中野水

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中野水

昨日、近所を歩いていると「お前、中野だよな?」そんな風に声をかけられた。なのでその晩、カツ丼を食し、空のどんぶりを外へ置いてみた。翌朝見てみると、どんぶりと蓋の間に挟まったマサシが「侍!侍!」そう連呼している。だって僕はコーラが好きなのに。 はあ? よろしくお願いします。

この世のありとあらゆる

生体認識完了。シリコン製アーム感度調節、調節完了。コード読み込み中。 私は今、白いベッドの上に裸で寝転んでいる。体中には電極がこれでもかと貼り付けられ、私の一挙一動は全てコンピュータへと記録される。 今こうして考えていることも、おそらく記録されているだろう。 多少の恐怖心を感じる。まだ誰も受けたことのない試験なので、それは仕方のないことだ。 コード読み込み完了。試験開始まで五秒前。 なんの事はない。私はこれからAIの被験者になるのだ。 性専用AIによる試験の、第一被験者である。 四秒前。 何も不思議なことは無い。いつの時代も、性産業が技術の進歩を促進してきたのだ。決して表に出ることはない。しかし、ほぼ全ての技術が性産業ために開発された。その副産物が、一般社会で役に立っていると思ってほしい。 私が体験するのは、この世のありとあらゆる性的テクニックを学んだAIが最適化をし、快感レベルを最高まで高めたものだ。 おそらく、いや、絶対に人間では再現不可能であろう。楽しみだというのが正直であるが、被験者として、そのひとつひとつを覚えておく必要がある。何も考えずに、快感に身をゆだねることができないのは少し残念だ。 三、二、一。試験開始。 では、私の体験談を楽しみにしてくれ。  その瞬間、私は体中にある性の秘孔を一斉につつかれて、あえなく果ててしまった。 

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この世のありとあらゆる

ディープナイトコンビニエンス呉

「あなたは死んでしまいました」 「えっ」 「さっきみたいに店を飛び出して、車に轢かれたのです」 「死んでないよ…」おれは言った。 「死んでるんです。あなた最近、家に帰りましたか?」  男はどこから出したのか、いつの間にかタバコを吸っていた。 「毎日帰ってるよ、昨日だって」言って、おれは自分の家が思い出せなかった。 「思い出せませんよね」  おれは、男を見た。 「あなたは死んでからずっとここにいる。ここっていうのは、あなたの思念が作り出した空間のことです」 「思念? 作り出した?」言葉を理解するのに時間がかかる。おれは何度か反復してやっと口が開いた。 「でも、須磨も。いつもの常連だって」 「あなたの頭にこびりついてたイメージなのでしょう。あなたの頭の中を、ほとんど占めているのがこのコンビニらしいです。で、それに付随するように常連。最期に、強烈なインパクトを残した須磨」  男のタバコが、さっきより長くなっているような気がする。 「まあ、なんていうか寂しい感じですけど、もう死んじゃったからどうでもいいですよね」  おれが言葉を探していると、男が続けた。 「あなた、近くで誰かが笑ってると、自分が笑われているのではと思ってしまうタイプのようですね」  それとこれと何の関係があるんだろうか。男は何かを言っているが、理解する前に頭から抜けていく。おれが死んだ? こうして生きてるだろおれは。 「女子高生がごにょごにょ、主婦ごにょ……。ごにょごにょごにょ。それと須磨という男も」  須磨という言葉だけはっきりと分かった。そうだ須磨のやつめ。 「おれは、須磨のせいで…」 「それはちょっと違います。須磨はあなたが思っているような人物ではありません」  どういう意味だろう。 「須磨はただの中年の男です」  膝の力が抜けそうになる。  そんなの納得できない。おれは身振り手振りで、その間違いを正そうとした。 「でも、あの、バッグに入ってた、あの」 「あれは生のサンマです」  一瞬、サンマがなんだか分からなくなった。 「さんま」おれは言った。 「サンマです」男のタバコはどんどん伸びている。 「須磨はサンマを肴に酒を飲むのが好きな、ただの中年の男です。事件の凶器と似てますからね、サンマ」  おれは今度こそ、膝から崩れ落ちた。 「そんなわけないと思いますよね、普通は。だから思い込みって怖いですね」男は、長すぎて吸いづらそうなタバコをもみ消した。 「…おれは、どれくらいここにいたんですか」 「どれくらもなにも、さっき死んでまだ一分も経っていません」 「え、でも」 「夢みたいなものだと思ってください。少し寝ただけでも、やたらに長い夢を見ることありますよね。それと同じです。現実では、あなたが死んだことをまだ誰も知りません」 「そうなんだ」  おれは不思議と安心していた。何も知らずにここで存在し続けるよりも、迎えが来てくれただけでも良かったと思った。どうせ生きていても、おれには仕事以外何も無い。 「じゃあ、そういうことですから」男は言って、真っ黒の中に入っていこうとした。おれには見えないが、どうやら出入り口のようなものがあるらしい。男は両手を使ってそれを広げている。向こうからは、濡れたアスファルトのような匂いがしてきた。 「そっちに着いて行けばいいの?」おれは言った。 「別に着いてこなくてもいいですけど」首だけをこちらに向けて、男が言った。 「そうか、ここにいれば成仏できるのか」  おれはその場に座り込んだ。しかし地面は無く、真っ黒の上に駐車場と同じ高さで浮いている。 「さあ、それは知りません」 「え?」 「やっぱりあなたは思い込みが激しいですね。私は迷える魂を救う、案内人とかではありません」  男の身体はもう、真っ黒の向こう側にある。声はくぐもって聞きづらい。 「あなたみたいな、死んだことに気付かない人に『もう死んでますよ』と教えてあげるのが好きなだけです」男の全身がうっすらと黒に染まっていく。 「成仏できるといいですね」男は言って、真っ黒に消えた。  瞬間、もの凄い衝撃を感じた。  気がつくと、おれはコンビニの中にいた。クリスマスソングに腹が立つ。 「おい、新人」  側には、陰気な中年が立っている。

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ディープナイトコンビニエンス呉

ディープナイトコンビニエンス④

 ところが、電話は繋がらなかった。  電話線も、電源も繋がっている。一一〇番も合っている。しかし、なぜか呼び出し音が鳴らない。 「えぇ、なんでなんで?」焦りで背中が冷たくなる。  おれは受話器をデスクに叩きつけた。電話線や電源を抜いたり差したり繰り返す。それでも結果は変わらず、電話が警察を呼び出すことはなかった。  モニターを見ると、須磨はレジカウンターに戻っていた。  まずい。  おれは、何食わぬ顔で店内に入ると、とくに乱れてもいない商品棚を直すフリをしてからカウンターに戻った。  須磨は何も言わず、隣に立っている。おれも黙って立っていた。  やはり緊急ボタンを押すしかないのか。いや、反対にこのまま朝まで何事も無く過ごしたほうが安全かもしれない。  おれが、おでんをかき混ぜながら考えていると、突然、須磨がしゃがみこんだ。おれは動きを止め、いつでも走り出せるように片足に重心を寄せる。  須磨は収納から割り箸の束を取り出すと、レジ横に補充した。  おれは、ふうっと息を吐く。もみあげから汗が垂れ落ちた。  すると今度こそ須磨はこっちを向き、ゆっくりと歩き出した。手には鈍く光る、銀色の物が握られていた。  もうだめだ。  おれはとっさに、カウンターを飛び越えた。しかし、レジ周りにある割り箸やらスプーンやら募金ボックスやらに引っかかり、それら全部をぶちまけてカウンターの向こうに転がり落ちた。  手首からミシっと音がした。  眼鏡のフレームが顔面にめり込む。 「くるな」と言いたかったが、口から出たのは「うわぁぁ」だった。  片方の靴が脱げたが、おれは構わず店の出入り口に向かって走り出した。 「…ング」須磨が何かを言った気がした。  うろうろしている常連をすり抜けると、二回転んでドアにたどり着いた。全身をぶち当てて押し開ける。口の中で鉄の味がした。すぐ後ろに須磨がいるような気がして、振り返ることなく駐車場を突っ切った。  車道に出て助けを呼ぼう、そう思ったが無理だった。  駐車場の敷地外は真っ黒で、何も無かった。  おれは、脳みそを吸い出されたみたいに思考が止まった。  少しして、さっきまで頭の中を占めていたことを思い出した。  はっとして振り返ると、真っ黒の空間にコンビニと駐車場だけがぽうっと浮かんでいる。  店の入り口から、須磨が出てくるのが見えた。  おれは再び、前と思われる真っ黒な空間に向き直って走り出した。  ときおり振り返るが、コンビニとの距離が変わらない。  反対に、須磨との距離はどんどん縮んでいく。  須磨が敷地と真っ黒の境まで来たとき、おれは走るのをやめた。  もうなにがなんだかわからない。 「なにがなんだか分からないだろう」須磨が言った。  見ると、それは須磨ではなく、銀色のおでん用トングを持った全く知らない男だった。細身で髪をぴっちりと横に撫で付けている。つり上がった目がおれを見ていた。 「なにがなんだか分からないですよね」男が言った。  おれは何も答えられない。

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ディープナイトコンビニエンス④

ディープナイトコンビニエンス山

 力の入らない脚をなんとか動かし、おれはなんとなく店内へと向かった。  ドアを開けると、動けなくなった。  須磨がこちらを見ている。おれの頭の中が筒抜けになっているような気分だ。  おれはすぐに視線を外すと、何事も無かったように歩き出した。しかし、かなり動揺しているようで、踏み出した一歩目は体重を支えきれずに膝から折れた。  靴紐を結ぶフリをして誤魔化そうとしたが、指先が震えて何もできない。  弱々しく立ち上がり、須磨を視線の外で捉える。  まだ見ている。  怪しまれるな、怪しまれるな。  それ以外考えられない。  抜けそうな腰をこらえるのがつらい。  自然体がわからない。  目尻の痙攣が止まらない。  おれは露骨に避けるのも不自然だと思い、あえてレジカウンターの中に入った。須磨の顔は見れない、恐らくこっちを見ているだろう。  どうすればいい。走って逃げるか? いや、こんな状態ではだめだ。走り出した途端に捕まりそうだ。そうだ、非常ボタンだ。あれを押せば、警察に連絡が行く仕組みになっていたような気がする。いや、どうだったかな。ただ緊急ランプが点灯して、店の外にいる人間に通報を促す装置だったかもしれない。ちくしょう、そんなこと覚えてねぇよ。でもとりあえずボタンを押せば、緊急事態を知らせることはできる。 「須磨さん、表の清掃してもらっていいですか?」自然と敬語になった。 「…」  須磨は答えない。陽気なクリスマスソングに腹が立つ。 「あの、外を…」 「さっきやりましたけど」須磨が答えた。 「ああ、すいません」  情けないほど声が小さい。 「じゃあ、ドリンクの補充いいですか?」 「…さっきやったんじゃないんですか」 「さっきのは在庫のチェックだけだったんで、お願いできますか?」 「わかりました」  須磨がバックヤードに向かって歩き出す。途端に嫌な予感がした。 「すいません! やっぱり表の清掃いいですか?」  須磨はこちらを振り返ろうともせず、何も答えない。 「あの、表の、ゴミ箱、ゴミ箱の袋! ゴミ箱の袋を交換してください!」怪しまれるなという考えは無かった。とにかく、あいつをロッカーに近づけてはだめだ。  須磨は黙って踵を返すと、こちらに戻ってきた。カウンター下の引き出しから、ゴミ袋とトングを取り出し、外に出て行った。  おれはその間、石像のようになって苔が生えてもおかしくないほど動けなかった。  よし、今のうちにボタンを。いや、果たして本当にそれで大丈夫だろうか。このボタンを押せば、店頭にあるランプが光る。しかし、ランプのすぐ側には須磨がいる。あいつがその気になれば、警察が来る前に事は済むだろう。しかし、須磨は必ずロッカーに戻るはずだ。その間に逃げれば…。  いやいや、果たしてバッグに入っている包丁で全部なのか? 小さな刃物を忍ばせている可能性だって十分ある。それで身動きを封じ、大きな方を使ってトドメを…。  いやいやいや、そんなこと考えるな。おれはどうすれば助かる?  どうすれば。  目だけを動かし、須磨の様子を見る。すでに一つ目のゴミ箱は終わっている。公衆電話で、女が物悲しそうに受話器を握っている。  電話だ。  そうだ、簡単なことだ。電話で警察を呼べばいいんだ。呼ぶ理由は何でもいい。警察が来れば、須磨の顔を見て気付くはずだ。連続コンビニ殺人鬼だということを。  おれはレジカウンターから飛び出し、うろついている客ふたりをすり抜けると、デスクまで行って受話器を取った。

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ディープナイトコンビニエンス山

ディープナイトコンビニエンス2

 一度声をかけたことがある。  しかし「ああ」とか「うう」しか返ってこないのでそれきりだった。気味が悪いが、コンビニの深夜なんてこんなものだろう。  いつの間にか、須磨が戻ってきていた。おれは、両肩が跳ね上がった。横目だけで睨む。空気の薄い奴は、総じて気持ちが悪い。  表の掃除はもう終わったのだろうか、それにしてはやけに速い。おれが見てないのをいいことにサボったのか、そうやっておれへの当てつけにしているのだろうか。どうせこいつも、おれの悪口を言っているに違いない。須磨は昨日、違うやつとシフトが入っていたからな。そのとき悪口を言っていたんだろう。ようし、確認してやる。 「裏でやることあるから、こっちよろしく」  須磨をレジに残して、バックヤードに向かった。 「…はい」須磨の声がはるか後ろで聞こえる。おれは寒気に追いつかれる前に、勢いよく扉を開けた。  入り口を抜けると、細長い空間があり、奥にはデスクがある。監視カメラのモニターと書類の束が密林のように収納されている。  昨日の監視カメラの映像をチェックしようとデッキを操作する。ところが、昨日の映像は見れなかった。映像はすべて砂嵐になっており、音声は一切聞こえてこない。その前日も、前々日も。今日を含めて過去の映像が見れなくなっている。  なるほどそういうことか、おれの悪口を言っている連中の嫌がらせだ。勤務中の悪口がバレぬよう、こうして監視カメラの記録を消してしまったに違いない。店長が何も言っていなかったということは、あいつもグルか。ちくしょう、年下のくせに。  おれはデッキのリモコンを放り出し、ずんぐと立ち上がった。  壁沿いにある冷蔵庫のドアを開け放ち、いつもの死角に座り込んだ。陳列棚からサイダーを一本とりだし蓋を開けた。もちろんこれは売り物であり、勝手に飲んでいいわけが無い。これは腹いせであり、おれの悪口を言っている連中、ひいてはそんなやつらを首にせず雇い続ける店長への嫌がらせでもある。  このコンビニの深夜は、おれが支えていると言ってもいい。サイダーの一本や二本くらい、勝手に飲んでもバチは当たるまい。  無断で飲むサイダーは、背徳感が泡となりゴクゴクと喉を刺激する。美味い。  ドリンクの隙間から店内を覗くと、須磨がレジカウンター越しにこちらを見ている。  ドキリとした、向こうからだと照明が反射して冷蔵庫の中は見えないはずだ。おれがなかなか戻らないのを怪しんでいるのだろうか。  念のため、そろそろ戻ろう。  飲み干したサイダーをいつもの段ボールに放った。先週飲んだ缶ビールに当たり、ガシャンと音がした。  冷蔵庫から出ると、ちょうど反対側にある従業員ロッカーが目にとまった。須磨のロッカーが少しだけ開いている。監視カメラで須磨の様子を確認すると、動く気配は無い。おれはロッカーの取っ手をつかんだ。  薄暗い空間には、黒いバッグと黒いコートがあった。両方とも黒で陰湿な感じだ。バッグのジッパーが少しだけ開いている。ロッカーを開けるのも、バッグを開けるのも同じだろ。自分に言い聞かせるようにひとりごちて、おれはバッグを開けた。  包丁があった。  いくつかの小ぶりな瓶に混じって、包丁が入っている。 「えぇ、うそだろ…」  人生で初めて立ちくらみをした。  体温が一気に下がった気がする。  全身の毛穴が開き、熱が逃げていくようだ。  漠然とした、とても大きな不安がおれを飲み込んだ。  身体の力が抜ける、しかし、何かをしなければいけないような気がする。  だめだ、何も考えられない。

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ディープナイトコンビニエンス2

ディープナイトコンビニエンス1

 隙間からギラリと反射しているそれは、刃物であることは間違いない。数秒だったか数十秒だったかの後、心臓の鼓動が倍になった。 「えぇ、うそだろ…」  おれは自分の意思とは無関係に、顔が引きつっているのが分かった。  「一連の事件の犯人は、いわゆる刺身包丁を凶器として使用しており、警察は現在…」テレビからは、最近起きている連続殺人事件のニュースが流れていた。  いつもの時間、いつものコンビニにおれは居た。もうここで働き始めて六年近くになる。今年もクリスマスソングが嫌いだ。 「おい、新人」  新人というのは、昨日入ってきた須磨という男だ。中年で、おでこから禿げ上がっている。 「…はい」  陰気な返事に、こっちまで気持ちが沈む。前の仕事も、人間関係がうまくいかなかったとかで辞めたに違いない。返事をするときくらいこっちを見たらどうなんだ。 「表の清掃しといて」おれは横目だけで言った。 「…はい」須磨は言って、のそのそ出て行った。  気持ちの悪いやつだ。仕事とはいえ、あんなやつと同じ時間に同じ空間にいることが情けない。強く当たって、自分から辞めますと言わせてやろうか。いや、そんなことをすればおれの評判が悪くなるだろう。店には監視カメラもあるし、音声もばっちり録音されている。この間も、夕方に働いている可愛いと思っていた女子高生が、おれの悪口を言っているところを見たばかりだ。若い女はこれだから馬鹿なんだ。自分が世界の中心だと思ってやがる。朝方に交代で入ってくる主婦も嫌いだ。おれを汚いものとして見てやがる。子供を生むと女はさらに馬鹿になるに違いない。きっとそうだ。しかしおれは男だ、ざまあみろ。  おれは一点を見つめたまま、しばらく動かなかった。 ふと店内を見渡すと、数人の客がいる。  客といっても、おれにとっては客と呼べるものでは無かった。こいつらは買い物をしない。毎日この時間に来ては、店の中をうろうろしたり、店先にたたずんだりしているだけだ。

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ディープナイトコンビニエンス1

入会特典につられた男は水素水を飲んでみた

 筋トレを始めたという随筆を書きたいと思ったのでここに記す。 しかし、その前に筋トレという言葉の意味を知らない人のために、筋トレとはどういうものかということを簡単に説明したいと思う。  要するに筋トレとは、ものすごく重たいものを持ち上げたり、引っ張ったり、押したりすることである。それを何度も繰り返すので、もちろん呼吸は乱れ筋肉という筋肉が悲鳴をあげるのだが、それをよしとした運動のことだと思ってもらえれば概ね間違ってはいない。  この筋トレを目的とした施設が近所に完成した。この施設はジムといって、己の筋肉を痛めつけるのが楽しくて仕方ない集団が人目を忍んで集まってくるのである。  重たいものを持ち上げ、引っ張り、押したりする場所が、自宅の近くにできたのだ。しかし、至極まっとうな人生を歩んでいる健全な人間なら、そんな施設ができたとしてもさほど気にならないだろう。いつも見かける石ころが、実はおにぎりだったほうがよっぽど気になるはずである。ところが、私は石ころみたいなおにぎりよりも近所にできたジムが気になった。  実を言うと私は筋トレをしたことがある。3年前、仕事が終わると人目を忍んで足繁く通っていたのを思い出す。 しかし、このジムは車で30分かかる。ジムを選ぶときの「近い・安い・清潔」の3原則のひとつを欠いてしまっていた。(この3原則についてはいつか後述したい) 安い・清潔は保たれていたものの、毎回30分の運転は苦痛だった。自分をなんとかごまかしてはいたが、結局、半年ほどで退会してしまった。  悔しさを抱えたまま、3年という時間が経った。あのとき、私がジムに通い続けていれば、きっと無職になることは無かっただろう。報告が遅れたが、私は現在無職だ。  そして先日、ついに自宅近くにジムができた。自宅から車で5分という好立地である。3原則のひとつを無事にクリアしたわけだが、まだ安心はできない。安い・清潔のふたつもクリアしなければならないのだ。  私はウェブサイトの申し込みページを見た。 「入会特典 11・12月の会費980円」 安い。驚くほど安い。3原則を軽くクリアしている。しかし、入会特典以外の月会費はどうだろうか。申し込みページを下にスクロールする。 「通常会費 4980円」 安い。間違いなく合格だ。以前通っていたジムは、6980円だったので遥かに安い。  文句のつけようがないくらい近い・安いをクリアしている。いやまだ安心するな私よ。清潔はどうだ。近くて安くても、施設内部がゴミ溜めになっているのでは話にならない。筋トレとは肌を限りなく露出し、汗を絞り出す作業の繰り返しである。もしゴミ溜めの中で行うとなると、得体のしれない病原体に侵される可能性もある。実は3原則の中で最も大切な項目は清潔なのだ。  私は気がつくと、ジムの入り口に立っていた。 「どちらさまでもお気軽に見学可能です」 記された立て看板を横目に歩を進めると、すかさず従業員とおぼしき女性が素早く近づいてきた。背中を冷たい線が流れる。 「見学ですか?」と従業員が言った。 「見学ですね」と私は答える。  女性は慣れた仕草で私を室内へ「どうぞ」と誘導した。黒を基調とした空間には、様々な器具が置かれており、想像以上に筋肉を痛めつけることができそうだ。私の口元はへの字に歪み、自分の奥底にある筋肉への渇望をにわかに感じていた。 「これは、重りを持ち上げるためのマシンです」 「これは、重りを引っ張るマシンです」 「これは、重りを押すマシンです」  それぞれの前で立ち止まるたびに、従業員の女が説明をしてくる。私は、なるほどな、という顔をわざとらしくしていた。説明に満足すると女が移動するので、私はその後ろをピッタリと付いて歩いて回った。最後にその場で永遠に走れるマシンを説明してもらい、すべての見学が終わると私は入会の意思を伝えた。  事前に調査したとおりの入会特典はもちろんのこと、2ヶ月間は無料で水素水が飲み放題になるようだった。水素水を知らないあなたのために説明すると、現代科学とオカルトを混ざり合わせた水のことらしい。要するに普通の水ではないのだ。ジムには水素水専用のマシンが置かれているが、見るたびに色が変わる。ジムの完成に合わせて後から運んできたということだが、足元は地面と完全に同化しており、まるで数百年前からそこに存在していたかのようだった。とにかく筋肉に良いそうだ。  試しにどうぞと言われ、水素水に口をつけると私は自宅にいた。目尻にあった深いシワが薄まった気がするが、元々薄かったような気もする。アマゾンの購入履歴を見てみると、買った記憶の無いものが数点表示されていた。水素水を口にする前は確実に存在していなかったものだ。  再び背中を冷たい線が流れた。私は身体が完全に冷めてしまう前に、プロテインとそれを作る容器を購入した。これからは、牛乳と納豆の消費量も増えるだろうと思っている。

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あの頃のように

茂が休日出勤に疲れて帰ると、妻であるリカが悩ましい顔でキッチンに立っていた。 「どうした、難しい顔して」そう言うと、茂は手に持っていた背広を椅子の背もたれにかけた。 「別にどうもしてないわよ?」リカの眉間からシワが消え、いつもの笑顔に戻った。 「どうもしてないのか」 「ええ、どうもしてないわ」 「そうか、どうもしてないんだな」 「どうもしてないわよ」  茂はリカを五秒ほど見つめると、背広を手に取り寝室に向かった。 「今日の夜はなんだい?」薄暗い寝室の奥から、茂の声がする。 「今日はねぇ、なんだと思う?」リカはわざとらしく甘ったるい声で言った。  茂は、懐かしいな、と思わず口元がゆるんだ。  同棲時代、リカは機嫌がいいと声色が違った。彼女なりの愛情表現であり、そんな日は食事が終わると茂を求めることが多かった。奥手である茂は、いつも喜んでその誘いを受けた。  しかし、結婚をした頃からお互いの仕事が忙しくなった。リカの甘い声も、忙しさの中に消えていったのだった。  性欲は強い方だと自負しているリカと、正真正銘の男である茂。ふたりの間にできかけていた壁は、この日、リカが壊すことを決めた。  茂は嬉しかった。ところが、喜び勇んでリカに飛び込むことができなかった。本当は食事の前でも、いや、今からでもと思っている。しかし、そこまで興奮していると思われるのが恥ずかしかった。茂は奥手だからだ。 「唐揚げかな」茂は寝室から出ると、精一杯いつもどおりの落ち着いた調子で言った。なぜか、リカの顔を見るのが恥ずかしかった。 「唐揚げじゃないわ」テーブルに両手をつき、リカは上目つかいで茂を見ている。 「唐揚げじゃないのか」 「ええ、唐揚げじゃないわ」 「そうか、唐揚げじゃないんだな」 「唐揚げじゃないわ」  茂はズボンをはき忘れていたことに気づき、何食わぬ顔で寝室に戻った。どうせ、すぐに全部脱いでしまうのだからこのままでもいいかと思ったが、興奮していると思われるのが嫌だった。  リカは茂がすでに臨戦態勢に入っていることが分かっていたが、同棲時代のように慎ましい女を演じることで茂の気分を盛り上げようとしていた。結婚してからは自分の時間を優先するあまり、無意識に茂を急き立てることがあったからだ。  今日くらいは、いや、これからはずっとそうしよう。リカは思っていた。  いつの間にか戻ってきた茂は、もう椅子に座っていた。所持している部屋着の中でも、とくに脱ぎやすいタイプのズボンをはいているのを見て、リカは目だけで笑った。意識しまいと思えば思うほど、無意識が勝手に働いてしまう。茂もまた例外ではなかった。 「ビールはあるかい?」とにかく落ち着こう、そう思うとビールが飲みたくなった。 「ビールはあるわ」冷蔵庫の前に仁王立ちになってリカは言った。手には、よく研がれた包丁を握りしめている。 「ビールはあるんだね」 「ええ、ビールはあるわ」 「そうか、ビールはあるんだな」 「ビールはあるわ」  茂はテーブルに寝そべり、器用に服を脱いだ。  そこへリカが近づき、茂の頭上から口にめがけてビールを注いだ。ビールはほぼ口を外れてしまい、茂の顔がビショビショになった。 「懐かしいな」茂は天井のその向こうを見つめている。 「そう、懐かしいわ」リカは包丁を両手で握りしめた。 「懐かしいんだね」 「ええ、懐かしいわ」 「そうか、懐かしいんだな」 「懐かしいわ」  室内の空気がピーンと張り詰める。  飛び回っていたハエは、突然固まったように動かなくなりフローリングの上にぽとりと落ちた。  向かいにあるマンションの街灯がすべて破裂した。  空が一瞬で分厚い雲に覆われ、激しい雷鳴が聴こえてくる。  信じられる者などいない、というスピードで茂の心臓を取り出したリカは、神をも恐れぬといった神業で傷口をピタリと閉じた。血は一滴も出ていなかった。驚くことに、心臓がなくても茂の体に異常は無い。しかし、ふたりが驚くことはなかった。 「本当に懐かしいな」 「本当に懐かしいわ」 「ぼくの心臓、またもとに戻るだろうね」 「さあ、それはわからないわ」 「そうか、わからないか」 「わからないわ」  食後の楽しみにしましょう、言ってリカは茂の心臓を冷蔵庫にしまった。  晩ごはんは、それは美味しいコロッケだった。

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あの頃のように

しゃべる思い出

「ここ、ぼくの秘密の場所なんだ」
「わぁ、素敵ね」 
 海沿いの公園で、二人はベンチに座っていた。海面をはさんで向こう側には、高層ビル群のイルミネーションが見える。
 湿った潮風が由美子の髪を揺らし、茂の鼻先を吹き抜けていった。
「由美子さん」
 茂は汗ばんだ手のひらを握りしめて言った。
「は、はい」
 由美子も緊張している。
「ぼ、ぼくと・・・」
 そのとき茂の耳から甲高い声が漏れてきた。
「懐かしいなぁ。結婚詐欺やってたとき以来だから、7年ぶりか。どんな女でも、この夜景を見せるだけで簡単に落とせたなあ。あいつら元気かな、おれのことなんか忘れて頑張って生きてほしいよ。ナッハッハ」
 茂の顔から血の気が引いた。
「違うんだ、こんなのデタラメだ! いや、デタラメじゃないけど、僕は心を入れ替えて本当に君のことを・・・」
 すると、また違う甲高い声が聴こえてきた。
「ここ懐かしいなぁ。私が殺した元夫たち、まだそこに沈んでいるかしら」

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(衝撃的で話題性のあるタイトル)

(唐突に始まる) (謎めいたキャラクターが話し出す) 「(いったい今何が起きているんだろうと思わせるようなせりふ)」 (なるほど、この人物がいる場所はこんなところかとわかる描写) (そして今まさにこんな問題に悩まされているというのがわかる説明) (主要キャラと思わしき人物が問題を解決すべく、最初の手がかりをつかむような流れ) (手がかりから手がかりへ、たまに全く関係の無い人物やエピソードを挟みつつ話は進む) (探していたのはこれだと思った矢先、待っていたかのようなもう一つの問題が起きる) (そしてその問題は主人公の過去に関係しているかのようなニュアンスで書かれる) 「(今まで触れてはこなかった、主人公の衝撃の過去を語り出す)」 (第二章に続くようにうまいことまとめつつ、次が読みたくなる謎めいた部分で終わる)

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