名前を呼ぶ前に

その人の名前を、私は結局一度も呼ばなかった。 同じ方向へ帰るようになったのは、偶然だった。終業後、改札前で顔を合わせ、帰り道が重なると分かった。それ以来、特別な約束もないまま、私たちは何度か並んで歩いた。 会話は節度を保っていた。仕事の進み具合、上司の癖、最近できた店の話。踏み込まないことが、暗黙の了解だったのだと思う。互いに大人で、互いに慎重だった。 私は彼の名前を呼ばなかった。親しさを示すには簡単な行為だと分かっていたが、その一歩が関係を変えてしまう気がしていた。変わらないままでいることを、私は選び続けていた。 異動の話を聞いたのは、春先の夕方だった。 「来月から、部署が変わるんです」
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