Us

21 件の小説
Profile picture

Us

Us「うず」です。よろしく。 「よよ」だったものです。 高一 アイコンは「ゴリラの素材屋さん」様の、フリー画像にございます。

exist

私は。   存在する。 お前は。   存在する。  美しい横顔が在った。 わたくしの隣に。  悲しい悲しみが在った。 わたくしの膝の上に。  はじけた痛みがあった。 お前の目の横の傷に。  瞼にも溜められぬ涙が在った。 お前の言葉の中に。  存在した。 そのすべて。  わたくしの感情。  お前の血。  延々たるその地。 色もなく、音もなく、人もなく、 何もなく。  立ち尽くす存在をお前は知っているつもりだ。 存在とは。  隙間である。 何かと何かのあいだに、 あるもの。 存在とは。  確固たるものにならぬ。  それは水の如し。 はばまれるもの。 抱えられるもの。 色移りし、変容して、存在たらしめる。 故に案ずるなかれ。  お前は存在し、  私は存在する。 此れ、肉体そして精神に関わらず。 我ら、常に存在す。

10
0
exist

第一回ノベリ川賞『チシカ』

山々、深き霧に覆われて。 これ一切の貌を見ず。 我よ目凝らせども。 見えぬて額、打ちにけり。 やうやう、白き裾は広がりていたり。  女、息を吸うこと十数えたころのことである。この徒労に終わる呼吸とやらについて深く考えこんだ。当然のことながら、考える間も、また数というのは数えているのである。十と一つ、二つ。三つのときに一度、意識ひとつで止められる生命活動をやめ、ほんの少し経てば、また四つを数え始めた。  「息を止めては苦しいか。なるほど、あの人はわざと息を止め、咳をしたのではなかろう」  ひとつ頷いたと思えば、数を数えるのをやめた。  女がこう言ったのも無理はない。女の言うあの人とは彼女の夫のことであり、彼女の夫は物書きだった。何かしら咳を患う病であるのは間違いはないが、医者にかかれるほど裕福ではなく、医者に行こうとも歩いて丸二日かかるほど遠いのだ。その間に、血を吐いて動けなくなるだろう。その夫というのが何とも畜生で、物書きだというのだから頭の作りが歪み、妻に咳をし、二日飲まず食わずでもわざと何か小説のためにしているのではないか、と疑われるほどまともな奴ではなかった。次の年で、三十になる男だった。  こやつは苦しいその全てを、親の仇のように憎み、畳のささくれが痛いからと家の中で草履を履こうとする軟弱者だった。妻という女はそれを微笑んで許し、「やはり、とても賢くいらっしゃる」などと、褒め称えるのだ。  物書きは村で生きることを嫌がり、先祖代々、細々と受け継がれてきた小さな山に家を建てた。もともと、物書きは物書きではなく、小さな小屋のような家などすぐに作ってしまった。それから何年か経って、女を娶り、今に至るのである。  女もまた少し変なやつで、物書きは小さい頃からその様子を横目で見ていた。幼馴染というには、交流が少なく、顔見知りというには少し親しかった。物書きの膝の上に座るくらいには女は物書きに懐き、けれど物書きの前で声を立てて笑ったり、泣きじゃくったりなどは一度もしなかった。涙を目元に堪えてなお、「悲しくないわ」と言い張るような子供だった。  薄闇のころである。夜にすることもなく、ただただ厚さの欠片もない布団の上で寝転んでいた。気味が悪いほど虫の音など一切聞こえず、見上げる天井はいたるところで虫に食われていた。  男が寝ようと目を瞑ったときである。  「喉が渇きました」、「喉が渇きました」と隣で女は繰り返し呟いた。男が水を飲ませてやっても、「喉が渇きました」、「喉が渇きました」と言う。  「なんだという、お前。それほどに渇いているのか」男が問うても、掠れた声で「喉が渇きました」と繰り返す。  女の背中をさすってみたり、水が飲みやすいよう髪を結ったりなどもしたが、顔を顰め、涙を流し続け、「喉が渇きました」と言う。  一つの布団を分け合って眠っているのである。女が苦しめば、こちらもずっと、苦しむ声を聞かなければならぬ。それは、苦しいことであり、男は女が苦しまぬように努力を尽くした。それが、男の苦しみをなくす唯一の方法だったのである。  しかし、男の努力も虚しく、まだ一刻も経ってはいないというのに、女の顔はどんどんとやつれていった。男は女の白い寝着に血を吐いた。妻が貧しいと思われることを苦に思い、男は心の安寧のためにへそくりをかき集めて、買ってやった服である。女がもう動かなくなった表情を少しだけ緩ませ嬉しそうに夜のたびにその服を纏うのを見ていたのである。  しかし、女は吐いた血を見ることなくうわごとを繰り返す。ヒューヒューと掠れた音が言葉の隙間に入る。唇は乾燥して、ひび割れていた。  私は苛つきにまかせて、髪を掻いた。所詮、男の私が書いたものよ。女の独り言など、欠片も分からぬ。どうして、これほどに分からぬのか。物書き故に無駄に言葉を飾るのに長け、この無知を隠してしまうことが恥ずかしくてならぬ。日記にもならず、話にもならず、この中途半端な集合体を赤裸々と明かしてしまっている。妻が私をどう思っていたのかなど、知らない。この恥のかたまりである私が夫であることを忌々しく思っていたに違いない。そうさ。私は生粋の物書きではない。文豪のやうに線が細く、鋭い目つきで社会を見ておらぬ。たまに見せる柔らかな家族への眼差しなど、私が持っているはずがないのだ。物書き気取りの哀れな木こり。病にかかり、斧を持つことができなくなったゆえの逃避。かつて、子供のころの妻に聞かせてやった作り話を忘れられずに。死に際に仕事を持てぬ恥を忘れるために名乗った物書き。膝の上で無垢な眼差しを私に向けて、手を叩いて喜ぶあやつの、その顔が目に焼きついて離れぬ。 美しい娘だったのだ。 醜い私に嫁ぐような女ではなかった。 前の夫に虐げられ、精神を壊したあの娘は。 死にかけの私の面倒くらい見れるだろうと追いやられてきた。 お前は私のような畜生ではない。 変な奴ではないのだ。  妻の息は、吸っても肺に入らないような音を立てていた。まるで、妻の身体が空洞になったようだ。吸っても吸っても抜けていく。 息すら吸えないというのに、水など飲めるものか。  水差しで飲ましてやった水は、口元が溢れて青白い妻の肌の上を流れていく。胸元がはだけ、乳房の間を一筋、水は去っていた。  肌を見せることを恥じていた女の姿はない。ただ、喉の渇きを満たそうと何度も水差しに手を伸ばしてくる。焦点は定まらず、伸ばした手も宙を切り、何度も私の頬はその爪に掻かれた。吐いた血なのか、頬の血なのかなど考える暇もなく、 かつて見たことのない力の強さで、私は妻に求められていた。その先にあるものが生であり、私でなくとも。女の腕はもうしゃがんだ男の顔の高さすら上がらなくなった。何も話さず、肌からは艶がなくなり、水分という水分が身体から抜けていった。 霧は夜も明けぬ中、満ちていく。  うぅ、と呻きながら突然に妻は立ち上がった。ズズ、ズズと畳の上で足を引きずる音をさせていた。涼しいようにと開けていた襖にぶつかり、穴を開け、ボロボロになった和紙を寝着につけながら、縁側から裸足で外へ出ていく。  やめなさい、と言う代わりに血を吐き出した。この血が恨めしくてならなかった。 妻に。 妻に私は血しか吐けぬのか。 もう少しましな。 穏やかな言葉ひとつ……。  枯れた庭を踏みしめて、妻は歩き回っていた。死んだ燕の墓、油もとれぬ椿、老いた桜、山椒……。 彩るものなど、なかった。 気を滅入らせる、捨てられなかったがらくたども。 なんども滑りながら、妻は小さな岩を登った。 転んで、頭を打つかもしれぬと妻の元に駆けようとした。 己の吐いた血で、私は足を滑らせた。 「……この畜生め」 畜生め、畜生め。 立ちあがろうとしては、滑り、 その振動で吐き、 滑り、 吐き、 滑る。 妻を見上げた。 霧が返らぬ波のように、ゆっくりと庭に寄せてくる。 妻が息を吐いた。 私はその先にはいない。 波を吸い込むように、彼女は息を吸った。 苦しみに満ちた顔をゆるめ、 少しだけ口元を綻ばせて。  倒れ込んだ妻を。  私は拾えなかった。  共に死ねないのだろう。  私はここで朽ちるからだ。  山の波は、静かに妻を連れて引いていった。    お前の顔を見てやれぬ。  見てみて、と振り返ったお前の顔すら。    思い出せぬほど、私は。

4
2
第一回ノベリ川賞『チシカ』

さすった背中が。 ほんのすこしでも。 温かくなりますように。 伸びた背筋が少し丸くなって。 俯いていた今日のあなた。 その背中には、迷いと自分を許そうとする、 柔らかさがあった。 ひらべったい私の手のひらは。 あなたの優しい曲線に。 ぴったり吸いついた。 あなたの鼓動と、私の脈が。 どくどく、どくどく、と。 ずっと、どこかで反響している。 弱くてごめんなさい。と呟くあなた。 ちっぽけなことで潰れてごめんなさい。 あなたはあなたを責めて責めて、壊そうとする。 大丈夫だよとその言葉しか。 言えないわたし。 大丈夫以外に。 あなたを受け止められる言葉を探している。 それでもまた。 明日にはあなたは背筋を伸ばして。 ほんのすこしの筋肉痛と、 心の痛みを。 あなたの芯にそっと押しこめて。 曲がらない明日を瞳に映す。 しゃがみ込んで、すこしつぶれた感情を。 丁寧に丁寧に、 ドミノピザの崩れた箱に入れて。 私の分まで、受け入れようとする。 ちがうわ。 ちがうの。 私のこの心の痛みは。 あなたがそうやって。 そうやって、静かに前を向くから。 痛んで、痛んで、止まらないの。

14
1
(

よまやまばなし

それは名も知らぬ鳥の声。 風は隣の席の女の子の、 甘い髪の香りを孕んで流れてくる。 とりとめのないUsの話をする。 高校一年生。 これといって物語を書こうと思ったきっかけはない。 色々なアカウントで自分を紹介してしまっているので、 私が好きなもの、嫌いものは割愛する。 部活は引き続き、陸上部。 鼻水と汗を垂らしてます。 私はよくものを書くが、別に書くことが特別とは思っていない。 書かされてしまっている、と言った方がいいのだろうか。 一つの映像が鮮明に私の脳に浮かび上がる。 それは湖に立つ像に抱きつく少年であり、    四肢のない男の上で泣く女であり、    粗末な墓の前で「すいとーよ」と呟く人の声だった。 私は消えてしまうのが怖い。 この物語が何にも残らずに消滅してしまうことが、 途方もなく怖いのだ。 残せるのなら、どんな方法だっていい。 幸いなことに、私は言葉をもち、 鉛筆をもち、紙を持っていた。 絵も描いた。 この映像を決定してしまいたかった。 お前はこういう風に流れて終わるの、と。 書いてしまえば、定まってくれるから。 勉強になんて集中できなかった。 授業だって、聞けなかった。  必死にこの映像を残そうとして、書き留めれば。 ぜんぶ、もう終わってしまっている。 それは私がコントロールできないせい。 ありがたいことに、私には理解者がいた。 その人は私に言ってくれた。 書いて決定して、それで物語は残ったといえるのか、と。 塾の講師で、私の国語を伸ばしてくれた。 本来、受からないような進学校に私は受かった。 国語がなければ、落ちていたそうだ。 馬鹿なわけじゃない。 「知識は誰にも奪えない」と祖母が塾の費用を出してくれた。 私は祖母の少なくなるだけの財産から、 「知識」という途方もなく価値のあるものを受け取った。 キツイ言い方しかできない祖母の、 最大の愛情だと私は知っている。 私はきっと、恵まれている。 故にペラい話しか書けぬ。 人生を奥深く考えるところまで、 苦労も挫折も何一つしたことがない。 学校に提出した作文を見た教師は、まるで文豪のようだと言うが、 それは徒労なしに掬い取った彼らの血の文であり、 そこに現実もクソもない。 私は形だけをコピーペーストしているのだ。 ときどき、ふと頭の中に流れてくる。 それは私の作品で、無音で映画館に上映されている。 あるときは拍手喝采を受け、 私は最年少で、文学賞をとっていた。 その時に決まって違和感が胸を突くのだ。 年が若ければ、作品の価値は高くなるのか、と。 芥川は「地獄変」を二十六の時に書いた。 芸術家はみな、生き急ぎすぎている。 つまり、最年少で私が賞をとるということは、 人生の密度を前借りして、 私は自分の生きる年数を削っていることになる。 まずもって、私に賞に足る技術などこれっぽっちもないが。 最後になぜUsという名前にしたのかだけ語りたい。 私はUというアルファベットが好きだ。 これは「受容」のかたちであり、かのくぼみの中で、 受け入れてくれる優しさを持っている。 それはあなただ。 Uはyouの最後の文字であり、 あなたの存在を受け止める。 youの後にrをつけたら、yourになり、 yをとったらourになる。 ourをuだけ残した形にすると、 u orになり、 you or になる 「あなたを」または何か。 それは「わたしたちを」usであり、 「あなたたちを」Uの複数形Usになる。 私はこの名で、人々を受け入れる作品を創りたいのだ。

18
2
よまやまばなし

翠雨

 少し、過激な内容及び表現がございます。   苦手な方はお気をつけくださませ。  桜の前で泣くといい、と彼に言われた。二つ歳下の児だった。口元をほのかに和らげて、持っていた箒を取られた。なぜ、と問うても穏やかに微笑うだけ。まだ九つとは思えぬほど、大人びた目をしていた。早く、とせかされ桜の元へと送られた。桜を見るのはいいが、何に泣けというのだろう。花が散ることだろうか。その儚さに泣けばいいというのだろうか。  私はほとほと困り果てた。自分には風情というものがなく、何が哀しいのか分からぬのだ。不運なことに、その日は風がよく吹き、桜は止まることなく散り果てていく。その風に吹かれて、ふと思い出した。父が、風が強く吹くとき、悲しげな表情を見せたこと。丹精をこめて育てたとしても、簡単に生活ごと飛ばされしまう大黒柱の抱える苦しみ。  父の口が閉じれば、母の笑みが消え、妹の無邪気が殺されていく。自分を寺へ出した父の決意。母がその背中に隠れて泣いていた。あぁ、もう戻れぬのだと知った。  思い出したときには、涙は勝手に溢れおちてくれていた。濡れた頬に花弁が、張りつく。しばらく、そうして泣いていると草履を擦る音が聞こえた。  「なぜお前は泣いておる」 高僧の衣を見に纏っていた。 なぜか意地を張った。  「桜が散ることが、哀しゅうございます」 自分の愚かさに涙が止まらない。    濃密な気配を感じさせるその僧は、そうかと呟いて来た道を戻って行った。父を侮辱してしまったこと、それを悔やみに悔やんで石畳の上でうずくまった。  何刻経ったころだろう。また、その僧は草履を擦らせて、桜の元に来た。  「こち、来い」 乱暴に腕を掴まれ、奥の主屋へと引っ張られていった。  次は犯されるのだろうかとぼんやりと考えていた。寺など、結局はそういう場所だと人から聞いた。    「名は」 つと形のよい唇からこぼれた。  「明春と」 その僧は片眉をあげて、こちらをじっと見つめ静かに頷いた。  「あい。では明春」 そう呼ばれたときには、その僧の体へ引き寄せられていた。  「はい」  彼はひとつも自分の体に触れなかった。 しかし、その目の中で私は何度も犯されていた。私の隙間へ、入り込んでくる。主屋には、私の声だけ響く。その背徳感に体が震えた。  坊に帰ったのは、日が沈んでからだった。 「おかえり」  ひとつも揺れを感じさせないその微笑みが、 こちらを迎えていた。 「あぁ、戻ったよ」  幽明は簡単に私に触れた。 頬。首元。腹。  そうすれば艶かしく微笑って、声をしぼりだすように謝った。 「すまない。私のとき、あの人は桜の前で泣くことを嫌がったから」  ずっと考え続けてきたことはすぐに否定された。 「いいんだ。受け入れた私が悪い」 しかし、かれの指は私に触れ続けたままだった。 「私は怖いよ」 ふと呟いて、私の目を見た。 「早く寝るといい」 その声の震えに私は目を伏せた。 それからというもの、私は何度もあの僧に呼ばれ続けた。 幽明は何度もやめてくれと僧に懇願していた。 私でいいだろう、と。 二つも歳下の幽明に庇われるのがなんとも情けなかった。 ましてや、悦びを感じているなど。 そう思えば思うほど自分からあの人を求めてしまう。  喘ぐその姿を、幽明に見られてから私はもう戻れなかった。 幽明の歪んだ表情に、なんとも言われぬ胸の痛みと、 安堵が広がっていった。  その夜、私は幽明を抱いた。 幽明はずっとこちらを見ていた。  朝、起きてみれば幽明の姿はなく、あの人に聞けば還俗したと言っていた。  私のせいなのだろう。 俗世に彼は染まり、汚されてしまう。 涙が流れた。 「お前は何に泣いている」 「いいえ」 彼はまた片眉をあげ、私の顎に指先をそえた。 「私はなぜ、と訊いておる」 結局のところ、私はその指先に支配されていた。  「幽明があまりにも哀れで」 そう言えば、彼は喉を鳴らして笑った。  「どうされた」 首に手を回して聞けば、接吻の応えが返ってくる。  嗚呼、なんと幸せなことか。  私はあの人の側仕えになった。高僧ゆえに必要となるその仕事だった。  貴族を回ってあのひとが説法をとく、その傍にいた。貴族を前にすると、彼はとても柔らかく微笑み、けっして声を荒げなかった。  夜にだけ、自分のために彼が声を荒げるその優越がたまらなかったのだ。 貴族の間をまわっているとき、 ひとつだけある貴族の屋敷は、異様な雰囲気を持っていた。女の着物ははだけ、すべてのひとが欲情しているように見えた。貴族の品位など欠片もありはしない。  説法という名であのひとが女を抱いているとき、 私はなぜこのようなのかを調べてみようと思い立った。  男が女を喰っていた。貪るように抱いていた。女が泣いて、悦び、鳴く。その一部始終を私は呆然と見ていた。  そこには恥もなく、美しい欲の形があった。  滑らかな肌の男はこちらをふと振り返って見た。 私はその顔に見覚えがあった。  「久しぶりだね。明春」 その穏やかな声色を私が忘れるはずもない。  「幽明……」  「ねぇ、誰なの。わたくし、知らないわ」 泣いていた貴族の女は幽明の胸元を指先でなぞっていた。  幽明はその頬と胸に接吻をした。 その女の目の潤みと惚けた表情が、私を誘った。幽明はまた微笑った。  女を鳴かせた。執拗に、愛おしく、私たちのこと以外、何も目に入れさせない。 欲で支配する快感が何度も私の中を突き抜けた。    気を失った女を腕に抱え、着物をただす幽明を見ていた。  「何を見ているのさ」 灯台の明かりなどなく、ぼんやりとしか彼の輪郭は見えないというのに、懐かしさが喉から込み上げる。  「御師さまはどうだい?」 その気配は酷薄だった。  「今は……、説法をしておられる」 嘲るように微笑っていた。  「この夜半にか?あわれなことよ」  「私のように還俗すればよかったろうに」 冷たい風が心の臓の隙間を走った。  「幽明……、お前…」  色に狂うて、僧を辞したのか……?  「まさか」と彼は微笑った。  「お前のためだよ。明春」 頬に爪を立てられた。    何を言っているのか、私には分からなかった。  「お前の名は明春ではなかろう。柔和な雰囲気をさせておきながら、はじめて顔を合わせたときに源氏名を使うとは驚いたものよ」  まぁ、それが源氏名とお前が知っていたかは分からぬが。  鈍い痛みが胸を刺した。  「男のための夜の蝶など、そう見つからぬ」  噂は籠の中まで届いてきよったわと幽明が昏く言い放つ。  あのころの私はお前を哀れに思ったのだ。ずっと薄暗い中で生きていたのだから、ひとつ助けなどしてみようと、微笑う練習もした。しかし、いざお前に逢ってみると崩れ落ちたのだ。幼いその歳だいうのに、男に飼われてそれでもなお、純朴なその笑み。  憎くて、愛らしくて仕方がなかった。  私は、お前より二つ下だが、お前よりこの命と生活は保障され、飼われようとも何知らぬ赤子のような欲たちよ。  私はお前を助けることなどできはしなかったのだ。お前が私の坊に来る前にあの僧の欲を決壊させた。流れにまかせれば、お前は簡単に堕ちてくれた。胸が震えたよ。罪悪感を孕んだ目で私を抱き、その快楽に貪られる姿に。  桜の前で泣かせたのも、私がお前を愛おしく思っているからだよ。決壊させた獣に盗られるかと心配するよりも、先に食わせておいた方が確実に私のものになる。   ーー今だって、ほら。私に触れられただけで震える欲の獣になっているのだから。  美しいよ、明春。 首元を噛まれて、唾液を流し込まれた。  純粋な欲情の獣をね。 私はつくりたかった、それだけのことよ。

11
6
翠雨

第一回NSS 桜は永遠に知らず

 黙祷した。疲れて座り込んだ道路に一匹、小鳥は死んでいた。名もなく、その小鳥の種さえ私には分からぬが、ひどく胸が痛んだ。自身にその悲しみがまだ残っていた。泣いてはやれないが。  ふと思い立った。私は何も知らぬ。だから、小鳥に名をつけてやろうと。私の記憶だけでもこの子を存在を遺しておきたい。だが名付けの経験もなく雪だるまをせいぜい「しろ」と呼んだ程度。  思った以上に苦戦した。面影は女の子だ。花?ピーちゃん?しかし、どれもこの小鳥に合わない。もっと淡くて凛とした名がいい。何時間も考えた。終電など、とうの昔に駅舎へと眠りに向かった。  「さくら。さくらにしよう」 幼馴染の妹の名前だ。男子校に揉まれてきた自分にとって、唯一身近にいた異性。それはもう、うんと可愛がった。何一つとして知らないくせに流行りのコスメなども買ってやった。愛おしいひとの名前なら、きっと。きっと、俺は覚えていられる。 ーーそれが愛おしさを感じるものにつく名前なのだから。 さくら。 お前はどんな声で鳴いたんだ? 恋人はいたのか? 俺が最後でごめんよ。 愛してるなんて宛先不明のものを、 お前の幻想に押しつけたんだ。

11
0
第一回NSS  桜は永遠に知らず

わたくしの

わたくしは往ぬ。 貴方の元から。 そう言いかけた唇を塞いで。 あなたは静かに言葉を落としたの。 和歌ひとつ詠まず、 わたくしを抱きしめたから。 「そこで寝てはいけないよ」 そう声をかけられて、目を瞬かせた。 「だぁれ?」 脇息にもたれかかり、こちらをみる男がいた。 「お前は、妹の童女だろう。こちらに来てどうしたんだい?」 はっとした。 「あのね、あのね、姉さまにこのふみを届けてねって」 つとその男は思案顔を見せた。 「姉さま…。あぁ、なるほど」 男が動くたび、薫きしめた香の香りが鼻をくすぐった。 「お前の母はなんと言う」 頭を必死に働かせながら答えた。 「えぇとね、ふ…なんとかのつぼ」 微かにその人は笑った。父様のような、いやな気持ちのする笑い方ではなかった。じーっと見つめていると、手招きをされた。 「お前も私の妹だね。随分と小さな子が来たものだ。渡された文を見せてごらん?」 文を袖から取り出すとくしゃくしゃになっていた。 「ごめんなさい…!!ごめんなさい!!」 姉さまはきっと怒らないけれど、悲しませてしまう。 「こちらの方が趣というものがあるから、構わないよ」 兄と名乗るその人は私の頭を優しく撫でてくれた。齢十七、私より十三年上の兄だった。  それからというもの、姉に文を頼まれるたび兄の寝屋に向かった。兄は遊んでくれたりはしなかったけれど、いつも私の話を聞いてくれた。私の夫を紹介してくれたのも、兄だった。  「お前はあの人に似て美しいのだから」 そう言った口元だけ、いつも歪んでいた。 いつか、聞いたことがある。 「兄様は、母上のことが好きなの?」 兄はいつものような穏やかな表情のまま、首を横に振った。 「いいや、私が好きなのはお前の母様ではない」 「じゃあ、わたしは誰に似ているというの?」 「私の、一番古い記憶の中にいつもいる人だよ」  あぁ、これ以上聞いてはいけない。兄様を悲しませてしまう。 「そうなの……」 あの頃のわたくしは、泣いていたのかもしれない。唯一、兄の顔を顰めさせてしまったのは、わたくしを「わたくし」と兄の前で言ってしまった時だ。彼はわたくし自身がこう言うのを嫌った。  わたくしの夫はとても静かな歌人だった。風景の歌しか詠まない。恋のひとつでもしていたでしょう、と問うても「いいや」と言葉少なに否定するだけだった。もしかして、わたくしの存在が、いけないのかしら。好きに恋人も作れないの?わたくしたちは愛しあっていたけれど、どちらかというと信頼しあっていたのだ。連れであるけれど、きっと正しくあの人の妻になれたことはなかった。それでも、人恋しさに明朝、背中に額を押し当てたのなら、彼は丁寧に抱きしめてくれた。言葉を扱う人なのに、私のために生涯、歌を詠んではくれなかった。  彼が流行り病で死んで、彼の友人から見せられた歌はどれも相も変わらず、風景のものばかりだった。それなのに、わたくしは涙を止められなかった。ぜんぶ、ぜんぶ、わたくしが彼と共にいた時のものだったの。歌の中の景色はとても淡くて、美しいものだった。 あの人はわたくしの隣でこれほどに美しい世界を見ていたのかしら。  あの人が何も伝えなかったのは。 わたくしが兄様にまだ、恋のようなものを抱いていると知っていたからだろうか。 ぜんぶ、ぜんぶ、彼が描いた世界は散っていくものばかり。 それはわたくしの髪であったり、涙だったのだろうか。 世の男たちは愛を囁くというのに、あの人は何も囁かなかった。使い込まれた文箱に、うんと昔に送ったわたくしからの歌が何枚も丁寧に入れられていた。遺品を整理していくたび、わたくしについぞ贈られなかった櫛のようなものまで見つかった。そこに、わたくしが好きな花々の絵が描かれていた。わたくしが一度本物を見に行きたいと彼を無理やり外に連れ出した理由の花だった。 死んでから、知っても。 わたくし、あなたに返歌なんておくれないの。 わたくしが歌をおくるたび、あなたの口元がふんわりと綻ぶのを知っていたから。とても嬉しそうに、「ありがとう」とひとことそう言うのを知っていたから。  なんて、自分勝手な女なのかしら。 あのとき、唇を塞いで。 「お前が愛らしいよ」と言ってくれたのに。

6
0
わたくしの

ほしのなみだ

ふるふると。 小さく首を横に振った。 ふるふると。 少し空を仰いで、 手のひらで雨を受けようとしました。 ことりと。 机に鍵を置きました。 ことりと。 私は共に囀りましょう。 とても小さな砂粒を。 星の涙と呼んだあの頃。 私たちはきっと。 世界で一番、透き通った涙を知っていた。 そのしょっぱさにしかめた顔が。 美しいと私は知っている。 今、隠れて流した涙が。 蒸発されて忘れられていくことを傍観している。 それでいいと、私が目を逸らした。 それがいいと、私が流されて頷いたの。 自分のカサついた唇に触れて、 明日にキスはできないわねと諦めたの。 星の涙は握り込まれて。 いつの間にか手の皺の中に隠れて、 私が失くなったと手を開いて探せば、 地面にひと知れず落ちてしまった。 その哀しさはとてもちっぽけで。 あの頃の私にとって、最も哀しいことだった。 メイプルシロップみたいに。 ゆるやかに広がっていく哀しみの跡を。 私はまだ胸の奥に残している。

18
0
ほしのなみだ

もうずっと前のことよ

 ーー禁忌に触れた音がした。 耳元で鐘を思いきり打ち鳴らされたような衝撃が襲う。 酩酊した意識の中、必死に己を保とうとした。 まだだ。まだ、声を出してはならぬ。 私は返してはならぬ。伝えてはならぬ。  「かがりび」 潜めた細い声が自分を呼んだ。 「どうなされた」 声の元へ、許される限り近くへ寄った。 「近うへ来い」 「これ以上は許されませぬ」 「昨夜はもう少し近う寄っていた」 「お許しくださいませ。明泉様」 「………。どこかぇ?」 「小指にございまする」 明泉と呼ばれた女は、深く息を吐いた。 「私が見えるか」 御簾の間から、裸体がしなやかに外へ出てきた。 「申し訳ございませぬ」 「両の目がやられてしもうたか」 「のぅ、かがりび」 目が見えずともその声が震えていることはわかった。 「はい」 ならば、自分が応えねばならぬ。 「蛍が美しいぞ」 ーー私は少女一人すら慰めもできぬのか。 「如何に……?」 「私の手のひらの上で懸命に輝いておる」 「……きっと、それは美しきことでしょう」 「そうかもしれぬ。私はこの光が哀しく思えてならぬ」 「ほんの少ししか、彼らは光らないのですから」 「いいや。その光にわたくしは灼かれそうだ」 「……おやめくださいませ…」 「めいせん」 彼の両の腕が引きちぎれた。 「やめぬかッ!!」 男は一歩、一歩と女の元へ歩いていく。 その度に足の指が一本、一本と消えていった。 女が身動きもとれず、男を見つめいるうちに、 歩いてくる男が傾いていく。 暗闇の中、男の足元を見た。 片の足が消えていた。 「やめてくれ……」 その禁忌を女は恨んだ。 触れ合えば。 ほんの少し、想いを伝えれば。 気遣えば。 憎み合えば。 ひとつ、ひとつ。 相手の身体が失くなっていく。 たとえ言葉に出さずとも。 想いが伝わってしまえば。 愛する人が刻々と消えていく。 「すまない」 耳すら削がれ、自分からの返事すら聞こえないというのに。 まるで、聞いているように。 彼の滅多に動かぬ口元が少しだけ緩む。 あちらが語りかけている。 もう、わたくしの声をあの人の耳に入れることはできない。 「私はもうお前を抱きしめられぬ」 「お前がどのような顔をしているのか」 「どのようにこれから微笑うのか」 「私はもう見えぬ」 「春の風のようなお前の声も」 「すぐに震える泣き声も」 「私はもう聞こえぬ」 恋人が縁側の下で四肢がない状態で、転がっていた。 「いやよ……」 「いやよ、いやよ……」 「ねぇ……、かがりび!!」 温もりが残る胸に必死に抱きつく。 こうすれば、いつもそっと腕の中で庇ってくれたでしょう? 頭を撫でてくれたでしょう? ヒューと喉元から音がした。    「いずみ」  泣き枯れてしまうほど、   優しい声だった。

6
0
もうずっと前のことよ

左様なら

 朱鷺よ。朱鷺のまま死ね そう言った婚約者を男は穏やかに見つめていた。女は血を吐き、艶のなくなった髪を無惨に散らばせて、男を探した手が彷徨う。男はその手に小指を握り込ませた。男の手からは血がとめどなく溢れている。  「ときにぃちゃん」 気丈に振る舞っていた女の表情がふと崩れた。その形と温もりを彼女は忘れるはずもなかった。  男は自身の小指を匕首で切り落としたのだ。 「小指の一つや二つ、私が失くしたところで何も困らぬ。おゆう、お前にやろう」  淡々と朱鷺は言い放った。脳裏に母の言いつけを破って見にいった赤ん坊の泣き顔と、同じ人なのかと確認するために頰をつついた指をしゃぶられた温かさがよぎる。何より、夕暮れの道で、彼女が自分の小指をひっとしと握る様子が懐かしい。  「お前に死に顔を見られとうないのだ」  「左様ならば」 男は婚約者の願いを聞き届けた。膝を立て立ち上がり、音もなく部屋から出ていく。襖を閉めるときに見たのは、小指を片手に握り嗚咽を堪えている婚約者の姿だった。  「よくある話だ」先に好い人に死なれた男の過去など。  独りごちた声に震えがあったことなど知らされるはずもない。  男は旅の途中で捨て子を拾った。とても聡明なおのごだった。男は深く慈しんだ。その子が山菜をとりに行き熊に襲われた時、男は自身の腕を切り、それを投げ熊が腕を食べるうちに家へと連れて帰った。おのごは何度も男に謝った。申し訳ございませぬ、父様。申し訳ございませぬ、申し訳ございませぬ。   男は軽く首を振り、おのごの肩に手を置いた。その手に小指はなかった。  「腕一本のみでお前を助けられたことに、私は感謝する。父が子を守らで、誰が守るというのか」  「しかし、父様」  嗚咽を混じらせて、おのごは言った。  「それでは彫り師の仕事ができのうございまする」  「仕事ひとつできなくなったところで、何も困らぬ」  捨て子は美しい青年へと成長していった。しかし、美しすぎるが故に地頭の娘の妾にやられ、男は返し給うと願いに行けどその度に鞭に打たれた。捨て子はその様子を見て、自ら死した。自分がいれば父は苦しむばかりだと。男は返された遺体を見つめ、自分が助けられなかったばかりに妾として生きるのに苦しみ、自死したと悲しんだ。死ななければ、あの子は苦しみから救われなかった。そのようでないといけないのなら。  「左様なら」 男はまた独りごちた。  齢六十を超えるころ、男に友人と呼べる人が出来た。かたわれを喪くした女だった。  穏やかな日々が続いた。彼女と人の生を語り合い、晩酌をした。  彼女はとても寂しがりだった。夫のいない日々に耐えられなくなっていた。何度も男に自分を一度でいいから、抱きしめてほしいと言っていた。男は彼女の夫を侮辱するような真似は決して出来なかった。私をお前の夫と並べてはならぬ。そちの方はとても素晴らしい人ではないか。  ある夜、女の家にいい酒があるからと家へ呼ばれた。戸の前で女の名を呼べど、返事が来ない。家の中へ入ってみれば、女は首を吊っていた。男は急いで、女を床へ下ろし、呼吸を確認した。まだ生きていた。  「ねぇ、後生だから私を抱きしめてちょうだい」  「……友人としてでしか、抱きしめぬぞ」 男が女を抱きしめた時、彼女の息子が帰ってきた。男たちこ様子を見、吊るされた縄を見、男に何度も礼を重ねた。額には、畳のささくれが何本も刺さっていた。  そして彼女の息子は目に涙を溜め込んで男に頼んだ。  「母様のお心は、もう平常にはあられませぬ。わたしくは母様を故郷へお連れしとうございまする」  意を決したかのように、口を開いた。 「叔父様、どうかお許しくださいませ」  男は静かに目を閉じた。 「さよう、なら…」 愛する人が、自分の前でずっと美しくありたいのなら。 自分の息子が、苦しまずにすむのなら。 友人が、心穏やかに過ごすためなら。 そうでないといけないのなら。  「私は別れ話が多いな」 ふと自嘲気味に一人、夜酒をあおぐ。    

11
0
左様なら