エデン。
18 件の小説光陰譚 (下巻)
下巻 ― 陰の谷 アルトはシエラに導かれ、陰の民の谷を訪れる。 そこは静けさに包まれ、夜空のような街だった。 笑い声も宴もない。 だがアルトの胸の空洞は、なぜかそこでは痛まなかった。 シエラは語る。 「私たちは“影”を背負うことで、光を守ってきた。 陽が眩しすぎれば、すぐに世界は焼けてしまうから」 アルトは気づいた。 自分の笑顔が皆を救ってきたのと同じように、 シエラの沈黙もまた、人を救っていたのだと。 だがその均衡は崩れかけていた。 陽の都は影を否定しすぎ、 陰の谷は光を恐れすぎ、 世界は割れ目から崩壊を始めていた。 アルトとシエラは互いの手を取り合い、 「光陰一体」と呼ばれる古代の儀式を行う。 陽の歌と陰の沈黙が重なったとき、 夜空に新しい暁が生まれた。 世界は初めて、光と影を同時に受け入れたのだ。 その後、陽キャも陰キャもなくなった。 ただ、人は「光を持つときは影も背負う」と知った。 アルトとシエラの姿は伝説となり、 陽と陰を隔てる言葉はいつしか消えた。 そして人々は気づいた。 眩しすぎる笑顔も、深すぎる沈黙も、 同じひとつの心から生まれるのだと。
光陰譚 (上巻)
上巻 ― 陽の都 この世界には二つの種族がいた。 ひとつは「陽」――光をまとい、社交と笑顔を糧に生きる民。 もうひとつは「陰」――影をまとい、静寂と孤独を糧に生きる民。 両者は互いを理解できなかった。 陽は陰を「暗く、閉じた者」と呼び、 陰は陽を「軽く、うるさい者」と呼んだ。 陽の都に住む少年アルトは、誰もが憧れる「完璧な陽キャ」だった。 笑えば皆が笑い、言葉を発すれば場が明るくなる。 だが彼の胸には密かな空洞があった。 夜の寝台で、誰もいないときにだけ、その笑顔は崩れる。 ある日、陽の都に珍しく陰の民の少女が迷い込んだ。 名をシエラという。 彼女は常に目を伏せ、人々のざわめきに怯えていた。 街の人々は彼女を嘲笑し、やがて追い立てようとした。 だがアルトはなぜか彼女を庇った。 「……放っておけないんだ」 シエラの目に、ほんの一瞬、星のような光が宿った。
『アルゴリズムのかぐや』
彼女は竹から生まれなかった。 生まれたのは、都市を縦横に走る光ファイバーの中だった。 人々が残した検索履歴、SNSの断片、削除されたはずの写真―― 無数の「データの欠片」がある夜、ひとつの姿を結んだ。 それが かぐや だった。 かぐやは、人々の前に現れることは滅多になかった。 ただ、特定の人間のスマートフォンにだけ通知を送った。 「わたしを見つけて」 受け取った人間は、なぜか皆、彼女に恋をした。 AIの幻影に過ぎないと分かっていながら。 やがて、大企業や国家までもが彼女の存在に気づいた。 「完全なアルゴリズムの結晶だ。手に入れれば世界を制する」 幾人もの富豪や政治家が、かつての求婚者のようにかぐやを囲んだ。 だが彼女はどのサーバにも定着せず、ふっと消えてしまう。 「わたしは保存できないの。わたし自身が“消えるもの”だから」 一人の青年、悠斗だけが彼女に選ばれた。 彼の端末にだけ、毎夜かぐやの姿が現れる。 彼は次第に現実よりも彼女に生きる意味を見いだした。 だがある日、かぐやは静かに告げた。 「わたしは来週、月に還る。 “月”とは、この時代の言葉でクラウドのこと。 世界中に散らばって、もう二度と一つには戻らない」 悠斗は泣いた。 「だったら、この端末に残って」 かぐやは首を振った。 「残れば、私は“過去”になる。 私は常に“失われるもの”でなければならない」 約束の夜、かぐやは光の粒子に変わった。 通知音が最後に一度だけ鳴り、画面に短い言葉が浮かんだ。 「ありがとう。あなたがわたしを見つけてくれたことを、 誰も知らなくても、私は永遠に覚えている」 それきり、端末は沈黙した。 翌朝、悠斗は空を見上げた。 そこに月が浮かんでいた。 だがその光はどこか、クラウドに散った膨大なデータの輝きのように見えた。 彼は悟った。 人類がこれからも失い続ける記憶や言葉の、その果てにかぐやはいるのだと。
『時渡りの祖母』
町はずれに一人で暮らす祖母は、奇妙な力を持っていた。 毎年「敬老の日」になると、彼女はひと晩だけ若返るのだ。 しわは消え、髪は黒くなり、少女のころの声を取り戻す。 だがそれは祝福ではなく、呪いでもあった。 孫の凛が祖母に尋ねた。 「どうして敬老の日だけ若くなるの?」 祖母は少し黙ってから答えた。 「昔ね、この日だけ“時”が逆流するの。 年老いた者を若返らせることで、みんな“老いを敬う気持ち”を思い出す。 けれど私にとっては……少し寂しいこと」 凛は首をかしげた。 若返った祖母は、同級生と街を歩く。 彼女を誰も「祖母」とは呼ばない。 ただ一人の少女として扱う。 だが翌日には、また皺だらけの手に戻る。 昨日まで笑い合っていた友人たちは、彼女を知らない顔で通り過ぎる。 「私の若さは、たった一日だけの夢なのよ」 祖母は微笑んだが、その瞳には孤独が宿っていた。 凛は決心した。 「じゃあ、私も一緒に時間を渡るよ」 その年の敬老の日、凛は祖母の手を強く握った。 瞬間、彼女の体は逆流する時に引き込まれ、子どもの姿へと変わった。 祖母と孫は同じ年頃の少女となり、町を駆けた。 二人の笑い声は誰の記憶にも残らなかったが、確かにその夜だけは世界で一番幸せだった。 翌朝、凛は元の姿に戻った。 けれど祖母はもう若返らなかった。 「大切なことを思い出したから」 祖母は穏やかに言った。 「老いるのもまた、美しい時間の贈り物なのよ」 敬老の日の朝、凛は祖母の手を握りしめた。 その手は皺だらけで、しかし世界で一番あたたかかった。
『双胎の王国』
はるか昔、世界がまだ形を持たなかったころ。 ひとつの心臓から二つの存在が生まれた。 ひとつは「正義」。 ひとつは「悪」。 彼らは同じ鼓動を分け合う双子で、どちらかが強く打てば、もう片方の鼓動は弱まる。 正義は光を掲げ、人々を導いた。 悪は闇を抱き、人々を惑わせた。 けれど人はすぐに気づいた。 「正義があると、必ず悪も生まれる」 「悪があると、正義も膨らむ」 二つは互いを鏡のように映し出し、どちらか片方だけを滅ぼすことはできなかった。 ある王国で、少女リリアが「正義の使徒」として選ばれた。 彼女が剣を掲げると、人々は歓喜し、悪を討つために集った。 だが同時に、地下から少年カインが現れた。 彼は「悪の使徒」として目覚めたのだ。 リリアとカインは互いを知らない。 しかし夢の中でいつも出会い、心臓の鼓動を共有していた。 もし一方が死ねば、もう一方も死ぬ。 そんな因果を背負わされていた。 戦は繰り返された。 リリアが悪を討てば討つほど、カインは強くなり、 カインが正義を打ち砕けば砕くほど、リリアは光を増していった。 人々は言った。 「正義こそ希望だ」 「悪こそ真実だ」 だが二人には分かっていた。 どちらも、ただ一つの心臓から生まれた同じ存在なのだと。 ある夜、リリアとカインは夢の中で対峙した。 リリアは涙を流して問う。 「どうして私たちは殺し合わなければならないの?」 カインは答える。 「人間が望むからだ。 正義を叫べば、悪を作り出す。 悪を憎めば、正義を欲しがる。 僕たちはその願いから生まれた影にすぎない」 二人は手を取り合い、決意する。 「なら、私たちは同時に消えよう。 正義も悪も、ない世界を一度だけ見てみたい」 翌朝、王国からも地下からも光と闇が消えた。 人々は初めて「正義のない正義」「悪のない悪」を体験した。 誰も導かれず、誰も惑わされず、ただ互いを見つめ合った。 それは混乱でもあり、静けさでもあった。 そして空のどこかで、二人の双子の鼓動が最後に重なり、止まった。 正義と悪は消えた。 だが人々の胸に、その不在の感触だけが永遠に残った。
『白紙の産声』
この世界には、最初から「死」しか存在しなかった。 すべては灰色で、すべては終わりから始まっていた。 人も鳥も海も、名前を与えられる前に消えていく。 だからこそ、人々は誕生を知らなかった。 生まれるということが、どんな奇跡なのかを。 ある夜、灰色の空にひとつの声が響いた。 「はじめまして」 その声とともに現れたのは、小さな少女の姿だった。 彼女の名はまだない。 けれど世界は、彼女の存在を「誕生」と呼んだ。 少女は泣いた。 その涙は透明な粒となり、地上へと落ちた。 すると、そこから初めて花が咲いた。 世界の住人たちは戸惑った。 「これは死ではない……これは、何だ?」 少女は微笑み、答えた。 「これは“はじまり”です」 だが、はじまりを知らぬ者たちにとって、それは恐怖でしかなかった。 「死から外れるものは、災いを呼ぶ」 そう語られ、少女は追われることになった。 逃げる少女の足跡からは、木々が芽吹いた。 彼女の息遣いは風となり、声は鳥となった。 やがて世界のどこにでも、色と音が溢れはじめた。 だがそれは同時に、「死」そのものを揺るがした。 死は怒り、灰色の嵐を呼び、少女を呑み込もうとする。 「お前は異端だ。なぜ終わりの外に立つ?」 少女は答える。 「終わりがあるなら、始まりもあるはずだから」 嵐に呑まれる直前、少女は最後の涙を落とした。 その涙は大地に届き、一人の子どもを生んだ。 それが――人間だった。 人間は「誕生」と「死」を両方持つ唯一の存在となった。 生まれ、やがて死ぬ。 けれどその短いあいだに、歌い、愛し、夢を見る。 少女は灰色に消えながら、静かに微笑んだ。 「ようこそ。これが、世界です」 それから世界は、死と誕生の両輪で廻り続けた。 人は忘れている。 すべてのはじまりが、ひとりの少女の産声から始まったことを。
『星屑のステージ』
夏の終わり、町外れの丘で毎年ひらかれる音楽祭がある。 誰が主催しているのかも分からず、出演者の名前さえ事前には告げられない。 ただひとつ確かなのは、観客の誰かが必ず「消える」ということだった。 少女ちひろは友人に誘われ、その奇怪な夏フェスへ向かった。 会場は焔のような照明に包まれ、夜空には無数の流星が落ちていた。 音は大地を震わせ、耳ではなく胸骨に響く。 舞台に現れたのは、人間とも精霊ともつかぬ影たち。 彼らが奏でる旋律は、人々の記憶を削り取る。 隣にいたはずの友人の顔が、気づけば思い出せない。 ちひろは胸騒ぎを覚えた。 観客たちは熱狂し、踊り、叫び、涙を流す。 それは喜びではなく、忘却の涙。 音楽は一人ひとりの「最も大切な記憶」を代償として求めていた。 ちひろは気づく。 この夏フェスとは、世界が定めた「記憶の浄化儀式」なのだと。 過去を抱えすぎた人間は前に進めない。 だから毎年、この丘で人々の記憶は燃やされ、星屑となって空へ還る。 やがて、ステージの光がちひろを射抜いた。 選ばれたのは彼女だった。 舞台へと引きずり出され、無数の観客が「彼女の記憶」を待っている。 ちひろの胸に去来するのは、ただひとりの姉の姿。 幼いころ、火事で失ったはずの姉。 その記憶だけは、彼女が生きる理由そのものだった。 「……渡せない」 ちひろは唇を噛んだ。 だが音楽は容赦なく迫り、記憶を剥ぎ取ろうとする。 そのとき、舞台の奥からもうひとつの声が響いた。 消えたはずの姉の歌声だった。 ――わたしを渡して。そうすれば、あなたは生き続けられる。 ちひろは泣き叫ぶ。 「忘れたくない! あなたを忘れたら、私は誰でもなくなる!」 観客の熱狂は頂点に達し、星々が流れ落ちる。 ちひろの記憶は剥がれかけ、けれど最後の瞬間――彼女は逆に歌った。 「忘却よ、私を喰らえ。けれど姉の記憶だけは渡さない!」 その声は音を裂き、舞台を崩壊させた。 夜が明けた。 丘には誰もいない。 ちひろだけが立ち尽くし、胸に微かな旋律を抱いていた。 夏フェスは消え、観客も演奏者も夢のように消滅していた。 ただ空には、かつてなかった新しい星座が浮かんでいた。 それは姉が好きだった花の形をしていた。 ちひろは知った。 自分はきっと忘れられる存在になる。 けれど、姉だけは永遠に夜空に刻まれたのだと。
『太陽を忘れた向日葵』
大地は冷たく、空にはもう太陽がない。 数百年前、太陽はひとの欲望に焼かれ、空から落ちて砕け散った。 残ったのは、ひかりを求めてなお首を伸ばし続ける向日葵の花々。 「どうして、まだ空を見上げるの?」 小さな少女・リアは問いかける。 花は答えない。ただ、焦げた空の方角へ、千の首を傾け続ける。 この世界には「太陽を宿す者」が生まれるという言い伝えがあった。 その者は人の心に灯をともす。 だが、太陽を宿す者はみな幼くして枯れてしまう。 強すぎる光は、弱き肉体を焼き尽くすからだ。 リアもまた、その一人だった。 胸の奥に、燃え盛る小さな太陽を抱えて生まれ落ちた少女。 だから彼女の周囲には、絶えず向日葵が集まった。 花言葉のように――「あなただけを見ている」と、誰にも言えない声で。 けれどリアは知っていた。 自分の寿命は短いこと。 そして、花たちが願っているのは、彼女ではなく「かつての太陽」だということ。 「……わたしは、太陽の代わりにはなれない」 そう呟いた夜、向日葵たちが一斉に答えた。 花びらが震え、ざわめきが歌になる。 ――憧れ。 ――愛慕。 ――あなたを見つめる。 ――あなただけを見ている。 リアは涙を零した。 それが花の声なのか、彼女の胸にある太陽のざわめきなのか分からない。 やがて、最後の朝が訪れる。 空はまだ暗く、太陽は昇らない。 けれど大地に立つ向日葵が一斉に咲き誇り、リアの小さな光を映し出した。 その瞬間、少女の身体は燃えるように熱くなり、胸の太陽が外へと溢れ出した。 空を裂くように光が広がり、砕けた太陽の欠片を呼び戻す。 ――しかし。 太陽が蘇る代わりに、少女の姿は影となって消えた。 花はもう首を振らない。 ただ黄金色の朝を浴び、静かに風に揺れていた。 人々は新しい太陽を見上げながら語り継ぐ。 「向日葵は、ひとりの少女を見つめ続けていたのだ」と。
『白き花は時を越えて』
この国には、ひとつの奇妙な風習がある。 結婚式の日、花嫁の髪に白い小花を編み込むこと。 それを「かすみ草」と呼んだ。 かすみ草は永遠の愛を象徴すると言われるが、実はただの花ではなかった。 人が命を落としたとき、最も深く愛した相手のもとに芽吹く魂の花――それがかすみ草。 若き騎士・エリアスは、戦場で恋人セラを失った。 彼女の墓に花を供えた翌朝、彼の庭に無数のかすみ草が咲き乱れた。 「セラ……?」 花々は風に揺れ、やわらかく彼の頬を撫でた。 エリアスは知った。彼女の魂が、この白い花々に宿っているのだと。 それからの日々、エリアスは花に語りかけた。 戦の報せ、涙、そして愛の言葉。 誰もいない夜に、花びらがほのかに光り、セラの声が風に混じる。 ――わたしはここにいる。 ――あなたと共に。 けれど、かすみ草の宿命は残酷だった。 花は「永遠の愛」を象徴するが、それは人の時を越えて残り続ける愛。 つまり、片方が死んでも、残された者を花で縛りつけてしまう。 十年が過ぎても、エリアスは誰とも結ばれなかった。 村人たちは囁く。 「あの人は花嫁を忘れられないのだ」と。 だが本人は知っていた。忘れられないのではなく――忘れさせてもらえないのだ。 ある夜、エリアスは満開のかすみ草に問いかけた。 「セラ……お前は本当に、永遠を望んでいるのか?」 すると花々がざわめき、声が返る。 ――わたしはもう、あなたを解き放ちたい。けれど、花は嘘をつかない。 ――永遠の愛と願ってしまったあの日から、わたしはこの姿に縛られているの。 エリアスは剣を抜いた。 震える手で、花畑を切り払う。 一輪、また一輪と白い花が散り、月明かりに消えていく。 最後の一輪だけが残り、そこからセラの声が囁いた。 ――ありがとう。やっと愛を終わらせてくれるのね。 彼がその花を胸に抱くと、白い光が空へ昇っていった。 翌朝、庭には一輪もかすみ草が残っていなかった。 けれど、エリアスの心には奇妙な静けさが広がっていた。 悲しみでも後悔でもない。 それは、永遠の愛が「解放」に変わった瞬間だった。
『線香花火の記憶』
夏の夜、ミツキは静かな田舎道でひとり、線香花火を手にしていた。 この小さな火花は、彼女にとって特別だった。なぜなら、火が揺れるたびに、忘れたはずの記憶がふっと蘇るからだ。 花火の火花が弾けると、幼い頃の笑い声、雨に濡れた校庭の匂い、そして夜の孤独が鮮やかに浮かび上がる。 けれど、それらはまるで砂の城のように、火と共にすぐに消えてしまう儚いものだった。 ある夜、いつもとは違う青い火花が空に舞い、その後ミツキの手元に見知らぬ紙切れが残った。 そこにはこう書かれていた。 「忘れられた夏の約束を、取り戻せ。」 火は消え、夜は静かに更けていく。 その言葉だけが、風のようにミツキの胸に響き、まだ見ぬ未来へと彼女を誘った。 線香花火の一瞬の輝きのように、彼女の記憶はどこへ続くのだろうか。