歩道橋
22 件の小説未熟
まだ青いびわの苦みが舌をすべる。 野に生えたものを、石で落としたのだ。 美味しいものだと思って頬張った苦さで、 うんと顔をしかめた私をあの人は笑った。 「おまえはわたくしの目を河原の石のようだともうすのか!」 記憶にあるかぎり、一度も出したことのないような大きな声を出し、唇を噛みしめて、目の前の乳兄弟を見つめた。乳母が慌てふためいているのが、横目に見えた。 当の乳兄弟はと言うと、すこし驚いたような顔をしているだけで、なにも申し訳なさそうな様子も見せない。乳兄弟のその態度に、はらわたが煮えくり返りそうだった。 「わたくしは!わたくしは、いやしくなどない!」 みな、わたくしを下賤のものの子、下賤ののものの子と隠れた場所で言っているのを知っている。歳が七つのわたくしであっても、その意味くらい知っているのだ。 体の奥から涙がせり上がってくる。それでも乳兄弟は謝ることもせずに、じっとこちらを見つめてきた。 「春麻呂!出ていきなさい!」 乳母が金切り声をあげて、乳兄弟を追い出した。出ていく背中は、ずっとわたくしの方を向いたままだった。 さむい。さむくて、静かだ。 乳母はどこだろう。起きるときにはいつも火がついているのに。 乳母にまで、捨てられたのだろうか。あの人の子どもに、八つ当たりをしてしまったから。だから、みかぎられたのだろうか。 ごめんなさい。さむい。こわいよ。なんで、こんな静かなの。 「失礼しまする」 音を殺して、部屋の中へと入ってくる足音がする。さむくて潜り込んだ衾の隙間から、誰なのかを覗いた。 「はるまろ」 足が、止まった。 「姫様、起きていらしたのですか」 春麻呂はわたくしのすぐ側に座った。 「さむくて、おきたの」 衾から顔を出して、その顔を見つめる。 「母上が風邪を引いて、わたしが来ることになりました。この時間は、みな寝ていますから」 「乳母はだいじょうぶなの?」 「大丈夫でしょう」 「春麻呂」 「はい」 「……やつあたりして、ごめんなさい」 ありがとう、とつぶやいた声も春麻呂は拾っていた。 「姫様、火をつける時を見たことはありますか」 突然、何を言い出すのだろう。 「ない」 懐から石のようなものと、鉄のかけらを取り出す。 「こうやってっ」 カチッ、カチッと音が鳴った、 「二つを、叩き合わせるんです」 火花が、すこしだけれどあった。 「この石は、火打ち石というんです。河原によく落ちていますよ。姫様、その水差しの水を少しもらっても?」 わたくしの横に置いてあった水差しを渡す。 「よく見ててください。水に濡らすとね」 ほら、と見せられた石は変哲のない河原の石ではなく、色鮮やかな宝石のようになっていた。 「宝石みたい」 そう言うと、春麻呂の顔が少し柔らかくなった。 「姫様の目のようです」 なにをいっているの。 「姫様、泣いていいんですよ。感情が溢れ出したとき、あなたの目はほんとうに綺麗だから」 「それでは、ふだんのわたくしの目が河原の石であることに変わりはないのでは?」 「そうですね」 しれっと辛辣なことを言う。 「おまえが、そんな性格だとは知らなかった」 わたくしの側にいる時は春麻呂はあまり喋らなくて、けれど、ともにいる時間だけが長く、春麻呂を知っているようで、なにも知らない。 こんなに春麻呂が喋るなんてしらなかった。 「春麻呂」 「なんです?」 何歳なの。何が好きなの。どんな本を読むの。いつも何時に起きているの。わたくしのために早く起きてくれたの。 「姫様、そこから聞くの」 少し肌寒い、春風がふく。 「姫様、おめでとうございます」 お互いに成人してからというもの、顔を合わせなかった人がそこにいた。 「春麻呂」 「姫様、春麻呂はもう昔ですよ。今は春嗣ですから」 「それなら、わたくしを姫様と呼ぶのはもういい加減におよし」 身分の高い人と結婚がしたかった。馬鹿にされないほど。正妻ではないけれど、わたくしを愛してくれる人に出会った。本当ならわたくしでは釣り合わないような人だ。 「幸せでいて」 くしゃりと、また、笑う。 年に数回程度交わしていた文の代わりに届いたのは訃報だった。寒い、北の国の方で、彼は亡くなったらしい。 わたくしももう歳である。夫にも先立たれた。我が子も手を離れ、今はただ静かに暮らしていた。 「火を」 侍女にに声をかけると、驚いたように目を丸くした。 「奥様は寒がりでいらっしゃいますね。もう、春だというのに」 カチッ、カチッと変わらぬ音がする。 熱いものが、せり上がってくる。 「奥様!あぁ、奥様!」 侍女に抱きしめられて、声を殺して泣いた。 あの人は、妻を一人しかとらなかったらしい。あたりまえだ。彼は三人も、四人も愛するほど器用ではない。あの人の娘にも会ったことがある。よく笑って、目がこぼれ落ちんばかりに美味しいものを美味しそうに食べる子だ。きっと、彼が慈しんだのだろう。 そんな彼女達がほんのすこしだけ、 ほんのすこしだけ羨ましかった。 夫を愛していた。心の底から愛していた。穏やかな声、優しくわたくしに触れる手つき。泥がつくことも構わず、子どもと遊ぶ姿。愛していた。愛していたのだ。 ただ、時々それがあの人に重なる。親情とうまく見分けられずに、熟れることなく捨ておかれた恋が、いまさらになって苦く、苦く胸をかすめる。
ほたる
粒の大きい砂が、汗でふくらはぎに張りつく。 慣れないサンダルを履いてきたからだ。 太ももの裏側が蚊に刺されて、燃えるように熱い。 少し背の高い草が足をくすぐって、 蛍を探すどころではないのだ。 いつのまにか先を行っていて、 慣れたようにさくさくと歩いていく背中を慌てて追う。 足裏の汗でサンダルが脱げそうになるのを、 何度も堪えて走っていると、 少しぬかるんだ土に足をとられてついにサンダルが脱げた。 けれど、前の背中は気づかずに先に行ってしまう。 このまま置いていかれたどうしよう。 私がいないから帰ったのだろうと思って、 あの人が帰ってしまったらどうしよう。 帰り道がわからない。 あぜみちを越え、家と家の間の道を通ってきたから、 ここに住んでいない私には帰り道がわからない。 不安がぐっとこみ上げてくる。 こんなことじゃ私は泣かない。 そう強がっても涙がぽろぽろと溢れてきて、 必死に堪えると、喉が熱くなった。 あぁ、かゆい。 汗ではりつく砂が気になる。 よけいなものが、不安をかんたんにあおる。 「なんで泣いてるん」 まえの背中はいつの間にか私の方を向いていた。 「泣いてないもん」 強がって、手探りでサンダルを探す。 「うそつけ、泣いてるやろ。ほら」 その人の方が早くに私のサンダルをみつけしまって、 服で拭って渡してくれた。 「ありがとう。あの、服……」 「別に。どうせ汚すから」 そしてその人は少しだけ首を傾けると、 すいとサンダルを脱いだ。 「裸足の方が、気持ちええな」 汗がぬるぬる気持ち悪いわ。 そう言い切って、にわか雨で濡れた草の上を歩いている。 ごつごつとした足の指の隙間から、にゅっと草が顔を出した。 「ふじくん、ばい菌入っちゃう」 彼がぬかるみにも入ろうとしたので、慌てて止める。 「大丈夫や。どこも怪我しとらん」 「そいゆう問題とちゃうやん」 思わず言ってしまった。 見上げると、 不思議と夜と混じらない黒い目がこちらを見ている。 「めいこ。おまえ、それどういう顔や」 この人、私の名前呼ぶんや、と少し外れた驚きが走った。 「不安そうやのに、腹立ってて、なんか拍子抜けた顔しとる」 そう言われて、少しムッとしてしまう。 「してへんもん」 「そうでっか」 軽く笑って、彼はサンダルを履き直した。 「泥とか汗とかついて気持ち悪うないの?」 ごつごつした足がアイスリンクの上のように、サンダルの上で滑っている。 「気持ち悪いし、すぐ脱げる」 私もサンダルをもう一度履き直した。 「はよ、蛍いる川いこ。足洗いたいし」 足もともろくに見えないところを歩き続けた。 一度躓きかけると、少し汗ばんだ手が私の手を握った。 「慣れてへんやろ」 リーリーともジージーとも言えないような、 夜の夏の虫の声がやけに響く。 離れた道路で、車が近づいては遠のく、 少し寂しさをくすぐる音が、 サンダルのペタペタ鳴らした音のあいだにうまく挟まった。 そこに小さな水の音も加わって、 私たちはようやく蛍の場所へ辿り着いた。 「そんなに、多いわけでもないねん。蛍」 きれいやな、とありふれた言葉しか出てこなかった。 蛍よりも、やはり蚊に刺されたかゆみが気になる。 足もとの草が足首をくすぐる。 それよりも。 離されない汗ばんだ大きな手が気になった。 はなれかけては、何度も握りなおされた手が、 気になって仕方がない。 だからか、帰って蛍どうやったと聞かれても、 うんと答えることしかできなかった。
ぽいっ
こ ー ば 一 か ー ら なにもはいらない、からばこ。 砂つぶをおとす、からばこ。 とじてあけられない、からばこ。 ここにいっとう、たいせつなものをいれた。 とじこめられない、からばこ。 はねの軽さでとべない、からばこ。 たんぽぽわたげののようにはね。 かぜにも乗れず、あしもとにおりた、からばこ。 めぶけ、芽ぶけ。 なかみもしらず、その種。 足のゆびさき、かいた線は細く、 とまって、流れるりんかくを。 そのすきまから、芽ぶけ。 上にのびなくともよいのだから。 芽ぶけ。めぶけ。 あさつゆに包まれて、まぶたよひらけ。
おひれ
よあけの、にし。 ゆふぐれの、ひがし。 それは美しいおひれ。 光の粉をふりまいて、 ひらり、ひらりと潜ってゆく魚のおひれ。 ちろちろと木漏れびが瞼のうえをすべった 筆先で撫でられるように、やわらかに 小鳥の揺らす枝に、瑞々しい青葉がしなやかに茂っている 手をかざせば、指のすきまから光が溢れ、 少しくしゃみをしたくなるような風がふいた キビタキの歌が、こころを洗うようだ うつくしい小川のような声を、 しっとりと染みこませる午後 あれを、 お前がうつくしいと言ったらよいのに 貝の滑らかな肌のような雲を、 お前が見上げたらよいのに ゆふぐれの、ひがし。 よあけの、にし。 それは美しいおひれ。 光の粉をふりまいて、 ひらり、ひらりと水面へゆく魚のおひれ。
ぶかつのはなし
わたしの近況報告。 部活のおはなしです。 私は陸上部に入っています。とても大きな大会があって見事惨敗。泣きに泣いて、けろっと立ち直りました。相手のいるゲーム型の部活と違って、陸上は泣いても笑っても自分次第。 私はしんどいことが嫌いです。辛いことが嫌いです。頑張ることがほんとうに嫌いですが、陸上部に入りました。中学で懲りたので、文芸部にでも入ろうと思ったんです。でも陸上というのは中毒性のある薬のように、もうしんどい、やめてしまいたいと思った次の日に、ぽろんと特大のやりがいを落としていったりするのです。 坂で地獄のような補強をした後、髪ごと水に浴びるのはとてつもなく最高の気分です。仲間が走り高跳びのバーを跳び越えたとき、差していた日傘を投げ捨て、奇声をあけながら拍手をします。コンマ一秒の差で負けた友だちのリュックを持って、学校のテントに戻り、二人でじめじめと泣いたりもします。 リレーや駅伝でない限り、誰かと一緒に記録を作ることはできません。ただ、練習を、喜びを、悲しみを、苦しさを、共にした仲間たちとの時間を積み重ねて、スタートラインに立つのです。 走る、跳ぶ、投げる。私たちはこんな単純な動きに泣き叫びます。 バカみたいだと思います。 けれど、バカみたいに最高なんですから、 仕方がないのです。
ジコショウカイ
まるいち ノベリーを始めてどれくらい? 色々なアカウントを渡り歩いたので、3年ほどです。 まるに ノベリーを始めたきっかけは? たまたま授業で詩を書くというものがあって、書くということに魅了されたからです。いろいろ調べていると、ノベリーに辿り着き試してみたら、居心地がよくて居座りました。 コタツムリならぬノベツムリですね。 まるさん 読むジャンルは? 特にないですね。ただ、読む本を選ぶとき、まず作者さんを見ます。どんな人が何を書いたのかがとても気になるんです。 最近、本を読んでいなくて、そろそろ活字中毒の発作が出そう。一ヶ月ほど前に読んでとても好きだったのは「雲を紡ぐ」です。 ひとことでいいます。好きすぎる。 まるよん 書くジャンルは? ほんとうにこれ、いつも自分でもわからない。書きながら、全くお前は何を書いてるんだよと自分にツッコんでいます。なので、私の作品にメッセージ性はかけらもありません。深い意図もありませんので、読む時に頭を使わなくても大丈夫です。影響されやすい性格なので、きっと幼少期に観たアニメや映画に引っ張られているのでしょう。 ただ、古文が好きで結構引用させていただいたりしています。ありがとう、平安のひとよ。著作権は切れている。なにしろ千年経ったからね。 あと恋愛でそんなに死なないで。感動で袖を濡らしすぎじゃないかな。 ときどき、現実とは違う世界線のものを書いたりしますが、それはわたくしめの発作です。お気になさらず。 まるご 名前の由来 「歩道橋」→ 「あゆむみちのはし」 私の上は、トンカチで叩いて渡ってくださいね。 活動について 投稿は不定期です。毎日、みなさまの作品を読ませていただいています。どちらかというと、読む専のひとかもしれません。大量通知は本当にすみません。これからもよろしくお願いします。
みかいしゅうのさき
こちらは、はじまりを書きました。 さきはあります。 ただ、いまのわたしには書けませんでしたので、 いま書けるだけを書きました。 しんと静かな、落ち着いた香りがした。鉛筆を削ったあとの少し酸っぱくて、香ばしい匂いが後から鼻をかすめる。ペン先はインク壺にゆっくりとひたされ、紙の上へすとりと下りる柔らかな音は、耳のなかで色鮮やかに響いた。 父さんに連れられたのは、日の光しかないような、散らかった薄暗い工房だった。一歩、歩くたび、かかとからつま先までが小さなゆりかごになったような気分で、古い床の音を転がす。その音がとても好きで、手を繋いだままの父をぐるりと一周歩いて巻いた。動くたびに、さらさらと舞う埃が日の光に透けてとても綺麗だったから、口酸っぱく掃除しろなんて言わなくていいのにとぽつりと思った。 しばらく飛び跳ねたり、はんたいにじっとしてみたりしていると、父さんが「帰るぞ」と僕の手をぐっと握り込んだ。てっきり父さんは自慢の革の手袋を買いに来たんだと思っていたから、少し拍子抜けをしたような気分だった。何も買ってはいないのに、用を済ましたように帰ると言うのだから、やっぱり大人はよく分からない。そうとは思いつつ、素直に父さんに手を引かれて扉のほうへ歩き、ぐるりと工房を見渡した。 誰もいない、静かな工房だ。飛び跳ねていた時に、なにか物音がしたのはきっと建物のきしみだったのだろう。 工房を後にして、父さんと手を繋ぎながら、何も話さず石畳の道を歩いた。父さんの靴の先を目で追いながら、すぐにすり抜けてしまいそうなほど大きな父さんの手を、ぐっと握っていた。 あと少しで家に着くというところで、父さんが口を開いた。 「トロォウ。三年後だ。三年後の今日に、また受け取りに行ってくれるか」 三年後というのは、ずっと先のことで、どうしてそれを僕に頼むのかも、そもそもあそこで何も注文なんてしていないのに何を受け取るのかも検討もつかなかったけれど、うんと頷いた。 それを聞き返すには、お腹がとても空いていたのだ。 「じゃあ、飯にするか」 それにもまた、うんと頷いて家に入った。やっぱり父さんの野菜スープはおいしかった。 「ごめんくださぁい」 小さくつぶやきながら、工房の中へと入った。三年という時間は思っていたよりもずっと長かった。後ろ手で扉を閉めながら見たのは、吹き抜けの天井で飛びまわる小鳥だ。青い羽も美しい尾もないけれど、とてもきれいな鳥だった。 「おまえ、外へお行きよ。空のしたを飛んでおいで」 くるくると自分を回って飛ぶ小鳥へ、話しかけた。ほら、と扉を開けてみせる。それでもその鳥は外へ出ようとはせず、くるり、くるりと癖のついた紙が積まれた机に降りた。 「そこはだめだよ。大切なものが置いてあるかもしれないんだから」 少し焦って、小鳥のいる机へ近づく。一段上がった床は、弦のような音を出した。 「気にするな。こいつはうちで飼っているからな」 少ししわがれて掠れた声が聞こえた。体がびくんと跳ねる。声が聞こえた紙の山の隙間をのぞいてみると、大きな岩のような男がいた。 「あぁ、あの時来ていた坊か。これはまた、でかくなったな」 少し待て、と紙の山をごそごそとあさり、その紙を無造作に四つ折りにして僕に渡した。 「これ、なんですか」 あの日、父さんから渡された代金を手渡して、聞いた。 「人によって何のかは変わるからな、なんとも言えねぇが。……そうだな。音のスケッチとかデッサンとでも思っておいてくれ」 よくわからなかった。 「音って、紙には描けないとおもいます。できなかったもの」 むかし学校の帰り道に聴いた、楽器の音を父さんに聴いてほしくて、線を引いたり、丸を描いたり、楽器そのものを描いたりして見せたことがあったけれど、父さんは困ったように眉を下げて、わからないと言った。 「そうか。そうだな。とくべつに見せてやろう」 大きな男の人がそう言うと、心得たというように小鳥が鳴きだした。きれいとか、うつくしいとかだけでは言い表せないような声だった。男の人は薄いさらさらとした紙を取り出して、何かの毛を煙突の形にしたようなものを黒い液につけた。 「おめぇさん、この声をどう言ったってもいいから、表現してみろ」 じっくりと、耳を澄ませた。どう言葉にすればいいのかを迷いながら、答えた。 「舌を巻いた時の空洞に、少しだけ水を入れて、そのままルルルって声を出すと同じじゃないけれど、似た音は出ると思います」 そう言うと、少しその男の人は笑った。 「いい耳をしてやがる。お前、今いくつだ」 「十歳です」 「んじゃあ、理科だっけか。そういうのはやったな」 「はい」 「植物とか、虫のスケッチは習ったか」 「はい」 「スケッチの大事なことはなんだ」 「目的のものだけを描く、一本の線で描く、色やかげをつけたりしない、言葉を使って表現する、です」 「よく覚えてるな」 「今日、その試験があったんです」 じゃあ、目的のものだけを描くってのだ。よくみとけよ。このふさふさした先のものが筆で、この紙は和紙だ。まず、目的のものを描くところから始める。植物とか、虫っていうものは大体形があるものだが、音っていうものは、形がねぇからな。目的のものだけを描かずに、周りのものを描くんだよ。詳しいことを言い過ぎるといけねぇからこれぐらいしか話してやれねぇが。 説明をしながら、彼が見せてくれた魔法のような作業を食い入るように見つめていた。筆というものが、紙の上でさらさらと流れたり、別の紙に鉛筆で書き、それを和紙に貼り付けたりする音が何度も頭の中で弾け、あまりにも魅力的なのでくらくらと目眩がしそうだった。 「ありがとうございます。家に帰って大切に聴きます」 「おうよ。そんで、お前の父ちゃんはどうした」 「二年前から、出稼ぎに行きました。いつ帰ってくるかはわからないけれど」 「そうか。困ったらまた来い。茶くらいなら出してやれる」 もう一度、お礼を言ってから工房を後にした。急ぎ足で家に帰り、おそるおそる紙を開いてみる。 聴こえたのは、飛び跳ねる子供の足音と、床が軋む音と、小さな子供の笑い声だ。 ぽたり、と涙が落ちる。父さんからの想いに胸がきゅっと詰まった。 その日の夜、涙も尽きたころ、僕はあの人に弟子入りすることを決めた。あの魔法に心が食われてしまったのだ。
みみめめふさぎのこわがりへ。
あのインコは、死んでしまったよ。 綺麗なレモンの色をした羽で、 寒いさむいと言うように。 からだを縮こめて、死んでしまったよ。 あなたはきらいなものが、多かった。 泥沼で泡がぷくぷく、ぱちぱちと弾けるように、 きらいなものがこんこんと湧いていた。 あなたにとって、小学校は。 きらいなものを詰めこんだジャム瓶のようだろう。 光があたらない、一階の廊下の肌寒さ。 白く濁った目の金魚。 水槽に酸素を入れる機械の、こぽこぽという音。 用具員さんのたばこを吸いにいく背中。 インコの、におい。 きらいだ。こわい。 きらい、きらい、きらい。 そこしれない不安や恐怖が。 腹の底から喉までを行き来した。 そのかいぶつたちは、あなたを簡単にむさぼっていた。 父や母に泣いていることが気づかれないように、 小さなクッションに顔を埋めて、泣き声を押し殺していた。 なんで濡れてるの?と聞かれたときには、 枕にして寝たらよだれが垂れた、なんてヘラヘラと言い訳をして。 あのころから、八年経ったいまでも。 思いだすと足元に何もないような怖さが胸を掠める。 どうしようもないのさ。 こわがりなんだ。 かくべつに臆病なんだよ。 今だってたいして強くもなっていないしね。 ただ、あなたは。 こわさで目を閉じてはいけなかった。 感情が追いつくまえに、おしころしてはいけなかった。 あのインコのことが、きになるのなら。 一回でもいい。 まいにち、まいにち、あの子の名前を呼ぶべきだった。 さびしい、さびしいと。 廊下の隅に追いやられたあの子を。 ひとりにさせてはいけなかった。 あの子は触れられると、ストレスが溜まるのに。 小さな子たちにされるがままなのを、 横目に通りすぎるべきではなかった。 なんでもいい。 こわさで震えていようが、 踏み出しなさい。 ずっとこわいままなんだよ。 そのままにしたら、きっと。 あなたに残るのは、きらいでたまらないものだらけだ。 はじめて、心に残った言葉を。 わたしのように、「後悔」になんて、してやるなよ。
はつこい
あうなんて、おもわなかった。 自転車をおして、 話しながら帰ってくれるなんておもわなかった。 のばした髪に気づいてくれるなんておもわなかった。 話しかけてくれるなんて、おもわなかったの。 わたしは、六年も初恋を引きずって、 なのに、恋をしていたことに気づいたのは、 たったの十日まえなの。 ばかよ。ばかなの。 だから、どうか。 このくゆる恋を消してください。 誕生日ケーキの蝋燭を、消すように。 インスタをはじめたばかりで、 わたしをすぐにフォローするのはやめてください。 あなたの親しいひとの中に入れることは嬉しかったけれど、 それは、別にとくべつな意味じゃないとわかっているから。 きっと、学校が別れて会わなくなったから、 だから、思い出が美化されて、 あなたを好きなきもちが残るのだろうと思わせてください。 わたしだと気づいても、そのまま自転車で通り過ぎてください。 あなたはとても賢いので、 わたしの拙い言い訳を見抜いてしまうかもしれないけれど。 ほんとうに、すきなんです。 あなたと別れた帰り道に頬が熱くなる。 ほんとうに、すきなんです。 すこしだけ、夏目友人帳の夏目貴志に似た雰囲気で。 くちが、わるくて。 すこし、おこりっぽくて。 ごめんと、ありがとうがすぐに言えて。 しぐさが、とてもきれいで。 なにか、とくべつ優しくされたわけでもないけれど、 ずっと、あなたは優しかったようにおもう。 ありがとう。 とても、くるしいけれど。 あなたがいなければ、この想いは知れなかった。
もしもし、おつきさま
きみが、わたしに触れたとき。 それが寒い冬でほんとうによかった。 きみの、体温がよくわかりますから。 わたしが、錆びた金具の身であってよかった。 夏、灼熱の太陽に溶けようとも。 きみの温度が、この身によく伝わるのですから。 それは、両手の指と腕を合わせた数よりもっとずっと前のことでした。長身の男と、柔らかな栗色をした髪の女性が、その部屋に住むようになりました。その女性は身重らしく、すこし大きな椅子に座って、よく何かを書きつけていました。夜の幕が被さるころ、男はその部屋に帰り、穏やかな表情で何か彼女に話しかけていました。わたくしがなぜ、そのようなことを詳しく知っているのかというと、わたくしからよく見える部屋だったからなのです。わたくしの立つ建物と隣の建物はともに、少し大きな集合住宅で、それはそれは賑やかな優しい場所でした。 しばらく経ったころです。長身の男がまだ出かけているころ、彼女が産気づきました。ひどく、苦しそうに唸っており、わたくしの耳にも届くほどの声の大きさでした。その声を聞きつけ、他の住人たちが彼女のもとに駆けつけ、かつて産婆をしていたという老婆が、赤子を無事にとりあげました。 しかし、彼女の様子が思わしくなく、男が帰ってきて喜んだのも束の間、彼女の母親のような人が、彼女を無理に引っ張ってどこかへ行ってしまいました。そして、そのまま彼女は帰ってこなくなりました。 長身の男は、男一人で赤子を育てるようになりました。幸いなことに、となりのとなりの部屋の夫婦にも赤子が生まれたばかりで、乳をもらうことができました。しかし、それだけではもちろん足りませんから、最近作られた粉ミルクというものに手を出して、なんとか子育てをしていました。そして、子供の首が座り、ハイハイができるようになったころ、男はまた仕事に出かけるようになりました。その間、子どもの面倒を隣人たちが見てくれるとのことでした。 彼らはよく、窓を開け、外の様子を子どもに見せていました。 「ヨンネルや、あれが鳥だよ」 「ヨンネル坊や、あれが蝶だ」 「ヨンネルくん、あれは塔と言うんだ」 子どもの名前は、ヨンネルと言うそうでした。ヨンネルくんは、少し青みがかった目を眩しそうに外へと向け、瑞々しい目は輝きに満ちていました。 そして、あるとき、彼はわたくしの方を指さして、とりぃさんと言いました。とりぃさん、とりぃさんと無邪気な顔で私のほうへ笑いかけてくるのです。 「そうだよ、ヨンネルや」 「そうだよ、そうだよヨンネル坊や」 あれは、かざみどりと言うんだよ。 それを聞いたヨンネルくんは、かじゃみどりと舌足らずな声でわたくしを呼びました。そんなヨンネルくんがわたくしは愛おしくて愛おしくてたまりませんでした。 そして、年月が過ぎ、彼は小さな学校へ通うようになりました。それでも、彼はまだ幼く、彼の寝る時間には、男も帰ってきません。ヨンネルくんは時折、窓を開けて月を眺めるようになりました。隣のおじいちゃんや、おばあちゃんには話さないような、とても小さくて細かな心のかけらがまだ残っていたのです。 あるとき、ヨンネルくんは思い立ったように、ベットの隣においてあった電話を手に取りました。ダイヤルを回すことなく、受話器を握りしめて、月に向かって話しはじめます。ヨンネルくんの声では、あんなに遠い月には届かないと思ったのでしょう。窓を開けて、十分ほど話したあと、満足したように受話器を置き、ベットに潜りこむ毎日を過ごしていました。わたくしは、ヨンネルくんが話しているのをずっと、聞いていました。 しばらく経ったころ、ヨンネルくんは新月の日にだけ、電話をするようになりました。相手が見えるところにいるのに、電話をするのはおかしな話だと考えたようです。そのときには、ヨンネルくんはもともと電話をはじめた理由を忘れていました。 毎日から、一ヶ月に一回の電話に代わり、もう電話などをやめて、ただ返事を待たない月へと語りかける日々に変わっていきました。 わたくしは、ヨンネルくんの悲しみや喜び、傷ついたこと、嬉しかったことを話す姿をただずっと見つめていました。 そして、彼が父と同じほどに背が伸び、声が風では拾いきれないほど、低くなったころです。彼は、とても可愛らしい女性とよく出かけるようになりました。穏やかに笑う姿は、彼の父とよく似ていました。 おなじころ、わたくしたちの住む国で大きな戦争をするようになりました。ヨンネルくんはまだ学生でしたから、兵として呼ばれることもなく、ただ、新聞で悲惨な様子を知る、平穏な日常を送っていました。 彼が卒業する前に戦争が終わり、ヨンネルくんは卒業したあと、あの女性と一緒に住むようになりました。ふたりはよく笑い、よく話し、幸せに暮らしていました。子どももひとり、生まれました。 しかし、またこの国で戦争が起こるようになり、今度は兵隊へとヨンネルくんが行くことになります。ヨンネルくんの妻は、二人目を身ごもっていました。 ヨンネルくんは、それまでにも増して、妻と子どもと、戦争へ行くまでの間を大切に大切に過ごしました。そして、招集よりも早く、軍へと向かうことへ決めました。ぎりぎりまで、幸せな場所にいてしまうと、辛くなると分かっていたからです。 そして、旅立つ日に、なりました。何かを話しかけるようなこともなく、ただ妻と子どもをぐっと抱きしめ、妻のお腹にキスを落としました。 「いってきます」 いつもと同じ声、表情、仕草のまま、彼は部屋を出ていきます。集合住宅の入り口で立ち止まり、振り返ることなく歩き出しました。その様子を、ヨンネルくんの妻は窓から見つめ、そして、倒れこみました。 いま、産気づいたのです。一人目の子はおろおろとし、窓からヨンネルくんを呼びます。しかし、彼は昨日まで風邪を引いていて、声が上手く出ませんでした。 かつて、ヨンネルくんを育てた隣人たちはもう、ここにはいません。戦争で、みんなどこかへ行ってしまったのです。 それでは、誰が、ヨンネルくんの大切なひととその宝を守ると言うのでしょう。 わたくしは重い、錆びた体に鞭を打ち、精一杯に回りました。できるだけ、キーキーと、かの体の錆びを鳴らせるように。 ただただ、回り続けました。他の残り少ない住民たちは、そんなに強い風が吹いているのかと、窓から顔を出します。そんな様子に気づいたのでしょうか。ヨンネルくんは彼らの見つめる先を見て、目を大きく広げました。 わたくしは渾身の力で、ヨンネルくんの住む部屋に嘴を向け、止まりました。それを見た途端、ヨンネルくんは分かったように、走り出し、家へと戻っていきます。 わたくしは止まった反動で、体が曲がるほどの衝撃を感じました。もう、これ以上は働けないのでしょう。ヨンネルくんの大切な赤子が生まれたのを見て、そして、少し強いような風に足を折られ、地面へと落ちていきました。 その翌日、ヨンネルくんは家族たちと言葉をたくさん交わし、また家を出ていきます。コツコツと、ヨンネルくんが歩いて、わたくしに近づく音が聞こえます。わたくしはそれが嬉しくて、嬉しくてたまりませんでした。決して、近づけなかったあの子との距離が、どんどんと縮まっていくのです。 そして、ぴたりと歩く音が止み、呆然とした顔をするヨンネルくんの顔が見えました。 どうして、と、掠れた声が聞こえます。わたくしのおいぼれた体を宝もののように拾い上げ、目に涙を溜めています。 どうして、ヨンネルくん。きみが泣くのでしょう。 わたくしは、ヨンネルくんに抱えられ、その顔を見つめていました。そしてまた、ヨンネルくんが歩きはじめ、軍へと向かう乗り合いバスに乗りこみます。 そのとき、軍の長官のようなひとがわたくしを見つけました。 「おい、そこのお前。これはどうした」 ヨンネルくんは震えた声で答えます。 「道に落ちておりました」 「よくやった。金属が不足しておって、これは上へと献上する」 そして、わたくしはその長官に取り上げられ、乱暴に軍の貨物の中へと突っ込まれました。ヨンネルくんは悲鳴のような声を出しました。 「おやめくださいませ。風見鶏は魔除けにございます。罰が当たりまする」 「えぇい、何を言うか。大砲に魔除けなど、なんと縁起のいいことか。お前ごときが口答えするでない」 ヨンネルくん。そんな顔をしないでください。 大丈夫です。大丈夫ですから。 あなたが、わたくしを見て無邪気に笑ったその日から、 わたくしはあなたのことを愛してやまないのです。 幸せにお生きなさい。 愛する妻も、子どももいるでしょう。 死んではなりません。 彼らを、寂しい目のまま生かしてはなりません。 ヨンネルくんが貨物の箱から少しだけ顔を出すわたくしに言いました。 「おつきさまなんて、ほんとはどうでもよかったんだ。あなたが聞いてくれていたから、それで、ほんとうによかったんだ」 そう言って、ヨンネルくんはバスへともう一度乗りこみ、貨物として運ばれるわたくしは、ついぞ、彼の姿を見ることがありませんでした。 わたくしはただ、幸せでした。 「おとうちゃん」 「なんだ」 「なんで、このしゃしんをかざってるの?」 それは、家族写真とともに並べられていました。 「とうちゃんの、家族だからだ」