骸ノ詩

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骸ノ詩

皆さんこんばんは、骸ノ詩です。 暗い系が多いですが、寄り添えるようなお話を目指しています。 どうか皆さんの心に小さな灯りを灯せますように。 ちなみにコメントに喜びます(笑)

幸せ

真っ暗な部屋で、勉強机と睨めっこしていた。 眠れない夜だった。 特に行き場のない手のひらに、小さく光が差し込んだ。 永い永い夜が明けようとしていることは、何も意識しなくとも容易く理解できた。 重たい身体でゆっくりと窓のそばに移動する。 眺める。遠くを眺めて息をする。 窓を開ける。早朝の冷たくて温かい空気を吸う。 いい匂い。いい音。いい景色だ。 朝焼けを見る時、またその空間を感じるその時、私は幸せを感じる。

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幸せ

コインロッカー

音が聞こえる。 声、足音、数えきれない。わたしはここでいつも懐かしい革靴のかたい足音を探している。 五月蝿い。ほかの音は何も要らない。あの足音さえ聞ければ。 わたしは薄暗いなかで目を閉じる。 何も見えないように、目を閉じる。 耳は絶対に塞がない。あの、コツコツという足音を待っている。僅かな希望のためにわたしは耳を塞がない。 でもつぎの一呼吸のうちに、目を見開いた。 ……きこえた。気がする。 いや、絶対に-- 暫く、長い時が流れる。ぴっぴっ、と、あれを操作する音が聞こえた。 ほら、あってる。ちゃんときいていた。愛しいあなた。 がちゃり。 光が眩しい。痛い。でも、安心する…。 「ほら、おいで」 不意に優しくされた。 あなたはいつもそうだ。あなたはいつも、あなたに震えるわたしに優しくする。 だから離れられない。 あなたにひっぱられて、外に出たころには、日は沈んでしまっていた。 わたしは何も言わなかった。 あなたはわたしの手をひいて歩いた。私もつられて歩いた。 あなたはやさしい。 わたしは鈍臭くて馬鹿で悪い子。 きっと今日もまたわたしはなにか失態を犯して…… そして明日もあの中で過ごすんだね。 やさしいあなたがそうするんだしーーあなたが生きていればいっか。

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骸ノ憶

 想音は、私の「好き」を全部覚えてくれている。いつも私の好きなものをたくさんくれる。苦手なトマトをよけてくれる。私の髪を撫でて、きらりと鈍く光るお気に入りのヘアピンをつけてくれる。  それだけじゃない。たとえば、私が「最近、桜味の何か食べたいな」って言ったら、次の日には桜餅がテーブルに置いてある。 「ほんとに、どうしてそんなに気が利くの?」 私が笑いながらそう言うと、想音は一重のキリッとした目を細めて、少し照れたように笑った。 「だって、好きな人の“好き”を知るのって、大事でしょ?好きな人には笑ってて欲しい。僕は、だから紬喜の“好き”を大事にしたい。」 笑いながら、真面目なトーンでそう発している。そういうところがずるい。優しさが自然すぎて、真面目すぎて、こっちの胸が苦しくなる。  想音は完璧だった。完璧に私のタイプだ。想音のすることは全部、私の寸法にぴったりだ。私の苦手なものがのせられた皿をそっと寄せ、寝癖を直すときはその冷たい指先をそっと髪に這わせる。欠点があるはずの隙間を、彼はいつも簡単に埋めてしまう。顔つきも性格も全てがどタイプで、その上私にひたすら尽くしてくれる。こんなにぴったりの人は多分もう見つからないと思う。だから私は、この人をちゃんと大切にしたいと思っている。  わたしたちは、特別なことは何もしていない。2人で旅行とか、そんなことはしない。テーマパークも行ったことがない。水族館も行かない。イルミネーションも見ない。そんなありきたりなデートを私たちは望まない。学校が終わったら公園に寄って、ベンチで話をして、それから一緒に帰るだけ。その時間が愛おしくて、これ以上もう何も望めない。  「あ、今日も右側歩くんだね」 帰り道の夕焼けの中。なんとなく私がふとそう言うと、想音は少し困ったように笑った。 「だって、左にいると紬喜のカバンが当たっちゃうからね」 「でもそんなの前は気にしてなかったのに、どうしたの?」 想音はほんの一瞬、何かを考えるように目を伏せて、それから小さくうなずいた。 「……そうだっけ? ごめんね。そう思わせてたなら」 なんか…言い方がちょっと変だな。いや、ううん。別に変じゃないか。それ以上は聞かなかった。こうやって隣を歩くこと、うん、すごく幸せだと思う。  「ねぇ、想音ってさ」 小さな声で私が言いかけたとき、彼は自販機の前で立ち止まった。 「昨日と同じのでいい?」 くるりと振り向き、彼は夕陽を背で受けて輝いていた。黒い瞳が私をまっすぐ見ていた。 ………? 「…昨日…?」 「うん。昨日も、これ買ってたでしょ? ミルクティー。美味しいよね。」 想音はにっこり笑っていた。 「っ……」 衝撃で息が詰まる。  ――買って、ない。  私は昨日、想音と会っていない。昨日は学校、なかったよ。 けれど彼は当然のようにボタンを押した。「はい」と小さく言って淡く笑みを浮かべ、私に温かな缶を渡した。薄茶色の缶が手の中で輝く。私はそれを見つめながら、「ありがとう」とただ一言発するので精一杯だった。 「紬喜、甘いやつ好きだよね」  私は目線を彼に移す。目の前には、信じられないほど純粋無垢な笑顔があった。消えてしまいそうなほどに綺麗で、儚い笑顔だった。見ていられなくなって思わず目を逸らし、なにを言うべきかを一瞬だけ考えた。 「…うん、好きだよ。」 確かに、ほんとにとても好きだ。…だけど、私それ想音に言ったことないよ。なんで知ってるの? 「僕も甘いの好き。一緒だねえ。」 その尊いほどに甘くて綺麗で透き通る声が、妙に遠く感じられた。耳あたりは優しいのに、なんだかすごく痛かった。  「想音」 公園のベンチで、隣に座っていた想音がゆっくりこっちを向いた。いつもの笑顔にすごくホッとした。 「写真撮ろうよ、2人で。」 私の急な提案に、想音はにこやかに頷く。 「いいね、今日の思い出だね。」 「うん!思い出残すっていいよね、好きなんだよね。」 私は加工付きの写真アプリを開いて、加工を変えながら何枚か撮った。想音はその間も本当にかっこよかった。顔も声も仕草も行動も、その全てがかっこよかった。  日が暮れて少し経った。家に着いて靴を脱ぎ、部屋に直行する。ビーズソファにダイブしていつものようにスマホを手に取り、慣れた手つきでグループラインを開いた。 「今日もね、想音と一緒に帰ったよ。やっぱりほんっとうに最高の彼氏でさ……」 惚気をたくさん打ち込んで、青い紙飛行機マークをタップする。返信は思っていたよりすぐに返ってきた。 「え?誰それ?」 「想音って?」 「え、彼氏?紬喜、彼氏いたんだ?」  みんなの反応に指が止まる。少し前に確かに皆に紹介したはずなのに、誰も想音を覚えていないようだった。 「覚えてないの?前に紹介したじゃん?」 酷いなあ、みんな。きっと興味ないんだなあ。そう考えながら送信ボタンを押し、なんとなく通知を切った。  そのあとそのままカメラロールを開いて、想音との写真を見返した。けれど、アルバムの中の想音はどれもピントがあっていないようで、顔が見えない。今日もうまく撮れなかったか。想音は本当に写真写りが悪い。ブレブレだったり、ピントが合ってなかったり。うーん、綺麗な写真を撮るって難しいな。まだ1枚も撮れてない。おかしいな、友達とならうまく撮れるのに。 「……」 頭の中で、想音の笑顔が遠くなる。こんなに、こんなに優しくって最高の彼氏なのに、なんでだろう。胸の奥が、少し冷たくなった。  数ヶ月経った。想音とは相変わらずうまく行っている。そのはずなのに、ひとりでいる時に想音のことを考えると、その度に不思議な違和感が胸に重くのしかかるのを感じていた。想音が時々ふと遠くを見つめるその目には、何か言えない秘密が隠されているようだった。  ある水曜日、想音が話す過去の出来事に矛盾を見つけた。 「今、想音は昨日はずっと家にいたって言ったけど、昨日って私たち学校で会わなかったっけ?いつもみたいに一緒に帰らなかったっけ?」 想音は一瞬驚いた顔をしたあと、微かに笑って言った。 「そうだったかな。ごめん。」  私は違和感を抱きながらも、それを突き詰めることはできなかった。話せば話すほどわからなくなった。けど彼のことは大好きなままだ。だからもっと何も言えなかった。  その夜、最近の想音の言葉を思い返して、さらに反芻しながら眠りについた。夢の中で、想音は見知らぬ場所で一人ぼっちで佇んでいた。彼の瞳はどこか悲しげで、私に向かって口を動かした。優しくて落ち着いた想音の声がはっきり聞こえた。 「僕はずっとここにいる。けど、どこにもいないんだ。」  所詮、ただの夢。  夕暮れの教室。私は想音の席に座って、淡い青色のスマホを握りしめていた。 想音からはいつも通りの優しいメッセージが届いている。 『今日も一緒に帰ろうね、待ってて』 私は少し迷って、その通知を上ヘスワイプした。  優しくて温かいそのメッセージとは裏腹に、私の胸の奥には冷たい疑念がくすぶっていた。彼は、なんなんだろう?どうしてみんな、彼を覚えてくれないのだろう? 私はゆっくりと目を閉じて、時間をかけて深く息を吸った。真っ暗な視界の中、想音の笑顔を思い出す。あの無垢で儚げな、太陽みたいで茎の細い花みたいな、想音の笑顔。本当に本当に大切なあの笑う顔。 こんなに大切なのに、この心はなぜ不安でいっぱいなんだろう?怖いのは、未来がないように見えるのは、どうして…?  「紬喜?」 ふいに聞こえたいつもの声に、はっとして顔を上げた。 そこにはいつもの想音がいて、何も変わらず優しく微笑んでいた。だけど私を見て、いやきっと私の表情を見て、少し迷うように目を背けた。そしてすぐに私に目を向けた。 「…大丈夫、僕はここにいるよ」 想音は泣きそうな目でしっとりと笑ったけれど、その細く薄い眉だけが深い哀愁の中に取り残されていた。  その言葉に、その顔に、私の胸は苦しくなった。  信じたい。だけど信じられない。 その矛盾が心の中で渦巻いて、そしてそれが想音に申し訳なくて、涙がこぼれそうだ。 …いや、耐えられなかった。気がついたら、私は紺色の分厚い袖で顔を覆っていた。見えないけど、きっと想音は困ったようにこっちを向いているんだと思う。優しい想音はきっと、たくさん考えている。だからなにも声をかけることができないんだろう。ごめん、ごめんね。本当にごめんなさい。  どうしたら、このもどかしさから抜け出せるんだろう?  誰か…想音……。私のこの気持ちをなくして欲しい。消して欲しい。  私はいつまでも、純粋に、想音をただ好きでいたいの。  明確に覚えていないけど、また数ヶ月経ったと思う。幸せな日々を過ごす中で、ずっとなんとなくおかしいと思っていた。気のせいだと思いたかった。だからずっと言及はしなかった。 想音は変わらずずっと、ちゃんと私の隣にいてくれる。私の“好き”を全部覚えてくれて、優しく笑ってくれる。甘いミルクティーをくれて、寝癖を直してくれて、ヘアピンをつけてくれて——  ある夜、ふと思った。いつも通り、部屋でビーズソファの上で想音のことを考えていたその時に、不安になった。想音がくれた日々。いつも通りの日々。 ……本当に、私はそんな日々を過ごしたか?    部屋の引き出しの奥にしまっていたノートを取り出す。ずっと書きためてきた日記だ。可愛い表紙。薬指と小指でなぞる。小学生の頃、自分で買った10年ほどもつ日記帳だ。 開く勇気がどうしても湧かなくて、暫く手は止まったままだった。深呼吸してから、意を決して開いてみる。最近の日記のほとんどが想音とのことだった。初めて話した日、初めて笑ってくれた日、初めて手をつないだ日。付き合ってからの大切で温かな毎日。見返すだけで心がほわほわする。自然と笑みが溢れてくる。    30分ほど思い出に浸って、そして気が付いた。気付いてしまった。  ——どれもこれも、なぜか、なぜか矛盾している。   「公園でおしゃべりした」と書かれた日のスマホの位置情報は、自宅から一歩も動いてなかった。 「2人で見た月と無数の星が綺麗だった」と綴った日、天気の推移を何度見返そうと、その時間帯、外は土砂降りの雨だった。月なんか、星なんか、見えたはずもない。    ぞくり、と背筋に冷たい何かが這い登る。心臓が音を立てて鳴っている割に、体が冷たすぎて全く動けない。    頭の中で、想音の声を思い出そうとする。思い出せる。思い出せるけれど、…やはり、確信が持てない。 それは、本当に彼の声だった? 彼は声まで私のタイプにぴったりあてはまる。甘い、少し高めの落ち着いた声。  この声は本当に、想音の声?  「『想音の声だと思いたい声』を私が自分で再生している」という仮説を、どうやって私は否定できるの?  震える手でスマホを取り出して、カメラフォルダを開く。何度も見返した写真を、もう一度確認する。    ……やっぱりどの写真も、想音はピントが合っていない。それか、想音だけブレてる。私はそこでにこにこ笑っている。この写真に、2人が綺麗に写っていると思い込み、にこにこ、とても幸せそうだなあ。  散らかった部屋を見回す。ミルクティーの缶が机に並んでいる。昨日買ったと思っていたそれは、すべて未開封で、賞味期限はとっくのとうに過ぎている。お気に入りのヘアピンは、引き出しの奥で眠っていた。と思っていたけれど実際は床に転がっている。テーブルの上に置いてくれていたはずの、桜餅は……包み紙すら、お皿すら、見つからない。    やっと気づいてしまった。知ってしまった。  その瞬間に、もう戻れないとわかった。  「…なんだ、そっか」 涙が止まらなかった。大きな涙が、散らかった部屋をぼたぼたと濡らした。想音がそばにいた時と同じように、私は顔を覆う。私の日々を色付け、埋め尽くしたはずの想音は。——想音は、どこにもいなかったんだ。 “気づいた”というより、“認めた”のかもしれない。ずっと前から、本当はわかっていたのかもしれない。みんなが「誰それ?」って笑ったとき、写真にピントが合わなかったとき、彼の“昨日”が私の昨日じゃなかったとき、夢の中で、彼が悲しげに口を開いたとき。すでに私は想音がいないことに気づいていたはずだ。    想音は、私が生み出した存在だった。 少し優しすぎるくらい優しくて、誰より私を理解してくれた。完璧。そりゃそうだ。私の理想の人なんだから。ただの理想を、私は心の奥に抱きしめて、手放せなかった。愛した。ずっとずっとこの心に彼を監禁して、決して動かさなかった。動かせなかった。    想音を、2人の日々を、愛した。たとえどこにもないもので、その存在が気のせいだったとしても。私は確かに、この心で、身体で、あの日々を本気で愛していた。  暗闇の中、私はひとりぼっちだった。想音の温もりも、優しさも、もうどこにも感じられなかった。冷たくて痛い、澄み切った空気だけ嫌と言うほどに感じている。 ふと目に映ったのは散らかったままの想音との思い出の写真たち。想音と過ごした、…はずのたくさんの時間。私の中に溢れている思い出。そばに落ちていた一枚を拾い上げる。白い、少し汚れた縁を握りしめる。印刷されてから時間は経っているけれど、インクと紙の匂いがする。その写真を覗き込んで、私は凍りついた。  驚愕――それが一番ふさわしい言葉だろうか。  そこに写っていたのは、私ひとりだけの姿だった。ミルクティーの淡い色合いをした小さな缶を大切に握りしめて、隣に1人分のスペースを置いて楽しそうに笑う、私の姿。だけ? 急いで他の写真を手に取る。どの写真も、私が1人で幸せそうに笑っている。 ツーショットのはずの写真には、想音はいなかった。ぼやけるとか、ブレるとか、そんな次元じゃない。影も何もない。 どれもこれも、ひとりだけの、ツーショット写真だった。 あのときの笑顔も、あの優しい眼差しも、綺麗さっぱりなくなっていて、どこを探しても見つからなかった。 全部、全部、私だけだったのだ。彼は、いない。この写真たちが撮られたどの瞬間にも、彼はいなかった。だから彼は、想音は、思い出に残ることさえできないのだ。  「あれ」 腑抜けた声が狭い部屋に小さく響く。 「なんだったっけ、な」 たった今、大切な何かを失くしてしまった…忘れてしまった、気がする。  …まあ、いいか。私はゆっくり立ち上がった。 「……なにこれ。写真…?」 いや、と思わず嘲笑と声が漏れる。1人きりで撮った写真になんの意味があるんだ。こんなものわざわざ現像して、なにしてたんだっけ。イタすぎるって。私は写真を掴み、乱雑にゴミ箱へと投げ込んだ。それだけを片しても変わらないほど、部屋は散らかり放題になっていた。文房具や小物が床に散乱している。  指に触れた、きらりと鈍く光って重いもの。拾い上げて握りしめると、なんとも言えない安心感と無力感に包まれた。  気がついた時、身体はずっしりと重くなっていた。もうどうしようもなく疲れてしまった私は、重いまぶたを閉じて、ゆっくりと眠りに落ちた。

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骸ノ憶

骸ノ夢

 暗闇の中で僕は1人、じっとしている。自分が呼吸をしているかすらわからない。どれくらいの時間が経ったのか、僕は重い体を起こす。僕は寝られない時間ほど苦しいものを知らない。こういう夜は体を起こして諦める方が楽だ。目を瞑っていても、頭の中がぐるぐるして気分が悪くなる。ベッドの上にあぐらをかき、そのまま目線をゆっくり上へ移す。時計が2時8分を指しているのだから、きっと今は2時8分なんだろうなあ。視界がチカチカ、ふわふわしてて頭が痛い。  自分の身体に目をやる。少し長めの袖のトレーナーに、スウェットパンツというやる気のないスタイル。上下ともに灰色だ。まあ今は夜だからみんなそんなものか。あ、風呂に入り忘れたな。昨日は満員電車に乗ったのにな。満員電車に我先にと乗る人はきっと、他の人間を無機物か何かだと思っていると思う。自分が何かの約束に遅れないことだけを考え、他の人を押し込んで踏みつける…もちろん、これは比喩的な言い方だが、僕が慣れてないのもあって、まあそんな感じがするのだ。ああ本当に汚ったないなあ。    思考を止める。いや、思考が止まる。  時間の過ぎていく感覚がして、なんだろう、いや、なにもない。  寒い夜だ。外に雪がちらついている。  足の裏が冷たい床につく感覚をゆっくり味わって、それから一気に足に体重を乗せる。立つことに慣れない足が軽く震え、少し浮いているような感覚になる。こういう感覚が好きだ。  それから散らかった部屋をゆっくり一周する。足が何かに当たって、「これはなんだろう、ああ、多分夏に散々お世話になったあの小さな青い扇風機か」と考える。そして、青い扇風機との浅い浅い思い出を振り返っていく。こういう意味のない時間が好きだ。  近くに転がるペットボトルを拾い上げ、蓋を回す。本当に小さく、しゅっ、と音が鳴る。刺激の弱い炭酸を喉で感じる。優しく刺激された喉の奥が、こくこくと心地いい音を鳴らす。こういう包み込むような柔さが好きだ。  自分の手のひらを眺めて握りしめる。たくさん失ったこの手を握りしめると、だけども僕は何か得られたんじゃないか、と思える。こういう思い込みが好きだ。  窓のそばに立つ。レバーをあげてグッと押し出し、一気に入ってくる寒気に身を震わせる。無数のぐっしょりした雪が僕の冷たい手の甲に落ちる。それを払って、濡れた手を部屋の中に戻す。  耳がじんじん鳴る。「何も聞こえない」と言うべきか。炭酸水の味が残っている。微かな酸っぱさ、なのだろうか。苦味?僕はこの味を表す言葉を知らない。手は寒々とした空気の中にいる。この手は何にも触れていないのだろうか。雨の匂いが少しだけする。雨の匂いってなんだろう。雪と雨は、全く違うとはいえなくても、名前が定まる以上きっと違うものだけど、雪の匂いと雨の匂いは同じなのかな。違ったとして、どんな風に違うのかな。  2階の部屋から見下ろした廃れた街は、恐怖を感じるほどに真っ暗だった。その黒に混ざりたいと思う。その黒に溶けてしまいたいと思う。闇に向かって、小枝みたいなこの腕を伸ばそうとも、その黒には混ざれない。溶けてしまうことはできない。腕は確かにここにあるのだ。形が見えてしまうのだ。この腕と暗闇には間違いなく境界線がある。  目を伏せ、適当な場所に座り込んで意識して鼻から息を吸う。肺を満たす空気が、激しく痛む僕の頭の熱を奪ってゆく。小さく、浅く、周りの空気をかき集める。何度も、何度も繰り返す。  痛い。とても。  震える息。冷たくなっていく手。目は伏せたまま、頭痛を抑えるために、歯を食い縛る。泣きたい。けれどそう思えば思うほどに泣けない。何が辛いのかもわからない。いつも大好きなsnsも、本も、ゲームもしたくない。全部嫌いだ。そんな時は勉強ならできたりするのだが、今日はそれさえできないらしい。自分がどうにかなっていくのを今は見るしかない。僕には何もできない。ただ僕はここで苦しんでいる。わからない、なにもわからない。もうなんでもいい。ああ、気が狂いそうだ。怖い、とんでもなく、怖い怖い怖い。嫌いだ。こんな時間がとても嫌いだ。  目が覚めるとそこは森の奥深くだ。見渡す限りに花が咲いている。この世界には僕しか人間がいない。当然、家族もいなければ友達だっていない。好きな人もいない。自然の中に僕は目を薄く開けて座っている。僕はゆっくり呼吸する。草の匂いがするが、そんなに単純でもない。湖に濡らされた土の匂い。いろんな花の入り混じった匂い。もっと深くには木の匂い。獣の匂い。魚の匂い。  少しずつ覚め始めた目を擦る。暖かな風が吹いて、色とりどりの花びらが鮮やかに舞う。花々がにこにこと柔らかく微笑んでいる。淡い白色のアネモネ、柔らかな群青色のネモフィラ、鮮やかな黄色のチューリップ、血のような紅色の彼岸花。彼岸花?…随分と季節外れだ。他の花は春の花だが、彼岸花だけ違う。僕は彼岸花を見つめて、しばらく考える。…まあいいや。細かいことは気にしないのがこの世界でのルールだ。遠くの湖の水面が太陽を反射して光る。  横になった僕の体は、暖かな陽の光に包まれる。花びらが僕を祝福するように舞い踊り、僕はその真ん中で、まるで愛しいものを見ているかのように笑う。そこには何もないのに、まるで自分の腹から出てきた子が見えているかのように優しく、笑っている。ずいぶんと気の抜けた笑い方だ。追われなくなり、追うこともなくなり、きっと心がすっきり晴れているのだ。そして僕はゆっくりと眠りにつく。この世界に堕ちていく。そしてもう二度と目を覚ますことはない。ゆっくり、ゆっくり、永遠に夢の世界で幸せそうな笑みを浮かべて、深くへと溶けていく。花畑の真ん中で眠る僕の姿。そしてだんだん、霞がかかって見えなくなって……。  僕は今、その幸せそうな「僕」を俯瞰しているだけの身だった、と、今更気づく。  僕は目を開く。身体はかなり緊張している。暗闇の中に、僕は独りで座り込んでいる。風の音がする。とてもうるさい。…と思う。外は真っ白でもう何も見えない。とんでもない吹雪だ。雪は部屋の中をも舞っていて、部屋も、体も、凍ってしまうのではないかというほどに熱を奪われていく。  ああ僕は、きっといつまでもこの世界にいる。あの世界には行けずに、ずっとこの世界でこうやって生きていく。あの僕は僕じゃない。誰か知らない人だ。呼吸が苦しい。あの人には得られた幸福が、自分には得られなかった。僕が自分のものだと錯覚した幸せは、僕には届かないものだった。苦しい、さっきよりももっと苦しい。喉元を引っ掻いて、引っ掻いて、なんだか心地いいほどに痛い。でも手は勝手に動く。叫びたくても声は出ない。泣きたくても涙は出ない。僕にはもう何もない。体の中が空気で満たされていて、何も入ってこない「虚無感」という言葉が浮かぶ。僕の知る言葉の中では多分それが1番この感覚にふさわしい言葉だ。  雪の降る暗闇で、荒い呼吸音だけ遠くまで鳴り響く、ような気がした。  ぐわん、と大きな衝撃と共に、僕はまた別の世界に移動していた。身体自体に衝撃はなかったはずなのに、鈍器で殴られたような感覚を味わう。見渡す限りは真っ暗で何もない…と言ったら嘘になる。この世界は水で満ち溢れている。僕の頬を、耳を、鼻を、手を、足を、尻を、全て水が包んでいる。しかし不思議と呼吸は苦しくない。僕は漂う。沈んではいないが、浮いてもいない。第一、この世界に水面は存在しない。空気の如く、水が世界を満たしているからだ。水面に浮かぶということはできない。この世界で僕は、泣くことができる。鼻の先がつんとして、目頭を熱くする。冷たい水との温度差が、もはやそれだけが、泣いているということを実感させる。涙はすぐに水と混じって消えていく。もし仮にこの僕を見ている人間がいようとも、泣いていることは僕にしかわからない。だから僕はここでだけ泣く。泣いたことがなくなって、消えてしまうのを望んで、ここでだけ涙を流す 。水は期待通りに、僕の涙と目頭の熱を全てさらっていく。  汚らしく伸びた髪が、水の中で踊る。僕の目にも映る位置まで躍り出てくる。重力から解き放たれたその髪は、とても自由に見える。骸骨みたいな手を伸ばす。そこには水以外の何も無い。その行動には大した意図がない。だけど僕はそうせずには居られない。膝を抱えて右腕を上へ精一杯のばし、そして僕はじっと泣く。その時間が、永遠に続いてゆく。  ふと気がつけば部屋には僅かな光が差し、扇風機の存在が憶測ではなくなってくる。確かに扇風機はここに存在している。扇風機を撫でる。埃が舞った。もうすぐ動かなければならない時間が来る。扇風機を撫でてベッドへ進む。僕には時間は止められない。逆らえない時の流れに身を委ねるのは、苦しいけれども、なぜかそれほど嫌いじゃない。  もう陽が昇る。僕は重い体を引きずって立ち上がる。赤く染まる山の向こうを見つめる。暖かな光に包まれる。こういう穏やかで忙しない夜明けが好きだ。そして寝られない夜が終わる感覚も好きだ。  そして束の間の眠りにつこうと横になる。明るくなった天井を見つめ、8時まで穏やかに眠る。こういう優しい眠りが好きだ。  目が覚める。明るい部屋に僕は1人、僕はすぐに勢いよく立ち上がる。体は変わらず重いけど、時間は待ってくれない。だから着替える。ご飯を作って食べる。食器を洗って、洗濯機を回す。歯磨きをする。ゆっくりでいい。落ち着いてこなす。すっかり明るい青空の下、重い体を動かす。とにかく必死に、夜の間に置いて行かれた分、世界に追いつく。こういう朝も嫌いじゃない。  空気の中に消えてしまいたくなる。無駄な時間に浸って、忘れたくなる。自分の弱さを包む柔らかさに、沈んでしまいたくなる。失ったものが戻るような夢を信じたくなる。暗闇に逃げたくなる。全てをなかったことにしたくなる。幸せに浸りたくなる夜も、泣きたくて泣けない夜もある。  それでも進む世界に合わせて踏み出す。過ぎる時間の中、今を過ごす。また歩こうと、心が涙を流していようとも、僕は前を向く。長い長い時間をかけて、少しずつ、少しずつ進む。数年で一歩でもいい。重い体を引きずって、この世界の中に生きようとする。それはとても苦しい。辛い。痛い。人間の悲しみは、苦しみは、孤独は、そう簡単に拭えるものじゃない。  それでもやっぱり、この世界で生きたいと踠く。孤独を感じて、時間が進むのを見て焦っているのに、身体は動かない。そういう時は、どれだけ不安と焦燥に駆られたとしても、訪れる朝に合わせてみる。進んでも追いつけず、もっと差ができてしまうだけだから、だから不安でたまらない時も、苦しくて消えてしまいたい時も、一度立ち止まってみる。自分を見つめてみる。泣いてみる。吐き出してみる。どんな僕だってそれは僕だ。僕の世界で、僕が世界のために犠牲になることはない。確かに、他人を優先すべきことがあるかもしれないし、僕の世界の住人は僕だけじゃない。それでも、僕の世界では僕が主人公だ。僕を守り、好きでいられるのは僕自身なんだ。僕が僕を好きじゃないのに、誰がそんな僕を好いてくれるのだ。  どれほど長く時間がかかろうと、どれほど孤独になろうと、僕はこの世界で生きることを諦めない。僕は僕として、この世界を生き抜く。消えてなんかやらない。死んでなんかやらない。こういう自分を、僕はきっといつか心から好きになれる。そういう気がしている。僕はそう信じている。  ちりん、と、軽快な鈴の音。大丈夫。強く、強く、左胸を手のひらの硬いところで3回叩く。僕は真っ白な世界に向けて、また、小さく一歩歩き出した。

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骸ノ夢

骸ノ夢

 暗闇の中で僕は1人、じっとしている。呼吸をしているかすらわからない。どれくらいの時間が経ったのか、僕は体を起こす。僕は寝られない時間ほど苦しいものを知らない。こういう夜は体を起こして諦める方が楽だ。目を瞑っていても、頭の中がぐるぐるして気分が悪くなる。ベッドの上にあぐらをかき、そのまま目線をゆっくり上へ移す。時計が2時8分を指しているのだから、きっと今は2時8分なんだろうなあ。ああ、ふわふわしてて頭が痛い。  自分の身体に目をやる。少し長めの袖のトレーナーに、スウェットパンツというやる気のないスタイル。上下ともに灰色だ。まあ今は夜だからみんなそんなものかもしれないが…でも僕はもう何日間このまま過ごしてきただろう。時間の過ぎていく感覚がして、なんだろう、なにもない。  寒い夜だ。外に雪がちらついている。  足の裏が冷たい床につく感覚を味わって、一気に足に体重を乗せる。今は立つことに慣れない足が軽く震え、浮いているような感覚になる。こういう感覚が好きだ。  それから散らかった部屋をゆっくり一周する。足が何かに当たって、「これはなんだろう、ああ、多分夏にお世話になったあの小さな青い扇風機か」と考える。そして、青い扇風機との浅い浅い思い出を振り返っていく。こういう意味のない時間が好きだ。  近くに転がるペットボトルを拾い上げ、蓋を回す。本当に小さく、しゅっ、と音が鳴る。刺激の弱い炭酸水を喉で感じる。こういう包み込むような柔さが好きだ。  自分の手のひらを眺めて握りしめる。たくさん失ったこの手を握りしめると、だけども僕は何か得られたんじゃないか、と思える。こういう思い込みが好きだ。  窓のそばに立つ。レバーをあげてグッと押し出し、一気に入ってくる寒気に身を震わせる。無数のぐっしょりした雪が僕の冷たい手の甲に落ちる。それを払って、濡れた手を部屋の中に戻す。  耳がじんじん鳴る。「何も聞こえない」と言うべきか。炭酸水の味がする。微かな酸っぱさ、なのだろうか。手は澄んだ寒々とした空気の中にいる。この手は何にも触れていないのだろうか。雨の匂いが少しだけする。雨の匂いってなんだろう。  2階の部屋から見下ろした廃れた街は、恐怖を感じるほどに真っ暗だった。その黒に混ざりたいと思う。その黒に溶けてしまいたいと思う。闇に向かって、小枝みたいなこの腕を伸ばそうとも、その黒には混ざれない。溶けてしまうことはできない。腕は確かにここにあるのだ。形が見えてしまうのだ。この腕と暗闇には間違いなく境界線がある。  目を伏せ、適当な場所に座り込んで意識して鼻から息を吸う。肺を満たす空気が、激しく痛む僕の頭の熱を奪ってゆく。小さく、浅く、周りの空気をかき集める。何度も、何度も繰り返す。何日も、何日も繰り返す。  痛い  震える息。冷たくなっていく手。目は伏せたまま、頭痛を抑えるために、歯を食い縛る。泣きたいのに、そう思えば思うほど泣けない。何が辛いのかもわからない。いつも大好きなsnsも、本も、ゲームもしたくない。全部嫌いだ。そんな時は勉強ならできたりするのだが、今日はそれさえできないらしい。自分がどうにかなっていくのを今は見るしかない。僕には何もできない。ただ僕はここで苦しんでいる。わからない、なにもわからない。もうなんでもいい。ああ、気が狂いそうだ。怖い、とんでもなく、怖い怖い怖い。嫌いだ。こんな時間がとても嫌いだ。  目が覚めるとそこは森の奥深くだ。見渡す限りに花が咲いている。この世界には僕しか人間がいない。当然、家族もいなければ友達だっていない。好きな人もいない。自然の中に僕は目を薄く開けて座っている。僕はゆっくり呼吸する。草の匂いがするが、そんなに単純でもない。湖に濡らされた土の匂い。いろんな花の入り混じった匂い。もっと深くには木の匂い。獣の匂い。魚の匂い。  少しずつ覚め始めた目を擦る。暖かな風が吹いて、色とりどりの花びらが鮮やかに舞う。花々がにこにこと柔らかく微笑んでいる。淡い白色のアネモネ、柔らかな群青色のネモフィラ、鮮やかな黄色のチューリップ、血のような紅色の彼岸花。彼岸花?…随分と季節外れだ。他の花は春の花だが、彼岸花だけ違う。まあいいや。細かいことは気にしないのがこの世界でのルールだ。遠くの湖の水面が太陽を反射して光る。  横になった僕の体は、暖かな陽の光に包まれる。花びらが僕を祝福するように舞い踊り、僕はその真ん中で、まるで愛しいものを見ているかのように笑う。ずいぶんと気の抜けた笑い方だ。追われなくなり、追うこともなくなり、きっと心がすっきり晴れているのだ。そして僕はゆっくりと眠りにつく。この世界に堕ちていく。そしてもう二度と目を覚ますことはない。ゆっくり、ゆっくり、永遠に夢の世界で幸せそうな笑みを浮かべて、深くへと溶けていく。花畑の真ん中で眠る僕の姿。そしてだんだん、霞がかかって見えなくなって……。  僕は今、その幸せそうな「僕」を俯瞰しているだけの身だった。  僕は目を開く。身体はかなり緊張している。暗闇の中に、僕は独りで座り込んでいる。風の音がする。とてもうるさい。外は真っ白でもう何も見えない。とんでもない吹雪だ。雪は部屋の中をも舞っていて、部屋も、体も、凍ってしまうのではないかというほどに熱を奪われていく。  ああ僕は、きっといつまでもこの世界にいる。あの世界には行けずに、ずっとこの世界でこうやって生きていく。あの僕は僕じゃない。誰か知らない人だ。呼吸が苦しい。あの人には得られた幸福が、自分には得られなかった。僕が自分のものだと錯覚した幸せは、僕には届かないものだった。苦しい、さっきよりももっと苦しい。喉元を引っ掻いて、引っ掻いて、痛い。でも手は勝手に動く。叫びたくても声は出ない。泣きたくても涙は出ない。僕にはもう何もない。きっとこれが、「虚無感」と表すべき感覚だ。  雪の降る暗闇で、荒い呼吸音だけ。  ぐわん、と大きな衝撃と共に、僕はまた別の世界に移動していた。身体自体に衝撃はなかったはずなのに、鈍器で殴られたような感覚を味わう。見渡す限りは真っ暗で何もない…と言ったら嘘になる。この世界は水で満ち溢れている。僕の頬を、耳を、鼻を、手を、足を、尻を、全て水が包んでいる。しかし不思議と呼吸は苦しくない。僕は漂う。沈んではいないが、浮いてもいない。第一、この世界に水面は存在しない。空気の如く、水が世界を満たしているからだ。水面に浮かぶということはできない。この世界で僕は、泣くことができる。鼻の先がつんとして、目頭を熱くする。冷たい水との温度差が、泣いているということを実感させる。涙はすぐに水と混じって消えていく。もし仮にこの僕を見ている人間がいようとも、泣いていることは僕にしかわからない。だから僕はここでだけ泣く。泣いたことがなくなって、消えてしまうのを望んで、ここでだけ涙を流す 。水は期待通りに、僕の涙と目頭の熱を全てさらっていく。  汚らしく伸びた髪が、水の中で踊る。僕の目にも映る位置まで躍り出てくる。重力から解き放たれたその髪は、とても自由に見える。骸骨みたいな手を伸ばす。そこには水以外の何も無い。その行動には大した意図がない。だけど僕はそうせずには居られない。膝を抱えて右腕を上へ精一杯のばし、そして僕はじっと泣く。その時間が、永遠に続いてゆく。  ふと気がつけば部屋には僅かな光が差し、扇風機の存在が憶測ではなくなってくる。確かに扇風機はここに存在している。もうすぐ動かなければならない時間が来る。扇風機を撫でてベッドへ進む。僕には時間は止められない。逆らえない時の流れに身を委ねるのは、苦しいけれども嫌いじゃない。  もう陽が昇る。僕は重い体を引きずって立ち上がる。赤く染まる山の向こうを見つめる。暖かな光に包まれる。こういう穏やかで忙しない夜明けが好きだ。そして寝られない夜が終わる感覚も好きだ。  そして束の間の眠りにつこうとする。明るくなった天井を見つめ、8時まで穏やかに眠る。こういう優しい眠りが好きだ。  目が覚める。明るい部屋に僕は1人、僕はすぐに勢いよく立ち上がる。体は変わらず重いけど、時間は待ってくれない。だから着替える。ご飯を作って食べる。食器を洗って、洗濯機を回す。歯磨きをする。ゆっくりでいい。落ち着いてこなす。すっかり明るい青空の下、重い体を動かす。とにかく必死に、夜の間に置いて行かれた分、世界に追いつく。こういう朝も嫌いじゃない。  空気の中に消えてしまいたくなる。無駄な時間に浸って、忘れたくなる。自分の弱さを包む柔らかさに、沈んでしまいたくなる。失ったものが戻るような夢を信じたくなる。暗闇に逃げたくなる。全てをなかったことにしたくなる。幸せに浸りたくなる夜も、泣きたくて泣けない夜もある。  それでも進む世界に合わせて踏み出す。過ぎる時間の中、今を過ごす。また歩こうと、心が涙を流していようとも、僕は前を向く。長い長い時間をかけて、少しずつ、少しずつ進む。数年で一歩でもいい。重い体を引きずって、この世界の中に生きようとする。それはとても苦しい。辛い。痛い。人間の悲しみは、苦しみは、孤独は、そう簡単に拭えるものじゃない。  それでもやっぱり、この世界で生きたいと踠く。朝が来ても合わせられずに何日も置き去りになる。孤独を感じて、時間が進むのを見て焦っているのに、身体は動かない。そういう時は、どれだけ不安と焦燥に駆られたとしても、もう一度訪れる朝を待って合わせてみる。無理に進んでも追いつけず、さらに差ができてしまうだけだから。不安でたまらない時も、苦しくて消えてしまいたい時も、一度立ち止まってみる。自分を見つめてみる。泣いてみる。吐き出してみる。どんな僕だってそれは僕だ。僕の世界で、僕が世界のために犠牲になることはない。確かに、他人を優先すべきことがあるかもしれないし、僕の世界の住人は僕だけじゃない。それでも、僕の世界では僕が主人公だ。僕を守り、好きでいられるのは僕自身なんだ。  どれほど長く時間がかかろうと、どれほど孤独になろうと、僕はこの世界で生きることを諦めない。僕は僕として、この世界を生き抜く。消えてなんかやらない。死んでなんかやらない。こういう自分を、僕はきっといつか心から好きになれる。そういう気がしている。  ちりん、と、軽快な鈴の音。僕は真っ白な世界に向けて、小さく一歩歩き出した。

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