公文

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公文

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やさしくなぐさめて

「どうして君が泣いてるの」  君が先に裏切ったのに。  裏切ったなんて言葉使うんだと、場に似合わない新たな発見をしている。何が悲しかったのかもうよくわからず、わからないまま、途方に暮れて泣いている。  月が満月になります、とテレビが話している。窓は開け放ってあり、夜風がつめたくぬるい。繋がれた手は、しかしもうあまりにも心許無く、二人でいるのにありえないほど寂しいことにぞっとした。月が満月になるなんて、変な言い方だと思って。 「なんで泣いてるのかわからないの」 「僕が悪いみたいだね」 「ちがう、」  ただその時はそうしたかったから、なんてばかげて子供じみた言い訳が次から次に落ちる。案外、自分って馬鹿なんだなと今頃になって気づく。記憶しただけで自分のものになったと思ってたんだ。  この人の目はしんと暗くて、わたしはわたしのことを悪いと思ってて、でもなんで泣いているのかわからない。泣く資格もないと思うのに、でもどうしてこんな状況になってるのか理解できなかった。ただ頭の隅で思うのは、わたしってバカだなあ、と。脈絡もなく。しかたなく。わたしは馬鹿だな。 「ふたりでいたいなんて嘘だったんだ」  嘘じゃない。「嘘じゃない。」ふたりに、はじめは、なれたらいいなと思った。でも、二人でいると苦しかった。どうしていいのか、「いつも、」いつもわからなくなった。でも、君のことは、好きと思ってる。「好きと、思ってる。」それとは別に、境界がいつもわからないと、思ってる。何をゆっていたっけ。言葉はいつも遅れてやってきて、正しく伝わる試しがない。 「馬鹿だね」 「そう。」  やわらかく、いつもみたいに笑ってくれたらよかった。そうされてもおそらく、また別のところで不満を持つのだろうけれど。  月明かりに照らされてるカップ麺が綺麗。醜いアヒルの子をさらに醜くしたドブネズミ、みたいな顔で笑ってる画鋲を目の端に捉えて、人差し指をなぞってみる。やっぱり好きになれなくて、それはずっと変わらず、愛しいことだった。

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やさしくなぐさめて

幻と右ほほ

それは、清潔な関係でした。 彼が失踪して、わたしの頭に家があらわれたのはほぼ同じころだった。 黒ぶちメガネの、せいの高い、へら と右ほほだけでかたよった笑いをする口もとには マリリン・モンローみたいなほくろがあった。それが、自然とわたしを安心させた。 ある金曜日。目をさまして なんとなしに新聞をとりにいき、今日の事件に目をおとしたあと 冷めたミルクに口をつけてふとベッドを見ると、もう彼の姿はなかった。 わたしはまず今日おきた事件名をもういちど丹念に読み返した。けれど彼の名はどこにもなく、あぁ というきもちになった。 「……」 トンカントン と彼が家の修理をしている。 いつしかあたりまえなようにわたしの頭のなかに住みついた彼は、ごく自然に持参したバスケットのなかから粗めのライ麦パンを取りだし、修理の工具をふとももに置いてから、大きな口をあけてほおばった。 彼はいつだってそんな風で、失踪してしまう前も、笑いはするけれど無口で、とくにわたしになにかを尋ねることもなく、あたらしいことをはじめてしまった。 「それ、おいしい? わたしは ライ麦ってあんまり好きじゃないけど」 それが憎かったわけではなく、むしろ 置いていかれたというきもちに近かった。 今みたいに、話しかけても返事がかえってくるのは ときどき、わたしの存在を思い出したときくらいで。 でも、決して仲が悪いわけじゃなかった。寝る前はかならず あのかたよったほほえみをこぼして、わたしの頭をゆっくり撫でてくれた。 彼がのこした手紙のようなメモを見つけたのと、彼(頭のなかに住む)がことばを発したのもほぼ同じだった。 ある日、仕事帰りにショートケーキを買ってとくに考えるわけでもなくフォークをまっすぐに差しこむと、カシャリと妙な音がした。 けれどわたしは すぐにそれが彼からの手紙であるとわかった。 いちごのソースと生クリームにはさまれたそれは、丁寧に鶴のかたちに折られていた。 ひらくと、瞬間、声がした。 正確には、頭のなかで誰かが話しかけていた。まぎれもなく、それは彼の声だった。 「え……」 手紙よりも、その声が一層、心からわたしを驚かせた。 彼はバラックのような屋根の上でおごそかに手をふとももの前で組んでいた。 しずかに目を瞑って、しとしとと降る雪だけがやけになまめかしかった。 「僕は人を殺してしまった」 一言。単純にたんたんと、語ったあとは永遠の無だった。 目をかたく瞑ったまま もう彼はなにも話さなかった。雪が黒色の頭にさらさらと 砂糖菓子のようにつもっていった。 わたしはしばし呆然とし、視線のやり場をもとめて にぎった手紙に目をおとした。 “その家から でてください” すぐさま手紙を握りしめ、まだビニールに包まれている今日の朝刊をつかんだ。 信じられないくらいのはやさで今日の事件を指と目で追った。そこにはちゃんと、彼の名前が印刷してあった。 “絞首殺人 目撃者(女性)が証言” とともに 整然とのっていた。その目撃者の、女性という文字だけが太字でくっきりと、浮き出ているみたいだった。 頭のなかの彼のことばが、がらがらと流れてゆく。でも、そんなわけはないという根拠のない確信で わたしはしずかに自分の首に両の手をあてていた。 だって あの人の手が、だれかの、くびを 締めたなんて。こうやって…… 人さし指、中指、薬ゆびが ひた ひた と首の肉にくいこんでゆく。 少しも苦しい気はしなかった。ぜんぶの指が首をおおっても、まだ彼がしたことの理解ができなかった。 すこし開いたカーテンから、くもった半月がのぞいて、とおくの方からオオツノジカの遠吠えがきこえた。 何度読み返してもその文章は変わることがなく、あまりに指で追いすぎて、その行だけインクがにじんできていた。 きっと、まちがいにちがいない。だって、あんなふうにやさしい微笑みをくれる彼が、単調に日々を生きる彼が、誰かの、わたし以外の首を締めるなんてこと 絶対にありえないから。 「あなたは、わたしに、なにもいってくれなかったわ」 いつもみたいに なにも いわなかったじゃない。いわなかったから、わたしが無理に聞こうとしなかったから、どこかへ行ってしまったの? バラックの屋根の上で、彼はすうすうと寝息をたてていた。 それから数ヶ月が経ち、あたりまえに彼は頭のなかの家で暮らしつづけている。 とくになにかをするのでもなく、あのケーキから手紙を見つけた日々が嘘だったように、一言も喋らず、たんたんと、ただ生きている。 わたしもあれからとくに変わったこともなく、朝起きたらまず新聞をとり、今日の事件に目を通し、冷えたミルクに口をつけ、彼がベッドにいないことを確認して仕事にいく。 「じゃ、いってくるね」 ほんとうの彼の、死刑宣告はもう出たらしい。結局、人を殺めた理由も、知ることができないまま。 左手で靴べらを立てかけ、つめたいノブを右手で回すといつもより金属みが増した音がした。 途端に入ってくる氷のくうきを とじたまぶたで受け、さて行くかとブーツをならせば 彼と目が合った。 あいかわらず、黒縁メガネで、せいが高くて、マリリン・モンローみたいなほくろがあった。なんで、と声がでた。 出るより先に、思いきり助走をつけるまもなく彼の胸にとびこんでいた。 なつかしい匂いがした。なにもかもが変わらなすぎて、視点がはげしく揺れた。まばたきをすれば、鼻の奥が熱くなった。息を吸うまもなく、わたしは泣いた。 「すまない。」 あたたかい 大きなぬくもりが、頭をゆっくりと撫でた。ひたすら、わたしは褒美をうける子犬のように、上質なブラッシングをうける老猫のように、目を細めた。 あの時、家を出てくれと頼んだだろうと、頭のすぐ横でささやく。 いいの。わたしは、ここで待っていたかったから。 視線が絡む。 ゆっくりとまぶたをあげればもう、頭のなかの家は、すでに消え去っていた。

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幻と右ほほ

冷凍さかな

さかなに口なし 彼が冷凍さかなになって5週間がたって、 わたしがホットミルクをわかすのに飽いてきたころ 彼のあたたかな瞼が思いおこされた。 「ね……まだもどらないの」 死人にくちなしとはいうが さかなだって似たようなものである。 水もないのにつるりとした頬におず とふれると、そっと たしかめるように首までつたう。 「今のあなたによりかかったって 昨日の晩ごはんしか思いだせない」 夢を見た。 わたしはその日暮らしの牛乳売りなどではな く、きらびやかなボディコンオフィスガールで あなたは 冷凍さかななんかにはなってなく 依然として凛々しく そして頼りになる せいのたかい男だった。 どうしようもないときにあれこれ理由を探して理不尽を受けいれようとしてしまうのはわたしの悪い癖で でもそんなわたしを、あなたは怒らなかった。 怒らなかったから、冷凍さかなになってしまったの? 目が覚める。彼は依然として凛々しいさかなのままである。喉がつまる。目がじわじわ熱くなる。 「こういうとき、あんたは人間のすがたにもどってるものなのよ」 さかなは清い目でわたしを見る。あまりにまっすぐすぎて、わたしたちをのこして周り一体がまっしろの無になってしまったようだった。 さかなの目だまはぎょろりと動く。 「キスをしたら」 戻りますよたぶん、と すとんと話す。 5週間ぶりの会話はあまりにも、いつもどおりのささやきだった。

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冷凍さかな

かがやき

腕 切り落としてしまったら本気でいいのかもしれないって思った そんなことしても心は動かせないって思うと気持ち悪すぎてうけた。腕を切り落としてもわたしは誰のものにもなりたくない。君もきっと一生誰のものにもならない 君が好きなのは自分だから。 ころげおちた猫を見た。やはり愛らしかった。その愛らしさが、憎かった。わたしはこんなに愛されてる人間なのに君には響かなかったの?どうして 一生離したくなかったのに 一生つかず離れずいたかったんだ なのに君といる勇気はなかった そんなのずるすぎた わたしだって気持ちはふらふらして、ましてや君のこともほんとはどう思ってるかまるでわからなかった まるでわからなかった 死んだらよかった きっとほんとそうだった わたしひとりで、ひとりきりでいるべきだった 流れるきれいな歌。象が水浴びをして、そのきらめきが人々を照らした。夏を君としてみたかったのかもしれない。わたしには夏なんてずっとこないのかもしれない、悪い人間だから。しにたい。早く申し訳なくなりたい。全てにあやまって、そうして寝たい。ずっと寝て起きたくない。なにもかも手に入らないなら全部ほしくない。やさしくないなら全部いらない。全部いらないよもう

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かがやき

レンガ

あるところにレンガをつみつづけるおじさんがいて、その近くにはきいろを愛する女の子がいました。 ここは砂漠の最果てであり、また夢の延長であり、そしてやわらかい桃やピーナツの香りがふうわりと漂うやさしい街でもありました。 誰もここを秩序がない街だとはおもわず、ただ日々における平凡を ゆっくりと楽しんでいました。 レンガをつみつづけるおじさんは言います。 「今日はレンガをふたつもつんだぞ。がんばったなぁ」 それをみていたきいろを愛する女の子は、あれぇと思いました。 かわいたスモーキーピンクのそのレンガは、たったふたつしかつみあげられていないのです。 いったいおじさんはなにをしていたのでしょうか。 「おじさーん」 「なんだい?きいろの女の子」 「どうしてレンガをふたつしかつまないの?」 女の子ははらっぱのくぼみにある大きな家からさけびます。 その声に、おじさんは「さぁ……どうしてだろうねぇ」とやわらかくたばこをふかしていました。 また別の日です。この日の外は大荒れの大嵐で、砂あらしはおきて、火ネズミは街中に穴をあけ、みずうみが大きなガラス玉になるなどたいへんでしたが、それでもおじさんはレンガをつんでいました。  女の子は、それを大きな家から、そっとのぞいていました。 おじさんのつんだスモーキーピンクのレンガは、雨にぬれてつやつやと赤くひかっていて、女の子は あぁ、レンガが風にとばされてしまったら どうしよう!と、真剣に頭をなやませていました。 次の日、女の子がはらはらしながらお山のくぼみを越えて、おじさんのところに行くと、 レンガは無事でした。からりと乾いて、いつも通りの安定した、あんしんな顔を浮かべていました。 女の子は心底ほっとして、レンガのかげに腰かけます。 「よかったねぇ」 でも、すぐに あれぇ?と思います。おじさんはどこに行ったのでしょうか。 あたりをきょろきょろと見まわしても、レンガからそろりとのぞいても、お山の方をふりかえっても、元から存在しなかったように、おじさんはありませんでした。 女の子はふしぎに思いながらも、しばらくそこにいようと思って、もってきた白パンとチーズをひとかけらたべました。 そうして てらてらと降りそそぐあたたかな日ざしのおかげでだんだん眠くなり、気がついたときにはきいろの夢のなかでした。 女の子は探偵のすがたで、これはおかしいと思います。だって 女の子はきいろが大好きで、ピンクのレンガなどを好きではないはずだったからです。まして、スモーキーピンクならなおさら。 そうしてまくらもとをはしるトカゲに訪ねようとしたところ、はたりと目がさめました。外はぼんやりと灰色がかり、もう帰らなくてはいけないころでした。 「かえらなくちゃ……」 でも、帰る場所はおもいだせません。 ずっとここにいたような気がするのです。 その瞬間、女の子はおじさんが消えてしまったわけがわかった気がして、少しこわくなりました。 レンガは、またふたつ増えていました。 まっしろな空間。ここはどこでしょう。 きもちわるく顔の分裂したピエロが、女の子を息もせず じっ と見つめていました。 女の子は手をのばし、掴もうとして、そして消えました。なにもかもかんたんに消えたりなくなってしまうこの街のことを、愛しいともこわいとも思いました。 「おじさん……」 声をぽとりと投げてもかえってこないのは、ピンクを好きにならなかったからでしょうか。 「でも、それってなんだか おかしいわ……」 なにかを得るためにじぶんをむりやり変えるのは、フェアじゃないと思ったからです。 立ちあがり、わたあめのことや昔買っていたあばら骨がくっきりと浮かんだ犬のことを思いだし、女の子はもとの場所に戻りました。 おじさんはいないまま、また、レンガはふえています。 それから女の子はちゃんと家にかえりました。でも、やはり次の日にはレンガのもとへ出かけてゆきました。 ここではなにもおこりません。誰もいません。風さえ、吹いていないような気がします。 でも、安心がありました。 女の子はピンクは好きではありません。でも、ここにいました。好きでも嫌いでも、ここには毎日ちゃんとあたらしいものが増えてゆくからです。 おじさんは見えなくても、レンガは規則的に正しく、毎日律儀にふえてゆくからです。 女の子は孤独は好きではありませんでしたが、人の気配を感じる孤独は好きでした。 雨の日、ゆきの日、あかるい日、暗い日、女の子はどんな日でもレンガのもとに通い、そうしてそこでトランプをしたり、ひなたぼっこをしたり、おひるねをしたりしました。 ある日のことです。 街に大きな波がきて、原っぱをのみこみ、レンガをものみこみました。 レンガはもう、スモーキーピンクではありません。お日さまの光をすいこんだきいろでした。 女の子はいなくなりました。

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レンガ

「じゃあどうすればよかったんだろうね」

思い出が遠ざかるたび 連続していた波の音が 鼓膜を震わせる 雪の結晶として それは夢の中にいた幻燈だったし 夏の火に灼けた虫たちの さざめきのように 終わらない唄は後悔をまぶして 遠くにいきたかったって言う 犬の瞼が、ありがとうをいうたび誇張されてゆく。大きく収縮したそれは自尊心と共に肥大していって、まもなく見えなくなる。 歌とひなげしの関連性について、5歳がまくしたてる演劇場の数々。それらは連続していて、雲の切れ目ひとつさえ、わたしを踊らせたと思う。 いつも雪の中にいる。それを、かけがえのないことと思ってる。バスに揺られ、毎日を計算しながら、ある日一枚の紙を拾う。それがなんだったとしても、いつも、「しねばいいのに」と書いてある。なんでしが漢字でないのか、思ってそれで目が覚める。 明け方の月が一番綺麗だって先生はいってた。記憶の先生は、いつも嘘か本当かわからないことをいう。ひなげしがちりぢりになる。わたしはどこへ帰ればいいのかわからなくなる。夢の中にいたかった、という伝言は、ルージュみたいに電車に轢かれて消えるんだよね。じゃあどうすればよかったんだろう。いつもこういうことを考えてる。

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「じゃあどうすればよかったんだろうね」

秒速のマフラー

となりの少女がいっていた 日常が非日常にかわるのは、まばたきよりもずっと早いと。 その日は当たり前のようにはれていて、わたしと彼女は遊園地にいた。彼女の青いマフラーは、目にあかるかった。 彼女は赤が好きだった。とくべつそれが好きというわけではないけれど、書くことがないから間に合わせでプロフィールの好きな物欄に書くというような度合いではなかった。 彼女は赤に支配されていた。 彼女が赤を好きというより、赤が彼女を選んでいた。てらてらとひかるチェリーパイ、クレヨンのふうせん、いちごジャムに、ひざこぞうに滲んだ血さえ、赤ならば形をとわず愛していた。 そうして今日になって、わたしは彼女にといかける。 どうして、青のマフラーにしたの? さらりと目線が交差して、流れた。 「用心のためよ」 たんたんとして、それが世界の常識みたいに。 なにが用心なのかはわからないけど、たしかに彼女はいっさいの赤をまとってはいない。 けれど次のまばたきをする前に、わかった。 たぶん鼓膜はやぶれた。 彼女は思いきり絶叫したあと、あたり一面に朝食を、さっきたべたばかりのポップコーンをぶちまけた。 音はまったくきこえない。ただ泣き叫ぶ彼女のおそろしい顔だけ からりとはれた青のマフラーだけを聴いていた。 「ねぇ」 かたちだけの声を発し、彼女からいっぽ、そして二歩しりぞいた。 彼女は赤におびえている。 あんなに好きだった、愛していた、支配されていた赤に心から恐怖し、泣き叫び、怒り狂っている。 そうして青は粛々と、ひかりを纏っていた。 わたしは あぁと思う。 日常が非日常にかわるのは、まばたきよりもずっと早い。 青のマフラーはなにごともなかったかのように、彼女のゲロを包んだ。

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秒速のマフラー

ゆるしてと燦々

さざめく夜路の端で生きた、ひつじがひとつ鳴く。うれしいような淋しいような、音を立てぬ夜。空気はぴんと張り、けれどなんら居心地の悪さはなく、それぞれがそれぞれを生きるせいせいとした孤立した夜。 個々が自由に想うことで空は蒼く澄む。近かった空は望郷に広がる。目に見えないものたちがはらはらと散り、そしてわたしの住処になる。 一昨日、犬が消えた。嫌いではなかったけれど、座る時に後脚がカエルのように引き曲がるのが好きになれなかった、犬。 犬はわたしを見ると、はにかんで笑った。こちらが恥ずかしくなるほど、真摯な瞳をたたえて。 犬は笑う。もしもわたしが、あのカエルの脚を好きになれていたら、結果は変わっていたかしら。愛せないものでも自分のものとして受け入れていたら、どこまでも行けていたかしら。強い風が吹く。 眼を覚さないでといったのは君だった。そのままでいいといったのもきみだった。たくさんの君が代を越す。遠く白く霞んだ山脈。それをなお超えて、わたしから遠ざかる、過去の犬たち。それがそこなうことだとは、思えなかった。 現に名前をつけるから死ぬのだと、昔はわかれていた気がする。名前なんかつけなくても、わたしはわたしでいられたはずだった。それならどうして、公式のような名前しか覚えていない。形は忘れ、都合の良い「上手にお手をできた」犬たちが、キスをしては浮かんで消える。 あとかたの街。すべて跡形の街。もう赦されない人たちが自然にゆきつく、幽玄の墓場。 犬はほほえむ。わたしがなにもできなくても、ほほえんで施す。それが、愛せなかった。全て愛ですと言い訳をして、言いながら、後ずさっていた。直ぐ後ろはいつだって断崖であったのに。もうあと一歩引けていたら、きれいに身体を清算できていたさながら愚者のヴェールのように。 それでも犬はすり抜ける。撫でようとして、頭は半透明な空をきる。彼はわかっていた。わたしが何も愛でたくないこと。愛すことを淘汰して、けれど形のみの後生として、自らを撫でようとしている浅ましい心を。 「僕のことを、見ていましたか。」 一匹の犬として。あなたは僕を受け入れていましたか。わたしは、ことばを発せられないまま、絶句。そして、いや、いいえ、いや、ええと、というような、愚鈍で惨めな嗚咽を溢しては、時が過ぎるのを待ちました。 まだ相手を傷つけてまで、自分に正直であることを捨てられませんでした。これは懺悔です。ほんとうの一匹の生きものを、わたしはほんとうの生きものとしては見ていなかった。ならば何として、何としてわたしは ああ 「これほど明るくなにも持ちえない孤独があるだろうか」 犬はわらい、後脚で砂をかければ後には闇がしずかに揺れているだけ。

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ゆるしてと燦々

231108

ふと目を横にむけてはっとした あまりに、綺麗で思わずえっ、と声が出た シャッターの切れる音と同時に、鳥の羽のもげる音がして、雲のふちはごうごうと命燈を輝かせていた カラスたちはしきりにないている 仲間を呼ぶように それは刹那のことであって、そして、花がこの世で1番美しいという都市伝説を打ち壊すものであった 朽ちる嗄れた花より、その姿は幾分もうつくしかった、情愛にみちたピンクの縁が、灰色と共存している 命燈はその輝きを失ってしまっていたが、その魂は消えずそこにいた、なぜか、神様をおもった ガシャコン、という自転車の音と、風に撫できられた髪の感触で、ようやく今の温度を受け入れられた さよなら、お前はまたくるよ

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ひつじのうた

弟がひつじになってからいく日もたっていなかった。 数日前、協会で朝もやとともに枯葉を掃いていた弟は、玄関口でひつじになった。ビー玉のような瞳が、きらきらとゆれていた。 「わたしは」 そのとき、きっとすぐに抱きしめてあげたと思う。どんなおそろしいものが弟をひつじにしてしまっても、それは弟の内部に宿るかわいそうな心からくるものだとしっていたから。 「だけど...」 ひつじはふえた。 あたりまえです、というような顔をして 毎日一匹ずつ丁寧にふえ、そして、古いものから減っていった。 どこからかやってきたというより、発生したという方が正しいような気がした。 弟は、依然澄んだ瞳のままだった。 弟は、よく歌をうたった。協会のうらで、海辺の小屋で、晴れた日の草原で。 わたしはそれを、心のおくで聴いていた。とうめいな孤独が奏でるメロディーは、どうしてもここちがよかった。それを、罪だとは思わなかった。 汽笛が鳴る。 遠くの方でウミヘビが水に落下する音も、とちの木のつんざくような金切り声も、ちゃんと聴こえていた。 十時。空はすでに暗く、ひつじの数はかわっていなかった。 なにがふえて、なにが減ったのか、考えるのはこわかった。 ゆっくりと 窓枠のしみをかぞえる。 目をあけたまま、息を五秒かけて吸う。大丈夫、まだ、わかる。目を閉じた。 まだわたしは、弟がわかるはずだと、ひしゃげた心臓のうらでささやいた。 暗闇のなかで、ひつじの一匹にふれた。 ひつじはなにもいわずにわたしを見たきがした。 まるで鳴くことをしらないかのような 顔をしていた。 目をひらくとひつじがたくさんいた。 みなみな等しく 無の顔をしていた。白を塗りつけたような平等さは、わたしをひどく凍えさせた。 弟は。 首が折れてしまいそうなほど、ぐるりとあたりをみまわした。みまわして、そうして、それで、わからなかった。 わたしはわたしの弟が、わからなくなっていた。 絶叫した。 身のひきちぎれるような思いとは、まさにこのことだと直感した。おとうとは、今まさにこの瞬間も、わたしのことを見ているのに。 澄んだ瞳で、聴いているのに。 ふれた。なにかにふれて、それがおとうとじゃなくても、安心できる気がした。ひつじの顔はやさしく見えた。でも一秒後には、八百屋のおじさんになった。手ざわりはひどく乾燥していて、無性髭と赤黒く変色したニキビが、わたしの目を蝕んだ。 次々にそれはかわった。もうおじさんではなく、またひつじに戻る。そうかと思えば、次はずんぐりと太った高校の女教師にかわった。そのあとは、死んだ祖母の顔だった。 どれも全部、知った顔だった。なのにどうしても、わたしは弟をわかることができない。 ひつじは生まれては死ぬから。 なにかがうまれたら、なにかは忘れられるから。 なみだがでた。 夜はまるでいないかのようにしんとしていて、声を出すことすら はばまれた。 弟のうたは、もうきこえなかった。

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ひつじのうた