ペガサス
7 件の小説ペガサス
はじめまして! 将来ショートショート作家を目指して活動しています! ぜひ読んでいただきたいですし、皆様に面白い作品を届けたいので、至らぬところがあればいろいろ教えてください
ひまつぶし
ひまだ。社会人二年目にもなると、慌ただしかった日々にも慣れが出てきてしまい、早くも自分の人生に消化試合感が出てきてしまっていた。 それでも、こんな自堕落な毎日を変えようと、自分なりに色々なことをやってみたが、これといって続いた試しが一つもない。 仕事終わりのジムに通おうとすれば、残業と飲み会に阻まれ、休日の習い事や新しい趣味も、金銭面の問題と平日の疲れで結局はお試しで終わっていく始末。 ああ、遊ぶことで忙しすぎたあの頃は、楽しくて時間を忘れてたあの頃はどこへいったのか。 子供の頃は、クリアしてるゲ―ムを何度もリセットして遊んだり、雨が降っているにも関わらず、ずぶ濡れで鬼ごっこをして母親に叱られたり、もう全て見つかっているのに何度もミッケを繰り返し読んでいたっけな。 まるで走馬灯のように思い出してくる過去の記憶が、本当に自分の実体験かすら、自信がなくなってくる。 そんな呆けた生活を送っている俺は今、とある現代病に悩まされている。 この現代病は最初の頃は、同年代や三十代の中堅層を中心に始まった。だが、それももう何年も前の話だ。 最近のニュースでは、高齢者や子どもにまで流行っているとも言っていた。診断されていない隠れも含めたら、かなりの人口がいると言われている、とある現代病。 それは……と、また出てきた。 俺の右手の甲から、豆粒サイズの、小さな突起物が出てきた。 脳が今、『ひま』だと判断すると、体からそれを知らせるかのごとく、この不可思議で小さな突起物が出てくる。 社会問題にもなっている、原因不明のこの病気。今まで様々な名称で呼ばれてたが、今はこの病気を『ひま症』と言い、これを潰すことを『ひまつぶし』と言われている。 ひまを潰すことで一瞬だけ快楽を得るが、潰し方を間違えるとあとがついたり、じんわりと痛みが残る。 かといって、潰さなければ体中にそれができてしまい、いずくなったり痒みで気になってしまってしょうがない。ひどい場合、人は眠れなくなったり、症状が悪化して入院する人も続出したほどだ。 ひまな時間を過ごせば過ごすほど増えていくらしいが、逆にその時間がないくらい、充実した時間を過ごしていれば、心身ともにさっぱりするとも聞く。 専門家はストレスをかけない生活、精神衛生の向上を心がけてくださいと発信を続けている。いや、それしか言うことがないのかもしれない。 ただ、それが簡単かと言われるとそういうわけではない。できたらとっくにやっているし、こんな病気はそもそも存在すらしなかったであろう。 男は自分の体から出てきたひまをあらかた潰したあと、たいして興味もないテレビを流しながら、その片手間でスマホをいじり、知りたくもない情報を流し見をしながら、ただただぼ―っとしていた。 男が気がつくと、もう夕方になっていた。 ああ、貴重な休みがまた終わっちまった。男はソファの背もたれにうなだれるようにもたれ、ホコリで薄汚れた、白い天井を見上げた 明日から、また仕事か……やだなぁ、行きたくないなぁ。 男がそう思っていたら、また右手ムズムズし始めた。どうやらまたひまが出てきたらしい。 男は出てきたひまを潰し、はぁとため息を吐いた。これからずっと、これが続くのか。想像しただけで、生気が誰かに吸いこまれるようになくなっていった。 男は喉元付近にある、取り出せないえぐ味を絞り出すように、長く深いため息を吐いた。 自分のこれから先の人生をひまつぶしだけの人生にならないために、ちゃんと声にしてこう言わなければならない。 お暇をいただきます。
月下美人
あなたに恋をしました。私にとってあなたは、どこかの絵描きが気まぐれに描いた絵日記のように儚く美しかったのを、今でも鮮明に覚えています。あなたを思った時の昇天するかのような幸福感は、私の世界をぐるりと一変させました。 風にそよぐ道の草花は踊るように、空で囀る小鳥が唄うように、通りすがる周りの人たちは皆んな私の引き立て役のようで、まるで自分が世の中の全ての中心にいる気分でした。 あなたのためなら、私は本当に何でも出来る気がしていた。私の全てを明け渡し、尽くして、捧げられた。 そう、あなたのためなら……。 桜の花が咲き始めた、春咲の頃。 あなたと初めてお会いした時の私は、実は当初から特別に思いを寄せていた訳ではありませんでした。それはあなたも同じだったと思います。 お互いに意識をすることも、気にかけることもなく、目を合わせることもなく、何かが始まるわけでもない。ただただ時だけが過ぎていきました。 蝉の求愛が盛んになっていた、夏のある日。 ふとあなたに、いつもと違う感覚を覚えました。 普段なら、特に気にすることもなかった。何気なく過ごす日々の中、何か思うところがある日なんて、誰でもある。 ただ、あなたのそれは、どこか違って見えた。 誰にも打ち明けられない悩みをその小さな体に閉じ込め、それが体を纏うように漏れ出しているように見えた。ただの勘違いなら、私の思い過ごしならそれで良かった。ただただ見過ごして、それで終わり。また、何もない日常が始まるだけ。それで良かった。 でももし、頭をよぎった一抹の不安が現実だったら……私はそう思ってしまった。 それからというもの、私は今まで気にすることもなかったあなたを、常に視界に入れるようにした。『好意』というよりかは『観察』と言ったほうが適当ですね。 でも、それから私は知っていったのだと思います。 あなたが、誰にでも温かく丁寧に接する姿を。 あなたが、オーラのような母性に包まれていることを。 あなたの目は微笑むようにどこか優しく、澄んだ声をされていることを。今まで知らなかったあなたという人を、私はひとりでに知っていった。 初めは何も興味のなかったことでも、マイナスと思ったことでも、時間が経つに連れてそれもあなたの個性と捉えられた。ただあなたを見ていただけのはずの私の心は、まるで引力によって引きずり出されたかのように、もうあなただけのものになっていた。 もっと私を見て欲しい。もっと話しかけて欲しい。もっと色々聞いて欲しい。あなたと少しでも同じ時間を過ごしたい。 あなたの事を考える度に、私の脳は薬にでも侵されたかと思うほど思考が停止し、心臓が破裂するほど早くなっていました。 ああ、あなたをもっと知りたい、近づきたい、触りたい、抱きしめたい。 四六時中あなたのことだけを考えて、夢の中ですらもあなたと時間を共にしていた。もう私には、迷いは無くなっていた。 私が渡せるものなら、全てを渡します。もっとこっちを向いてください。私を、どうか私を見てください。私は、あなたのことが…………。 色素を失った数多の葉が、空と向き合う蝉達の乾いた目を隠すように舞い落ちる秋の宵。 あなたにはすでに、大切な人がいた。 目の前の光が失せ、音がなくなり、指の先から灰になって崩れていくかのように体の感覚が無くなっていった。 あなたと私が出会ったのは、お互いが歩いてきた選択の連続の中で偶然道が重なっただけだった。 この人となら、一緒に歩いていけると思っていたのは、私だけ。側にいると思っていたのは、私だけ。始まっていると思っていたものは、何一つとして、始まっていなかった。 私の胸から取り出された形のないそれは、受け取り先が見つからず、私の手の上で割れた砂時計の砂ように零れ落ちた。 失ったものが自分にとって、どれだけのものだったのか。抉られたような空白の痛みを知ったときに、初めてそれが分かった。 私はただ、好きな人の好きな人になりたかっただけだった。あなたの隣で座って、喋って、一緒に笑っている。あなたとつないだ手を私が離したくないと握り、あなたが握り返してくれる。そんな焦がれた妄想を、今はもうどこにもいないあなたを思い、幾度もしていました。 ああ、あなたは今、どこで何をしていますか? 笑っていますか? 泣いていますか? 見えない私には分かりませんね。でも『今が幸せ』そう思える日々を送られているのであれば、それだけでいいんです……。 星屑が砕けたような美しい雪が舞う、夜半の冬。 周りの皆はお互いを暖め合うように密着し、まるで小遣いをもらった子供のように幸せそうな顔をしている。いいことでもあったのか。何がそんなに楽しいのか。あそこと、あそこと、あそこにもと……そんなくだらないことを数える自分が、どんどん嫌になってくる。 あれ以来、まるで私は迷える羊のように虚空へすがり、救ってほしいと祈りを捧げる毎日。 でも皆は私の空いている隣を見ても、見ぬ振りして歩き去っていく。どうやら私は、救いの主からも振り向いてもらえないようだ。 ああ、嘘でもいいから、一度だけでもいいから私を見てほしい。ああ、愛してほしい。今だけを。
お茶漬けでもどうですか?
ここは京都の祇園。この街の一角に、地元の人には愛され観光客にも人気の、とある老舗の料亭があった。 その店の女将はこの道三十年の仕事一筋の人であり、今まで幾人ものお客様を相手にしてきた大ベテランだ。 店にやって来る地元の人たちは、皆口を揃えて「女将はいるかい?」と尋ねるほど有名な人だった。 そんな名物女将には、とっておきのとある言葉があった。 それは、お茶漬けでもどうですか? だ。 この言葉は『そろそろお帰りください』という意味を、まったく別の言葉で表して伝えるという、相手を思いやる京都ならではの独特の言葉だ。 意味を知っている人であれば『いや、お構いなく。失礼させていただきますよ』と返して退店する。 だがこの女将の凄いところは、意味を知らない人であってもお客様になんの不満も感じさせず、退店させるところにあった。 世の中の酸いも甘いも知った女将が放つ、包み込まれるような独特な雰囲気。そして聞く人を不思議と心地よい気分にさせる、絶妙な声音があるからこそなせるものだ。 まるで唱えれば最後、相手を思い通りに従わせることが出来る、魔法の言葉のようだった。 今日も今日とて、料亭は大盛況。大勢の人達が来店し、飲んだり食べたり騒いだりと大賑わいだった。 ぼちぼち閉店も近くなってきた、夜の十時を過ぎた頃。 残りのお客様は奥の部屋で一人で食事をしていた、見るからにお酒が好きそうな恰幅のいい男性のみ。 女将は最後に御礼の挨拶をするため、その男性のいる部屋へ向かっていた。 向かう最中、チラリと廊下の時計が見えた女将は、はぁとため息を吐いた。 ここ最近残業ばかり続いていたから、今日くらい早く帰りたかったのに、まだ仕事があるのかとうんざりしたのだ。 この後の仕事はあれとこれとと数えた女将はだんだん億劫になり、思わずまた、はぁとため息を吐いた。 おっといけない。こんな顔でお客様の前に出てはだめよと、女将は自分の頬を軽く叩いた。 お客様には色々と注文してもらったんだし、お店は繁盛したんだと、複雑な気持ちを切り替えた。 女将は男性の部屋の前に到着し、引き手に手を伸ばし、すっと襖を開けた。 中にいた男性は、お酒で熱くなった体に、お冷を流し込んでいたところだった。 女将は手慣れた作法で膝を突き、深々と頭を下げてこう言った。 「旦那様。本日は当店へお越しくださり、誠にありがとうございます」 男性は苦しそうに膨れた腹を撫でながら、満足そうな顔で女将に言った。 「いやいや、とんでもない。こちらこそ楽しかったし美味しかったよ。ありがとう」 女将はそれに対し、再度お礼を言った。 「ありがたいお言葉、大変嬉しゅうございます。また是非に、当店をご贔屓くださいませ」 男性は言われ慣れない褒め言葉に、酔った体がさらに気持ちよくなった。 男性は辿々しい褒め言葉で、お店や接客の感想を述べた。 女将はそれを一言一言飲み込むように、ありがたく受け止めた。 男性があらかた話し終わると、女将はあえて、少しの沈黙の時間を過ごした。 少し経って空気が変わったのを察した女将は、男性に聞こえるかどうか分からない位の、小さな咳払いをした。 そして女将はゆっくりと顔を動かし、仏のような微笑みで、男性をじっと見つめた。 目を合わせた男性は、まるで漆塗りされたような女将の瞳に、引き込まれるように見つめ返した。 それを見計らった女将は、ゆっくりと口を開き、魔法の呪文を唱えた。 「旦那様。そろそろ、お茶漬けでもどうですか?」 男性はその言葉を聞いた瞬間、ビクンと体が動いた。そして何かを感じ取ったかのように、はっとした顔をした。 それを見た女将も、心の中でよしと思い、若干頬を緩めた。 先ほどよりも冴えた顔付きになった男性が、女将を見つめたままこう言った。 「おお、酔い覚ましにいいな。いっぱいもらおうか」 女将の右肩が、一瞬だけガクッと落ちた。 『あれ? おかしいな』 すぐに姿勢を戻した女将は、咳払いをして平静を装った。そして、同時にこう思った。 『もしかして、地元か隣県のご出身の方でしたかね。それならば、こうしましょうか』 女将は先ほどと変わらない仏の笑みのまま、男性を見つめ、こう言った。 「でしたら、お客様。ぶぶ漬けでも、いかがでしょうか?」 ぶぶ漬けとは京都の方言で、お茶漬けを指す言葉である。 女将は地元弁で尋ねれば、意味は伝わるだろうと思ったのだ。 女将の提案を聞いた男性は目を丸くし、唸り声を上げて共感しながら、頭を数回縦に振った。 よし、今度こそ。と、女将も心の中でガッツポーズをした。 男性はまるで、こいつはやられたと言わんばかりに頭に手をやり、苦笑いしながらこう言った。 「そいつは美味しそうだなぁ。何かの漬物かい? やっぱり京都はいいよなぁ、そういうのが多くて。でもなぁ、いっぱいごちそうになって、お腹いっぱいになっちゃったからさ。今日はやめとくよ」 女将は一瞬、後ろから腰を抜かれたのかと思うくらい、無意識に斜め前に崩れかけた。 『なんでやねん!』 女将が心の中で、半ギレのツッコミを入れた。 伝わらないイライラと男性の察しの悪さに、女将は腹の中がグツグツと鍋を煮るように熱くなってきた。 『なんなんだ、このお客は。さっさと帰れよ。笑顔でいるのもだんだん疲れてくるんだよ』 心の中で言いつつも、さすがに目の前のお客様に言うわけにもいかないので、なんとか言葉を変えて気づかせようと考えた。 そしてとあることを閃いた女将は、男性にこう尋ねてみた。 「旦那様。本日の懐石に出ました、どぼ漬けやすもじ、おつくりはいかがでしたでしょうか?」 どぼ漬け、お作り、すもじはそれぞれ、ぬか漬け、お刺身、お寿司の京都弁である。 女将は、本日懐石に出てきた一品一品を男性に思い出させることによって、酒で鈍った胃袋の感覚を呼び覚まそうとしたのだ。 「お出ししたどぼ漬けは、当店自慢の一品なんです。 お作りやすもじのネタも毎朝仕入れていますので、新鮮な食材を使っておりますのよ。お味はいかがでしたでしょうか?」 女将は、さあどうだと言わんばかりに、男性に問いかけた。 聞かれた男性は、長い間忘れていたものをやっと思い出した時のように、すっきりした顔になって、両手をパチンと合わせた。 見ていた女将も 『よし、これは流石に決まった』 と、勝利を確信した。 男性は、評論家のような佇まいで口元に指を近づけ、軽く首を捻りながらこう言った。 「いやぁ、どれも美味しかったよぉ。特に刺身が美味かったねぇ。いいとこはやっぱり、出すものはが違うね。ぜひ近いうちに、また来させてもらうよ」 女将の頭の中で、ブチッと何かが弾ける音がした。 とうとう我慢の限界を迎えた女将は即座に立ち上がり、般若のような形相で男性を怒鳴った。 「もうなんやねん、あんた。こちとら毎日残業続きで疲れてんやぞ、いい加減気づけや!」 女将に突然捲し立てられた男性は、その勢いに呆気を取られてしまった。 何が起こったのか分からず、混乱している男性の頭の中で、一つのとある仮説が浮かんだ。女将が伝えたかった何かに、初めて勘づいたのだ。 『そうか。この人はずっと、私に気づいてもらうのを待っていたんだ。今日一日ずっと仕事をしていて、ご飯を食べる暇がなかったんだ。だからお腹が空いて、こんなにイライラしているんだな』 そう思った男性が、憤慨してる女将に尋ねた。 「女将さん。お茶漬けでもどうですか?」
今日子
その少女はとても可愛いらしかった。まるで宝石のような丸く淡い翡翠色の瞳。きれい整えられたおさげ髪。明るく笑顔が可愛くいつも元気いっぱい。その子を見たらみんなが思わず、お嬢ちゃん可愛いねと声に出してしまう幼く可愛い女の子。 その子の名前は、今日子。 今日子が、不意にこう聞いた。 「ねぇ、あなたのお名前は? って聞いて」 隣にいた男は、聞かれた通り尋ねた。 「あなたのお名前は?」 今日子は元気いっぱいに答えた。 「今日子」 今日子が、不意にこう聞いた。 「ねぇ、あなたいくつですか? って聞いて」 隣にいた男は、聞かれた通りに尋ねた。 「今日子ちゃん。あなたはいくつですか?」 今日子は、丸い瞳見えなくなるくらい目をつぶり、笑顔でこう答えた。 「七歳」 今日子が、不意にこう聞いた。 「ねぇ……好きな色は、なんですか? って聞いて」 隣にいた男は、聞かれた通りに尋ねた。 「今日子ちゃん。あなたの好きな色は何ですか?」 今日子は、小さな手をはーいとゆっくりと挙げて元気に答えた。 「可愛い、、ピンク」 今日子が、不意にこう聞いた。 「ねぇ…………好きな、食べ物は、何ですか? って……聞いて」 隣にいた男は、聞かれた通りに尋ねた。 「今日子ちゃん。あなたの好きな食べ物は何ですか?」 今日子は、まるで聞かれる前から答えが決まっていたかのように、尋ねられてからすぐに答えた。 「ママが作る、、ジジ、、カレーライス」 今日子が、不意にこう聞いた。 「ねぇ、、、、将来……何になりたい、ですか? って聞いて」 隣にいた男は、聞かれた通りに尋ねた。 「今日子ちゃん。あなたは将来何になりたいですか?」 今日子は、照れる様子もなく、黒塗りされた丸い瞳が見えなくなるくらい目をつぶり、動かない小さな口から雑音混じりの音声で答えた。 「んとねー、ジジ、、んとねー、パパの、、ジジ、、ジジ、、お嫁、さん」 今日子が、不意にこう聞いた 「ねえ、、ジジ、、なたは……ジジ……の………ジーーーーー。ガチャ。…………ブーーーン…」 今日子はまるで魂を引き抜かれ、肉体だけの抜け殻になったかのように、ピタリとも動かなくなった。 すると、隣にずっといた男がまるで二足歩行を忘れてしまった猿のように、ゆっくりと立ち上がった。 何年も前に作られた乾ききった鳥の巣のような頭をボサボサと掻きむしり、顎の骨格がわからなくなる程伸びた髭と、何週間も無人島に一人取り残されていたかのようなボロボロな肌着を纏い、這うように何かを取りに行った。 男は右手に目的の何かを握りしめ、おもむろに立ち上がり、四つん這いになりよろけながら今日子に近づいた。 男の膝の下くらいの大きさの今日子を、枝のように枯れた腕で抱きかかえ、首の後ろから手を入れて服のボタンをぱちりと外し、背中を弄った。 今日子の着ている花がらの服の下にあった、色が剥げ落ちてまるでデキモノのようにへこんでしまったボタンを押した。 すると、今日子の腰が1ミリほど浮いた。男は凶器のように伸びた鋭い爪を隙間に刺し込み、今日子の腰を取り外した。中に入っていた、まるで何日も放置された血液のように赤黒く錆びた電池を取り除き、右手に握られていたセピア色の電池を、乾いた血液がこびりついた錆だらけの今日子の腰の中へ押し込んだ。 まるで異物を拒むかのようにギシギシと擦れ合いながら電池をはめ込み、男は今日子の腰に蓋をした。 男は今日子の衣服を元に戻して起立させ、ヘソのようにくぼんだ胸のボタンを押した。 すると、息を吹き返したようにぴくんと動いた今日子は、何事もなかったかのように、言葉を覚えたての幼児が大人に何度も尋ねるように、今日子は不意にこう聞いた。 「ねぇ、あなたのお名前は? て聞いて」 男は髭で隠された唇を動かし、今日子……今日子、ごめんなと嗚咽混じったしゃがれた声で、聞かれた通り尋ねた。 「あなたのお名前は?」 輝きを失った瞳で男を見つめ、決して動くことのない唇から、まるで生きている少女がはしゃぐように、元気いっぱいに答えた。 「今日子」
親父の背中
残暑と思えないほどの、暑すぎる午後の昼下がり。 吹き出る額の汗を拭いながら、僕は無駄に広い駐車場を一人歩いていた。 ここに来るのも、去年の夏以来か。あっという間だな。 大人になると、時間の流れが早く感じすぎて残酷だなとたまに思う。 まだ老いるには早いだろうと、運動不足の体を叱咤してぱっぱと歩き入口へ向かった。 受付を済ませた僕は、管理人に案内された桶や柄杓を借り受け、そのまま奥へと入った。 その中は神社とも寺院とも違う、独特な禍々しい雰囲気が漂っていた。どこからか感じる不気味な視線と冷涼感が僕を迎えているようで、拒んでもいるように感じた。 気にしたらだめなやつと思い、僕はすたすたと歩いて目的の場所を探した。 少し歩いた僅か数十秒で、目的のものは見つかった。 一目で見て分かるように変わった形のものにしよう、という母さんのアイデアは正解だったなと、今にして思う。 一旦しゃがみ、手に持っていた柄杓や花束を敷石の砂利の上に置いた。 そして今一度確かめるため、見上げるようにそれを見た。 【神木家之墓】 一段目に黒色、二段目に灰色のクオ―ツ模様をした、腰くらいの高さの直方体の石器。その上に置かれている漆黒の立方体の墓石の正面に、そう掘られていた。 ここには僕が二十二歳の時に病死した父親、神木龍彦が眠っている。 僕の家は、会社員の父親と専業主婦の母親、五歳離れた一人の兄と僕の四人家族で暮らしていた。 親父は仕事人間で、朝から晩まで仕事をしていた。 家に帰ってきても、晩ごはんを食べた後はすぐに自室に籠もり、基本朝まで出てこない。 家族内でも無口であまり笑う人じゃなく、ぶっきらぼうで遊んでくれたことも、褒めてもらった数も少ない。 正直子供の頃の自分にとっては、あまり尊敬できる父親ではなかった。 柄杓に水をすくい、墓石の頭から水をかけた。 人が気持ちのいい風呂に浸かると声が出るように、日差しで熱くなった墓石もじゅわりと唸った。 思っていたよりも、墓石は綺麗だった。 母さんが毎月のように来ては、手入れをしてくれているおかげだろう。 自分で言うのもなんだが、あの親父と比べたらよく出来た奥さんだとつくづく思う。滅多なことで怒鳴ることもなければ、散財するわけでもない。親父の悪口を言うわけでもなく、かつ立てすぎることもしなかった。 親父とは全然話せなかったが、その分自然と僕ら兄弟の話し相手は母さんがしてくれたから、おかげで寂しい思いはしなかった。 母さんがちょうどいい塩梅で支えていたからこそ、今の家族の形が成り立っているんだと思う。 僕は持ってきたビニ―ル袋からスポンジを取り出し、濡れた墓石を擦るように洗った。 しばらく手を動かしていると、この動きに妙な懐かしさを覚えた。 なんだろうなと考えていたら、まるで目の前で今見ているかのように、その光景が脳裏に広がってきた。 風呂イスに座った親父の背中を、めいっぱい手を伸ばして洗っている、幼い頃の自分の姿だった。 そういうば親父は風呂が好きな人だったから、休みの日に銭湯や温泉へよく出かけていた。まだ小学一年生くらいだった僕は、遊びに行く感覚でそれに付いて行っては、数少ない親父との外出にはしゃいでいたっけな。 今思えば、あの頃が一番親父と接していた時間かもしれない。 当時を思い出し、あの時と変わらずに大人になるまで接することができていれば、もしかしたら変えられていた未来があったのかもしれないと、自責の念に苛まれた。 親父は、急性の脳卒中でこの世を去った。 仕事も退職したばかりで、第二の人生がまさにこれからという時だった。 家の中で突然ばたりと倒れ、駆けつけた救急車で大学病院へ運ばれ集中治療を受け続けたが、入院中の二週間ずっと目を覚ますことなく、そのまま息を引き取った。 眠っている親父を呆然と見ていた、あの二週間。 早送りされているようなあっという間の毎日だったけど、親父の残された寿命が砂時計から刻々と落ちていくのような気持ちの悪い感覚を、今でも鮮明に覚えている。 程なくして行われた葬式には、僕が見たことない人たちが何十人も来て、親父の遺影に手を合わせてくれた。 家の中であんな無愛想な人が、こんなにも人望があったのかと心底驚いた。 中には親父が亡くなったばかりの時に、弔問に来てくれた人もいた。 その内の一人で、当時の親父の部下だった人が、職場での神木龍彦がどんな人間だったのかを話してくれた。 親父は、職場では課長という役職だった。 中間管理職という仕事は、部下への教育と指導、上司への現状報告とお得意さん回り、そして自分自身の業務という、尋常じゃない程の仕事量をこなさなければならなかった。 親父は昨今の事情により、退勤は早くさせるが管理職は帰ってからでも仕事をやれと言われていたらしく、昼間は部下や上司への対応して、帰ってから自身の仕事を行っていたらしい。 上長から厚い信頼があり、部下達へは愛情を持って接してくれる。龍彦さんは人間として尊敬できる方でしたと、その人は言ってくれた。 親父がどれほど大変な毎日を送っていたかは、自分が社会人になってから痛いほど分かった。 今の僕には、家族三人を食わせる程の稼ぎはないし、仕事だって自分の分をやるだけで精一杯だ。 ましてや疲れた体で帰ってきて、家族との会話も犠牲にしてまでも仕事をするなんて、とてもできない。 親父の仕事は、テレビに映るような華やかなものでも、みんなが憧れる職業でもないと思う。 それでも、あんなに広かった背中が小さくなるまで、いろんな物を一人で背負い家族を守ってくれていた事を知った時、初めて親父をかっこいいと思えた瞬間だった。 洗い終えた墓石に、もう一度びしゃりと水をかけた。 元々あまり汚れていなかったせいか、正直綺麗になったのかよく分からなかった。 良くも悪くも、墓石というものは滅多なことじゃ見た目が変わらないから、見入ってばかりいると親父をここへ埋葬した時のことを思い出す。 頭の中で大切な何かが沈んでいくような喪失感の中で、泡のように浮かんできた痛恨の念。 親父は生前最後、何を考えていたのだろうと。 老後に母さんと旅行に行きたいとか、何か初めてみたいとか、考えていたことはあったのだろうか。もしかしたら、そのために仕事を頑張っていたのかな。と、今更何を思ってもしょうがないのは分かっているが、聞ける時なんていくらでもあったのに、それをできなかった自分が恨めしかった。 言えなかった言葉は山ほどある。出来なかったことも数え切れない。頭をかきむしるほど後悔しても、喉が張り裂ける程号泣しても悔やみきれなかった。 でも、嘆きながら少しづつでも、前に進むしかない。 例えやるせない事があっても、背中を丸めずにしゃんとした姿で家に帰ってくる。 それが親父の生き様から学んだ、僕にできる唯一の親孝行だと思うから。 気持ちばかり綺麗になった墓石に花を手向け、何本か手に取った線香に火をつけて灰に刺した。 僕は墓石と目を合わせるようにしゃがみ込み、静かに手を合わせて、目を瞑った。 流れる風が、静寂な霊園に葉擦れを澄み渡らせている。 いつもは肌を刺激するように吹く風だが、今だけは僕を包みこんでくれるように穏やかで、優しく吹き渡らせていた。 日が落ちかけた薄明の空の下の霊園は、魅了されるような儚さも相まって、切り取られた写真のように映えていた。 不思議なもので、昼間に入った時の妙な違和感はもうなく、まるで帰省していた実家から去る際のような、一抹の寂しさを覚えた。 実はこの墓石を建てる際、僕はあることを家族へ提案した。 母さんは最初照れくさがっていたが、今はやってよかったと言ってくれている。 僕は右手をすっと伸ばし、親父の名前の隣に彫られたその文字を優しく撫で、言霊にして伝えた。 ずっと言えずにいた、ありがとうを。
不可思議な行列
ここは……どこだ? 男が気がついた時には、その行列に並んでいた。 周りには、濃い霧のようなものがかかっていて、何かがあるように見えるが、はっきりとは見えなかった。 分かるとすれば、体が……いや違う。 頭からつま先、五臓六腑に至るまで、まるで温かい湯船に浸かって、ふわりふわりと浮かんでいるような感覚だけがあった。 前後に人影と思しき形は見えるが、朧気になっていて、顔はうまく分からない。 その行列は、ちょっとずつ前に進む時もあれば、ピタリと止まって長いこと待たされたと思えば、前の人が駆け出すかのように急にぐんぐん前に進んだりと、なんともストレスのかかるものだった。 一体何があるのだと、何度も先頭を見ようとしたが、何も見えなかった。何へ向けて、何のために並んでいるのかが不明な、なんとも不可思議な行列だった。 なぜ、こんな所にいつまでも並ばされていなければならない。 嫌になった男は、行列から抜け出そうと試みた。 男はさっと横に動いて、見事に行列から抜け出し晴れて自由の身となった。 と思った瞬間、びゅんと弾かれたゴムのように、男はどこかへ飛ばされた。 男は抗おうと抵抗したが、見えない何かに抑え込まれるように、体の自由が全く効かない。 ぐんぐんと元いた場所から離され、次第に男の姿が見なくなっていった。 ここは……どこだ? 男が気がついた時には、その行列に並んでいた。 だが、先程とどこか違和感を感じる。 なんだろうかと振り返った男は、はっとその原因が分かった。 前後にいたはずの人影が、今は自分の目の前にしかいないのだ。後方には人影の気配すら感じない。 男は自分が、すごろくのふりだしに戻るが出たかのように、その行列の一番後ろへと運ばれたのだと分かった。 ああ、またあの時間を過ごすのか。 男は、ひどくうんざりした。 行列は、川を流れる木の葉のごとくすいすいと前に進んだり、大きな石にぶつかって止まるかのように動かなくなり、また水に流れてすいすいと前に進んだりを繰り返していた。 何度も何度も、繰り返した。 嫌になるほど、繰り返した。 ああ、一体どれだけの時間が経ったのだろう。いつまでこうしていればいいのだ。 男はまるで走馬灯のように、この時間があれば何ができたであろうと考えていた。 だか不可思議なことに、水中の気泡が水面から出ずに留まるかのように、浮かんできそうで一つも浮かばない。 浮かばないもどかしさと、この不可思議な行列にイライラしながら男はその後も、進んだり止まったりを幾度となく繰り返した。 これは……何だ? 男が気がついた時には、目の前に真っ白な門のような物があった。 その門はてっぺんが見えないほど高く、何者をも遮るかのように、黒い塀のようなものが横に広がっている。 汚れを知らないような真っ白なその門は、まるで何者であろうとも、その全てを受け入れているような温かさがあった。だが、その全てを飲み込んで、何もかも消してしまうような、不気味な感じもした。 先程まで前にいた人影は、もういない。 男は、とうとう自分の番が来たのだなと、まるで罪人が断頭台へ向かうような気持ちで門の前まで歩き、最後の時間を過ごすように、静かに虚空を見上げた。 「この先へと……進みたいか」 どこからか、重く厚く、直接頭に語りかけるような低い声が聞こえてきた。 「……はい」 男はどうすればいいか分からなかったが、ひとまずそう答えた。 「……この先へと進みたくば、代償を払え」 代償? 一体何だ。何をすればいいんだ。 男が持っているものなど、特段何もなかった。 男は戸惑ったが、進まなければ何も始まらないと思い 「なんだかよくわからねえけど、いいよ。払ってやるよ」 男は吐き散らすように言った。 「……この先へ……ゆきたくば、代償をはらえ」 しつこいな。 そう思った男は、語気を強めてもう一度言った。 「分かったってば、払えばいいんだろ。何でも払ってやるよ」 男は見えない声に向かい、そう叫んだ。 「……よかろう。代償をもらう。……貴様の前世の記憶、そして貴様の前世の名前だ」 「え、おい。それってどういうことだよ」 戸惑った男の質問をよそに、見えない声の主は続けた。 「変わりに……貴様に授よう。新しい名……そして新しい体だ」 声はそこで終わり、何も聞こえなくなった。 男の問いかけを続けたが、それ以降、見えない声から応答されることはなかった。 そして、男の目の前にある真っ白な門が、音も立てずひとりでに、ゆっくりと開いた。 門の開いた先は、全てを上書きしてしまうような、一寸先も見えないほどの漆黒が広がっていた。 男は恐怖のあまり、思わず逃げ出そうとした。 が、次の瞬間、男はぐんと吸い込まれるように引きずり込まれ、門の中へと消えていった。 ここは……どこだ。 自分の体と思わしき感覚はあるが、弾力のある壁のようなものにぶつかって、うまく身動きが取れない。その上呼吸もろくにできない。 一体何だってんだよ、さっきからずっと。俺が何をしたってんだよ。 我慢の限界を超えた男が暴れると、それに負けじと反発するかのように、周の壁がうねるように動き出した。 その壁はどんどんと自分に迫ってきて、今にも圧死をさせるのではないかと思うほど、強く締め付けてくるのだ。 痛い、苦しい。 ここは一体どこなんだよ。早く出してくれ。 男はもがき、暴れ、必死に脱出を試みた。 この不可思議な隘路から、一刻も早く抜け出したかったのだ。 ジタバタと溺れるようにもがく男の目に、かすかなだが光が差し込んだ。 男はきっとそこが出口だと、その先へと手を伸ばした。なんとしてでも、ここから抜け出してみせる。男の執念は凄まじく、力の出る限り手足を動かした。 男はやっと思いでたどり着き、光に手を伸ばした。男がその手に光を掴んだ瞬間、目の前が眩く輝いた。 ここは……どこだ? 男は、ここがどこか分からなかった。 ここは……どこだ? 男の周りには、見たことないものばかりだった。 俺は……誰だ? 男は、自分が誰かも分からなくなっていた。 ここは、どこだ? 俺は、だれだ? 何も分からないよぉー、うわぁー。 無事に生まれてきた元気な男の子は、何も知らないこの世界へ、情動の産声をあげた。
旅の思い出
地球から遥か彼方のX星。 そこに住んでいるX星人が、のんびりと宇宙旅行を楽しんでいた。 何光年も旅をしていると、宇宙の果に、碧く煌めく美しい星を見つけた。 「何だ、あれは。今まで見てきたどの星よりも美しいではないか」 一人のX星人が感嘆の声をあげると 「ああ、そのとおりだ。とても美しい。どうだろう、記念に降りてみないかい」 「ああ、それはいい。そうしよう」 もう一人のX星人も賛同し、二人は美しい青い星へと、着陸を試みた。 小さな名もなき島に着陸した二人は、さっそく散策をしようと、機体の出口を開け、宇宙船を降りた。 二人の目の前には、まるで空で輝いていた星が、そのまま落ちてきたんじゃなんじゃないかというくらいの眩い砂浜と、特大のサファイアをそのまま液体にしたような紺碧の美しい海が、水平線の遥かまで広がっていた。 二人は砂浜を駆け回り、波打ち際で水を掛け合い、浜辺を散策するなど一通り遊び終わると、砂浜に座り込み、その美しく碧い海を見つめていた。 ふと、一人のX星人がこう持ちかけた。 「なあ、せっかくここへ来たんだし、記念に何かを作って帰らないか」 もう一人のX星人も深く頷き 「ああ、それはいい。ここへ来た記念に何かを持ち帰るのも素敵だが、形あるものを残していくのもいい思い出だ」 そう言って二人は話し合い、二手に分かれて創作を始めた。 完成するまでお互いの作品は見ずに、出来た時の楽しみにしようという事になったのだ。 それから、X星人の感覚で数時間、人間の感覚で数年という月日が流れた。 X星人達は、完成したお互いの作品を鑑賞し、互いの感性とインスピレーションを褒め称えあった後。 「いやあ、素晴らしいものができた。楽しかったよ、ありがとう」 「いやいや、僕の方こそありがとう」 「いやあ、いい旅だったね。またここへこよう」 「ぜひ、そうしよう。またここに来て、僕らが作った旅の思い出を見に来よう」 二人は宇宙船に乗り込み、遠い遠い故郷の星へと帰っていった。 現代…… 多くの人類達が、地上に描かれた広大な不思議な絵と、人の何倍もある巨大な顔のような石像の謎に頭を抱えていた。