差出人が従姉妹であると分かると、いそいそと階段を上がり(普段は、威厳を保つためにゆっくりと革靴の音を響かせて上っていた)、手など洗い、神妙な面差しでちゃぶ台の上にのる葉書を見つめた。その裏をめくるのに、ほんの半刻ほどかかった。 その内容は簡素なもので、ただ「自分は最近、夫をなくし、自身の老後を思うと不安になってきた頃だったので、兄様がおっしゃってくれたように保険に入ろうと思う」というものだった。しかし、この保険会社では契約しない、と書いてあった。どうにも怪しげなので、兄様も騙されないようと追記してあった。 男たるもの、めったに微笑わないと古い考えを持っていたが、その時は思わず笑みを溢してしまった。そして何度か文通をした後、何日の何時に待ち合わせして、顔を合わせることが決まった。 そうと決まると彼はやく七年ぶりに理容室に行き(決して美容室には行かないと決めていた)、革靴を磨き、コゥトの埃を入念に取り除いた。 その日になると、約束の時間は午後からだというのに、早朝の四時に起き、八時には用意を終わらせた。十時まではちゃぶ台にのせた湯呑みで手を温めて(緊張すると手が冷えるため)、家から十五分で着くところに向かった。到着したのは、約束の時間の三時間きっかり前だった。約束の時間までの三時間は精神安定に努めた。やく四十年ぶりの再会である。従兄弟としての威厳を最大限に保たねばならないと考えていた。 しかし、約束の時間になっても彼女は来なかった。女性は何かと用意というものに時間がかかると生前の母に教わっていたので約束の時間より二時間ほど経っても特に思うことはなかった。彼女との思い出に浸っていた。 従姉妹と男には三つの差があった。男の方が年上である。従姉妹の家と男の家との距離は大して近くはなかったが、年に数回は会っていた。従姉妹が産まれ、歳が近いからと何度か彼女の家に預けられた。男は物静かな子供だったので、一度たりとも叔父夫婦に迷惑をかけたことはなかった。叔父たちがふと横を見ると、いつも従姉妹は男の小指を掴んでいたという。男が覚えた慈愛も従姉妹が初めてだった。 男は待つのが好きな性質であった。これが世に言うランデヴゥというものかとさえ、考えていた。しかし、その意味を詳らかに思い出し、決して私たちは恋人などはない。デェトなどでもない、と己の浮き足だった心を落ち着かせていた。四時間ほど経ってみると、さすがにおかしいと思い、一度家に戻った。葉書に書かれた待ち合わせ時間に間違いはないか確認した後、もう一度戻ろうとしたときである。先程は心配になって、周りを見ていなかったが、自分のポストに何か挟まっている。手に取ってみると、従姉妹からのものであった。 突然、申し訳ない。いつも兄様は約束よりも早く出発なさったので、約束の時刻の二時間前にはこの葉書が届くようにきつく配達員に言っておいた。まず、謝りたい。貴方との約束には行けない。夫に先立たれ、持病が悪化し、このまま後を追おうと思う。彼なしの世界は少し苦しい。こんな「妹」をどうか許して、といった内容が書かれていた。 彼は恐ろしい後悔と自責の念にとらわれた。自分との約束という足枷があって、彼女はすぐに夫の後を追えなかったのだ。これだけ夫を愛している彼女との顔合わせに対して、ランデブゥなどと恋人とのデェトのような捉え方をした自分が恥ずかしくて仕方がなかった。 なんたることだ。「妹」の望みを邪魔などする兄など、兄とは呼べぬ。これほどに愚かな「私」の妹だとあやつは言ってくれるのかと何度も涙した。 そして「妹」の墓参りに行くまで、死なぬと決意した。たった一人の肉親に手向けすらできずして、「私」と呼べようか。 この男は実に愚かだった。 約束の三時間も前に着いていなければ、その葉書を受け取り、ランデヴゥなどと恥じた考えをしなくてもよかったのである。そして、この異様に早く到着する行動を生ませたのは、彼の見栄を張りたいという性であった。 しかし、愚かであれど間違ってはいなかったのだ。見栄を張りたくて、送った保険会社の葉書であれど、彼の従姉妹はまだ「兄」の人生で「私」は心配されている、と彼からの愛情をしかと受け取っていたのである。従姉妹との繋がりをもう一度持ちたいという気持ちは、何一つとして愚かではない。 墓参りは約束の日から三ヶ月後に果たされた。 男には矜持があった。 男たるもの、悲しむべき時にて涙を流し、 家族は最後まで愛すること。
野ざらし姫
春はあけぼの。 やうやう白くなりゆく山ぎは、 少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 「枕草子」冒頭より 貴族様の侍女をお務めなさった叔母様は、昨年、享年三十八で儚くなられた。ご子息が二人いらっしゃった。私の従兄弟にあたる彼らもまた、侍従としてそのお家がお入りになった。 私が商家へ奉公に出ている間、次男様の行方が分からなくなった。三日ほど経った早朝に東山の荒野で亡くなられた状態で見つかったという。 涙が溢れることはなかった。二度か、三度しか会ったことのない人だったからだ。叔母様に似て、上品な振る舞いをなさる方、以外の印象はなかった。従兄弟だとしても生きる場所が違った。生まれた身分と品格は異なるのだ。 次男様が見つかったのは東山の荒野。野に骸を置かれた。死体というのは実に汚らわしく、触れてはいけないモノなのだ。野ざらしと呼ばれそのまま放置される。高貴なお方は美しき炎の中で躰ごと永眠なさるが、どこで生きようと所詮平民ではその野に置かれたこと自体が光栄の極まりである。しかし、そちらへ赴こうと思い立ったのは全くの偶然であった。自らが進んでいく場ではない。 「御兄様…」 鼻の中を抉るような匂いの中、麗人がそこにお立ちになられていた。まるでその場所だけ柔らかな春の風が吹いているようだった。けれどその足元には、まだ白骨になりきれていない骸があった。 「そちらのお方はもしや……」 凪いだ目がこちらをじっと見つめる。 「我が最愛の弟よ」 ヒュッと息を呑んだ。あまりにも、惨たらしい有様。 一歩、足を進めた。 それは私の中で最も醜い行動だった。 「御兄様」 その人は穏やかな笑みを絶やさない。 また一歩と足を進める。 「御兄様」 香が焚きしめられた袖が少し動くだけでも、その香りが辺りを包む。私の足元にも、もうその骸はあった。 ーー御兄様の胸はとても温かかった。 顔をそっと埋める。 御兄様も穏やかに微笑んだまま、私を抱きしめた。 「なぜ、この方は……」 顔を御兄様の胸にうずめながら問うた。 「我が弟があまりにも美しかったのだ」 見上げた先にもまたこの世のものとは思えぬ美しいお顔があった。 「お前は間男というものを知っているかい?」 私は知っていたけれど、そのお声をもっと聞いていたくて「いいえ、いいえ御兄様。わたくしには分かりませぬ」とそう答えた。 御兄様はわたくしが知っていることを悟っていた。当たり前のことだ。仏のような御兄様に分からぬことがあるはずがない。 「我が主は女を愛さない。奥方様もそれを知っていらっしゃる。奥方様は母上を信用なさっていた。だから我が弟を奥方様の侍従頭に、私を旦那様の側仕えとして雇うてくださったのだ。その意味が分かるか。母上を信用して、『浮気をしても目を瞑れる愛人』をお作りになられたのだ。私たちはね。彼らが初めて互いに贈りあった、贈り物なのだよ。けれど、弟はあまりにも美しくて純粋だった。旦那様には内緒で、奥方様は弟と何度も夜を重ね、身籠られた。弟の子よ。弟は純粋だったのだ。“奥方様を身籠らせたのは私の責任。この御子は私が全てを尽くしてお育て致します”奥方様にそう言ったのだよ。旦那様にもその旨を伝えていた。人の醜い心を知らぬのだ。子は宝。当然に奥方様は喜ぶのだろうと。彼女は泣いたよ。“私にはもう尽くさぬのだな”旦那様は弟の頬を張り飛ばした。“私たちから逃げるためにあやつの子を育てるだのと申したのだな” そのようなお方たちなのに、我が弟は彼らを共に愛したのだ。可哀想な人たちだ、と。あろうことか、貴族を憐れんだのだ。無償の愛と共に」 御兄様は私を抱いたまま、静かに野に腰を下ろした。私は彼の上にのっていた。私の頭を彼は話しながら、撫でていた。 「弟はね。自ら命を絶ったよ。私に赤子の預け先だけ伝えて。あとはお願いします。その子の名は兄上にお任せ致すと」 彼は野に横になった。私の唇は彼の首元にあった。 「ねぇそうだろう。赤子はどうだい?美琴」 私の顎にしなやかな指先がかかった。 「もぅっ!御兄様ったら意地の悪いこと」 「それはすまないね」 「元気に過ごしておりますわ。乳が出るように、わたくしも男を雇って身籠り、あの子にあげているのですわよ」 「ありがとう。弟に代わって礼を言うよ。でも、お前。愛した男以外の子は生まぬと言っていたのではないか?」 「えぇ。愛した男の子がこの腹の中にいますわ」 「私の驕りだったようだね」 「いいえ?わたくしは貴方をお慕しゅう想っております」 「では……?」 「わたくしの幼馴染よ。父様が雇ってくださったの。私は平民でも、父は貴族だから」 「愛するひとを決められなくて、誰が女と言えますか」 「さぁ、御兄様。お眠りのお時間ですわよ」 麗しき唇に接吻をした。 「あぁ、そうだね」 「心配事はありませんわ。今頃、わたくしの幼馴染にお貴族様は熱を上げられているようですから」 「君の計らいだね」 「まぁ、面白いことをおっしゃること。彼が行きたいと言っておりましたのに」 「そういうことにしておこう」 「御兄様」 「なんだい?」 「あの女狐に接吻されたところはどこですの?」 「心の臓の上のあたりだよ」 「あらぁ!誓いでも交わすつもりかしら。あの女」 「かもしれないな。なにしろ、弟をずっと探していのだから。似ているからね、私は」 彼の胸元から少しずつ着物を崩した。 「こちらでよろしくて?」 「あぁ」 いやらしく、接吻をした。 「そろそろ、あの子が泣く時間だから行くわ。御兄様」 「うん。ありがとうね」 「……愛していますわ。わたくし、貴方だけは決められませんでしたの」 「なんともまぁ、情熱的な告白だね」 「それくらいしないと、貴方は目を逸らしますもの」 「その通りだ。俺をよく分かっている」 「俺だなんて」 「最後は、ね」 「そうですわね。では」 「あぁ。頼んだよ」 目を瞑り、野の上で眠った。 美琴という女には、二人の子がいた。 一人は見目麗しい男で、 もう一人は、愛らしい女だった。 美琴とはとても狡猾な女だったが、加えて思慮深く、慈愛深い女でもあった。 彼女は子を慈しみ、夫を愛した。 とある貴族の愛人として生きる夫は、 朝は彼女を酷く罵り、夜明け前に帰ってきた頃には、眠る彼女の頬に愛おしげに接吻を落とした。 彼女は自分がいかほどに罪深いかをよく理解していたし、夫も彼女に騙されていることを了承した上で、愛人として通っていた。毎日、家に帰れているのも、彼女が貴族に丸一日、土下座をして頼み込んだからだ。 けれど、彼女の夫の心は疲弊していた。 子供が成人して、夫婦で一息ついていたころ、夫は、二人のとある貴族を殺した。 そのときに、彼女の夫は兵に首を飛ばされた。 夜明け前に彼女の元に帰ってきたのは、夫の首だった。 「わたくしの罪よ」 そう言って、彼女が自ら衛兵に自分の首を切るように言った。 彼らは躊躇った。美琴は殺された貴族の異母妹だったからだ。しかし、庶子だった。 そこで、彼らは問うた。「どのように死にたいか」 彼女はこう答えたと、記録に残っている。 「東山の野で、夫の首を抱いて死にたい」 しかし、首を切って死ぬとか、毒で死ぬとか具体的な死に方を言わなかった。 そして衛兵たちはもう一度、問うた。 「どのように死にたいか」 彼女はこう答えた。 「睡眠薬で眠ったまま、狼に喉笛を噛みちぎられたい」 記録に彼らは残さなかった。 そしてそれは実行された。 彼女は狡猾だった。 愛する男二人の横で死んだのである。 加えて、彼女は愛することのできる女だった。 かつての幼馴染を抱いて、盗賊に高貴な衣を剥ぎ取られて全て骨の見える従兄弟に背を向けて眠った。 もう別れを告げた。愛したことも伝えた。 だから、彼女は最後まで夫を愛して死んだのだ。 ただ、予想外だったのは睡眠薬が切れるまで狼が彼女を見つめるだけだったことだ。 卯月。 夜が明けたとき、彼女は目を覚ました。 もう一度、瞬きしたとき。 彼女の視界は血で覆われて、そのままこと切れた。 享年三十二。 ある女は死んだ。