第一回ノベリ川賞  抄

第一回ノベリ川賞  抄
 初夏の昼下がりのことである。男は忌々しい階段を下駄で踏みつけるように一段一段と上がっていく。数段上がれば、さきの雨で張りをなくした木製の手すりにもたれかかり、その手すりに爪をたて、跡を残すことのみに躍起になった。男は蚊が足にまとわりつくことすら気にもとめず、五の指、四の指、三の指、二の指、一の指と丁寧に爪を立てていく。爪というものは、存外に上から力を込めるよりも、少し傾けて力を込めた方が食い込むというのだ。男は、早くこの階段を上らねばならなかった。上で坊を待たしているのである。この階段を上り始めたのは一刻半前。上ったのはたったの、十と七段だけである。男が階段を上るそもそもの理由というのは、友人の墓参りであった。歳を重ねるとともに死は刻々と近づく足音が幻聴のように纏わりついてくるのである。男の友人は職人であった。ひどく目つきの悪い、いい男だった。滅多に口を開かず、沈黙の中で息をしているようだった。男はよく喋る性質であったので、言葉をずっと腹に落とし込む忍耐力というものに欠けていた。この職人にとって、話すという行為自体が肥料を撒き終えた畑にまたもう一度肥料を撒き直すような、過ぎたものだったのである。それでは、いい人すらおらぬのかという話になるが彼には弟子が1人おりそれが実の娘であるというのだから、下品な話にはなるが夜を重ねた女が少なくともいたということである。この職人というのは、極めて慎重な性格をしており、少し酒が回ったからと、誤って女と体を重ねるようなことは決してしないような男だった。  その娘というのも、なかなかに無愛想なやつで父親によく似ていた。だが父親に似て、人の人生そのものを脅かすような美貌をもち、唯一違うところと言えば、八重歯であった。男の友人___抄(ショウと呼ばせていたただく)は、美しいと言ってはいけないような男だった。美しいとはその独自性と、一般性と圧倒的な存在感の上で成り立つものであり、抄はそれがなかった。  まるで、誰かが丁寧に道具などを使って、美しい比を描き出し、その下書きにそって、決められた高さの鼻、唇、頬を付け足したに違いないと思うほどだった。人というのは、極限までその独自性に基づく顔のパァツが美しい比に整えられると、それが絶対的な美しさになり、さも人々の「独自性」がなくなった最終的なカオになると錯覚してしまう。  それに対して抄の娘は、なんとも言いがたい平凡さを持っていた。もちろん、顔の造形はひとつの芸術作品のように美しいのである。  男は抄の娘の顔を思い出しながら、休むことなく湿る手すりに爪を食い込ませていた。そうだ、あの娘の肌はこの手すりほど滑らかで柔らかいのだ。そのことを想像しながら、より力を込めて爪を突き刺す。手すりの木の表面に深い跡を残すことより、その木が声を上げられたならばどのような悲鳴を出すのかをずっと考えていた。それが抄の娘であればなお良かったのにとすら思っていた。  髪が顔にかかり、おどおどと周りを見渡す男は、ふと自分が手すりに爪を食い込ませ、友人の娘の肌に同じことをしたいと考えるその全てにひどく憎しみと失望を感じた。そして何より、自分の欲望の醜さに吐き気を催した。手すりとそれを支える棒のの隙間から顔をひょこっと出して、男は思いきり吐いた。そこに威厳や虚栄の欠片はとうに散っていたのである。  すると、誰かに背を撫でられた。赤子をあやすように四十を超えた男を撫でるのである。その誰かが自分を撫でるたびに、何かが擦り合うような音がした。  じゃり。じゃり。じゃり。じゃり。じゃり。    じゃ、り。じゃり。じゃり。
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