琥珀

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琥珀

文章はまだまだ拙いです。

氷の刃

「……どういうつもりだ」  張り詰めるような緊張感が、小屋の中に広がる。 「どうもこうも、私はあなたを殺すためにここにいるのです」  彼女の声が氷のように冷たく響く。  首元には短刀が突きつけられ、迂闊に動くことはできない。 「お前は、俺の妻だろう」 「ええ、妻です。それでも私はあなたを殺します」  彼女の顔は見えない。  だが、あの意志の強そうな眼が、憎悪にまみれてこちらを見ているのを容易く想像できた。 「殺す前に教えてくれ。俺はお前に何をした? それはこの場で殺されるほどのことか?」  彼女の呼吸が怒りで乱れた。  彼女が震えた声で言う。 「覚えていないのですか」 「ああ、何も」  嘘だ。もちろん覚えている。  この体に、痛いほど刻まれている。  だが、俺はこの時間を伸ばすためにそう口走った。 「あなたは、私の両親を殺した」 「それはいつの話だ」 「十年ほど前です。私は庭の畑からあなたを見ていました。両親に手をかけるあなたを! あの日から、私はあなたに復讐をするために生きてきたのです。それが今! やっと! 両親の無念を晴らせる。仇が討てる」  彼女は悲しみにも怒りにもとれる感情を俺にぶつけてきた。  ああ、なんて憐れなのだろう。  あの日、恐怖と憎悪のどん底に陥れた相手は、その底から抜け出そうともせず、今日まで地を這うように生きてきたのだ。  だが、それは俺の狙いでもあった。  どんな手を使ってでも、彼女を生きさせたかった。  だから、そんな俺の願いを叶えてくれ。 「ならば、殺せ」 「え?」  彼女が素っ頓狂な声をあげる。  情けない。さっきまであんなに燃え滾らせていた怒りと憎しみはどこへやったのだ。  俺は彼女の手首を握る。  呆気に取られた彼女は抵抗するそぶりも見せない。 「俺を苦しめたいなら、喉を斬れ。苦しみ抜いた末に死ぬことになる。お前はそれぐらいの憎悪を持っているはずだ」  彼女と向き合う。その目は恐怖に濡れていた。  まるで、恐ろしい獣を見ているように。  まあ実際、俺は獣のようなものだろう。  役所に飼われ、正義という毒餌を与えられ続けてきた獣だ。 「どうした。早く殺せ」  彼女の目から涙が溢れる。  今だけは、彼女の意志の強い眼が見えない。 「私は、あなたを憎んでいます。今も、昔も、これからも」  震える声で、それでもはっきりした声で、彼女はそう言った。  スパッ。  首に冷たいものが伝ったと感じた瞬間、彼女の刃が触れた場所が焼けるように熱くなった。  視界が真っ赤に染まる。直前、飛び散る鮮血が見えた。  慟哭する彼女の姿も。  血が肺腑に流れ込んでくる。  己の血に溺れ、息ができなくなる。  呼吸はできないのに、意識はまだ消えない。  想像を絶する苦しさに悶える。終わりがないように、長く。  だが、だんだんと視界が赤から黒へと変わっていった。  この世の闇を写し取ったような漆黒。  ああ、俺は死ぬのだ。  悶え苦しむ俺とは別の俺が、そう囁いた。  愛する女の手によって、殺される。  案外、悪くないかもな。  思考に靄がかかっていく。  消えかかったの意識の中で、俺は口を動かした。  彼女に伝わるように。 「俺は、お前を、」  あ、い、し、て、る    事切れる寸前、彼はそう口を動かした。  最後の方は音になっていなかった。  彼の血が私の手にべったりと付いている。  憎くて憎くて、絶対に殺すと決めていた相手の血が。  仇は、討った。 「なのに、どうして……?」  どうしてこんなに辛いの?  どうしてこんなに苦しいの?  どうして死んでほしくないって思うの?  なんで、どうして、教えてよ。  私はあなたを殺す理由を教えたのよ。  だったらあなたも教えてよ。  私が泣き叫ぶ間にも、彼の命が流れ出ていく。  もう、間に合わない。  さっきまで苦しそうにもがいていた彼の体は、力無く痙攣するだけ。    それももう、止まる。 「お願い、帰ってきて。私だって、あなたを」  愛している、のに。    あなたとの出会いを思い出す。  悪行の限りを尽くした私の両親を殺したあなたは、私を見て笑ったのだ。  凶悪な笑み。  当時の私の目にはそう映った。  だけど、今ならわかる。  あれは嘘。  得意でもないくせに凶悪な顔を作ったから、彼の頬は少し引き攣っていた。  今と昔、何も変わっていない。  優しくて、正義感があって、嘘が下手。  だけど、その笑みに私は変えられた。  両親を殺されて絶望の淵に立った私を、自分も後を追って死のうとしていた私を、あなたは生きさせた。  憎悪という暴力的な力をもって。  私はその力に躍らされた。  あなたに復讐してやると、心に刻み込んだ。  ただ、それだけのために、  私は今日まで生きてきた。  だが、闇市で盗みを繰り返すようになった頃、私は両親の本性について知った。  今思えば、あれは分水嶺だったのかもしれない。  戸籍を誤魔化し、他人を騙し、富を蓄え、必要とあらば人殺しも厭わない、そんな極悪人。  それが私の両親。  彼はそんな極悪人を処刑しただけ。  だけど、足場が崩れたような気がした。  私を必死に立たせてきた土台。  それは私が作り出した虚構に過ぎなかった。  実体のない、憐れな骸。  でも、今更人生は変えられない。  私は彼に復讐するために今を生きているのだ。  そんな私の人生から憎悪を取ったら、何も残らない。  だから彼に近づいた。  両親の真実から目を背けて。  でも、いつしか私は本当に彼に惹かれてしまった。  彼を愛していくにつれて、日に日に憎悪も増していった。        やはり、あれは分水嶺だったのだろう。  でも、どの選択肢を選べばよかったのか、私にはわからない。  その選択肢の中に、正解があったのかどうかすらも。    そんな私を前にしても、彼はずっと凪いだ海のようだった。  だけど、  私があいつらの娘であることも、  私があなたを殺そうとしていることも、  あなたは気づいていたんでしょう?  気づいていたのに、私の元から離れなかった。  あなたも、私のことを愛していたから。  あなたなら私が刃を首に突きつけた時、すぐに反撃することができたはずなのに。  それなのにあなたは反撃どころか、全く抵抗しなかった。  どこかで、私はあなたが抵抗することを望んでいたのかもしれない。いや、望んでいた。  私を殺してでも生きようとしてくれることを、切に。  私が、あなたを殺さなくて済むように。  だからあなたに抵抗されなかった時、私は絶望した。  最期まで、あなたは私を裏切るのね。  私は自分の手を見る。  血が、乾いていく。  鮮やかな赤色から、醜い褐色に。  愛して愛して、壊れるほどに愛した相手の血が。  私はフラフラと立ち上がる。  ねえ。  あなたはあの時、私を死なせないために笑ったのよね?  私を憎悪によって生かすために。  だけど、あなたは最期まで私の望みを叶えてくれなかった。  だから、私もあなたの願いを叶えたくないわ。    そうしてそのまま、私は彼の真横で首を吊った。

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氷の刃

ガラスの靴

 一目見た時に、好きになった。  毎朝の仕事。家族を養うためには、新聞配達をやめることはできない。そんな中で僕は彼女と出会った。  彼女は配達先の家で下働きをしている少女だった。  まだ誰も起きていないような時間でも、彼女は一人で起きて健気に働いていた。  薄汚れた僕にも優しくて、新聞を受け取って「ありがとう」と微笑んでくれた。  彼女も僕と同じように薄汚れていたけど、その笑顔は彼女が「お母様」「お姉様」と呼ぶ三人よりもずっと綺麗で、目を惹く可愛さがあった。  ある日、いつものように「ありがとう」と笑って新聞を受け取った彼女に、僕は思い切って聞いてみた。 「ねえ、君、名前は?」 「エラよ」  彼女の吸い込まれてしまいそうなブルーの目がこちらを覗き込む。  そして、彼女は悲しそうな表情をして呟いた。 「でも、もうエラって呼んでくれる人はいないわ。みんな私のこと、シンデレラって呼ぶの。お母様もお姉様も、もう私の本当の名前がエラだってことも忘れてるんじゃないかしら」  シンデレラ。  灰被りのエラ。  ひどい呼び方だと思った。確かに彼女は灰を被ったように薄汚いけど、彼女自身はガラスより美しい心の持ち主だ。  許せなかった。彼女にこんな顔をさせる「お母様」や「お姉様」たちが。  でも、僕にできることは何もなかった。それが、悔しかった。  彼女は笑った。  その瞳は、寂しげに揺れていた。  僕には、その表情の背景は分からない。  彼女のことは名前以外何も知らない。  どうして彼女の口から「お父様」が出てこないのか。  どうして彼女はシンデレラと呼ばれているのか。  どうしてこんなに美しいのに、家族から虐げられているように見えるのか。  こんなに好きなのに、わからないのが堪らなくもどかしい。 「それでは。明日もよろしくね。新聞配達さん」    彼女はそう言って立ち去った。    彼女が揺らす豊かな金髪。  透き通るように白い肌。  ふっくらと柔らかそうな唇。  笑った時に可愛らしく現れるえくぼ。  世の中を丸ごと包み込むような優しい声。  そのどれもが僕を魅了する。  出会う度、出会う度、彼女に恋し続けた。  朝、少しだけ言葉を交わす関係。  彼女に想いを伝えるなんてこと、僕には到底できないし、僕自身、この関係に満足していた。      彼女にたった一人の王子様が現れないといいな、と思いながら。      あくる日。僕が靴磨きをする街の広場は、いつもより賑やかで、女たちの密度が濃かった。  今夜お城で舞踏会があるらしい。なんでも、王子の花嫁を決める舞踏会だとか。  道を行き交う女たちは必要以上に自らを飾り立て、自身の周りにいる女たちを睨みつけいていた。    だけど、僕は思った。  どれだけ美しく飾り立てても、エラには敵わない、と。  ここにいる女たちは、エラが一度でも微笑みかければ蹴散らされてしまう。  そんな脆い美しさしか持ち合わせていなかった。  その日、街を歩く人々は身なりを整えた者ばかりだった。だからか、いつもより稼ぎが悪い。集まった金がパン一つ買えるくらいになった頃には、もう夜も遅かった。  眠たい目を擦りながら、家に帰る。帰り道には、エラの家がある。無意識に体が緊張した。  彼女の家を通り過ぎる時、泣き声が聞こえてきた。  すごく悲しそうな声で何かを言っていた。  何を言っていたのかは聞き取れなかった。  だけど、その声はエラのものだった。  恐る恐る庭の方を覗き込んでみると、彼女はびりびりに破けたピンクのドレスを着ていた。破れていても、彼女にピンクのドレスはよく似合っていた。  どうして泣いていたのかは、わからない。  本当は駆け寄って抱きしめてあげたかった。でも、僕にそんなことはできなかった。  その目が、遠くの王子様を見つめているような気がしたから。  僕なんかに彼女の心に触れることはできない気がしたから。  僕は黙って彼女のもとを立ち去った。  夜の道に、彼女の泣き声は、ひどく寂しげに響いていた。    その後、彼女は新聞を受け取りに来なくなった。だから僕は、他の家と同じように玄関の前に新聞を置くことしかできなくなった。  時折聞こえてくる彼女の歌が、僕の心を甘く震わす。  僕の生きがいは彼女だった。  それからまた時が経った。僕はまた、靴磨きに街へ出る。この日の街は、あの舞踏会の日よりも賑やかだった。  今日は王子の結婚式らしい。広場のそこらじゅうで、まるで劇のような、王子と相手の女性との出会いが囁かれていた。  あの日の舞踏会で、運命的な出会いがあった王子は、名前も知らない女性が忘れたガラスの靴をもって、国中の女性にその靴を履かせた。やっと見つけた女性は、下働きのようだったけど、美しく、勇気と優しさを持った女性だった。彼女の名前は─。    女性の名前が聞こえる前にわっと歓声が上がった。  宮殿の方を見ると、王子と女性がこちら側に手を振っていた。  幸せそうな女性を目を凝らして見る。        その女性は、エラだった。  毎朝「ありがとう」と微笑んでくれていたエラの笑顔が、王子の方を向く。  純白のドレスに身を包んで、あの家で見た彼女よりも何倍も綺麗な見た目でも、笑顔はそのままだった。  この世の優しさを全て集めたような笑顔。  その笑顔に、僕だけじゃなく、広場に集まった全員が釘付けになる。誰もが、あんなに美しい女性がいたのかと驚いていた。  彼女の笑顔が、声が、鮮明に蘇る。  それらは、もう二度と、僕に向けられることはない。  シンデレラは、灰被りじゃなくなった。    正真正銘、この国にたった一人の、美しい女性・エラになった。  彼女の名前を知っているのは僕だけじゃなくなってしまった。  二人の姿が歪んで見えなくなる。我慢しても、涙は止まらない。  祝福の涙なんかではない。  もちろん、わかっていた。  毎日のパンを買うので精一杯な僕よりも、あそこで愛おしそうにエラを見ている王子の方が彼女を幸せにできるってことくらい。  わかっている。誰よりも。  それでも、思ってしまう。    僕の方が彼女を好きだ、と。  僕は、ガラスの靴なんかなくても国中の女性の中から彼女を見つけ出すことができる、と。

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ガラスの靴

月の君

 カクテルを嗜むふりをしながら君を見る。  君は私の視線には気づかず、黙々とワイングラスを磨く。  アンティーク調の時計に何度も目をやりながら。    曇り一つないワイングラスに、君の横顔がうっすらと映る。  その横顔は、ほんのりと温かくて。  私に向かって見せたわけではないであろうその横顔に、今日も心を奪われる。  私の方を見て、君はまた笑いかけた。  ペンダントライトだけに照らされた薄暗い店内に不釣り合いなほど、無邪気な笑顔。  私の心臓は図らずとも早鐘を打ち始める。  カクテルの味が、いつもと違うような気がした。  階下から足音が聞こえてくる。  落ち着いた足取りで、トントントン、と。  君は顔を上げて扉を凝視したかと思えば、急いで目線を外した。  扉が開いて、入ってきたのは一人の男性。  カランコロン、とドアベルの音が店内に響く。  男性と君はしっかりと視線を交えた後、笑った。  男性も君も、心の底から嬉しそうに。  君が見せた笑みは、砂糖がほろりと崩れ落ちるように、甘くて、切ない。  私には見せなかった笑み。  だから私は君にブルームーンを頼んだ。  いつもより少しだけ度数の高いカクテル。 「なんかあった?」  君の声が店内に甘く響く。  これで終わりにしたかったのに。  君は、ずるい。  そういうところ、大好きだけど、今は大嫌い。 「そういう気分なの」  想いを伝えるまでもなく、失恋しただけ。

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月の君

水平線の向こう

 夏が終わった海は好きだ。  観光シーズンが終わって、ほとんど誰もいない、静かな海。  海水浴客を弄ぶように波打っていた海は、今はすっかり凪いで、這うような波の音が心地いい。  私はゆっくり海の中に足を踏み入れる。  周りに合わせて巻いているスカートに、砂の混ざった塩水はまだ触れない。  こうして海に足を浸しているだけで、私を苦しめているものが、私の中から流れ出ていってくれたらいいのに。  周りの目、先生の不機嫌そうな声、話すのが苦手な私。  ぜんぶぜんぶ、海に流れ出ていってくれたら、どれだけ楽だっただろうか。  意味もなく海の向こうに目をやる。  そうしているだけで、頭の中は一瞬だけクリアになる。  すぐにまたいろんな思いが去来するけど、その一瞬を求めて私はまた水平線を見つめる。   何回も。何回も。 「何かいるの?」  意識が現実に引き戻される。  後ろを振り返ると、そこには私とは違う制服を着た少女がいた。 「いつも見てるよね。海の向こう」  彼女は、人懐こそうな笑みでそう言った。  少し傾げた彼女の首の動きに合わせて、さらさらと彼女の髪も流れる。 「どうして知ってるの?」  いつもは話すのが苦手ですぐ言葉に詰まるのに、この時だけはするりと言葉が出てきた。 「何回か、見かけたことがあったから」  彼女の声が、誰もいない海辺に儚く散っていく。 「海の何を見てるの?」 「別に、どこも」  私はそう言ってから、いや—と言い換えた。  彼女なら、私のことを馬鹿にしないで受け入れてくれるような気がした。 「水平線より遠いどこか」  彼女は小さく「そっか」と呟いた。まるで自分自身を納得させるように。  沈黙が生まれる。  海の音が、沈黙の気まずさをかき消す。居心地のいい沈黙だった。  彼女が沈黙を破る。 「どうして海の中に?」 「死のうとしてたんじゃ、ないよ」  私はぽつりと呟く。  もしかしたら、彼女が心配して声をかけてくれたんじゃないかって、思ったから。 「わかってるよ」  彼女の声も私と同じくらい小さかった。  だけど、私よりもはっきりした声だった。 「死のうとしてる人は、もっと、独特な雰囲気を纏ってるから」  彼女は私を見ていなかった。  いなくなった大切な人を見ているように、目を細めて、水平線のほうを眺めていた。  いや、水平線なんかよりも、もっと遠く。遠くを。   「独特な雰囲気?」  彼女が私のほうを見る。  彼女の青みがかった黒目は、透き通るように白い肌によくなじんでいた。 「本当に死のうとしてる人は、ぱっと見ただけでは、生きてるのか死んでるのか、わからないの。地上でせわしなく働く人たちと同じように、歩いて、動くのに、この世ならざる者、みたいな雰囲気を纏ってる。死のうとする理由が何であれ、みんな、最期は同じ」  そう淡々と話す彼女が、私にはこの世ならざる者、のように感じた。  制服から伸びた手は病的に白く、彼女が浮かべている笑みには哀憐が浮かんでいた。 「ねえ」 「ん?」 「貴方は、死のうとしてる?」  彼女は驚きもせずこちらを見る。  その時の彼女は、少しでも触れれば何も残らずに壊れてしまいそうなほど繊細だった。 「どうしてそう思うの?」 「貴方が、この世ならざる者って感じがするから」  彼女はまた笑う。  海の波の引いては押し寄せる音が、機械的に繰り返される。 「私は、死のうとはしてないよ」  彼女はまた、水平線の彼方を見つめる。 「もともと、生きてないの」 「そっか」  驚かなかった。  この世ならざる者。そんな雰囲気を彼女から感じる前から、私はなんとなく、気付いていたのだろう。  きっと、彼女に彼女を表現できる名前は、ない。  彼女には、名前というものが似合わないような気がした。  何者にでもなれて、何者にもなれない。  そんな、儚さと紙一重の、残酷さを。 「じゃあ、貴方は幽霊の類?」 「答えを言うと、この場で消えちゃうから」  彼女はそう言うと、私のいる海に足を踏み込んできた。  彼女の周りの水は、不自然なほど穏やかで、波一つ立たなかった。 「少しだけついてきて」  彼女が、私に手を伸ばす。  彼女の手は、白魚のようだった。握ると、ひんやり冷たい。 「どこまで行くの」 「深いところまではいかないから、安心して」  彼女はそう言って私の手を引っ張る。不思議と、怖くはなかった。  会話を交わさず、彼女の手に引っ張られるがまま、奥のほうへと進んでいく。  急に、彼女が立ち止まった。  私のスカートも、彼女のスカートも、少しだけ塩水に浸る。  こちらを向いた彼女と目が合う。  今、この世界には私と彼女しかしないような、そんな海の静謐さが私たちを包み込む。 「貴方は、ここまで。私は、ここより向こう」  彼女は寂しげに微笑んだ。  彼女が向こう、と言った先には紺青の海が広がっている。  私がもしやと思ったことは、現実だった。  ああ、やっぱり。  貴方は海、なんだね。  だから、生きていない。  だから、この世ならざる者なんだよね。  私を置いていこうとする彼女に、私は問いかける。 「また、来ても良い?」  振り返った彼女は、西日に照らされる海と同じように、きらきら美しかった。 「もちろん」 「待っててくれる?」 「何十年経っても、何百年経っても、ずっと待ってる。だから、いつでも来て」 「約束」  私が差し出した小指に、彼女が小指で握り返す。  その指先は、さっきより少しだけ温かかった。 「またね」 「うん。またいつか」  そう言って彼女は少しいたずらっぽく笑って、水平線の向こうを指さす。  彼女の指先にある海は、少し傾いてきた日が当たって、宝石のように輝いていた。  まるで、奇跡のような瞬間だった。  視線を戻すと、何もない海が広がっていた。  彼女がいたところも、それよりも向こうも、何も変わらない。  小さい頃から見慣れた海。  彼女はそこに現れた。  私だけの、海の精霊。  私だけの、海の隻影。

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水平線の向こう

永遠を求めて

 明けない夜はないとか  止まない雨はないとか  そういう言葉をよく聞く。  だけど、たまには、  夜が永遠に続いてほしい。  雨が永遠に降り続いてほしい。  そう思うことも、ある。  たとえば、夜の香りを心地良く感じたとき。  たとえば、雨の音をずっと聞いていたいと思ったとき。  そんなとき、水のように流れ行くこの時間を止めて、ずっとその空間にいたいと思ってしまう。  この時間が永遠になればいいのに、と。  窓の外に目をやる。  雨の降る深夜の街に、人の姿はない。  信号機だけがちかちかと健気にはたらいている。  夜の香りと、雨の音が混ざる。  それと、君の寝息。  ああ、幸せだ。  ああ、好きだ。  心の底から溢れ出てくる感情を垂れ流しながら、この時間を、空間を、全身で感じる。  まるでこの世界に君と私しかいないような、そんな静謐さに身を任せて。  この幸せの中にもある、秒針が進む音。  カチ、カチ、カチ、カチ。  時の流れを嫌でも感じる。  この夜が、雨が、永遠に続けば。  この幸せに、永遠に身を置ければ。  夜が明けるのが、怖い。  君のことを純粋に好きと思えなくなる。  私の「好き」という感情も永遠には届かない。  光が当たれば、見たくないところもはっきり見えてしまうから。  雨の音で聞こえなかったはずの音が、はっきりと聞こえてしまうから。  そこはもう、君と私だけの世界じゃない。  この時間が永遠になれば。  でも、そんなことはありえない。  もうすぐ、この雨も止む。  時間が経てば夜が明け、光が私たちを照らす。  だから、今だけ。  この一瞬の幸せに、身を埋める。

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永遠を求めて

七夕

 夜中、ふと目が覚める。  横を向くとそこにいるはずの蒼空がいない。暗闇で目が痛いくらい眩しく光るスマホには、もう見慣れてしまった名前の女からの通知。  また煙草だろう。いつもならスルーして寝るところだが、今日はなんだか気になって、髪を上から少し押さえつけて乱れを直してからベランダに出る。 「今日も煙草?」 「ん」  彼女である私のほうになんて見向きもしない蒼空はぼんやりと口から白い煙を吐き出す。そんな蒼空の姿は同い年とは思えないくらい寂しげで、儚い。  私がベランダを歩く音がなんだか大きく響く。昼間にうるさいくらい鳴いていた蝉の声はもう聞こえず、やけに静かな気がした。 「今日、なんかあった?」  少しだけ視線をこっちに向け、やっと興味を示したように聞いてきた。 「なんで?」 「いつも俺が煙草吸ってても出てこないでしょ」  また一つ煙を吐き出す。    蒼空と付き合うまでは大嫌いだった煙草の臭いが心地いい。蒼空の存在を感じられる煙草の臭いは、私の精神安定剤のような役割を果たしていた。 「今日はそういう気分だっただけ」    そう言うと蒼空はふっと笑って「あっそ」呟いた。    ふっと笑った蒼空の顔に目を奪われる。切れ長な一重の目が少しだけ細くなって、口角がかすかに上がる。たったそれだけの表情の変化でも、私の心を捉えるには十分だ。この表情に、純粋だった頃の私も惚れたのだから。  ノースリーブでむき出しの私の腕に風が当たる。  本格的に夏に入ったとはいえ、夜中ならそよ風程度の風が吹けばまだまだ過ごしやすい。どこからか涼しげな風鈴の音も聞こえてきた。 「ねえ、蒼空」 「ん」 「今日ってさ、七夕なんだって」 「そうなんだ」  私の誕生日だよ──とは言わない。たぶん、蒼空は覚えてないから。無駄に傷つきたくなんかない。 「お祭りとか、あったのかな」 「どうだろうね」  お互いがお互いを愛しすぎたが故に、一年に一度しか会うことを許されなくなってしまった夫婦。今日、二人はちゃんと再会できただろうか。今頃、積もる話に花を咲かせているのだろうか。  空を見上げても真っ暗で、天の川どころか月すら見えない。目を凝らして墨汁を垂らしたような空を見る。  どうやら今日は曇っているみたいだ。  じゃあ、今年は二人、再会できなかったのだろうか。 「なんか願い事でもあるの?」  蒼空が風鈴のように涼しげな声で聞いてくる。    蒼空の本当の気持ちを知ることができますように。蒼空の特別が私だけになりますように。蒼空が私の誕生日を思い出してくれますように。蒼空が──、願い事なんて少し考えただけでもこれだけたくさん出てくる。  でも本当のことは言ってやらない。 「織姫と彦星が今年も出会えますように、かな」  蒼空が毎日つく嘘に私も小さな嘘で返す。 「織姫?」 「そ、織姫。でも、今年は曇りっぽいから会えなかったかもね」 「こっちの天気は関係ないでしょ」 「え?」  心底不思議そうな顔をしながら蒼空がこっちを見ている。  ベランダの手すりには蒼空が擦り付けたのか、煙草の灰がいたるところについている。 「織姫と彦星は地球とは関係ない星でしょ。毎年、二人の感動的な再会を俺たちが勝手に見て、勝手に大はしゃぎしてるだけ」 「それも、そうだね」  織姫と彦星。一年に一回しか会えないなんて寂しくないのだろうか。天の川を泳いで渡ってしまいたくなる時はないのだろうか。  一年に一回しか会っていない二人は、ずっと愛し合って幸せそうなのに。毎日会って、キスやハグをしている私たちは、もう形式的な「愛してる」しか口にしない。もう聞き飽きた「愛してる」が、お互いの心を甘く震わすことはない。  それでも、私は蒼空に依存している。  捨てられて生きていけなくなるのは、ヒモの蒼空なのに。でも、きっと、捨てられて堪えられなくなるのは私のほうだ。  私を形作る存在の蒼空がいなくなったら、私は、生きていけないのではなくて、死んでしまう。 「あ、そうだ」  独り言のように蒼空が呟く。 「ん?」 「ちょっと待ってて」    蒼空はそう言って煙草の吸殻をベランダの手すりに押し付けてから、部屋に戻った。 ちょっと狭い私の部屋。一人だと広く感じたのに、蒼空のゲーム機なんかが雑多に置かれ、狭くなってしまった。  私の部屋なのに、仕事をしていない蒼空がいる時間のほうが長いから、私の匂いは消え、他人の家のような匂いがする。  そして、女物の香水の匂いも。 「はい、これ」  いつの間にか戻ってきていた蒼空の手にあったのはラッピングされた小さな箱。 「なにこれ?」  受け取った箱は想像以上に軽かった。 「何回か単発のバイト入って、俺の金で買ったよ。七夕、誕生日でしょ?」  覚えていてくれていた。それだけのことなのに、涙が出そうなほど嬉しい。 「覚えててくれたの?」 「もちろん。恋人の誕生日くらい、俺でも覚えてるよ」    そう言って、蒼空はふわっと笑う。さっきよりも大きな表情の変化に心臓は早鐘を打つ。蒼空が誕生日を覚えていてくれた上に、プレゼントまで。しかも、蒼空の金で。  私の周りの温度がぐっと上がったような錯覚に陥る。それくらい、嬉しかった。 「嬉しい。今開けてもいい?」 「いいよ」  私がラッピングを綺麗に剝がそうとしていると、蒼空が後ろから抱きしめてきた。男らしいとは言えない細い腕で、私を、ぎゅっと。  ラッピングを剥がしきって箱を開けると、そこにはピアスが入っていた。新月のようなイメージを持たせる暗い紺に、渦を巻いているようにも見える白い煙のような模様が入っている。 「すごく綺麗。ありがとう」 「でしょ。これ、欲しいって言ってたもんね」  夜風が剥がしたラッピングの紙をかすかに揺らす。 「うん。欲しかったやつ。本当にありがとう」  違うよ、蒼空。 「喜んでくれてよかった」  蒼空は満足そうにふーっと息を吐く。吐いた息が煙草臭い。  蒼空は私のことをさっきと同じ力で抱きしめ続ける。それなのに、私の体に触れる蒼空の体温は、さっきよりも少しだけ、冷たい。 「本当に嬉しい。大切にするね、蒼空」  私は顔だけ蒼空のほうに向け、そう伝えた。  「うん」と小さく言った蒼空は私と、海外の人が挨拶でするような軽いキスを交わした。 「じゃあ、先寝るね」  それだけ言って、蒼空は私から離れて部屋に戻ってしまった。さっきまで蒼空と密着していた部分がひんやりと冷たい。  蒼空、違うよ。  私はこんなピアス、欲しいなんて言ってないよ。  さっき言えなかった言葉が頭の中を巡る。  ねえ蒼空、誰がこれを欲しいって言ったの?  このピアスは、私に渡すべきものじゃないんじゃない?  言いたいことはたくさんあるのに、私は蒼空を手放したくないから、蒼空がいなくなったら死んでしまうから、それらの言葉を飲み込む。 「ばーか」  やっと言えた言葉は、学園ドラマでヒロインが言うようなセリフで、でも、それを言う私はヒロインでもなんでもなくて、相手役の男子に思いを寄せる有象無象の女子のうちの一人に過ぎない。  私の手の中にある箱は何も入っていないみたいに軽い。  蒼空に依存する私の気持ちは、こんなものよりもずっと重い。  それなのに、この小さな箱のような行き所がどこにもない。  夏の冷たい風が私の髪を揺らす。頬に当たる風はなんだかやけにひんやりと冷たかった。

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七夕