あや

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あや

短編多めです!気軽に読んでみてください フォロー嬉しいですけど、こちらからはあんまりフォローしないと思います

僕は不幸でありたい

僕はときどき、生きる意味について考える。 駅前のドトールでアイスコーヒーを飲みながら、あるいは深夜2時の静まり返った部屋で、何も音を立てずにただ考える。 ほとんどの人は「幸せになるために生きてる」と言う。楽しく、気ままに、自分の好きなことをして過ごすために。僕もずっとそうだと思っていた。でも、最近になって、それはどうやら違うのかもしれないと思い始めている。 たとえば、普通に生きて普通に死んでいく人がいる。 テレビのバラエティ番組に笑い、週末の映画にちょっと感動し、「まあまあ幸せだよ」と呟く。彼の人生は穏やかで、傷も少ない。まるで静かな午後の海のようだ。 一方で、世界の頂点を目指す者がいる。 国を動かし、人の命運を左右し、絶えず争いの渦の中で呼吸する。彼の一日は、ほとんどが苦悩と決断と責任で埋め尽くされている。満ち足りた静寂などほとんど存在しない。一日のうち、わずか五分ほどだけ、「自分はすごい」と感じることがあるかもしれない。でも、あとの十五時間五十五分は、死ぬほどのストレスと戦い続けている。 どちらの人生を選ぶか。それは多分、価値観の問題だろう。穏やかな幸せを愛する人もいるし、僕みたいに、戦いに惹かれてしまう人間もいる。 僕は、幸せになりたくない。 僕の子どもや妻が幸せであるならそれでいい。僕は不幸でありたい。 不幸になりたいんじゃない。不幸でありたいんだ。 常に張り詰めて、いつも少し泣きそうで、でもそれでも立ち上がって、歩き続ける。そういう人生を選びたい。 幸せよりも、戦いがほしい。 心の底から、もがいて、苦しんで、死にそうになって、でも最後の一歩を踏み出してしまうような、そんな人生を。 僕にとって、生きる意味とか人生の美しさというのは、幸福や快楽なんかじゃ測れない。 それはもしかすると、人間の言葉ではもう説明できない、もっと深くて、もっと孤独で、でも限りなく強い何かだ。 きっと、神様がその名前をまだ誰にも教えないのは、それを本当に手にした者にだけ、そっと教えたくて取ってあるんだろう。 勝者だけが知る、あの到達感。 それは単なる勝利の興奮じゃない。静かで、強くて、重たい満足だ。 自分の一生をかけて、幸せを押し殺してでも、ようやく手に入れる価値のある何か。 僕は、そこに触れてみたい。それだけなんだ。

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僕は不幸でありたい

コンテンツにのめり込む天才と凡人の僕

僕はサッカーが好きだ。 でもサッカー部に入って辛い練習をしたり、戦術を沢山考えてどうこうするほど好きではない。 たまに欧州のビッグクラブ同士の試合を観るくらいで十分だ。 僕は数学が好きだ。 でも数学者になるために、青春の大半を犠牲にするほどではない。女の子か数学を選べと言われたら迷いなく女の子を選ぶし、多分数学のために一日二十分の学習すら残す気にならない。 僕は本を書くのが好きだ。 でも作家になるほど素晴らしいものは書けないし、そのために沢山本を読むとか書き方をどうこうするとか、そういう練習をするほどではない。 友達とサッカー選手の顔がどうとか名言がどうとか話し合って、意味もなくクリロナの年収を調べて、そんなことが好きなだけだ。 数学が好きな先輩と知り合って、頭の良い人のアドバイスを貰ったり、人生について聞いたりするのが好きなだけだ。 本を書くというより、少しふざけた趣味の空想を書いて、それを友達に神だの天才だの大袈裟に褒めてもらい、それほどでもないよとか言いながら作家気取りをするのが好きなだけだ。 要するに、サッカーとか数学、物書きを真に愛しているのではなく、「サッカーが好きな自分」が好きなだけだし、「数学が好きな自分」を愛しているだけだし、「本を書くのが好きな自分」に酔っているだけだ。 それが少し人より得意だったり詳しかったりして、一般人の中で優越感に浸るのが好きなだけで、更に上に行こうという気はない。 サッカーが好きと言っても有名な選手のプレーを観るのが好きなだけで、恐らくスタメンにエムバペとか一昔前のメッシのようなビッグネームがいなければ静かにテレビを消す。 ビッグネームの試合を観て、いつもテレビに出てくるような顔馴染みの彼らのプレーを観て、流石だなあとか言いながらソファでゴロゴロするのが好きなだけなんだ。 大学の難しい講義を聞いて新しいややこしい定義ばかり出てくると、「こんなに暗記がいる数学やってられるか」とやる気をすぐに無くす。いかにしてさっさと大学を卒業して数学から離れるかを考える。 ただ自分より少し出来ない友達に勝って優越感を感じたり、自分より出来る先輩に解き方を褒められたり、苦手な女の子に教えて仲良くなるきっかけを作ることが好きなだけだったんだ。 本を書く練習のためにまず本を読もうとか言って、村上春樹の本を読もうとする。読み易いさらさらとした彼の文体ですら、僕は一冊読み切る前に飽きて本はどこかに行方不明になってしまう。 あまり重荷を背負わずに書きたいことを書いて、数人の人に読んでもらったり、少し反応を貰って少し気分が良くなる。それが好きなだけだ。 僕はこの三つ以外にも好きなことは沢山ある。 自転車に乗るのは好きだけど、サイクリングロードを何十キロも何百キロも走るほどではない。お尻が痛くなってきた辺りからもういいかな、と思う。 ディズニーランドに行くのは好きだけど、面白いアトラクションがどうだ、このニューエリアがどうだとかはどうでも良くて、ただ訳の分からない長蛇の列に並んで、彼女と夜にロマンチックなお喋りをしたり、ハグをするのが好きなだけだ。ディズニーよりも、「ディズニーに彼女連れてイチャイチャしてる自分」が好きなんだ。 デートは全てそうだ。彼女といれるなら世界のどこでも変わらないし、ずっとおうちデートでも、その辺を散歩するだけでも良い。でもそれをデートとして成立させる建前として、わざわざ僕は労力と時間を叩いて海外旅行に連れて行ったり、海に行ったり、レストランに行ったりする。 デート以外も全てそうだ。そのコンテンツがもちろん面白いこともある。でもそのコンテンツ単体の面白さで何十年もハマれる訳ではない。大抵そのコンテンツ、それがゲームでもアウトドアでも知的なことでも。人間関係があり、友達を作るとか仲間が出来るとかチームワークを学ぶとか可愛い異性と仲良くなれるとか。そういうことが出来るから好きなんだ。 そのコンテンツ単体に何十年も没頭できるのは本当にそのコンテンツが得意だったり好きだったりする天才だけだ。僕はそこまでじゃない。 もちろんそういう人を尊敬するし、その人にはそういう人生の良さがある。 しかし、僕は凡人の人生のほうが幸せだと思う。 何かの真理を掴んだり、頂点の境地に達するより、そのコンテンツが好きなふりをして同じコンテンツの繋がりを利用して人と仲良くなって、気の合う人を見つけて恋とか友情とかありきたりな事を経験する方が素晴らしいと思う。 そして凡人の方が幸せだと思っている事こそが僕が凡人である最大の証明である。 全ての人にはその人にあったレベルの事をするのが一番幸せだったりする。少なくとも僕にとっては凡人の美しさを素直に受け入れるのが一番大事な事であった。

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コンテンツにのめり込む天才と凡人の僕

私と母と

私は亜美。 25歳になった今、私は東京のオフィス街を颯爽と歩く、スーツの似合う女性になった。ハイヒールも、書類も、プレゼンも、上手にこなす。 自分の成長に、少しだけ自信を持っていた。 だけど、それはどこかで誰かを追い越したいという気持ちの裏返しだったのかもしれない。 ⸻ 9歳のある日。 私は、母と将棋を指した。母は当時49歳。 そのときの母は、いつもと変わらない優しい表情で、でも一手一手に迷いがなくて、幼い私に対しても全力だった。 何度も何度も指した。勝ったり負けたり、五分五分。 「私、ママと同じくらい強いんだ」 そう思って、胸が誇らしくなったあの日。 ⸻ それから16年。 私は将棋も、仕事も、人付き合いも、いろんなことを覚えて大人になったつもりだった。 あの頃の母には、もうきっと簡単に勝てるだろう。 だって、あの時点で互角だったのだから。 ⸻ けれど、久しぶりに実家に帰省し、母と盤を挟んだその瞬間。 私の中の前提は、音を立てて崩れた。 ⸻ 「負けたくないねぇ、亜美」 母はそう言って、にこりと笑う。 駒を動かす手は、以前よりも少ししわが増えていた。けれどその指先は、迷いがなく、読みが深く、鋭くなっていた。 私は驚いた。いくつも先を読まれ、じわじわと包囲されていた。 あの時の母ではない。母も強くなっていた。 ⸻ 私は、思い込んでいた。 「成長するのは若い人間」「時間があるのは若い人間」 だから、自分だけが階段をのぼり続け、年上の人はゆっくりと、あるいは衰えていくものだと。 でもそれは大きな勘違いだった。 ⸻ 母は、あの将棋のあとこう言った。 「あなたが勉強してる間、私も本を読んでいたの。 あなたが忙しくしている間、私も静かに一人で研究していたのよ。 お互い、ちゃんと強くなってたね。うれしいよ」 私は言葉を失った。 成長は、年齢では止まらない。 むしろ、経験と知恵の重みをまとって、もっと深く、静かに、そして確かに育っていくものなのだ。 ⸻ この一局が教えてくれたのは、 「自分だけが前に進んでいる」なんて思い上がり、 そして、「年齢によって人は止まる」なんて幻想だった。 人は、いくつになっても進化する。 それは、母の盤面が、教えてくれた。 ⸻ そして私は、母の一手に負けたその瞬間、なぜか嬉しくて、誇らしかった。 私の尊敬する人が、まだずっと先で成長し続けていることが、誇りだった。 「お母さん、また教えてね」 私は、そう言って笑った。

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私と母と

ショッピングモール

僕はさっき、チーズについて語った。 16歳のチーズは生臭くて、18歳のチーズは爽やかで、25歳のチーズは美しい、そんなことを熱心に話してしまった。 だけど、求められていたお題はショッピングモールだった。 そう思い出した瞬間、なんだか少し恥ずかしくなった。でも、同時にそんな自分が少しだけ愛おしくもあった。 ショッピングモール。 そこには、はしゃぎまわる子どもたちがいる。 親の手を振りほどいて、光るおもちゃ売り場へ一直線に走っていく。 彼らの後ろ姿を見ていると、僕はどうしようもなく切ない気持ちになる。 もうあの時代には戻れないんだ、という事実が、心の奥でじんわりと疼く。 そして、その子どもたちを追いかけながら、諦めたように笑う父親たちの姿を見る。 疲れているのに、どこか嬉しそうに。 僕は、ああ、いつか自分もこうなるのかもしれないな、と思う。 そう思うと、胸の奥にじんとした温かさが広がった。 だけど、今の僕はどちらでもない。 子どもでもなく、父親でもない。 ちょうど中間の、曖昧な位置に立っている。 大学生。 本当はもっと尖っているべきなんだと思う。 目の前のことばかり考えて全力で楽しんで、酒を飲んで、ちょっぴり悪いことをして、爽やかなキャンバスライフをイケてる友達グループと過ごして、可愛い彼女を作って、バイトもサークルも遊びも青春を謳歌すべき年齢なんだ。 だけど僕は、なぜかあの頃のまったりした幼さと、父親たちのような諦めと達観を、同時に持ってしまっている。 だから大学生という人種には、たぶんなれそうにない。 中学生のときも、高校生のときも、どこかそれらしくなれなかった。 制服を着て、教科書を抱えて歩いてはいたけれど、本当に「中学生」や「高校生」だったことなんて、一度もなかったような気がする。 ショッピングモールの白く光る天井を見上げながら、僕はため息をついた。 どこにでもある人工の空間に、どこにもない自分の居場所を探すみたいに。 誰かに合わせなくたって、焦らなくたって、少しくらいズレていたって、世界はそれなりに回っていく。 そんなの分かっているけど、ティーンになった辺りからみんなに合わせなきゃもったいない。そんな感情が僕を支配して、今後も恐らく少なくとも二年はそのままだ。 そして今日も、ショッピングモールでは子どもたちが走り回り、父親たちが追いかけ、僕はその真ん中あたりで、立ち止まったまま、次の行き先を考えている。 何を探しているのかは、まだよくわからないけれど。

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ショッピングモール

チーズ

チーズは16歳の時の恋愛のように生臭い。 まだ世間も、愛も、自分自身すら知らない。ぎこちなく触れ合って、すぐに傷ついて、まだ発酵の加減を知らないままに、何かを欲しがったり、何かを怖がったりする。 それは一種の熱病だ。鼻につく匂いも、今思えば、悪くなかった。 18歳になると、チーズは爽やかになる。 少し風を通して、湿った場所から抜け出して、自分がどんな味なのかを知り始める。 誰かを好きになるのも、少しだけ上手になる。 だから恋愛は、春の初めみたいに軽くて、明るい。 冷えた白ワインに合わせるフレッシュチーズのように、ほんの少しだけ背伸びして、それでいて不安を隠せない。 そして、25歳の頃、チーズは美しくなる。 時間と経験が、ゆっくりと深みを与えていく。 すぐには溶けない。けれど、触れ合えば静かに、とろける。 恋もそうだ。焦らない。計算もしない。 ただ隣にいるだけで、心が満たされる。 ひとくち食べれば、あの頃よりずっと柔らかくて、優しくて、それでいてしっかりと芯のある味がする。 恋も同じだった。あの頃の僕は、それをまだ知らなかったけれど。 チーズの話をしているはずなのに、気がつけば、僕はまた恋の話をしている。 でもそれでいいと思う。 だって本当に美味しいものや、本当に美しいものは、たいてい恋と似ているから。

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チーズ

あや

僕は「あや」というペンネームを使っている。 けれど、正体はどこにでもいるただの男子大学生だ。 別に、女の子ぶりたいとか、繊細な世界観を装いたいとか、そんなつもりはなかった。 単純に、これが一番都合が良かったのだ。 “あや”というのは、僕が昔、恋をした人の名前だった。 どうして彼女に惹かれたのか、それは分からない。いや、分かるけど、分からないフリをしていたい。 けれど、彼女と話すたび、世界はほんの少しだけ柔らかくなった気がする。 そんな感覚だけは、今でも体のどこかに残っている。 僕は彼女に振られた。 当時は、世界の終わりみたいに感じた。 けれど、時間は残酷なまでに優秀で、痛みの輪郭をゆっくりと削り落としていった。 最近では、あの時の痛みすら、ふとした瞬間に忘れてしまう。 あの頃は永遠に忘れないとすら悟った痛みも、もう和らいだし、執着もなくなっていった。 それでも、僕は彼女に対して「もう会いたくない」と思ったことは一度もない。 彼女を憎んだことも、恨んだことも沢山あった。 それでも多分、あの頃の自分ごと、彼女を好きだったんだと思う。 だから、ペンネームに彼女の名前を借りた。 たとえばこの先、僕が誰かに読まれることがあったとして、そこに小さな”あや”の欠片が混じっているとしたら。 それはきっと、僕があのとき世界で最も強い恋をしていた証拠になるだろう。 夜のカフェで、僕はノートパソコンを閉じた。 外には春の終わりを告げる風が吹いている。 こんな夜に、ふと彼女の名前を呼びたくなってしまうことも、たまにはある。 でも大丈夫だ。 もう、どこにも痛みはない。 ただ、少しだけ、苦くて甘い気持ちが残っているだけだ。

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あや

痛みを伴う

僕は今でも、あのゲームを思い出す。 思い出すたび、胸の奥にざらりとした何かが引っかかる。 それはたぶん、痛みだ。 ただのノスタルジーじゃない。 もっと重たく、もっと苦いものだ。 前半。 2点取られた。 あっけないほどだった。 敵の放ったシュートはナイフみたいに鋭く、僕らのゴールネットを迷いなく裂いた。 僕たちは呆然と立ち尽くし、 乾いた風だけが、僕らのユニフォームをかすかに揺らしていた。 2点という数字は、想像以上に重い。 心の奥に、じくじくと痛みを広げる。 後半。 僕らは立ち上がった。 ただ無心に。 もう余計な言葉はなかった。 ひとつ、またひとつとゴールを積み上げ、 気がつけば、僕らは3点を取っていた。 勝った。 確かに勝った。 でも、その90分間の道のりは、ただの勝利とは違った。 足は棒のように重く、呼吸は鉛みたいに沈んでいた。 体のあちこちが悲鳴を上げ、心は剥き出しのままだった。 勝利は甘いものだと、誰かが言った。 でも僕は知っている。 本当に勝ったとき、そこには甘さだけじゃない。 渇いた喉と、しびれた足と、 そして消えることのない痛みが、静かに寄り添っていることを。 痛みを伴う。 それが、生きているということなんだ。 彼女を初めて見た日を、僕はよく覚えている。 あまりにもスタイルが良すぎて、思わず息を呑んだ。 豊かな胸と、丸くて大きなお尻。だけどウエストはきゅっと締まっていて、顔はまるでアニメのヒロインみたいに整っていた。 笑うと、僕の脳の奥のどこか、もう言葉にならない場所が熱くなった。 そんな彼女と付き合うことになったのは、ある意味で「勝利」だった。 周りの友人は僕を見る目を変えたし、すれ違う男たちの視線が彼女の後ろ姿に釘づけになるたび、僕は妙な優越感を感じていた。 けれど、勝利というものはたいてい、何かを犠牲にして得られる。 そして、それは決して軽くない。 デートの前夜、僕は大学の課題に追われて徹夜した。 バイトではコーヒーの香りがしみついた制服を着て、休む間もなく皿を下げ続けた。 週末の夜、友達が誘ってくれた遊びは、何度も断った。 そのたびに僕は、「でも仕方ない」と自分に言い聞かせた。 彼女と行くレストランの予約は高くついたし、誕生日のプレゼントに選んだ香水は、財布の中の千円札をすべてかき集めてようやく買った。 それでも、彼女が笑うたびに、すべての努力は報われた気がした。 その目に僕が映っているということが、何よりも嬉しかった。 でも同時に、僕の中のどこかが軋んでいた。 睡眠不足の頭で笑顔を作りながら、スケジュール帳の真っ黒な空欄を思い出す。 何かを得たとき、人は別の何かを確実に失っている。 それは、僕がこの恋で学んだ最初の真理だった。 痛みを伴う。 美しいものを手に入れるというのは、そういうことだと思う。 少なくとも僕にとって、それはそうだった。 痛みを伴う勝利は、何も大きな戦いや劇的な恋の終着点だけにあるものじゃない。 それは日常の、ありふれた時間の中にも、そっと潜んでいる。 たとえば、ボードゲーム。 友達と真剣に駒を動かしながら、どこかで僕は「勝ちたい」と思っている。 その日は僕の勝ちだった。少し気持ちよかった。ほんの少し。 でも、勝利の後の沈黙は、なぜか心に刺さった。 向かいに座る彼は浪人生で、勉強づけの毎日の中、唯一の楽しみがこうして時々集まる夜だった。 その貴重な夜を、僕の勝ちで終わらせてしまった気がした。 彼は悔しそうに笑っていたし、別に機嫌が悪くなったわけでもなかった。 でも、僕の心のどこかが、ふっと冷えた。 もちろん、考えすぎだと思う。 彼はきっと、そんなに気にしていない。 それでも、勝った僕の方がなぜか負けたような、そんな不思議な夜だった。 勝利というものは時に、刃のように鋭い。 誰かの安らぎや誇りの、ほんの一部を切り落としてしまう。 そして、それに気づいたとき、人は少しだけ大人になる。 痛みを伴う勝利は、必ずしもその瞬間にだけ存在するわけではない。 むしろ、その後にじわじわと響いてくる種類の痛みもある。 僕は、都内の名門私立大学に合格した。 それは確かに勝利だった。家族も喜んだし、受験期に背負っていた重いプレッシャーからも一度は解放された。 電車の中で合格通知を読みながら、ひとり静かに目を閉じたときのあの感触を、今でもはっきり覚えている。 でも、その勝利は、いつの間にか僕の肩に新しい重さを乗せていた。 授業のレベルは高く、周囲は当たり前のように優秀な奴ばかりだった。 ひとつの講義に何時間も復習が必要で、レポートは何度も書き直す。 ふと、ため息をつく瞬間がある。 「もう少し、違う場所でもよかったのかもしれない」 そう思う日も、たしかにある。 でも、きっとこれは贅沢な痛みだ。 甘やかされていたら味わえない、贅沢で、でもリアルな成長の痛みだ。 勝ち取った場所に立つということは、そこから逃げ出せない責任と向き合うということなのかもしれない。 そして僕は今日もまた、静かな図書館の片隅で、自分を試す。 痛みを伴う勝利の、その先を見つめながら。 クリスティアーノ・ロナウド。 彼の試合のチケットを手に入れたとき、僕はその瞬間が何よりも嬉しかった。 ロナウドは僕の大好きな選手で、彼のプレイを生で観ることができるなんて、どれだけの人が夢見たことだろう。その夢が現実になったときの胸の高鳴りは、今でも忘れられない。 でも、その勝利には痛みが伴っていた。 スタジアムに足を運んだとき、僕は自分の小さな違和感に気づくことになる。 応援の仕方がわからない、という違和感。 周りは、みんなロナウドのために大きな声を上げている。笑顔で手を振り、歓声を送り、歌っている。 でも僕は、その中に溶け込めなかった。声を出すことが、どうしても苦手で、周りの陽気な観客の中で浮いてしまった。 それだけならまだよかった。 隣に座った男が、ふと振り返って言った。 「あんた、声足りてないよ」 その一言が、まるで冷水を浴びたような感覚を呼び起こした。 ここで、僕は自分の居場所を失ってしまったような気がした。 ロナウドのプレイに集中するために、ただ観戦しているだけなのに。 でもその痛みを感じながら、僕は気づいた。 勝つためには、時には自分をさらけ出さなければならないし、痛みを抱えながらでもその瞬間を生きることが大切なのだと。 ロナウドがゴールを決めた瞬間、僕はその痛みも含めて、心の中で歓声をあげた。 この瞬間、すべてが報われた気がした。 可愛い女性、美人な女性。それらに電車の席で挟まれたことがある。 その瞬間、まるで時が止まったかのように、周りの世界がぼんやりと霞んだ。 顔が近く、無意識のうちに心が跳ね上がった。隣の女性の髪の香りや、ほんの少しだけ触れる腕の温もりが、まるで魔法のように心地良かった。 「これが勝利なんだ」と、瞬時に思った。 美しい女性たちに挟まれたこの至福の時間が、まるで自分が何かを手に入れたような気にさせた。 勝者のように心地良かった。 けれど、その心地良さを手に入れた瞬間に、ふとよぎったのは、もし自分が少しでも間違えた行動をしたら、この場所が一瞬で地獄に変わることだ。 ほんの少しの違和感、たとえば視線が長くなったり、少しでも触れすぎたりしたら、すぐにその場の雰囲気が変わり、女性たちは不快な表情を浮かべるだろう。 最悪、性犯罪者として扱われるかもしれない。 その怖さが、勝利を手にしたという安心感をすぐに曇らせる。 勝ったと思った瞬間、すぐにその痛みがやってくる。 どこか冷や汗が出てきたし、無意識に自分の手のひらを見ては、触れてはいけない場所を触ってしまったかもしれないという恐れが頭をよぎる。 それでも、心地良さが勝った瞬間にまた少し笑みがこぼれた。 男という生き物は、こうして苦しみながらも、勝利を感じる瞬間を求め続けるものなのだろう。 けれど、その勝利もまた痛みを伴うものだということを、僕は知っている。 ビジネスをして、成功者になり、月収10億円を稼いだその瞬間でさえ、痛みは伴った。 外から見ると、輝かしい勝利、夢のような成功だろう。一般人からすれば、そんなのはバカげていると笑われるかもしれない。でも、それが本当だとしたら、誰もがその重さを知っているわけではない。 金があるということは、すぐに人々が寄ってくることを意味する。しかしその中には、明らかに怪しい大人たちがいる。金目当ての言葉を並べてきて、最初は優しい顔で近づいてくる。しかし、その心はまるで異国の毒蛇のように、少しでも隙を見せれば一瞬で牙を向けてくる。 そして、金が欲しいだけの女たち。最初は愛を装って近づいてきたとしても、最終的にはその目はお金を見ている。まるで目の前に金塊が転がっているかのように、媚びを売ってくる。そして、そのアプローチが不気味で、どこかおぞましい。 そんな人たちに対して、見抜かないわけにはいかない。 そのために僕は常に警戒心を持ち、相手の真意を見極めなければならない。 それは、成功を手に入れた代償として与えられた無言の義務のようなものだ。 どんなに疲れていても、少しでも気を抜けば、すぐに裏切りや不正が潜んでいるから。 そして、少しでも会社が傾けば、その影響は大きく、赤字になり、借金を背負うリスクすらある。 その一瞬の不安定が、全てを失うきっかけとなりかねない。 だから、常に努力し続けなければならないし、誰かに頼るわけにはいかない。 その責任がずしりと肩にのしかかり、心が少しずつ重くなる。 成功の裏には、常にこうした痛みがある。 その痛みを理解する者でなければ、成功はただの表面でしかない。 本当に勝ち続けるためには、その痛みを伴いながら、どこかで乗り越え続けなければならないのだ。 お金やビジネスのような大きな話ではなく、ほんとうに小さな、小さな勝利でも、痛みを伴うことがある。 例えば、ジャスティンの限定アルバムを手に入れたとき。 手元にそのアルバムが届いた瞬間、僕は嬉しくて、胸の中で小さな勝利の叫びがあった。 それはまるで、自分だけの宝物を手に入れたような感覚だった。 でも、その一瞬の喜びと同時に、ふと冷静になったとき、周りの目が恐ろしいほどに感じられた。 「あんな女々しい男が好きな男はキモい」「ゲイでは?」 そう思われるかもしれないという恐怖が、心をかすめる。 誰かに見られたらどう思われるのだろうか、と考えると、少し胸が締め付けられる。 僕が好きなものに、他人がどう思おうと関係ないはずなのに、それでも心のどこかで周りの評価に囚われてしまう。 勝利が小さなものであっても、そこには他人の目を気にする痛みがついてくる。 例えば、ジャスティンのアルバムを手に入れることで感じた喜びが、逆に周りの目線という形で痛みに変わる瞬間。 それは、勝ったとしても心の中で感じる痛みが伴うからこそ、勝利がほんとうに甘美なものになることが分かる瞬間でもあった。 勝利と痛みは、いつもどこかで絡み合っている。 友達を作ったときですら、痛みを伴う。 友情には、無償のものだけではない。そこには時間を使うという代償が必ずついてくる。 楽しみもあれば、もちろんケンカもある。時には些細なことで気まずくなったり、意見が食い違ったりすることもある。 バルセロナかレアル・マドリードか。 僕はバルセロナ派だ。 何度も、友達との間でその話題でケンカをしたことがある。 ロナウドは好きだけど、メッシやネイマールのプレイが心に響く。 バルセロナの美しいサッカー、メッシの細やかな技術、それが僕にとっては何よりも輝かしく、まるで夢のようだった。 でも、そう言った瞬間に友達との間にひと波乱が生まれる。 「ロナウドを認めろ!」と何度も言われるけれど、僕にとってロナウドはメッシとは違う。 彼の力強さやスピードも素晴らしいけれど、僕の心を掴んだのはバルセロナの美しさだった。 それでも、友情が続くには、そういった違いを乗り越えていかなければならない。 それが痛みだ。 でも、その痛みがあるからこそ、友情は深まる。勝利のように見えても、実はその過程の中で何度も心が引き裂かれそうになる瞬間がある。 友達を作るということは、他の何かを犠牲にすること。時には自分の大切なものを譲らなければならないこともある。 それでも、その中にある心のつながりを感じることができるから、痛みを伴いながらも勝利を感じる瞬間が訪れるのだと思う。 筋トレをして、体が大きくなった時。 それは間違いなく勝利だった。 鏡の前で見る自分は、まるで以前の自分とは別人のように感じられた。 筋肉がしっかりとついて、体が引き締まり、強さが内側から溢れ出してくる。その瞬間、女の子たちの視線が明らかに変わったことに気づくことができた。 モテるようになった。 それが一種の証明で、勝者としての証でもあった。でも、その勝利にも痛みが伴うことを、最初は予想していなかった。 時には、大きすぎる体が怖がられることもあった。 痩せた男のような柔らかさや優しさを持っているわけではない。 力強さを象徴する自分の体が、逆に相手には威圧的に映ることがあると気づいた。 「こんなに大きくて怖い人とは関わりたくない」なんて思われることもある。それがどうしようもない痛みだった。 電車の中でも、立っているだけで誰かが隣に来るのを避けて、少し距離をとられたり、座るときに場所を取って、周りの人が不快そうにしているのを感じることもある。 自分の体の大きさが、他人にとって邪魔な存在になっているのだと気づく瞬間、それはやはり痛みを伴う。 筋肉をつけることは自分にとっての勝利だったけれど、その反面、得られたものには必ず痛みが含まれている。 モテること、強さを感じること。それは確かに素晴らしいけれど、その勝利に隠れた小さな痛みを、時に感じることになる。 勝利と痛みがセットであることを、筋肉をつけたことで初めて理解した。 ガロア理論を理解した時。 あの瞬間、僕は自分の頭の中に一つの宇宙を見た。 それはまるで、閉ざされていた扉がふと開いて、そこから黄金の光が差し込んでくるような感覚だった。 群、体、拡大、自己同型、そして対称性。それらが美しく織り重なり、まるで詩のように世界を説明していく。 理解できた。心の底から、震えるような勝利感があった。 だけど、その勝利には確かに痛みが伴った。 なぜならそれは、エヴァリスト・ガロアという、わずか20歳で死んだ一人の青年の、死と引き換えに生まれた理論だからだ。 彼の人生を知れば知るほど、理論の奥行きを掘れば掘るほど、僕の心は沈んでいく。 革命に身を投じ、恋に傷つき、決闘の朝に論文を書いた彼。 そんな狂気と純粋さの間に揺れる20歳の天才が、僕の愛するこの理論をこの世に残した。 勝利の美しさと、死の冷たさが背中合わせになっている。 まるでワインに溶けた毒のように、甘美であればあるほど、苦い。 「彼が生きていたら、数学はどうなっていただろう?」 そんなifを想像してしまうたびに、僕の勝利はまた少し痛む。 ガロア理論を理解するたびに、僕は確かに成長する。 でもそのたびに、彼の夭折と、その光の裏にある闇に、触れてしまう。 だからこれは勝利だ。でも、痛みを伴う勝利だ。 ガロア理論という名の、悲しみの中で咲いた美しい花。 あの日の僕は、満身創痍だった。 体育の授業で全力を出し切ったあと、汗まみれのまま電車に飛び乗った。脚は棒のようで、膝の裏は重く鈍く痛み、座席に体を沈めた瞬間、全細胞が「休め」と叫んでいた。 でも、そのとき、目の前に立った一人の老人。 背中が丸くて、白髪がちらついていて、見るからに疲れていた。 席を譲らない選択肢もあったかもしれない。いや、譲らないほうが自然だったかもしれない。 でも僕は、立ち上がった。 「どうぞ」 その一言とともに、座席は空いた。 老人は驚いた顔で、でもすぐにほっとしたように笑い、「ありがとう」と言った。 それはまさに、小さな勝利だった。 若者としての優しさ、人間としての誇り。 でも、同時に、立ち上がった瞬間から足は悲鳴を上げ、吊革を握る手が小刻みに震えた。 軽く、でも確かに痛みを伴っていた。 けれど、揺れる車内でふと思った。 この痛みがなければ、あの「ありがとう」もなかったのかもしれない。 そう思えたとき、僕は痛みに少しだけ感謝した。 人生の勝利は、ときにそんなふうに、じんわりと重くて、やさしくて、 痛みを伴うものなのかもしれない。 痛みを伴う勝利には、奇妙な静けさがある。 それは大声で叫ぶような歓喜でもなければ、祝砲が夜空に鳴り響くような騒々しさでもない。 もっとこう、誰もいない深夜のプールの底で、遠くの街灯が水面に揺れているのを一人で眺めているような、そんな勝利だ。 勝つということは、何かを選ぶということだ。 美しい彼女を選んだとき、僕は同時にいくつかの遊びの誘いや、ひとりきりの自由な時間を手放した。 大学に合格したとき、僕は「ちょうどいい場所に行く」という選択肢を捨てた。 ロナウドのゴールをこの目で見たとき、僕は“目立たずに生きる”という逃げ道を、あのスタジアムの入口で靴ごと脱ぎ捨てていた。 勝つたびに、僕はほんの少し、他人とすれ違う。 時に友達と。時に社会と。 ジャスティンのアルバムを愛したことで、誰かの心の中で「変わり者」になった。 トレーニングでつけた筋肉は、ドアの隙間に挟まっていた居場所のようなものを僕から奪った。 ガロア理論を理解したときでさえ、それは同じだった。 20歳の天才の死に、僕は勝利と同時に哀悼を抱えた。 その理論は確かに美しかったが、美しさが深いほど、そこに触れた指先は冷たく痺れた。 だから僕は思う。 勝利というのは、何かを打ち負かすことではないのかもしれない。 それはむしろ、何かを失うことを許す強さであり、 痛みに目を背けず、その存在を認めて、 それでもなお手に入れようとする静かな意志なのかもしれない。 そしてその意志の先にだけ、たぶん本当の勝利がある。 深夜のプールの底のように静かで、透明で、少し冷たいけれど、 それでも確かにそこにある、そんな勝利だ。

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痛みを伴う

おっぱい

彼女の胸元が緩んでいるのを見た瞬間、 僕の中のなにかが、音を立ててはじけた。 その瞬間、優しさとか、遠慮とか、 そういうものは全部後ろに蹴り飛ばした。 僕は少し乱暴に彼女の身体を引き寄せ、 その胸に顔を埋めた。ぐっと、押し込むように。 「……ちょ、ちょっと……」 彼女の声が上ずる。 だけど僕は応えない。ただ呼吸を深くして、 その柔らかさと温度と匂いを貪る。 甘い。 支配しているようで、どこかで支配されている。 彼女の胸の中にいる僕は、王様のようでいて、 まるで捨てられた犬のようでもあった。 「乱暴だよ」 彼女はそう言いながらも、 僕の頭を撫でた。 優しくて、静かで、 まるで僕のどうしようもない部分すらも 肯定するかのように。 僕はその瞬間、勝ったと思った。 彼女の心を、身体を、僕が握ってる。 誰よりも深く入り込んでいると。 けれど同時に、 その胸にすがる自分の弱さが、 ひどく情けなくて、 でも、たまらなく愛おしかった。 彼女の胸の奥から聴こえる心音が、 まるで僕に「お前は孤独だ」と言っているようだった。 でも、それでもいい。 この胸の中で孤独なら、 僕はむしろその孤独を愛せると思った。 まるで、 この世界の優しさが、 すべてこの胸の中だけに詰まっているかのように。 僕は目を閉じた。 そして何度も、深く顔を押しつけた。 まるでその甘さと温度で、 自分の罪をなかったことにしようとしているように。

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おっぱい

トランプ

ドナルド・トランプ。 まるで名前の時点で人生の伏線を張っていたかのような男だ。 “トランプ”という姓を持ってこの世に生まれるなんて、まるで神様が「この男には全てのカードを配れ」と指示したかのようだ。 その190cmの長身と、若い頃の映画のフィルムに出てきそうな鋭い眼差しを見れば、彼がハリウッドの「2」枚目を演じられなかった理由など、どこにも見当たらない。 むしろ、「2枚目」などと小さく括るのが失礼に思えるほどだ。 背中に「10」を背負い、バルセロナのカンプ・ノウでカットインから左足を振り抜く…そんな幻も、あながち夢物語じゃない。 78歳で銃弾を避ける男がいるだろうか。彼は避けた。 その頭脳と演技力があれば、道化の仮面をつけたジョーカーとして、政治の舞台で混沌を巻き起こすこともできた。 身体能力で言えば、五輪開会式のアメリカ代表団のエースとして星条旗を振る姿すら目に浮かぶ。 けれど彼は、あえてすべてのカードを伏せた。 エースも、ジョーカーも、クイーンも、手にしていながら──彼は一枚だけ場に置いた。 「キング」だ。 不動産の世界で、アメリカで、そして世界の舞台で。 最もシンプルで、最も直線的な勝利のカード。 まるで言っているかのようだった。 「俺には、これで十分だ」と。 たしかに。 トランプという名の男が選んだのが「キング」だなんて、 上品すぎるほど綺麗なオチじゃないか。

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トランプ

電車の窓が少しだけ開いていて、そこから春の風が吹き込んできた。 僕はただ座って、何も考えずにその風を受けていた。目は閉じてもよかったし、開いたままでもよかった。景色はさほど意味を持たなかった。流れていくだけだったし、僕が追いかけるものでもなかったから。 風は思ったよりも冷たくて、だけどそれが心地よかった。 耳のあたりでそっと音を立て、襟元に入り込んで、少しだけ肌を撫でた。 誰かが優しく触れてくれるみたいだった。何も言わずに、ただ「ここにいるよ」って知らせてくれるような。 電車は単調なリズムでガタンゴトンと進む。向かいの人が眠っていて、その隣の人はスマホをいじっている。僕はどちらでもなくて、風を感じている。なんだか少し特別なことをしているような気がして、それで十分だった。 この風はどこから来て、どこへ向かうのだろう。 考えても仕方のないことだけど、そんなことを考えたくなるような午後だった。 あの子の髪がこんな風に揺れていたな、とふと思い出した。 春の風は記憶を巻き戻す力があるらしい。 それが美しい記憶でも、苦いものでも、容赦なく引きずり出して、目の前に置いていく。 電車は駅に止まり、誰かが降りて、誰かが乗る。 僕はそのまま風と一緒に残った。何も変わらず、何も焦らず、 ただ今日の風が、少しだけ良かったと思えた。 そういう日が、たまにはあってもいい。

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風