Tentomushi
13 件の小説文を繋げる小説
「あれ、僕、鍵渡したっけ?」 訝しく思い、聞くとAちゃんは、にひっと笑って言った。 「どうだったでしょう?」 Aちゃんの手にしっかりと握られた鍵が、チャリ、と音を立てた。
第7回N1 白から
叔母さんが、亡くなった。 叔母は元・京都祇園の芸妓さんで、三年前結婚で引退し、地元である神奈川に帰ってきた。 叔母と僕は、すごく仲が良く、僕は叔母を「菊姐さん」と呼んでいた。母の姉で、名前が「菊」だったのもあるし、僕達がまるで、年は離れているが本当の姉弟のような仲の良さだったのもある。 休みの時は、家族でよく、母方の祖父母と菊姐さんがいる京都に行った。 まぁ、菊姐さんは芸妓さんだったので、休みが毎週末ある、とかいう訳ではなかったから、休み中京都に行っても、一、二日程しか会えなかったが、会った時は、二人で思い切り遊んだ。公園で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり。トランプや百人一首なんかもした。妹が生まれて、歩けるようになると、妹も一緒に三人で遊ぶこともあった。 僕は菊姐さんが大好きだった。 菊姐さんは元からずいぶん美人な人だったが、たまに見る、芸妓姿の菊姐さんは更に綺麗だった。 白粉と紅で彩られた顔と首筋の上に、漆黒の、島田髷に結ったかつらをつけて、鼈甲の櫛や紅い玉かんざしをさし、美しい絵柄が施された綺麗な色の着物に、金糸銀糸を織り込んだ立派な帯を締め、赤い襦袢をのぞかして颯爽と、しかし上品に歩く様はかっこよくて、憧れた。 小学二年までは、男はなれないということを知らずに、将来の夢は芸妓さんだ、と言っていたぐらいだ。 菊姐さんが舞妓さんの頃の姿は、僕はその頃まだ小さくて、あまり覚えていない。ただ、すごくきらきらしていた、という印象が残っている。 姐さんとは、文通もしていた。届いた手紙はいつも、生八ツ橋の空き箱に大事にしまって、とっておいた。 菊姐さんが神奈川に帰ってきてからは、僕らの家と菊姐さん夫婦の新居がすごい近所だったのもあり、お互いの家によく行った。 僕らは二人とも、映画、特に時代劇が好きで、お饅頭や煎餅などをぽりぽり食べながら、二人でソファーでくつろいで、観ていた。菊姐さんが、芸妓になろうと思ったきっかけも、時代劇だったらしい。 たびたび、僕は、妹と一緒に菊姉さんから踊り−−つまり日本舞踊を教えてもらったりもした。菊姐さんは、踊りの得意な芸妓さんだった。踊りが好きだったので、芸妓さんをやめてからも、踊りは日々練習していた。 「タカ、これ、結婚式で着た白無垢なんやけど。」 ある日、菊姐さん家で踊りを教えてもらって、少し休憩をしていると。突然、菊姐さんが言った。 菊姐さんの言葉は、京都にいた頃の、芸舞妓さんの言葉と標準語が混ざって、少し独特な言葉になっている。 「私ね、これ、喪服に仕立て直そうと思うてて。」 「えっ、喪服って黒じゃなくて?」 そう聞くと菊姐さんは、 「昔は、喪服は白やったでしょ?白って、〈死〉も表すけど、〈再生〉の意味もあるらしくてね。まぁ、死の穢れを祓う、みたいな意味もあるみたいやけど、おんなじ白い服を着て、あの世へ旅立つ人の不安を和らげる、って意味もあって。なんか素敵やなぁ、って思わへん?ま、あんまり着る機会はないかもしれへんけど。」 と白無垢をつるりと撫で、笑った。 「確かにそういえば、時代劇の喪服って、いっつも白かったね。そういう意味があったのかぁ。」 世界が少し、広がった気がした。 「昔は黒く染めるのが、大変だった、っていうのもあるみたいやけどね。平安時代の庶民とか。」 「ああ〜。」 けっこう現実的でもあるんだな、と思った。 「菊姐さん、じゃあさ、これ、どこで仕立て直してもらうの?」 僕も白無垢の、白い絹の光沢のある生地を触ってみた。 「京都の馴染みのとこに、久しぶりだし、頼もかなって思うてる。」 「おお、いいじゃん。」 「商店街の和菓子屋さんで豆大福買って持っていこうかなぁ。」 「よもぎ餅もいいんじゃない?」 「あっそうやね!」 二人でよもぎ餅や大福の美味しいあの幸せな味を思い浮かべて、つばを溜めていると。 「だからさ。」 ふいに、菊姐さんが言った。 「もし私がこの、喪服に仕立て直したあとの白無垢を着る前にあの世へ行ったら、私の代わりにタカが着てくれる?」 「えっ何言ってんの、菊姐さん!僕、男だし、自分の死装束にしなくていいの?というか、死なないでよ。」 面食らって思わず叫ぶと、 「せっかく仕立て直したのに、一度も人を見送れへんなんて、なんか可哀想でしょう?」 と真面目な顔をして、 「ははっ、ま、冗談、冗談どす。」 と笑った。 それは、十二月の、雪混じりの寒風吹き付ける、身が縮まるような日の朝だった。 母から電話で、高校の修学旅行で京都にいる僕のもとへ、菊姐さんが危篤だと知らせが来た。 菊姐さんは最近、肺炎を患っていて、病院で治療を受けていたのだった。 僕はすぐさま先生に事情を話して、泊まっていた旅館を飛び出し、神奈川行きの新幹線に乗った。 時間の一分一秒が惜しかった。早く早くと願った。持ち直してくれと願った。 だが、菊姐さんが入院している病院に駆け込み、病室に行くと、時はすでに遅かった。 菊姐さんの身体は、まだほのかに温かさを残しているだけで、中には何も入っていない、空っぽの感じがした。 頭が、真っ白になった。 それから、いろいろ手続きをして、いろんな人に連絡して、お通夜があって、明日はもう葬式だった。 葬式には、お通夜の時と同じように、普通に制服を着るつもりだった。 (もう明日が葬式……。) ハンガーにかけて壁に吊るした制服をぼんやり眺める。 (お葬式…。) 「ピリリリッピリリリリッピリリリリッ…」 突然、ベッドの上に置いた携帯の音が、部屋の中のぼんやりした空気を貫いた。 一瞬、びくっ、としてから、携帯を手に取る。画面を見ると、菊姐さんの旦那さんの、陽二郎くんから電話だった。 「…はい、もしもし、」 「あっ、もしもし、タカくん?ちょっとうちに来れる?今。菊ちゃんからタカくんに渡したいものがあるかもしれない。」 (あるかもって、どういうことだ。) そう思いながらも、僕は、わかった、と答えた。 「これなんだけどさ。」 そう言いながら、目を泣きはらして真っ赤にした陽二郎くんが出してきたのは、〈おあつらえ〉と書かれた、たとう紙に包まれたものが三つと小さめの風呂敷包みが一つだった。 「こんな書き置きが一緒に置いてあって。」 続いて、二つに折り畳まれた便箋を渡してきた。 手にとって、開いてみると、中には、菊姐さんの流れるような文字があった。 タカ、もし私が死んだら、やっぱりこれ着てもらえへんやろうか? タカに着てもらいたい。 女物で、すんまへん。 菊より 広い空間の中に、たった四行ほどの文字。 「いいよ、わかった。」 あの時の言葉は、どうやら冗談ではなかったらしい。半ば本気、だったようだ。 「えっ、本当にいいの⁉︎タカくん。」 少し驚いたようにいう陽二郎くんに、僕はうん、と頷いた。 「ありがとう、タカくん…。あっ、タカくん、着物着れる?」 「うん、着れる。菊姐さんに、教わったから。できなかったら、母さんに手伝ってもらう。」 「おっけ、よかった。でも菊ちゃん、女の人の着物の着方教えてたんだねー。タカくんに。」 「いいからいいからって言って、半ば強引に覚えさせられた感じかな。」 「はははっ、菊ちゃん…。」 そっとたとう紙を開くと、中には、純白の着物と帯と、半衿がついた長襦袢が畳んで入っていた。 真っ白な頭に、少し色が戻ってきた気がした。 その次の日、葬式に行くと、真っ白な着物を纏った僕を見て、皆がどよめいた。女物だもんな、とぼんやり思う。 母や父にも、菊姐さんの白い喪服を着る、と言った時驚かれて、止められた。妹はそんなに反対しなかった。 皆が黒い中、一人だけ白い僕は、目立っただろう。 白い着物、帯。帯揚げ、帯締め、半衿。足袋に、草履。顔には、白色の中際立つ男の肌の浅黒さを薄めるために、妹に人生初のファウンデーションを自然な感じで塗ってもらった。ついでに、薄桃色の口紅も、唇にほんのりさされた。そんな中、顔の中央には、存在感のある黒縁の眼鏡が陣取っていた。 気恥ずかしさは、ある。 でも、それ以上に、頭の中が白くぼんやりと霧がかっていて、あまり気にならなかった。 「菊ちゃんに、そっくりどすなぁ。」 菊姐さんの友達の、芸妓さんに言われた。 「こりゃびっくりだ。」 陽二郎くんが言った。 葬式は、つつがなく行われ、最後に、熱の中へと送り出された菊姐さんの身体は、骨になって帰ってきた。 骨を見ても、涙は出なかった。全てが、ぼんやりしていた。 葬式の後の食事会からは、少し早めに帰らしてもらった。 父も母も妹も、喪主である陽二郎くんも、皆が帰るまで残るつもりらしく、帰り道は一人だ。 家は歩いて行ける距離なので、なんとなく歩いた。道に、草履のパタパタという音が響いた。 ふと立ち止まって、横土手の下の川を眺めている時だった。 「よお、姉ちゃん。全身真っ白なカッコして、何?結婚式帰り?」 いきなり、肩をぐっ、と掴まれた。 なんだと振り向くと、金髪でちょび髭を生やした、いかにもチャラくて柄の悪そうな男と、その取り巻きみたいな、これまた派手な髪色をした男二人に囲まれていた。 「いや、葬式帰り。」 まぁ、穏便に済まそうと、とりあえず答える。 だが、男共は、僕の口から男の低い声が出てきたのに驚いたらしく、品のない大きな声を盛大にあげた。 「えっ、お前、男なの?なんだ、騙されたじゃねぇかよ。え、なんでそんなカッコしてんの、え、それ女のだよね、その着物。てか、なんで白いの、普通黒じゃね?」 男の口から次から次へと質問が飛び出してくる。その間ずっと肩を掴まれたままだし、うるさい。 「白い喪服もあるんだよ。」 答えるのが面倒なので、ただそう言って立ち去ろうとすると、男はなおも、 「え、なになに、どういうこと、白い喪服なんてあんの、てか俺葬式出たことないからわかんねー!」 と僕の腕を掴んでギャハハと笑い、 「てか、なんで女物なの、服。それ一番気になるんだけど。何それ、もしかしてお前オネエなの?」 と喋ってくる。 「うるさい。離せよ。」 思わず、呟いてしまった。 それを男共は敏感に聞き取った。 「あ?うるさい?」 「生意気な坊やだなぁ。」 どん、と肩を突き飛ばされ、僕は茶色に枯れた草で覆われた、土手に転がった。ところどころ覗く、溶けた雪で湿った土が、菊姐さんの喪服の白に、茶色い跡をつけた。 「何すんだよ!」 頭に血が登って、目の前が赤くなった。 それからは、乱闘になった。 こっちが殴りかかれば、あっちも殴りかかったり、蹴ってきたりする。何度も地面に転がされた。白い喪服は、さらに茶色に染まった。 頭のどこかでは、バカだ、と思っていたが、怒りが勝った。激しく動いて体が火照っていくと同時に、胸には灰青色のの気持ちが滲んで広がっていった。 近所の家の人か、歩いていた人が、僕らの様子を通報したらしく、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。 気づいたら僕は、泣いていた。 大声で、声をあげて、泣いていた。 胸は、灰青色でたぷたぷだった。 警察が来た。 男共から引き剥がされた。 父と母と妹が来た。 陽二郎くんが来た。 僕は、泣いた。 涙で、身に纏う茶色と白のまだらに、灰色が混ざった。 背中をさする母の手が、暖かかった。 泣いていると、だんだん、胸の中に溜まっていた灰青色が、涙と一緒に流れていった。 あとに残ったのは、淡い黄色がかった、まっさらな愛しい色だった。
俺と猫と
〔俺と猫とおばちゃん〕 俺は、ごく普通のサラリーマンで、ごく普通にマンションで一人暮らしをしている。いや、今は猫もいるから、一人と一匹暮らしか。 まぁ、マンション暮らしなので、当然ご近所さんもいる。 ご近所さん達との関係は別に悪くないと思う。朝会えば、「おはようございます」と言うし、日中会えば、「こんにちは」と挨拶するし、夜会えば「こんばんは」と言って、たまに世間話なんかしたりもする。 中でも、右隣の高田さんというおばちゃんには、お世話になりまくっている。 高田さんは旦那さんと二人暮らしの、普通のおばちゃんだ。おしゃべりで世話好きの、ドラマ、映画が大好きな人で、顔を合わせては、「このドラマ観たー?」とか、「ね、若いんだから、最近の子の中で流行ってるドラマとか教えてくれない?うちの息子に聞いてもさ、全然答えてくれないの。もう投げやりな感じでねー。」と、話しかけて来る。 いや、若いと言ってももうすぐ三十だぞ、とかは思うが、ある時そう言うと、「えー、若いじゃないの〜、なに言ってるの、まだまだでしょー。」と、背中をバシバシ叩かれて、「はい、これかぼちゃの煮物。あ、器かえすのは、いつでもいいから。」とおかずを渡された。 睦月が来る前のことである。 こんな風に、高田さんには食べ物をもらったり、いろいろお世話になっているのだが……まぁ、噂好き、おしゃべり好きで、世話焼き、そして遠慮というものが全くないおばちゃんなので、たまに、めんどくさいこともある。 例えば、「彼女いないの?」とか、「結婚は?」とか聞かれる。 無論、俺は現在、彼女も婚約者もいないので、「いません。」とか、「まだですねー。」と答える。 すると、「まだなの!結婚は早い方がいいわよー、子供はできたら可愛いし…そうだ、いい人知ってるわよ、私。紹介しましょうか?」と、流れるように喋り出すので、これにはかなり参る。いや、良い人なんだが。 睦月が来てから、一週間ほどたったある夜のこと。 仕事から帰って来て、帰り道にスーパーで買ったビールを呑みながら、睦月をなでなでしていると、「ピーンポーン」と、インターホンが鳴った。 「はーい。」 「あっ、高田ですー。」 モニターを見ると、高田さんがラップをかけた器を手に、立っていた。 「今出まーす。」 急いで缶ビールを机に置いて、少し髪を撫で付けたりして身だしなみを整えながら、玄関へと向かう。睦月もぽってりした脚を動かして、ついて来た。 「こんばんはー。」 玄関の扉を開けると、高田さんがにこにこしながら、手に持った器をずいっと差し出して来た。 「はい、これ、今日うちの息子夫婦と、孫息子が来ててね、晩ご飯かつおのタタキにしたんだけど、ちょっと多めに作ったから、はい、おすそ分け。」 うおっ、かつおのタタキとはまた、美味そうな。口の中に唾が溢れて来る。 「カツオ……!高田さん、そんな美味しいもの、ありがとうございます!」 睦月も足元で、かつおのタタキが分かったのか、「ニャーォ」と声を上げた。 それを聞いて、ふと、高田さんが俺の足下に目を向ける。 「あっらっんま!猫!あなた、猫飼い出したの!いつの間に!」 「あー、一週間ぐらい前に引き取りまして…。睦月っていうんです。」 「あらまぁー。」 高田さんは、しゃがみ込むと、しげしげと睦月を眺めた。 「ずいぶんと、太々しい顔してるわねー。なに?雑種?この子。」 「はい、雑種です。でも、綺麗な茶トラでしょう?こいつ。」 「そうねぇ、つやっつやね!」 大きく頷きながら、高田さんは手を伸ばして、睦月の赤茶色の背中や頭、喉を撫でた。睦月は、気持ち良さげに、目を細めて、喉をごろごろ鳴らした。それを見た高田さんは、ちょっと目を見開いて、 「あら、ずいぶん太った不細工な猫だと思ってたけど、結構可愛いじゃない。」 と言った。 高田さん、それは、褒めてるんでしょうか?それともけなしてる?いや、褒めてるんですね、きっと。 なかなか複雑な心持ちである。まぁ、確かに、睦月は「可愛い〜!」という感じではないが、でも、こいつなりに可愛いんだよなぁ。 「名前なんて言うんだっけ?この子。」 でも、どうやら高田さんも睦月の魅力に気付いたらしい。さっきからずっと撫でまくっている。 「睦月です。」 「睦月ね、睦月ちゃんね。」 「いや、一応オスです。こいつ。」 「分かってるわよ、オスっていうのは。」 高田さんの頬が、少し膨れた。たまーに、ちっちゃい女の子みたいなことするんだよなぁ、高田さん。たぶん、旦那さんもそこに惚れたんじゃないかと、俺は勝手に思っている。いつか、二人の馴れ初めを、聞いてみたいものだ。 少し、心の中でにやけていると、ふいに、はー、とため息が聞こえた。 「名残惜しいけど、私もう行かなくっちゃ。これからね、温泉行くのよ、みんなで。で、みんな、私を駐車場で待ってるの。あんまり待たしちゃったら悪いし……じゃあね、睦月ちゃん、また来るわね。」 高田さんが睦月の頭を撫でながら言った。 そしてまた、はぁー、とため息をひとつついてから、 「まったく、可愛い猫じゃないの。じゃあね、賢司くん、また来るわね。」 と手を振り、エレベーターへ向かおうとして、 「あっ、あなたも来る?温泉。気持ちいいわよー。」 と戻ってきた。 ずいぶん素敵なお誘いだが、明日の仕事に備えて、早く寝ないといけないので、俺は丁重にお断りした。かつおのタタキも食べたいし。 高田さんは、「あら、残念。」と、あまり残念がっていなさそうに軽く言うと、「じゃ、またね。」とまたエレベーターに向かいかけ、「あっ、そうだった、ダイエットの為に階段使おうって決めてたんだった!」と言いながら、ぱたぱたぱたっと戻ってきて、またこちらへ手を振りながら、階段をバタバタバタッと降りていった。 慌ただしいおばちゃんだ。 でも、どうやらずいぶん睦月のことが好きになったらしい。 次来る時はきっと、削る前の鰹節を一本丸々持って来るんじゃないだろうか。 どうやら“猫バカ”、いや、“睦月バカ”仲間が増えたようだ。
俺と猫と
〔俺と猫と水遊び〕 猫とは。 ふさふさで。 短髪で。 ふかふかで。 つやつやで。 繊細で、臆病で。 人懐こくて、しなやかで。 気まぐれで、マイペース。 そして、水嫌い。 だと、つい最近まで思っていた。 のだが。 どうやらこいつはそうではないらしい。 いや、気まぐれでマイペースで、つやつやの短髪ではあるのだが。 つい先日、猫を飼い始めた。 よく行っている、保護猫カフェから引き取った猫で、名前は睦月という。カフェのお姉さんから聞いたところでは、一月に見つけて、保護した猫だかららしい。 睦月は捨て猫だったそうで、ある公園の滑り台の下に、みかんの段ボール箱にうずくまって寝ていたとか。雪が積もるような、寒い日だったのに、どっしりと気持ち良さげに寝ていたらしい。肝が太いのか、感覚が鈍いのか……。 分からないが、捨てられる前はずいぶんいい暮らしをしていたらしく、恰幅の良い体つきで、茶トラの毛並みも、つやつやとしている。人にも別に怖がったり警戒することもなく、いつもどっしりと構えて、だいたい寝ている。おもちゃを目の前にちらつかせても、その気にならなければ、絶対反応しない。 睦月は、そんな猫だ。 あっ、でも、紙袋とかに入るのは好きだな、そういえば。 ちなみに、寝ていた段ボール箱の中には、一緒に〈説明書〉と題された紙が入っていて、年齢と、種類と、誕生日が書かれていたそうだ。何故か名前はなかったらしい。その〈説明書〉によると、睦月は六月一日生まれの、二歳と、意外と若い。種類は、雑種である。 だが、まだまだ若いくせに、こいつの面構えはなんとも太々しく、そして、滅多に甘えてこない。 なでなではさしてくれるし、ずいぶん気持ちよさそうな顔をするが、絶対に甘えるようなことはしないのだ。 ……まぁ、別にいーんだが。 睦月は睦月だし。 睦月が初めてうちに来た夜のことだった。 さて、寝ようか、と洗面所に行き、歯を磨いていると、睦月がやってきた。 相変わらず、太々しい顔で、「何してんだ、お前。」みたいな顔で見上げて来る。 「歯磨いてんだよ。」 そんなことを言ってみながら、口をゆすごうと、蛇口を捻って水を出す。 サーッというような音を出しながら、水がほとばしり出た。 手に窪みを作って水を溜め、口をゆすぐ。 すると、ふいに横から、赤茶色のぽってりとした前足が、流れる水をちょいちょいっ、とつついた。 ん?と横を見ると、睦月が興味津々な顔をして、水を見つめている。そしてまた、ちょいちょい、と、水をつついて、首を傾げた。 うわ、可愛い……。 思わず、じっ…と見つめてしまう。 また、睦月が水を、ちょいちょいっとつついて、掴もうとした。だが、水はただ、下へ落ちて、流れて行く。 それにイラッとしたらしく、今度は両前足を使って捕まえようとした。が、水はただ、睦月の足を超えて、流れて行く。 「ウニャァーオ。」 睦月はそれにますますイラッとしたらしく、水をバシバシバシ、と叩いた。 しかし、水は、気にせず、ただただ流れ行く。せいぜい、睦月の足先を濡らしたくらいだ。 睦月は、濡れた前足をぶるるっと振って、水を飛ばした。その水が俺の顔にかかる。 「おい、睦月ー。」 言っても、まるで気にせずで、また、水をちょいちょいちょいっとやったり、叩いたり、噛みつこうとしていた。 そのうち、そろそろと流しの中に入り、二、三回ほどくるくると回ると、ゆっくり腰を下ろして、うずくまった。“流しの中”に。 俺は、困った。 これじゃあ、顔も洗えないじゃないか。 「おーい、睦月、どいてくれ、顔が洗えない、」 そう言っても気持ち良さげに目を細めて、ゆったりとうずくまっている。 「もー。」 どうしても退かないので、そろそろと体の下に手を入れて、持ち上げようとすると、怒って引っ掻かれた。しかも、恰幅がいいだけあって、重い。でかいし。 「おいおいおい…睦月…。」 はーっとため息をつく。 そして、退くまで少し待ってみることにした。 その間は暇なので、携帯を取り出して、写真を撮る。流しで寝られると、迷惑極まりないが、やっぱり、可愛いので、ついつい写真が撮りたくなってしまう。 だが結局、いつまで経っても睦月はそこから退かず、その夜、俺は台所の流しで顔を洗うことになった。 それから睦月は、毎日、洗面台の水を出すたびに、音を聞きつけやって来て、水と遊ぶ。いや、戦ってるのか。そして、お終いにはいつも満足げな顔をして、流しの中で寝るのだから、俺はいつも台所で顔を洗うはめになっている。 まぁ、ただ洗面所の扉を閉めるかすればいいだけの話なのだが……そうすると外から、入れろ入れろと、カリカリと扉を引っ掻く音がするので、それが可哀想で俺にはできないのである。なので、俺はいつも洗面台を睦月に明け渡してしまう。 それに何より、睦月が〈水遊び〉をする姿が可愛いすぎるのだ。 睦月が水と戦い始めるたびに、俺はいつも写真を撮ってしまう。 おかげで、俺の携帯の中の最近撮った写真のほとんどが、睦月が〈水遊び〉をしている写真で占められている。 ……まぁ、つまり、“猫バカ”ってもんなんだろうな、俺は。
犬
森を走る。 犬と共に。 雨が降った後の、冷たい空気を吸いながら。 足元の落ち葉は、ふかふかで、湿っていた。 濡れた倒木に生えた苔は、鮮やかに緑で、柔らかい。 犬が棒を見つけて、咥えてはしゃぎ回る。 垂れた耳を、鳥の羽のようにパタパタさせながら。 足取りが、るんるん踊っていた。 尻尾も高く上げられて、 右に左にと揺れ動く。 犬が咥えた棒を、掴んでみる。 犬は、手を離させようと、咥えた口をぶん、ぶん、と振り、ぐいっ、ぐいっと後ろへ後退して引っ張った。 だが、こちらも負けじと離さない。 そのうち、ぽきっと枝が折れた。 自由になった犬は、折れた枝の片割れを咥えて、走る。 湿った冷たい空気が心地良い。 ふと香った風が、秋の匂いだった。
ブレーメンの音楽隊
昔々、あるドイツの村に、一人の若い農夫がおりました。 農夫は独りで、ただ、一匹のロバと雌牛と、何羽かのニワトリと共に、細々と暮らしておりました。 しかしある時、農夫は流行病にかかって、とうとう死んでしまいました。 さて、残された動物たちはというと、皆、それぞれ何人かの村の者に、貰われていきました。 雌牛は、左隣の赤毛のフックス一家に。 ニワトリ達は、右隣のシュタイナー夫妻に。 そして、ロバは五軒ほど先の、頑固者のボックの旦那のところへ。 ボックの旦那は、ただ頑固なだけでなく、それまでの人生で恋人にふられたりなどして、長い間独りで生きてきたためか、動物、特に家畜への当たりが強い人でした。 もし、たとえばロバがちゃんと働かないと、イライラして鞭でビシバシ叩いたりするのでした。 そんなボックの旦那の恐ろしさは、動物達の間ではとても有名で、特に馬、牛、ロバなどの労働を請け負う動物達は、ボックの旦那のところに行くことにならないように、と願っておりました。 もちろん、この、若い農夫のだったロバもそうでした。 (あの旦那のところにもらわれるだって?!冗談じゃない。) どうにかして逃げ出せないかと考えていますと、ふと、農夫が死ぬ前に、ある、一匹のネズミが言っていたことを思い出しました。 『昔、年老いたロバが、ひどい旦那のとこから逃げ出して、犬と猫と雄鶏と一緒に音楽家になりに、ブレーメンへと行ったんだよ。』 (そうだ、僕もおんなじように、ブレーメンへ行って音楽家になろう!) ロバは腹ごしらえに、飼い葉桶の藁を食べながら、誰かやってきて、ロバ小屋の扉を開けてくれるのを待ちました。 飼い葉桶の藁がほとんどなくなった頃。 ロバ小屋に、ボックの旦那がやってきました。 ロバは注意深く旦那を見ると、旦那が扉を開けて中に三歩ほど入ってきた途端、だっと駆け出し、旦那が捕まえる間もなく、外へと逃げ出しました。 後ろから、ボックの旦那の「待てぇ!」と言う声が聞こえてきましたが、ロバは走って走って走りました。 やがて、村外れまでやってきたところで、一匹の犬が、舌をハアハア出して、うずくまっているのに出会いました。 『犬くん、犬くん、どうしたんだい?そんなところにうずくまって。』 ロバは聞きました。 『いやぁ、最近鼻詰まりでね、鼻が前のように効かなくって。そしたら僕の相棒の猟師がそれを年のせいだと勘違いして、もういらないから殺してしまおうって言うから、必死で逃げ出してきたんだ。』 犬は情けなさそうに言いました。 『それなら、僕と一緒にブレーメンに行って、音楽家にならないかい?君はティンパニを叩いたらいいよ、僕はリュートを弾くから。』 『ティンパニかぁ。いいかもしれない。じゃ、僕も行くよ。』 二匹は連れ立って、てくてくと歩いていきました。 道々、犬が聞きました。 『あんたはどうして音楽家になろうと思ったんだい?』 『主人の農夫が死んじゃって、あのボックの旦那にもらわれることになったから、逃げてきた。昔一匹のロバが犬と猫と雄鶏と一緒にブレーメンに音楽家になりに行った、って話を思い出してね。』 『そりゃぁ災難だったな。でもこれで、犬が加わったわけだな。これからよろしく。僕はカールって名前だ。あんたは?』 『僕には名前はないんだ。まぁ、ロバとでも呼んでくれ。』 しばらく行くと、今度は一匹の猫が、しょぼくれた顔をして道端に座っていました。 『やあやあ、猫のご婦人。ご機嫌よう。そんなしょぼくれた顔して、どうしたんだい?』 ロバが聞くと、猫は、 『私ももう年で、体力もなくなってくるし、歯もすり減って、昔のようにネズミを取るのも大変になってしまって。だから、暖炉の前でうずくまってる方が良かったんだけど、そしたら、うちのおかみさんが、もうそれじゃぁ役に立たないって言って、桶の水につけて殺そうとするから必死で逃げてきたんだよ。で、これからどうしようかと、考えあぐねていたのさ。』 と、悲しげにニャァーオゥゥと鳴きました。 それを聞いてロバは言いました。 「それなら猫さん、僕たちと一緒にブレーメンに行って、音楽家にならないかい?君は夜想曲がわかるだろう?』 『音楽家かぁ……そうね、そうしようかい。楽しそうだし。私の名前は、ソフィーエだよ、自分でつけたんだ。』 三匹は連れ立って、てくてく、猫のソフィーエだけは尻尾を揺らしながら優雅に歩いていきました。 道々、ソフィーエが聞きました。 『あんた達は、どうして音楽家になろうと思ったんだい?』 『僕は、ご主人が死んじゃって、そのあとひどい旦那にもらわれそうになったんだけど、ふと昔、ロバが一匹、犬と猫と雄鶏と一緒に音楽家になろうとブレーメンに行った話を思い出して、僕もそうしようと逃げ出したのさ。』 ロバが言いました。 『僕は、鼻詰まりでちょっと鼻が効かなくなっちゃったんだが、相棒の猟師がそれを年のせいだと勘違いして、もう役に立たないから殺してしまおうと言うんで、逃げ出してきたんだ。あと、僕はカールって言うんだ、よろしく。』 犬が言いました。 『おやまぁ、そりゃあ災難だったねぇ。でも、これで、猫も揃ったわけだね。これからよろしく、カールと……あんたの名前は?ロバの旦那。』 『僕に名前はないよ、ロバとでも、呼んでくれ。』 そう言うロバに、 『自分で名前をつけたらどうだい?』 と猫が言いました。 またしばらく行くと、大きな農場が見えてきました。 農場の門には、一匹の雄鶏がとまっていて、まるで世界の終わりのように、声を限りに鳴いていました。 『どうしたんだい?雄鶏くん。そんなに大きな声で鳴いて。まるでこの世の最後とでも、言うようじゃないか。』 ロバが聞きました。 すると雄鶏は、 「今日は、大事なお客さんが来るって言うんで、おかみさんは俺の首をちょんぎって、丸焼きにしようって言うんだよ。だから首を切られる前に、肺を最大限に使って鳴いているのさ。』 と答えました。 『それなら雄鶏くん、僕たちと一緒に来ないかい?僕たちはこれから、ブレーメンまで行って、音楽家になろうとしてるんだよ。君はいい声を持っている、僕たちと一緒に音楽をやれば、きっと素晴らしくなるよ。』 『たしかに、それはいいかもしれない。』 雄鶏は賛成して、三匹と一羽は先を急ぎました。 一行は、今日中にブレーメンに着きたかったのです。 道々、雄鶏は聞きました。 『お前さん方は、どうして音楽家になろうと思ったんだい?』 『僕のご主人が死んじゃって、そのあと恐い旦那にもらわれそうになったんだけど、昔、一匹のロバが犬と猫と雄鶏と一緒に音楽家になろうとブレーメンに行った話を思い出してね、それで僕もそうしようと逃げ出したのさ。』 とロバが言いました。続いて、今度は犬のカールが、 『僕は鼻詰まりでちょっと鼻が効かなくなったところを、相棒の猟師がそれを年のせいだと勘違いして、もう役に立たないから殺してしまおうって言うんで逃げ出したら、このロバくんに会ってね。一緒に音楽家にならないかって誘われたんだ。』 と言いました。 『私はもうこの通り年をとって、ネズミを捕まえるよりも暖炉の前のあったかいところでいる方が好きになってしまって。そしたら、うちのおかみさんが、もう役に立たないからって水を張った桶に突っ込まれて殺されそうになったから、命からがら、逃げたのさ。そしたらロバさんと犬のカールさんに出会って、音楽家にならないかって誘われたから、一緒についてきたんだ。』 カールに続いて、猫のソフィーエが言いました。 『ほおぅ、そりゃあ皆さん災難だったねぇ。でも、それじゃ、ロバさんの話からすると、これでみんな揃ったわけだね。皆さんこれからよろしく。俺は、粋なペーターって呼ばれてんだ。』 『私はソフィーエだよ。』 と猫。 『僕はカール。』 と犬。 『僕には名前がないから、ロバとでも、呼んでくれ。』 と、ロバ。 『ふーん、なら俺がつけてやろうか?そうだな……キッキリーンとか、どうだ?』 瞳をきらっと輝かせながら、雄鶏−−粋なペーターが言いましたが、その名前にロバは、 『ありがとう。でも、遠慮しておくよ。』 と苦笑いしました。 三匹と一羽は、時折休みながら、てくてくと歩いていきましたが、やがて、森の中ほどまで来たところで、日が暮れてしまいました。 『仕方がない、今日はここら辺で休もう。』 一行は近場に一本の大きな木を見つけると、それぞれ居心地のいいところを見つけて、落ち着きました。 ロバと犬は、木の根元に。 猫は、太い下の方の枝の付け根に。 そして、雄鶏は、木のてっぺんの方に、飛び上がってとまりました。 皆、長いこと歩いたので、すぐに眠りへと落ちていきました。 * * * 真夜中、月が空の一番高いところに浮かんでいる頃。 雄鶏が目を覚まして、一声かん高く鳴きました。 『みんな、起きろ!あっちの方に灯りが見える!』 それを聞いて、ぐっすりと深く眠っていた三匹は、飛び起きました。 皆やはり、できればちゃんとした屋根の下で眠りたかったのです。 一行は、すぐに灯りの方へと出発しました。 ところがです。 灯りの方へ行く道が、なんだか変なのです。 さっきまで森の中にいたはずなのに、木がたくさん生え、落ち葉に覆われた急な斜面があってずるずる滑るし、それをやっとこさ下り終えて、平らなところに出たと思ったら、今度はいきなり、なにやら短い草が一面に生えた泥沼に落ちこみ、みんなして泥だらけになりながら、ほうほうの体で硬い地面に出ると、そこは細い道なのでした。 さらにおかしなことに、空気が変にムシムシして、暑いのです。 そんな慣れない気候と泥のせいで、ロバは汗だく、犬は下をだらりと垂らしてハアハアと喘ぎ、猫の優雅に揺れる尻尾は下に垂れ、雄鶏の立派な尻尾と美しい羽は、すっかり泥に覆われて台無しになってしまいました。 さて、一行が灯りの元へ着くと、それは家ではなく、白く煌々と輝く、一本の街灯でした。 その街灯から、少し離れた場所に、また一本同じ街灯が、それからまた一本街灯が、と立っていて、前に走る道をまるで昼のように、とは言い過ぎですが、それぐらい異様に明るく照らしていました。 照らされた道は、一面黒く硬くて、ぼこぼこしていました。砂利道のようではありませんし、石畳とも違います。 『なんなんだい、ここは。』 猫のソフィーエが言いました。 『分からない。』 ロバが言いました。 『まったく、俺の綺麗な羽はどろどろだし、もう散々だよ。』 雄鶏が言いました。 少しして、あたりを見回しながら、匂いをふんふん嗅ぎ回って様子を調べていた犬のカールがやって来て、 『あっちに灯りのついている家がありそうだ。とりあえず、行ってみないか。』 と提案しました。 灯りのついている家まで辿り着くには、草の生えた斜面を降り、垣根を越えるか、すり抜けるかしなければなりませんでした。 『僕には通り抜けられないよ。』 ロバが言いました。 『僕の体は大きすぎる。』 そこで、一行は、ぐるりとその家と隣の家の間の小道を通って−−この小道も硬くてぼこぼこして、ところどころガリガリの浅い穴が空いている、変な道でした−−反対側に回ることにしました。 反対側に回ると、どうもそちらが家の正面だったようで、門がありました。 門には鍵はかかっておらず、ロバが足で押すと、キィ…と簡単に開きました。 周りの家の窓が全て暗く、しん……と静まり返っている中、この家の窓は、煌々と灯りがついていました。 そう、“煌々と”です。まるで、昼のように明るかったのです。 「どわっはっはっはははは!」 いきなり、ものすごい笑い声が、騒がしい音楽と共に聞こえて来て、一行は、飛び上がりそうなほど驚きました。 『にゃぁっ!なんなんだい!』 『ロバくん、様子を見れるかい?』 一番体の大きいロバは、前足を窓の縁にかけると、中を覗き込みました。 中に見えたのは、一人の見慣れない服を着た、若そうな男が床にあぐらをかいて、金属の丸い筒のようなものを片手に、大きな四角い窓の中の人々と一緒に笑っているところでした。 『なんだ?なんか……なんだ?』 ロバの戸惑う声を聞いて、 『見せてくれ。』 と犬がロバの背へ飛び上がって、よじ登りました。 それに続いて、今度は猫が犬の背中に飛び乗りました。 お終いには、雄鶏が、バサササっと猫の背中に飛び上がりました。 『なんだ?あの筒。』 犬のカールが言いました。 『地べたに座るなんて、まるで猫みたいねぇ。』 猫のソフィーエが言いました。 『あのでっかい四角いものは、一体なんなんだ?』 雄鶏の、粋なペーターが首を傾げました。 『不思議だよねぇ。』 そうロバが言って、もっとよく見ようと窓枠にかけていた足を、窓に置いた途端、 バリリッ そんな音がして窓が、破れました。 割れたのではなく、破れたのです。 ロバは体勢を崩し、背中に乗った仲間達もろとも、皆でヒーヒー、ギャンギャン、ニャァオニャァオ、ココケコケーッとものすごい悲鳴をあげながら、部屋の中へと転がり落ちていきました。 「うわぁぁぁっ」 一行が、体勢を立て直していると、目の前に、四角い物を見ていた、あの若い男が腰を抜かしていました。 「ロ、ロバ?と、ワンニャンと鶏ぃ?……か…なんや…お化けかと思ったー、はー、びびったぁ。」 乱入者の正体が分かって、男は少し落ち着いたようで、ふぅ、と肩の力を抜いて、 「あんたら、どうしたんや、網戸突き破って来て。」 と聞きました。 『俺達は、音楽家になろうとブレーメンへ向かってるんだけど、一夜を明かそうとした木から灯りが見えたから、一晩泊めてもらえるかもと思って来たんだ。』 事情を説明する雄鶏ペーターに続いて、猫がうんざりしたように言いました。 『そしたら、なんかムシムシだし暑いし、泥沼にはまるし、変な光の街灯があるし、わからないことだらけで。一体ここは……』 『待って、ソフィーエ、人間には、僕達の言葉はわからないよ。』 いきなりロバが遮りました。 しかし、男が言いました。 「わかるで、僕は。」 動物達は、びっくりして、一瞬固まりました。 そんな人間にあったのは、初めてだったのです。 それから一行は、男に色々なことを聞きました。 まずここはどこか、何なのか。 四角い不思議な物体は何なのか。 丸い金属の筒は何なのか。 異様に明るい光は、硬い道は何なのか。 男は誰なのか。 そして知ったのは、ここはドイツではなく、ドイツよりももっともっと東の国の、「日本」とかいう国で、四角い物体は「テレビ」という物、丸い筒は「缶」ビール、光は「電気」という火ではない灯り、道が硬いのは、「コンクリート」という砂利や小石や砂、石灰、水などで出来たもので覆われているということ、そして、男は「アキラ」という、「ロックミュージシャン」とかいうのを目指す、今は「万引き」をしている人だということでした。 『万引きって何だい?』 猫が聞くと、 「あー、なんや、泥棒や盗賊とおんなじようなもんや。」 と男は、恥ずかしげに頭をガシガシかきながら答えました。 男−−アキラもまた、動物達に色々聞いて来ました。 どこから来たのか。 帰る場所は。 名前は。 どうして動物なのに音楽家になるのか。 また、違う人間の言語を、どうやって理解しているのか。 動物達とアキラは、夜が明け始めるまで話し込み、その結果、分かったのは、どうやら、一行は−−もう、これをお読みの皆さんは気付いているでしょうが−−おおよそ二百年後へと時空間移動、つまり、タイムスリップをしてしまったようだ、ということでした。 その場所がなぜドイツではなく日本だったのかは、よく分からずじまいでした。 そのあと、アキラを一行が寝た場所に連れて行ったところでは、そこはよく神隠しがおこっているあたりだ、とのことでした。 動物達は、帰り方も分からないので、しばらくアキラの家に居ることにしました。 アキラは盗賊ということでしたが、悪い人間には見えなかったのです。 * * * さて、その後、ロバ、犬のカール、猫のソフィーエ、雄鶏のペーターは、どうなったのでしょうか。無事に元の場所へ帰れたのでしょうか。 それは私はよく知りません。 ですが最近、ある関西のロックバンドの人気が鰻登りに上っているとか。 なんでも、ロバのギタリスト、犬のドラマー、猫のピアニスト、そして雄鶏と人間のボーカルでやっていて、その名も「ブレーメンの音楽隊」というそうです。 そうそう、近所のネズミ君から聞いたところでは、ロバの旦那は、アキラから、「そら」と言う名前をもらったそうですよ。
うららかな陽の光の中で
ぽかぽかの陽の光の中に、浮かんで寝ていられたら、どんなに幸せだろう。 うららかな、春の光に包まれて。 冷たい風に、身を縮めることもなく。 じめじめした空気でベタベタする汗をかくこともなく。 お腹も心も満たされて。 肌触りのいい軽い服を纏って。 優しい黄色い世界の中で、 ほかほかの暖かさ中で寝ていられたら。 −−−だが、普段は地上に降りていたいものだ。
透明
恐ろしいほど美しく澄み渡った、透明の水の底へ底へと落ちていく……… 顔の両脇で、二つに結んだ長い黒髪が、水のゆらめきに合わせてゆらゆら踊った。 上へと向けられた二つの瞳は、水中を通して舞い込んでくる、たくさんの大小の虹色の泡玉と、小舟の黒っぽい影を、ぼんやりと見つめていた。 冷たくもなく、温かくもない、ぬるい水の中、その影へと手を伸ばしてみる。 五本の白い指の間から、眩しい太陽の光が差し込んで、顔の上で、ゆらゆら揺れた。 身体が、沈む。落ちて行く………緩やかに…ゆるゆる…… 下へ下へと水を切って進む身体の重みの下で、押しのけられた水が、細かい泡を吐き出しながら、肌をなでていく。 心地いい。 恐怖は、感じない…… 恐くは、ない…。 あたたかい…安心感…… 水上で、 「せいちゃん、せいちゃん!」 と必死に呼ぶ、親友の声が、くぐもって聞こえた… ぼんやりしていた…… 頭の中が。 何も、思わない。 ただ、自分にふれる、ひたすらに透明な水と、虹色に光る泡が、心地よかった。 バチャッ、と水音がする。 なんだか、怒鳴り声も。 頭の片隅で上に行かなきゃ、と思う。 息が、苦しい、とも、叫んでいる。 もう限界だ!と、肺も必死に言っていた。 遠くで、ドボンッ!という音が聞こえた…… だが、全てが、心と感覚の外に在った。 * * * その日、せいは親友のノエちゃんと航平と一緒に、ピロティーに座って昼ごはんを食べていた。 まだ五月上旬だというのに、外は日の光が強くて、暑いし、肌が痛い程だった。 「航平は今日は何買ったの?」 「今日も、焼きそばパンとカツサンド!なんか最近ハマってもうてん。」 航平は、いつも購買でお昼を買う。ごくたまに、お弁当を持ってくることもあるが、ほとんど買って食べている。 「最近っていうか、昨日からじゃん。」 そうせいがつっこむと、航平は、 「まあなー。」 と言いながら、カツサンドにかぶりついた。 「ノエちゃんは今日三食弁当か。旨そー。で、せいは…いつもののっけ弁な。トマトに白和えに……うおっ、唐揚げやん!一個貰えへん?」 唐揚げをじーっと見つめる航平に、「いいよ、“一個だけ”ね。」と答えながら、せいは、 「ノエちゃんもいる?」 と聞いた。 ノエちゃんは、瞳をきらっとさせて、 「いいの?ありがとう。」 と、お弁当箱の蓋を差し出してきた。 (ノエちゃん唐揚げ好きだもんね) せいはにこにこしながら、唐揚げを乗せる。その後、自分のお弁当箱の蓋にも唐揚げを一つ乗せて、航平に渡した。 「サンキュ。」 航平はにかっと笑ってがぶりと一口で、半分食べた。 その横で、ノエちゃんもちびちびと美味しそうに食べている。 「なあ、僕この前学校の裏の林抜けたとこに、湖みつけてん。」 唐突に、航平が言った。 「「湖?」」 ノエちゃんとせいの声が重なった。 「めちゃくちゃ綺麗でさ、池って感じちゃうねん。今日みんな部活ないし、行ってみーひん?」 * * * ふっ と、軽くなった。息が、だろうか、身体が、だろうか。 * * * 「うっわぁ。」 「綺麗…。」 「やろ?」 感嘆の声を上げるせいとノエちゃんに、航平がふふんと得意げになる。 「でな、あっちに小舟があって、乗れそうやねんけど。みんなで乗らへん?」 「え、でも、ここ神様いるんでしょ?いいのかな?そんなことして。」 「え、神様?」 「ほら、あそこ、祠がある。」 ノエちゃんが指差す先を見ると、その小舟から少し離れた草むらの中に、確かに、小さな祠がぽつんとあった。 「ほんとだ。」 「ほんまや!」 「じゃあさ、お参りして挨拶してから乗ろうよ、船。」 せいが提案すると、ノエちゃんは「そうね」と頷き、航平は「そうやな」と早速祠へと歩き出した。 「ついでに、祠の周りの草も抜いておこうか。」 ノエちゃんが言った。 湖に小船を出すと、三人は靴と靴下を船の中に入れ、湖の中へとバシャバシャ入っていき、それから、小舟へ乗り込んだ。 「ひゅー、気持ちええー。」 航平が櫂を手に取って、水の中へ差し入れながら言った。 「涼しいねー。」 「うん、風が気持ちいいー。」 湖の上は、時折風が吹いて、水面にさざなみを立てた。 しばらく三人は、周りの林や草はらを眺めたり、澄んだ水の中に手を入れて揺蕩わせたり、肌の上を吹いてゆく風を楽しんだり、木々のざわめきに耳を澄ましたりと、街中では味わえない、非日常を楽しんだ。 「こんな綺麗なところが学校の裏にあったなんてねぇ。」 ノエちゃんが、ぼそっと言う。 「それな。また時々ここ来ーへん?学校の後とか、休みん時でもいいし。」 「いいねー。」 「そうだねー。」 三人とも、だらだらしていた。 風が気持ちよかった。 「それにしてもさ、航平、船漕げたんだね。」 そう言いながら、せいが船の縁に寄りかかった時だった。 ずるんっ 視界が反転して、え?と思った時には、ドボン…という音がして……… あたりが透明だった。 * * * いつのまにか閉じていたらしい瞼を開けて、周りを見ると、A5用紙ぐらいの大きさの、変な生き物がいた。 少し青みがかっていて透明で、ナマケモノが四つ足で立ってるような身体で、顔は人間とナマケモノを合わしたような、のんびりしていて、少し不気味だった。 全身透明だが、内臓なんかは見えなくて、一体どういう生き方をしているのだろうと思う。 そんなのが、せいの周りにいっぱいいた。浮かんでいた。 「君たちは、何?」 口から泡を出しながら聞くと、 『透明です。』 と、それらは、口を揃えていっせいに答えた。 「うん?と、うめい?って?」 何のことなんだ? ………え…名前? 「透明って…君たちのこと…?」 『透明です。』 せいが聞いても、その変な生き物達は、同じことを繰り返すだけだった。 「いや……でも、君たち、“透明”って言っても、青っぽい……」 『透明です。』 心なしか、その変な生き物達−−透明?の口調が強くなった気がした。 「おお…わかったわかった……。」 せいが頷くと、その、“透明”達の身体から、しゅわしゅわしゅわぁ、と、細かい泡が飛び出して、上へと昇っていった。 「どうした?」 なんだか、彼らがそのまま消えていってしまう気がして、思わず問うた。 すると、そのしゅわしゅわという音に紛れてかすかに、たくさんの声が聞こえてきた。 『嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい………』 ああ、喜んでいるのか。 そうわかって、せいは何故だか少しほっとした。 「ところで、ここは?どこ?」 ふと、気がついて、辺りを見回す。周りは、どこまでも明るく透明で、至る所に虹色の光がゆらめいていた。“透明”達は、せいの周りを、そののんびりした顔で取り巻いていた。最初に見た時から、顔色ひとつ変わっておらず、ただ、のんびりと微笑んでいた。 「ね、ここはどこなの?」 また訊ねても、“透明”達は、ただ微笑んでいるだけだった。 「おーい。」 その時、せいは、自分の髪の毛が、ふわふわ浮いて、自分の動きに合わせてゆったりと動いていることに気がついた。 お? そして、肌になんだかゆったりとした穏やかな流れを感じるのにも気づいた。 ああ。 すとん、と、ここがどこだかが分かった。 「ここ、水の中ね。」 『そう。』 “透明”達がやっとまた、口を開いた。 「あっ、じゃあ、私……あれから生きてるのか………。いや、それとも、ここは天国なのかもしれない。」 せいは呟いて、少ししてから、自分の生死を確かめようと、自分の腕を掴んだ。 だがしかし、あいにく水の中ということもあって、自分の肌が冷たいのか温かいのかよくわからなかった。 「ね、私、生きてるの?」 うすうす答えないかもしれないと思いながらも、せいは聞いてみた。 −−−案の定、“透明”達は、それに答えなかった。ただ、微笑んでいるだけだった。 ……が。 『おいで、おいで……着いておいで…』 そうせいを呼びながら、“透明”達は、次々にくるりくるりと身を翻し、すーっとなめらかに透明な水の先へ先へと泳いでいった。 「あっ、待って、」 せいも急いで追いかけようと、足を一歩踏み出した。不思議なことに、まるで地面の上や空気の中を歩いているように、驚くほど滑らかに歩みが進んだ。 “透明”達は、止まることもなく、透明の輝く水の中を、一定の速さで進んでいった。速すぎもせず、遅すぎもしない。気持ちよさそうに、目を細めて、泳いでいた。 水は、どこまで行っても透明で、明るかった。 目の前を、魚が一匹、二匹、通り過ぎていった。 “透明”達の通った後には、細かな薄青い泡が、尾を引いていた。 太陽の光と水がぶつかりあって、七色に光る玉を生み出した。 その中を、二つの長い黒髪の束を引きながら、一人少女が歩いていった…… 「せいちゃんっ!」 「おーい、せい!……起きねぇな…しゃあない、引き上げるか。ノエちゃん、船の反対側行ってもらっていい?思いっきり体重かけといて。」 「おっけ、わかった。」 気がつけば、水面に浮いていた。 顔に、日が当たって、暑い。水に入っている身体だけは、心地良い涼しさを感じていた。 「おし、いくでー!よ、いっっ………せっ!」 いきなり、脇の下をガシッと掴まれ、一気にザバァッ、と水から引き上げられると、なんだか硬いものにドサッ、と置かれた。 うっ、腰が痛い……ズキズキする……。 「おっしゃぁ!は〜重かったぁ。」 「ちょっと航平、もうちょっと優しく置いてあげてよ。」 「えーそう言われても……。」 −−目を開けると、光が眩しくて、あたりが緑に見えた。 「あっ、せいが目開けた!」 「え、あ、せいちゃん!」 目の前に、二つの顔が出てくる。だんだん明るさに目が慣れてきて、その顔がはっきり見えるようになった。 「…ノ…エちゃん、航平。」 「あーーっ、せいちゃん、おかえりーっ。よ…かったよー、ほんともう死んじゃったと思った…。」 ノエちゃんが、ぎゅうっと手を握ってきた。 「ほんまやで。なぜかせいだけいきなり落ちて、そんでそのまま全く浮き上がってもこーへんのやもん、ほんまもう会われへんかと思ったやんかっ。水ん中入って探してもおれへんし。」 航平も、肩をふぅ…と落として、涙ぐんだ。 「ごめん……。」 謝ると、 「もう、ほんと生きててよかった…。」 と、ノエちゃんがボロボロ泣き出した。 「ノエちゃん、ノエちゃん、ハンカチ……あっ濡れてる。」 身を起こして、急いでスカートのポケットをまさぐると、水の中にいたせいで、ハンカチはびしょ濡れだった。もちろんのこと、着ている制服もびしょ濡れだった。 それを見ていたノエちゃんは、まだ泣きながらも笑い出した。航平も、一緒に笑い出す。 「せ、せいちゃん、あはは、は、ふふ、」 「ひひひひひひ、ふぅ、ははははっ」 つられて、せいも笑い出した。 三人の笑い声が、辺りに響く。 それと共に、風がひゅうーと三人の髪を吹いて、水面を揺らした。 「私、水ん中で、変な生き物に会った。」 少し、笑いがおさまって、せいが言った。 「え?変な生き物?」 「どんな?」 ノエちゃんと航平が身を乗り出した。 「“透明”っていって、青みがかった透明で、ナマケモノみたいでさ……」 三人の乗る、小舟の下は、明るく、澄んでいて、弾かれた午後の日の光がきらきらと踊っていた。 水は、恐ろしいほど美しく、そして、どこまでも透明だった。
黄昏る。
午後八時半ごろ、北欧のある夏の日。 私は、犬の散歩で、近所の小高い丘に登った。 この日は、夏なのに暑くなくて、涼しいような、暖かいような、そんな心地の良い陽気で、丘の頂上へと登っていく、プラスチックで舗装された道が、西日に照らされて、金色に光っていた。 上を見上げると、空は青く澄んで、柔らかく穏やかにそこに在った。 犬が、木の柵の向こう側の緩やかな斜面へと遊びに行ったので、帰りを待つ間、すぐそばの柵に座る。 柵は、雨と風とたくさんの人の手に触れられて、灰色で、つるつると気持ちのいい手触りになっていた。 見下ろす景色は、夕方の光で、ところどころ黄金色に染まって、きらきらと輝いている。 すぐそこで、何やら茂みをゴソゴソふんふんやっている、犬の黒い毛の先も、黄金色に染まっていた。 心地の良い涼しい風が、優しく私と周りを吹いていく。 あたりには、誰も、いない。 この空間を、独り占めしている、そんな静かな時間が、なんだか懐かしいような、ワクワクするような気持ちにさせた。 まだ日の沈まない、涼しいような夜に、西日に照らされ、柵に座って犬を見る。 −−まるで青春しているような、こう言う時間が好きだなぁ……
にわか雨
滝のように降る雨。 時折り吹く強風。 ザワザワ揺れる木々。 雨。 雨の時間。 バラバラと窓に落ちる雨粒。 心地良い音。 「あっ小雨になってきた!」 明るくなっていく空。 大地を照らしていく光。 雨が止んだ。 ポタッ、ポタッ、と落ちる雫。 濡れた黄緑色の芝生。 濡れた庭。 濡れた世界。 「あっ、鳥たちが、鳴き出した!」