宵依 (よい)
78 件の小説一度だけ、本気で怒られた夜。
私が祖父に本気で怒られたのは、一度だけだと思う。 それは、小学生の頃の冬の夜だった。 原因は、お風呂に入らなかったこと。 「お風呂入り。」 祖父に言われた。 「あとで。」 少しして、また言われる。 「お風呂入り。」 「もうちょっとしてから。」 そしてまた。 「お風呂入り。」 「あとで。」 小学生の私は、「あとでちゃんと入るんだからいいじゃん」と思っていた。 でも、祖父はそう思わなかったらしい。 何度言われても、 「あとで。」 「もうちょっとしてから。」 を繰り返す私。 そして、ついに祖父の我慢が尽きた。 気がつけば、私は祖父に引きずられて玄関まで連れて行かれていた。 そのまま外へ。 冬の夜。 しかも裸足。 そして、目の前で玄関の鍵が閉められた。 ……小学生の私にとっては、とんでもない事件だった。 寒い。 足も冷たい。 家には入れない。 どうしていいのか分からなくなって、私は玄関の前でうずくまった。 そして、泣いた。 しばらくすると、玄関が開いた。 出てきたのは祖母だった。 泣いている私を見て、 「はよー入りんちゃい。」 と言った。 それでも泣き止まない私に、祖母は続けた。 「泣き止んで、お父さんに謝って入りんちゃいよ。」 そして、ようやく家の中へ戻った。 私は泣きながら祖父に謝った。 その後、ちゃんとお風呂に入った。 あれだけ、 「あとで。」 「もうちょっとしてから。」 と言っていたのに。 結局、最初から入っておけばよかったのである。 あの日以来、祖父にあんなふうに怒られたことはない。 むしろ、祖父はなんだか甘い。 昔ながらの考え方を持っていて、少し頑固なところもある。 でも、孫には意外と甘い。 だからこそ、あの冬の夜の出来事が余計に印象に残っている。 私の祖父は、いわゆる「古き良き人」という言葉が似合う人だと思う。 そんな祖父は今でも働いている。 再雇用という形ではあるけれど、まだ現役だ。 今年の十一月で、七十六歳になる。 「敬老の日」と聞くと、もちろん祖父のことを思い浮かべる。 でも正直、その言葉があまりしっくりこない。 私の中では、まだまだ元気で、普通に仕事へ行っている人だからだ。 私にとって祖父は、小さい頃からずっと「おじいちゃん」だった。 会えばそこにいて、話をして。 一度だけ本気で怒られて。 でも普段は、なんだか甘い。 そんな存在だった。 けれど、考えてみれば、私が知っているのは「祖父としての姿」だけだ。 私が生まれる前にも、祖父には長い人生がある。 子どもだった頃。 若かった頃。 仕事を始めた頃。 私の知らない時間が、何十年分もある。 私にとって最初から「おじいちゃん」だった人も、誰かの子どもで、誰かの友達で、一人の社会人として生きてきた。 そう考えると、少し不思議な気持ちになる。 小さい頃は、祖父母がいることを当たり前だと思っていた。 会えば話せる。 そこにいる。 そんな時間が、これからもずっと続くような気がしていた。 でも、大きくなるにつれて、それが当たり前ではないことも分かってくる。 だからといって、普段から「ありがとう」と伝えられているわけではない。 むしろ、面と向かって言うのは恥ずかしい。 急に言ったら、祖父もきっと驚くだろう。 だから今年の敬老の日も、きっといつも通り会って、いつも通り話す。 たぶん、それで終わる。 でも、こうして祖父のことを書いていると、改めて思う。 いつも通り会えること。 いつも通り話せること。 まだ仕事をしている姿を見られること。 そういうものを、私はちゃんと大切に思っているのだと思う。 今年の十一月で七十六歳。 それでも、まだ現役。 小学生の私を冬の夜に裸足で締め出したあの日から、ずいぶん時間が経った。 今では笑って話せる、最初で最後の「本気で怒られた夜」。 敬老の日だから、普段は言わないことをここに書いておこうと思う。 おじいちゃん。 いつもありがとう。 まだまだ元気でいてください。 でも、お風呂に入らないくらいで、もう冬の夜に裸足で締め出すのだけはやめてください。
第六話 母の嘘 ・前編
『な■■■』 あと、三文字。 私はその紙を伏せた。見てはいけない。思い出してはいけない。そう分かっているのに、頭の奥ではずっと「な」から始まる名前を探している。 なつき。ななみ。なぎさ。なお。なずな。 違う。 全部違う。 けれど、考えるたびに何かが近づいてくる。あと少し。あと少しで思い出せそうな――。 「…………やめよう」 私は両手で頭を押さえた。 思い出したら、また誰かを忘れる。 すでに私は、兄の名前を思い出せなくなっていた。顔も分かる。声も分かる。一緒に育った記憶もある。ただ、本名だけがぽっかりと抜け落ちている。 * 朝食の食卓には、今日も五人分の料理が並んでいた。 父。母。兄。私。そして誰も座っていない空席。 もう誰もそのことを口にしない。 「ねえ」 兄を見る。 「何?」 「……今日、何時に帰る?」 「俺? 部活あるから七時くらい」 「そっか」 「何、珍しいな」 「別に」 兄は少し不思議そうに私を見る。 「お前、昨日から顔色悪くね?」 「寝不足」 「また? 早く寝ろよ」 「分かってる」 普通に話せる。 兄だと分かる。 なのに、名前だけが出てこない。 その時、ふと母と目が合った。 「何?」 「……なんでもない」 母はすぐに目を逸らした。 でも分かった。 気づいている。 私が、何かを忘れ始めていることに。 * 学校へ着いても、五人目のことばかり考えていた。 昼休み。友人が私の机へやって来る。 「ねえ、この前の写真もう一回見せて」 「写真?」 「文化祭の」 「あ……」 スマホを開く。 あの写真。 母と兄と私。その隣に、スマホ越しでしか見えなかった小さな女の子。 けれど。 「……ない」 「え?」 「写真がない」 「消したんじゃない?」 「消してないよ」 何度スクロールしても見つからない。 「おかしい……」 「何が?」 「ほら、あの写真。女の子が写ってたやつ」 友人が黙った。 「……女の子?」 「うん」 「何の話?」 心臓が嫌な音を立てる。 「一緒に見たじゃん」 「私が?」 「昨日だよ。去年の文化祭の写真に小さい女の子がいたって……」 友人はしばらく考えてから首を横に振った。 「ごめん。本当に覚えてない」 「…………」 家族だけじゃない。 あの子のことを知った人間まで、少しずつ忘れている? 私は制服のポケットに入れた水色のブレスレットを、強く握った。 * 放課後。 家に帰ると母はいなかった。 「ただいま」 返事はない。 玄関にも母の靴がない。買い物にでも出ているのだろう。 リビングへ入り、冷蔵庫から麦茶を出す。その時、冷蔵庫の横に貼られたホワイトボードが目に入った。 家族の予定表。 父。 母。 兄。 私。 四人分。 当然だ。 でも、一番下に何かを消したような薄い跡がある。 目を凝らす。 「……な?」 そう見えた瞬間、頭の奥がズキッと痛んだ。 「っ……」 やめる。 これ以上、考えない。 私は二階へ上がった。 突き当たりにある子ども部屋の扉は閉まっていた。鍵もかかっている。 近づかない。 そう決めて、自分の部屋へ向かう。 その途中。 両親の寝室の扉が少しだけ開いていた。 「…………」 母が昨日言った言葉が頭をよぎる。 『写真も処分しようとした』 処分しようとした。 全部処分した、とは言っていない。 もしかして。 まだ何か残している? 一瞬迷った。 勝手に人の部屋を探るなんて駄目だ。 それでも、もう母の「知らない」という言葉だけを信じることはできなかった。 「……ごめん」 小さく呟いて、寝室へ入った。 チェストの一段目は化粧品。 二段目はハンカチや小物。 そして三段目。 「…………?」 そこだけ鍵がついていた。 「鍵……」 いくら引いても開かない。 諦めようとした、その時。 カチ。 「…………え?」 何もしていないのに。 鍵が開いた。 背中が冷たくなる。 「……あなた?」 五人目に問いかけても返事はない。 私はゆっくりと引き出しを開けた。 「…………」 中には、古い封筒。 一冊のノート。 そして、大量の写真。 その一枚を手に取る。 小さな女の子。 肩までの髪。 白い服。 水色のブレスレット。 次。 私と女の子。 次。 兄と女の子。 次。 母と女の子。 父と女の子。 どの写真にも、あの子がいた。 「……嘘つき」 声が震えた。 母は全部持っていた。 『何も知らない』 『名前も顔も思い出せない』 そう言ったのに。 * 封筒には母の字で、 『絶対に見せないこと』 と書かれていた。 中には十年前の日付が入った病院の書類。 私の名前。 診療記録。 『家族の顔を認識できない』 『本人は家族についての記憶が欠落している様子』 『頭部外傷なし』 『検査上、明確な異常は認められない』 母が話していた、十年前の出来事。 その下には、母の手書きのメモが入っていた。 『今日も、あの名前を呼んでいる。』 次。 『聞こえているのに、書き留めようとすると分からなくなる。』 次。 『録音した。本人に名前を言わせ、携帯で録音。しかし再生すると、その部分だけ無音。』 「…………」 さらに。 『映像でも同じ。口元を見ても読めない。だから、文字で書かせた。』 心臓が跳ねた。 文字なら。 名前が残っている? けれど、その紙は入っていなかった。 代わりに、隣に置かれていたノートを開く。 十年前の母の日記だった。 『あの子は今日も、家族を知らないと言った。でも、“あの子”のことだけは覚えている。』 ページをめくる。 『今日、名前を書かせた。』 次のページは破り取られていた。 「……なんで」 その次。 『読めた。』 息が止まる。 『あの子の名前を、私は読めた。確かに四文字だった。』 四文字。 『な■■■』 一致している。 そして次。 『私は、あの名前を知っている。』 「…………」 母は知っていた。 次。 『思い出した。あの子が誰なのかも。』 その先は、紙が破れそうなほど黒く塗り潰されていた。 次のページ。 『絶対に思い出してはいけない。』 『あの子の名前を呼んではいけない。』 『あの子を家族だと思ってはいけない。』 「……家族じゃない?」 次。 『あれは、私の娘ではない。』 なのに。 次の一文で、私は息を呑んだ。 『なのに私は、どうしてあの子を産んだ記憶があるの?』 「…………」 母は娘を二人産んでいないと言った。 でも。 『母子手帳には二人しかいない。出生届もない。戸籍にもいない。病院にも記録がない。なのに私はあの子を抱いた。授乳した。初めて歩いた日を覚えている。初めて「ママ」と呼ばれた日も覚えている。』 鳥肌が立つ。 『夫も同じ。息子も同じ。娘も同じ。全員、あの子との思い出がある。でも、あの子が生まれたという事実だけが存在しない。』 さらにページをめくる。 『写真を古い順に並べた。あの子が初めて写った写真を見つけた。』 日付。 十年前の五月三日。 第4話で見つけた、 『五人で撮った、最初の家族写真』 「……だから“最初”だったんだ」 その前の日まで、写真の中にあの子はいない。 なのに五月三日から突然いる。 けれど母の日記にはこう続いていた。 『おかしい。私は写真を撮った時のことを覚えている。私たちはあの子を連れて出かけた。前の日も一緒に夕食を食べた。その前の日も。何年も前から一緒に暮らしていた記憶がある。』 存在していなかったはずなのに。 何年分もの記憶がある。 そして。 『では、五月二日まで、私たちは誰と暮らしていたの?』 ページをめくる。 次の一文。 『思い出した。』 「…………」 『五月三日。あの日、家族は五人になったんじゃない。』 嫌な予感。 『六人だった家族から、一人が消えた。』 「…………っ」 六人。 また。 六人。 そして。 『消えた一人の代わりに、あの子がいた。』 私はノートを握ったまま動けなくなった。 五人目は、突然増えたんじゃない。 六人目と――入れ替わった? だったら。 ずっと空いている、あの席。 そこにいたのは誰? 続きをめくろうとした。 でも、そこから何十ページも綺麗に破り取られていた。 残っていたのは最後の一枚だけ。 『これを読んでいる私へ。』 『また忘れているなら、絶対に調べないで。』 『あの子を思い出してはいけない。』 『六人目を探してはいけない。』 そして。 最後。 『何より、娘にこのノートを見せてはいけない。』 「…………」 その瞬間。 玄関が開く音がした。 ガチャ。 「ただいまー」 母の声。 私はノートを持ったまま固まった。 足音が階段を上がってくる。 「いるのー?」 一段。 また一段。 そして寝室の前で止まった。 母と目が合う。 私。 開いた引き出し。 手に持ったノート。 母の顔から、血の気が引いた。 「……それ」 「…………」 「読んだの?」 私はしばらく答えなかった。 「どこまで読んだの?」 「……全部」 母が目を閉じる。 「そう……」 「嘘ついてたんだね」 「…………」 「何も知らないって」 「違う」 「何が違うの!?」 「今は本当に覚えてないの!」 「でも昔は知ってた!」 私はノートを突きつけた。 「この子が誰なのかも! 六人目が誰なのかも!」 「分からない!」 「嘘!」 「分からないの!」 母が叫んだ。 そして、泣きながら言った。 「だから怖いのよ!」 「…………」 「これ、私の字なの」 母はノートを指差す。 「私が書いたって分かる。でも書いた記憶がない」 声が震えていた。 「だったら、このノートを書いた私は……何を知ってしまったの?」 初めて。 母が私と同じ顔をした。 何も知らない。 分からない。 怖い。 その時。 私の手の中のノート。 最後のページに、さっきまでなかった文字が浮かんだ。 『うそつき』 「…………」 母も見た。 続いて。 『おかあさん』 『ほんとうは』 『まだ おぼえてるくせに』 母が一歩後ろへ下がる。 「違う……」 「お母さん?」 「私は知らない……」 そう言いながら。 母の口が動いた。 「な――」 「…………!」 一文字。 確かに聞こえた。 母自身も口元を押さえる。 「今……」 私は母を見る。 「名前、思い出してるの?」 母は首を横に振る。 「違う」 「じゃあ何?」 「『な』は……」 続きを言おうとした瞬間。 母の顔が凍りついた。 「お母さん?」 母の視線は、私の後ろ。 寝室の入口へ向いていた。 「何?」 私は振り返る。 誰もいない。 母が震える指でそこを指した。 「今……誰かいた」 「女の子?」 母は首を横に振った。 「違う」 「じゃあ誰?」 母の目から涙が落ちた。 「あなた」 「…………は?」 「小さい頃の、あなたが立ってた」 意味が分からなかった。 私はここにいる。 母の目の前に。 なのに。 その瞬間。 すぐ後ろ。 耳元で。 子どもの頃の私自身の声がした。 「お母さん」 「…………っ!」 振り返る。 誰もいない。 でも。 続けて聞こえる。 「忘れちゃったの?」 そしてノートへ、新しい文字が浮かび上がった。 『な■■■』 その下。 『このなまえを つけたのは』 ゆっくり。 『おねえちゃんじゃないよ』 「……え?」 第5話の紙には、 『おねえちゃんが つけてくれたのに』 と書かれていた。 矛盾している。 どちらが嘘? さらに。 『おねえちゃんが つけたのは』 次の文字。 『ろくにんめの なまえ』 「…………っ」 私が名付けたのは。 五人目ではない。 六人目。 だったら。 五人目の『な■■■』は。 誰が名付けた? 母が私の手を強く握った。 「もうやめよう」 「…………」 「お願い。これ以上調べたら――」 母は震えながら言った。 「今度こそ、家族が四人じゃなくなる」 私は、あの空席を思い出した。 今は五人分。 十年前は六人分。 そして。 『こんどは だれを わすれる?』 もしかしたら。 これは、忘れている家族を思い出す話なんかじゃない。 思い出すたびに。 家族そのものが。 少しずつ書き換わっていく。 そんな話なのかもしれない。 第六話『母の嘘』 ・前編 了
その一行を、私は知っている
自分の書いた言葉を、他人の作品の中で見つける。 不思議な感覚だった。 見覚えがあるのに、自分の名前だけがない。 たとえるなら、ずっと自分の部屋に置いていたはずのものが、ある日、他人の家の棚に飾られているのを見つけたようなものだろうか。 確かに自分はこれを知っている。 けれど、「私のものだ」と声を上げなければ、何事もなかったようにそこに置かれ続ける。 そんな気味の悪さがあった。 私は歌詞を書く。 といっても、頭に浮かんだ言葉を順番に並べれば一曲になるわけではない。 一行のために十行を捨てることもあれば、気に入っていた言葉を曲全体のために削ることもある。昨日まで正解に見えていた表現が、翌朝にはひどく不格好に見えることだって珍しくない。 書いて、消して、また書く。 その繰り返しの末に残ったものを、私は歌詞と呼んでいる。 タイトルも同じ。 ほんの数文字なのに、歌詞以上に決まらないことさえある。 この曲が何を歌っているのか。 どの言葉なら、この曲の入り口になれるのか。 何度も歌詞を読み返しながら、ようやくひとつを選ぶ。 完成した作品には、そんな過程は残らない。 表示されるのは、最後まで生き残った言葉だけ。 没にした何十行も、悩んだ時間も、たった一文字を変えるために画面と睨み合った夜も、完成した瞬間に裏側へ隠れてしまう。 けれど私は、その見えない部分まで含めて創作だと思っている。 今回、自分で考えたタイトルと歌詞によく似たものを、別の人の作品の中で見つけた。 しかも、その人は私をフォローしている。 つまり、私の作品を見ることのできる場所にいる人だった。 もちろん、同じ言葉に辿り着くことはある。 日本語は私だけのものではないし、誰かが「夜」と書いたからといって、ほかの人が二度と「夜」を使えなくなるわけでもない。 表現の偶然は、いくらでも起こる。 だから「似ている」という事実だけを捕まえて、何もかも盗作と決めつけるつもりはない。 ただ、タイトルが重なり、歌詞にも見覚えのあるものがあり、さらに相手が私の作品を見られる位置にいたとなれば、さすがに「偶然」の二文字だけで蓋をするには、違和感が大きすぎた。 私は相手に、投稿の削除をお願いした。 数分後には消えていた。 そこについては、きちんと対応してもらえたのだと思う。 それでも、ひとつだけ引っかかった。 何も言葉がなかったこと。 大げさな謝罪が欲しかったわけではない。 「削除しました」 たったそれだけでもよかった。 なぜ、それが欲しかったのだろう。 考えてみると、私はたぶん、自分の作品だけではなく、その向こう側にいる「書いた人間」の存在まで素通りされたように感じたのだと思う。 画面の上では、言葉に重さはない。 長押しすれば選択できる。 数回触れればコピーもできる。 一行なら、ほんの数秒。 けれど、 数秒で持っていけることと、 数秒で生み出せることは、同じではない。 そこには、どうしても埋まらない距離がある。 私は有名な作詞家ではない。 私の歌詞を知っている人が、世の中にどれほどいるだろう。 きっと、ごくわずかだ。 けれど、知られていない作品は、誰のものでもない作品になるのだろうか。 私はそうは思わない。 百万人に届いた一行にも、 十人にしか届かなかった一行にも、 その言葉を選んだ人がいる。 数字が小さいからといって、その人が費やした時間まで小さくなるわけではない。 私自身、誰かの作品に影響を受ける。 素敵な歌詞を聴いて悔しくなることもあるし、「こんな表現を書いてみたい」と憧れることもある。 むしろ、何ひとつ影響を受けずに創作することのほうが難しいのではないだろうか。 これまで聴いた音楽。 読んだ文章。 誰かとの会話。 昔見た景色。 そういうものは知らないうちに自分の中へ積もり、いつか別の形で作品に現れる。 ただ、私はそこに一本の境界があると思っている。 誰かの作品から何かを受け取ることと、 誰かがつくったものを、そのまま自分の側へ引き寄せること。 似ているようで、まるで違う。 誰かの言葉に心を動かされたなら、 その先を自分で考えればいい。 なぜ好きなのか。 自分なら何を伝えたいのか。 自分なら、どんな言葉を選ぶのか。 そこで初めて、「影響」は「創作」に変わるのだと思う。 借りてきた言葉を並べれば、綺麗な文章はつくれるかもしれない。 誰かの表現をなぞれば、それらしい作品にもなるかもしれない。 けれど、それでは肝心の自分がどこにもいない。 創作は、上手な言葉を集める作業ではない。 自分の中にある、まだ上手く説明できないものに、どうにか形を与えること。 そのために迷ったり、消したり、書き直したりする。 面倒なその過程こそ、たぶん誰にも盗めない部分なのだ。 「真似されるくらい良い作品だったということ」 そう考える人もいるのだろう。 けれど、私はそう受け取れない。 好きなら、好きと言ってもらえたほうがずっと嬉しい。 影響を受けたのなら、その人自身の言葉になって帰ってきてほしい。 私の作品が誰かの創作を始めるきっかけになるのなら、それはとても嬉しいことだと思う。 でも、私の言葉そのものが別の名前をつけて帰ってくることまで、「届いた」と呼ぶことはできない。 人の言葉を使えば、作品らしいものはつくれる。 けれど、 借り物の言葉に自分の名前を書いたところで、 その言葉まで自分のものになるわけではない。 だから私は、自分で書きたい。 上手くなくても。 何度も書き直すことになっても。 誰にも届かないかもしれなくても。 最後に残った一行を見て、 「これは、自分で選んだ言葉だ」 と思えるものをつくりたい。 創作に必要なのは、 誰かより綺麗な言葉を知っていることではない。 自分の中にあるものから逃げずに、 自分の言葉を探すこと。 少なくとも私は、 それを「創作」と呼びたい。
夏は、何も言わずに終わる
いつからだろう。 夏が来ることを、待たなくなったのは。 子どもの頃の夏は、季節というより、ひとつの大きな約束だった。 七月が近づけば、教室の空気まで少し浮ついて見えた。 夏休み、プール、お祭り、花火。 まだ何も始まっていないのに、夏というだけで、これから何か楽しいことが起こる気がしていた。 蝉の声は、今なら暑さを何割か増して聞こえるだけなのに、あの頃は夏の幕開けを知らせるベルだった。 汗だくで帰って、冷蔵庫を開ける。 よく冷えた麦茶を飲む。 アイスを急いで食べて、頭が痛くなる。 夕方になれば、昼間より少しだけやわらかくなった風の中を歩いた。 振り返れば、特別なことなんてほとんどしていない。 なのに、思い出の中の夏は、どれも妙に眩しい。 たぶん、あの頃は一日が今より長かった。 時計の針が進む速さは同じはずなのに、朝から夕方までの間に、いくつもの出来事が入っていた。 「今日は何しよう」 そんなことを考える余白が、ちゃんとあった。 今は違う。 夏は、待つものではなく、気づけば来ているものになった。 梅雨が明けたと思ったら、もう八月で、気づけば「今年も暑いね」と言っている。 最初に考えるのは、どこへ行こうかではなく、今日の最高気温だ。 日差しを避ける。 涼しい場所を探す。 できれば外へ出たくないと思う。 同じ季節なのに、私はもう、あの頃とは違う場所から夏を見ている。 だから、ときどき思う。 私にとっての「最後の夏」は、いつだったのだろう。 最後に夏休みを楽しみにした夏。 最後に蝉の声で胸が弾んだ夏。 最後に「早く夏にならないかな」と思った夏。 どれも、覚えていない。 最後だったと知らなかったから。 夏は、終わるときに何も言わない。 「これで最後です」とも。 「もう戻れません」とも。 ただ、昨日まで当たり前だったものをひとつずつ置いて、こちらに気づかれないまま去っていく。 そして何年も経ってから、残された側だけが、 「あれが最後だったのか」 と気づく。 少し、ずるい。 けれど、人生の「最後」なんて、きっとほとんどがそういうものなのだと思う。 最後にランドセルを背負った日。 最後に親に手を引かれて歩いた日。 最後に家族みんなが同じ家で暮らしていた夜。 最後に何の迷いもなく「将来はこうなる」と信じていた頃。 その瞬間には、何ひとつ特別に見えない。 明日もあると思っているから、覚えておこうともしない。 そしてなくなったあとになって、あの日は思っていたより大切だったのだと知る。 もし、すべての「最後」に小さな札でもついていたらどうだろう。 ――これが最後です。 そう教えてもらえたなら、私たちはもう少し丁寧にその瞬間を過ごせるのだろうか。 それとも、終わることばかり気にして、かえって楽しめなくなってしまうのだろうか。 たぶん、分からないからいいのかもしれない。 最後だと知らないから、私たちはいつもの一日として笑える。 そして後になって思い出したとき、その何でもなかった一日が宝物になる。 今年も、夏が終わる。 昔みたいに、夏そのものを待ち焦がれることはなくなった。 それでも、夕方の風にほんの少しだけ秋が混ざった日、なぜか胸の奥が寂しくなる。 その瞬間だけは、まだ私の中に、夏を待っていた頃の私がいる気がする。 だから思う。 もしかしたら「最後の夏」は、もう過ぎてしまった夏ではなく、 夏が終わることを寂しいと思えなくなる、 その夏なのかもしれない。
明日の私も、面倒くさい
「あとでやる」 この言葉ほど、無責任で便利なものを私は知らない。 洗濯物を畳むのは、あとで。 お風呂に入るのも、あとで。 届いたメッセージに返信するのも、あとで。 飲み終えたコップを台所へ持っていくのも、あとで。 そろそろ片付けなければ、と思いながら数日が経った机の上も、まあ、あとで。 私の生活には、あまりにも多くの「あとで」が転がっている。 ところで。 「あとで」とは、いつなのだろう。 三十分後だろうか。 夕飯を食べたあとだろうか。 お風呂から上がったあとだろうか。 それとも、今日という一日が終わるまでのどこかだろうか。 考えてみれば、ずいぶん曖昧な言葉だ。 「七時にやる」なら約束になる。 「寝る前にやる」なら、まだ期限らしきものがある。 けれど「あとで」には、時計の針がない。 何時になっても、「あとで」はまだやって来ない。 一時間経っても、あとで。 三時間経っても、あとで。 日付が変わりそうになっても、まだギリギリ、あとで。 ずいぶん息の長い言葉である。 そして私は、「あとで」と口にするたび、不思議なことをしている。 未来の自分を、ものすごく信用しているのだ。 今の私は、洗濯物を畳みたくない。 けれど、一時間後の私はきっと畳める。 今の私は、お風呂に入るために立ち上がることすら億劫だ。 けれど、夜の私はきっと軽やかに立ち上がり、入浴を済ませ、髪を乾かし、ついでにスキンケアまで完璧にこなすだろう。 今の私は、届いたメッセージへの返事を考えるのが少し面倒だ。 けれど、未来の私はきっと気の利いた文章を思いついて、颯爽と返信してくれる。 いったい、何を根拠に。 今まで何度も会ってきたはずなのだ。 一時間後の私に。 夜になった私に。 明日になった私に。 そして私は知っている。 彼女たちは、だいたい今の私と同じくらい面倒くさがりである。 それなのに私は毎日、 「未来の私なら大丈夫」 という、根拠のない期待を抱いている。 これはもう、信用というより丸投げに近い。 数時間後。 ベッドに寝転がってスマホを眺めていると、視界の端に何かが映る。 洗濯物だ。 そこで思い出す。 「あ」 過去の私からの置き土産である。 当然、洗濯物は一枚も畳まれていない。 時間が経てば自然に畳まれる機能など、我が家の洗濯物には搭載されていないからだ。 仕方なく起き上がろうとして、思う。 面倒くさい。 おかしい。 数時間前の私は、この時間の私なら喜んでやると思っていたはずなのに。 そして、だんだん腹が立ってくる。 なんであのとき、やっておかなかったんだ。 もっと早くやればよかったじゃん。 そのくらい、すぐ終わったでしょう。 心の中で散々文句を言ったところで、ふと気づく。 犯人も私である。 文句を言っている私と、 文句を言われている私が、 時間差で同じ身体に入っている。 逃げ場がない。 思えば、私は昔から未来の自分に対してだけ妙に図々しい。 他人に、 「これ面倒だから三時間後に全部やっておいて」 なんて、なかなか言えない。 「私、お風呂入りたくないから代わりに入って」 とも言えないし、 「この返信考えるの面倒だからお願い」 とも、そう簡単には頼めない。 けれど相手が未来の自分になった途端、容赦がなくなる。 洗濯物、よろしく。 返信、よろしく。 片付けもよろしく。 ついでに明日の準備もよろしく。 報酬はない。 感謝もない。 引き継ぎも雑。 ブラック企業もびっくりの業務形態である。 しかも厄介なことに、未来の私は退職できない。 必ず時間になれば出勤してくる。 そう考えると、「あとでやる」は未来の自分へのお願いというより、請求書に近いのかもしれない。 今の自分が楽をした分だけ、 未来の自分の机に、そっと仕事が積まれていく。 一つくらいなら大したことはない。 コップ一個。 服一枚。 返信一件。 けれど、「一つくらい」が五つ、十個と積み重なると、ある瞬間、未来の私は途方に暮れる。 そして言う。 「もう明日でいいや」 請求書が、さらに未来へ転送された。 こうして「あとで」は受け継がれていく。 今日の私から夜の私へ。 夜の私から明日の私へ。 明日の私から週末の私へ。 もはや伝統芸能である。 それでも、「あとで」という言葉を完全に悪者にはできない。 今すぐ全部やらなくてもいいと思えるだけで、少し楽になる日もあるからだ。 何もかも、その場で片付けられる人ばかりではない。 疲れている日もある。 気分が乗らない日もある。 今はどうしても動きたくない日だってある。 そんなとき、 「絶対に今やらなければならない」 と自分を追い立てるより、 「あとでもいいよ」 と逃げ道を作ってやることが必要なときもある。 たぶん問題なのは、「あとで」と言うことではない。 未来の自分を、別人だと思っていることなのだ。 一時間後の私も、私。 明日の私も、私。 今の私が面倒なことは、おそらく未来の私だって面倒くさい。 未来になった瞬間、突然やる気に満ちあふれ、家事を愛し、返信を楽しみ、片付けを趣味とする人格に生まれ変わるわけではない。 残念ながら、同一人物である。 だから最近は、「あとで」と言いそうになったとき、ときどき考える。 これは本当に、あとでやるのか。 それとも、 今の私が見えないところへ押しやりたいだけなのか。 そう考えて、コップ一個だけ台所へ持っていく。 洗濯物を一枚だけ畳む。 返信を一件だけ返す。 全部やらなくてもいい。 ただ、未来の私に渡す荷物を、一個だけ減らしておく。 そうすると少しだけ、 未来の私に親切な人間になれた気がする。 もっとも。 そうやって偉そうなことを書いている今も、 部屋には「あとで片付けよう」と思っているものがある。 この文章を書き終えたら片付けよう。 うん。 あとでやる。
第五話 な■■■
「ずっと待ってるのは」 耳元で。 女の子の声がした。 「六人目」 「…………」 息が止まった。 六人目。 何を言っているのか。 分からなかった。 私は五人目を探していた。 父。 母。 兄。 私。 そして。 写真の中にいた、小さな女の子。 これで五人。 なのに。 「……六人目って、誰?」 返事はなかった。 「ねえ」 振り返る。 誰もいない。 暗い和室。 開いたアルバム。 床に散らばった写真。 「誰なの?」 もう一度。 「六人目って誰!?」 静寂。 さっきまで。 確かにすぐ後ろにいたはずなのに。 女の子の気配は。 消えていた。 「…………」 私は手元の写真を見る。 十年前の食卓。 父。 母。 兄。 私。 小さな女の子。 五人。 そして。 六人分の食器。 空席。 薄い人影。 「…………」 おかしい。 今も同じだ。 家には四人いる。 なのに。 五人分の食器が並ぶ。 十年前は。 五人いる。 なのに。 六人分。 「……一人多い」 ずっと。 一人多い。 人数が増えたんじゃない。 最初から。 家族の人数より。 食器だけが。 一つ多い。 「…………」 ぞくり。 背中が冷えた。 だったら。 あの女の子が消えたから、今は五人分になった。 そういうこと? 十年前。 六人分。 現在。 五人分。 「…………」 じゃあ。 空席は。 ずっと同じ誰かの席? 女の子の席じゃない。 もっと前から。 別の誰かを。 家族は。 ずっと。 待っている。 「…………」 私はアルバムを閉じた。 もう見たくなかった。 その時。 二階から。 ドン。 「…………!」 物音。 「誰?」 返事はない。 父と母は寝室。 兄も自分の部屋。 誰かが起きた? 私は写真を一枚だけポケットへ入れた。 五人で写った家族写真。 裏に。 『五人で撮った、最初の家族写真』 そして。 『ほんとうは ろくにん』 と書かれた写真。 アルバムを箱へ戻す。 立ち上がる。 すると。 二階から。 また。 ドン。 「…………」 今度は。 少し大きい。 何かを。 壁にぶつけるような音。 「お兄ちゃん……?」 階段へ向かう。 一段。 二段。 三段。 上を見る。 暗い廊下。 誰もいない。 「…………」 階段を上がる。 兄の部屋。 扉は閉まっている。 両親の寝室も。 閉まっている。 そして。 突き当たり。 昨日まで壁だった場所。 剥がされた壁紙。 古い扉。 子ども部屋。 「…………」 少し。 開いている。 「閉めたよね……?」 母が。 確かに閉めた。 そのあと。 鍵までかけた。 なのに。 細い隙間。 暗闇。 「…………」 近づかない。 今日は。 もう。 絶対に。 そう思って。 自分の部屋へ戻ろうとした。 その時。 「おねえちゃん」 「…………」 足が止まる。 子ども部屋から。 「おねえちゃん」 「…………」 女の子。 「……何?」 返事をしてしまった。 「…………」 「六人目って誰なの?」 沈黙。 「あなたは知ってるの?」 「…………」 「教えてよ」 すると。 扉の隙間から。 ころ。 何かが。 転がってきた。 「…………?」 クレパス。 赤。 廊下を転がって。 私の足元で止まる。 「……これ」 子ども部屋にあったもの。 拾う。 すると。 「かいて」 「え?」 「…………」 「なにを?」 女の子が。 答える。 「わたし」 「…………」 「私が?」 「うん」 「でも……」 私は。 あなたの顔を覚えてない。 そう言おうとして。 気づいた。 「…………?」 顔。 写真で。 見た。 さっき。 確かに見た。 女の子の顔。 なのに。 「…………」 思い出せない。 髪は。 肩くらい。 白い服。 水色のブレスレット。 でも。 顔だけ。 「……どんな顔だった?」 自分でも。 馬鹿みたいな質問だと思った。 すると。 女の子は。 「おねえちゃんが、かいて」 「…………」 「わたしのかお」 扉が。 ギィ……。 ゆっくり。 開いた。 * 机。 椅子。 色鉛筆。 クレパス。 昨日と同じ。 私は。 なぜか。 机の前に座っていた。 帰ればいい。 そう思っている。 なのに。 身体が動かない。 机には。 真っ白な紙。 「…………」 右手には。 赤いクレパス。 「描けないよ」 呟く。 「顔、分からないもん」 返事はない。 「……名前も」 その瞬間。 頭の奥が。 ズキッ。 「っ……」 名前。 そうだ。 写真の裏。 消された文字。 最初の一文字。 『な』 「…………な」 呟く。 ズキン。 「っ……!」 頭が痛い。 「な……」 もう一度。 「なに……?」 違う。 「なつ……?」 違う。 「なな……?」 違う。 でも。 近い。 何かが。 頭の奥で。 引っかかっている。 「な……」 その時。 右手が。 勝手に動いた。 「…………え?」 赤いクレパス。 紙へ。 ギッ。 「ちょ……」 止めようとしても。 動く。 ギギッ。 一文字。 『な』 「…………」 次。 手が動く。 でも。 二文字目を書く直前。 「っ!!」 激痛。 クレパスを落とした。 「痛……っ」 頭を押さえる。 目の奥が熱い。 その瞬間。 何かが。 抜け落ちた。 「…………?」 何? 今。 何か。 忘れた。 「…………」 私は。 机を見る。 紙。 『な』 赤い文字。 「……誰の名前?」 分からない。 さっきまで。 分かりかけていたのに。 「…………」 そして。 もっと。 変なことに気づいた。 「私……」 何しに。 ここへ来たんだっけ。 「…………」 部屋を見渡す。 知らない部屋。 いや。 知ってる。 昨日。 見つけた。 「…………昨日?」 昨日。 誰と。 ここに来た? 「…………」 母。 そう。 母。 「…………」 お母さん。 顔を。 思い浮かべる。 「…………っ」 出てこない。 「え?」 名前じゃない。 母の顔。 分からない。 「…………」 目。 どんなだった? 髪。 何色? 笑う時。 どんな顔? 「……嘘」 立ち上がる。 「お母さん……?」 言葉としては分かる。 母。 私を産んだ人。 毎日ご飯を作ってくれる。 朝起こしてくれる。 でも。 顔だけ。 思い出せない。 「やだ……」 私は部屋を飛び出した。 「お母さん!」 廊下。 「お母さん!」 両親の寝室。 扉を開ける。 「…………!」 ベッド。 二人。 父が起き上がった。 「どうした!?」 その隣。 女の人。 「…………」 母。 の。 はず。 「……誰?」 口から。 出た。 「…………え?」 女の人が。 私を見る。 「何言ってるの?」 「…………」 「私よ」 「…………」 「お母さんよ」 「…………っ」 涙が出た。 知らない。 知らない人。 でも。 頭では。 母だと分かる。 「……顔が」 「え?」 「分かんない……」 「何?」 「お母さんの顔……思い出せない……」 母の顔色が変わった。 「あなた……」 ベッドから立ち上がる。 「何をしたの?」 「…………」 「何を思い出そうとしたの!?」 「名前……」 「…………!」 「女の子の……名前……」 母が。 私の肩を掴んだ。 「だめ!」 「…………」 「思い出しちゃだめ!」 「なんで!?」 「忘れるから!」 「…………え?」 母が。 言った。 「ひとつ思い出すたびに」 「…………」 「ひとつ忘れるの」 「…………」 「前もそうだった」 「前……?」 「だから私たちは……!」 母が。 そこで口を閉じた。 「何?」 「…………」 「前って何?」 「…………」 「お母さん!」 「……あなたは」 母が。 震えながら言った。 「あの子を思い出そうとして」 「…………」 「一度、私たち全員を忘れたことがあるの」 「…………え?」 聞いたことのない話。 「いつ?」 「十年前」 「…………」 十年前。 写真。 五人。 六人分の食器。 「あなたは突然」 母が続ける。 「私を見て」 『誰?』 「って言った」 「…………」 「お父さんを見ても」 『知らない』 「…………」 「お兄ちゃんを見ても」 『誰?』 「…………」 「全部忘れた」 母の目から。 涙が落ちた。 「そして最後に」 「…………」 「あの子の名前だけを覚えてた」 「…………!」 「何て名前?」 反射的に聞いた。 母の表情が。 凍る。 「ねえ!」 「…………」 「その時の私、名前言ったんでしょ?」 「…………」 「何て言ったの!?」 母は。 首を振る。 「覚えてない」 「嘘!」 「本当よ!」 「じゃあなんで私が名前覚えてたって分かるの!?」 「あなたが何度も呼んでたから!」 「だったら――」 「音だけ消えてるの!」 「…………」 母の叫び。 「あなたが名前を呼んでいたことは覚えてる!」 「…………」 「口が動いていたのも!」 「…………」 「泣きながら何度も呼んでいたのも覚えてる!」 母は。 耳を押さえた。 「なのに……」 「…………」 「そこだけ、音がないの」 「…………」 ぞっとした。 記憶から。 名前だけが。 切り取られている。 「そのあと……?」 「…………」 「私はどうなったの?」 母が。 しばらく黙った。 「三日後」 「うん」 「朝起きたら」 「…………」 「全部元に戻ってた」 「…………」 「私も、お父さんも、お兄ちゃんも覚えてた」 「じゃあ……」 「代わりに」 母が。 言う。 「あの子のことを」 「…………」 「全部忘れてた」 「…………」 静かだった。 父も。 何も言わない。 「だから……部屋を塞いだの?」 母が頷く。 「誰の部屋か分からない」 「…………」 「でも、開けてはいけない気がした」 「…………」 「写真も処分しようとした」 「だから切れてたんだ」 母が。 私を見る。 「……切れてた?」 「え?」 「何が?」 「…………」 第1話。 廊下に落ちていた。 幼い私の写真。 右端。 誰かと手を繋いでいるのに。 その先だけ。 切り取られていた。 「お母さんが切ったんじゃないの?」 「…………」 母は。 首を横に振った。 「私じゃない」 「じゃあ誰が……」 誰も。 答えられなかった。 * 翌朝。 目が覚めた。 「…………」 天井。 自分の部屋。 身体を起こす。 昨夜のこと。 覚えている。 母の話。 十年前。 名前。 忘却。 「…………」 母の顔を。 思い浮かべる。 「…………!」 戻ってる。 分かる。 いつもの母。 「よかった……」 息を吐く。 ベッドから降りる。 机。 その上。 「…………?」 何かある。 紙。 昨日。 子ども部屋に置いてきたはずの。 真っ白な紙。 「…………」 中央に。 赤いクレパス。 一文字。 『な』 「…………」 その下。 何か。 増えている。 「……え?」 昨日は。 なかった。 黒い文字。 『つぎは だれ?』 「…………」 私は。 紙を落とした。 その時。 一階から。 母の声。 「朝ご飯できたよー!」 「…………」 兄。 父。 母。 私は。 三人の顔を。 順番に思い浮かべる。 全員。 覚えてる。 大丈夫。 「…………」 そう思った。 なのに。 一つ。 気づいてしまった。 「…………?」 兄。 顔は分かる。 声も分かる。 一緒に育った記憶もある。 でも。 「……名前」 兄の。 名前。 「…………」 何だっけ。 「…………え?」 思い出せない。 兄。 お兄ちゃん。 ずっと。 そう呼んでいた。 でも。 本名。 「…………」 知らない。 いや。 知っていた。 昨日までは。 絶対に。 知っていた。 「……嘘」 スマホを掴む。 連絡先。 兄。 登録名。 『お兄ちゃん』 「…………」 SNS。 家族のグループ。 兄のアカウント。 「…………」 表示されている。 はずなのに。 名前の部分だけ。 読めない。 文字が。 黒く。 滲んでいる。 「…………っ」 その時。 机の上から。 ギッ。 音。 「…………」 赤いクレパス。 誰も触れていない。 なのに。 動いている。 紙。 『な』 その続き。 ゆっくり。 二文字目を。 書こうとしている。 「やめて……」 ギ……。 「やめて!」 クレパスを掴む。 止める。 「思い出さない」 震える。 「もう……思い出さないから」 すると。 動きが。 止まった。 「…………」 静寂。 そして。 紙の下。 黒い文字が。 じわり。 浮かび上がった。 『ほんとうに?』 「…………」 次。 『わたしのなまえ』 「…………」 次。 『もうすぐなのに』 「…………っ」 私は紙を裏返した。 見ない。 絶対に。 見ない。 その時。 裏返した紙の。 真っ白だったはずの裏側。 そこにも。 文字があった。 赤。 大きく。 たった四文字。 『な■■■』 黒く。 三文字。 塗り潰されている。 そして。 その下。 小さく。 『おねえちゃんが つけてくれたのに』 「…………え?」 私が。 名前を? 妹じゃない。 母が産んだ子でもない。 なのに。 私を。 お姉ちゃんと呼ぶ。 そして。 その子の名前を。 私がつけた。 「…………あなた」 一体。 何なの? その瞬間。 一階から。 兄の声。 「おーい! 早くしろよ!」 「…………」 聞き慣れた声。 大好きでも。 大嫌いでもない。 毎日聞いてきた。 兄の声。 なのに。 名前だけ。 ない。 「…………」 私は。 初めて理解した。 『こんどは だれを わすれる?』 あれは。 脅しじゃなかった。 予告だった。 私は。 五人目の名前に近づくたび。 今いる家族を。 少しずつ。 失っていく。 そして。 紙に残された。 『な■■■』 あと。 三文字。 第五話『な■■■』 了
止まった水にも空は映る
「焦らなくていいよ」 って、 人には簡単に言えるのに。 自分のことになると どうしてこんなに 難しいんだろう。 朝、 目が覚めて カーテンの隙間が もう明るいだけで、 少し焦る。 今日も始まってしまった。 何かしなきゃ。 起きなきゃ。 進まなきゃ。 そう思っているのに 身体だけが 私の言うことを 聞いてくれない日がある。 時計を見る。 また見る。 さっきから 何もしていない私を置いて、 針だけが ちゃんと先へ進んでいる。 ずるいな、 と思う。 時計には 「今日はちょっと無理」 なんて日がない。 十二時。 十五時。 十八時。 窓の外が暗くなる。 結局、 今日も何もできなかった。 そう思うと 一日分の自分を 丸ごと捨てたような気持ちになる。 周りを見ると、 みんな ちゃんと進んでいるように見える。 働いていたり、 夢を追いかけていたり、 誰かと笑っていたり、 これからの話をしていたり。 私も そっちにいたかった。 だから、 置いていかれないように 何度も走ろうとした。 大丈夫。 まだできる。 もっと頑張れる。 みんなできてるんだから。 そうやって 自分の背中を押していたつもりだった。 でも、 いつの間にか 押すんじゃなくて 突き飛ばしていた。 転んだ私にまで、 「早く立って」 と言っていた。 痛いのに。 私はずっと、 人生は 前に進むものだと思っていた。 一歩でも。 半歩でも。 昨日より今日。 今日より明日。 前に進めない日は 失敗した日だと思っていた。 でも、 本当にそうなのかな。 川を見ていると 水は全部、 同じ速さでは流れていない。 すごく速いところもあれば、 ほとんど動いていないように 見えるところもある。 石にぶつかって 二つに分かれる水もある。 少し戻って、 くるくる回っている水もある。 それでも 誰もその水に 「ちゃんと流れて」 なんて言わない。 だったら、 私も ずっと前を向いていなくても いいのかもしれない。 立ち止まって。 少し戻って。 同じところを ぐるぐるして。 また泣いて。 それでも、 ここにいる。 何もできなかったと思った今日も 私は息をしていた。 お腹が空いたり、 眠くなったり、 好きなものを見て 少し笑ったり、 夕焼けが綺麗だと 思ったりした。 それだけ。 でも、 それだけで 今日を生きていなかったことには ならない。 私はたぶん、 自分に厳しすぎた。 人が転んだら 「大丈夫?」 って手を伸ばせるのに、 自分が転んだら 「何してるの」 って怒ってしまう。 人には 「休んでいいよ」 って言えるのに、 自分が休むと 「怠けてる」 って思ってしまう。 同じ私なのに。 だから最近は、 ほんの少しだけ 言い方を変えてみる。 「今日も何もできなかった」 じゃなくて、 「今日はここまでだった」 「また止まってしまった」 じゃなくて、 「今はここにいる」 たったそれだけ。 言葉を変えたところで 急に何かが変わるわけじゃない。 明日になったら また焦るかもしれない。 誰かと比べて 勝手に落ち込むかもしれない。 泣くかもしれない。 それでもいい。 私はまだ、 自分との付き合い方を 練習している途中だから。 二十一年も一緒にいるのに いまだに 自分のことが よく分からない。 何をしたら元気になるのか。 どこまでなら頑張れるのか。 いつ休めばいいのか。 分からないことばかり。 もうすぐ二十二年になるのに。 でも、 分からないままでも ここまで来た。 綺麗に流れては こなかった。 何度も止まった。 ぶつかった。 戻った。 同じ場所を ぐるぐるした。 それでも、 流れてきた。 だったら、 これからも それくらいでいい。 誰かより遅くてもいい。 まっすぐじゃなくてもいい。 今日は動けなくてもいい。 止まっている水にも 空は映る。 下を向いている日にも 足元には ちゃんと自分の影がある。 だから、 無理に前を向かなくてもいい。 いつか 自然に顔を上げたくなったときに 上げればいい。 そのとき見えた空を 「あ、綺麗だな」 って思えたら それでいい。 私は今、 ここにいる。 まだ、 ここにいる。 「まだ」って、 今までは 嫌いな言葉だった。 まだできない。 まだ進めない。 まだ追いつけない。 でも、 今日は少しだけ 違う意味にしてみたい。 まだ、 ここにいる。 流されても。 止まっても。 ひっくり返っても。 私はまだ、 ここにいる。 それなら今日は、 それだけでいい。
千年前なら、待てただろうか
最近、リアルの友達から恋愛相談をされることがある。 「最近、全然連絡取れてなくて」 「前より話せなくなった」 「好きかどうか分からなくなってきた」 そういう話。 気持ちは分かる。少し前までの私も、完全にそっち側だったから。 返信が遅いだけで不安になって、連絡が減ったら「冷められたのかな」と考えて、昨日より話せなかっただけで何かあったのかと勝手に深読みする。 だから、そういうことで悩む気持ちが分からないわけじゃない。 分かる。 分かるけど、今の私はそういう話を聞くと、結構きついことを思ってしまう。 「それだけで好きじゃなくなるなら、別れれば?」 って。 少し前まで同じようなことで悩んでいた自分が何を言っているんだ、という話だけど、今は本当にそう思う。 連絡が取れていない。 最近あまり話せていない。 それだけで「好きか分からない」になるなら、その好きって何だったんだろう。 毎日LINEしてくれるから好きだったのか。 毎晩電話してくれるから好きだったのか。 自分が寂しくならない程度に構ってくれるから好きだったのか。 もちろん、そんな単純な話じゃないことくらい分かっている。 ただ、連絡が減っただけで好きまで減るなら、相手自身を好きだったのか、それとも「自分を満たしてくれる相手」が好きだったのか、一度考えてみてもいいんじゃないかと思う。 ――なんて、偉そうなことを言っているけど。 じゃあ私は、連絡なんてなくても平気なのかと言われたら、全然そんなことはない。 むしろ連絡頻度は大切だと思っている。 好きな人とは話したい。声も聞きたい。今日あったことも聞きたいし、くだらない話だってしたい。 全然話せない日が続けば普通に寂しい。 「今日も話せないのかな」と思うことだってある。 連絡が来れば嬉しいし、来なければ寂しい。 そこは何も変わっていない。 ただ、いつからか「寂しい」と「冷めた」を同じものにしなくなった。 話せないから寂しい。 声を聞けないから、声を聞きたい。 連絡が少ないから、もっと話したい。 それって結局、まだその人を求めているということじゃないのかと思う。 本当に冷めた時って、もっと何も感じなくなるんじゃないだろうか。 連絡が来なくても気にならない。 話せなくても寂しくない。 声を聞きたいとも思わない。 その人から連絡が来るかどうかを、そもそも待たなくなる。 私はそっちのほうが、よっぽど「冷めた」に近い気がする。 だから、連絡が少ないからといって、すぐに「好きじゃなくなったのかな」と自分の気持ちまで疑わなくてもいいと思うようになった。 「話したい」 「声聞きたい」 そう思えているうちは、ちゃんと好きなんだと思う。 寂しいのも本当。 好きなのも本当。 別に、どちらかが嘘になるわけじゃない。 最近になって、「連絡頻度=愛情」ではないんだろうなと思うようになった。 もちろん、多いに越したことはない。 できることなら、たくさん話したい。 でも、一日に何通やり取りしたとか、何時間電話したとか、返信がどれくらいで来たとか。 そんな数字だけで愛情を測れるなら、恋愛なんてもっと簡単なはずだ。 毎日何時間も電話している恋人同士が別れることもある。 毎日連絡を取っていたって、浮気する人はする。 「好き」と毎日言っていた人の気持ちが変わることだってある。 逆に、毎日話せなくても好きな人は好きなままだったりする。 結局、連絡頻度は愛情の「表し方」のひとつではあっても、愛情そのものではない。 そんな当たり前のことに、最近ようやく気づいた。 たぶん私も、目に見えるものが欲しかったんだと思う。 相手の気持ちなんて、本当のところは相手にしか分からない。 だから返信が来ることや、電話してくれることや、「好き」と言ってくれることで安心したかった。 それが減ると、愛情まで減ったような気がしていた。 でも、どれだけ確認したって、結局、人の気持ちに保証なんてない。 昨日好きだったから、明日も絶対好きだとは限らない。 毎日連絡を取っているから、この先も絶対に一緒にいられるとも限らない。 恋愛って、思っているよりずっと不確かなものなんだと思う。 それを認めるのが怖いから、私たちは分かりやすいものに答えを求めてしまうのかもしれない。 それでも私は、連絡が少ないことに何も思わないわけじゃない。 もっと話したいし、声も聞きたい。 寂しい日は普通にある。 ただ、話せない時間が増えたからって、それだけで気持ちまでなくなるわけじゃない。 久しぶりに話せた時に、やっぱり嬉しいと思う。 声を聞いたら、もっと話していたいと思う。 だったら今は、それでいい。 なんか思わず吐き出しちゃったけど、まぁ気にしないで。笑 そんなことを考えていたら、ふと、昔の恋愛ってどんなものだったんだろうと思った。 文や詩に想いを託して、誰かに届けていた時代。 今みたいに、思ったことをその瞬間に相手へ届けられるわけじゃない。 便箋に言葉を書いて、封をして、相手のもとへ届くのを待つ。 そして今度は、返事が自分のもとへ届くのを待つ。 今なら数秒で届く「会いたい」の一言に、何日もかかった。 会えない時間も、今よりずっと長かったはずだ。 声だって、簡単には聞けない。 それでも人は、誰かを好きになっていた。 返事を待っている間に、相手が何をしているのかなんて分からない。 自分の手紙を読んでどう思ったのかも、次の便りが届くまで分からない。 分からないまま、待つしかない。 きっと不安だったと思う。 昔の恋愛だからといって、何もかも綺麗だったとは思わない。 返事が来なくて眠れない夜もあっただろうし、届いた一通の言葉に傷つくことだってあったはずだ。 それでも少し、憧れる。 誰かを想って言葉を選ぶ時間。 書いては消して、また書いて。 ようやく送り出した言葉が、その人のところへ届いていく。 そして、返事を待つ。 会えない時間も、話せない時間も、ただの空白ではなくて、その人を想う時間だったのかもしれない。 今は、誰かと繋がることが簡単になった。 だからこそ、繋がっていない時間を「何かがおかしい」と感じやすくなったのかもしれない。 すぐに届くことが当たり前になったから、待つことが苦しくなった。 いつでも話せるはずだから、話せないことに意味を探してしまう。 便利になったのに、人を好きになることまで簡単になったわけじゃない。 むしろ、簡単に繋がれるようになったからこそ、見失ってしまうものもあるのかもしれない。 一回くらい、そんなものが何もなかった時代で恋愛してみたい。 会えないなら、会えないまま想って。 返事が来ないなら、来るまで待って。 たった一通の手紙を何度も読み返して。 次に会える日を指折り数える。 そんなふうに誰かを好きになった時、 私は「連絡が少ない」なんてことで、 自分の気持ちを疑ったりするんだろうか。
第四話 五人で撮った写真
『こんどは だれを わすれる?』 黒い文字を見たまま、私は動けなかった。 「…………」 さっきまで。 確かに、何もなかった。 古びた花柄の壁紙。 それだけだった。 なのに今は。 黒いクレヨンで。 『こんどは だれを わすれる?』 一文字ずつ。 子どもが書いたような歪な文字が、壁に並んでいる。 「……お母さん」 返事がない。 「お母さん?」 隣を見る。 母は。 私よりも怯えていた。 口元を手で覆い、顔から血の気が引いている。 「……また……」 「え?」 「また……同じ……」 「同じって何?」 母が一歩下がった。 「お母さん」 「…………」 「さっきも言ったよね」 『また始まった』 あれは。 どういう意味? 「前にもあったの?」 「…………」 「ねえ」 母の腕を掴む。 「この部屋で、前にも何かあったんでしょ?」 「離して」 「教えて」 「お願い、離して」 「嫌」 「…………」 「もう『知らない』じゃ無理だよ」 私は部屋の中を指差した。 「こんな部屋が家にあって」 小さなベッド。 机。 ぬいぐるみ。 「私のことを『おねえちゃん』って書いてる日記があって」 五人の家族の絵。 「知らない女の子がいて」 そして。 黒い文字。 「これ見ても、まだ何も知らないって言うの?」 「…………」 「お母さん」 母の唇が震えた。 「……知らないの」 「またそれ?」 「違う」 母の声も震えていた。 「本当に……知らないのよ」 「どういう意味?」 「分からないの」 「何が?」 「この部屋を知ってる」 「…………」 「この机も、ベッドも……知ってる」 母が部屋を見渡す。 「カーテンの柄も知ってる」 窓辺。 白いカーテン。 小さな黄色い花が刺繍されている。 「この子が使ってたコップも……」 机の隅。 小さなプラスチックのコップ。 「知ってる」 母の目から、涙が落ちた。 「なのに……」 「…………」 「誰が使っていたのかが、分からないの」 「……え?」 「思い出そうとすると……そこだけ何もない」 母は自分の頭を押さえた。 「名前も」 「…………」 「顔も」 「…………」 「声も」 「…………」 「でも……」 母はベッドを見る。 「ここで誰かを寝かしつけたことだけは覚えてる」 「…………」 「熱を出した時、一晩中ここにいたことも」 「…………」 「髪を結んであげたことも」 「…………」 「誕生日にケーキを焼いたことも……覚えてる」 「じゃあ……」 喉が乾く。 「その子、家族だったんじゃん」 「…………」 「私の妹だったんでしょ?」 母は。 ゆっくり首を横に振った。 「違う」 「なんで言い切れるの?」 「だって……」 「…………」 「私は、娘を二人産んでないもの」 「…………え?」 部屋の空気が。 止まったように感じた。 「何……言ってるの?」 「私は」 母が私を見る。 「あなたと、お兄ちゃんしか産んでない」 「…………」 「二人だけ」 「でも、この部屋……」 「分からない」 「この日記は?」 「分からない」 「じゃあ、この子は!?」 壁の絵を指差す。 父。 母。 兄。 私。 そして。 小さな女の子。 「この子だけ誰なの!?」 母は。 答えられなかった。 * その夜。 父と兄が帰ってきた。 夕食は。 誰もほとんど喋らなかった。 そして。 当然のように。 五人分。 食器が並んでいた。 「…………」 もう指摘する気にもならなかった。 私は空席の向かいに座る。 味噌汁。 ご飯。 煮物。 今日も。 一人分。 「……お母さん」 兄が言った。 「今日、なんかあった?」 母の箸が止まる。 「どうして?」 「なんか顔変」 「…………」 私は母を見る。 母も私を見る。 「……あの部屋」 私が言った。 「え?」 兄が顔を上げる。 父も。 「二階の突き当たり」 「…………」 「壁の向こうに部屋があった」 カチャン。 今度は。 父の箸が落ちた。 「…………」 「お父さん?」 「……開けたのか」 「…………え?」 思わず立ち上がる。 「知ってるの?」 「…………」 「お父さんも知ってるの!?」 父は。 目を閉じた。 「……知ってる」 「じゃあ誰の部屋!?」 「分からない」 「またそれ!?」 「本当に分からないんだ」 「そんなのおかしいじゃん!」 「分かってる!」 父が珍しく声を荒げた。 「分かってるんだよ!」 「…………」 全員が黙る。 父は。 自分でも驚いたように俯いた。 「……悪い」 「…………」 「でも、本当に……分からない」 「じゃあ」 私は兄を見る。 「お兄ちゃん」 「…………」 「知ってた?」 「何を」 「あの部屋」 兄の顔が。 強張った。 「…………」 「知ってるんだ」 「……知らない」 「嘘」 「知らないって」 「じゃあなんでそんな顔するの?」 「…………」 「お兄ちゃん」 兄は黙った。 しばらくして。 「……夢で」 「え?」 「夢で見たことがある」 「…………」 「小さい頃から」 兄は空席を見た。 「同じ夢を何回も見る」 「どんな?」 「俺が……」 兄の指が震える。 「誰かと、かくれんぼしてる」 「誰か?」 「女の子」 「…………」 「小さい女の子」 「それって……」 「分かんない」 「その子は何て言ってた?」 兄が黙る。 「お兄ちゃん?」 「…………」 「俺のこと」 「うん」 「『お兄ちゃん』って呼んでた」 「…………」 心臓が。 大きく鳴った。 私を。 『お姉ちゃん』。 兄を。 『お兄ちゃん』。 「やっぱり……」 「…………」 「妹じゃん」 母は何も言わない。 父も。 「妹だったんだよ」 「…………」 「何かあって、みんな忘れたんだよ」 そう考えれば。 全部説明できる。 名前を忘れた。 顔を忘れた。 存在を忘れた。 でも。 記憶の欠片だけが残っている。 だから。 五人分の食器を用意する。 だから。 五人家族だと思っている。 「……証拠」 私は呟いた。 「何?」 兄が聞く。 「証拠を探す」 「何の?」 「その子が家族だった証拠」 父が顔を上げた。 「やめろ」 「なんで?」 「これ以上調べるな」 「お父さんまで?」 「嫌な感じがする」 「そんな理由で――」 「頼む」 父の顔は。 真剣だった。 「思い出さなくていいこともある」 「…………」 その言葉。 どこかで。 聞いたことがある気がした。 * 午後十一時。 家族が寝静まるのを待った。 私は自室の扉を開けた。 スマホのライト。 足音を立てないように廊下へ。 目的は。 一階。 和室の押し入れ。 そこには。 昔のアルバムが保管されている。 小学校。 幼稚園。 赤ちゃんの頃。 家族旅行。 全部。 証拠があるなら。 写真。 私は階段を下りた。 「…………」 リビング。 暗い。 食卓を見る。 「…………」 五人分の食器は。 もう片づけられている。 空席。 誰もいない。 「…………」 和室へ入る。 押し入れ。 上段。 段ボール。 『写真』 母の字。 「……あった」 箱を下ろす。 重い。 中には。 何冊ものアルバム。 「…………」 最初の一冊。 私が生まれた頃。 ページを開く。 赤ちゃんの私。 母。 父。 兄。 「四人……」 次。 お宮参り。 四人。 次。 一歳。 四人。 「…………」 やっぱり。 妹なんて。 いない? ページをめくる。 二歳。 三歳。 四歳。 「…………」 四人。 全部。 四人。 「じゃあ……あの子は?」 五歳。 誕生日。 ケーキ。 私。 兄。 父。 母。 四人。 次。 「…………え?」 手が止まった。 写真。 家族で公園。 そこには。 父。 母。 兄。 私。 そして。 「…………」 女の子。 いた。 「…………っ」 初めて。 はっきり。 写っている。 小さな女の子。 私より三、四歳くらい下。 白いワンピース。 肩までの髪。 水色のブレスレット。 「…………」 顔。 顔が。 見える。 「…………?」 なのに。 認識できない。 目も。 鼻も。 口も。 ちゃんと写っている。 ぼやけていない。 黒く塗られてもいない。 なのに。 見た瞬間。 どんな顔だったか分からなくなる。 「……なにこれ……」 目を見る。 次に鼻を見る。 すると。 さっき見た目が思い出せない。 口を見る。 鼻が分からなくなる。 「…………」 怖い。 写真から目を逸らす。 もう一度見る。 知らない女の子。 「…………」 でも。 写真の中の私は。 その子を抱きしめて。 笑っていた。 「……私……」 こんな顔。 したことあるんだ。 すごく。 嬉しそう。 写真の裏を見る。 何もない。 次のページ。 「…………」 四人。 次。 四人。 次。 五人。 「…………え?」 次。 四人。 次。 五人。 次。 「六……?」 私は。 数え直した。 父。 母。 兄。 私。 女の子。 そして。 もう一人。 「…………誰?」 写真の一番後ろ。 男の人。 知らない。 顔は。 影になって見えない。 「…………」 次。 三人。 「え?」 母。 私。 女の子。 父と兄がいない。 次。 五人。 次。 四人。 次。 「…………」 写真によって。 人数が違う。 撮影した日付を見る。 おかしい。 同じ日。 同じ場所。 数分違いで撮られた写真なのに。 一枚目は四人。 二枚目は五人。 三枚目は。 「……六人」 誰かが。 増えたり。 消えたりしている。 「…………」 背中が冷たくなる。 アルバムを閉じようとした。 その時。 一枚。 写真が床へ落ちた。 「…………」 拾う。 家の前。 父。 母。 兄。 私。 女の子。 五人。 「…………」 これ。 家族写真。 そう思った。 裏返す。 母の字。 『20××年 5月3日』 そして。 その下。 『五人で撮った、最初の家族写真』 「…………」 最初の? 私はもう一度写真を見る。 父。 母。 兄。 私。 女の子。 「……やっぱり、この子……」 家族だった。 証拠。 見つけた。 その時。 「…………?」 写真の裏。 さらに。 小さな字。 母の字じゃない。 父でもない。 子どもの字。 『ほんとうは』 「…………」 その下。 『ろくにん』 「…………え?」 六人? もう一度。 写真を見る。 一。 父。 二。 母。 三。 兄。 四。 私。 五。 女の子。 五人。 「……五人じゃん」 六人目なんて。 いない。 「…………」 でも。 写真の。 左端。 カーテン。 いや。 違う。 これは。 家の玄関前。 カーテンなんてない。 「…………?」 写真の端。 黒い。 細長い。 何か。 「…………」 指で擦る。 汚れじゃない。 人。 誰かの。 肩。 写真の外へ。 ほとんど切れている。 六人目。 「…………っ」 その瞬間。 背後で。 ミシ。 「…………」 畳が鳴った。 誰か。 いる。 振り返れない。 「…………」 ミシ。 近づく。 ミシ。 また。 「…………誰?」 返事はない。 私は写真を握る。 ミシ。 すぐ後ろ。 そして。 耳元。 「ちがうよ」 「…………っ!」 女の子。 あの声。 『おねえちゃん』と呼んだ。 あの子。 「……何が?」 震えながら聞く。 「何が違うの?」 「…………」 「五人じゃないの?」 返事。 「…………」 「あなたは誰?」 沈黙。 「私の妹なの?」 すると。 すぐ後ろで。 くすっ。 笑った。 「わたしは」 「…………」 「ずっといるよ」 「…………」 「じゃあ……六人目は?」 沈黙。 その時。 アルバムのページが。 ひとりでに。 パラ。 めくれた。 パラ。 パラ。 パラパラパラパラ――。 「……やめて」 高速で。 ページがめくれていく。 そして。 ピタッ。 止まる。 「…………」 一枚の写真。 食卓。 今と同じ。 父。 母。 兄。 私。 そして。 小さな女の子。 五人。 食卓には。 六人分の食器。 「…………」 写真の下。 日付。 十年前。 そして。 手書きの一文。 『今日は家族みんなで夕食。』 「…………」 私は。 写真を見つめる。 五人。 食器は。 六人分。 今と。 同じ。 「…………」 その時。 写真の中。 空いている椅子。 そこに。 何かが。 写っている。 影。 薄い。 人の形。 「…………」 第1話で見た。 あの影。 「…………っ」 そして。 私は。 気づいた。 五人目は。 あの女の子。 だったら。 ずっと空いている。 あの席は。 「…………誰の?」 女の子の声が。 耳元で。 囁いた。 「やっと気づいた?」 「…………」 「おねえちゃん」 「…………」 「わたしは、五人目だよ」 息が止まった。 そして。 次の言葉。 「だから」 声が。 少しだけ。 笑った。 「ずっと待ってるのは」 「…………」 「六人目」 第四話『五人で撮った写真』 了
第三話 子ども部屋
「お姉ちゃん」 その声が、耳から離れなかった。 授業中も。 帰りのホームルームでも。 友達と話している時でさえ。 『おねえちゃん』 『やっと、思い出してくれるの?』 そして。 制服のポケットには、あのブレスレットが入っている。 淡い水色のビーズ。 中央にひとつだけついた、白い花。 学校の非常階段に落ちていたもの。 スマホの写真に写った、知らない女の子が身につけていたもの。 そしてなぜか――。 私はこれを、知っている。 「…………」 ポケットの上から、そっと触れる。 硬いビーズの感触。 その瞬間。 ――ぱっ。 頭の中に、映像が浮かんだ。 『おねえちゃん、みて!』 小さな手。 水色のビーズ。 白い花。 『かわいい?』 笑っている。 誰かが。 私に向かって。 「…………っ」 「ねえ」 「!」 肩を叩かれ、私は飛び上がった。 「びっくりした……」 昨日、家族について話した友人だった。 「それこっちの台詞。さっきから何回呼んだと思ってんの?」 「……ごめん」 「帰らないの?」 教室を見る。 もうほとんど生徒はいなかった。 「帰る」 「一緒に帰ろ」 「……うん」 鞄を持つ。 その時。 「そういえばさ」 友人が言った。 「昨日のあれ、どうなった?」 「……あれ?」 「家族の話」 心臓が少しだけ速くなる。 「ああ……」 「なんだったの? 結局」 「分かんない」 「まだ?」 「うん」 言おうか迷った。 写真のこと。 女の子のこと。 ブレスレットのこと。 でも。 言えなかった。 言葉にしてしまったら、本当に起きていることだと認めることになる気がした。 「……家帰って、もう一回調べてみる」 「大丈夫?」 「大丈夫」 口から出て。 少し嫌になった。 大丈夫。 本当は全然大丈夫じゃないのに。 どうしてこういう時、人は決まって「大丈夫」と言うんだろう。 「なんかあったら連絡してよ」 「うん」 「夜中でもいいから」 「それは寝て」 「そこは頼ってよ」 少しだけ笑えた。 「ありがと」 校門で友人と別れた。 家までの道を、一人で歩く。 昨日までは。 何百回も通った、ただの帰り道だった。 今日は違った。 帰りたくない。 家に帰るのが怖い。 でも。 知りたい。 五人目が誰なのか。 あの女の子が誰なのか。 そして。 どうして私は。 あの子を忘れているのか。 * 家の前に着いた。 「…………」 見慣れた二階建ての家。 白い壁。 茶色い屋根。 二階には三つの窓。 両親の寝室。 兄の部屋。 私の部屋。 「…………?」 私は立ち止まった。 三つ。 「……あれ?」 何か。 引っかかった。 この家。 二階の部屋って。 いくつだっけ。 両親の寝室。 兄の部屋。 私の部屋。 それから。 「…………」 いや。 三つだ。 それだけ。 なのに。 家の外から見る二階には――。 窓が、四つあった。 「…………え?」 数える。 一。 二。 三。 四。 右端。 小さな窓。 「あんな窓……あった?」 何年住んでるんだ。 生まれてからずっと、この家だ。 知らないわけがない。 でも。 その窓が、家のどの部屋のものなのか分からなかった。 「…………」 カーテンが閉まっている。 薄い。 白いカーテン。 風もないのに。 ふわ。 ほんの少しだけ。 動いた。 「…………っ」 目を凝らす。 誰もいない。 「……気のせい」 そう言って、玄関へ向かった。 * 「ただいま」 「おかえりー」 母の声。 靴を脱ぐ。 リビングを覗くと、母が洗濯物を畳んでいた。 「今日早いね」 「委員会ないから」 「そっか」 「……お兄ちゃんは?」 「まだ」 「お父さん?」 「仕事」 母と二人。 少し嫌だった。 いや。 母が嫌なわけじゃない。 むしろ。 聞くなら今しかないと思った。 「……お母さん」 「ん?」 「聞いていい?」 「何?」 私は鞄を置く。 ポケットの中のブレスレットを握った。 「うちの二階って、何部屋ある?」 母の手が止まった。 ほんの一瞬。 本当に一瞬だけ。 「……どうしたの、急に」 「いいから」 「三部屋でしょ」 「三部屋?」 「お父さんとお母さんの寝室と、お兄ちゃんの部屋と、あなたの部屋」 「……だよね」 「うん」 「じゃあさ」 「何?」 「外から見たら、窓が四つあるのはなんで?」 「…………」 母の顔から。 笑顔が消えた。 「お母さん?」 「……四つ?」 「うん」 「そんなわけないでしょ」 「あるよ」 「見間違いじゃない?」 「じゃあ一緒に見て」 「…………」 「今」 「洗濯物やってるから」 「すぐじゃん」 「あとでいいでしょ」 「なんで?」 「…………」 母は黙った。 明らかに。 おかしい。 「お母さん」 「何?」 「知ってる?」 「何を?」 「もう一つの部屋」 「知らない」 早かった。 あまりにも。 答えるのが。 「まだ何も言ってないじゃん」 「え?」 「私、もう一つの“部屋”なんて言ってない」 「…………」 母の顔が固まった。 「窓が四つあるって言っただけ」 「…………」 「なのに、なんで“知らない”って言ったの?」 「それは……」 「ねえ」 「…………」 「何隠してるの?」 「隠してない」 「じゃあ教えてよ!」 声が大きくなる。 母がびくっとした。 「昨日からずっとそう!」 「…………」 「五人家族って言うのに、誰なのか言えない」 「…………」 「名前も思い出せない」 「…………」 「写真も変だし!」 「写真?」 「あ……」 言ってから気づく。 「何の写真?」 「…………」 「写真って何?」 母が立ち上がった。 さっきまでと顔つきが違う。 「何を見たの?」 「……昔の写真」 「どこで?」 「廊下に落ちてた」 「廊下?」 「うん」 「そんなはず……」 母の顔色が変わる。 「その写真、どこ?」 「部屋」 「持ってきて」 「なんで?」 「いいから!」 初めてだった。 母が、あんな声を出したのは。 「…………」 「ごめん」 母はすぐに声を落とした。 「……お願い。持ってきて」 「嫌」 「どうして?」 「お母さん、何か知ってるから」 「知らない」 「嘘」 「嘘じゃない」 「じゃあこれ何?」 私はポケットから。 ブレスレットを出した。 「…………」 母の目が見開いた。 手から。 畳んでいたタオルが落ちた。 「……それ」 声が震えていた。 「知ってるの?」 「…………」 「ねえ」 「どこで……」 「学校」 「どうして……」 「学校の非常階段に落ちてた」 母が一歩後ろへ下がる。 「……捨てて」 「え?」 「それ、捨てなさい」 「なんで?」 「いいから!」 「だからなんで!?」 母が私の手から奪おうとする。 私は反射的に引いた。 「やめて!」 「お願いだから!」 「これ誰のなの!?」 「…………」 「お母さん知ってるんでしょ!?」 「知らない!」 「じゃあなんでそんなに怖がるの!」 「…………っ」 母の目に。 涙が浮かんだ。 「……お願い」 「…………」 「それ以上、調べないで」 「なんで?」 母は答えない。 「お母さん」 「…………」 「私、何を忘れてるの?」 「…………」 「ねえ!」 母は唇を噛んだ。 そして。 「……何も」 小さく言った。 「あなたは、何も忘れてない」 「嘘」 「本当よ」 「じゃあ五人目は?」 「…………」 「誰なの?」 母は。 答えなかった。 * その日の夕方。 母は買い物へ出た。 私は二階にいた。 机の上には。 古い写真。 そして。 水色のブレスレット。 「…………」 母は知っている。 絶対に。 ブレスレットを見た瞬間の顔。 あれは。 知らない物を見る顔じゃなかった。 「捨てて」 そう言った。 どうして? 怖いから? 思い出したくないから? それとも。 私に思い出してほしくないから? 「…………」 窓の外を見る。 向かいの家の屋根。 夕方の空。 そして。 ふと思い出す。 外から見えた。 四つ目の窓。 「…………」 私は立ち上がった。 部屋を出る。 廊下。 右側に両親の寝室。 左側に兄の部屋。 その隣に私の部屋。 「…………」 三部屋。 やっぱり。 どこにも。 四つ目の部屋なんてない。 「……じゃあ、あの窓は?」 廊下を歩く。 突き当たり。 壁。 「…………」 私は壁を見た。 白い壁紙。 小さな棚。 棚の上には、母が飾ったドライフラワー。 それだけ。 でも。 外から見た位置を考えると。 四つ目の窓は。 「……ここ?」 突き当たりの壁。 その向こう。 「…………」 私は壁へ手を当てた。 冷たい。 コン。 軽く叩く。 硬い音。 もう一度。 コン、コン。 「…………」 少し横へ。 コン。 「…………?」 音が違う。 もう一度。 コン。 最初の場所。 コツ。 少し右。 コン。 もっと右。 ――トン。 「…………」 空洞。 「……え?」 もう一度。 トン、トン。 明らかに。 壁の向こうに空間がある。 「…………」 心臓が速くなる。 私は棚を動かした。 ドライフラワーを床へ置く。 棚は思ったより重かった。 「っ……」 引きずる。 ズズズ……。 棚の裏。 「…………え」 壁紙。 でも。 よく見ると。 縦に。 一本の線がある。 そして。 横にも。 四角い。 人が通れるくらいの。 「…………扉?」 壁紙で。 塞がれている。 扉。 「…………」 指でなぞる。 右側。 何か硬いものに触れた。 壁紙の下。 丸い。 「……ドアノブ?」 息が浅くなる。 どうして。 こんなところに。 「…………」 剥がす? 一瞬。 母の顔が浮かんだ。 『それ以上、調べないで』 「…………」 でも。 知らないままなんて。 もう無理だった。 私は壁紙の端へ爪を入れた。 ビリ。 小さな音。 「…………」 剥がす。 ビリビリ。 古い。 木製の扉が出てくる。 白く塗られていたらしい。 ところどころ。 塗装が剥げている。 ドアノブ。 鍵穴。 「…………」 本当に。 部屋がある。 私の家に。 十七年間。 知らなかった部屋。 「…………」 ドアノブを握る。 回す。 ガチャ。 「…………」 開かない。 鍵がかかっている。 「鍵……」 その時。 ポケットの中で。 何かが動いた。 「…………?」 水色のブレスレット。 取り出す。 「…………」 違う。 ブレスレットじゃない。 ポケットの底。 何か。 硬いもの。 「……え?」 指で掴む。 取り出す。 小さな。 銀色の鍵。 「…………」 知らない。 こんなもの。 入れた覚えがない。 「……いつ……?」 鍵を見る。 小さな白い花の飾り。 「…………っ」 ブレスレットと。 同じ花。 「…………」 手が震える。 やめた方がいい。 頭のどこかで。 そう言っている。 でも。 私は。 鍵を差し込んだ。 カチ。 ぴったり。 「…………」 ゆっくり回す。 カチャ。 鍵が。 開いた。 「…………」 ドアノブへ手をかける。 その瞬間。 背後から。 「開けちゃだめ!」 「っ!?」 振り返る。 誰もいない。 「…………」 母? 違う。 もっと。 幼い声。 「…………」 今の。 あの子? でも。 昨日は。 『思い出してくれるの?』 って。 言った。 なのに。 今は。 『開けちゃだめ』? 「…………どういうこと」 私は扉を見る。 開けるな。 でも。 ここまで来た。 「…………」 ドアノブを回す。 ギィ……。 長い間。 開けられていなかったような音。 扉が。 少しずつ開く。 暗い。 「…………」 埃の匂い。 古い木の匂い。 そして。 微かに。 甘い匂い。 何だろう。 どこかで嗅いだことがある。 「…………」 スマホのライトをつける。 光を中へ向ける。 「…………え」 子ども部屋だった。 小さなベッド。 白い机。 本棚。 ぬいぐるみ。 壁には。 色褪せた花柄の壁紙。 「…………」 時間だけが。 この部屋で止まっている。 机の上には。 色鉛筆。 ノート。 小さなヘアブラシ。 全部。 埃を被っている。 なのに。 ベッドだけ。 「…………?」 綺麗だった。 シーツに。 埃がない。 「…………」 まるで。 誰かが。 今も使っているみたいに。 一歩。 部屋へ入る。 ギシ。 床が鳴る。 「…………」 壁。 子どもの絵が貼ってある。 クレヨン。 家。 太陽。 人。 「…………」 私は近づく。 家族の絵。 お父さん。 お母さん。 男の子。 女の子。 そして。 もう一人。 小さな女の子。 五人。 「…………」 絵の下。 子どもの字。 『おとうさん』 『おかあさん』 『おにいちゃん』 そして。 「…………」 私らしき女の子の下。 『おねえちゃん』 「…………っ」 やっぱり。 私には。 妹がいた。 「…………」 その隣。 一番小さな女の子。 名前が。 書いてある。 「…………」 でも。 黒いクレヨンで。 何度も。 何度も。 塗り潰されていた。 「……なんで……」 指で触れる。 黒。 黒。 黒。 名前だけ。 消されている。 「…………」 その時。 カタン。 「!」 背後。 机の方。 「…………」 何かが落ちた。 振り返る。 床に。 ノート。 「…………」 さっきまで。 机の中央に置かれていたはず。 私はゆっくり近づく。 拾う。 表紙。 花のシール。 水色。 「…………」 開く。 最初のページ。 子どもの字。 『にっき』 その下。 名前。 「…………」 また。 消されている。 「……全部……」 名前だけ。 消してある。 ページをめくる。 『きょうは、おねえちゃんと――』 次。 『おねえちゃんが――』 次。 『おねえちゃんといっしょに――』 私。 私のことばかり。 書いてある。 「…………」 ページをめくる手が震える。 そして。 途中。 文字が変わった。 震えている。 筆圧が強い。 『おねえちゃんがわたしをわすれた』 「…………え?」 次。 『おかあさんもわすれた』 「…………」 次。 『おとうさんも』 「…………」 次。 『おにいちゃんも』 「…………っ」 私は息を止めた。 おかしい。 今。 父も。 母も。 兄も。 五人目がいたことは覚えている。 名前だけ。 思い出せない。 でも。 この日記には。 『わすれた』 と書いてある。 いつ? 誰が? 何を? ページをめくる。 次。 真っ白。 次。 真っ白。 そして。 最後。 一行だけ。 書かれていた。 『こんどは、おねえちゃんのばん。』 「…………」 意味が。 分からない。 「……私の……番?」 その瞬間。 バタン!! 「きゃっ!!」 扉が閉まった。 「…………!」 真っ暗。 スマホのライトだけ。 「やだ……」 扉へ走る。 ドアノブを回す。 ガチャ。 ガチャガチャ。 「開かない……!」 「なんで!?」 さっき。 鍵は開けた。 なのに。 外から。 鍵をかけられたみたいに。 開かない。 「お母さん!」 扉を叩く。 「お母さん!!」 返事はない。 「誰か!」 ドンドン! 「開けて!!」 その時。 背後。 ベッドの方から。 ギシ。 「…………」 音。 誰かが。 ベッドへ座ったような。 「…………」 振り返れない。 ギシ。 もう一度。 マットレスが沈む音。 そして。 「…………」 小さな。 息遣い。 「……誰……?」 返事はない。 「……あなたなの?」 震えながら。 振り返る。 スマホのライトを向ける。 「…………」 誰もいない。 でも。 ベッド。 白いシーツ。 そこに。 「…………っ」 小さな。 手形。 ひとつ。 シーツが。 ゆっくり。 沈んでいく。 手。 肘。 肩。 まるで。 見えない誰かが。 四つん這いになって。 こちらへ。 近づいてくるように。 「……やだ」 一歩下がる。 ベッドの軋む音。 ギシ。 ギシ。 ギシ。 「来ないで……」 その時。 耳元で。 声。 「おねえちゃん」 「…………っ!」 振り返る。 誰もいない。 でも。 声は。 すぐ後ろ。 「思い出して」 「…………」 「わたしのこと」 「誰なの……」 涙が滲む。 「名前……教えてよ……」 沈黙。 そして。 「…………だめ」 「え?」 「名前を呼んだら」 「…………」 小さな声が。 笑った。 「また、ひとり増えちゃうよ」 「…………え?」 その瞬間。 部屋の外。 廊下から。 母の悲鳴が聞こえた。 「――開けたの!?」 「お母さん!」 ガチャ! 扉が勢いよく開く。 光。 私は廊下へ飛び出した。 「お母さん……!」 母が立っていた。 買い物袋を床へ落として。 顔を真っ青にして。 私ではなく。 部屋の中を見ている。 「……どうして」 「…………」 「どうして、この部屋を……」 「お母さん」 私は。 日記を握りしめた。 「ここ、誰の部屋?」 「…………」 母の目から。 涙が落ちた。 「教えて」 「…………」 「私に妹がいたんでしょ?」 母の唇が震える。 「…………」 「いたんだよね?」 長い。 長い沈黙。 そして。 母は。 首を横に振った。 「…………え?」 「違う」 「何が?」 母は。 部屋の中。 五人の家族が描かれた絵を見つめて。 震える声で言った。 「あなたに……」 「…………」 「妹なんて、いない」 「…………は?」 「一度も」 母の顔は。 嘘をついているようには見えなかった。 「じゃあ……」 私は日記を見る。 『おねえちゃん』 何度も。 何度も。 書かれている。 「この子は……誰?」 母は。 答えなかった。 ただ。 私の手にある日記を見て。 小さく。 呟いた。 「……また始まった」 「え?」 「…………」 「お母さん、今なんて――」 その時。 部屋の中から。 カタン。 二人同時に振り返る。 机の上。 誰も触れていない色鉛筆が。 一本。 床へ転がる。 ころころ。 ころ。 私たちの足元で。 止まった。 黒い色鉛筆。 「…………」 そして。 部屋の壁。 さっきまで。 何もなかった場所に。 文字があった。 黒いクレヨン。 子どもの字。 たった一行。 『こんどは だれを わすれる?』 第三話『子ども部屋』 了