歩道橋
3 件の小説ラニーセリョッタ
それは夏が息を潜めるころ、秋の初めのことでした。 大きな崖の下に小さな家がありました。その小さな家に一人の旅人と小さな男の子が訪ねてきたのです。その家には夫を亡くした女性が独り住んでおりました。彼女は特別な楽器をつくる職人で、王さまから、一つ何か楽器をつくるようにと頼まれていました。彼女の家の玄関は、透明ではありますが家の中は何一つとして見せないというなんとも不思議な膜に覆われていました。ノックなどは到底できないように思われたので、旅人は、夜だと承知しながらも少し大きな声で彼女の名前を呼びました。何しろ彼女の家は崖の下にありましたから、お隣さんとは、ほんの歩いて一日かかるほどの遠さで、多少大きな声を出しても彼女以外に迷惑のかかる人はいないのでした。 「誰さ、こんな夜更けに」 玄関の膜がまるでカーテンのように、開きました。 「私だよ、オーチェヌ」 旅人は、答えました。 「あんたか。これまたどうして」 旅人は自分の後ろにいた男の子を優しく押し出して言いました。 「この子を頼みたくて」 オーチェヌと呼ばれた女性は大きく目を開きました。 「半肉体じゃないか……」 半肉体、それは人が死んだあと、命も生きた記憶もない中、自我と体だけが残された人にすらなれない者たち。死後一年の間のみ、彼らは死者になりきらない。 「あぁ…………」 オーチェヌは込み上がる感情を押さえて言いました。 「わかった。その子は私に任せな」 男の子の手を強く握り込んで、旅人の目を見つめました。 「さあ、お行き。旅人さん」 旅人は静かに元来た道を引き返して行きました。 その背中が暗い暗い闇の中に消えたころ、二人はやっと家の方へ体を向けました。 「坊や、おいで。うちの中へ入ろう」 おずおずといった様子で男の子は家の中に入ります。 「靴をお脱ぎ。ああ、パーチャオを被せて。ううんと、それだよ。その薄い膜。ほら、靴ってのは空洞があるだろ。どうにもその中に音が入っちまって、うまく響かないんだ。靴に音が入らないようきっちり覆うんだよ。そうそう、上手、上手…….」 その家には、普通のような床はありませんでした。一面が苔に覆われ、平なところなどはありません。歩くたび、足の指と指の間から苔がひょっこりと顔を出し、柔らかな感触が足を包んでいくようでした。 男の子が苔に夢中になっていると、オーチェヌは、 「あまり苔に足を埋めるじゃないよ。抜けなくなるからね」 と、言います。 男の子は、びくっと体を震わせたあと、これは床、これは床と自分に言い聞かせました。苔だと思うと、どうしてもその感触が気になってしょうがないからです。 「さてと、坊や。君を坊やと呼び続けるのはあまり得策ではないから、何か名前をつけようと思うんだが、それでもいいかい?」 男の子は小さく頷きます。 「じゃあ、これからはラニーセリョッタというのが君の名前だ。少し長いから、ラッセとでも呼んでおこうか」 男の子はラッセと聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で呟きました。 「私のことはオーチェヌと呼んでくれ。職人の方の名前だよ」 ラッセはこくんとまた頷きました。 「さっそくだが、まずこの家のことを知ってもらわないとならん。ついてきなさい」 ラッセは差し出された手を握って、ついていきました。 あれは、暖炉。調理もできるけどね。ホノオゴケが温めてくれる。胞子には気をつけな。あれは火の粉と同じだからね。 この壁にある一本の筋は見えるかい。ここから水が流れてくるんだ。ちゃんとこの桶を置いておくんだよ。きっかり一日分の水が溜まるからね。 食べるところはここだ。苔の上に座って食べるんだ。シマイゴケの上に食べ終わった皿を置いておけば、綺麗にしておいてくれる。 ときどき、塩を吹くのは鯨だ。絶対に触れてはいけないよ。あれは、怪物だから……。 「ラッセ。ここが最後だ」 オーチェヌが指さした先には、盛り上がった苔の段があった。 「お墓……?」 ラッセは不思議そうにその場所を見つめていました。 「いい目をしているね。そのようなものだ よ。私がいま、作っている楽器さ」 あの新芽はなぁに。苔じゃないよ。 ラッセは静かにオーチェヌに問います。 「あれは楽器の核だ」 とても寂しい目をして、オーチェヌはその芽を見ていました。 オーチェヌとラッセの生活は極めて質素で充実したものでした。 日の出とともに起き、顔を洗い、朝食を食べ、オーチェヌは楽器作りに、ラッセは家事に励んでいました。この家事というのに苔の世話が入りますから、ラッセは暇という時間がないほどでした。 楽器づくりといっても、金槌で何かを叩くような音などは全く聞こえませんでした。調律をする音も聞こえないのに、時々苔がうっとりと聴き入る様子がありましたから、きっとそれは特別な音だろうとラッセは思いました。 ある日のことです。外からオーチェヌの名前を呼ぶ声が聞こえました。ラッセは旅人かと思い、少しはやる気持ちを抑えて、玄関の膜を、開けようとしました。すると、オーチェヌが 「待ちなさい」 とひどく静かな声で止めました。 「旅人ではない」 オーチェヌは外の誰かを知っているようでした。そしてあまり、自分がいてほしくないのだという雰囲気をラッセは読み取り、家の奥の方へ移動しました。 「…………様が…………………る。早く…………………」 「わ……………る…………!どう…………」 途切れ途切れにしか聞こえませんでしが、オーチェヌの声はひどく震えていました。 外の誰かが帰ったあと、オーチェヌは話したいことがあるからと作業場から出てきました。 「どうしたの」 つとめて柔らかくラッセは聞きました。 「君に話さなければいけないと思ってね」 話し始めにくそうに、オーチェヌが口を閉じては開くを繰り返していました。 「さぁ、話してよ」 ラッセは優しく聞きました。 「私が国王様に楽器を一つと頼まれたのを知っているね。それはとても名誉なことと同時に、とても残酷なことなんだ。つくったものを国王様に贈呈したあと、職人はみな殺される。例外はひとりもいない。なぜだか、わかるかい?」 ラッセは首を横に振りました。オーチェヌが殺される。その事実で身体中の震えが止まりませんでした。 「王様に贈呈したもの以上に素晴らしい作品がこの世に出ないようにするためだよ」 だからみな、人生をかけて精巧に精巧に時間をたっぷりと使ってつくる。そして死ぬ間際に贈呈して、死んでいくんだ。 「でもね、ラッセ。私はもうあの楽器を完成させた。さっき、あれを取りにくるよう城のものにも伝えたよ」 ラッセは激昂しました。怒りが止まらなかった。悲しかった。そう、ひどく悲しかったのだ。 それを知っているように、オーチェヌはラッセの頭を撫で、頬に触れました。ポロポロと涙を溢しながら、ラッセの前髪を梳きました。 「ラッセ。君は……」 「君はかの国王の末の王弟であり、 君に仕える第一の騎士が私の夫だった」 私は君が生まれた頃から知っているんだ。夫が君のことを話す時、いつも柔らかな微笑みを浮かべていた。 君の歯が生えてきたこと。 君が夫の手を握り返したこと。 夫を見て、はにかむようになったこと。 君が歩けるようになったこと。 君が話せるようになったこと。 君が夫の名前を呼べるようになったこと。 寡黙な彼は、いつも君のことになると饒舌になった。私たちの間には子供ができなかったから、話の中だけでも彼が君をどれほど慈しんでいるか、よく分かったよ。私も、愛らしい君を心の底から愛していた。 そんな時、君が隣国へ行くことになり、夫もまた君についていくことになった。誇らしげに君のことを話していた。 しかし、彼がいつ頃には帰って来られると言った日にちからもう二週間が過ぎようとしていた。 上のお方のことなどよくわからないから、そういうこともあるのだろうと少しの不安を抱えながら待っていた。 ある晩のことだ。森の中の獣たちの声がうるさくて、少し森をのぞいてみた。すると、家の前の森で、獣たちが群がっている。私は急いで火のついた矢を放って獣たちを追い出して、そこへ見に行った。 人が倒れていた。その時から分かっていた。私の夫だ。喉笛を噛みちぎられ、足を食われ、腐臭を纏っている。 ただ、何かをとても大切そうに抱え込んでいた。彼の腕はとても堅くそれを抱きしめていて、引き剥がすのに苦労した。 血濡れた子供がその中にいた。きっと、私の夫の血だ。その子供もまた息をしておらず、心の臓は止まっていた。私はその子供が誰なのかも分かっていたし、自分が夫と息子のように大切に思っていた子供を亡くしたことを知った。 私は二人の遺体を家と外の狭間の、いっとう柔らかな苔のところへ埋めた。何日からすると、柔らかな若葉色をした新芽が出てきた。 私は十年も前に王に頼まれていた仕事を始めると決めた。新芽で、私は最後の制作をしようと思った。自分では死ねないし、寿命まで夫なしでは生きられないから、死ぬ理由が欲しかった。 完成して、城の者を呼ぼうと考えていたころ、君が来たんだ。 私は目を閉じた君しか知らなかったから、くるくると表情を変える君を見るたびに胸がしめつけられた。君が半肉体となって現れたということは、本当に君が死んでしまったことをみせつけられているようだったから。王族なら、生き返ることもできるんじゃないかと馬鹿な期待もした。 「あぁ、君はなんと可愛らしいの」 オーチェヌの腕の中で抱きしめられていた、ラッセはオーチェヌの心拍がいつになく速いことに気がつきました。 「オーチェヌ………?」 オーチェヌはラッセにパーチャオをかけました。 音を入れない膜です。なので、オーチェヌが何か言っているのに何も聞き取ることができません。 「ねぇ、オーチェヌ!!オーチェヌ!!」 なんて言ってるの!!やめてよ!!早くこの膜を取って!! は ぜ ろ とオーチェヌの唇が動きました。 床の苔が全てホノオゴケに変わっていきます。 パチパチと胞子が弾けていきます。 ラッセは床に倒れ込みました。もたれかかっていた体はもうそこにはなく、家中が燃えるなか、初めてオーチェヌのつくった楽器の姿を見ました。 そうか、とオーチェヌは理解しました。焼かなくちゃこの楽器はオーチェヌ以外に見えないんだ。燃やさないと取りに来る城の者も分からなかったでしょう、オーチェヌがきっと燃やすという手を取ったのも、きっと彼女の夫とともにいくためなのでしょう。 パーチャオのおかげで、ラッセは燃えませんでした。パーチャオと同じ成分でできている入口や窓の膜で外にまで火は移らず、家が消滅して終わりました。ポツンと、燃えたぎる地に、彼女の作品が立っています。その火が消えることはありませんでした。 取りに来た城の者も彼女の作品に一歩も近づけず、断念して去っていきました。 ラッセは死者になりました。パーチャオを自ら脱ぎ捨て、その炎にやかれたからです。
ソントゥルベーナ
ろん。 ろん、ろん、ろん。 のどはゆらさず。 まるではちみつのやうに。 こん。 こん、こん、こん。 すこし、かためのやきがしのやう。 ぱらぱら粉がせきをうむ。 のども。 したも。 さらりと言葉はながせないもの。 まさつがあるの。 火傷があるの。 塗り薬もあって。 いのり、のろい、よろこび、かなしみ、 さけんで、泣いて。 こえもださずに、こころを見せるの。 とてもとても淡くて、つるりとして、ざらりともして、 とぅるんとすべるから。 ほんの少しだけ掬いやすいやう、 したが傷つかぬやう、 のどがひびわれぬやう。 音符のやうに、その起伏と質感を記し、 おまえのこころと明日を静謐に詠みあげるの。
檸檬幻聴
繰り返す。 繰り返す。 雲をしぼる。 雨粒が落ちる。 掌のうえで、鳴き止ませた蝉と お前のゆくえ。 砂浜では、ひとり歩き。 砂が降った音と、 日傘の軋んだ音すら聞き分けないこの耳。 それは、 訝しげに首を傾けるひとがいないということ。 一匹だけ、間引いても、 幻聴が消えるわけではあるまいに。 砂浜近くの街路を進む。 洒落込んだ庭の、檸檬。 取って、食おうとするとまた幻聴が聴こえる。 朽ちて、食え。 朽ちて、食え。 ひひひ、と嗤う声が聴こえる。 お前の腹など満たしてやらぬと、 朽ちて、食え。 朽ちて、食え。 まるで詩の一節のやうと微笑うお前の顔が浮かぶ。 幻聴でお前が甦るのなら、 それでよいと私は呑み込む。 檸檬よ、意地の悪い檸檬。 ここおらぬ人のスカーフの色よ。