虹色のシャボン玉
18 件の小説通学路の木
十数年ぶりに故郷へ戻った。 町は建て替えられ、かつての面影はほとんど失われていた。 それでも、中学へ続く坂道だけは忘れていない。 その途中に一本の街路樹があった。 ある冬の日、その根元で同級生が死んだ。 教師や親は「事故だった」と言い張ったが、子どもたちは皆わかっていた。彼はいじめられ、追い詰められていたのだ。 そして自分は、輪の中で罵る側にいた。 翌年、その木は切り倒され、跡地には石碑が置かれた。 なのに、今そこに木は立っている。濃すぎるほど青く繁り、風にざわめき、影を道いっぱいに落として。 近所の老婦人に尋ねても「何もない」と怪訝な顔をされる。見えているのは自分だけ。そう理解した瞬間、足が震えた。 幹に手を触れる。ざらついた感触の奥に、ぬめりのような冷たさが脈打つ。幹の影が揺らぎ、そこから顔が覗いた。 それは、自分自身だった。 制服姿の、あの日の自分。クラスの輪に混じり、声を張り上げて罵っていた自分。 「おかえり」 幹の奥からざわめきが広がる。 やがてそれはクラス全員の嘲笑に変わり、鼓膜を震わせる。 「君も同じだった。ひとりを追い詰めて、笑っていた」 「だから今度は、一緒に行こう」 伸ばされた手を掴まれた瞬間、町並みは崩れ落ちた。 気づけば、暗い空間に一本の木だけが立っている。 根元には同級生が座っていた。 見上げた顔は笑っていた。孤独と痛みにねじ曲がったような笑みだった。 そして、自分の口元にも同じ笑みが張り付いていくのがわかる。そして、幹の奥から幾人もの声が重なった。 「ようやく、仲間になれたね。」 もう戻れない。ここで同級生と、あの日の自分と、永遠に過ごすのだ。 坂道から、またひとりの足音が近づいてくる。 木は新しい声を求めて、ざわめき続けていた。
イカロスの翼
エーゲ海に面した小さな村では、夏至の頃、毎年恒例の祭りが開かれた。 その祭りの目玉は「鳥人の競べ」 若者たちが自作の翼を背に、断崖から海へ飛び立つ競技である。観衆は歓声と笑いを抱え、空を舞う者たちを見守った。 その年、注目を集めたのは二人の青年だった。 ひとりは、村一番の職人の息子で、父ダイダロスの知恵を受け継ぎ、木や布を巧みに組み、羽根を骨組みに沿って貼りつけた。蜜蝋は装飾として薄く塗られただけで、飛行には関係ない。彼の翼は理にかなっており、風を捉えるとふわりと空へ舞い上がった。観衆は驚嘆し、まるで人間が鳥になったかのように歓声を上げた。 もうひとりは、無知で短絡的な若者だった。彼は「蝋で羽根を固めれば飛べるだろう」と、羽根を翼型に成形して背負い、崖へ駆け出した。結果は言うまでもない。翼は重く脆く、飛ぶどころか空中分解し、海に落ちた。観衆は笑い、彼の愚かさを語り草にした。 その後も多くの若者が挑戦し、成功も失敗も入り混じった。だが祭りが終わり、話が代々伝えられるうちに、成功した者も失敗した者もすべてがひとりの若者に統合された。 「太陽に近づきすぎて、蝋の翼が溶けて墜ちた青年イカロス」 こうして村の祭りの笑いと喝采は、やがて大陸に広がる神話となったのである。
縁側の座布団
祖母が亡くなったあとも、縁側の隅には一枚の座布団が置かれていました。色あせた花柄の古びた布で、父は「おばあちゃんのお気に入りだった」と言って片づけようとしなかったのです。 けれど、私は知っていました。祖母は生前、あの座布団に一度も腰を下ろしたことがなかったということを。 「背中が冷えるんだよ」 そう言って縁側を避け、居間で過ごしていた姿を何度も見ていました。だから、あの場所に遺された座布団はどうしても不自然に思えたのです。 その夏、夜中に廊下を歩くたび、座布団の位置がわずかにずれていることに気がつきました。布地が沈み、誰かが座ったような跡まで残っています。家族は気にも留めていませんでしたが、それでも私の胸の奥には、冷たいものが積もっているのがわかりました。 ある夜、障子の隙間から縁側を覗いてみました。すると、月明かりの下、座布団に女が腰かけていたのです。 長い髪を背に垂らし、白い浴衣のようなものをまとい、静かに庭を見つめている。 その肩がかすかに揺れており、笑っているようにも、泣いているようにも見えました。 声をかけようとした瞬間、喉が塞がりました。息はできるのに、声だけが出ない。 女は、ゆっくりと首を回し始めました。 横顔が現れかけたとき、闇に吸い込まれるようにふっと消えました。 残されたのは、湿った囁き声。 「……あんたも、座りなさい」 翌朝、座布団を片づけようとしたのですが、父に腕を掴まれ、強く止められました。 「触るんじゃない」 父の声は震えていました。 後日、祖母の遺した日記を探してみたのですが、そこには黄ばんだ紙に、震えるような字で短い言葉が繰り返されていました。 「縁側には座らないこと。夜になると、あの子が来るから」 それを読んだ夜、眠りかけた耳に、畳を擦る音が届きました。 そっと覗くと、座布団にはまた女が座っていました。今度は少しずつ、畳の方へと身をずらしている。縁側を超えて、こちらへ。 声を上げようとしましたが、喉が固まったまま動かない。そして、耳の奥に響くのです。 「今夜は、あなたが座る番だから」 翌朝、縁側から座布団は消えていました。 代わりに、その座布団は私の枕元に敷かれていて、湿った汗の跡と、長い黒髪が何本も絡まっていました。
「カフェの窓辺で、君に触れる」
カフェの朝は、思ったよりずっと忙しい。 結城 遼はまだ慣れない手つきで、ラテを作りながら、隣で注文をさばく先輩、篠原 悠真をちらりと見た。 「遼、泡がちょっと崩れてるぞ」 低く響く声に、心臓が跳ねる。悔しいのか、嬉しいのか、自分でもわからない。 「す、すみません…」 「大丈夫。俺がフォローする」 篠原は手を伸ばし、結城の手元をそっと補助した。 その距離の近さに、遼は思わず息を呑む。 昼のピークタイムを抜け、カフェに少し落ち着きが戻る。 他のスタッフたちは笑顔でテーブルを片付けたり、常連客と話したりしている。 結城は、カウンターの隅で汗を拭きながら、篠原の動きを見守る。 「あの人の手つき、ほんとにきれいだな…」 「なんでこんなに近くにいるのに、普通に振る舞えるんだろう」 胸の奥で、勝手に心がざわつく。 篠原は何気ない仕草で、遼の視線を引き寄せる。 それに気づくたび、遼の顔は熱を帯びていく。 ある日、カフェの棚から材料を取り出そうとした遼の手が、篠原の手と触れた。 「……あっ」 「おっと、気をつけろ」 篠原は笑いながら手を引いたが、その笑顔に遼は思わず目を逸らした。 「なんで、普通に笑えるんだろう。俺、真っ赤なのに…」 「でも、嫌じゃない、っていうか…」 この距離感が、嬉しくて、切なくて、少しだけもどかしい。 閉店後、二人だけになったカフェ。 コーヒーの香りと静かな音楽に包まれ、篠原がそっと近づく。 「今日はよく頑張ったな」 「……はい」 「疲れてる顔も、意外と可愛いな」 その一言で、遼の心は爆発しそうになった。 恥ずかしいのに嬉しい。 緊張しているのに、どこか安心する。 でも、この気持ちを素直に言えるはずもない。 その夜、カフェの窓越しに差し込む街灯の光は、二人だけの特別な時間をやさしく包み込んでいた。 それから日々は続く。 ラテを作る練習、接客、忙しい時間―― だけど、少しずつ二人の距離は縮まっていく。 遼は思う。 「この人の隣なら、頑張れる」 「そして…きっと、ただの先輩以上の存在になるんだ」 カフェの窓辺で、二人の時間はゆっくりと、でも確かに重なり合っていくのだった。
文を繋げる小説
玄関の鍵は昨夜確かに閉めたはずだ。 それなのにAちゃんはそこに立っていて、手には僕の部屋の合鍵が握られている。
短編 「最後の迎え」
港町の夜は、いつも海の匂いがする。 潮が濃くて、喉に水を含んだような息苦しさが残る。 残業を終えて歩く道は、街灯の下だけがぼんやり明るく、その外は海の闇と変わらない。 海沿いのバス停に、彼女はいつもいた。 肩までの黒髪、淡いピンクのコート。 袖口から覗く白い手首は細く、濡れた髪が頬に貼り付いている。 雨でも傘を差さない人だ。 「こんばんは」 声は柔らかく、指先で撫でられるように低い。 名前は沙耶。 僕より少し年上に見えるけれど、笑ったときの目元は不思議なほど幼い。 「この町ではね、夜の終バスに乗っちゃだめ」 初めてそう言われたのは梅雨の終わりだった。 「戻ってこれなくなるから」 冗談かと思って笑うと、彼女は少しだけ黙り、海を見た。 何度も顔を合わせるうちに、少しずつ会話が増えた。 古い喫茶店の話、今はもう閉まった本屋の話。 「よく知ってるね」と言うと、「昔、少しだけ住んでたの」と答える。 それでも、彼女の話には時々つじつまが合わないところがあった。 「こっちに来てまだ間もない」と言った翌日に、町の昔話を詳しく語ったり。 そして、いつ見ても同じ淡いピンクのコート。 雨の夜には濡れて重く沈み、乾くことがない。 八月の夜。 残業で遅くなり、時計は二十二時を回っていた。 海鳴りが強く、空は鉛色の雲に覆われている。 最終バスまで、あと数分。 バス停には、やはり沙耶がいた。 髪は濡れ、コートは波しぶきを吸いこんで色を変えている。 その姿を見た瞬間、なぜか胸の奥が痛んだ。理由はわからない。 「乗っちゃだめだよ」 「でも、歩いたら遠い」 「戻ってこれなくなる」 彼女の指が、僕の手首を掴む。氷のように冷たい。 一瞬、その手を振りほどこうとしたのに、なぜか逆に握り返してしまった。 「……じゃあ、一緒に行こう」 口にした瞬間、自分でも驚くほど胸が軽くなった。 沙耶の指が、掴んだ腕からそっと僕の手へ滑り込む。 冷たいのに、不思議と温かみがあった。 彼女はじっと僕の目を見つめ、微かな震えを含んだ声で言った。 「……やっと、気づいてくれたんだね」 しばらく沈黙が続いた。 僕にはわからなかった。 でも、その目に映るものが、遠くにあったはずの記憶のかけらだと、 その時、なんとなくわかった気がした。 遠くから、バスのライトが近づいてくる。 海鳴りと混ざったエンジン音が、胸の奥を震わせた。 その瞬間、頭の中に映像が流れ込む。 雨で濡れた山道。夜のカーブを曲がりきれず、ハンドルが空を切る フロントガラス越しに、冷たい海水が一気に押し寄せる。 助手席に座る沙耶。必死に僕の名前を呼びながら、手を伸ばして そこまでで、記憶はぷつりと途切れた。 「覚えてないの? あの夜のこと」 沙耶の声が、耳ではなく胸の奥に届く。 「あなたは先に行っちゃった。置いていかれた私は、ずっと探してた」 バスが止まり、ドアが開く。 ガラスに映る僕は、全身びしょ濡れで、泥と海藻にまみれ、半年前の事故の日と同じ服を着ていた。 その横で、沙耶も同じ姿。頬を伝う水滴が、涙かどうかはわからない。 「さあ、帰ろう」 その言葉に抗う理由は、もうどこにもなかった。 最終バスは、海沿いの道を離れ、灯りのない方へと静かに進んでいった。
短編「風の向こうの影」
梅雨明けの昼下がり、蝉の声が耳を塞ぎたくなるほど降り注ぐ頃、私は家の前に停まった軽トラックを見送った。宅配便の運転手が置いていったのは、小さな段ボール箱。 差出人の欄には、おばあちゃんの名前がある。 封を切ると、涼しげな水色のハンディファンが現れた。 「熱中症に気をつけなさい」と手紙には丸い字で書かれている。私は笑って、机のUSBケーブルにつなぎ、スイッチを入れた。 ふ、と視界が揺れた気がした。 生ぬるい風が頬を撫でる。窓の外、庭の柿の木の根元に、誰かが立っている。 麦わら帽子を深くかぶった小柄な人影。けれど、帽子の下は影になっていて、顔は見えない。 「……誰?」 つぶやいた瞬間、父の呼ぶ声がして振り返った。再び外を見ると、その人影は消えていた。 しばらくは気のせいだと思っていた。けれど翌日も、そのまた翌日も、ハンディファンを回すたびに、誰かが視界の端に現れた。 庭の片隅、道端の電柱の陰、夕暮れの神社の鳥居の奥。必ずこちらを向いて立っているのに、近づくといなくなる。 おかしいのは、それが見えるのはファンが回っている間だけだということ。 充電が切れると、何も見えなくなる。逆に言えば、電源を入れた瞬間に必ず現れる。 ある晩、蒸し暑さに耐えきれずベッドでファンを回していると、カーテンの向こうで何かが擦れる音がした。 そっと見やると、薄い布越しに、背の高い人影が立っているのがわかった。 足元からじわじわと、布が湿っていく。水ではない、もっと生臭いもの。 息を呑んだ瞬間、ファンの羽根が止まった。 暗闇と蝉時雨だけが残る。 怖くなって布団を被ったまま朝を迎えた。 次の日、充電器に繋いでみると、バッテリーはほとんど減っていなかった。 燃費が悪いのは、電池じゃなくて、私のほうだったのかもしれない。 風に攫われて、何かを少しずつ、持っていかれているような。 おばあちゃんに電話をした。受話器の向こうで、あの優しい声が言う。 「よかった。もう、見えるようになったのね」 蝉が鳴く音が、急に遠ざかっていった。
怨嗟(えんさ)の箱
午後の薄曇り。狭いアパートの一室に4人が集まった。 YouTube心霊探索チャンネル「ナイトウォーカーズ」のメンバーである。 リーダーのケンジは画面を見つめ、低く呟く。 「最近、視聴数が落ちている。次は伝説級の場所に行く。廃病院だ」 ミカは冷めた目でコーヒーをすすりながら、 「正直、あそこは行きたくない。事故や変死が多いって聞くし」 タクヤはスマホを弄りながら言う。 「霊感の強い人は近づかないって話だよ」 ユリは震える声で尋ねる。 「4人で本当に行くの?何かあったらどうするの?」 ケンジはカメラを握りしめ、静かに決意を語った。 「怖がっても仕方ない。動画を撮って、みんなを驚かせる。これが俺たちの仕事だ」 夜、湿気を帯びた空気の中、4人は車に乗り込んだ。 ケンジが運転席で呟く。 「これからが本物の肝試しだ」 ミカはライトを点け、周囲を見回す。 「空気が重い…」 タクヤは地図を見つめ、言った。 「もうすぐだ。道が荒れてるから気をつけて」 ユリは窓の外の闇を見つめ、息を呑んだ。 錆びた鉄の門が軋みながら開く。 雑草が足元を覆い、冷たい風が身体を揺らす。 ケンジは小さく息を吐く。 「これが、あの廃病院か」 誰も口を開かず、暗闇に飲み込まれるように歩き出した。 廊下は湿気とカビ臭さに満ち、壁は剥がれ、ガラス片が散乱している。 ケンジはカメラを回しながら呟く。 「ここで何か撮れたら伝説だ」 ミカは震える声で言う。 「聞こえる?足音…」 遠くからかすかな足音が響き、誰も返事しなかった。 ユリは壁に貼られた古い患者写真に目を奪われ、 「ずっと見られてる気がする」 埃に埋もれた木箱が彼らを誘うように置かれていた。 タクヤが拾い上げると、冷気が周囲を包む。 箱の中には黒焦げの手の一部と焼け焦げた紙切れが詰まっていた。 カメラが揺れ、映像が乱れた。 ケンジは震えながら言った。 「これは持って帰るしかない」 帰宅翌日、ミカの目は遠くを彷徨い、言葉は途切れ途切れだった。 「帰せ…帰せ…」 部屋は荒れ果て、壁には奇妙な落書きが走っていた。 ケンジは電話をかけるが、応答はなかった。 夜、ミカの部屋の窓から誰かが覗いている気配を感じ、震えが止まらなかった。 ミカが入院すると、タクヤも異変を見せ始めた。 仕事中に意識を失い、車を軽くぶつけてしまう。 「頭が割れそうだ」 ユリは深夜、一人泣きながら電話をかけてきた。 「助けて…もう耐えられない」 ケンジは恐怖に押しつぶされそうになりながらも、仲間の異変に立ち向かった。 ユリは幻覚に苛まれ、毎晩誰かに追われる夢を見るようになった。 部屋の壁には引っ掻き傷が増え、物音が響き渡る。 タクヤは仕事を辞め、引きこもりがちになる。 「あの木箱を返さなきゃ…」 ケンジは廃病院の過去を調べ、呪いの正体に迫る。 ある夜、ケンジのスマホが震えた。 非通知番号からの着信。 ノイズ混じりの声が低く繰り返す。 「かえせ…かえせ…」 ケンジは震えながら画面を見つめた。 追い詰められたケンジは、木箱を持ち帰った病室へ戻る決意を固めた。 廃病院は静かに、だが確実に彼を飲み込もうとしていた。 暗闇に響く足音、壁を這う影、遠くから聞こえる叫び声。 ケンジは最後の映像を回しながら、呪いの真実と向き合う。 エピローグ 廃病院は昭和30年代に開設され、多くの精神疾患患者が収容された。 だがその歴史は決して平穏ではなかった。 密室での過酷な治療、薬物実験、管理体制の崩壊。 ある夜、大規模な火災が起こり、多くの患者が閉じ込められ、命を落とした。 その後も異常死や精神崩壊が報告され、やがて閉鎖された。 噂では、犠牲者たちの怨念が木箱に宿り、持ち帰った者たちに呪いを落としたという。 ケンジの映像は途切れ、消息は絶えた。 だが廃病院の影は今も誰かを見つめている――。
猟友会戦記
プロローグ 黒い足音 標津町、夜明け前。 海霧が港町を覆い、外灯の明かりがぼんやりと滲む。 犬が吠えたかと思えば、急に声が途切れた。 網元の古川は、不安に駆られて玄関を開けた。 「なんだ……?」 視界を覆ったのは黒い毛並みと濡れた息。 次の瞬間、ドアが破られ、古川の叫びが霧の中に消えた。 現場に駆けつけた地元猟友会の男たちは裏庭で三頭のヒグマと交戦、一頭を仕留めたが、残りは悠々と暗闇へ消えていった。 足跡は、札幌の方角を指していた。 第一章 道東の闇 釧路川沿い。 古参猟師・伊達政義は無線機を叩きながら軽トラを飛ばしていた。 「政さん! 納屋がやられてる、急いでくれ!」 現場に着くと、納屋の扉は半分食い破られ、穀物が辺りに散らばっている。 伊達は散弾銃を構え、仲間に目配せした。 「……一発で仕留めろ。群れだ」 暗闇から低い唸り声が返ってきた。 第二章 山の女猟師 旭川郊外。 罠猟師・白川智恵は、自分の仕掛けた罠が三つも破られているのを見て顔をしかめた。 「……どうやって外した? しかも餌だけ持っていくなんて」 助手の青年が震えた声で言う。 「足跡、見てください。まっすぐ……まるで、道を知ってるみたいです」 白川は無言で頷き、ライフルの安全装置を外した。 第三章 連絡網 道内各地で同時多発的にヒグマ襲撃が発生。 函館、網走、帯広――。 無線はひっきりなしに悲鳴と銃声を伝えてくる。 伊達と白川はそれぞれ別の場所から札幌の旧陸軍倉庫跡へ呼び出される。 彼らはそこで初めて顔を合わせた。 伊達「女が猟友会とは珍しいな」 白川「女でも、熊の弾の通し方くらいは知ってますよ」 第四章 招集命令 倉庫跡に集まったのは、全道の猟友会員3000人以上。 壇上の長谷川巌総司令が地図を広げる。 「やつらは札幌を狙っている。全方位からだ。これは害獣駆除じゃない、戦争だ」 各地の代表が即席の作戦会議を行い、部隊が編成される。 • 道東先遣隊(伊達政義) • 道央防衛隊(白川智恵) • 道南封鎖隊(松浦克己) • 機動増援隊(高城隼人) 第五章 夕張山地の試練 道東先遣隊は夕張山地で進軍する群れと遭遇。 濃霧の中、伊達が声を上げる。 「距離、40! 撃て!」 散弾の閃光が霧を裂き、ヒグマが転げる。 だが、残りは逃げず、一直線に突撃してきた。 仲間の一人が倒れ、伊達は叫んだ。 「撤退じゃない、押し返すぞ!」 第六章 市民避難線 札幌北区。 白川率いる道央防衛隊は避難列を守っていた。 老人ホームのバスが発進しかけた瞬間、路地から2頭の熊が飛び出す。 狙撃班「右、抜ける!」 白川「待て、こっちは私がやる!」 一発で頭部を撃ち抜き、もう一頭は狙撃班が仕留めた。 第七章 三方面同時侵攻 8月15日夜、ヒグマ群は小樽・江別・北広島から同時侵攻。 松浦の道南封鎖隊は国道で防衛成功。 しかし江別方面は突破され、高城隼人の機動増援隊が急行。 高城「前輪浮かせてでも突っ込むぞ!」 ATVが唸りを上げ、先頭の熊に散弾を浴びせた。 第八章 札幌市街戦 8月16日早朝。 すすきの・大通に群れが侵入。 伊達「右から回り込む! 白川、屋上援護!」 白川「了解!」 屋上からの銃撃が路地を守り、伊達は至近距離で二頭を仕留めた。 しかし数の優位は依然としてヒグマ側にあった。 第九章 空からの援護 午前9時12分。 時計台前の防衛線が崩壊寸前、上空からUH-1が飛来。 ガガガガッ! 機関銃の連射が群れを削る。 長谷川「全隊、総攻撃だ!」 地上と空からの挟撃が始まり、松浦隊が北区へ突入、伊達と白川が中央突破。 第十章 最後の雄 すすきの交差点。 体長3メートルの大雄が仲間を庇うように立ちはだかる。 伊達は無言で距離を詰め、至近距離で一発。 大雄は咆哮を上げて倒れた。 伊達「……終わったか」 白川「いいえ、始まりかもしれません」 エピローグ 静かな空 午後1時半、札幌奪還。 道路は血と瓦礫で覆われたが、市民は多くが無事だった。 白川は空を見上げる。 旋回しながら遠ざかるヘリが、小さくなっていく。 伊達「まだ……北海道は、人の土地だ」 仲間たちは無言で頷いた。
「帰れない階」
深夜1時過ぎ。 疲れ果てたれいなは、やっとの思いで自宅のマンションに戻った。 25階建てのこのビルの自分の部屋は18階。いつもならエレベーターのボタンを押せば、数分で部屋の前まで辿り着く。 だが今夜は、なにかがおかしかった。 薄暗いエレベーターの中、れいなが押した18階のボタンは確かに光っている。 それなのに、金属の箱は不自然にゆっくり上下を繰り返し、まるで嫌がるみたいに揺れていた。 「なんで…止まってくれないの?」 声は震え、胸がぎゅっと締めつけられた。 すると、押してもいない階で、静かに扉が開いた。 冷たい空気が隙間からすうっと入り込んで、背筋がぞくりとした。 扉の向こうには、白く冷たい蛍光灯がぼんやりと照らす長い廊下。 誰もいない。音も、気配も、まるで無。 れいなは小さく震えながら、手を伸ばして扉を閉めようとした。 だが、扉はゆっくり閉じきらず、冷たい風が隙間からさらさらと入り込む。 「ちがう…ちがうよ、そんなの…」 必死に心の中で唱えながら、目をぎゅっと閉じた。 暗闇の奥に、無数の影がゆらゆら揺れているのが見えた。 それはまるで、目に見えないものを纏い、じっと彼女を見つめているようだった。 冷たくて、重たい空気に胸が押しつぶされそうになる。 れいなは小さな声で、震えながら自分に言い聞かせた。 「お願い、18階に…ちゃんと、着いて」 「わたし、帰れるよね…?」 エレベーターは苦しそうに揺れ、重い音をたててやっと止まった。 金属の扉がゆっくりと開く。 慌てて足を踏み出し、外に出る。 振り返ったその瞬間だった。 最後に見たのは、静かに手を振る黒い影だった。