歩道橋
12 件の小説My Story
つらつらと私のことを書く。 私は高校生である。陸上部で投擲種目を専門にしていて、本を読むことが好きだ。人と話すことも好きだが、初対面の後に仲良くすることは得意ではない。会話に詰まってしまうからだ。 何か文を書くことが好きで、「お話」を書くより、「一場面を切り取って書く」ことが性に合っている。私にとって書くことは、三度の飯と睡眠と友人、家族よりは大切ではない。本を読むことのほうが好きで、それでもタイルのように日常に埋め込まれた「書くこと」が好きだ。私は軒並み外れた表現方法を持っているわけでもなければ、私自身の地の言葉で、文を踏み締めているわけでもない。だけれども、ほんの時どき、自分の作品を読み返して、好きだなぁとしみじみ思うことがある。でもそれは当たり前のことで、自分が好きだと思うことを、自分が好きな表現で、私が書いているからなのだ。 私がこうして書くことを続けるのはもちろん私の「好き」のためでもあるが、私の臆病のせいでもあることを言っておかなければならない。私は極度の「ビビリ」で、中学生の頃なんて、一本しかない路線の電車を一人で乗るのが怖いと思っていた。お風呂を一人で入るのも怖かった。全部、自分の目から見た世界しか信じていなかったし、関心ごとと言えば、自分のことだった。私は誰かのことを考えて、悩む経験をしたことがなかった。今思えば、とんだ自己中の極みである。ひとのことを心配しているつもりでも、心配なんてこれぽっちもしていなかったのではないかと不安に思うことがある。 私は閉じこもる世界の隙間から、誰かを好きで、嫌いで、何時間も悩み続ける友人の姿を眺めていた。その背中をひどく苦しそうで、とてもとても眩しく見えた。だから私は、自分が「そうなるように頑張ること」をしなくても、誰かを思い続けられるひとたちを書いた。きっと、平安時代の物語が多かったのも、恋のために死ぬ覚悟がある人々が息づく世界だったからだろう。 私の憧れを全てぶつけたものばかりなのである。その憧れをさも自分が手にしていると錯覚しないように、私は書くことを何度もやめた。 私は私のことを好きだと思っているが、唯一、ひとのことも思えない、ひとに優しく在れない自分が残念で、嫌いでたまらない。 だから。 だから、わたしは、せめて、わたしの憧れの中だけでも、ひとに優しく在れたらといつも思う。なけなしのちっぽけな「ひとを思うきもち」を、世界中の拡大鏡をかき集めて、うんと大きくして、葉のさざめきほどの大きさでも、誰かの耳に届けばいいなと思う。 わたしは、書くことが好きだ。書いている間だけは、本気で、何秒も、何分も、何時間も飛ばして、その「書いている人間」を思うことができるからだ。 サムネイル https://shigureni.com/illust/116
「ありがとう」と「ごめんね」がいえるひと。
かれのいないところで、 かれの仕草がふと思い出されました。 臆病な私はそれを、 恋と言えずに、口を閉じたままなのです。 わたしと彼は姉どうしが友達というのもあって、私は彼に、会う前から少しだけ親しさを覚えていました。小学校、中学校が同じでしたから、それなりに仲がよかったのだと思います。中学三年生のころには、四回も席が隣でしたので、よく喋っていたのです。わたしは社交的な方ですが、心のうちというのはとても臆病で、結局のところ、大切なことが何一つ言えません。 ですから、彼のことが好きであることを自分にも隠し続け、高校が別になり、もう関わることはなくなりました。ただただ、ハンカチで丁寧に手を拭く仕草や、私に何かを教えてくれるときの指先が恋しくなりました。 しかし、恋しい恋しいと嘆いても、部活も勉強も思った以上に忙しかったので、それを忘れるように打ち込みました。それでも、何度か寂しくなって、なんてことのないようなメッセージを送り、少しだけ話したりしました。でも、話を切るのはいつもあちらの方で、なるほど、これはなんとも思われていないなと諦めてしまいました。 冬になりました。朝はいつも少しだけ勉強をして授業をうけるので、学校に着く時間帯はとても体が冷えこみます。ジャスティンビーバーを聴いていると、ブブッとバイブ音が響きました。何かと思ってみると、彼からなにかメッセージが来ています。これは期待せずに見た方がいいなと思い、開けてみると、私たちが好きなアニメが明日放送されるとのことだったのです。 なんだ、その朗報は。忘れていたぞ。なんていいやつなんだ、と思い、メッセージを返しました。結局授業が始まるまで既読はつかず、まぁ報告だよなとスマホの電源を切ります。 放課後になっても既読はつかず、返ってきたのは夜の十二時ごろでした。そこから、私たちの一日一ラリのメッセージが始まりました。私は朝に、彼は夜にしかスマホを見なかったのです。 そして、ほんとうにとりとめのない話をしました。 「きょうのゆきはおいしい」 「食うな」 「数学なんて東京湾に沈められたらいいのに」 「どこの組のかたですか?」 「あしたさ、」 「どうせ、持久走だろ」 はじめて、わたしがメッセージを送り終える前に、彼からの返信が届きました。わたしは驚きのあまり、彼に正解を伝えるのを忘れてしまいました。 「どうしたの?徹夜でもした?」 たずねてみました。 「お前が俺をどんな奴だとおもってるか、わかったよ」 「そんなことないよ。だらしないとかおもってない」 「おもってるな、オタクめ」 「おなじひとに言われたくありません」 ふたりとも、メッセージを打つのが遅かったので、結局電話することにしました。私は友人をいつも駅で待つので、駅のベンチで電話しました。 「もしもし、大丈夫ですか」 「俺は善逸みたいにクモになりかけるのか」 「よくわかったな」 「なめるなよ」 「あのアニメのことだけどさぁ、」 そこからたくさん話しました。アニメのこと、部活のこと、目の前を通り過ぎた鳩が太っていたこと。 「なぁ」 ずっと、低くなった声が耳元で私を呼びました。彼はあまり人の名前を呼びません。 「なぁに」 「おれ、おまえ、好き」 爆弾を投げ込まれたのでしょうか。そして、単語だけ伝わると思わないでほしい。 「……うれしい」 それでも、彼は付き合おうとは言いません。きっと、現実的な彼のことですから、学校が違えば、すぐに別れると思ったのでしょう。 「わたしもすきだよ」 「I know」 映画のワンシーンを切り取られて、少し、腹立たしい気もしました。 「ときどき、会ってくれたりする?」 「あぁ」 「電話もちょっとはいい?」 「あぁ」 そこから、両想いだけど付き合わないという奇妙な関係が始まりました。関係でしばることが、こわかったのだと思います。相手を好きじゃなくなれば、他に誰かを好きになったら、ぜんぶ、なくなってしまうような「しばり」は、臆病な私たちにとって、とてもこわかったのです。 春が過ぎ、夏を越え、秋が覗いて、冬が走り去りました。それでも、私たちはおたがいを好きなままでした。 進路がきまり、彼に報告すると、彼も同じ大学が志望校だったそうです。とても嬉しかったのですが、なにしろ学部が全然違うので、キャンパスの場所は同じではありませんでした。少し落ち込んでいると、彼は電話口でくっと喉を立てて笑いました。 「なに?」と聞いても、答えてくれません。しかたがない。こういうときは本当にこの人は口を開かないのです。 そこからというもの、私も彼も入試に励みました。簡単に手の届くような学校ではなかったので、猛勉強を重ね、わからないところは賢い彼に電話します。そのときの彼の声が、唯一の癒しでした。 その成果のおかげか、二人とも無事に合格しました。そして、いちかばちかでお願いをしてみました。 「同棲をしてみたい」と。 彼は、思ったよりも肯定的でした。現実的ではない、と言われてしまうと思ったからです。 そう明かすと、少し驚いたような顔をみせて、笑いました。 「そうか、俺はそんな奴に思われていたんだな」 くつくつと笑いながら、わたしの頬を手袋をはずして触れました。 「冷たい」 「うん」 「一緒に住もうか」 「うん」 「おまえ用に、大型ストーブ買わなくちゃな」 「いらないよ。あなたに温めてもらう」 「結構、すごいこと言ってるの気づいてる?」 「勇気を出して言ってるの!」 「かわいいやつだな」 ときどき、さらっとそういうことを言うから嫌なのです。 「……ありがとう」 そう言うと、目をきゅうと細めました。 「おまえのありがとう好きだな」 「そんなこと言ったって、お菓子もってないもん」 「ごめん、ごめん。そういことじゃないって」 「知ってるよ」 「こんにゃろぉ」 両親にも許可をもらって、同棲することに決まりました。そこから、飛ぶように時間は過ぎさり、高校を卒業して、大学にも少し慣れたころ。 床で寝転がって、すやすや眠っている彼を見つけました。いたいから、とあまり床では寝たがらないのに。横向けになって寝ているので、その腕の中に入りこみました。 「ねぇねぇ」 起きてるでしょ、と瞼をつんつんする。 「なんだ」 寝起きの、少し掠れた声がします。 「ごめんなさい。おまえのクレープ食っちゃった」 とてつもない罪の告白をされました。 「言い訳は?」 「ございません」 「わたしを抱きしめたら許してやろう」 「ありがとう。チョロくて」 「うるせぇ、反省しろ」 「ごめんなさい」 かれのするりと出てくる「ありがとう」と「ごめん」が好きです。少しのひっかかりを優しく抜きとってくれるから。 口が悪くても、態度が冷たくても、 「ありがとう」と「ごめん」を言えるひとがいちばんいい、とよく言うけれど、きっとそれは相手を大切にしているからで、大切にしていることを伝えることばなんだと思います。大切で、大好きで、愛していて、 ちいさな引っかかりで壊れないように、 ぎゅっと相手をつなぎとめているんだと、彼に教えてもらいました。きっと、そうやって愛してることを伝えていくものだから。
てわたしくちうつし
だれかが、 冬の朝のまどろみの中で、 白湯とともに腹を満たすような、 そんな物語を読んでいた。 柔らかな色合いの茶碗に入れて、 炊き立ての米の匂いをさせた。 わたしもだれかも蜜蜂ではないから、 くちうつしで、ハチミツを分け与えたりはできないけれど、 わたしが一人で読んだそれよりも、 うんとまろやかで、満ちていた。 そのだれかは、 噛みやすいように、 飲み込みやすいように、 そんなふうにわたしに手渡した。 そのとき、わたしはその物語が、 プリンセスのドレスより、 遠い異国の宝石箱より、 ずっと、たからもののように思えた。 わたしがまだ、片手で数えるほどの歳のころ、 よく、そのだれかの膝に座っていた。 だれかは、わたしを膝に乗せて、 ワクワクを詰め込んだような絵本を描いた。 森の地面の下で、 綺麗な瓶にたくさんの魔法を入れる、 怖く、優しい魔女の話だった。 わたしも、その物語に触れたくて、 だれかが描いた絵に色をつけさせてとねだった。 わたしがいつもぐちゃぐちゃにする白紙で、 だれかはとびきりの宝物をつくってみせた。 そのたからものは、 だれかが大叔母さんに渡す、贈り物だった。 わたしにとって、物語は常に祝福であり続けた。 わたしは、その祝福を他のだれかに届けたかった。 あの人のようには、なれずとも。 あのとき目に飛び込んできた祝福の光は、 脳裏に焼きついたまま、わたしの手を動かし続けた。 これはわたしの、 しゅくふくになりきれなかった物語の、 幸せに溢れた誕生の過去だ。
セルツェン
蛾の翅が、音もなく崩れていった。その炎に触れたからである。おぼつかなく翅を動かし、ふらふらと炎に飛びこんでいった。 少女は憐れにおもった。指さきをのばし、その亡き骸を受け止めようとした。あの冷たく固い床に落ちてしまわぬようにと。その指先は白く、肉という言葉を知らないようだったが、艶やかに淡い炎の光を反射してみせた。 のばした指さきは男の目頭に触れた。男は冠をかぶっていた。真紅を金で縁取り、太く幹のような蝋燭をのせた冠を。 静かに男は前を向いている。古ぼけ、ただ気品だけを失わない椅子に腰掛けている。腿の長さだけの遠さに少女は立っているが、男は少女を見なかった。 「触れるな。神は造作もなく炎を命に変える」 男はそう少女に言葉を寄越した。少女の瞳はかすかに揺らぎ、すっと手を引いた。蛾の翅は男の頬を滑り落ちていった。翅はまだ燃えていた。男の頬に一筋線が走る。少女は、はっと目を開き、喉を不器用に震わせた。まだ堪えることを知らない嗚咽であった。 思わずといった様子で男は少女の方へ顔をあげた。少女は大粒の涙を、ぐっと堪えていた。 男はそのとき、はじめて表情というものを見せた。途方に暮れたような、どうしようもないような、至極ふつうの人間のように、 困ったようにはにかんでみせた。少女を慰めるように優しく、柔らかに。 世界がまだ熟していない、あおい果実だったころ。 神と人が混じっていたころ。 うんとうんと昔の話だけれど、 たしかに息をした彼らの神話。 セルツェンと名を呼ばれる。ひそやかな声だった。 「なに?」 自分は積み木遊びにいそがしいのだ。このぜつみょうな形を保たねばならないのだ。 「セルツェン」 今度は鼻を啜らせながら、呼ばれた。渋々、後ろを振り向く。 「なんで泣いてるんだ」 思わず、ため息が出てしまった。一日何回泣けば気が済むのか。 「ロッツォ?ニーナか。何を言われたんだ」 「ちがうの」 なにが、と言いかけた。 「ちがったの…?」 それは絶望をふくんだ声だった。 目の前で、すきな女の子は燃えていた。彼女の自慢のおさげも、形のいい耳も、燃えていた。 「ロッツォもニーナも燃えてしまったわ。心地良さそうに燃えたの」 喜んでいたの、と涙を落としながら呟く。 彼女の得意な大粒の涙さえ、その炎を消すことはできなかった。 「だれに……」 掠れた声が出た。じぶんが燃えていないのはなぜなのか。 「かみさまよ」 「イノチが芽吹く地は造られた、とみんなを燃やしてしまったの」 いやよ。嬉しくないの。イノチってなに。なんで、もやすの。ことりも、森も、ぜんぶ燃えてしまったわ。近くに炎なんてなかったのに。かみさまが、かみさまが指を振ったらみんな燃えてしまったの。でもロゴリオおじさんや、ツェルバンみたいな、あたしの嫌いなたちばっかが燃えないの。えらばれたと嗤うの。 いやよ、いやよ。なぜ、あのひとたちはここに残れるの。 なんで、いやよ。いやいやいやいやいや アビョンは自分の顔を掻きむしった。ちいさいころのかんしゃくが戻ったようだった。 「アビョン。やめるんだ。大丈夫だから。おれがなんとかするから」 止めようとしたセルツェンの顔に一筋の線が走る。アビョンの爪が、セルツェンを掻いてしまったからだ。 自分を傷つけたからか。ふとアビョンが動きを止めたので、ぐっと抱きしめた。 大丈夫だから。だいじょうぶだから。何にもならない言葉をかけた。 そう言っている間にも、アビョンは静かに燃えていった。とっくのむかしに、彼女の耳は崩れ落ちていたし、泣き声をあげる口も顎からなくなっていた。 まにあわない、とおもった。まにあわないのだ。 せめて、と。いつもアビョンが、昼寝の前にせがむキスをしてやった。額に、おやすみのキスをするのだ。慰めにもならない、ちっぽけなキスだった。 とたん、ぴたりとアビョンは燃えるのをやめた。 「イノチを含んだか、幼子め」 髪が誰かに撫でられている。大きく、温かな手だった。 「かみさま……」 そう呼ぶと、かすかに笑う気配がした。 「あの子は還らねばならない。とどまってはならないのだ」 「でも、泣いてるんだ。いやだって言ってるんだよ」 「大丈夫だ。彼女の行く先は幸せと喜びに溢れている」 「ここじゃ、いけないの?」 「いけないのだよ、幼子。聞き分けなさい」 「ごめんなさい。かみさま。アビョンがすきなんだ」 おれはえらばれたんでしょう?だから、燃えないんでしょう? 「ここでの、しあわせも、お金も、ぜいたくもいらないから、どうか。どうか、アビョンを燃やさないで」 泣いているんだもの。話を聞いてやらなくちゃ。抱きしめて、大丈夫だよって言わなくちゃ。 おれのたからものなんだ。たいせつにさせてください。 頭を床にこすりつけた。聞いてもらえるまで、ずっとそうしているつもりだった。 困ったように息を吐く音がした。 「愛おしい子よ。なにであってもよいのか」 迷わずに、答えた。 「ならば、これをやろう」 一本の蝋燭だった。 「あの子の火をここへ灯す。イノチの炎の数が合わなければ、世界は回らないのだ。あの子のイノチをおまえが担え。だが、その炎にひとたびあの子が触れれば、イノチとして行く。おまえに、神になる資格はなくなるが、それでいいか」 「アビョンはどうなる?」 「今まで通りだ」 わかった、とセルツェンはひとつ返事で頷いた。 手渡された蝋燭に、ふくんだイノチを吹きかける。やり方など、教えられてはいない。しかし、セルツェンは理解していた。 「惜しいことよ。神の素質があるというのに」 のちに、かの世界で生きものがイノチとして燃えた出来事を、 「ルーメリリア」と呼ばれるようになる。 唯一、イノチとして芽吹かなかった小鳥が最期にそう鳴いたからである。 セルツェンとアビョンのことは誰にも知られることはなかった。 長い、長い年月が過ぎた。かつてセルツェンの頭を撫で、慈愛に満ちた神は、人間に殺された。世界は、もう誰の手にも収まってなどいなかった。そして、セルツェンとアビョンは神でも、人でもないが故にその世界の端へと追いやられていた。 はるかむかし、神を招くために作られた神殿にセルツェンとアビョンは逃げ込んだ。薄暗い、冷たい場所だった。 そこにはまだ無知な蛾がいて、ただ美しい光を放つ炎へと吸い寄せられていった。とうのむかしに、世界のことわりは忘れられていた。草木や虫や、鳥でさえ、教えられずとも知っていたのに。 「セルツェン」 何百年ぶりだろうか。アビョンはセルツェンの名を呼んだ。いま、言わなければならない。あの、穏やかで優しいセルツェンが少しでも残るいま。 「わたしはもう、行かなければならないのだわ」 悲しげに、少し誇らしいような顔でアビョンは言った。 「なぜ。世界には争いが溢れ、おまえを傷つけるものばかりなのに」 「蝋が尽きかけているわ。けれど、この炎はそれだけでは消せないの」 「俺が、蝋になればいい。この蝋燭よりもずっと長い」 「いやよ。それはわたしがいやよ」 表情が豊かだったセルツェンは、蝋とともに感情を燃やされた。残ったのは、わたしを守らねばという使命感だけ。 なんと弁明しようと、結局のところただのわたしの我儘なせいなのだ。この世界から、神となるべきひとを奪い、争いを止められず、かつて父のように慕った神が愛した世界を壊したのはわたしなのだ。 「セルツェン。ねるまえのキスをしてよ」 おねがい、と涙を流してみせる。セルツェンはわたしに泣かれたら、何もできないのだ。 セルツェンの前に立っていたけれど、それではセルツェンがキスできないとおもって彼の膝に座った。 セルツェンの背はとても高くて、わたしが膝の上に座ろうとも、彼の顔を見るためには見上げればならない。 「セルツェン」ともう一度名を呼べば、呆れたように息を吐いた。 しようがない、と言うように、ため息をついた。 「おやすみ、アビョン」 セルツェンは冠をはずし、炎を唇に移した。柔らかで、少しカサついた唇が額に触れる。あの頃と何も変わらない、優しい声だった。 「だいすき、せるつぇん」 見上げたそのひとは、ただゆっくりと目を細めた。 瓦礫が積み重なる場所の片隅で、赤ん坊が泣き声を上げた。聞くと、胸を締めつけられるように悲しくて、幸せに満ちた声だった。
bless
祝福を口にした。 祝福を耳にした。 祝福を目にした。 かつての私は形づくられた。 それを忘れ、空腹を覚え、 構わず腹に溜めたのは何であったのか。 噛みきることができず、 耳も塞げず、 目蓋さえ閉じれぬが、 祝福以外で食いつないだ。 いったい何の意地だったのだろう。 疑いの目で全てを見て、 次は世界の美しさを語った。 二者しか私は知らず、 またそのような目しか持っていなかった。 否か、そうでないか。 祝福の味を占めなかった人間は、 とても理知的である。 ゆえに衝動に身を任さず、 自らが生み出しもので腹を満たそうとする。 それでは食ったことにならぬというのに、 なぜかその矛盾には気付かぬ。 祝福を食べ、 祝福を見て、 祝福を聞いた。 それですぐに納得すればよかろう。 祝福は何かと問い、 祝福の対象から自らを外し、 いつしか神と人間に分けた。 その味と、 姿と、 音を。 何も信用してはいないのだ。 その世界に何が残ると言う。 祝福を口にし、 祝福を目にし、 祝福を耳にしてなお、 私たちが信じないものを、 私たちは世界と呼んだ。
第8回N1 ヒデオ
『英雄』 ナタワラの丘には、ヒデオがいる。滑稽なヒデオがいる。 「よぉ、ヒデオ。お前ぇさん、どこへ行く」 「こんにちは。今から根に懇願しに行きます」 「どういうことだ、てめぇさん」 「頭を下げるだけなので、足の移動はいりません」 「何をした」 「川の傾斜のあるところで昼寝をしたら、いつの間にか川に落ちて水草に絡まりました」 「俺は、お前が釣りでもするのかと期待したが」 「ご期待に応えられず、申し訳ありません」 「手伝ってやるからよ」 「あら、ヒデオちゃん。どうしたの」 「こんばんは。旅人の方に道を尋ねられたのですが、この町がわからないのです」 「いやねぇ、ヒデオちゃん。この町じゃないの」 「あぁ、この町の名前なのですね」 「ヒデオ!鬼ごっこしようぜ」 「いいですよ。私が鬼になりましょうか」 「ヒデオが鬼になったら、一生俺ら捕まんねぇよ」 「それもそうですね。私が逃げたら、一番初めに捕まるでしょう」 「だってヒデオ、年上なのに俺らより足遅ぇもん」 「ヒデオ。この絵どう思う?」 「素晴らしいと思いますよ」 「どういうところ?」 「……すみません」 「だと思った。珍しく感想言ってくれるから期待したのに」 「すみません」 「わからないものは仕方がないから」 「私が描きましょうか」 「ヒデオ」「ヒデオちゃん」「ヒデオ!」「ヒデオ」 みなヒデオと話したがった。 ナタワラの丘の小さな家にヒデオは住んだ。 朝になれば誰かが彼を起こし、 夜になれば誰かがヒデオの夕食を持っていった。 たまに、誰かが彼にお菓子や、野菜をくれた。 小さな家には、町の人々の優しさで埋め尽くされていた。 ある明け方に、ヒデオの家の戸を叩く音が聞こえた。 ヒデオは布団から起き上がり、戸を開ける。 そこには街一番の秀才と呼ばれる男の子がいた。 「おはようございます。どうかなさいましたか」 「おはようございます。ヒデオさんにお聞きしたいことがあって来ました」 「寒いですからどうぞ、中へ」 「どこに座ればよろしいでしょうか」 「すみませんねぇ。どうにも片付けが苦手で」 「ヒデオさん」 「はい」 「あなたは、バカにされています」 「はい」 「それでよいのですか」 「はい」 「なんでっっ!!」 男の子は思わずといった様子で立ち上がった。 「あなたの愚かさを見て、みな安心するのですよ!」 「それが何か」 「何かって……」 「安心することで救われるのであれば、それでよいのです。私の愚かさが誰かの助けになればそれで」 「僕にはわかりません」 「わからなくてよいのです。あなたはあなたのやり方で救えばよいのだから」 「そういうことを言っているのではありません。あなたがっっ」 聞き上手で有名なヒデオは、男の子の言葉を遮った。 「よいのです」 そう言うと、彼は立ち上がって男の子を見送ろうとした。 「帰ります」 男の子は、そのまま歯を食いしばったまま外へ出て、ヒデオの目を見て頭を下げた。 「早朝にすみませんでした。いい一日にを送れますように」 くるりと後ろを向くと、丘を下って行った。 「この愚かさがあればそれで」 そうこぼすと、ヒデオはギィと戸を閉めた。 ナタワラの丘には、ヒデオがいる。滑稽な英雄がいる。
Wo
すこし、目を細めれば。 世界はぼやけず、はっきりと見えた。 そのぶん、狭くはなるけれど、 世界はうんと綺麗だった。 隅々まで見渡したとき、 たまたま見つけた小さなほこりを。 私はずっと視界から消すことができない。 汚いものが目につくのは、 汚いものより綺麗なものが多いから。 そうとわかっていても。 気にしてしまうのは、そんなものばかり。 美しいものだけを見ることなんてできない。 いつかその中で、 また私たちは汚いものを見つけ出すのでしょう。 少し前まで。 綺麗だねぇ、と誰かと褒め称えたそれすら。 だから、目を開くしかないのよ。 多少ぼやけても何も変わりはしないから。 そのほこりも見えなくなるでしょう。 汚いわと泣き叫ぶくらいなら、 少し見えないことくらい受け入れなくてはいけないの。 大人になればその技を身につけ、 私たちはまた世界が美しくないと叫ぶかもしれませんが。 それでも。 イチョウが道につくる夕暮れを踏みしめて、 少し乾いた風に吹かれ、 前を歩く恋人たちがくすくすと微笑い、 澄んだ空に高く飛ぶ鳥たちと、 目に落としこまれた深い青を抱いて。 どうして、世界が美しくないと泣けるのでしょう。 私の、私自身の歴史などもすべて置き去りにして。 今の、過去のすべてを置き去りにしてもなお。 世界は残り続ける。 世界は美しく残り続ける。 私たちでは壊せないほど。 その強かさを私たちに見せ続けている。
07
布団の中で、身体をくの字にする。 これで耐えられるわけでもない。 どうにか私のカタチが崩れないように。 意味もなく何かを抱えているだけだ。 ぐぅんと押し寄せてくる不安は、 浜から離れたときのあの大きな波なんだろう。 不安の波が襲いかかったとき。 その波に揺られてみましょう。 無理に逃げたり、対抗したりしなくてもいいのよ。 波がただ怖くなって、もうひとつの怪獣を呼んでしまうから。 はじめはその波の動きが大きく、激しくて、 たいていは酔うことでしょう。 すこし吐き気がマシになったら、 くの字にしていた身体を伸ばしてみてください。 圧迫されたお腹の苦しさに後から気づくはずです。 そして、手と足の力を抜いてください。 これはとても大切なことですから、忘れないで。 次は波の行く先に目を向けてください。 それは砂浜です。 波は砂浜の上で寄ってひいてを繰り返します。 砂浜をゆっくりと見てください。 少しずつ、少しずつ、波でならされていきます。 誰かがあなたに踏み込んだときの足跡や、 世界が勝手に創っていく塔を。 すこしずつ、すこしずつ、ならしていきます。 不安は、 あなたを殴ったり蹴ったりするような暴力ではないの。 それを、どうか忘れないで。 あなたが受け止めて、手首を捻挫したのは、 固まったばかりのバターを投げられたからだと思って。 寝る前にそんなものを投げられても、受け止められるわけがないじゃないの。 だから、あなたはそのバターをお皿に置いて一晩おくの。 柔らかくするためにね。 そして、そのバターのベタベタは手を洗って忘れるわ。 そして朝起きて、そのお皿を見て、 あぁ、バターが柔らかくなったなと思ったら、 小さく小切りにして、トースト用に置いておきます。 毎朝、一切れのバターを塗って食べてしまえば、 いつのまにかお皿からなくなって、 あなたの胃や腸が消化するから。 大丈夫よ、大丈夫なの。 身を固めたまま。 あなたが泣くことが一番、あなたにとって苦しいのよ。
出づ
るりるりと、鳴く小鳥がおったのよ。 小さな苗木に留まっていた。 不思議なことに、泉の中にその苗木はあったもので、 落ちてはいけないと小鳥に言った。 「その木は小さいから他の木に行きなさい」と。 どこへ。 他に木などありますでしょうかと、 小鳥が私にきいているようだった。 私は見渡した。 何もない。 本当に何もなく、泉が続くだけだった。 川底の見えない、深い深い泉だ。 私は自分がどこに立っているのか、分からなくなった。 足先が見えない。泉に浸かっているのだろうか。 けれど、私が足を動かしたところで波ひとつ立たない。 私は怖くなった。 息の許すかぎり、足を動かした。 進んでいるのかさえ分からない。 景色に変化はなく、 私の頬が風をきる感覚もなかった。 水を両手で掬った。 だというのに、溢れない。 その上、水に重さがない。 この泉は、何だと言うのだ。 私が慌てふためいても、 波ひとつ立てずに、泉は深くなるばかりだった。 私は服が濡れることもなく、沈んでいく。 滑稽な私を、小鳥はただ見つめていた。 小鳥よ!お願いだから、鳴いておくれ! ここは静かで気が狂いそうなんだ。 私がそう叫ぶと小鳥は羽を震わせた。 鳴こうと頭を上げ、音もなくただ体を震わせていた。 あの小鳥は声が出ないのだ。 必死に鳴こうとしている。 私が頼んだために。 すまない。小鳥よ、すまない。 もうよいのだ。鳴かなくともよい。 お前がいれば十分だ。 この泉の果てを探す私が愚かだった。 知っているのだ。 私だもの。 この泉が私だもの。 この水を蒸発させる光を見つけられず、 ただ泣いているのが私だもの。 小鳥よ。 なぜここに迷い込んだ。 その苗木は育たぬ。 水に浸かりすぎだ。 根が腐ってしまっている。 いつか倒れるのだ。 お前のとまり木はなくなるぞ。 飛び続けなければならぬ。 私にも留まるな。 いずれ沈む身だ。 おぉ、鳴かないでおくれ。 一滴たりとも、力を無駄にしてはならぬ。 私を慰める必要はないのだよ。 私を置いて飛び立つのだよ、小鳥。 お前の羽を見せておくれ。 鳶のように大きく優雅なものでなくとも。 上だ。 上にお行き。 私の心の臓を出て、口から出るといい。 醜い言葉とともにお前が出てしまわないようにするから。 お前の羽に纏わりつかぬ、 柔らかな言葉を出そう。 だから、ほら。お行きなさい。 お行きなさい。 私の何を見ても、ここへは戻らずに。 優しいお前のことだから。 置いてゆくことを忘れてお行きなさい。
ラニーセリョッタ
それは夏が息を潜めるころ、秋の初めのことでした。 大きな崖の下に小さな家がありました。その小さな家に一人の旅人と小さな男の子が訪ねてきたのです。その家には夫を亡くした女性が独り住んでおりました。彼女は特別な楽器をつくる職人で、王さまから、一つ何か楽器をつくるようにと頼まれていました。彼女の家の玄関は、透明ではありますが家の中は何一つとして見せないというなんとも不思議な膜に覆われていました。ノックなどは到底できないように思われたので、旅人は、夜だと承知しながらも少し大きな声で彼女の名前を呼びました。何しろ彼女の家は崖の下にありましたから、お隣さんとは、ほんの歩いて一日かかるほどの遠さで、多少大きな声を出しても彼女以外に迷惑のかかる人はいないのでした。 「誰さ、こんな夜更けに」 玄関の膜がまるでカーテンのように、開きました。 「私だよ、オーチェヌ」 旅人は、答えました。 「あんたか。これまたどうして」 旅人は自分の後ろにいた男の子を優しく押し出して言いました。 「この子を頼みたくて」 オーチェヌと呼ばれた女性は大きく目を開きました。 「半肉体じゃないか……」 半肉体、それは人が死んだあと、命も生きた記憶もない中、自我と体だけが残された人にすらなれない者たち。死後一年の間のみ、彼らは死者になりきらない。 「あぁ…………」 オーチェヌは込み上がる感情を押さえて言いました。 「わかった。その子は私に任せな」 男の子の手を強く握り込んで、旅人の目を見つめました。 「さあ、お行き。旅人さん」 旅人は静かに元来た道を引き返して行きました。 その背中が暗い暗い闇の中に消えたころ、二人はやっと家の方へ体を向けました。 「坊や、おいで。うちの中へ入ろう」 おずおずといった様子で男の子は家の中に入ります。 「靴をお脱ぎ。ああ、パーチャオを被せて。ううんと、それだよ。その薄い膜。ほら、靴ってのは空洞があるだろ。どうにもその中に音が入っちまって、うまく響かないんだ。靴に音が入らないようきっちり覆うんだよ。そうそう、上手、上手…….」 その家には、普通のような床はありませんでした。一面が苔に覆われ、平なところなどはありません。歩くたび、足の指と指の間から苔がひょっこりと顔を出し、柔らかな感触が足を包んでいくようでした。 男の子が苔に夢中になっていると、オーチェヌは、 「あまり苔に足を埋めるじゃないよ。抜けなくなるからね」 と、言います。 男の子は、びくっと体を震わせたあと、これは床、これは床と自分に言い聞かせました。苔だと思うと、どうしてもその感触が気になってしょうがないからです。 「さてと、坊や。君を坊やと呼び続けるのはあまり得策ではないから、何か名前をつけようと思うんだが、それでもいいかい?」 男の子は小さく頷きます。 「じゃあ、これからはラニーセリョッタというのが君の名前だ。少し長いから、ラッセとでも呼んでおこうか」 男の子はラッセと聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で呟きました。 「私のことはオーチェヌと呼んでくれ。職人の方の名前だよ」 ラッセはこくんとまた頷きました。 「さっそくだが、まずこの家のことを知ってもらわないとならん。ついてきなさい」 ラッセは差し出された手を握って、ついていきました。 あれは、暖炉。調理もできるけどね。ホノオゴケが温めてくれる。胞子には気をつけな。あれは火の粉と同じだからね。 この壁にある一本の筋は見えるかい。ここから水が流れてくるんだ。ちゃんとこの桶を置いておくんだよ。きっかり一日分の水が溜まるからね。 食べるところはここだ。苔の上に座って食べるんだ。シマイゴケの上に食べ終わった皿を置いておけば、綺麗にしておいてくれる。 ときどき、塩を吹くのは鯨だ。絶対に触れてはいけないよ。あれは、怪物だから……。 「ラッセ。ここが最後だ」 オーチェヌが指さした先には、盛り上がった苔の段があった。 「お墓……?」 ラッセは不思議そうにその場所を見つめていました。 「いい目をしているね。そのようなものだ よ。私がいま、作っている楽器さ」 あの新芽はなぁに。苔じゃないよ。 ラッセは静かにオーチェヌに問います。 「あれは楽器の核だ」 とても寂しい目をして、オーチェヌはその芽を見ていました。 オーチェヌとラッセの生活は極めて質素で充実したものでした。 日の出とともに起き、顔を洗い、朝食を食べ、オーチェヌは楽器作りに、ラッセは家事に励んでいました。この家事というのに苔の世話が入りますから、ラッセは暇という時間がないほどでした。 楽器づくりといっても、金槌で何かを叩くような音などは全く聞こえませんでした。調律をする音も聞こえないのに、時々苔がうっとりと聴き入る様子がありましたから、きっとそれは特別な音だろうとラッセは思いました。 ある日のことです。外からオーチェヌの名前を呼ぶ声が聞こえました。ラッセは旅人かと思い、少しはやる気持ちを抑えて、玄関の膜を、開けようとしました。すると、オーチェヌが 「待ちなさい」 とひどく静かな声で止めました。 「旅人ではない」 オーチェヌは外の誰かを知っているようでした。そしてあまり、自分がいてほしくないのだという雰囲気をラッセは読み取り、家の奥の方へ移動しました。 「…………様が…………………る。早く…………………」 「わ……………る…………!どう…………」 途切れ途切れにしか聞こえませんでしが、オーチェヌの声はひどく震えていました。 外の誰かが帰ったあと、オーチェヌは話したいことがあるからと作業場から出てきました。 「どうしたの」 つとめて柔らかくラッセは聞きました。 「君に話さなければいけないと思ってね」 話し始めにくそうに、オーチェヌが口を閉じては開くを繰り返していました。 「さぁ、話してよ」 ラッセは優しく聞きました。 「私が国王様に楽器を一つと頼まれたのを知っているね。それはとても名誉なことと同時に、とても残酷なことなんだ。つくったものを国王様に贈呈したあと、職人はみな殺される。例外はひとりもいない。なぜだか、わかるかい?」 ラッセは首を横に振りました。オーチェヌが殺される。その事実で身体中の震えが止まりませんでした。 「王様に贈呈したもの以上に素晴らしい作品がこの世に出ないようにするためだよ」 だからみな、人生をかけて精巧に精巧に時間をたっぷりと使ってつくる。そして死ぬ間際に贈呈して、死んでいくんだ。 「でもね、ラッセ。私はもうあの楽器を完成させた。さっき、あれを取りにくるよう城のものにも伝えたよ」 ラッセは激昂しました。怒りが止まらなかった。悲しかった。そう、ひどく悲しかったのだ。 それを知っているように、オーチェヌはラッセの頭を撫で、頬に触れました。ポロポロと涙を溢しながら、ラッセの前髪を梳きました。 「ラッセ。君は……」 「君はかの国王の末の王弟であり、 君に仕える第一の騎士が私の夫だった」 私は君が生まれた頃から知っているんだ。夫が君のことを話す時、いつも柔らかな微笑みを浮かべていた。 君の歯が生えてきたこと。 君が夫の手を握り返したこと。 夫を見て、はにかむようになったこと。 君が歩けるようになったこと。 君が話せるようになったこと。 君が夫の名前を呼べるようになったこと。 寡黙な彼は、いつも君のことになると饒舌になった。私たちの間には子供ができなかったから、話の中だけでも彼が君をどれほど慈しんでいるか、よく分かったよ。私も、愛らしい君を心の底から愛していた。 そんな時、君が隣国へ行くことになり、夫もまた君についていくことになった。誇らしげに君のことを話していた。 しかし、彼がいつ頃には帰って来られると言った日にちからもう二週間が過ぎようとしていた。 上のお方のことなどよくわからないから、そういうこともあるのだろうと少しの不安を抱えながら待っていた。 ある晩のことだ。森の中の獣たちの声がうるさくて、少し森をのぞいてみた。すると、家の前の森で、獣たちが群がっている。私は急いで火のついた矢を放って獣たちを追い出して、そこへ見に行った。 人が倒れていた。その時から分かっていた。私の夫だ。喉笛を噛みちぎられ、足を食われ、腐臭を纏っている。 ただ、何かをとても大切そうに抱え込んでいた。彼の腕はとても堅くそれを抱きしめていて、引き剥がすのに苦労した。 血濡れた子供がその中にいた。きっと、私の夫の血だ。その子供もまた息をしておらず、心の臓は止まっていた。私はその子供が誰なのかも分かっていたし、自分が夫と息子のように大切に思っていた子供を亡くしたことを知った。 私は二人の遺体を家と外の狭間の、いっとう柔らかな苔のところへ埋めた。何日からすると、柔らかな若葉色をした新芽が出てきた。 私は十年も前に王に頼まれていた仕事を始めると決めた。新芽で、私は最後の制作をしようと思った。自分では死ねないし、寿命まで夫なしでは生きられないから、死ぬ理由が欲しかった。 完成して、城の者を呼ぼうと考えていたころ、君が来たんだ。 私は目を閉じた君しか知らなかったから、くるくると表情を変える君を見るたびに胸がしめつけられた。君が半肉体となって現れたということは、本当に君が死んでしまったことをみせつけられているようだったから。王族なら、生き返ることもできるんじゃないかと馬鹿な期待もした。 「あぁ、君はなんと可愛らしいの」 オーチェヌの腕の中で抱きしめられていた、ラッセはオーチェヌの心拍がいつになく速いことに気がつきました。 「オーチェヌ………?」 オーチェヌはラッセにパーチャオをかけました。 音を入れない膜です。なので、オーチェヌが何か言っているのに何も聞き取ることができません。 「ねぇ、オーチェヌ!!オーチェヌ!!」 なんて言ってるの!!やめてよ!!早くこの膜を取って!! は ぜ ろ とオーチェヌの唇が動きました。 床の苔が全てホノオゴケに変わっていきます。 パチパチと胞子が弾けていきます。 ラッセは床に倒れ込みました。もたれかかっていた体はもうそこにはなく、家中が燃えるなか、初めてオーチェヌのつくった楽器の姿を見ました。 そうか、とオーチェヌは理解しました。焼かなくちゃこの楽器はオーチェヌ以外に見えないんだ。燃やさないと取りに来る城の者も分からなかったでしょう、オーチェヌがきっと燃やすという手を取ったのも、きっと彼女の夫とともにいくためなのでしょう。 パーチャオのおかげで、ラッセは燃えませんでした。パーチャオと同じ成分でできている入口や窓の膜で外にまで火は移らず、家が消滅して終わりました。ポツンと、燃えたぎる地に、彼女の作品が立っています。その火が消えることはありませんでした。 取りに来た城の者も彼女の作品に一歩も近づけず、断念して去っていきました。 ラッセは死者になりました。パーチャオを自ら脱ぎ捨て、その炎にやかれたからです。