思議
11 件の小説どうせ答えは変わらないのに
寂しいと言ってしまえば、良かっただろうか。 彼には目標がある。 人望もある。 わたしとは違う。 どうして彼が私を手放さないのか理解ができない。 私は夢もなければ期待してくれる人もいない。 それに値する人間ではない。 彼が帰ると言った時、いつ戻るかわからないと言った時、寂しいと言えば良かっただろうか。 最初からそう言えば、彼は残ってくれたのだろうか。 直前で私が泣いてしまったから、彼はあんなに怒ったのだろうか。 どっちにしても、後悔だ。 もう二度と、口にはしないと決めたのだ。 こんなことで、私の本音を話すことで、喧嘩になんかなりたくないから。 私はまた、そういう選択をした。
世界の現状
時々考える。君は僕として造られたけど、本当は僕とは違う人間なんじゃないかって。 20XX年、世界の人工はとある病原菌により元の数の半数まで減ってしまった。 そのウイルスが流行った頃、真っ先に進められた医療技術がクローン人間の製造と記憶移植だった。記憶移植は自分の産まれてからの記憶をデータ化し、クローンに移すための技術だ。 ウイルス発見時から20年後、その技術が発達し、俺たちは生き残っている。しかしその20年の月日は人類の半数を死滅させるには十分な時間だった。 現在、世界には、戸籍のある人間全てのクローン人間の制作と、その生活保護を住民が行うという法律が定められている。 要は、自分の体は自分で管理しなさいということだ。 そんな世の中に生まれ落ち、俺はもう16歳になる。 そして今隣で俺と同じご飯を頬張っているのが俺のクローンだ。 「周!早く食べなきゃ遅刻するわよ!」 実は母は、2年前にクローンに体を貰っている。 20年前に流行した病原菌が原因だ。 俺たちのクローンが作られたのも、その病原菌が原因だった。 「はーい。」 俺の名前は沢村周(さわむらしゅう)。そしてこっちのクローンが沢村(さわむらあまね)だ。 クローンにつける名前は基本なんでも良く、誰がつけてもいいことになっているのだが、世間的には本人の名前に近いものか、同じ漢字で読み方だけ変えたような名前をつける人が多い。 「いってきまーす」 俺とアマネは一緒に登校し、同じ学校に向かうが、校舎は別々だった。 「なあ、アマネのクラス編成は俺たちオリジナルと全くおなじなのかな?」 「どうなんだろう。でも、政府はなるだけオリジナルと同じ環境を用意しているから、全く同じかもしれないね」 アマネは基本的に穏やかで優しい。 自分と全く同じ顔の全く違う人間のようだ。 クローンと人間では教室も制服も全て違うものになっている。それはオリジナルとの差別化を図るためのものだと思う。 アマネの首には黒いチョーカーが巻かれている。 これがクローンの証である。 「じゃーなー!アマネ!また放課後にー!」 そう言って別れたムアマネはいつも優しく手を振り返す。 そんなアマネを見ていつも思う。 あいつは本当に俺なのか?と。 俺はどちらかと言えば活発な方だった。体を動かすことが好きだし、よくおっちょこちょいだのやんちゃだの言われることが多い。 だが、アマネは落ち着いていて、あまり外に出て遊ぶことは無い。 友人にクローンのことを聞くのは法律で禁じられているため、他がどうかはわからないが、俺と同じ遺伝子で細胞で、全く同じように作られているはずなのに、なぜか同じ人間とは思えなかった。 「しゅうー!昨日のサッカー見たか?」 「おー!見た見た!まじかっこよかったよなあれ!」 「おー、でも最近復帰した選手いるだろ?あの人身体貰ったらしいぜ?」 「けど、体貰うのってウイルス感染者のみだろ?感染したんか?」 俺たちを蝕んだウイルス。それに感染した場合、逃れられる方法はただ一つ。 クローンに身体を貰うことだ。 方法は簡単だった。オリジナルの記憶をクローンに移植する。それまでのクローンの記憶を抹消して。 ウイルスが蔓延した初期は臓器移植で手を打っていたが、そもそも提供されている臓器は少なく、すぐに手の打ちようが無くなった。 そこで人類が考えたのは代わりの器を作ること。 だが、ウイルス感染が発覚してからクローンを作っても手遅れなのだ。ウイルスは年齢に関係なく感染する。クローンは同じ細胞と遺伝子で造られる存在だが、成長速度は人と同じである。いつかの感染リスクを考えれば赤子が産まれてから1年以内にクローンを作ることが厳守されていた。 だが、クローンはひとり一体までと法律で定められている。1度クローンと入れ替わった後に再度感染した物は、隔離され、ただ死を待つのみとなる。 クローンは一度きりの回復のチャンスというわけだ。 「てか、知ってるか?最近クローンたちがデモ起こしてるんだってよ。」 こいつは親友の武田昴(たけだすばる)だ。 「デモ?」 「要するにさ、クローンたちが俺達も生きてるから勝手に殺すなって騒いでるらしい。」 スバルはケタケタ笑いながら話していた。 「でもまぁたしかに、ちゃんと意思はあるもんな。あいつら。」 「けどよー、俺たちのために造られたモノだぜ?なんでわざわざ意思があるように作ったんだか。てか、オリジナルもよくそんなデモ起こすクローンをほっとけるよなー」 「けど、やっぱずっと一緒にいると情湧かねえ?」 冗談半分で切り出してみる。 「あー、俺ん家ほぼ顔合わせないように暮らしてるからなあ。てか、自分と全く同じ顔の人間と生活とか、正直キモくてできねえから。」 そういうスバルに俺はあまり共感できない俺は、やはり少し、おかしいのだろうか。 所詮はモノ。自分の身体になるためだけの存在だ。アマネを人だと思うことは間違っているのかもしれない。 「はーい、授業始めまーす」 なんでわざわざ意思があるように作ったのか。 人間を模して作ったのだから、感情は必要不可欠だったのだろうか。 スバルに限らず、基本的に正常な人間はクローンをモノとして見なしている。 それは、当然と言えば当然かもしれない。 だが、意思がある分、ただ身代わりになる為だけに生まれてきたアマネ達が、俺は時々不憫で仕方が無いと思ってしまう。 本当にものとして生まれたのならいっそ人形のようにあって欲しかった。 下校時、後者のグラウンドには必ず同じ顔がふたつ並んで帰る。クローンは自分のオリジナル意外との会話は禁止されている。それは無論、オリジナルの方も自分のクローン意外との会話は禁止されている。 だが、そもそもモノと認識している人間はクローンが喋ると不快そうにするのが普通である。 「アマネはさ、自分はモノだっておもってるのか?」 「…え?どうしてそんなこと聞くの?」 「いや、別に。」 「僕らはオリジナルのために産まれた。それをモノとして自分を認識してるってことになるかわからないけど、僕は君のために存在してるとは思ってるよ」 アマネの返答はなんだか機械じみている気がした。 「君はクローンについてはどう思うかね?」 いきなり、中年くらいのおじさんに急に腕を掴まれた。 「は、誰?」 「君の横にいるのは、君のクローンだろ?その子に対してどういう感情を持っているんだい?」 よく見ると、おじさんの首には黒いチョーカーが着いていた。 「アンタ、オリジナルはどうしたんだ」 「僕のオリジナルは寛大でね、僕を信用してくれているんだ。ねえ、君は自分のクローンに信頼をおいているのかい?」 ひょっとしてこいつがスバルの言っていたデモを起こしたクローンのひとりだろうか? 「離せ!離せよ!誰かー!!!」 運良く人が集まってきた。人だかりができる前におじさんは舌打ちをして去っていった。 「ほら、行くぞアマネ」 「…大丈夫?」 手首は少し赤くなっていた。 「お前さ、俺なんだからもっとハキハキ喋れよな。」 「え、うん。」 「俺は、別にお前のことモノだとか思ってないからな。」 スバルの言葉が頭から離れなくて、つい、口に出してしまっていた。 アマネは優しく笑いながら、うん、と頷くだけだった。 その日の夜の事だった。喉が渇いて下の階に降りた時、玄関先で物音がした。 こっそり除くと、アマネが静かに外に出ていった。 時間は深夜一時過ぎ。 母さんも父さんも眠っている。 (どこに行くんだ?) まさか、あいつもデモ起こす気だろうか? 俺はこっそりアマネを尾行した。 アマネが入っていったのは古いマンションの一番端の部屋。 どうにか塀をよじ登り、中が見れないかと窓を見ると、ほんの少し空いていた。 涼しい夜だったから、誰かが換気に開けたのかもしれない。 そこには10人ほどの人間がいた。 (?クローンじゃないのか?) クローンと思われる黒いチョーカーをつけていたのはアマネだけだった。 「…ですか」 遠くてあまり声は聞こえない。 「…に、……ましょう!」 「…類を…」 「クローンがオリジナルになるために!」 最後にそう叫んでいたのは、確かにアマネの声だった。
梔子 第4話
蒼花ちゃんはすごく格好いい。 入学式の日、私は上履きを忘れてしまった。 緊張と恥ずかしさで玄関から動けずにいた。 誰も私を知らない土地、知らない場所。怖いと思った。 「大丈夫?」 話しかけてくれたその子は上履きを履いていない私を見て、自分のものを貸してくれた。 何も聞かずに。何も言わずに。 その子は裸足のまま入学式に出て、私と同じ教室に入っていった。 「深山蒼花です。」 自己紹介で名前を聞いた時、好きだと思ってしまった。 私は、多分恋愛体質なんだと思う。 小学生の時、クラスでやんちゃな男の子は、よく私をいじめてた。 その時私は図書委員をしていた大人しめな佐々木くんって子が好きで、いつも意地悪してくるヤンチャな田中くんのことは嫌いだった。 小学校の卒業式の日、その田中くんから告白された。 あんなに嫌いだった田中くんだけど、自分を好きでしていたことと思ったら、なんだか可愛く思えてしまって、正直嬉しかった。 だから付き合った。 でも、その一週間後に佐々木くんが告白してくれた。 元々好きだった人だし、素直に嬉しかった。 でも、田中くんと付き合ってると言うと、幻滅したって言われた。 その後、それを言われたのがショックで、田中くんのことも振ってしまった。 田中くんとも佐々木くんとも中学は別々。 あの日以来、会っていない。 「あの、上履きありがとうね。ごめんね」 入学式の後、勇気をだして声をかけた。 「むしろ汚いの履かせちゃってごめんね?明日は忘れないようにね!」 そう言って、友達の元へ去っていく深山さん。やっぱり好きだと思った。 夏が終わる頃、深山さんに告白した。 こんなに時間がかかったのは、誰かに好きと伝えるなんて初めての事だったから。 蒼花ちゃんは笑って承諾してくれた。 王子様みたいでほんとに格好よかった。 それから毎日おはようって言えることが幸せで、名前を呼び捨てしもらえることが幸せで、ご飯のとき二人きりで食べようって言ってくれたことが幸せで、デートに行ってくれたこと、服を選んでくれたこと、私を見て笑ってくれたこと、全部全部幸せだった。 でも、ずっと前から気になっていたことがある。 蒼花ちゃんはあんまり自分の話をしてくれない。 以前、うちに来た時に、蒼花ちゃんの家族の話を聞きたいと言ったけど、笑って誤魔化されてしまった。 なんで、隠すんだろう。 私たち恋人なのに。 「ねえ、蒼花ちゃん。今週の日曜は空いてる?」 「あー、ごめん。今週は椿と予定入れてるんだ。」 …え、椿? 「あ、椿って雪代椿のことね。なんか、男とデート行くから服選んで欲しいんだってさ。」 …は? 「え、なにそれ。私いるのに、ほかの女の子とあそびにいくの?」 気づけばそう言っていて、すぐに後悔した。 蒼花ちゃんも、困ってる。 「ごめん、でも椿は幼なじみだから、恋愛感情とかはないよ。ただの友達。」 恋愛感情はない?でも向こうはわかんないじゃん。蒼花ちゃんはこんなに魅力的なんだから、女の子でも好きになりかねないよ…。 私みたいに。 「あ、そうだよね!ごめん。楽しんできて!」 「あ、ありがとう。再来週は埋め合わせするから」 その日の帰り道はあんまり話さなかった。 雪代椿。この子も同じクラスの人だ。確かに、蒼花ちゃんといつも一緒にいたな。私と付き合ってからは私と一緒にいてくれてたから忘れてたけど。 そっか、このこ幼なじみなんだ。 蒼花ちゃんとちっちゃい時から知り合いで、蒼花ちゃんのこと沢山知ってるんだ。 なんか、ずるいな。 なんでだろう。憧れで素敵な貴方と付き合えてものすごく幸せなはずなのに。なんで私、こんな気分になっちゃうんだろう。嫌だな。すきなひとと付き合えたら、きっとそれだけで幸せだと思ってたのに。 今週、2人で出かけられるの。なんか嫌だな。 スマホのインスタを開く。蒼花ちゃんのアカウントから雪代椿を探す。 いた。この子だ。最悪、めっちゃ可愛いじゃん。 通知の溜まったLINEをひらく。クラスの男の子から今週末暇だったりする?ってメッセが来てた。 この人、だいぶ前からしつこいんだよなあ。 終わらせても追いLINEしてくるし… あ、いっそ利用してしまおうか。 「暇だよー!どうしたの?」 蒼花ちゃんだって遊びに行くんだし、私だって、別にいいでしょ。
SDカード割ってやろうかな
たまたまだった。 彼が、古いSDカードの中身を確認してて、私は彼の後ろで洗濯物を干していて、本当に、たまたまだった。 パソコンには、幾分幼い彼と、元カノであろう女の子とのツーショットが映っていた。 元カノとは中学時代に付き合って、半年ほどで別れ、高校生になってから復縁し、高2の終わりまで付き合っていたらしい。 彼は、束縛の激しい人だ。 私にも元カレの存在はいるが、恋人らしいことは何もしていない。キスも、その先も。 強いて言えば、初めて行ったデートで何故か彼が服を買ってくれたことくらいだ。 それから、離れるからと私に自分のストラップをくれた。 元カレとは遠距離で、結局3週間ほどで別れてしまった。 3週間って笑 漕いだの好きだの分からないくせに付き合ったものだから、距離もできて、私は冷静になったのだと思う。 こんなのは、きっと恋愛経験豊富な皆様からしたら、恋愛ごっこでもなんでもないと返事が来るだろう。 私も正直こいつはノーカンにしたいと思っている。 いいかな?いいよね? もちろん、別れたあとは全てを削除した。LINEもインスタも、写真も。 それから貰ったスボンもストラップも、持っていたら呪われそうだったから捨ててしまった。 なのに、この男と来たら。 高校時代の彼女をこんなところにまで連れてきているなんて思わなかった。 なんとも未練がましい男である。 そして私ははっきりとみてしまった。 奴は、写真を消さなかった。 わざわざ元カノの入っているSDカードを持ってくるなんて、きっとそういうことだろうし、其の写真をまだ消さないのもそういうことだろう。 きっとそのままそのSDカードに残しておくのだろう。 未練がましいにも程がある。 彼の元カノは以前喧嘩した時に彼が見せてきた。 インスタが公開アカウントで、現在の元カノの姿を見てしまった。 韓国系というのか、オシャレで美人で気の強そうな、自分とはまるで正反対な女がそこには写っていた。 やっぱり彼は、まだこの女に未練があるのだろうか。 彼と付き合って2年。元カノと過ごした時間を超えても、その不安は消えなかった。 ずるいなあ。 彼の実家におじゃました時、彼の部屋はそのまま残してあったそうで、2人でそこを使っていた。 それでも弟大好きな彼は一緒にお邪魔したのに、私の事なんかほっぽって弟とずっとべったりだった。 そこで、見つけてしまったのだ。 その元カノが渡した、手作りのアルバムを。 だが、常識的に考えて欲しい。 今の状況、悪いのは当然私だろう。 勝手に見てしまったこと、本当は知るよしもなかったことである。 でも、それでも胸がザワザワと苦しくなったのは、私も彼に手作りアルバムをプレゼントしたからである。 そしてそのアルバムは、彼の手によって破り捨てられた。 喧嘩中だったのだ。喧嘩してて、お互い帰省中の私は実家、彼は一人暮らしの家で電話越しの喧嘩で私の渡したものが目に入ったのだ。 ただ、きっとそれだけだ。 それでも、今ここに大事にしまわれていたこのアルバムを見ると、怒りが湧いて仕方なかった。そっと心に閉まっておくつもりだったのに、無理だった。 言うつもりがないことを彼に言って、彼も怒って、喧嘩してしまった。 2人で一人暮らしの家に帰るとき、私のカバンには元カノのアルバムが入っていて、家に着いてから、彼はそれを捨てた。 そんな前のことを思い出してしまうくらい、SDカードの中身は私にとって嫌な事だった。 なんで、捨てるだけなの? 私のはビリビリに破ったじゃないか。 不器用なりに何回も何枚も写真印刷して、頑張って作ったものだったのに。 それにさ、そのSDカードは何?まだそんなの残してんの?未練タラタラだね。今からでももう1回復縁申し込んだら?もう2回も別れてるってことは3回目も別れるだろうって目に見えてるけど。てか、私が同じことしたらなんて言った?どうせまたキモイとかありえないって罵るんでしょ?自分はいいんだ?キモすぎるでしょ。 頭では言いたいことは幾度となく浮かんだけれど。 SDカードの元カノのことは、もう彼には言わなかった。 きっと彼は、この元カノのことはどう足掻いても忘れられないのだ。 きっと私と別れたら、彼は私との思い出を全て消去するんだろう。あの元カノのように、大切に保存するなんてことは無いだろう。 手作りアルバムをビリビリに破ったみたいに、なんの躊躇もなく、全てを無かったことにできるんだろう。 その事実が悔しくて、悲しくて、それでもきっと口に出したら、喧嘩をして終わるだけだから。 そんなのはもう、めんどくさい。 せめて、いつか来る別れの日まで、貴方を嫌いになりたくないから。
死にたがりの爺さん
俺の祖父は死にたがりな爺さんだった。 俺は、寮生活で普段は実家を離れていてお盆や正月くらいにしか帰れなかった。 久々に帰ってきて、祖父に会うと決まってこう言う。 「俺ァ、もう死ぬばい。」 不貞腐れた顔と声で、一言そう言ってそっぽを向く。そんな爺さんだった。 その時の俺は、また言ってるなこのじじい。 くらいの気分だった。 俺が保育園に帰ってた頃、姉が小学二年生の時、祖父の妻、つまり俺の祖母は死んだ。 優しくて、穏やかな人だったと思う。 それに比べてこのじじいと来たら。 強情で頑固で不貞腐れ。 俺は昔からこの爺さんが嫌いだった。 「もう帰るんけ?こいで会えるんも最後やなあ」 寮に戻る時、最後に会いに行くと、毎回同じことを言う。 「死ぬ死ぬ言って、もう3年は生きてんじゃん」 俺も笑いながら返事をする。 どーせまた帰省した時には、同じことを言ってくるくせに。 ある日そんな爺さんが入院したと告げられた。 あーきっと病院でも死ぬ死ぬ言いながら生きてんだろうなと、そのくらい軽く考えていた。 数が月後、母にもう祖父が長くないからと帰ってきてくれと頼まれた。 病室で見た爺さんはガリガリにやせ細って、目はおかしいくらいに見開いていた。 もう、言葉もろくに話せないらしい。 ついこの間帰った時はいつもどおりに過ごしていたのに。 人って数ヶ月でこんなに変わるのかと思った。 「おー、…来たかぁ」 朧気に天井を見ながら、自分の横にいる人に向かって祖父が声を出す。 たまに、こうして喋るらしいがどこまで認知できているかもわからないらしい。 声くらい、かけてやればよかったのに。 あんなに憎まれ口しか叩かないようなじじいが、こんなに弱ってるのを見ると、なんだか言葉が出なかった。 別に涙も出なかったけど、俺は直ぐに病室を出た。 その後に出てきた姉は、死人の匂いがする、とぼそっと呟いていた。きっと、俺以外に誰も聞こえていなかった。 「今日明日が山でしょう。」 医者からそう告げられ、じじいの息子である俺の父だけ病院に残り、俺たちは母と帰ることにした。 夜、9時過ぎくらいの事だった。 家に着き、風呂に入り、いつ電話がかかるかわからないからと、直ぐに出られる準備して、俺たちは川の字になって寝た。 それでも俺はなかなか寝付けなくて、暗い部屋の中でずっと天井を見つめてた。 確か、2時すぎごろだったと思う。 やっと寝付けそうだと感じたその瞬間に、ものすごい頭痛を感じたんだ。 直後、電話がなった。 確認しなくても、俺はなんのことかすぐにわかった。 父だった。 「今、逝ったから。」 「…うん。」 頭痛は消えていた。 母と姉を起こし、病院に向かう。 既に死化粧を終えた祖父は、やっぱりガリガリに痩せすぎて、直視出来なかった。 葬式の後、母が言っていた。 「あの人、きっと死ぬのが怖かったんでしょうね。」 俺も、きっとそうなんだと思った。 頭痛がしたあの時、きっとじじいは誰かに縋りたかったんだと思う。 それでも家族に看取られたんだから、じじいはきっと幸せ者だ。 いつか俺が死ぬ時に、きっとこの爺さんのことを思い出すんだろう。 いまは、俺も死ぬのが怖いから。
アネモネ 第3話
梔乃とのデートの約束は、今週の日曜に決定した。 動物園に行きたいらしい。 梔乃は最近やってきたパンダの赤ちゃんが見たいらしく、今からどこをどう見て回るかと考えあぐねていた。 そういえば、動物園行ったことないな。 幼少期の家族で出かけた思い出を探る。 母と祖母との3人暮らしの私たちは、みんなで出かけたのは隣町の大きめのショッピングモールくらいだろうか。 その屋上にある小さな遊園地の列車の乗り物で遊ぶのが好きだった。 「蒼花ちゃん?」 梔乃の声に、我に返る。 「なになに?ぼーっとしてた笑」 「蒼花ちゃんは動物園以外に行きたいところとかある?」 「んー、梔乃の家に行ってみたい。」 「…へ?!」 梔乃の顔は真っ赤だった。 そんなにおかしなことを言っただろうか? 日曜日。 待ち合わせには私の方が早くついてしまった。 10時に待ち合わせのはずだよね…? 「ごめーん、おまたせ!」 15分後梔乃は満面の笑みでやってきた いつもの制服とは違う、白いワンピースとカーディガンはとても女の子らしくて可愛かった。 わざわざ遅れを指摘することもないと思い、そのまま笑顔で迎え入れた。 動物園での梔乃のはしゃぎようは凄かった。 次の動物を見るなりテンションが徐々に上がっていき、最後に見た熊猫の赤ちゃんの時には興奮で顔が火照っていた。 動物園とお昼を済ませた後、ショッピングモールに入った。 「新しい服が欲しくて。蒼花ちゃんに選んで欲しいの!」 そんなことを言われたけど、私に服のセンスなどない。今日だってスキニーにシンプルなシャツとカーディガンの組み合わせで、女らしさは微塵もない。 それでも懸命に色んな服を持ってきて「これはどうかな?」と見せてくる梔乃がとても健気で可愛くて、悪い気分ではなかった。 時間は17時46分。 そろそろ解散かな?と思っていると 「あのね、今日夜ご飯に招待するって、お母さんたちに言ってあるんだ。」 梔乃の家はかなり大きかった。 庭は広い花壇に何種類もの花が植えられていた。 「お母さんが好きなの。」 梔乃の両親はわたしを笑顔で迎え入れ、夕飯を振舞ってくれた。梔乃は私のことを悠人だと伝えているらしい。 私も梔乃との関係は親友の椿にだって言っていない。 夕食のあと、庭の花壇の花を見ながら、デザートを頂いていた。 「私が小さい時からお母さんが趣味で色々植えてるの。」 「この白い花は?」 「これはねー、梔子(クチナシ)っていうの!これにはね、喜びを運ぶって意味があるんだ!」 「詳しいんだね」 「私の名前にもこの梔子の花の意味が込められてるんだって」 お母さんが教えてくれたのだと、梔乃は笑った。 梔乃は家族の話を沢山してくれた。 梔乃のお母さんは園芸以外にもお菓子やパンを全て手作りするらしい。今食べているクッキーも梔乃の母特製のものだそうだ。父は、アウトドアな人だそうで、週末はよくキャンプに連れて行ってくれたり、BBQをしてくれたりするらしい。 温かい家族なんだな。 「ねえ、蒼花ちゃんのお家のことも教えてよ!」 「…あー。うちは特にないかなあ」 できるだけ明るく、何事もないように笑って言った。 「それじゃあ、また明日学校でね!」 帰り道、梔乃の父が車を出して送ると言ってくれたが、丁重にお断りした。 きっと母が黙ってはいないだろう。 梔乃は愛されて育ったんだな。 「…ただいま。」 「おかえり」 食器を片しながら祖母が優しく返してくれる。 母は化粧をしてる最中だった。 「あんたさ、ご飯食べてくるなら連絡入れれば?おばあちゃんご飯用意してたんだから。」 「あー、うん。ごめん。おばあちゃん。」 「はー。まじほんと可愛くない。」 化粧を終えたのか、母は立ち上がって玄関に向かっていった。 すれ違いざま、香水とタバコの匂いがした。 また男か。 梔乃の笑顔に溢れた家庭を思い出し、ほんの少し涙を流して、私は眠りについた。
カレンダー
学校に行かなくなってから、この日めくりカレンダーを破るのは私の日課になった。 この家には時間と日付けを表すものが多くある。 普通のカレンダーもあるし、電子の時計もあるし、壁掛け時計もある。それでもこの日めくりカレンダーをめくらないと、母が怒るのだ。 「りぃちゃん。ご飯よ」 母の優しい声がする。 食事を摂ったあとはだいたい自室に戻る。 母とはあまり話をしたくない。 今の状況をどう思われてるのかわからないから。 何かを聞かれるのは怖くて、直ぐに部屋に戻っている。 それでも泣き声やグズる声が聞こえれば私すぐさま部屋を出る。 カーテンの隙間から外を除けば登校中の学生たちが見える。 楽しそうに歩く姿を見ては、本の数ヶ月前まで自分のあの中にいたはずなのにと考える。 買い物はいつも昼時に済ませている。 夕方に外に出ると、決まって同じ学校の子達と会ってしまうからだ。それだけは避けたい。 今日は何にしよう。 魚の煮付けは一昨日作ったし、今日は肉じゃがが食べたいな。 昼間のスーパーは専業主婦のおばちゃんが数人いるだけで、ほとんど人がいない。 3つもあるはずのレジにも1人しか人は立っていない。 帰り道には公園による。 運動不足解消に歩くためだ。 その時には決まって学校に通っていた時のことを思い出してしまう。 なんでこれをすると思い出すのか、全然良くはわからないけど。 いつもどおりに登校して、いつもどおりにみんなに挨拶する。 でもその日は、なんだかみんなの私を見る目がおかしくて、それでも気のせいだと必死に思ってた。 教室に着くと親友のまりが顔を真っ青にした。 「ちょっと理恵!あんたのスカートっ!」 私のスカートはおしりがみえるまで切られていた。 「…え?」 中にスパッツを履いていたけど、それでもショックが大きくて直ぐに保健室へ言った。 その日からだった。 授業で使うノートが全部ペンで塗りつぶされていたり。 前日に用意したはずの体操服がものの見事になくなっていたり。 いつ誰が入れたのか、私の弁当に虫の死骸が入っていた。 「マジで誰よ!りえにこんなことするの」 まりは本気で怒ってくれていた。 ソレでも次々と被害の重なる私をみて、周りのクラスメイトは私と距離を置くようになった。 いくら探しても犯人はいない。 私は学校に通うのを辞めた。 公園を5周はしたところで今日はもう帰ろうとした時だった。 「…理恵!!」 私の名前を呼んだのは、制服姿のまりだった。 息が詰まる。呼吸が苦しくなった。背筋が凍るように冷たくなる。 まりの声に、私は目眩がした。 「お願い!また学校に来て!」 優しい声で私に近づくまり。 「あんたをいじめた犯人はまだわからないけど、絶対に私が守るから!」 違う。違うのまり。 私もう、犯人を知ってるの。 「…ありがとう、まり。でもごめん。学校には戻れない。」 俯いたまま絞り出した私の声に、まりはきっと絶望したのだろう。 私は、1度もまりの顔をみなかった。 「…そっか。ごめんなさい。」 一言そう言うと、まりは項垂れて帰って行った。 私も、今にも吐きそうなのを我慢して帰る。 ゆっくりゆっくり、めまいが強くなるのを感じながら。 「…ただいま」 家の中は激臭がした。 「おかえり、りぃちゃん。学校どうだった?」 耐えきれずに胃の中のものを吐き出してしまう。 「お母さ…」 母は台所に立っていた。 しまった。外にいた時間が長すぎた。 母はフライパンに火をかけていた。 焼いていたのは、おそらく自身の排泄物だ。 なんでそんなことをするのかわからない。 否、わかりたくもない。 医者から言われたのは、台所に立たせないこと。1人で外に出させないこと。万1勝手に出る場合はGPSを取り付けること。叱ったり、否定したりしないこと。記憶を押し付けないこと。あと、他にも色々あったけど多すぎて忘れてしまった。 母が認知症だと判明したのは私のいじめ騒動から1週間経たない時だった。 体操服が消え、弁当に虫の死骸が入っていた日、家に帰ると、異様な光景が広がっていた。 目の前には私の体操着をして筋トレをする母。 第所にはゴキブリの死骸が山積みで、フライパンも何も無いコンロには火がつけっぱなしだった。 父が帰宅後、母を病院連れていったが、認知症だと知ると、父は家に帰らなくなった。 あの日から、私はずっと母と2人。 私のノートを黒く塗りつぶしたのも、私のスカートを切ったのも、全部全部母の仕業だった。 スカートが切られた日、母にいじめられているとうちあけた。 「えー?りぃちゃん、お友達と喧嘩したん?大丈夫。どんな事でも、まずは謝ることが出来れば、ちゃんと仲直りできるけん。」 母が言ったのはそれだけだった。 無言で部屋を片づける。 母は折り紙をしながらぼーっとテレビを眺めている。 ご飯を作るのは私。 母は目の前に用意されたご飯を見て、 「りぃちゃん。ご飯よ。」 優しい声でそういうのだ。 もうこのフライパンは使えない。 汚れたフライパンも、悪臭の漂うこの家も、壊れたお母さんも、全部全部この袋に詰め込みたい気分だった。 翌日、今日も私はカレンダーをめくる。 私のめくる姿をみて、母は日付が変わったことを知る。 早く過ぎろ。早く消えろといつも思う。 永遠とも言える、この時間が早く終わることを願って。
バカな女
「そんな、なんで?1番好きって言ったくせに!」 人が見てるのも構わず、女は声を張上げる。 「だから、もう違うんだって!」 男は面倒くさそうに返事をする。 「…そんな、」 絶望しきった表情の女を背に、男は軽い足取りで私の元へ歩いてきた。 「おまたせ。行こっか。美桜ちゃん」 2ヶ月前から私は彼の浮気相手だった。言いよったのは私の方。 バーで仕事の同僚と飲んでいた彼に、酔ったフリして近づいた。彼は彼女と喧嘩中だったらしく同僚に愚痴を聞いてもらっていた。 「辛かったんですねぇ」 甘い声でそう言うと、彼は全てを話してくれた。 なんでも、彼女は地元に仲の良い友達が多く、そちらのとの約束のせいで自分とのデートもすっぽかされたんだとか。 そんな話を聞いてから2ヶ月、彼は直ぐに私に心を許してくれた。 3年ほど付き合った先程の女よりも、私との結婚を考えてくれるほどに。 バカな女。いつまでも過去の環境に拘ってるから、今の大事な人を失うんでしょ? 幼なじみなんて、地元を離れてしまえば昔の友人であって今の自分にはなんら関わりなんてないのに。 けれど、さっきのあの喚きよう。よっぽど悔しかったに違いない。それも、自分の目の前で次の女にいかれたのだから。 きっと絶望に顔をゆがめてるはず。 そう思って、女の方に目をやったのに女は何故か、私を見て不敵に笑っていた。 負け惜しみってやつかしら? 彼は私にすごく優しかった。 「美桜ちゃん、今日は何食べたい?嫌なもの見せちゃったし、俺が奢るから好きなの食べよ!」 初めの頃は少し罪悪感もあったみたいで、会うのは今日で最後にしようと言われたこともある。 それでも、治らない元カノの行動と、私の優しさで彼は私におちてくれた。 彼は何でもしてくれた。 生理でお腹が痛い時は直ぐに暖かいものを入れてくれたし、ベッドで一緒に寝る時は必ず腕枕をしてくれた。仕事に行く前も欠かさずキスをしてくれたし、帰った時はハグをしてくれた。 えっちのあとも優しく頭を撫でてくれて、好きだと囁いてくれた。 こんなにいい男に捨てられた、あの女が可愛そうで仕方がない。 そんなある日の事だった。 「ただいまー」 扉を開けた瞬間、私は後悔してしまった。 「げっ、美桜…」 そこには知らない女と裸で抱き合う彼がいた。 「…は?」 「あーあー。めんどくさい彼女が帰ってきちゃったね!」 女は猫なで声で話しながら彼の顎を撫でた。 「どういうことよこれ?」 「彼、言ってましたよ?彼女がワガママすぎてしんどいって!確かに気強そうだし、こんなんじゃ逆らえないよねえ」 女に頭を撫でられながら、彼は私を睨みつけていた。 「あー、ダル。そういうことだから。出てってくんない?」 あんなに優しかった彼はどこに行ったのだろう。 「そんな、なんで?1番好きって言ったくせに!」 「だから、もう違うんだって!」 どこかで聞いたことのあるセリフだと、遠くの方で考えていた。 そうだ、あれからもう3年も経つのか。 彼は既に私に背を向けていた。 頭は絶望でいっぱいだった。 なんで?私の何がダメだったの? 私は前の女みたいに地元のヤツと遊んだりしてないし、彼をほっておいたりもしてないじゃない! そんな思考に頭がフラフラしていると、ふと、裸の女が私を見ていた。 ざまぁみろと言わんばかりの表情で。 ああ、そうか。そういうことか。 ダメなのは私なんかじゃない。 全ては私に背を向けているこの男が悪いだろう。 あの日、あの女が私みて笑った理由がやっとわかった。 彼女もまた、理解したのだ。 次はこの裸の女の番だと。 不敵な笑みを浮かべていたであろう私の顔を見て、裸の女はふんっと鼻を鳴らした。 「負け惜しみってやつかしら?」
アネモネ 第2話
無論、私は女である。 恋愛はまだしたことがない。 誰かを好きになるという感覚はよくわかっていない。 目の前にいる女の子は同じクラスの朝霧梔乃(あさぎりしの)だ。 何度か話をしたことはある。でも、ただそれだけだ。なにか好かれることをした覚えもない。 むしろ、こんな自分を好きだと言ってくれたことに興味が湧いた。 だからかもしれない。 「あ、ごめん。気持ち悪いよね…」 むしろ面白い。 「気持ち悪くないよ。」 きっとほんの好奇心だったと思う。 朝霧梔乃は震えていた。 きっと告白するだけでも大きな勇気がいるのに、それを同性にするともなれば、想像がつかないほど怖かっただろう。 「私、恋とかよくわからんけど、それでも良ければ」 気づけばそう答えていた。 予想外の返事に、朝霧は一瞬ぽかんとした後に大粒の涙を流した。 「よろしくね。」 「おはよー!蒼花ちゃん!」 翌日、私に声をかけたのは椿ではなかった。 「梔乃!おはよう」 その日から私は梔乃と登校することにした。 昨日から私たちは付き合った。 具体的に何をするのかわからないけど、それでも梔乃は嬉しそうだった。 恋人とは何をするものだろうか。 男女ならSEX?いや身体だけではないか。 というか、女同士でもできるんだろうか? 世の中の恋人ってまず、何をしているんだっけ。 「あのね、蒼花ちゃん。今週末空いてたりしないかな?」 上目遣いでこちらを見ながら甘い声で行ってくる。 私は女子の中では長身で梔乃は背が低いから、その仕草が小動物のようで愛らしい。 「私、蒼花ちゃんとデートしたい!」 それだ。
透明だって自覚した日
彼と彼の友達と私と、 3人で彼のアルバイト先に食事に行った。 彼とはもう2年の付き合いになる。 自分でも、よくまぁここまでお付き合いが続いているなと思う。 それは別に、私が冷めやすいだとか、男たらしだとか、そういう話では無い。 彼のアルバイト先には初めて訪れた。 狭くて、小さい。 だけどお客は外まで並んでいた。 なんでも、アルバイト先の店長が今日で最後の出勤で、海外に行ってしまうんだとか。 最後に私に会わせたいと、今日ここに来たわけだった。 この店の店長は、彼を1度ガールズバーに連れていったことがある。それも、しっかり私との交際期間真っ只中にだ。 だからと言ってはなんだけど、私はあったこともないこの店長が少しだけ嫌いだった。 彼は松葉杖でやってきて、 バイト仲間にどーしたー?!なんて心配されていた。 とても楽しそうに明るい声で話す彼。きっと久しぶりに見たと思う。 外の凍える寒さとは違い、店内は熱気で蒸し暑いほどだった。 壁にはバイトの子たちの月目標とか描いたイラストとか、お客さんたちが残した夢を綴った紙とか ごちゃごちゃと貼り付けられていた。 席が空くのを待つ間、彼はずっと友達とのお喋りに夢中だった。 たまに仕事をしながら店長がこちらに声をかけてくる。 なにか言いながら笑いあってたけど女の私にはよくわからないノリだった。 ただ、愛想笑いをしてるだけ。 彼は1度も私に話を降らなかったと思う。 時折店長が私に向かって言ってくる 「あいつはいい男ですよ」 うん、知ってる。 「なかなかいないと思いますよこんなやつ」 そうかもしれん 「店長、そんなん言われたら調子狂います」 冗談交じりに彼が笑う。 だけど、私はそのどれにも素直に頷くことが出来なかった。 彼は、浮気もしないし女友達もいない。 きっとすごくいい人だろう。 けれど過ごした時間が長すぎてわたしには、それは前提になってしまった。 距離が近すぎて、なんだか嫌な部分ばかり見てしまう。 彼が褒められたらそうですよね!って返せる女になりなかった。 彼が照れたらホントのことだよって笑える女になりたかった。 どれもこれも、今の気持ちじゃできないの。 きっと彼はこの店でも仕事を熱心にこなす良い奴で、いつも笑ってなんでもそつなくこなす格好いいやつなんだろう。 だから、普段は憎まれ口しか叩かないような店長が、彼女の私を前にこんなに褒めるのだ。 店長は私を嫌な奴だと思ったかもしれない。 彼も、私をどうしようもないやつだと思ったかもしれない。 それでも、明るく話しかけてくる店長は聞いていた話通りの人で、初めて会ったくせに、なんだかなんでも話したくなるような人だった。 少しだけ嫌いだったけど、もっと嫌いになりたくなった。 家で共に過ごす彼とは、最近ろくな会話もない。私が話しても不機嫌な返事が返ってくるだけで、彼の笑い声や彼のおふざけも、最後に聴いたのはいつだったかわからない。 同じ空間で、別々のことをして過ごす日々。 私にもあんなふうに笑ってくれたらな。 あんなふうに話を出来たらな。 彼にはきっと私が見えない。 だから私は透明人間。