歩道橋

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歩道橋

はじめまして。

うつろふ

いちまいのこころたちを、ここにあつめて。 あなたが宝石みたいとわらった石で、 留めておきましょう。 花が散るように、 おまえの心はわたしを離れ、 またひとつ、年が回るたびに。 綻ぶように微笑う姿を見るのは、なんとも。 なんとも、胸がしめつけられしまもうものだな。 あ、ゆきんこ。 このむし、ゆきんこっていうの。 ふれたらだめだよ。 どうして。 わたしたちのたいおんは、あたたかすぎるの。 なんでゆきんこっていうのかな。 ゆきのいるところによくいるからだとおもうよ。 おかしいの。ここはゆきなんてふらないのに。 このこたちがとびまわれば、きっとゆきにみえるよ。 ジョー。 音のならない時計があったよ。 ジョー。 割れた指さきを包む軟膏があった。 ジョー。 わたしの背をおした、きみのてのぬくもりが残っているんだ。 ことりよ。 ことり。 おまえはなにを。 うたっているのか。 おぅい、こぞう。 やくしてはくれまいか。 しらぬよ。しらぬ。しらぬといっておる。 なにさ。なにをしらぬという。 ひとのやわらかさをしらぬというのだ。 去ね。 わたしのあずかり知らぬところへ。 行くのだ。 おまえの足に蔦がからみつくまえに。 座り込むな。 その尻につく土を、わたしはもうはらってやれぬ。 いつか、わたしにせがんでのばした両の腕を。 だれか、おまえの大切なものをだきしめるのに使え。 きんぎょ。 絵本の中で、あなたはせかいを旅したのに。 ほんとうは。 せまい水槽から飛び出せば、しんでしまうのか。 掬ったわたしのたいおんで。 あなたはしんでしまうのか。 わたしの涙であっても。 あなたを水の中へとは返せないのだ。 きんぎょ。 あなたのひらめかせた尾ひれが、脳裏にやきついてる。 ささぶねを、ながそう。 ひっくりかえって、 きっと、川の中へと潜りこんでしまうけれど。 木の枝を探しに走り、 鳥の巣で詰まったささぶねを取ろう。 きっと、あれはわたしのものではないだろうが。 小さな橋の下を覗きこんで、 顔にでも蜘蛛の巣がひっかかるだろうか。

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うつろふ

はつこい

あうなんて、おもわなかった。 自転車をおして、 話しながら帰ってくれるなんておもわなかった。 のばした髪に気づいてくれるなんておもわなかった。 話しかけてくれるなんて、おもわなかったの。 わたしは、六年も初恋を引きずって、 なのに、恋をしていたことに気づいたのは、 たったの十日まえなの。 ばかよ。ばかなの。 だから、どうか。 このくゆる恋を消してください。 誕生日ケーキの蝋燭を、消すように。 インスタをはじめたばかりで、 わたしをすぐにフォローするのはやめてください。 あなたの親しいひとの中に入れることは嬉しかったけれど、 それは、別にとくべつな意味じゃないとわかっているから。 きっと、学校が別れて会わなくなったから、 だから、思い出が美化されて、 あなたを好きなきもちが残るのだろうと思わせてください。 わたしだと気づいても、そのまま自転車で通り過ぎてください。 あなたはとても賢いので、 わたしの拙い言い訳を見抜いてしまうかもしれないけれど。 ほんとうに、すきなんです。 あなたと別れた帰り道に頬が熱くなる。 ほんとうに、すきなんです。 すこしだけ、夏目友人帳の夏目貴志に似た雰囲気で。 くちが、わるくて。 すこし、おこりっぽくて。 ごめんと、ありがとうがすぐに言えて。 しぐさが、とてもきれいで。 なにか、とくべつ優しくされたわけでもないけれど、 ずっと、あなたは優しかったようにおもう。 ありがとう。 とても、くるしいけれど。 あなたがいなければ、この想いは知れなかった。

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はつこい

もしもし、おつきさま

きみが、わたしに触れたとき。 それが寒い冬でほんとうによかった。 きみの、体温がよくわかりますから。 わたしが、錆びた金具の身であってよかった。 夏、灼熱の太陽に溶けようとも。 きみの温度が、この身によく伝わるのですから。  それは、両手の指と腕を合わせた数よりもっとずっと前のことでした。長身の男と、柔らかな栗色をした髪の女性が、その部屋に住むようになりました。その女性は身重らしく、すこし大きな椅子に座って、よく何かを書きつけていました。夜の幕が被さるころ、男はその部屋に帰り、穏やかな表情で何か彼女に話しかけていました。わたくしがなぜ、そのようなことを詳しく知っているのかというと、わたくしからよく見える部屋だったからなのです。わたくしの立つ建物と隣の建物はともに、少し大きな集合住宅で、それはそれは賑やかな優しい場所でした。  しばらく経ったころです。長身の男がまだ出かけているころ、彼女が産気づきました。ひどく、苦しそうに唸っており、わたくしの耳にも届くほどの声の大きさでした。その声を聞きつけ、他の住人たちが彼女のもとに駆けつけ、かつて産婆をしていたという老婆が、赤子を無事にとりあげました。  しかし、彼女の様子が思わしくなく、男が帰ってきて喜んだのも束の間、彼女の母親のような人が、彼女を無理に引っ張ってどこかへ行ってしまいました。そして、そのまま彼女は帰ってこなくなりました。  長身の男は、男一人で赤子を育てるようになりました。幸いなことに、となりのとなりの部屋の夫婦にも赤子が生まれたばかりで、乳をもらうことができました。しかし、それだけではもちろん足りませんから、最近作られた粉ミルクというものに手を出して、なんとか子育てをしていました。そして、子供の首が座り、ハイハイができるようになったころ、男はまた仕事に出かけるようになりました。その間、子どもの面倒を隣人たちが見てくれるとのことでした。  彼らはよく、窓を開け、外の様子を子どもに見せていました。 「ヨンネルや、あれが鳥だよ」 「ヨンネル坊や、あれが蝶だ」 「ヨンネルくん、あれは塔と言うんだ」  子どもの名前は、ヨンネルと言うそうでした。ヨンネルくんは、少し青みがかった目を眩しそうに外へと向け、瑞々しい目は輝きに満ちていました。  そして、あるとき、彼はわたくしの方を指さして、とりぃさんと言いました。とりぃさん、とりぃさんと無邪気な顔で私のほうへ笑いかけてくるのです。 「そうだよ、ヨンネルや」 「そうだよ、そうだよヨンネル坊や」  あれは、かざみどりと言うんだよ。  それを聞いたヨンネルくんは、かじゃみどりと舌足らずな声でわたくしを呼びました。そんなヨンネルくんがわたくしは愛おしくて愛おしくてたまりませんでした。  そして、年月が過ぎ、彼は小さな学校へ通うようになりました。それでも、彼はまだ幼く、彼の寝る時間には、男も帰ってきません。ヨンネルくんは時折、窓を開けて月を眺めるようになりました。隣のおじいちゃんや、おばあちゃんには話さないような、とても小さくて細かな心のかけらがまだ残っていたのです。  あるとき、ヨンネルくんは思い立ったように、ベットの隣においてあった電話を手に取りました。ダイヤルを回すことなく、受話器を握りしめて、月に向かって話しはじめます。ヨンネルくんの声では、あんなに遠い月には届かないと思ったのでしょう。窓を開けて、十分ほど話したあと、満足したように受話器を置き、ベットに潜りこむ毎日を過ごしていました。わたくしは、ヨンネルくんが話しているのをずっと、聞いていました。  しばらく経ったころ、ヨンネルくんは新月の日にだけ、電話をするようになりました。相手が見えるところにいるのに、電話をするのはおかしな話だと考えたようです。そのときには、ヨンネルくんはもともと電話をはじめた理由を忘れていました。  毎日から、一ヶ月に一回の電話に代わり、もう電話などをやめて、ただ返事を待たない月へと語りかける日々に変わっていきました。  わたくしは、ヨンネルくんの悲しみや喜び、傷ついたこと、嬉しかったことを話す姿をただずっと見つめていました。  そして、彼が父と同じほどに背が伸び、声が風では拾いきれないほど、低くなったころです。彼は、とても可愛らしい女性とよく出かけるようになりました。穏やかに笑う姿は、彼の父とよく似ていました。  おなじころ、わたくしたちの住む国で大きな戦争をするようになりました。ヨンネルくんはまだ学生でしたから、兵として呼ばれることもなく、ただ、新聞で悲惨な様子を知る、平穏な日常を送っていました。  彼が卒業する前に戦争が終わり、ヨンネルくんは卒業したあと、あの女性と一緒に住むようになりました。ふたりはよく笑い、よく話し、幸せに暮らしていました。子どももひとり、生まれました。  しかし、またこの国で戦争が起こるようになり、今度は兵隊へとヨンネルくんが行くことになります。ヨンネルくんの妻は、二人目を身ごもっていました。  ヨンネルくんは、それまでにも増して、妻と子どもと、戦争へ行くまでの間を大切に大切に過ごしました。そして、招集よりも早く、軍へと向かうことへ決めました。ぎりぎりまで、幸せな場所にいてしまうと、辛くなると分かっていたからです。  そして、旅立つ日に、なりました。何かを話しかけるようなこともなく、ただ妻と子どもをぐっと抱きしめ、妻のお腹にキスを落としました。  「いってきます」  いつもと同じ声、表情、仕草のまま、彼は部屋を出ていきます。集合住宅の入り口で立ち止まり、振り返ることなく歩き出しました。その様子を、ヨンネルくんの妻は窓から見つめ、そして、倒れこみました。  いま、産気づいたのです。一人目の子はおろおろとし、窓からヨンネルくんを呼びます。しかし、彼は昨日まで風邪を引いていて、声が上手く出ませんでした。  かつて、ヨンネルくんを育てた隣人たちはもう、ここにはいません。戦争で、みんなどこかへ行ってしまったのです。  それでは、誰が、ヨンネルくんの大切なひととその宝を守ると言うのでしょう。  わたくしは重い、錆びた体に鞭を打ち、精一杯に回りました。できるだけ、キーキーと、かの体の錆びを鳴らせるように。  ただただ、回り続けました。他の残り少ない住民たちは、そんなに強い風が吹いているのかと、窓から顔を出します。そんな様子に気づいたのでしょうか。ヨンネルくんは彼らの見つめる先を見て、目を大きく広げました。  わたくしは渾身の力で、ヨンネルくんの住む部屋に嘴を向け、止まりました。それを見た途端、ヨンネルくんは分かったように、走り出し、家へと戻っていきます。  わたくしは止まった反動で、体が曲がるほどの衝撃を感じました。もう、これ以上は働けないのでしょう。ヨンネルくんの大切な赤子が生まれたのを見て、そして、少し強いような風に足を折られ、地面へと落ちていきました。  その翌日、ヨンネルくんは家族たちと言葉をたくさん交わし、また家を出ていきます。コツコツと、ヨンネルくんが歩いて、わたくしに近づく音が聞こえます。わたくしはそれが嬉しくて、嬉しくてたまりませんでした。決して、近づけなかったあの子との距離が、どんどんと縮まっていくのです。  そして、ぴたりと歩く音が止み、呆然とした顔をするヨンネルくんの顔が見えました。  どうして、と、掠れた声が聞こえます。わたくしのおいぼれた体を宝もののように拾い上げ、目に涙を溜めています。  どうして、ヨンネルくん。きみが泣くのでしょう。  わたくしは、ヨンネルくんに抱えられ、その顔を見つめていました。そしてまた、ヨンネルくんが歩きはじめ、軍へと向かう乗り合いバスに乗りこみます。  そのとき、軍の長官のようなひとがわたくしを見つけました。 「おい、そこのお前。これはどうした」 ヨンネルくんは震えた声で答えます。 「道に落ちておりました」 「よくやった。金属が不足しておって、これは上へと献上する」 そして、わたくしはその長官に取り上げられ、乱暴に軍の貨物の中へと突っ込まれました。ヨンネルくんは悲鳴のような声を出しました。  「おやめくださいませ。風見鶏は魔除けにございます。罰が当たりまする」  「えぇい、何を言うか。大砲に魔除けなど、なんと縁起のいいことか。お前ごときが口答えするでない」     ヨンネルくん。そんな顔をしないでください。 大丈夫です。大丈夫ですから。 あなたが、わたくしを見て無邪気に笑ったその日から、 わたくしはあなたのことを愛してやまないのです。 幸せにお生きなさい。 愛する妻も、子どももいるでしょう。 死んではなりません。 彼らを、寂しい目のまま生かしてはなりません。  ヨンネルくんが貨物の箱から少しだけ顔を出すわたくしに言いました。 「おつきさまなんて、ほんとはどうでもよかったんだ。あなたが聞いてくれていたから、それで、ほんとうによかったんだ」  そう言って、ヨンネルくんはバスへともう一度乗りこみ、貨物として運ばれるわたくしは、ついぞ、彼の姿を見ることがありませんでした。  わたくしはただ、幸せでした。 「おとうちゃん」 「なんだ」 「なんで、このしゃしんをかざってるの?」 それは、家族写真とともに並べられていました。 「とうちゃんの、家族だからだ」

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もしもし、おつきさま

    な      はーーーし     お           花のつぼみがぐうんと伸びをしました あの大きな海から出てきた太陽は水をこぼし、 その光をうけた花びらたちが、いっとう綺麗に色づきます ちいさなてんとう虫のわたしは、その花びらの背にかくれ、 ひとあめと、鳥たちをやりすごすことがあります にんげんたちはその花の茎に、し、を取りつけ、 風にひっくりかえされた傘にするのです。 つぼみのとき にんげたんたちは、貴婦人の日傘のようにして、 その傘をもちます 花びらがひらいたとき にんげんたちは、雨を溜めるように傘を開きます 花びらがしおれたとき ただ、雨やどりのために使います。 花びらが散ったとき にんげんたちは、風に吹かれ、雨に濡らされ、凍えるのです そのとき、 にんげんたちは目は光を探すことをやめ、        膝の力が抜けて、        冷たい地面に腰を下ろします 頬に張りついた、枯れた花びらをとることすら億劫になります 冷えた体に、なにも価値を見出せなくなるのです おぉ、空よ。なぜこうも雨を降らすのか。 雨など降らなければ、 わたしは傘がなくとも、生きていけたのに。 そうつぶやいたとき にんげんよ あなたは、し、を強く握りしめていなければなりません 細く、ほそくなった茎から滑りおちた、し、を 雑踏の中でも、見つけねばなりません その茎には、ひどくするどい棘があります 花の裏には、あなたを噛むような虫が潜んでいるかもしれません もしかすると、すぐに折れる茎なのかもしれません その花は何なのか、あなたたちに知る術はないのです 一日の、しあわせで育ったものかもしれません あなたが、大切なひとといる時間が育てたものかもしれません うつくしい、景色にこぼした涙を取りこんだものかもしれません たしかなのは、 その花を、あなたは誰かに贈れるということです あなたが、誰かに贈られるということです その花は、決して独りよがりにはならないのです にんげんよ、愛おしいあなたよ。 し、はその花をさす花瓶なのです。 とうてい、なりきらない傘の持ち手なのです。 あなたの、こころをうたった大切なかけらなのです。 だから、どうか。 にんげんよ。不器用な隣人よ。 し、を握る力が残らない誰かがいたのなら、その人のし、をともに握って、 どうか、 いきてください。

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はるのうた

はじまりも知らず、 とけだした、たまごのような太陽。 目などは細めず、 もうまくのうら、わたしの溶岩。 砂にもなれず、 鉱石にもなれない。 わたしたちはどうやって、とどまるのでしょう。 あのおしろになりたい。 小さな手が固めた。 あのひとに見つけてほしい。 ほうせきのたまご。 もしくは、あのゼラチンかしらね。 あなたが、たとえば。 あさ、屋根にとけだした太陽を、 あなたとおなじ、柔らかさのパンにつけてくれるのなら。 ひるは、私が熱にうかされた屋根で じうじうともう一度焼いてみせましょう。 そして、まぶしくて、こぼれた涙たちは。 きっと、溶けすぎたバターなのね。 るるるーる、るるるるる。 口ずさむよりも低く、 らららーら。ららららら。 とおる喉に、詰まる。 お泣きなさい。 お泣きなさい。 何よりも不器用で、愛おしいハミング。 るるるーる。らららーら。 うたいだせ、その鳥よりはやく。

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はるのうた

「ありがとう」と「ごめんね」がいえるひと。

かれのいないところで、 かれの仕草がふと思い出されました。 臆病な私はそれを、 恋と言えずに、口を閉じたままなのです。  わたしと彼は姉どうしが友達というのもあって、私は彼に、会う前から少しだけ親しさを覚えていました。小学校、中学校が同じでしたから、それなりに仲がよかったのだと思います。中学三年生のころには、四回も席が隣でしたので、よく喋っていたのです。わたしは社交的な方ですが、心のうちというのはとても臆病で、結局のところ、大切なことが何一つ言えません。  ですから、彼のことが好きであることを自分にも隠し続け、高校が別になり、もう関わることはなくなりました。ただただ、ハンカチで丁寧に手を拭く仕草や、私に何かを教えてくれるときの指先が恋しくなりました。  しかし、恋しい恋しいと嘆いても、部活も勉強も思った以上に忙しかったので、それを忘れるように打ち込みました。それでも、何度か寂しくなって、なんてことのないようなメッセージを送り、少しだけ話したりしました。でも、話を切るのはいつもあちらの方で、なるほど、これはなんとも思われていないなと諦めてしまいました。  冬になりました。朝はいつも少しだけ勉強をして授業をうけるので、学校に着く時間帯はとても体が冷えこみます。ジャスティンビーバーを聴いていると、ブブッとバイブ音が響きました。何かと思ってみると、彼からなにかメッセージが来ています。これは期待せずに見た方がいいなと思い、開けてみると、私たちが好きなアニメが明日放送されるとのことだったのです。  なんだ、その朗報は。忘れていたぞ。なんていいやつなんだ、と思い、メッセージを返しました。結局授業が始まるまで既読はつかず、まぁ報告だよなとスマホの電源を切ります。  放課後になっても既読はつかず、返ってきたのは夜の十二時ごろでした。そこから、私たちの一日一ラリのメッセージが始まりました。私は朝に、彼は夜にしかスマホを見なかったのです。  そして、ほんとうにとりとめのない話をしました。 「きょうのゆきはおいしい」 「食うな」 「数学なんて東京湾に沈められたらいいのに」 「どこの組のかたですか?」 「あしたさ、」 「どうせ、持久走だろ」  はじめて、わたしがメッセージを送り終える前に、彼からの返信が届きました。わたしは驚きのあまり、彼に正解を伝えるのを忘れてしまいました。 「どうしたの?徹夜でもした?」 たずねてみました。 「お前が俺をどんな奴だとおもってるか、わかったよ」 「そんなことないよ。だらしないとかおもってない」 「おもってるな、オタクめ」 「おなじひとに言われたくありません」  ふたりとも、メッセージを打つのが遅かったので、結局電話することにしました。私は友人をいつも駅で待つので、駅のベンチで電話しました。 「もしもし、大丈夫ですか」 「俺は善逸みたいにクモになりかけるのか」 「よくわかったな」 「なめるなよ」 「あのアニメのことだけどさぁ、」 そこからたくさん話しました。アニメのこと、部活のこと、目の前を通り過ぎた鳩が太っていたこと。 「なぁ」 ずっと、低くなった声が耳元で私を呼びました。彼はあまり人の名前を呼びません。 「なぁに」 「おれ、おまえ、好き」  爆弾を投げ込まれたのでしょうか。そして、単語だけ伝わると思わないでほしい。 「……うれしい」 それでも、彼は付き合おうとは言いません。きっと、現実的な彼のことですから、学校が違えば、すぐに別れると思ったのでしょう。 「わたしもすきだよ」 「I know」 映画のワンシーンを切り取られて、少し、腹立たしい気もしました。 「ときどき、会ってくれたりする?」 「あぁ」 「電話もちょっとはいい?」 「あぁ」  そこから、両想いだけど付き合わないという奇妙な関係が始まりました。関係でしばることが、こわかったのだと思います。相手を好きじゃなくなれば、他に誰かを好きになったら、ぜんぶ、なくなってしまうような「しばり」は、臆病な私たちにとって、とてもこわかったのです。  春が過ぎ、夏を越え、秋が覗いて、冬が走り去りました。それでも、私たちはおたがいを好きなままでした。  進路がきまり、彼に報告すると、彼も同じ大学が志望校だったそうです。とても嬉しかったのですが、なにしろ学部が全然違うので、キャンパスの場所は同じではありませんでした。少し落ち込んでいると、彼は電話口でくっと喉を立てて笑いました。  「なに?」と聞いても、答えてくれません。しかたがない。こういうときは本当にこの人は口を開かないのです。  そこからというもの、私も彼も入試に励みました。簡単に手の届くような学校ではなかったので、猛勉強を重ね、わからないところは賢い彼に電話します。そのときの彼の声が、唯一の癒しでした。  その成果のおかげか、二人とも無事に合格しました。そして、いちかばちかでお願いをしてみました。 「同棲をしてみたい」と。 彼は、思ったよりも肯定的でした。現実的ではない、と言われてしまうと思ったからです。  そう明かすと、少し驚いたような顔をみせて、笑いました。 「そうか、俺はそんな奴に思われていたんだな」  くつくつと笑いながら、わたしの頬を手袋をはずして触れました。 「冷たい」 「うん」 「一緒に住もうか」 「うん」 「おまえ用に、大型ストーブ買わなくちゃな」 「いらないよ。あなたに温めてもらう」 「結構、すごいこと言ってるの気づいてる?」 「勇気を出して言ってるの!」 「かわいいやつだな」  ときどき、さらっとそういうことを言うから嫌なのです。 「……ありがとう」 そう言うと、目をきゅうと細めました。 「おまえのありがとう好きだな」 「そんなこと言ったって、お菓子もってないもん」 「ごめん、ごめん。そういことじゃないって」 「知ってるよ」 「こんにゃろぉ」  両親にも許可をもらって、同棲することに決まりました。そこから、飛ぶように時間は過ぎさり、高校を卒業して、大学にも少し慣れたころ。  床で寝転がって、すやすや眠っている彼を見つけました。いたいから、とあまり床では寝たがらないのに。横向けになって寝ているので、その腕の中に入りこみました。 「ねぇねぇ」 起きてるでしょ、と瞼をつんつんする。 「なんだ」 寝起きの、少し掠れた声がします。 「ごめんなさい。おまえのクレープ食っちゃった」 とてつもない罪の告白をされました。 「言い訳は?」 「ございません」 「わたしを抱きしめたら許してやろう」 「ありがとう。チョロくて」 「うるせぇ、反省しろ」 「ごめんなさい」  かれのするりと出てくる「ありがとう」と「ごめん」が好きです。少しのひっかかりを優しく抜きとってくれるから。  口が悪くても、態度が冷たくても、 「ありがとう」と「ごめん」を言えるひとがいちばんいい、とよく言うけれど、きっとそれは相手を大切にしているからで、大切にしていることを伝えることばなんだと思います。大切で、大好きで、愛していて、 ちいさな引っかかりで壊れないように、 ぎゅっと相手をつなぎとめているんだと、彼に教えてもらいました。きっと、そうやって愛してることを伝えていくものだから。

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「ありがとう」と「ごめんね」がいえるひと。

てわたしくちうつし

だれかが、 冬の朝のまどろみの中で、 白湯とともに腹を満たすような、 そんな物語を読んでいた。 柔らかな色合いの茶碗に入れて、 炊き立ての米の匂いをさせた。 わたしもだれかも蜜蜂ではないから、 くちうつしで、ハチミツを分け与えたりはできないけれど、 わたしが一人で読んだそれよりも、 うんとまろやかで、満ちていた。 そのだれかは、 噛みやすいように、 飲み込みやすいように、 そんなふうにわたしに手渡した。 そのとき、わたしはその物語が、 プリンセスのドレスより、 遠い異国の宝石箱より、 ずっと、たからもののように思えた。 わたしがまだ、片手で数えるほどの歳のころ、 よく、そのだれかの膝に座っていた。 だれかは、わたしを膝に乗せて、 ワクワクを詰め込んだような絵本を描いた。 森の地面の下で、 綺麗な瓶にたくさんの魔法を入れる、 怖く、優しい魔女の話だった。 わたしも、その物語に触れたくて、 だれかが描いた絵に色をつけさせてとねだった。 わたしがいつもぐちゃぐちゃにする白紙で、 だれかはとびきりの宝物をつくってみせた。 そのたからものは、 だれかが大叔母さんに渡す、贈り物だった。 わたしにとって、物語は常に祝福であり続けた。 わたしは、その祝福を他のだれかに届けたかった。 あの人のようには、なれずとも。 あのとき目に飛び込んできた祝福の光は、 脳裏に焼きついたまま、わたしの手を動かし続けた。 これはわたしの、 しゅくふくになりきれなかった物語の、 幸せに溢れた誕生の過去だ。

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てわたしくちうつし

セルツェン

 蛾の翅が、音もなく崩れていった。その炎に触れたからである。おぼつかなく翅を動かし、ふらふらと炎に飛びこんでいった。  少女は憐れにおもった。指さきをのばし、その亡き骸を受け止めようとした。あの冷たく固い床に落ちてしまわぬようにと。その指先は白く、肉という言葉を知らないようだったが、艶やかに淡い炎の光を反射してみせた。  のばした指さきは男の目頭に触れた。男は冠をかぶっていた。真紅を金で縁取り、太く幹のような蝋燭をのせた冠を。  静かに男は前を向いている。古ぼけ、ただ気品だけを失わない椅子に腰掛けている。腿の長さだけの遠さに少女は立っているが、男は少女を見なかった。  「触れるな。神は造作もなく炎を命に変える」  男はそう少女に言葉を寄越した。少女の瞳はかすかに揺らぎ、すっと手を引いた。蛾の翅は男の頬を滑り落ちていった。翅はまだ燃えていた。男の頬に一筋線が走る。少女は、はっと目を開き、喉を不器用に震わせた。まだ堪えることを知らない嗚咽であった。  思わずといった様子で男は少女の方へ顔をあげた。少女は大粒の涙を、ぐっと堪えていた。  男はそのとき、はじめて表情というものを見せた。途方に暮れたような、どうしようもないような、至極ふつうの人間のように、 困ったようにはにかんでみせた。少女を慰めるように優しく、柔らかに。   世界がまだ熟していない、あおい果実だったころ。 神と人が混じっていたころ。 うんとうんと昔の話だけれど、 たしかに息をした彼らの神話。    セルツェンと名を呼ばれる。ひそやかな声だった。  「なに?」  自分は積み木遊びにいそがしいのだ。このぜつみょうな形を保たねばならないのだ。  「セルツェン」  今度は鼻を啜らせながら、呼ばれた。渋々、後ろを振り向く。  「なんで泣いてるんだ」  思わず、ため息が出てしまった。一日何回泣けば気が済むのか。  「ロッツォ?ニーナか。何を言われたんだ」  「ちがうの」  なにが、と言いかけた。  「ちがったの…?」  それは絶望をふくんだ声だった。    目の前で、すきな女の子は燃えていた。彼女の自慢のおさげも、形のいい耳も、燃えていた。  「ロッツォもニーナも燃えてしまったわ。心地良さそうに燃えたの」  喜んでいたの、と涙を落としながら呟く。 彼女の得意な大粒の涙さえ、その炎を消すことはできなかった。  「だれに……」  掠れた声が出た。じぶんが燃えていないのはなぜなのか。  「かみさまよ」 「イノチが芽吹く地は造られた、とみんなを燃やしてしまったの」  いやよ。嬉しくないの。イノチってなに。なんで、もやすの。ことりも、森も、ぜんぶ燃えてしまったわ。近くに炎なんてなかったのに。かみさまが、かみさまが指を振ったらみんな燃えてしまったの。でもロゴリオおじさんや、ツェルバンみたいな、あたしの嫌いなたちばっかが燃えないの。えらばれたと嗤うの。 いやよ、いやよ。なぜ、あのひとたちはここに残れるの。 なんで、いやよ。いやいやいやいやいや  アビョンは自分の顔を掻きむしった。ちいさいころのかんしゃくが戻ったようだった。  「アビョン。やめるんだ。大丈夫だから。おれがなんとかするから」  止めようとしたセルツェンの顔に一筋の線が走る。アビョンの爪が、セルツェンを掻いてしまったからだ。  自分を傷つけたからか。ふとアビョンが動きを止めたので、ぐっと抱きしめた。 大丈夫だから。だいじょうぶだから。何にもならない言葉をかけた。    そう言っている間にも、アビョンは静かに燃えていった。とっくのむかしに、彼女の耳は崩れ落ちていたし、泣き声をあげる口も顎からなくなっていた。  まにあわない、とおもった。まにあわないのだ。  せめて、と。いつもアビョンが、昼寝の前にせがむキスをしてやった。額に、おやすみのキスをするのだ。慰めにもならない、ちっぽけなキスだった。    とたん、ぴたりとアビョンは燃えるのをやめた。  「イノチを含んだか、幼子め」 髪が誰かに撫でられている。大きく、温かな手だった。  「かみさま……」 そう呼ぶと、かすかに笑う気配がした。  「あの子は還らねばならない。とどまってはならないのだ」  「でも、泣いてるんだ。いやだって言ってるんだよ」  「大丈夫だ。彼女の行く先は幸せと喜びに溢れている」  「ここじゃ、いけないの?」  「いけないのだよ、幼子。聞き分けなさい」  「ごめんなさい。かみさま。アビョンがすきなんだ」  おれはえらばれたんでしょう?だから、燃えないんでしょう?  「ここでの、しあわせも、お金も、ぜいたくもいらないから、どうか。どうか、アビョンを燃やさないで」  泣いているんだもの。話を聞いてやらなくちゃ。抱きしめて、大丈夫だよって言わなくちゃ。  おれのたからものなんだ。たいせつにさせてください。  頭を床にこすりつけた。聞いてもらえるまで、ずっとそうしているつもりだった。  困ったように息を吐く音がした。 「愛おしい子よ。なにであってもよいのか」 迷わずに、答えた。 「ならば、これをやろう」 一本の蝋燭だった。 「あの子の火をここへ灯す。イノチの炎の数が合わなければ、世界は回らないのだ。あの子のイノチをおまえが担え。だが、その炎にひとたびあの子が触れれば、イノチとして行く。おまえに、神になる資格はなくなるが、それでいいか」  「アビョンはどうなる?」  「今まで通りだ」  わかった、とセルツェンはひとつ返事で頷いた。  手渡された蝋燭に、ふくんだイノチを吹きかける。やり方など、教えられてはいない。しかし、セルツェンは理解していた。  「惜しいことよ。神の素質があるというのに」  のちに、かの世界で生きものがイノチとして燃えた出来事を、  「ルーメリリア」と呼ばれるようになる。  唯一、イノチとして芽吹かなかった小鳥が最期にそう鳴いたからである。  セルツェンとアビョンのことは誰にも知られることはなかった。  長い、長い年月が過ぎた。かつてセルツェンの頭を撫で、慈愛に満ちた神は、人間に殺された。世界は、もう誰の手にも収まってなどいなかった。そして、セルツェンとアビョンは神でも、人でもないが故にその世界の端へと追いやられていた。  はるかむかし、神を招くために作られた神殿にセルツェンとアビョンは逃げ込んだ。薄暗い、冷たい場所だった。  そこにはまだ無知な蛾がいて、ただ美しい光を放つ炎へと吸い寄せられていった。とうのむかしに、世界のことわりは忘れられていた。草木や虫や、鳥でさえ、教えられずとも知っていたのに。  「セルツェン」 何百年ぶりだろうか。アビョンはセルツェンの名を呼んだ。いま、言わなければならない。あの、穏やかで優しいセルツェンが少しでも残るいま。  「わたしはもう、行かなければならないのだわ」  悲しげに、少し誇らしいような顔でアビョンは言った。  「なぜ。世界には争いが溢れ、おまえを傷つけるものばかりなのに」  「蝋が尽きかけているわ。けれど、この炎はそれだけでは消せないの」  「俺が、蝋になればいい。この蝋燭よりもずっと長い」  「いやよ。それはわたしがいやよ」  表情が豊かだったセルツェンは、蝋とともに感情を燃やされた。残ったのは、わたしを守らねばという使命感だけ。  なんと弁明しようと、結局のところただのわたしの我儘なせいなのだ。この世界から、神となるべきひとを奪い、争いを止められず、かつて父のように慕った神が愛した世界を壊したのはわたしなのだ。  「セルツェン。ねるまえのキスをしてよ」 おねがい、と涙を流してみせる。セルツェンはわたしに泣かれたら、何もできないのだ。  セルツェンの前に立っていたけれど、それではセルツェンがキスできないとおもって彼の膝に座った。  セルツェンの背はとても高くて、わたしが膝の上に座ろうとも、彼の顔を見るためには見上げればならない。  「セルツェン」ともう一度名を呼べば、呆れたように息を吐いた。  しようがない、と言うように、ため息をついた。    「おやすみ、アビョン」  セルツェンは冠をはずし、炎を唇に移した。柔らかで、少しカサついた唇が額に触れる。あの頃と何も変わらない、優しい声だった。  「だいすき、せるつぇん」  見上げたそのひとは、ただゆっくりと目を細めた。  瓦礫が積み重なる場所の片隅で、赤ん坊が泣き声を上げた。聞くと、胸を締めつけられるように悲しくて、幸せに満ちた声だった。    

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セルツェン

bless

祝福を口にした。 祝福を耳にした。 祝福を目にした。 かつての私は形づくられた。 それを忘れ、空腹を覚え、 構わず腹に溜めたのは何であったのか。 噛みきることができず、 耳も塞げず、 目蓋さえ閉じれぬが、 祝福以外で食いつないだ。 いったい何の意地だったのだろう。 疑いの目で全てを見て、 次は世界の美しさを語った。 二者しか私は知らず、 またそのような目しか持っていなかった。 否か、そうでないか。 祝福の味を占めなかった人間は、 とても理知的である。 ゆえに衝動に身を任さず、 自らが生み出しもので腹を満たそうとする。 それでは食ったことにならぬというのに、 なぜかその矛盾には気付かぬ。 祝福を食べ、 祝福を見て、 祝福を聞いた。 それですぐに納得すればよかろう。 祝福は何かと問い、 祝福の対象から自らを外し、 いつしか神と人間に分けた。 その味と、 姿と、 音を。 何も信用してはいないのだ。 その世界に何が残ると言う。 祝福を口にし、 祝福を目にし、 祝福を耳にしてなお、 私たちが信じないものを、 私たちは世界と呼んだ。

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第8回N1 ヒデオ

             『英雄』  ナタワラの丘には、ヒデオがいる。滑稽なヒデオがいる。 「よぉ、ヒデオ。お前ぇさん、どこへ行く」 「こんにちは。今から根に懇願しに行きます」 「どういうことだ、てめぇさん」 「頭を下げるだけなので、足の移動はいりません」 「何をした」 「川の傾斜のあるところで昼寝をしたら、いつの間にか川に落ちて水草に絡まりました」 「俺は、お前が釣りでもするのかと期待したが」 「ご期待に応えられず、申し訳ありません」 「手伝ってやるからよ」 「あら、ヒデオちゃん。どうしたの」 「こんばんは。旅人の方に道を尋ねられたのですが、この町がわからないのです」 「いやねぇ、ヒデオちゃん。この町じゃないの」 「あぁ、この町の名前なのですね」 「ヒデオ!鬼ごっこしようぜ」 「いいですよ。私が鬼になりましょうか」 「ヒデオが鬼になったら、一生俺ら捕まんねぇよ」 「それもそうですね。私が逃げたら、一番初めに捕まるでしょう」 「だってヒデオ、年上なのに俺らより足遅ぇもん」 「ヒデオ。この絵どう思う?」 「素晴らしいと思いますよ」 「どういうところ?」 「……すみません」 「だと思った。珍しく感想言ってくれるから期待したのに」 「すみません」 「わからないものは仕方がないから」 「私が描きましょうか」 「ヒデオ」「ヒデオちゃん」「ヒデオ!」「ヒデオ」 みなヒデオと話したがった。 ナタワラの丘の小さな家にヒデオは住んだ。 朝になれば誰かが彼を起こし、 夜になれば誰かがヒデオの夕食を持っていった。 たまに、誰かが彼にお菓子や、野菜をくれた。 小さな家には、町の人々の優しさで埋め尽くされていた。 ある明け方に、ヒデオの家の戸を叩く音が聞こえた。 ヒデオは布団から起き上がり、戸を開ける。 そこには街一番の秀才と呼ばれる男の子がいた。 「おはようございます。どうかなさいましたか」 「おはようございます。ヒデオさんにお聞きしたいことがあって来ました」 「寒いですからどうぞ、中へ」 「どこに座ればよろしいでしょうか」 「すみませんねぇ。どうにも片付けが苦手で」 「ヒデオさん」 「はい」 「あなたは、バカにされています」 「はい」 「それでよいのですか」 「はい」 「なんでっっ!!」 男の子は思わずといった様子で立ち上がった。 「あなたの愚かさを見て、みな安心するのですよ!」 「それが何か」 「何かって……」 「安心することで救われるのであれば、それでよいのです。私の愚かさが誰かの助けになればそれで」 「僕にはわかりません」 「わからなくてよいのです。あなたはあなたのやり方で救えばよいのだから」 「そういうことを言っているのではありません。あなたがっっ」 聞き上手で有名なヒデオは、男の子の言葉を遮った。 「よいのです」 そう言うと、彼は立ち上がって男の子を見送ろうとした。 「帰ります」 男の子は、そのまま歯を食いしばったまま外へ出て、ヒデオの目を見て頭を下げた。 「早朝にすみませんでした。いい一日にを送れますように」 くるりと後ろを向くと、丘を下って行った。 「この愚かさがあればそれで」 そうこぼすと、ヒデオはギィと戸を閉めた。 ナタワラの丘には、ヒデオがいる。滑稽な英雄がいる。

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第8回N1    ヒデオ