歩道橋

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歩道橋

しがない歩道橋です。通られる際に、眼下の作品を見ていってくだされば、と。

出づ

るりるりと、鳴く小鳥がおったのよ。 小さな苗木に留まっていた。 不思議なことに、泉の中にその苗木はあったもので、 落ちてはいけないと小鳥に言った。 「その木は小さいから他の木に行きなさい」と。 どこへ。 他に木などありますでしょうかと、 小鳥が私にきいているようだった。 私は見渡した。 何もない。 本当に何もなく、泉が続くだけだった。 川底の見えない、深い深い泉だ。 私は自分がどこに立っているのか、分からなくなった。 足先が見えない。泉に浸かっているのだろうか。 けれど、私が足を動かしたところで波ひとつ立たない。 私は怖くなった。 息の許すかぎり、足を動かした。 進んでいるのかさえ分からない。 景色に変化はなく、 私の頬が風をきる感覚もなかった。 水を両手で掬った。 だというのに、溢れない。 その上、水に重さがない。 この泉は、何だと言うのだ。 私が慌てふためいても、 波ひとつ立てずに、泉は深くなるばかりだった。 私は服が濡れることもなく、沈んでいく。 滑稽な私を、小鳥はただ見つめていた。 小鳥よ!お願いだから、鳴いておくれ! ここは静かで気が狂いそうなんだ。 私がそう叫ぶと小鳥は羽を震わせた。 鳴こうと頭を上げ、音もなくただ体を震わせていた。 あの小鳥は声が出ないのだ。 必死に鳴こうとしている。 私が頼んだために。 すまない。小鳥よ、すまない。 もうよいのだ。鳴かなくともよい。 お前がいれば十分だ。 この泉の果てを探す私が愚かだった。 知っているのだ。 私だもの。 この泉が私だもの。 この水を蒸発させる光を見つけられず、 ただ泣いているのが私だもの。 小鳥よ。 なぜここに迷い込んだ。 その苗木は育たぬ。 水に浸かりすぎだ。 根が腐ってしまっている。 いつか倒れるのだ。 お前のとまり木はなくなるぞ。 飛び続けなければならぬ。 私にも留まるな。 いずれ沈む身だ。 おぉ、鳴かないでおくれ。 一滴たりとも、力を無駄にしてはならぬ。 私を慰める必要はないのだよ。 私を置いて飛び立つのだよ、小鳥。 お前の羽を見せておくれ。 鳶のように大きく優雅なものでなくとも。 上だ。 上にお行き。 私の心の臓を出て、口から出るといい。 醜い言葉とともにお前が出てしまわないようにするから。 お前の羽に纏わりつかぬ、 柔らかな言葉を出そう。 だから、ほら。お行きなさい。 お行きなさい。 私の何を見ても、ここへは戻らずに。 優しいお前のことだから。 置いてゆくことを忘れてお行きなさい。

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出づ

折り織りウオ

 原稿用紙にものを書くのがあまり好きではなかった。簡単に消えてはくれない。消しゴムで消しても、書いた跡をどうしても残してしまうから。未完結で、まるで崩れたカタチのポリバルーンのような物語たち。作品とも呼べず、ただ最高傑作の下書きにもなれた原稿用紙たちを、惰性に使ったものたち。  錆びついたクッキーの型を使い回すように、 私は「作風」などという言葉にかまけて、何も生み出せずにいる。それを私の芯の通らない字が体現してしまっている。その字を見て、書き続ける忍耐力が私にはない。「書道、習っているの」と時たまに訊かれる棘が、ちらりと顔を見せる。どれもナァナァでやってきた私の跡。気取らずに言葉を選べなかった、本当につまらないエッセイ。  ねぇ、私ってこんなにつまらないのよ。      そう言える勇気もなく、少しの栄光を掲げてみる。  小説家になるつもりはない。加えて文学の道に進むことも真剣には考えていない。書くことが生きがいかと問われれば、そんなことはない。三食昼寝と、夜の安眠の方が大切だ。友人より、書くことが大切か。それはノーである。一種の暇つぶしのようなものだ。もしくは、誰にも入ってこられない秘密基地のような。  何度もアカウントを変えて、ノベリーに居座り続けている私は、これまでたくさん「書いて、生きていきたい」という人を見た。「小説家になりたい」、「書かないと生きていけない」と、そういう人を。  私がアカウントをコロコロ変えているのだって、最近は私なりの決心だけれど、前はただパスワードを忘れて、入れなくなっただけだった。テスト前で、現実逃避のためにたくさん書いてしまうから、いったんアプリを消して、そのまま入れなくなっただけ。高尚な理由など、なかった。  わかるだろうか。私は心底、適当な人間なのである。それなのに、適当を毛嫌いしている、なんとも救いようのない人間なのだ。  嫌い、というテーマに対して、蟻から見た三メートルほどの距離に話を飛ばすが、 私は「レベル」、「効率」という言葉が嫌いだ。  私はもともと、数字に出して自分の立ち位置を見分けることがあまり好きではない。別に、「私の努力はそんな数値上になんて、表れやしないわ!!」と言いたいわけではない。レベルなんて言葉を使ったら、上下にしか何か進めないような気がするのだ。高レベルなどと書かれたテキストにイメージ図として載っているのはどんなものだろうか。ピラミッドや、階段のものが多いのではないだろうか。またゲームのレベルなども、そのように表示されていることが多い。つまるところ、ただイメージ的に、私はレベルという言葉の拘束を嫌っているのである。  そして、次は「効率」という言葉。 効率が悪ければ、人生を損しているような気分になる。この作業をもっと効率的に終わらせていたら、もっと〜〜できたかもしれないのに。そんな後悔を生み出す「効率」が大嫌いだ。  時間をうまく使うことが、より端的に丁寧にものを終わらせることが、なんとなく得であるような気がしていた。  効率的でないことが、のちのち人生を豊かにする、なんてことを言うつもりはない。けれど、効率的じゃなくとも、人生は別に損なんてしないんだよ、と焦る自分に言いたい。  人生はそんな狭量じゃないんだぜ。  最後に突拍子とない話をする。国語の記述だったらきっと、構成の工夫という点には何も入らないだろう。  私の家に個人スペースというものはあまりない。自分の部屋なんてないし、なんなら寝る部屋はみんな一緒だ。だから、恋人と寝落ち電話!!はできないわけである。姉や母と服は共同であるし、アニメやドラマでお決まりの、テレビの前にソファなんて、配置もない。そもそも、私の家にソファはない。古い十年前ほどのテレビの真横に、布団をはぎとられたこたつの机が置いてあって、テレビを見るときは体をひねる。隣の部屋にもう一台大きくて新しいのがあるというのに、なぜだがうちの家族はそちらでは見ない。なるほど、昭和の和洋風の家かと尋ねられれば、そうでもない。完全に洋風の構造の家である。フローリングに、敷布団を敷いて寝ると言えばそうかもしれないが。  インスタでよく見る帰宅後の動線などというのは、夢のまた夢である。よりスムーズに動き、整理された、美しい家を保つことはきっと楽しい。そのための工夫も楽しい。  けれど、けれど、私はそこに「効率」が隠されているようか気がして、あまり好きではない。綺麗で整理整頓された、「生活感をなくした家」など、家と呼べるのだろうか。 生活する場で、なぜ隠さねばならない。 なぜその用途を有効活用しない。 私の頭はとても固いので、それがわからなかったりする。 そういう引っかかりが、高校に入ってうんと増えた。 全部共同なんてプライバシー、ないじゃないのと言われたこともある。 見せたくないものはきっと心の中なのだから、誰にも見えないのに。 隠そうとするから、隠せないのに。 そんな言葉が喉を詰まらせた。 それでも「たしかに、そうだね」と言う。 相手の家庭事情を知らないのにヘタなことは言えないからだ。彼らには彼らのプライバシーの守り方がある。 ただ、これだけは主張したい。 家族と色々なものを共有して、自分の部屋や、場所がなくとも、守れるものは守れる。  今、世の中は個人、個人、個人というけれど、個人、個人、個人ってけっこうかさばるのよ。 それを言うなら相手の個人のスペースに侵入しない、そんな個人の収納のしかたを見つけてねと言いたい。  もしくは、境界線を引かずに共有して、大切なところだけを取っておく方法もあるのよ、とウインクでもしておこうか。  そう、まるでふたごの目玉焼きのように。

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折り織りウオ

まなだれ

まつげをひっしと掴む水滴。 そのおしりを引っ張る重力。 一度目を伏せただけで、 静かにこぼれ落ちていったものたち。 タオルでぬぐったとしても。 いつの間にか跡にも残らないようなものたち。 スケッチブックにそれを落として。 ひとつひとつ書いていけばいいのだろうか。 色も、形も何もないけれど。 そのにじみだけを残して。 なぜ、あのとき私が泣いたのかを。 それとも、残さない方がよいのだろうか。 泣いた理由はきっと、化膿したままだから。 少しずつ、治っていく未来の私に渡してはいけないのか。 焼けるようなあの喉の痛みとともに。 鮮烈な記憶がときどき、私を燻る。 嗚咽を堪えるときはいつもそうだ。 声を上げて、泣けない臆病な私。 息切れは、簡単に喉を通るけれど。 なぜか、泣き声だけ喉の弁が閉じてしまう。 あなたが丹精こめてつくったその水滴を。 額縁に飾れたらいいのに。 泣けたんですよ。 泣いて、あなたはうんと強くなりましたよ。 そう言い聞かせる美しい声の通し方を。 まだあなたは知らないから。

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まなだれ

おまもりたち

うんとわたしのちいさいころ。 彼と一緒に、机の上へビー玉をばら撒いた。 小さな箱にぎゅうぎゅうにして詰めていたものを。 文字通りばら撒いたのだから、ビー玉は転がって、転がって、 止まるという言葉を知らないようだった。 ビー玉が床に溢れ落ちないように、 馬鹿みたいに机を回って回って、走って手で掬いに行って、 息が切れて、私が机にぶつかり、 いとも簡単に、私たちが掬いきれない量のビー玉が落ちた。 その中には、 欲しいから、と彼に飲ませたラムネの瓶のビー玉もあった。 私が炭酸を飲めないせいで、 彼にはきっと、もう十をこえるラムネを飲ませていた。 私があの透明のビー玉が欲しいと言えば、 お小遣いでラムネを買って飲んでくれる彼が。 くら寿司に行けば、うどんの容器を蓋もキャップも外して、 まるで当たり前のように私にくれる彼が。 膝を擦りむいた私を、そっと背に負って家に帰る彼が。 周りのことが見えすぎて、 優しさすぎる彼が。 今、その優しさに首を絞められて、 とても苦しそうに喘いでいる。 煙草を吸うようになった。まだ未成年なのに。 真夜中に街を練り歩くようになった。 無免許運転をしようとしていた。          まだ、私と同い年なのに。 毎週末、私の家に来ていた彼と、 今では半年に一回ほどしか会わなくなった。 もう目が合うことも、話すこともない。 嘆きたくはない。 彼は決して人生を転落したわけでも、  落ちぶれたわけでもない。 私が小学生のころ、 何か諍いが起きた時があった。 まだ幼い私は、それに深く傷ついて、 彼に泣きついていた。 「大丈夫やから」と、一度、彼は私の頬にキスをした。 それは恋のような口づけではない。 ただただ、私を守る、 おまもりのようなキスだった。 もう何年も経つようなそのキスに。 いまだに私は守られている。 なのに私は、 それを彼に返すことができていない。 今、首を絞められている彼を。 守れるまじないをかければよかったと。 深く深く、後悔している。 もう私の声は。 有象無象にうもれて、彼には届かない。 兄弟で、友人で、親戚であれたあの頃でないと。 そう思えば思うほどに、 私が机から落として、割れたビー玉のひびが、 言葉を出さず、その存在を主張してくるのだ。 「みぃつけた」 「なんでいつもわかるの?」 「障子のうらにかくれたら、影ができるやんか」 「あっ」 「ばかやなぁ」   あのころの。   ほんとうにしあわせなきおくたち。

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おまもりたち

このうち

「ロングロングアゴー」 私の中でずっと色褪せずに残る本である。 その言葉を抱えて、 「ずっとずっと前のこと」と、陳腐に訳すのだ。                              ーーーーーーーーーー 誰かに語られたかった。 そう、まるで偉人や英雄のように。 偉業を成し遂げなくともよかった。 ただ、誰かに私のいないところで、 私を語ってほしかった。 私の名前など出さなくてもいい。 私の名前だけが、私を証明するわけではないのだから。 ほんの小さなツイートで、 「前のひとのマフラーが反対」と、 そう言われる程度でもいい。 駄作どまりの私の詩や、物語や、絵が。 私の死後にそれでも残ってくれたら、と思う。 それが私のことを語る根になれば、とすら思う。              ーーーーーーーーーーー 泉に頼った人生をしていた。 準才能とは言ったものに、縋る日々である。 元々ある元々を。 配分も見ずに浪費したわたくし。 その余波が静かに私を貪る。 つと目を横に逸らせ。 ほら、見えるのはわたくしを追い越すその歪んだ横顔。 進む苦しみに耐えんとするその美しさよ。 手が震える。 私はもう描けぬ境地まであと一歩のところにいた。 泉などとうに枯れ果てた。 残滓とまだ湿り気のある土で。 愚かにも創りつづけている。              ーーーーーーーーーーーーー 優しさが正しさに勝らない性格をしている。 正しく在ろうと正しくないわたし。 高潔にもなれないわたし。 正しさで人の口を塞ぐ。 道理をしるものだからこそ、 溢せない違和感。 合っているのに、そうではないのだ。 合えばいいのだと。 及第点で、満足するわたし。 傷ついた誰かの泣き声は、わたしの都合に合わないもの。 回る回る口をしている。 音楽のないメリーゴーランド。 ひとりで回るわたし。 退屈で、退屈な。 ひどく少ないボキャブラリー。 大丈夫と言う以外の、 安否を問う言葉を知らぬ。 かつて絶対的で、 聖書のような。 私の空想たち。

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このうち

ラニーセリョッタ

それは夏が息を潜めるころ、秋の初めのことでした。  大きな崖の下に小さな家がありました。その小さな家に一人の旅人と小さな男の子が訪ねてきたのです。その家には夫を亡くした女性が独り住んでおりました。彼女は特別な楽器をつくる職人で、王さまから、一つ何か楽器をつくるようにと頼まれていました。彼女の家の玄関は、透明ではありますが家の中は何一つとして見せないというなんとも不思議な膜に覆われていました。ノックなどは到底できないように思われたので、旅人は、夜だと承知しながらも少し大きな声で彼女の名前を呼びました。何しろ彼女の家は崖の下にありましたから、お隣さんとは、ほんの歩いて一日かかるほどの遠さで、多少大きな声を出しても彼女以外に迷惑のかかる人はいないのでした。  「誰さ、こんな夜更けに」 玄関の膜がまるでカーテンのように、開きました。  「私だよ、オーチェヌ」 旅人は、答えました。  「あんたか。これまたどうして」 旅人は自分の後ろにいた男の子を優しく押し出して言いました。  「この子を頼みたくて」 オーチェヌと呼ばれた女性は大きく目を開きました。  「半肉体じゃないか……」  半肉体、それは人が死んだあと、命も生きた記憶もない中、自我と体だけが残された人にすらなれない者たち。死後一年の間のみ、彼らは死者になりきらない。  「あぁ…………」  オーチェヌは込み上がる感情を押さえて言いました。  「わかった。その子は私に任せな」  男の子の手を強く握り込んで、旅人の目を見つめました。  「さあ、お行き。旅人さん」 旅人は静かに元来た道を引き返して行きました。  その背中が暗い暗い闇の中に消えたころ、二人はやっと家の方へ体を向けました。  「坊や、おいで。うちの中へ入ろう」  おずおずといった様子で男の子は家の中に入ります。  「靴をお脱ぎ。ああ、パーチャオを被せて。ううんと、それだよ。その薄い膜。ほら、靴ってのは空洞があるだろ。どうにもその中に音が入っちまって、うまく響かないんだ。靴に音が入らないようきっちり覆うんだよ。そうそう、上手、上手…….」  その家には、普通のような床はありませんでした。一面が苔に覆われ、平なところなどはありません。歩くたび、足の指と指の間から苔がひょっこりと顔を出し、柔らかな感触が足を包んでいくようでした。  男の子が苔に夢中になっていると、オーチェヌは、  「あまり苔に足を埋めるじゃないよ。抜けなくなるからね」  と、言います。  男の子は、びくっと体を震わせたあと、これは床、これは床と自分に言い聞かせました。苔だと思うと、どうしてもその感触が気になってしょうがないからです。  「さてと、坊や。君を坊やと呼び続けるのはあまり得策ではないから、何か名前をつけようと思うんだが、それでもいいかい?」  男の子は小さく頷きます。  「じゃあ、これからはラニーセリョッタというのが君の名前だ。少し長いから、ラッセとでも呼んでおこうか」  男の子はラッセと聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で呟きました。  「私のことはオーチェヌと呼んでくれ。職人の方の名前だよ」  ラッセはこくんとまた頷きました。  「さっそくだが、まずこの家のことを知ってもらわないとならん。ついてきなさい」  ラッセは差し出された手を握って、ついていきました。    あれは、暖炉。調理もできるけどね。ホノオゴケが温めてくれる。胞子には気をつけな。あれは火の粉と同じだからね。  この壁にある一本の筋は見えるかい。ここから水が流れてくるんだ。ちゃんとこの桶を置いておくんだよ。きっかり一日分の水が溜まるからね。  食べるところはここだ。苔の上に座って食べるんだ。シマイゴケの上に食べ終わった皿を置いておけば、綺麗にしておいてくれる。  ときどき、塩を吹くのは鯨だ。絶対に触れてはいけないよ。あれは、怪物だから……。  「ラッセ。ここが最後だ」 オーチェヌが指さした先には、盛り上がった苔の段があった。  「お墓……?」  ラッセは不思議そうにその場所を見つめていました。  「いい目をしているね。そのようなものだ よ。私がいま、作っている楽器さ」  あの新芽はなぁに。苔じゃないよ。 ラッセは静かにオーチェヌに問います。  「あれは楽器の核だ」  とても寂しい目をして、オーチェヌはその芽を見ていました。  オーチェヌとラッセの生活は極めて質素で充実したものでした。  日の出とともに起き、顔を洗い、朝食を食べ、オーチェヌは楽器作りに、ラッセは家事に励んでいました。この家事というのに苔の世話が入りますから、ラッセは暇という時間がないほどでした。  楽器づくりといっても、金槌で何かを叩くような音などは全く聞こえませんでした。調律をする音も聞こえないのに、時々苔がうっとりと聴き入る様子がありましたから、きっとそれは特別な音だろうとラッセは思いました。  ある日のことです。外からオーチェヌの名前を呼ぶ声が聞こえました。ラッセは旅人かと思い、少しはやる気持ちを抑えて、玄関の膜を、開けようとしました。すると、オーチェヌが  「待ちなさい」 とひどく静かな声で止めました。  「旅人ではない」  オーチェヌは外の誰かを知っているようでした。そしてあまり、自分がいてほしくないのだという雰囲気をラッセは読み取り、家の奥の方へ移動しました。  「…………様が…………………る。早く…………………」  「わ……………る…………!どう…………」    途切れ途切れにしか聞こえませんでしが、オーチェヌの声はひどく震えていました。  外の誰かが帰ったあと、オーチェヌは話したいことがあるからと作業場から出てきました。  「どうしたの」 つとめて柔らかくラッセは聞きました。  「君に話さなければいけないと思ってね」 話し始めにくそうに、オーチェヌが口を閉じては開くを繰り返していました。  「さぁ、話してよ」  ラッセは優しく聞きました。  「私が国王様に楽器を一つと頼まれたのを知っているね。それはとても名誉なことと同時に、とても残酷なことなんだ。つくったものを国王様に贈呈したあと、職人はみな殺される。例外はひとりもいない。なぜだか、わかるかい?」  ラッセは首を横に振りました。オーチェヌが殺される。その事実で身体中の震えが止まりませんでした。  「王様に贈呈したもの以上に素晴らしい作品がこの世に出ないようにするためだよ」  だからみな、人生をかけて精巧に精巧に時間をたっぷりと使ってつくる。そして死ぬ間際に贈呈して、死んでいくんだ。  「でもね、ラッセ。私はもうあの楽器を完成させた。さっき、あれを取りにくるよう城のものにも伝えたよ」  ラッセは激昂しました。怒りが止まらなかった。悲しかった。そう、ひどく悲しかったのだ。  それを知っているように、オーチェヌはラッセの頭を撫で、頬に触れました。ポロポロと涙を溢しながら、ラッセの前髪を梳きました。  「ラッセ。君は……」  「君はかの国王の末の王弟であり、  君に仕える第一の騎士が私の夫だった」   私は君が生まれた頃から知っているんだ。夫が君のことを話す時、いつも柔らかな微笑みを浮かべていた。  君の歯が生えてきたこと。  君が夫の手を握り返したこと。  夫を見て、はにかむようになったこと。  君が歩けるようになったこと。  君が話せるようになったこと。  君が夫の名前を呼べるようになったこと。  寡黙な彼は、いつも君のことになると饒舌になった。私たちの間には子供ができなかったから、話の中だけでも彼が君をどれほど慈しんでいるか、よく分かったよ。私も、愛らしい君を心の底から愛していた。  そんな時、君が隣国へ行くことになり、夫もまた君についていくことになった。誇らしげに君のことを話していた。  しかし、彼がいつ頃には帰って来られると言った日にちからもう二週間が過ぎようとしていた。  上のお方のことなどよくわからないから、そういうこともあるのだろうと少しの不安を抱えながら待っていた。  ある晩のことだ。森の中の獣たちの声がうるさくて、少し森をのぞいてみた。すると、家の前の森で、獣たちが群がっている。私は急いで火のついた矢を放って獣たちを追い出して、そこへ見に行った。  人が倒れていた。その時から分かっていた。私の夫だ。喉笛を噛みちぎられ、足を食われ、腐臭を纏っている。  ただ、何かをとても大切そうに抱え込んでいた。彼の腕はとても堅くそれを抱きしめていて、引き剥がすのに苦労した。  血濡れた子供がその中にいた。きっと、私の夫の血だ。その子供もまた息をしておらず、心の臓は止まっていた。私はその子供が誰なのかも分かっていたし、自分が夫と息子のように大切に思っていた子供を亡くしたことを知った。  私は二人の遺体を家と外の狭間の、いっとう柔らかな苔のところへ埋めた。何日からすると、柔らかな若葉色をした新芽が出てきた。  私は十年も前に王に頼まれていた仕事を始めると決めた。新芽で、私は最後の制作をしようと思った。自分では死ねないし、寿命まで夫なしでは生きられないから、死ぬ理由が欲しかった。  完成して、城の者を呼ぼうと考えていたころ、君が来たんだ。  私は目を閉じた君しか知らなかったから、くるくると表情を変える君を見るたびに胸がしめつけられた。君が半肉体となって現れたということは、本当に君が死んでしまったことをみせつけられているようだったから。王族なら、生き返ることもできるんじゃないかと馬鹿な期待もした。  「あぁ、君はなんと可愛らしいの」 オーチェヌの腕の中で抱きしめられていた、ラッセはオーチェヌの心拍がいつになく速いことに気がつきました。  「オーチェヌ………?」  オーチェヌはラッセにパーチャオをかけました。  音を入れない膜です。なので、オーチェヌが何か言っているのに何も聞き取ることができません。  「ねぇ、オーチェヌ!!オーチェヌ!!」 なんて言ってるの!!やめてよ!!早くこの膜を取って!!  は ぜ ろ   とオーチェヌの唇が動きました。  床の苔が全てホノオゴケに変わっていきます。  パチパチと胞子が弾けていきます。  ラッセは床に倒れ込みました。もたれかかっていた体はもうそこにはなく、家中が燃えるなか、初めてオーチェヌのつくった楽器の姿を見ました。  そうか、とオーチェヌは理解しました。焼かなくちゃこの楽器はオーチェヌ以外に見えないんだ。燃やさないと取りに来る城の者も分からなかったでしょう、オーチェヌがきっと燃やすという手を取ったのも、きっと彼女の夫とともにいくためなのでしょう。  パーチャオのおかげで、ラッセは燃えませんでした。パーチャオと同じ成分でできている入口や窓の膜で外にまで火は移らず、家が消滅して終わりました。ポツンと、燃えたぎる地に、彼女の作品が立っています。その火が消えることはありませんでした。  取りに来た城の者も彼女の作品に一歩も近づけず、断念して去っていきました。  ラッセは死者になりました。パーチャオを自ら脱ぎ捨て、その炎にやかれたからです。

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ラニーセリョッタ

ソントゥルベーナ

ろん。  ろん、ろん、ろん。          のどはゆらさず。         まるではちみつのやうに。 こん。  こん、こん、こん。        すこし、かためのやきがしのやう。          ぱらぱら粉がせきをうむ。      のども。       したも。                さらりと言葉はながせないもの。    まさつがあるの。     火傷があるの。      塗り薬もあって。  いのり、のろい、よろこび、かなしみ、 さけんで、泣いて。  こえもださずに、こころを見せるの。  とてもとても淡くて、つるりとして、ざらりともして、  とぅるんとすべるから。 ほんの少しだけ掬いやすいやう、  したが傷つかぬやう、   のどがひびわれぬやう。 音符のやうに、その起伏と質感を記し、 おまえのこころと明日を静謐に詠みあげるの。       

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ソントゥルベーナ

檸檬幻聴

繰り返す。      繰り返す。           雲をしぼる。                 雨粒が落ちる。                掌のうえで、鳴き止ませた蝉と お前のゆくえ。 砂浜では、ひとり歩き。 砂が降った音と、 日傘の軋んだ音すら聞き分けないこの耳。 それは、 訝しげに首を傾けるひとがいないということ。 一匹だけ、間引いても、 幻聴が消えるわけではあるまいに。 砂浜近くの街路を進む。 洒落込んだ庭の、檸檬。 取って、食おうとするとまた幻聴が聴こえる。 朽ちて、食え。 朽ちて、食え。 ひひひ、と嗤う声が聴こえる。 お前の腹など満たしてやらぬと、 朽ちて、食え。 朽ちて、食え。 まるで詩の一節のやうと微笑うお前の顔が浮かぶ。 幻聴でお前が甦るのなら、 それでよいと私は呑み込む。 檸檬よ、意地の悪い檸檬。 ここおらぬ人のスカーフの色よ。

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檸檬幻聴