月詠 雛

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月詠 雛

04(21) 夢で実際に見た話や、日々の体験をもとに文章を書いています。 詩・小説・エッセイなど、ジャンルにとらわれず言葉を残しています。

“AIだから”で、全部終わらせる人たちへ

「チャッピーやん」 「自分で描いたわけでもないのに」 「承認欲求すご」 「制作陣が可哀想」 「コンテンツ潰す気?」 気づけば、作品の感想より、 人格診断みたいなコメントの方が増えていた。 最初はただ、 「こんなプリキュアがいたらいいな」 を形にしたかっただけだった。 このテーマなら、 こんな変身アイテムで、 こんな学校で、 こんな妖精がいて、 こんな敵がいて。 頭の中にはずっと世界があった。 でも私は、 それを上手く描ける人間じゃなかった。 だからAIを使った。 それだけの話だった。 でも、SNSは単純だ。 “AI”という単語を見た瞬間、 中身を見なくなる人がいる。 世界観も、 設定も、 キャラクターも見ない。 ただ、 「AI使ってる」 それだけで、 急に説教モードに入る。 面白いのが、 そういう人たちほど、 “創作の自由”を語るくせに、 実際は自分の価値観から少しでもズレた瞬間に排除しようとするところだ。 「手描きなら良かったのに」 いや、 じゃあ聞くけど。 もし私が何年も絵を練習して、 同じキャラを手描きで出してたら、 お前らは本当に黙ってたのか? 多分、 今度は別の理由を探して叩いてたと思う。 「本家に似すぎ」 「センスが古い」 「〇〇のパクリ」 結局、 叩きたい人って、 理由を探してるだけなんだよ。 「制作陣が可哀想」 これもよく見る。 でも、その制作陣って、 いつからお前らの所有物になったんだろう。 公式でもない、 関係者でもない人間が、 勝手に“公式の代弁者”みたいな顔してるの、結構滑稽だ。 しかも、 「アイデア潰す」とか、 「コンテンツ終わる」とか、 話がデカすぎる。 個人のSNS投稿で終わるコンテンツなら、 とっくに終わってるだろ。 プリキュアって、 そんな脆い作品だったっけ。 「SNSに上げるな」 これも言われた。 個人で楽しむならいいけど、 公開するなって。 でも、 創作って、 誰にも見せずに押し入れにしまっておくものだけが正義なの? だったら、 イラスト投稿サイトも、 同人誌も、 コスプレも、 夢小説も、 全部ダメになる。 結局、 AIっていう存在が気に入らないだけじゃないの。 「承認欲求」 便利な言葉だと思う。 ネットでは、 誰かを下げたい時、 とりあえずそれ言っとけば勝った気になれる。 でも、 そもそもSNSに作品上げてる時点で、 “見てほしい”気持ちゼロの人なんているの? 絵師も、 レイヤーも、 作曲する人も、 小説書く人も、 みんな少しは「届いてほしい」がある。 なのに、 AI使った瞬間だけ、 急に“承認欲求モンスター”扱いされる。 都合良すぎない? しかも、 「自分で描いてないのに」って言う人ほど、 私がどれだけ設定考えてるか知らない。 テーマを考えて、 キャラ名を考えて、 関係性を考えて、 学校名を考えて、 敵組織を考えて、 必殺技を考えて。 その過程を全部飛ばして、 「ボタン押しただけ」 で片付ける。 楽だよね。 人を雑に扱うのって。 でも、その一方で。 「この子好き」 「この世界観めっちゃ好き」 「声当てしたい」 って言ってくれる人もいる。 AIだとか、 手描きだとか関係なく、 ちゃんと“作品”として見てくれる人がいる。 私は多分、 そういう人たちに救われてる。 だからもう、 最近は思う。 アンチって、 作品を壊すために来るというより、 “自分の中の正義”を気持ちよく語りに来てるだけなんだなって。 「わかるかな?」 って、 上から教えてくる人もいた。 でも、 本当に分かってないのは、 創作の形が時代で変わっていくことを受け入れられない側かもしれない。 私はこれからも作ると思う。 また「〇〇じゃん」って言われるし、 また「チャッピー」って言われる。 でも、 それでも作る。 だって私は、 公式になりたいわけじゃない。 誰かを潰したいわけでもない。 ただ、 頭の中にある世界を、 形にしたいだけだから。 そしてもし、 それを見て、 「好き」って言ってくれる人が一人でもいるなら。 私は、 その声の方を信じたい。

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命名

「その一言、物語にします !! 」 より じゃらねっこ様。 赤ん坊の泣き声が、静かな病室に響いていた。  外は雨だった。  窓を叩く雨粒の音がやけに強くて、まるで世界そのものが薄暗く沈んでいるみたいだった。 「……女の子ですよ」  助産師がそう言って、小さな命を母親の胸元へそっと抱かせる。  けれど、その場にいた誰も、すぐには笑わなかった。  母親の美咲は、疲れ切った顔で天井を見つめていた。  父親の直人は、少し離れた場所で腕を組んだまま黙っている。  生まれてきたことは嬉しい。  本当は嬉しいはずなのに。  現実は、それだけでは済まなかった。  直人の会社は倒産寸前だった。  貯金もほとんど無い。  美咲も妊娠を機に仕事を辞めている。  これから先、この子をちゃんと育てていけるのか。  その不安が、病室の空気を重くしていた。 「名前……どうする?」  直人が小さく呟く。  けれど、美咲は答えなかった。  名前なんて、まだ考えられなかった。  お腹の中にいる時は、 「生まれてきてくれればそれでいい」 と思っていた。  でも実際に生まれてくると、 “これから”が急に現実になる。  ミルク代。  おむつ代。  保育園。  学費。  将来。  考えれば考えるほど、苦しくなった。  そんな空気を破ったのは、病室の隅にいた祖母だった。 「名前はねぇ、“願い”なんだよ」  しわだらけの手で赤ん坊を抱きながら、祖母は静かに言った。 「願い……?」  美咲が顔を上げる。 「そう。命名っていうのはね、この子に最初に贈る祈りみたいなもんだ」  祖母は赤ん坊の小さな指を撫でる。 「昔はね、名前に“生きてほしい”って願いを込めたんだよ」 「病気せずに」 「飢えずに」 「誰かに愛されるように」 「幸せになれるように」  祖母の声は穏やかだった。  でも、その言葉には不思議な重みがあった。  美咲は赤ん坊を見る。  小さかった。  驚くほど小さい。  こんなにも小さい命が、 これから長い人生を生きていくのだ。  泣いて。  傷ついて。  恋をして。  きっといつか、 親の手を離れていく。  その時、 この子は自分の名前をどう思うのだろう。  好きになってくれるだろうか。  それとも、 嫌いになる日が来るのだろうか。 「……この子ね」  美咲はぽつりと言った。 「お腹にいる時、私、何回も駄目かもしれないって言われたの」  直人が顔を上げる。 「切迫早産で入院して、 ずっと点滴してて……」 「毎日怖かった」 「だから、“生まれてきてくれた”ってだけで、本当は十分だったんだよね」  涙がぽろりと落ちた。 「でも欲張りだよね」 「今度は、“幸せになってほしい”って思っちゃう」  祖母は優しく笑った。 「それでいいんだよ」  病室に沈黙が落ちる。  雨音だけが静かに続いていた。  その時だった。  雲の隙間から、ほんの少しだけ光が差し込んだ。  薄暗かった病室が、柔らかく明るくなる。  赤ん坊が小さく目を細めた。 「あ……」  美咲が息を漏らす。  その光は、 まるでこの子の未来を照らしているみたいだった。 「陽菜……」  気づけば、美咲はそう呟いていた。 「え?」 「陽の光の、“陽”」 「菜の花の、“菜”」  直人がその名前を小さく繰り返す。 「……陽菜」  不思議と、 その名前はすっと胸に落ちてきた。  暗い場所でも、 ちゃんと光を見つけられる子になりますように。  寒い季節でも、 花を咲かせられる子になりますように。  そんな願いを込めて。  祖母は静かに頷いた。 「いい名前だねぇ」  美咲は陽菜を抱きしめる。  小さな体は温かかった。  命名とは、 ただ名前を決めることじゃない。  この先の人生を、 どうか幸せに生きてほしいと願うこと。  愛を、 言葉に変えることなのだ。

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水平のシーソー

子どもの頃の記憶には、たまに「今思い返しても説明がつかないこと」が混ざっている。 それは、テレビで見るような派手な怪奇現象じゃない。 むしろ、あまりにも静かで、日常の中に溶け込んでいるからこそ、不気味だった。 中学一年生のある日の放課後。 私は仲の良い友達二人と、公園で遊んでいた。 特別なことは何もない、いつもの帰り道だった。 ブランコを漕いで、シーソーに乗って、くだらない話をして笑っていた。 その時、一人でシーソーに乗っていた友達Aが、不思議そうな顔で言った。 「なんか、誰か乗っとるみたいな重さある」 冗談っぽく笑いながら言っていたけれど、私は少しだけ違和感を覚えた。 確かに、そのシーソーは妙な動きをしていた。 誰も反対側に乗っていないのに、変に重い。 まるで、見えない誰かが向こう側に座っているみたいだった。 でも、その時は「気のせいだろう」で終わった。 古い遊具だったし、錆びていたのかもしれない。 そう思っていた。 友達Aがシーソーから降りた、その瞬間までは。 普通なら、誰もいなくなったシーソーは、どちらかに傾くはずだった。 けれど。 シーソーは、ぴたりと水平で止まっていた。 まるで、見えない誰かと釣り合っているみたいに。 風もなかった。 誰も触っていなかった。 なのに、不自然なくらい綺麗に水平だった。 その瞬間、みんな黙った。 さっきまで笑っていた空気が、一気に冷たくなった。 怖くなって、私たちはそのまま公園から逃げた。 でも、不思議だったのはそこからだった。 次の日。 なんとなく気になって、私はその公園を見に行った。 シーソーは、また水平だった。 次の日も。 そのまた次の日も。 誰も乗っていないのに。 まるで、“そこに誰かが座っている”みたいに。 もちろん、今なら色々な理由を考えられる。 古い遊具の重心がどうとか、地面の傾きだとか。 でも、あの頃の私は、そんなこと考えられなかった。 ただ、夕方の公園で静かに止まっているシーソーが、異様に怖かった。 今でもたまに思い出す。 誰もいないはずなのに、ずっと水平だった、あのシーソーを。

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鏡の隣の個室

「幽霊なんて、本当にいるの?」 そう聞かれたら、私は今でもうまく答えられない。 信じているわけでもないし、完全に否定できるわけでもない。 ただ、「あれは何だったんだろう」と思う体験なら、一度だけある。 中学一年生の夏休み。 私は吹奏楽部に所属していて、コンクールに向けて毎日学校で練習をしていた。 その日も、お昼休みに友達と一緒にトイレへ向かった。 私の中学校のトイレは少し変わった構造をしていて、中央に大きな手洗い場があり、その左右に個室が並んでいた。 入口を入ってすぐ、左と右の壁には大きな鏡。 左側に二つ、右側に三つの個室がある。 私は左側の奥の個室へ入り、友達はその隣の個室へ入った。 しばらくして、友達が先に出たらしかった。 すると突然、外から焦った声が聞こえた。 「ひなちゃん、早く出てきて」 その声が妙に切羽詰まっていて、私は急いで個室を出た。 友達は真っ青な顔で、ある個室を指差していた。 さっきまで友達が使っていた、鏡のすぐ隣の個室だった。 扉は閉まっている。 鍵もかかっていて、表示は赤になっていた。 「誰かいるの?」 そう聞くと、友達は首を横に振った。 「いないよ。私とひなちゃんしかおらん」 意味がわからなかった。 窓は閉まっている。 風で閉まるような扉でもない。 しかも、さっきまで開いていたはずの個室が、鍵まで閉まっている。 友達は震えながらノックをした。 コンコン。 返事はない。 もう一度。 コンコン。 やっぱり返事はない。 その静けさが逆に怖かった。 私たちは逃げるようにトイレを飛び出した。 その日はちょうど、近くの部屋で陸上部も活動していた。 事情を話すと、仲の良い子が少し顔を曇らせて言った。 「うちのお姉ちゃんも、同じ体験したことあるらしいよ」 結局、みんなでもう一度トイレへ向かうことになった。 けれど、その個室は開いていた。 中には、誰もいなかった。 陸上部の部屋からトイレまでは一本道だ。 誰かが出ていれば、絶対にすれ違うはずだった。 でも、誰も見ていない。 その日の部活中、私は何度もあの赤い鍵表示を思い出していた。 後日、陸上部の少し仲の良い先輩にLINEでその話をした。 すると、こんな返事が来た。 「昔、この学校で事故があったんよ」 そのトイレの近くには、一年生の教室がある。 昔、そのクラスに運動神経のいい男子生徒がいたらしい。 雨の日、その男子はふざけて言ったという。 「教室の窓から、トイレ前の廊下まで飛んでみる」 教室の外には、室外機が置かれている狭い足場がある。 そこへ出て、飛び移ろうとして―― 雨で滑った。 落ちて、そのまま亡くなったらしい。 その話を聞いた瞬間、背筋がぞわっとした。 もちろん、本当かどうかは分からない。 学校の怪談なんて、尾ひれがつくものだ。 でも、もし。 もし本当に、あの日あの場所に“誰か”がいたのだとしたら。 あの閉まった扉の向こうには、誰がいたんだろう。 それ以来、私は鏡のすぐ隣の個室を使えなくなった。 今でも、たまに思い出す。 夏の学校のトイレは、どうしてあんなに静かだったのだろう、と。

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「好き」を続けるって、そんなに悪いこと?

「なんでこの人だけこんなに批判されてるの?」 正直、コメント欄を見たときに最初に思ったのはそれだった。 同じようにオリジナルのプリキュアを作ってる人はたくさんいる。 むしろ、SNSには“オリキュア”なんて言葉が普通にあるくらい、当たり前の文化になってる。 それなのに、 ある人には「すごい!」「センスある!」「本家っぽい!」 って褒め言葉が並ぶのに、 別の人には 「ネタがなくなる」 「著作権的にどうなの?」 「本当は好きじゃなさそう」 …って、まるで人格まで否定するような言葉が向けられる。 この差って、なんなんだろう。 作品の質? いや、正直それだけじゃないと思う。 たぶん、“空気”だ。 最初に誰かが否定すると、 それに乗っかる人が増えていく。 ちゃんと作品を見たわけでもなく、 ただ「なんとなくダメっぽいから叩いていい」みたいな流れができる。 それって、本当にその人の作品に向き合ってるって言えるのかな。 私は絵が上手いわけじゃない。 むしろ、苦手な方だと思う。 でも、それでも「自分の中にある世界」を形にしたくて、 AI生成を使ってオリジナルのプリキュアを作ってる。 それはズルでも、手抜きでもなくて、 “自分なりの創作の方法”だと思ってる。 誰かみたいに綺麗に描けなくても、 アイデアとか設定とか、物語とか、 そういう部分で勝負したっていいはずでしょ。 「著作権の問題じゃない?」 っていうコメントもあった。 たしかに、その視点も分からなくはない。 でも、だったら同じように投稿してる他の人たちはどうなるの? そこには触れずに、 一部の人だけを叩くのって、ちょっと違う気がする。 結局それって、“正義”じゃなくて、 ただの好き嫌いとか、ノリとか、感情でしかない。 あと、一番刺さったのがこれ。 「この人、本当はプリキュア好きじゃなさそう」 これ、正直かなり悔しかった。 だって、 好きじゃなかったら、こんなに考えないし、 こんなに作らない。 名前も、設定も、衣装も、世界観も、 ひとつひとつ悩んで決めてる。 むしろ、 “好きだからこそ”やってるのに。 それを一言で否定されるのって、 結構、しんどい。 でもね、思った。 それでも私は、やめない。 どれだけ言われても、 「好き」でやってることは、簡単に手放したくないから。 誰かに認められるためだけにやってるわけじゃない。 自分が楽しいと思えるから、 自分の中の「好き」を形にしたいから、 続けてる。 もちろん、全部の意見を無視するわけじゃない。 ちゃんと考えるし、必要なら見直す。 でも、 “ただの否定”に振り回される必要はないと思ってる。 創作って、 誰かの許可がないとやっちゃいけないものなのかな。 「好き」を表現することって、 そんなに制限されるべきものなのかな。 私は、 自分のペースで、自分のやり方で、 これからもオリジナルのプリキュアを作り続ける。 たとえ誰かに笑われても。 たとえ否定されても。 それでも残るものが、 きっと“本当に自分の好きなもの”だから。 「手描きなら許されて、AIならダメなの?」 コメント欄を見ていて、ふと思った。 「手描きならいいのか?」 同じ“オリジナルのプリキュア”。 同じように、既存作品から影響を受けて、 同じように、自分の中の「好き」を形にしている。 それなのに—— 手描きなら「すごい」「愛がある」 AIなら「簡単」「問題」「やめた方がいい」 この違いって、なんなんだろう。 たぶん、多くの人はこう思ってる。 手描き=時間と努力が見える AI=一瞬で作れる、楽してる だから、評価が変わる。 でも、それって本当に“作品”を見てるのかな。 完成したものじゃなくて、 「作り方」だけで判断してない? 私は、絵が得意じゃない。 でも、頭の中には世界がある。 キャラクターも、設定も、ストーリーも、 ちゃんと考えてる。 ただ、それを“自分の手で描く”ことができないだけ。 だからAIを使ってる。 それって、 「楽をしてる」って言われるようなことなのかな。 むしろ逆で、 自分にできないことを認めて、 別の方法で表現しようとしてるだけなんじゃないかなって思う。 もちろん、AIに対して違和感を持つ人がいるのも分かる。 ・既存の絵に似てしまう可能性 ・簡単に量産できてしまうこと ・誰でもそれっぽく作れてしまうこと そういう不安やモヤモヤがあるのも事実。 でもそれは、 「AIだからダメ」じゃなくて、 “どう使うか”の問題じゃないのかな。 手描きだって、 トレースや模倣が問題になることはある。 逆にAIでも、 ちゃんとオリジナルとして考えて作ってる人もいる。 結局は、 手段じゃなくて、中身。 「制作側に入ればいいのに」 っていうコメントもあった。 それも一つの意見だと思う。 でも、全員がプロになれるわけじゃないし、 プロになることだけが“正しい好きの形”でもない。 ただ好きで、 ただ楽しくて、 ただ作りたくてやってる人だっている。 それだけじゃダメなのかな。 「SNSに出すのは迷惑」 それも、完全に間違いとは言い切れない。 でも、 創作を“発信すること”自体を否定し始めたら、 ほとんどの二次創作やファン活動は成り立たなくなる。 どこまでがOKで、どこからがダメなのか。 その線引きは、実はすごく曖昧で、 だからこそ人によって意見が分かれる。 だから私は思う。 手描きかAIか、じゃない。 許せるか許せないか、でもない。 ただ、 「その人がどれだけ本気で“好き”を形にしてるか」 それだけなんじゃないかなって。 私は、これからもAIを使う。 でもそれは、 楽したいからじゃない。 描けないから諦めるんじゃなくて、 別の方法で“作りたい”から。 もしそれを否定されるなら、 それでもいい。 でも、少なくとも私は、 「好き」をやめる理由にはしない。 「これは予想じゃない、“私の中の世界”の話」 コメントで言われたことがある。 「これ、次のプリキュアの予想でしょ?」 違う。 私は、予想なんてしてない。 次にどんなプリキュアが来るかなんて、 正直分からないし、そこに関わる立場でもない。 それに、 「現実で採用されてほしい」なんて思ってるわけでもない。 ただ、 「こんな子がいたらいいな」 「こんな世界だったら面白そうだな」 「このテーマでプリキュアがあったら絶対好きだな」 そういう、“もしも”の中で作ってるだけ。 私の中にある世界を、 私なりの形で外に出してるだけ。 それがたまたま「プリキュアっぽい」ってだけで、 別に現実を奪おうとしてるわけじゃない。 でも、それが伝わらないこともある。 「ネタがなくなる」 「制作側に迷惑」 「AIで簡単に作ってる」 「本当は好きじゃなさそう」 いろんな言葉が飛んでくる。 正直、全部が平気なわけじゃない。 ちゃんと見て、ちゃんと考えて、 それでも出してるものだから。 否定されれば、やっぱり少しは刺さる。 でも、その中で気づいたことがある。 アンチの声がある一方で、 「このキュア好き」 「世界観めっちゃいい」 「声あてしてみたよ」 って言ってくれる人もいる。 ただの“画像”だったはずのキャラクターに、 誰かが声を当ててくれる。 誰かの中で、動き出す。 それってもう、 ただのデータじゃなくて、 ひとつの“存在”になってる気がした。 私は絵が上手くない。 だからAIを使ってる。 それを否定されることもある。 でも、 その先に“何かを感じてくれる人”がいるなら、 それってちゃんと意味があるんじゃないかなって思う。 手描きか、AIか。 そんなことよりも、 そのキャラクターが誰かに届いたかどうか。 誰かの中で、少しでも“生きたかどうか”。 私にとっての創作は、 「予想」でもなければ、 「現実への干渉」でもない。 ただ、 自分の中にある世界を、外に出すこと。 これからもきっと、 否定する人はいる。 でも同時に、 好きだと言ってくれる人も、必ずいる。 だから私は、 その両方を受け止めながら、 それでもやっぱり、 作ることをやめないと思う。 だってこれは、 誰かのためじゃなくて、 “自分の中にあるものを、ちゃんと形にしたいから” やってることだから。

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“オリジナル”って、誰のもの?

「AIで作ってドヤられても」 「それ、自分で描いてないよね」 「オリキャラって言うのは違くない?」 そんな言葉を、最近よく見かける。 正直、最初は少しだけ刺さった。 でも同時に、どこか引っかかる感覚もあった。 ――じゃあ、“オリジナル”って、何だろう。 私は絵が得意じゃない。 線を引けば歪むし、頭の中のイメージをそのまま形にすることはできない。 でも、キャラクターを考えるのは好きだ。 名前をつけるのも、性格を作るのも、背景を想像するのも、すごく楽しい。 「こういう子がいたらいいな」 「この子はきっとこういう笑い方をする」 そうやって、何もないところから“誰か”を生み出す時間が、好きだった。 ただ、それを“見える形”にする力がなかっただけ。 だからAIを使った。 プロンプトを考える。 色、雰囲気、モチーフ、性格、世界観。 何度も試して、違うと思ったらやり直して、 ようやく「この子だ」と思えるものに出会う。 それって、本当に“何もしてない”と言えるのだろうか。 「AIは既存のものを元にしてる」 確かに、それはそうだと思う。 でも、それを言い始めたら、人間だって同じじゃないかとも思う。 私たちは、これまで見てきたアニメや漫画、 好きだったキャラクター、心に残ったデザイン、 そういう“記憶”の積み重ねからしか、何かを生み出せない。 完全にゼロから生まれるものなんて、本当にあるんだろうか。 “影響を受けること”と、“盗むこと”は違う。 そこに自分の意志や選択があるかどうか。 私はそこにしか、違いはないと思っている。 「AIで作って楽しいの?」 楽しいよ。 少なくとも私は、楽しい。 思い描いたイメージが形になった瞬間、 「この子、生まれたな」って思える。 それが手描きじゃなくても、 そこに込めた気持ちは、自分のものだ。 誰かに認められるためじゃなくて、 自分が「いいな」と思えるものを作る。 それって、創作の一番シンプルな形じゃないだろうか。 もちろん、線を引いて描ける人はすごいと思う。 一から自分の手で表現できるのは、尊敬しかない。 でも、だからといって それ以外の方法で表現することを否定する理由にはならないはずだ。 道具が変わっただけ。 やっていることの本質は、そんなに変わらない。 “オリジナルかどうか”を決めるのは、 技術じゃなくて、意志なんじゃないかと思う。 このキャラをどうしたいか。 どんな存在として扱うか。 どんな想いで生み出したのか。 それがあるなら、私はそれを“オリジナル”と呼びたい。 AIで作ったからダメ、じゃなくて。 その人が、何を込めて作ったのか。 そこを見られる世界のほうが、きっと優しい。 そして、創作って本来、そういうものだったはずだから。

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生活に出る人間性

「常識がない人は好きになれない。」 そう言うと、少しきつく聞こえるかもしれない。けれどこれは、私の中ではかなり正直な感覚だ。 専門学校の頃、ひとつ上の先輩と短い間だけ付き合っていたことがある。 優しい人だった。少なくとも、言葉だけを切り取ればそう見えた。 けれど、生理のときに言われた一言が、ずっと引っかかっている。 「はやく治るといいね」「頑張って」 悪気はなかったのだと思う。 でも、生理は病気じゃない。治るものでもない。 「頑張って」と言われるほど、こちらは怠けているわけでもない。 その言葉を聞いたとき、私はふと、ああこの人は“知らない”んだなと思った。 知ろうともしていないのかもしれない、とも。 それだけで別れを決めたわけではない。 でも、小さな違和感は、確実に心の中に積もっていった。 決定的だったのは、その後の何気ない光景だった。 お昼の時間、給湯室の流しにカップ麺の残りをそのまま流し、何事もなかったように去っていく姿を見た。 一瞬、目を疑った。 普通は、三角コーナーに捨てるんじゃないのだろうか。 汚したなら、次に使う人のために水で流すんじゃないのだろうか。 誰も見ていない場所での行動。 そこに、その人の本当の“当たり前”が出る。 そのとき、私の中で何かがすっと冷めた。 優しそうな言葉よりも、 誰にも見られていない場所での振る舞いの方が、ずっとその人を表している気がしたからだ。 保育や福祉の道は、人と向き合う仕事だ。 子どもや誰かの生活に寄り添う仕事だ。 だからこそ思ってしまう。 日常の小さな気遣いができない人が、その道に進むことに、どうしても違和感を覚えてしまう。 「常識」という言葉は曖昧だ。 時代や環境によっても変わる。 それでも、 “次の人のことを考える”とか、 “知らないことを知ろうとする”とか、 そういう基本的な姿勢は、きっと変わらないものだと思う。 私はきっと、そういう部分を見て人を好きになるし、 同時に、そういう部分で人を嫌いになる。 少し厳しいのかもしれない。 でもそれが、私の中の「好き」の基準だ。

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よくここまで頑張ってきたね

「一旦退職して、身体を治すことにしました」 そう伝えるために、子ども育成課の方のところへ行った日。 言葉にするまでに、どれだけ時間がかかっただろう。 負けたみたいで。 逃げたみたいで。 ずっと目指してきた「保育士」という道から、少し離れることが怖くて。 でも、もう限界だった。 うまく笑えなくなって、 朝が来るのが怖くなって、 子どもたちの前に立つことすら、しんどくなっていた。 それでも、「辞める」という言葉は、自分の中でなかなか許せなかった。 報告をしたとき、その人はすぐにこう言った。 「よくここまで頑張ってきたね!」 その一言で、何かがほどけた。 頑張ってきた、なんて思っていなかった。 むしろ、ちゃんとできなかったことばかり思い出していたから。 でも、そう言ってもらえたことで、 「ここまでの時間」を、少しだけ肯定された気がした。 続けて、その人は言った。 「幼稚園教諭の資格より、保育士の資格の方が断然たくさん使えるからね!」 「ひなちゃんは中学校から、保育士になりたいと頑張ってきたんだから! 大丈夫」 未来の話をしてくれた。 今じゃなくて、「これから」の話。 立ち止まっている私に、 「終わりじゃないよ」と、そっと道を繋いでくれるような言葉だった。 中学生の頃から、私はずっと保育士になりたかった。 子どもが好きで、 誰かの成長に関わる仕事がしたくて、 あの頃はただまっすぐに、それだけを見ていた。 でも実際に働いてみると、 理想だけじゃどうにもならない現実があった。 人間関係、責任、プレッシャー。 そして、自分の弱さ。 好きなはずの仕事なのに、 苦しくなってしまった自分が、どうしても許せなかった。 だからこそ、 「よく頑張ってきたね」と言われたとき、 嬉しさと同時に、少しだけ悔しかった。 もっとできたんじゃないか。 もっと続けられたんじゃないか。 そんな思いが、まだどこかに残っているから。 それでも、今は思う。 頑張ってきたことと、 立ち止まることは、きっと別の話だ。 壊れるまで続けることが「努力」じゃない。 自分を守るために一度離れることも、 同じくらい、大切な選択なんだと思う。 あの日かけてもらった言葉は、 魔法みたいに全部を前向きに変えてくれるものではなかった。 でも、確かに心に残っている。 「大丈夫」 その一言を、 今はまだ、完全には信じきれないけれど。 いつか、本当にそう思える日が来ることを、 少しだけ、信じてみようと思う。

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20時29分で止まった部屋

私の部屋の時計は、電波時計だ。 正確であることが売りの、あの“ズレないはずの時計”。 なのにその時計は、数年前からずっと——20時29分で止まっている。 最初に気づいたとき、私はただ「電池切れかな」と思った。 電波時計なのだから、少し狂ってもそのうち勝手に直るだろう、とも。 でも、直らなかった。 電池を替えても、壁の位置を変えても、窓の近くに置いても、 その時計は頑なに、20時29分から動こうとしなかった。 まるでそこに、何かを置いてきたみたいに。 ──20時29分。 特別な時間だったかと聞かれると、はっきりとは思い出せない。 誰かと電話していたのかもしれないし、 ただぼんやりスマホを見ていたのかもしれない。 でも、なぜかその時間だけが、私の部屋に取り残されている。 他の時間は全部、ちゃんと流れているのに。 朝は来るし、夜も来る。 季節も変わるし、私も少しずつ変わっている。 なのに、この部屋の片隅だけが、ずっと同じ場所に留まっている。 20時29分。 不思議と、その数字を見るたびに、少しだけ胸がざわつく。 何か大事なことを忘れているような、 でも思い出さなくていい気もするような、そんな感覚。 もしかしたらその時間、私は何かを手放したのかもしれない。 あるいは、気づかないうちに何かを失っていたのかもしれない。 時計は正確なはずなのに、 この部屋の時計だけは、やけに人間くさい。 止まる理由を持っているみたいに。 私は今でも、その時計を捨てられないでいる。 新しい時計はいくらでもあるし、スマホを見れば時間はわかるのに。 それでも、20時29分のままのその時計を、 私は今日も部屋に置いている。 たぶん私は、あの時間を完全には終わらせたくないのだと思う。 進んでしまえば、消えてしまうものがある。 でも止めておけば、そこにあることだけは確かになる。 だから今日も、私の部屋では 20時29分が静かに、止まり続けている。

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紙の森の呼吸

本屋の匂いって、どうしてあんなに落ち着くのだろう。 扉を開けた瞬間、ふわりと鼻に届くあの空気。紙とインクが混ざり合った、少し乾いた匂い。新品の本の、まだ誰にも触れられていない静けさと、長く棚に並んできた本の、時間を吸い込んだような深さ。その全部が一つになって、あの場所だけの空気を作っている。 私はあの匂いを嗅ぐと、不思議と呼吸がゆっくりになる。 急いでいた足も、いつの間にか止まってしまう。目的の本があったはずなのに、気づけば違う棚の前に立っている。背表紙を指でなぞりながら、「この中にはどんな世界があるんだろう」と想像する時間が、たまらなく好きだ。 本屋は、ただ本を買う場所じゃない。 誰かの人生の断片が並んでいて、知らない感情や考え方に出会える場所だと思う。ページをめくれば、遠い国の景色も、まだ経験していない恋も、痛みも、喜びも、全部そこにある。自分の知らない世界に触れるたび、少しだけ自分の中が広がっていく気がする。 だからこそ、あの匂いには安心があるのかもしれない。 現実がうまくいかない日も、言葉にできない気持ちでいっぱいな日も、本屋に入れば「ここにはまだ知らない何かがある」と思える。答えじゃなくてもいい。ただ、今の自分に寄り添ってくれる一冊が、きっとどこかにあると信じられる。 それは、少しだけ救いに似ている。 静かな店内でページをめくる音だけが響く中、私は何度も、自分を取り戻してきた。 本屋の匂いは、記憶の匂いでもある。 あの日立ち止まった棚、あのとき手に取った一冊、迷いながら選んだ言葉たち。そのすべてが、あの空気の中に溶け込んでいる。 だから今日も、ふとした瞬間に思い出す。 あの匂いを吸い込めば、また少しだけ前を向ける気がする、と。

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