花瀬 詩雨

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花瀬 詩雨

ハナセ シウと申します。 よろしくお願いします(՞ ܸ. .ܸ՞)︎♡ アイコン ノーコピーライトガール様

「第7回N1」寄り道だって帰り道

 私は、生まれてこのかた寄り道をしたことがなかった。  全て、最善の道が“用意”されていた。  よくある話だ。  家は医者の家系で、病院を持っていた。  親も医者で、私にもその道が生まれつきつくられていた。  そんな、ありきたりなドラマの設定みたいな人生。  進学する学校も、勉強の仕方も、明日の予定さえも、私が考える必要なんてなかった。  決して楽に歩ける道じゃなかったけど、親の言うとおりについていけば迷う、なんてことはない。  先の見えない暗闇に立たっている方がずっと怖いんだろうなって。  だからきっと、私は運が良かった。  生きていくためには、確かな足掛かりが必要だ。夢も追いかけるのはいいが、いつまでも道なき道を歩いていては目の前の崖に気づくことは出来ない。  でも時々、あれ?って立ち止まってしまう時がある。学校のお昼休み、隣の参考書を開きながらお弁当を食べる時。体育の授業でペアが作れなかった時。放課後、遊びの誘いを断ってしまった時。  私は、親に両手を引かれ、友人と肩を組む腕を持ち合わせていたなかった。  それに気づいたとき、もう学校には誰もいなくなっていた。  1人で歩く帰り道で、気づけば家を通り過ぎ周りの道を一周していた。  何やってるんだろう、私は。ただあと二回右に曲がればすぐ着く場所なのに。  なのに、何度歩いても顔を上げれば家を通り過ぎている。  その場でしゃがみ込んだ。私は家にすら1人で辿り着けなくなったのか。  早く帰らないと、やることたくさんあるのに。 『……る……』  スマホに予定のリマインド通知がくる。 『……な……せ』  そうだ、明後日から始まる塾の合宿の準備もしなくちゃいけない。 『……成……!』  あぁ、どうしよう。早く帰らないと怒られる。私のために親は待ってる。夏の17時、蝉の声が遠くなる。  ……どんどんあたりが暗くなる。  あとは右に曲がるだけ。そうするだけで家に着く。迷う必要なんてない。  あれ……さっきから誰かに呼ばれている気がする。 「……成瀬!」 「……!」  ハッと、顔を上げると夕日に照らされた見知った顔が心配げな表情で私を見ていた。 「大丈夫か?」 「え……宮村君……なんで?」  目の前には、近所に住む幼馴染の宮村君がいた。  幼馴染といっても、家が近い同い年で中学校まで一緒だった彼とは登校班だったり、同じクラスになったときくらいしか関わらなかった。彼は私によく話しかけたが、私からはあまりなかった。今は高校が別なこともあり、こうやって会うのは中学生以来だ。 「いや、なんでっていうか……スーパーの帰りに家の前で久しぶりに成瀬見かけたかと思えば家通り過ぎるし、ここらを何周もしてるし。んで、急にしゃがみ込むから心配になった……みたいな」 「……、ごめん。もう大丈夫だから。じゃあ」  私は立ち上がってスカートを叩く。 「いや、お前顔真っ青だぞ。汗もすごいし。ちょっと待っとけ」  宮村君はネギが刺さったエコバッグから、ラムネ瓶を取り出した。 「ごめん、これしかなかった。炭酸飲める?」  手渡されたラムネはとても冷えていて気持ち良かった。 「ありがとう。でも悪いし。炭酸、飲んだことないし」  私は瓶を返した。 「え!飲んだことないのか?じゃあ飲んでみたら?意外といけるかも」  彼はまた私に瓶を返した。ただし、蓋を開けて。 「いや、宮村君が買ってきたんだよね。私ほら、家すぐそこだし大丈夫だから」 「じゃあなんで早く帰らないんだ?」 「……」 「……ここじゃなんだし、すぐ帰る予定ないならそこのベンチにでも座りなよ。……俺は一旦荷物置きに帰るから。気が向いなら座っとけ」  指をさしたのは、私の家の後ろにある公園のベンチ。  私が返事をする前に、宮村君は行ってしまった。  彼が戻ってきた時に私がいなかったらどう思うだろう。無駄足だったと怒るだろうか。  私はどうするべきなんだろう。いや、帰る方がいいに決まってる。悩むことじゃない。  でも、もう少し時間があるのなら……。 「お待たせ。まだ木陰だから涼しいだろ」  宮村君が戻ってきたとき、私はベンチに座っていた。 「それ飲んだ?やっぱり嫌いだった?一応お茶持ってきたけど」 「……なんで、宮村君は私に話しかけるの?」 「え、あ……なんで」  彼はポカンと口を開いていた。  その顔を見て、私は彼を傷つけてしまったと思った。 「いや、その、攻めてるんじゃなくて、ただその、気になって……。ごめん」  私が謝ると、彼はすぐさま否定した。 「いや、こっちこそごめん。成瀬から話しかけられるのあんまなかったから、びっくりして。もう帰ってるとか思ってたし」 「……」 「いや、結果的に帰らないでいてくれたからこうやって久しぶりに話せてるわけだし。なんか嬉しいっていうか」  今度は私がポカンとした。 「うれ……しい?」 「うん。……好きな子と久しぶりに話せて嬉しくない奴なんていないだろ」 「は……好きな……子?」  私はさらに顔をぽかんとさせた。  カァカァとカラスが鳴く。  宮村君の顔がみるみる赤くなった。 「だ、大丈夫?!顔真っ赤だよ、熱中症?!これ飲みなよ!」 「い、いやいや、俺はお茶があるから!な、成瀬、ラムネ飲んだことないんだろ、せっかくだし飲んでみろよ!お前も今、青になったり赤になったり顔色悪いんだから!」 「……もう!」  私たちはそれぞれ、お茶とラムネを飲み干した。 「わっ!パチパチする……」 「だろ?シュワシュワするのが美味しいんだよ」 「……美味しい」 「よかった」  私たちは青色の空が夕日でピンク色に染まっていくのを眺めた。 「なぁ、小学校の帰り道をちょっと逸れた所に駄菓子屋があったの覚えてる?」  唐突に彼がそんなことを聞いてきた。 「小六のとき下校班一緒でさ、俺が班長で成瀬が副班長で。俺たちその駄菓子屋に寄り道したんだ」  それを聞いて鮮明に思い出せたのは、それが初めての寄り道だったから。 「私が何度も“寄り道は駄目だ”って言ったのに、宮村君達全然聞いてくれなかったよね」  小学生の頃、結局私達は駄菓子屋に行き、彼らは冷えたラムネ瓶を買った。 「成瀬はなんも買わなかったよな。でもついてきてくれて」 「うん、その頃はちゃんと班のみんなで帰らないといけないと思ってたから。副班長だし。でも……」  でも、寄り道をしようと思える悪戯心が私は羨ましかった。 「……」 「実はあの時、隣歩いてた班の子が熱中症気味だったんだ」 「え?」 「だから、冷たいの買って行こうと思って寄り道した」 「それなら言ってくれればよかったのに」  そんなこと当時は知らなかった。私は通学路を守るために駄目だと言った。 「実はさ、成瀬なら寄り道は駄目だって言うの分かってたから言わなかったんだ。ちゃんと守ろうとするから、お前だけは帰ると思ってた。遅くなって怒られるのも悪いと思ったし」  実際、家に帰り正直に遅くなった理由が寄り道であること言うと親に怒られた。“今度からはまっすぐ帰ってきなさい”って。  それから寄り道をする機会はなかった。 「でも、嬉しかったんだ。その時も成瀬が帰らずに待っててくれて。それを唐突に思い出した」 「……懐かしいね」  もしもあの時、家に帰っていればどうなっていただろうか。またどこか違う時に寄り道なんてしていただろうか。  ふと、家の窓を見た。西日のせいでリビングのカーテンは閉まっている。 「なぁ、聞いてもいい?」 「何を?」 「家に帰りたくないのか?って」 「……唐突だね」  私は持っていたラムネ瓶を見つめた。  ガラスに映る彼はどんな表情をしているかわからない。 「家の周り何周もしてたら気になるだろ」 「何でもないよ」 「何でもなかったら成瀬はここにいなかった」  蝉の声がいっそう、耳に響く。  公園の前を小学生達が歌いながら通った。 「僕も帰ろ、お家へ帰ろ、でんぐり返りでバイバイバイバイ!……あ!隣の家のお兄ちゃんバイバイ!」 「おう、バイバイ」  宮村君は小学生に返した。 「寄り道だって、帰り道なんだよなぁ」 「……」 「って、誰かが言ってた気がする。冒険ってことかな?成瀬はどう思う」 「私は……」  寄り道をしたって、着くのが遅くなるだけだ。着くのが遅くなれば、暗い場所に置いていかれるだけだ。  でも、それだけしか意味の無い道なのだろうか。 「……私は、寄り道をしたことがない」 「唐突だな」 「だから、寄り道なんてわからない。知らない場所を歩くのは、怖い。決められた道を逸れると、誰もいなくなってわからなくなる。正しいのか、間違いなのか」 「……」 「あとニ回、右に曲がるだけで家に着くのは分かってる。分かってるけど……」  家に帰れば、手を引いてくれる家族がいる。それが嫌なわけじゃない。むしろ尊敬しているから。私だって親の言うとおり医者になりたいし、そのために歩いてきた。 「私たぶん、道に迷ってる」 「……どこに行きたいんだ?」  宮村君はそう私に聞いてくれた。 「夢を叶えたいの。医者になるって。だから親が用意してくれた道を歩き続ければ着くはずなの。でも……」  彼は静かに話に耳を傾けてくれる。 「ありがたいことに、家族は私の手を引いてくれる。でも私は、それ道が正しいと分かっていても立ち止まっちゃって。何でだろう、他にいきかたは知らないのに」 「……」 「歩かないとどこにもいけないのに」  今更止まることなんて出来ない。私の中で行きたい到着点は最初からずっと決まっていた。  ビー玉が瓶の中でカラリと音を立てる。  それと同時に、宮村君がバッと立ち上がっていった。 「じゃあ、俺と冒険してみるか?」  彼は笑顔でそう言った。その瞳は夕日に照らされて綺麗で吸い込まれそうになる。 「冒険?」 「そう、冒険。いや、そう言うと子供っぽいけど。……俺は安易に成瀬に“じゃあ立ち止まって休憩しろ”なんて言えない。ちょっとだけど、今の成瀬の話で、お前がめっちゃ頑張ってるのも知った。きっと歩くのを止めるのは成瀬自身が許せないと思う」 「……」 「今、道の途中で立ち止まっているなら。でも一人で歩くのが辛いなら。じゃあ今日は俺と歩きませんか」  彼は公園の入口に立ってこちらを向いた。 「右に曲がれば、成瀬の家に着く。左に曲がればあの時の駄菓子屋がある。どっちでもいい。どっちでも俺はついて行く」  今、私の目の前に二つの道ができた。  右に曲がれば、変わらない日々を過ごせる。  左に曲がれば、また道に迷うかもしれない。  私はもう、立ち止まるという選択肢は駄目だ。  そして宮村君の方に向かい、右手を掴んだ。 「ラムネ、もう一本欲しいから。勉強中に飲む用に」  私は左を向いて歩き始めた。  到着点だけはちゃんと分かっている。 「いいのか、こっちで」  宮村君がそう聞いてきた。 「寄り道だって帰り道」 「それ……!」 「って、誰かが言ってた気がするから」  夕日に照らされた二つの灯りは並んで道を歩き始めた。                  完

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「第7回N1」寄り道だって帰り道

「第7回N 1」私のピエロ

 ここで一つ、私が出会ったピエロ、彼女のお話をしたい。  初めて彼女と出会ったのはそう……、私が旅の途中に立ち寄った町で、年に一度の花火が上がった日だった。  あれは宿に戻る帰り道のことだ。私は海沿いで花火を見た後、一人で歩いていた。  ふと海に浮かぶ夜空を見た時、その手前の海風にさらされた手すりの上で、白い月が踊っているように見えた。  目を擦り、よく見てみるとすぐにそれが月ではないことがわかった。  それが彼女を初めて見た時だった。薄金の髪をたなびかせ、白い膝丈のワンピースを纏う彼女。手すりの柵という、海に落ちないための最後の命綱のような場所で、まるで海に映る月のようにぼんやりと儚く。少しの悲しみと希望を見たような、だけど確かに私の目を奪われるほどその場所で踊る彼女は、私が今まで見たどんな景色よりも、美しかった。    後日、町のサーカス団が旅回りをするのに、この町で感謝の最終公演を行うという話を聞いた。  宿のオーナーが言うには、 「うちでは大人気のサーカス団でね、旅回りするのが夢だー!って団長のボルトンさんが遠い街まで宣伝しに行ったりして、お客も増えて、やっと準備が整ったみたいなのよ〜。うちの子供が小さい頃からそばにあったサーカス団だから、いなくなっちゃうのは寂しいけど」  お時間あるなら観に行ってくださいな、と勧められたので観に行くことにした。  サーカス、子供の頃は薄暗いテントの中で、よくわからない顔つきの人たちが火や、動物や、危ない場所でパフォーマンスしているのが怖かった。  もう一度行けば、楽しむことができるだろうか。  私はオーナーにお礼を告げ、朝日に照らされた赤白模様の大きなサーカステント向かうことにした。  テントの近くでは子供から老人まで、たくさんの人々で賑わっていた。 「町一番の人気者が居なくなるなんて寂しいな〜」  ある町店の店主はそう言って、団長と見られる燕尾服を着た男に肩を組んだ。 「そう言っていたただき光栄です。どうぞ、最終公演の最後までをお楽しみください」 「うわーん!僕の風船が木にひかかっちゃった!」  子供の泣き声がした方を見ると、そばの木の高い位置に黄色の風船が掛かっていた。 「……」  風船を配っていた、赤いポンポンがついた道化帽をかぶったピエロは団長にその束を預けると、何も言わず木の上へ登り始めた。  あっという間に風船のところへ辿り着くと糸をしっかり持ち、木を降りた。が、着地を失敗したようで尻餅をついた。ピエロはおかしいな〜と言うように頭をかき、小さな男の子に風船を渡した。 「あはは、大丈夫?ありがとう、ピエロさん!」  さっきまで泣いていた男の子は笑顔になった。それを観ていた周りの人々もまた、拍手を送り笑い声を響かせる。 「こんなところでポピーのパフォーマンスを観れるなんて、さすがだなぁ!」 「綱渡り、楽しみにしてるぞ!気を付けろよ!」  “ポピー”と呼ばれたピエロは両手を広げ、深々とお辞儀をして、テントに戻った。  すれ違った時、帽子から覗いた髪色を見て、私は思わず隣の人に話しかけた。 「あの……ポピーって?」 「お前さん、この町にいて綱渡りのポピーを知らないのかい?!」 「はい。旅で来たもので。このサーカスを見るのも初めてなんです」 「おー!そうかい!それは運が良かったね。最後の公演を観に来れたなんて」 「そんなにすごいピエロなんですか?」 「もちろんさ。この町、いや世界一陽気で素晴らしいピエロさ。 綱の上の彼女はまるで太陽のよう、他にいないさ」  話しかけた彼はそう言って誇らしげに笑う。 「なるほど、ポピーもこの町の人なんですか?」 「いいや、確か団長の拾い子だったはずだよ。髪色もほら、ここらじゃ珍しい金髪。すごく器用で明るい子なんだ。なんだ、年が近いからってお嫁にもらおうとしてるのかい?それはきっと団長以前に町民が許さないこった。町一番の人気者だからね」 「違いますよ。少し気になることがあって。ありがとうございます」  「そうかい、そうかい!ははっ!」  ドンと背中を押され、私は礼を告げテントの中に入って行った。  入り口の幕を開けると、キャンディの甘い匂い、テンポの良い音楽、色とりどりのガーランドや、ポップな看板が飾られていた。  さらに中央、サーカスの舞台は照明でほのかに明るく、空中ブランコやカラフルな大玉、そして天井には金色の綱が吊るされていた。  私はチケットに書かれた席につき、綱を見てしばらく考え事をしていた。  この町の住人はみな、橙髪が多い。先ほどの人が言っていたように、ポピーの、あの薄金髪はいなかった。それに、柵の細い棒に立って踊れるのもきっと綱渡りをする彼女だけだろう。  ある一つの仮説を作る。もしかしたらポピーはあの月夜の少女なのではないだろうか。  不意に、照明が暗くなり中央の丸い舞台に明かりがさした。  開演前のざわめきがピタリとやみ、観客は今から始まる公演に胸を高鳴らせる。  壇上には杖を持ち、シルクハットを被った団長が一礼をした。 「お集まりの皆皆様、本日は我がサーカス団のこの町最後の公演にお越しくださり、誠にありがとうございます。わたくし、団長ボルトンをはじめ、火吹きのリオ、ジャグラーのトッキン、空中ブランコのマーパ、そして綱渡りのポピーなど、この町で出会えた家族と共に……あぁ、欲張りリスのコキと私の薄毛の犯人、鳩のプーレを忘れておりました」  そう言うと団長はポケットからどんぐりを頬張るリスと、シルクハットから頭を突く鳩を出した。  テント内で笑い声が響く。 「プーレの抜けた羽でカツラを作ればいいさ!」  団長は苦笑しながら杖を持ち直し、話を続ける。 「この家族でサーカスを続けてこれたのはひとえに、この町の皆様のおかげです。そして、私たちはとうとう羽ばたく準備が整いました。この町での恩は忘れず、空の広さを知っていきたいと思います。代表して、感謝申し上げます。……それでは、始めましょう!我が一団は、皆様と最高のお時間を作ることをお約束いたします!」  団長は帽子をとって頭を下げる。私たちは大きな拍手を送った。  こうして始まったサーカスは非常にコミカルで楽しい公演だった。 「リオ様カッコいい!熱いわー!」 「ナイスキャッチ!お見事、トッキン!」 「マーパさん達、凄いな……」  小さな一団ゆえ、大掛かりな仕掛けなどはないけれど、一人一人のパフォーマンスが素晴らしい完成度で、観客との距離も近く、親しみやすい公演だ。 「それでは皆様お待ちかね、綱渡りのポピー!!」  観客の拍手や指笛にあわせて、熱気が一段と上がる。私たちは天高く吊るされた綱に目をこらす。  パンッ、とスポットライトが金色の綱を照らし、そこに現れたのは赤いポンポンのピエロ……ポピーだ。彼女の白塗りの顔には星や涙が描かれ、赤い唇は常に笑っている。  彼女はゆっくりとお辞儀をすると、綱に足を掛けた。  その瞬間、彼女はこの会場で太陽になった。  両手を広げ綱を渡り、足を広げてジャンプしてみせた。ある時は、綱の上で優雅に踊り、ある時は自転車で渡った。  最後に彼女は帽子を上へ投げたかと思えば空中へ飛んで一回転し、キャッチしてまた綱へ降り立った。会場が拍手と歓声に包まれる。  綱渡りの全てのパフォーマンスが終わり、綱から降りると彼女はほんの一瞬、暗がりの中のピエロの看板を見つめ、また観客の方を向きにこやかに笑ってみせた。ポピーは片方ずつ腕を広げ、そして胸の前に手を当てお辞儀をした。  その場にいた全員がスタンディングオベーションを送り、会場には色とりどりの紙吹雪が舞う。観客は団員に激励の声を飛ばし、団員たちも大きく手を振りながら退場していき、ポピーもライトに照らされて深々とお辞儀をし、舞台を後にした。 サーカス団のこの町最後の公演が終わった。客出しの音楽が始まっても拍手は鳴り止まなかった。  私は公演の余韻に浸りながらも、ポピーが最後、暗がりの看板へ視線を向けた一瞬が、頭を離れなかった。  その夜、私はまたあの海に来た。  波の音が心地よく聞こえる。今日も天気が良く、満天の星空が広がっている。  そして視線の先には、白い月が手すりに座り、海を眺めていた。 「こんばんは」  急に、後ろの方からどこかで聞いた深い男性の声がした。  振り向くと黒いシルクハットを被った、団長のボルトンさんだった。 「……こんばんは、ボルトンさん」 「おや、今日の公演におられましたか?」 「はい、素晴らしい公演でした」 「それはそれは、ありがとうございます」  ボルトンさんは帽子を取り、私の隣に座った。 「旅の準備は整ったんですか?」 「えぇ、あとは別れの挨拶のみです」  彼は白い月を見つめた。 「彼女が気になりますか?」 「いえ、その……月夜のピエロとして、です。彼女はポピーですよね?」  私は素直に尋ねた。すると彼は小さく笑った。 「……たしかに、どちらもポピーですよ」 「どちらも……?」  私が真意を聞くより先に、答えを知ることになった。  手すりに座る月が振り向いたかと思えば、もう一人の月が……いや、あれは太陽か? 「あぁ、来ましたね」 「……ポピーが二人いるということですか?」 「いいえ、ポピーはポピー。彼女達が決めたんです」  ボルトンさんは話し始めた。それは、ある双子の少女の話。  彼女達の故郷では、双子は忌み嫌われていた。そんな中で生きていくためにはどちらかが消えるしかないと思った。けれど、それはできなかった。  だから彼女達はお互いともう一人、ポピーという存在を作った。  私が貴方を捨て、貴方が私を捨て、  私が貴方を演じ、貴方が私を演じる、  そして貴方は貴方として、私は私として、生きていける。 「彼女達には名前がありません、ポピーに顔はありません。どちらかは光で、どちらかは陰にいる。互いが互いのためのピエロ」  彼は最後にゆっくり息を吐き、話し終えた。  私たちの視線の先にのぼっているのは月か、それとも太陽か。夜空のライトを浴び、海を背にして二人は綱の上で踊っている。  そこに観客は必要ない。 「自由に、してあげられないんですか?そんなことをしなくても、貴女はただ一人一人としてここに居ると、言ってあげないんですか……?」  潮風が波の音を運ぶ。ただ、悲しくなった。 「そう言えば、彼女達を救えるのでしょうか。そもそも彼女達はそれを望んでいるのでしょうか。あのピエロの涙は誰の涙なのか、あの赤い口元の下は果たして笑顔なのか。私達はそれさえ、分かってあげられない」 この物語は“  ”を救うための舞台だったのでしょうか?  そこで私の筆は止まった。これ以上は書ける気がしなかった。  これは私が考えた物語だ。  ポピーというピエロの秘密のお話。  私は物語で人が救えると思っている。物語の中の人達を綴った言葉で幸せになってほしい。  ポピーだって、最後はみんなに囲まれて、笑っていてほしかった。  それが彼女達にとって幸せだと。  私はあなた達が笑っているのか、泣いているのかさえ、分かってしまうのだから。  でもそれは、私が書き上げた救われる結末に閉じ込めただけなのではないだろうか。

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「第7回N 1」私のピエロ

風を売る少女

「やっと着いたか……」  周りを見渡す限り山が連なり、その中でも平坦な集落。そしてどこか懐かしい、でも寂しい……故郷まで続く一本道が伸びていた。  久しぶりに故郷の村に戻った。ある人から聞いていた。 “あの村はもう誰もいない”と。  言われた通り、廃れた集落になっていた。家はボロボロ。畑の雑草は伸び放題。人の気配はなく、あるのはここに昔人が住んでいたという痕跡だけ。  私は悲しくなった。少し前までは賑やかだった故郷がこれほど……、あれ。  私の生きた故郷はどんな姿だったか。  靄がかかったように、うまく思い出せない。  そもそも20年近くぶりに故郷に帰ったことを思い出した。半ば強引に出て行った私は嫌っていた故郷の風景を忘れていた。  途端に心の穴に風が吹いたように寂しくなった。  ふと、目の前に小さく白い何かが通り過ぎた。よく見ると、タンポポの綿毛だった。 「おじさん、そこで何してるの」  声がした、綿毛の飛んできた先をみると1人のおさげの幼い少女が小高い丘に座っていた。着ている白いワンピースを風でたなびかせ、綿毛を吹いていた。  そういえば、そこの丘でよく親友と綿毛を吹いていたな。 「故郷を思い出して泣いているの?」  その時初めて泣いていることに気づいた。 「いいや……思い出せなくて泣いているんだ」  人がここまで脆いとは思わなかった。 「それは悲しいこと?」 「あぁ、ここまで悲しいことだとは思わなかったんだ」 「どうして帰ってこなかったの?」  あぁ、そうだ。私はこの狭い故郷よりも自由を求めて出て行ったのだ。普段から門限を超えて外に出ていた少年の私を母は毎日叱り、待って、心配していた。そんなことは気に留めることもなく、飛んでいる綿毛の進むままに、輝いて見えていた都に飛び出した。  そして、帰ることはなかった。 「思い出したい?」 「出来ることなら」 「……あたしがいいの売ってるよ」  少女は鞄の中から何かを取り出した。 「あたしフーリ。おじさんは?」 「私はダンテ。かつて、この村に住んでいた」 「ふーん、そう。そんなおじさんに、よかったら“風”を買って行かない?」  この少女はきっと遊んでいるのだろう。  ほらここに、と少しのタンポポの綿毛が入った、ただの瓶を見せてきた。  人1人いなくなった村にいる子だ。きっと遊び相手がいなかったのだろう。  小さい頃は商売遊びもしたなと、懐かしく思いながら、私は付き合ってやることにした。 「あぁ、買うよ。いくらだい?」 「ほんと?!ひとつ50ロムだよ」 「50ロム?なかなかいい値がするね」 「当たり前でしょ。もうニ度と出会えない、おじさんの故郷の風だもの。おじさんの涙に免じてこれでも安くしたほうよ」  そう言うと、フーリは手のひらをこちらに出してきた。私はその手に、そばに咲いていたタンポポ二本と、落ち葉をのせた。 「黄金のタンポポが20ロムずつで、この落ち葉が10ロムだ」  そう言うとフーリは不機嫌な顔をした。 「おじさんバカにしてるの?それは50ロムじゃないでしょ。ちゃんとお金で払ってよ」 「本気で50ロムで売ろうとしているのかい?」  驚いた。彼女の目は商売人の瞳だった。本当に風を売ろうとしているのか。 「なによ、当たり前でしょう。私が売る風は特別なんだから」  フーリはそっぽを向いた。 「すまない、子供の遊びかと思っていたよ。君も立派な商人なんだね」 「えぇ。おじさんもきっと、この風は気にいると思うんだけど」 「この瓶の中に風が入っているのかい?」  私は気になって聞いてみた。 「そうだよ。おじさんの生きた故郷の風。少しタンポポの綿毛が入っているでしょう?これがあれば風の記憶がより強くなるの」 「風の記憶?」 「うん。風はね、記憶を運ぶんだよ。例えば美味しい匂いが風に乗っておじさんのところに着くと、おじさんはきっとその食べ物を思い出すでしょ。それとおんなじ。この風はきっとおじさんに思い出を運んでくれるよ」  フーリが綿毛の瓶を差し出した。 「今日は特別大サービス。15ロムでどうかな?しょうがないから後払いにしてあげる。おじさん優しそうだし」 「いいのかい?」 「うん、まずは体験してもらわないと」  私はフーリから瓶を受け取った。見た目はただの空っぽだったが、なぜだろう。暖かさを感じた。 「……開けるよ」  蓋を開けると、中の綿毛が飛び立った。  その行方を眺めていると、不意に名前を呼ばれた気がした。 『ダンテ……』  村の方を見ると、暖かい風が吹いてきた。  そこには私の故郷があった。  家の窓からは花瓶がのぞき、畑の野菜は大きく育っていた。  友達の母は子供たちを見守り、近所のおじさんは畑仕事を。隣のおばさんは井戸の前で談笑し、親友は私に手を振っていた。  そして……、 「……母さん」  私の母は、ドアの前で帰りを待っていた。 『おかえり、ダンテ』 「……っ。ただいま……!母さん。帰らなくてごめん、待っててくれてありがとう」  風が吹いた。  目の前の景色は先ほどの景色が夢だったかのように、廃れた姿になっていた。  いや、きっと風が見せてくれた夢だったのだろう。  それでもよかった。  私はやっと、故郷を思い出すことができた。 「ありがとうフーリ……」  振り返ると彼女の姿がなかった。  そこには揺れるタンポポの綿毛が柔らかい風に吹かれながら咲いていた。 「君も風の思い出になったんだね」  私はそう呟き、しばらく故郷を眺めていた。

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風を売る少女

雨音の消えた通学路

雨音で耳に蓋をするように、傘で自分を隠すように、学生の頃そんな雨の日が好きだった。  でもあの日は……塞いでいたはずの音がしなかった。  私はどこか、声のない場所を探していた。 「……疲れた」  家も学校もうるさかった。言葉も空気も視線も。 『お隣のあの子は出来るんだからもっと頑張れるでしょう?』 『君ならうまくまとめれると思うから任せたよ』 『結局、あの子は真面目すぎて面白みがない』  期待や責任や結果の全てが私の周りを囲んで、足音をたてて迫ってくる。  いっそ孤独になりたかった。暗いリビングでも静かな教室でもないような一人の場所で。  そんな私が見つけたのは灰色の空の下、雨の日の通学路。  晴れ渡る空は誰にも平等に広がるからこそ、その中に立つと私は光に溶けなければならない気がして、息が詰まった。  だけど雨の日は違った。傘で私の存在をそっと覆い隠し、雨音は私の耳にやさしく蓋をしてくれるようだった。  そんなふうに雨は私を守ってくれていた。  けれど、その雨がいつもと少し違ったのは高校ニ年生の六月の帰り道の事だった。  その頃は高校の文化祭の準備に追われていた。  私は先生から実行委員を任されていた。 「君なら上手くやれると思うし、皆んな君が適任なんじゃないかって。だから困ったことがあったらクラスの友達に手伝ってもらって」 「……分かりました」  ここで断ったら“みんな”からどう思われるだろう。  断り切れなかったが、任されたからにはやり切ろう、そう思っていた。  しかし、あと一週間しかないというのにクラスの出し物は完成とは程遠かった。  クラスの人たちは最初こそ手伝ってくれていたものの、残ったのは私を含め片手で数えられるほどだった。  放課後に毎日居残りをしても終わることのない作業。数日前までは手伝ってもらおうと声をかけたが……、 「えー、部活あるから」 「ごめん、このあと用事が……」 「めんど、他の人やってくれるでしょ」  この始末でもう諦めるしかなかった。  私がなんとかしないと……頑張らないと。  心に沈む叫び声さえ言葉にせず、聞こえないふりをする。梅雨の時期で激しく雨の降る音を聞きながらやり続ける、そんな毎日が続いた。  今日もいつも通り作業をしていた。  残ってくれたのは少人数だったが、当日間近なこともあってありがたかった。  しかし、すぐにうまくいかなくなった。 「もー疲れた、わかんね」 「あとちょっとで完成でしょ、てかこれでよくね」 「でも……」  でもここで“まだ終わらないし、時間もないから残ってくれ”なんていったらたらどう思われるだろう。だから自分に言い聞かせる。  “残ってくれて、手伝ってくれるだけありがたかった、そうでしょ、私だけになっても、任されたんから、きっとやり切れる、だから……” 「ねー、もう帰っていい?雨降ってるし」 「……うん、あとやっとくよ」  ふと窓を見ると、いつも通りこの時間によく降っていたはずの雨が、私を外に出すまいとしているような気がした。それはまるで檻のようで……、好きだった雨さえも、今はただ辛い。  でもそんなことさえ考えている暇はない。今出来ることをしなくてはならない。  帰っていく人たちを横目に作業を続けていたら、ポケットに入れていたスマホが震えた。それは母からの電話だ。 「……もしもし」 『あ、やっと出た。ねぇ、お母さん今日遅くなるから妹たちにご飯作っといて言ったよね。まだ帰ってないって連絡あったんだけど。最近、文化祭の準備だか知らないけど、帰り遅いんじゃない?あんたは出来る子なんだから早く終わらせなさいよ』 「うん、ごめん……」 『別に謝って欲しいわけじゃないのよ、ただ心配なだけで……あ、今娘と話してて、はい……とにかく、今日はもう帰ってくれる?雨であの子達も留守番心細いはずよ。じゃあよろしく』 「わかった……」  ぷつりと切れる音がした。  私は残ってくれている子に事情を話し、帰ることにした。  あぁ、洗濯物入れてたっけ、晩御飯どうしよう、そもそも今日抜けて文化祭間に合うかな、でも早く帰らないと……。  帰り道、心の中でグルグルと自分の不安げな声が聞こえた。そういう時は雨音に耳を傾ける。お願いだから、この不安を隠して、聞こえないふりをさせて−−。  バラバラと不規則に雨粒が傘を打ち、踏み出した足元の水溜まりがパシャリと踊る。  雨は私に寄り添ってくれる気がしていた。  ふと前方を見ると先ほど帰ったクラスの子がいた。  私は傘を深くさしながら通り過ぎようとしたが……聞こえてしまった。 「もー最悪。雨降る前に帰りたかったのに」 「それな、てかあれやばくない?間に合うの?」 「ほんと今まで何してたんだよってくらい進んでないよね。手際悪すぎ」 「あの子のやり方じゃ終わんないでしょ」  雨が刺さる。  私はその場から……逃げた。  なんでこうなるの……ねぇ、どこで間違えたの?  どうすればよかった?嫌われた?  違う!帰らないと!みんな待ってる。  ちゃんとしないと。私は出来る子になんでしょ。  ごめん、ごめんね。上手くできなかったね。もう分からないっ。  でもっ、私はこれでも頑張ったの。頑張ってるよ。  ……だからもう何も言わないで。呆れないで、怒らないで。  私の声を聞いて。  絶えず、雨粒はバラバラと傘を打つ。  それでも……心の叫び声が頭に響き続ける。 「雨はもう塞いでくれないの?」  風が強く吹いた。力の入らない手から傘が飛んでしまった。まるで逃げた私のように。  雨は直に私に降りつける。  心の雑音が消えることはない。傘に隠れないと、雨音さえ私を責めるように感じる。  空に私が見つかってしまった。  雨も私を守ってはくれない。  ただ耳元でバラバラ音をたて私を濡らす。 「……もう嫌だ……うるさいよ」  そう、溢れた。    刹那、ふっとなにかが変わったような気がした。  その“なにか”に気づくのに時間はかからなかった。  変わったその一瞬で、意識がそちらに向かった時に。  その瞬間から聞き慣れた音がしなかった。  雨粒は私を濡らすのに、アスファルトを打つ音は鳴らない。  目の前の道も同じようで同じじゃない。私が見つける限りそこに伸びて、でもどこかで果てが来る気がした。  何故か、不安はない。ただひたすら、泣いてしまいたくなるほど静かな、そんな世界だったから。心の雑音も聞こえない。私のために音だけを潜めたように。  今ここは雨音の消えた私の通学路だ。  傘をさし直し、静かな通学路を私はしばらく歩いていた。  途中、気になって水溜りを踏んでみたり傘を回したりしてみたけどやっぱり音はなかった。 「不思議……」  私はクラスのことや家族のことが頭の隅に畳まれていたことに気付きながら、でも一度気にしないことにした。今ならそれが出来た。  ふと足元の少し大きな水たまりに目を落とす。そこに写っているのは灰色の空と私の顔と私の赤い傘。  あと……私じゃないもう一つの傘。  そして不意に──歌声が聞こえた。ただの声じゃない。それは私がこの通学路に入ってから聞いた、“私以外の初めての”音だった。 「あめあめ ふれふれ かあさんが、」  思わず顔を上げると、くるくる回る虹を滲ませた様な淡い色の傘が目に入った。 「じゃのめで おむかえ うれしいな」  顔は見えないが、格好で同じくらいの女の子だとおもう。 「ピッチピッチ チャップチャップ ランラン」  少女は歌い終わるとこちらを向いた。顔は傘に隠れて口元しか見えない。そして、 「……ねぇ」  少女が私に問いかけた。 「そっち、私の声……聞こえてる?音、してる?」  私にそう聞いた。  驚いた、私の他でこの道に人がいたとは。  でも、うるさいとは思わない。しとしと降る雨の様な声だった。 「……うん。貴方の声、聞こえる。他の……雨音はしないけど」  少女はくるくると傘を回した。まるで傘が笑っているみたいだ。 「そっかぁ、私以外にもここに人が居たんだ。嬉しい。こっちにおいでよ」  少女はこちらに手を伸べた。相変わらず顔は見えないけど悪い子には見えないし、なにか同じような…不思議な感覚があった。私は目の前の水たまりを飛び越え少女の手を取った。  私たちは並んで歩き始めた。通学路で誰かと一緒に歩くことがなかった私はどんな感じでいればいいのかわからなかった。 「なんか緊張してる?」  少女が私に聞いた。 「いや、その……。あんまり誰かと歩くことなんてないからどうすればいいのか……」 「ふふっ、気まずい?」 「ううん……不思議とそんなことはないの。なんでだろう」 「私もだよ、そっちに安心感がある。……雨みたい」 「雨……」  私たちはお互い、傘で身を隠していた。  名前も顔もお互いに知らない。  でも好きな食べ物、好きな色、よく聞く音楽、ぽろぽろ溢れる他愛のない話に、私ってこんなに話せたんだと少し驚いた。共通点が多く、話すのが楽しかった。  雨は降り続けているが、雨音は依然聞こえない。聞こえるのは少女らの声と二人分の足音。  この不思議な世界を私たちは傘をさしながら歩き続けている。  途中、小さな公園があった。 「青、白、ピンク……綺麗だね」  彼女が指を指した先には紫陽花が咲き乱れていた。 「そういえば小さい頃好きだったっけ、紫陽花」  梅雨の時期、まだ妹が母のお腹にいた頃、母と私二人きりであめふりの歌を歌い、お気に入りの傘をもってよく散歩をしていた。 『ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらーん。あ!ママみて、あじさい!』  ちょうどこの公園みたいな場所に咲いていた、晴れでも雨でも曇りでもそっと寄り添う様な、それでいて美しく存在感のあるこの花がお気に入りだった。母が、私が紫陽花を持って帰りたがると帰りに花屋で買って飾ってくれた。家に帰った父がそのことを聞くと、母が 『この子が選んだのよ。うふふ、センスがいいと思わない?綺麗でしょ』  と、頭を撫でながら話してくれた。まだ冷めていない、私の暖かい記憶。 「今は好きじゃないの?」  彼女が花弁を撫でながら聞いた。 「うーん、好き……かな。まぁ、そのあと妹が生まれたし、散歩にもあんまり行かなくなって」  私はお姉ちゃんになった。少し歳が離れていたということもあり、よく面倒を見るようにと母に言われた。最初こそ、妹可愛いさに世話を焼いた。母にも、面倒見の良い姉だと褒められて……、母が望むいい子でいれば喜んでもらえる。だけどそれが当たり前の私になってしまった。 「頼りにしてもいい子、期待通りに頑張ってくれる子。気づけばそんな“私”になってた……」  静かに話を聞いていた彼女が呟いた。 「じゃあ……“本当の私”はどんな子なんだろう?」 「え……?」 「家では“良いお姉ちゃん”で、学校では“頼りになる子”」 「……」 「自分では“それは私が望んだ自分”って言い聞かせてる」 「……!」 「でもそれは、“私”なのかな?」  少し怖くなった。音のない世界で、今日出会ったばかりの少女に自分の心の声が漏れて聞かれてしまったみたいで。  でもそれと同時に……ほんの少し、心が軽くなった気がした。  気づかれてしまったというより、私自身も気づけたんだと思ったから。  知らないふりをした方が楽だったかもしれない。知らなければ、この雨が止んだ後もまた毎日頑張ればいいんだって、“そこに居て認めてもらえる私”になれたらいいって……。そう、思えたのに……。  俯いた私に、少女が呟いた。 「本当は……私はどうなりたい?」  静かな世界は、私が1番無視してきた音を聞かせた。  それは“私自身の声”。  雨音で塞いだのはその声を聞こえないふりをするためだった。“みんなが望む自分”で居続けられるように、もう最初から“私”を隠してしまえばいいと思った。 「それは……」 「ちゃんと聞いて、私の声を……」  心のどこかで少しの間、雨が止んだ。  滲んで見えにくかった想いが響いた。  聞こえてしまった。見つかってしまった。それでも、逃げる場所はいくらでもあった。だけど、私は……。 「……私は、私をちゃんと知りたい……っ。向き合える人になりたい。自分の気持ちを……大切にできる、ように……」  鼻の奥がつんとした。言葉と共に視界が滲む。 「……もう置いてけぼりにしたくない……っ」  雨で滲ませた本音が願いと混ざって私に話しかける。  刹那、少女は傘を手放して私を抱きしめた。 「ずっと、待ってたよ……。私が私の声を聞いてくれるの」  その声は私とそっくりで。だけど少し、儚かった。 「ごめんね……。本当はずっと聞こえてたのに……。周りの音ばっかり聞いてしんどくなって、でも頑張らなきゃって……泣いちゃだめだって、ずっと……っ」  「泣いてもいいんだよ。ダメな理由なんて誰にもない。よく頑張った。いつも充分なくらい。すごいことだよ。……私のいいところだから、それも大切にして」  その言葉を聞いて私も少女をギュッと抱きしめる。安心して、止めどなく涙が溢れた。 「……う、うぅ……」 「雨が降ったら、いつか晴れて虹が出る。涙は、いつかの笑顔のために流すんだよ」  私は顔を上げて少女を見た。私とそっくりの顔のいつかの明るい自分を。  しばらく抱き合って泣いた後の空は、土砂降りだった天気が、いつのまにか柔らかい雨になっていた。 「……もうすぐ、雨やみそうだね」 「うん……」  きっともうすぐ、別れの時間が来る。  私たちは傘を持ち直した。 「その傘、小さい頃のだよね」 「そうだよ、これがいちばんのお気に入り。虹が降ってきたみたいな傘」 「うん、懐かしいね……」 「ねぇ、虹ってどうやってできると思う?」 「ふふっ、せーの!」 『水たまりの反射!』 「あはは、やっぱりまだそう思うよね」 「うん、なんかそうだったらいいなって思って」  散歩の時、虹の麓を探すんだー!って、水溜まりを一生懸命除いて回ったっけ。 「……ここって、もしかしたら虹の中なのかもね」 「どうして?」 「雨が降って、晴れて。そしてどこかの水たまり同士が反射して虹ができるみたいに、心が共鳴して私たちが出会えたのかもしれない。まぁ、わからないけどね」 「……じゃあまた会えるかな」 「ふふっ」  少女は微笑みながら互いの胸に手を当てた。 「大丈夫、“私”はちゃんとここに居るよ」  私もその手に重ねて、 「ありがとう、“私”」  微かに聞こえ始めた雨音を聞きながら目を閉じた……。  あれから数年が経った。  あの日、目を開けたあと音も道も元通りになっていた。  その後、雨音が消えるなんてことはなかったが、今でも私はあの通学路を忘れたことはない。  日常を過ごす中で、頑張りすぎることは多々あるが、自分を蔑ろにしてまで行動することは無くなった。  周りの環境はそれほど変わることはないが、自分に余裕が生まれた為か周りの声などが前ほど気にならなくなった。  でも、私がガラッと変わったわけじゃない。あの頃の私も、大切にしたい。  それがきっと私の素敵なところだから。 「さてと……いってきまーす」  外に出ると先ほどまで降っていた雨が止み、晴れ始めていた。 「あめあめ、ふれふれ、かあさんがー」  すれ違いに歩く幼い子供が母親と共に歌いながら歩いている。  ふと、視界に入った水たまりに……虹の傘が見えた気がした。  ハッとして振り返ったが、道には誰もいなかった。  しかし、見上げた先で目を引いたのは……、  空にかかる、大きな虹だった。  それは儚げで、でも輝いていた。  私は微笑みながら、 「もう大丈夫。……ちゃんと聞こえてるよ」  そう呟いた。  また一歩、“私”は傘を持って雨上がりを歩き始めた。  ずっと晴れている必要はないよ。  雨の日の私も好きでいられますように。  少しだけでいい。私の声を聞いて。  私が私を大切にできるように。  雨音の消えた通学路はあの日虹となり、私の心に掛かり続けている。

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雨音の消えた通学路

「第6回N 1」彼女はまだ壁の中で

【3.2.1……】  ひんやりとした壁に手を当てる。冷たいのは嫌い。 「このすっとこどっこい!なにやってんねん」 「わわ!わぁ〜!?」  お弁当が落ちる寸前で受け止められた。  遮る壁は何もない青空の屋上で。  ミニスカートに少し着崩したリボンに。  12時30分の太陽は少し西寄り、まぁほぼ真上。  なんてことない、当たり前の昼休みなのに。  私はトウ。  最近、頭の中で知らない声が聞こえる。  はじめは遠くてシグナルみたいに、今は耳元で囁くように。  でも、誰かに呼ばれてる気がする。  なんて……疲れてるのかな。びっくりしちゃってお弁当を落としちゃった。 「セーフ、ありがと〜ユーリ。美味しいオムライス落とすところやった」 「今回はセーフ…セーフやけどさー、ほんま気ぃ付けや。あんだけ食べたがってたんやから」  キャッチしてくれたのは、関西弁と“すっとこどっこい!”が口癖の幼馴染のユーリ。  話せば長くなるが彼女とは物心着く頃からずっと一緒で……実のところ私は諸事情によりユーリの家族と一緒に住んでいる。だから幼馴染兼ほぼ家族みたいなものだ。  ユーリは頼れるお姉さんのようで同い年ながらについつい甘えてしまう。  私にはない、太陽の様な人。なにが合っても一緒にいて、私を守ってくれる人。 「またぼーってしてるで、トウ」 「ううん、なんでもない。あったかいからかな」 「嘘やな、変な顔してるもん」 「どんにゃ顔?」  ユーリが私のほっぺたを引っ張って目を合わせる。 「すっとこどっこいな顔w」 「ひどーい。それ、今ユーリがそうしてるじゃない」 「オカンのお弁当落とすくらいやで。例えば見えないものが見えたとか……?」  ぺちっと額にデコピンをくらった。 「驚いた、ユーリは宇宙人か魔法使いなの?なんでわかった?」 「ちゃうけど!……そう思っただけー」 「……実は…聞こえないはずなのに聞こえるっていか……」  思えば小さい頃からちらついていた、聞こえると表現しつつも明確に言うと頭の中で反響するみたいなそんな声。  ときに切れかけた蛍光灯のような、砂を風に乗せたときのような朧げな感覚。  ただそれらは今まで言葉にならないノイズだった。 「でもさっきは……はっきり聞こえたよ」 「……なんて?」 「地球侵略開始まで、3、2、1」 『0』  刹那、屋上以外の空に暗闇が襲い、時が止まった。  ん?時が止まった?  あれ、なんで私はそう思ったの? 「トウ!このすっとこどっこい!起・き・ろー!」  目の前には私の肩を揺さぶるユーリが心配そうに眉間に皺を寄せている顔が見える。 「ユーリ……あれ私寝てたの?お弁当食べながら寝てたの?」  手元には確かに食べかけのお弁当が。 「ちゃう、なんかわからんけどアンタが起きてるのに起きてないみたいな……とにかく様子が変やったから」 「そっか、よかった。なんか今変な感じしたから」 「よかったちゃうわ、実際に変やねん!空も周りも!」 「……ん?」  まず最初に見たのは曇りとも言えぬ黒い空。頭上は晴れているにもかかわらずただひたすらに闇。  そしてその場で止まりつづける烏。進むことも落ちることもなく羽を広げている。  最後にいつもなら教室から漏れる生徒たちの笑い声も異様なまでに聞こえない。 「どうなってんねん」 「……時間が止められてる」 「は?」  ユーリが私を見た。当然だ、普通ありえない。ただ私はなぜかこの感覚を知っている。そんな確信を持った言葉が思わず口をついた。 「なんでそんな……知ってるみたいに」 「わか……んない。けどっ」 「……」  頭上の青空の光がスポットライトのように私たちを照らす。そこに影が現れた 「……!何か来る!!」  ソレは空から優雅に降りてきた。 『やァ、コンにちワ』  人の形をしたモノクロだった。真っ黒な服に真っ白な肌。しかしその瞳は血よりも紅い。 『アれ¿チューにんグが合ってナイ?』  口から出るのはあの声のように、チカチカと響く。 「なんやねん、お前!」  ユーリが私の前に立つ。ソレは構わずこちらに歩いてくる。 「と、止まれや」 『ア、ァ、あ、いうえお。これで問題ないですネ。おっと失礼、んっんー』  ソレが咳払いしたと同時に目の前にいたはずのユーリが消えた。その代わりその場所にソレがきた。 『お久しぶりです♪やっと貴方様をお迎えに上がれましタ』 「ひっ!」  私は後ずさった。知らない知らない。こんなやつ知らない。怖いこっち来ないで。 「うちのトウに何ナンパしとんじゃワレェ!」  俯いた瞬間、ユーリの怒号が聞こえたかと思えば、彼女らソレにつかみかかろうとしていた。 「瞬きした瞬間に位置逆になってるとかどうなってんねん!離れろやー!」 「ユーリ!ダメ!」 『うるさい人間ですネー』  ユーリの手がソレの腕に触れる寸前、私たちの間に透明な壁が現れた。 「へぶっ」 「な、ユーリ大丈夫?」  勢い余ったユーリの体はその壁に突撃した。 「だ、大丈夫や。おでこにたんこぶ出来るくらい。それよりお前!なんやねん」 『ハぁー』  ソレはあからさまに大きなため息をついた。 「ユーリの言う通り……だ、誰なんですか」 『貴方様に聞かれると答えないほかナイですねー。ワタシはまぁ、ここで言うところの宇宙人みたいなもんです』 「……ざっくり」 「ざっくりよな」 『それ以外言えること無いんですヨ』  ソレは真顔で答えた。 「お名前とかは」 『無いでス』 「好きな食べ物とか」 『スペースダスト……とかそんなことはどうでもいいんですヨ』 「スペースダストってそんな美味しいん?」 「しらない」 『どうでもいいんですよぉォ!』 「じゃあ宇宙人さん、はるばる地球まで何しに来たんや?侵略か?」 『……なんでわかったんですか?宇宙人かなんかですカ』 「……そんなくだりやったな、宇宙人いうたらそんな感じやろ!」 「侵略……?」 「……」 「もしかして、ずっと私の頭に喋ってだのってあなた?地球侵略開始のカウントダウンも」  とうとう私は本当におかしくなったの?宇宙人の声が聞こえるとか、迎えに来たとか、そんなのまるで私が……わたしが。 『そうですヨ。我々は貴方様をお迎えに上がりました。……此処を我らが家にする為に。だって貴方様は……』  聞きたくない、聞きたくない。昔においてきた“真実”だなんて。  ソレが私の前で跪き言った。 『我らと同類。我らの星よ。貴方様が居たいと思う場所が我らの家デスから』  トウとはうちが5歳の頃から一緒に暮らしてる。理由は……ずっと前やから覚えてないけど、家の前にしゃがみ込んでた。  そういえば何で一緒に住むことになったんやろ。“そうなるべきだった”みたいな。  ちなみに“トウ”って名前はうちが付けた。“あかり”って感じの“燈”から来てる。なんか、はじめは暗かったからトウは。  んで、正直最初のうちは壁を感じていたが、うちは一人っ子やったから、同い年やけど妹みたいなトウがすぐ大好きになった。  性格上、いじられ役みたいに辛いこともあったと思うけど、うちが守ってやるって。  ……思えば、トウは不思議な子やった。  ぼんやりしている事が多かったし、多分本人も気づいてないけど小さい頃は独り言の時に言葉のようで言葉じゃ無いものを喋っていた。  ほんのちょっと、もしかしたらトウは絵本の世界から来た……なんて、すっとこどっこいな事考えてた。  やけど……。 「トウがアンタと同じ宇宙人?寝言は寝て言えや」  ユーリはありえないと言うように相手にしなかった。でも、 『寝言でもなければ嘘でもなイ。だって貴方様も少しは自覚しておられるのでワ?忘れられていてモ我々の魂は共鳴スル。貴方様が望んだのでス。“ここにいたい”ト。』  一度芽生えたこの感覚はソレからもたらされる声や情報により膨らんでいき、謎の納得感が生まれる。私は何者かであったと。 「わた……し、は」 「トウ!しっかりしい!」  またユーリが私に向かって手を伸ばす。  しかし、その手は壁に遮られた。 「え、なん…で」  その壁は私から作られていると自覚した。 『人間が我々に触れるなど言語道断。そう言う本能なのでス』  それは意図せずともユーリにとって私からの明らかな拒絶と肯定の壁。 『貴方様の願いは全て叶いマす。貴方はそう言うオ方。我々の希望の星』  ソレはニヤリと笑って続ける。 『その昔、貴方は暖かみがない星が嫌だと逃げ出した。そして落ちた地球知ったのです。我々にはない“あたたかみ”を。そう、全ては貴方の思いのままに。その人間との出会いも此度の侵略も。貴方がここに居たいなら我らの星をここにすればいい。どうです?壁の外は楽しかったですか?』 「……。」  なにも見たくない。聞きたくない。  でも一つだけ確かなのは、“私はここに居ちゃいけない”。 『なら帰りましょう。我が星へ』  ソレの手を取ろうとする私はとうとう認めたのだろうか。  もう、迷惑もかけられない。受け入れてもらえない。  幼い頃、忘れる前は、無意識に壁に閉じこもっていた。でもユーリの太陽の様な光はそれを崩していった。その残骸からも遠くなって忘れるくらいユーリは私と一緒に歩いてくれたみたいだった。  でも、それは私が願って作ってしまった関係だったと言うの? 「ごめん、ユーリ」 「なんで…何でなん、なんでこんな……」  きっと失望してる。私たちの間に大きな壁ができたことを知ってしまった。 「一緒に居られないみたい。お互い知っちゃったでしょ」 「こ……い」 「え?」 「……このすっとこどっこい!」  ユーリは泣いていた。 「……うちらがそんな手品みたいな壁ができたくらいで終わると思ったん?そんなぽっと出のソレに唆されて、じゃあさようなら、もう嫌いやって言わなあかんくらいちっぽけな関係じゃない!」 「でも私は……!」 「これは!うちの意思や、トウがなんであっても関係ない。うちからしたら壁は今そこにあるだけ。それがトウと終わる理由になんて何回聞いてもならへん」 「でも、もしかしたら一生このままかもしれないんだよ」  ユーリが私の壁に手を当てて見つめる。 「どんだけかかっても、そのつめたい壁はうちが絶対壊したる……!やから!」   【3、2、1……】 「やから……そろそろ帰ろうや!……うちに帰るって言って……トウ!」 【0】  視界が白く光る。  あぁ、またダメやった。  これで何度目やろう。 【諦めますカ?】  ソレの口が開く。  忌々しい。 【彼女はまだ壁の中ですヨ】 「……もう一回や」 【また変わらなくてモ?】 「次こそは迎えにいったる……!」   【3、2、1】  何度でも冷たい壁に手を当ててよび続けるんや。 「トウ……!」 【あーあ、彼女はまだ壁の中です。  過去を変えることは出来まセン。  今この時でさえも。】

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「第6回N 1」彼女はまだ壁の中で

桜仕掛けの花道 第5回N1決勝

「死神さんはさ、綺麗だなって思った景色とかある?」 「ない」  四月、桜の花も少しずつ咲いて今にも満開になりそうなこの頃。  1人の少女……桜子は四角の白い病室のベッドにいた。  彼女は幼い頃から病を患っており、先が長くないと言われていた。  両親は来ない。学校にも行けてなかったため、友達もいない。彼女は一人ぼっちだった。  そんな彼女の元に俺は訪れた。  俺は“死神“だ。死んだ者の魂を回収する役割がある。  死神が生きた者のところに訪れるのはその者が死ぬ少し前か、死神と契約を交わした時だ。  桜子はもうすぐ……俺が手を施さなければ今すぐ死んでしまう少女だった。  桜子と出会った時、つい3日前のこと。  俺は彼女の死期が迫った夜、病室に訪れた。 「誰……ですか?」 「俺は……死神だ。北川桜子、お前の魂を回収しに来た。」  桜子はもちろん驚いていた。黒い瞳が見開く。 「死……神?」 「……」 「え、本物?本当に死神?」 「そうだ」 「へんな厨二病とかじゃなく?」 「そんな友達も特にいないと聞いているが?」 「……そりゃそうだね、だから病院の人以外で私に会いに来た人は死神さんが初めてかも」  なぜか、俺がお見舞いにきた様な雰囲気だった。 「何故取り乱さない?何故信じる、怖くないのか?」 「まぁ、もうすぐ死んじゃうっぽいから最後くらい信じてもいいかな」  桜子は平然と言ってのけた。 「その時が来る事はいつも考えてたから……。まさか死神が来るとは思ってなかったけど」 「……そうか、なら話がはやい」  俺は彼女に現状を伝えた。  あと少しの時間でこの世から旅立つこと、その魂を送るために自分がきたこと。そして最終宣告。 「私、今すごく元気な方なのに?」 「そう言う亡くなり方なんだろうな」 「……なんか嫌だな。このまま治ると思ってた……」 「予想してたんじゃないのか?」 「希望は持ってもいいでしょ。今日突然、お前は今から死ぬって言われて、そうですねってならないよ、普通」 「……お前の様な人間は初めてなものでな、対応に困る」 「……そうなんだ。まぁいいや、で最後に私に何しにきたの?」  死神は死期が迫った者には選択肢を与える。 一つ、予告通りに死を迎える 二つ、来世の転生回数一回につき、1日今世の寿命を伸ばす 「時間通り死ぬまでにどちらかを選べる」 「二つ目ってどう言うこと?」 「お前はこのまま行けばあと3回来世がある。それを減らす代わりに1日づつ寿命が増える」 「じゃ、長くてもあと3日生きれるって事?」 「お前が望むならそう言うことだ。ちなみに基本、来世ではもちろん今世の記憶は無くなる」 「ふーん」 「考える時間は長くない。それに言っておくが、本当に夢でもなんでもない。これは現実だ」  あまりにも彼女が受け入れすぎて理解できなかった。今までの者は大体、俺に生きたい縋った。そして、時間切れで死を迎える者が多かった。こんな短時間で自分の運命を受け入れ、決める者などそういない。残念なことに、対価無くして寿命与えるようなそんな力はない。 「分かってるよ、自分がいちばんね。じゃあ……3日!3日伸ばしてくれない?」 「……いいのか?来世はなくなる」 「別にいいよ。今があれば」 「……分かった。では毎日1日ずつ寿命を伸ばしに来る。途中で気が変わったら言え」 「それって死神さんが面倒じゃない?」  俺の心配をしている場合かと突っ込みたくなる気持ちを抑えた。 「面倒ではない、それがルールだからな」 「なんのルール?」 「お前は知らなくていい」 「ふーん。で、ほんとに伸ばしてくれるの?3日」 「あぁ」 「……ありがとう」  桜子は死神さんも大変なんだねー、と言葉を溢す。  色んな意味でこんな人間は初めてだった。  それから毎晩、桜子の部屋に訪れ寿命の確認と、話をすることになった。  1人は暇らしい。 「死神さんって、暇なの?不謹慎だけど、他の人の所とかいかないの?」 「今はお前の魂の担当だからお前が死ぬまでは暇だ」 「なんか複雑かも。じゃあ他にも死神何人かいるの?」 「天使は1匹だと思うか?」 「嘘!天使っているの?会ったことある?」 「回収した魂はあいつらが管理する。口うるさい奴らだ」 「そんなの現実にあるんだ……なんかすごいね。別次元みたい」  何故こんな話をしたか分からない。ただ、彼女が今まで関わったことのないタイプの人間だった。この状況に立たされてここまで素直な人間はいなかった。だからこそ、自分でも経験したことのなかったことまでやっているのかもしれない。まだ、俺も浅いということか。 「おーい、死神さん聞いてる?」  目の前に、どうしたのかと首をかしげる桜子がいる。  とうとう、約束の3日目になっていた。今日、桜子は逝く。  別に数日話を聞いていただけで戸惑いや、悲しみはない。それが自分の仕事で運命だから。 「お前は初めから呑気だな。怖くないのか?」  普通、この状態に置かれた人間に“呑気だな”と言うのはお門違いも甚だしい。最低だと怒るかもしれない。  だが、桜子はただ日常を生きていた。 「呑気ってひどくない?これでも今日死ぬ人間なんだけど。あ、でも意外と元気かもね、最近の私。死神さんがお見舞いしてくれるからかな」 「俺は見舞いじゃない」 「そうですよね」  相変わらず変な人間だ。いや、まずこの死神と人間が他愛もない会話している状況が変なのだが。 「さっきの話だけど、綺麗だなって思う景色ほんとにないの?」  今日、窓辺の桜は満開になっていた。それを綺麗だと桜子は話していた。 「ない。何故そんなことを聞く」 「死神さんって色んなところ巡ってそうだし。私はここが世界の全てって感じだからさ」  そう言って彼女はうつむいた。 「ねぇ死神さん、私ってあとどれくらい時間があるのかな?」  表情はわからない。風に揺られて桜の花弁が一枚、窓の縁に運ばれた。俺はその縁に体を預け答える。 「あと少しだ」 「あと少しってどれくらい?」 「教えられない」 「ルールだから?」 「あぁ」 「肝心なところは教えてくれないんだね……」 「……」  かける言葉はない。俺は魂を回収するために来ただけの死神で彼女は今日死ぬ人間。  しばらく沈黙が流れる。それを破ったのは顔を上げて窓を見た桜子だった。 「私、ひとつ綺麗だなって思った景色があるの。小さい頃に見た桜の花道」  桜子は一度、自由に歩けるくらい元気になった時、病院のピクニックに行った時に立派な桜が何本も植えられた道があったと言った。 「桜が雪みたいに溢れて、地面一面が桜になって。綺麗だった。青い空を見上げて花弁が風でくるくる舞って。幼いながらに、あぁ私生きてるって、この場所の地に足を踏ん張って存在してるんだって思ったんだ」  その瞳は綺麗な景色を浮かべていた。それはもうニ度と戻れないあの頃の記憶。 「ねぇ死神さん。なんで3日寿命伸ばしたと思う?」  桜子は俺にそう問いかけた。 「さあな」  死神にとって寿命は期限でしかない。終わるまで待つ、ただそれだけ。 「ちょっとは考えてよ。正解はね……じゃん!」  桜子はサイドテーブルの一つの鉢を指した。  花が幾つか咲いた小さな桜の苗木だった。 「看護師さんに頼んでこれをお取り寄せしてもらったんだよ。今日届く予定だったからさ。これを病院の庭に植えようと思って。……間に合ってよかった」  桜子は花を一つ、そっと撫でた。 「先生が私のわがまま聞いてくれて、広い花壇の道に植えようって。……元気になって一本ずつ育ててあの場所みたいな桜並木にしたかったんだけど……そこまでは時間、足りなかったみたい……」 「……」  撫でた花弁がひらりと落ちた。  桜子はその一枚を手に取り月に掲げた。 「だから私考えたの。この桜が誰かの生きる力になれないかなって。まぁ生きる力ってちょっと大袈裟だけど」 「……何を考えたんだ」  彼女は未来を想像した瞳で問いかけた俺に説明した。 「桜を植えたその花壇の道に、これから病院に居るいろんな人が自分の好きな花とか植物を植えて元気に成長する様にみんなで育てるの。もしも枯れちゃったら寂しいけどその時はまた植えて欲しい。諦めないでほしいって思う」 「……」 「これで元気になれるのかって言われるとそれはわからないけど、たくさんの人の思いで繋いだ花壇の道……花道を見て歩いて綺麗だなって、あわよくば私みたいに生きてるー!って思ってくれたらいいな」 「……そうか」 「薄いなー、結構考えたんだけどな。絶対綺麗だよ!先生にもいい案だねって言われたし」 「俺には人の思いとかそう言うのはあまり分からないからな」  ただ死神の仕事だけを全うしていた俺は“思い”について何も知らない。 「知りたいとは思うの?」 「知っても意味がない。どうせやることは決まっているからだ」 「答えになってないよ」  そう、決まっている。それを覆すつもりはないし、できない。  今この瞬間も。 「そろそろ真夜中って感じだね。眠くなってきた」 「……そうか」  桜子は目を瞑った。  外では風が強く吹いていた。それは春の終わりを急かす様に花を散らせる。 「死神さん、まだいる?」 「あぁ」 「……一緒にいてくれてありがとう。よかった、最後まで1人じゃなくて」 「……」  白く四角いだけの病室に桜子の声が響く。 「……本当はやっぱり死ぬなんて嫌だし怖いの。死神さんが来た次の朝、苦しかった。なんでこんな人生歩まなきゃいけなかったんだろうって。誰か私を思って泣いてくれる人は居るのかな。私には誰もいないから。実はもう私はこの世にいないんじゃ無いかって思った日もあったよ。それに……さっきの花道の計画は表向きでね、ほんとは…………私が確かに生きていたんだって証を残したかったの」  桜子は泣いていた。呑気でも強がりでも平気でも無い、ただ孤独と死に怯える1人の少女だった。 「死神さん、これは私のわがままだけど……少しの間だけでいい、私を……覚えていてほしいの。患者とか仕事先としてじゃなくて私と言う人間を……。なんて、やっぱりわがままかなー」 「……」  涙はいつの間にか乾いていた。 「……最後に……もし、死神さんが私の思いを受け取ってくれるなら……この桜を花道に植えてくれないかな……私が来世をかけて……死神さんに綺麗な景色みせてあげる」    死神は苗木から花が咲いた一枝を彼女の手元に添えた。  ある病院の一角に色とりどりの植物が育つ通称“桜仕掛けの花道”がある。 「綺麗だね先生!なんで“桜仕掛け”なの?」 「昔、入院してた女の子が、ここにみんなで好きな植物を育てて元気になってほしいって最初に桜の木を植えたから“桜仕掛け”って言われてるらしいよ。でも植えた所は誰も見ていないとか……って、聞いてますか?」 「じゃあ僕はトマト植えたい!トマト食べて元気になる!」 「うん、じゃあ今度植えにこよう。さぁ、そろそろ戻るよ」  そんな花道の様子を遠くから見ていた影がある。 「これがお前の生きた証で繋いだ思い、か……思っていたよりずっと……綺麗に育ったんじゃないか」  今年も立派に成長した大きな桜の木が満開に花開いた。  その周りにはそれぞれの思いがこもったさまざまな植物が並んでいる。 「見ろ、綺麗に咲いたぞ」 「花が咲くまではちょっと頑張ろうかしら」  この桜をはじめ、桜子が願った桜仕掛けの花道には今もこれからも、生き生きと花や植物が育っていく。

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桜仕掛けの花道 第5回N1決勝

地球で誰よりも幸せな帰り道 第5回N1

「緊急速報です。地球に向かって大きな隕石が……落下しているそうです」  テレビのアナウンサーのお姉さんもよくわかっていないという風に電波に不思議な単語が乗せられた。  1月、ご飯を食べていた時流れたこのニュースを私はよく覚えている。いや、全人類が忘れられない一瞬になっただろう。  ベランダを出ると空からこちらに向けて大きな隕石と目があった。  もうすぐ地球は終わるらしい。 「ゔぅ、寒い……ベックション!」  おじさん顔負けのくしゃみをかました私、佐藤ことりは19歳である。はぁ、誰も近くを歩いてないでよかった。  風が冷たい11月。1週間前までの暑さはどこいったのだろうか。ついこの間まで半袖着てたのに今はマフラーまで巻いている。 「ははっ!ことりwオヤジのくしゃみみたい、笑える」 「笑うな!」  隣で私のくしゃみを笑った男がいる。  咲良夏樹、同じく19歳。  私の幼馴染で……彼氏である。 「ははっ……ハックション!」 「ププ、夏樹だってオヤジじゃん」 「俺はどっちかというと……」 「今オヤジしか出てないけど」 「……オヤジじゃなくて王子だろ」  彼渾身のギャグ(?)だと思っている。ただし、夏樹は当たり前だという顔をしている。 「……サブイナー」 「たぶんこれでキャー!とか言わないのことりだけだと思うぞ」 「何がキャーよ、高校の時うるさくて煩わしかったわ」 「そんなこと言って心の中では嫉妬してたりして」 「ない!」 「本当に?」  そう言って夏樹は私の顔を覗き込む。くっ、夏樹は顔だけは整ってる。そこは否定できない。いや、本当は彼の言ってることもだ。  私と夏樹は高1の時には付き合っていた。  こんなこと言ってはあれだが、保育園から高校一緒で仲良しだった私たちがそうなるのはきっと時間の問題だったと恋愛ドラマ好きな母が言っていた。  たしかに私は中学生の頃になってから夏樹を友達としてじゃなく好き……になっていた。ずっと昔から一緒に彼と帰っていたのにその頃からなんだか気恥ずかしくてでも嬉しくて。高校受験の時志望校が一緒だったのは驚いた。夏樹はもっと賢いとこいけそうなのに。でも嬉しいって気持ちは変わらなかった。そして無事入学。 「また一緒だね」 「だな、よろしく」  夏樹は高校時代、かなりモテた。まぁこんな美形だとそりゃそうなるわ。一時は毎日誰かに告白されていると噂になっていたほど。  私は焦った。夏樹が誰かに取られるんじゃないか、もう一緒に帰れないんじゃないかって。そう、これは嫉妬だったと思う。他の子に夏樹と一緒にいて欲しくないって。そして12月の雪の帰り道。 「好き……だったよ、ずっと。だからその……」  “付き合って下さい”って正直に言えたらよかったんだけどいつも一緒にいた彼にはそれがいっぱいだった。だけど言葉が雪と一緒に降ってきた。それは雪を溶かすくらいの暖かさだった。 「付き合って下さい、ことり。俺もその……好きだから、ずっと」 「おーい、何そんな考えてるんだ」  隣で夏樹が首を傾げている。付き合い始めて最初の頃はお互いぎこちなさがあったけど今となっては友達の時よりも素で居れる。なので知らなかった一面も出てくる。夏樹が意外にも……よく言えばユーモア(?)があるところとか。 「別に、夏樹のこと考えてただけだよ」  私はあえてふざけずに本当の事をさらっと……言えたと思う。うぅ、すごく恥ずかしいけど。だけど彼は何故か私より恥ずかしそうに、 「お前って急にそういうこと言うよな」 ってボソっとつぶやいた。しめしめ、可愛いやつめ。  不意に夏樹が「お、昨日より近いな」と空を見て呟いた。見上げてみると紫がかった雲が浮かぶオレンジ色の夕焼け空に、沈みかけて眩しい太陽よりも存在感のある大きな……恐ろしいほど美しい隕石だ。  そう言えばそうだ。今隕石降ってきてるんだ。そう……再確認させられた。  簡単に現状を説明するとこうだ。  あの日、ニュースで伝えられた内容は外に出れば誰もが信じることしかできなかった。 1年もしないうちに地球は宇宙の塵になる。テレビでは連日隕石について報道されそれは人々の不安を煽った。  書き込みサイトには多くの意見が流れていった。#世界終末、#隕石落下が連日トレンド入り。その中には“怖い”、“どうにかしてくれ”というもっともな呟きや、大量のフェイク映像、“自分が隕石を落とした犯人でーす”などの謎の犯人宣言、“脳内チップで幻覚を見せられている。今こそ世界反乱を起こすべき”などの過激思想な情報が溢れた。この状況、それらの呟きは様々の人間の理性に火をつけるのに十分すぎた。  首都は勿論、各地域の主要施設、政治関連の建物や有名なIT企業、病院にまで連日暴動が起こった。  命が助かる方法があると多額のお金を巻き取る詐欺も多発した。  だけどそれも今となっては静かになった。皆、諦めた。恐怖で沢山の人が死んだ。  私も怖かった。だって1年もすれば死ぬって、どんな痛みとかいつだとかもわからない。家族もパニックになってあらゆる嘘偽りもわからなくなって、もう誰も何も止められなかった。  そんな時、夏樹は私を正気に戻させた。  家族がバラバラになって1人家にいてどうすればいいかわからなくなった時、小さな子供をあやすみたいに抱きしめて 「大丈夫、落ち着け。ことりは1人じゃない」  そう何度も言ってくれた。パニックでよく覚えていない私の当時の記憶の中でそれだけはよく覚えている。  落ち着きを取り戻した私たちは話し合いの末、世界が終わる時まで旅行みたいにいろんなところに行く事にした。  運転免許は夏樹が持っているから遠くまで行けるし、食料はお店に行ってお金を置いてもらっていく。こんな旅も半年以上たっていた。富士山も見たしスカイツリーも清水寺も見に行った。車に乗って窓から流れていく景色はひどく寂しいものだった。  まず建物がぼろぼろだ。管理されていなければすぐに崩れていくものなのか。  そしてほとんど人がいない。いたとしたら正気を失った人が座り込んでいたり、家族でそろって肩を抱き合っていたり。  私たちのように“世界終わるから好きなことやろう”とか普通思わないだろう。 「さて、食料も揃ったし車戻るか」 「うん」 「あー、さびぃ」  隕石が降ってきたら気温とか熱くなるのかなとか思っていたが少し寒いくらいだ。  一つ変わったことといえば何時でも夕焼けだということ。お陰で時間感覚が狂いそうになる。 「さぁ次、どこ行きます?」  夏樹がカメラをむけて聞いた。このカメラは彼が拾ってきたやつ。古い昔ながらのテープ式だ。私はさっぱり使い方がわからないが彼の父は写真家だったからこうやってよく撮るようになった。 「うーんそうだなぁ。最近都会だから海とか?」 「了解、日本海?太平洋?」 「どっちも海だよ」 「じゃあ太平洋で。しゅっぱーつ!」  隕石落下のニュースから11ヶ月。多分そろそろだと私たちは考えていた。  初めて見た時より隕石が近い。そして赤くなってきた気がする。  そんなに考えないようにしていた。空に隕石なんてもう日常的な景色だって。  それでも震えて冷たくなる手を夏樹にバレないようにポケットに入れた。  刹那、車が止まった。隣を見ると夏樹がブレーキをかけたらしい。 「どうしたの、故障?」 「違う」 「じゃあどうしたの?日本海の方が良かった?」  私は冗談ぽく言った。夏樹があまりにも心配そうにこちらを見ていたから。 「違う」 「何かあったの?」 「……ことり、怖い?いや、そりゃ怖いよな」 「え?」  私はポケットに隠した手を強く握った。だけどその手を彼が出して彼の大きな手で包む。きっと震えてるのがわかると思う。 「これから起こること、怖いなら怖いってちゃんと言え、隠すな。」  夏樹は心配そうに私の目を見て言った。 「ことりが辛いなら、空から隠れてどっかの家にでも入って過ごす。だから……」 「大丈夫、ほんとに大丈夫だよ。確かに怖い。あの大きな岩がぶつかってくるんだって思うと出来ることなら宇宙に行ってでも逃げ出したい……けど」  私は夏樹の目を見つめ返す。彼の瞳が夕焼けに反射して綺麗に澄む。 「けどそんなことできないじゃん。家にいたとしても怯えて過ごすだけだし、それなら夏樹と一緒に色んなところ見て回る方がいい。嬉しいし楽しいよ。そっちの方が怖くない」 「そっか」  夏樹は包んでいた手を私の膝に戻してまた車を海に向けて走らせた。  紫色の雲が流れていく。私の手はあったかくてもう震えていない。  数日経って海に着いた。隕石はより赤みを増して大きく近く見えた。  私たちは言葉にこそ出さなかったものの、心では思っていた。  “今日が最後の日だ”と。  私たちはしばらく隕石を背に向けて海を眺めた。水平線は普通だったころの夕焼けを写していた。 「綺麗だね」 「うん」  海を見て綺麗だねって当たり前の会話だけど、隕石のせいで忘れていだけれど、海も空も広くて綺麗なんだな。  すると夏樹がカバンからブランケットサイズの白い布を取り出した。それにはたった一文字の“る”とデカデカと書かれている。 「なにこれ?」 「大事なことだよ。ほら端もって」  私が端をもつと夏樹はあのテープ式のビデオカメラを海と向かい合うように置いて録画ボタンを押し、自分も布の端を持った。 「ことり、笑って」 「え……なんの“る”?」 「いいから」  隣では夏樹が笑顔でいる。つられて私も笑顔になる。夏樹の笑顔はどんな人より景色より素敵だった。 「旅、楽しかった?」  夏樹が私を見て聞いた。 「うん、最高だよ」  謎の“る”のビデオを撮り終わった後、夏樹は車から小さいモニターを持ってきた。それを砂浜に置いてビデオカメラのカセットを入れた。 「とうとう見るの?」 「せっかく撮ったからね。ことりが押して、再生ボタン」  カチ、とボタンを押すと中でテープが回る。少し古い映像みたいにカクカクと流れてきた。  映っていたのはほとんど私だった。  富士山を見て感動する私、スカイツリーを前にポーズを取る私、車の中でお菓子を食べる私、清水寺でお参りする私……。なんだか普通の旅行みたいだった。隕石なんて気にせず、ただ楽しんでいた。これが永遠に続けば良かったのに。そうじゃなくても普通が続けばどれだけ幸せだっただろうか。  ふと、気になったことがあった。  夏樹が映ってる時、彼の手には一文字何か書かれていた。 「まぁ、最後まで見てなって」  富士山の時は“あ”、スカイツリーでは“い”、車では“し”、清水は“て”、そして最後は私たちが2人で持っていた“る”。 「あ、い、し、て、る……愛してる……?」 「正解!」  そしてビデオが終わった。 「ことり」  夏樹が私に呼びかける。 「ことり、泣いてんの?」 「泣いてない」 「嘘だ、ほっぺた濡れてるよ」 「見ないでよ」 「ことり」  また夏樹が呼びかける。そして温かい手で私の涙を拭う。 「ことり、愛してるよ。なんか改めて言うと気恥ずかしいけどちゃんと言おうと思って。こんなことになっちゃったけどでも今もこうやってことりと一緒にいられることがすっごい幸せ。そばに居てくれて、好きになってくれてありがとう。これからもよろしく」  きっと今私はすごい顔になってると思うけど私もこれだけは笑顔で言わなくちゃ。 「私も夏樹と一緒にいられてすっごく幸せ。1人じゃないんだって、そばに居てくれてありがと。私こそ愛してる、大好きだよ」 「俺たち今、この地球の誰よりも幸せかも」 「そうだね」 「何か自分で言って恥ずかしいな」  私たちは隕石なんて吹っ飛ぶほどのとびきりの笑顔だった。 「じゃあ、帰るか」 「待って」  私は夏樹の手を引いてこちらを向かせてそして……口づけた。  夏樹は固まってた。それが面白くてまた笑った。 「さ、帰ろ」 「急にそんな……」 「照れてる?」 「照れてねぇし」  私たちはまた一緒に帰る。  帰り時に明日が待っていなくても。  地球で一番幸せな私たちの帰り道。

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地球で誰よりも幸せな帰り道 第5回N1

ビー玉

子供の頃、ビー玉に映る世界は特別だった。 透明なただの小さな球体に、 上下左右反対に映るだけのただの日常に、 私は吸い込まれた。 光と景色を閉じ込めたビー玉を覗けば、 みんなの学校の帰り道も 誰かが遊んだ公園も いつもより寂しくないみたい。 この弾むほど綺麗な広い青空を、 あの不安に感じる暗い蓋みたいな曇空を、 そのうっとりとするような美しく靡く夕空を、 この世界に映し出せば 空の上を歩いているような気がして 私はたまらなく幸せな気持ちになった。 時が過ぎて、 ビー玉に映っていた日常より大きな世界を知って 広い空の下を歩いて、 たまに小さな世界が懐かしくなる時もあるけど 目を瞑って、高く手を伸ばして背伸びして ありのままの世界を眺めながら 今日もまた過ごしていく。

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ビー玉

水無月

水無月の しとしと降る雨の匂いと 何も出来ず無表情な空 図書館から見る滲んだ薄青い紫陽花、 話すことを忘れた色とりどりの傘、 一緒に雨宿りする恋人達、 雨と流れる涙をこぼすあの子、 静かな街を歩くある人の幸せな時間、 それらを混ぜ合わせた世界は 私に休息の時間を与えてくれる。 また新しい一年が始まって半年、 走ってきた道を歩きながら少し雨宿りをしよう。 また晴れたら進んで行けるように。

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水無月

泡夢

ねぇ、私は海の上に出たいわ。 空って実際にはどんなに広いの? 風ってどんな心地がするの? ねぇ、私は陸に行きたいわ。 道ってどんなもの? どんな世界が広がっているの? ねぇ、私は足が欲しいわ。 あの人に会いにいくの。 ダンスを踊って、散歩をするの。 ねぇ、私はあの人を愛したいわ。 でも私は声が出ないの。 あの人を助けたのも、愛しているのも私なのに。 ねぇ、海に帰りたいの。 あの人を心臓を紅く染めて、その雫を足に落とす。 だけど目の前で止めてしまったの。 ねぇ、なんで出来ないの。 あぁ、もうすぐ日が昇る。 きっと私に出来っこない。 ねぇ、海の上はどうだった? そう…泡になって消えてしまったの。

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泡夢