ひでぶ

6 件の小説
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ひでぶ

はじめまして よろしくお願いします

僕の人生 6話

若い時は心の移り変わりが激しく恋も仕事もコロコロ変わり浄化槽管理士と言う仕事に就いていた。そこで知り合った生命保険の人との巡り合いはまたまた僕の人生の分岐点だった。彼女は僕より12歳も上で既婚者で子供も3人いてた。最初は遊びのつもりだったが彼女が執拗に電話をかけてくるたびに会ってそのうちに恋をしてしまった。旦那が居ない時に家に行き泊まった事もあった。子供達は僕の事を受け入れてくれてるみたいで仲良くなるのに時間はかからなかった。ただ上から中2.小6.小4と女、女、男と難しい時期でもあった。相手の旦那にもバレず1ヶ月ぐらい過ぎた頃に彼女に家を出る、一緒に住む所探そと言われ若かった僕は彼女の勢いのまま不動産屋に行き生活家具もまとめて一気に買いあれよあれよとアパートも決まった。お金は彼女が持っておりその日だけで200万円が消えていた。3日後には子供達も連れてそこに住み始めた。旦那とは6年前ぐらいから夫婦の間は破綻しているとは聞いていたがさすがに急展開すぎるとは思いつつも彼女の決断力に推し負けていた。もともと波瀾万丈な人生なので普通に結婚するとは思わなかったが、この流れで6ヶ月後には婚姻もした。僕の母親には事後報告でいきなり3人の孫が出来年上の嫁さんを紹介した時はさすがに少し驚いていた。子供達は母親のためになのか元旦那の事が嫌だったのか分からないが僕の事を本当に慕ってくれていた。家族と言う実感を初めて味わせてくれた瞬間だった。今でも子供達には感謝している。2年が経ち長女は高1になりバイトも始め嫁さんの強い要望もあり一軒家を買い大変だがまた幸せを掴む事ができた。昼間の仕事が終わると夜焼肉屋さんに長女とバイトに行き休みの日には格安旅行もする時もあった。28歳で高1、中2、小6の子供を持つ大変さは想像を超えるぐらいお金がかかり大変さから逃げるようになった。おかんの影響で昔からパチンコ屋に通っていた事もあり手っ取り早く稼げるようにパチンコ屋に入り浸るようになった。稼ぎは仕事するより稼げるようにはなったが、ここからまた、歯車が狂いだすとは思ってもいなかった。

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僕の人生 5話

12月の高野山は寒く雪が積もっていました。朝起きると雪かきから始まり、たくさんの外国人が宿泊に来ていたのを思い出します。朝予定通り朝食の時間を聞いておき布団を片付け朝食を各部屋に配りに行き終わったと思えば1番先に出したところが食べ終わったと電話がなり朝昼晩ずっとこんな事の繰り返しでした。高野山の宿坊は精進料理と言って殺生してはならない教えなので生き物系の食べ物は出ません。主に山菜や高野豆腐がメインで外国人の方達は逆に珍しく喜ばれていました。もちろん従業員や寺の人達は肉も魚も卵もなんでも食べます。ただ米に関してはお客様におひつでご飯を出しますが残ったおひつの米を従業員用の炊飯器に足して食べました。僕達若い男性は全部仕事が終わった後にしか食べれないので炊飯器の底の方の石みたいになった米を食べなければいけなかったのは本当に辛い思い出です。だからよく近くの丼屋に行って安い卵丼を食べていました。もともと高野山の麓の方に住んでたので、たまーに仲間達が遊びに来てくれました。家もなかったので耐えるしかない僕を思って来たのか冷やかしなのかは分からないけど、めちゃくちゃ嬉しかった。休みになると板橋の家に泊まらしてもらい遊びまくって辛い事も忘れる時もありました。1年くらい高野山に住み込みして休みの日に板橋の家に泊まりに行った時帰るのが嫌になりおかんに電話して帰らないと報告しました。最初のうちは板橋に甘えてバイトして金貯めるからちょっと住まわしてと言うといつまでもおったらええと言ってくれた。3ヶ月ぐらい安いボロアパートを借りれるようになりおかんも呼び寄せた。1個上の先輩の瀬川くんが仕事を紹介してくれ正社員で工場に働くようになった。車の免許も取り安い中古の車も手に入れた。忘年会をするもんなら100人くらい集まり誰が誰かわからんくらい人数が集まった時もあった。金はなくてもそんな仲間たちに囲まれてすっごい幸せだった。

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僕の人生 4話

楽しい時もあり嫌な時もあったりしたがコイツらといれた事が今は青春だったと言える。月日が経ち遊んでばっかりだった僕は自分に弱く高校を休学の後退学してしまった。よしおは同じように遊んでいたが先生に懇願してその後は学校に通い卒業した。母子寮というのは子供と母親しか居れないので子供が18歳になると出なければならない。高校を卒業するまでは居れるが退学すると早く出なければならない。お金もないおかんはアパートも借りる事もできないのでおかんの弟の光一(こういち)に頼んで一緒に住ましてもらおうと頼んだ。僕はコイツが怖いし嫌いだった。なぜなら光一は若い時は良かったらしいが離婚をきっかけにノイローゼになった過去があるから。光一はベランダでタバコを吸ってる時にニヤつきながら独り言を言ってるのを見てゾッとした。おかんに嫌やと言ったが「もう治ってる」と言い他の方法もないので選択肢はなかった。引越してから何ヶ月かすぎたある日1階で大きな音とおかんの怒鳴る声がしたので慌てて2階から降りていくと光一が、おかんに掴みかかってていた。僕が助けに入ると光一は包丁の入っている引き出しに手をかけた。その引き出しを開けれない様に閉めると手が挟まったのか逆上してさらに凶暴化した。標的は僕に変わり首を締められ凄まじい力で持ち上げられた。遠のく意識の中でおかんが箒で光一を叩きまくった。おかげで助かったが光一の怒りは収まらずパンツ一丁でいたにも関わらず隣の家に助けを求めた。近所の人も騒ぎを聞きつけ何人か出て来た。光一はヤバいと思ったのか車で出て行った。おかんを探すと足を少し怪我してたぐらいで無事だった。それよりもおかんは持てる物を鞄に詰め僕にも用意しろと言い出て行く決心をしていた。携帯電話もないこの時代にバイクしかない僕達を助けてくれるのは友達しかなかった。おかんは母子寮でいてた時の友達に僕は板橋の家に事情を話一晩泊めてもらった。つぎの日おかんを迎えに行き、一泊は駅前の旅館で素泊まりしその後高野山の宿坊に住み込みで行く決心をしてたらしい。もちろんおかんを1人にはできない事もあり僕とおかんは翌日からバイクに2人乗りで高野山の住み込みで働く事になる。

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僕の人生 3話

小学校2年生の時に引越して来た同い年のみつとはこの先長〜い付き合いになって行く。今でも家族ぐるみの付き合いなのでほぼ50年くらい一緒にいる。みつには2個下の弟敦史(あつし)がいてる。母子寮での友達はこの兄弟から始まった。釣りに行ったりカブトムシを捕まえに行ったり川に泳ぎに行ったり時には年上のお兄ちゃんとかに喧嘩させられたりいろーんな事があった。母子寮以外でも友達はできた。よしお、大西、稲本、他にもたくさんできたが主に仲良くしてたのはこいつらだ。やんちゃな遊びや今では色んな事が制限されてできない子供ならではの遊びもいっぱい楽しんだ。中学3年生の時に奇跡的によしお、大西、稲本、僕と同じクラスになった。みつは1度も同じクラスになった事はない。同じ福祉施設で同じクラスは大人の事情でできなかったのかなぁって自分が大人になってから気づいた。中学3年生になると稲本が板橋と言う身長が185センチもあるちょっと悪そうな奴を連れてきた。僕はお前悪そうやし頭悪そうやなぁって喋りかけたのが心の友との出会いになる。板橋は僕らが経験した事のない世界を見せてくれた。1個上にお兄ちゃんがいる事もありコイツの家には誰かが常に居てた。タバコに無免許運転、ちょっとした窃盗、学校を無断で休んで家にも帰らずずっーと遊んでいた。この先何年間はみつとは距離を取っていた。コイツらとの遊びが人生の中でいい思い出にもなるくらい楽しかった。勘違いしないでほしいのだが板橋は悪い友達と思うだろうがめっちゃ友達思いで離れ小島に取り残された犬を助けたり下着泥棒を捕まえたり年下の子の喧嘩に助っ人に行ったり困ってる奴を放っておけない優しい奴なんだ。高校受験の時僕を含め他の奴は受かったのだが板橋だけは失敗した。板橋のおばちゃんから違う学校に行くよう説得を頼まれたが2人っきりになっても何も言えなかった。ただ帰り際にお前と同じ学校に行きたかったと言われた時は少し涙がでた。僕は涙を押し殺して学校違っても「ずっと友達やで」って言うと定時制の学校に行くと言ってくれた。大西は野球で離れた学校に行き稲本は僕達の中でも頭も賢く育ちが違うので良い高校に行った。よしおと僕とみつは同じ高校だった。相変わらずみつとは距離を置き大西と稲本はたまに遊び、ほとんどはよしお、板橋そして板橋の家に来るこの先仲間になる世間ではあまり良いイメージがない連中と色んな事をした。

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僕の人生 第2話

母と子供だけが入れる福祉の施設母子寮にで住む事になったがまさかこんな長く住む事になるとは思いもしなかった。トイレは外にありボットん便所お風呂も外で順番に入るシステムだ。夜中にオシッコ行きたくなったら窓から外にしていた。台所は部屋の中にあるが土間に降りてお湯は出ない、そんな所だ。初めて幼稚園に通う事になったのだが施設には僕より年上の小学生のお兄ちゃんやお姉ちゃんしか居なく昼までしかない幼稚園は僕だけだった。昼に帰って来ると橋本先生と言う寮母さんと2人っきりだった。のちに橋本先生は僕の第2のおかんであり足を向けて寝れない頭が上がらない先生になる。幼稚園から帰ると昼ごはんを用意してくれる。友達もいないからオセロや積み木で遊んでくれる、そんな友達みたいな事もしてくれた。時には寮母さんって言うのは役所の人なので役場に居てる事もあり僕の遊び場は役場の時もあった。時が経つにつれ友達も少しずつできて近所の女の子を泣かした事もあった。橋本先生が一緒に謝ってくれたこともあった。そんな事も1度や2度ではなかった。おかん朝から仕事に行って夕方に帰ってくるが車もバイクもないので買い物して歩きで帰ってくる。仕事場からも駅からも遠いのであんまり早く帰って来ない。橋本先生に夜ご飯を食べさせてもらった時もあった。ストーブの上にみかんを置いて焼きみかんを食べさせてもらった時もあった。怒られ事もあったがおかんより橋本先生の方が好きだった。小学2年生の時行政の都合で母子寮の建物自体が引越すことになり同じ街なので転校とかはないがボロ木造平屋トイレ、お風呂外だったのが鉄筋コンクリート3階建お風呂は共同で1階にあるがトイレは1部屋に1つついてなんと水洗、感動ものだった。なによりも待望の同い年の子も引越して来て年上のお兄ちゃんお姉ちゃん年下の子達も増えた。最初はみんなギクシャクしてたが同じ建物内で居るから仲良くなるのは早かった。同じ小学2年生で同じ母子寮で今現在も仲良くしてる益永(みつ)であったのは運命的だった。

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僕の人生

僕の人生で記憶に残っているのは 九州の熊本で住んでいる所から 始まる。生まれは大阪の堺らしいけど後から聞いた話しだ。 父親と母親はお互い再婚で父方には娘が1人いてた。母方は若い時に生き別れた息子と娘が1人ずついてたらしい。こっから父親を(おとん)母親を(おかん)父親の娘を(ねぇちゃん)と表現しようと思う。記憶が始まるのはおとんがおかんに湯呑みを投げつけたところからだ。原因はわからないが泣いていた記憶がある。 次の日には新幹線に乗って2人で家を出ていた。僕が2歳のときだった。おかんの実家がある和歌山県に来たが数日でおとんが迎えに来て熊本に戻った。どうしても嫌だったみたいで家を出たいがお金もないし頼るところもない。少し時が経ち少しのお金と持てるだけの荷物で電車に乗って転々と住み込みの仕事をしつつ2人で旅をした。常にお金はない状態だった。ある日自動販売機で売ってるジュースを欲しくて叩いたらお金が落ちてきた。おかんはお金を拾い集め2人でうどんを食べた。3歳ぐらいの時だ。そんな生活をしながら結局和歌山に行くしか宛てはなくおかんの実家は無理なので天理教に世話になった。家とご飯はなんとかなったが貧乏は変わらなかった。 でも不思議な事に今思い出しても辛いとか悲しみの記憶はほとんどない。なんなら熊本に居てた時よりおかんが生き生きしてる姿を見てたからかもしれない。僕はおかんが41歳の時に生まれたからこの時でもう44歳だ。朝起きておかんが居ないから探しに5キロぐらいの初めていく天理教の施設に探しに行って驚かれたり下に落ちた食べ物を粗末にしない様に食べたりしていた。おかんには落ちた食べ物は食べなくていいって逆に怒られた。そんな生活も1年ぐらいで誰かから聞いたのか母と子供だけ住める母子寮(ぼしりょう)と言う施設があると言うので和歌山の九度山の施設でお世話にになる。 ここからが僕の長い人生の始まりだ。

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