飛由ユウヒ

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飛由ユウヒ

〔ひゆうゆうひ〕小説で誰かの心が救えたらいいな、と願いながら書いてます。名古屋の同人文芸サークル「ゆにばーしてぃポテト」にて執筆とデザインと広報を兼任。『ブラッケンド・ホワイトフィッシュ』ステキブンゲイ大賞一次選考通過。#100円文庫 を毎月10日更新! ▼▽情報はこちらから!▽▼ https://potofu.me/yuuhi-sink

レモンケーキと忘却(2022.02)

 数年ぶりにお菓子を作った。レモンケーキだ。  バレンタインデーが近いということもあったが、なによりも家事をするだけの日々に退屈を感じていた。手軽な非日常体験が欲しかった。 「わたしにしては上手に出来たと思わない?」  晩御飯を囲みながら、七森は携帯の画面を見せつける。インスタグラムに投稿した写真には既にいくつかの〝いいね〟が付いていた。向かいに座る茶坂が「え、俺の分残ってないの?」と口にし、実物を見せれば良かったことに気付く。冷蔵庫から持ってくると、晩御飯の途中にも関わらず彼は手を伸ばした。「うん。うまいよ、これ」と目を見開いて言った。  翌日から、七森は憑りつかれたようにお菓子作りに励んだ。チョコブラウニーやアップルパイ。フロランタンにチーズケーキ。最初こそ穴の開くほどレシピを見つめていたが、一ヶ月が経つ頃には容量を掴み始めた。オーブンで生地が膨らむ様を見ながら、自分が子どもの頃、母親と並んでお菓子作りをしていたことを思い出す。チョコを溶かしてかたどるだけの簡単なものだったが、当時はそれが魔法のようで、たまらなく嬉しかった。 「こずえはお菓子作りが上手ね」  母親の言葉と、目の前にいる茶坂の言葉が重なる。彼は相変わらず、頬がぱんぱんになるほど詰め込んでいた。「うまいよ、これ」と指をさす。子どものような無邪気さが微笑ましい。  SNSの反響も凄かった。大学の友人や後輩だけでなく、まったく面識のない人からメッセージが届いた。閲覧数を見ると、綺麗な右肩上がりを示している。ただ、今回作ったシフォンケーキはあまり伸びていない。 「どうした、そんな浮かない顔して」  そう尋ねる彼の口元には、生クリームが付いていた。ティッシュを一枚取って渡す。七森は目を合わせると、静かに首を横に振った。偶然かもしれない。そう思うようにして、台所に残った食器に水を注ぐ。固まってしまった泡立て器の汚れがなかなか取れず、ため息をつく。  お菓子の写真を投稿し続けて、ひとつわかったことがある。  SNSはプロもアマチュアも関係ない、平原の戦場だ。プロは血気盛んなアマチュアたちに足元をすくわれないようクオリティを保つ必要があり、アマチュアはプロと同じ舞台で戦っていることを自覚しなければならない。七森がよく目にするインスタグラマーたちは、所謂〝主婦のプロ〟だった。血生臭い努力が、きらびやかな数字に繋がっている。  呼吸を整える。覚悟を決めなければならなかった。茶坂のいないリビング。クローゼットをゆっくりと開ける。日差しが中に入って、真っすぐな線を描いた。奥の方に片付けた、七森の私物。退職金はあまり多く残っていない。封筒から三分の一ほど抜き取り、枚数を数え、二枚戻す。零れ落ちそうなほど薄かった。子どもの小さな手を握るように、七森はそっと丁寧に折り畳んだ。 「あれ? どうしたの、明かりも点けずに」  仕事から戻ってきた茶坂がリモコンのボタンを押す。突然の明るさに眩暈がした。画面の端には〝22:35〟という数字が表示されていた。WEBの記事で読んだ、ベストな投稿時間がもうじき終わってしまう。すでに途方もない労力を使った後だった。考えがうまくまとまる気配はない。 「ご飯どうしたらいい? お茶漬けとかでもいいけど」  頭を上げると、彼は脱いだジャケットをハンガーにかけながら、台所を見ていた。 「あ、ごめん。まだ作ってない。ケーキならあるけど」 「ケーキ? 今日、何かの記念日だっけ。忘れてたらごめん」 「ううん。いつもみたいに作っただけ」  ローテーブルに近寄った茶坂が、「またすごいの作ったね。なんて名前のケーキだっけ」と熱を込める。彼に話しかけられ、頭の中で組み立てていた文章が塵のように消えてしまった。七森はスマホに視線を向けたまま、「ブッシュドノエル」とだけ答える。 「こんなお皿あったっけ?」 「買ってきた」 「テーブルに敷いてある黒い布も?」 「うん」  画面上で指を滑らせる。タタタタと、冷たい音が七森の思っていることを代弁しているかのようだった。食器とテーブルクロスは、映えを意識するために買ったものだ。他にも、背景に写す小物や簡易的な照明器具も揃えた。ミラーレスの一眼レフカメラもある。  すでに部屋着に着替え終えた茶坂がベッドに腰を下ろす。切り分けたケーキを膝の上で食べながら、「ねぇ、これすごく美味しいよ。こずえは食べないの?」と呼ぶ。 「先食べてて。わたし、これ投稿したいから」  七森は喉を鳴らしながら、消したり書いたりを繰り返す。うまくいかないことへの苛立ちが募り、腕に赤い線が出来た。知らぬ間に爪を立てていたらしい。そんな空吹かしの状態が二十三時を過ぎても続いた。正解がわからなかった。瞼が重たくなり、最終的には勢いで済ませる。体中に疲労が満ちていた。カーペットの毛が頬に当たる。薄目を開けると、ゴミ袋を縛る彼の後ろ姿が見えた。  朝起きて鏡を見ると、目の下にクマが出来ていた。お菓子作りとインスタグラムの投稿。そのふたつだけで陽が沈む。そんな日々が続いた。努力の甲斐もあって、閲覧数は大きく伸びたが、同時にこの閲覧数を守らなければならない使命感に駆られていた。背後には刃物が付きつけられている。休む暇はない。  ある晩、いつものようにSNSを開いていると、茶坂が話しかけてきた。彼の顔を見た時、なんだか久しぶりに会ったような気がした。度重なる残業のせいか、彼の目にもクマがあった。 「ねぇ、ハンドクリーム持ってたりしない?」 「なんで?」 「手が荒れちゃって」  彼の手を見た時、はっとした。表面は乾燥しており、あかぎれを起こしていた。覚えのある症状だった。罪悪感が胸に迫る。仕事から帰った後も、彼は黙々と家事をしていたのだ。七森は気付いていた。気付いていたのに、見て見ぬフリをした。  そして、それは彼も同じだった。七森の暴走を、見て見ぬフリをしていた。  これはプロじゃない。ただの身勝手な人間だ。  七森は彼の手を両手で包み、額に当てる。喉から絞り出すように、言葉を吐いた。

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レモンケーキと忘却(2022.02)

無観客をゆけ(2022.01)

「姉ちゃん。仕事なら自分の部屋でやってくれよ」  え、と振り返る。箱根駅伝の実況が熱を帯び、うまく聞き取ることができない。  弟の手には年賀状の束があった。「わたしのある?」と手を伸ばす。年末にかけて激化した残業のせいで一枚も出せていなかったが、それでも気になってしまう。 「帰省してまで仕事するとか頭おかしい」  渡されると同時に、愚痴を聞かされる。北春は口をへの字に結び、うるさいな、と年賀状を奪い取った。一枚ずつ手早くめくっていく。宛名に自分の名前がないことがわかると、北春はこたつの天板の上に放り投げた。 「年末までに終わらなかったんだから、しょうがないでしょ」  弟はこたつに足を入れ、年賀状を仕分け始める。彼の名前が書かれたはがきだけ、厚みを増していく。不意に、そういえば姉ちゃんからお年玉もらってない、と言われ、こたつの中で蹴りを入れた。積み重なった年賀状が崩れ、天板の上を滑る。 「母さん、心配してたよ。姉ちゃんはずっと仕事してるって」 「わかってるよ」  弟の言葉を聞き流しながら、文字を打ち込む。漢字の変換が上手くいかず打ち直していると、それまであったはずの集中力がからきし無くなってしまった。煙草の箱に手を伸ばす。視線の圧を感じた。「わかったよ」と、自分自身をもいさめるように呟く。  パソコンの電源を切り、代わりにテレビに目をやる。走者四人が列を成し、二番目の少年にカメラが寄った。まだ表情に余裕がある。静かな駆け引きが繰り広げられていた。  沿道からはたくさんの声援が飛ぶ。一般客だろうか、ダウンジャケットを着た男性がガードレールから身を乗り出し、頑張れ、と何度も叫んでいた。チームは関係ない。彼はランナー全員に声を掛けていた。心強いだろうな、と北春は思った。  しばらく夢中で見ていると、スマホの通知音が鳴る。唯一の同期である茶坂からだった。ふと、弟と目が合う。重たげな瞼から、言いたいことが如実に伝わってくる。「仕事じゃないから」と北春は釘を刺す。  メッセージには新年の挨拶が書かれていた。こんな絵文字あったんだ、と感心するほど華やかに彩られている。彼は純粋に、年が明けたことを喜んでいるように思えた。絵文字を使うのが苦手な北春は端的に返す。指先に振動が伝わる。 《北春暇? 今、神社にいるんだけど、初詣行かね?》  急な誘いだったが、この場を逃げ出す良い口実だった。閉じたままのパソコンを脇に抱え、こたつから足を出す。弟から「どこ行くの」と、怪訝な目を向けられる。信じてもらえないと思いながらも、初詣だよ、と短く答えた。コートに袖を通し、煙草とスマホと車の鍵を握り締める。  指定された神社に到着すると、人混みの中から垂直に伸びた腕をを見つける。名前を大声で呼ばれ、北春は慌てて駆け寄る。鳥居の前で待つ彼の手には、オレンジのストライプの容器に入った唐揚げがあった。「恥ずかしいからやめてよ」と北春は言う。特に気にしていないらしく、茶坂は歯を見せてニシシと笑った。 「いやぁ、北春が来てくれてマジ助かったわ。危うく一人初詣するところだった」  砂利を踏む音がそこかしこから聞こえてくる。一度参道に入ると、取り囲む空気ごと押し出し、北春たちを本宮へと導いていく。道の両脇に屋台が並んでいたが、追いかけるだけで精一杯だった。 「ていうか、なんでわたしなの? 他に友達とかいるでしょ。こずえちゃんは?」  恋人の名前を出すと、茶坂は肩を落とした。 「こずえは友達と福袋買いに行ったよ。それで暇だったから、知り合い全員にあけおめメール送って、早く返ってきた人に声かけようと思ったんだ。そしたらお前が来た」 「はぁ? あのメール全員に送ってるの? 返信しなきゃよかった。すごく損した気分」  そんなこと言うなよ、と茶坂がおどける。北春は笑いながら、首を伸ばして賽銭箱を探す。後頭部の群れが遠くまで続いていた。やっぱ人多いな、と茶坂が言う。北春はポケットから財布を取り出し、五円玉があるかどうかを確認する。 「まぁでも、助かったよ」五円玉を見つけられず、代わりに五十円玉を手に収めた。「息苦しかったんだ。うちの家族さ、娘が仕事漬けになってるのをよく思ってないんだよね。良い気がしないのはわかるけどさ、それでも頑張ってるの。応援くらいしてほしいわけよ」  箱根駅伝の中継に映っていた少年を思い出す。北春は、彼らのことを羨ましく思っていた。心配されることこそあっても、応援されることはないのだから。 「うちも似たようなもんだから、わからんでもないな」  苦笑交じりに茶坂が言う。わからんでもないという言葉の後ろに、彼の本心が隠れているような気がしてならなかった。このままだと話題が変わってしまう。そう思い、北春は彼の瞼を見た。自分が発言する番はまだ来ていませんよ、と視線で訴える。しばらくして、茶坂が再び口を開く。 「そのあたりさ、難しいよ。頑張りたいって気持ちはもちろん尊重するけど、見過ごすのは違う。もっと器用にというか、楽な身のこなし方がきっとあるはずだと思う。だけど、人それぞれ生き方が違うから簡単にはいかない。変えられないことに苦しんでる気持ちも、痛いほどわかる」 「それはこずえちゃんのこと?」  職場との関係に悩んで退職したと聞いたことがあった。 「まぁ、それもあるけど」茶坂は首の後ろを掻いた。「周りの声に耳を傾けることも大事だけど、やめるように言ったって本人が納得しないだろ。無理することがすべて悪いわけじゃない。頑張ったっていいんだよ」  そうだね、と頷くが、北春の中に、自分が変わるという選択は最初からなかった。視野が狭まっていたことに気付く。頑張り方を変えればいい。自分の機嫌の悪さを、誰かのせいにしていたかと思うと情けなくなる。北春は顔を上げる。乾いた空と杉の葉が広がっていた。 「この会社に勤めてるから余計にそう感じるのかもしれないけど」茶坂は背筋を伸ばしながら言った。「頑張ろうって気持ちと辞めたいって気持ちが同居してる時は、危険信号だと思うぜ」  茶坂はオレンジ色のカップに入っていた串を掴み、そのまま唐揚げに突き刺した。一拍置いてから、やめようぜ、年始からこんな話、とはぐらかす。  両足の踵を上げ、列の先を見る。頭と頭の間から小銭を投げ入れる人の姿を見つけ、順番が近づいていることを茶坂に伝える。彼は腕を組み、身を縮こまらせた。 「北春、何お願いする?」 「会社に隕石が落ちますようにとか思ってたけど、どうしようかな」 「別に良いんじゃないか?」  神様へのお願いは欲深くても良い。そう思っていたが、茶坂を見ているともっと他に願うことがあるように思えてしまう。北春は、なんか違うんだよね、と首を傾げる。凝り固まった頭では、アイデアは閃かない。茶坂は何にするの、と尋ねる。 「今年も楽しい一年が送れますように見守っていてください、かな」  あまりに平凡な願いに、抵抗があった。もったいないとさえ思ってしまった。しかし、北原が望んでいたものがそこにあった。目の前に並ぶ人が頭を下げる。賽銭箱と襖の奥に観音菩薩が見えた。北春は手の平に収めた小銭の感触を確かめる。 「いいね。わたしもそれにしよ」  真似すんなよ、と茶坂が笑う。北春は確かな希望を感じながら、その時を待つ。                                                             了

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無観客をゆけ(2022.01)

可能性のバトン(2021.12)

 まるで世界の終わりそのもののような夕陽が、ブラインドの隙間から差し込む。誰かが号令を掛けた訳でもなく、背筋を伸ばす人、コーヒーのおかわりを用意する人、夕食を買いに行く人が現れ、一日の長さが上書きされる。入社してもうじき三年が経つ。この光景になにも感じなくなってしまった自分が嫌になる。  マウスから手を離すと、汗が滲んでいた。モニターの端に写し出される時計を一瞥し、神経を研ぎ澄ませつつ、茶坂はひっそりとデスクを片付け始める。  資料を鞄にしまっていると、ふと営業先の進捗が気になった。問題が起きたら連絡がほしい、と伝えていた。今までなかったということはつまり、予定通り搬入を終えているということだ。その確認ができれば、帰り支度を進める口実にもなるだろうと思い、社用のケータイを開く。 『あぁ、ちょうど良かった。今、連絡しようと思ってたところなんです』  スピーカーから不思議そうな声が聞こえた。「どうかしたんですか?」と茶坂が返す。その瞬間、引き出そうとしている答えの先に、途轍もない後悔が潜んでいることに気付いた。今すぐ切りたい衝動に駆られるが、電話越しの彼は「あの」と言葉を詰まらせながら答える。 『商品が届いてないんですけど、大丈夫ですか?』  視界が色褪せていく。凶報を聞いて真っ先に思い浮かべたのは、交際三年祝いの手料理をこしらえる彼女の姿ではなく、激昂する部長の姿だった。 「すぐ折り返します」とだけ告げ、搬入の担当に連絡するが繋がらない。一番親しい先輩を経由し、心を整える。報告には勇気が必要だった。怒られるとわかって伝える。まるで死に逝くようなものだ。ミスの報告は、自殺と似ているのではないかと思った。 「なんでこんなことになってるんだ!」  顔に唾がかかる。嫌悪感をぐっと堪え、茶坂は「すみません」と何度も頭を下げた。周りの視線が背中に集中するのを感じる。一度超えてしまった沸点を抑えるのは難しい。茶坂はわかっている。誰ひとり、火消しに来る物好きはいないことを。 「もういい。あとは俺がなんとかする」  部長がそう言い残し、電話を掛ける。先方に向けて謝罪の言葉を連ねているが、うちの部下がミスをしたという皮肉を、茶坂はありったけ浴び続けた。居心地が悪い。デスクに戻り、粛々と片付けの続きをしていると、部長が茶坂の元に来た。 「お前まさか、俺に仕事押し付けて帰るつもりじゃないよな。やることやってから帰れよ」  きつい目を向けられ、茶坂は「わかりました」と言うしかなかった。  残業してやれることはせいぜい書類の整理か、今日やらなくてもいい仕事ばかり。部長の顔色を伺いながら、誠意を見せるだけの時間。反省しています。だから残業します。そう自分が暗に訴えているようで、その惨めさに胸が痛んだ。部長の目が届かない物陰でスマホを触る。《ごめん。帰り遅くなる》その文面を打つ間、生きた心地がしなかった。  十時を超えると、部長がおもむろに席を立つ。おつかれ、と短く告げると姿を消した。職場の空気が一気に緩むのがわかる。茶坂の肩を小突く感触があった。キャスター付きの椅子を滑らせ、先輩の秋丈が駆け寄ってきた。「おつかれ。これやるよ」と個包装に入ったチョコレートを渡される。素直に受け取り、口に放り込む。  秋丈はこの職に就いて八年目になる先輩だ。彼のデスクには七五三の記念で撮った家族写真が飾られている。二人目の子どもは去年生まれたばかり。休憩中、事あるごとに息子たちのことを嬉しそうに話す彼の存在は、茶坂にとって、通るかもしれない未来だった。 「大変だったな。俺が茶坂に振った仕事だし、本当は手伝ってあげられたら良かったんだけど、俺も抱えてる仕事が山積みだからさ。つーか、あいつの管理が雑すぎるんだよ」 「俺がミスしちゃったんで、今回はもうしょうがないっすよ」 「予定とか大丈夫だった? 茶坂、本当は定時で帰ろうとしてただろ?」 「実は今日、付き合って三年目の記念日なんすよ。でも大丈夫です。連絡しましたし」 「全然大丈夫じゃねーってそれ。つーか、帰っても良いと思うぜ。まぁ、上司に怒られるだろうとは思うけど」 「そうっすね。いやでも、帰れないっすよ」  彼女を蔑ろにしている訳ではない。それは断言できる。本気で帰ろうと思えば、帰れたのかもしれない。しかしそれ以上に、失うものも大きい気がしてくる。仕事を放り出してしまう自分を、自ら作ってしまうことが怖いのかもしれない。  そのことを伝えると、秋竹は部長がいないことを良いことに声のボリュームを上げ、「道徳に付け入ってくるから嫌だね。ブラック企業ってやつは」と、これ見よがしに言った。 「秋丈さんだって、奥さんが待ってるじゃないっすか。お子さんだってまだ小さいのに。帰らなくていいんすか」 「良いとは言えないだろ」  秋丈は腕時計に目を落とす。帰ったらどうせ寝てるんだろうな、とぼやいた。 「そういや秋竹さん。この案件、なんで俺に振ったんすか? 部長だって最初渋ってたし、俺にはまだ早いと思ってたんで」 「できると思ったから振っただけだよ。若い奴にいろいろ経験させてやらねーと、いつか会社が息詰まるだろ。いつまでも古いやり方に固執してたらダメになる」 「だからって、俺には荷が重いっすよ」  茶坂は深刻さを装って言った。しかし秋丈は表情を崩さず、かえって目を鋭くさせた。 「俺さ、この会社を変えたいんだよね」  彼の放った一言が、水面を波打つ波紋のように響き渡るのを感じた。 「すげぇ不謹慎なこと言うけどさ、過労死とか自殺のニュースを見てると、これでうちの会社も変わるぞ、って思うんだ。でも蓋を開けてみたらなにも変わらない。変わろうともしない。お前ら、新聞読んでないのかって、禿げ頭を叩いてやりたくなる」 「秋丈さんなら変えられますよ」  本心からそう思っていた。秋丈は客観的に見ても仕事ができる。力がある。 「そうかもしれないけど、SNSとか見てみろよ。若者のエネルギーには敵わんよ。俺ができるのは、せいぜい知恵を与えることくらいだ。会社も家庭も同じだよ。大きくなればなるほど、形を保つのに精一杯で挑戦が難しくなる。だからこうして、希望をばらまいてるんだ」  彼はチョコレートの袋を顔の近くで見せつけるように持つ。 「希望って、チョコレートっすか」 「そこは突っ込まなくていいんだよ。素直に頷いとけ」  秋丈は笑みを浮かべながら両膝を叩き、席を立った。自分のデスクに戻ると、身支度を整え始める。茶坂も彼に倣う。先にコートに袖を通し終えた秋丈が、「なぁ、茶坂」と改まって呼ぶ。そして、なにかを託すように力強く、茶坂の背中を叩いた。 「荷が重いなんて言うなよ。一見非力に見える若者が、実は一番大きな力を持ってるんだ」                                                              了

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可能性のバトン(2021.12)

風任せになっていく(2021.11)

 七森こずえは洗濯機に呼ばれるまで、グラスの中に答えを探していた。〝朝〟と〝昼〟の箇所が空いたピルケース。喉を通過して以降、どこに溶けていったのかわからない。  おろしたてのワイシャツがバスタオルと絡み合っている。引っ張り出そうとするも、冷たくなった衣服の重みでやる気にブレーキが掛かる。ランドリーバッグを引きずりながらベランダに繋がる戸を開ける。風がカーテンを蹴り上げる。  難しい名前の病が身体に居着いてから半年が経つ。  当然のように、普通の人生を送るものだと思っていた。劇的でないにしても、人並みに努力と苦労を重ねれば、ささやかな幸せがやってくる。結婚をして子どもを授かり、いつしか定年を迎える。両親やその他大勢のように。 「落ち着くまでうちにいたらいいよ」という彼の言葉に甘え、七森は仕事を辞めた。  病院に通いながら、専業主婦として恩返しができればいい。そう思っていたが、引け目もあった。彼の仕事が大変だと聞く。いつまでも支えられてばかりではいられない。  身を粉にして働いていた、あの頃に戻れるのかさえわからない。もしかしたらこのまま、何者にもなれず人生を終えていくかもしれない。そんな不安も、家事をしている時だけは誤魔化すことができた。  洗濯物が小刻みにリズミカルを取る。七森は柵に肘を付き、陽に照らされた景色をぼんやりと眺めていた。さらさらとした空気が肺を満たす。柔軟剤の爽やかな香りを嗅ぎながら風に当たるのは気持ちが良かった。  上の階から男の子の元気な声が聞こえてくる。  ビューン。やっつけろー。キック、キック。ドカーン。ひとりで戦いごっこをしているのだろうか。あどけない声に耳を傾けながら、どんな遊びをしているのか想像してみる。ついツッコミを入れたくなるような展開でさえ、愛おしく思えた。とても平和な時間。七森は大きく口を開け、あくびをする。  突然、叫び声が響いた。  空気に亀裂を入れるような、切迫したものを感じた。思わずはっとして背筋を伸ばす。声の主はあの男の子だった。気になって上を見上げる。すると空からなにかが落ちてきた。  咄嗟に身を引く。  直線の赤い残像だ。  再び柵に手を掛け、落ちていった先を探す。下は駐車場だったため、見つけるのは容易だった。目を凝らす。落ちているのは人型の人形だ。幼稚園で働いていた頃、子どもがお守りのように握りしめていたのを思い出す。 「ウルトラマン?」  七森が口にすると、仰向けの人形と目が合ったような気がした。心臓が跳ねる。  三分という短い時間の間に、超人的な力で怪獣を倒すヒーロー。どんなに強い敵でも決して諦めない。男の子の憧れの存在。腕を交差して真似する子どももいる。そんな正義の味方が駐車場で倒れている。  故意ではないだろう、と七森は思う。だとしても高いところから落ち、仰向けになっている姿を見るのはいたたまれなかった。握り締めていた柵を離す。あのポーカーフェイスが脳裏にちらつき、七森を急き立てた。玄関を飛び出すと、階段を一気に駆け下る。 「あった」  久しぶりに走ったせいで、胸が苦しい。七森は肩を上下に動かしながら、物言わない人形のもとへ駆け寄る。塗装がわずかに欠けてしまったくらいで、大きな損傷はない。それがかえって心配を加速させた。 「あの、拾って頂いてありがとうございます。この子が落としてしまったみたいで」  申し訳なさをふんだんに詰め込んだ声が聞こえる。母親と思わしきエプロン姿の女性はかなり若かった。太陽に照らされ、素肌の瑞々しさが輝いてみえる。二十代前半。あるいは同級生でもおかしくはない。  彼女の背後で、もぞもぞと動く気配があった。太ももにしがみつきながら、男の子がこちらを見ている。身長は五歳くらいで細身。さっきまで泣いていたのか、目は赤みを帯びていた。取りに行きたいけど怖い。そんな眼差しをしている。  七森は膝を折り畳み、男の子と目を合わせながら「どうぞ」とウルトラマンを返す。  すぐには取りに来なかった。怯えた表情を見せる彼に、母親は「お姉さんが拾ってくれたのよ。ありがとうってお礼を言わなきゃね」と背中を押す。七森は彼が話し出すタイミングを待った。警戒心を与えないように笑顔で迎える。すると一生懸命に口を動かし、「助けてくれてありがとう」と言った。 「うん。大事にしてあげてね。もう落としちゃダメだよ」  小さな手にウルトラマンが渡ると、彼は口を横に引いて笑った。相当嬉しかったのか、その場でお尻をつき、わー、びゅーん、と遊びに戻った。その自由さに笑みがこぼれる。  立ち上がって母親を見ると、目を大きく開き、口元を押さえていた。 「今、この子、『助けてくれて』って言いましたよね」  七森は一度考えてから「言った気がします」と答えた。  彼女の内側から、大きな熱を持ったなにかが込み上げていた。立ったまま崩れそうだった。胸の前で手を組み、深く息を吸う。彼女の指にいくつもの絆創膏が貼られていることに気付いた。 「子どもの成長って本当にすごいですよね」  もしかしたら彼女も、劣等感に縛られていたのかもしれないと、七森は静かにそう言った。 「あなたも、お子さんがいらっしゃるんですか」 「いえ、子どもはいないですけど、子どもと関わる仕事をしていたので、現役ママさんたちに比べたら全然ですけど、すこしだけ気持ちはわかります。直接教えたつもりがなくても、ママやパパを見て、知らないうちに覚えてるもんですよ」 「だとしたら良いんですけど。わたし、子育てにあまり自信がなくて……」  母親が言いかけると、男の子が急に立ち上がった。天高く伸ばした腕の先に、ウルトラマンがいる。陽の光をたくさん浴びて輝いていた。相変わらずの仏頂面だが、七森の目には活き活きと映った。シューン、と男の子は口ずさみながら駐車場を駆けていく。危ないから遠くに行かないで、と母親が追いかける。  その時、風が吹いた。  七森の足が半歩前に出る。風は背中を押した後、男の子のもとへと向かった。小さな体から想像できないくらいのスピードが出ていた。母親も追いつけないくらいに、強く逞しく、彼は笑いながら走った。  ふと思い立ち、ポケットからケータイを取り出す。失礼かもしれないと思いながらも、素早くロックを解除し、画面を横にしてビデオを回した。風を味方に走る男の子と、奮闘する母親。七森の目を通して映る姿を、彼女に見てもらいたかった。  男の子を抱きかかえた母親が戻ってくる。彼女は困り果てた様子で、息を切らしていた。いつか自分にも吹くだろうか。そんなことを考えながら、七森は母親の名前を呼ぼうとする。が、まだ聞いていなかったことに気付いて、代わりに大きく手を振った。                              了

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風任せになっていく(2021.11)

拝啓、名も無き仕事たちよ(2021.10)

 わたしの職場は最高だ。抱かれたくもない男に飲まされたウォッカくらいに。  シュレッダーに吸い込まれていく雑紙を眺めながら、北春はそんなことを考えていた。  頼まれた紙は段ボール一箱分に上る。指先の感覚で八枚ほどめくり、そこからさらに二枚を加え、挿入口へと押し込む。するとモーターの駆動音はわかりやすく元気を失くし、半ばで力尽きた。北春はため息をつく。  上司はこの業務を何分で終わる計算でいたのだろうか。そもそもこの仕事は業務時間には含まれているのだろうか。あるいは、嫌がらせでしかないのか。 「北春、これも頼んだ」  積まれた紙の上に束が落ちる。紙の山はバランスを崩し、床に広がっていく。その一部始終を、他人事のように眺めることしかできなかった。胃を締め付ける痛みに、なるべく無関心でいるように努める。が、叶わなかった。北春は眉を寄せる。 「あの、自分でやってもらえませんか。もう一台ありますよね。シュレッダー」 「なんだよ。ついでにやってくれたっていいだろ」  上司は、まるで思春期の娘でもいさめるように答えた。 「そうなんですけど、わたしも自分の仕事があるんで」 「あのなぁ、お前だけじゃない、みんな忙しいんだよ。大体、いつも掃除ばかりやってるじゃねぇか。お前みたいに暇じゃないの」  そう言い残した上司は、見晴らしのいい窓際のデスクへと戻った。その後ろめたさもない背中に腹が立ち、あからさまなため息を投げつける。そこには虚しさしか残らない。北春は散らばった書類を拾う。昼休憩を告げるチャイムが意地悪に鳴り響いた。 「ほんとムカつく。あの、クソ上司」  北春は愚痴を吐き捨てると、煙草の先を赤く灯した。唯一の同期である茶坂が、今日も荒れてんなぁ、と笑う。  帰りのバスを待っていた。都心に繋がる大通りは渋滞しやすい。定刻通りに来なくても、今さら誰も咎めたりはしない。  鮮やかに並ぶテールランプに目を細める。ひとつ先の信号機を眺めながら、北春は午前中の出来事を話した。  下手に共感をするでも、かといって持論を挟むのでもなく、茶坂はただしっとりと相槌を打っていた。そして、区切りがついたタイミングで、嫌な上司だな、とこれまた毒にも薬にもならない反応を示す。彼は自分が聞き役であることを、かなりわかっている。 「掃除ばかりやってるんじゃない。掃除もろくにしてないから、わたしが代わりにやってあげてるの。大体、仕事の効率を上げるための掃除でしょ。自分が世話をされていることに気づかないなんて、ほんと哀れ」 「自分のことくらい、自分でやれよな」 「いっそのこと、一ヶ月くらい有給取っちゃおうかな。そしたらありがたみに気づいてくれるかもしれない。――いや、たぶん、わたしなんかが一ヶ月休みを取ったことと、不在中に職場が汚れたことを、復帰後まで根に持つかも」 「それは気の毒だ」  携帯灰皿に灰を落とす。なにが楽しくてこの仕事を続けているのだろう。自虐的に微笑みながら、なにやらくぐもった音が聞こえてくることに気づく。目の前のセダンからオーディオの音が漏れていた。運転する男性は、口を軽快に動かしている。 「まだ入社二年目の下っ端だからしょうがないのかもしれないけど、わたしが上司だったら、身の回りのことくらい自分でやるように教えるわ」 「北春は良い上司になる」 「ありがとう。出世するまで続けてたらの話だけど」  腕時計の針に目を落とす。車の行列の先に、大きな四角い箱は見当たらない。  茶坂もそのことに気づいたのか、「最近あったことなんだけどさ」と、時間を埋めていく。 「こずえにすっげー怒られたんだ」  へぇ、と北春は気の抜けた返事をする。 「トイレットペーパーの芯だけ残ってる。なくなったらすぐに補充してって」 「それはあんたが悪いよ」  ふたりがケンカをしている姿を想像して笑みをこぼす。  同棲を始めたばかりという茶坂の毎日はハプニングの連続だ。北春は事あるごとに、茶坂のぼやきを聞かされていた。それでも彼の口から悪意は感じたことはなかった。怒られたと言いつつも、愛おしく思っているのがわかる。 「北春は『名も無き家事』って知ってる?」 「ちょっと前に流行ってたね。裏返ったシャツを元に戻すとか、夕飯の献立を考えるとか」  その情報を北春は昼のニュース番組で知った。とある企業が提唱したものらしく、男女による家事に関する認識のズレが当時話題となっていた。  怒られたのはトイレットペーパーの件だけじゃないのだろう。北春は密かに思う。詳しく聞いてみたい気持ちにとらわれながらも、それで? と続きを促す。  茶坂は頭を掻いた。 「そういうの、仕事にもあると思うんだよね。名も無き仕事って言うの?」 「名も無き仕事かぁ。確かにあるかもね」  北春は噛み締めるように言った。そして、上司の雑紙を処分することも? と心の中でつぶやく。あえて言葉にしなかったのは、待っていたものが現れたからだった。もう一度、時計に視線を落とす。すでに五分は超えていた。北春は煙草を携帯灰皿に慌てて押し込む。 「想像してみろよ」  言いながら、茶坂は手を膝に置き、ゆっくりと腰を浮かせる。ふと、口角がいやらしく吊り上がっているのが見えた。彼の言葉を待つ。 「北春の上司はさ、たぶん奥さんに怒られてるぜ」  北春は声を出して笑った。その想像はあまりに容易にできてしまった。思わず、かわいそう、と同情する。 「そう、かわいそうなんだよ。北春の上司は」  バスが停まる。空気が抜けるような音と共に扉が開き、ぞろぞろと人が出てくる。北春はステップに足を乗せた。後ろを振り返る。おつかれ、と茶坂は手を挙げた。 「おつかれ」  そう言い残し、空いている席を見つけて腰を下ろした。窓越しに茶坂の姿を探すと、彼はすでに反対方向へと歩き始めていた。なにも語らない背中に対して、あんたは愚痴ないの? と問いかける。  バスの中で北春はかわいそうな上司について考えた。できる限り、多く。 料理が出来上がるまでソファーで体を休める上司。ワイシャツと靴下を洗濯機に入れたにも関わらず、洗濯機を回さない上司。箸や茶碗の用意をしない上司。食べ終えた食器をテーブルに残したままの上司。浴室の排水溝のぬめりに気づかず、浴槽にお湯を溜めて満足する上司。明日着るワイシャツにアイロンをかけない上司。明日も仕事だからと言って早々に寝る上司。上司、上司、上司――。  その妄想のひとつひとつが、北原の心を軽くしていく。                               了

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拝啓、名も無き仕事たちよ(2021.10)

銭と絆創膏(2021.09)

 目の前の背中になにを思うでもなく、社会の対流に身を任せていたはずだった。  頭が真っ白になる。|茶坂《ちゃさか》は行く手を阻まれ、えっ、と声を漏らした。赤い警告音。人混みから飛び出る舌打ち。手に持った定期券。寝ぼけた意識がすこしずつ戻り、そうだ、更新してなかったんだ、と思い出す。  体を小さく丸めながら、へこへこと改札を抜け出る。まるで不良品にでもなったような気分だった。  窓口から小綺麗なスーツの行列が伸びていて、茶坂もそこに並ぶ。財布の中身を確認すると、欲しい分だけの金額が用意されている。余裕はない。空っぽになることを思うと、やるせない気持ちになる。  仕事にだって、行きたくはないのに。  前の太った男性が横にずれ、前の方どうぞ、と呼ばれる。 「一か月、更新お願いします」  その言葉を口にした瞬間、なにか途方もない覚悟を強いられているような気がした。紙幣を抜く手が止まる。――定期券をお願いします、どうかされましたか、と呼ばれる声が遠い。 「ごめんなさい。やっぱり、だいじょうぶです」  茶坂は列から外れた。電光掲示板を見上げると、路線の名前が点滅している。  突然、肩に衝突があった。  ぶつかった相手は振り返ることもなく、走って改札を抜けていく。文句を言う隙もない。出発時刻が迫っていた。茶坂は壁一面の路線図から、職場までの運賃を慌てて探す。  六五〇円。  その金額が妙にかわいく思えた。  切符を手にすると、人の流れに戻る。階段を下りた先に、開いているドアが見えた。足がもつれそうになりながらも、そこを目指して走った。 「えー、更新しなかったの」  |北春《きたはる》のハスキーな声が夏の喫煙所に響く。太陽に限りなく近いビルの屋上。青いベンチに並んで座りながら、茶坂は冷えた缶コーヒーを喉に流し込む。  灰皿へと伸ばす彼女の手から、最近変えたばかりというターコイズのネイルが見える。彼女はアスファルトに横たわるパンプスをつま先で日陰の外へと追いやり、ため息をついた。お金持ってなかったの、と尋ねる。持ってたよ、と茶坂が返す。 「だったら払っちゃえばよかったのに」 「そうなんだけどさ、なんか払っちまうと、最低でも一ヶ月頑張らなくちゃいけない気がしてくるんだよ」 「あー、なんかわかるかも。わたしは逆に、自分に鞭打つつもりで定期買ってるけどね。あと高いコスメ買ったときとかも、仕事頑張ろうって思うよ」 「きっとそれが正しい生き方なんだろうな」  しっかりしてんなぁ、と残りの缶コーヒーを飲み干す。  北春は唯一生き残った同期だ。茶坂は煙草を吸わない。が、彼女の喫煙に付き合う昼休憩をえらく気に入っていた。  胸ポケットから振動が走る。スマホを取り出すとメッセージが数件届いていた。こずえちゃんからでしょ、と冷やかしの声が聞こえる。北春の予想通り、それは同棲している恋人からだった。文面から、彼女の慌てっぷりが目に浮かぶ。 《会社行く途中で自転車がパンクしちゃった! 修理代、千三百円も取られちゃったよ》  千三百円という金額に、胸がざわつく。  茶坂は返事を打ちながら、「こずえがさ」と話しかける。 「自転車、パンクしたんだと」 「こんな暑い日に災難だったね」  茶坂は、そうだな、と答えた。朝の天気予報では、日傘を推奨していたことを思い出す。 「……同じ金額なんだよな」 「なにとなにが?」 「自転車の修理代と、今日の電車賃」  彼女は脚を組み直し、煙草をくわえる。そして暑さを恨むかのように、太陽に向かって煙を吐いた。茶坂は一連の動きが終わるのを待ってから、話を再開する。 「こずえが払った千三百円は必要なものだと思うんだ。でも俺の千三百円は、いったいなんのために払ったんだろうな」 「そんなこと、わたしに聞かれても」  意味わかんない、という顔を向けられ茶坂はたじろぐ。説明が悪かったのかもしれない。今一度、言葉を整理する。 「千三百円って、仮に定期を買っていたら出てこなかった金額な訳だろ。いまさらだけど、もったいないことしたなって」 「へぇ、後悔してるんだ」  静かにうなずく。  金額が同じというだけで、なんの関連性もない。ましてや別々の財布から出ている。どちらか片方の金額が倍になったという話でもない。  千三百円あればなにが買えただろうか。ひび割れたアスファルトの形を見つめながら茶坂は考える。意外と、贅沢ができるような気がした。 「それならさ」北春は指で挟んだ煙草を見せつけて言う。「わたしが吸ってるこれはどうなる訳?」 「どうって?」 「健康に悪いし、税金は高いし、そのうえ手放せなくなる。これは無駄なの?」  無駄じゃない、と茶坂は思う。煙草がないと彼女はすこぶる機嫌が悪くなる。仕事の効率も最悪だ。煙草は彼女にとって必要なもの。  北春は腕時計に目を配り、煙草の先端を灰皿に押し付けた。両手で太ももを二回叩き、よいしょ、と言って立ち上がる。ん、と彼女は背筋を伸ばした。 「理にかなってるかどうかはともかく、無駄遣いなんてこの世にないと思うよ。こずえちゃんの千三百円はチューブの穴をふさいだだろうし、あんたの千三百円だって、傷口をふさいだんじゃないかな。絆創膏みたいに」  彼女が腕を下ろすと、スピーカーからしゃがれた予鈴が聞こえた。本鈴の前にトイレに行こう、そう思いながら茶坂は、空き缶をゴミ箱の穴に押し込んだ。このコーヒー代も無駄じゃない、と思った。  下る階段の途中で、スマホが再び震える。そこにはやはり、人柄が滲み出ていた。 《ごめん、今日帰りに買い物寄ってきてくれないかな! 牛乳二本と卵とトイレットペーパー。わかってるとは思うけど、牛乳は成分無調整で、トイレットペーパーはシングルだからね!》  簡潔に、《わかってるよ》とだけ打って、ポケットにしまう。その中で、こずえはまだなにか伝えたかったようだが、気付かないふりをする。  茶坂は腕を十字に重ね、筋を伸ばした。提出期限の近い書類が、まだ残っていた。  先を行く北春が、どうしたの、と視線を送る。茶坂はなにも答えず、最後の一段を抜かして降りた。                              了

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銭と絆創膏(2021.09)