Tentomushi
21 件の小説『第3回NSS決勝』 月夜のあしあとに
積もりたての雪に最初の一歩を置く時、まっさらな白銀の世界に凹みが生まれる。 一歩、二歩、三歩。雪道の上に足を踏み出す毎に、生命の形跡がそこにくっきりと刻印されるのだ。 そうしてぽっかりと空いた穴の中に私は、ある凍てつく満月の夜、不思議なものを見てしまった。 星空の下、庭の柿の木の上で分厚い外套にくるまり、ぼーっとしていると。眼下の雪道に点々と残された足跡の一つに、小さな影が四つ、わらわらと現れ、酒盛を始めたのだ。 笠を被り、縞の着物に綿入れを着た虫けらほどに小さな男達が、敷いた茣蓙の上にだらしなくあぐらを描き、炭が赤々と燃える小さな小さな火鉢を囲んで、賑やかにわぁわぁと騒いでいる。 一人の小男がチンチチン、と火箸で火鉢の縁を叩きだし、一人の小男が唄いながらふらふらと陽気に踊り出した。賑やかな囃し声と共に一歩、二歩、と足を運び、頭をふりふり、手をひらひらと泳がせている。 その奇妙さに目が釘付けになっていると、不意に踊る小男がこちらを見上げ、赤ら顔に明るい笑みを浮かべた。 「やぁいい月夜ですなぁ。旦那もお月見ですかい?」 そして気付くと、彼らはふっ、と消えていたのである。
第3回NSS P i a
「おじいさん、あれは何です?」 空が真っ青に澄み渡った、気持ちのいい春の日。 山を登っていると、頂上の方から風に乗って、ピアノの様々な音が折り重なったような透んだ音色が漂ってきた。 あたりを見回しても、見えるのは緩やかにうねり広がる若草色の山肌と、点在する黒い岩や林だけで、ピアノや人の姿はない。 「ああ、あれはピアという音奏草ですよ」 私の問いに、案内の老人はそう答えた。こんなふうに開けた日当たりのいい所に時たま現れる草です。風に吹かれるとああやって、楽器のような音を出すんです。 へぇ、何とも美しい音色ですねぇ。 音奏草達のハーモニーに耳を澄ませて、ゆっくり歩みを進めているとふと、足元からの可愛らしい跳ねるような音に気づいた。見ると、葉の先端が丸く膨らんだモーブ色の花が、そよ風の中楽しげに揺れている。 「それがピアです。音奏草は通常群れているんですが…それははぐれ草なのかなぁ」 帰宅し、あの音をもっと聴いていたかった、と名残惜しく思いながらふぅ、と息をつき窓を開ける。 「えっ?」 “ポン、ポロ、ロン…” 窓の下で、珍しい葉のモーブ色の花が、楽しげに風に揺れていた。
蛇男と馬男
「う〜、さびーねぇ。」 温めたばかりの酒を入れた、あったかい一升の徳利を抱えて、あったかい店の中から出る。外の空気は冷たく、ひんやりと冷えて、思わずぶるっと身を縮めてしまう。 「うーん、冬だなぁ。…さむっ。」 吹きつけて来た北風を受けて、隣に立つ連れが言った。 「いや、君は寒そうに全く見えないが、馬男くん。」 「いや、寒いんだよ、これでも。」 北風を受けてまた、さらにきゅっと身を縮めた俺と違って、大きな身体の背筋を堂々と伸ばし、真っ向から冷たい風を受ける連れを見る。……まぁ、確かに、僅かに肩を縮めているように見えないこともない。 「君は……体が硬いのかい、馬男くん。だから体を丸められないとか?それとも筋トレのしすぎ?」 「筋トレは関係ないし、体も柔らかいよ、蛇男。ただ昔っからこうなんだよ。」 「ふーーん、ますます馬みたいだね、君は。」 冷たい夜気を切って歩きながら、俺は低く薄い鼻から息を吐き出した。 なんだよ、と言う風に馬男がこちらを見てくる。横を向くと、長いまつ毛でふちどられた大きな目と目が合った。 馬男−−。 これはもちろん、彼の本名ではない。もちろん、あだ名だ。俺がつけたあだ名だ。もちろん。本名は、別にある。 筋肉質な、丈高く大きな体、すらっとした綺麗な脚に、日に焼けたなめらかな肌。ほっそりとした面長の顔と、心なしか長い首。髪は艶やかな漆黒の直毛。そして何より、長いまつ毛の下の、大きな黒目がちな目が馬を思わせるので、“うまお”−−馬男、とあだ名をつけた。 一方、俺の方はと言うと、彼に“蛇男(へびお)”と呼ばれている。 大学で出会ってすぐにそんなあだ名をつけられた。まぁ、俺が彼を、“馬男”とすぐに呼び始めたのもあるんだろうがね。 だが、“蛇男”とは、なかなか俺に合った名だろう。 全くガリガリじゃぁないが細っこい体つき、のっぺりと平らかな顔に小さい鼻の穴、薄い一重の瞼の下の、まん丸い目。細く鋭い舌。頭も逆三角形だし。自分でも蛇のようだと思う。 我が親愛なる友、馬男くんは、俺の動き方や喋り方なんかもするするとなめらかで、蛇っぽいと言う。 ふん、あまり嬉しいかは分からないが。 「今年ももう終わるな、蛇男。」 はぁ、と白い息を吐いて、馬男が言った。 「うん、あんたの年が来るよ、あと一時間ぐらいで。」 にやりと笑ってみせる。 「年男じゃないか、馬男よ。」 「君の年はもう終わるね、蛇男どん。」 「“どん”ってなんだよ。」 軽く笑いながら、隣りを歩く馬男のがっしりとした肩に腕を乗せると、馬男はにやっ、と歯を少し見せて笑った。鼻梁に少しばかり皺が寄った。 それからしばらく、二人で鼻歌を歌いながら歩いた。出鱈目な、即興で作った歌だったり、童謡だったり、洋楽、邦楽、色々と。 「というか僕たちはなかなかの馬鹿どもだな、たぶん。」 「何故だい、馬男くん。」 「わざわざあったかい店から出て、寒い外で熱燗呑みながら年を越そうってんだから。しかも、こんな大きな徳利に酒入れて貰ってさ。」 そう言って馬男は、俺の腕にしっかりと抱えられた徳利を見た。徳利は熱くないよう、何枚もの手拭いでぐるぐる巻きにされている。 「まぁ、今夜で一度っきりの今年が終わるんだし、良いじゃないか。こういう年の越し方も、なかなか楽しくないかい?」 「まぁな、そりゃあ。……僕たち社会人だけど。」 ふはっ、と馬男が笑い出す。つられて俺も笑い出した。 夜遅く、街中で徳利を抱えて、歩きながら笑う大小の男二人組を見て、通り過ぎていく人々は多種多様な顔をした。 楽しそうだなぁ、と温かく視線をやったり、なんだあの人達、と眉根を寄せたり、あるいは特に気にしていなかったり。まぁ、特に気にせず通り過ぎていくのが大多数だが、世の中にゃぁ、いろんな人間がいる。 道を右に曲がり、青や赤、黄色の、滑り台やらブランコやらの遊具を左手に過ぎて、木々の中の坂を登る。 最初は緩やかだがだんだん急になっていく。ここ数ヶ月の運動不足のせいか、はたまた酔っ払っているせいか、足がすぐ疲れてきたが、同時に、冷え切った身体が温まって汗が微かに、じんわりと染み出してきた。 「いやぁ、やっぱし運動不足はいけないね。」 俺と違って、疲れた様子も見せず坂を登る馬男に話しかける。 「すぐ足が疲れる。」 「そうは見えないけどね。相変わらずの蛇みたいな滑らかさだよ。」 「そうかい?」 「うん。」 夏であれば、蚊がプンプン飛び交い、木々の葉っぱがわさわさと茂って、辺りを深緑に染めるこの小山も、冬の今は葉もほとんど地面に落ちて、木々の間から周りの様子がよく見えた。 群青色の空に浮かぶ淡い黄色の月。星。よく乾いた茶色い落ち葉。新しいコンクリで舗装された道の両脇に点々と立つ街灯。街の光。丈高い裸の木々。 そんなものを眺めながら、連れ立って、ぶーらぶーらとのんびり歩く。 頂上につくと、綺麗な夜景が目の前に広がった。 赤、青、白、黄色、緑、となんとも賑やかなばちばちの明かりと共に、車やバイクの騒音、そして除夜の鐘の静かで深い音が上がってくる。いつ来ても良いものだが、個人的に寒い時期に来るのが一番好きだ。 清々しい空気が気持ちいい。 「あれ、先客がいたようだね。」 あまり広くはない空き地の、二つあるベンチの一つに、人が一人、顔を夜景の方に向けて横たわっていた。 「寝てるねぇ。」 「寝てるな。」 「…まぁ、行こうじゃないか。」 「うん。ここまで来たしな。」 束の間ためらったが、もう一つのベンチに足を向ける。 二つのベンチの間の間隔は、だいたい六十センチほどしかないが、まぁ、良いだろう。あまり騒げないだろうが。 ……いや、正確には、寝ている人の突き出た足、二十センチ程のせいで、その間隔はもっと狭いが……まぁ、別に良い。あまり五月蝿くはできないが。 ベンチに座り、徳利の栓をぽんっと抜いて、 「ちゃんとお猪口は持ってるかい、馬男くん?」 と問いかけると、 「もちろん、大事に持ってる。」 と馬男は、コートのポケットから、包みを一つ取り出し、巻かれてある手拭いを解いて、お猪口を二つ取り出してみせた。白地に青い染料で古典的な模様が描かれている。 「居酒屋の親父に感謝だねぇ。」 「酒飲み道具一式、貸してくれたもんなぁ。」 「ささ、馬男くん、つぎましょう。」 「ああ、これはどうも。蛇男くん。」 馬男が宴会の席のおっちゃんになりきって、後頭部を軽く掻きながらお猪口を差し出した時だった。 「あんた達、こんなとこで飲み会やってんの?」 随分とハスキーな声が割り込んできた。 二人してぱっ、とその方向を向くと、所々黒く色が残ったまだらの金髪頭の若い男−−おそらく十代後半に入ったばかり−−がこちらを見ていた。なかなかの男前だが、見た目や醸し出す雰囲気が、かなりヤンキーっぽい。 ぴったりとした黒いタンクトップの上に、牙を向いた虎の刺繍がされたスカジャンをだるん、と着ている。目がとてつもなく透明で、眼光が研ぎ澄まされた薄いナイフの刃のようだ。 静かめにしていたつもりだったが、どうやら、寝ていたのを起こしてしまったらしい。 馬男をちらりとみると、ぴたり、と固まっていた。 「そうだけど?」 答えると男は、 「ふーん、面白いね。」 と笑った。 「君、そんな薄着で寒くないの?」 馬男が聞いた。また動き出したらしい。 「あ?寒……くはねぇよ。別に。」 男はまた笑って、足を持ち上げてズボンを捲り上げてみせた。 「靴下三重ばきしてるし。ほら、綿のとカシミアのとウールの。」 なるほど、黒、白、クリーム色と、それぞれ丈の長さが違う靴下を履いている。 「いや、そういう問題か?」 馬男が突っ込むと、男はまた笑った。 「つーか、何飲んでんの?」 「熱燗だけど。」 「熱いの?」 「いや、おそらくもうぬるくなりかけてるだろうな。」 「“ぬるくなりかけ”って。何それ。」 男はまた笑った。そして、右手を持ち上げた。 「……俺は焼酎。飲んでる。」 手には900ml紙パックの焼酎が握られていた。 「え、君、何歳?若く見えるけど。」 思わず聞くと男は、 「え?十六だけど?ま、もうすぐ十七になるけど。」 と飄々と言って焼酎を一口、ごくりと直飲みした。 「おいおい、まだ未成年じゃないか。」 「それが何か?」 男の、いや、少年の透きとおった目を見て、何も言えなくなる。 俺たちもこのぐらいの歳で酒を飲んでいたし、彼の鋭い眼光を受けて、あ、こいつは何を言っても聞かねぇな、と悟ったのもある。 それを裏付けるように少年は、更に言った。 「あんた達に、俺は止められようとなんか思わねぇよ。」 俺も馬男も無言で頷いた。 「僕たちも君ぐらいの歳で飲んだことがあるし。まぁそれでも、大人としては止めなきゃいけないんだろうけど。」 少年はにやっと笑った。 「しょうがねぇよ、俺は飲むから。あんた達も飲みなよ。熱燗がぬる燗になるぜ。」 少年に言われて、あ、そうだそうだ、と熱燗の存在を思い出し、お互いのお猪口に熱燗をいそいそと注ぎ合う。幸いなことに、冬の夜の冷気の中で、お猪口からは微かにまだ、白い湯気が立っていた。 「巳年に乾杯。」 「そして来たるべく午年に乾杯。」 そう言って、互いのお猪口をチン、と合わせ、ぐび、と中身を一口、口に入れた。 「っあーー。」 「美味い!」 二人して、おっさんのような声を出す。おっさんにだんだん近づいてるなぁ、と頭の片隅で思うが、まぁ、良い。…今は。 それからしばらく、皆無言で夜景を眺めながらそれぞれの酒を口に運んだ。 「あんた達さ、蛇男と馬男っていうの?」 除夜の鐘がまた、ゴーン……ゴーン……と鳴り、風が一陣吹き抜けた時、少年が口を開いた。どうやら俺たちの会話を聞いていたらしい。寝ていなかったのか。 「あだ名だけどね。」 馬男が言った。 「うん、俺がこいつを“馬男”って呼んだら、俺は“蛇男”って呼ばれるようになったんだよ。」 「そのまんまじゃん。…失礼ながら。」 少年はにやっと笑い、焼酎を口に運んで、また少し笑った。よく笑うやつだ。あと、上下の犬歯が普通より大きめだ。まるで牙が生えているように見える。 「君の名は?」 馬男が聞くと、 「あ、俺?」 眉を上げ、つるりとした額に皺を寄せて、少年は自分をさした。 「……トラ。っていう。」 そう言って少年はスカジャンの左胸をつまんで、刺繍された虎を指さした。 「本名?」 「いや?本名の縮小版。呼ばれ名。」 「へー、かっけぇじゃん。」 馬男がトラの肩を軽く叩いて、にかっと笑った。 トラも、酔っ払っているのだろうか、頬を赤くして笑った。 “タラリン” 唐突に、機械的な電子音が冷たい空気中に響いた。どうやら俺のコートのポケットからのようで、誰かからのメッセージか?と、携帯を取り出す。 「あ、」 『ん?』 画面上に表示された四つの数字が目に飛び込んで、俺が声を漏らすと、二人は同時にこちらを見た。そんな二人に、白く発光する携帯の画面をかざして見せる。 『あ!』 「−−皆様、新年、明けましておめでとうございます。」 勝手に口角が上がって、にやにやとにやけてしまう。 「君の年が来ましたな、馬男くん。」 「明けましておめでとうございます、蛇男どん。一年間、お疲れさんでした。」 馬男もにやっとしながらおどけて言って、ははっと笑った。 かざされた携帯のホーム画面には、数件のメッセージの知らせと共に、 「00:00」 と記されていた。 新しい年の夜明けまで、あと数時間である。 あとがき 時間はどんどん経って、もう三日になってしまいましたが…… 新年、明けましておめでとうございます。 2025年は、私の作品を読んでくださり、♡してくださり、コメントしてくださり、フォローしてくださり、本当に、ありがとうございました🙇♀️ いつも嬉しいです。誠に、感謝です。 2026年も、どうぞよろしくお願いいたします。 良いお年を!
愛を食べるばけもの
「ほら、つくし、ココア。外寒かったろ。」 ほわほわと湯気のたったマグカップを二つ両手に持って、彼が言う。 「わー、ありがとーぅ。」 満面の笑みを浮かべ、私はそれを受け取った。 ぺちゃぺちゃ……ごくん ああ、まただ。耳の中でまた、咀嚼音がする。 「なに?なんかあった?つくし。なんでも話しなよ。」 私の目をまっすぐに見つめて、友達が言う。 「うん……ありがとう。」 友達の暖かさが身にしみた。 ぺちゃぺちゃ……ごっくん 「ちょっとぉ、つくし!ちゃんと食べなさいよー。あんた、そんなに食べなかったらガリガリになるわよ?」 かなり大袈裟に母が言う。 「はーい。」 頭では私のことを思って言ってるんだろうと分かっていても、どうしてもそんな返事になってしまう。 ぺちゃぺちゃ……ごくり。 また、まただ。 誰かに優しくされるたびに、誰かから愛情をもらうたびに、耳の中に気色の悪い咀嚼音が響く。 いつからだっただろうか。 いつの頃からか気づけば、耳の中にぺちゃぺちゃと音が聞こえるようになっていた。 「はぁー。」 学校からの帰り道、横からため息が聞こえてきた。 「どうした?ハルちゃん。」 「いやぁ、なんか最近妙に疲れてさぁ。」 首をコキコキ鳴らしながら、友達が言う。 「大丈夫?今日は遊ぶのやめとく?」 「うーん。……そうさせてもらおうかなぁ。ごめん、つくし。また絶対遊ぼう。」 ぱんっ、と音を立ててハイタッチを交わすと、ハルちゃんはタカタカと駆けていった。一見軽やかだが、やはり少し、その足取りは重い。 …最近、こういうことがよくある。 ハルちゃんだけに限らず、他の友達も彼氏も疲れているようで、遊ぶ約束をドタキャンしたり、遊んでもすぐ帰ることが多くなっている。 家族もだ。姉はイライラ気味だし、弟は最近よく寝る。学校から帰ってくると、布団の中に直行だ。 なんだか皆んな、私と一緒にいる度に、あの嫌な咀嚼音が聞こえる度に、そうやって疲れたり、ドタキャンしたり、イライラしたりすることが多くなっていっているような……。 お風呂というものは、極楽だ。 冬の寒さに凍えた身体に、お湯の温かさがじわ〜っと染みた。なんともいい心地だ。ふう、と息を吐くと、ふわりといい香りが鼻についた。 「お母さんバスソルト入れたんだ。」 ぺちゃぺちゃ……ごくん 自分の声がお風呂場に響くと同時に、あの咀嚼音がした。思わず、ざばんっと音を立てて立ち上がる。 ぺちゃっ、ぺちゃぺちゃっ……ごくん ゆらゆら、ばちゃばちゃとお湯が揺れる度に、また咀嚼音がする。こんなに音が立て続けにしたことはない。あまりの不快感から、逃れたくて、湯船から走り出た………途端。 つるんっ あ、そうだ、うちのお風呂の床、滑りやすいんだった……。 ばたーんっという音が響き、「つくし?!」と言う声とともにバタバタと足音がいくつか近づいて来る。どうも頭を強く打ったみたいで、意識が遠のいて…いった……。 「あ、つくしっ。目覚めた?目覚ました?!」 目を開けると、母がぎゅーっと私を抱きしめて来た。相当心配したらしい。姉と弟も、ほっとした顔をしている。 「ごめん…。」 抱きしめ返そうとした時だった。 ぺちゃぺちゃ……ごくりごくり まただ、まただ!ゾワッ、と鳥肌が立った。 「ごめん、ちょっと部屋戻る。」 一人になりたくて立ち上がる。 「もう大丈夫なの?」 そう言う声を後ろに、私は階段を駆け上がり、ばたんと部屋の扉を閉めて、ベッドの横にうずくまった。 なんなの?もうなんなの?もうやめてよ、なんなのよ、これ? その時。 黒くて、ずんぐり、どろどろした化け物の姿が瞼の裏に映った。 “愛…愛をくれ…もっと、もっと、愛を……!愛が欲しいヨォ!” 化け物は、真っ赤な口をがぱりと開けて、まるで駄々っ子のように訴えて来る。赤い目が爛々と燃え、“愛が欲しい、愛をちょうだい”とこちらに迫って来た。 「きゃぁぁぁぁあ!」 悲鳴がほとばしり出た。その声を聞きつけ、母と、姉と、弟が部屋に飛び込んで来た。 「どうした、つくし!どうしたの!」 「化け物が、化け物が、、」 「化け物?!」 「化け物が“愛をちょうだい”って近づいて来るぅう!」 叫ぶ私を抱きしめる三人に、必死でしがみついた。嫌だぁ、嫌だあ!と涙がぼろぼろ溢れでた。 「大丈夫だよ、大丈夫だよ。」 母に背中をさすられているうちに、化け物の声は途切れ途切れになって、涙が止まった頃にはいつのまにか、声も姿も消えていた。 それから、ぺちゃぺちゃ、ごくりと言う不快な咀嚼音は、しなくなった。周りもすっかり元気になった。あの化け物は、何だったのだろう。 それに………なぜ私だったのかは、いまだに疑問である。
すき。
お茶を飲むのが好き。 日本茶でも、紅茶でも、ハーブティーでも。 その時の気分で。 ケーキとか、マフィンとか、スコーンとか。 美味しいものを作るのが好き。 トマトスープが好き。 ジャガイモとか、にんじんとか、玉ねぎがゴロゴロ入ったのが好き。 おもちが好き。 焼いたおもちを、海苔でくるんで醤油をつけて食べるのが好き。 お味噌汁が好き。 鍋が好き。 煮物が好き。 炊き込みご飯が好き。 ラーメンについてるメンマが好き。 お煎餅が好き。 梅干しが好き。 じゃがいもが好き。 特に焼くか炒めたじゃがいもが好き。 音楽を聴くのが好き。 洋楽も、民謡も、讃美歌も、ジャズも、J-popも。 クラシックも、アカペラも。あと、ロックもかな。 K-popも、何曲か好き。 RADWIMPSが好き。 藤井風が好き。 Stray Kidsが好き。 Home Freeが好き。 Pentatonixが好き。 Michael Jacksonが好き。 西アフリカの、音楽が好き。 ジブリの曲と音楽が好き。 好きな曲って言ったらもっとある。 歌うのが好き。 たまにオペラを歌ってみたり。 高い声を裏声で出すのが結構好き。 低音が好き。 チェロやコントラバスの ボロンボロンっていう音が好き。 低い声も好き。 低い声を出すのも好き。 日本が好き。 今住んでる国が好き。 日本語が好き。 縄文時代が好き。 江戸時代が好き。 江戸時代の文化が好き。 十二単が好き。 着物が好き。 下駄が好き。 地下足袋が好き。 手ぬぐいが好き。 綿入れ半纏が好き。 戦国大名が好き。 好きな曲の歌詞をノートに書くのが好き。 ちょっと古めかしい言葉遣いが好き。 “うららかな”っていう言葉が好き。 “こぼれるように咲く”っていう表現が好き。 “たゆたう”って言葉が好き。 “ゆらめく”って言葉が好き。 “バラバラ”っていう雨の音が好き。 話を書くのが好き。 情景を描写するのが好き。 どう書いたら伝わるだろう、って考えるのが好き。 本が好き。 漫画も、好きです。 絵本も、好き。 あと、童話と昔話も。 笑い話も好き。 〈月神の統べる森で〉のシリーズが好き。 上橋菜穂子さんの本が好き。 〈ラリルレ論〉が好き。 落語だけれど、〈そこつの使者〉が好き。 やまもり美香さんの漫画が好き。 〈しろくまカフェ〉が好き。 絵本であれば、 〈こぎつねこんとこだぬきぽん〉が好き。 〈つみきのいえ〉と、〈アボカドベイビー〉も好き。 他にも色々好き。 夜が好き。 夜に友達と散歩に行くのが好き。 夜の鬼ごっこも好き。 朝早く、まだ暗い時間が好き。 雨の日に、黄色っぽい電気をつけた部屋が好き。 とても心地いいんです。 京都が好き。 京都市内を歩き回るのが好き。 友達と、探検に行くのも好き。 家の近くの小高い丘が好き。 特に夕方、頂上で、ぬるい風に吹かれながら景色を眺めているのが好き。 重いものを持つのが結構好き。 冬が好き。 寒いけど。 でも、冷たい風が顔に吹き付けるのが好き。 雪が好き。 春が好き。 ぽかぽかあったかくて。 陽だまりで寝っころがって、 日向ぼっこをするのが好き。 焚き火するのが好き。 焚き火の煙の匂いが好き。 暖炉とか、薪ストーブが好き。 映画が好き。 〈宇宙人のあいつ〉っていう映画が最近は好き。 シュタイナー教育が好き。 今まで行ってきた学校が好き。 今の学校も…たぶん、好き。 家族が、好き。 友達が好き。 うちのわんこが好き。 大好きだよ、坊っちゃん。
波紋
ひたひたと 水を湛えた穴ぼこに 空より雨粒がひとつ、 ぽつんと落ちる。 ぽつん、ぽつん。 波紋が広がる。 真ん中に、アメンボをおきたくなった。
第2回NSS 轟く雷鳴
−−バリバリバリッ…ドドーン−− ピカッ… 雷の落ちる物凄い音が響き渡り、暗闇に白く眩い光が閃いた。 ゴロゴロゴロ……ピカッ… そのあとを追うように、巨大な石臼をひくような音がして、また、暗闇に白い閃光が閃く。 バラバラバラバラ−− すぐに黒い闇に沈んだ中を、激しい大粒の雨が駆け抜けて、地面にその身を叩きつけた。 ピカッ… また一瞬、暗闇が消えて、辺りが白く閃く。 それに照らされて、暗い嵐の中うずくまる影の背に流れる金色の長い髪がきらりと光った。また闇が戻ってもなお、それは鈍く金色に煌っている。 バラバラバラバラ−− 吹き抜ける強風に乗った雨粒が、彼女の肩を、背を、金色の髪を、殴っては弾かれ、落ちてゆく。 濡れてさらに色を濃くした濃い灰色のコートに身を包まれてうずくまる姿が、鈍く光る硬い甲冑を纏った姿と重なった。 ゴロゴロゴロゴロ……ピカッ また、白い閃光が一瞬、あたりを包む。 それに続いて、 バリバリバリバリ−−と轟音が響き渡り、ドドーンと地響きがした。 前方からぱっと真っ赤な火の手が上がる。 ピカッ また、白い光が閃いた。
夜散歩
夜、十時。外も内も暗く、明るいのはぽつりぽつりと立つ街灯と、空に煌る星と月、そして、デスクライトの黄色い光と、その中で発光する携帯の青白い光だけのようだった。 隼人:俺、今行ける。 ソウ:オッケー。俺も行ける。 じゃ、道路で。 隼人:おう。 送信を押して、パーカーを羽織り、まだ画面の明るいままの携帯と机の上の財布をポケットに突っ込むと、部屋の窓を音のしないように慎重に開けて、屋根に出る。 そのままそろそろと歩いて、屋根の上にまで大きく張り出した庭木の枝のなるべく太いところを掴んで、そっと、そっと、屋根の端の方へ移動する。そして、片手ずつ慎重に、手を木の幹のなるべく近くへと移し、屋根の縁に腰掛けると、脚を片方ずつ、下の枝へと伸ばした。 足の裏が枝についたら、上の枝から手を幹へと動かし、しっかり掴む。 それからあとは、ゆっくりと体の向きを変えて、なるべく枝の根元に体重を乗せながら、手足を下の枝、また下の枝へと動かし、終いに地面についた。 裸足の足に、夜の冷気が涼しいが、土の地面が気持ち良い。 乾いた土の上を音を立てぬよう歩き、塀の近くに生えているツツジの茂みの根本を探って、隠しておいてある靴を取り出す。 少し汚れた足の裏をぱっ、ぱっ、と軽く払ってから、パジャマのズボンのポケットから取り出した靴下を履き、靴に足を突っ込んだ。 靴紐を手早くしっかりと結ぶと、塀の上に手をついて、ぐっと身体を引き上げる。そんなに背が高くないので、少しばかり苦労したが、なんとか乗り越えた。 いつものことだが、もう十センチぐらい背が高ければ、もっとかっこよくひょいっと乗り越えられるのに、と思う。 塀の向こう側には、すでにもう、人影が一つ、立っていた。 「よ、聡一郎。お前のほうが早かったか。」 片手を上げ、ひそひそと声をかけると、 「お、来たな、隼人。」 と、聡一郎もこちらに手を上げ、ひそひそと声をひそめて言った。 「財布持ったか?」 「うん、持った。」 パーカーのポケットをぽん、と叩いてみせる。 「よし。じゃ、行くか。」 「おう。」 濃い群青色の空の下を、月と星と街灯の白っぽい光に照らされて、歩き出す。 夜の散歩の始まりだ。 「うまく抜けれたみたいだな。」 「うん、今日は父さんも母さんも夜勤だし。妹と姉ちゃんは、今頃ぐっすり夢の中、だよ。いや、姉ちゃんは違うかもな。勉強か最近の流行りの映画で頭がいっぱいかな。」 「大変だなー、医者の家も。ま、俺もおそらく気づかれてないと思う。お父さんもお母さんも、パソコンと睨めっこして、なんか物音がしても、特に気に留めないだろうよ。」 「それか週に一回の休みで寝てるか、だろうな。」 「うーん、寝てたら一番良いけど。」 そんなことを話しながら、どこへ行くとも定めず、足の向くまま歩く。一歩、二歩、三歩…。もう、家からはだいぶ離れているので、声は普通だ。でも、あまり大きな声を出さぬよう、気をつけて、話す。周りの家々の人を、眠りの中から引っ張り出してしまったら、迷惑だろうから。 こういうことを考えるのも、お互い良い家の生まれで、きちんと躾けられてるからなんだろうか……。 「あ、この空き地、家が建つんだな。」 横に目をやると、ついこの前までは草がぼうぼうだったところが、砂利土を敷かれ、平らにならされて、コンクリートで家の基礎が造られていた。 「本当だ。…すげぇ変わったなー。」 立ち止まって、眺める。 「こんなに家建てる必要あんのかな?」 「さあねぇ…。」 不意に、胸の内にむくむくと冒険心が湧いてきた。 「な、聡一郎、ここ突っ切っていってみねぇ?」 顔がにやけるのが、止められない。 そんな俺を見て、聡一郎もいつもの冷静な顔をにやっとさせた。 「行ってみるか。」 あたりを見まわし、誰にも見られていないことを確かめて、そっと立ち入り禁止の黄色いプラスチックの鎖を乗り越える。靴底に触れた土が、ジャリッと音を立てた。 こんな事をしているのをうちの親達に見つかったら、絶対怒られる。もちろん、聡一郎もだろう。 俺達の家は、なんでも明治の頃から代々医者と弁護士の家系という、まぁ、なかなか面倒くさい家で、当然、その家に生まれた子供、特に男には大変な期待をかけられる。まぁ、古風な家なのだ。 俺と聡一郎は、その期待が重くて重くて仕方がなく、こうして時たま夜中に外に出てあてどもなく歩く、仲間であり、親友であった。 空き地は結構広く、見たところ、家が三軒建つらしかった。 「ここはリビングだろうなー、一番広いし。で、ここは……何になるんだろう、キッチン?いや、風呂場か?」 「いや、そこは絶対トイレだろう。」 「こんなに広いトイレあるか!」 家の基礎を見ながら、色々想像していると、聡一郎が横からまるで出鱈目なことを言うので、思わず背をバシンッと叩いて、大声を出してしまった。 「隼人っ、しー!」 唇に指をあてて、俺を宥めているが、そう言う聡一郎も笑いそうになっている。 二人で必死に笑いを堪えながら、空き地を、いや、空き地だった土地を走ってまた道に出る。 そのまま大通りまで走って、走りながら笑い出した。夜の静けさに、ふたつの笑い声が響く。どこかの家の犬がそれを聞きつけたのか、ウォンッウォンッと吠えた。 「はぁー、あっつ!」 また二人、肩を並べてペタペタ歩き出し、着ている長袖にぱたぱたと風を入れながら聡一郎が言った。 「思いっきり走ったもんなぁー。」 俺も着ているパーカーの前を開けた。 「えっ脱がないの。」 「下Tシャツだからさ、寒いかなぁーって。ていうか、なんでビーサン?」 聡一郎の足元に目をやる。靴下にビーサンという、ちょっと変な出立ちだ。 「まだそんなに寒くないし?あと、手頃なのがこれだったんだよ、出てくんのに。」 「あそっか、お前いっつも玄関から出てんだもんな。」 「うん。いつもヒヤヒヤだよ。ていうか、隼人はなんでいっつも窓からなんだ。」 「いや、楽しいじゃないか。あのスリルが。」 「木の上に行くまではへっぴり腰だけどな。」 「まぁまぁ、気にすんな、それは。」 とんとん、と肩を叩く。 車が、一台、ビュン……と通り過ぎた。続いてまた、もう二台、ビュン…ビュン…と通り過ぎる。ヘッドライトが、結構眩しい。 「はー、お腹すいたー。」 聡一郎が、腕を後ろにやって伸びをした。 「俺もー。」 腕をぶーらぶーら降って歩きながら答える。 「じゃ、コンビニ行くか。」 そう言う聡一郎と顔を見合わせ、 「行くか。コンビニ。」 コンビニへと足を向けた。 明るいテレテレと言う音楽の中を通って、外へ出る。 「何買った?」 「アイス。」 「だよな。俺も。」 「ちょっと寒いけどな。」 さっさと買って先に外に出ていた聡一郎と合流し、とりあえず、来た道を戻る。 てくてく、てくてく、ペタッペタッペタッペタッ。 通り過ぎる車の轟音の合間合間に、運動靴とビーサンの音が響く。 「アイス何買った?」 二人してカサカサと音を立てて、アイスの包装を開けながら、聡一郎が言った。 「いちごミルクのソフトクリーム。ちょっと食べたことのないのに挑戦しようと思って。」 「おお、ジャンクだねぇ。」 ふふふと笑ってくるので、いいだろ、とふふん、と鼻を鳴らす。 「聡一郎は?」 「いつものマスカットのアイスバー。」 「他の味食べてみたいと思わないの?」 「思うけど……やっぱりこれが食べたくなっちゃうんだよ。」 「じゃぁ、俺の一口食べる?」 ピンク色のソフトクリームを差し出す。 「えっ、いいの?」 「そのかわり、お前のアイスちょっとちょうだい。」 もちろん、タダで俺のアイスをやる訳は、ない。絶対交換こ、である。 だが、それを言った途端、聡一郎はすぐさま、自分のアイスを胸元に引き寄せて、守る仕草をした。 「え、それはだめー。」 「じゃ、俺もだめー。」 「……仕方ない…諦めるか…。」 肩を落とすので、背中をぽんぽん、と軽く叩くと、 「あ、いや、あげる訳じゃないからな。」 とこちらをじっ…と見てきた。 「あ、そうなの?…仕方ないかぁ。」 残念。聡一郎のアイス美味いんだが。仕方ないな、聡一郎はアイスのことだけは、絶対に譲らないもんなぁ。 気を取り直して、二人してアイスを味わいながら歩く。帰るのがあんまり遅くなったら、明日眠くなるので、とりあえず帰る方向だ。 「あ、公園だ。新しくできたのか。」 聡一郎の目線をおうと、マンションの隣に確かに、公園があった。 公園の隣の土地は更地で、見通しが良く、気持ち良い。赤や青、黄色に塗られた、滑り台もブランコも鉄棒もピカピカで、まだあまり使われた形跡がない。公園の雰囲気も、“新品です!”と言う感じだ。 「寄ってく?」 なんだか、すごくわくわくする。 「寄ってくか。」 公園の敷地に足を踏み入れて、ブランコを目指す。やっぱり、公園といえば、ブランコだろう。 ブランコに座ると、揺れて、キイ…と微かに音がなった。 空を見上げる。 濃い群青の中に、白銀色の月が半分浮かんでいて、その周りに星がちらほらと輝いていた。 「はい。」 急に、横から黄緑色のアイスバーが突き出てきた。 え、と隣を見ると、聡一郎が、さらっとした黒い前髪の間から、こちらを見つめていた。 「一口あげる。やっぱり食べたい。」 「おお、おっけ。はい。」 お互いの、半分以上食べられたアイスバーと、あと一口、二口食べればコーンへと到達するであろういちごミルクソフトを取り替える。 「おお、美味い美味い、」 「うん、お前のも美味い、やっぱり。」 マスカットのアイスバーの、シャリっとした冷たさが、体の内側にじんわりと染み通った。思わず、ぶるっ、と身震いしてしまう。 「お、どしたどした?お化けでもいた?」 聡一郎が俺の頭をぽんぽんとなで、わざとらしく心配げな顔で覗き込んできた。 「いねーよ、お前のアイスが冷たすぎただけだよ、つーか、口にアイスついてるぞ。うわ、だっさー。」 むかつくので、わざと嘘を言ってやる。 「え、嘘、」 「ほんとほんと。」 「え、どこどこ、ここ?」 「違う違う、もっと上、いや、もっともっと。」 そう言って、聡一郎の、ついたアイスクリームを探す手を、どんどん上に持っていかせる。 「え、ここ?え、おでこ?」 「そうそう。」 「んな訳ないだろ!って言うか、口って言ってたじゃねぇか!」 「あ、ばれた?」 やっぱり流石に無理があったか。 「嘘だったのか!アイスがついてるって言うのは!」 「そうですねぇ。イケメンで品行方正な竹中聡一郎君の口に、アイスが付くはずないですものねぇ。」 ニヤニヤと笑って言ってやると、聡一郎は、形の良い切長の目を細めて、睨んできた……のだが。 「ぶふ、」 出し抜けに、聡一郎の口から、気の抜けるような音が漏れた。 「ふふ。」 つられて、俺の口からも、そんな音が漏れた。 「はははははっ、」 「ふふ、ははははっ、」 深夜に大笑いなんて、おそらく迷惑だろう。だが、声を抑えようとしても、笑いを止めようとしても、漏れ出す声は止められなかった。すいません、不良の高笑いとでも思っていてください。 そんなことを思いながら、腹を抱えて笑う。はー、可笑しい。いや、何が可笑しいんだ? もう完全に深夜のテンションに入ってしまったようで、一旦笑いがおさまったところでそろそろ帰るか、とやっとの事で立ち上がり、お互いふらふらとしながら歩き出しても、ちょっと石に蹴躓いた、というぐらいのことで、また笑いは再発した。 「はー、苦しいー、」 「腹いてー、」 ふと、空を見上げると、ボウ……と光る半月が目に飛び込んできた。 「月が…綺麗だなぁ……。」 しみじみと呟く。 こんな時間に、二人で出歩いて、見ているのはお月様だけ、というような。お月様は何もがみがみ言わなくて、ただ、俺達の上で、浮かんでいるだけで。夜が、好きだなぁ。 「え、なに、告白?」 「え?」 「ほら、『月が綺麗だ』って、I love youっていう意味だろ?」 「は、いや、違うって、そのままの意味。」 そうやって聡一郎はすかさず茶化してくるが、それも、俺達の夜の散歩の一部で、楽しいことでもある。 なんだか、月を見て、あの深夜のテンションが一気に冷めて、反対にしみじみしてしまった。 あの冷たい柔らかい青白い光が、そうさせるのだろうか。 聡一郎の肩に、腕を回す。 すると、聡一郎も俺の肩に腕をガシッと回してきた。 二人、肩を組んで、歩く。 てくてく、てくてく。ペタッペタッペタッペタッ。 夜の静けさに、二つの足音が響く。 そのあとを、白い、街灯と星と月の光が追いかけた。 てくてく、てくてく。ペタッペタッペタッペタッ−−− 「じゃ、また明日。」 「おう、また明日。」
文を繋げる小説
「あれ、僕、鍵渡したっけ?」 訝しく思い、聞くとAちゃんは、にひっと笑って言った。 「どうだったでしょう?」 Aちゃんの手にしっかりと握られた鍵が、チャリ、と音を立てた。
第7回N1 白から
叔母さんが、亡くなった。 叔母は元・京都祇園の芸妓さんで、三年前結婚で引退し、地元である神奈川に帰ってきた。 叔母と僕は、すごく仲が良く、僕は叔母を「菊姐さん」と呼んでいた。母の姉で、名前が「菊」だったのもあるし、僕達がまるで、年は離れているが本当の姉弟のような仲の良さだったのもある。 休みの時は、家族でよく、母方の祖父母と菊姐さんがいる京都に行った。 まぁ、菊姐さんは芸妓さんだったので、休みが毎週末ある、とかいう訳ではなかったから、休み中京都に行っても、一、二日程しか会えなかったが、会った時は、二人で思い切り遊んだ。公園で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり。トランプや百人一首なんかもした。妹が生まれて、歩けるようになると、妹も一緒に三人で遊ぶこともあった。 僕は菊姐さんが大好きだった。 菊姐さんは元からずいぶん美人な人だったが、たまに見る、芸妓姿の菊姐さんは更に綺麗だった。 白粉と紅で彩られた顔と首筋の上に、漆黒の、島田髷に結ったかつらをつけて、鼈甲の櫛や紅い玉かんざしをさし、美しい絵柄が施された綺麗な色の着物に、金糸銀糸を織り込んだ立派な帯を締め、赤い襦袢をのぞかして颯爽と、しかし上品に歩く様はかっこよくて、憧れた。 小学二年までは、男はなれないということを知らずに、将来の夢は芸妓さんだ、と言っていたぐらいだ。 菊姐さんが舞妓さんの頃の姿は、僕はその頃まだ小さくて、あまり覚えていない。ただ、すごくきらきらしていた、という印象が残っている。 姐さんとは、文通もしていた。届いた手紙はいつも、生八ツ橋の空き箱に大事にしまって、とっておいた。 菊姐さんが神奈川に帰ってきてからは、僕らの家と菊姐さん夫婦の新居がすごい近所だったのもあり、お互いの家によく行った。 僕らは二人とも、映画、特に時代劇が好きで、お饅頭や煎餅などをぽりぽり食べながら、二人でソファーでくつろいで、観ていた。菊姐さんが、芸妓になろうと思ったきっかけも、時代劇だったらしい。 たびたび、僕は、妹と一緒に菊姉さんから踊り−−つまり日本舞踊を教えてもらったりもした。菊姐さんは、踊りの得意な芸妓さんだった。踊りが好きだったので、芸妓さんをやめてからも、踊りは日々練習していた。 「タカ、これ、結婚式で着た白無垢なんやけど。」 ある日、菊姐さん家で踊りを教えてもらって、少し休憩をしていると。突然、菊姐さんが言った。 菊姐さんの言葉は、京都にいた頃の、芸舞妓さんの言葉と標準語が混ざって、少し独特な言葉になっている。 「私ね、これ、喪服に仕立て直そうと思うてて。」 「えっ、喪服って黒じゃなくて?」 そう聞くと菊姐さんは、 「昔は、喪服は白やったでしょ?白って、〈死〉も表すけど、〈再生〉の意味もあるらしくてね。まぁ、死の穢れを祓う、みたいな意味もあるみたいやけど、おんなじ白い服を着て、あの世へ旅立つ人の不安を和らげる、って意味もあって。なんか素敵やなぁ、って思わへん?ま、あんまり着る機会はないかもしれへんけど。」 と白無垢をつるりと撫で、笑った。 「確かにそういえば、時代劇の喪服って、いっつも白かったね。そういう意味があったのかぁ。」 世界が少し、広がった気がした。 「昔は黒く染めるのが、大変だった、っていうのもあるみたいやけどね。平安時代の庶民とか。」 「ああ〜。」 けっこう現実的でもあるんだな、と思った。 「菊姐さん、じゃあさ、これ、どこで仕立て直してもらうの?」 僕も白無垢の、白い絹の光沢のある生地を触ってみた。 「京都の馴染みのとこに、久しぶりだし、頼もかなって思うてる。」 「おお、いいじゃん。」 「商店街の和菓子屋さんで豆大福買って持っていこうかなぁ。」 「よもぎ餅もいいんじゃない?」 「あっそうやね!」 二人でよもぎ餅や大福の美味しいあの幸せな味を思い浮かべて、つばを溜めていると。 「だからさ。」 ふいに、菊姐さんが言った。 「もし私がこの、喪服に仕立て直したあとの白無垢を着る前にあの世へ行ったら、私の代わりにタカが着てくれる?」 「えっ何言ってんの、菊姐さん!僕、男だし、自分の死装束にしなくていいの?というか、死なないでよ。」 面食らって思わず叫ぶと、 「せっかく仕立て直したのに、一度も人を見送れへんなんて、なんか可哀想でしょう?」 と真面目な顔をして、 「ははっ、ま、冗談、冗談どす。」 と笑った。 それは、十二月の、雪混じりの寒風吹き付ける、身が縮まるような日の朝だった。 母から電話で、高校の修学旅行で京都にいる僕のもとへ、菊姐さんが危篤だと知らせが来た。 菊姐さんは最近、肺炎を患っていて、病院で治療を受けていたのだった。 僕はすぐさま先生に事情を話して、泊まっていた旅館を飛び出し、神奈川行きの新幹線に乗った。 時間の一分一秒が惜しかった。早く早くと願った。持ち直してくれと願った。 だが、菊姐さんが入院している病院に駆け込み、病室に行くと、時はすでに遅かった。 菊姐さんの身体は、まだほのかに温かさを残しているだけで、中には何も入っていない、空っぽの感じがした。 頭が、真っ白になった。 それから、いろいろ手続きをして、いろんな人に連絡して、お通夜があって、明日はもう葬式だった。 葬式には、お通夜の時と同じように、普通に制服を着るつもりだった。 (もう明日が葬式……。) ハンガーにかけて壁に吊るした制服をぼんやり眺める。 (お葬式…。) 「ピリリリッピリリリリッピリリリリッ…」 突然、ベッドの上に置いた携帯の音が、部屋の中のぼんやりした空気を貫いた。 一瞬、びくっ、としてから、携帯を手に取る。画面を見ると、菊姐さんの旦那さんの、陽二郎くんから電話だった。 「…はい、もしもし、」 「あっ、もしもし、タカくん?ちょっとうちに来れる?今。菊ちゃんからタカくんに渡したいものがあるかもしれない。」 (あるかもって、どういうことだ。) そう思いながらも、僕は、わかった、と答えた。 「これなんだけどさ。」 そう言いながら、目を泣きはらして真っ赤にした陽二郎くんが出してきたのは、〈おあつらえ〉と書かれた、たとう紙に包まれたものが三つと小さめの風呂敷包みが一つだった。 「こんな書き置きが一緒に置いてあって。」 続いて、二つに折り畳まれた便箋を渡してきた。 手にとって、開いてみると、中には、菊姐さんの流れるような文字があった。 タカ、もし私が死んだら、やっぱりこれ着てもらえへんやろうか? タカに着てもらいたい。 女物で、すんまへん。 菊より 広い空間の中に、たった四行ほどの文字。 「いいよ、わかった。」 あの時の言葉は、どうやら冗談ではなかったらしい。半ば本気、だったようだ。 「えっ、本当にいいの⁉︎タカくん。」 少し驚いたようにいう陽二郎くんに、僕はうん、と頷いた。 「ありがとう、タカくん…。あっ、タカくん、着物着れる?」 「うん、着れる。菊姐さんに、教わったから。できなかったら、母さんに手伝ってもらう。」 「おっけ、よかった。でも菊ちゃん、女の人の着物の着方教えてたんだねー。タカくんに。」 「いいからいいからって言って、半ば強引に覚えさせられた感じかな。」 「はははっ、菊ちゃん…。」 そっとたとう紙を開くと、中には、純白の着物と帯と、半衿がついた長襦袢が畳んで入っていた。 真っ白な頭に、少し色が戻ってきた気がした。 その次の日、葬式に行くと、真っ白な着物を纏った僕を見て、皆がどよめいた。女物だもんな、とぼんやり思う。 母や父にも、菊姐さんの白い喪服を着る、と言った時驚かれて、止められた。妹はそんなに反対しなかった。 皆が黒い中、一人だけ白い僕は、目立っただろう。 白い着物、帯。帯揚げ、帯締め、半衿。足袋に、草履。顔には、白色の中際立つ男の肌の浅黒さを薄めるために、妹に人生初のファウンデーションを自然な感じで塗ってもらった。ついでに、薄桃色の口紅も、唇にほんのりさされた。そんな中、顔の中央には、存在感のある黒縁の眼鏡が陣取っていた。 気恥ずかしさは、ある。 でも、それ以上に、頭の中が白くぼんやりと霧がかっていて、あまり気にならなかった。 「菊ちゃんに、そっくりどすなぁ。」 菊姐さんの友達の、芸妓さんに言われた。 「こりゃびっくりだ。」 陽二郎くんが言った。 葬式は、つつがなく行われ、最後に、熱の中へと送り出された菊姐さんの身体は、骨になって帰ってきた。 骨を見ても、涙は出なかった。全てが、ぼんやりしていた。 葬式の後の食事会からは、少し早めに帰らしてもらった。 父も母も妹も、喪主である陽二郎くんも、皆が帰るまで残るつもりらしく、帰り道は一人だ。 家は歩いて行ける距離なので、なんとなく歩いた。道に、草履のパタパタという音が響いた。 ふと立ち止まって、横土手の下の川を眺めている時だった。 「よお、姉ちゃん。全身真っ白なカッコして、何?結婚式帰り?」 いきなり、肩をぐっ、と掴まれた。 なんだと振り向くと、金髪でちょび髭を生やした、いかにもチャラくて柄の悪そうな男と、その取り巻きみたいな、これまた派手な髪色をした男二人に囲まれていた。 「いや、葬式帰り。」 まぁ、穏便に済まそうと、とりあえず答える。 だが、男共は、僕の口から男の低い声が出てきたのに驚いたらしく、品のない大きな声を盛大にあげた。 「えっ、お前、男なの?なんだ、騙されたじゃねぇかよ。え、なんでそんなカッコしてんの、え、それ女のだよね、その着物。てか、なんで白いの、普通黒じゃね?」 男の口から次から次へと質問が飛び出してくる。その間ずっと肩を掴まれたままだし、うるさい。 「白い喪服もあるんだよ。」 答えるのが面倒なので、ただそう言って立ち去ろうとすると、男はなおも、 「え、なになに、どういうこと、白い喪服なんてあんの、てか俺葬式出たことないからわかんねー!」 と僕の腕を掴んでギャハハと笑い、 「てか、なんで女物なの、服。それ一番気になるんだけど。何それ、もしかしてお前オネエなの?」 と喋ってくる。 「うるさい。離せよ。」 思わず、呟いてしまった。 それを男共は敏感に聞き取った。 「あ?うるさい?」 「生意気な坊やだなぁ。」 どん、と肩を突き飛ばされ、僕は茶色に枯れた草で覆われた、土手に転がった。ところどころ覗く、溶けた雪で湿った土が、菊姐さんの喪服の白に、茶色い跡をつけた。 「何すんだよ!」 頭に血が登って、目の前が赤くなった。 それからは、乱闘になった。 こっちが殴りかかれば、あっちも殴りかかり、蹴る。何度も地面に転がされた。白い喪服は、さらに茶色に染まった。 頭のどこかでは、バカだ、と思っていたが、怒りが勝った。激しく動いて体が火照っていくと同時に、胸には灰青色の気持ちが滲んで広がっていった。 近所の家の人か、歩いていた人が、僕らの様子を通報したらしく、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。 気づいたら僕は、泣いていた。 大声で、声をあげて、泣いていた。 胸は、灰青色でたぷたぷだった。 警察が来た。 男共から引き剥がされた。 父と母と妹が来た。 陽二郎くんが来た。 僕は、泣いた。 涙で、身に纏う茶色と白のまだらに、灰色が混ざった。 背中をさする母の手が、暖かかった。 泣いていると、だんだん、胸の中に溜まっていた灰青色が、涙と一緒に流れていった。 あとに残ったのは、淡い黄色がかった、まっさらな愛しい色だった。