葵
8 件の小説言えなかった恋の話 ♯2
「彼女は?」と聞けなかった夜 「彼女は?」 その一言を、私は何度も喉の奥まで運んでは、 結局、飲み込んだ。 夜のコンビニで、 彼はいつものようにコーヒーを選び、 私は何を買うわけでもなく、隣に立っていた。 恋人でもないのに、 ひとりでいるのが不自然なくらい、 私たちは並ぶことに慣れていた。 「最近どう?」 彼はそう聞いてきた。 私は「まあまあ」と答えた。 本当は、 あなたがどうなのかを知りたかったのに。 彼のスマホが震えて、 一瞬だけ画面が光った。 誰からの通知かは、見えなかった。 見なかったことにした。 「忙しそうだね」 精一杯の探りを入れると、 彼は曖昧に笑った。 「まあね」 それ以上、踏み込めなかった。 もし彼に誰かがいたら。 もし私が、その存在を知ってしまったら。 今まで一緒に笑っていた時間が、 全部、意味のないものに変わってしまう気がした。 だから私は、 何も聞かないという選択をした。 帰り道、 改札までの短い距離を歩きながら、 私はずっと考えていた。 聞かなかったことを、 後悔する日が来るだろうか。 それとも、 聞かなかったからこそ、 今日を無事に終えられたのだろうか。 別れ際、彼は言った。 「またね」 その言葉に、 約束なのか、ただの挨拶なのか、 私は答えを持てなかった。 家に帰ってから、 ベッドに横になって、 天井を見つめながら思った。 聞かなかったのは、 勇気がなかったからじゃない。 この関係を、 失いたくなかっただけだ。 「彼女は?」 その一言は、 今夜も、言えなかった。
言えなかった恋の話
最後まで、好きだと言えなかった この恋は、言葉にしなかったことで終わった。 好きだと言えば、何かが変わったかもしれない。 それでも私は、黙ったまま隣にいることを選んだ。 それが一番、壊れないと思ったから。 彼とは、特別な始まり方をしたわけじゃない。 仕事終わりにたまたま時間が合って、 「ご飯でも行く?」と軽く声をかけられただけだった。 それがいつの間にか、当たり前になった。 夜の駅前。 コンビニの前で並んで立ち、 どうでもいい話をして、笑った。 恋人みたいだね、と言われたら、 きっと否定も肯定もできなかったと思う。 「彼女は?」 その一言が、最後まで言えなかった。 好きだと気づいたのは、 帰り道で一人になった瞬間だった。 さっきまで一緒にいたのに、 もう会いたくなっている自分がいた。 それでも私は、何も言わなかった。 関係が変わるくらいなら、 このままでいいと、自分に言い聞かせた。 ある日、彼は少し申し訳なさそうに言った。 「来月、引っ越すんだ」 理由は聞かなかった。 聞いてしまったら、 今までの時間に意味を求めてしまいそうだったから。 最後に会った日も、 私たちはいつも通りだった。 駅の改札前で、 「元気でね」と笑った。 本当は、 行かないで、って言いたかった。 好きだよ、って言いたかった。 でも結局、 そのどちらも口にできなかった。 彼の背中が人混みに消えていくのを見ながら、 私はただ、 この恋が始まらなかったことにしてしまった。 最後まで、好きだと言えなかったけれど、 確かに私は、 誰かを本気で好きだった。
名前
夜の台所で、子供は壁を見ている。椅子に座らないのは、そこが一番目立たないからだ。 「そこ」 声が落ちる。名前はない。 子供は返事をしない。ただ、動かない。 コップが倒れる音。 子供の肩がわずかに跳ねる。 「ごめんなさい」 理由は聞かれていない。 その言葉は、出来事を終わらせるためにある。 テレビが笑う。誰も見ていない。 「泣くな」と言われ、子供は泣いていないことを確かめる。感情は、起こる前に抑えるものだった。 「手がかかる」 それ以上の説明はない。 子供は、自分が余分だと理解する。 灯りが消える。 おやすみは言われない。 布団の中で、子供は考える。 怒られない方法。 答えは単純で、繰り返し可能だった。 期待しない。 頼らない。 感じない。 それが守れた日は、何も起こらなかった。 何も起こらない日は、正しい日だった。 年月が過ぎ、私は声を上げない人間になった。 助けを呼ばず、手を煩わせず、静かに存在する。 ――あの台所で、名前を持たなかった子供が、過去の私だ。
さよならの朝
彼女は、朝が弱かった。 目覚ましが鳴っても起きず、僕が名前を呼ぶまで布団に顔をうずめたままだった。 「遅刻するよ」 そう言うと、決まって不機嫌そうに片目だけ開ける。 それが、最後の朝も同じだった。 ただ一つ違ったのは、彼女が目を開けなかったことだ。 救急車の音は遠く、現実感がなかった。 白い天井、機械の音、医師の淡々とした声。 「残念ですが」という言葉が、ひどく他人事のように聞こえた。 彼女は死んだ。 あまりにも簡単に、あっけなく。 葬儀が終わり、部屋に戻ると、彼女の痕跡だけが残っていた。 使いかけのマグカップ、読みかけの本、僕の部屋なのに、彼女の匂い。 冷蔵庫を開けると、メモが貼ってあった。 「帰りに牛乳買ってきて」 もう、帰ってくることはないのに。 それから僕は、彼女が死んだことを、何度も忘れた。 駅で似た後ろ姿を見つけては、振り向く。 スマホが鳴るたび、彼女の名前を探す。 夜、布団に入ると、無意識に隣に手を伸ばしてしまう。 何もない空気を掴んで、ようやく思い出す。 ——ああ、もういないんだ。 一ヶ月後、彼女のスマホが見つかった。 ロック画面には、僕の寝顔の写真。 最後のメッセージは、送信されていなかった。 「ねえ、幸せだよ」 画面を閉じて、僕は泣いた。 声を上げることもできず、ただ静かに。 恋人を失うということは、 世界が終わることじゃない。 世界は続いてしまう。 彼女のいないまま。 そして今日も朝が来る。 彼女は、もう起きない。 それだけのことなのに、 僕には、まだ受け入れられずにいる。
夜
夜は、いつも音から始まる。 昼の名残を引きずるような遠くの車の走行音、どこかの部屋で閉め忘れられた窓がきしむ音。それらが一つずつ消えていくと、世界はようやく自分の輪郭を取り戻す。 私は夜が来るたび、屋上に上がる。特別な理由はない。ただ、ここでは時間がゆっくりと溶ける気がするのだ。街灯に照らされたアスファルトは昼よりも正直で、影は誤魔化しを許さない。 今日もまた、彼女のことを考えていた。 最後に会ったのは、もう何年も前の夜だった。別れの言葉は短く、星の見えない空の下で交わされた。彼女は「夜は嘘をつかないから好き」と言っていた。その意味を、私はずっと理解できずにいる。 屋上の端に腰を下ろすと、冷たい風が頬を撫でた。夜は優しい。昼のように答えを急かさない。ただ、問いだけを静かに置いていく。 もし彼女が今もどこかで同じ夜を見ているなら、少しは救われるだろうか。 そう考えた瞬間、雲の切れ間から月が現れた。淡い光が街を包み込み、影をやわらかくほどいていく。 夜は嘘をつかない。でも、すべてを語るわけでもない。 私は立ち上がり、もう一度空を見上げた。答えは出ないまま、それでも夜は終わりに近づいている。やがて朝が来て、また世界は騒がしくなるだろう。 それでも私は知っている。 本当の気持ちは、いつも夜の中に残されていることを。
名前を呼ぶ前に
その人の名前を、私は結局一度も呼ばなかった。 同じ方向へ帰るようになったのは、偶然だった。終業後、改札前で顔を合わせ、帰り道が重なると分かった。それ以来、特別な約束もないまま、私たちは何度か並んで歩いた。 会話は節度を保っていた。仕事の進み具合、上司の癖、最近できた店の話。踏み込まないことが、暗黙の了解だったのだと思う。互いに大人で、互いに慎重だった。 私は彼の名前を呼ばなかった。親しさを示すには簡単な行為だと分かっていたが、その一歩が関係を変えてしまう気がしていた。変わらないままでいることを、私は選び続けていた。 異動の話を聞いたのは、春先の夕方だった。 「来月から、部署が変わるんです」 彼は淡々としていた。決まったことを報告しているだけの口調だった。私は相槌を打ち、そうなんですね、と返した。感情を挟む余地はなかった。 それからの時間は、少しずつ密度を失っていった。会話は減り、沈黙が増えた。雨が降った日の帰り道、彼は傘を持っていなかった。私は持っていたが、差し出さなかった。 善意なのか、踏み込みなのか。自分でも判断がつかなかった。ただ、何もしないという選択だけが、確実に安全だった。 駅に着くと、彼は立ち止まり、軽く会釈をした。 「じゃあ」 その背中を見て、呼び止めるべき理由はいくつも浮かんだ。けれど、どれも決定打にはならなかった。私は黙ったまま、見送った。 彼は一度だけ振り返った。何かを待っているようにも見えたが、すぐに改札へと消えた。 数日後、短いメッセージが届いた。 「あの時、名前を呼ばれると思っていました」 それだけだった。説明も、問いかけもなかった。私は返信しなかった。しなかったのではなく、必要がなかった。 私たちは何も始めなかったし、だからこそ、きれいに終わったのだと思う。 それでも、呼ばなかった名前だけが、今も静かに残っている。
話せる?
友人は、死ぬようなやつじゃなかった。 警察は事故だと言った。 雨の夜、足を滑らせて転落。 珍しくもない、と。 でも、あいつは高いところが嫌いだった。 そう言うと、刑事は手帳から目を上げず、「そうですか」とだけ答えた。 白いシートの下に浮かぶ輪郭を見ながら、僕は友人の名前を呼ばなかった。 呼べば、本当に死んだと認めてしまう気がしたからだ。 ⸻ 事件の三日前、僕らはコンビニの前に立っていた。 あいつは缶コーヒーを二本買い、一本を無言で僕に渡した。 「奢りだよ」 そう言って笑った。いつもの顔だった。少なくとも、僕にはそう見えた。 「最近どう?」 そう聞くと、あいつは少し考えてから「まあまあ」と答えた。 その言葉が、どんな意味だったのか。 今なら、考え続けてしまう。 僕はそれ以上、何も聞かなかった。 風が強くて、レシートが足元を転がっていった。 あいつはそれを踏みつけて、 「なくなるもんだな」と呟いた。 僕は笑った。 何が、とは聞かなかった。 ⸻ 夜中、何気なくスマホを眺めていて、 トーク画面の一番下に、それは残っていた。 未読のままのメッセージ。 『今から少し、話せる?』 送信時刻は、事件の前夜だった。 その時間、僕は起きていた。 ベッドの上で、どうでもいい動画を流していた。 明日でいい。 疲れている。 深い話じゃないだろう。 そのときの僕は、ちゃんとした理由を持っていた。 でも今、その言い訳は、どこにも行き場がない。 あいつは、言っていた。 言っていたのに、 僕が聞かなかっただけだ。 ⸻ 事件現場の前に立つのは、これで三度目だった。 花はもう置かれていない。 代わりに、空き缶がひとつ転がっている。 僕はそれを拾い、ポケットに入れた。 捨てる場所が、分からなかった。 事故だったのかどうか。 本当のことは、もう誰にも分からない。 それでも、 最後に残った言葉だけは、消えない。 『今から少し、話せる?』 僕はそのメッセージを、初めて既読にした。 返事は書かない。 書ける言葉は、もうない。 それでも画面を閉じる前に、 僕は小さく、名前を呼んだ。 風が吹き、 何も返ってこなかった。 それで、よかった
再会
駅のホームで彼の横顔を見つけた瞬間、私は時間の数え方を忘れた。 学生の頃、毎日顔を合わせていたはずなのに、最後に話した日の声だけが思い出せない。 それなのに、彼が前髪を耳にかける癖は、今も私の中で何ひとつ変わっていなかった。 社会人になって、名前のついた肩書きや、守るべき生活は増えた。 代わりに、あの頃の曖昧な期待は、ちゃんと仕舞い込んだはずだった。 彼がこちらに気づいて、軽く会釈をする。 それだけで胸の奥が熱を持つなんて、思っていなかった。 この再会が、懐かしさで終わるのか。 それとも、あの続きを始めてしまうのか。 まだ、私は知らない