腹黒兎
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ねぇ、どうして連絡くれないの? 何回もメールしてるのに無視? 話したいことがあるって言ったよね? 日曜の夜にいつもの場所で待ってるから 来るまでずっと待ってるから 今度こそ絶対にきてよね! あやね 届いたメールを読んで思わず吹き出した。 「なに笑ってんの?」 隣にいた彼女が不思議そうに訊ねてくる。 どう言えばいいのか迷ってスマホを見せた。 「なにこれ……」 不機嫌そうに睨んでくる彼女が可愛くてついニヤけた。 ムッとした表情に、これ以上はマズいと早々に答えを明かした。 「詐欺メール。絢音と同じ名前でちょっと笑った。………話したいことあるなら聞くよ?」 「もう。さっさっと消してよ」 「いつもの場所ってどこだろ?ウチ?絢音んち?」 返事の代わりに肩を叩かれた。 痛くはないけど大袈裟な演技をしながら、ごめん、ごめん、と謝る。 「お詫びに何か奢るよ」 からかいの代償はちょっと高いコーヒーだった。
君に話したいこと
三年の交際を経て結婚した彼女との生活は新婚らしくつまづきながらも順調だった。 のんびりと話す声や、穏やかな気質と、柔らかな丸みのある体が好みだった。何より口を開けて楽しそうに笑う笑顔が可愛かった。 なんの気無しに言った一言でビーフシチューを作ってくれたのは嬉しかった。 味はまぁまぁ。出張で行った時に食べさせてもらったビーフシチューの方が美味かった。そんな感想を言えるわけもないから大人しく黙って食べた。 作るのが大変だったのか、それからしばらく食卓にはならばなかった。 結婚してもうすぐ一年になろうとしたある日。 帰ると彼女はずっとそわそわしていた。言いたいこたがあるなら言えばいいのに。 ちょっとだけイラついたら、「あのね…」と上目遣いでようやく口を開いた。「赤ちゃん、出来たみたいなの」 咄嗟に子どもの将来までいくらかかるのか計算して黙り込んでしまった。不安そうな彼女に「そうか」と声をかけ、予定日やこれから病院の話をした。 父親になるのか。仕事頑張らないとな。 調子のいい上司と文句の多い顧客にイライラしながら仕事を終えて帰る。 明かりのついていない部屋で妻がぐーぐーとソファで寝ていた。 いつから寝ているのか、洗濯物はカゴに入ったままで、台所には朝の食器がそのまま残っている。 こっちは朝から晩まで仕事してるっていうのに、いいご身分だよ、まったく。 明かりで目が覚めたのか、のそのそと起き上がった妻が俺に気がついて謝ってくる。 謝るぐらいならちゃんとしろよ。 「妊婦ってだけで病気じゃないんだから、しっかりしろよ」 臨月まで働いてる人もいるんだから、まだ五ヶ月程度でこんなぐうたらするなんてちょっとだらしないんじゃないだろうか。 妊婦は労われと母に言われ、同僚から言われ、看護士に言われる。何度も言わなくても分かっているし、ちゃんとやっている。 悪阻が落ち着いたのか、妻はよく動く。大きなお腹を抱えてよく動く。俺が手伝う必要がないぐらいよく動く。見ているこっちがハラハラするから、少し休んでくれ。 妻の代わりにゴミ出しもするし、買い物もして帰るし、休日には食器まで洗った。 「俺、けっこうイクメンだよな」 そう言うと妻は微妙な顔で「そうね」と返事をした。 息子が生まれ、娘が生まれ、家の中は大騒ぎだ。 家に帰ると、妻と子ども達が一緒になってぐーぐー寝ていた。 前にもこんなことがあったな。 リビングに散らかったおもちゃを踏み掛け、ため息をついておもちゃ箱に入れる。 また晩ご飯ができていない。 一日中家にいるのに、本当に何をしているんだらう。なんで要領よく家事ができないんだ。 不思議で仕方ない。 忙しいって俺よりも楽だろ。主婦なんだから、ちゃんと家のことをやってくれよ。 子どもを生んで彼女は母になった。 だが、俺の奥さんだって忘れてないか? 少しは二人で話したりしようよ。 彼女の頭の中は子供のことでいっぱいみたいだ。会話も子供の話ばかり。子どもたちが寝たら大人の時間だろ。 なんで一緒に寝てるんだよ。 浮気してやろうか。 疲れてイビキをかいて寝ている妻に布団を掛け直してやる。 嘘だよ。嘘。そんなモテねーよ。 「お父さんたちの結婚記念日っていつ?」 娘に聞かれて、結婚記念日が一週間前だったのを思い出した。 しまった。忘れていた。妻も何も言わなかったから、アイツも忘れてるんだろう。相変わらず、ずぼらだな。俺が言えた立場じゃないが。今更お祝いでもないし、プレゼントっていうのも日にちが経ち過ぎている。 「花でも贈ってあげなよ」 最近こましゃくれてきた娘がわけ知り顔で助言をする。 どんな顔して渡せというのか。 いいんだよ。十五年なんて中途半端じゃなくてもっとデカい記念日にまとめてするから。 二十年目で磁器婚式。 二十五年で銀婚式。 三十年で真珠婚式。 三十五年で珊瑚婚式。 四十年でルビー婚式。 四十五年でサファイア婚式。 五十年で金婚式。 五十年目に何かしてやろう。その時はお互いに八十前か。 その前にどこか連れて行ってやりたい。そういや、昔、温泉旅行とか言っていたな。 胃に大きなポリープができた。 会社の健康診断で判明した。病院に行けば良性ですが大きいから取りましょうと言われ、仕事の調整をしてとっとっと取ることにした。 妻の過剰な心配を笑うかのように手術はあっさりと終わった。 病院の消灯は早い。 なかなか寝付けずに寝返りを打つ。この時間はよく妻と珈琲を飲んでいたな。思い出すと、無性に妻と話がしたくなった。 スマホを取り出せば、待ち受け画面にした家族写真が表示された。もう五年も前の写真だ。子ども達は幼く、妻は相変わらず呑気そうに笑っている。 ああ、会いたいな。 会って君と話がしたい。 子供の話でも、ドラマの話でもいい。 笑う君の顔が見ながら、君の話を聞きたい。 娘が結婚した。 なぜだろう。息子が結婚した時とは違う寂しさを感じる。息子が家を出ても感じなかった寂しさだ。 相手の男は気に入らないが、娘が選んだのだから仕方ない。離婚歴も犯罪歴もないし、仕事も安定しているし、人柄も悪くない。 「貴方みたいに頼りがいのありそうな人でしたわね」 妻がおっとりと笑うから、仕方ないと許してやった。 だが、やはり寂しいものは寂しい。 一人残ったリビングでゆっくりと酒を飲んだ。 幸せになれ。 近所に住む息子が嫁と子どもと遊びに来た。 妻と嫁、俺と息子がそれぞれ話していると赤ん坊が目を覚ましてぐずり出す。息子がすぐ立ち上がり赤ん坊を抱き上げる。その上、手際よくオムツを換え出した。 なんだお前がやるのか。嫁は何をやってるんだ。 呆れる俺に息子は「父さん古いなぁ」と笑った。 「うちは共働きだからね。一緒に子育てしないと。奥さんばかりに負担はかけられないだろ」 そう言うが、男と女じゃ働く量も質も違うだろ。俺が若い時は男が育児をするなんて考えられない時代だぞ。 なぜか言い訳じみている気がした。 いや、家族を養う為に働いてきたんだ。後ろめたく思う必要ないて、ない。 「父さん、よく離婚されなかったよね」 呆れる息子の言葉にカチンときて「うるさいっ」と怒鳴れば、驚いた赤ん坊が泣いてしまい大いに慌てた。 すまん。じいちゃんが悪かった。 子どもたちが幼稚園か小学生ぐらいの頃に、妻のカバンからはみ出したていた紙があった。 なんの気無しに手に取ったそれは緑色の届出。まだ未記入だったが衝撃的で、ちゃんと元に戻したかも覚えていない。 どんな意図でもらってきた物か分からないが、渡されたことも話を切り出されたこともないので、知らないふりを続けている。 ………苦労を、かけたんだろうな。 妻の実家は遠く、年に一回帰るかどうかだった。子どもが生まれてもそれは変わらず、よく義母と電話をしていた。 そんな妻に「よくそんなに話すことがあるな」と揶揄ったことがあった。 妻は笑っていた。と、思う。 いつも控えめに笑っていた。 いつからだろう、楽しそうに全力で笑う顔を見ていないのは。 旅行に行こうと誘ったら、妻は目を見開いた。露天風呂や砂風呂もある温泉宿で、離れの一棟を予約したと言えば、驚きすぎて口が開いたままだった。 そんなに驚くことか。 「昔は温泉に入るだけなんて退屈だっておっしゃったのに」 「なんだ。嫌なら行かなくていいんだぞ」 「あらやだ。拗ねないでくださいな」 妻は朗らかに笑う。 「ありがとう、あなた。とても楽しみだわ」 国内の温泉で喜ぶなんて、安上がりな妻だ。 金婚式は海外に行こうと目論んでいる。もちろん、妻には秘密だ。サプライズってやつだ。 アメリカ、ハワイ、オーストラリア、ドイツ、フランス、イギリス。どこがいいだろうか。 書店の旅行雑誌を見ていると、イタリアの街並みが目に飛び込んできた。 そういえば、妻に誘われて観に行った映画の舞台がイタリアだったな。 イタリアか。悪くないな。 金婚式を来年に控えたある日、医者に妻の余命を告げられた。発見した時にはもう末期近かったのだと。 「奥さん我慢強い方なんでしょうね。痛みは随分前からあったはずですよ」 淡々と話す医者になんと返しただろう。 痛み?そんな素振りはなかった。 いつも通り、肩こりだ、腰が痛いとは言っていた。 いつからだ。いつから、妻の体調が悪くなったのか。 余命宣告をするべきか、しないべきか。 ああ、その前に子供たちへも伝えないといけないのか。 何を、どうすれば。 妻のいない家で、ひとり途方に暮れた。 病室の妻は日に日に痩せ細っていく。 ちゃんと食べてるのかと聞けば、食欲がわかなくてと困ったように笑う。 逆に「あなたはちゃんと食べてますか?」と心配された。 大丈夫。息子の嫁が時折お裾分けを持ってきてくれる。来週は娘も孫を連れて遊びに来るそうだ。 「あの子に、お母さんダイエット成功しそうよと伝えておいてくださいな」 そう言って笑う妻に返す言葉が見つからなかった。 大晦日の面会は夜の八時まで。 賑わうテレビをふたりでイヤホンを分け合って見ていた。 紅白も若い人だらけだ。と言えば、私は半分以上も知ってますよと妻が笑う。 面会終了の時間が近づくと妻は「残念だわ」と呟いた。 金婚式にイタリアに行きたいと思っていたのだと、温泉旅行のお返しに内緒で計画しようとしていたという。 「美術館に行ったり、広場を歩いたらして、有名なドゥオーモから街を見るのよ。あなたとふたりで行ってみたかったわ」 チューブに繋がれた妻は「残念だわ」と寂しげに笑った。 「治ったら行けばいいさ。どこでも連れて行ってやる」としか言えなかった。 「そうね」と何もかも分かっている妻が嬉しそうに笑った。 綺麗なところだな、イタリアは。 ドゥオーモから見る眺めは最高だが、年寄りに階段はキツイな。君も息を切らすはずだ。 少し痩せたらどうだ。と言えば、あんまり痩せすぎると貧相に見えるからこのくらいでいいんです。と応えたな。 なぁ、見えるか。見えているか。 君が入ったペンダントに触れる。 初めての海外旅行だ。こんな年になって初めてというのも笑えるな。もっと早く連れて来ればよかった。金婚式になんて決めつけないで、いつでも良かったんだ。 ああ、会いたいな。 君のおしゃべりが聞きたい。 今、この時、景色を眺めながら「綺麗ですね」と笑う顔が見たい。 夢でもいい。 会いたいな。 会いたいんだ。 「私ばかり話したんじゃ不公平じゃありませんか。お話をいっぱい携えて、私に話してくださいな」 夢の中で君が笑うから、俺はもう少し頑張って土産話を集めていくよ。 もう少しだけ待っていてくれ。 *おわり*
おもしろ算数
【問題】 ある人が靴屋で四千円の靴を買い、一万円扎で支払おうとしました。 靴屋はお釣りの千円が足りなかったので、隣の肉屋に行き、千円札十枚と両替してもらいました。 そして、客に靴とお釣りの六千円を渡しました。 ところがその五分ほど後に、肉屋が靴屋に怒鳴り込んで言いました。 「あれは偽札だったぞ!どうしてくれるんだ」 よく見ると、その一万円扎は偽札だったので靴屋は肉屋に一万円の弁償をしました。 この時に、靴屋は考えました。 客に四千円の靴と六千円のお釣りを騙し取られ、肉屋に一万円の弁償をさせられた。 あわせて二万円の損をした。 さて、靴屋の考えは正しいでしょうか。 +×-÷= +×-÷= +×-÷= +×-÷= +×-÷= 「パパ。この問題わかんない。教えて」 娘のお願いにパパはにっこり笑って答えました。 「正しくないな」 「どうして?靴屋さんは靴とお釣りを合わせて一万円をお客さんに盗られちゃったんでしょ?それに肉屋さんに一万円を払わなきゃいけなかったんでしょ?」 「偽札をただの紙と考えよう。肉屋は紙と一万円を交換して、5分後に同じように紙と一万円を交換した。この時点で靴屋と肉屋に損得は無い。靴屋はお客に靴とお釣りを盗られただけだから1万円の損だ」 図を書きながら説明するパパの手元を娘がふんふんと頷きながら聞いている。 「そっか。分かった」 笑顔でお礼を言う娘に、気をよくしたパパは気を良くして続けた。 「しかし、この五分間に肉屋で何が起こったのかは誰も分からない。もしかしたら、客の一万円は本物で、肉屋が偽札を渡したのかもしれない。それに、肉屋が両替した千円札が偽札だったら?話はさらに変わってくる」 「パパ…?」 「大体、四千円の靴と言うが、販売利益を加味しての値段なのだから、原価を考えれば厳密に四千円とは言い難い。更に言えば…」 得意げに続けるパパの声を塞ぐように両耳に手を当てた娘は台所に向かって叫んだ。 「ママー!パパがウザいー!」 「諦めなさい」 台所からは無情な一言だけが返ってきた。
踏切レース
警報器の音と共に遮断機が下りました。 警報器の下にある指示器は左右両方が点灯しています。 北側に人が増えてきました。遅れて南側にも着々と集まっています。 流石通勤時間です。人の流れが早い。 おっと、早くも右側から電車がやってきた。これは快速か?踏切を無事に通過。しかし、右側の指示器がまた点灯した。 そして、左側から電車がやってくる。こちらも快速だ。人が沢山乗っています。 遮断機前にも人が増えてきました。 左側の指示器もまた点灯。遮断機が上がる気配が感じられません。最初から待っていた人は苛立ちと諦めの表情と様々です。 右側から電車が来ました。これは特急ですね。 さぁ。残りは左側の駅からやって来る電車のみですが、なかなかやって来ない。 その間にも遮断機前には続々と人が集まっています。 圧倒的に自転車が多いですね。その間に原付バイクが混じっています。歩行者は端に集まってますが、自転車に紛れてる人もいる様です。非常に危ない行為です。そこは車道だと誰か教えてあげてください。 そうこうしている間に左側から電車がやってきました。 電車を知らせる指示器は左側のみ。 ついに遮断機が上がるのか。並んだ人達に緊張が走ります。ペダルに置いた足に、バイクを持つ手に、それぞれ力が入ります。 そして、今!遮断機が上がりました! 各人一斉にスタート! やはり原付バイクが飛び出した。向かいからやって来る波を器用に避けて突き抜けていく。速い、速い。 追って自転車も好調な滑り出し。先陣を切った若者の後ろにおばちゃんが続く。見事な陣形です。 向かい側と接触をする事なくすれ違っている。これが慣れか。まるでマスゲームのようです。 おっと、自転車に紛れた歩行者が自転車のおじさんに怒鳴られて端に寄りました。危ないですからね、注意してくれて良かったです。 中央を原付バイクと自転車に占拠されていますが、歩行者も端を早足で駆け抜けている。向かって来る人波を器用に避ける姿はまるで忍者のようだ。 そして、いよいよ自動車が動き出す。 一台二台と踏切を越えてきた。 おおっと!ここで一台が急ブレーキです。前方を走っていた自転車から帽子が飛んだようです。近くにいた歩行者が慌てて拾い上げて渡しております。助け合いの精神ですね。素晴らしい。ですが、運転手は苦い顔だ。 アクシデントはあったが無事に通過。 しかしここで警報器が鳴った! 後ろにいた自動車はあえなく停車です。あぁ、運転手の眉間に皺が寄ってますね。行けるはずだったのに…と表情が物語っております。 片方が下りた遮断機の隙間を縫って、自転車と歩行者が駆け抜けていきます。 危ないので辞めていただきたい。 そして、両方の遮断機が下りてしまいました。これ以上の侵入は命に関わります。渡り損ねた会社員が遮断機を前にして、指示器を睨んでいる。 電車を知らせる指示器は、やはり左右点灯している。 次のレースはどんな人間模様が飛び交うのか非常に楽しみです。
夢にまでみた
仕事で疲れた帰り道にトラックにはねられて死亡して、異世界転生した。 神様には会ってない。 でも、生まれた時から意識はあって、前世の人格がちゃんと生きていた。 嬉しい。夢みたい。 小説やマンガを読んで、異世界に憧れてたの。 若くして死んだのは悲しいけど、今、私はこうして生きてるんだもの。 今度は前世の知識を活用して、天寿を全うするぐらい長生きするわ。 生まれ変わった異世界には魔法があって、私は魔力も多くて、全属性を使えた。 しかも、生まれた先は高位貴族。美形の両親から生まれた私も当然美形。 幼馴染や意地悪をしてくる男の子もいるけど、それ好きの裏返しよね。全くお子様ね。 前世の知識でマヨネーズやカレーを作って、美味しいスイーツも開発して大金持ち。高校の数学知識を披露しただけで天才とか神童とか言われちゃった。 全部前世の知識だから、ちょっと申し訳ないけど、でもこの世界では誰も知らないものね。それに便利になるんだからいいじゃない。 一二歳になって学園に通いだしたら、大変な出来事が起きたの。 魔王が復活しちゃって、あちこちで被害が出てるの。親しくなった王太子様や騎士団長のご子息たちが守ってくれるって言うけど、私だってみんなを守りたいの。そんな時、学園に魔王が現れて大ピンチ! みんな私を守る為に傷だらけになっていく。 ダメよ!みんなを、私が守るんだからっ! 必死で願ったら、胸の奥から熱い何かが込み上げてきた。それは体に収まることなく溢れ出して、真っ白な光となって周囲を包み込んだの。その聖なる光に焼かれて、魔王は消滅したわ。私は聖女だって言われて、王様や大神官様に会って「聖女」になった。 みんなを救えたのは嬉しいけど、もう前みたいにみんなと気軽に会えなくなったのは寂しい。 神様に祈りを捧げながら、ほろりと涙がこぼれた。 その時、背後で靴の音が聞こえたの。 まさか……。 振り向いた先には、微笑む彼の姿が…… PPPPPP PPPPPP PPPPPP うるさく鳴り響く電子音の発生源を左手で叩くように止めた。 唸るように目を開ければ、そこは変わらぬ前世の部屋。 枕元に置いていたスマホを確認する。 何件かの通知と月日と時間が表示されている。 「マジか……」 夢オチかよ。 やけにリアルな夢だった。あんなストーリー仕立ての夢とか小学生以来だ。 「マジかぁ…」 異世界物とか、願望でもあるんだろうか。気恥ずかしいにも程がある。 夢は夢。とりあえず、今日も仕事を頑張るか。 首をぐるりと回して着替える。 ちょうど階下から妹の元気な声が聞こえてきた。 「お兄ちゃん、朝ごはんできたよー!」 ネクタイを締めて「おー」と返事をして部屋を出た。 *終わり*
マイクはどこ?
『おい。そこのお前』 へんな声が聞こえた。 へやの中を見てもだれもいない。 『おい。お前だ、お前』 テレビもついてない。カーテンの後ろも、テーブルの下にも何もない。 『ここだ。右をみろ』 みぎ。 お茶碗がひだりで、おはしはみぎ。 えーっと、こっち。 右を見たら、昨日パパが持ってかえったぬいぐるみがあった。 クマみたいなイヌみたいな、かわいくないやつ。 「ぶさいくなぬいぐるみ」 『誰が不細工だっ!泣かすぞっ』 「なかないもーん」 ぬいぐるみがしゃべってる。 へんなの。 「あっ!しってる。これあれでしょ。テレビだ」 このまえ見たテレビでやってた。 大人がぬいぐるみから声をだして子どもに話しかけるんだ。 パパが言ってた。ぬいぐるみの中にマイクが入っててぬいぐるみが喋ってるみたいにするんだって。 『よく聞け。我輩はまおぉぉおおっ』 しゃべってるぬいぐるみのおなかをぎゅーっと押してみる。 何もない。あれれ。 『このガキっ。何をする!我輩は、ははははははっ、やめっ、ぐがっ!』 マイクどこかな。足かな、うでかな。頭かもしれない。 床において頭をぐぐっと押してみたけど硬いものがない。 おかしいなー。どこだろ。 『このっ。我輩は、偉大なる魔王でぇぇぇえええ!なにをすりゅ!』 あ、背中が開きそう。 小さい穴に指を入れてごそごそ。 んー。ないなぁ。 ふわふわのワタをひっぱり出して、大きくなった穴に手を入れてみる。 あ、かたいのあった。 『こら、止めぬか!離せ!それはっ』 ぎゅっとつまんだらぶちっとつぶれた感じがした。 手を引きぬいて見たら手が黒く汚れてた。 きたない。 いそいで手を洗う。へやに戻ったらワタが出てぼろぼろになったぬいぐるみが落ちてる。 「ねぇ、ねてる?しんでる?」 ぬいぐるみは何もしゃべらない。 マイクこわしちゃったから怒られるかもしれない。 ママに怒られるまえにぬいぐるみとワタを集めてフタ付きのゴミばこに捨てた。 その日はおてつだいをがんばった。パパの肩もとんとん叩いてあげた。おこずかいに五十円ももらった。 やった!
くらのなか
藤崎勇一は万年筆を文机に置き、凝り固まった右肩を回してほぐした。ついでに首も回せばパキッと嫌な音がする。 休憩でもするかと窓の外に目をやれば、夏の日差しに照らされた緑の葉が、庭に濃い陰影を落としている。 忘れていたようにアブラゼミが鳴き始めた。 「一気に暑くなったなぁ」 先週まで雨が続いていたのが嘘のように連日好天気が続いている。青空に浮かぶ白い綿飴のような雲を見て、夏なのだと実感する。 軒下に吊るした金魚の風鈴がチリリンと涼やかな音を立てた。 「休憩ですか?」 可愛らしい声に振り向けば、二十歳になったばかりの水谷尚子がお茶とお菓子を載せた盆を持って微笑んでいた。 「来てたんですね」 「集中してらしたので、お声がけはしませんでしたの」 楚々と盆を置くとコップの中の氷がカラリと鳴った。 「蓮華堂の水饅頭です。叔母のところに寄ってきたので買ってきました」 「ああ。美味しそうですね。私はここの水饅頭が大好きなんですよ」 「蓮華堂の水饅頭と音羽屋のたい焼きですよね」 尚子がくすくすと笑う。すっかり好みを覚えられてしまった事が少し気恥ずかしくて、麦茶を手に取りぐびりと飲んだ。 尚子は勇一の婚約者である。 三十になる勇一と十も離れているが、穏やかな勇一と物静かな尚子は上手く付き合えていた。 「そういえば、滉二さんが帰って来られるのですね」 「母から聞きましたか。休みのはずなのに一週間以上も友人宅で過ごした挙句、ようやく帰ってくるそうです。菊乃姉さんたちも盆参りに来るから明日は賑やかですよ」 「では、明日はお手伝いに参りましょうか」 「母が喜びますよ。尚子さんが大変でなければぜひお願いします」 嫁に出た菊乃は勇一の二つ上だが、早々に嫁に行ったおかげで現在は三児の母である。義兄となった曾太郎は銀行に勤める寡黙で落ち着きのある人物だ。 次男で末っ子の滉二は、二十四になる大学生で来年卒業する予定である。病弱な勇一と違い体格に恵まれている。 普段は祖母と両親と勇一だけだが、滉二と菊乃一家が帰ってくるとなると、総勢で十名になる。お手伝いのとめさんがいても手は多い方が助かる。 「では今日中にお仕事を終わらせないといけませんね」 「ええ!それは、ちょっと……」 「だって浩章くんたちが来たらお仕事どころじゃありませんよ?」 「うーん。そうですね。できるだけ頑張ります」 菊乃の五歳と四歳の息子たちの元気の良さを思い出し、勇一は仕方ないと覚悟を決めた。 その様子をくすくすと笑った尚子は「お邪魔にならないように帰りますわね」と席を立った。 尚子の後ろ姿を見送って、勇一は文机へと向かった。 尚子は年若くて可愛らしくて、勇一にはもったいないほど出来た婚約者である。 家の都合での婚約とはいえ、嫌な顔一つ見せず母や気難しい祖母とも上手く付き合ってくれている。相手が自分で申し訳ないと思うが、藤崎家の嫡男と水谷家の縁結びなので仕方がない。 せめて自分が滉二のように健康だったならば良かったのに。と、何度目かのため息を吐き出して万年筆を取った。 翌日は朝から菊乃姉さんたちがやって来て、母や祖母と話に花が咲いている。義兄は父と囲碁を打ち始めた。 余った私は甥っ子二人と遊んでいる。 「おじさん、かくれんぼしよう」 そう言い始めたのは、兄の浩章だった。 さっきまで鬼ごっこをしていたのに、元気な事だ。 「ぼく、鬼やりたいっ!」 浩章が元気に手をあげる。普通、鬼はやりたがらないものだと思っていたが、浩章は見つけるのが得意なんだと胸を張って自慢した。 鬼ごっこで疲れたので、動かないのは逆にありがたい。 隠れるのは庭だけ。家の中と外はダメとルールを決めて、浩章が数を数える。 庭木に隠れるという弟の輝正の手伝いをしてから勇一は自分の隠れ場所を探した。 キョロキョロと見回すと庭の端に建つ蔵の扉が開いていた。 明るい庭から入ったせいか中は暗く見える。 慣れて来た目でよく見れば、奥に長持が置いてあった。中にあった数枚の大皿を取り出せば、大人一人ぐらい入れそうだ。 ちょっとした悪戯心で長持の中に体を折り畳んで入る。蓋はわざと開けておいた。こうすれば蔵に入りさえすれば見つかりやすいだろう。 浩章の「九十七」という大きな声が聞こえた。 すぐに見つかるだろうか、見つからないだろうか。 楽しくて、恐ろしくてドキドキする。 ああ、子供のようだ。 菊乃姉さんや滉二ともこうして遊んだ事があったな。 過去を懐かしんでいると、浩章の元気な声が聞こえた。輝正が見つかったようだ。 尚子さんと結婚して子どもが生まれたら、こうして遊んであげられるだろうか。鬼ごっこは流石に無理かもしれない。 もう少し体力をつけないといけないな。 そんな将来の事を考えていると誰かの足音が聞こえた。 鬼が見つけに来たのかもしれない。 高揚感と緊張に息を詰めていると、足音は蔵の中をゆっくりと歩いているようだった。その歩調に勇一は首を傾げた。子供の跳ねるような歩き方と違うのだ。誰か家の者だろうか。 「……え?」 小さな声に見上げれば尚子さんが驚いた顔で見下ろしていた。こんな所に隠れていた気恥ずかしさで咄嗟に声が出なかった。 ここから出ようかと体を動かした瞬間、周囲が真っ暗になった。 「え……」 そしてガチャンという無機質な音。 「な、尚子さん!ちょっ、尚子さん!」 体を起こそうとすればすぐ上が塞がれている。 蓋をされた⁉︎ 真っ暗の中を手探りで蓋を開けようと押し上げるがびくともしない。 「尚子さん!尚子さん!誰か‼︎」 力任せに蓋を叩く。身動きがほとんど取れないせいであまり力が出ない。 浩章か家の誰かに気がついて欲しい。 そんな希望を打ち砕くように、勇一の耳に蔵の扉が閉まる重い音が聞こえた。 嘘だ。 尚子さんがなぜ。どうして。 なんとか開かないかと、必死で蓋を動かすが、古くて頑丈な長持はびくともしない。 ああ。暑い。 動いたせいで汗ばんだ着物が気持ち悪い。だらだらと汗が流れて目に染みる。 こんなに蒸し暑いのに、喉はカラカラで、叫び続けた喉の奥はひりついている。 暗闇の中で必死に足掻きながら、最後に見上げた尚子さんの顔を思い出す。 いつもの優しい笑顔ではなく、驚いた後に見せた恐ろしいまでの無表情。感情を削ぎ落としたかのようなそれは、般若のようでもあった。 私は疎まれていたのだろうか。上手く付き合えてると思ったが、やはり十も上で体の弱い私では不満だったのだろうか。 ああ、暑い。 ガリガリと蓋を引っ掻く指先が痛い。 鉄錆の匂いがむわりと広がる。 ああ、あつい……あつい…… その日、藤崎家は大騒ぎとなった。 甥っ子たちと遊んでいた勇一がいなくなったのだ。 庭で隠れん坊をしていたが、どうしても見つからず母親に話したが、いい大人の事なのだからどこかへ出かけたのかもと気楽に考えていた。 だが、夜になっても帰ってこない。 夕方に帰宅した滉二も加わり、屋敷中を調べたがどこにもいない。 警察に届けたが、夜も遅かった為、翌朝からの捜索となった。 そして、蔵の手前に置かれた長持の中から勇一の死体が発見された。長持に隠れて蓋をした時に誤って鍵がかかってしまったのだろうと警察は判断し、事故死となった。 必死で開けようとしたのだろう。勇一の遺体の爪は割れて、指は裂けていた。余程苦しかったのだろう。血だらけの指がのどをかきむしるように添えられ、苦悶に顔を歪めていた。見開かれた瞼を何度も下ろそうとしたが、頑なに見開かれたままであった。 あまりの形相に、棺の窓は最初から閉じたまま葬儀が行われた。 婚約者の尚子が泣き崩れる様は人々の哀れを誘い、沈痛な面持ちの滉二が尚子を支えていた。 翌年、喪が明けた秋に滉二と尚子の祝言が行われた。 勇一の死により滉二が跡取りとなった。伴侶が兄から弟に変わったが、両家共に問題はなかった。 勇一の死を悼む尚子を滉二は献身的に支え、やがて近所でも有名なおしどり夫婦となる。 「きゅうじゅきゅー、ひゃあぁぁく!!」 幼い子どもの声が庭に響く。 蝉の声が響く中、子どもはあちこち歩き回って隠れている子を探す。 一人見つけ、二人見つけ、他の子を探そうときょろきょろと見回す。 庭の端に建つ蔵の扉が開いていた。 もしかして、中に隠れたんだろうか。 子どもは暗い蔵の中を覗き見る。 蝉の声がうるさかった庭と違い、蔵の中はしんっと鎮まっている。 子どもは黙って耳を澄ます。 …………かり。 …………とん。 微かに何か聞こえた。 「誰か隠れてるの?」 確かめたいけど、中の暗さと何かがいそうな雰囲気に尻込みした子どもは首を伸ばして中を見る。 ……かりかり。 さっきよりも大きな音に更に耳を澄ます。 とん。とん。とん……どん!どん!どん! 叩くような激しい音に子どもはびくりと体を竦める。 奥にある長持から音が聞こえる。 怖くなった子どもは母親に助けを求めた。 「蔵の中の箱に誰か閉じ込められてるよ。助けてあげて」 それを聞いた母親は顔を真っ青にし、その場にへたり込んでしまった。 「蔵の箱……」 ガタガタと震える母親が縋るように子どもを抱きしめる。「痛いよ」と何度か訴えたが、母親の必死さが怖くて口を閉ざした。 その後、落ち着きを取り戻した母親が使用人を連れて蔵へとやってきた。 開いた扉から薄暗い中を覗き見れば、奥の方に大人が入れそうな長持が置かれている。 「ひぃっ」 恐怖に息を飲んだ母親が使用人の男に中を見てくるようにお願いした。男は尋常ではない怯え方を訝しみながらも長持に近づく。 長持からは何の音も聞こえてこない。庭の蝉の方が賑やかで、余計に蔵の中の静かさが際立つ。 男は長持の蓋に手をかける。ごくりと喉を鳴らして一気に開けたが、中は何も入っていなかった。 「奥様、坊ちゃん、何も入ってないですよ」 男の言葉に母親は震えた声で長持を焼くように伝えた。 男はもったいないと思いつつ、同僚に手伝ってもらい長持を焼いた。 しかし、数日経てば焼いたはずの長持が蔵の奥にあるのだ。それを知った母親は寝込んでしまった。 「尚子……」 三十歳になった滉二は妻の手を取り頭を優しく撫でる。 「勇一さんだわ。勇一さんが私を恨んでるのよ」 あの日。長持に隠れた勇一を見て、魔がさしたのだ。 このまま見つからなければ。 勇一が死んでしまえば。 滉二と一緒になれる。 尚子の中の鬼が囁いたのだ。 勇一が嫌いだったわけではない。穏やかな彼と結婚するつもりだった。 彼があんな所に隠れていなければ、自分が蔵へ近づかなければ、全く別の未来になっていたのかもしれない。 怯える妻を抱きしめて「君のせいじゃない」と滉二は優しくその背中をさする事しか出来なかった。 夏の日は長い。 夕方になっても陽は高く明るい。ひぐらしがカナカナと鳴く庭を通り滉二は蔵の前で足を止めた。 開いたままの入口から覗けば、奥に長持がある。 「兄さん……」 滉二の呟きに呼応するように長持の中から引っ掻くような音が聞こえた。 それを聞いた滉二は唇を歪ませて、嘲るような笑みを浮かべる。 「さぞ無念だったろう?家も尚子も俺の物だよ。病気で早く穏やかに死んでいれば、あんな死に方せずに済んだのになぁ」 あの日。青褪めた顔で庭を走り去っていく尚子を見た。 彼女がいた方向には蔵があるはずだ。 足を向けると、扉の閉まった蔵の中から何か音がする。 扉を開けて中に入れば、奥に置かれた長持から叩くような音と「誰か!」という声が聞こえた。 兄だと気がついた。 素早く周囲を見回して誰もいない事を確認して、長持に近づいた。 高揚なのか、緊張なのか、心臓がうるさい。 解錠して蓋を開けた時の兄の安堵した顔は、すぐさま苦悶の表情となった。 まさか、弟に首を絞められるなんて思いもしなかっただろう。 兄の遺体を再び長持の中に戻して鍵をかけた。 外に持ち出そうとしたが案外重く、入口付近で諦めた。蔵にさえ人が近づかなければいい。 袖の下さえ渡しておけば、検死もろくに行われない。 家の醜聞をきらう祖母は必要以上に調べさせないと言い切れる自信があった。 案の定。事故死でカタがつき、後継は自分になった。 「じゃあな、兄さん」 滉二は蔵の扉を閉め、更に上から板を打ちつける。 蔵の中から聞こえてくる微かな音に歪んだ笑みを浮かべ、滉二は母屋へと足を向ける。 微かな音が虚しく黄昏の中に消えた。 旧家の藤崎家の庭には古びた蔵がある。 開かない扉から耳をすませば、中から音が聞こえるという。 それは叩くような音であったり、引っ掻くような音であったり、人の声の様にも聞こえるのだとか。 中に何があるのか、真相を知る者はもういない。
貴方へ伝えたいこと
「食べてみたい」と貴方が言ったから、朝から煮込んだビーフシチューを無言で食べられた。「時間をかけて煮込んだの」と言えば「あぁ。どうりで…」と答える。どうりで。の続きは待っても出てこなかった。 美味しかったのか、いまいちだったのか。何も分からない。 「美味しかった?」自信なく聞いた言葉は小さかったのか、テレビの笑い声に消されてそのまま。 畳まれていない洗濯物。作れなかった晩御飯。 仕事で疲れて帰ってきた貴方が見るのはソファで昼寝をする私。 悪阻が酷くて、体調も精神的にも弱っていた私に「妊娠は病気じゃないんだから」と貴方は言った。 甘えていた私が悪かったのだと、無理して動いていたら「妊婦だって自覚しろよ」と怒られた。 貴方は私がどんなに辛いか分からないのに、その場その場で違う事を言う。 旅番組で贅沢な温泉旅館が紹介されていた。1泊5万円。 「子どもたちが大きくなったら、こういう所に泊まりに行きたいね」 無理かもしれないけど、夢ぐらい見ておきたい。 「なんで?5万円もする部屋に泊まるぐらいなら1万のビジホに泊まって美味しい焼き肉でも食べようよ」 心底不思議そうに貴方は言う。 「大体、温泉に入るだけだろ。他に観光する場所があればいいけど、ここ周りに何もないだろ。行くだけ勿体無く無い?」 貴方はいつも効率を考える。せっかく出かけるならあれもこれもと詰め込む。 2人でのんびりと過ごすなんて、思いつきもしないのね。 今晩のおかずを聞かれたから「アジフライよ」と答えた。子どもたちは「えー!お魚嫌いっ」「ハンバーグが良かった」と不満を口にする。だって、アジが安かったんだもの。昨日も一昨日もお肉だったから今日はお魚なの。 澄まして料理をしていたら、貴方はテレビを見ながら「あんまり騒ぐとママが怒るぞ」と子どもたちを注意する。 どうして怒るのは貴方じゃなくて私なのかしら。 食べ終わった食器を洗って、お鍋を洗ってしまう。濡れた手を拭いてカレンダーを見たら結婚記念日だった。 最近忙しくて忘れてた。 でも、貴方は今年も忘れてるのね。 スマホのゲームに夢中な貴方は私の視線なんて感じてない。 ねぇ、今年で15年経ったのよ。 言いたい言葉をため息に変えてそっと吐いた。 貴方と、後何年夫婦を続けていけるのかしら。 10年後、20年後、私は貴方と夫婦かしら。 ポリープを取る簡単な手術だと医者は言った。 貴方は仕事を休む事だけをずっと気にしていた。 大丈夫だと分かっているのに、貴方が帰ってこない家はなんだか少し寂しい。 1日の終わりに2人で飲む珈琲。今日はいつもより静かなリビングで自分の分だけを淹れる。 誰もいないソファが冷たい。 娘の結婚式の夜。 「綺麗だったわね」 「朝早く出発って言ってたけど、ちゃんと起きられるかしら」 いつもよりおしゃべりになった私の前で、焼酎を飲みながら「あぁ」としか言わない貴方。 今日から2人暮らしになっちゃったわね。貴方だけじやなくて私も寂しいのに、仕方のない人。 先に寝るから、飲み過ぎないでね。 泣き止まない赤ちゃんに困って私を呼びつける貴方。 子どもたちの面倒を全部私に任せるから、孫をあやせないのよ。今から精進することね。 あら、まあ。孫のおむつなら替えようと思うのね。 成長したわね。でも、お世話は私の方が先輩ですからね。 温泉旅館で1日過ごそうなんて、明日は雨かしら。 退屈で嫌だっておっしゃったじゃないの。いいえ、言いましたよ。どこにも行かないなんて勿体無いって。 私、貴方と2人で旅行に行くなんて考えられなかったわ。今は、どうかしら? とりあえず、のんびりと温泉を楽しみましょう。 もうすぐ金婚式ね。凄いわよね、50年よ?こんなに長く続くなんて思わなかったわ。 今だから言うけれど、何回か本気で離婚しようと思ったんですよ。え?何回かですって。そうねぇ、離婚届まで取りに行ったのは1回ね。離婚について調べたのは3回かしら。 あら、やだ。熟年離婚なんて考えてませんよ。若い時ですよ、若い時。 あぁ、残念ね。来年の金婚式は貴方と海外に行こうかと思っていたのに。 どこって、決めてませんでしたよ。ハワイもいいけど、イタリアに行って見たかったわね。ほら、昔観たあの映画。フィレンツェが舞台だったじゃない。美術館に行って、有名なドゥオーモから街を見るのよ。 2人で行ってみたかったわ。残念ね。 ねぇ、貴方。私、貴方と夫婦で良かったわ。 色々あったけど、本当にそう思うのよ。 あら、やだ。泣かないでくださいな。 後の事、お願いしますね。 大丈夫ですよ。ちゃんと待ってますから。貴方、たまに方向音痴なんですもの。 私、のんびりと待ってますから、貴方ものんびり、ゆっくり楽しんでから来てくださいね。 ねぇ、貴方。お話は苦手でしょうけど、今度会ったらたくさんお話ししてくださいね。 伝えた事は無かったけれど、私ね、貴方の声が大好きなのよ。
お姫様と小鳥
高い塔の上。 太い格子の嵌った部屋がある。 飾り気はないが質の良い家具が置かれた部屋の扉は外から丈夫な錠前がかかり、螺旋階段を降りた塔の入口にも大層丈夫な錠前がかけられている。 入口の前に立つ兵士は常に二人。塔を訪れるのは、朝と夕方に食事を運んでくる侍女だけ。 高い塔の上。 太い格子の嵌った部屋で、お姫様が一人。 陶磁器のように白い肌。憂いを帯びた空色の瞳に影を作る烟るようなまつ毛。緩やかに背を流れるのは眩い金の髪。赤い唇からは哀しげな歌が紡がれる。 綺麗な綺麗なお姫様。 塔に囚われた可哀想で哀れなお姫様。 いつの日か自由になる事を夢見ている。 お姫様が見つめる先には窓辺の青い小鳥。 愛らしく鳴きながら囚われのお姫様を見つめてくる。 「鳥はいいわね。どこまでも自由に飛べて。私も貴方たちのように飛んで行けたらいいのに。鳥になれたら私も、どこまでも、自由に……」 叶わぬ願いを幾度となく口にしても、鳥にはなれず、自由にもなれず。 高い塔の上。 窓辺に止まっていた小鳥が大空へと飛び立っていった。 ============ いや。ねぇわ。 自由とかとんでもねぇよ、姫さん。 こちとら天敵が多すぎるんだよ。 木に留まれば蛇やイタチが狙ってくる。地面に降りれば狐や狸に狙われる。空を飛んでりゃ大型の猛禽類に捕まりそうになる。 必死よ?毎日がサバイバルよ? 上手く風に乗らないと落ちそうになるし、羽ばたき続けるのもかなり疲れる。 飛びながら餌探したりするんだぜ?死活問題だしな。 いいよなぁ、姫さん。一箇所にずっといても捕まんねーし、飯は食えるし、呑気に歌って本読んで最高じゃん。楽じゃん。羨ましい。 人間っていいよなぁ。
プレミアムサバ缶
これ1缶あげるわ。 実家に寄って母とだらだらとおしゃべりして、いつも通りお土産を渡されて、帰ろうとした玄関で、ついでにと渡されたサバ缶が1個。 「大阪のお義姉さんからお土産にもらったのよ。3缶あるからお裾分け」 青と金のパッケージは高級そうに『プレミアム』と書かれている。 「貰っておいてなんだけど、お土産にサバ缶ってどう思う?そりゃあね、最近サバブームだけどねぇ」 母が不満そうにくどくどと話す愚痴を聞き流して、受け取ったサバ缶を鞄に入れる。 仲が悪いわけではないのだけど、母はたまに叔母や祖父母の愚痴が止まらなくなる。これが小姑ってやつなのかもしれない。 「お母さん、さっきのサバ缶の値段知ってる?」 まだ言いたりなさそうな母に問いかけると案の定「いいえ」と返事がくる。 「アレ、3缶セットで1万円するのよ。つまり1缶3千円以上。ありがたく貰っていくね」 目を丸くする母親に「じゃあね」と笑って玄関を出る。 口は悪いがおおらかで明るい大阪の叔母が、私はかなり好きだ。帰ったら久しぶりに電話をしてみよう。 電話を終えて、私はテープはの上に置かれたサバ缶をじっと見る。 1缶3千円以上の『とろさばプレミアム缶』。 さあ、これをどうやって食べよう? 開けてこのまま食べるべきか、何かと合わせて料理しようか。スマホでレシピを検索するも、どれも美味しそうで決められない。 悩んだ末に、戸棚の上に仕舞う。 賞味期限はまだある。じっくり考えようと、今晩の晩御飯のカップ麺を手に取った。 *終わり*