ポックリあたし
19 件の小説どこかのだれかさん 19
シブヤは大都会なのだろうが、今あたしが彷徨っているのは、中心部から離れているらしい 古いビル、住宅、坂の道。雑多な街だった。電柱に付いている住所のプレートを見る。名刺に書かれたそれと番地以外は合っていた。 キョロキョロしながら歩いていると、手の中で異変が起きた わぁ 名刺がパタパタと揺れ出した。そして手から蝶の様に羽ばたいて、路地裏に飛んでいった。あたしは慌ててそれを走って追いかけた そのまま追いかけていくと、古い雑居ビルの外階段で名刺があたしを待っていた。入居者を下から確認する。金貸、ハーブショップ、マッサージ。女子供の行くビルでは無さそうだが、幽霊は別に構わないだろう 看板を掲げてない階は空きなのだろうか 名刺について行く。四階。看板の無かった階だ。ワンフロアだけらしい。セキュリティもない至って普通のドアがある。ドアにはシールで「株式会社HKS」とあった。透明傘が立てかけてある 名刺はドアの隙間にスッと消えた ついに終着駅だ。どうしようか 首を捻っていると ガチャ ドアが開いた。そっと覗くが誰もいない。気配を最小限にして中に入る 事務所の様だ。人の気配は無い。デスクにりんごマークのパソコンが置かれている 殺風景だがセンスはいい。そう思った時だった 体中に電流の様なものが走った。激しい苦痛。四肢が千切れそうだ。あたしにはまだ「痛覚」があるのか。動けない。前を見た デスクに人が座っている うそ。誰もいなかったはずだ。その人物は窓の逆光の中、優雅に立ち上がり、あたしの前まで来て静かに止まった。あの名刺を持っている 「苦しいかい」 苦しいよ。何者かの言葉は爽やかな物言いだ。だが優しさは微塵も感じられなかった あたしは激痛の中、相手を睨んだ。そいつはいつの間にか目の前まで来ていた 男か女か。中性的に見えた。歳は少年にも見え、青年にも見える。漆黒の髪は無造作に耳あたりまである。肌色は透き通るような白さだ 顔を見た こんなに綺麗な顔は初めて見る 「横内、そうそう君が事故させた男だよ。僕の部下を殺したね」 こいつ男だ。世間話の様に喋る。あたしは恐ろしかった。何故それを知ってる。あの男は横内という名前だったのか。こいつは上司? あれ、ほんとにあたしが殺したのかな 男はスマホのように名刺を耳にあてて続けて話す 「ふーん。油断したアイツがバカだったな。ボロ車と心中できてよかったよね」 死んだ部下にかける言葉だろうか さらりと言う。こいつが名刺の男らしい。こんな少年みたいなヤツが。あたしはにわかに信じられなかった 長いまつ毛、切れ長の目には感情を感じない。名刺から情報を聞いていた様だがどうやって? 「横内が僕に君を「滅ぼせ」ってさ。今度こそ終わりだね、君」 哀れんだかの様に彼は微笑んだ。整った白い歯が見えた。まるでこれから買い物にでも行く様な口調だ 仕立ての良さそうなスーツ姿で上着は脱いでいた。ネクタイは外していて、はだけたシャツから白い肌が見えている この色気はどのモデルにも見劣りしないだろう あたしは苦痛の中、そんなどうでもいい事を考えていた。体中がバラバラになりそうなのに 突然。突然だった。体が開放された。あの苦しみが嘘みたいだった。あたしは力なく膝まづいた 男はあたしに背を向けて冷蔵庫に向かった。中からペットボトルを取り出す。こちらに向いて言った 「まぁ話そう。横内の頼みは分かった。それは君を滅ぼせば済む。さっきしたみたいにね。けど僕は君に興味がある。君の対応次第で助けなくもないよ」 恐ろしい事をサラッと言う男だ。 横内の最後の願いはどうでもいいのか? あたし的にはひとまず助かった 名刺を手でクシャクシャにし、デスクの脇のゴミ箱に投げる。かなり違うとこに落ちた 「あら。横内の祟りかな」 男はニヤッと笑って、かつては名刺だった紙をゴミ箱に投げ入れた 男は隙だらけだが、何もする気が起きない。この男には到底敵わないとあたしの本能が警告していた 気配を消そうが消さなかろうが、意味は無さそうだ。逃げる気も起きない 完全に萎縮していた 男はペットボトルを持ちながら、黒いソファーに座った。優雅な立ち振る舞いだ。商談でもするかの様だった 「こっち来なよ」 男は首で指図した。態度は勘に触る あたしはワンピース姿で男の前のソファーに体育座りで座った 「ふーん」 黒い瞳があたしを見つめる。吸い込まれそうだ 「僕は聖川。ここの代表だ。君の名前は?今は話せるはずだ」 抑揚の無い声で話す 「あ、あたしは、だれかさん」 我ながらマヌケな返答だが仕方がない。頭が項垂れる。あ、生者とまともに会話できるのか? 「だれかさん?なんだそりゃ」 通じた。小馬鹿にされたが、通じたよ。大進展だよ 聖川は足を組んで薄目であたしを見ている。内面を探られてる様に感じた 「横内が思った様に君は変わってるね。生者と死者の中間。あと自分の意思でどこにでも行けるのが面白い」 たいして面白くもなさそうに聖川は言う あたしはそう言う事を知りたかった。夢中で話を聞いていた。顔を上げて彼を見ている 「基本はもちろん幽霊だけどね。君は完全に死んでるよ。だれかさん」 今更ながらハッキリ言われるとガッカリだ 「でも、いけないな」 表情を変えずに聖川は静かに言った その口調に酷く禍々しさを感じ始めた 「君は退屈しのぎで人を殺した事があるだろう。横内も死んだ」 全てお見通しらしかった そういえば、何故あたしは人を殺したのだろう。そんなつもりはなかった 「そんなつもりはなかった、かい?」 無表情な顔で言った。まるで彫刻の様だ 「あたしは」 混乱していた 「言ってやるよ」 先程までの朗らかな青年ではなかった。横内など話にならない 「最初の頃は人間気分で幽霊をそこそこ楽しんでいたんだろ」 聖川は少し遠い目で話し出した 「お前はだんだん自我を無くしてきている。知らぬままに平気で人を呪い殺すようになった。もはやそれは悪霊だよ」 まっすぐ見つめられている。あたしの眼窩を。聖川は微塵も恐れていないのだろう。あたしは怖い 「悪霊がこの世にいちゃいけないな」 聖川はニコっと無邪気な顔で笑った。目は笑っていない。悪魔の笑みだ。美しく、おぞましい あたしは動けなかった 聖川は立ち上がる。横内程ではないが長身だ。スタイルもいい。もう最後かもしれないのに、あたしはそんな事を思った 「でもね」 上からあたしを見下ろす形で話し出した。何か様子がおかしい 「僕は誰が死のうと興味ないんだ。正義の味方でも無い。僕は一円にもならない事はしないんだよね。横内にも散々言ったよ。けどあいつは甘かった。だから焼け死んだ」 瞬きもせず瞳を大きく開いて彼は言った。まつ毛が長い。瞳は漆黒だった 横内の最後まで知ってるのか 事務所内の空気が変わった気がした。聖川の顔に窓の外の影が伸びる 彼は一つ一つ丁寧に言葉を囁いた 「だけど横内は僕の助手だった。仕事はいまいちなヤツだったけど真面目に働いてくれた。僕は損をしたことになる」 ピシ ピシ これは「殺気」か。バケモノだ。 事務所の空気が張り詰める。聖川は両手をポケットに入れていた。横内の様に力んでいる様子はない 横内が死んで悲しくないのか。あたしからすると充分あいつは凄かったな。少しタイプだったし。精悍な顔を思い出した 目の前にいる男は違う こいつは異形な存在だ あたしの冒険はここで終わるんだ 絶望感が身にまとわりつく 「なーんてね」 彼は両手を出して伸びをした。無邪気な笑顔を見せた。子供なのか大人なのか。得体の知れない不気味な男だった あたしは安堵で項垂れた。いったいいつから喋ってないんだろう 「あたしをどうするつもりだ」 頑張って喋った。蚊の鳴く音の様な声だったろう 「やっと喋ったね。ごめん少し脅かしすぎた」 少し?それが本当だったらやはりバケモノだ 「君に助手になってほしい」 え? 「だって当然だろ、横内を燃やしちゃってさ。あんなんでも働き物だったし」 何を言ってるんだこの男は 「君と僕が組めば新たなビジネスができそうなんだ」 聖川は事務所を嬉しそうに歩き回る 「いいかい、君には二択しかない」 後ろ向きに聖川は立ち止まった 人差し指を上げる 「いち。僕と組む」 次に中指も上げる 「に」 聖川はゆっくりとあたしに振り返った。顔の全体は見えないが、横顔は見えた その顔のおぞましさよ。悪鬼だ。その美しさで恐怖感が増していた 「地獄に堕ちて永遠に苦しみ続ける」 恐ろしい程の無表情。目はこちらを見ていた。異常に瞳孔が小さい。本当に人間なのだろうか こんなとこ来るんじゃなかった 心底後悔した 「どっちだ」 酷く声音が低い。死神が話せたらこういう声だろう 「いちいちいち!いちです!」 あたしは飛び跳ねて叫んだ。不吉な白いワンピースも今や赤ちゃん着だ 「そうか!契約成立だね!」 こちらに振り向いた顔は、天真爛漫な美少年だった 成立も何も、メチャクチャ脅したではないか。腹が立つ いつかこいつのはらわたを引きづり出してその綺麗な顔に巻きつけてやりたい あたしは想像した 「そんなに怒んなよ」 不貞腐れた様に聖川は言った あたしは物騒な事を考えたが、そこまでは彼も分からないらしい。読みの鋭さは恐ろしいが それに、なぜか時々人を殺したくなる。グシャっと。グシャっと 「おい」 あたしは我に帰った。最近、意識が飛ぶ。違うあたしになる様だった。思わず頭を抱える 「ははぁ、だいぶ近づいてるね」 彼は他人事の様に言った 「君には何か目的があるんだろ?横内もそれが気になってた。それを支えているのは生者に負けない強い自我だ」 真面目な顔で続ける 「でも、さの自我が脆くなってる。そのうち目的も忘れて最後には哀れな浮遊霊さ」 大袈裟に肩をすくめる。派手なリアクションも彼に合っていた 誰かにもそれ言われたな。誰だっけ。思い出せないな 「でさ」 彼はソファーに思い切り座った。動きの割には音がたたない 「君の目的を聞こう。就職祝いに手助けするよ」 ペットボトルの水を飲んで言った。まるでCMのようだ。何をやってもサマになる。彼の顔はニヤついていた。ムカつくが、こいつは頼りになるはずだ。今は従順でいる事にする 4, 事務所の窓が暗くなってきた。曇天の夕方だった。陰鬱に今日が終わる 聖川とあたしはテーブルを挟んで向かい合っている。彼のペットボトルの水は半分程になっていた 事務所内はもう暗いが、聖川は蛍光灯を点けない様だ。そういえばこの男、汗をかいていない。空調は効いてないと思う。音がしないからだ 闇の中、彼の方があたしよりこの世の理が見えているのだろう 彼は足を組んで黙っている。何の感情も伝わってこない。息遣いも聞こえない。本当に聖川は存在しているのかとさえ思えた あたしから話し出すのを待っているのか。この男ならこのまま朝までソファーに座っている気がした よし。全部話すぞ 顔を上げて口を開いた 「あたしは何故死んだのか。いつとこで死んだのかを知りたい」 ハッキリとテーブルの向こう側の闇に伝えた 「それを知ったらあの世に逝きたい」 「どこかのだれかさん」の顔が見えていた。端正な白い顔立ちが闇に映えている。そして、彼女は大事な事を聖川 京介に言った。 「あたしの名前を知りたい」 よかった。覚えてた。伝える事はもう何もなかった ゆっくりと聖川がそれに答えた 「納得できれば未練はない、か」 あたしは頷いた 「それらは全て解決できる」 抑揚のない話し方だが、内容は衝撃的だ 「ほんと?どうやって?」 あたしはテーブルに手をついて身を乗り出す。枯れ木のような両手の爪は剥がれていた。聖川はピクリとも動かない 「条件がある」 「はい」 聖川の眼光が光った気がした 「お前はもう僕の部下なんだから言われた事には絶対服従だ」 「は、はい」 「横内の倍以上稼いだらお前の問題を解決しよう。僕は金しか興味が無い」 ペットボトルの水が揺れ出す 「逆らったらわかっているよな」 聖川の体にゆらりと青白い炎が見えた。その中に無数の小さな顔がある。三十体はいるだろうか。老若男女。皆、苦悶の表情を浮かべていた。泣き、うめき、もがいている 「僕に憑いてる奴らだよ。仕事柄仕方ない。コレクションってヤツかな?」 満面の笑みで「それら」を自慢する子供の顔になった 「お前をコイツらみたいに僕に憑かせてやってもいいし、最も惨たらしいやり方でお前をどこにも辿り着けなくしてやる事もできる」 何故この状況で朗らかに話せるのか。彼の体から無数の声が聞こえてきた たすけてくれ くるしい あやまるあやまるから ゆるしてくれ もうけしてくれ 「ハハッ!聞いたか今の!よく喋るなぁコイツら!」 聖川は灯りの消えた事務所で心底楽しそうにはしゃいでいた あたしは気分が悪くなって彼を睨んだ。こいつは最高に狂っている 「何、その目。お前もこうなりたい?」 無数の顔はいつの間にか消えていた。聖川はあたしを静かに見ている あ、あたし滅ぼされる 背筋に怖気が走った。霊が泣いて許しをこう男の名は 聖川 京介 「まぁいいや」 その言葉が合図だったかの様に灯りが付いた。事務所内の空気が緩む。目の前にはいつもの美少年が座っている。怒っていた余韻もない。彼の年齢は想像つかなかった 聖川は大きく伸びをして、あたしにこう言った 「じゃ僕寝るからさ。適当にやっててよ。あ、このビルは「結界」を張ってあるるからどこにも行けないよ、だれかさん」 そういうことらしい 彼は言ったそばからソファーで横になり寝てしまった。まるで子供だ。無防備極まりない。何もする気は起きないが イカれた美しい社長と女幽霊 どこかのだれかのOL生活が始まった 六章 1, ソファーでの微睡の中で僕は思い出していた。 「だれか」は僕に何もしてこないだろう。あれだけ脅したのだから。 思い出したのは横内との出会いだ。 横内は頭があまりよくないが、忠実な部下だった。ボロい車に熱中していたっけ。 僕を先生と呼んで慕ってくれていた。横内を反社勢力から助けたのが出会いだった。 あの時は組織のリーダーに顔が効いた。リーダーは土下座して僕に謝ってたっけ。 横内は血だらけで呆然とそれを見てたな。 横内を一目見て分かった。「資質」がある。「体験」もしているはずだ。 磨けば光るかもしれない。助手が欲しかった所だ。彼に声かけると、こちらからお願いします、と直立して言われたな。体育会系は好きじゃなかったが。 知り合いの数人から横内はかなりのワルだとの話しを聞いた。半グレの落ちこぼれらしい。 横内は行くあてが無いと言う。財産はボロい車だけらしい。色々訳ありなのだろうが、この男の素性に興味は無かった。 僕は彼を雇う事にした。 駐車場のあるアパートを手配してあげたら泣いて喜んでたな。 その後、僕の仕事全てに横内を同行させた。実戦で経験を積ませたかったからだ。 厄介な霊に憑かれたヤクザ。 二体の恋人同士に憑かれた刑事。 孫が憑依された企業の会長。 これらは「祓った」一部だ。 逆に相手を「呪ってくれ」と言う仕事もある。これはこちら側もリスクが高いので、滅多な事では引き受けないが。 僕の実績が噂を呼び、仕事には事欠かない。まぁ、謝礼次第だが。 舞い込んできた九州の案件は、内容自体大した事はなかった。家の納屋に霊がいるとかなんとかだ。 いつもなら断る。しょうもない。 しかしそれが僕の太客の親族だと話が違う。本人から頭を下げられたのだから参った。謝礼の額は中の上といったところか。 返答は少し保留にしてくれと言っておいた。 遠いし面倒くさかったが、この先を考えると受けるべきだ。 そうだ横内にやらせよう。 横内はハードに鍛えたので、簡単な仕事は一人でこなせる様になってきた。 「才能」があるとは思わなかったが、それを努力で補っていた。何回か死ぬ目にあっても生き延びた。 「祓う」技術は及第点だが、腕っぷしは強い。自信がついて色々やりたい時期だろう。 今回の件も内容が本当なら横内だけで充分解決出来ると思った。 僕じゃなきゃ駄目だと言うクライアントを説得し、横内に九州の仕事を一人でやれと命じた。 やはりと言うか、かなり張り切っていて、しかも車で行くと言う。こいつバカかと思った。 新幹線か飛行機にしろと言ったが、大丈夫の一点張りだ。 最近、給料の殆どをあのボロい車に注ぎ込んでるのは知っていた。 「途中で壊れたらどうすんだ?せめて僕の車を貸してやるからそれで行け」 僕は提案したが横内は、 「先生の車を壊したら、俺はずっとタダ働きですよ。それにイケメンじゃないとあの車は似合わない」 割とマジに言われた。横内も充分精悍な顔立ちだと思う。 はぁ。しょうがない。九州での段取りを伝えて、横内の背中を見送った。 横内は車に乗り込む際に聖川に言った。 「先生、仕事が終わったら、メシ行きましょうよ」 「僕の金でか?」 返事はボロいセダンのやかましい排気音だった。近所迷惑な車は高速道路方面に向かって消えた。 これが横内を見た最後だった。 僕が命じたから焼け死んだ。 あいつは出来が悪かった。 2, 横内が車に置いていた僕の名刺は念を込めた「お札」でもあった。横内に何かあった時に僕の元に戻って来て、何が起きたのか伝えてくれる。 横内には名刺の事をそれとなく伝えてあった。 負けたら相手に渡せと。 お前の仇は必ず「滅ぼす」と。 一応弟子の横内を殺せた相手に興味があったし、仇をとってやるからと適当にいったら横内は大喜びだった。 名刺が事務所のドアの隙間から僕の手元に戻った瞬間、横内の死を察した。感情は湧かなかった。 悲惨な最後を遂げた様だが、それは結果に過ぎない。 単純にヤツがヘマをしただけだ。 ただ人手が足りなくなったのは痛い。「力」を持っていて、僕に仕える人材はすぐには見つからないだろう。 代わりに来たのがオドオドした女の幽霊だ。生前はさぞ美人だったのがその顔で分かった。ナリは貞子なのがそれを台無しにしていたが。 霊のタイプで何故かその姿になるらしい。今まで何体か見た事がある。全て「滅ぼして」やったが。 日本人の根源的恐怖の幽霊の姿がそれだからかもしれない。 あの映画はそれを知ってたのか。 僕から観てもよく出来ていた。 続編は余計だったけど。 この霊は自分の事を知りたいらしい。知らなくてもいい事もあるとは言わなかった。そして横内が伝えてくれた様に、変な親近感がある。 横内を焼き殺したのは確かに「だれか」だが、それは横内より能力が上だったからだ。 幽霊を部下にするのはすぐ閃いた。金の匂いがした。他の鬱陶しい同業者に負ける気がしない。 自分の名前を「だれか」と言ってたが、ややこしい。いい名前を付けてやろうかとも思う。 「だれか」の願いは全て叶えられる自信があった。それがどんな結末を呼ぶかなんて知った事では無い。 さんざん脅して「だれか」は僕に従順になった。 これからあらゆる汚い仕事をしてもらおうと思う。 気分が高揚して思わず事務所内ではしゃいだ。 「だれか」の願いを叶えるのは、その働きぶりと僕の気分次第だ。 使えないなら瞬時に滅ぼす。 苦しみ悶える最後にしてやろう。 なぁ、横内。 僕の精神世界の中で、丸焦げになった横内がゆらゆら揺れながら呻いていた。 先生 なぜあの女を先生の側におくんですか 早く「滅ぼして」くださいよ 火が、火が!! 熱い熱い熱い!死にたくない! ぎゃあああぁ~!! そんな「イメージ」だ。 まったくうるさいヤツだ。 それともお前も化けて出るか? 僕は眠りに浸かりながら、口角が上がるのを感じた。 3, 朝が来た。久々に晴れの様だ 気配を消しても意味がない 彼にすぐ見つかるだろう 聖川は薄く微笑みながらソファーで寝ている。まるで天使の様だがあたしには気味が悪い この部屋には時計がない 昨日はかなり遅くまで彼に脅された むかつく。殺したい 挙句に彼の助手になる事になってしまった。腹ただしいが、今はそうする事が正しいと思っていた 底の知れない男だった その「チカラ」は紛れもなく本物だ 横内は彼の足元にも及ばない あたしの願いを全て叶えられると言っていた。聖川なら出来ると思う ふと、意思のない幽霊になって彷徨うあたしが見えた 自我を失うまであまり時間がない気がする これがあたしの最後のチャンスだ 頼んだぞ、聖川 京介 4, 聖川が起きないので、事務所を見学する事にする デスクに彼のスマホが置いてあったが、電源を落としている様だった。大量の通知が来るのだろう トイレ、お風呂、キッチン、冷蔵庫、クローゼット、事務所があるフロア これだけ 「結界」とやらで全て触れないと思ってたが全て触れた 信用されているというか、なめられている トイレ。手入れが行き届いていて綺麗だった。花が一輪添えてある。何の花だろうか お風呂。どう見ても備え付けじゃない。全て洗練されている。彼は風呂好きなのだろう。今度覗いてやる。また脅されるだろうけど キッチン。綺麗過ぎる。使った形跡がない。自炊はしないのだろう 冷蔵庫。ペットボトルでギッシリだ。中身はミネラルウォーター。 あとは何もない。自炊しないのであればおかしくはないが クローゼット。全て黒と白基調だった。同じ服が何着もあった。ブランドだらけと言う訳でもなさそうだ。 「仕事」はどの服を着るのだろう 「どう?僕の趣味」 突然耳元で囁かれた。気配は無かった。何という甘い口調 あたしは平然としたフリをして言った 「あんたが起きるの遅いから暇で見てた。趣味は悪くないね」 「そうか」 ゴキッ 聖川に突然首を右手で掴まれた。 そこを中心に激痛が頭と胸に走る な 喋る事も出来ない。聖川は無表情だ。それは美しい一枚の絵の様だった。少し低い声で話し出す 「わきまえろ。お前は僕の部下になったはずだ。僕には敬語を使え。礼節は大切だ。たとえ幽霊でもな」 普通に叱られた。首がもげそうだ 「あと先生呼ばわりはウンザリだから、僕の事は社長と呼べ。わかったな」 あたしは必死に頷いた。死への恐怖。この男に出会うまで忘れていた。死んでいても死ぬのは嫌だ 聖川は手を離した。あたしは朦朧として跪く。平民のように上を見上げた 聖川が上から神のようにあたしを見下ろしていた。それはお互いの「立場」を物語っていた この男は自分が気に食わなかったら霊にも人にも容赦しないだろう 恐らくどちらも「滅ぼして」きたはずだ。あたしは身をもって知った 「朝ごはんを食べに行こう」 満面の笑みで聖川は言った。先程の恐ろしい顔は微塵もなかった 「は、はい社長。どちらに?」 丁寧な言葉遣いは一応覚えていた 「僕に憑け」 あっさり言う 「でもですね、三十名ほどの先客の方が社長の後ろにいるじゃないですか」 あの気味悪い光景を思い出す 「あれハッタリ」 聖川は悪びれも無くこう続けた 「何の力も無い霊のカケラだ。僕がそれっぽく見せてるだけ。お前もビビったろ?」 凄い力だ。同時にこの男の神経も疑う 「たまに役に立つんだよ。あれ見せただけで問題が解決する事もある。なにより楽だし。腹減ったから行くぞ。早く憑けよ」 聖川の命令なら仕方ない。あたしは彼の華奢な背中にに憑いた。細いがムダのない筋肉を感じた。きっと彼は香水をつけないだろうと思った さっき見た背中の憑き物は痕跡がなかった。聖川の言ってた通り気配は感じない。 聖川はそのまま事務所を出た。黒いスース姿。ネクタイはしていない。バックの類いは持たない様だ 驚いた事にカギもかけない。あたしが来た時も開いてたっけ そのまま階段で降りる 5, たしかマッサージ屋があるはずだ。道路から看板を見たからだ。 くそ怪しい店としか思えない 躊躇なく社長は店内に入る。まだ朝なので、当然営業はしていないだろう。奥から体格のいい男が出て来た。いかにも用心棒というナリだ 「社長、おはようございます」 男は深々と頭を下げた 「うん。出来てる?」 「冷めない内にどうぞ」 男は最敬礼をし、裏へ消えた 聖川はマッサージの個室に入る そこは八畳程の部屋だった。綺麗に整えられていた。白と黒の基調。テーブルと向かい合う椅子が二つ。質素に見えるが、高価な品々かもしれない 清潔なテーブルの上にはコーヒーやパン、サラダ、デザートなどが二人前置いてある あたしは声も出ない。聖川が言った 「このビル僕のなんだ。目立つの嫌だからボロく見せてる。店もダミー。まぁ座れよ」 だからカギをかけなかったのか。どれくらい金持ちなら街にビルを持てるんだろう。聖川は優雅に食事を始めた。育ちの良さが分かる あたしは目の前の食事をただ見つめていた。シンプルだが、素材は高級なのだろう 聖川がサラダを食べながら言った 「どうした、お前もたべろよ。あ、幽霊だから食べれないか」 あはは、と聖川は無邪気に笑った 殺す。必ず呪い殺す。その綺麗な顔を歪ませてやる 聖川は殺気立つあたしを見て楽しんでる様だった。完全にからかわれている 気を取り直してあたしはコーヒーを飲む聖川に聞いた 「悪ふざけが過ぎます、社長。今日はこれからどうするんですか」 聖川は閃いた様に言った 「お前の名前、僕の中で変換する事にした」 全く幽霊の言う事を聞いていない 「「だれか」は霊に名付けられたんだろう。大切にした方がいい。僕が可愛くしてやる。お前は今から「誰花」だ」 聖川はスマホで文字を見せてくれた 「誰花」 あのブランコで貰った名前を彼は尊重したいらしい。あたしもそれでいいと思った 「行くよ、誰花」 「はい社長」 それほど悪い気はしなかった 6, 階段を降り、怪しいハーブ店のドアを彼は開けた。世界の事は覚えてないが、これが異国情緒なのだろう。中は薄暗く、煙が漂っている。蝋燭を持った女がこちらに会釈した 「おはようございます社長。ずいぶんと面白い方を連れてますね」 気怠そうに薄目で微笑む。黒い長い髪。金の装飾。美人だ。そして 「みえるひと」だ 「ああ、新しい部下だ。横内が死んじゃったからさ」 聖川はニコニコして答えている 「ああ、そうなんですか。お気の毒に」 僅かに眉を顰めた。そうは思ってないだろう 「こいつは誰花。ほら、お前も挨拶しろよ」 少し後ろを向いて話しかけられた 「は、初めまして」 くそ、調子が狂う 「初めまして誰花さん。「どこか」に辿り着けるといいわね」 滑らかに言われた 何故それを知っている? 「ふふっ」 手を口にして微笑む 「誰花、こいつはダリ。「力」がある」 あたしは聖川の肩越しにダリを睨みつけた 「怖い顔をしないで。少しやきもちを焼いたのよ」 ふー、とダリは和かにため息をついた 「行こう誰花。挨拶したしな」 聖川はニコっとして言った 「社長、今度はお一人で来なさいな」 目を閉じて言った 「うんわかった」 そう言って聖川はダリに背を向けた。あたしは振り返ってダリを見る 目を見開いてダリはあたしを見ていた。ゾッとする目だった。あたしも負けずに黒い眼窩を向ける ふふ ダリは元の気怠そうな顔になっていた。聖川と共にドアの外に出て階段を降りる 「社長、今のは」 不機嫌になって聞いた 「部下の一人。横内とは違う仕事をしてもらってる」 飄々と階段を降りる 一階。確か金融屋だったような 聖川はドアを通り過ぎ、通りに出た 「今は店に誰もいないから」 とあたしを見ずに言った 本当だろうか。得体の知れないビルだった。最初の男。次の女。何なんだあの女は。気味が悪い。それはお互い様かと思う そして一番得体が知れないのは、あたしが憑いてるこの男 聖川 京介は通りに出て髪をかき上げた 朝の街がこの男にひれ伏したような気がした 7, 「お前に呪い殺して欲しい人間がいる」 唐突に聖川はあたしに言った 地下の駐車場にいる。ビルを出たあたし達は程なくして今の場所にいる。聖川の車の中だ。真っ黒い大きな車だった。詳しくないあたしにも、庶民が買える物ではないと想像できた 駐車場は薄暗かった。エンジンはかけているようだ。エアコンもついてるのだろう、窓は閉め切っている。あたしは助手席に乗っていた。横内を思い出す ステレオから暑くのんびりとした国のものであろう曲が流れていた 。少し意外だった 物騒な話をするのには最適な場所だ。あたしに選択肢はない 「誰を、ですか」 「ヤクザの組長」 シートにもたれかかって言った 「合法的に殺らなきゃならない。ヒットマンには出来ない仕事だ。その男を自殺に追い込め」 こちらを見ずに言った。横顔も綺麗だった。あたしも魅入られてるのかも知れなかった 「詳細をお願いします」 内容はこうだった。派手にやり合う訳にはいかないが、敵を殺したい組織がある。自分の手は汚さずに。聖川はその仕事を受けた。誰花だから出来るんだよ、と優しく微笑んでこちらを見た その目で何人殺してきたの 場所まで送ると言う 車中の中はあの陽気で少し寂しい曲が流れている 聖川はハンドルを握りながら話す 「期限は三日。相手は霊感があるらしいがどのみち用心深いだろう。自殺がいいが、事故でも構わない。即死させろ」 「いきなりの仕事がそれですか。失敗するかもしれません」 本心だった この高級車はなめらかに走る。道ゆく人は視線をよこした。まさか人と幽霊が人殺しの相談をしてるとは思わないだろう 「誰花が失敗したところで、相手は誰も疑いようがない。この仕事は成功報酬で受けた」 到着まであとどれくらいだろう 「成功すれば僕の名が上がる。失敗しても元通りだ。だけど」 聖川は初めてあたしを見た。双方とも暗い瞳をしていた 「俺を失望させるな。お前も破滅する事になる」 聖川は「俺」と言った。声音は老成した男の様だった こいついったい幾つなんだろう あたしは無言で頷いた 結局あたしは失敗できない。聖川はどちらにせよ無傷だ 「そろそろ着くよ。前を通る時に窓を開けるから出て。逃げ出したら分かってるよね」 ハハッと聖川は笑った。まるで無邪気な子供だ。さっきの姿とは別人だった 「そうそう、お守りやるよ」 聖川は窓の上のサンバイザーから名刺を取り出しあたしにくれた 前の名刺と違うのは聖川の名前が無い。代わりに読めない漢字が表と裏に一文字づつ書いてあった 本人の名前が無いのは当然だなと思った 「霊を滅ぼせるのならば」 聖川は前を見ながら言った 「助ける事も出来る」 そうなのだろうか。証拠がないじゃないか 「それができなければ三流さ」 それは本心だと思った 「さあ着くよ」 窓が音もなく開いた 「行け誰花さん」 あたしは車から這う様にずるりと歩道に落ちた。漆黒の車が走り去って行く 陽光が眩しい。夏なのだろう 改めて目的地を見る。コンクリート打ちっぱなしで要塞の様だった。門は固く閉ざされているだろう。窓はなく監視カメラ数台を確認した。一階部分は車庫なのだろう、頑丈そうなシャッターが降りている 聖川。いつかお前を絶望させて首を吊ってる姿をあたしは下から見上げて過ごすんだ。綺麗な顔が腐って首がちぎれ落ちるまで 思い浮かんだのは今から始まる仕事の事ではなかった。聖川があたしに泣いて許しを乞う姿だった 目の前の要塞を見上げる クスクスクス どうしたんだろうあたし 口角が上がった 8, 今や街中でドンパチする時代ではない。ヤクザの義理や人情などは建前に過ぎず、全ては金で解決される。 渋谷で勢力を二分する松山組と庄内会。度々いざこざは起こすものの、殺人ともなれは警察が介入し組の存続どころではなくなる。 双方とも構成員達には行動を気をつけるよう、幹部からキツく釘を刺されている。 ヤクザなんてなるもんじゃないな 聖川は事務所に戻っていた。数件電話で関係者や客と連絡をし、あとはダリに任せている。 松山組との付き合いは、若頭の憑き物を落とした時からだ。 太客からの紹介で渋々引き受けたが、本人にえらく気に入られた。後ろ盾をさせてくれと言われたが、やんわり断った。ヤクザと密に関わるとロクなことはない。軽く恩を売った程度に思っていた。 ある日若頭から電話があった。 「聖川先生がアタシらの事をよく思ってないのは知ってます。その上で頼みたい事があります」 松山組の若頭、武田は電話先から丁寧に話した。まだ40歳程の切れ者らしかった。 「先生もご存知でしょうが、庄内とどうにも上手く折り合いが付かない。我々は上手くやろうと思ってるんですかね」 どうだかな。適当に聴いていた 「でね、先生。先方の組長には死んでもらいたいんですよ。でも殺されたじゃあウチが一番に疑われてお上に潰されちまうでしょ。庄内が自殺か事故で死ねばね、そりゃあ本人が悪い」 可笑しそうに話している 「先生のお力ならできるでしょう。庄内も霊感があるとか。まあ噂ですよ」 霊感ね。どうでもいいんだよ。そんなこと もう電話を切りたかったが、この街で上手くやるためにはヤクザを全く相手にしない訳にもいかなかった。 「報酬は」 僕は武田に聴いてみた。 「三億」 武田はさらりと言った。 軽く息を飲む。この仕事を始めた中では一番の高額だ。心が揺らいだ。幾つか案はあるがどれもリスキーだ。聞かねばならない事を武田に聞く。 「期限は」 「三日以内です」 武田はほくそ笑んでるのが見えた気がした。僕が受けると確信してるのだろう。 「今日中に返事をする」 僕は低い声で答えた。 「よろしくお願いしますよ先生。オヤジも先生の事えらく気に入ってまして。今度席を用意させて頂きますよ」 蛇のように絡みついてくる。ヤクザの本質だった。 武田との電話を切った後、ソファーにもたれて考えた。 この仕事は「人間」には出来ない。僕も人間へ「呪詛」をかけることは出来るが時間がかかる。そして失敗したら僕の立場は危うくなる。僕が動くメリットがない。 僕達は幽霊相手の商売だ。ヤクザはヤクザ同士で潰し合えばいいと思う。 三億か。 今後の為にも金は欲しい。 この仕事の適任は「幽霊」だ。 「誰花」を手なづけた時、僕は嬉しくてはしゃいだ。 武田に仕事を受ける旨を伝える。三億は成功報酬という形でまとまった。仮に失敗しても、誰にも実害はない。ヒットマンは「存在」しないのだから。僕が多少信用を落とすだけだ。 みすぼらしい女の霊にたいして期待はしてないが、僕に従順になったし、人を殺した実績もある。 僕には火の粉がかからないし損失もない。今回の結末がどうなるのかも興味がある。前例がないからだ。 今回の仕事が上手くいけば、この先「誰花」は莫大な利益を生み出すだろう。 そうなれば誰花は手放さない。汚い仕事は全部やらせる。どうせ「幽霊」だ。自我を失ったら消えてもらう。 「お守り」を誰花に渡してやった。幽霊に持たせるのは滑稽だが助けにはなるだろう。成功するのが一番いい。 僕が一流という話もしてやった。 なぜあんな事を言ったんだろう。 日差しが強い夏の昼過ぎ。人の往来はまばらだ。 庄内会の事務所の前で誰花に窓から降りてもらう。ずるりと気色悪く出ていった。 車を走らせる。バックミラーに白いワンピースを見た気がした お前は人を殺したいはずだ。自我を失いかけてる今が扱いやすくて丁度いい。 僕はそう呟いて楽しくなった。焼身自殺も面白い。周りを巻き込んで何人か死ねば僕の報酬にも色がつくだろう。誰花に言えばよかった。 ステレオからボブマーリーが流れている。夏がゆっくりとリズムに乗る。 白く整った顔の口角が上がった。
どこかのだれかさん 18
五章 1, またトラックに乗っている 一日の始まりが明るさと共に感じられた。どんよりと曇っている 正確には荷台の上だ。体育座りで後ろ向きに座っていた 顔に虫がぶつかってくるのが嫌だからだ このトラックには専属運転手炎上地点から次のSAでお邪魔した 左に海を見た。普通なら右に見えるだろうけど 波乗りをしてる人が見える 近くで見たかったが、ここで降りたら海でまた一悶着あるんだろうな。海は怪異が多そうに思える 生者にも死者にもあたしは人気者だから 口角が上がる 左右に人工物が多くなってきた。曇り空と相まって、全てが灰色に見える おや 名刺が震えた気がした 白いワンピースからそれを取り出す。あたしが物を持ち運べるとは思えない。名刺から離れられないと言うのが正確かもしれない。これはお札? 名刺を見る。前の運転手の血が黒くこびりついていた 名刺にうっすら矢印が見えた きゃっ あたしはちょっとびっくりした 立ち上がり、首だけぐりっと前を見る。気配は消しているが、「みえるひと」なら名刺がトラックの上に浮いている様に見えるのだろうか 両手で名刺を掴み、改めて見る。 矢印は右方向を指している。トラックは左方向に走っている なるほど、そう言う事か 道の分岐点。最近、道路が複雑になってきている あたしは右隣のトラックに飛び移った。音もなく着地する。便利な体だ 名刺の矢印は中央になった この矢印は羅針盤なんだ。これを辿って行けば、終着点に辿り着けるかもしれない もし違ったにしても、トーキョーとか言う場所は大都会だろう。何か面白くなってきた クスクスクス トラックの荷台に立ちあがる。白いワンピースがはためいた 2, 名刺と睨めっこしている。何回か車を飛び移った。道路の造りは複雑怪奇だ。暗い空のせいか風景も殺風景に見える これを過ぎれば夏なのだろう あたしは何月生まれなのだろうか あたしは軽く頭を振った。黒髪が靡く。今考える事じゃない 名刺の矢印が左に変わった。角度がキツく見える。分かれ道はないが、左に外れる道がある 幸い、このトラックもその道に入る様だ 大きい道路をから街に降りた様だった。ここらで一旦トラックを降りてみよう お疲れ様。顔も知らない運転手さん 音もなく歩道に降り立つ 周り全てがコンクリートだったが、別に驚きはしない自分がいた。この様な風景を生前に見ていたんだろう シブヤがどんな街か思い出せなかったが、なるほど人は多い。せっせと歩いている。昼前くらいだろうか。みなスーツを着ている 気配を消して、電柱の影から名刺を見る あの男と名刺交換しようかな 目の前を通り過ぎる若い男を見て、ふとそう思った。それでお互い意気投合したら、二人で「遊ぶ」のだ。彼が壊れるまで クスクスクス いや待て、今はそれどこじゃないんだった。今度こそ名刺をよく見る 矢印が明らかにくっきり写し出されていた。それは真っ赤だった。矢印が怒っているように見える。空白に飛び散ってる焼け死んだ男の血の跡はもう黒い 赤い矢印が示した場所へあたしは歩き出す。楽しくなってきた 頼むよ赤い羅針盤。空虚なあたしを満たしてね クスクスクス 口角が上がった
どこかのだれかさん 17
1, トラックに乗って走っている。正確には荷台の上だ。勝手に乗らせてもらった。あの街にいても埒があかないので、遠くに行ってみようと思ったのだ。どうせ行く宛もない。ヤケになっていた 高速道路を走るトラックは、どこへ向かっているのかは当然わからない。夜空は曇っていて暗雲立ち込めるとはよく言ったものだ。 行先に逆を向いて体育座りをしている。顔に虫が飛んでくるのが嫌だった。 気配はかなり消している。後続車の運転手が「みえるひと」で、事故に巻き込まれたらウザいからだ。今はトラブルなく進みたい 深夜のSAは閑散としていた。停まっているのはトラックが殆どの様だった。あたしの運転手はトイレに行く様だ。不便な体だ どれくらい進んだだろう。時計は見てない。かなり走った気はする。朝日は2回見た。運転手のトイレ、食事、過眠。お疲れ様だが、退屈極まりない。あたしの運転手が戻ってきた。仮眠をするらしい。つくづく不便な体だ 当然眠くならないあたしは、SAを見て回る事にする ここがどこかを知りたいが、以前いたマンションで地図を見た時、なんだか理解できなかった。いづれ見方を思い出すかも知れない 気配を消して鼻歌まじりに散策してると、乗用車にもたれかかって煙草を吸っている男がいた。上背のある男で、顔はよく見えない。 男はこちらを見た。中々のイケメンだ。シンプルな服装にブーツを履いている。着痩せするのだろうか、白いシャツから太い腕が見える。タイプだった 「チッ」 男は舌打ちをすると、古いタイプのセダンに乗り込んだ。あたしが見えたのか?だとしたら、「かなりみえるはずだ」 あたしは好奇心でドアが閉まる寸前に車内に入り込めた 「あーあー、ったく」 男はため息まじりでこう言った 2, 横内 大は、九州から東京へ向かっていた。仕事を終えて自宅に戻る途中で、名古屋付近のSAで休憩しようと思った。深夜なので、SAは閑散としている。車にもたれかかってタバコに火をつけた。 今回の仕事は軽くこなせたが、人使いの荒い先生だ。日本中どこでも飛ばされている。 ふと 視線を感じた。 思わず舌打ちをする。 せっかくの仕事帰りにこれかよ。 ぱっと見、低級霊に見えたが奇妙に違う。 少なくとも、力のコントロールはできるようだ。女か。どいつもこいつも貞子みてぇなナリしやがって。もうウンザリだった。 さっさと車に乗ってオサラバしちまおう。ドアを開けた瞬間、女が入ってきた。思わず口から悪態が出る。 足元に顔があった。背面でずるずる動いている。顔が見えた。端正な顔立ちだった。まだ若い。蒼白の肌。目は漆黒だった。そのまま後部座席に座ってしまった。図々しい野郎だ。俺には丸見えなんだよ。 「払」ってもよかったが、今は疲れていた。まあ、いいか。道中の暇つぶしになるかもしれない。その「存在」が危険ならその時考えればいい。 キーをひねる。爆音とともに骨董品が吠える。今やプレミアが付いているこのセダンを維持する為には、嫌な仕事も引き受けなければならない。 加速車線でアクセルを踏む。計器類が激しく動き、体がシートに押し付けられた。本戦に乗ってさらに加速する。バックミラーを見る。彼女の顔が引き攣っていた様な気がして、ニヤけてしまった。 さあ楽しいドライブデートだぜ? 生者と死者を乗せた車は東へ向かった。 3, 「俺は東京に帰るがよ、おめーもそれでいい?」 横内は後部座席に話しかけた。バックミラーで後を見る。彼女は体育座りをして俯いている。長い髪は床まで垂れていた。構わず話しかける 「俺は「払い屋」でよ、おめーみたいのをよ、頼まれて消すんだわ」 横内の口は顔立ちにしては悪かった。 「今すぐ消してやろうか?」 朗らかに言う。 彼女は動かない。 まぁ、そうだわな。霊と意思疎通できた事はなかった。憑かれた人間や物を儀式で払うのが俺の仕事だ。軽い案件ならその場で払える。金さえ貰えれば、ヤクザでも反社でも助けた。慈善事業じゃない。 先生なら或いは、彼女と話せるかもしれない。こいつには「自我」を感じる。何か目的があるのではないか。 知ったこっちゃねえ。 道中の暇つぶし。東京に着いて、しつこいようなら消す。それだけだ。 一時間ほどたったが何も起きない。少し拍子抜けしている。場慣れしてるからかもしれない。ほぼ取り憑かれてる訳だから、気の弱いヤツはパニックになるだろう。 「なあ、何か喋れよ」 無駄だが聞いてみた。後を振り返る。いない。ハッとして助手席を見た。体育座りをして前を見ている彼女がいた。いつの間に。少しゾッとした。 「ビビった」 俺は素直に呟いた。長い髪で表情は見えない。白いワンピースは死者の白さだった。 4, この男今なんて言った。払い屋? よく喋る男だ。好みのタイプでもお喋りは好きじゃない。最初、車のスピードを上げた時は楽しくて口角が上がってしまった。今は慣れてしまったが この男はあたしと話したがっている様だが、生者と具体的に話すやり方はわからなかった。笑い声くらいは聞かせる事ができる様だが やかましい車だったが、トラックの荷台の上より楽しかった。デート気分だ。 それより、九州から東京へ行くと言ってたな。キューシュー?トーキョー?どこだっけ。思い出せなかった あと「払い屋」の話。この男が?それは成仏させてくれると言う事か。「消す」と違うのか? そういった力を男は持っているらしい。どういう事をやるんだ? ためすか 予備動作なしで男の顔に人差し指を突き出す。爪は剥がれている。 男はこちらも見ずに、左手で奇妙な印を作った。同時に意味不明な言霊を発した。 「可ッ」 うそ。動けない 「運転中はシャレんならんぞ」 男はチラッとあたしを見て言った。息が荒い 車外へ。ダメだ、隙間がない。あたしは透明人間ではない。幽霊だ。隙間がないと 「さて、どうしようか」 左手で印を結んだまま、男は運転を続ける。息は荒いままだ。力を消耗しているらしい 「車の運転中にできるのはこれくらいだけどな」 男はニヤっと笑ったが、目は笑っていなかった。汗が頬をつたう これ以上の事は出来なさそうだ 本格的な除霊はこの状況では無理なのだろう 凄い。こんな奴がいるのか あたしは動かない体でそう思った 「おとなしく座っとけ。事故りたくないんでね。大切な車だ」 自分より車が大事なのか?男という生き物はよくわからない ここで抗うのは得策ではないと思う。あたしは気を最小限にした。体が動く様になった 「わかりゃいんだよ」 男は左手をステアリングに戻し、タバコを咥えた。火をつけ紫炎を吐く あたしは体育座りで前を見た。かなりのスピードに思える なんか楽しくなってきた 口角があがり、声が漏れた 車の爆音が車内に響いていた 5, とんでもねぇ女だ。運転中とはいえ、隙をつかれた。あの人差し指のおぞましさ。青白くて、爪がなかった。まさにこの世のものではなかった。 精神をざっくり削られる感覚。普通のヤツなら発狂するかもしれない。先程感じた奇妙な感覚はこれか。こいつはザコ霊よりヤバいかもしれない クスクスクス 笑っていた。俺には笑い声くらいしか理解できない。さっきよりかなり気配を落としてるのだろう。今の弱さだと「みえるやつ」しかこいつの存在を認識できないかもしれない。 横顔からは髪が邪魔して表情はわからなかった。 「ご機嫌じゃねぇか」 クスクスクス 「ふん」 もう危険はなさそうだ。タバコを灰皿に揉み消す。 こいつは自分が幽霊だと自覚してるタイプだ。生前の記憶もある程度あるのだろう。 霊になった今も自我を保ち、考えて動ける。やみくもに暴れるヤツと違って、行動が読めない。 たいした霊障はおこせないとは思うが、今は運転中だ。高速道路で車を停めてまでして、こいつを「払う」のは気乗りしなかった。車に傷が付くかもしれない。 無害ならいいか。 クスクスクス 「その笑い方、やめろよ」 ウンザリして言った。 ただ、こいつに強い意志と目的があるのを感じとれた気がした。俺の力のせいもあるが、「波長」があっているのかもしれない。「憑かれた」とも言える。 助手席でちょこんと座って前を見てるこいつに、奇妙だが、俺の感情が少々揺らいでいる。こんな事は初めてだが、その時が来たら容赦はしない。 横内は冷たい視線で道の上の夜空を見た。アクセルを踏み込む。メーターが踊る。 静岡県に入った。 6, 男が無言になったので、あたし自身の特徴を自分なりに整理してみる 気配のコントロールができる。ボリュームだ。大きくすればやれる事が増えるが、姿も「みえるひと」にハッキリ見えてしまう。「みえないひと」も気配くらいは感じ取れるかもしれない 触れるものと触れないものがある 霊とのコミニケーショはできるらしい 人の話は理解できる。逆にあたしの話は、生者には聞こえないらしい。笑い声は「みえるひと」ならば伝わるようだ。あのYouTuberにも聞こえてた気がする。気のせいかもしれない 身体能力は高い。足が速い。そんな幽霊は嫌すぎるだろう 生前の知識、知恵がある程度残っている こんなとこか。結構やるじゃん。あたしは鼻息をフンと鳴らしたつもりになった こいつとトーキョーとやらに行けば、お先まっくらが進展するかもしれない。あたしは機嫌がいい 7, 深夜の高速道路は空いていた。時計に目をやると午前二時だった。隣の幽霊は体を小刻みに揺らしている。リズムをとっている様だった。 死んでるくせに生意気なヤツだ。 大金をぶち込んでるエンジンだけあって、高速走行も申し分ない。俺も機嫌が良くなってきた。不気味なのを乗せてはいるが、こいつを先生に会わせてやるのもいいかもしれない。先生ならどうするのか興味がある。 そろそろ御殿場か。ここを抜ければ、東京に着いてしまった気がする。気が早いが、はるばる九州から帰ってきたからな。疲れたが、新幹線よりもちろんこの車だ。 だいぶ霧が出てきた。山間部だからよくある状況だ。カーブが多くなってきている。車速を落とす。前方にぼんやりテールランプが見えた。抜かそうかとも思ったが、速度はほぼ一緒だし、疲れているのでそのまま追いていく事にする。 妙な事に気づいた。霧の中、リアガラスがはっきり見える。タバコに火をつけた。テールランプはぼんやりと光っている。速度は変わらない。 異様なものに気づいた。子供が二人、リアガラス越しに俺を見ている。隣を見る。女が前方を指差していた。枯れ木の様な腕だなと思った。爪が全て剥がれている。 前を見やると、かなり距離が狭まっていた。思わずハイビームにする。 その車は焼けこげていた。とても走れる状態ではない。子供らがべったりリアガラスに張り付いていた。口を異様に大きく開けている。中は暗黒の様だった。両目が無い。性別は分からなかった。顔が焼けてちゃぐちゃだったらからだ。 テールランプはいつの間にか消えている。 間違いなくヤバい。 俺は苦くなったタバコを灰皿に揉み消した。 クソ。なんだってんだ。なんで俺なんだよ。もう少しで帰れたのに。隣が厄病神だったか。嫌なのがよってきちまった。 俺は頭の中で悪態を吐いた。 クスクスクス 気味の悪い笑いをたてて女は揺れていた。 「チッ」 こんな厄病女、拾わなきゃよかった。こいつに多少気を許したが、今は殺意しかない。どいつもこいつも地獄に落としてやる。 俺は車を追い越そうと、アクセルを踏む。踏めない。手に汗が滲む。ハンドルは動かせる様だ。だがこれでは抜かせない。俺をいたぶるつもりか。 クソ。やるしかねぇのか。危険なだけで一円にもならない。そこそこ修羅場を生き延びたつもりだが、運転をしながら「払う」のは 初めてだ。 それができるだろうか。先生に電話しようかとも思ったが、ガキじゃねぇんだとスマホを置く。 前方の子供らはガラスからトランクにずりずり這い出てきた。元々ガラスなどなかったのかもしれない。身体中焼けこげていた。髪の毛も燃え尽きている。肌が垂れていて、触手の様だった。大きく開いた口から舌が出ていた。それだけ鮮やかなピンク色なのがおぞましい。 大方この辺りで事故に遭って死んだヤツらだろう。ここらで起きる事故はこいつらの仕業かもしれない。親は乗っているのか。まだ何体かいるのか。 落ち着け。上等じゃねぇか。隣は戦力にならんが、俺一人で充分だ。 覚悟を決めた時、前方のやつらが俺の車のボンネットに飛び乗ってきた。 クソ。ボンネットにきたねぇ体乗せやがって。ずるずると俺の方へ向かってくる。山間部。カーブが続く。フロントガラスに赤黒い四つの手が張り付いた。いつからか俺の車の音が聞こえなくなっていた。 クスクスクスクスクスクス 女の笑い声だけが静かな車内に響く。 全てが現実離れしている。 ずる ヤツらの顔がガラスまで来た。顔と手が目と鼻の先に見えた。 顔中、頭中赤黒く焼けていた。両目はない。鼻は穴だけになっていた。口を大きく開け、ピンク色の舌がガラスを這う。二体とも同じ動きなのが吐き気を覚えた。 ああ あついよあついよたすけて そうだね あついねあついね 子供の声だ。 ずり さらにヤツらは上に上がろうとしていた。 ヤバい。前が見えなくなってくる。カーブだらけの道。ハンドルは握ってないとマズい。こういうことか。事故が多いわけだ。 今回は両手で「印」を結ばないとヤツらを止められないと思うった。 隣のバカは車内にいたし一人だったから、片手ですんだ。 どうする。額に汗がつたう。先生ならどうにかする気がした。 ずる ヤツらの胸まで見えた。 焼けてぐちゃぐちゃだった。腹から出ている内装はピンク色だった。 視界は全て赤黒くなってしまっていた。 もう両手で「印」を結ぶしかねぇ。道は直線か?しかしそうしなければ、どのみち道路の側面激突する。 そもそもこの道は存在するのか。最初から囚われていたのかもしれれない。 やらなきゃ死ぬ。助けてくれ先生。 その時、枯れ木の様な白い右手がハンドルを握った。死者の手。すぐさま両手を離して俺は「印」を結んだ。 「尢!灼!忇!」 俺は叫んだ。女はハンドルを右手一本で器用に操作している。 前のヤツらが苦悶の表情を浮かべた。 「可ッ」 ギギギギギギ~ 最後に気味悪い声を出してヤツらはフロントガラスからずり落ち、後ろへ吹っ飛んでいった。バックミラーを見る。高速道路の灯りが照らす道には何も無い。今まで灯りがあっただろうか。 前を見ると焼けた車も消えていた。車は爆音を車内に響かせている。霧も晴れていた。 両手をハンドルに戻す。枯れ木の腕がまだ掴んでいた。 8, 周りにトラック達が走っていた。時計を見る。二時十五分。 あれが十五分の出来事だと?道路も明らかにここじゃなかった。 助かった。あの「印」じゃなきゃ車を事故させて最悪死んでいただろう。こいつがハンドルを操作してくれたおかげだ。 「助かったわ。もう手を離せよ」 タバコを咥えて女に目をやった こちらを見ていた。髪の隙間から表情が見えた。口角が上がっていた。 「おい」 クスクスクス 横内はゾッとした。すぐ左手で「印」をきる。その前に強くステアリングを切られた。時速100キロ。車は凄まじい音と共にスピンした。 横内のクラッシクカーにエアバッグなど付いていない。激しく胸を前方に強打した。肋骨が砕けるのを感じていた。タバコと血がこぼれ落ちる。 車は高速道路上に真横になって止まった。そこに大型トラックが突っ込んだ。 横内の車は激しく跳ね飛ばされ、数回横転した。屋根を下にして止まった時には、彼の愛した車の原型は崩れていた。煙とガソリンの匂いがする。 横内にはまだ意識があった。 クソ。俺の車オシャカにしやがって。 この女は「死神」だ。拾うんじゃなかったぜ。 車が燃えだした。 横内は逆さまのまま車外をみた。 女が立っていた。黒く長い髪。白いワンピース。死人の肌色。黒い眼窩。 まるで幽霊だな 横内は呑気に思った。タバコが吸いたかった。 火は運転席まで迫って来ていた。体はもう動かない。色々散らばっている手の近くに白い小さな紙があった。それは名刺だった 先生。すんません。ミスりました。俺はもうダメみたいですが、この女を地獄に落としてください。もう一度死の苦しみを与えてください 最後の力で燃える車内から女に向けて名刺を指で弾き出す。言葉を出す力はもう無かった。 女は名刺をしゃがんで手に取った。首を傾げている。 横内の体に火が燃えうった。 クソ。俺のクルマが 「ぎゃあ!」 横内が最後に発したのは悲鳴だった。若々しく整った身体中が炎に包まれる。 あついあついたすけてたすけて 先生あついですあついですよ 瞬く間に車中が炎に包まれる。 あの子供達と同じ結末になった。 クスクスクスクスクスクス あたしは笑ってしまった。あのお喋りの最後の悲鳴といったら 彼は金を貰って霊を払っているらしかった。死者に対しての敬意が全く感じられなかった 幽霊として腹が立った。だから呪い殺したくなった 最悪の死に方だったろう。あの焼けしんだ子供達に感謝されるかもしれない 手に取った名手をしげしげ見てみる。これ自体にも不思議な力を感じた。トーキョート、シブヤク 住所が書いてある 聖川 京介 ふーん。こいつに会いにいけというのか よし、目的が出来た。この運転手は有能だった 燃え盛る車のせいで、他の車も止まっていた。追突したトラックも前方で横になっている お疲れ様でした あたしは轟轟と燃えている彼を労った さあ、行こう。どこかのだれかさん トーキョー シブヤへ 紅蓮の炎を後にして不吉な白いワンピースは漆黒の髪を靡かせて走り出した
どこかのだれかさん 16
夏の夜。あたしは公園のブランコで遊んでいた。特に気配は消していない。「みえるひと」であれば、公園の怪異だろう。靴飛ばしをやりたかったが、生憎はだしだ。爪は全て剥がれていた 隣のブランコに少女が座っていた いつからそこにいた? 気づかなかった。綺麗な横顔だ。少女があたしを見た。顔が半分なかった。体も半分ズタズタだった。この世のものではなかった 「お姉ちゃんはどこから来たの?」 半分残った口で流暢に話す。服装は無惨に裂けてはいるが、制服らしかった。小学生くらいだろうか。あたしはコミニケーションが苦手だが、相手が霊であろうと話したかった 「わからないんだよね」 会話できる。嬉しい 「あたしはあそこの信号で死んだの。大きな車だった。すごい痛かったんだよ」 他人事のように話す。無くなった部位から血が流れている。「みえるひと」があたし達を見たら、どんな顔をするだろうか 「成仏できないの?」 あたしはそれを聞きたかった 「大きな車に轢かれたから、ここから離れられないの。ここにいればパパとママにだって会える」 ニコっと笑った。顔が揃ってれば、さぞかし美少女だったろう この子は地縛霊だ。自分が死んでいると知っておきながら、まだ現世にいる。このタイプに前会った気がした。事故死ならいづれ何かのきっかけで成仏できるのかも知れない。そして、あたしは事故、自殺では死んでないと言う事になる。大切な事のような気がした 「ふーん。あたしはあんたと違って、何で死んだのか、何で成仏できないのかわからないんだ」 ハッとした。そう、それを探したい。最近、自我がぼやけてきていた 「お姉ちゃんもこの公園にいようよ。ずっと遊べるよ」 機嫌よく左右に揺れる。脳と臓物断面からよく見えた 「あたしは行くよ。生きてた頃を思い出さなきゃ」 彼女を見つめて言った。少しブランコを漕ぐ 「えー。意思の無い幽霊になっても友達でいてあげるのに。見つからないよ、お姉ちゃん。そんな探し物」 不服そうに言う。誰かにも似たようなこと言われたっけ 「死んだのは結果。どうしようもない。けど、あたしは納得したい。そうしたら全て受け入れようと思う。納得は大切だぜ」 他人に話すと思考がまとまる。自分が話した言葉、よく覚えておこう 「ふーん」 彼女は横顔になっていた。青白さがより美しくさせていた 「ねぇ、あんた名前ある?あたし、思い出せないんだよね」 あたしには重要な事だ 「あたしは彩。お姉ちゃん可哀想だねー。あたしが名付けてあげよっか」 笑いながら彩は言った。確かに、自分でつけるものじゃないと思う 「いい名前だね。じゃあ彩、あたしに名前つけてよ。かわいいやつ」 幽霊同士のたわいのない話だ 「だれかさん!」 即答だった 「意味わかんないし、全っ然かわいくない!」 思わず怒鳴ってしまった 「そーかなー。いいじゃん、だれかさん!どこかのだれかさん!」 アヒャヒャヒャヒャ 突然、彩は笑った。笑い声のなんと気味悪さよ。ブランコから立ち上がり、あたしの正面に立った。身体は、ほぼ真っ二つだ。断面はぐずぐずだった 「どこかのだれかさん!いたいいたいいたい!ママ!パパ!助けて!いたいよ!」 彩は悲鳴をあげて、体を傾けた。脳と内臓が出てきた ぐちゃぐちゃぐちゃ 地面に垂れ落ちる。体の断面はもう赤い空洞だった ふにゃふにゃになった半分の顔で彩は笑った アヒャヒャヒャヒャアヒャ 「どこかのだれかさん、アヒャアヒャ、ママ、パパ、アヒャ」 彩は狂っていた。この光景を冷静な虚空の目で見ているあたしもまた狂っているのだろう 「彩のくれた名前、大切にするよ」 あたしはもがき苦しむ彩にそう伝えた 「どこかのだれかさん!一緒にいようよ!痛いよ助けて、だれかさん!」 もはや人の皮だけの彩はあたしに懇願した。悪いけどあたしにしてあげる事は何も無い あたしは立ち上がった。ブランコにもこの娘にも飽きた 「ばいばい、彩。あたしの名前は」 狂った彩に最後の言葉を送った 「あたしの名前は、だれかさん」 そう呟いて、公園を出る。後ろから彩の悲鳴が聞こえた 自分の名前が思い出せないのは、悲しいことだ 夏の夜。あたしに名前がついた。かなり気に入らないが、本当の名前がわかるまでこれにしようと思う 進もうとした先の信号に花束が添えられていた。彩が轢き殺されたのは、そこなのだろう。 あたしにも花が手向けられたのだろうか あたしはその信号を背にして歩き出した 漆黒の長髪。白いワンピース。あたしは、どこかのだれかさん
どこかのだれかさん 15
2, 早川 蓮は、その日のアルバイトを終えて、自宅アパートへ自転車で帰る途中だった。いつもの帰り道だった。 ふと 前方に違和感を感じた。電信柱の下に白いものが見える。 通り過ぎる時、それを見た。 体育座りをしてる女がいた。白いワンピース。顔は長い髪でよく見えなかった。時間は深夜一時くらいのはずだ。 この世のものじゃない。 「ひっ」 思わず声が出た。自転車のペダルを思い切り踏み込む。振り返らずとにかく家路を急ぐ。 まただ。ああいった類をたまに見る。子供の頃からそうだった。死んだ母さんも見えたらしい。そこが遺伝しなくてもいいだろう。いい事なんてこれっぽっちもない。 クスクス 後ろから小さな声が聴こえた。腰を掴まれたような感触がある。全身に鳥肌が立つ。全力でアパートの駐輪場に自転車を叩き込み、階段を上がり二階の自室に向かう。扉のノブを回そうとして、手が滑った。全身に汗をかいてる。ゆっくり後を見た。 静寂。 少しほっとして、扉を開けて中に入る。蒸し暑い。電気とエアコンをつけ、台所へ向かう。塩の袋を取り出して部屋の隅々まで盛った。これほど嫌な感じは滅多にない。盛り塩など気休めに過ぎないと思うが、無いよりマシだろうと思った。一時半。テレビをつけた。テロップだらけのバラエティ番組は深夜でも騒がしいが、今の状況ではありがたかった。 ひとまず何も起きない。明日も予備校だ。来年こそどこかに引っかかりたい。きっと大丈夫だ。上手くいく。アルバイトの疲れか、睡魔が襲う。潰れた布団に潜り込んだ。すぐに意識は消えた。 クスクス クスクスクス 目を開ける。体が動かない。金縛りは経験した事があるが、毎回嫌なものを見る。顔の上に髪が垂れていた。頭の後ろからだった。いったいどんな角度なのか。冷たい汗が流れる。つけっぱなしのテレビから、 クスクスクスクス と女の笑い声が聴こえた。 顔の上の髪が動いた。目と目があう。漆黒の目。洞窟のようだった。そこには感情というものがなかった。まだ若い女だ。ただ俺を見下ろしている。 ヤバい。ヤバいやつだ。 テレビから女の声がする。 生きてるって羨ましい羨ましい嫉ましいずるいずるいずるい そんな事、俺に言われても。 黒い目が俺の目に近づく。限界だった。俺の意識は暗黒に落ちた。 3, テレビの音が聞こえる。朝の情報番組らしい。今日の天気を伝えている。俺は飛び起き、辺りを見回した。誰もいない。身体は汗だくだった。昨夜のヤツはヤバかった。あんなにハッキリ感じるとは。俺は台所で水を飲もうとした。蛇口を捻る。真っ黒な液体が出てきた。 「ひえっ」 叫んで部屋に目をやると、部屋の隅に体育座りしている女がいた。何かを指で撫でている。盛り塩だ。 ほら、やっぱり効かないだろ? 俺は吹き出した。笑った。女が俺を見た。朝日の中で見る君は綺麗だ。アパート中に響き渡る声で笑った。魅入られたんだ。しょうがないな。もう耐えられない。ベランダへ走り出す。ガラスを突き破って飛んだ。彼女の笑い声が聞こえた気がした。 いい天気だな。今日は予備校。夜はアルバイトだ。忙しいな。 早川はアスファルトに首から落ちた。そこから嫌な音がした。 4, 自分の名前が思い出せないのは、悲しいことだ 「あたし」が覚えているのは 彼の自転車で恋人のように2人乗りしたこと 彼の部屋で恋人のように過ごしたこと 楽しかったよね 彼はアスファルトに横たわっている。首が変な角度に捩れていた 少し脅かしただけで飛び降りるとか大袈裟なひとだ。あたしは彼にさよならをした 日差しが強い。暑いのだろう。あたしにはわからないが 自転車がしろだったらよかったね 口角があがる あてもなく歩き出す
どこかのだれかさん 14
二章 1, 夜。とぼとぼ歩いている。あのマンションを出て、お日様が二回程沈んだろうか。水分を含んだ空気。夏がくる 郊外の街を考えながら歩いている。人の気配は感じない。同じようなデザインをした一軒家が並んでいる。街灯があたしを照らす。影はなかった あたしは死んで間もない。それが確信できた。あの廃屋で。あのマンションで 最近死んだ女を探せば、自分を見つけられるかもしれない。でも、どうしたらいいのか。まず場所だ。それがわからない。生前の知識はあるようだが、ハッキリした記憶が曖昧だ。あの廃屋あたりから覚えているのだが あたしが歓迎したYouTuber二人組の顔ときたら クスクス 口角が上がる 自我を取り戻せた場所まで戻ろうとも思ったが、どこだかさっぱりわかない。車に乗せてもらったのも、それに拍車をかけた どうしたものか あたしは歩道の電信柱に体育座りをした。一休みだ たまに車が横切る。歩道側にいるので、轢かれる心配はない。死ぬ心配もない。あたしは体育座りをしながら、たびたび通過する車の色をボソボソ呟いた しろ しろ くろ あか 次が黒だったら立ちあがろう きいろ 座っていよう しろ しろ しろ そのまま自我を失いそうだった くろ 自転車だ 「ひっ」 確かに聞こえた。自転車は猛スピードで走り去っていく 「みえるひと」だ あたしは反射的に追いかけた 誰かと接したかったのかもしれない。あたしに追いつけない速さではない 不吉な白いワンピースが靡いた
どこかのだれかさん 13
18, 寝室の状況に変化はない。一人減っただけだ。あいつが呟いた 「彼は帰ったよ。薄情だね。毎晩、君の顔を見てた。それだけで幸せだったよ。もし、よその男がこの部屋に来たら、殺そうと思ってたんだ。君は僕と結婚するからね」 彼女の見開いた目に涙が流れる 今までと違い、寝室の王は流暢に話した。力を開放しているからかも知れない どいつもこいつも嘘つきだ。あたしは終焉を感じて立ち上がる。腕組みをした 「けど、彼は帰ってしまったね。君には僕がいる。一緒になろう。永遠に」 歌うようにあいつは言った。 体が変化している 本体の頭から股まで一直線に裂けた。脳と臓物が流れ落ちる。触手で彼女を掴んだ。彼女の目が溢れんばかりに丸くなる。涙と鼻水と涎で端正な顔がグシャグシャだ。声にならない口は何を伝えたいんだろう 罵倒か 贖罪か それとも… どのみち、あいつは彼女との会話を楽しむつもりはないようだった。観音開きになった体に、彼女の体を触手で押し込んだ。 抱き合う恋人のように メリメリメリ 血が飛び散る。ぎゅうぎゅうに押し込まれる。無茶じゃないか?あたしは思った バキバキバキ 手足の骨を砕かれ、彼女はダルマのようになっていた。声は聞こえない 無理やり、あいつは自分の体に彼女を入れる。身体中の骨は折られているようだ。それなら入るかもしれない ものすごい量の血があいつの体から吹き出しているが、ほとんどのそれは彼女の血だ あいつが体を閉じだした メリメリ バキバキ 「ひゃあぁ~」 彼女の断末魔。久々に彼女の声を聞いた気がする。世話になったね。あたしは呟いた 端正だった顔はみるかげもない。彼女の腸が裂け目からはみ出ている あいつは体を閉じたが、まだ歪だ。体全体で彼女を咀嚼しているようだ もにゅ もにゅ その度に継ぎ目から血が吹き出る。彼女の頭の一部がはみ出ている。もう生きてはいないだろう。頭蓋骨が砕かれる音がバキバキと聞こえた あいつは体が倍くらいに膨れていた。人間一人を自身の体で食べたのだから、そうなるだろう。寝室は血のバケツをぶち撒けたようだった。凄まじい臭いがした。 「気はすんだか」 あたしは尋ねてみた 「ああ、彼女と結婚できたし、この部屋で幸せに暮らすよ」 話すたびにあいつの体の隙間から血が吹き出る 「ずっとここにいるのか」 「僕が買った部屋だからね。このマンションがなくなるまで、住むよ。次の住人には迷惑かけない。それに、僕は成仏できないし、この部屋からどこにも行けない」 「彼女だけは成仏できるのか」 気になってたことを聞いてみた 「さて。自殺した地縛霊と一体化したからな。無理だと思うよ」 あいつは邪悪な笑みで答えた こいつはふられて屋上から飛び降り自殺。彼女は行方不明。悲観した彼氏はベランダから飛び降り自殺。こんなシナリオか 絶対住みたくない 彼女は未来永劫見つからないだろう。どんなに家族や警察が探そうとも 「お前は出ていくんだろう」 男は爽やかに語りかける。血だらけの喜びに満ちた顔 当たり前だ あたしは少し不機嫌に言った 「彼の飛び降りが騒ぎにならないうちに出てくよ。よくあんな風に人を操れるもんだな」 興味があるので聞いてみた あいつは微笑みながら、 「彼にはここで自殺した僕に恐れがあったからね。そこに隙がみえた。僕は地縛霊だから、寝室限定の力がある。操るのは容易だったよ。間接的に僕が殺したから、彼は成仏するんじゃない?知らないけど。けらけらけらけら」 不快な笑いは変わらない 「もう行くよ」 気分が悪い 「おまえは どこにもたどり着けないだろう ミジメに自我をうしなって だれとも関わらず 浮遊霊になってさまようんだ 成仏なんてできるわけないだろう けらけらけらけら 僕は幸せだ幸せ幸せ けらけらけら」 あいつの口調が前に戻っている。内容も頭に来る もうあいつと話す事はなかった 早くこの場を去りたい。寝室を一暼もせず、無言でリビングから玄関へ行く けらけらけらけらけらけら 寝室からあいつの笑い声が聞こえた 泣きそうになる。泣き方は忘れていた ふと、クローゼットのニットのことを思い出した。白くて、赤いワンポイント。かわいかったな 最後にリビングを振り返る。マンション暮らし。まだあたしには早かったかな 黒髪を手でかき上げた 振り向いてドアを開ける 救急車のサイレンが聞こえた。あれから1時間はたっていないだろう まだ深夜だ エレベーターに乗った。七階。最後に上がってきた2人の将来は惨たらしく断たれた 一階。出口に向かう。人の気配はない。あたしの姿は「みえるひと」には見えているはずだった エントランス。パスワードを入れる。せっかく覚えたしね。この数字にも何か意味があるのだろう。もう思い出す事はない 通りにでる。彼氏が砕けているであろう場所に、男女数人が集まって騒いでいる。救急車のサイレンが近づいているようだ 君、とんだ災難だったね。成仏できるといいね。さよなら 少し縁があったので別れを告げた あたしはバサっと自分のワンピースを見る。イカみたいな姿になった 血は付いてないようだ。便利な服だ あいつに言われた。色々言われた。言い返せなかった でも あたしは自由だ あいつと違う 必ず自分を見つけてみせる そして、この世から消えるんだ。未練なく。永遠に 初心忘れるべからず 今夜の空に月はなかった
どこかのだれかさん 12
ベランダから今夜は月が見えなかった あたしは寝室がよく見える位置に移動して体育座りになった 寝室の中は当たり前のように暗く静かだった 楽しげに笑い合う二人。お似合いの二人だ。若い彼らは、幸せが永遠に続くと思っているのだろう その時が来た。彼女が寝室に入った。誘われた彼も、「死の境界線」を越えた 「ヒイッ」 「は、はぁ?」 見えた。寝室中があいつだった。肉むき出しの何本もの触手のようなものが、あいつ本体から出ていて壁中を這っている。まるで蛭のようだった。色は内臓にも見えた。もう原型はとどめていないが、顔のそれは判別できた。それは泣いていた。元々目のあった空洞からどす黒い血の涙を流していた。口はありえない大きさの穴になり暗黒だった。長い舌が床までたれて動いている あたしは少し感動した あいつ、待ってたんだ 隣であれだけはしゃがれて 静かに怒りを抑えて 待ってたんだ 二人は金縛りになってるようだ。涙と鼻水を流して口をパクパクしている。彼女は微かに、ちがう、ちがうと言っていた。彼の方は声が出せないようだ。顔面は蒼白になって口から泡を吐いている。足元に水溜りが出来ている。2人とも失禁していた あいつは暗黒の穴から涎をたらしつつ呟いた 「これから、彼女と話がある。悪いが君は外してくれ」 あいつは、シューシュー音を漏らしつつこう言った。前と違って理性的な口調に、あたしは拍子抜けした それに応えるように彼は「うん」と呟き、ぐるりと寝室に背を向けた。顔が人形の様に無表情になっている。涙と鼻水の跡を付けながら。彼の動きに横にいた彼女が驚きの目を見開いた 彼はリビングの中央までくると、ぐりっと直角に曲がった。気味が悪かった 「こっちだね」 棒読みでボソボソ言う。顔は能面のようだ。あたしは気づいた。行き先は、ベランダだった 彼はベランダの窓を当然のように開けた 「ここだね」 何がここなのだろうか。誰と話してるのか 初夏の湿った空気が部屋に流れ込む 彼は迷いなくベランダに出て、柵に登る 「おい」 彼の近くであたしは一応声をかけた 彼は抑揚の無い声で「おちまーす」と言い、あっさりと柵を越えて闇に消えた。ここは何階だっただろう グシャ 濡れ雑巾を叩きつけるような音が聞こえた 彼の人生は終わった あたしは寝室に集中することにする。体育座りになった
どこかのだれかさん 11
16, 違和感。彼女は誰かと一緒だった 「お邪魔しまーす」 「入って入って」 あの彼だ。中々のイケメンだった。身なりも清潔で好感が持てる。背が高く、彼女より年上だろうと思った あたしはゆっくり寝室方向を見る。動きはない ソファーから降り、壁の角に幽霊っぽく立って二人の様子を見る。気配は消した 「すげー、これ買ったんでしょ?金持ってんなぁ」 「あたしのお父さんがね。学生のあたしが買えるわけないじゃん」 手を振りながら言う 嘘だった。あいつが全て買って与えたんだ 二人は酒が入ってるらしかった。陽気に話す。ソファーに並んで座り、新たに缶ビールを飲む 「でもさ、このマンション、前に飛び降り自殺があったじゃん。気持ち悪くないか?」 「まあそうだけど、知らないオッサンだし、気にならないよ」 また嘘をついた。対して、あいつの言ってたことは本当のようだ。彼女に捨てられた、と言ってた 「けど、たまに誰かの気配は感じるの。そういうの、子供の頃からだから凄く怖いわけじゃないんだけど」 その気配はあたしだ 「やなこと言うなよ。鳥肌が立った」 「見た目より怖がりよね。大丈夫。あたしが守ってやるから」 二人は同時に吹き出した。 大きく笑う。ビールを何缶か開け、楽しそうな話が途切れなく続いている 「そういえば俺も前、クルマのガラスに手形みたいのがたくさんあってさ、ヤバかったよ」 「子供のいたずらだって。それとも、前の女の呪いとか?このー!」 その手形はあたしだ 壁の隅から寝室を伺う。気配はない。腕組みをした おい、これでいいのか あたしはあいつに心の中でぶっきらぼうに言った 彼女がそんな女だったのは意外だった。普段は清楚な学生に見えたのだ。女は怖いなと思う あたしはどんな女だったのだろう 「俺はソファーで寝るよ」 ほんとか? 「もー、こっち来なさい。いい子いい子したげる」 寝室の前で彼女が手招きをしている 寝室は彼女のすぐ後ろだ。まだ何も起きない 相当酔っている。足元も危うい 「そう?俺、止まらなくなっちゃうかも」 彼はだらしなく笑う 彼も最初からそのつもりだったろう。迎えた女もそうだ あたしは時計を見た。一時半。腕を組み直す。どうする気だ、あいつは 彼女の家で初めての夜。2人の心は、どれほど踊ったことか。幸せの絶頂だろう それはこれから絶望になる
どこかのだれかさん 10
15, あたしはヒマだった。このマンション暮らしは不毛だ 彼女は休みだからといって、部屋でゴロゴロするタイプではなかった オシャレをして、いつも出かけている。料理はしないらしい。帰りが遅い日もあるが、外泊はしなかった そして、あいつの部屋で眠るのだ あいつとは滅多に話さないが、言ってたとおり、彼女を見てるだけで満足らしい。危害を加える様子はないかった。霊の恋路は邪魔しない方がいい 彼女はスマホでよくだれかと話していた。足にマニキュアを塗りながら、屈託なく笑う。イヤホンで話しているので、相手の声は聞こえない。それを理解できるあたしは、死んで間もないはずだ たまにノートパソコンを開いてなにやらやっていた。そっと後ろからモニターを覗くと バッ と振り向かれた 顔は青ざめている 寝室から、「けらけら」 と笑い声が聞こえた 結局、テレビもないし、パソコンも触れない。彼女が寝た後に見る手はあるが、コソコソしてまでパソコンを開くのは面倒だった たまに部屋の窓からチラチラ顔をだして心霊マンションごっこをしたが、バカらしくなってやめた 無人エレベーターごっこもすぐ飽きた。数人青ざめてたっけ あたしはヒマだった 何が「因果」だ。どうでもよくなってきた。カッコつけて恥ずかしい。だいたい全てあたしには関係ない この小さな部屋の結末なんて、どうでもいいだう。あたしはどこにでも逝ける ベランダから見る景色に飽きたら、ここを去ろうと思った。オシャレな暮らしは卒業だ その日もソファーでゴロゴロしていた。だいぶ遅い時間になっているはずだ ガチャ 首をぐるりと回転させて時計を見る。深夜0時過ぎ 彼女が帰って来た あたしにとって、これがこの部屋での最後の夜になる