きのこ
34 件の小説今日跳んで、明日に着地を。
始まりは小さな作家が書いた短い物語だった。小説と呼ぶには短く、何故か少し違和感があった。かといって詩や日記と呼ぶには何か違う、そんな不思議なものだった。 ◇ 学校らしき所に行くと、砂の上でみんながロープのようなものを使ってぴょんぴょん跳ねていた。あのロープは縄跳びというらしい。私はやったことがないし、やってはいけないから、何が楽しいのかわからない。だから跳んでみた。これをくぐってとんだら家に帰されると思ったのに、私はここに居た。 ◇ 拾ったノートの一ページ目には、汚い文字でこう書かれていた。 何か違和感があった。その違和感の原因を考えながらページを捲ろうとした時、誰かにノートを盗られた。 「えっ。人のノート勝手に見たの? 信じられない」 小学校高学年くらいに見える少女は、こちらを睨むようにしながらノートを大事そうに抱えた。 「それ、君のノートだったの。ごめんね。それにしても漢字がたくさん使われていたし、文もしっかりしていて凄いね」 「……は? 私、十四歳なんだけど」 百四十センチより少しだけ高いくらいの身長と、ノートの汚い文字を見ていたため、彼女が自分と年が二つしか変わらないとは信じ難かった。 「ご、ごめんなさい。私てっきり……」 「別にいいよ。ここの人、みんなデカいし」 「ここの人って、あなたどこから来たの?」 「二百年後の、地球」 一瞬、時がとまった。 「……え?」 彼女は続けてこんな説明をした。彼女の生きる世界では地球温暖化や大気汚染が原因で新型の病気が流行っている。そのため、まだ病気が発症していない子供などは「タイムマシン」を使って空気がきれいだった時代に避難しているという。 「私の背が低いのも、酸素が少ない環境で生まれ育ったから。これでもあっちでは高い方だったんだけどね」 ここにいると私は小学生か。そう言って笑う彼女の前髪が揺れた。 「私は、花って名前。私の親は、お花を見たことがないからさ」 信じられないはずの話だった。なのに妙に納得できた。 「私は、もか。桃に花で桃花。十六歳。よろしく」 花は黙ったまま、小さく会釈した。 ◇ 手動ドアは種類が多くて難しい。ドアノブとやらを回して開けるもの、引っかけて開けるもの、横にスライドさせるもの、押すだけのもの。だけど案外不便ではない。 自分より二つだけ年上の友達もできた。空も青い。私の時代の道具をたくさんみせたら、友達は喜んでくれた。あーもう! 書きたいことはたくさんあるのに、ノートに上手くまとめられない。 ◇ 花は今日こちらに来たばかりで住む場所がないと言うから、家にあげた。母は仕事でしばらく家を空けているため、誰も居なかった。 「タイムマシンは十回ジャンプを合図に元の時代に帰る仕組みなの。細かいことはわからないけど、実体があるとなくしたりしたときに、面倒だから」 「そうなんだ……。そうだ! 何か未来の道具とかって持ってないの?」 「持ってきたらダメな決まりなんだよ。見せたり見られたりすることで未来が変わっちゃうかもだから」 「あ、ちょっと待ってて」 そう言って私は引き出しからゲームを取り出した。今流行りの、戦闘系のゲームだ。 「面白くないかもだけど、私こういうのしかもってないからさ」 電源を入れると独特な音楽が流れる。私はこの音が大好きだ。 始めたのは遊具や玩具を使って戦う、少し子供っぽいけど本当に面白いゲームだ。私は滑り台を、花は縄跳びを選択した。結果はもちろん、私の圧勝だった。 「疲れたー! 今が人生で一番楽しいわ」 「いや、そっちの時代の方が楽しいゲームなんていっぱいあるでしょ」 「確かに私の時代にはもっと面白いゲームなんていっぱいあるよ。でも、その時代では赤ちゃんが産まれたら手術をして脳にチップを入れるのが当たり前なの。だから、人間なのにみんなロボットみたい。私はチップが入ってないから、周りと考えも合わないし、ぼろ負けする毎日。どんなに面白いゲームも面白くないよ」 誰かが「いつかAIに支配される日がくるだろう」と言った。だけど実際には「人間がAIになった」のだ。全身に鳥肌がたった。 夏休みだったため、しばらくゲームをしたりして二人楽しく過ごした。 私には二歳年下の咲良という妹がいた。咲良の口癖は「世界一幸せ」で、私が何かをする度に口にしていた。 「パパと咲良はね、遠くに行ったんだよ」 小学四年のある日、母からそう言われた。母はきっと私の年齢を理解していなかった。そんな言い方、当時の私ですら簡単に理解できた。でも、もしかするとどこかで元気に過ごしているかもしれない。私はずっとそう願い続けてきた。だから、花を見ていて時々思ってしまう。違うとわかっていても、花は咲良じゃないかと。 たった一週間だった。たった一週間前に知り合って、家に来て、ゲームをして、笑って。それだけだった。咲良と重ねてみているからかもしれない。いつの間にか花は、私にとって妹のような親友になりつつあった。 ◇ 咳が止まらなくなって、耳鳴りもなり続けて、呼吸が辛い。私もあの病気になったんだってすぐにわかった。無症状だっただけで、ずっと身体に住んでいたんだって。文字を書く、ペンを握る私の手が震える。ノートに書かれた文字も震えてる。そんな私の元に魔法使いが現れた。この世には魔法があるから、大丈夫。 「ちちんぷいぷい」 ほら、咳も耳鳴りも止まって、呼吸が楽だ。 空気だってこんなにおいしい。 ◇ 夜中、誰かの咳で目を覚ました。花が眠っていたはずの隣の布団には誰もいない。自分の部屋の扉を開けると、蹲って咳き込む花がいた。私は黙って軽く彼女の背中を叩いた。午前三時だった。 「……急だけど明日帰ることになった」 十数分後、ようやく落ち着いた彼女から言葉がでた。 「どうして?」 「私もなっちゃったから、あの病気に。人に伝染る病気かもまだ証明されてないし、こっちの世界で広まったらそれこそ歴史も未来も変わっちゃうから」 「……死んじゃったりしないよね」 「桃花が生きてる間には多分私、生まれてすらいないよ」 花は笑い混じりで言ったが、空気は変わらなかった。 違う、そうじゃない。 お互い何も言えず、沈黙が続いた。花が息をのむ音が聞こえた。 「この家、縄跳びってある?」 「あるけど……何で縄跳び?」 「私ね、ずっと思ってたの。どうせ帰るなら、縄跳びで帰りたいなって」 数年ぶりに開けた、外で遊ぶおもちゃを片付ける箱。その中にはキックボード、ローラースケート、砂遊び用のおたまなどが入っていた。その中に一緒にいた縄跳びは、砂まみれで汚かった。 まだ月が出ている薄暗い朝、午前四時。私達は庭に出た。 私が小学校時代に使っていた縄跳びは、花にはピッタリの長さだった。 「両手で縄跳びを握ったまま、縄を前にもってきて。そう、そして縄を跳ぶ」 私の指示にそって、花はゆっくり縄を回した。一回、二回と連続で九回とび、とまった。 「じゃあね、桃花。ありがとう」 花は微笑んでそう言うと、足元で静止している縄を勢いよく飛び越えた。 一瞬にして花の姿は見えなくなり、彼女が持っていた縄跳びが地面に落ちる音だけが響いた。 ◇ 二百年も昔での生活は慣れないことも多いし、知らない人ばかりでしんどかった。だから私は、何も思い残すことなく、ようやく未来に帰れる。もっと早く帰りたかった。 ◇ 花の荷物は家に置いてあったものも含めた全てが跡形もなく消えていた。未来のものが現在にあると、いろいろと問題が多いのだろう。 気持ちの整理がつかないまま、花が寝ていた布団を畳んだ。すると、下には見覚えのあるノートが落ちていた。私と花が出会ったきっかけとなったノートだ。今考えると、二百年後にこんなノートがあるなんて考えられない。この時代で買ったのか拾ったのかしたのだろう。 花の書く文章には、いつも事実と嘘と希望が共存していた。 『だから、跳んでみた』 『私の時代の道具をたくさんみせたら、友達は喜んでくれた』 『ほら、咳も耳鳴りも止まって、呼吸が楽だ』 『もっと早く帰りたかった』 花の文章、それは日記と呼ぶのが一番当てはまるのだろう。だけど本当は、花が望む未来を描いた物語なのだと、私は思った。 彼女が使った縄跳びを拾うと、微かに温もりが残っていた。 「夢でも、妄想でもなかった……」 自然と頬に涙が伝った。
足りぬ欠片
私たちは、二人で一つ。それは心が、なんてものではない。 人格が二つある訳でもない。ちゃんと二人の人間。 だけど友からも国からも、認められているのは私ともう一人が演じる、もう一人の誰か。 私は私として生きたかった。 当時の日本は人口が増えすぎ、住む場所も食べるものも十分にない状態であった。そのため中国に習って一人っ子政策を行っていた。 私、さよと妹のすみは、普通の家庭に生まれてしまった双子だ。母さんは隠れて私たちを産み、国には「きよ」という名の女の子が一人産まれたと報告した。 「いい? あなた達はきよと言う名の、二人で一人の人間なの。さよとすみというのは区別をつけるための、ただのあだ名。そう、これはゲームよ。あなた達が違う人間だと誰かにバレたらおしまい」 私達は初めはこのゲームを楽しんだ。互いが互いの真似をし、学校での出来事を事細かに伝え合い、一人になるよう努力した。 「きよは勉強も運動も何でも出来るよね」 よく友達から言われた。当たり前だ。運動が得意な私と、勉強が得意なすみが交代して学校に通っているのだから。 誰にも気がつかれないほどそっくりな私達。中学生になってから、少しずつ一人から二人に崩れていった。私は背が伸びほくろが増え、すみは肌トラブルが目立つようになった。そして互いに趣味や思考がかわり、自由を求めた。それでも私はすみが大好きだった。 私はさよが羨ましかった。すみでもきよでもなく、「さよ」になりたかった。 私は運動が苦手で勉強が得意だ。私生活ではもちろん、体育の授業ですらさよが行っていたため、運動は全くと言っていいほどやっていない。だからか中学にあがる頃にはモデルのようなスタイルのさよと違って少しずつ肥えていった。 それは唐突だった。 テストがあり、体育のない日だった。 家に帰ると母さんしかいなかった。普段なら同時間に外出してしまっては人々の混乱を招くため、絶対にしない。してはいけないのだ。 「何をいっているの“きよ”。初めから貴方は双子なんかではなかったじゃない」 母に聞くと、こう返ってきた。仕方なく、 私達子供に対して無関心な父さんに尋ねた。 「あー、あいつか。今朝国の人間が家に来て連れてったよ。二人っ子だとばれたんだな」 「それで……あの子はどうなったの?」 「知らねぇな。違反したものだから処分にでもなったかな。どっちにしろもう二度と会えないっつうことだ」 「そんな……」 父さんは酒を片手にそう言った。 母さんは「きよ」が存在するから、娘を失ったという感覚は全くない。父さんは無関心だから、何も感じていない。友達やその他の人間は、私達二人を一人の人間として見ているから、母さんと似て、悲しみの感情はない。あの子を失った悲しみは私にしかない。共有もできない。 私は今、一人ぼっちだ。 すみは死んだんだ。生きているのはきよだけ。私はさよ。だけどきっと生涯さよと名を呼ばれることはないだろう。それでも私は「さよ」を必ず生かしたい。「さよ」として生きたい。 「きよー? 最近どうしたの。元気ないし、何よりあの体育の成績!」 「あはは……最近足を怪我したから、そのせいかも」 「そうだったんだ。早く治してね! 良きライバルが不調だと、こっちまで調子狂うんだから」 本当は怪我なんかしていない。一人の人間が何でもできるわけがない。 「あれぇ? きよちんちょっと太った? モデル体型持っているんだからちゃんと保たないとダメだよぉ!」 うるさい。うるさいうるさい! 私の持っているパーツだけじゃ、きよすら完成しない。 あの時死んだのは、すみ。すみでいい。すみじゃなくてはいけないんだ。それなのに私は、さよにもきよもなれない。 私は一生、私が嫌いな すみのままだ。
神様との約束
私は雨を、雲の涙だと本気で思っていた。そうではないことに気がついたのは、この間の理科の授業で、雲の出来方、雨はどうして降るのかを習ったからだ。 「雲の出来方はよく分からないけど、雨は雲の涙ですよね」 「誰か分かる奴いるか」と先生が言った時、私は自信もって手を挙げ、堂々と答えた。私は大真面目だと言うのに、クラスの全員がネタだと勘違いして笑った。 私は家に帰ってもそのことについて納得できずに、ずっと考えていた。確かに雲は生き物ではないし、目もないから涙は流さないのかも知れない。 ある日、天気予報では全国的に一日中晴れると言っていたにも関わらず、午後から全国で豪雨となった。 「すごい雨。あっ! ちょっとベランダに干している洗濯物を取り込んでくれない?」 お母さんに頼まれ、浮かない気持ちで「はーい」と返事をし、ベランダに出た。 洗濯物を全て取り込んだ後、ふと空を見上げた。そして目を見開いた。 黒雲は、美しい女性の悲しそうな表情をつくっていた。おまけに口にはいってきた雨は少しだけしょっぱい。 「お母さーん! 私のスマホ持って急いでこっちにきてー!」 「自分で取りなさい」と文句を言いながら、お母さんはすぐに来てくれた。 「見て、この空」 「見てって普通の空じゃない」 私は持ってきてもらったスマホで空の雲の写真を撮る。 「ほら、ここ……え?」 私の目には、しっかりと雲の女性が写っているのに、撮った写真はいつも通りの空だ。それは何度撮っても変わらなかった。 「お母さんは今忙しいんだから、そんな冗談に付き合わせないで」 そう言って台所に戻った母。だけどその間に私の考察は固まっていた。 普段の雨は、恐らく普通の水だ。だけどこの雨は、きっと 神様の涙だ。 他人の人生を好きにすることは出来ても、自分の人生はどうにもできない。誰かと関わることも出来ずに、一人でただ仕事をこなす。生きることも死ぬこともできない神様の、孤独な涙だ。 どうして私にだけ彼女の姿が見えるのか、その理由がなんとなくわかった気がした。 「そっちに行ったら、必ず探し出して友達になろう! あとたった数十年だけ待っていてください。貴方を一人にはしないから」 そう言って私は神様と約束をした。 触れることはできないけど、精一杯に腕を上げた。そしてしっかり、小指を結んだ。
明日を生きる僕へ
――もし、貴方がAIになると言うのなら、貴方に明日は来るでしょう。 ――ならないって言ったら? 僕に声をかけたそいつは目元をピクリとも動かさないまま、ゆっくりと口角だけをあげた。 ――ご想像にお任せします。 ただ、死ぬことが怖かった。 明日にはもう、息をしていないかもしれない。僕、川井研は産まれてから今までそんな恐怖と共に過ごしていた。 「じゃあね、けんちゃん。また明日ね。明日もくるからね」 ママはそう言って、眉を八の字にしながら僕のいる病室の扉を閉める。 「うん、バイバイ。ママ」 また明日。僕はこの言葉が嫌いだ。 違う。正確には「また」という言葉が嫌いだ。 またね。また明日。何を持って「また」が来ると確信をしているのだろうか。 未来についての意味でなくてもそうだ。 またか。まだなの? 「また」はいつも未来か下を向いている。だから、嫌いだ。 ママに手を振るために目の高さ程度まで挙げていた手を、無理にあげていた口角と共にゆっくりと下げる。 部屋には僕一人。静かだ。一月下旬の冷たい空気を暖めるために作動されているエアコンだけがカタカタと音をたてている。 「はぁ……」 ずっと体を起こしていたからだろう。全身がだるくてしんどい。 僕は生まれつき心臓の病気だ。そのせいで僕の体は同じ年の子よりも一回りほど小さい。 コンコンとドアを叩く音が響いた。返事をする間もなくドアが開く。 「こんにちは、研くん。身体の調子はどうかな」 「飯田先生……こんにちは。今日はいつもより良くないです」 飯田智。幼い頃から、僕はこの先生に診てもらっていた。今日もいつもの検査だ、そう思った。 「そうだと思ったよ。まだ十歳頃の子供にこれを言うのは心苦しいがね。恐らく君は一週間以内に死ぬ」 「……え」 戸惑う僕とは対照的に、飯田先生はピクりとも動かない。 「ど、どうしてそんなことが分かるんですか! 預言者じゃあるまいし、どうしてそんなこと……」 「取り乱すのも無理はない。だけど、あまり医者を舐めてもらっても困る。余命なんて分かるさ。ある意味予言だよ」 頭の整理が追いつかず、何か言いたくても口にできない。 「そこで、だ。提案があるのだよ。研くん、君は生きたいかい?」 「……っ! もちろん!」 飯田先生は黙って頷き、病室から出ていった。 数分後、見たこともない男が、ノックもせずに僕の病室に入ってきた。 「だ、だれですか?」 「ただのとある研究者です」 ロボットみたいな、不気味な男だ。 「もし、貴方がAIになると言うのなら、貴方に明日は来るでしょう」 「……ならないって言ったら?」 男は目元をピクリとも動かさないまま、ゆっくりと口角だけをあげた。 「ご想像にお任せします」 背筋が凍った。全身が痙攣のように震える。 「未来か、希望か。どちらかを選択するだけです。とても簡単です」 「少しだけ、今日一日だけ、考えてもいいですか」 「私はいつになっても構いません。貴方がその時に生きているのか、それだけです」 そう言って男はこの部屋を去っていった。 ベッドの隣の棚に置いてある国語辞典を開けた。未来とは、現在の後にくる時期、将来。希望とは、未来に望みをかけること。希望は未来がないとどうしようもないのだ。 翌朝十時頃、丁度ママが病室を去ったタイミングであの男がやってきた。 今日、僕はいつも以上に身体の状態が悪く、体を起こすことすらできなかった。 「決断は出来ましたか」 「……はい。僕は、僕は生きたいです。明日がきてほしい。ただ、死ぬことが怖い」 「了解しました。最後に一つ、貴方は未来か希望か、どちらか一つしか得られません」 「それは初めに聞きましたよ。だから僕は悩んだのです」 男は黙り込んだ。そして、何事も無かったように続けた。 「それでは手術を始めます」 ◇ 目を覚ました時、僕は硬直した。手術と言っていたのに、そこは病院ではない、見慣れない場所だったからだ。 「あの」 言葉を少し発しただけで、身体が震えた。 「僕の声……じゃない」 手も大きい。体も足も、僕より大きい。 「お目覚めですか」 部屋の奥の影からあの男が出てきた。 「あぁ、手術内容についてお伝えしていませんでしたね。手術は貴方の脳のデータを今の貴方の本体におくる、というものです」 「でしたら、その、以前の僕は今……」 「あの病室に行けば分かりますよ。尤も、見たくもないかも知れませんがね」 僕はこの場所をどこだか知らない。それなのに病院までの道は一度も迷わなかった。 普通に歩けることが嬉しくて、初めてエレベーターではなく階段を使った。走りたい気持ちを抑えて、落ち着いてのぼった。 「なんで、なんでなのよぉぉ!」 僕の病室がある四階に着いた時、女性の泣き叫ぶ声が聞こえた。声だけでわかる。母のものだ。僕は駆け足で病室に向かった。そして目の前に広がる景色を信じることができなかった。 「どうして、どうして。けんちゃん冗談はやめて、目を開けて」 僕は死んでいた。 「どういうこと……」 僕のものではないような僕の声。違う、川井研ではない何者かの声で呟いた。 「お望みのものは見られましたか」 後ろから声がした。ついてきていたことにも、背後に立っていたことにも気がつかなかった。 「どういうことですか! 僕は生きたいと言ったんです。死にたくない、と」 「現に貴方は今、生きているではありませんか。何がそんなに不満なのですか。私は言いました。未来か希望、どちらか一つしか得られない。それなのに、どうして希望がほしいと言うのですか。未来を手に入れたというのに」 母が僕達の隣を泣きながら通っていった。当然ながら僕が研であることには気づいてもらえない。 僕は頬を濡らした。 電気がついた院内より、外で輝く太陽の方が何倍も眩しかった。 ◇ 僕は隣の県の高等学校に通うことになった。本来なら小学校に通う年齢なのだが、体の大きさも頭も小学生と言うのは無理があった。 勉強も運動も簡単で、想像以上に面白くなかった。でも二日目にはすっかりクラスに馴染み、友達もできた。 「駅前に美味しいアイスが売ってる店があるんだよ。帰りしに寄っていこうぜ」 「敦樹! アイスか、いいね。行こう」 そう言って帰りに買ったのは、小さなカップに可愛らしくトッピングされたアイスだった。 「今まで食べたアイスの中で一番美味しい!」 「確かに美味いけど、大袈裟だろ」 敦樹は笑いながら答えたけど、僕の言葉は大袈裟という表現にははまらないような気がした。 生まれて初めてアイスを食べた。だけど美味しいとは感じなかった。味もない。只々冷たいものが口の中で溶ける感覚だけが広がる。世の中、嘘をつかないと生きていけない。 僕にはもう家族がいない。母も父も「川井研」の親だ。僕の親ではない。住む場所もない。だから、今は手術が行われたあの場所に住まわせてもらっている。名前も知らない男との二人暮しだ。 「あ、もう帰っていたんですね」 男は部屋で何か作業をしていた。 「えぇ、私は仮にも研究者ですから。こう見えて今も仕事中なのですよ」 「そうなんですか。あっ、そういえば今日帰りにアイスを食べたのですが味がしなかったんです。体の不調か何かですか」 「貴方は食べることが好きなのですね」 「えっ? まあ、入院中は楽しみと言ったら食事くらいでしたから」 男は手元から一瞬たりとも目を話すことなく続ける。 「だからでしょう。好きなことが簡単にできるのならば、それは生きる希望となります」 「そんな……僕はこれから好きなことを全くできないということですか!」 「私も詳しくはわかりません。何せ、人間のAI化の実験の成功は今回が初めてですから」 僕は何も答えずに外に出て、一人うずくまって泣いた。 「おーい、研? 何ボーッとしてんの」 いつからか、昼食は敦樹と二人で食べるようになっていた。 「あっ、そうだ。これ食べてみて。ソースの味が濃いめで、俺好きなんだ」 敦樹はそう言ってタレがたっぷりとかかった唐揚げを僕の口に突っ込んだ。 「ほんとだ。僕も濃いめが好きだな、凄く美味しい」 模範のような回答をしたつもりだった。それなのに敦樹は黙り込んでしまった。 「ごめん、今の嘘」 「何が?」 「濃いめのソース。これにかかっているのは薄めのさっぱりとしたものなんだ」 暖かい日差しの下で、背中に冷たい汗が流れるのがわかった。 やってしまった。 「研、もしかして味覚がない?」 「……そんなわけないじゃん」 目を泳がせる僕。その様子がもはや答えとなっていた。 「ごめん、本当はずっと気づいてた。研、昼食の時だけ様子がおかしいというか、話が噛み合わない感じだったから」 胸から何かが込み上げてきた。僕は1人じゃない、そう思えただけで身体が軽くなった。 「本当はね、敦樹。僕、人間じゃないんだ」 声が震える。 僕は話せる範囲で本当のことを話した。自分は希望を失ったかわりに、なかったはずの未来をAIになることで手に入れたこと。希望がないから、自分の好きなことを楽しめられないことなど。年齢などは流石に言わなかったけど、話せることは全て。 「ごめん……だからみんなを騙しているようなものなんだ」 数秒間の沈黙が、妙に長く感じた。 敦樹は僕の手をゆっくりと握った。 「人間かどうかとか、俺にはよく分からない。だけどさ、ほら、研の手はこんなにあっかたい。これが研が今ここで生きている証拠だ。希望がないなら、俺がお前の生きる希望になってやる」 僕は涙を流しながら笑った。太陽はこの涙に反射し、僕の未来を照らした。 貴方はどちらか一つしか得られないなら、未来と希望、どちらを選びますか。 希望はあっても未来がないとどうしようもない。どうにもならない。だけど未来があるなら、いつかきっと希望を見つけることができるから。今は暗闇の中にいて、孤独で辛くても、僕は光を探す。僕自身も誰かの光になりたいな、なんて考えながら誰かの光を探す。そのために僕は今日も暗闇の中を生きる。 明日を生きる僕へ
木漏れ日のウィンク
「あなた、凄く黒いから」 その日、白黒の世界を変えたのは“小さな幸せ”だった。 「もも、世界に色をつけて」 普通の高校生だった南雲ももは白猫のウィンクとの出会いをきっかけに 「世界のパレット」になった。 「ウィンク、貴方は一体…… 『木漏れ日のウィンク』 連載中 ―行くよ、世界に色をつける旅に―
ムスカリ ―さよなら、運命―
僕には年が二つ離れた妹がいた。名前は琴音。互いに呼び捨てで呼び合うほどには仲のいい兄妹だった。 勉強は少し苦手だけど、スポーツ万能で努力家。学年のトップを争うほどの整った顔立ちで、当然のように異性からも同性からも好かれていた。 そんな僕にとって自慢の妹は、もうどこにもいない。 三月二十七日、家の庭のムスカリの花の上で琴音は死んでいた。ずっと憧れていた高校生になる直前に。 この日受けた衝撃はこれだけでは終われなかった。 どうしてなのかは分からない。 僕は妹の死と同時に、予知能力を手に入れたのだ。 ◇ ――琴音は好きな人とかいる? 今なら兄ちゃんが恋話に付き合ってやるぞ。 いつも「好きな人いる? 彼女は?」と質問してくる妹に何も考えずに声をかけた。 ――学校ではいないよ。 ――学校ではだと。何、夏樹とか? 冗談半分で自分の親友の名をだした。 ――天音には内緒だもん。 なんだ、図星か。 いたずらっぽく笑う琴音を見てそう感じた。 驚いた。 目を覚ますと、泣いている自分がいた。 いつの日かの何気ない一コマを夢に見ていた。あまりに繊細だから、琴音がいなくなって一ヶ月が経つというのに、どこかに琴音はいると信じてしまう。 ピンポーン、と家中にインターホンの音が鳴り響き、すぐに扉を開ける音と母の大きな話し声が聞こえてきた。 「夏樹……? 来るの、早いね」 寝癖をつけたままそんなことを口にすると、夏樹はクスリと笑った。 「寝ぼけすぎだよ、天音。もう九時、約束通りの時間でしょ」 スマホの起動させると、確かに大きく九時と表示された。 「マジか。ごめん、急いで準備する」 クローゼットを開け、服を取り出す。どれを着ようか迷ったものの、結局白いパーカーにジーンズのズボンを履いた、無難なもので夏樹の元に戻った。 ――協力してほしいことがあるんだ。 昨夜、それだけメールで送信し、今日夏樹を呼び出した。 僕達は家を出て少し歩くと、近所にある公園のベンチに座った。 「協力してほしいことって何?」 「夏樹に、琴音の事件の真相を解くことを手伝ってほしいんだ」 「……どうして? 警察に任せればいいのに」 どこまでを話すべきなのか、はたまた全てを話した方がいいのか。考えているうちに気がついたら長い沈黙をつくっていた。 笑われる。そう思ったから。 「……予知能力らしきものを手に入れたんだ。それも琴音の死とほとんど同時に。あ、とはいっても目があった人の未来が見えるって感じだから、今の夏樹の返事とかは見てないんだけど。犯人探しというより、この謎を解きたいのが一番なんだ」 「天音のことだからしっかりとした理由があるとは思ってたけど……流石にそんな理由だとは想像もしてなかったな」 この時、夏樹でよかった。夏樹に言ってよかったと心の底から思った。 夏樹は耳を触って苦笑した。これは昔からの癖だ。夏樹は困っている時、緊張している時などはいつも耳を触る。 「わかった。何をするかも、何ができるかもわからないけど」 「ありがと……」 僕の手に重なる夏樹のその手が暖かく、心が落ち着いた。 無意識に顔を上げると、僕より少しだけ高い位置に夏樹の顔はあった。そして必然的に、僕の目には夏樹のまっすぐな瞳が映る。 時計の針は丁度十二を指している。外が暗いからきっと夜中だ。 雨音だけが響く部屋で、夏樹は一人、パソコンを操作している。 不意にインターホンがなった。夏樹は驚いた顔をしつつも駆け足で玄関へ向かった。 夏樹は恐る恐るドアを開けたが、相手の顔を見るなりその表情は和らいだ。知り合いだったのだろう。しかし、その相手の顔、様子はこちらからは全く見えない。会話の内容も声も、何も聞こえない。 そして唐突に事件が始まった。 至って普通だったその景色が赤く染まった。 夏樹の腹部に包丁を刺し、相手は何事もなかったかのように立ち去った。夏樹は痛みや苦しみよりも驚きが大きいようだった。信頼していた人だったのだろうか。 一言、「どうして」と聞こえた気がした。 どこか遠くで夏樹の声が聞こえる気がする。 どこにいるのかは分からない。辺りを見回しても姿が見えない。一体どこにいる。 夏樹―― 「……まね! 天音!」 目の前には眉を八の字にして僕を見つめる夏樹がいた。 「天音、何で泣いてるの」 いつまでも優しい口調だ。 そして、僕は自分が泣いていることに初めて気がつき、慌てて涙を拭った。 「ううん。なんでもない。ただ、温かいなぁって思って」 頭の中で流れたあの映像。その中の夏樹の手の感触が安易に想像出来た。硬くて、冷たくて、まるで手の形をした石のような何かのようで。想像だからもちろん実際に感じたわけではない。ないはずなのに、感覚や心情が繊細に蘇っているような気がする。 夏樹はここにいる。だから安心してもいい。そう思ってしまう。だが、僕が見た“あれ”はきっと予知夢のようなものであり、運命である。そして運命の変え方を、僕は知らない。 このままだと、夏樹は確実に死の運命を辿る。 琴音の死に方はあまりに不自然であった。 血一つ流さず、また首を締められたといった跡もみられない。だからといって体にも異状はみられなかったため、死因は全く分からない。自殺か、他殺か、あるいは自然死か。警察は頭を抱え、専門家や全国の人々は興味を持ち、面白がった。 「さて、続いてのニュースです。十五歳の少女が不可解な死を遂げた事件について、約三週間が経過しましたが……」 場面が切り変わろうとしたのと同時に、気がついたらテレビの電源を消していた。 目が覚め、鳴り響く目覚まし時計を止めた。 何も考えることなくスマホを起動させると、「今日の予定」と通知が届き、大きく表示された。 ――ねぇ天音。タイムカプセルつくらない? 琴音は食べ終えたばかりのお菓子の缶、カラフルな便箋とペンを持って駆けてきた。 ――タイムカプセル? ――何かを埋めて、二年後に掘り出すの。 ――二年後? タイムカプセルならもっと時間が経ってからじゃないと、きっと覚えてるよ。 琴音は数秒間、眉間に皺を寄せて考えた。 ――なら、私は二年後の天音に手紙を書くから、天音は二年後の私に手紙を書いて! どうして二年後ということにこだわるのか、当時の僕は分からなかった。分かるはずもなかった。 ――でも、天音忘れっぽいからなぁ……あ、そうだ! スマホ貸して! 僕は無言でスマホを取り出し、渡した。 ――これでよし、っと。 返ってきたスマホには可愛いらしいフォントで「タイムカプセル」とだけ書かれていた。 「タイムカプセル……!」 忘れてしまっていた。琴音は怒るだろうか。 庭に飛び出ると、タイムカプセルを埋めた場所を探し始めた。 二年もの月日が経つと、掘り返したはずの土はすっかり周りと馴染み、どこに埋めたのかは分からない。 探し始めて二十分ほど経った時だった。スコップが硬い何かにあたった。そこを更に掘ってみると、お菓子の缶の柄が見えた。間違いない。 缶は大きく、見つけてから取り出すまでにかなりの時間がかかってしまった。 缶の蓋は凹みがあったものの想像以上に簡単に開けられ、掘り返して柔らかくなった土の中に尻もちをついた。 中に入っていたのは、手紙だけではなかった。 ユリの花だ。枯れ果て、真っ黒になってしまっているが、ユリは琴音が一番好きだった花だ。色はこれまた琴音が一番好きな黄色だったのだろうか。琴音が黄色いユリの描かれたノートやペンを持っていたことを思い出した。 琴音は花言葉を調べることも好きだった。たしか、黄色いユリは「陽気」といった意味だったと思う。 箱を見つめているだけで、どうしてだか涙が溢れてくる。 「二年後の天音へ 元気に生きてる〜? 私、まだ生きてる〜? なんて、多分死んでるよね。だって生きてたら絶対にこの手紙読むな! って言ってるもん。何で死んだか知ってるかって? だって、私が天音に予知能力をあげたから」 ◇ 手が悴んで上手く動かせない、七歳になったばかりの一月。彼と出会った。 彼は私よりも天音よりも多分すごく年上だった。 そして、出会ってまだ数日のある日、彼は私の目の前で醜い音と共に風吹をあげた。赤い、血の風吹を。 「本当はね、運命を変えることは許されないし、不可能なことなんだ。だけど、僕みたいに予知能力をもっている人は、その運命を自分の死と能力と引き換えに変えることができる」 当時の私には彼の言葉を理解出来なかった。 「僕は君のために死ねてよかった」 これが、彼の最後の言葉だ。 たった今手に入れた能力について考える。そして思った。 私も死ぬときは誰かのために死にたい、と。 ◇ この手紙で全て、わかった気がした。琴音が死んだ理由、不可解な死に方の真相、全て。 運命は変えてはいけない。仮に変えてしまった者がいた場合、その人物は生かしてはもらえない。つまり、死ぬのだ。そして持っていた能力は、死んだ者が運命を変えてしまった者に受け継がれる。 琴音は、予知能力を持っていた男性が琴音の運命を変えたことでその人から予知能力を受け継いだ。そして、琴音は僕の運命を変えたことで死に、僕はその琴音の能力を受け継いだ。 僕や琴音、手紙の中に出てきた男性の運命は何も分からないが、きっとこういうことだと思う。 これらの考察が当たっているのならば、もし夏樹の運命を変えれたら、僕は死ぬ。友達の為に死ぬことができるのか、という問に対して怖気付いてしまう自分が嫌になった。 夏樹に話すべきか、随分迷った。が、この重くて多い事実を一人では抱えきれなるなった。 夏樹は目を見開き、しばらく瞬きを忘れていた。それもそうだ。誰だって「自分の余命が一ヶ月以内」なんて告げられたら驚かない訳がない。 「こんなこと、一人で抱えて辛かったよな……ごめん」 引きつった笑顔を見て、夏樹に話して良かったと心の底から思うことができた。 俺の目が覚めた時、ここが何処なのかが分からなかった。天国か、はたまた地獄か。死んでいるはずの自分の意識がハッキリとしている事に理解が追いつかなかった。 自分の手を握ると、温かかった。そこで初めて自分がまだ生きていることを自覚した。 いつも通りに何も考えずにトーストをやき、バターをのせ、テレビをつけるとニュースが流れてきた。 「今朝七時頃、佐々木天音さん(十七歳)が自宅で倒れている状態で発見され、死亡が確認されました。死因は分かっておらず、警察は今年三月に起きた天音さんの妹である佐々木琴音さん(当時十五歳)の事件と何かしら関係があるとみて捜査しています」 初めて聞く言語をきいているかのように、何を言っているのかが理解出来なかった。 天音のことは大好きだった。 ふと、手に握っているスマホに目を向ける。昨日の夜中に一件、天音からの通知が入っていた。 少し汚れた手紙と枯れ果てたユリの花の写真。ユリのとなりには「黄色いユリ 花言葉 陽気」と書かれたメモが映っていたが、送られたユリは、枯れているからかどう見ても黒だった。 背筋が凍った。黒いユリの花言葉は 『呪い』『復讐』 偶然、ただ枯れただけなのかもしれないが、俺には一つ、思い当たる節があった。 琴音や天音の予知能力はどのくらい正確に、どのくらい先まで見ることが出来るのだろう。ようやく手に入れたこの能力を自分自身で見つめるようにして考えた。
鬼姫の星回り
今は昔、人々が暮らす町には「鬼」が住んでいた。その容姿は人間と差程変わらないが、力、性格、身体の丈夫さと言ったら人間なんて比にならないレベルだった。 鬼は人を襲う者も多いが、時に寄り添って仲良くなろうとする者もいる。しかし人間は性格なんて関係なしに鬼を恐れ、遠慮なしに殺す。鬼を殺すことが仕事である鬼狩りという職が出来たくらいだ。 これは「天才」と呼ばれるある一人の鬼狩りと、鬼の中で「姫」と呼ばれる鬼に生まれたある一人の少女の物語である。 ◇ 「任務だ」 それだけ言われ、僕は特令室に呼び出された。 「彼岸町に約五十の鬼が姿を見せたそうだ。被害も出ているすぐに向かえ」 「承知しました。ちなみにチームは」 「チーム? 何を言っている。五十程度の数で特級である君一人では戦えんというのか」 特長は口角を少しも動かすことなく早く行けといわんばかりの目をしていた。 「いえ、私一人で十分です。直ちに向かいます」 あまりに鬼畜だ。狂っているとしか言いようがない。そんなことを考えながらも急いで現地に向かった。 地獄という言葉がまさに相応しい、そんな光景だった。 火元が緩んだのか家は火を吹き、何人もの人が地べたに這いつくばっている。 これだけの怪我人と五十の鬼を同時に対処しろって、いくらなんでも無理があるだろ。そんなことを考えながら、僕はいつものマスクを身につけた。やっぱり着物には合わない。 「ねぇねぇ。私が人間の避難を誘導するから君は向こうに行ったら?」 耳元で話しかけられ、思わず振り返る。そこには僕と同じ年くらいのおかしな被り物を身につけた少女が立っていた。 「すみません、ありがとうございます。よろしくお願いします」 僕は礼を言うとすぐにその場から立ち去った。何の疑いもせずに。 鬼を見つけるなり、腰の刀を抜いた。そして深呼吸をすると一気に走り出す。 ここにいる鬼は約十五体…いける。 大きく刀を振りながら駆けていく。数が多いだけでそこまで強くはなさそうだった。 一気にいこうと、鬼の肩を踏み台にして高く飛んだ。すると空中で足首を強く握られた。 (やばい…落ちる) どう切り抜こうか考えていると足首の握られる感覚がとれ、体がふわりと浮いた。 恐る恐る見上げると、先程の少女が僕を抱えて屋根の上に立っていた。余りに軽々しく持っているものだから少し困惑する。 固まっているといきなり僕のマスクをとった。 「お前、なかなか可愛らしい顔をしておるな。私の好みだ。」 そう言って自分の被り物を剥いだ。 少女には鋭い角と牙、赤い瞳があった。鬼だ。 「―っ! 貴様、離せ!」 「おや、それが命を助けた恩人に対する態度なのか。」 少女は不敵な笑みを浮かべ、僕の体を更に強く握った。 「皆、今日は帰れ。私の目的は手に入れた。」 約三十の鬼は揃えて返事をし、一斉に姿を消した。 それと同時に僕の意識は途絶えた。 ◇ ねっとりと湿った空気に違和感を覚え、僕は目を覚ました。 昼のはずなのに視界は薄暗く、目の前に置かれた小さなランプだけが光源だった。 微かな明かりに反して薄い人影が見えた。あの少女だった。 「私の名は清。皆からは清姫と呼ばれている。お前の名はなんだ。」 鬼が鬼狩りに名を名乗るなんて前代未聞だ。それに鬼狩りが鬼に名を名乗るなんて、さらに有り得ない。 「お前は何のために僕を狙っていんだ」 帯できつく結ばれた手足を指して口にする。 「おいおい、せっかく名乗ったというのにお前とは。それに私の質問も無視ということかね。」 「鬼狩りとして鬼に名を言うわけがないだろう」 僕が清姫を睨むと、彼女は「怖い怖い」とおどけた様子で笑った。 「私が君を目的にした理由はいつか話すとしよう。しかし困った。君がそんな様子だと私はいつ殺されるのか震えながら毎日を過ごさなければいけなくなるではないか。」 清姫は不敵な笑みを浮かべた。 そう言って僕の腰の刀を抜いて、刃先をピッタリとつけ、僕の顎をひいた。 僕は顎にピッタリとくっつく刀に冷や汗をかいた。 「仕方あるまい。私からの今日からのお前の仕事をまず伝える。」 呆れた顔でため息をついた。 「私の母を探し出してほしい。ただそれだけ。」 そう言うと刃先をゆっくりと下に向けた。 僕は予想より遥かに簡単、そして浅はかな理由に呆然としてしまった。 「たったそれだけ…?」 「たったとはなんだ。鬼狩りの君が鬼を介抱するというのはそんなに容易いことなのか。」 鬼狩りという仕事上、鬼からあまりに正しいことを言われ、言葉に詰まる。 “自分の命に替えてでも鬼を殺せ” 仕事を始めて誰もが初めに言われる言葉だ。僕だって言われた。今まではこの命をかけて戦ってきたつもりだった。でも、実際にこうしてみると自分の命に替えるのは怖く感じてしまう。 「…わかった」 こう言っても清姫の表情は怪訝なままだった。 「了承したというのに縄を解かずに疑い続けるのはどうしてだ」 「当たり前だろう。さっきまで敵であった奴をたった一言で信じられる訳が無い。」 自分に向けて言われたような気がした。 「言っておくが、僕は一度決たことを変えるつもりはない。だから…君の母を見つけるまでは必ず君を守るから」 少し沈黙が流れ、自分の言葉に恥ずかしさを覚え、顔を背けた。清姫は何をおかしく思ったのか「ふふっ」と笑い声を漏らした。 「………よ。」 「ん? ごめん、今なんて言った」 清姫が何かを呟き、思わず聞き返してしまった。 「何でもない。それより近くに行ってみたい所がある、着いて来い。」 僕の手足を縛る帯をほどいてすぐに歩き出した。結ばれていたところには少しだけ赤くあとがついている。 ◇ 近くの店でそこらの街人が身につけているような竹で出来た帽子を買い、顔を隠す為に着用した。 食べる物を探して食べて、歩いて寝て。清姫と共にこんな生活を始めて何ヶ月がたっただろう。 清姫は当たり前のように笑い、泣いた。清姫がどんな気持ちの時も、僕の心には二つの感情があった。 心を握りつぶされているような気持ち、そして胸を締めつけられるような、楽しいようで苦しくて、嬉しいようで辛い、そんな気持ち。これを何て言うのかは今の自分には分からなかった。 毎日毎日同じような日々を過ごしていたのに、どうしてだか毎日が全然違う日々だった。 違う。毎日が違う日々なのは当たり前だ。分かっている。分かっているのに、どうしてだろう。毎日が同じでもいいから続いて欲しいと願ってしまう。 ◇ 「…悠?」 同じ鬼狩りとして働き、仲が良かった来斗がいきなり僕の名を口にした。思わず振り返ってしまう。 「どこに行ってたんだよ! 心配で気が気じゃなかったんだ…ぞ」 隣にいる清姫の存在に気がついたのか、気持ち後ずさりしたように感じた。 「……鬼か」 スっと息を吸い、刀をゆっくりと抜いた。 「待ってくれ、彼女は違くて…」 「違う? 鬼は鬼だ。危害がでてからでは取り返しはつかない」 返す言葉は、いくら探しても見当たらなかった。 「…分かった。ならお前が殺せ。俺は手を出さない」 あまり深く考えることなく返事をした。 来斗は二、三歩後ろにさがった。 「何をやっている! 早くそいつを殺せ!」 來斗が叫ぶ。彼の怒鳴り声は初めて聞いた。 この世界が全てがモノクロの映像のように霞んで見えた。 「なんで僕が…鬼に生まれただけの罪のない彼女を殺さなければいけないんだっ」 周りにいる全ての人間が僕を冷たい軽蔑の目で見ていることが、気配だけでわかってしまった。 今までに僕は数えきれない数の鬼を殺してきた。町の人々には感謝され、後輩や同期には尊敬された。 周りからチヤホヤされたくて成し遂げた任務だっていくつもある。でも、今この任務を達成させたら周りがどうにでも好きなようになるといわれたとしても、僕は絶対にこの場所から動かない。 彼女は僕の後ろでずっと泣いている。 彼女は傷だらけで疲れ果てていて、どう見ても戦える状況とは思えない。僕以外誰も彼女を守れない。 「お願いだ、悠。お前が連れの鬼を殺さないなら、俺がお前もその鬼も諸共殺せと命令されたんだ」 頭のどこでも考えていなかった状況に一瞬目が泳いでしまった。そんな自分を心の底から軽蔑した。 「僕は…僕の命に代えてもこの子を守る。そう約束したから…この子…清のことを守るためなら来斗とだって剣を交える覚悟だ」 瞼をゆっくりとおろし、深呼吸をする。そして目を見開くと同時に剣を構えた。 僕はもうずっと前から殺し屋だ。数えられないほどの数の命を奪った。もう怖いものなんて何もないはずだ。 それなのにどうして、どうして手が震え、どうして足が竦んでいるんだ。 来斗だって同じだった。 涙目で、震える手で剣を落とさないようにすることが精一杯に見えた。初めの一歩目を踏み出したのは二人ほとんど同時だった。 剣が後数ミリで交わる、そんな時だった。 「やめて!」 清姫の叫び声と同時に僕と来斗の間に大きな溝が生まれ、その勢いで二人とも吹き飛んで尻もちをついた。 「清……?」 僕の目に映る清姫は、今までとはまるで別人だった。 手で覆っても少しの隙間から溢れるほど瞳から赤い光をだしていた。そして赤く光る涙を流した。 「来ないで!」 彼女のもとに行こうとした時、一瞬で僕の左足に激痛が走り、うずくまる。視線を落とすと膝上にぽっかりと穴があき、血が大量に流れていた。 気がついたら来斗は僕の目の前に立っていた。僕に背を向け、清姫に刃先を向けて。 「いくら悠が想う人だとしてもやはり鬼は鬼だ。で、所詮俺は俺だった。だから…悠を殺せそうにないや」 来斗は清姫を睨みつけるその目つきを一瞬だけ緩ませた。そして勢いのまま走り出す。 声が出なかった。何も出なかった。 時がゆっくりと流れているように感じた。そして僕も勢いのまま、走り出した。足から流れる血で真っ赤になった腕を、手を全力で振った。 時が流れるのは、僕の想像より遥かに早かった。 気がついた時には来斗の前にまわり、来斗の刀が肩に入っていた。みんなが驚き、何とも言えない顔をしていた。来斗も、きっと後ろにいる清姫も。 血を吐いても尚、刀を向ける僕に、清姫が服の裾を強く握った。 「もうやめて…お願いっ」 「やめるってったって、君は 「私を殺して」 血の気がひいた。胸が苦しくなった。どうしてそんなに真剣な目で見てくるんだ。 「私は悠を傷つけたから、私を傷つけてよ。じゃなきゃ納得がいかない」 微動だにしない僕を横目に清姫が言った何かを聞き取れなかった。 「お願い、貴方の手で殺してほしいの。貴方じゃなきゃ嫌なの。わがままは最後だから」 「お願いお願い」と泣きながら繰り返す彼女に、震える手で刀を向けた。 「またね、清」 誰にも聞こえないほど小さく、掠れた声で言った。 力の入らない腕に無理矢理力をいれ、刀を振り下ろした。 辛かったことが嘘だったかのように、眠ってからは心が楽になった。 僕らはほとんど同時に眠りについた。 この世界は青くて広い。どうして僕らは出会ってしまった。 ーもしも生まれ変われるなら そんな、意味もないことを考えた。 ーもしも生まれ変われるなら、 愛する人に「愛してる」と伝えたい。 清、僕は愛していた。 これは僕らの、“星回り”
木漏れ日のウィンク ♯2
『記憶の欠片』 「若年性アルツハイマーです」 数週間前に五十歳になったばかりの母に告げられたのは、信じ難い言葉だった。 アルツハイマー、別名“認知症”。 母に忘れられることが怖かった。いや、認知症の母と母が死ぬまで共に過ごさなければいけない自分の未来に怖気付いてしまったのが一番なのかもしれない。 ◇ 僕、澤田凛は至って普通の高校生だった。 母は完璧主義者で、仕事でも私生活でも、ミスをした母の姿を見たことがある人はいなかった。 母に初めて違和感を感じたのは、数ヶ月前の何の変哲もない日だった。 「凛ー? ごめんね、朝ごはん作るの遅くなっちゃって」 言葉だけを聞くと何もおかしくは感じないが、僕は酷く驚いた。この時僕は既に母の作った朝食を食べた後だった。 「何言ってるの? もう食べたよ」 母はしばらく固まっていたが、しばらくすると誤魔化す様にしながら僕を見送った。 休み時間、父から珍しく電話があった。 「最近、母さんがおかしいと思わなかったか。今日病院に連れていったんだ」 「それで、どうだったの?」 どうせただのストレスや疲労だろう。そう思い、軽い気持ちで質問したのだが、流れる沈黙が何かを物語っていた。 父が深く深呼吸したことが電話越しでもわかった。 「認知症だったよ」 「……え」 驚きのあまり、言葉を失ってしまった。 「でも、母さんはまだ五十だよ。認知症になるには早すぎるって。何かの間違いじゃ……」 「若年認知症ってのがあって、若い人でも認知症になることがあるそうだ。だから母さん、これから先、介護が必要になっていまうと思うんだ。……辛いかもだけど協力してほしい」 しばらくの間放心状態で、気がついたら電話を切っていた。 部活は、勉強は、どうすればいいのだろうか。彼女を作ったり、友達と関わる時間はあるのだろうか。母に忘れられてしまうのではないか。自分の心配と不安が猛烈に込み上げてきた。 家に帰りたくない。帰ってしまうと、きっと実感してしまう。 時間が待ってくれるはずもなく、一日の終わりを告げるチャイムと共に全員が足早に教室を去った。 「凛ー? まだー?」 「ごめん、すぐに行く」 高校生になり、出来たばかりの友達にこんなことを言えるわけがない。言ってしまうと面倒くさがられるに決まってる。 重い足を持ち上げ、扉に向かった。 友達には「忘れ物した」と言い、先に帰ってもらった。もちろん忘れ物なんてしていない。落ち着いた足取りで教室に向かった。 教室の端では誰が外を眺めていた。 窓には、桜の花びらが宙で踊っている様子が映されていた。 「帰らないの?」 僕の声に驚いたのか、彼女はパッとこちらに振り返った。 名札を見て、彼女の南雲ももという名前を初めて知った。 「澤田君こそ。というか……どうしたの?」 「何が?」 「すごく黒いから」 気がついたら魔法にかかったように母のこと、父のこと、不安。全てを話していた。 「記憶っていうのは、パズルみたいなものなんだよ」 南雲が口を開いた。 「すぐになくしてしまうのに、それを探し出すことは難しい。たった一つのパーツだけだと何を表しているのか分からないのに、全てが組み合わされると美しい物になる。ただし、一つでも欠けるとそれは完成出来ない」 「結局、何が言いたいの」 「一度なくしてしまうと再び見つけるのはすごく難しい。でも、不意にそのパーツが見つかることがあるのかもしれない」 南雲は初めて僕の目を見た。 「どんなように時が進んでも、忘れられても、お母さんと向き合い続けるの。あなたが与える暖かさが、きっとなくしたパーツを見つけるヒントになるから」 南雲にお礼を言うと、教室を飛び出した。 記憶の欠片を集めてみると、どんな形が出来上がるのだろう。 楽しい思い出の時もあれば、辛い過去の時もあるかもしれない。 どんなものであっても、一つ一つを大切にしたい。 そんなことを考えながら、僕は今日も母と共に生きている。 これから先もずっと、母と共に生きていく。 澤田凛に色がついた。
手動の扉をひらいたら
明日は、元気ですか。 なんて問いかけても答えが返ってくることはありません。 どの扉を開けると、 貴方に会うことが出来るのでしょうか。 しかし、貴方が会えない明日に会うために 私はまだこの扉を開けません。 次はどれを開けるべきなのでしょうか。 あなたはどの道を選ぶのですか。 その、たった一つの選択に 自分の全てを託すことができますか。 どんな扉もみんな手動なのです。 争いの扉も、恋の扉も、明日への扉も。 世には自動ドアがありますが、 心にはそんなものは存在しないのです。 どんな状況でも 扉を選ばなければ、 開けなければいけないのです。 どれを選ぶのかは自分次第。 あなたはどんな扉を選びますか。 その答えがあなたの未来をつくるのです。
木漏れ日のウィンク ♯1
『音のないピアノ』 私には「色をつける」ということがよく分からない。 美術はいつも飽きてしまうし、絵の具パレットも筆もいつも固まったまま。まずどうすれば世界に色がつくのかすらわからない。 試しに筆と赤と書かれた絵の具をとり、近くにあった画用紙いっぱいにのばしてみた。それでも私には、灰色にしか見えない。 「ウィンク、私どうすればいいの?」 「この前言ったよ。色は人間の心によって変わるって」 違う。私が聞きたいのはどうすれば色をつけられるのかであって、そんなことではない。 「……心の色を変えれば世界が変わる?」 ウィンクはニコリと笑ってみせた。返事はしなくとも、それが答えだとわかった。 ◇ 私、浅田小春には夢があった。大好きな兄、颯のようなピアノの演奏をすることだ。力強くたくましいが、透きとおるように美しい。そんな颯のピアノが大好きだった。 そんな颯のことが嫌いになったのは、雨の日だった。そして、颯が聴覚を失った日だ。 学校からの帰り、車との接触事故が原因だった。 私は母に連れられ、急いで病院に向かった。大好きな兄が心配だったから。 でも、私が病室に入った時に待っていた人を、颯だとは思えなかった。その瞬間に大好きな兄は「大好きだった兄」へ変わってしまったことがわかった。 颯は笑った。寂しげで、それでも心配をかけたくなくて無理矢理。そんな笑顔に見えた。 「……こはる、ごめんね、」 颯のものとは思えない程に、今にも消えそうな弱々しい声だった。そして、彼が声を発したのはこの言葉が最後だった。 「浅田さん、どうかしたの?」 休み時間、声をかけてきたのはクラスメイトの南雲ももだった。 クラスメイトといっても、言葉を交わしたことは無いほどに関わったことがなかったから、驚いた。 「浅田さん……なんか凄く黒いから」 誰かから〝黒い〟と言われたのは生まれて初めてだ。 「私で良ければ、話聞くよ」 どうしてだか、気がつくと全てを話していた。 「浅田さんはお兄さんのこと、嫌い?」 「大嫌い」 「どうして?」 「それは……」 ここで言葉を詰まらせてしまう自分が嫌だ。 「私が口を出していいとは思えないけど、浅田さんはどうしたいの? 私にはあなたが後悔して悩んでいるようにしか見えない」 沈黙が続き、周りからの雑音が大きく響いているように感じる。 「そんなの……謝りたいに決まってる。でも声は届かないし、大好きな音色だって死んでしまった」 「私に一つ、提案させて。すごく単純なものなんだけど」 私はゆっくり頷いた。 二週間程が経ち、私は誕生日を迎え、十六になった。 今日は恐らく、絶対に颯と会話をしなくてはいけない。憂鬱な気分で起床した。 「誕生日おめでとう!」 一階に降りるなり父が声を響かせた。 颯は急いで赤くラッピングされた袋を持ってき、悲しい笑顔をつくって私に渡した。 「あ、ありがとう」 声は届いていないはずなのに、颯は嬉しそうな顔をした。 颯はゆっくりとピアノ椅子に座り、深呼吸をしてから鍵盤に指を置いた。 私は目を瞑った。演奏を聞いてしまうと兄が今までの兄じゃなくなったことを実感してしまう恐怖、そして少し楽しみである気持ちを混ぜて。 一音目は柔らかかった。 二音目も柔らかく、三音目は少し力強かった。 四音目からは力強くも美しい、鋭いのに暖かい、そんな音楽がなっていた。 題名は忘れてしまったが、私が一番好きな曲だ。とても速くて難しいが、きっと指が覚えているのであろう。 ふと考えた。 音のないピアノを奏でる怖さを。どれだけ音をつくっても、自分にだけは届かない怖さを。 音が止んだ時、私は泣いていた。 音を間違えている所も幾つかあったし、颯は「不出来だった」と言うかもしれない。 私は颯が今までの颯でなくなったことを実感してしまった。それでも私はどんなものよりも今の颯の演奏、そして颯が好きだった。 ◇ 南雲ももは、登校してきた小春を見て安堵した。 小春が発するエネルギーは、真っ黒から真っ白へと変化していた。 いくら上から絵の具を塗っても黒にのみ込まれていたが、今の小春にはしっかり絵の具がのった。 浅田小春に色がついた。