花瀬 詩雨
37 件の小説桜仕掛けの花道 第5回N1決勝
「死神さんはさ、綺麗だなって思った景色とかある?」 「ない」 四月、桜の花も少しずつ咲いて今にも満開になりそうなこの頃。 1人の少女……桜子は四角の白い病室のベッドにいた。 彼女は幼い頃から病を患っており、先が長くないと言われていた。 両親は来ない。学校にも行けてなかったため、友達もいない。彼女は一人ぼっちだった。 そんな彼女の元に俺は訪れた。 俺は“死神“だ。死んだ者の魂を回収する役割がある。 死神が生きた者のところに訪れるのはその者が死ぬ少し前か、死神と契約を交わした時だ。 桜子はもうすぐ……俺が手を施さなければ今すぐ死んでしまう少女だった。 桜子と出会った時、つい3日前のこと。 俺は彼女の死期が迫った夜、病室に訪れた。 「誰……ですか?」 「俺は……死神だ。北川桜子、お前の魂を回収しに来た。」 桜子はもちろん驚いていた。黒い瞳が見開く。 「死……神?」 「……」 「え、本物?本当に死神?」 「そうだ」 「へんな厨二病とかじゃなく?」 「そんな友達も特にいないと聞いているが?」 「……そりゃそうだね、だから病院の人以外で私に会いに来た人は死神さんが初めてかも」 なぜか、俺がお見舞いにきた様な雰囲気だった。 「何故取り乱さない?何故信じる、怖くないのか?」 「まぁ、もうすぐ死んじゃうっぽいから最後くらい信じてもいいかな」 桜子は平然と言ってのけた。 「その時が来る事はいつも考えてたから……。まさか死神が来るとは思ってなかったけど」 「……そうか、なら話がはやい」 俺は彼女に現状を伝えた。 あと少しの時間でこの世から旅立つこと、その魂を送るために自分がきたこと。そして最終宣告。 「私、今すごく元気な方なのに?」 「そう言う亡くなり方なんだろうな」 「……なんか嫌だな。このまま治ると思ってた……」 「予想してたんじゃないのか?」 「希望は持ってもいいでしょ。今日突然、お前は今から死ぬって言われて、そうですねってならないよ、普通」 「……お前の様な人間は初めてなものでな、対応に困る」 「……そうなんだ。まぁいいや、で最後に私に何しにきたの?」 死神は死期が迫った者には選択肢を与える。 一つ、予告通りに死を迎える 二つ、来世の転生回数一回につき、1日今世の寿命を伸ばす 「時間通り死ぬまでにどちらかを選べる」 「二つ目ってどう言うこと?」 「お前はこのまま行けばあと3回来世がある。それを減らす代わりに1日づつ寿命が増える」 「じゃ、長くてもあと3日生きれるって事?」 「お前が望むならそう言うことだ。ちなみに基本、来世ではもちろん今世の記憶は無くなる」 「ふーん」 「考える時間は長くない。それに言っておくが、本当に夢でもなんでもない。これは現実だ」 あまりにも彼女が受け入れすぎて理解できなかった。今までの者は大体、俺に生きたい縋った。そして、時間切れで死を迎える者が多かった。こんな短時間で自分の運命を受け入れ、決める者などそういない。残念なことに、対価無くして寿命与えるようなそんな力はない。 「分かってるよ、自分がいちばんね。じゃあ……3日!3日伸ばしてくれない?」 「……いいのか?来世はなくなる」 「別にいいよ。今があれば」 「……分かった。では毎日1日ずつ寿命を伸ばしに来る。途中で気が変わったら言え」 「それって死神さんが面倒じゃない?」 俺の心配をしている場合かと突っ込みたくなる気持ちを抑えた。 「面倒ではない、それがルールだからな」 「なんのルール?」 「お前は知らなくていい」 「ふーん。で、ほんとに伸ばしてくれるの?3日」 「あぁ」 「……ありがとう」 桜子は死神さんも大変なんだねー、と言葉を溢す。 色んな意味でこんな人間は初めてだった。 それから毎晩、桜子の部屋に訪れ寿命の確認と、話をすることになった。 1人は暇らしい。 「死神さんって、暇なの?不謹慎だけど、他の人の所とかいかないの?」 「今はお前の魂の担当だからお前が死ぬまでは暇だ」 「なんか複雑かも。じゃあ他にも死神何人かいるの?」 「天使は1匹だと思うか?」 「嘘!天使っているの?会ったことある?」 「回収した魂はあいつらが管理する。口うるさい奴らだ」 「そんなの現実にあるんだ……なんかすごいね。別次元みたい」 何故こんな話をしたか分からない。ただ、彼女が今まで関わったことのないタイプの人間だった。この状況に立たされてここまで素直な人間はいなかった。だからこそ、自分でも経験したことのなかったことまでやっているのかもしれない。まだ、俺も浅いということか。 「おーい、死神さん聞いてる?」 目の前に、どうしたのかと首をかしげる桜子がいる。 とうとう、約束の3日目になっていた。今日、桜子は逝く。 別に数日話を聞いていただけで戸惑いや、悲しみはない。それが自分の仕事で運命だから。 「お前は初めから呑気だな。怖くないのか?」 普通、この状態に置かれた人間に“呑気だな”と言うのはお門違いも甚だしい。最低だと怒るかもしれない。 だが、桜子はただ日常を生きていた。 「呑気ってひどくない?これでも今日死ぬ人間なんだけど。あ、でも意外と元気かもね、最近の私。死神さんがお見舞いしてくれるからかな」 「俺は見舞いじゃない」 「そうですよね」 相変わらず変な人間だ。いや、まずこの死神と人間が他愛もない会話している状況が変なのだが。 「さっきの話だけど、綺麗だなって思う景色ほんとにないの?」 今日、窓辺の桜は満開になっていた。それを綺麗だと桜子は話していた。 「ない。何故そんなことを聞く」 「死神さんって色んなところ巡ってそうだし。私はここが世界の全てって感じだからさ」 そう言って彼女はうつむいた。 「ねぇ死神さん、私ってあとどれくらい時間があるのかな?」 表情はわからない。風に揺られて桜の花弁が一枚、窓の縁に運ばれた。俺はその縁に体を預け答える。 「あと少しだ」 「あと少しってどれくらい?」 「教えられない」 「ルールだから?」 「あぁ」 「肝心なところは教えてくれないんだね……」 「……」 かける言葉はない。俺は魂を回収するために来ただけの死神で彼女は今日死ぬ人間。 しばらく沈黙が流れる。それを破ったのは顔を上げて窓を見た桜子だった。 「私、ひとつ綺麗だなって思った景色があるの。小さい頃に見た桜の花道」 桜子は一度、自由に歩けるくらい元気になった時、病院のピクニックに行った時に立派な桜が何本も植えられた道があったと言った。 「桜が雪みたいに溢れて、地面一面が桜になって。綺麗だった。青い空を見上げて花弁が風でくるくる舞って。幼いながらに、あぁ私生きてるって、この場所の地に足を踏ん張って存在してるんだって思ったんだ」 その瞳は綺麗な景色を浮かべていた。それはもうニ度と戻れないあの頃の記憶。 「ねぇ死神さん。なんで3日寿命伸ばしたと思う?」 桜子は俺にそう問いかけた。 「さあな」 死神にとって寿命は期限でしかない。終わるまで待つ、ただそれだけ。 「ちょっとは考えてよ。正解はね……じゃん!」 桜子はサイドテーブルの一つの鉢を指した。 花が幾つか咲いた小さな桜の苗木だった。 「看護師さんに頼んでこれをお取り寄せしてもらったんだよ。今日届く予定だったからさ。これを病院の庭に植えようと思って。……間に合ってよかった」 桜子は花を一つ、そっと撫でた。 「先生が私のわがまま聞いてくれて、広い花壇の道に植えようって。……元気になって一本ずつ育ててあの場所みたいな桜並木にしたかったんだけど……そこまでは時間、足りなかったみたい……」 「……」 撫でた花弁がひらりと落ちた。 桜子はその一枚を手に取り月に掲げた。 「だから私考えたの。この桜が誰かの生きる力になれないかなって。まぁ生きる力ってちょっと大袈裟だけど」 「……何を考えたんだ」 彼女は未来を想像した瞳で問いかけた俺に説明した。 「桜を植えたその花壇の道に、これから病院に居るいろんな人が自分の好きな花とか植物を植えて元気に成長する様にみんなで育てるの。もしも枯れちゃったら寂しいけどその時はまた植えて欲しい。諦めないでほしいって思う」 「……」 「これで元気になれるのかって言われるとそれはわからないけど、たくさんの人の思いで繋いだ花壇の道……花道を見て歩いて綺麗だなって、あわよくば私みたいに生きてるー!って思ってくれたらいいな」 「……そうか」 「薄いなー、結構考えたんだけどな。絶対綺麗だよ!先生にもいい案だねって言われたし」 「俺には人の思いとかそう言うのはあまり分からないからな」 ただ死神の仕事だけを全うしていた俺は“思い”について何も知らない。 「知りたいとは思うの?」 「知っても意味がない。どうせやることは決まっているからだ」 「答えになってないよ」 そう、決まっている。それを覆すつもりはないし、できない。 今この瞬間も。 「そろそろ真夜中って感じだね。眠くなってきた」 「……そうか」 桜子は目を瞑った。 外では風が強く吹いていた。それは春の終わりを急かす様に花を散らせる。 「死神さん、まだいる?」 「あぁ」 「……一緒にいてくれてありがとう。よかった、最後まで1人じゃなくて」 「……」 白く四角いだけの病室に桜子の声が響く。 「……本当はやっぱり死ぬなんて嫌だし怖いの。死神さんが来た次の朝、苦しかった。なんでこんな人生歩まなきゃいけなかったんだろうって。誰か私を思って泣いてくれる人は居るのかな。私には誰もいないから。実はもう私はこの世にいないんじゃ無いかって思った日もあったよ。それに……さっきの花道の計画は表向きでね、ほんとは…………私が確かに生きていたんだって証を残したかったの」 桜子は泣いていた。呑気でも強がりでも平気でも無い、ただ孤独と死に怯える1人の少女だった。 「死神さん、これは私のわがままだけど……少しの間だけでいい、私を……覚えていてほしいの。患者とか仕事先としてじゃなくて私と言う人間を……。なんて、やっぱりわがままかなー」 「……」 涙はいつの間にか乾いていた。 「……最後に……もし、死神さんが私の思いを受け取ってくれるなら……この桜を花道に植えてくれないかな……私が来世をかけて……死神さんに綺麗な景色みせてあげる」 死神は苗木から花が咲いた一枝を彼女の手元に添えた。 ある病院の一角に色とりどりの植物が育つ通称“桜仕掛けの花道”がある。 「綺麗だね先生!なんで“桜仕掛け”なの?」 「昔、入院してた女の子が、ここにみんなで好きな植物を育てて元気になってほしいって最初に桜の木を植えたから“桜仕掛け”って言われてるらしいよ。でも植えた所は誰も見ていないとか……って、聞いてますか?」 「じゃあ僕はトマト植えたい!トマト食べて元気になる!」 「うん、じゃあ今度植えにこよう。さぁ、そろそろ戻るよ」 そんな花道の様子を遠くから見ていた影がある。 「これがお前の生きた証で繋いだ思い、か……思っていたよりずっと……綺麗に育ったんじゃないか」 今年も立派に成長した大きな桜の木が満開に花開いた。 その周りにはそれぞれの思いがこもったさまざまな植物が並んでいる。 「見ろ、綺麗に咲いたぞ」 「花が咲くまではちょっと頑張ろうかしら」 この桜をはじめ、桜子が願った桜仕掛けの花道には今もこれからも、生き生きと花や植物が育っていく。
地球で誰よりも幸せな帰り道 第5回N1
「緊急速報です。地球に向かって大きな隕石が……落下しているそうです」 テレビのアナウンサーのお姉さんもよくわかっていないという風に電波に不思議な単語が乗せられた。 1月、ご飯を食べていた時流れたこのニュースを私はよく覚えている。いや、全人類が忘れられない一瞬になっただろう。 ベランダを出ると空からこちらに向けて大きな隕石と目があった。 もうすぐ地球は終わるらしい。 「ゔぅ、寒い……ベックション!」 おじさん顔負けのくしゃみをかました私、佐藤ことりは19歳である。はぁ、誰も近くを歩いてないでよかった。 風が冷たい11月。1週間前までの暑さはどこいったのだろうか。ついこの間まで半袖着てたのに今はマフラーまで巻いている。 「ははっ!ことりwオヤジのくしゃみみたい、笑える」 「笑うな!」 隣で私のくしゃみを笑った男がいる。 咲良夏樹、同じく19歳。 私の幼馴染で……彼氏である。 「ははっ……ハックション!」 「ププ、夏樹だってオヤジじゃん」 「俺はどっちかというと……」 「今オヤジしか出てないけど」 「……オヤジじゃなくて王子だろ」 彼渾身のギャグ(?)だと思っている。ただし、夏樹は当たり前だという顔をしている。 「……サブイナー」 「たぶんこれでキャー!とか言わないのことりだけだと思うぞ」 「何がキャーよ、高校の時うるさくて煩わしかったわ」 「そんなこと言って心の中では嫉妬してたりして」 「ない!」 「本当に?」 そう言って夏樹は私の顔を覗き込む。くっ、夏樹は顔だけは整ってる。そこは否定できない。いや、本当は彼の言ってることもだ。 私と夏樹は高1の時には付き合っていた。 こんなこと言ってはあれだが、保育園から高校一緒で仲良しだった私たちがそうなるのはきっと時間の問題だったと恋愛ドラマ好きな母が言っていた。 たしかに私は中学生の頃になってから夏樹を友達としてじゃなく好き……になっていた。ずっと昔から一緒に彼と帰っていたのにその頃からなんだか気恥ずかしくてでも嬉しくて。高校受験の時志望校が一緒だったのは驚いた。夏樹はもっと賢いとこいけそうなのに。でも嬉しいって気持ちは変わらなかった。そして無事入学。 「また一緒だね」 「だな、よろしく」 夏樹は高校時代、かなりモテた。まぁこんな美形だとそりゃそうなるわ。一時は毎日誰かに告白されていると噂になっていたほど。 私は焦った。夏樹が誰かに取られるんじゃないか、もう一緒に帰れないんじゃないかって。そう、これは嫉妬だったと思う。他の子に夏樹と一緒にいて欲しくないって。そして12月の雪の帰り道。 「好き……だったよ、ずっと。だからその……」 “付き合って下さい”って正直に言えたらよかったんだけどいつも一緒にいた彼にはそれがいっぱいだった。だけど言葉が雪と一緒に降ってきた。それは雪を溶かすくらいの暖かさだった。 「付き合って下さい、ことり。俺もその……好きだから、ずっと」 「おーい、何そんな考えてるんだ」 隣で夏樹が首を傾げている。付き合い始めて最初の頃はお互いぎこちなさがあったけど今となっては友達の時よりも素で居れる。なので知らなかった一面も出てくる。夏樹が意外にも……よく言えばユーモア(?)があるところとか。 「別に、夏樹のこと考えてただけだよ」 私はあえてふざけずに本当の事をさらっと……言えたと思う。うぅ、すごく恥ずかしいけど。だけど彼は何故か私より恥ずかしそうに、 「お前って急にそういうこと言うよな」 ってボソっとつぶやいた。しめしめ、可愛いやつめ。 不意に夏樹が「お、昨日より近いな」と空を見て呟いた。見上げてみると紫がかった雲が浮かぶオレンジ色の夕焼け空に、沈みかけて眩しい太陽よりも存在感のある大きな……恐ろしいほど美しい隕石だ。 そう言えばそうだ。今隕石降ってきてるんだ。そう……再確認させられた。 簡単に現状を説明するとこうだ。 あの日、ニュースで伝えられた内容は外に出れば誰もが信じることしかできなかった。 1年もしないうちに地球は宇宙の塵になる。テレビでは連日隕石について報道されそれは人々の不安を煽った。 書き込みサイトには多くの意見が流れていった。#世界終末、#隕石落下が連日トレンド入り。その中には“怖い”、“どうにかしてくれ”というもっともな呟きや、大量のフェイク映像、“自分が隕石を落とした犯人でーす”などの謎の犯人宣言、“脳内チップで幻覚を見せられている。今こそ世界反乱を起こすべき”などの過激思想な情報が溢れた。この状況、それらの呟きは様々の人間の理性に火をつけるのに十分すぎた。 首都は勿論、各地域の主要施設、政治関連の建物や有名なIT企業、病院にまで連日暴動が起こった。 命が助かる方法があると多額のお金を巻き取る詐欺も多発した。 だけどそれも今となっては静かになった。皆、諦めた。恐怖で沢山の人が死んだ。 私も怖かった。だって1年もすれば死ぬって、どんな痛みとかいつだとかもわからない。家族もパニックになってあらゆる嘘偽りもわからなくなって、もう誰も何も止められなかった。 そんな時、夏樹は私を正気に戻させた。 家族がバラバラになって1人家にいてどうすればいいかわからなくなった時、小さな子供をあやすみたいに抱きしめて 「大丈夫、落ち着け。ことりは1人じゃない」 そう何度も言ってくれた。パニックでよく覚えていない私の当時の記憶の中でそれだけはよく覚えている。 落ち着きを取り戻した私たちは話し合いの末、世界が終わる時まで旅行みたいにいろんなところに行く事にした。 運転免許は夏樹が持っているから遠くまで行けるし、食料はお店に行ってお金を置いてもらっていく。こんな旅も半年以上たっていた。富士山も見たしスカイツリーも清水寺も見に行った。車に乗って窓から流れていく景色はひどく寂しいものだった。 まず建物がぼろぼろだ。管理されていなければすぐに崩れていくものなのか。 そしてほとんど人がいない。いたとしたら正気を失った人が座り込んでいたり、家族でそろって肩を抱き合っていたり。 私たちのように“世界終わるから好きなことやろう”とか普通思わないだろう。 「さて、食料も揃ったし車戻るか」 「うん」 「あー、さびぃ」 隕石が降ってきたら気温とか熱くなるのかなとか思っていたが少し寒いくらいだ。 一つ変わったことといえば何時でも夕焼けだということ。お陰で時間感覚が狂いそうになる。 「さぁ次、どこ行きます?」 夏樹がカメラをむけて聞いた。このカメラは彼が拾ってきたやつ。古い昔ながらのテープ式だ。私はさっぱり使い方がわからないが彼の父は写真家だったからこうやってよく撮るようになった。 「うーんそうだなぁ。最近都会だから海とか?」 「了解、日本海?太平洋?」 「どっちも海だよ」 「じゃあ太平洋で。しゅっぱーつ!」 隕石落下のニュースから11ヶ月。多分そろそろだと私たちは考えていた。 初めて見た時より隕石が近い。そして赤くなってきた気がする。 そんなに考えないようにしていた。空に隕石なんてもう日常的な景色だって。 それでも震えて冷たくなる手を夏樹にバレないようにポケットに入れた。 刹那、車が止まった。隣を見ると夏樹がブレーキをかけたらしい。 「どうしたの、故障?」 「違う」 「じゃあどうしたの?日本海の方が良かった?」 私は冗談ぽく言った。夏樹があまりにも心配そうにこちらを見ていたから。 「違う」 「何かあったの?」 「……ことり、怖い?いや、そりゃ怖いよな」 「え?」 私はポケットに隠した手を強く握った。だけどその手を彼が出して彼の大きな手で包む。きっと震えてるのがわかると思う。 「これから起こること、怖いなら怖いってちゃんと言え、隠すな。」 夏樹は心配そうに私の目を見て言った。 「ことりが辛いなら、空から隠れてどっかの家にでも入って過ごす。だから……」 「大丈夫、ほんとに大丈夫だよ。確かに怖い。あの大きな岩がぶつかってくるんだって思うと出来ることなら宇宙に行ってでも逃げ出したい……けど」 私は夏樹の目を見つめ返す。彼の瞳が夕焼けに反射して綺麗に澄む。 「けどそんなことできないじゃん。家にいたとしても怯えて過ごすだけだし、それなら夏樹と一緒に色んなところ見て回る方がいい。嬉しいし楽しいよ。そっちの方が怖くない」 「そっか」 夏樹は包んでいた手を私の膝に戻してまた車を海に向けて走らせた。 紫色の雲が流れていく。私の手はあったかくてもう震えていない。 数日経って海に着いた。隕石はより赤みを増して大きく近く見えた。 私たちは言葉にこそ出さなかったものの、心では思っていた。 “今日が最後の日だ”と。 私たちはしばらく隕石を背に向けて海を眺めた。水平線は普通だったころの夕焼けを写していた。 「綺麗だね」 「うん」 海を見て綺麗だねって当たり前の会話だけど、隕石のせいで忘れていだけれど、海も空も広くて綺麗なんだな。 すると夏樹がカバンからブランケットサイズの白い布を取り出した。それにはたった一文字の“る”とデカデカと書かれている。 「なにこれ?」 「大事なことだよ。ほら端もって」 私が端をもつと夏樹はあのテープ式のビデオカメラを海と向かい合うように置いて録画ボタンを押し、自分も布の端を持った。 「ことり、笑って」 「え……なんの“る”?」 「いいから」 隣では夏樹が笑顔でいる。つられて私も笑顔になる。夏樹の笑顔はどんな人より景色より素敵だった。 「旅、楽しかった?」 夏樹が私を見て聞いた。 「うん、最高だよ」 謎の“る”のビデオを撮り終わった後、夏樹は車から小さいモニターを持ってきた。それを砂浜に置いてビデオカメラのカセットを入れた。 「とうとう見るの?」 「せっかく撮ったからね。ことりが押して、再生ボタン」 カチ、とボタンを押すと中でテープが回る。少し古い映像みたいにカクカクと流れてきた。 映っていたのはほとんど私だった。 富士山を見て感動する私、スカイツリーを前にポーズを取る私、車の中でお菓子を食べる私、清水寺でお参りする私……。なんだか普通の旅行みたいだった。隕石なんて気にせず、ただ楽しんでいた。これが永遠に続けば良かったのに。そうじゃなくても普通が続けばどれだけ幸せだっただろうか。 ふと、気になったことがあった。 夏樹が映ってる時、彼の手には一文字何か書かれていた。 「まぁ、最後まで見てなって」 富士山の時は“あ”、スカイツリーでは“い”、車では“し”、清水は“て”、そして最後は私たちが2人で持っていた“る”。 「あ、い、し、て、る……愛してる……?」 「正解!」 そしてビデオが終わった。 「ことり」 夏樹が私に呼びかける。 「ことり、泣いてんの?」 「泣いてない」 「嘘だ、ほっぺた濡れてるよ」 「見ないでよ」 「ことり」 また夏樹が呼びかける。そして温かい手で私の涙を拭う。 「ことり、愛してるよ。なんか改めて言うと気恥ずかしいけどちゃんと言おうと思って。こんなことになっちゃったけどでも今もこうやってことりと一緒にいられることがすっごい幸せ。そばに居てくれて、好きになってくれてありがとう。これからもよろしく」 きっと今私はすごい顔になってると思うけど私もこれだけは笑顔で言わなくちゃ。 「私も夏樹と一緒にいられてすっごく幸せ。1人じゃないんだって、そばに居てくれてありがと。私こそ愛してる、大好きだよ」 「俺たち今、この地球の誰よりも幸せかも」 「そうだね」 「何か自分で言って恥ずかしいな」 私たちは隕石なんて吹っ飛ぶほどのとびきりの笑顔だった。 「じゃあ、帰るか」 「待って」 私は夏樹の手を引いてこちらを向かせてそして……口づけた。 夏樹は固まってた。それが面白くてまた笑った。 「さ、帰ろ」 「急にそんな……」 「照れてる?」 「照れてねぇし」 私たちはまた一緒に帰る。 帰り時に明日が待っていなくても。 地球で一番幸せな私たちの帰り道。
ビー玉
子供の頃、ビー玉に映る世界は特別だった。 透明なただの小さな球体に、 上下左右反対に映るだけのただの日常に、 私は吸い込まれた。 光と景色を閉じ込めたビー玉を覗けば、 みんなの学校の帰り道も 誰かが遊んだ公園も いつもより寂しくないみたい。 この弾むほど綺麗な広い青空を、 あの不安に感じる暗い蓋みたいな曇空を、 そのうっとりとするような美しく靡く夕空を、 この世界に映し出せば 空の上を歩いているような気がして 私はたまらなく幸せな気持ちになった。 時が過ぎて、 ビー玉に映っていた日常より大きな世界を知って 広い空の下を歩いて、 たまに小さな世界が懐かしくなる時もあるけど 目を瞑って、高く手を伸ばして背伸びして ありのままの世界を眺めながら 今日もまた過ごしていく。
水無月
水無月の しとしと降る雨の匂いと 何も出来ず無表情な空 図書館から見る滲んだ薄青い紫陽花、 話すことを忘れた色とりどりの傘、 一緒に雨宿りする恋人達、 雨と流れる涙をこぼすあの子、 静かな街を歩くある人の幸せな時間、 それらを混ぜ合わせた世界は 私に休息の時間を与えてくれる。 また新しい一年が始まって半年、 走ってきた道を歩きながら少し雨宿りをしよう。 また晴れたら進んで行けるように。
泡夢
ねぇ、私は海の上に出たいわ。 空って実際にはどんなに広いの? 風ってどんな心地がするの? ねぇ、私は陸に行きたいわ。 道ってどんなもの? どんな世界が広がっているの? ねぇ、私は足が欲しいわ。 あの人に会いにいくの。 ダンスを踊って、散歩をするの。 ねぇ、私はあの人を愛したいわ。 でも私は声が出ないの。 あの人を助けたのも、愛しているのも私なのに。 ねぇ、海に帰りたいの。 あの人を心臓を紅く染めて、その雫を足に落とす。 だけど目の前で止めてしまったの。 ねぇ、なんで出来ないの。 あぁ、もうすぐ日が昇る。 きっと私に出来っこない。 ねぇ、海の上はどうだった? そう…泡になって消えてしまったの。
大怪獣パパ
にしの ことか すきなもの まほうしょうじょ きらいなもの だいかいじゅうぱぱ 押入れの隅に挟まっていた幼稚園児の私の字を見つけた。 小さい頃から私は父が嫌いだった。 暴力や暴言をするとか酒癖や女癖が悪いとかいうわけではない。 むしろ、シングルファーザーにしては良い父なのだろう。 しかしまぁ、私は嫌いと言うか父のせいで拗ねる事が多かった。 例えば休日。遊園地に連れていくと言ってくれた日曜日。思わぬ連絡(仕事)が入り、楽しみを断念。 例えば誕生日。欲しかった人形ではなく、似ているが少し違う種類の人形。私の目には涙が溢れまくった。 でもその代わり、日曜日の夜は温泉に連れて行ってくれたし、泣き喚く私にその人形の服まで作ってくれたが、私はまだ子供でそんな事気にしてやれなかった。 そんなこんなでやってきた父娘生活も10年以上になる。 私は17歳、高校3年生になっていた。 今でも相変わらず、父と過ごしている。 といっても、ずっと2人きりのわけではない。おばさん(父の姉)もたまに遊びに来ていた。 「あーんた、また琴花に1人で夕御飯食べさせたの?さっさと仕事終わらして一緒に食べてやんなさいよ!1人でご飯なんて寂しいんだからね!私がそうなんだけど!」 「それは申し訳ないと思ってるんだけどさ、同僚に急用ができちゃったみたいで仕方なく…」 「はぁ?お人好しなのもここまでくると短所だね!そんなの仕事の押し付けに決まってるでしょ!?そんなんだからいつまでもっ…」 これでは話がながくなりそうなので。 「まぁ、落ち着いてよおばさん。私1人でも(1人の方が)大丈夫だからさ、」 こんな感じでオブラートに仲裁する。 「あー、琴花は偉いねー。こんなにしっかりして。おばちゃんの家が近かったら一緒に食べたのに。田舎の婆さん1人にできないからねー、ごめんねー!」 「ほら姉さん、電車間に合わなくなるよ、ちゃんと2人でご飯とるから心配せず帰りなよ」 「次、こんなことがあったら許さないからね!琴花、寂しくなったらいつでも連絡して頂戴。じゃあ私帰るわねー」 こうしてひと嵐(多分いい意味)が去った。父と2人きりである。 沈黙が流れる。いつからだろう、父と会話が続かなくなったのは。 先に破ったのは意外にも私。 「さっきの話だけど、別に1人でご飯食べるくらいどうってことないから。安心して仕事でもなんでもして来れば?」 「琴花…あの」 「私、受験勉強とかしなきゃだから。おやすみ」 「…おやすみ。勉強がんばれよ…」 バタンッとリビングの戸を閉める。 父を残したまま。 部屋に戻った私は受験勉強といいつつもしばらく布団に倒れていた。そして考えてしまう。 「お母さんがいたらな…」 母はわたしが4歳の時に病気でこの世を去ってしまった。 母の事は大好きだった。忙しい父にかわり、出かけたり美味しいもの作ってくれたり。ちなみに父はそれほど料理は上手くない。(かと言って不味くはないが) 母が亡くなって、父は以前より私を気にかけるようになった。 しかし、急に娘と2人きりになってどう接したらいいか分からなかったのだろう。私のためにしてくれてるのは分かっている。まだ2人きりになって間もない頃は仕事も家事もしてくれていた。 だが、父は不器用なところがあった。最初の頃は洗濯機の回し方がわからず数日間苦戦した。料理をすれば焦がす癖に、私のために頼んでもないキャラ弁(おそらくドジえもんだったのだろう)を作った。 そのおかげで洗濯物は山になってたし、キャラ弁は友達に笑われた。 母がいたらこんなことにならなかったのに、と幼ながらに思うことがあった。 再婚でもしたらいいのに。でもきっと私の為にしないのかもしれない。 父はそう言う人だ。 自分の事は二の次。おばさんの言う通り“お人好し”である。 そんなことを考えているうちに布団による眠気が来てしまい…。 気づけば朝になっていた。今日は日曜日なので私は休みだ。 リビングにいくと父は仕事にでていた。いつものことだけど昨日父の事を考えていたからか、なんだか寂し…。 「いやいや、ないない。何年この生活してきたと思ってるの私!寂しいわけないじゃない!」 気を取り直してキッチンに向かうとテーブルには朝ごはんの作り置きがあった。 私の好きな目玉焼きとウインナー。食パンは自分で焼く。 「いただきます」 割れた黄身が皿について固まっている。これは洗うの大変そうだ。 色々文句をつらつら並べているが、父には感謝している。 朝ご飯だってそうだ。この歳なら自分で準備出来るのにやってくれている。 大学だって 『琴花が頑張るならパパも頑張るから』 と、今まで以上に仕事を頑張ってくれている。 だから、ご飯を1人で食べるとかそれは本当に仕方のない事で元はと言えば私がそうさせたようなものだ。 最初にも話した通り、父は“良い父”である。だが、どうしても私は素直になれなかった。 お昼になり、私は部屋で勉強していると玄関の戸が開く音がした。 なんと父が帰ってきたのだ。 「え、なんで?仕事は?」 「早く終わらせてきた。」 「なんで?」 「出かけるぞ」 意味がわからなかった。 「ちょっと待ってなんで?」 さっきから同じ質問しかしてないのはわかっている。 「なんでって、最近どこも行けてなかっただろ?琴花もたまには息抜きがてら出かけたほうが良いかなって」 きっと私のためだ。早く終わるような仕事量ではないことは知っているから。夜、リビングの灯りがついていて、資料やパソコンと睨めっこしていた。 今日出かけてもきっと明日にはその分の仕事が積み重なるだろう。 迷惑にはなりたくない。 「別に大丈夫だから。息抜きとかまだするような時期じゃないし」 「でも、せっかく帰ってきたし外でお茶とかでも…」 「そんなことしてる暇ない」 「最初から焦っていたらこの先もたないぞ。今のうちに…」 「もたないのは私との関係でしょ?」 「あ…」 「今さら気づかわなくてもいいから。私のことなんてほっといて仕事に専念したら?」 こんな言い方をしたかったわけじゃない。でも止められなかった。 「お父さんさ、私のために色々してくれてるんだろうけど私、子供じゃないから。朝ご飯だって1人でも出来るし息抜きのタイミングだって自分でやる。お父さんの自己満足に私を巻き込まないでよ」 「でも琴花のためなのは本当で…」 「自分のためでしょ。私に我慢させてるって思い込んで埋め合わせして。償えるってやってるんでしょ。」 父は黙って聞いていた。いや、悲しんでいるのだろう。でもそれも気にしてやれなかった。 「私のためにっていうのがいらないの。迷惑なの」 「琴花…」 言い切ってしまった私はお父さんの方を見れなかった。 長い沈黙が流れる。 破ったのはお父さんだった。 「そうか、」 その一言で私は我に帰った。 しかし遅く、お父さんは仕事鞄をもって玄関を出てしまった。 それから、私たちは言葉を交わさなくなった。朝起きると父はいなくて、かわりに冷蔵庫には生卵がある。 しかし私は目玉焼きを諦めて食パンだけお皿に乗せた。 1人、しんとした部屋で毎日思う。 謝りたい、と。 しかし父は、あの日以来一層に帰るのが遅くなった。 忙しすぎて心配になるほどに。 そしてその予感はあの日から冬になるほど経って、あたってしまった。 最後にしゃべったのは私がA大学に受験することを決めた時くらいだ。 父はしばらく、出張に行っていた。 かわりにおばさんがきてくれたりと父がいなくても生活はできていた。 「もうー、あいつ出張って断れなかったの?琴花1人にして!帰ってきたら説教ね!じゃ琴花、おばさんスーパー行ってくるからなんか欲しい物ある?」 「とくに。」 おばさんが言った後、私はソファーで寝転がる。受験は一昨日終わっていた。 本当は気がきでならないが今さら仕方ない。 すると、家の電話がうるさく部屋に響いた。なんだか、ゾワッとした。 「もしもし」 出たのは知らない男の人の淡々とした声だった。 「突然のお電話失礼します。西野琴花さんでよろしいでしょうか?」 「はい、どちら様でしょうか?」 「私、お父様の出張先の同僚の前田といいます。」 「お父さんがどうかしましたか?」 動揺を悟られないようにこちらも淡々と言う。 「どうか落ち着いて聞いてください」 お父様が倒れられました おばさんと、お父さんがいる病院にやってきた。 403号室 西野 隆 そのドアを開けるとお父さんが眠っていた。 原因は放置していた風邪の悪化と過労らしい。幸いにも命に別状はない。 「聞いた時は何事かと思ったけど本当よかった。あんたまでいったら…」 おばさんはその続きこそいわなかったがお父さんと私をすごく心配してくれていた。 ふと、お父さんの手に触れるとピクリと動いた。 「お父さん…?」 「琴花…か?」 お父さんは無事に目を覚まし、医者の診察を受け、おばさんの説教を病み上がりで受けた後、そのまま私と2人きりになった。 沈黙が流れる。 私が何から話そうかと思っていると、お父さんが聞いてきた。 「受験は?」 「受かった」 「…!おめでとう」 内容にしてはあまりにも淡々とした会話だ。 するとお父さんは何を思ったのかふと言った。 「…大怪獣パパ」 「え…?」 「覚えてるか?幼稚園の卒園冊子に書いてたやつ」 「うん、この前見つけた。嫌いな物、大怪獣パパって」 「好きな物は魔法使いだっけ?」 「魔法少女ね」 「そうそう、懐かしかったよ。小さい頃の魔法少女ごっこ」 魔法少女が好きだった頃、父と遊ぶ時は決まって魔法少女ごっこをやらせた。 私は父、大怪獣パパを倒す魔法少女で。父が嫌いだったから大怪獣に仕立てて日々の鬱憤を晴らして(多分そこまで考えてなかったが)いた。 嫌いな物のところに書くくらいには文字通り幼稚だった。 「そんなこと今さら持ち込まないでよ」 「いや、今も昔も琴花にとって俺は“大怪獣パパ”なんだなって」 「…」 「結局は自分のためだったかもしれない。表面上だけ取り繕ってもお前の心は気にかけてやれてなかった」 「ごめんなさい!」 ずっと言えなかった言葉がスッと出た。 「ずっと素直になれなくて自分の気持ちとか言えなかった。それで迷惑かけちゃうんじゃないかって。お父さんにはずっと感謝してたのに…むしろお父さんは…パパはヒーローだったんだよ」 きっと父がいなかったら乗り越えていなかった数々。父娘だったから乗り越えられたこと。 「ありがとう」 この言葉がずっと言いたかったこと。 ずっと言えなかったこと。 「ありがとう琴花。もしかしたらこの先、ヒーローじゃなくて大怪獣だと思われることもあるかもしれないけどそんな大怪獣パパと仲良くしてくれないか?」 そんな弱気でお人好しな良い父兼ヒーロー兼大怪獣パパに言う。 「当たり前でしょ。パパなんだし。それに今や大怪獣は魔法少女と手を取り合う時代だよ」 きっとこの先も衝突や困難はあるだろう。 でも乗り越えていけそうだ。 だって“大怪獣パパ”が一緒だから。
ぽっかり
その穴は失恋を意味した。 片想いの蕾が枯れた。 幸せだった日常が泡のように溶けた。 立ち直ることはできなかった。 その人には隣の誰かがいて、 それだけで絵画が完成していた。 思えば今までが1番幸せだったかもしれない 見ているだけでよかったのに、 誰かに向けた声を聞いているだけでよかったのに、 それだけでよかったのに。 いつのまにか溜めていた雫が溢れていたらしい。 一つになった雫を掬うことも出来なくて 捨てることが出来なくて、 ただひたすらに見せてしまった。 ひび割れる 落ちて、消えて、枯れる。 ただ、カタチの無いものが消えただけなのに、 なんでぽっかり穴が空いた感覚があるんだろうか。 私はまだ、それを埋める術を知らない。 いや、元から穴があったのかもしれない。 偶然、それが埋まっていただけなのかも。 その穴は私が忘れた感覚だったのかな。 だけど私は探してしまう。 欠けたピースに合うような 運命を。
𝓼𝓮𝓬𝓻𝓮𝓽
「この秘密をおまえにだけに話すわ」 そういう主人の蒼い瞳は悲しげに、 滲んでいるように見える。 「私は一度だって人を悲しませたり、 不幸にしようと思ったことが無いの」 主人は黒い僕の毛並みを撫でながら話す。 僕は黙ってその声に耳を傾ける。 「お野菜を育てるのも頑張ったし、薪を運んだり、 子供たちのお話相手もしたわ。そうすると皆は笑顔で 『ありがとう』と言ってくれた。それが幸せだったわ…。 だって今まで散々な人生だったからね。」 そう言うと主人の手がお腹のあたりで止まった。 僕は催促する様に身をよじる。 だが、その温かい手は動かぬままだ。 「でもね、そんな日々は一瞬に崩れるものだって思い出したの」 主人の方をチラりとみると 諦めた様な笑顔で近所の子供達からだという薄紙の花を見ていた。 永遠に戻ることのできない日々を思い出しながら。 「私が魔女の血を引いていると知られてしまったの。 その日から私は誰の笑顔も見ることは出来なかったわ。 皆、私を恐れ、貶し、離れていった。」 −魔女の一族− 人を不幸に堕とす悪魔の血筋。 人の不幸を願い、叶える一族。 この世界の歴史で存在したと言われている魔女。 「でも、それはずっと前のお話。 もちろん私は不幸を願ったりしたことはない。 私はただの、普通の人間で皆と変わらないのだと、 そう思って生きているわ。 でもそれを許してくれないのが語り継がれる記憶と歴史ね。 どんなに違うのだと自分に言い聞かせて生きていても、 結局私はは人の皮を被った悪魔なの。」 撫でる手が再開した。 その手は魔女だとは思えないほど優しく、 僕を見つめる瞳は今にも消えそうなくらい儚い。 「そう思ってきてしまう私の気持ちが私の秘密。 これを隠して生きていかなければいけないの。 バレてしまったら自分が人だと思えなくて、 本当に魔女になってしまうからね。 だからおまえだけに教える秘密」 主人は僕の耳の辺りを撫で、額にキスをする。 これは秘密を守る約束。 だがこの秘密がバレることはないだろう。 なにせ、僕は猫だからだ。 そして主人はその綺麗な顔を僕に近づけてそっと言う、 「どうかおねがい。おまえだけは私から離れていかないで。 私は誰かの不幸になんて願わないから。 おまえだけはありのままの私をわかって…信じて欲しい」 主人はそっと目を伏せる。 そんな主人に僕は思う。 離れていかないよって、 ずっと前から信じてるよって。 僕が知っている主人は普通の優しい人だから。 たとえ知らない誰もが主人を魔女だと言おうと 主人が自分を悪魔だと言おうと 普通に生きていたいというなら 僕だけはこの世界でついていくから。 主人に笑顔でいてほしいから。 だからどうか、一緒に居させて。 そんな意味を込めて 『ミャーン』と鳴く。 伝わるだろうか、いや、すべては伝わらないだろう。 だからこれは僕だけの秘密。 僕も主人も気持ちを伝えるのは苦手みたいだ。 だけど僕の大好きな主人は 「ありがとう」と 笑顔で言ってくれた。
ちょこれーと
今日、学校から帰って自分の部屋にこもった。 夕暮れの太陽が部屋に灯りを染める。 黒色の制かばんの横に置いてあるピンク色の紙袋。 中には赤いリボンをされた可愛らしい箱がはいっている。 「……」 ベッドで仰向けになり天井を見る。 今日の朝はどんな気持ちで目が覚めたっけ。 箱に入ったそれをどんな気持ちで作ったっけ。 起き上がって、ピンク色の紙袋を手に取る。 箱を取り出し赤いリボンを解くと ほんのり甘い匂いがした。 綺麗とまではいかないが手作りの まあるい形のチョコレート。 その一つを口に入れる。 途端に甘くて、ほろりと苦い味が口に広がり……、 「おいしいね……、でも、少ししょっぱい……。こんな味にしようと思わなかったのに」 ……溶けていく。 残ったのはさっきまであったんだという感覚と しょっぱい涙味。 「……ちょこれーとにこんな味があるなんて初めてだよ」 甘いだけじゃない、そんな時もあるけど 「来年はもっと美味しいの作って渡すんだ」って。 そんな私の “ちょこれーと”
景色
自分の景色、 見渡す限りの高いビル、 車の行き交う交差点、 人でごった返す電車、 誰も他人なんて気にしない、 でも表面上の関係は気にする 毎日同じ時間に家を出て 夜遅くに帰る 眠らない街 眠れない街。 私の景色、 とりどりの草木、 古くなった歩道橋 電車に揺られ本を読む 帰り道の下り坂 少し昔のゲームセンター 2人きりの帰り道 長い道のり 短く感じる。 帰りたい でも帰りたくない。 新しい場所で成長する私、 昔の頃に戻りたい私。 そして私はここに居る