そら
6 件の小説卒業
「卒業おめでとう」 先生はそう言って私に握手を求めた。私は冷静にそれに応じる。 「ありがとうございます」 「こっちこそありがとうな。佐倉(さくら)にはすごく助けられたよ。アイとリナも最後は教室に来れるようになって…みんなで卒業できて良かった。佐倉のおかげだ。本当にありがとう」 アイとリナは私たちのクラスメートだが、保健室登校だった。先生に頼まれて、私はよく二人に会いに行っていた。プリントを届けたり、単に遊びに行ったり色々した。 「来れる、じゃなくて、来"ら"れる、です」 「そういうとこ厳しいよな」 私が子供っぽく指摘すると、先生は苦笑した。私は成績が良かったし、保健室登校の生徒を支えていたわけでちょっと優秀すぎるから、子供っぽいところも見せていかないと。 「佐倉に助けられてばっかりで、佐倉の話は全然聞いてやれなかったな。ごめんな」 「今聞いてくれるんじゃないんですか」 「お、何かあるのか?聞くぞ」 改めて見つめられると、だいぶ言いにくい。 言いたいことは山ほどある。袴、すごく似合ってますね、とか。先生がみんなに厳しいせいで、さっき渡した色紙と花束、用意するのすごく大変だったんですよ、とか。掃除用具が片付けられていないからって怒るんじゃなくて、気づいたのなら先生が片付ければいいじゃないですか、とか。 「先生…」 先生バカだから気づきませんよね。なんで私が先生を手伝ってたのか。なんで係でもないのに、教室の黒板をいつも綺麗にしていたのか。なんで保健室登校の二人を支えていたのか。先生に褒められたかったんですよ。あなたの気を引きたかったんですよ。私、すごく子供っぽくて、かわいくないですか? 私、正直先生のこと、舐めてます。体育教師だから勉強面での期待はしていなかったけど、予想以上にバカだったから。 でも顔がいいし、髪型もタイプだし、何より優しい。あなたがいるから休まず登校していた。あなたが私を見つめるたび、心臓が怖いほど鳴って、本気でおかしくなりそうだった。私、先生のことが。 「…なんでもないです!」 「…はあああ!?!?」 やっぱり無理だった!カバンの中にラブレター紛いの手紙も実は入れてたんだけど、渡せない!それまでの関係が壊れる、というのはかなり怖いことらしい! 私と先生の場合、まず年齢差が20歳。教え子と教師という関係。そして女性どうし。この三つの壁を超える勇気は私にはなかった。 だから、この気持ちは今日で卒業だ。 「先生。三年間、ありがとうございました」 「あ、ちょっと!」 先生が、去ろうとする私の肩を掴んだ。ひゃっと声をあげてしまいそうなのを何とかこらえた。 「何ですか?」 「ちょっとじっとしてて」 髪にほこりでもついていたのだろうか?先生は私の頭から、何かをつまんだ。距離が近すぎて息がつまる。 「とれたとれた」 先生はつまんだものを私に見せた。 「卒業おめでとう。高校でも頑張るんだぞ」 それは早咲きの桜の花びらだった。 そんなものをつけてこれまで先生と話していたなんて恥ずかしい。でも先生と話すきっかけになって嬉しい。だけどもう先生と会うことがないのが悲しい。 「…ありがとうございます….」 視界が涙で滲む。先生は背中を、いつまでもさすってくれた。
イエスマン
私には親友がいる。名前は梓(あずさ)。アズのことは小学校に入る前から知っているから、もう7年の付き合いになる。 私とアズは学校のある日はいつも待ち合わせて、喋りながら登校する。 「でさ、この前会ったんだよね。その、ネットで知り合った、グッズを交換してくれるっていう人と」 「へえー、そうなんだ。いいじゃん」 「なんか、思ってたのと全然違う人だった。ちょっと気持ち悪かったかな」 私はもっぱらアズの聞き役だ。アズは話すのが好きで、私は話すのが苦手だから、ちょうどいい。この時間は親友って感じがしてとても心地よくて…。 「ヒナ、私のこと叱ってくれない?」 「…え?」 今日も私はただただ聞いていた。急に喋ることを、しかも叱ることを求められて、私は戸惑った。 「なんで?」 「だって、私、ネットで知り合った人と会っちゃったんだよ?良くないよね」 「うん、まあ…そう、かも?」 さっき私、「いいじゃん」って言っちゃったよ。でもそれは、このインターネットが発達した世界ではそこまで悪いことじゃないんじゃないかなっていうことであって。 「うーん。ネットで知り合った人と会うのが一概に悪いことだとは言えないけど、気をつけてね」 抵抗を感じながら、私はアズに意見した。「うん、気をつける」と、アズは素直に言った。 なんだかモヤモヤする。確かに親友なんだったら、アズを大切に思うんだったら、最初に出る言葉は「いいじゃん」ではないんじゃないか?ネットにはいい人ばかりではないんだから。私は心の底では、アズのことなんてどうでもいいんじゃないか? 考え出したら止まらない。誰かが良くないことをした時やしようとしている時、私はそれを否定できるか?誰にだったら否定できるか? いくら考えても、「へえー、そうなんだ」「いいじゃん」と言う自分しか想像できなかった。 気づいてしまった。私は誰のこともどうでもいいんだと。私は否定をしないから、「優しい」と言われることが多いけど、実は優しくなんてないんだと。 「てか、昨日の数学の時間にさ〜」 私が自分の残酷さに気づき出していることには構わず、アズがまた話し始める。 バレたくないな。私がアズのことをどうでもいいと思ってるなんて。 「へえー、そうなんだ」 私はモヤモヤにむりやり蓋をして、いつも通り相槌をうち続けた。
ごめんね
「シーナ!シーナッ!!」 この暗闇にも目が慣れてきた。明かりのない断崖絶壁。そこに、ひたすら色素の薄い少女が、満月の光を浴びて立っている。幻想的な光景を眺めている暇はない。彼女は崖の縁の縁に立っているのだから。 「ねえシーナ、そんなところ危ないよ!こっちに戻ってきて!」 「…」 シーナはゆるゆるとこちらを向く。その動きは古いロボットみたいにぎこちない。 「シーナ、私…」 「アヤ、うるさい!!もう疲れたのッ!!」 シーナは突然激昂した。 「生きてたって、嫌な思いをするだけ!つらいことばっかりだよ人生!」 「シーナ…」 彼女に、私の大切な人に、今何を言うべきなんだろうか? 「だったら…だったら私が、シーナにそんな思い、二度とさせない!」 「アヤ…?」 「私がシーナを守るから!シーナのことは死なせない!!」 シーナはまた静かになった。死ぬか生きるか悩んでいるのだろう。ややあって、シーナは口を開いた。 「ねえアヤ…」 「なに?」 「守ってくれるって、本当?辛い思いさせないって、ほんと?」 「本当だよ。シーナに嘘つく訳ないよ」 そう言った途端、シーナがこちらに向かって弱々しく歩み寄り始めた。私も彼女を迎えに行く。 そして私たちは抱きしめ合った。シーナの体は異様に細くて、骨の形が分かるほどだった。死ぬことを本気で考えた体だった。 「アヤ、アヤぁぁぁぁ」 「ごめんね、シーナ。こんなに辛い思いさせて」 私たちは泣きながら、私の家に帰った。 「ただいま…」 私は今日も激務から帰ってきた。返事はない。彼女が自分から外に出ることはないから、家にいるはずなのに。 リビングに入ると、やっぱりいた。肌は不健康に白く、床でお菓子を食べ散らかし、気ままに本を読んでいるシーナが。 シーナは変わってしまったのだろうか。はたまたこれが本来のシーナなのか。彼女は今、言葉を選ばずに言うとニートである。私に身の回りのことを全て任せ、欲しいものは私の金で買う。 最初はこれでいいと思っていた。彼女は親から虐待を受けていた。だから思う存分甘えさせてあげたかった。それに、自殺を止めるというのは、こういうことだ。止めるのであれば、その後の人生の責任は止めた人が持つのが筋ではないか? これでは私が潰れる。それに気づいたのが最近だ。私は日々の仕事で社会にもまれ、あの頃とは見た目も性格も変わったと思う。目の隈をメイクで隠すことも覚えた。一方シーナは、いつまでたっても、あの時のシーナのままだった。 後悔はしていないと、思いたかった。 「ねえシーナ」 「何?今本読んでて忙しいんだけど」 「ううん。本はもう読まないよ。今日はお出かけするから」 「お出かけ?行かない。興味ない」 「シーナも行くんだよ」 「だから、行かないって言って…」 シーナはやっと私を見た。そして、何かが違うことに気づいた。 「なに?アヤ、怖いよ…」 出た、その顔。その顔をすれば、私が怒れないと分かってそうしてるんでしょ?もう全部分かってるんだよ。 「ふーん、怖いんだ」 「いやだ、いやだ、行きたくない」 そろそろ本気で怖くなってきたみたいだ。シーナの体が震えている。私はその白い体を抱き上げた。細くて筋肉がなくて柔らかい、甘やかされすぎた体だった。暴れるシーナ。筋力も体力も精神力も、全ての力がないシーナの抵抗は、無に等しかった。 「行くよ。今日は満月だし、お出かけ日和だよ」 そう言って、私はシーナを車の後部座席に乗せた。 「アヤ、どこ行くの?ねえ、怖い、帰りたい」 行くところなんて決まっている。あの崖だ。暗い道をひたすら走る。 どこで間違えたんだろう?やっぱりあの時、止めなければ良かったね。私シーナのこと好きだったから、生きていてほしくて、余計なこと言っちゃったんだ。辛い思いさせないなんて、簡単にできる訳ないのに。 だから責任をとって、私がシーナを死なせてあげる。これが合ってるかなんて分からない。もう何も分からない。 「アヤ、アヤぁぁぁぁ」 「ごめんね、シーナ」 あの時死なせてあげなくて、ごめんね。 私たちの車体は宙に浮かんだ。
心の中に
僕の中学校の文芸部なんて、あってないようなものだ。部員は10人はいるけど、ほとんどが滅多に来ない。顧問は3年生の担任だから忙しくて、部活にかまけている暇がない。 僕は本が好きで、せまい文芸部の部室に来れば、誰にも邪魔されずに本を読む時間が毎日確保できる。家だとなんだかんだスマホを見てしまうから、これは貴重な時間だ。だから誰も来なくても、僕はいつもここに来る。 そう。毎日来るのは僕だけ。 ここにいるはずのない生徒がいても、気づくのは僕だけだ。 「え…なんでここに?」 村雨響(むらさめひびき)。僕と同い年の中学2年生。一度聞いたら忘れられない名前に、一度見たら忘れられないルックスの彼女は、美術部のエースとして知られている。その成績は半端ではなく、中学生にとって最高峰のコンクールで最優秀賞を受賞した。聞くところによると、ピアノも何らかの賞を受賞しているとか。全校集会の表彰式で必ず名前を聞く生徒だ。なんでそんな生徒がごく普通の中学校にいるのか不思議だ。 見ると、彼女はノートに何かを書き殴っている。その気迫は鬼気迫るものがある。あの天才が、とうとう文章にまで手を出したか。外見も良い天才が集中している姿は、なかなか見応えが…いや、その前に返事してくれよ。 「あのー、村雨さん?」 「…ふう」 一息つかれてしまった。村雨さんは涼やかな声で一言、 「何?」 「あの、どうしてここに?文芸部入りたいの?」 「入らない。兼部は認められていない」 「それはそうだけど…じゃあなんで来たの?」 「小説を書くため」 「…小説を書くだけだったら、家でもできるよ」 無表情だった村雨さんが、ハッとした顔をした。失礼だけど、変な人だ。まあ、天才は凡才から見れば変ってこともあるんだろう。 村雨さんは真顔に戻った。 「あなたは文芸部?」 「うん」 「確かに小説は、家でも書ける。でもここで書けば、部員からの評価が得られる。これを読んでみてほしい。短いからすぐに読める」 同じクラスになったことがなかったから知らなかったけど、変な話し方だな…そう思いながらノートを受け取る。字は綺麗だが、異様に筆圧が強い。どんな鉛筆で書いたのか気になるところだ。 「このページから」 「分かった。…」 僕は村雨さんが書いた物語を読み進める。流れるような読みやすい文章。美しい言い回し。読んだことのない、かつ誰も思いつかなさそうな内容。 僕はさっきの村雨さんのように、一つ息をついた。 「読み終わった?」 「うん。良い文章だったと思う。言葉選びが好きだった。面白かったよ」 率直な感想を述べる。村雨さんは無表情のまま、僕に聞いてきた。 「心に残る?」 「…こころ…?」 思いもよらない、真剣な質問だ。どこかのコンクールに出すのだろうか? 「心に残る…かは分からないけど」 「そう」 村雨さんは相変わらず表情が変わらない。でも、なんとなく残念そうだ。ひどいことを言ってしまっただろうか? 「えっと、ごめん」 「別にいい。私には才能がないだけのこと」 天才とされる彼女は平然と言い放った。 「いや、そこまで言ってな…!」 「あなたは私の絵を見たことがある?」 冷たい声で遮られた。仕方なく答える。 「まあそりゃあ、学校に飾られてるのもあるし」 「何が描いてあったか覚えている?心に残っている?」 「えっと、見るたびにすごいとは思ってたけど…そんな記憶力テストみたいなこと言われても分かんないよ!」 「そう」 村雨さんは俯いた。やっぱり声は残念そうだ。でも覚えていないものは覚えていない。テストされるなんて思ってもみなかったから。 村雨さんは話し出した。 「私には何もない」 という、信じられない始まり方で。 「…私は死ぬのが怖い。なぜ望んでもいないのに生まれて、八十年そこそこで死ななければいけない?あまりに短すぎる。だから私は人の心の中で生き続けようと思った。そのために美術、音楽、今日初めて文章に手を出した。美術と音楽はそれなりに努力もした。それで人の心に残れないのなら、十四歳のいま死ぬのも八十歳で死ぬのも同じこと」 僕はただただ聞いていた。正直、村雨さんはちょっと考えすぎているような気がする。死ぬなんて、ずっと先の話だ。それに、村雨さんみたいな天才が十四歳で死ぬなんて、もったいなさすぎる。冗談抜きで、この国の損失だ。 「村雨さん…」 「…」 君は天才なんだから、死ぬなんて言うなよ。そう言いたかった。でもそれは、村雨さんが一番言われたくない言葉なんじゃないか?僕は考えた。 「…八十年が短いって言ってたけど、寿命が無いとしたら、何年くらい生きたいの?」 村雨さんが、ふっと笑った気がした。 「二千年」 「にせんねん!?ちょっと生きすぎじゃない?疲れそうだけど」 「別にいい。私が死ぬ覚悟をするには、そのくらいの時間が必要」 彼女は顔を上げた。描く側だけじゃなくて、描かれる側もやってみたらいいと思う。きっとすごく映える。 「最近の私は弱っていた。こんな話、するつもりはなかった…けど、話したのがあなたでよかった、宮本樹(みやもといつき)くん」 いきなり名前を呼ばれて、僕は驚いた。その拍子に椅子が音を立てる。 「えっ、なんで、名前…」 「私だけ人の心に住まわせてもらうわけにはいかない。出会った人のことは、できる限り心に留めている」 どきどきと心臓が鳴る。嬉しいやら、感動やらで、よく分からない。村雨さんみたいな人にこんなことを言われて、冷静でいられる訳がない。 「…やさしいんだね…」 「別に。私が二千年生きることになったら、あなたもちゃんと、連れて行く」 「それは、どうもありがとう…」 言うや否や、村雨さんはノートと筆箱を片付け始めた。帰ってしまうみたいだ。 「また来る?文芸部」 「どうだろう。書いてみて分かったけど、小説を書くのは難しい」 「村雨さんの小説、また読みたいよ」 「私も読みたい。宮本くんの小説を」 「僕の?」 「あなたの小説を読めば、あなたのことをもっと心に留めておける」 荷物をしまい終わって、村雨さんは席を立った。 「それに、私の心の中ばかり覗かれて不公平だから」 村雨響はそう言って笑った。その顔を、僕はきっと、一生忘れないだろう。 あんなこと言っておいて、転校しちゃうんだもんな。 あれからも何度か、村雨さんが書いた小説を読ませてもらった。一方、僕は一行も書けなかった。何も思いつかなかったのだ。そして中学3年になった時、彼女は僕らの学校にはいなかった。 僕の心にはしっかり彼女がいるのに、なんだか悔しい。でも彼女の心にも僕がいるのは多分、嘘じゃない。「宮本くんの小説を読んでみたい」のも、多分嘘じゃない。 将来どんな職業に就いたとしても、一つだけでも、小説が書きたいと思った。僕が小説を一つ書くには、八十年くらい必要だろうけど。
殺人鬼
「お前、これまで何人殺した?」 どこからともなく声が聞こえる。 「は、え?私は人殺しなんかしてないですよ!」 「嘘つくな。俺はアンタに殺された」 「いやいやいや!私は力もないし殺しの道具も持ってないんですよ!?不可能です!」 「殺すのに道具が必要なのか?」 「いや必要でしょ」 「分からないなら教えてやるよ。アンタがどうやって俺を殺したのか。 俺には恋人がいた。それはそれは可愛い子だ。俺はある日突然倒れた。もう手のつけようがない末期がんだ。俺の恋人はひどく悲しんで、色々してくれた。毎日見舞いに来たり苦しむ俺を抱きしめてくれたりな。それも虚しく俺は死んだ。それでも恋人は前を向く… って話だったな?」 「え、殺人ってもしかして…」 「読者を泣かせたいがために俺をいきなり余命100日にしたのはアンタだ!」 「ひええごめんなさいっ!一応余命が僅かっていう伏線は張ったんですけど…!」 「はっ、謝ったって許すか!伏線を張ったからなんだ!アンタ、俺だけじゃねえだろ?何人殺した!?」 「か、数えきれませんっ!」 「同情の余地もねえな、この殺人鬼!」 私は体に鋭い痛みを感じ、その場に崩れ落ちた。 「目が覚めましたか?」 気がつくと、白衣と聴診器が特徴的な男性に話しかけられた。どうやらここは病院のようだ。 「落ち着いて聞いてください。検査の結果、あなたは末期がんで、もう手の施しようがありません。余命は3ヶ月ほど…およそ100日ですね」 私はその言葉を理解して、思わず笑いそうになってしまった。あの小説の設定と似すぎている。 でも、殺人鬼の私には、彼の恋人のような、死を悲しんでくれる人はいるだろうか?
顔
僕には顔がない。 比喩とかではなくて、本当にのっぺらぼうだ。目のくぼみとか鼻の出っ張りがかろうじて分かるくらいで、つるんとしている。目は見えるし喋れるし鼻も利くけれど、肝心の器官はどこにもない。つまるところ、漫画のモブだ。キャラデザがシンプルで、顔のパーツが省略されがちなアイツ。 つまり、僕はこの世界のモブなのだ。 いつもの通学路を歩く。この交差点を渡れば、僕の通う高校くらいしか行くところはない。僕と同じく顔がない奴が、半分くらいだろうか。高校生といえば青春真っ盛り。物語で焦点を当てられやすい時期だ。比較的多くの人間が、何かしらの主役、脇役になっている。 学校の敷地に入ると、野球部が朝練をやっている。さすがに顔のある奴が多い。個性的な奴はもちろん顔があるが、めちゃくちゃ普通なアイツも、意外と顔がある。普通な奴の近くには、大体ぶっ飛んでる奴がいて、平凡なアイツはいつも振り回されている。 顔のない僕たちは、平坦な日々を送っている。退屈だけど、疲れなくて良い。顔のない人はあまり感情がなく、この毎日に不満を持たない。顔が欲しい、と燃える人を見たことがない。 ただ生きているだけでいい。本来そうであるはずなのに、若干寂しいのは、この世界が顔のある人とない人に分かれているせいだと思う。 顔のない僕だけど、普通に暮らしている。意外に思われるかもしれないけど、彼女もいる。何の障壁もなく成立した恋愛関係なんて、特に注目されないものだ。 「おはよう、真斗くん」 「おはよう、未来」 僕と同じく顔がない彼女の名前は、田中未来(たなかみく)。顔がない人間は、名前も普通である。ちなみに僕の名前は佐藤真斗(さとうまさと)だ。顔のある奴は、小鳥遊とか五十嵐とか、名前から個性的であることが多い。 「今日も一緒に帰ろうか」 「うん」 我ながら、やり取りも平坦だ。 告白してきたのは未来からだ。未来のことは大して知らなかったけど「明日は晴れるといいな」くらいの熱量で恋愛に興味があったから、付き合った。未来も同じようなものだと思う。 ただ、早く放課後にならないかな、と思うくらいには未来のことが好きだ。単に早く帰りたい気持ちもあるけど。 未来と一緒に昇降口を出る。外は赤い夕焼けだった。人が少ない場所に来てから、互いの指を絡める。これをすると、なんかくすぐったい。未来はどう思ってるんだろう? たわいもない話をしながら歩く。僕は未来の歩調に合わせているだけだ。だけど今日は、いつもより未来の歩くスピードが遅い。 「もうすぐテストじゃん。このままで範囲終わるのかな」 「ほんと、しっかりしてほしいよね」 顔がないから、感情が読めない。感情なんてどうでもいいけど。 どれだけゆっくり歩いても、いつかは別れる。いつも別れている場所に来てしまった。 「じゃあ、またあし…」 「あのさ」 未来が僕を呼び止めた。 「あの、引かないでほしいんだけど…顔がない人同士で、キス?ちゅー?って、できるのかな?」 僕はない目を見開いた。 「未来、キスしたいの?」 「いや、ただの好奇心っていうか…」 未来は恥ずかしがっている。顔がなくても分かるほどに。そして多分、僕を見つめた。 「思うんだ。自分の顔はどうでもいいんだけど、真斗くんがどんな顔してるのか気になる。私と話してて楽しいかとか、今引かれてないかとか」 未来の言っていることに心当たりはあった。未来の顔色を窺うことが多々あった。でもその顔には何もなかった。 「だから、真斗くんの顔に触ってみたい。キスじゃなくてもいい」 「逆に、キスしていいの?未来、そんなに僕のこと好き?」 「うん」 食い気味に答えられて、少し驚いた。顔のない人は感情が薄いから、「どちらかといえば好き」くらいの気持ちだと思っていた。 「手の繋ぎ方とか匂いとか、結構好きかも」 「そう…なんだ。もしかして未来って、少女漫画で言うところの『おもしれー女』ってやつ?」 「ははっ、じゃあキスしたら、私に顔ができるかもね。少女漫画の主人公みたいにさ」 じゃ、どうぞ。未来は僕を向いて静止した。顔がないのにキスするのは、結構難しい。テレビで見たものを思い出しながら、顔と顔を密着させてみた。不思議と目を瞑ってしまうし、息ができない。でもやめるタイミングが見当たらない。 「っ!」 未来が僕の胸板を叩いた。苦しいのだろう。慌てて顔を離す。 目を開けると、未来の予言通りだった。 「未来、顔…」 「え、ああ…真斗くんも、ね…」 「え、僕も?」 それは予想外だ。 それにしても、未来の顔が赤い。夕焼けのせいもあるだろうけど。未来は赤が似合うんだと思った。 「ちょっと、見過ぎ」 未来ははにかんだ。思わずつぶやく。 「めちゃくちゃかわいいじゃん…」 明日からは大変だと思う。いきなり顔を持った僕たちを、周りは放っておかないだろう。それを考えると正直面倒くさい。 でもやっぱり、ただ生きるだけではつまらない。今度はくちびるを重ねるまで、あと1秒。