夜音。
13 件の小説生
朝の陽かりに包まれて。 躍動する命の音を聞く。 地が震え、天は高く。 押し寄せる幾多の生に触れて、私の生が目を覚ます。 あなたの手の温もりが。 あなたの命の温もりが。 こんなにも近く、何処か遠く。 「私は一つ」と認識させる。 私から切り離された後悔一つに、 取り留めのない感情が、バラバラとこぼれ落ちていくもので。 拾ってくれと、 私は必死に声を上げた。
思春期
ふと、もう死ぬんだなと思った。 訳もなく。 虫に喰われて空いてしまった穴のように。 小さく、ぽつりと。 そんな事を一度でも考えてしまえば、あとは早いもんで、解れがどんどんと拡がっていった。 私が解けていく。 私は窓を開け、宙をみながら夜に身を溶かしていた。 日常に抱かれる当たり前。 そんな当たり前の、一日一日が孕む熱の中のただの一人。 私はもう終わるらしい。 気がした。 最近どうも感覚が曖昧で、生きている気がしなかった。ぐるぐると回るだけの拙い感情と、形容しがたい嫌悪感。 全ては終わりへ歩んでいたからなのだと、納得した。 断頭台へ登る罪人が一部晴れやかな顔をしてるのは、し絡みからの解放を望んでいたからなのだろう。 死ぬというのに、私が幾分か涼しい気でいるのは。 夜の窓から吹き込む風が体を通り抜けていくからか。 解けていった私がもう密度を有していないからか。 もう繋ぎようがないというのに。 何故にこんなに穏やかなのか。 ……何故にこんなに空っぽなのか。 答えを求めて、見つめていた宙は新しい一日を迎えようとしていた。懸命に這い出ようと、天と地の境から漏れだし、生まれる光に目を細め私は悟った。 ついに私が死んだらしい。 訳も分からないまま、涙が頬を伝った。 嬉しい訳でも、悲しい訳でもないのに。 ただ、事実として死んでしまった私への手向けのように。 涙がとめどなく溢れた。 私は今日、18になった。
終電
なんでみんな同じじゃないんでしょうね。 不平等で、不公平ですよ。 私は一人、際限のない空間の中で茶色く褪せた小さな椅子に座って話をしていた。 目の前には、人一人を隠す分だけの白いカーテンが降り、地面に触れて少し余っている。空間が仕切られたその先には、ぼやけて丸く広がる影だけの存在があった。 暗くも暖かみを感じるような、黄ぐすみした白く広い空間。そんな中で異様に浮き立つ、カーテン、椅子、私、影の何か。 それはまるで、懺悔室のようだった。 私なんて特段秀でたものもなければ、人と違う点で悩み、苦労しましたもん。 人間、苦労するようにできてるのか何なのか。いい所なんてないと思えて、悪い所ばかりに目がいくんです。 え、全員ではない? ご冗談を笑 うーん、確かに私だけなのかもしれないですね。 それは極端? まぁ、何でもいいですよ。 兎にも角にも、 ?? ……ええ、まぁ、そりゃあ羨むこともありましたよ。 羨んで、妬んで、欲しがって。 その度に自分が醜い気がして嫌になって。 それの繰り返しですよ笑 みんな、見た目が良いもの、なりたいものに分かりやすく貪欲でしょう? あの人になれたら、あの顔だったら。 あれをしてたら、こうだったら。 全く、どこまでも後悔なんて尽きないもので。 足りないところにばっかり目が、 ええ、ええ。 今? 今はほら、それこそ落ち着いたもんですよ笑 でも、見えてるもの、思考、言動全てが。 人間みんな同じだなんてつまらないというのも、ようやっと分かってきました。 ここまできてですよ? 笑っちゃいますよね笑 自分は自分でいいのだと。 ここまできて、ようやく分かってきたんです。 幸せの形も、何もかも。 きっと人それぞれ違って、でも確かに一人一人に存在しているんじゃないかな、なんて。 もしかして私、くさいこと言ってます? すみません、いい年なもので笑 続けますけど、小さな幸せを見落とさないで、拾って。自分の中に、形として確かに留めおける人が、本当の意味で幸せな人なんじゃないかなぁとか。 思いますよ。 ええ。 え? 本心かって? ちょっとやめてくださいよ笑 ここまで話しておいて、嘘なら私恥ずかしい人じゃないですか。 まぁ、ただ一つ。 運だけはなんとかして欲しいですけどね。 仕方がないもの? 分かってますよ。それを知ってるからこその願望じゃないですか。 小さな幸せ、転機や好機も。 どれだけこちらに分かりやすく、気づきやすく現れてくれるかなんて運次第。 生まれや育ちも。巡り会う人も。取り巻く環境も。顔も。 こちらの努力でどうにもならない事なんてほんとに沢山。 わかります? ほんとに沢山あるんですから。 え? ああ、すみません少し力が入ってしまいました。 別に怒ってはないですよ。 ……まぁ、ええ、そりゃ少しはですよ? でもどちらかというと、怒りというよりも虚しさの吐露ですかね。 ああ、えっとなんでしたっけ。 そう、とにかくこれから先の半分はそれこそ後悔のないように。 やらずに終わっていたこと、逃げていたことの一つや二つに目を向けてみましょうかね笑 嘘、もう時間ですか。早いですね。 確かに結構お話させて頂いたかもしれません笑 行き方? 分かりますよ笑 終電なんて一つしかないのだから。 ……これからは下っていくのですね。 お話ありがとうごさいました。次お会いするのは終点ですか。 なるべく安全運転で、ゆっくり行って欲しいものです笑 ええ、はい。 それでは。 白いうつつに抱かれて。朝日から生まれ落ちるように、私はそっと目を覚ました。
最強の剣と盾
「ねぇ、パル。こいつ全然食べないよ?」 「ああ、こら! 殻ごとあげたらダメだって言っただろ?」 ぐいぐいとククの口元にユスの実を押し付ける俺の様子を見たパルは、慌ててすぐさまその手元から実を取り上げた。 そして、呆れたように「いいか、見てろよ?」と俺に言ったまま、実をコンコンと調理台に打ち付けて殻を割ると中身を取り出した。 「ちっせぇー、こんなんじゃククはお腹いっぱいにならないって」 俺も知っていたけど、直径3センチ程のそこまで固くないクルミのような茶色い殻の中から出てきたのは、向日葵の種程度の直径1センチにも満たない、乳白色につやっとした薄い実だった。 「だから、いっぱい取ってきたんじゃないか。」 あれを見ろ、と言わんばりにくいっとパルに顔で示されたすぐ先には、先程二人で取ってきたユスの実が編みかごいっぱいに入っていた。 「これ全部、割るのかよー、、 そこまで固くないし、このままの方が腹持ちいいだろ? ククだって早く大人になりたいはずだぜー?」 俺は割り続ける労力に見合わない、パルの手元の小さい中身を再度見てから、肩をなだしてボヤいた。 「クカァルカ龍の子供にとっては、ユスの実の殻は消化不良を起こさせる毒みたいなもんなんだよ。こいつはそれを分かってる。賢いやつだな!」 文句を垂れながらボヤく俺に当てつけるかのようにパルはそう言うと、割ったまま手に持つユスの実を、調理台の上にちょこんと座るククへと食べさせた。 ククもすんなりうれしそうに食べちゃって、なんか面白くない。 そんな俺を見かねたのか、パルは「あとはお前が割れ」と、ユスの実をかごから俺へとぽんぽんといくつか投げて寄越してきた。 そしてしまいには、よっこらせとカゴを俺のすぐ横に移動させてきた。 ククを横目に、龍のくせに消化不良とはこいつめ、、と思いながらも、割られては出てくる実に手を伸ばし、むいむいと食べる姿はかわいいもんだ。悔しいけど、なんだかんだ俺もせかせかと実を割って与えてしまう。 こいつからすりゃ俺たちの飴玉サイズだろうに、なんでそんな喜べるんだ? 俺の疑問なんて露知らず、薄いティールカラーで兎サイズの生物は、龍という名に相応しくない程無邪気に実を食んでいた。 「……にしても、また寒くなってきたなぁ。 このままじゃ僕達も大人になれるか心配になるね」 まじまじとククの食事を見ていると、ふとパルがククの頭を撫でながら釜戸横、上につく窓の外を見てそう呟いた。 「……大丈夫だろ! なんだかんだ俺達は生きてこれてる! 去年だって、同じこと言ってたぜ?」 俺はいつものパルの心配性が始まったと思い、「気にすんな」という景気づけも込めて強めにぐしゃぐしゃと拳で叩いて殻を割った。 「去年はね。まだ少ないとはいえ配給があったからね。」 「……けど今年は違う。」 ククを撫でる手を止め、パルは額に少ししわを寄せた。そして徐に窓へと近づいて行くと、そのまま窓を開けて遠くを見通した。 「……僕たちの国は、アヌタは負けた。もうここはリジュアなんだよ。その意味がわからないか?」 「……国が違っても俺たちは変わらないだろ?」 俺は殻を割る勢いを更に強めた。 問われている意味が分からなかったーー、フリをした。 俺だって分かってる。パルが何を心配してるのかも。不安はあるにはある。 確かに今年は体制が変わるかもしれない。僅かばかりだった配給すら確かにないかもしれない。 けど、元々何もない俺たちにとって、大人一人分にも満たない「僅かな施し」なんてあってもなくても誤差だろ? アヌタは確かにリジュアに降伏する形で敗戦した。犠牲が出たのはほんとに虚しいけど、国家間の大きさが違いすぎて一年にも満たない比較的短い戦いだった。お陰でそこまでの被害も出てないはずだ。 加えて別に、何か特別重たいものを課された訳でもない。お互いの合意の上で降伏したはずだ。 なんなら支援だって…… 「勝った国が、負けた小国に施しなんてしない。」 俺の思考を遮るかのようにそう言いながら、パルはこちらへと振り返った。その眉はしわがより、強くも悲しそうな目をしていた。 突如として、飄々と細く流れていた秋風が、強い風となって窓から吹き込み、パルの顎先までの長い髪の毛を散らしてはその表情を攫っていった。 「……今、アヌタの街中に住む下位民達は下女や売奴として悲惨な目に遭ってるらしい。」 「……?」 「……もっと酷いのは、同じ下位民でも戦力になりそうな男は徴兵されて労役、使えなくなると戦前の投げゴマ扱いらしいよ。」 俺はパルの口から悔しそうに、静かに語られる予想だにしていなかった情報に、頭が追いつかなかった。 窓枠にもたれ、体の支えとして置かれたパルの手先には見てわかりやすく力が入っていた。 ふるふると小刻みに震えるその指先が事実の裏付けのようで、俺は更に震撼した。 「……何言ってんだ、うそだろ、? だって、属国になっても暮らしは変わらないって言ってたじゃないか。なんなら、生活も大国として支援するって……」 俺の言葉にパルは静かに首を振った。 それが信じていた現実全てを否定するものだと知り、俺は自身の中でふつふつと湧き上がる熱を感じ始めた。 「……いいか? 僕たちはアヌタの中でも片田舎、なんなら住んでるのはほぼ森の中の小屋だ。すぐにはここまでリジュアの手はこないだろう。」 「でもこれから先何が起こるかなんて分からない。親もいないし、守ってくれる人もいない。 ……たった12の子供に何が出来る?」 「……」 「……ふぅ、とまぁ、今年がやばいかもねってのはこうゆうこと。」 淡々と現状を語っていたパルは、何も答えられない俺を見て緊張を緩めた。そしていつものように柔らかく笑いながら、近づいてきた。 「ごめんね、こんな話。結局、ここにいる僕たちには事実かも分からない。さぁ、……ククのご飯をもうちょいと、今度は僕たちのご飯を取りに行こう」 「……笑えないだろ。」 「……アジル?」 「……俺は、、悔しい!! こんなのおかしいだろ!」 両拳を骨が折れるのではないか? という程に強く握りしめ、俺は下を向き強く叫んだ。 顔を上げ、目を向けた先のパルは目を少し開き驚いていた。 なんの為の降伏なんだ? なんの為の戦いだったんだ? なんの為の犠牲なんだ? なんの為の制約で、 なんの為の、、 「弱いからだよ。」 パルの真っ直ぐこちらを捉える無感情な目とその一言に、俺に重たく伸し掛ってくる鎖のような思考がパンッと強く砕け解けた。 「……弱いからだよ。残酷だけどこれが全てさ。『弱い』のに挑んだのがいけないんだよ。」 「……そんなの、弱かったら何もしちゃいけないのかよ!されるがままでいいってことかよ!」 俺は淡々と語るパルに次第に腹が立ってきていた。こいつは自分の国が置かれている現状になんとも思っていないのか? 自身の国の都合に巻き込まれた人達が苦しんでるのに……こいつは、 「違う。 そもそも、財力面でも潤っている魔力大国リジュアになぜ刃向かった? 小国アヌタには秀でた魔力も、財力もない。 貧困国ではないが、対等に戦える要素を持ち合わせていない。」 「……だから?」 「小国が、自分を守る盾や戦う武器もないままに大国に勝てるはずがないだろう? 自分の立ち位置、大きさを自覚していない。認めない。その愚かさが『弱さ』なんだよ。」 「……??」 「……はぁ、アジルにはわからないか。 えーっと、盾は頭脳とかで武器は武力というか、、つまり、んー……」 パルは言葉に詰まると、困ったようにポリポリと後ろ頭をかいた。そして、まだこの話を続けるのか? というような顔でこちらを見た。 「……つまり、弱いままでいるのがだめだってことか??」 俺の言葉にパルはうーん、と少し考えてから「まぁ、そうだね。」と答えた。 「……じゃあ、俺たちは強くなろう。」 「……えっと、?」 俺の言葉にどうゆうことでそうなるのか分からない、といった顔でパルは分かりやすく困った顔をした。 「……弱いままでやられちまうなら、強くなればいい。俺がお前にとっての最強の「剣」になるから、お前が俺にとっての最強の「盾」になってくれないか?」 俺の真面目なトーンにパルは驚いた顔をした後で、ぷッと吹き出しははは! と笑い出した。 「……! なんだよ! 国がやられてんのは腹立つけど、それに巻き込まれないように、まずは俺たちが明日をちゃんと生きてけるように、! それが大事だろ! なんか変なこと言ったか!?」 「……いやいや、笑 あまりにもアジルが普段に似つかず真面目な顔して言うから笑」 パルは一頻りに笑った後で目尻の涙を少し拭ってから、また優しくククを撫で始めた。 「……僕はね、正直国自体はどうでもいいんだ。ただ、巻き込まれる下の人達に関してはやり場のない怒りを覚えるけどね。 それでも、……僕は、僕たちが安全なら、幸せならそれでいい。それ以外はどうでもいい。」 「……だから、そうだね。強くなろう。 お互いを守れるように。僕がアジルの少しばかり足りない頭を補う盾になるよ。」 「足りないは余計だろ!? 俺だって、お前のなまっ白い貧弱な身体を仕方なく守る、最強の武器になってやるよ! 感謝しろよな!」 そんな俺の威勢を宥めるかのように、パルははいはい、と適当にあしらうと、ククに「ほったらかしてごめんね」と実をひとつ砕いて食べさせた。 そして、何気に目を向けた窓の先を見てすぐに焦り始めた。 「やばいよ、日が暮れ始めてる! ほら、早くご飯見つけなきゃ! 強くなる前に野垂れ死ぬよ!」 「おお! そうだな! ククも最強の龍になる為に一緒に行くぞ!」 「きゅぅ!!」 落ち始めた陽は、赤く燃えるようで。窓から差しては、外へ飛び出していくまだ幼い二人の影を色濃くそこに時間と共に刻むかのようだった。
「いつか」の夏で。
朝。 敷布団から上体を起こして。 寝ぼけ眼で、頭も冴えきらない俺の目の前に、獅子舞サイズくらいの赤べこがいた。俺とそいつは今見つめ合っている状態だ。 背にある開け放たれた窓からは真夏の生ぬるい風が軽く吹き込み、窓枠にぶら下げられた小学生の頃の俺お手製の、不格好な風鈴をチリン。と一つ鳴らした。 六畳くらいの和室。よく歩くとこだけ傷んだ、けもの道ばりの褪せた畳。プリントが散乱し、シールだらけの汚ったない小学生からの勉強机。ばぁちゃんの部屋だった時からある褪せた焦げ茶のタンス、棚。 こいつの他に異変はないかと部屋を見回してみたが、何も変わらない。 当たり前に俺の部屋だった。 部屋の日当たりはあまり良くはないもんで、俺と赤べこには陽の光で線引きができていた。 「お前、ちょっとしたホラーじゃん……」 改めて向き直り、まじまじと見たそいつは顔や体の一部に影が落ち、ちょっとしたホラーもんみたいになっていた。 俺でも分かるお高そうな赤い漆塗りに、金の模様。 俺には分かる。さてはお前、高いだろ。 そんな俺の予測にそうです。と言うように、窓から差し込む陽を反射した埃が、演出ばりにぬんとしたそいつの巨体と輪郭を浮き出していた。 まぁ不思議と怖くはないんだよなぁ、デカいから威圧感はあるけど。 俺はポリポリと頭とお腹を同時に掻きながらそんなことを思っていた。 顔がなんとも間抜けだからか? うーん、と状況を考える俺に、そいつは一歩踏み出すとゆっくりと近づいてきた。 なんだ? 俺の陣地ともいえる線引きのこちら側。つまりは光ある俺の布団へとそいつは一歩、また一歩と踏み入れてきた。 こうして陽の下に晒されると、いまいち現実味を帯びなかったこいつの鮮やかな赤さや形に急に物体としての質量が与えられ、威圧感で殴られるような気がした。 こんな異様な奴が近づいてきて全くの平常心でいられる訳もなく。 だとしてもそれを悟られてはいけない気がして、俺は徐々にじりじりと体を仰け反らせることでバレないよう距離を取ろうと測った。 徐々に互いの距離が近づきながらも、見つめ合う妙な空気感の中、そいつは徐ろに俺の顔に首を近づけてきては口を開け、 ん?口、、? ……赤べこに口なんてあったか?、? いや、そんなことはどうでもいい、! 俺は目の前に迫るぽっかりとした暗闇に、必死に逃げようとしたが下半身が動かないことに気づいた。 やばい。 「待てまてまて、!!」 く、、食われ!! ……食われた。 それこそほんとに獅子舞みたいに。背を仰け反らせ、両手で赤べこの顔を抑えるだけの抵抗虚しく、俺は頭だけがっぽしと得体の知れない赤べこに食われていた。 俺は赤べこに吐き出させようと、力づくで口をこじ開けようとはしたものの無理なのが分かってすぐにやめた。 状況を受けいれ始めて意識を向けた口の中は、まぁ、暗くて。少し、湿気たような、埃っぽい匂いがした。 音もなく、ただ静か。 なんか分からないけど、無限ってこうゆうことなのかな、とか思った。 ……不本意にも案外嫌いじゃなかった。なんなら、ずっとこのままでもいいような。そんな居心地の良さまで感じていた。 何処か遠く、懐かしい。そんなーー 「ーーーいつかでまってるからーー。」 「え……?」 突如として聞き覚えのある、懐かしい少女の声が頭に響いた。 誰だ、、? 何処からとも知れないその声に触発され、俺の頭は何がなんでも思い出せと言わんばかりに、反射的に動き出していた。 心臓はバクバクと脈を打ち、急に回る血液に身体中が沸騰しそうな程に熱を帯び出した。 俺はその声を知っている気がした。いや、絶対に知っている、! さっき迄の静かさはもはや無く、俺は焦燥に駆られながら、必死に思い出そうともがいていた。ぐるぐると寝起きの頭が冴えていく中で、俺は視界が次第に明るくなっていくことに気づいた。 それと同時に、どうやら赤べこが銜えていた俺の頭から口を離し始めたのだと悟った。 ダメだ!……お前なんだろ?お前があの声の、 「……だめだ、! 待てよ! 待ってくれ!!」 俺は必死に手を伸ばしたが、もう赤べこは俺から数歩下がり、消えかかっていた。 逃してはいけないのに、分かっているのに!! 俺の体はその場から動くことができなかった。俺は唯一動かせる上体だけを前のめりにして、物を欲しがる赤子のように必死に手を伸ばした。 「……消えるなッ!」 ーーガバッと勢いで起こした体の痛みを引き連れて、俺は汗だくになりながら目を覚ました。 「……っはぁ、、」 最悪な目覚めすぎる。悪夢じゃないけど、いや、悪夢か??俺は痛む腰を擦りながら、呆然と先程まで赤べこがいた場所を見つめていた。 すぐに俺が起きるよりも遅れて鳴り出すスマホのアラームに現実へと引き戻され、止めながら俺はまた夢を思い返していた。 妙にリアルだったあの出来事に、俺は漫画のように現実に何か干渉とかないものかと、 誰にバレる訳でもないがそわそわとちょっと恥ずかしさ混じりに期待を込めて、改めて部屋を見回してみた。 が、もちろん変わった所なんてある筈もなく。 結果、ただの夢なんだと思い知った。 ……ああ、赤べこはいた。小さいただの置き物の赤べこが、色褪せた焦げ茶の本棚の上に。 それだけ。 ……それだけなんだよなぁ。 俺は納得いかないままに、真夏の暑さと夢にやられて汗に濡れた後ろ髪を確認すると、そのまま熱を散らすように頭をわしゃわしゃとかいた。 そんな俺の後ろでチリン。と、風鈴が小さく一つ鳴った。何気に意識が向いた窓の外ではブーんと車が通り過ぎる音が聞こえ、キシキシとチャリをこいでいくチェーンの音が流れて行った。 分かりやすく当たり前に。 時間は全てを抱いて走っていく。 ふと、そう思った。 なのに今の俺はその時間についていけない。まるで俺だけがそこから誤って落とされてしまったかのように。そして、その先で虚無に抱き止められたらしい俺は、頭が働かなかった。 程なくして、ドタドタと階段を上る足音が部屋に近づいてきた。 パァンッ!! 「おにぃ!おきぃ!!」 俺の部屋の襖を勢いよく開けたそいつは、俺を捉えるや否や徐々に目を丸くしていった。 「……なんで起きてるん? きもいわぁ、、」 「……お前、絶対俺と血繋がってないと思うわ。」 丸くした目を萎めて、ついには顔を引き攣らせる妹を見て、俺は一気に現実に引き戻された。 「……まぁ、ええわ。ご飯できてるで、食べな」 美咲はそう言うと、短いツインテールを跳ねさせながら、またドタドタと階段を降りていった。 「おかぁ、! あいつ今日起きてた、きもいわぁ!」 「ほーん、めずらしいねぇ。あんたお兄ちゃんにきもいとか言わないの!」 カチャカチャと皿が並べられていく音に混じって、そんな会話が下から聞こえてくるもんで、俺は下に降りるのが嫌んなった。 起きてるだけできもいって、俺は嫌われもんの父親かよ。 ……まぁ、うちは父親いないしな。中二、思春期のあいつにとって俺は唯一な男な訳で、気に食わんのかな? なんて。 俺は姿見の前で制服のシャツに袖を通しながら、自分を納得させようと頑張ったが、無理なもんは無理だった。 思いのほか力が入りすぎたネクタイに首を絞められて咳き込み、結局、苛立ちなんてどうでもよくなり考えるのをやめた。 *** 「ーーおーい、あーじきっ! 安食!!」 「……おー、なんだよ?」 机に頬杖をついて、今朝の夢の声を思い出していた俺は、須藤のでっかい呼び掛けで昼休みの教室へと意識を戻された。 「おい、なんでそんな不機嫌そうなんだよ? ぼーっとしてるし。」 そりゃ、そうだろ。ただでさえ、もう思い出しずらくなってきてるのに。あの声だけが人物特定の頼りなのに。ずっと考えていないと、忘れてしまいそうで不安になんだよ。 とは流石に言えない。 「別に?」 「別にっていう割には、鬱陶しそうな顔してるの気づいてないのな。なんだ? また妹か?」 俺は絡んでくる須藤を鬱陶しそうにちらっと横目に見上げては、また夢を思い出していた。 「……なぁ、「いつか」っていつだ?」 ふと、自分の中で生まれた小さな疑問が声となって漏れ出た。 「んあ? 5日? 来月の事か?火曜じゃね?」 「5日は水曜だよ、須藤くん。」 安食もやっほーと話に入ってきたのは、黒髪清楚美人とかうたわれている花崎ゆめだった。 そんなゆめは大量のノートを抱えており、俺の机へとドンと置いた。 「え、なにこれ?」 「君たちに私の仕事を手伝わせてあげようと思って。」 ぽかんとする俺たちを他所にゆめはにこにこと笑っていた。 「……お前さぁ、また押し付けられたのかよ?」 「ちーがうよ、今回はちゃんと先生から頼まれた」 須藤の呆れながらも心配する声を受けて、ゆめはムッとした顔を見せた。 「……ねぇ、見て。まーた、ゆめが男子引っ掛けてる。しかも、須藤くんだよ笑 自分に自信ありすぎ」 「……男子もほんと気づかないよねぇー、須藤くんは流石に本性気づいてそうだけど」 わざとなのか、なんなのか。抑えるにも、伝えるにも中途半端な声量でゆめを揶揄する女子二人。幼なじみを悪く言われるのは流石に腹が立った。 「いいのかよ? 言われたまんまで」 「いいよ? 私すでに友達いないし。直接何かされる訳でもないし。無敵なり」 「……お前かわいそうなやつだな、、」 俺の問いにそう答えながら小さくピースするゆめはふふん、と強気に笑みを浮かべていた。 「んで? 5日どっか行くの?」 「ああ、いやそうゆう訳ではなく」 ゆめの何かを期待した目には申し訳ないが、夢へと思考を戻された俺は、隠すのもめんどいので二人に今朝見たその内容を伝えた。 「くはっ、お前、かわいいやつだな笑 夢でそんな考えてんのかよ笑」 「……うるさいな、ほんとは言いたくなかったよ」 須藤の馬鹿にしたような吹き出し笑いに、俺の自尊心はひびが入るよりも苛立ちで燃えた。 「まぁまぁ、でも「いつか」かぁ。 いつかって日付の「5日」なのか、不確定な事を示す「何時か」なのかわからんねぇ」 「……不確定な事の方だとしても、何時かで待ってるなんて日本語めちゃくちゃじゃね?」 そうなんだよなぁ。5日だとしても、何時かだとしてもどっちも日本語としてあまりすっきりしない。 たまに鋭いんだよなと思いながら須藤を見ると、こいつは俺の視線に「なんだ?」という顔で耳をほじりだした。 俺は心底こいつがモテる意味が分からなかった。 「まぁ、あんまり考えなさんな安食くんよ たかが夢だよ」 そうゆめが俺の肩をぽんと叩いた。 たかが夢。ほんと結局それに尽きる。ゆめの核心ついた現実的な言葉に俺もそれ以上何も言わなかったし、須藤ももう話に飽きてた。 俺が知りたいのは、内容の意味よりも「声」の方だなんて。適当に話が流れそうな今、夢の話をわざわざ広げようとは思えず、二人には言わなかった。 程なくして、昼休みを終わらせるチャイムが鳴った。 「げー、、次鬼塚だよー、席戻りたくねぇー、」 「戻るもなにも、お前の席は俺の前だろ。」 呆れる俺を他所に、須藤は窓の落下防止の手すりに背をもたれながら、数学にブーブー文句を言っていた。 「おい、須藤! 須藤隼人!! お前、なぁんでまだ立ってんだ?」 「……さーせん、」 教室の扉がガラッと勢いよく空いた、と思った次の瞬間には、須藤が閉められる扉と同じくピシャッと叱られていた。 よく、まぁそんな熱量をもって毎回人を怒れるよなぁ。この柄ネクタイ。 なんて思いながら、小さくなった背中を自席に収める須藤を見ていたら、俺は鬼と不覚にも目が合ってしまった。 「……おい、安食。なんだその大量のノートは?」 「え、」 俺は鬼の顎でくいっと示された自分の机を見て、すぐに自分を落ち着かせようと目を閉じた。 あいつ、やってくれたな。 改めて目を開けた先では、大量のノートがドンと机に鎮座し、お忘れでしたね。と言わんばかりに主張してきた。 無駄にカラフルなのがまた一層苛立ちに拍車をかけるし、目に痛い。 当の犯人はちゃっかり自席に座り、こちらを見ては小さく手を合わせていた。 「……さーせん、」
君を待つ
「つまり?」 「……つまり、なんも意味はないってこと」 そう言うと、お姉さんはいつものように、ふぅっとタバコの煙を陽の落ち始めた海へと流した。 白い拠れたタンクトップに適当な灰色のスラックス、ピンクのサンダル。適当に流してる長い髪。 こんなにもいい加減な見た目なのにも関わらず、日の当たるお姉さんの横顔は僕の目にはとてもキレイに映ってしまう。目元に落ちる長いまつ毛の影も、浮き立つ輪郭も。 ーー遠い目も。 きっと僕なんて届かない所にお姉さんはいるんだ。誰もきっと届かない。 誰も届いてほしくない。 今日もお姉さんはいつものように、防波堤で一人タバコを吹かしながら陽の落ちる海で黄昏ていた。 「じゃあさ、死んだらなんも意味ないものに、なんで人はがんばるの?」 「……知らないよ」 僕の質問に面倒くさくなったのか、お姉さんはちらっとこちらを見て一言そう答えた。 「……あんた最近よく私に絡んでくるけどなんで?」 お姉さんは今度は、心底わからんといった表情と目で僕をしっかり捉えるとそう聞いてきた。 「お姉さんぼっちだから笑」 「おーおー、余計なお世話だわ」 お姉さんはなんだそれ、といった感じでまたふぅっと煙を吐いた。 「……いくつ? 年」 「……あー、中学生! 中1! ……えっと、13、?」 「おー、無理あんぞー ランドセル背負った中坊なんてどこにいんの」 お姉さんは呆れたというように、僕が背に隠したはずだったくたびれた黒いランドセルに目をやるとふっと少し口元を弛めた。 「……もうあと半年くらいで中学生だもん。」 僕はなんか悔しくて、後ろに隠してたランドセルを前に引き寄せると体育座りの足とおしりの間に挟んだ。そして、ぎゅうっと足をクロスしてそれを押し潰した。 「……なんで盛るんだか笑 私にとってはどっちもガキんちょだよ」 そう言うとお姉さんは片腕を支えとするように背中をぐいーっと仰け反らせると、ふぅーっといつもより長めの煙を今度は空へと吐きだした。 そんなお姉さんに僕はむっとした。 一歳の違いは結構でかいんです。全然違うんです。どれくらいかって言われたら、、上手く言えないけど、ほんとに違うのに。 結局何も言い返せないまま、僕の体躯に見合ったようなちっさいプライドが、皮肉な程に自身に己の幼さを自覚させた。 「……お姉さんはいくつなのさ」 僕は膝のお皿に顔を乗せ、ふてぶてしくお姉さんに聞いた。 「ないしょ。」 「え、ずるっ、!」 僕の意表を突かれたという顔にお姉さんは、くくくと堪えるように笑った。 ずるい。答えなくていいなら、僕だって答えなかったのに。 ザァザァと。波が音を立てて時間を攫う。 ……笑っている顔を初めてちゃんと見た気がした。困ったように眉を八の字にして、緩めないように頑張って歪む口元。細く、緩くカーブする目元。 ……なんか、悔しいけど可愛かった。 僕もつられてふふっと笑ってしまった。 「なぁんで、あんたが笑うのさ?」 お姉さんはわからんやつ、といった顔で僕を見た。 「お姉さん好きな人いる?」 「いないよ」 突如、ぶあっと海風が吹いた。風は髪を揺らし、お姉さんの表情を攫っていく。まだまだ明るい日も先程よりかは大分影ってきていた。 「……恋愛相談にはのらんよ? 私そうゆうのわからんから」 短くなるタバコをお姉さんはまだいけるか?と少し確認してからまた吸った。 「……僕ね、お姉さんがすき!」 何故か分からないけど、今しかないと思った。今伝えたいと思ってしまった。突如吹いた風に背中を押されるように、僕は人生初の告白なるものをしてしまった。 僕は答えにどきどきしながら進撃な眼差しでお姉さんを見た。 「おー、? あー、ありがとさん」 結果は、まともに取り合って貰えなかった。 断られるとかよりもあまりにも残念すぎる結末に、僕は失恋というものとは違う、また別の傷を負う事となった。 イエスかノーかの立場にすら立てていない現実に打ちのめされた僕は、魂が抜けたように遠く海を見ることしかできなかった。 「……ガチのやつ?」 「……」 あまりにも僕の姿が悲哀に満ちていたのか。なんなのか。お姉さんが触れていいものかわからないというようにそっと聞いてきた。 僕も答えるに答えずらくて、こくんと頷くことしかできなかった。 「……そうか、なんかごめんよ」 僕はお姉さんに気を遣わせている現状に情けなくて、またもやこくんと頷くことしかできなかった。 「……んー、私24」 「え?」 何を意図しての言葉か分からず戸惑う僕に、お姉さんは「私の歳」と一言そう付け加えた。 「多分ね、あんたと12歳くらい離れてんの。」 「関係ない!」 僕の負けじと噛み付く威勢に、お姉さんは「大ありだわ」と牽制した。 「ごめんけど、ガキんちょとは付き合えんね かっこいい大人になったら考えたげる。」 お姉さんはぽんぽんと僕の背中をなだめるように、短いタバコの先を僕に向けてから、上下に小さく振り揺らした。そしてそのまま、防波堤のコンクリに押付けて火を消した。 「……お姉さんのいう大人ってなに?」 「んー、タバコ吸ってお酒飲める人」 まさに私というように、お姉さんはまた箱からタバコを1本取り出して僕に見せると、火をつけて煙を海へと吹かした。 「じゃあ、僕もそれ吸うし、お酒ものむ。」 「ばぁか、吸うな。飲むな。」 「えー、お姉さんが言ったんじゃんーー」 不服そうに口を尖らせる僕に、お姉さんは改めてあぐらをかき直してから、ん"ん"っとおっさんみたいな咳払いをした。 「『かっこいい』大人って言ったろ? 酒はまぁ、20で飲めばいいけど、コレは絶対吸うな」 そう言いながらお姉さんは、口元からタバコを僕の目の前に持ってきて「吸うなよ」と強調すると、また咥え直して一吸いした。 ほんとにいい加減な「大人」なんだから。 僕はそんなお姉さんに呆れると共に、なびくタバコの匂いにくすぐられ、やっぱり好きを再認識してしまう。 「つまり、お姉さんと真逆な人になればいいって事ね。了解した」 「……あんた、友達いないから私に絡んでくるって訳ね。こいつめ」 にやにやしながらおちょくる僕に、お姉さんは小憎たらしいやつ、といった具合で僕の肩をコツンと小突いた。 風は穏やかだった。陽は大分沈んで、座る僕たちの影は次第に形を失いつつあった。 何もが静かだった。 「……明日もまた来ていい?」 「……すまんね、私明日からはもういないの。」 僕の問いにお姉さんは少し躊躇ってから答えた。 「……なんで? 僕が好きって言ったから?」 咄嗟に過ぎった考えに、聞いてはいけないと思いつつも聞いてしまった。返事がこわくて、僕は海を見つめ続けた。だって、これで「そうだよ」、とか例えそうじゃないにしても、変に気を遣われたら…… 僕としてはとても、とても…… 「違うよ。」 「え、じゃあ……なんで?」 僕のうじうじと、不安を孕んだミミズの這うような思考は、お姉さんの否定で爆発した。 僕が咄嗟に見てしまったお姉さんの顔は、さみしそうだった。 「……遠くへ行くの。」 「どれくらい?」 「んー、さあね。どれくらいなんだろ。」 どうゆう事だ? なんで自分のことなのに把握していないんだろう。まさか、 「……お姉さん、死なないよね?」 僕の問いにお姉さんは目を丸くしてから、ぷはっと吹き出した。 「んっははは、! 死なないよ」 「……だって! お姉さん、いつも一人だし、! ……時々、さみしそうだから、、」 僕は心配と拭いきれない不安を隠すように、声を張り上げては尻すぼみしてしまった。 ……だって、だってやっぱりお姉さんの顔が途中から物悲しそうだったから。 お姉さんは、「ありがとう。」と一言僕に言うと、ぽんと僕の頭に手を置いた。 「……少年さぁ、名前は?」 「……たいち」 ほお、いい名前だねぇ、とか言いながらお姉さんはタバコをまた消し始めた。 「……たいちさぁ、これあげる」 そうお姉さんのポケットから渡されたのは、綺麗で、小さな青い石のペンダントだった。 僕はそれを両手で受け取るとまじまじと吸い込まれるように見つめた。 ガラス玉のような不規則な丸み。まるで、海を閉じ込めたような。綺麗な深くも澄んだ青。 「……なにこれ?」 「幸せになれるお守り。」 ふーん、そうなのか。 お前にほんとにそんな効力あるのか? と、僕は持ち主のお姉さんをちらっと見て考えてしまう。 「さぁて、よいしょっと! 帰りますかねぇ」 お姉さんはそんな怪訝そうな僕の顔に気づいたのか。徐ろに立ち上がりパンパンとお尻の埃を払うと、ついでに手の埃も払うように打ち鳴らして帰ろうとし始めた。 僕もそれを見て慌てて立ち上がった。 「お姉さん、また来る?」 「んー、またいつかね。もしかしたらね。」 お姉さんは腰に手を当て、ぐいーっと仰け反って答えた。 「……じゃあ、僕これ持って毎日ここに来るね!」 そう言いながら僕はペンダントをお姉さんに見せて、強い気持ちを伝えた。 「おー、わかった。いつまで続くかねぇ笑」 「ずっと! 約束!」 そんな甘い意思じゃないと分かって貰う為にも、僕はお姉さんの小指を無理やり自分の小指と絡ませて指切りをした。 「……じゃあね! またね!」 「んー」 僕は思いっきり手を振って、なにか言われるよりも先にと、足早にお姉さんに別れを告げて駆け出した。数歩離れた先で軽く振り返って、見たお姉さんの顔は優しく微笑んでいた。 陽は落ちて、気づけば灯る街灯に僕の影が先程よりも濃く地面に浮き出ていた。 徐々に遠のく波の音は、そこにあった僕たちの時間を優しく包んで引いていくようで。 待っている。とそう言われている気がした。
商品は「幸せ」です。
「ーーこんばんは。今日もどこかで生きる貴方へ。この声は届いていますか?」 雨。 夜。 人。人。ひと。ヒト。 ーー僕。 ザァザァと絶え間なく。 一頻りに雨が降り続けるスクランブル交差点では大小、色様々な傘達が道を横行していた。 信号待ちの車のヘッドライト。日常を放映する大型ビジョン。高々と掲げられた数々の電光掲示板。歩く音、話す声。 音と光で構成された全ては、雨や水溜まりに反射して光線銃のように僕を乱射した。 「ーー日常に満足されていますか?」 街の喧騒から身を守るようにボリュームを上げたヘッドホンからはラジオ番組がそう問いかけてきた。 「きっと今日も忙しない一日を過ごされたのだろうと思います。勿論、そうでない方もいらっしゃるかとも思います。」 周りの人たちは、みんな忙しそうに。目的を持って、迷うことなく歩みを進めている。こんなにも沢山道があるのに。この道が自分の歩かなければいけない道だと理解しているんだ。 19時半近くだからか。仕事終わりのサラリーマンやOLも多いように思われる。みんな比較的に早足で進んでいく。 ……僕は、どこに向かおうとしていたんだ? ふと、街ゆく人たちを見ながらそう考えてしまった。 それがいけなかった。 僕はそのまま、足が石になったかのように交差点の中央で立ち往生してしまった。 分からなくなった。家出しておいて、何を言っているんだとも思う。 帰るべきだよな、? いや、逃げるべきだ、。 ……どこへ?? 街ゆく人たちは傘も持たずに、立ち尽くす僕にぶつかる度に怪訝そうな顔や舌打ちをして消えていく。 「ーーな貴方へ、まずはこの一曲をお届けしますーー」 ♪♪〜 どうにも進むことが出来ない中で、うろうろと泳ぐ目だけが必死に僕を生かす道を探していた。 パァァっ! パッパっ!! 車のクラクションに、道に目を向けていた僕の目は反射で歩行者信号を映した。信号は青から赤に変わっていた。 まずい。 駆け足で渡りきる人たちももう少なかった。 やばい、ーー動けよ、、! 「おい!! 邪魔だ!!!」 「何してんのあいつ、どけって!!」 ざわざわと車や歩道から飛び交う僕への罵声。 スマホで撮り始める人たちも多くいた。 ヘッドホンから流れる音楽なんて、もう無意味だった。 ブゥン!! おい、嘘だろ、、待ってくれよ……! 余程腹が立ったのか。一台の車がアクセルを吹かしたかと思えばこちら目掛けて発進してきたではないか。 もう死ぬのか、と目を瞑ったその時だった。 自分の体が浮いて、地面に打ち付けられた。かと思った次の瞬間には、知らない少女に無理やり立たされた挙句に、強く手を引かれていた。 そのまま、僕も飛びそうになるヘッドホンを頭から外しつつ首元で抑えながら懸命に走っていた。 「あんた、バカじゃないの!? そんなに死にたいなら他所で死になよ!」 交差点を渡りきってすぐに怒号が飛んだ。 周りの視線が自然と集まっては関わるな、というように分かりやすくすぐに散っていく。 「……え、っと、」 「人に迷惑かけて死ぬな!」 そうポニーテールの少女は睨みながら僕へ言い放つと、ふっと表情を緩めた。 「……死のうとした訳じゃ、ないです、、」 「いいよ。むりしなくて。」 「……あ、いや、ほんとうに、、」 先程までの少女の勢いに気圧されたのと、この子がいなければ死んでたかもしれないという事実に今更心臓がバクバクと脈打った。 手も震えるし、声も震えた。 その様子から何か勘違いしたのか、それとも「死のうとはしてない」という僕の真意を正しく汲み取ったのか。 少女は徐ろに僕を人の少ない路地の方へと連れて行った。 「少しここで待ってて」 そう言って少女は僕を路地に一人、姿を消すと5分足らずで戻ってきた。 「これあげる」 そう、ずいっと渡されたのはコンビニの袋に入った1本のペットボトルだった。 「……お茶? ありがとう、いいの?」 僕は少女の返事を待たずにもうぐびぐびと必死にお茶を飲み出していた。今まで飲んできたお茶の中で一番美味しかったと思う。 すぐに緊張が解れていくのを飲みながら感じた。何も食べていなかったからか。食道を質量が通過して胃に溜まっていく、あの妙に気持ち悪い感覚に伴って身震いが起きた。 「……ほんとにありがとう。その、助けてくれたりとかも、、」 お茶のキャップを閉めながら、僕はもじもじと感謝を述べた。そして、そっと伺うように顔を上げた先の少女は、呆れた。というように整った眉は上がり、口元は少し開いていた。 「……呆れた。まぁ、満たされたならいいよ で? なんで死のうとしたの?」 「……あ、だから死のうとした訳じゃなくて」 「はぁ、? じゃあなんであんなバカな行動したの? 私が君を押し倒して走らせなかったら死んでたよ?」 少女は訝しげに僕を見て腕組みをすると、こてんと頭を横に傾けた。 「自分でもよく分からなくて、。」 正直これは本当だった。訳も分からずどうにも動けなかった。 「……家出しちゃって、、」 「ほう。」 僕の答えに納得いかないという顔をする少女をどうにかしようと、僕は話をずらした。 「つまり、幸せになりたくて家を出たの?」 「……? うーん、まぁ。 そうなるかな?」 少女の質問にそうではあるけど、それで纏められないような違和感を持ちつつも、あながち間違いではないので僕は頷いた。 「『幸せ』買う?」 「 ……??、うん?」 ニヤッとした少女は僕によく分からない提案をしてきた。 幸せを「買う」ってどうゆうことだ、? 疲弊してる頭ではどうにも追いつけない。 「売ってあげる。『幸せ』。買うの? 買わないの?」 「……待ってよ、意味がわからないんだけども」 「買わないなら、いいよ。元気でね」 少女はもう興味ないです。というように、くるっと後ろを向くとその場を立ち去ろうとし始めた。 「……か、買うよ!」 そんな少女に、金額も聞かないまま僕は愚かにも謎の「概念」という買い物をしてしまった。 まじで、何をやっているんだろうと自分でも思っている。 新手の宗教か何かか、、? ……なんてもう考えたって遅いんだけども。 「まいどありぃ〜」 かかったな、と言うように僕の「買う」という返事に、にこやかに振り返ると少女は手を差し伸べてきた。 「握手。 ほら」 にこっと笑う少女に言われるがままにしてしまった握手。 これが恐らく僕の人生で最大の買い物となってしまうとはこの時は思いもしなかった。 雨は止むことを知らず。 少年のヘッドホンからは「貴方の幸せを願っています」というラジオ放送の終わりを告げるナレーションが静かに流れた。
記憶の日記
暑っちぃ。 じりじりと照る日に、ミシミシだかミンミンだか鳴き喚く田舎特有の蝉の声。広い道にも関わらず、チリンとわざわざ一鈴鳴らして俺たちの脇を邪魔そうに走っていく一台の自転車。 何時もなら許容できる範囲の全てが、この暑さに限ってはその熱に拍車をかける。 下校途中にコンビニで買った100円にも満たないこのアイスがなければ、俺という一切は形を成せずにもう溶けていただろう。 気温31度。俺は唯一の友と呼べる田崎とアイスを口に運びながら、この猛暑の中で坂道を下っていた。 「……お前さぁ、幸せ?」 「あ?」 ポトッ。 「「あ。」」 落ちた。 俺の100円、いや43円分くらいの「幸せ」が。目の前で。 「……いや?」 俺は手元に残るハズレの棒を見たまま、呆然とそう答えていた。 「ぶっは、! お前、ついてねーのな笑 どんまいだわー笑」 そう言いながら田崎は、「俺は落ちる前に食ってやる!」とこれ見よがしに一口で残り半分くらいを食い上げた。 腹立つやつだ。 ただでさえ、水分を失ってしなびた植物みたいだった俺の背中は更にしなっていった。 「くーーー、、あったま来てるわ!キンキン!」 「そうかよ。よかったな。」 俺はちょっとぶっきらぼうに返した。 「……キレんなよー、悪かったって笑」 「……幸せか、って。なんで?」 俺たちは歩みを止めたままに、一瞬沈黙が生まれた。妙に気まずくて。何気に目を向けた先の落ちたアイスは俺に施していた「幸せ」を今度は懸命に路へと与え始めていた。 「んー、なんというか、お前がちゃんといない気がした!」 田崎は食べ終わったアイスの棒を口から取り出し、指先でくるくると遊ばせながらそう言った。 「……おー、?」 俺はというと、言われたことがいまいち理解できず、困惑していた。 「……例えば?」 理解しようと捻り出した俺の問に、田崎は棒で遊ぶのをぴたっと止め、「んー、」と真剣な面持ちで考え始めた。 「……お前はさぁ、好きなこととかやりたいもんないの?」 「ない。」 「好きな人とか!」 「いない。」 「んじゃぁ、好きな……」 「ないよ。」 全部ない。何もない。 質問に食い気味で「ない」とだけ答える俺に、田崎は一瞬戸惑った顔をしつつも、これが俺がさっきの質問をした理由だと言わんばかりに困り笑いを浮かべていた。 顕になった空っぽな自分。確かに自分はつまらない人間だと思う。でも、別にそれで苦しんだことはない。不幸せだと思ったこともない。代わり映えしない日常を、毎日繰り返して眠りにつく。変わらない明日が来る。 「……なんつーかさぁ、お前、つまんなくねぇの?」 「……別に? 俺は満足してる。」 変化、刺激を求める事はその先を考えれない人間がする事だと俺は考えてしまう。趣味だって、恋愛だって。変化、刺激を求める行為の延長線上にある。 結局、その先に一体何が残るっていうんだ? 「おー、そうか。 じゃあ、さっきからキツく握ってるその拳なに?」 「え?」 田崎はそう言うと後ろ髪を掻きながら、アイスの棒で俺の握る拳を指してきた。 俺も瞬時に自分の手元に目が落ちた。全くもって、自覚がなかった。 なんの拳か自分でも分からず、戸惑いながら田崎に目をやるとあいつはニヤニヤしていた。 「お前、俺にとってはおもろい奴なんだよなぁ笑」 意味が分からない。 なんか、いいように転がされた気がしてイラッとくるな。 「うるさいぞ。 田崎のくせに、生き方に説教か?」 でも、さっきまでの緊張してた空気がふわっと溶けた気がした。 落としたアイスはもう跡形もなくなり、染みた跡さえほぼ残っていなかった。 「お前のせいでロスだ。 早く帰るぞ」 「なんだよー笑 友を心配する優しい青年に対してひでぇ奴だわ」 時間は有限で。真夏の日はまだ傾くには早いけれど、気温は先程よりかは下がっているだろうというのを肌で感じた。 *** 「じゃあなー、寄野」 「おー、じゃあな」 ーーカサッ。 「?」 「……なんだ? 紙飛行機?」 それは田崎と別れて少し歩いての事だった。目の前に紙飛行機が落ちてきたのだ。一体どこから?周りには建物というものも一切ない。 ーー7月14日。晴れ。 めっちゃ暑い。やばい。これは溶ける。今日から日記をつけていきます! 近所に美味しいアイスクリーム屋さんができたらしい。行く。バニラとチョコミントで迷って、どっちも食べてしまった。背徳〜! 「……んだ、これ?」 何気に開いた紙飛行機の中身は誰かの「今日」の日記だった。 こんなの飛ばすなよ、、こいつ黒歴史確定だろ 呪物は見なかった事にしよう、と改めて折り直して道に置こうと屈んだときだった。胸ポケットに入れていたアイスの棒が落ちた。 ……やけに物が落ちる日だな。 なんて、そう思いながら拾い上げたアイスの棒は「アタリ」だった。ハズレていたと思っていたのにこれにはちょっとニヤけてしまった。 そういえばさっきは、手に持っていた面しか見てはいなかった。 何気にラッキーだな。 俺は拾い上げた棒とは別に、置こうと手に持っていた紙飛行機を改めて見た。 そんで、リュックの中にそれを静かにしまった。 なんとなく。持ち帰ってもいいかと思ってしまったんだ。
贖罪と逃避行
「おい!止まりなさい!」 若い警官と中年の警官が声を荒らげて追いかけてくる。男性の太く響く声の迫力を背中で感じながら、俺は振り返ってはいけないと再認識した。 ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、、! そう、ただひたすらにぶつぶつと小さく呪文のように口元で唱えながら俺は夜の街中を走り続けていた。 人を飛ばし、ネオンの看板にぶつかってよろけて、体の部位は集中させれば全て痛い気がした。それでも止まることのできない理由があった。 俺には償わなければいけない罪がある。 ……償うことのできない罪がある。 ぼわっと水彩の絵の具を溶かしたかのような過去の残影が頭の中で展開されては形を成せずに流れ落ちていく。足りない酸素と回りきらない思考で肺の中はぐちゃぐちゃだ。今はとにかく走らなければ。何も考えるな。あと少しで道が開ける、! 「ごめんなさい……!」 はっきりと言葉にして発した声と同時に、ひらけた道へ俺は大きく一歩足を踏み込んだ。 「市川!! こっちだ、はやくこい!!!」 駆け抜けきってすぐのその声に俺はやっと顔をあげた。ほんの少し遠く、目の先には汚れた白い軽トラが一つと、その運転席の窓から見慣れた先輩が中から身を乗り出しては目を見開き、大きく手を子招いていた。 こんな状況なのにその光景に思わず俺の目も光を取り込むように開いていき、口元に笑みがともってしまう。 止まるな……!あとすこ、、 ーーチリン。 安心を覚えると同時に懐かしい、いつかの鈴の音が俺の耳を微かに触った。逸る足に急ブレーキがかかり俺は咄嗟に後ろを振り返ってしまった。 「ばっか野郎!! 何してんだ! 早くこい!」 あんなにも安心を覚えていた稲田さんの声はフィルターがかかったかのように何故か遠い。もう俺はうろうろと顔を振り、必死に鈴の音を探してしまっていた。 確かに聞こえたんだ……! あの夏のーー、 「おい! 市川!! 聞いてんのか?!ぶち殺すぞ!」 「……先輩! 鈴の音が! 今! あの鈴の、、」 「うるせぇ! 目覚ませ! ほら、来てんぞ! 早く走れクソ市川! 置いてくぞ!? 」 俺の言葉を遮って怒鳴る稲田さんの声に俺はハッと現状に引き戻された。音を取り戻していく耳と、嫌にまた冴えていく頭は俺の体を勝手にまた走らせていた。ほぼ歩くスピードに等しかった小走りに力が戻る。 追っ手の手が俺にほぼ届くその瞬間、俺は何かを考えるよりも先に、助手席のドアを開けて無理やり身を押し込ませた。稲田さんもすぐさま、乗り込む俺の腕を掴み、思いっきり中へと引き上げ入れた。 「いてっ、!、」 どうやら乗る時にドアの角で横腹を掠った上に、足を捻ったらしい。 「大丈夫か? いや、いくぞ!」 すぐさま車を発車させつつ、俺を軽く気にしてかけた稲田さんの言葉は宙に浮いて消えた。 なんていったって余裕がない。結局のところ俺もそんなのどうでもよかった。 そんなことよりも警官らと距離ができていくほどに稲田さんに対しての申し訳なさが押し寄せてくることの方がきつかった。 「先輩、……ごめん。」 謝ったその瞬間顔をグーで殴られた。 痛い。口の中は血の味がたしかに広がっていく。俺は殴られたまま停止し、すぐには顔を稲田さんへと戻せなかった。 「……いたいか?」 「……ごめんなさい。」 「なんで痛いか分かるか?……今逃げきれてるからだ!! この野郎が!」 やりすぎたと思ったのか。稲田さんは俺を軽くちらっと横目で見るとすぐ前へと目を戻した。 「……鈴は、ーーもう忘れろよ」 「……っ、、! でも!! たしかにきこえ、! ……たんです、」 どうゆう意味で言ったのか。 「忘れろ」という俺にとっては酷なその言葉を。 俺は先輩の言葉に被せるように「あれはそうだった」と必死に弁明しようとした。 ……できなかった。 ここで噛み付いてどうするんだ。 記憶にあるのは小さい鈴だぞ?あんな町中で切羽詰まった状況で聞こえるか? 「そうか。」 そう、ただ一言。稲田さんは熱のこもらない空っぽな言葉をはいて、一先ず逃げ切れた安心からか、徐々に速度をゆるめていった。 先を捉える目は遠く、それは何処までも行きようのない乾いた薄い目だった。 ただ、「逃げたい」と。意気投合してしまった俺たちは本当に今日を決行してしまった。行くあてなんてのはない。 静かになった車内ーー。 回るエンジンの音と二人の呼吸音。 夜は深まるばかりだった。
余情カフカ
「ねぇ、何見てるの?」 「ーーうん?百足だよ」 大きな木の下しゃがみこむ僕の後ろから、覗き込んだ女の子が小さく「ひっ、」と息を呑んだ。 「気持ち悪いよ、変だよ!」 「そうかな?」 「うん 、変!」 振り返らず、ただ空返事をするだけの僕の背中へ女の子はそういい捨てると足早にたたっとどこかへ走っていった。 刺す日から退けられた影の下、少年とそれは二人っきりになった。 「こんにちは、ーーぼく。」 うぞうぞと無駄に多い足を邪魔そうに、身体をよじらす「それ」にふと口をついて出た言葉。 人が重力に抗えないように。それが当たり前であるように。 妙にストンと「僕という存在」が自分の中で落ちた気がした。 それと同時にざわざわと鼓動も高鳴り始めた。変に心地よくて、それでいて静かで。周囲の音だけを残したすべての時が一瞬止まる。 程なくして、額からの汗が屈む足元へと落ちて地面を染めると共に、自分の中で再び時間がゆっくりと動き出すのを実感した。 ワシャワシャ、ジリジリとただひたすらに鳴き喚く煩い蝉の音が、まだ幼い少年の背にたしかに夏を刻んでいった。 *** 「おかあーさーん、、! はやく、こっちきてー! 気持ち悪い虫いたのっ! 」 「はいはいー、ひっぱらないのー暑いんだから」 ぐいぐいと母親の服の端をひっぱり、歩いていく少女がいた。パタパタと手で顔を仰ぎながらゆったりと引かれ歩く母親のその態度に、その子は眉を寄せ急き立てた。 なぜ、わかってくれないのか。 早くしないと「あれ」がいなくなっちゃうかもしれないのに。そんな焦る気持ちと想像できる母親の反応への好奇心とが入り乱れ、少女の足はやっぱり早くなる。埒が明かないと少女は母親の服を離し、一足先に木の元へと小走りで駆け寄っていった。 徐々に近づいていくあの木の下にさっきの男の子はもういなかった。まぁ、それは別に重要じゃなくて。問題は、 「あれ、? いやぁあーー、!!、?、、」 「なに!? どうしたの!……なにこれ、」 少女の尋常じゃない声に急いで駆けつけた母親も「それ」を目にして咄嗟に息をのんだ。 私が見せたかったあの虫はたしかにそこに「半分」でいた。