レモンケーキと忘却(2022.02)

レモンケーキと忘却(2022.02)
 数年ぶりにお菓子を作った。レモンケーキだ。  バレンタインデーが近いということもあったが、なによりも家事をするだけの日々に退屈を感じていた。手軽な非日常体験が欲しかった。 「わたしにしては上手に出来たと思わない?」  晩御飯を囲みながら、七森は携帯の画面を見せつける。インスタグラムに投稿した写真には既にいくつかの〝いいね〟が付いていた。向かいに座る茶坂が「え、俺の分残ってないの?」と口にし、実物を見せれば良かったことに気付く。冷蔵庫から持ってくると、晩御飯の途中にも関わらず彼は手を伸ばした。「うん。うまいよ、これ」と目を見開いて言った。  翌日から、七森は憑りつかれたようにお菓子作りに励んだ。チョコブラウニーやアップルパイ。フロランタンにチーズケーキ。最初こそ穴の開くほどレシピを見つめていたが、一ヶ月が経つ頃には容量を掴み始めた。オーブンで生地が膨らむ様を見ながら、自分が子どもの頃、母親と並んでお菓子作りをしていたことを思い出す。チョコを溶かしてかたどるだけの簡単なものだったが、当時はそれが魔法のようで、たまらなく嬉しかった。 「こずえはお菓子作りが上手ね」  母親の言葉と、目の前にいる茶坂の言葉が重なる。彼は相変わらず、頬がぱんぱんになるほど詰め込んでいた。「うまいよ、これ」と指をさす。子どものような無邪気さが微笑ましい。  SNSの反響も凄かった。大学の友人や後輩だけでなく、まったく面識のない人からメッセージが届いた。閲覧数を見ると、綺麗な右肩上がりを示している。ただ、今回作ったシフォンケーキはあまり伸びていない。 「どうした、そんな浮かない顔して」  そう尋ねる彼の口元には、生クリームが付いていた。ティッシュを一枚取って渡す。七森は目を合わせると、静かに首を横に振った。偶然かもしれない。そう思うようにして、台所に残った食器に水を注ぐ。固まってしまった泡立て器の汚れがなかなか取れず、ため息をつく。
飛由ユウヒ
飛由ユウヒ
〔ひゆうゆうひ〕小説で誰かの心が救えたらいいな、と願いながら書いてます。名古屋の同人文芸サークル「ゆにばーしてぃポテト」にて執筆とデザインと広報を兼任。『ブラッケンド・ホワイトフィッシュ』ステキブンゲイ大賞一次選考通過。#100円文庫 を毎月10日更新! ▼▽情報はこちらから!▽▼ https://potofu.me/yuuhi-sink