久々原仁介

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久々原仁介

ただ、僕を見てくれ。 この弱い、僕を

あの日零したチャイナブルーみたいに。

 99階のマンションの屋上から飛び降りたとき、途中で僕は27階の人妻さんと窓越しに別れを告げた。  こんばんは。  良い夜ですね。  僕は加速している。彼女の瞳だけが追いつく。 『どうして君は、落ちてしまうの』  やり取りは短く、彼女の姿はすぐに途切れた。  26階には誰もいなかった。 「貴女に、恋をしたから」  僕の部屋が、あった。

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あの日零したチャイナブルーみたいに。

藍色に揺れる

 梶栗郷駅にはいつもイヤホンをつけた僕と彼女だけ。  お互いに違う曲を聴き、同じ本を読んで帰路に着く。  彼女が違う本を持っていた時は売店でその本を買うこともあった。  しかし翌朝、出抜いてやろうと持っていった新刊が、彼女の手にも収まっている。  今日も、彼女と同じ文字を読む。  この日はきっと、聴いてる音楽さえも同じだった。

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藍色に揺れる

灰より熱く、青く逝け。

最強わたしは雨がっぱ。 殺人ローファー履きながら。 君と歩くよ断末魔。 握った手なんか幻だから。 君に恋した海岸よ。 埋葬学ラン似合ってる。 なんで青いの海の上。 普通に浮かぶ女子高生に。 わたしはなりたい。 なんて、バーン(銃声)。

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灰より熱く、青く逝け。

文字だけの関係

台風二十何号かが通り過ぎた。ホテルは冷房も暖房もつけなくてもちょうどいい季節になったけれど、水槽の温度は冬にむけて少し上げておかないといけない。  この頃になると、オーナーの浜本さんに気づかれないように201号室を模様替えするようになっていた。  ポッドの珈琲があまり減ってないから、桃の紅茶にしてみたり、持ち手がハート形のティーカップにしてみたり。  次はスリッパをピンクに変えてみようかと考えていた日だった。Rは十九時ごろに『ピシナム』へと訪れた。最近は声色とかガラス越しの雰囲気なんかでRの調子がある程度わかる。  玄関ドアから受付カウンターまで十歩以内で来たら機嫌が良い。だから今日は調子が良い日だった。  Rの後ろから入ってきたのは、二十歳前後の僕と同い年くらいの青年だった。肩が華奢な男で、居心地悪そうにキョロキョロしている。 「金魚の部屋でお願いします」  もちろん、空いております。と、心のなかで呟く。  それから一時間後、いつものように男が先にチェックアウトして、Rだけが残っている時間だった。  受付台で避妊具をラッピングしていると、壁に備え付けられた気送管ポストから「シュルシュルシュルー」という音が響いて、思わず肩が跳ねた。  気送管ポストとは、空気の圧力を利用して中にあるカプセルを建物のなかで行き来させる仕組みのことだ。発祥はスコットランドらしい。『ピシナム』では、壁に箱を埋め込んでいるような形になっていて、中に入っているカプセルにお金を入れて支払いを済ます。経済成長期前後にできたブティック系ホテルは、この気送管ポストによる支払い形式が多いのだとマリーさんが教えてくれた。  問題なのはその青いカプセルが201号室のもので、なかに入っているものが、どうもお金ではなさそうということだった(カプセルは部屋ごとに色分けされていた)。 カプセルが落ちてくる音が普段と違った。小銭同士がぶつかる音がしないし、お札にしてはほんの少しだけ軽い音だった。  気送管ポストの取り出し口は、座っている僕に対して左側面の壁に取り付けられている。手を伸ばせば届く距離だ。  蓋を開き、年季の入ったカプセルをいつもより慎重に取り出す。 なかには花があしらわれた薄い桃色の便箋が、裸で入っていた。  便箋を開くと、大人びた文字がいくらか並んでいた。 『はじめまして。  はじめましてじゃないかもしれませんね。でも受付さんとこうしてあいさつをするのははじめてだから、はじめましてでいいのかも。いつも、金魚の部屋を借りている者です』  Rからの手紙だとすぐにわかった。そうであってほしいという気持ちが強かった。 すぐに返事をすべきだと思って持っていたメモ帳を千切ってペンを走らせたが、なかなかうまい返事が思いつかなかった。  顔が見えないということが、僕にいくらかの安心と興奮を与えていたのかもしれない。 『こちらフロントスタッフです。  はじめましてでいいと思います。なにしろあなたのことを、何も存じあげないわけですから。  いつも当ホテルをご利用いただきありがとうございます。  本日は、どういったご用件でしょうか』  少し堅くなりすぎただろうか。  けれどしょうがないとも思う。僕は文通の経験がこれといってない。年賀状すらずいぶん書いていなかった。もしもRと話せたら。そんな妄想に耽ったこともあるけれど、いざそうなるとなかなか気の利いた言葉は出てこない。  あまり待たせるのもいけないと思い、しょうがないからそのままカプセルの中に紙きれを入れて、戸を閉める。横にある赤い送信ボタンを押すと、「シュルシュルー。シュルシュルー」と、音をたててカプセルが管を這い上がっていった。  カプセルが目に見えなくなると、何度も何度も自分の書いた文章を思い出して、頭のなかで精査した。  後ろにあるかけ時計の秒針が三周したときに、201号室の青いカプセルが気送管ポストのなかに落ちてきた。 『いつもの受付さんですか?』  さっきの便箋を四分の一ほどに千切った紙に、たったそれだけが書かれている。  小さな雨粒が紙に落ちたら、この子の字になりそうだった。  色々思いつきはしたけれど、頭の中に居座る検閲官にはじかれるおかげで、なかなか返事がペン先から出てこない。 『おそらくは』  なんだか素っ気ないなと思いつつ、カプセルのなかに入れて、ボタンを押した。  送った後になって彼女が僕のことを『受付さん』と書いていたことに気が付く。彼女のことをRと呼んでいるように、彼女も僕のことを受付さんと呼んでいるのだろう。それがほんのりと胸を温かくした。  けれどメッセージはしばらく返ってこなかった。途端に不安が身体中を締め上げる。この短い時間で、僕の心はかつてないほど揺れ動いていた。  僕はどんな言葉が相手にどういう影響を与えるかを、まったく知らなかった。どの言葉が相手を喜ばせるとか、傷つけるとか、そういうものに無頓着だった。だから便箋が来るまでは、ひたすらその葛藤に苛まれた。  初めての感覚に手先がピリピリする。  シュルシュルー。シュルシュルー。 『気づいてますか?』  紙面には何度も、消しゴムで消した跡が見て取れた。  気づいているか? そう訊かれて、なにを? と書こうとして止めた。  それを書いたら、Rは何も返してくれない気がした。 『気付いています』  Rについて知っていることは多くなかった。いつも201号室の金魚部屋を利用すること。いつも別の男を連れ込んでいること。  そして、彼女が女子高生であるということだった。 『受付さんは、わたしを追い出したりしないんですか』 『いたしません』 『どうして?』  理由を訊かれると、筆はしばらく止まった。訳がないわけではなく、自分のことを語るということが下手だった。どうしても気取ったような言い回しになってしまう。  たっぷりと十五分ほどかけて自分の書いた文書と格闘する(思わず『僕』と書きそうになって『私』と書き直した)。 『私は、人の顔を見るのが苦手です。人と向かい合って話すことが、不得手なのです。人の口元を見ながら、相槌を打って、自分の意見を言うということが、私には非常に難しいことのように感じられます。ですから、お客様に直接申し上げることができないだけなんです』  Rのことを気にかけること以上に、彼女と面と向かって話すことが想像できていない自分がいた。  僕は、自分が思っているよりずっと臆病だった。 『そうなんですね。それはそれでいいんじゃないかと、わたしは思います』  しかしRは、臆病な僕のことを好意的に受け取ってくれた。 『それは、いいことなのでしょうか』  もはや誰かに肯定されることすら不安なところがあった。 『わたし、見えないってどこまでも平等なんだと思います。背が高くても、低くても。女の人でも、男の人でも。差別をしないでいいじゃないですか。一番近しい人みたいにもできるし、一番遠くの人にもなれるから。だから、悪いことじゃないと思います』  不思議とRの文面は、信じてみたくなるような力があった。Rは便箋の下に『受付さんは敬語じゃなくていいですよ。わたしの方が、年下ですから』と書いていた。  『かしこまりました。善処いたします』と書いて送ると『敬語じゃないですか』と返ってきた。いきなり話し方を変えるのは難しそうだ。  これで終わりかと思ったら、便箋の一番下の行に『裏に続きます』と書いてあった。  言われるがまま(書かれるがまま)、ひっくり返す。 『紅茶、とっても美味しかったです。  ティーカップもずっと口につけていたいくらい可愛かった。ありがとうございます(これが言いたかった!)。  また次の水曜日に、来ますね』  紅茶。201号室のポッドのなかは他の部屋と異なり、コーヒーではなく桃の香りがする紅茶が入っている。Rのために、僕が淹れた紅茶だった。  甘いお菓子を食べたときみたいに頬が緩んだ。一度読んだ手紙で、内容は分かっているのに、それを何度も読み返した。  手紙を一旦閉じたあとに、カプセルの奥に沈んでいる三〇〇〇円を発見した。もうチェックアウトの時間だ。お釣りを入れたカプセルを返すときに『誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております』と入れておいた。  こんなやり取りの後だと、鍵の受け渡しだけでも顔が強張る。けれどエレベーターから降りてきたRは、普段と変わらず鍵をポイっとキャッシュケースに落とした。  硬い音がして、それはどんな言葉より雄弁だった。Rにつられて、自分も淡々と鍵を受け取る。  彼女が踵を返して、力いっぱい扉を押し開く。ひだスカートの端が扉の向こう側に隠れてしまうまで、彼女から目を離さなかった。  時計の針は九時を回ろうとしていた。受付を交代する時間だった。ズボンのポケットに、Rからの便箋をくしゃくしゃに突っ込む。  今日の彼女は泣かずに帰路に着いた。たったそれだけでも、不思議と満ち足りていた。

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文字だけの関係

波の前日

 『ピシナム』に勤め始めて三カ月が経つと、受付業務だけではなく清掃作業も任されるようになっていた。十九時から二十一時までを受付、それから二時間の休憩をはさみつつ午前五時まで清掃に入る。これが近ごろのルーティン。  レジ内のお金に誤差が出ていないか点検していると、カシャンと鍵を置く音が聞こえた。  Rだ。 「……あ、りがとう、ございま……す」  その日のRは泣いていた。出口へと向かう彼女は足を引きずっているように見えた。  今日誘った男はそんなに乱暴な奴だったのだろうか。男の容貌を思い出そうとしたが、どうにもうまくいかない。 「磯辺くん。次、清掃だよ」  考え事をしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。 「はい。かしこまりました」  振り返ると、初老の男性スタッフが穏やかな声音で受付シフトの交代時間であることを教えてくれた。 「未清掃は?」 「そうだったね。えっとねえ……ニマルイチ、ヨン。サンマルニ、イチゴ。ヨンマルニ。だけかな」  201、204、302、315、402。  早口に並べられた数字を頭の中で部屋番号に並べ替えて、メモを取る。受付を代わる際は、前のスタッフに未清掃の部屋番号を教えてもらわなければならない。 「了解しました。ペアは?」 「中村さんだよ。もう先に清掃入ってるんじゃないかな。よろしく頼むよ」 「はい。レジ点検残りお願いします。お疲れ様です」  初老の男性スタッフに引継ぎをしてから、受付室を後にする。  更衣室で清掃着の青いツナギに着替え、201号室へと向かった。『ピシナム』は階数が低い方から上階へ向かって清掃を行う。だからRが帰った直後に清掃に行けたのは嬉しい偶然だった。  201号室に清掃へ訪れると、本当にここでセックスをしたのか疑問になるくらい、ベッドは整っていた。それでもシーツに乾いた精液が飛び散っているのを見ると、生々しい気持ちになる。  汚れたベッドの前に立っている自分を客観的にみると、胸のざわめきが引いていった。そこにはホテルマンの僕だけが残っている。 「……玄関よぉし。テーブルよぉし。ベッドよぉし」  声に出した箇所をきちんと指さし、お客様の忘れ物がないかを確認する。気分はまるで電車の運転士だ。  そしてその掛け声が切り替えの合図。  手先がかぁっと熱くなる。  交換するのは枕カバーと、ベッドシーツの二つだけ。  まずは、掛け布団を一旦広げてから縦に三つ折りにし、足の方からだし巻き卵みたいに丸めていく。掛け布団を一旦、テーブルの上に避けたら、枕カバーも外してしまう。ベッドシーツも外すけれど、思い切り引っ張らないよう気を付ける。ベッドの上に落ちた体毛などを絨毯に落とさないためだ。  ここで一呼吸いれる。慌ててはいけない。シーツの上下両端を折って中央で重ねる。重ねたところ持ち上げると揺りかごのようになるから、そのままゴミを落とさないように、今度は左右を折り曲げる。もう一度。もう一度。簡単に畳んで、枕カバーと一緒に持ってきた回収ボックスにいれておけば片づけは終わり。そしたら新しいシーツをかける。新品の画用紙くらい綺麗に敷ければ上出来だ。ここで別の誰かがセックスをしていたと、次に来るお客様に思われてはいけない。コツは、手のひらでピザ生地を伸ばすイメージ。皺なく敷き終わったら、垂れ下がったシーツの端をベッドの下に噛ませる。親指の付け根をベッドの境界に這わせるようにすると皺が寄らずにシーツを挟める。枕カバーを新しいものに代えてベッドに添えたら、掛け布団をかぶせる。最後に掛け布団の頭の方を十センチほど折って、シーツの白をアクセントにすれば、完成だ。  だいたいこの工程を三分ほどでこなす。時間をかけて丁寧にするべきだと思うかもしれないが、ベッドメイクは時間をかけすぎても皺が寄るだけだった。シーツは常に、油の引いたフライパンの上にある溶いた卵と考えなければならない。 「だいぶ早くなったね」  気だるげな女性の声が聞こえた。  顔をあげると、僕より先に清掃に来ていた中村マリーさんが腰に手を当てて後ろに立っていた。 「……いきなり、背後に立たないでくださいよ」 「声かけたけど磯辺クンが気付かなかっただけ。普通、アタシの方に挨拶しにこない?」 「あー……。それは、すみません」  マリーさんは、二〇代半ばのシングルマザーで、僕の教育係でもあった。  一部屋の清掃は二人でかかる。風呂場とベッドの清掃を分担するためだ。浴槽に水滴一つ残してはならない風呂掃除は、ベッドメイキングよりもいくらか時間がかかる。そのため経験年数が長い方のホテルマンに任せるのが『ピシナム』のルールになっていた。 「ねえ、仕事には慣れた?」 「いえ」 「いえってなに? Yeahってこと?」 「いや、まだ慣れていませんって意味です。まだ働いて、三カ月くらいですから」 「ふーん」  あんまり仕事増やさないでよ? そんな反応だった。ぱさぱさとした茶髪の長い髪を、指ですきながらマリーさんは回収ボックスにもたれかかる。 「大学は楽しい?」 「周りは楽しそうでした」 「磯辺クンが楽しいか訊いてるんだけど」 「一人でいるときは楽しかったです」 「それって大学にいる意味ある?」 「だから、大学にはもう行ってません」 「休学してるの?」 「そうです」 「もったいない」  僕が大学に通っていたことにマリーさんはとても興味をもっていた。妊娠が原因でマリーさんが高校を中退していたことは他のスタッフから聞いていた。だから、大学なんてろくなもんじゃないという表現をした。  大学がというより、人の集まる場所が、僕にはどことなく耐えがたい空気を孕んでいるように感じた。  人の顔を見ると、何故だか切り離されたトカゲの尻尾のように思えて仕方がなかった。あの部分だけ、筋肉の繊維が複雑に絡み合っていて別の生き物のように見えてしまう。 「人の足元ばっか見て話さないでよ」  うつむきながら話す僕を、マリーさん厳しい口調でたしなめる。 「あ、はい……」  気の抜けた声が出る。  こうなったら、僕はもうダメだった。いま、マリーさんの眉間には深い皺が寄ってるだろう。目の真っ黒なところが僕を睨み付けてるんじゃないか。そう思うと頭が鉛のように重くなって、顔を、上げられなくなる。  ふとRのことが脳裏をかすめた。  顔の見えない彼女は、僕にとって優しい人間なのかもしれなかった。 「ったく……ホテルの仕事はどうなの?」 「……しっくりきています」 「若いうちから、こんな仕事してたら、これから苦労するよ?」  僕がこの仕事に勤めていることを、マリーさんはあまり良く思っていない。  マリーさんの顔をみれば、悪気があって忠告しているわけではないと一目で分かるのかもしれなかった。 けれどその視線をマリーさんの顎より数ミリ上にあげることが、どうしても遠かった。 「うーん……これかな」  マリーさんは黙った僕など放っておいて、回収ボックスを漁っていた。 「ちょっと」  語気を強くして咎めるが、マリーさんが詫びれる様子はない。 「お、あったあった」  マリーさんは先ほどまで敷いていた古いシーツを引っ張り出すと、それを自身の頭にかぶった。 「磯辺クンってセックスしたことある?」  ないと答えた。本当になかったからだ。 「そこはあるって言いなよ。レイプしたくなるから」  コロコロと笑いながら、シーツでカラダを包む。最後は蚕のように膝を抱えて座ると、自分のどこかに蓋をしたようにマリーさんは静かになった。 「一緒に入らない?」  シーツにくるまった彼女が紅い唇に笑みを浮かべていた。 「……けっこうです」 「あっそ。残念。あはは」  断っても無理強いされるのではないかという心配は、マリーさんの虚ろな笑い声にかき消された。 「いまアタシ、セックスしてる」  Rの使っていたシーツだと思うと、眉間の皺が深くなった。 「……してませんよ」 「してる。してるよ」  マリーさんは笑みを噛む。 「こうしてると、わかるよ。どうしてこの子はここでセックスしてるんだろうって。大切にされたいとか、犯されたいとか、奪いたいとか。ベッドのシーツを見たら、だいたいわかる」  じゃあ、Rは何を考えているんですか、と。言いかけてやめた。  おそらく人から聴いても意味がないし、きっと僕はそれに納得できない。  生きていることを忘れたように丸まったマリーさんを見ていると、201号室が空くのをじっと待っているRと似通ったものを感じた。  Rが僕のなかで存在を大きくしていくのに、時間はかからなかった。  男が出ていって、Rだけが部屋に残る三〇分と少しはただただ彼女のことを考えた。  金魚を眺めているのだろうかとか。今日来た男は少しだけ優しそうだったとか。どうしてあんなにも泣いてしまうんだろうとか。 彼女はどうしているのだろうと考える三十分。その時間は、僕にとって何より特別な時間になっていった。

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波の前日

わたしのR

 『ピシナム』に勤めているなかで、半年を過ぎても忘れられないことは、溢れかえるほどあり、そしてそのほとんどは『彼女』のことだった。  『彼女』は僕のことなど覚えているはずもないのに、それでも一向にかまわなかった。あるいは、それが愛情なのではないかとすら思った。  僕は『彼女』に名前を訊かなかったし、『彼女』も名前を告げなかった。  だから勝手に『彼女』のことを『R』と呼んでいた。そういう感じの名前をしてそうだったから。  僕が初めてRを目にしたのは、『ピシナム』に勤め始めてまだ一カ月目くらいのころだ。 「金魚のいる部屋でお願いします」  Rは部屋を選ぶとき必ずゲストテレフォンを使う。  受付とフロントは、ブラックフィルムの張られたガラスの壁で区切られている。受付からでは、かろうじてお客様のぼんやりとしたシルエットを確認することができる。  そのため、Rからも僕からも顔を伺うことはできなかった。 「あの」  時々Rは、ガラス越しに尋ねてくる。 「金魚のエサとか、あったりしませんか」  はい、と口に出しそうになって咄嗟に飲み込んだ。  ピシナムのホテルマンはいかなる時もお客様に声をかけてはいけない。だから彼女が金魚の餌やりを望んだ日だけは、部屋の鍵と一緒に黙って餌の入った袋を渡した。 「ありがとうございます」  ガラス越しのRは、今からセックスをするとは思えないほど、落ち着いた声音。僕の頭の中でRは金魚に餌をやりながら男に抱かれる、普通ではない女だった。  思えば、僕はこの頃から彼女を訝しんでいた。Rが来ると、いつも金魚を飼育している201号室の鍵を小窓から渡していた。  ときどき小窓から見えるRの手は、お豆腐がそのまま手の形を帯びたように、色白で、崩れそうに見える。いつも、なんとかRの手に触れないようにと、注意を払いながら僕は鍵を渡していた。  そうやって、Rの指や爪から、彼女がどんな姿形をしているか思いを巡らした。  Rは、201号室でしか休憩しなかった。  空室を表示するモニターに201号室が載ってないと、彼女は受付の前にある腰掛に座って、部屋が空くのを地蔵のようにひっそりと待った。  その姿が、受付のガラスを通してうっすらと見えた(連れの男はだいたい不機嫌そうにごねていたが、Rは頑として動かなかった)。  そして彼女は、いつも容貌の違う男を連れていた。  ある日は派手なTシャツを着た大学生くらいの男だったり、またある日にはだらしなく腹が出た中年の男を連れ込んだりもする。  Rは、もしかしたら恐ろしい女なのではないかと考えたときもあった。  しかしRと並んで部屋に入った男性客は、必ず彼女よりも先に部屋を出てチェックアウトしてしまう。  男がチェックアウトして三十分ほど経つと、Rはすんすんと鼻を鳴らしながらエレベーターから出てきて、小窓に置いてあるキャッシュケースに鍵を置く。  フィルムガラスなんてなくても分かるくらい、Rは泣きはらしていた。『ピシナム』にRが訪れると、その日のうちに彼女の泣き顔も見ることになった。  Rは週一回ピシナムに訪れている。彼女はその度泣いていた。  彼女のすすり泣く姿を目にすると、僕にはRが想像していたような恐ろしい女だとも思えなくなってしまった。  衣替えの季節になるとRは長袖を着ていた。カードキーを渡す小窓から、白いラインが二本入った黒色の袖口と、胸元の赤いスカーフが目立つようになった。  Rは女子高生だった。  ファッションホテル『ピシナム』は高校生以下の利用は禁じられていた。  しかし僕から見たRは、目に見えない何かからじっと耐えているようで。  その時間を邪魔することなど自分にはできなかった。僕はRのことをオーナーや他の誰かに告げ口をすることはなかった。 それがこのときの僕にできる、精一杯の優しさだった。

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わたしのR

息をする、白

正午から始まった秋山さんの取材は、十四時を過ぎたあたりで一旦区切りがついた。  待ち合わせ場所だったダイニングカフェは、僕たちの他に客はいなかた。遅め昼食を摂っていると、変に食器とスプーンがぶつかる音が耳に障った。 「……さっき、ウェブライターとおっしゃってましたが、普通の記者とは違うのでしょうか」   秋山さんは最後の一口だったパエリアを飲み込むと、「よく訊かれるんですよ」と、一呼吸置いた。 「磯辺さんの言う記者というのは会社に勤めているライターのことですよ。わたしの場合は、インターネットで個人的に記事を書いて広告収入を得たり、出版社と契約して雑誌の記事を書かせてもらったりって感じですかね」  秋山さんはそこまで話すと、力のない笑顔を向けてきた。 「けどウェブライターとしての仕事は、これで最後になるかもしれません。一週間くらい前に、契約していた週刊誌に切られてしまいまして……」  相手に不快な思いをさせまいと秋山さんは明るく努めていた。しかしテーブルの上で握りしめられた彼女の拳が、諦めきれていないことを訴えている。 「ウェブの広告収入だけで、生活できるとは思ってませんから。だから、ここへは取材ってより一人旅のつもりできたんです」  秋山さんは、オレンジブラウンの唇をやわらかく結んだ。僕は、自分のかたい唇を舌で触って、彼女の方が年下なのだとなんとなくわかった。 「梶栗郷まで来たのは仕事じゃないんですか」 「ルポルタージュの、個人的なウェブ記事はつくるつもりですけど、雑誌に掲載はされないので。それに、ドライブ好きなんですよ。わたし」 「ああ、それなら山陰はうってつけですよ。道も広いし、綺麗に補装してありますから」 「そうですよね。東北自動車道と違ってガタガタしませんし」  そんな遠くからいらしたんですねと声に出した気でいたが、ふと気づくと僕は何も口に出せなかった。  空いてしまった間を誤魔化すように、ぬるいコーヒーに口をつける。  暖房がきいているおかげでいくらか温かいが、窓際に置いていた右手はすっかり冷えていた。  外を覗くと、大きな牡丹雪が降っている。 「こっちの雪は、なんだかべちょってしてますよね」  秋山さんは同意を求めようと会話を振ってきたが、それに何とも答えなかった。  僕が知っている雪というのはやはり、梶栗郷に降るこの不格好に膨れた結晶のことで、それ以外の雪を知らなかった。  カップをソーサーに置いたらカチンと鳴る。背もたれに体重をかけると椅子が軋む。秋山さんが僕を注意深く観察していた(僕にはそのように感じた)。早くこの店から、彼女の前から消え去りたくなった。  お互いカップの中身が空になっても、秋山さんからの『ピシナム』に関する質問は続いた。  僕はそれらの質問に、会話のようなものを取り繕ってやりすごした。自分の中で、圧倒的な何かが変わっていた気がして、それを上手く表現できなかった。  伝わらないことは怖いことだから、それを秋山さんに知られまいと、貝のようにカラダを小さくしていた。 「磯辺さん、今日はありがとうございました」 「いえ……こちらこそ」  秋山さんは名残惜しそうにしていたが、最後の彼女はほとんどメモを取っていなかった。僕が座ったままカーキーのモッズコートに腕を通していると、ブラウンのチェスターコートを羽織った秋山さんがじっと僕の顔を見ていた。 「磯辺さんさえよかったら、連絡先を交換しませんか? わたし、もっとホテルの話聞きたいかもしれません」 「いや実は、携帯電話をもってないんですよ」  秋山さんがそれとなく訊いてきたから、僕もそれとなく断った。  下手な嘘に、秋山さんは怒るよりも落ち込んでいた。 「そうですか……。連絡先はお渡しした名刺に書いてあるので、気が変わったらいつでもご連絡ください。とは言っても、今日でここを発つんですけど」 「……なんだか、急な話ですね」 「急と言っても、二泊三日はしたんですよ」 「帰るんですか」 「そうですね。一度、実家のある岩手に」 「……そうですか」  相槌は何を肯定するわけでもない。秋山さんは何かを喉元まで出しかけていたようだが、その前に席を立った。  会計を終えて外に出ると、やはりちらほらと雪が降っている。歩くと足あとが残るくらいには、うっすらと雪が積もっていた。  なんとなしに、靴底からカラダが冷えていく気がした。 「磯辺さんは、車ですか?」 「いや、歩いて駅まで」 「よかったら、駅まで送りましょうか?」  嘘みたいな善意が痛くて、そっと目を背けた。 「……近いですから、自分で、歩いて帰ります」  秋山さんから声をかけられると、何かに追いつかれそうになって、僕はそれを頑なに遠ざけた。  自分はすでに歩き始めていた。なんと別れの挨拶をしたのか記憶にない。歩いて、歩いている分だけ秋山さんとの距離が離れていった。  ときおり振り返って、小さくなる秋山さんの背中を確認した。おそらくこの人とは会うことはないんだろうと思って、襟に顎を埋めた。  僕は、秋山さんに『ピシナム』の話をしたことを後悔していた。ずっと大事にしていたワインを我慢できずに空けてしまったあとのようだった。  線路沿いに出ると、ライトイエローの電車が若干や線路に積もった雪をすりつぶしながら走っていた。あんな大きな乗り物を使っても、きっと僕はどこにも帰れなかった。  自然と足は線路沿いを下って、梶栗郷へと向いていた。  一つの足音もない雪道は、その上を歩く僕をどうしようもなく不安にさせる。  追い越す人影がいくつかあった。僕はそれを数えて、ひとりひとり覚えていた。そのほとんどが高校生だった。  誰もが家に帰るなか、自分だけが別の場所へと歩いている。  不意に、セーラー服に厚手のカーディガンを羽織った女子高生が脇をすり抜けた。その女子高生だけは走って僕を追い越した。金魚の尾ひれのような胸元の赤いスカーフが、視界を泳いだ。  左の頬を、つうーと指でなぞるみたいに線が通った。雪だろうと思った。けれど頬を伝っているその一線だけが熱かった。  手で顔を拭ったときにはもう乾いていたため、それが本当は何だったのか分からなかった。  どっちつかずの僕を置き去りにして、カラダだけは『ピシナム』に行こうとしていた。

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息をする、白

青く、深く

お初にお目にかかります。そちら、ウェブライターの秋山あきやま千鶴ちづるさんで、よろしいでしょうか。  ファッションホテル『ピシナム』でスタッフを務めていた、磯辺と申します。  名刺、ご丁寧にありがとうございます。ですが、申し訳ありません。こちらがお渡しする名刺を持ち合わせていないのです。  『ピシナム』は、シティホテルのようにお客様と顔を合わせるようなこともありませんでしたし、ほとんどの従業員が名刺などはつくっていませんでした。どうか、ご理解ください。  オーナーでした浜本から話は伺っております。今日はファッションホテル『ピシナム』の取材とのことでよろしいでしょうか。  ご存知だとは思いますが、ファッションホテル『ピシナム』はひと月前の二月に、看板を下ろすこととなりました。  実のところ三年前にはそういう話が出ていました。こんなにも時間がかかってしまったのは、『ピシナム』に勤めていたスタッフ全員の就業先が見つかるまでは、経営を続ける方針だったそうです。僕も今は、オーナーの紹介で隣町にある別のホテルで働いています。  取材のお話を聞いたときは、どうして潰れたホテルの記事なんか書くのだろうと不思議でしたが、正直なところ理由はなんだってかまいません。  『ピシナム』がなくなっても、誰かの心に、そういうホテルがあったのかという気持ちを残しておきたいのです。  よくラブホテルとファッションホテルを同じものだと勘違いされる方がいらっしゃいますので、最初に説明させていただきます。厳密には、この二つは別ものなのです。  違いはいくつかありますが、決定的なことといえばフロントの受付にホテルマンが立っているかどうかという点です。ラブホテルのフロントは無人ですが、ファッションホテルには受付にホテルマンが待機しております。ラブホテルとシティホテルの間と考えていただければ。  ファッションホテル『ピシナム』は本当に良いホテルでした。浜本は『ピシナム』を現代社会の駆け込み寺だと度々言っていましたが、まったくその通りだったと思います。  今年で僕が二五歳ですから『ピシナム』に勤め始めたのは今から六年前になります。  当時は、大学の授業なんてろくに出ないで、フラフラしていました。誰かと一緒にいなければならない大学の空気というか……。肌に合わなかったんです。居酒屋でアルバイトをしていた僕を、オーナーの浜本に拾っていただいたことがきっかけです。  六年前ですから……二〇一三年、それくらいです。その頃から、僕はファッションホテルのホテルマンでした。清掃と、フロントのアルバイトをしていました。  『ピシナム』へのご案内を簡単にいたします。山陰線の梶栗郷駅には線路と交差するように友田川が伸びています。梶栗郷は、ここの最寄り駅から一つ先の駅です。駅のホームから出て河川に沿って下ると、開けた海岸がありまして、夏には多くの観光客でにぎわいました。  扇形ビーチの一番西側には、森の茂みに隠れてひっそりとホテルがありました。そこが『ピシナム』です。  僕はそこで働かせていただいていました。  ファッションホテル『ピシナム』は、観賞用の淡水魚などをたくさん飼育していることで有名でした。  建物はひっそりとしていましたが、『ピシナム』はお客様にとっても働くホテルマンにとっても特別な空間でした。  休憩は三時間二九六〇円。宿泊は四五〇〇円。旅行客や、幼い子連れの親子、同性カップル、お一人様、女子会……。誰に対しても寛容なホテルだったことに間違いありません。  一つ注意することがあるとするなら、正面の押し扉が、漬物石みたいに重たいことです。 しかしこれはホテル側からの計らいでもあります。 「これくらいどうってことないさ、お先にどうぞ」 「あら、ありがとう」  こんな会話が、扉を開けてあげるだけで自然に生まれます。レディとして扱われる方も、頼られる紳士も、きっと悪い気はしないはずです。  エントランスの壁面は、大きな水槽で囲まれていました。ベタや、フラワーホーン、アロワナなどの鮮やかな熱帯魚が泳いでいたのです。  『ピシナム』がなくなっても、お客様から「あの魚たちはどうしたんですか」とお問い合わせを頂くことがございます。飼育していた魚の多くは隣町の水族館に、場所を移しましたので、ご安心ください。  しかしながら、お客様のなかにはあの重たい扉を開けてもチェックインをするかどうか悩む方もいます。  そういったお客様には、カウンター横のゲストテレフォンを取ることをお勧めしました。電話は受付にいるホテルマンに直接繋がるようになっています。  コールが三回ほど鳴ると、呼び出し音が必ずピタッと止みます。しかし電話口の我々からは何も申し上げません。何も応答がないのが、応答の合図なのです。  電話が繋がったら、遠慮なくご注文ください。  お客様からのご注文はそれぞれでした。お客様が理想とするお部屋をお教えください。 我々は「イエス」とも「ノー」とも応えません。  我々にとっては沈黙を守ることも業務のうちでした。『ピシナム』のホテルマンは、お客様と顔見知りにならないよう細心の注意を払っていたからです。  顔見知りのホテルマンに、アダルトグッズや、避妊具を持って来いとは、お客様も言いづらいでしょう。すると、客足は遠のいてしまいます。そういうものなのです。  このようなことを防ぐためにも、お客様との会話はできるだけ最低限にしていました。  何も声が聞こえないから、お客様はしばらく壁と話しているように感じるかもしれません。しかしそうしている間にも、お客様のためのルームメイキングが手際よく始まっていました。  一通り要件を言い終わりましたら、一度受話器を戻してその場で少々お待ちいただきます。  しばらくすると、カウンターの上にある部屋番号が点滅します。お部屋の準備が整った合図です。  余談になりますが、お客様は内装が気にいらなかったらすぐにチェックアウトしていただいてかまいませんでした。もちろんお代は結構です。お客様のご要望に応えられないのは、こちらの不手際になりますので。   ですからルームメイキングは、スタッフの技量が試されます。空いてる部屋から、お客様の求める理想の空間に近づけなければなりませんから。  ベッドのシーツや、時計、ハンガー、照明からスリッパの色まで、必要とあれば壁紙も変えます。壁紙には市営バスに貼り付けるようなプリントシールを使います。  『ピシナム』独特ですが、部屋を選ぶ際に飼育している魚で指定するお客様もいらっしゃいました。  餌の関係もあり、当時は部屋ごとに飼育される魚も限定されていました。201号室は金魚、202号室はグッピー、203号室はネオンテトラなど。三階からは海水魚も飼っていました。  ちなみにルームメイキングに料金は発生いたしません。仰っていただくだけならタダです。ですから、だいたいのお客様はタッチパネルで部屋を指定するより、ゲストテレフォンを使っていました。細かい、ちょっとしたお客様の要望をかなえるのが、我々ホテルマンの喜びです。  お帰りの際、お支払いは気送管ポストで現金のみとなっておりました。  郵便受けのような小さな箱が、各部屋の洗面所の傍にある壁にはまっていました。そちらを開けていただくと、筒状のカプセルが管のなかにはまっています。そのカプセルのなかにお金をいれてください。  お金をいれたカプセルを管に戻して、すぐ横の赤いボタンを押したらお支払いは完了です。管は一階の受付フロントまでつながっていまして、そこで精算をいたします。一階に降りてくる際に鍵を受付までお持ちください。  ……今もまだ『ピシナム』の看板はギラギラと光っているんじゃないかと、思うときがあるんです。ひょっとしたらって。夜に光るファッションホテルのネオンが、火傷の痕みたいに瞼の裏に残っているのです。  梶栗郷は、もうすっかりゴーストタウンみたいになっていますから信じられないかもしれません。けれど僕が勤め始めたばかりの頃は、繁華街も賑わっていて深夜の『ピシナム』はどこも満室でした。  梶栗郷駅の線路沿いに、まだ新しい公団住宅のアパートがあったかと思います。あれは僕が高校生だったころに建てられたアパートなのですが、当時はそこに県外からの移住者が大勢いたのです。  あのアパートには被災割というのがありまして、罹災りさい証明書しょうめいしょを持って移住してきた方の移動費や引越し費用、敷金などの一部を市が負担させていただくというものでした。移住してきた人の大半が、そこで新しい職を探したのです。  そのなかで裸足同然で逃れてきた人は、夜の仕事に就く人が多かったんです。とりわけ、たくさんの女性が水商売や風俗に流れました。  彼女らのおかげで、梶栗郷にある繁華街はずいぶんと賑わっていたのです。  もちろんホテルの業務は大変なものでした。ルームメイキング一つとっても、同じことの繰り返しだなんてことは一度もありません。  女子会でご利用あとのお客様方で、枕の羽毛が部屋中にちらかして帰られたこともありましたし、半年に一度くらいの頻度で大便が浴槽に浮いていました。  一筋縄ではいかないことが多くありましたが、我々ホテルマンは、『ピシナム』の仕事を誇りに思っていました。  ファッションホテル『ピシナム』はすでに廃業したホテルです。  ですのでこれは、まったくしょうがない話になりますが、お客様に注意していただきたいことがありました。  それは、ホテルにお忘れ物のないようにということでした。  『ピシナム』には様々な責任者がいました。清掃責任者や、受付カウンター責任者。それだけではなく、熱帯魚責任者などもいました。  僕は遺失物管理責任者でした。お部屋にある忘れ物は、一旦すべてこちらへ届けられます。  一番多いものはアクセサリーです。ピアスやネックレス、指輪は外すお客様が多いのかもしれません。眼鏡を忘れる男性もいらっしゃいました。  たまに下着が届けられることがありますが、あれは忘れたのではなく置いていったのだと思います。  特に女性のお客様はよくお部屋に『何か』を残してお帰りになられてしまうときがあります。  部屋にお客様の私物が落ちているわけではありません。ただ、別人のようになって部屋から出てくる女性を何人も見ましたから、『何か』お部屋に置いて帰られてしまったような気がしていました。  たくさんの女性が部屋に『何か』を忘れて帰られてしまいました。お問い合わせが来ることもありませんし、部屋を掃除しても忘れ物が見つかることはありません。だいたいはそのままなんです。 お忘れ物をしたお客様のことはできるだけ覚えているように努めていました。  ですが、半年が経ったら、形あるものも、ないものも、忘れなければなりません。忘れ物をホテルでお預かりできる期間は、六ヶ月だけだと決まっているからです。  『ピシナム』は或る種、そういう残酷さもあったのかもしれません。

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青く、深く