なつめ
10 件の小説こはる日和
第一章 泣けない仕事 人は、七日あれば十分だと思う。 やり残した言葉を伝えるには。 触れられなかった手に、もう一度触れるには。 さよならを、ちゃんと終わらせるには。 七日で足りる。 足りるはずだ。 透は、白い封筒を机の上に置いた。 差出人も消印もない。 ただ一行だけ、整った文字で書かれている。 《復活申請 承認済》 依頼者名:佐伯 真琴 対象者:佐伯 真琴 死亡理由:交通事故 享年:十七歳 窓の外では、夕方の光がビルの隙間をすり抜けている。 この街のどこかで、また誰かが泣いている時間だ。 透は立ち上がる。 感情は、仕事の邪魔になる。 そう教えられた。 病室は静かだった。 白いカーテン。 消毒液の匂い。 規則正しい電子音。 ベッドの上で、少女は眠っている。 事故から三日。 脳死判定。 家族は、まだ現実を受け入れられずにいる。 透は枕元に立つ。 「佐伯真琴。七日間だけ、戻れる」 まぶたが微かに震えた。 ゆっくりと、目が開く。 「……ここ、どこ?」 「病院だ。君は、一度死んだ」 少女は数秒沈黙したあと、天井を見つめる。 「……そっか」 叫ばず、取り乱さず。 ただ、小さく息を吐く。 そういう人間は多い。 「七日間だけ、生き返れる」 「どうして?」 「ルールだ」 「代わりに、何か失うの?」 透は少し視線を落とす。 「……家族は、君との思い出を失う」 空気が止まった。 「全部?」 「ああ」 少女は笑った。 泣きそうな、でも穏やかな笑顔。 「それなら……ちゃんと、さよなら言えるね」 胸の奥が、わずかに軋む。 でも、それが何なのか、透には分からない。 母親が病室に入ってきた。 「……真琴?」 震える声。 「お母さん」 七日間の奇跡が、静かに始まる。 三秒後、思い出は消え、また日常が戻る。 透は廊下を歩く。 次の依頼。 次の七日間。 胸の奥の痛みは、まだ癒えない。 第1章 終
春に届かない春
電話が鳴ったのは、三月の終わりだった。 窓の外では、早咲きの桜が風に揺れていた。 その揺れと同じくらい、曖昧な予感が胸の奥にあった。 知らない番号だった。 出なければよかったと、今も思う。 「……○○病院です。佐藤さんのことで」 彼女の名前を聞いた瞬間、時間が止まった。 「本日未明、永眠されました」 言葉が遠い。 水の底から聞いているみたいだった。 死因は癌です、と続いた。 僕は、何も知らなかった。 通話が切れたあとも、耳に携帯を当てたまま動けなかった。 世界は何も変わらない顔で続いているのに、僕の中だけが崩れ落ちていく。 癌? いつから? どうして? どうして、僕に言わなかった? ⸻ 二 彼女は、よく「大丈夫」と言う人だった。 少し痩せたときも、笑っていた。 「最近忙しくて」と、軽く言った。 食事の量が減っても、 「胃が弱ってるだけ」と流した。 会う回数が減ったのも、 「仕事が立て込んでる」と説明した。 僕はそれを受け入れた。 受け入れたというより、安心したかった。 もしそこで踏み込んでいたら、何かに気づけたのだろうか。 それとも、やはり彼女は笑って隠したのだろうか。 思い出すと、小さな違和感はいくつもあった。 抱きしめたとき、骨が浮き出ているように感じたこと。 長袖を脱がなかったこと。 帰り際、少しだけ息が荒かったこと。 それでも僕は、深く考えなかった。 考えたくなかったのかもしれない。 ⸻ 三 葬儀は、静かだった。 白い花に囲まれた彼女は、眠っているみたいだった。 頬は少し痩せていて、それでも穏やかな顔をしていた。 棺に花を入れるとき、手が震えた。 触れた指先は、冷たかった。 現実は、あまりに静かだ。 彼女の母親が、僕に頭を下げた。 「あの子が、言わないでほしいと……」 胸が裂ける音がした。 「あなたにだけは、最後まで普通でいたいと」 どうして。 どうして僕だけを外したのか。 怒りが込み上げる。 同時に、自分の無力さが喉を塞ぐ。 僕は、彼女の何を見ていたのだろう。 ⸻ 四 遺品整理の日、彼女の部屋は整っていた。 白いカーテン。 小さな観葉植物。 読みかけの小説が、栞を挟んだまま机の上に置かれている。 生活の匂いが、まだそこにあった。 机の一番下の引き出し。 奥に、小さな箱。 写真と、封筒。 僕の名前。 彼女の字だった。 開ける前から、涙が落ちた。 ⸻ 五 「ごめんね。最後まで言えなかった。」 文字は少し震えていた。 彼女は一年前、癌と診断されていた。 手術と抗がん剤治療。 髪が抜けること。 吐き気と、眠れない夜。 「あなたに知られたら、きっと優しくするでしょう。 その優しさが、怖かった。」 息が止まる。 「あなたの前では、普通でいたかった。 弱っていく私を、覚えてほしくなかった。」 違う。 僕は全部受け止めたかった。 泣く姿も、怒る姿も、怖がる姿も。 「あなたといる時間は、病気を忘れられる時間でした。」 ページが滲む。 僕は、彼女の逃げ場所だったのか。 それとも、彼女の最後の光だったのか。 「もし私がいなくなっても、あなたは生きてください。」 そんな簡単に言うな。 どうやって。 ⸻ 六 家に帰ってから、何もできなかった。 部屋の中に、彼女の声が残っている気がした。 「大丈夫」 その言葉が、今は刃物みたいだ。 大丈夫じゃなかったのに。 どうして、僕は気づけなかったのか。 最後に会った日のことを思い出す。 彼女は少し息切れしていた。 それでも笑って、桜を見に行こうと言った。 あのとき、どうして抱きしめなかったのか。 どうしてもっと強く、何かを感じ取れなかったのか。 もし時間を戻せるなら。 そんなことばかり考えてしまう。 ⸻ 七 四十九日を過ぎたころ、桜が満開になった。 彼女と約束していた場所へ、一人で行った。 風が吹くたび、花びらが舞う。 隣に、彼女はいない。 手紙の最後の一文を、何度も思い出す。 「愛しています。」 その言葉だけが、胸に残る。 愛していたのに、どうして一人で戦ったのか。 僕は空を見上げる。 泣きたくないのに、涙が落ちる。 周りには、笑っている人たちがいる。 世界は、何事もなかったように春を続けている。 彼女のいない春。 その現実だけが、確かだった。 ⸻ 八 夜になると、手紙を読み返す。 紙はもう皺だらけだ。 彼女の字を指でなぞる。 ここに、確かに彼女はいた。 それなのに、もう触れられない。 電話をかけても、出ない。 メッセージを送っても、既読はつかない。 存在が、世界から切り取られてしまったみたいだ。 僕の知らない場所で、彼女は痛みと戦っていた。 僕の知らない夜に、泣いていたのだろうか。 そのとき僕は、何をしていたのだろう。 笑っていたのかもしれない。 眠っていたのかもしれない。 それが、どうしようもなく苦しい。 ⸻ 九 春が終わっても、悲しみは終わらない。 時間は進むのに、僕の心だけが取り残される。 彼女は僕を守ったつもりなのだろう。 でも、その優しさは残酷だ。 知りたかった。 一緒に苦しみたかった。 一緒に泣きたかった。 それでも。 彼女は最後まで、僕の前で笑っていた。 その笑顔は、本物だった。 だから余計に、痛い。 ⸻ 桜の花びらが、足元に積もっていく。 踏み出すたび、かすかな音がする。 その音だけが、僕がまだ生きている証みたいだった。 彼女のいない未来が、続いていく。 どれだけ拒んでも、止まらない。 空は、残酷なくらい青い。 僕は、立ち尽くしたまま思う。 もしあのとき、すべてを知っていたら。 それでも、結末は同じだったのだろうか。 答えは、もう届かない。 ただ一つ確かなのは、 彼女が命を削りながら守った「普通の日々」の中で、 僕は確かに、愛されていたということ。 その事実だけが、 春の光の中で、静かに胸を締めつけ続けている。
時を渡るカフェ
雨粒が傘の上で弾ける音が、放課後の静かな商店街に響いた。 佐藤康之助はその音を、まるで遠くの別世界のリズムのように感じながら歩いていた。今日は何もやる気が起きず、授業中もノートに文字を殴り書きしただけで、心はどこか空虚だった。 「なんで、こんな気分になるんだろう……」 人々の笑い声や、車の走る音が、いつもより遠くに聞こえる。そんなとき、細い路地の奥に小さな看板が目に入った。白くかすれた文字で「カフェ・アマランス」とだけ書かれている。 「こんな店、前からあったかな……?」 好奇心と、言葉にできない胸のざわめきに押され、康之助は自然と足を向けた。ドアに手をかけると、微かに冷たい雨の空気が混ざる店内の香りが鼻をくすぐった。ベルが小さく鳴り、木の床に音が反響する。 店内は、外の雨の音が嘘のように静かだった。木製のテーブルと椅子、壁には年代物の絵画が並び、奥にはゆったりと時を刻む古い柱時計。窓際のランプの柔らかい光が、濡れた外とは異なる世界を作っていた。 カウンターの奥に立つのは、白髪交じりの老紳士。目が合うと、温かくも少し神秘的な微笑を向けてきた。 「いらっしゃい。お名前は?」 声の響きに、康之助の胸の奥がぎゅっとなった。どこか懐かしく、安心する声――思わず息をのむ。 「え、あ……佐藤です」 老紳士は静かに頷き、指先で店内を軽く示した。 「こちらは、少し特別な場所だよ。望むなら、過去に戻ることもできる――一度だけだが」 康之助は目を丸くした。 「……過去に戻る、って……本当に?」 「本当だよ。だが、君自身の心に覚悟が必要だ」 その瞬間、脳裏に幼馴染の千夏の顔が浮かんだ。 あの日、彼女が転んで手首を痛めた時、もっと早く助けてやれたら……。心の奥でずっと痛んでいた後悔。 「……助けたい」 小さく呟くと、康之助の心は決まった。 老紳士は優しく微笑み、紙を手渡す。そこには、過去に戻る日時を指定できる、と記されていた。 康之助はペンを取り、深呼吸をする。 「……この日、この時間に」 紙に書き込む手が震えた。 すると、店内の空気が揺れ、光が歪み、世界がゆっくりと溶けていった―― 雨音のない世界。 康之助は視界に、あの日の小道を見つけた。 風に揺れる木の葉、遠くに見える千夏の笑い声――全てが、記憶と同じなのにどこか違うように感じられる。 「千夏……」 息を詰めて呼ぶが、時間は待ってはくれない。千夏は段差の方へ軽やかに駆けていく。彼女のスカートが揺れ、髪が風に舞う――あの日、彼女が転んだ瞬間が、もうすぐ訪れるのだ。 康之助の心臓は、痛いほど速く打つ。 「間に合え……!」 全力で走る足。地面の感触、空気の冷たさ、心の奥でうずく後悔が全身を押す。 千夏がつまずき、手をつこうとしたその瞬間――康之助は腕を伸ばした。 時間がスローモーションのように感じられる。手が届くか、届かないか、指先の感覚が全ての世界を決めるかのように緊張した。 「だ、大丈夫……!」 その声と共に、康之助の腕が千夏の身体を包み込む。 「……え?」千夏の驚いた声。彼女の瞳に映るのは、助けに駆けつけた康之助の顔。 二人の呼吸が重なり、世界が一瞬止まったように感じられた。 胸の奥がぎゅっと痛む。助けた喜びと、過去を変えたことの切なさが交錯する――。 「ごめん……あの時、助けてやれなくて」 康之助は涙をこらえきれず、肩を震わせながら言った。 千夏は少し戸惑った顔をしたあと、微笑む。 「もう大丈夫だよ、康之助……ありがとう」 抱きしめた温もりが、時間の境界を越えて胸に残る。 しかし、帰る時間は容赦なく迫っていた。 「……行かなくちゃ」 後ろ髪を引かれる思いで、康之助は千夏の背中をそっと押す。 「忘れない……絶対に」 千夏は小さくうなずき、笑顔を見せた。 その瞬間、光が揺れ、空気が震え、世界は再び店内へと戻った。 雨上がりの街は、光と影が入り混じった不思議な雰囲気だった。 濡れたアスファルトに映る街灯の光は、まるで小さな星々のようにきらめいている。 康之助は、胸に残る千夏の温もりをそっと確かめながら、ゆっくりと歩いた。 「――助けられたんだ、俺……」 そう呟くと、心の奥にあった重苦しい後悔が、少しだけ溶けるように消えた。 翌日、学校に着くと、世界はわずかに変わっていた。 廊下で千夏とすれ違ったとき、彼女の表情には、以前より柔らかさと安堵の色が混ざっていた。 「おはよう、康之助」 その一言に、胸がぎゅっと締めつけられる。 過去を変えた奇跡――小さくても確かに届いたのだ、と実感する瞬間だった。 放課後、二人はいつもの公園で向かい合った。 沈む夕日に包まれたベンチに腰かけ、康之助は勇気を振り絞って口を開いた。 「……あの日、助けたんだ」 千夏は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑む。 「うん……ありがとう、康之助」 その笑顔に、康之助の胸の奥にあった痛みと重さが、静かに溶けていく。 助けることで世界を少しだけ変えたこと、そして、自分も成長したことを、彼は心から感じていた。 「でも……戻る前の俺だったら、助けられなかったかもしれない」 康之助は小さな声で呟いた。 千夏は、康之助の手を握る。 「それでも、今こうして隣にいるじゃない。だから大丈夫だよ」 その言葉に、康之助は自然と笑顔になる。 過去を変えることの切なさと重みは残っている。でも、目の前にある現実と、千夏との未来を信じられるようになったのだ。 帰り道、街灯の下で、康之助はふと振り返る。 小さなカフェの看板――「カフェ・アマランス」。 二度と戻れないかもしれない、でも確かに訪れた奇跡の場所。 「ありがとう……」 心の中でそっとつぶやくと、康之助は未来に向かって歩き出した。 雨上がりの街に、切なさと希望を抱えながら。 ――終わり
記憶商人
私の仕事は、人の記憶を買い取ることだ。 表向きは「価値ある体験やスキルの提供」として企業や個人に売るための仕事だが、正直なところ、私は感情をほとんど持たない人間のように淡々と日々を過ごしていた。 ある日の午後、私のもとに依頼が届いた。 依頼人は匿名で、求めるのは「佐倉凛、あなたにしか買えない記憶」とだけ書かれていた。 私の心が、いつものように冷たく動かないはずだったのに、胸の奥が微かにざわついた。 ——弟の記憶。 私はすぐに気づいた。依頼文の書き方、淡白だけど切実なニュアンス。これは、弟の最後の記憶を探してほしい、ということだと。 弟は五年前に事故で亡くなった。私はその死を、記憶の片隅に閉じ込めていた。 「どうして…今さら」 小さく呟いた声も、誰にも届かない。依頼を受けるかどうか、迷う私の心を突き動かすのは、ただ一つ——知りたい、弟の最期を。 私は自分の装置を起動した。小さなカプセル状のデバイスに、記憶を取り込む針が伸びていく。これが、私の仕事の道具だ。 顧客の記憶を吸い上げると、その人の経験や感情の欠片が、目に見えるように浮かび上がる。 最初の断片は、弟の笑顔だった。 幼い頃、夏祭りの夜に綿菓子を頬張りながら走り回る弟の姿。風に揺れる髪の香りまで、私の中に蘇った。 息が詰まるほど懐かしく、そして痛い。 「こんな…仕事で、こんな感情を…」 私の手は震え、デバイスの針が微かに揺れた。記憶は美しいだけじゃない。痛みも、悲しみも、絶望も——すべて含まれている。 その夜、私は決めた。 依頼を受け、弟の最後の瞬間まで辿ること。代償が何であれ、それを避けることはできなかった。 ⸻ 数週間が過ぎた。 私はもう、弟の記憶の断片を追う日々にはいない。 けれど、胸の奥にはあの日手に入れた温もりが、静かに根を張っていた。 ある朝、街のカフェでコーヒーを飲んでいると、小さな子どもが笑いながら走り回っていた。 その笑顔に、どこか弟の面影を重ねてしまう。 「元気でやってるかな…」 自然に口から出る言葉に、少し笑ってしまった。 仕事場に戻ると、新しい依頼が届いていた。 依頼文はいつものように無機質で、感情のない文字だけが並んでいる。 でも、私は前と同じではない。 淡々とこなすだけではなく、心で感じながら判断できる自分がいた。 ——記憶は売買できる。 でも、本当に大事なのは、その記憶が心に何を残すか、だ。 私はデバイスを手に取り、微かに笑った。 今日もまた、人々の記憶を預かる仕事が始まる。 だけど、失ったものの痛みも、得た温もりも、すべて抱きしめて、私は歩いていく。 雨上がりの街を見下ろす窓の向こうには、まだ光が揺れている。 その光は、弟の笑顔でもあり、私自身の未来でもあった。 「さあ、行こう」 小さく呟いて、私は新しい一歩を踏み出した。
【週刊】カレンダーの赤い丸
第1話 「死亡確認」 母が死んだ日のことを、僕ははっきり覚えていない。 覚えているのは、冷蔵庫のモーター音と、カーテンが少し揺れていたことだけだ。 その朝も、いつもと同じだった。 「今日、帰り遅いの?」 キッチンに立つ母が聞く。 「うん。会議あるから」 「ちゃんと食べなさいよ。最近痩せたでしょ」 「気のせい」 それが最後の会話だった。 夜、帰宅すると家は暗かった。 母はソファで眠るように倒れていた。 救急車の赤い光が、白い壁を何度も染めた。 医者は淡々と言った。 「死亡確認します」 世界は止まらない。 冷蔵庫は唸り続ける。 秒針は動き続ける。 僕だけが止まった。 翌日、葬儀。 黒い服に包まれた親戚の顔。 香の匂い。 泣く人たち。 僕は段取りを淡々とこなす。 棺の中の母は、小さく見えた。 泣き声も、悲しみも、 すべて僕の中に届かない。 家に戻ると、冷蔵庫の音だけが残っていた。 母がいた日常は、もうない。 茶碗も、洗剤も、カレンダーも、全部が静かに語りかける。 来週、温泉に行く予定だった。 赤い丸が一つだけ残っている。 母はもう、そこにいない。 僕は椀を手に取り、味噌汁を作った。 母の味にはならなかった。 でも、腹は減っていた。 それだけが、残った。 ――続く
四時間だけの奇跡
僕は死神だ。 黒いマントも鎌も持っていない。ただ、一枚の紙を持っているだけだ。 その紙には、名前と死亡時刻、そして「四時間」と書いてある。 亡くなった人を、四時間だけこの世に戻すことができる。 ただし、本人が強く望んだときだけだ。 そして僕は、その四時間に立ち会わなければならない。 最初に担当したのは、七歳の女の子だった。 交通事故で亡くなった。 彼女の願いは一つだった。 「ママに、ありがとうって言いたい」 四時間だけ、奇跡が起きた。 病室のベッドで、女の子は目を開けた。 母親は信じられないという顔をした。 「ゆ、夢……?」 「ちがうよ」 女の子は笑った。 「ママ、ありがとう」 母親は泣きながら抱きしめた。 時間は静かに減っていく。 三時間五十九分。 女の子の体は少しずつ透けていった。 「いや、待って……」 「ママ、だいすき」 その言葉を残して、消えた。 僕は何もできず、ただ見ていた。 二人目は七十代の男性だった。 心筋梗塞だった。 「妻に会いたい」 しかし、妻は三年前に亡くなっていた。 僕は言った。 「四時間だけです」 男性は少し黙ったあと、首を振った。 「なら、いらん」 「どうせまた、別れるんだろ」 僕は何も言えなかった。 再会のあとに、もう一度別れがくる。 それが、この奇跡の決まりだった。 三人目は二十三歳の青年だった。 自ら命を絶った。 「戻りたい」 強い願いだった。 四時間だけ、彼は目を覚ました。 「……死んだはずだよな」 「四時間だけだ」 僕がそう言うと、彼は笑った。 「短すぎるだろ」 それでも彼は、スマートフォンを手に取った。 未送信のメッセージを送った。 『ごめん。本当は、生きたかった』 すぐに返信がきた。 画面の向こうで泣く声が聞こえる。 「生きてたら、言えなかったな」 三時間五十九分。 「なあ」 「なんだ」 「ちょっとだけ、楽になった」 そう言って、彼は静かに消えた。 何人もの最期に立ち会った。 再会、謝罪、怒り、沈黙。 どれも四時間で終わる。 ある日、僕の持つ紙に、自分の名前が書かれていた。 死亡時刻は今日。 思い出した。 僕は事故で死んだのだ。 そのあと、この役目を与えられた。 そして今日、任期が終わる。 僕にも四時間が与えられる。 会いたい人は一人しかいない。 母だ。 家のドアを開ける。 「ただいま」 母は固まった。 「……夢?」 「ちがうよ。四時間だけ」 母は泣きながら僕を抱きしめた。 温かかった。 三時間。 二時間。 一時間。 「もっと話したい」 「ごめん」 時間が近づく。 「ありがとう」 母が言った。 「生まれてきてくれて、ありがとう」 体が透けていく。 最後に見えたのは、泣きながら笑う母の顔だった。 四時間は短い。 でも。 永遠よりも、きっと価値がある。
七日間だけ、君の隣で
蝉の声が、うるさいくらいの午後だった。 俺は逃げるみたいに木陰に入った。そこに、制服姿の女子が座っていた。 「ここ、涼しいよ」 初対面なのに、当たり前みたいにそう言う。 「……知ってる」 距離を置くように、少し離れて座る。 彼女は空を見上げたまま言った。 「夏って、一瞬で終わるよね」 「毎年言ってるだろ、それ」 「うん。でも今年は、ちゃんと覚えておきたいなって」 変なやつだと思った。でも、不思議と嫌じゃなかった。 二日目も、三日目も、彼女は同じ木の下にいた。 時間の話をよくする子だった。 「溶けるの、早いね」 手にしたアイスを見つめながら、そう言って笑う。 「当たり前だろ」 「うん。でも、きれい」 その横顔が、少しだけ綺麗だと思った。 六日目の夕方、彼女は珍しく黙っていた。 「ねえ」 弱い声だった。 「もし明日、わたしがいなくなっても、探さないでね」 「は? どういう意味だよ」 少し沈黙してから、彼女は言った。 「わたし、七日間しか生きられないの」 冗談だと思いたかった。でも、笑っていなかった。 七日目の朝。 木陰には、誰もいなかった。 制服も、何も残っていない。 ただ、足元に白い封筒があった。 震える指で開く。 『ありがとう。 七日間、隣にいてくれて。 最初は距離を置かれているの、分かってたよ。でもそれが優しさだってことも分かってた。 あなたと話した時間は、ちゃんと生きているって思えました。 好きでした。 でも、もう会えません。 来年、また蝉の声が聞こえたら、ほんの少しでいいから思い出して。 さようなら。』 手紙は、そこで終わっていた。 蝉の声が、やけに近くで鳴いている。 「……ばか」 空を見上げる。 今年の夏は、きっと忘れない。
海の見える踏切
彼女は、踏切の音が好きだった。 「カンカンってさ、世界が一回止まる感じしない?」 高校二年の夏、海の見える小さな踏切で、よく二人で電車を待った。 遮断機が下りると、風まで止まる気がした。 「止まらないよ」 「止まるよ。少なくとも、私は止まってる」 そう言って笑う横顔が、好きだった。 大学進学で、俺は県外へ出ることが決まっていた。 「遠距離とか、無理だと思う?」 ある日、俺が聞いた。 「無理って決めたら、無理になるよ」 彼女は海を見たまま答えた。 でも俺は、少しずつ連絡を減らした。 新しい街。新しい友達。 忙しい、を言い訳にした。 久しぶりに地元へ帰った日、彼女からメッセージが来た。 『今日、踏切で待ってる』 懐かしい場所。 海の匂い。 夕方の光。 彼女は、いなかった。 代わりに、パトカーが止まっていた。 踏切の向こう、線路脇に人だかり。 嫌な音が、耳の奥で鳴る。 「さっき……女の子が」 誰かの声が、遠い。 遮断機が上がる。 カンカンという音が、まだ残っている気がした。 スマホが震える。 彼女からの、最後のメッセージ。 『ちゃんと、止まってほしかった』 葬式で、彼女の母親に言われた。 「あなたのこと、最後まで好きだったみたい」 息ができなかった。 春。 俺はまた、あの踏切に立っている。 電車が近づく。 カンカン、と音が鳴る。 世界は止まらない。 俺だけが、あの日から動けていない。 遮断機が、下りる。 今度は、俺が止まる番かもしれない。
コンビニの神様
深夜二時のコンビニは、世界から切り離されたみたいに静かだ。 俺はレジに立ちながら、何も起きない時間をやり過ごしていた。 ウィン、と自動ドアが開く。 入ってきたのは、パジャマ姿の小さな女の子だった。 「いらっしゃいませ」 条件反射で言う。 女の子はまっすぐ俺を見て言った。 「神様、いますか?」 「……は?」 「このコンビニ、神様いるんでしょ」 いない。少なくとも時給千二百円で雇われている神様は聞いたことがない。 「いないよ」 「うそ。ここ、願いが叶う場所だって聞いたもん」 困った客だなと思いながら、俺は棚を整えるふりをする。 「何を叶えたいんだよ」 女の子は少し考えてから言った。 「お父さんを、元気にしてください」 その声は、妙に真っ直ぐだった。 「病院にいるの。明日、手術なの」 俺は言葉を失う。 「神様いないなら、代わりでいいです」 「代わり?」 「お兄さん、お願い」 そう言って、百円玉を一枚、レジに置いた。 「これで、お願いします」 お釣りもいらないと言うみたいに、女の子は深く頭を下げた。 困る。 俺は神様じゃない。 でも。 「……分かった」 何が分かったのか、自分でも分からないまま言った。 「絶対元気になる。大丈夫」 ただの言葉だ。保証なんてない。 それでも女の子は、ぱっと笑った。 「ありがとう、神様」 そう言って帰っていった。 静かになる店内。 レジの上に、百円玉が残っている。 翌日も、その翌日も、女の子は来なかった。 三日後の深夜。 またウィン、とドアが開く。 同じパジャマ姿。 でも今日は、笑っている。 「お父さん、目、覚ましたよ」 俺はほっと息を吐いた。 「それは……よかったな」 「やっぱり神様いた」 女の子は百円玉をもう一枚置いた。 「お礼」 「いらないよ」 「だめ。神様はタダじゃだめなの」 そう言って走って帰っていった。 店内はまた静かになる。 レジの中には、売上とは別に、二枚の百円玉。 俺はそれを触りながら思う。 神様なんていない。 でも、誰かの「大丈夫」になれる瞬間があるなら。 深夜二時のコンビニも、悪くない。 続く。。。
エレベーター
そのマンションには、十二階までしかない。 なのに、十三のボタンがある。 誰も押さない。 管理人も「知らない」と言う。 俺は毎晩、帰りが遅い。 残業帰りの午前一時。 エレベーターに乗るのは、だいたい俺一人だ。 ある日、酔った勢いで押した。 13。 何も起きないと思っていた。 扉が閉まる。 ゆっくり、上がる感覚。 表示は12のまま。 それなのに、止まった。 チン、と乾いた音。 扉が開く。 見たことのない廊下だった。 照明は暗く、奥が見えない。 表札も、郵便受けもない。 ただ、静か。 怖くなって、すぐ閉めようとした。 そのとき。 「待って」 声がした。 廊下の奥。 女の人が立っている。 白いワンピース。 顔はよく見えない。 「ここに来る人、久しぶり」 喉が動かない。 「帰ります」 やっとそれだけ言えた。 「だめ」 一歩、近づいてくる。 足音がしない。 「あなた、十三階の住人でしょ?」 意味が分からない。 「俺は七階です」 女は首を傾げる。 「前もそう言ってた」 背中が冷たくなる。 「三年前も」 心臓が止まったみたいに、静かになる。 「落ちたでしょ?」 次の瞬間、視界が揺れた。 気づいたら、エレベーターの中。 七階のボタンが光っている。 扉が開く。 見慣れた廊下。 夢だ。 そう思い込む。 部屋に入り、ベッドに倒れ込む。 眠れない。 スマホを見る。 通知が一件。 マンション管理会社から。 『三年前の転落事故についてのご遺族説明会の件』 息が止まる。 本文を開く。 『佐藤 海斗様』 俺の名前。 『十三階非常用扉からの転落事故に関する資料をお送りいたします』 このマンションは、十二階までしかない。 エレベーターの鏡に、自分が映る。 背後。 白いワンピースが、立っている。 チン。 どこにも、ボタンは押していない。 表示が、ゆっくり変わる。 13。 上昇している。 音は、しない。