Kazuayano

32 件の小説
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Kazuayano

永遠のガキ

小説ではないが

私の玄関の前の部分に、堂々と貼り付けている。表札もいつも、お構い無しに3万程の物を貼り付けている。 文句を言われた事はない。 よりも、この弘法大師のお言葉と言われる これは。正にその通りだと思うのだ。 私は切ない、人生を歩んだ中、これは理解出来る。 私はいま、悲しいも、苦しいも、寂しいも、言わばネガティブな気持ちにならない。 それは、生きている中での成仏らしきものをしているのでは無いかと思い込んでいる。

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小説ではないが

過去世の記憶か?何かの意図か?

これは、実は本来は、誰にも話しては、行けない事なのかもしれない。現に、家族であろうが、我が子にでもあろうが、どこで酔ったとて、最愛の一人にしか話した事もない。 が、それは夢であったのか?良く、幻だ、幻覚だとの一言で、簡単に笑われて終わってしまう。 それはそうだ。いくら極限迄の、座禅、瞑想をしようが、死を超える薬物乱用であろうが、そんな事を観るはずが、記憶に残る筈が、有り得ないのだから。 一般に、幻覚、幻聴とは、そんな物を観ることは多分ないのだ。 薬物乱用での、幻覚ならば、誰もいる筈もない、マンションの十二階の窓の外に、人影がたびたびに行き来をし、 「あぁ、警察が張り付いている。もうダメだ。私は逮捕されてしまう」 もあれば 「ずっと、誰かに部屋を覗かれている。強盗かも知れない。警察に通報だ」 当然に、十二階の窓の外には、人がいる訳が無いのだが、逮捕への恐怖心、薬物には使用の時の癖が存在する。 ある者は、時間も忘れて、電化製品を分解して、また直したりして、気が付いたら三十時間が経っていた。 「おいおいっ?ネジが何本か足らんぜ?」 そんなこともよくある、らしい。私にはそんな経験は無い。 また、ある者は三日掛けて、部屋を徹底的に片付ける、掃除をする。ホコリの一欠片すら認めない。と掃除する者もいる。 私は、正直言って、薬物を使い、女性と身体を重ねた事はない。 薬物の楽しみはそこにあると、誰でも話すし、それに人生破滅型の、快楽があるのも知っている。初回のビギナーズラック!ただ一度だけ、大阪の今ではもう死語なのか、ナンパ橋と言われた、ミナミの戎橋で逆ナンをされて、ホテルにしけこんだからだ。 それにハマり、まぁ芸能人でも多いだろうか、AV女優の大半も使用しているとも聞く。 けども、人間の愛の行為として、快感が何倍にも、それが長時間に渡り、持続される時、男にとっての女性も、また逆の女性にとっての男性も、愛おしい愛の対象では、無くなってしまう。互いに快楽用奴隷の様になってしまう。 私は、一度で 「あぁ、これはダメだ。人への愛も無くし、その薬物を利用しては、誰彼構わずに身を汚す原因となる」 と思って、一度きりでサヨナラした世界だった。 私は、やはり部屋を真っ暗にしての、アチコチに蠢く霊の様なもの、明らかに姿形を現しての、死んだ理由や、この世への未練事などの、相談相手が好きであり、よって今ですら、後ろを向いて、霊らしき者が立っていても、怖くもないし 「ん?なんかあったのか?」 ぐらいの事にしかならない。 霊媒者でもなくば、超能力でもない私は、そんな霊や、魂らしい物が存在しているのか? あくまで幻覚なのか?それは知らない。 が、遠い昔に仏陀が色んな、悪鬼、羅刹、目に見えざる者と対峙したのならば、あながち完全な空想でも、無いのかもしれない。 楽しかった、と言えば誤解を招くが、幻想の世界は、人間世界では、有り得ない体験をさせてくれた。 私が一番に、好きなのは阿弥陀如来様なのだ。 たかが、幻覚、幻。 の中でありながら、ふと部屋の隅を見ると光った何かがいる。 「勝手に部屋入んなや?」 「私は貴方を観ています。しばらくいさせて下さい」 「せめて、ノックはしろや?」 「まぁまぁ!と。幻覚の中で会話を行い、帰って行く」 「なんや?あれ?阿弥陀如来は自分で名乗るんか?パチもんやな?絶対に」 と、帰ったあとに文句を垂れると、ひょこひょこと、戻って来て 「あら?貴方は今?誰に対してその物言いを?パチもん?私が?貴方ね?勝手にそうは言いますが?本物だった時にその暴言の責任は取れますか?」 「知らん。勝手に部屋に入って俺の行動に意見をして、警察でも呼んで逮捕させたろか?不法侵入や?帰れや」 「また、来ますね」 「勝手に来んなや?電話してから来いや」 「まぁ?面白い人だね?貴方は」 「俺はおもろくないから来るなと言ってる」 「では!またね」 「ツレの心算か?お前?来んでええからな」 私が死を覚悟し、致死量の数倍を使った時にも、その自称阿弥陀如来が、警察署内の留置場で、私がその量から、狂いに狂い、結果警官を殴り回して、公務執行妨害罪も、付加される事にはなったのだが、その殴った後に、確かにその自称さんは後ろでポチりとゆう音を鳴らした後に、姿を私に魅せた。それが神仏の力なのか? 身体の毒気を、一瞬で抜き取り、冷静さを取り戻させて、薬物でやられ切っていた脳、身体を治してしまった。 今でこそ、よく話すしそれなりの考えもあると自負もあるが、それまでは、寝るだけの生活だった。ご飯を食べるのもめんどくさい。 友達からの電話も、遊びの誘いも全て断る。 お風呂なんて、クソ面倒で入る気もしない。 当然に仕事も出来ない、していない。 今日か?今か?だが?どうやって死ぬ? 痛いのも、苦しいのも勘弁して欲しい。 待てよ?この1gほどが致死量とされるのを2.3g一発で入れるとどうなる?幻覚の中、天女でもお迎えに来るか?それしか無い。オマケに周りに薬物と、注射器を置いておけば、事件性も無い。警察の手も掛けることすらない。よしっ決めた! それから、そのエセ阿弥陀如来との関係から何年経ったのだろうか ここは、人間世界と思わせてまだ、そうでは無い。現に地獄界の殺人鬼もいるし、餓鬼界の欲に塗れては手に入らない者も存在する。動物としての畜生界は致し方ないが、我欲のみ、薬物での3日間もかけてのSEXもまたその一つだろうか? 修羅界とゆう、人との争い、経済にしても、権力としても、学歴社会そのものとも言ってもいい。人より何かの上を観る、目指す。これはまだ健全な、人間世界とは言わない。 等の、エセ阿弥陀如来からの指導はあった。 これ以上の、私だけの観た、行った体験、修行の話しはしないが、 この全てすらも、薬物の幻覚でしょ と言われてしまった時に 「お前とは、違う体験をしてる。この世の先の未来世の如来としての修行を今にしている」 ぐらいはいいたいと思う。

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過去世の記憶か?何かの意図か?

羅刹の国の王女の傷心

母神の鬼子母神から、私が王位の権利を、だがそれは、母神が年齢から、先がそう長く無いこと。 私たち、羅刹の世界には、人間の世界などでは、数えることも、その数字は、人間が普段から使える様な億や兆や京など、遥かに越えた、人間が知る最高単位は、無量大数と教わるのだろうか? が、その下には不可思議が有り、耳にした事が有る程度ならば、阿僧祇や那由多やら、色んな数値は人間世界に、伝えられてはいる。 その無量大数としても、十の何十乗、一から万になるのに、ゼロが四つ付くように、そのゼロの数は書いたとて、数える事にかなりの時間を費やしてしまう程のゼロが付く。 が、それはまだ数字に弱い、人間世界への神仏の甘やかしであり、その上の単位は、限りなく存在している。

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羅刹の国の王女の傷心

人生初プランニング日記

私は、幼い頃から実は、憧れていた。今は、脳梗塞で社会老人福祉施設で、何も認識も出来ずに、灰になるのを待つだけの母が元気であった時借家の庭とは言え、色んな花々に 「可愛いでしょう?」 「綺麗よねお花は」 「永遠には咲けない」 「その儚さはまたいいのよ」 「でもね、人間もそうなのよ。その人の花の為には、太陽の陽が綺麗なお水が、時には、人それぞれの活性剤が必要とされるのよ」 「お母さんはねお花を育てて、色んな人生を考えるの」 「枯れる花、ちゃんと全てを与えても駄目な花、お水を与えなくても立派に咲き誇るお花」 幼い私は、そんな深い意味は良く分からずに 「暇潰しの言い訳か?」 ぐらいにしか思わなかった。 今この十種類ほどの種たちは、咲き誇る時には、どうなるのだろうか?全てに異端の、あまり似ていない種を選んで買った。 店員に聞いて、直射日光でなくとも、良い種類を選んだ。 このミニ鉢の中には、小細工もしている。 どれが、どれなのかは印も付けていないし、現にどれかは分からない。 けども、確かに咲き誇った時には、ハイブリッドが出て来る筈だ。 生花を買って、瓶に飾り華やかな香りや部屋を彩るのも悪くない。 むしろ、そうして来たし、それは今もする。 ただ、この新しい世界は、また私に生命への大切さを、万が一にお水をやるのを、弱った時に、活性剤を垂らしてやるのを忘れて、生命を自らのミスで、終わらしてしまった時は、心で母に謝ろう。 「これは、まだまだ全ての人に、意識が向いていないのだな?と」 これは食用植物花でも無いけど、慣れて来たら、自家栽培でノベリーの誰かに売りたい🥺 レジェンド作!ネギ一本を30万ポンドで! 咲き誇ったあとは数鉢を母の面会へ持参してみよう。無いはずの微笑みに僅かな期待を込めて。

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人生初プランニング日記

昨日のママの相談

今日は、久方ぶりに茶目ってしまった。店の経営も、今は決して楽では無い。店舗家賃、人件費、カラオケセットのレンタル、在庫が切れる前には、仕入れる酒類。 「どうしよう?カズ〜?毎日、お金の計算で狂いそうだ。わたしは」 「お前のミスは、呑み屋ビルに、店舗を構えた事、キャスト(店の女の子)自体に、特色も別に無く、お前が、フィリピン出身である事が何か意味あるのか?理解する気も無いが、もっと安価で、入店出来るフィリピンパブ様式で、普通のラウンジの、セット料金を取り、ボトルも日本人店と、変わらない値段で出している事。お前自体は、フィリピン人としては、超一級の美人だと言えても、5人がお前を指名しても、対応も出来ない事。お前がしでかした事は、アメリカで、アメリカ人客を顧客にする店舗のテリトリーで、カナダ人パブを出してしまった様な事。全員が英語ペラペラなら問題は、少ないのかも知れない。大人のお酒の場とは、呑んでいちびる事では無い。呑んで、唄って、キャストのお尻でも触って、満足して帰る客層なら、日本人が好む、日本人だけの店に足を運ばせるだろう。俺はたびたびに、お前に忠告はしているが、直そうともしない。突然にタガログ語で、キャストと会話をしている所だ。客としては、お前らは喧嘩しているのか?こちらの文句を言っているのか?聞かれてはまずい話しをしているのか? 一つの、オーナーとして経営をしている時、俺はつねづね、他店へ視察に出向き、何故、繁盛しているのか?ボーイの接客態度は?店の雰囲気は?キャストの質は?セット料金、ボトル料金等の設定は?週に一度は、視察に行けと教えた筈だ。お客の付いていない、キャストには、駅前や店周りでのチラシ撒きや、名刺渡し、初回はボトル料金無料とか、セット料金無料とか、先ずは、一回は店に足を運ばせる。何も言う事も聞かず、行動もせず、30歳過ぎのオーナー職になど、自分に酔っているからそうなる」 「家賃は、二十二万、カラオケセットレンタルが、五万、おしぼり、お酒、今、それだけ稼いで、綺麗なキャストを、雇う余裕が有ると思う?」 「知らん。お前が好きで始めたこと。無理ならさっさと閉めてしまえ」 「カズ?フィリピン人にとっては、日本で自分の店を持つ、夢なのよ!だから相談してるの」 「キャストもお客さんもはけたら、残ってくれる?もう一度だけ、方法を教えて」 「俺は、そのスタイルは好きではない。酔った席でお前と二人きりになる事は。昼間に聞いてやる」 「これも、前に教えている。今は現金よりも、クレジットカードや携帯のpay払いが主流だと。カッコつけてバサッと札束を置く時代では無い。俺の助言を、取り入れないお前と話す事は特に無い」 「さっきも話したが、北新地や、六本木、銀座、中洲の一流店の女性を先ずは見て来い。大人が大人に、ビジネスの接待で、店を使う時に、キャストに席を外せと言われるなら、役目は成り立ってはいない。夜の女性のトップ連中はな?新聞やネットでも経済を、社会を勉強して、難しいビジネスの話しに、ピンポイントで、名助言をサクッと入れる。顔より、ボディスタイルよりも知識が求められる。もし、そこで日本語はNOサンキュー!そんなキャストは、次の指名はもう来ない。と、お前が何故そうしたのか、分からないが何も出来ない、無能なマネージャーを使用している事も問題だ」 「今日も一日、お前が連絡して、終電逃しのキャスト送りしかしていない。何の心算なんだ?これは?」 「ビジネスに何かの、公私混同をしたのか?お前の彼氏か?興味も無いが、とにかく今のその経営方針には、賛成が何も出せない」 「カズならどうする?」 「ここは、男性客を主体にしているビルだから、俺も全てを見て周り、周辺の店舗も数件見て来た。同業種では、お前のやり方では、売り上げはもう、上がる要素が無い。本気で性根を入れ替えないと。俺なら?客層をガラッと変えてしまう。呑み屋のママもキャストも女性や?店の内装は変えなくていい。店上がりの女性を客層にする、ボーイズバーに変える」 「呑み屋の女性達は、自分の店で接客に疲れた時、至れり尽くせりの、女王になりたがる風潮が多々ある」 「俺が昔、ソープ街にホストクラブを創ったのもそれが狙いだった」 「私は、経営者でありながら、接客もして、人と接したいのよ」 「公私混同やな」 「まだ、経営難を俺に話しながら、我欲を丸出しにしている。だから俺は、お前の話しを聞きたくない」 「カズしか、4年以上の付き合いが有る日本人もいないのよ」 「知らない。目先の家賃、他の経費、立て直すならば、しばらく銀行にでも融資を受けろ。ラウンジでは借りれない。客のビジネスマンに、猫なで声でも出して何とかしてもらえ」 「借りて、どうすんの?」 「チラシ配布のバイトを雇い、新規一回目は、セット料金のみ。飲み放題にしろ。それはハウスボトルでいい。好みのボトルは初回は半額で入れさせろ。良く考えろよ?大抵の者は、一度の入店でボトル一本は開けきらない。次の来店の約束となる。ええか?」 「初回の来店から、正規の料金で、日本語すら全員が堪能でも無い」 「お前に資金に余裕が出来たら、三条でも四条からでも北新地からでも、一級のキャストを呼んでやる」 「芸能人に負けない美貌に、サクサクした笑顔の絶えない会話、あの子らの再来店をさせる話術、メール術は半端では無い。ただ、普通のラウンジ、キャバクラの給料では絶対に来ない。今の店からの引き抜きならば、準備金、今の時給が七千円なら、一万円は提示しないと行けないし、新規であろうが、常連であろうが、先ずそのキャストに付ける約束もしないと来ない。夜の移転は、しかも引き抜きに応じた時、一定世界からの総非難をその子は受ける。それすら、護れるならな」 「もう?大変だよ。日本での店の経営は」 「俺は知らん」 「ケーキ買ってきたから帰って食え」

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昨日のママの相談

食への貪欲な気持ち

この令和六年、西暦2024年とゆう超新時代に。 何気に謎を感じる時がある。それは人の飽くなき戦いなのか、周りは死んでいくのに、味の誘惑に勝てないのか。今回は河豚(フグ)としよう。今でこそ無毒の養殖物もあるが、その昔に肝が美味いと食べ過去に一体、何人の犠牲を出したご馳走なのか。

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食への貪欲な気持ち

ズボラの栄華

今日もイケてる、出来てる。控えめに言ってもパーフェクトと思う。神は完全なる分身を私の姿として降臨した。 朝に起きては養命酒で、身体の隅々まで充分に自然の健康エキスを取り入れ、毎日の仕事の成果に毎夜美女からの誘いと中華、フレンチ、イタ飯に美酒を呑む。 部屋だけは片付けられない

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ズボラの栄華

チューインガム

わたしは、滅多にガムは噛みはしないのだが、それはトラウマらしい、記憶がそうさせているのかも知れない。 ウチの実父は、兄弟のいない一人っ子である事も、関係は有るのだろうか、また性格からなのか、人間付き合いが下手なのか、苦手なのか、わたしが物心ついた記憶のある、三、四歳頃には、一人親方とでも言うのか、社員も何もいないワンマンなので、組織化など皆無の、株式会社でもなく、有限会社でもなく、法人格を取った個人事業主とも言わずに、一人で気侭にビニールハウス(温室)の、建築を仕事としていた。 この父は、家の食事でも、兄にも、母にも、毎回の様に指摘されていたが、咀嚼のときに、口が開いているのだ。 「クチャっピチャックチャピチャチャッチャ」 と、おもちゃのチャチャチャやないで?あんた?記憶の育ったわたしも、そうムカついていた。 直そうとしない。それが当たり前、普通、本人曰く 「口の中の食物と、酸素が一体となり、味が良くなるのだ」 誰でもそれは言う。なら、口を開けて、咀嚼を止めて、吸えや💢と。 出来ないらしい。思えば、友達と、電話しているのも聞いた事もない。友達と、食事も旅行もしたと聞いた事もない。 要するに、私はこう生きてきたから、変える気は無い、むしろこれが、私なのだと言った所だろう。 わたしは、今もこれにトラウマを抱えている。咀嚼中に、たまたま口が開いてしまい、三十分の食事時間の間に、数回であるならば、気にもならないし、その音も可愛い後輩や、女の子ならば、愛しい音なのだが、キャバ嬢とのアフター(店終わりの連れ出し食事)でも、終始ずっとであった時 「俺は、その音が好きではない。出来たら口を閉じて咀嚼して欲しい」 と、その代わり後で何か買ってやるから。 と、とにかくやめさせる。 と、今は日本のプロ野球選手でも見かけるが、メジャーリーガーの。わたしも理由も、必要性も分かってはいる。リラックス効果や、脳に刺激を与えて、感覚を敏感にしておく事ぐらいは。 ただ、ベンチ内で食えやガムは!ぐらいは思う。メジャーリーガーの場合の、ぺっと吐き捨てているのが、唾なのか、ガムなのかは分からないが、どっちにしても、それは下品だと思ってしまう。わたしは、建築土木業もした事もある。今では、街を歩き、タバコや唾を平気で道路に吐いたり、捨てたりしている者がいると 「お前?そのアスファルトを舗装出来るのか?」 それは、数人には言った事は有るが、全てに言えないのでもう、やめた。 アスファルトもそれだけでも無いのだ。地層とでもゆうのか、水の有る層の水を止水して、地面から考えるには、地下十メートルほどだろうか。適した砕石を、砂を、土を、アスファルトをと仕上げて行く。 「お前?出来るか?」 もう、言わないのだけど。 口が寂しいとき、またお口の息のエチケットには、便利ではあるが、わたしの意見としては、別にこの世に無くても、困りはしない。とも思ってしまう。やはり、口を綺麗に閉じて、咀嚼音を鳴らさずにガムを、嗜む人は色っぽいとわたしは思う。 追記 チロルチョコのコーヒーヌガー。キャラメルのヤツ。と、ハイチュウもガムも、同一視が可能ならば、虫歯の詰め物を平気で、取り去ってくれるのは、勘弁して欲しい。 因みに私は、車にはクロレッツのボトル版をちゃんと積んでいる! 了

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七文字のキセキの言霊たち~一章~

〈一〉 【でも ありがとう】 生きていると、当たり前ではあるけども、泣きたい時も、切ない時も、死にたい時も、他人と何かを比べてしまったり、時にはアイツなんか死んでしまえばいいのに。私がこの手で殺めてやろうか? 普段の生活でも、学校での毎日でも、職場でも上司のしばきたい指示にも、様々な我慢や辛抱など、誰にでもそれは面白く無いことは、日常生活にこちらを狙いうちにする様に 「私を狙うのはなんなの?」 と、悲劇のヒロインになってしまうほどの、心の揺さぶりがあります。 少しなのかも知れない。けども、例えば 「あのボケ、殴ったろか?イヤ、我慢がならん。いっそのこと」 いけない気持ちになったとしても あぁしばきたい。 【でも ありがとう】 と自分勝手に、でも付け加える事により 「ん?ありがとう?」 そう?そうなん?そうか? と、軽い気持ちを得れることはあります。 【でもありがとう】 その時の想い、気持ちから何を得て、どんな成長があって、自分の未来にどう影響をするのか?何も無いのかもしれない。結果的にはそれを考える事は、人生に於いてマイナスだけなのかもしれない。が、その問題についての最終的に自分が出す答えを導いてくれる。今はそれはとても腹が立ち、はらわたが煮えくり返り 「なんで、あのボケの事でため息をつく?今日のご馳走を台無しにしてくれる?この最愛のパートナーと喧嘩をさせる?」 色んなその引き金からのマイナス点すらも、他人にため息をつく意味を、無意味さを少しは考慮させてくれる有難みをくれます。 これはもっと心を、人間性を大きくして、思考の中ではどうしてもイラついてしまい、ため息をついてる自分は確かにいるのだが、貴方の人生のひと幕の中では、貴方がため息をついているのであって、その時間に於いては、無駄な思考を切り替える速さの大切さを、自分にプラスにならない感情の、時を減らす努力をさせてくれます。 そのボケの引き金により 「今日のご馳走が台無しに?あのボケのせいで?いや、いかん。生命の源となる食事たちには関係がない。お米も、お魚も、お肉も、お野菜も、何もかもがわたしの生命の為に死んでくれている。あのボケにこの味を損なわせる事などさせない。あのボケにそんな力は存在させない」 これは、その時の気持ちであっても、他の場面でもどんな辛苦があろうとも、食事は楽しく、美味しくいただく練習、習慣付けとなり短い人生に於いては、今確かに口にするもの、それはもしかしたら、もう二度と食べれない最後かも知れない。 究極はいま、自分に大災害が襲いかかり、即時に生命が終わる様な事態になると、この世の名残りの、最後の食事となるもの。それに対して 「あのボケのムカつきのせいで味が何も無かった?」 「あの有名な、そして私自身の最後の晩餐がボケのせいで?」 こんな情けない感情は、そのボケにも関係も無く、自分の人生を哀れにしただけであって、そのボケに責任も持って行けないですし、死んで、あの世とやらで 「おいっ?ボケ?お前がムカつかせたから、最後の晩餐を台無しにした。責任を取れいっ」 と言っても、もはや何とも出来ぬこと。 「ええ。なら私の最後の晩餐をお試しください」 などとぬかした時には、あの世で殺さないといけなくなるので、その展開を事前に避ける。心が怒り、我を見失ったとき、大きく深呼吸を六回は行い、もう一度内容を頭で精査し、最善策を取る。 これは言い争いのとき私の大原則であり、子供の頃の様に顔面に二、三発入れたら良いとゆうものでもなく、大人としては、どの解決法が誰かに認められて、また後にも引かせず、そのボケも適度に持ち上げておけるかも、器量を観られます。 「ムカついたよお前?ムカつきは私の最大の喜びだ。ありがとう」 と、でも皮肉を言っておけば、相手は一体何だったのか?良くは分からないけども、ありがとうと言っている。 なんかお礼を言ってるな、と意味不明ながら思ってくれます。 これは、別に相手がこちらに対して、言葉が通じていない。意味を分かっていない。と取られても、しめしめ、もんで、そのボケとの関係がどうあろうとも、もうその件からは完全避難、触れられることも無く、即ち何故かマウントまで取られての追撃は無くなります。 自分に深く関係があり、避けて通れない相手のときは、こんな事はその件が時効消滅してから 「おうっ。あの時のとぼけは上手かったか?」 とでも、その件を考えていた風を、また計略だった風を話せば、相手は 「キチガイと思ったが、分かってやっていたのか?ほう、大人だな」 まったく人生に関係が無い、こちらの視界に入っていない相手の時は 「もう何も聞かなくて良い。勝手に周りに何とでも噂を流せ」 で良いと思います。 まず、人に人の噂をする。悪い噂を。 こんな事は誰も別に聞きたくもなく、それを聞いて、聞かされた方が愉快になる事もなく 「本人に言ったらええのになぁ」 「だから?それで?」 程度のことで、また噂などはその時の暇潰し、会話の種であって、話してる本人より、聞いている方の温度は低いものですよね。 私は、人がどんな噂をしようが気にはしませんが、それは私が、そんな人生だったから。言えば、本当に有ろうが、無かろうが、自分の優越感を満たす為、揚げ足を取るとの言葉も有りますが、 人間は一度気にすると、もうこれは幼い時の好きな人に似たような感覚で、ちょっかいを出したくなるものです。 全員が絶対にそうとも言いきれないのですが、あくまで経験上、体験の上では、どう接したら良いのか?その一言、行動で相手はどう考えるのか?動くのか?そのお試しで失敗した時は、虎の尾を踏んだ様な怒りも買うし、私は 「あっちがう。そうじゃない」 心でしまった感を感じて 話すきっかけが欲しかった。 視界に入りたかった。 相手にして欲しかった。 と、後悔する時は多く有ります。 ここまででも、色んな心の移り変わりは有ります。が、全てに 〈でも ありがとう〉 と、自分の中で結論を出してみると あぁ、そうだったか。 今に、その答えをくれた事すらも、結局はアイツなんだな。 それは、同じ世界で生きる、あくまで仲間なんです。その、どうしても理解しあえない相手すら、言わば何かのソウルメイトであって、どんな件でも、同じイラつきは感じたのかも知れない。 心の変化の、ターニングポイントになる人間。こそは 【でも ありがとう】 こんな事は中々、もう会えなくなってからか、探してもどうしようもなくなって、誰にでも訪れる、親、友、誰かの死に絶対感じる、悪い思い出など無くなってしまい、何故か良かった記憶しか無くなる。に、似ています。 人間など、所詮は誰とでも仲良くしたい。 これは、疲れるからです。 想って、イライラする事が。憎み続けるなんて体力はまぁ持てない。どこかで、私はどんな苦手な、嫌いな相手でも、呑みに誘います。男同士で有れば、車の話しなら合うのか?好みの女性の話しなら合うのか?子供の頃にした留守番の話しなのか?行かされた買い物の話しなのか?必ず、どんな嫌いと思っていた人にも、ふとしたキッカケは存在して、これもまた不思議なもので、鬱陶しいやつほど、共通点が多いのか、一度わだかまりが溶け、仲良くなってしまったら、喧嘩したら駆けつけよう。なんか助けてあげよう。私はそれは多かったです。 そして、この七文字は是非、日常に脳内でなく、お声に出して頂くことを強く望みます。 〈二〉 【うわっ ぜいたく】 私は、決して裕福な幼少期を、青年期を、壮年期を、老齢期を、死の際を 「言い過ぎてるよキミ?」 と、突っ込んでも何も楽しく無い、人生を未だに歩んでいる。 この年齢から来るのか?少し、世界の見方や、一つの出来事に対する考え方なども、変わった様に思います。 (楽しまないと損) (喜ばないと損) (感動しないと損) (有難くないと損) (今に感謝しないと損) 抽象的な死後の世界、私は在るべきだと、ただそれは、この現世での姿を取るのか?とする時、幼少期しか知らない。 極端に言えば、棺の中の顔しか見たことが無いときに、ある人には幼姿に、ある人には、棺は言い過ぎたので、最高齢期とでも言おうか、の姿を魅せるのか?とすると、死後の世界などは、まぁ無いと考えて普通で、有っても姿形も何も無い、会話も無論ない、霊や魂も、何となく気持ち悪いので、もう、表現すら難しくなりますが、我らには知見の及ばない、次元の違う何かの世界があったとして、そこでおまけに、この現世の記憶があって、その思い出話しをするのだろうか? そんな死後の事、人智に及ばない事は完全に無視して、死んだ後に何も無いのならば、この世で経験する、体験出来る全ては、たとえどんな気分の悪い事だとしても、見ることも感じる事も、この現世、娑婆世界でしか、不可能とするならば、それは何もかもが、贅沢極まりない事であって、私がこの頃思う事は、綺麗な太陽と雲の隙間から描く光や、山の景色、海の壮大さ、夜の星々、もうこんな事は言いきれない。 私は、現在に生きる人に 「どうや」 感はあまり出さない。たまに、良い情報すらも、何故か、胸くそ悪くなる元になる事があるからです。羨ましいが疎ましいに変化し、ヤキモチにもなり、これも不仲の原因にならない事も無いから。少しタチの悪いのは (知ったか) を、平気で、当然の様にしてくれる人も、少なくないと言うことです。 極端に言うと 「この、般若心経が書かれた一万円札は見た事あるか?知ってるか?大志の宝くじが当たる祈願で、健太筆、6月30日祈願とも書いてる。顔の面の右下と、左上とを、タコの脚の数と、イカの脚の数に、切れ目が入っているやつだ。真ん中の透かしに俺の拇印も押してある。知っとる?」 「知ってる。それを見たのは、、、」 「君との関係を、少し考えさせてもらう」 この世に、ない物でも、知らない事を、恥と取るのか、引け目に感じるのか、平気で知っていると言う。 これは、日常生活では、細々した事を含めれば、それは多岐に渡り、別に笑い事なので、どうでもいいのだけど、又友達の、又友達の又友達辺りから 「アイツ、すげぇよなぁ?タコとイカの般若心経の万券なんか、持ってるらしいで?」 アイデアを盗んだのは、かわゆい、許す。脚の数は、捻ろうよ?ダンゴムシとゲジゲジで良かった筈だ。 暴走したので、戻ります。 それは、不仲にまでは、ならなくとも、時には、内容に因ってはあまり、「知ったか」は良くは無い。知らない事は、素直に分からないと言い、教えて貰った方が、本人の為であり、知識となる物でもあり 「聞くは一時の恥」 ですよね。 そんな、この世で感じる事、観れる物、味わえるもの、知れる事の全ては、生きているからこそ感受出来るのであって、私は、だけども、生きている人との比較は、優越感や、大人げなく、小馬鹿にする様な時も、無いことも無いので、今でこそ、四十七年も掛かってようやく、その事を知らない、分からないと話す相手に対して、難しくとも 「遠い未来の、子孫が聞いている」 と、喜んで伝えます。 今日の、三度の食事も、コンビニ、スーパーで並ぶ商品も、街並みも、空も、人も、散らかった部屋も、あまりに好みの異性も、今日までの苦労も、今の怪我も、お腹が空いても、暴れたい虫歯の痛みも、どんな何事でも 【おいおい。ぜいたくだね。こりゃまた】 先程は、死後の世界がとか、お話ししましたが、死んでしまった親族でもいいし、縁のない歴史の人物でもいい 「貴方達は、もうこの全てを、何も体験出来ないのか」 それは、如何なることも、ぜいたくな事であり、ならば、一つの出来事や、物事に対しては、不平不満を並べ立てるよりも、それに最大の感謝を、敬意を持って迎えるべきで、目にしてしまった惨劇も、大ミスのルーも肉も野菜も入れ忘れたカレーでも、死んで見れるのか?死んでそれを口に出来るのか? ならば、あらゆる事の全てはやはり 【うわっ ぜいたく】 思い込みではなくて、本当にそれは、ぜいたくなのです。見るのも、関わるのも鬱陶しい。けども、鬱陶しくなれなくなるのなら、鬱陶しいなんて事は 【うわっ ぜいたく】 そのものに違いありません。 心持ち一つで、世界は一変してしまう。 これの、賛否は然る事乍ら、出張転勤で、都会で長く暮らした人が、地名は失礼なので、まぁ対極的な地域に、致し方なく移住をした。移住した当人は、落胆して、華やかな街を、そこら辺に歩くイケメンを、美女を、とは思いますが、私の経験上、ホームシックに陥っても、地元民と会話してみると、あそこはいい、ここのあれは名産だ、美味い。住めば都だよ!それは、地元愛だとも思ったけども 「転勤でね。都会で数十年と暮らしたが、この空気と雰囲気がね」 地名は避けたいので、第六銀河は大都会だったが、第九銀河のド田舎が好きだ、と。私の生まれ育ちは第七銀河だと。生まれ育った故郷愛でも無く、敢えてそこにいる事を選ぶ。確かに、山海の幸や、排気ガスが少ないとか、様々な要素は有るのだろうけど、それはそれで、第二銀河を、選ばなかった理由も、その人には存在し、その人なりのぜいたくが存在している事になる。 何故に、優しい陽に毎日当たり、雨にまで触る事が出来て、今の時代なら、世界のどんな物も見聞出来て、手に入れれて、食事も可能だろうか。山に一歩入れば、樹齢も貴方より数倍の木々達、失明の人には決して観れない景色、時折駆け抜ける野獣たち、その樹木も一本、一本と違う色付けの形の葉を付け、下を向けば昆虫がうろついている。と思った瞬間に、バタバタっと野鳥も飛び去って行く。落ちてる実を、口にしたら甘栗だった。甘そうな柿と思ったら、渋柿と罠と疑ったが、超絶甘かった。買うより美味! これが、ぜいたくで無ければ、何がぜいたくなのか。この展開には、お金を必要としない。自然の恩恵であるから、都会に疲れて、違う生活を短期間してみる。 山に限らず、海もそう、温泉もそう、その季節には、旬のご馳走がある地方へ旅行もそう、海外旅行も。 その全てが 【うわっ ぜいたく】 お金を遣い、違う日常でそう思う、感じるのは易しいと言えば、易しい。けども、今日のそのままの貴方の生活、これを求める者、それは絶対に存在する事であり。貴方にとっては、何の喜びも、変化も、トキメキも無いのかも知れない。 その、当たり前の日常生活、これはぜいたくそのものであり (無い物ねだりの子守唄) 今の、当たり前には感謝も、特にしないが、もっと高級な生活を、と求めるが、もっと高級な生活をしている者は、結局は同じこと。これは、際限のない欲望の現れで、はっきりと言えば、もうそれは、永遠の餓鬼道。水を飲んだら、コーラを求め、次にはコーヒーを、ビールを、ロマネコンティを、世界一のワインを、不老不死の禁断のエキスを。 そこで、水を飲めて 「うん。ぜいたく、ぜいたく。ええぞ」 で、良いのである。 その、不老不死のは、無いから言い過ぎでも、世界一のワインと、数百円、高くて数千円のワインとも、味などそう変わらない。よく、何処の産地のぶどうの何年物の、渋みな酸味が甘みが、色が、ワイングラスの光に翳した輝きが、この芳醇な香りが。 そこそこ、どうでもいいよ。その世界一のワインでも、最愛の人に振られて、家に帰ったら空き巣に全部やられてた。 その時に最高の渋みはあんまり、関係ないので。 よりも、気の合う仲間や恋人と笑いながら飲む缶コーヒー、の方が価値も有りますし、絶対にぜいたくですよね。 どんなに嫌な事、辛い事、それはそれで 【うわっ ぜいたく】 と、一言具えるだけで、また少し貴方が生きて、味わえるキセキなのだと、思いが変化する事を期待します。人生は、思い込み、気持ちの持ち方で、全てが最高になるんです。 極端に言えば、寝て、朝に普通に目覚めて、新たな今日を生きれる。 その時点で 【今日もぜいたく】 なのです。 全てにぜいたくを感じる気持ちを大切に! 声に出しましょう! 【うわっ ぜいたく】を 続く

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七文字のキセキの言霊たち~一章~

水だけの戦い~四十五日間の断食~

〈一〉 その思い付きはなんて事もなく、また結果として得るものが何も無かったとしても、それでもよかった。 令和五年八月中旬 先の七月に、まぁ人間関係での、あまりに幼稚な考えしか出来ない者たちから、日本を代表する家電企業の派遣社員としての職場を離れる事になった。 この派遣社員とは 派遣よな? 本部との関わりも無いよな? 昇給もボーナスも、何の保証も無いよな? とゆうのが私の意見。 まぁ考えの根本が違うなら、別に分かり合う必要が無く、その企業のネームバリューにしがみつきたければそれでいいし、そこからの、自分の市場価値を高める事も求めないのならば、私は未練も無かった。 月給は、総支給41万程とレオパレスマンションの家賃無料の待遇で、社会保険や厚生年金、他もろもろの控除で手取り額35.6万と言ったところ。私は自由気ままな独身貴族であり、借金やローンもない。そのまま、自分のお金であり、同世代の妻子持ちなどは、小遣いは無い。嫁に必要な事情を言い、貰うと言う。 それは毎日、仕事帰りにそのスーパーでも、国産でも無く、和牛でも無く、地産の牛肉を買い、焼き肉を食べてはビールを、少し安価な発泡酒でもなく、エビスやプレミアムモルツなどで毎日酔っては、誰彼構わず電話する。そんな毎日であった。どんな買い物でも、値段も見ない、財布の中身も気にしない、通販や家電量販店に行っては必要なのか?不必要なのか?良く考えずに購入をする。 それは今も、考え自体は大きくは変わっていないが、不慮の死を迎えたときに、口座や財布や家に大金を残してどうする?と言った考え。 勿論、予定の有る金額は残しておく。が、40歳を越えて、独身貴族では頻度も少ない。 その35.6万を毎月 何故?何故なのあなたは? と言われながらも月末には 無いの!遣っちゃたの!無いもんは無いのっ! と恋人に甘えたりした。 寺社仏閣が好きな事もあり、そのレオパレスの真横に天皇神社が在り、たまにしかしないパチンコで勝ったら、その勝ち額を、負けたら 「次?頼むで?」 と賽銭箱に投げ入れる。勝手に思い込み、日本人は日本酒だっ。と1万も2万もする日本酒を供えたりする。昼、夜と構わず境内で弁当を食べたり、中を散策して木に成ってる実を食べてみたりもした。 夜は駅前の盛り場に行き、女性の店で散財する。恋人は、別にそんな細かい事は怒る事も、触れる事すらない。 「早く帰りなさいよ?」 程度のこと。 この頃、既に心では 「俺は、一体なにをしているのだろうか。周りは家を建て、それなりに生活をしている、このままで果たして」 丁度その頃、Facebookに、暇をみては投稿をする、とゆう事をしていて、その中の一つのグループで大変に尊敬出来る宗教家がいて、何度か語り合った。 その女性は非常に知的であり、物腰も柔らかく、話すことも宗教家らしく大胆に話し、また内容も明瞭でもあった。それの結論は、一つの傘の下で相反すること、仲間意識や敵対心を持ってしまうこと、この永久不滅と思われる下々の争い。 一つのことわざを見つける。 「宗派の 争い 釈迦の恥」 あくまで諺であり、本人の心の内ではない。が、確かにそれはそうだ。死んで何も出来なくなってから、勝手に枝分かれして揉めている。その喧嘩の元は、結局は釈迦本人と言われても仕方が無い。その仏教自体が存在していなければ、喧嘩する必要性が無い。原因もまた無い。 この釈迦とゆう人物はどんな苦行を?悟りを開いてのその後はまぁいい。何がその悟りへと導いたのか?産まれながらに智恵が備わっていた事は、もはや勝ち目は無く、せめて同等のことをしてみたい。そこで得られることとは一体何なのか? 〈中道〉 全てに於いて、極端に求からず。 と説かれた心はどの様だったのか? 何故一度だけだったのか?その悟りの苦行を何度も行えば、また違う想い、思考になるのでは無いのか? その彼が、実際に何日の断食苦行を行ったのか、厳密な事実は知りようがない。 「一度、精魂果てるまでやってみるか」 そこで何も無かったとしても、単なる人生のひと幕。 「俺は、こんな事をした挙げ句に何も無かった」 と、誰かの笑い話になればいい。 敢えて、持ち金をゼロにし、恋人に 「人生の最後とも言える、自分だけの修行をしてみる。何が起こるかは分からないが、徳川家康になってみる。ホトトギスとやらが鳴くまで待ってみよう鳴かないならそれまで」 「今回だけは、どんな事も誰にも頼らない」 と、二十八分目までのカッコをつけ、携帯の電源を切り、冷蔵庫のカラを再度確認して、座禅の形、結跏趺坐はせずに胡座をかいて、電灯を黄金色に光る豆電にして、悩み事、考え事に利用する、無音での半眼でのその苦行とやらと戦う四十五日を、身勝手に始めてしまう。 何日目とかの記載では、はっきりと言って、記憶が薄い部分もあり、記憶内でのことを。 また、記憶に残ることしか、その行為でのポイントも無いと思います。 私は、日常から夜中に座禅を組み、瞑想を行い、過去の自分を振り返り、また数息観にて (単純に心を空にし、日々の生活や雑念から逃れて、一から百までを数える。の何百、何千、何万の繰り返し) これも、宗教とか宗派とか、そんな細かい事では無く、自分や周りや物事の見極めや、心の内の有り様、行う事を考えた時に、それは堂々と出来ることなのか?変に緊張したり、心のどこかで後ろめたく無いのか?自分自身でゴーサインを出しているのか?人生の有益となる事なのか?それをして、後悔はいつに訪れて、それの取り返しには、行動に使った期間より、短い期間なのか?損得のアベレージは、総合的には得と出るのか?一人でも笑ってくれる事なのか? 様々な事に対しての、自らの心の様子を観るのには、適していると思うのであって、少し宗教的な私見としては、何かを唱えたから日常生活が変わる、また自分が変わる。 これは、思い込みの世界観で、事実として自らの想い、心の中での冷静な善悪などの決定を出すと言うことは、ただ己の内面を観ると言うことであり、お経をひたすらに唱えることでは無く、あくまで自分と対峙する。 私は、何かをする時に、心が晴れていない、良いのか、悪いのかをずっと悩んでいる。やってすぐにもう後悔している。 それは早めに対処しないことには、後悔から負い目と進化して、対人関係では、間違いを認めたらさっさと違う、ごめんと言い、後に持ち越さない事を大切にします。 その座禅、数息観では慣れてくると、イチ、二のイチが、およそ一秒で一呼吸となり、日常生活でも大体の一呼吸が一秒となります。それは、この座禅の目的だとか、得る事だとか、座禅の師範代に教えてもらった訳でも、修行をした訳でも、その一呼吸を一秒にする事に意味が有るのかも、私は知りません。 全くの無意味かも知れませんし、どこかの禅の達人はそうしているのかも何も知りません。単なる我流。 断食とは、いわばその瞑想、座禅の延長戦で、単に途中でお腹が減り、それを乗り越えて、また空腹と戦う、ただそれだけだと。 本当に私は、飢餓と戦う事なのだと、今思い出してみると、その空腹と戦うだとか、何かと戦うだとか、少しばかり次元の違う、全く新しい考えの自分が、ニョキニョキと全身の毛穴から全世界へ、宇宙へ、それも越えての感覚が顕れる事になり、正直言って途中では、もう今、生きているのか?死んでいるのか?一歩外へと出て、他の人に私は観えているのか?今、この声は果たして本当に出ているのか?人間は、いや私はたった四十五日間ではあったけども、飢えに飢えたとき、そして一円も持ち合わせていない時、その私と向かい合う人の中でも、その職業を遂行する事により 「お金と生命を」 「仕事と人間性を」 「真心と偽りの人生と」 一体、いつにこの世界は国は、生命の叫びと、勤務時間とを、また生命とお金を、平気で計りに、天秤にかける様になったのか?生命の叫びも、ウソ、だと取る様になったのか? 私も、その四十五日とは、初期設定の目的地点では無く、また正直言うと、もっと長期にわたり出来たのかも知れない。が、時がそれを許さなかった。私は、本当の意味での乞食(こつじき)でも無く、寺に在籍する僧でも無く、裕福な資産を持ち合わせて遊んでいる訳でも無い。 前職の派遣職の、失業保険、雇用保険の約五十万円の支給が目前になった事により、一旦はここまで。 退職も、会社都合や自己都合等の理由付けは存在したけど、確か、待機期間と言ったか八日間、を過ぎて2ヶ月を置いての支給であり、とりあえず私は、今回の断食行は、雇用保険の支給との兼ね合い、その日からは仕事をしても差し支えない、とそこでの打ち切りを決めた。 まぁ言わば、失業し、失業保険の支払いも決定して、どうせそれ以内に職を決め、始めてしまっては失業保険も無しになるので、普通は就職活動でも行うのだろうか、彷徨いながらも街を歩いて、数件の企業に、飛び込みで声は掛けてはいたので、一応就活はしているし、どれも履歴書を持参するだけの手筈にしている。 こちらの都合の良い時に。だから、失業保険の給付の観点では、無駄な時間、期間は使ってはいない。それまでの様々な思いを改めて考え直す、SNS、ネットでの世界との繋がりはもう開始されていて、世の中の一部であるから、避けて通っても仕方ないし、それに利用されるもまた逆も個人次第であり、こんな小説風であろうと、無料で何かを伝えても良いのでは無いか?中々に存在しにくい特異な人生の恥を晒してみよう。 それが、自分に責任を持つと言う事であり、昨日も今も生きている証であり、全てに総スカンを喰らっても、一人の共感者で良いではないか?絶対に死んでいた私が今生きる意味。 これは、薬物の致死量の倍近くでも、この世の言う所の、神仏と呼ばれる謎の光に、実際に瞬時に、生命の吹き返しをもらった私の、役割では無いのか?と思います。私は今、現に生きている。生きていて恥ずかしいのか?私を産み、護り、育てた全てに対し、私は恥ずかしいのか?自分だけは自分の味方でいたい。そして、今書いてる事の全てすらも過去なのだ。恐らく、書いて誰かがこれをお読みになられている時には、もう私はそこにはいない。新たな自分を創っていく。ならば、過去の精算をそろそろしても良いのではないか? 【背水の陣】 私は私を晒し、尚且つ前に進む事を選ぶ。 誰かに私を知られていて、もう隠す事がない。 あぁそうだよ。と開き直って前に行ける。 その四十五日間での、色んな人、物、事に対する考え方の変化を引き続き、次章に繋ぎます。 〈二〉章へ

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水だけの戦い~四十五日間の断食~