天音ろっく
9 件の小説天音ろっく
ルビ機能が欲しいなー 執筆ジャンルはラブコメ・ホラー・ミステリー・コメディ・ヒューマンなど、その時の気分で色々と。 作品リスト一旦リセットしました。 ゆるっと気のむくまま投稿します。 最近は更新できてませんがYouTubeにて怪談朗読を公開中📕 https://youtube.com/@yuachanRio 【邪神白猫】【ホラーちゃんねる】で検索してみて下さい( . .)"
鬼
蒸し暑さにパタパタと襟口を摘んで扇ぐと、俺はじっとりと流れる額の汗を拭った。 「……ねえ、まだと?」 前方に向けてそう声を掛ければ、振り返ったタッちゃんはカラッとした笑顔を見せる。 「なんや、もうきつかと? もうすうだけん、楽しみにしてな。きっと驚くけ」 「…………。それさっきも言いよったやん」 「そうちゃ。さっきもおんなじこと言いよったやん。だいたい、“面白かもん”ってなんなん?」 「暑うてかなわんばい……」 口々にそんな愚痴を溢せば、「根性が足らんなぁ」とだけ告げて再び歩き始めるタッちゃん。そんなタッちゃんの背中を追いかけながら、道なき道をひたすら四人で歩いてゆく。 そもそもの事の発端は、一刻半前のことだった。 『鬼狩り山で面白かもん見つけたったい。今から見に行こうや』 得意気に胸を張りながらそう宣言したタッちゃんは、ニカッと笑うと鼻を擦った。そんないつもと変わらない、普段通りの日常。 まさかこんなにしんどい思いをすることになるとは、あの時の俺達は誰も予想もしていなかった。 村の外れにあるこの場所は、普段人などほとんど寄り付きもしない鬱蒼《うっそう》とした山。かつて鬼が住んでいた土地として語られ、村人からは畏怖の対象として“鬼狩り山”なんて名前で呼ばれている。 当然ながらそんな場所なので、人が歩けるような歩道が整備されているわけもなく、うだるような暑さの中歩くのはかなりの疲労を感じた。 「──ほら、あれ見てみぃや!」 一際大きく声を発したタッちゃんは、前方を指差しながら後方にいる俺達を振り返った。 「……やっと着いたと?」 「ほら、凄かろ!?」 疲労困ぱいの俺とは対照的に、ワクワクとした瞳を輝かせるタッちゃん。その指先を辿って更に奥へと視線を移してみると、何やら墓石のようなものがある。 「なんやろ、あれ」 独りごちると、ぜぇぜぇと息を切らしながら追いついて来た武ちゃんが、額に流れる汗を拭いながら俺に向けてポツリと呟いた。 「……誰かん、お墓かな?」 二人で顔を見合わせながら小さく首を傾げる。 「祠じゃなか?」 そんな俺達の後方からひょっこりと顔を出した清ちゃんは、そう言うと興味深げにクリクリとした瞳を開かせた。 「鬼神《きじん》や。こりゃあ、鬼神《おにがみ》様ば祀《まつ》っとう祠《ほこら》ばい」 フフンと鼻を鳴らしながら胸を張ったタッちゃんは、「面白かとは、これからや」と俺達に向けて宣言すると、再びクルリと背を向けて歩き始める。そんなタッちゃんにつられるようにして後を追うと、祠らしき石の裏側へと回り込む。 そこにあったのは、観音開きの粗末で薄汚れた小さな箱。箱とはいえ、よくよく見てみると何やら仰々《ぎょうぎょう》しい型をしている。 (さっき祠っち言いよったし、これも神様でも祀っちょるんやろうか……?) 「こん中見たら、驚くけ」 そう言いながら扉に手を掛けたタッちゃんを見て、驚いた俺は思わず声を上げた。 「待って! ほんとに開けっと? 祟られたらどげんするん!?」 「大丈夫だって。敏雄《としお》は臆病ばい。心配せんでもなんも起こらんけん」 「でも……」 タッちゃんは大丈夫だと言って笑っているが、目の前の箱を見るとどうにも不安が込み上げてくる。それほどに、不気味で陰湿な雰囲気を放っているのだ。 「うちも見てみたかね」 清ちゃんの言葉を聞いて武ちゃんの方へと視線を移してみると、困ったように視線を彷徨わせながらオロオロとしている。 「大丈夫だって。俺は昨日見つけた時にいっぺん開けたけど。ほら、なんもなっちょらんやろ?」 「そうよ、心配しすぎばい。せっかくここまで来たんに、なんも見らん気?」 そんなタッちゃんと清ちゃんの意見に押され、すっかりと勢いのなくなった俺は苦笑した。 「う、うん……ごめん」 俺のその言葉を合図に再び扉に手を掛けたタッちゃんは、一度ぐるりと俺達の顔を確認すると口を開いた。 「じゃあ、開くっぞ」 「うん」 「……う、うん」 「うん。早う早う」 箱の前に屈み込んだ清ちゃん達二人を見つめながら、武ちゃんと二人で少し離れた背後から静かに見守る。ギギギと鈍い音を立てながら開かれてゆく観音扉。その光景は、なんだかやはり少し恐ろしい。 背中を伝っている汗が一気に冷めてゆくような感覚に、俺はたまらずゴクリと小さく喉を鳴らした。 「わっ。……なんこれ?」 「どがんね、カッコいいやろ? 鬼んお面ばい」 「そうかなぁ……。なんかちいと不気味やわ」 「清江《きよえ》にはこん良さが分からんとか。やっぱり女はいかんなぁ」 「そがんことないし。こんお面が悪かとばい」 そんな二人のやり取りを黙って背中越しに眺めていると、こちらを振り返ったタッちゃんが手招きをする。 「そがんとこ突っ立ってないで、二人もこれ見てみぃや」 「う、うん」 「……うん」 武ちゃんと一緒に恐る恐る近付くと、屈んでいる二人の背後からそっとタッちゃんの手元を覗いてみる。 そこにあったのは、古木で作られた鬼の面。ドス黒く古めかしいその様子から、その表情も相まって何だか禍々《まがまが》しいものを感じる。 「な? カッコイイじゃろ」 タッちゃんはそう言って嬉しそうに笑っているが、俺にはこの面の良さが全く分からなかった。 「なんか不気味やわ……」 「何ば言いよっと、こがんカッコイイんに。武史《たけふみ》はこん良さが分かるやろ?」 「……あ、うん。カッコイイかも」 「そうやろ? お前だけやな、こん良さが分かるとは!」 武ちゃんの返事に満足したのか、とても嬉しそうな笑顔を浮かべるタッちゃん。その横では、武ちゃんが興味深げにお面を覗き込んでいる。 どう見てもただの薄汚れた不気味なお面だが、この二人にはそうは見えないらしい。 (こん古さが逆にカッコイイんやろか? それにしても、不気味な顔ばい……) おもむろに面を被り始めたタッちゃんを見て、思わず一歩たじろいだ俺は息を呑んだ。 目出し部分の穴が小さいせいか、その表情は外からでは全く読めず、それがより一層不気味さを増している。 (…………まるで本物の鬼みたいや) 怒りとも哀しみとも言い切れぬ、なんとも恐ろしい表情をした鬼の面。 そこにいるのは確かに見慣れたはずのタッちゃんだというのに、何故か俺の目には本物の鬼のようにしか見えなかった。 ◇ ──それから二週間ほどが経ったある日のこと。 いつものように畑仕事の休憩中に岩陰で休んでいると、そこへひょっこりと顔を出した武ちゃん。 「敏ちゃん、お疲れ様。今日も暑うてたまらんね」 暑さのせいか少しばかり紅潮した頬でニッコリと微笑むと、そう告げた武ちゃんは俺のすぐ隣に腰を下ろした。 「ほんと暑うてたまらんよね……。武ちゃん、今日ん畑仕事は? もう終わったと?」 言いながら首から下げた手拭いで額の汗を拭うと、冷たい水の入った竹筒を武ちゃんの目の前に差し出す。それを受け取った武ちゃんは、「ありがとう」と告げるとゴクゴクと勢いよく喉の奥へと流し込む。この暑さだ。よほど喉が乾いていたのだろう。 数秒ほど黙ってその様子を眺めていると、ようやく満足したのか、武ちゃんは片手で拭った口元からプハッと息を吐き出した。 「うちは収穫は先週で終わっちょるけね。今日は枯葉や残った根の処理だけやったけ、午後は遊んできていいって」 「そっか。俺もあと少しで終わるけ、終わったら一緒に遊ぼうや」 「うん。……あ、そうや。さっき清ちゃんに会うたんやけど、今日は忙しゅうて遊べんって言いよったばい」 「あー……そういやあ、ヤギのお産ん近かって言いよったわ」 「そうなんや? じゃあ生まれるまでは無理そうやなぁ」 「うん、そうやな」 「じゃあ、暫くは二人やな……」 「……そうやなぁ」 「…………」 「…………。ねえ……、タッちゃんは?」 最近めっきりと見かけなくなったタッちゃんの名を口にすると、一瞬ひりついた空気がその場に流れる。 あの日あの山で祠を見つけた日から、徐々に様子がおかしくなっていったタッちゃん。いつもなら元気に外で遊んでいるはずなのに、最近では家に引きこもっているのか、滅多にその姿を見かけることもなくなってしまった。 (最後に会うたのはいつやったっけ……?) そんなことを考えながら、鬼の面をつけたタッちゃんの姿を思い浮かべる。 特に何かがあったというわけではない。ただ、あの日あの山で見つけた鬼の面を持ち帰ったタッちゃんは、その面をとても気に入ったのか、下山してからもよく面を被っていることが多くなった。 その様子は村の人々から薄気味悪がられ、俺の目から見ても少し異様だった。 もしかして、あの祠で何かに祟られてしまったのでは──? そうは思ったものの、あの山に無断で入ったことを咎《とが》められるのを恐れ、周りの大人達には誰にも相談することができなかった。 もしかしたら兄なら何か知っているかもと、三つ年の離れた兄にそれとなく聞いてみると、随分とあやふやな内容しか返ってこなかった。 『──やけな、あん山で鬼ば殺して村を守ったんや』 『あん山に鬼ば住んどったと?』 『そうや』 『一人で?』 『そうや』 『突然現れたと? そもそも、どっから来たと?』 『そがんこと知らん。鬼は突然現るっとばい、やけ怖いんやろ?』 『…………また鬼ば来るやろうか?』 『そりゃ分からんばい。もしかしたら来っかもしれんし、来んかもしれん。あん山に近付かんば大丈夫ばい、きっと』 俺は兄に聞いたことを後悔した。ぼんやりとしたその内容では、逆に余計な不安を募らせるだけだったのだ。 どうやら兄は祠の存在など全く知らないようで、そんな兄に鬼の面の事など聞けるはずもなかった。兄の話からわかったことといえば、かつて村に鬼が出た時、あの山で追い詰めた鬼を殺したことから、今では“鬼狩り山”と呼ばれていると。そんな山の名の由来くらいだった。 「タッちゃんは……っ、最近なんか変ばい」 小さな声でポツリとそう告げた武ちゃんの声は、あまりに弱々しくて蝉の鳴き声にかき消されてしまいそうな程だった。 「確かにあんお面ば最初に見た時カッコイイて思うたけど……。だけんって、あげん毎日かぶちよるなんて不気味ばい」 「…………。やっぱり……祟りなんやろうか?」 「……そうかもしれんばい」 蒸し暑さで大量の汗を吸収した着物はべっとりと張り付き、執拗に肌に纏《まと》わり付くその感触は随分と着心地が悪かった。 俺は張り付いた着物の裾をギュッと上に引き上げると、あの日あの山に行ったことを後悔した。 ◇ 「……あっ! ねえ見て、あれタッちゃんじゃなか?」 不意に立ち止まった武ちゃんを振り返ると、すぐ横に戻って武ちゃんの指差す方角を覗いてみる。するとそこにいたのはやはりタッちゃんらしき人物で、他人《ひと》の家の敷地内で何やら漁っているようだった。 「タッちゃん……?」 思わず漏れ出た俺の声に反応してピタリと動きを止めると、ゆっくりとこちらを振り返ったタッちゃん。その顔は鬼の面で覆われ、異質な雰囲気を放っている。 「……なん、しよーと?」 恐る恐るそう声を掛けながら視線を下へと移してみると、その手には締め殺された鶏を抱えている。 ──タッちゃんが殺したのだ。 そう理解した次の瞬間、全身の毛穴から一気に大量の汗が吹き出すのを感じた。 (今目の前におるんは、ほんとにあのタッちゃんなんやろうか……?) 生まれてから十二年間共に過ごしてきた友人として、どうにも目の前の光景が信じられなかった。 例え家畜とはいえ、決して動物を傷つけることのなかったタッちゃん。普段はあんなに豪胆なくせに、人や動物を傷つけることを極端に嫌っていた。そんな心優しい少年なのだ。 にじりと一歩前へと踏み出したタッちゃんを見て、あまりの恐怖からヒュッと乾いた空気が口から溢れ出る。 「こ……っ、こっちに来るな!」 意外にも、そんな声を張り上げたのは武ちゃんの方だった。 カタカタと全身を小さく振るわせながらも、必死に威嚇して見せる武ちゃん。その姿を前に一体何を思ったのか、その場で足を止めたタッちゃんはただ静かにこちらを見つめ返した。 ほんの数秒の後《のち》、その沈黙を破ったのは武ちゃんの声だった。 「敏ちゃん、早う逃げよ!」 そう告げるなり、俺の手を取った武ちゃんは「祟りや……!」と叫びながら一目散に走ってゆく。当然ながらその手に掴まれている俺は、武ちゃんと一緒にその場を強制的に走り去ることになる。 けれど、今はそれが有り難かった。恐怖で固まってしまった俺は、あの場から一歩も動くことができなかったのだ。 「武ちゃ……ありが、とう……っ」 息も絶え絶えにそう告げれば、ようやく足を止めた武ちゃんがこちらを振り返った。 「やっぱり……、祟りなんや。おかしかったやろ? ……あげなん、タッちゃんじゃなか!」 ついには涙声になって声を荒らげた武ちゃんは、鼻を啜《すす》ると両目をゴシゴシと雑に擦った。 「どうすりゃあいいんやろ……」 「タッちゃんには近付かんことばい」 「でも……タッちゃんはどげんするん!?」 「子供ん僕達にはどがんすっこともできんばい……大人に任せようや!」 「あん山に入ったこと言うと!? 怒られてまうやん!」 「そがんこと言いよー場合じゃないやろ!」 「……っ、……」 「…………っ」 互いにぜぇぜぇと肩で息をすると、呼吸を整えてからもう一度お互いを見合う。 「……ごめん、武ちゃんの言う通りやわ」 「僕こそごめんね。言い過ぎたばい」 今ここで二人で争っていても意味は無いのだ。とにかくこの事態を大人達に話さなければならない。そして、一刻も早く祟りに対処してもらうべきなのだ。 そう考えた俺達は、お互いの両親にあの山での出来事と今日見たことを話すと約束した。けれど、その日の帰り道は酷く憂鬱で、まるで沼地に足を取られているかのように重い足取りだった。 ◇ ──気づけば季節はすっかりと秋口になり、うちの畑では大根の種まきが始まっていた。 そんないつも通りの日常の中。あれからタッちゃんがどうなったのか、俺の気がかりはそればかりだった。 秘密を打ち明けた日には、随分とこっ酷く叱られた。それでも、抱えていた重荷から解放されたせいか、俺の心は幾分か軽くなったように感じた。けれど、その隙間はすぐに新たな問題が埋めることとなった。 秘密を打ち明けた俺に対して、タッちゃんとは二度と関わるなと両親は告げたのだ。 祟りから解放されればきっと元の関係に戻れる。そう信じていた俺は、両親から告げられたその言葉に大きなショックを受けた。 そして何より、そんな両親に逆らうことのできない自分自身に失望した。 「タッちゃん、どげんしよるかな……」 独りごちると、夕焼け色に染まった空を見上げる。そこに広がっていたのは穏やかな琥珀色で、まるで心の中にくすぶっているドロドロとした感情が炙り出されてゆくようだった。 情けないことに、俺はあの日見たタッちゃんの姿が未だに恐ろしかった。だからこそ、両親に止められているという口実を盾に、あれ以来タッちゃんの家にすら近づいていなかった。 そんな自分の弱さを呪いながらトボトボと歩いていると、突然の衝撃に吹き飛ばされた俺は尻餅を着いた。 「……っ、痛ったぁ」 擦りむいた掌の痛さに顔を歪めると、体当たりしてきた本人であろう人物にそっと視線を移す。するとそこにいたのは、先ほどまでその安否を心配していたタッちゃんだった。 「タッ、ちゃん……?」 久しぶりに見るタッちゃんは随分と痩せこけ、なんだか薄汚れている。そんなことを思いながら手元を見てみると、そこにはあの日見た時と同じ締め殺された鶏が握られている。 それを認識した途端、あの日の恐怖を思い出してカタカタと震え始めた身体。 「……敏雄」 「ひ……ッ!」 タッちゃんの動きに驚いた俺は、咄嗟に片手で顔を覆うとズリズリと後ずさった。そんな俺を見て、伸ばしかけた右手を引っ込めたタッちゃん。 恐る恐るその様子を窺ってみると、タッちゃんの身体には所々に擦り傷や打撲痕がある。察するに、これは昨日今日できたばかりの傷ではないようだ。 目の前の光景を眺めながら、俺は混乱する頭の中で必死に思考を巡らせた。 (なんで……タッちゃんは泣きよるんや──?) ズレた鬼の面の隙間から見えたタッちゃんは、悔しさと悲痛に満ちた表情を浮かべながら涙を流している。 「……タッちゃん?」 心許なくそう発したその声は、随分と弱々しく情けないものだった。 「──また鬼子が悪さしよった! 早う捕まえるぞ!」 「あっちに行ったぞ!」 村人達の怒号が響く中、ズレた鬼の面を被り直したタッちゃんは一気にその場を駆け抜けた。 「……っ。待って、タッちゃん!」 必死の声も虚しく、あっという間に走り去ってしまったタッちゃん。何がなんだか状況の掴めない俺は、嫌な胸騒ぎを感じてその足でタッちゃんの家へと向かった。 そこに見えてきたのは、村人たちに囲まれて暴行を受けているタッちゃんの両親。今年の春頃から病気で臥《ふ》せっていたタッちゃんのお父さんは、今にも折れてしまいそうなほどに痩せこけている。 「……っ、許してくんさい。ちいと食べ物が欲しかっただけなんや」 「何度目や、こん穀潰しがっ! 満足に働けんくせに食べ物ばよこせやなんて、なんて図々しかばい!」 「鬼子ん親も鬼に違いなか! 殺せ!」 「「「殺せ!」」」 村長の言葉を合図に、「殺せ! 殺せ!」と大合唱する村人達。まるで地獄のようなその光景に、俺はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 先ほど見たタッちゃんの傷跡を思い返しながら、カタカタと震え始める指先。 鬼の面を被り始めてからおかしくなったタッちゃん。今にして思えば、それ以前から時折悲しそうな表情をしていたような気がする。 よくよく考えてみれば、それはタッちゃんのお父さんが倒れてからのことだった。 この村の田畑や家畜は、全て村の財産として村長が管理している。タッちゃん達家族は、もしかしてずっと村八分による差別に苦しんでいたのではないだろうか──? (やとしたら俺は……) 村人達によって撲殺されてゆくタッちゃんの両親を眺めながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を歪める。 「……鬼はお前らの方や」 そう小さく呟いたその声は、誰にも聞かれることなく村人たちの怒号によってかき消された。 ──────── ──── 「「「鬼子を殺せ! 村長殺しの厄災や!」」」 この日は、すっかりと陽が落ち切った夜深い時刻になっても、月明かりの下では村人たちの怒号が鳴り響いていた。松明片手に必死になって森の中を探し回る村人達。その横をすり抜けるようにして森の中を進むと、俺はタッちゃんの行方を必死になって探した。 両親の仇に村長を殺害してしまったらしいタッちゃん。こんなにも愚かで弱い俺では、タッちゃんの為にできる事は何もないのかもしれない。それでも、どうしてもタッちゃんに一言謝りたかった。 「タッちゃん……どこにおるん」 突然の突風に瞼を閉じると、再び開いた先に見えたのは探し求めていたタッちゃんの姿。 「……タッちゃん!」 そう叫べば、ゆっくりとこちらを振り返ったタッちゃん。その顔は鬼の面で覆われ、その表情は全く分からない。 「っ、……ごめん! ごめんね、タッちゃん!」 涙でぐちゃぐちゃになった顔でそう叫べば、ただ静かにその場からこちらを見つめ返すタッちゃん。俺にできる唯一のことは、この場から立ち去るタッちゃんを静かに見送ること。 クルリと背を向けて森の中に消えてゆくタッちゃんを見つめながら、心優しい少年に向けて何度も謝罪する。 月夜に照らされて浮かび上がったあの姿を、俺はこの先も一生忘れる事はないだろう。 返り血を浴びて、まるで血の涙を流しているかのように見えた鬼の面。 それはきっと、お面の裏で一人ずっと泣いていたタッちゃんのように──。 その日を最後に、俺がタッちゃんに会うことは二度となかった。 ─完─
残香
──冬が大嫌いだ。 俺がそう思うようになったのは、まだ恋だの愛だのと、そんな感情に溺れてしまうほどに未熟だった大学一年生の頃だった。 地元から遠く離れた土地で大学へと進学した俺は、慣れない一人暮らしに多少の戸惑いを感じながらも、気の合う友人にも恵まれて充実した毎日を過ごしていた。 そんな俺の生活が一変したのは、冬華と付き合い出したことがきっかけだった。 冬華の凛とした美しい容貌はキャンパス内ではとても有名で、平凡な自分など近付くのも畏れ多く思っていた俺は、いつも遠巻きにその姿を眺めていた。 そんな俺が初めて冬華と会話を交わしたのは、大学の敷地内にいた野良猫に菓子パンを食べさせていた時だった。 「人の食べ物はあげちゃダメだよ」 不意に投げかけられた言葉に後ろを振り返ってみると、そこに立っていたのは冬華だった。 透き通るほどの白い肌に薄く色付く薔薇色の頬。アーモンド形のパッチリとした瞳は、まるで精巧に作られたガラス細工のように美しく、痛みのないサラサラのセミロングはその整った顔立ちをより一層際立たせていた。 間近で目にした冬華の姿を前に、そのあまりの美しさに思わず言葉を失ってしまった俺は、ただ呆然と冬華を見つめることしかできなかった。 「猫にとってはね、人の食べ物は毒なんだって」 そう告げながらこちらに近付いて来た冬華は、フワリと甘い香りを乗せて俺のすぐ隣りに腰を下ろした。 「猫ちゃん。ご飯持って来たよ、こっち食べようね」 そう言ってカサリと袋を破いた冬華は、持参してきたらしい小皿にキャットフードを盛り付ける。 「あっ。コラ、そっちは毒だから食べちゃダメだってば」 未だ猫に向けて差し出したままだった俺の菓子パンを遮ると、冬華は盛り付けたばかりの小皿をそっと猫の前に差し出した。 「……あ、ごめん。毒だって知らなくて」 慌てて手元の菓子パンを引っ込めながら謝罪をすると、そんな俺に向けてニッコリと微笑んだ冬華。 「どうしてもそっちに惹かれちゃうみたいだね」 取り上げられた菓子パンに向けてニャーニャーと声を上げる猫を見て、俺は困ったように微笑むと猫の頭を撫でた。 「ごめんな。これはお前には毒なんだってさ」 「そっちの方が味が濃くて美味しいもんね。でもダメだよ、身体に毒だからね」 そう言いながら猫の身体を撫でた冬華は、俺の予想に反してとてもよく笑う人だった。 一見すると美人すぎて近寄り難く感じるものの、どうやらそれは間違った認識だったらしい。 こうして偶然にも猫を介して交流を持つこととなった俺達。初めこそ猫を介してのみだった交流も、気付けばキャンパス内でも一緒にいることが多くなり、冬華との仲は急速に深まっていった。 けれど、それはなにも俺だけが特別だったというわけではなく、元々友人の多かった冬華からしてみれば、俺もその内の一人にしかすぎなかった。 (冬華にとって、もっと特別な存在になれたら──) 図々しくも、彼女に対してそんな想いを抱くようになった頃。彼女の方から俺に告白してきた時には心底驚いた。 どうして冬華のような人が平凡な俺を好きになったのだろうか──? そんな疑問が尽きることはなかったものの、確かに冬華は俺を選んでくれた。そんな優越感があったことも嘘ではなかった。 「どうかした?」 フワリと甘い香りを乗せて俺の顔を覗き込んだ冬華は、キラキラと輝くガラス細工のような瞳を瞬(しばた)かせた。 「あ……いや、いい匂いだなって思って」 「この香水?」 「うん。いつも付けてるよね、その香水」 「気付いてたんだ? これね、特注品なの。私の誕生花の香りなんだよ。なんの花か分かる?」 そう言って少しだけ瞳を細めた冬華は、俺に向けて悪戯っぽい笑顔を浮かべる。 「誕生花って、一月十三日の花?」 「うん」 「ごめん、俺そういうのに疎くて……分からないや」 「ふふっ。だよね……これはね、スイセンの花の香り。いい匂いでしょ?」 「うん。冬華に似合ってる」 「ありがとう。でもね、スイセンて毒があるんだって。知ってた?」 「え、毒……?」 「大丈夫、口にしなければ害はないよ」 そう告げながら微笑んだ冬華はとても妖艶で、俺からしてみればそんな彼女自身が“毒の花”のように思えた。 こんなにも美しい冬華が俺の彼女だなんて、本当にこれは現実なのだろうか──? そんな夢うつつな日々を過ごしながら、俺は日を追うごとに益々冬華に心酔していった。 そんな俺が嫉妬に狂ってゆくのは、至極当然のことだったのかもしれない。 元より自分自身があまり好きではなかった俺は、俺とは対照的に自信に満ちた冬華に憧れのような感情を抱いていた。それがより身近な存在になったことで、最初こそ幸福感を感じてたものの、冬華と過ごしてゆく内に自分を卑下する気持ちが如実に現れていったのだ。 どうしてこんな俺と? 冬華と俺とでは、やはり不釣り合いなのではないだろうか? そんな鬱屈した感情を友人に相談してみても、皆羨ましがるだけで何の解決策にもならない。 相変わらず人気の冬華はキャンパス内での友人も多く、俺という彼氏がいるにも関わらず男の噂も絶えなかった。 「経済学部の男と一緒いるとこ見たって聞いたけど、どういうことだよ!」 「……え? ちょっと話してただけだよ」 「浮気でもしてるんじゃないのか!?」 「どうしてそんなこと言うの……っ?」 「みんな噂してるんだよ! 俺が知らないとでも思ってるのかよ!」 「そんな噂より、私のことを信じてくれないの?」 そんな口喧嘩が絶えなくなったのは、季節もすっかりと冬へと変わった十二月の頃だった。 冬華への愛情はもちろん変わりなかったものの、その強すぎる愛情が憎しみという感情を生んでしまったのだ。 今にして思えば、それはただの嫉妬にすぎなかったのかもしれない。 自分を卑下する気持ちが強かった俺は、時折りコソコソと学生達が話している姿を見かけては、冬華に弄ばれている俺の噂話でもしているのだと、そんな被害妄想を抱くようになっていった。 誰からも好かれる輝く星の元に生まれた冬華。対して、特に秀でた才もない目立たない存在の俺。そんな俺達が付き合えたこと自体、奇跡のようなものだったのだ。 けれど、冬華とさえ出会わなければ、俺がこんなにも自分自身を卑下することもなかっただろうし、惨めな思いをすることもなかった。いつしかそんな感情が芽生えてきてしまった俺は、冬華を愛する気持ちとは裏腹に、ドス黒く濁った感情に飲み込まれていった。 愛してる──だけど、殺したいほどに憎い。 そんな感情を持ったのは生まれて初めてのことだった。きっと、それほどに冬華のことを愛してしまっていたのだ。 ──そんな冬華が行方不明になったのは、冬休みが明けた一月の中旬のことだった。 警察による捜索も虚しく、それから半年が過ぎても冬華を見つけることはできなかった。いつしかそんな冬華の存在は忘れ去られ、行方不明になってから一年近く経つ頃には、その噂話もたまにチラリと耳にするほどとなった。 恋や遊びなどといった新たな刺激に夢中な学生とは、俺が思う以上に他人になど感心がないのだ。存外そんなものなのかもしれない。 そんな中、俺は深い悲しみと罪悪感を抱きながらも、その心中はやけに穏やかな充実感で満たされていた。 不思議なもので、あれほど嫉妬に塗れていた憎悪が消えたのだ。これで誰にも冬華を奪われることはない。そう考えると、後に残ったのは冬華への深い愛情だけだった。 そんな俺の前に突然冬華が姿を現したのは、降り積もった雪が歩道を一面の雪景色へと変えた、一月十三日のことだった。 フワリと香る、あの懐かしいスイセンの香り。その甘い香りに軽く目眩をおこしながら、俺は目の前にいる冬華に向けて小さな声を漏らした。 「どう……っ、して……?」 我が目を疑いながらもゆっくりと冬華へと近付くと、その美しく整った顔にそっと触れてみる。 ひんやりとした頬はまるで死体のような冷たさで、けれど、薄く色付く頬が確かに冬華の存在を示していた。 「冬、華……?」 心許無く発した俺の声に反応するかのようにして、目の前にいる冬華はアーモンド型の美しい瞳を薄く細めた。あの頃と何一つ変わらない、恐ろしくも妖艶な笑顔の冬華。 その姿を前に、忘れていた憎悪にも似た感情が沸々と蘇ってくる。 (冬華は永遠に俺だけのものだ──) 細っそりとした白いうなじに手をかけると、俺は力任せに彼女の首を締め上げた。 「……っ、なん、で……?」 一年前と全く同じ台詞を口にした冬華は、締め上げる俺の両手を力なくその手で抑えると、一年前とは違って無表情な顔のまま俺を見上げる。そんな冬華が酷く恐ろしくて、俺は締め上げている両手に更に力を込めた。 一面に広がる積雪に赤いマフラーを散らしながら倒れる冬華。その姿は、死してなおとても美しかった。 「冬華……お前は永遠に俺のものだ」 そんな彼女を見下ろしながら、俺は安堵感から薄っすらと笑みを溢した。 それからの俺の行動はやけに迅速だった。二度目ともなれば、それも納得ができるというもの。 一年前に埋めたはずのその場所には、確かに“彼女を埋めた”痕跡が残っている。けれど、それを掘り起こす勇気などなかった俺は、新たに掘った穴に冬華の身体を埋めることにした。 きっと、彼女の遺体は今回も見つかることはないだろう──。 そう思いながら冬華の身体を埋めたのは、昨年の一月でちょうど十回目。 愛する冬華を自分のものだけにする為とはいえ、永遠とも思えるこの瞬間が酷く恐ろしい。生々しく残る両手の感覚が薄れる頃、冬華は俺の目の前に現れてその感覚を新たに刻んでゆく。 俺はそんな冬が大嫌いで──それ以上に愛しくもあった。 一面の雪景色の中、俺は人などいない歩道の上をサクサクと音を立てながらゆっくりと歩いてゆく。その真新しい足跡を辿るようにして、フワリと鼻腔を掠めるスイセンの香り。 その甘い香りにつられるようにして背後を振り返ってみると、そこにいたのはあの頃と何一つ変わらない冬華の姿だった。 「──やあ、冬華。今年も会いに来てくれたんだね。君は永遠に俺のものだよ」 そんな愛の言葉を囁きながら、今年も俺は君のうなじに手をかける。 ─完─
菩薩妻
「奥さん、優しそうな人ですね」 俺の妻を見たことのある人は、大抵がそんな言葉を口にする。 “優しそうな人”とは、一見すると褒め言葉のようで聞こえは良いが、それが褒め言葉ではないということを俺は知っている。きっと、それ以外に形容する言葉が見つからないだけなのだ。 事実、俺の妻は美人でもなければ特別スタイルが良いわけでもない。むしろ、地味で冴えない不美人な女と言っていいだろう。唯一の長所と言えば、その菩薩《ぼさつ》のような穏やかさだろうか。下膨れに細い瞳で微笑む姿は、まるで観音菩薩《かんのんぼさつ》のそれに似ている。 そんな人を前にして、何か一つ褒めなければならないとしたら、“優しそうな人”と無難な言葉を口にする他ないのだ。 所謂《いわゆる》、社交辞令というやつだ。 「菩薩ってさぁ、ほんっとブスだよね~」 裸のままベットに横たわっている梨奈が、そう声を漏らしながらシーツを手繰(たぐ)り寄せる。 「ねぇ、何であんなブスと結婚したの? あんな顔毎日見るなんて、私だったら耐えらんな~い」 遠慮する気など更々無いのであろう梨奈は、あけすけな本音を溢しながら俺を見上げた。 俺だって、なんでこんな女と結婚してしまったのかと、ここ数年は毎日後悔ばかりしている。たまたまと言ってしまえばそれまでだが、ちょうど鬱憤(うっぷん)が溜まっていた時にタイミング良く出会ったのが亜希だった。 「俺だって嫌だよ」 口に咥えたタバコに火を付けると、俺はチラリと梨奈に視線を向けてそう答えた。 「いつからなんだっけ?」 「十年くらい前かな」 「ふ~ん。どこで出会ったの?」 「コンビニ」 「え~、コンビニ? もしかしてナンパでもしたとか?」 「……ま、そんな感じかな」 「え~、マジうける~! あんなブスよくナンパしたね」 そう言ってケラケラと笑い声を上げた梨奈は、「私にもちょうだい」と言って吸いかけのタバコを取り上げた。 そんな梨奈の姿を横目に、俺は一人、亜希との出会いを思い出していた。 今から十年ほど前の十二月。当日になってクリスマスデートをドタキャンされた俺は、ムシャクシャとした気分で近所のコンビニへと立ち寄った。 普段なら絶対に相手にもしない、地味で冴えない不美人な女。そんなコンビニの店員を前にした俺は、ちょっとだけからかってやろうと、そんな軽い気持ちから声を掛けてみることにした。 『前から思ってたんですけど、お姉さん可愛いですね』 そう口にすると、途端に顔を真っ赤に染め上げた店員。褒められ慣れていない女とは、こうも簡単に頬を染めてしまうものなのだ。 その単純さに妙な優越感を覚えた俺は、ほんの少しだけからかうつもりでいた予定を変更すると、そのまま自宅へと連れ帰ることした。 今にして思えば、それだけドタキャンされたことに腹を立てていたのだろう。 地味で冴えない見た目通りに、とても慎ましく従順な亜希。俺が普段デートしている女達とは真逆のタイプで、正直言って全く好みでもない。けれど、そんな亜希との時間は意外にも悪くはなかった。 痒い所に手が届くと言えば分かり易いが、亜希はとても気の利く女で、あまつさえ際限なく俺に尽くしてくれる。何より、俺がどこで何をしようとも一切文句も言わないのだから、こんな便利な女は他にいないだろう。 けれど、やはり抱くとなると梨奈のような美人で可愛い女の方がいい。本来、俺は面食いなのだ。いくら便利な女だからとはいえ、結婚したのは間違いだったのかもしれない。 家に帰ればあの不美人が居るのかと思うと、ここ数年は本当に憂鬱でたまらない。 唯一の救いといえば、亜希が俺に何も求めてこないということ。家政婦を雇っていると思って我慢さえしていれば、こうして外で自由に女を抱くことができるのだ。 「ねぇ、菩薩と別れる気はないの?」 「まぁ……、便利だからな。家政婦みたいなもんだよ」 「家政婦とか、直輝ひど~い」 そんなことを言いながらも、クスクスと笑い声を漏らす梨奈。そんな梨奈の姿を見つめながら、この関係がいつまで続くかと考える。 派手で美人な女は好みだけれど、そういったタイプは総じて奔放な性格が多いのだ。 (……ま、切れたら切れたらで、他にいくらでも女はいるしな) 一人の女に固執することのない俺にとっては、むしろそのぐらいの方が丁度いい。変に本気になられても、後々面倒なことになるだけなのだ。 そんな俺の考えを見透かしていたかのように、それから暫くすると梨奈からの連絡は途絶えた。 “他に好きな人ができちゃった” そんな短いメールだけを残して、唐突に終わりを迎えた不倫関係。奔放な女とは、いつだって唐突なのだ。 きっと、不倫していたことに罪悪感すら感じていないのだろう。 (……ま、俺も人のこと言えないけどな) そんな事を思いながら自嘲すると、俺は一人小さく笑みを溢した。 「ハンバーグ、そんなに美味しい?」 夕食を口に運びながら微笑む俺を見て、どうやら勘違いでもしたのかクスリと声を漏らした亜希。 「……ああ」 テーブルを挟んで目の前に座っている亜希にそう答えると、「良かった」と言って嬉しそうに微笑む。 確かに亜希の作る食事はどれも美味しいが、目の前に居るのがこんな不美人では、せっかくの食事も美味しさが半減してしまうというものだ。 そんなことを思いながらも箸を進めていると、ガリッとした異物感に気付き、俺は食べかけのハンバーグを皿の上に吐き出した。 「……っ、おい。なんだよこれ」 そう言って小さな宝石のようなものを摘み上げると、申し訳なさそうな顔をして口を開いた亜希。 「ごめんなさい。ネイルのラインストーンが取れちゃったみたい」 「汚ねぇな……、ふざけんなよ」 菩薩のくせにお洒落に気を使うとは、なんとも気持ちが悪い。くわえて、その飾りがハンバーグに混入していたとなれば、その不快感さはひとしおだ。 俺はその腹立たしさから「チッ」と舌打ちを溢すと、そのまま席を立ってリビングを後にした。 ◆◆◆ それから数週間が経つ頃には新しい彼女も出来、俺は順風満帆な生活を送っていた。 いつもと違うことといえば、今回の彼女に対しての本気度だった。 いっそのこと亜希とは離婚して、このまま彼女の沙奈と一緒になるのも有りなのかもしれない。そんなことを思ってしまう程に、俺は沙奈に心底惚れ込んでいた。 (離婚するにしても、損だけは絶対したくないよな) そんなことを考えながらリビングの扉を開くと、そこには風呂上がりの俺を待つ亜希の姿があった。 「ビール飲むでしょ? 用意しておいたから」 そう言って、菩薩のような微笑みを浮かべる亜希。 気が効くのは便利で有難いが、正直、今は亜希の顔など見たくもない。せっかく可愛い彼女とのデートで気分良く帰宅したというのに、これではその余韻も全てが台無しだ。 そう思った俺は、亜希の顔も見ずに無言でダイニングへと腰を下ろすと、グラスに注がれたビールをグビグビと飲み始めた。 「晩御飯あるけどどうする?」 「……ああ、食べて来た」 「そう」 「…………」 「最近また忙しいみたいだけど。あまり無理はしないでね」 仏頂面で言葉少なげに答える俺とは対象的に、穏やかな笑みを浮かべて話し続ける亜希。 そんないつもと変わらない、なんの面白みもない空気が漂う中。不意にテーブルに置かれた携帯へとチラリと視線を送った亜希は、その視線を再び俺へと戻すとニッコリと微笑んだ。 「そういえば、さっき携帯に着信があったわよ」 「──!?」 その言葉を聞いた瞬間、ドキリと鼓動を跳ねさせた俺はゴクリと唾を飲み込んだ。 「っあ、ああ……、取引先だな、きっと」 そうは言ったものの、こんな夜遅くに取り引き先から電話が掛かってくるだなんて、そんな可能性は万に一つも無いだろう。おそらく、その着信は沙奈からのものだ。そうと分かってはいても、俺はそう答える他なかった。 チラリと亜希の様子を窺(うかが)ってみると、相変わらず菩薩のような微笑みを浮かべているばかりで、その心中を読み解くことはできない。 着信があった時、亜希は表示された画面を見たのだろうか──? それが気になって仕方がなかった俺は、とにかく誰からの着信だったのかを確かめるべく、テーブルに置かれた携帯を掴むと席を立った。 「ちょっと掛け直してくる」 それだけ告げてそそくさとリビングを後にした俺は、自室に籠ると急いで携帯を確認してみた。 「……やっぱり沙奈か」 画面に表示されている着信履歴を見て、まずいことになってしまったと顔をしかめる。今このタイミングで、不倫をしていることがバレるのは非常にまずい。 今までも、きっと亜希は気付いていただろうし、その上で何も言ってはこなかった。けれど、離婚を考えている今となっては、この関係が明るみになってしまうのは非常に困るのだ。 いくら従順な亜希とはいえ、離婚となれば膨大な慰謝料を要求してくる可能性だってある。 「あ~……っ、しくった」 自分の脇の甘さに「チッ」と舌打ちを打つも、こうなれば気付いていないことを祈るしかない。そう思った俺は、それから毎日不安な日々を送ることとなった。 けれど、そんな俺の気持ちとは裏腹に、いつもとなんら変わらぬ様子の穏やかな亜希。どうやら俺の心配は杞憂だったようで、沙奈との不倫には気付いていないようだった。 けれど、そんな心配事も吹き飛ぶ程の大きな問題が、何の前触れもなく突然俺の身に降りかかってきた。 ──なんと、沙奈から突然別れを切り出されたのだ。 いつもの俺なら、さっさと切り替えて別の女でも物色していただろう。けれど、本気で愛してしまった沙奈だからこそ、簡単に諦めることはできなかった。 ひたすら連絡を取り続けるも、一向に繋がらない沙奈の携帯。そんな状態が数日続いただけで、目に見えてやつれてゆく俺の姿は隠しようもなかった。 どうやら沙奈は転居してしまったらしく、もしかしたら、このまま二度と会えないのかもしれない──。そう考えるだけで、本当に身を裂かれる思いだった。 「今日のハンバーグ、どうかな? 美味しい?」 俺の沈んだ気持ちなど知りようもない亜希は、そう質問を投げ掛けると小首を傾げた。 普段は食事の感想など一切求めてこないというのに、何故かハンバーグが食卓に並んだ時にだけ、毎回その味の感想を俺に求める亜希。よくよく考えてみれば、ハンバーグが食卓に並ぶタイミングは、毎回女と別れた時期と重なっていた気がする。 そんな朧(おぼろ)げな記憶を辿りながらも、ゴリッとした異物感に口の中のものを吐き出した俺は、皿の上に転がったそれを見て思わずギョッとした。 「え……? なんだよ……っ、これ……」 心許無くそう声を発した俺には、その時の亜希が一体どんな表情をしていたのかは分からない。 慌てて口内をくまなく確認するも、そこにあるのはいつも通り綺麗に整った歯列。それを確認した俺は、全身から一気に血の気が引いてゆくのを感じた。 「ごめんなさい。ネイルには気を付けてたんだけど……」 そう告げた亜希の手元を見てみると、その爪はマニキュア一つ塗られてはいなかった。 俺は震える身体でゆっくりと顔を上げると、目の前に座っている亜希の顔を凝視した。 「次からは歯にも気をつけなきゃね」 そう言って俺の皿から一本の歯を摘み上げた亜希は、まるで観音菩薩かのような穏やかな微笑みを浮かべていた。 ─完─
僕のミア
僕の一日の始まりは、まず起きてすぐに可愛いペットへ朝の挨拶のキスをすることから始まる。 チュッと軽くリップ音を響かせると、僕は慈愛に満ちた瞳を細めた。 「おはよう、ミア。今日も可愛いね」 そう優しく微笑みながらそっと頭を撫でてやれば、嬉しそうに頭をくねらせて可愛らしい声を上げたミア。 そんな姿を愛おしく思いながらクスリと声を漏らすと、もう一度ミアの頭を優しく撫でてから口を開いた。 「今、朝ご飯用意するからね」 寝起きで頭の冴えない状態のままキッチンへと向かうと、自分の朝食は後回しにしてミアの為の朝ご飯を準備する。 やはり、ペットを飼っているとどうしても自分のことは後回しになってしまう。それ程に、ペットという存在は愛おしい。 正直、ペットを飼っていると旅行にだって行けやしないし、心配で夜遅くまで家を空けることもできない。中々言うことを聞いてくれない躾の時間には、時には骨が折れる程の苦労をさせられることもある。 だけど、ミアはその苦労以上の幸せを僕に与えてくれる。 ミアの面倒を見ることは飼い主である僕にしかできないことだし、飼った責任だって勿論ある。僕の自分勝手な都合でペットとして飼われることになったミアのことを思うと、一生手放す事なく愛情を注いであげなければならない。 それが責任というものだ。 「ほら、ミア。ご飯だよ」 新しい水と食事をキッチンから持ってくると、ミアの足元にお皿を置いてニッコリと微笑む。 「たんとお食べ」 促すようにそっと頭を抑えてやると、足元に置かれた餌の存在に気付いたミアは、嬉しそうに喉を鳴らすとピチャピチャと食べ始めた。 その姿を眺めながら朝の癒しを堪能すると、棚に置かれた時計の針を見て慌てて会社へ行く準備に取りかかる。 昨夜遅くまでミアの躾をしていたせいか寝坊をしてしまった為、どうやら今朝は朝食を食べる余裕はないようだ。 だけど、どんなに寝坊をしようともミアの世話だけは欠かさない。それが、ペットを飼う責任というもの。 「それじゃ行ってくるね。いい子で留守番してるんだよ、ミア」 悲しそうな瞳で僕を見送るミアの姿に心を痛めながらも、仕事を休むわけにもいかずに断腸の思いで自宅を後にする。 (今日はお土産にミアの好きな魚でも買って帰ろう) ミアの喜ぶ姿を想像しながらクスリと小さく微笑むと、僕は会社へと向かう足を急がせたのだった。 ───── ──── 「──ただいま、ミア。いい子にしてたかな?」 魚のお土産片手に自宅へと帰ってきた僕は、部屋の片隅に座っているミアを見つけるとニッコリと微笑んだ。 どうやら、今日は大人しく留守番をしてくれていたらしい。悪戯された気配のない室内を見渡すと、優しく微笑みながらミアの頭を撫でてあげる。 「いい子だね、ミア」 それに機嫌を良くしたのか、頭をくねらせたミアは僕に向かって小さく声を上げた。 今すぐに構ってあげたいのは山々だけれど、まずはトイレ掃除をしてあげなければならない。それが終われば、次はミアの夜ご飯の準備だ。 これが、僕の毎日のルーティン。 「ちょっと待っててね」 そう声をかければ理解したのか、ちゃんと静かに待っている様子のミア。そんな姿がとても可愛いくて、トイレを片付けながらも思わず鼻歌が零れる。 「今日はね、ミアの好きな魚を買ってきたんだよ。食べやすいように解してあげるからね」 トイレ掃除を無事に済ませると、そのままウキウキとした気分でキッチンへと向かう。 本当なら今すぐにでも堅苦しいスーツなど脱ぎ捨てたいところだけれど、可愛いミアを待たせるわけにはいかない。他のどんなことよりも、まずはミアのお世話が優先なのだ。 「ほら、魚だよ。今日はいい子だったね」 そう告げながらミアの足元にお皿を置くと、喉を鳴らしてピチャピチャと食べ始めたミア。その姿は、本当に愛くるしい。 可愛いミアの姿を充分に堪能し終えると、僕はやっとスーツを脱ぎ捨てると部屋着へと着替えた。 帰宅途中で買ってきた弁当をテーブルの上に広げると、足元に横たわるミアの身体を撫でながら夕食を食べ始める。 「後でお風呂に入ろうね、ミア」 ミアの身体が少し汚れていることに気付いた僕は、箸を進めながらも優しくミアの身体を撫でた。『お風呂』という言葉を理解したのか、僕の手をすり抜けると部屋の隅へと身を寄せたミア。どうやら、相変わらずのお風呂嫌いなようだ。 暴れるミアをお風呂に入れるのは本当に大変だけれど、汚れをそのままにしておくわけにもいかない。今夜も躾に苦労しそうだ。 そんなことを思いながらも、ミアのお世話をするのが楽しくてフフッと声を漏らす。 「ご馳走様」 ミアを待たせては悪いとばかりに早々に食事を済ませると、部屋の隅に縮こまっているミアの側に近寄りその頭を優しく撫でてやる。 「お待たせ、ミア。お風呂に入ろうか」 ミアの首に付けられた首輪を外すと、その身体を抱えてお風呂場へと移動する。これから起こることが分かったのか、急に暴れ始めたミア。危うく落としそうになり、慌てて抱え直す。 「コラッ! 大人しくしないとダメだろ、ミア!」 (どうやら今夜も躾で遅くなりそうだ) そんな予感を感じながらも、愛おしくて堪らないミアを抱きしめてニッコリと微笑む。 今にも逃げ出してしまいそうなミアをどうにかお風呂へと入れると、暴れるミアを抑えてその身体を丁寧に洗ってゆく。 この時間が、実はお世話の中で一番大変だったりする。隙あらば脱走しようとするミアと、それを阻止しようとする僕との攻防戦が繰り広げられるのだ。 「っ、……コラッ! 暴れるな!」 そんな事を言いながらも、この攻防戦が楽しかったりもする。小さな身体では当然僕の力に敵うはずもなく、項垂れたミアは観念したかのように大人しくなった。 敵うはずもないと分かっているくせに、毎度のように脱走してみせようとするミア。そんなミアが可愛くて、クスリと声を漏らした僕は鼻歌混じりにミアの身体にお湯をかけた。 「よし、終わり。頑張ったね、ミア」 グッタリとしたミアを抱え上げると、濡れた身体を優しくタオルで拭いてあげる。それだけでは乾ききらなかった毛を乾かすために、予め用意してあったドライヤーを手に取ると丁寧にミアの毛を乾かしてゆく。 ペットのお世話をするのは本当に大変だけれど、その分愛しさも溢れてくる。僕は、そう感じるこの瞬間が大好きなのだ。 「もう二十四時過ぎてる……」 カチリとドライヤーの電源を切ると、視界に入ってきた時計を眺めてポツリと呟く。 どうやら僕の予想は当たっていたようで、今夜もミアのお世話で気付けば二十四時を回ってしまった。 「もう寝ようね、ミア」 細っそりとしたミアの首に首輪を取り付けると、優しく微笑みながらそう語りかける。 「…………ミア?」 何の反応も示さずにグッタリとしている僕のミア。 「あれ……?」 ミアの顔に右手をかざして確認してみると、呼吸をしている気配を感じられない。どうやら、今回のミアも壊れてしまったようだ。 「ペットのお世話は本当に大変だな……」 首輪に繋がれた鎖をジャラリと響かせると、僕はグッタリと横たわるミアを抱き起こした。 「おやすみ、ミア」 ミアだった”それ”の髪を丁寧にかき分けると、虚な瞳のまま命尽きたミアの唇にそっとキスを落とす。 明日からまた、新しいミアを用意しなければならない苦労を考えると残念でならないけれど、こうなってしまったら仕方がない。ペットのお世話とは、それだけ大変なのだ。 だけど、それ以上の幸せを僕に与えてくれる。 僕の毎日を愛しい時間で満たす為に、明日からまた、新しいミアを探しに行こう。 愛しい愛しい、僕だけのミアを──。 ─完─
黄泉之駅
「ま~た、おばちゃんと喧嘩したんか?」 「うん……だって全然私の言い分聞いてくれんけん」 どこまでも続くのどかな田んぼ道を歩きながら、私は隣にいる幼馴染の隆史に向けて愚痴を溢した。 のどかと言えば聞こえはいいが、実際にはいつ廃村してもおかしくはない程のド田舎だ。 村の人口はたったの百人程で、その内に十代の子供といえば私を含めても十四人しかいない。それでも、私は生まれ育ったこの村が好きだった。 小さな頃からお婆ちゃん子だった私は、山菜や薬草などといったものから野に咲く様々な花まで、よく祖母に連れられて色んな場所へ行っては、その経験豊富な知識に随喜(ずいき)していた。そんな想い出が沢山詰まった、大好きな村なのだ。 けれど、進路となると話はまた別で、来年の春にはこの村を出て都会の大学へ進学するつもりでいた。ところが、私の母はそれを反対したのだ。 「俺は親父の跡継ぐから進学はせんけどな」 「私はそんなん嫌やけん……」 「なら、またちゃんとおばちゃんに話してみ」 「……うん」 「なら、また明日な」 「うん、また明日」 気持ちの晴れぬまま隆史と別れると、トボトボと一人畦道を歩いてゆく。 (こんな時、お婆ちゃんだったら……) 昨年亡くなった祖母の事を思い出しながら、溢れてきた涙を拭うとキュッと口元を引き締める。 (馬鹿らしいかもしれんけど……やっぱり試してみよう) 予め用意してきたハガキを鞄から出すと、私はそれを持ったまま駅へと向かった。 この村に唯一ある無人の駅は、朝と夕の日に二本しか電車が通らないほど寂れた駅なのだが、その駅には昔からちょっとしたある噂があった。その駅にあるポストへ死者宛のハガキを出すと、一度だけ会うことができるというのだ。 そんなにわかには信じられないような話でも、今の私は縋(すが)り付きたい思いだった。それ程に、祖母のことが恋しかったのだ。 「本当に会えるんかな……」 『黄泉之駅』と書かれた看板を見上げると、その傍にあるポストへと視線を落とす。 死者と会えるという噂からか、はたまた駅の名前からそんな噂がたったのか……。それはわからないが、改めて考えてみると何とも不思議な名前だ。そんな事を思いながらも、私は持っていたハガキをポストへと投函した。 「……よし。あとは夜中零時にここに来ればええんよね」 ポツリと一人呟くと、私は来た道を引き返して帰路へと就いたのだった。 ────── ──── ──その日の夜。零時五分前に『黄泉之駅』へとやって来た私は、ドキドキと期待に胸を高鳴らせた。 死者と会えるという噂を完全に信じているというわけではないが、嘘だという根拠もない。それなら、私はその可能性に賭けてみたかった。 零時になる瞬間を今か今かと待ち侘びる。 持っていた携帯の表示が零時丁度になった瞬間、それは音もなく私の目の前に現れた。 ────!! 突然目の前に現れた電車に驚き、私はその場で固まると固唾を呑んだ。まるで夢でも見ているのかと疑うような光景に、ヒヤリとした汗が背中を伝う。音もなく開いた扉を見つめながら、私はゴクリと小さく喉を鳴らした。 「──みっちゃん」 「っ、……お婆ちゃん!」 目の前の扉から姿を現した祖母に駆け寄ると、その身体を抱きしめて涙を流す。そんな私を、優しく包み込んでくれる祖母の手。それはまるで生きているかのように温かく、これは間違いなく夢などではないのだと私に確信させた。 「会いたかった……っ、会いたかったよ!」 「まあまあ……。どうしたと、みっちゃん。ほれ、こっち来んね」 そう言って優しく促してくれる祖母に連れられて車内へと進むと、誰もいない座席へと静かに腰を下ろす。 沢山話したいことはあるはずなのに、止まらない涙で言葉が詰まって上手く出てこない。そんな私の背中を優しく撫でてくれる祖母は、ゆっくりとした口調で口を開いた。 「これからはずっと一緒やけん、みっちゃん』 「……え?」 聞き覚えのないその声にピクリと肩を揺らした私は、ゆっくりと顔を上げると祖母の方を見た。 『みっちゃん』 確かに見慣れた祖母の顔だというのに、その口から発せられる声は祖母のものとはまるで違う。 「あなた……、誰……っ?」 震える口元でそんな言葉を紡ぎながら、あの噂をよくよく思い返してカタカタと震え始めた私の身体。一度だけ死者に会えるというあの噂には、必ず守らなければならないと言われているものがあった。 それは、ハガキに死者の名前と自分の名前を書くときに、必ず表と裏に分けて書かなければならないということ。もし、同じ面に名前を書いてしまったら、そのまま黄泉の国へと連れ去られて二度と帰っては来られないと──。 そんな噂をまともに信じていなかった私は、たいして気にもすることもなく、ただ勿体ないからという理由で書き損じたハガキをそのままポストへと投函したのだ。 (私……っ、自分の名前、裏に書かんかった……) そこまで思い返すと、顔を青ざめさせた私は窓の外を振り返った。暗がりの中でもハッキリとわかったのは、そこに見えるのが見慣れた村の風景などではないということ。 (ここ……、どこ……?) 嫌な汗がジワリと滲み出し、先程までは感じなかった冷気が私の身体ごと車内を包み込む。確かに祖母の姿をしている”ソレ”は、祖母とは似ても似つかない程の不気味な笑顔を見せると、私に向けておぞましいほどの悪声を発した。 《みっちゃん。……これからは、ずっと一緒やけん》 ─完─
野辺送り
──野辺送り。 私がその風習に興味を持ったのは、ハロウィンの仮装で街中が埋め尽くされる中、偶然その姿を見掛けたことがきっかけだった。 繁華街から遠く離れた寂れた商店街で、数十人程の列をなして歩く和服姿の人々。その姿はとても異様で悍(おぞ)ましく、私は思わず息を呑むとその場で足を止めた。といっても、都会育ちの私にはそれが何の仮装をしているのかすぐには理解することができず、一瞬、嫁入り行列のようなものなのかと誤認してしまっていた。 けれど、よくよく見てみると花嫁らしき人の姿はどこにも見当たらず、何やら棺のようなものを運んでいる。それを改めて確認した後に、私は初めてそれが葬儀の列であるということを理解した。 何故、ハロウィンの仮装で葬儀の行列などしようと思ったのか。そんな疑問を感じながらも、初めて目にするその異様な光景を前に、私は気付けばすっかりと心を奪われてしまっていた。 霊柩車の普及に伴い、現代では滅多に見かけることのなくなった“野辺送り”。そんな過去の風習にいたく関心を寄せた私は、ちょうど来月刊行の特集記事を任されていたこともあり、そこで野辺送りについての記事を取り上げることにしてみた。 翌日から早速資料集めを開始した私は、それと並行して聞き取り取材を進めてゆくと、いくつかの体験談も入手することができた。 けれど、その体験談はどれも資料通りのもので、どこか非凡さに欠けている。担当しているのが心霊雑誌ということもあって、このままでは特集自体がボツになってしまうのでは──。そんな可能性を危惧して一人焦り始めた頃、幸運にも出会うこととなったのは、知人から紹介されたAさんという二十代の女性だった。 「子供の頃に見たことがあるんです。でも、あまりにも恐ろしくて……今まで、誰にも話したことがないんです」 そう言って話しを切り出したAさんは、テーブルに置いた両手をキュッと握りしめると、ゆっくりとした口調で語り始めた。 「あれはまだ、私が地元に住んでいた小学一年生だった頃のことです。夏休みも残り僅かとなった、まだ蒸し暑さの残る夜のことでした──」 寝苦しさに目を覚ましたAさんは、襖(ふすま)から漏れ出る灯りを見て瞼を擦った。襖を隔てた隣室から漏れ聞こえる話し声に、それが両親達の声であることを確認したAさんは、喉でも潤そうと寝ていた布団から上半身を起こした。 そこで初めて、目線の高さに位置する窓から外の景色が視界に入ったAさんは、列を成して歩く人影に気付いたのだそうだ。 「それが葬儀の列だってことには、直ぐに気付いたんです。何度か見たことがありましたから。……でも、こんな夜更けに葬儀をするだなんて、少し妙だなとは思ったんです。枕元に置いてあった時計は、確かに夜中のニ時を回っていましたから」 そんな多少の違和感を感じながらも、まだ子供だった当時のAさんは、きっと今までは寝ていて知らなかっただけなのだと、あまり深く考えることなくそう思い至ったのだそうだ。 日中に見た時と違って、どこか禍々(まがまが)しい雰囲気のようなものを纏(まと)った行列。その姿に妙に心惹かれたAさんは、窓辺に手を掛けると物珍し気にその様子を覗き込んだ。 暗がりの中浮かび上がる灯籠(とうろう)は、まるで人魂のように青白く揺らめき、その怪しさをより一層際立たせた。それほど遠く離れた距離に居るわけでもないのに、何故か参列者の顔だけはよく見えず、まるで黒く塗り潰されたかのようだった。 「お面のようなものでも付けているかのかと思いました。それほど真っ黒だったんです、顔の部分だけが」 神妙なお面持ちでそう告げたAさんは、その視線をテーブルへと落とすと固く握った自分の両手を見つめた。 「それで、その行列はどうなったんですか?」 「それから暫く見ていたんですが、まるで暗闇に吸い込まれるようにしてその場から姿を消してしまいました。……今にして思えば、静かすぎたんです。あんなに大勢の人達が列を成していたのに、足音一つ聞こえませんでしたから」 小さく声を震わせたAさんは、その視線を私へと戻すと再び口を開いた。 「でも、その時の私はそんなことにさえ気付けませんでした。まるで何かに取り憑かれたかのように、その行列に魅了されてしまっていたんです」 そう告げたAさんの顔はどこか鬼気迫るものがあり、私はゴクリと喉を鳴らすと話しの続きに耳を傾けた。 「二つ隣の家に住んでいるKさんが亡くなったと知ったのは、翌日の朝でした。長いこと病気で臥(ふ)せっていたんですが、どうやら夜中の内に急変したようで、そのまま亡くなってしまったみたいでした。夜中に両親の声が聞こえたのも、きっとその知らせを聞いていたんだと思います」 普段からKさんと親交の深かったAさんの家では、その手続きや葬儀の手伝いやらで、翌日は慌ただしい一日を過ごすこととなった。 その忙しさは夜が更けてからも続き、襖から漏れ出る隣室の灯りを眺めながら、Aさんは一人、眠れぬ夜を過ごしていた。 「そんな時──ふと、妙な気配を感じたんです」 吸い寄せられるようにして窓へと近付いたAさんは、そこで、前日の夜に見たものと全く同じと思われる、禍々しい雰囲気を纏った行列を目にしたのだそうだ。 「勿論、とても怖かったです。その証拠に、私の両手はとても震えていましたから。二日も連続して夜更けに野辺送りの行列を見るだなんて、そんな偶然はそうそうないですから。Kさんが亡くなったことと何か関係があるのか……そう思わなかったかといえば、嘘になります。でも、それ以上にあの行列に心を惹かれてしまっていたんです」 カタカタと震える両手で窓枠を掴みながらも、Aさんはその行列から視線を逸らすことなく凝視した。やはり、前日に見た時と同じく、足音一つ立てずに進んでゆくその姿は、それはとても異様で恐ろしかったそうだ。 けれど、何かに取り憑かれたかのようにその場を離れることのできなかったAさんは、ただ静かに、その様子を眺めながら固唾を飲んでいた。 「ちょうどその時です。その内の一人が、私に気付いてこっちに顔を向けたのは──。あれは、お面なんかじゃなかったんです。顔が……っ、無かったんです」 Aさんを見つめているのであろうその顔は、渦を巻いたようなドス黒い空間が存在するだけで、とても人の顔とは思えぬほどの恐ろしさだった。きっと、他の参列者も皆同じなのだろう。Aさんは瞬時にそう思ったのだそうだ。 けれど、その事実を前にしても尚、その行列から視線を逸らすことのできなかったAさんは、カタカタと全身を震わせながらその光景に釘付けになった。 「──見たらいかん!」 そんなAさんを勢いよく窓から引き離したのは、一緒に暮らす祖父だったそうだ。 「なんべん見た!? ……手を見せや!」 その剣幕に成すすべなく左手を取られたAさんは、初めてみる荒々しい祖父の姿を見て涙を流した。 その様子に気付いてすぐに駆けつけた両親は、泣き喚くAさんを抱きしめると何やら祖父と言い争っているようだった。けれど、その時の記憶はとても曖昧らしく、あの時祖父達が何を話していたのか、その後どうしたのか、Aさんは全く覚えていないのだそうだ。 「でも、次の日の夜のことは、今でも鮮明に覚えているんです」 そう言って涙を滲ませたAさんは、翌日の夜にあった出来事を語り始めた。 相変わらず蒸し暑さの続く真夜中、人の気配を感じて目を覚ましたAさんは、すぐ横の窓辺に目を向けると、そこに居た祖父の背中に向かって口を開いた。 「おじいちゃん……? なんしよん?」 寝ぼけ眼(まなこ)でそう声を掛けると、こちらを振り返った祖父は優しく微笑んだ。 「じいちゃんが側におるき、安心して寝や」 そう言って優しく頭を撫でてくれた祖父の手は暖かく、それに安堵したAさんはゆっくりと意識を手放した。 そんなことが三日三晩も続き、ちょうど一週間が経った頃。Aさんの祖父は、突然この世を去ってしまったのだそうだ。 「私の身代わりになったんだと思います」 そう言って目を伏せたAさんは、キュッと固く結んだ唇を小さく震わせた。 そんなAさんを前に、私は取材の手を休めることなく口を開いた。 「身代わり、とはどういうことですか?」 感傷に浸っているAさんに目をくれることもなく、私はそんな質問を繰り出した。対して、そんな私の姿に気分を害した素振りもなく、ゆっくりと語り始めたAさん。 「これは後で知ったことなんですけど、三日三晩続けて真夜中に野辺送りの行列を見た人は、その魂を道連れにされてしまうんだそうです。亡くなった魂が一人では寂しいからと、道連れにする魂を探すことがあると、私の田舎では古くから言われているみたいなんです」 「Aさんは、それを信じているんですか?」 「はい、私はそうだと思っています」 「何か、根拠でも?」 「あの時……祖父に頭を撫でられた時、ハッキリと見えたんです。前日まで私の左手にあった赤い痣が、祖父の掌にあったのを──」 「痣……、ですか?」 目の前に腰掛けるAさんの姿を見つめながら、私はコクリと小さく唾を飲み込んだ。 「はい。あの野辺送りを見た翌日の朝、私の左手に薄い痣が浮き出たんです。あの時は、まさかそれがそんな恐ろしものだなんて思いもしませんでした。花弁のようでなんだか可愛いだなんて、そんな風に思っていたほどでしたから……。でも、祖父が窓辺に座って外を眺めるようになったその夜から、私の左手にあったその痣は、すっかりと消えてしまったんです。まるで、祖父の左手に移ったかのように──」 そう告げたAさんの言葉を思い返しながら、私は一人、寂れた商店街を歩いていた。 ニ日程前に書き上げた原稿は、Aさんのおかげもあって、無事に特集記事に掲載されることが決まった。思えば、私が野辺送りという風習に興味を持ったのは、この寂れた商店街での出会いが始まりだった。 そう思うとなんだか感慨深いものがあり、私は歩みを止めると涙を滲ませた。 ハロウィン本番は初日で終わっていたというのに、三日三晩続けて見掛けたあの野辺送りの行列。あの時の私は、そんな事にすらなんの疑問も感じなかった。 今にして思えば、そんな疑問すら思い浮かばない程に、その行列に魅了されてしまっていたのだろう。 あのドス黒く渦巻く顔の先には、一体何が見えるのか──。そんな興味を持ってしまったことが、抗えない“何か”に取り憑かれていた証拠に他ならない。 左手に浮き出た花弁のような赤い痣を見て、私は迫り来る“死”を悟って静かに涙を流した。 この記事が雑誌として世に出る頃には、もう、私はきっとこの世にはいないのだろう。 ─完─
【異色コメディ】ニューワールド
────ジリジリジリジリ 今日も元気に目覚ましが鳴り響き、俺はむくりと起き上がるとセミを叩き潰した。 「……八時か」 ────ジリジリジリジリ なかなか鳴り止まないスヌーズ機能に、もう一つおまけにセミを叩き潰す。 「出掛ける準備をしないとな」 ポツリと一人呟くと、身体中に群がる野良猫を一匹ずつ引き離してゆく。今日の記録は十五匹。どうりで暖かかったわけだ。 俺は一人納得をすると、野良猫の尿にまみれたホカホカのパジャマを脱ぎ捨てて新しいパジャマに着替える。 「おっと。もう八時十五分か」 出発の時間まで残り十五分。これは急いで支度をしないと間に合いそうもない。歯磨きをしながら昨夜の残り物の手羽先を口に咥える。これぞ時短だ。 喉に刺さった骨がちょっと気になり、丸呑みにした手羽先の肉の部分をペッと口から吐き出す。 「ご馳走様でした」 革靴を履いて自宅を出ると、車の鍵を持って徒歩で会社へと向かう。 「しまった、髭を剃るのを忘れた」 だが自宅に引き返す時間はない。仕方なく諦めた俺は、鞄と間違えて持ってきた枕をそっと足元に置くと、道路に横になって一旦休憩することにする。今日もいい天気だ。 土砂降りの雨の中シャワーを済ますと、軽く咳き込みながら再び会社へと向かう。 どうやら先程の雨は通り雨だったようで、夏真っ盛りの太陽が昨夜間違えて剃ってしまった俺の頭頂部をジリジリと焼き付ける。これでびしょ濡れになったパジャマもすぐに乾くだろう。 「あっ。そこ危ないので気を付けて下さい!」 そんな気遣いの言葉に軽く会釈をすると、俺は突然の暗闇の中で頭頂部に手を置いた。 「大丈夫ですかーー!!?」 「あ、大丈夫です。昨夜間違えて剃ってしまって」 天からのお告げにそう答えると、落ちたマンホールから引っ張り上げてもらった俺は軽く咳き込んだ。 「ゴホゴホゴホッ、ガハッ──」 吐血したと同時に今朝食べた手羽先の骨を吐き出す。喉の違和感の正体はこれだったようだ。 「……本当に大丈夫ですか!?」 「あ、パジャマなんで大丈夫です」 そう答えた後にハッと我に返った俺は、足元を見て愕然とした。 しまった、革靴だった。だが今更どうすることもできない。潔く諦めた俺は、擦り傷だらけの身体で再び会社へと向かう。 その途中、一週間程前に盗まれた車を偶然にも発見した俺は、久しぶりに見る愛車を前に身体を震わせた。どうやら風邪をひいたらしい。 ドキドキと高鳴る胸で車に置いてあったラブレターを手に取ると、ブルブルと震える身体で頬を赤らめる。駐禁・罰金一万の文字。どうやら結婚詐欺だったようだ。 危うく詐欺に騙されそうになった俺は、そのまま車の鍵を持って徒歩で会社へと出向くと、受付にいる社員に向けてペコリと会釈をする。 「おはようございます」 「……えっ!? どうしたんですか!?」 「昨日間違えて剃ってしまって」 「いや……、身体凄いことになってますけど大丈夫なんですか!?」 「あ、パジャマなんで大丈夫です」 どうやら頭頂部のことではなかったらしい。既に乾ききった泥だらけのパジャマを軽く指で摘むと、気遣いの言葉に感謝しながら軽く会釈をする。 そのままエレベーターに乗って六階まで行くと、階段で三階まで降りて部長に挨拶をする。 「おはようございます」 チラリと掛け時計を見てみると、時刻は九時二十五分。始業時刻の九時半にはなんとか間に合ったようだ。そう思った瞬間、俺は重大なミスに気が付いた。 しまった、財布を忘れた。これでは昼食を買えない。 「どっ、どうした新(あらた)!? 大丈夫か!?」 「すみません、財布を忘れたみたいです」 「いや、そんなことじゃなくて!」 「あ、昨夜間違えて剃ってしまって」 そう言いながら頭頂部を隠すと、部長に医務室へ行くようにと促される。寒い。どうやら風邪が悪化したようだ。 近くにあった木製の椅子を叩き壊すと、それに火を付けて焚き火をする。すぐさまスプリンクラー発動。せっかく乾いたパジャマもびしょ濡れだ。 鞄と間違えて持ってきた枕を脇に抱えて寝転がると、俺は天井を眺めながらブルリと震えた。寒い。それにしても身体中がヒリヒリと痛い。 これも全て間違えて頭頂部を剃ってしませいだ。今日は革靴を買って帰ろう。あ。しまった、財布を忘れたんだった。 今日もいい一日だ。 そう思いながら瞼を閉じると、俺はいつものように終業時刻までぐっすりと眠った。 理解しようとしたら負け。それが新(ニュー)ワールド。 ─完─
天使の足跡
ある日突然、“天使”だと名乗る小人が僕の目の前に現れた。 「あたしは天使よ。あたしのことは“チコちゃん”て呼びなさい」 そう言って偉そうに踏ん反り返ったのは、五センチ程の小さな小人。確かにその背中には天使らしき小さな羽が生えている。 「あの……天使さん? とりあえ──」 「だから“チコちゃん”よ!」 「痛っ、……いたたたた! 痛いですって!」 僕の言葉を遮るようにして怒った天使は、手に持った杖のようなものでポカスカと僕の頭を殴りつける。 これでも本当に天使だというのだろうか? いきなり人を殴りつけるとは乱暴者にもほどがある。 「ご……ごめんなさい、チコちゃん! やめて下さい! 本当に痛いですってば!」 「ふんっ。ちゃんとチコちゃんて呼ばないあんたが悪いのよ、このちんちくりん!」 そう言って腕組みをしながら踏ん反り返った天使。随分と口も悪いようだ。 「あんたの為にわざわざ来てやったのよ。感謝しなさい」 「別に僕は頼んでませんが……」 「まあ! なんて生意気なの!」 再び杖を振り上げる素振りを見せた天使を見て、慌てた僕は頭を隠しながら大きな声を上げた。 「ごっ、ごめんなさい! とりあえず後にしてくれませんか!? 今はちょっと……っ!」 「なによ、せっかく来てやったっていうのに。あたしに不満でもあるって言うの?」 「っ、……今お風呂中なの見て分かりますよね!? 今すぐ出て行って下さい! お願いします……!」 こうして突如として始まった天使との奇妙な同居生活。事あるごとに僕に干渉する“チコちゃん”と名乗るその天使は、口も悪く乱暴者だったが、意外にもその存在はとても居心地のいいものだった。 「はやく起きなさい、このねぼすけ!」 「痛……っ、いたたた! 痛いです、チコちゃん!」 「早く起きないと学校に遅刻しちゃうでしょ!」 「まだ三十分は寝れますよ……」 「また朝食を食べない気ね!? そんなんだからちんちくりんなのよ!」 「いや……僕そんなに小さくないですよ。それにチコちゃんの方がよっぽど小さ──」 「まあ! なんて生意気なねぼすけなの!」 「痛っ! いたた……っ、痛い、痛いです! ごめんなさい! 今すぐ起きるから許して下さい!」 こうして頭をポカスカと殴られながら起きるも、三日程前からの恒例になりつつある。頭の痛みさえ除けば、こうして賑やかな朝を迎えるというのも悪くはない。 祖母が入院してからというもの、祖母と二人暮らしだったこの家は随分と静かになってしまった。そんな時に突然現れた天使は、僕の沈んだ心を明るく照らしてくれるのに充分な存在だった。 「人参も残さず食べなさいよ」 「苦手なんですよ、人参……」 「だならちんちくりんなのよ!」 そんな小言を言いながらも、甲斐甲斐しく僕の為に朝食を用意してくれる天使。こんなに小さな身体だというのに、一体どこにそんな力があるのだろか? そんなことを思いながら、両手一杯に食器を持ってフワフワと浮かんでいる天使を見つめる。 「さっさと食べなさい。遅刻するわよ!」 「はい、いただきます」 急かされるようにして朝食を済ませた僕は、天使が用意してくれたお弁当を持って学校へと向かう。 「あんたもいい加減料理の一つでも覚えたらどうなの」 「僕には無理ですよ」 「甘ったれてんじゃないわよ。もう十七でしょ」 「先月十八になりました」 「ふんっ。それにしてはちんちくりんね」 「僕そんなに小さい方じゃないんですが……」 そんなやり取りをしながら登校するのも、ここ最近の恒例である。 「おはよう、早水くん!」 「あっ。……お、おはよう、高坂さん」 笑顔で駆けてゆく高坂さんに挨拶を返すと、それを見ていた天使がすかさず口を挟む。 「何よその小さな声は! もっとシャキッとしなさい、シャキッと! あの子のことが好きなんでしょ? そんなんじゃ仲良くなれないわよ!」 「痛……っ! いたたた! 痛いですってば!」 「シャキッとしなさい、シャキッと!」 「わかりました、ちゃんとします! わかりましたから……っ!」 ポカスカと僕の頭を殴りつける天使をどうにか宥(なだ)めると、叩かれた頭に手をやりスリスリと撫でる。 この乱暴さはどうにかならないものなのだろうか。いくら身体が小さいとはいえ、何度も殴りつけられれば地味に痛い。 (まあ……ばあちゃんのゲンコツに比べたらだいぶマシだけど) 最後にゲンコツをくらったのはいつだったかと、そんな昔を懐かしく思う。 「こらっ! 何ボーッとしてるの! 早く学校行きなさい!」 「……あ、はい」 どうやら感傷に浸っている暇もないらしい。 そんな天使との同居生活も一週間が過ぎた頃。 僕が一人でゆっくりと湯船に浸かっていると、ノックもなしにいきなり乱暴に扉を開いて現れた天使。僕の顔を見るや否や、そのままの勢いで一気に捲し立てる。 「ちょっと! これは一体どういうこと!? あんた大学に行きたいんじゃなかったの!? なんで就職希望なんて書いてるの!!」 そう言いながら僕の顔にペシッと貼り付けたのは、僕の字で書かれた進路希望用紙だった。 「っ……ちょ! 今お風呂中なんですよ!? 後にしてくれませんか!?」 「あんたの裸なんてどうでもいいのよ! それよりこれは何なの!? 説明しなさい!!」 「ま、待って下さい! 今出ますから待って! ……痛っ! いたたたた!」 急かされるようにしてポカスカと頭を殴られた僕は、慌ててお風呂から上がるとリビングへと移動する。 「で!? どういうことなの!? あんた大学に行きたいんじゃなかったの!?」 「うちにはそんなお金はないんですよ」 「お金ならあるでしょ!? 行きたいなら大学行きなさい!」 「天使のチコちゃんには分かりませんよ。そんな簡単に用意できる金額じゃないんです」 親の遺産がまだ少し残っているとはいえ、それも普通に暮らしているだけで二十歳になる頃には底を尽きてしまう。そんな経済状況の中で、大学まで進学するなんてことは不可能だ。 この先祖母の入院費だってまだまだかかるだろうし、それらのことを踏まえると進学せずに就職するのが一番現実的なのだ。 「お金ならあるでしょ!」 「……だから無いんですってば!」 行けるものなら僕だって大学に進学したい。夢だって人並みにある。でも──。 「お金がないから諦めるしかないじゃないか……っ! うちにはそんな余裕はないんだよ!」 悔しさに涙を流すと、そんな僕の頭目がけて杖を振り下ろした天使。 ────ポコッ! 「…………痛いです」 「バカだね、あんたは。お金ならあるって言ってるでしょ」 「……どこにあるっていうんですか」 そんな僕の言葉を受けてフワリとタンスへと近付いた天使は、上から二番目の棚を指差すと口を開いた。 「ここよ。開けてみなさい」 言われた通りにその棚を開くと、中に入っていたのは僕名義の見慣れない通帳だった。中を開いて見てみると、そこには預金額五百万の文字が。遡って入金履歴を見てみると、それは十三年前からコツコツと入金されてきたものだった。 十三年前といえば、ちょうど僕が祖母に引き取られた頃。きっとこれは、そんな祖母が僕の為に日々の節約から浮かせたお金を貯めてきてくれたものに違いない。 「ばあちゃん……」 「だからお金ならあるって言ったでしょ」 「いや……これは使えません」 「どうして?」 「これはきっと祖母が僕の為に十三年間貯めてきてくれたお金なんです。そんな大切なお金……僕には使えません」 「あんたの為のお金ならあんたが使えばいいのよ。このお金があれば大学にも行けるでしょ?」 確かに五百万もあれば余裕で大学進学は可能だろう。ただ、それも普通に暮らしていたらの話だ。 祖母が入院している今、いつどこで大金が必要になるとも分からない。 「確かに大学には行けますけど……でも、やっぱりこのお金には手を付けたくないんです」 「どうしてよ! 大学に行きたいんじゃないの!?」 「大学には行きたいですよ……でも節約しないと」 「だからって就職するの? お金なら心配ないって言ってるのに!」 「もういいんです、ありがとうございます」 それだけ告げて通帳を元の場所へと戻すと、僕はそのまま静かにリビングを後にした。 ◆◆◆ それからというもの、天使はすっかりと大人しく──なるわけもなく、今日も元気に杖を振り回している。 「ちょっと! 手は“猫の手”って言ってるでしょ! また指切ったらどうするの、ちんちくりん!」 「……痛っ! いたたた! 痛いですってば、チコちゃん!」 こうしてポカスカと頭を殴られながら料理をするのも、もう二週間程になる。当初はまともに包丁さえ扱えなかった僕も、今ではどうにか形になってきた。 口が悪くて乱暴者な天使にも今ではだいぶ慣れてきた。とはいえ、やっぱり痛いものは痛い。 「ちゃんとしなさい! 今日は高坂さんと一緒にお弁当食べる日でしょ! あんたの血だらけのお弁当なんて誰も見たくないのよ!」 「ちゃんとします! ちゃんとしますから殴らないで下さい……!」 天使の助言のおかげで、今では友達と呼べる程の関係になった高坂さん。僕の為に現れたという天使の言葉は嘘ではなかったらしい。 それは何も高坂さんに関することだけではなく、こうして自炊するということを学べたのも天使のおかげだった。不思議なもので、自炊するようになってからというもの、随分と食べ物の好き嫌いが減ったように思う。 とりわけて変化があったことといえば、高校卒業後の進路についてだった。それまで就職することしか考えていなかった僕に、天使は大学へ進学するようにとしつこく薦めた。 久しくしていなかった受験勉強とやらも、最近では毎晩のように励んでいる。勿論、このまま大学に進学することを決めたわけではなかった。ただ、そんな選択肢が残されていてもいいのではないかと、そんな風に思えるようになったのだ。 ──そんなある日の晩。 いつものように深夜遅くまで受験勉強をしていた僕は、喉でも潤そうとリビングへと向かった。その途中、漏れ出る薄明かりに気付いた僕は、祖母の部屋の前でピタリと足を止めると室内を覗いてみた。 「……チコちゃん? こんなところで何してるんですか?」 僕の声にゆっくりと振り返った天使は、部屋の真ん中に置かれたテーブルにちょこんと座りながら笑みを溢した。 「強く生きなさい、ちんちくりん」 「チコちゃん……?」 何だかいつもと様子の違う天使を前に、妙な胸騒ぎを覚えた僕は部屋の中へと一歩足を踏み入れた──その時。静まり返った家の中で一本の電話の音が鳴り響いた。 ────プルルルル────プルルルル 嫌な予感がした僕はすぐさま受話器を取りに行くと、そこで告げられた言葉に耳を疑いながら自宅を飛び出した。 (ばあちゃん……、ばあちゃん……っ!) 病院へと駆け付けると、そこには静かに横たわる祖母の姿があった──。 両親を早くに亡くした僕は、まだ小学校に上がる前から祖母との二人暮らしを始めた。そんな祖母はいわゆる肝っ玉ばあちゃんというやつで、まだ元気だった頃にはゲンコツをお見舞いされることも少なくはなかった。 『強く生きなさい』 そんな祖母が口癖のようによく言っていたのを、僕は鮮明に覚えている。 一年程前から寝たきり状態になってしまった祖母は、心臓こそ動いてはいたものの最近では意識を取り戻すことさえなくなっていた。それでも、僕は回復することを信じて毎日のように病室に顔を出していた。 それは今日も同じだった。たったの数時間程前に祖母の姿を見たばかりだというのに、今僕の目の前にいる祖母の姿は先程見た時とは随分と違って見える。 「ばあちゃん……っ!」 痩せ細った祖母の身体にしがみつくと、僕はまだ温もりの残った肌を感じて涙を流した。 「北野マチコさん。午前一時四十六分ご臨終です」 「裕也……。ばあちゃんは苦しまずに逝けたそうだよ」 そんな医者と叔父の声を聞きながら、僕は涙を流し続けた。 ──それから四日程が過ぎ、お通夜と葬儀を終えた僕は一人静かな家の中を彷徨い歩いていた。 「チコちゃん? どこにいるんですか?」 忙しさで気に留める暇もなかったとはいえ、ここ四日程天使の姿を全く見ていなかったのだ。一向に見つからないその姿に、怒ってしまったのだろうかと不安になる。 確か最後に見かけたのは祖母の部屋だった。それを思い出した僕は、急いで祖母の部屋へと向かうと勢いよく扉を開いた。 「……チコちゃん!?」 僕の声は誰も居ない部屋の中で虚しく響き、ここにも天使は居ないのかとガックリと肩を落とす。 そんな僕の目に留まったのは、テーブルの上にポツンと置かれた一冊のアルバム。あの時天使が見ていたものはこれだったのかと、僕はゆっくりとテーブルまで近付くと腰を下ろした。 「ばあちゃんのアルバムか……」 そこには若かりし頃の祖父と祖母の姿があり、初めて目にするその写真を前に僕は涙を流した。最期はあんなに痩せ細ってしまった祖母だったけど、当然ながら昔はこんなに元気だった頃もあったのだ。そう思うと何故だか涙が止まらなかった。 天使の“チコちゃん”とよく似た面差しの若い頃の祖母の姿。その写真を眺めながら、もう二度と天使に会うことはできないのだと僕は悟った。 【ちんちくりんの裕也】 パラリと捲ったページに収められていたのは、そんなタイトルと共に大切そうに貼り付けられた一枚の写真だった。 その写真に写っていのは、この家に引き取られたばかりの僕が祖母に抱かれて嬉しそうに笑っている姿。その写真のすぐ横には、とても小さな足跡がクッキリと残っていた。 ─完─
静寂の戦いへ
人生に於いて、予期せぬ戦いに遭遇してしまう確率とは一体どれ程のものなのだろうか? それは何の前触れもなく訪れ、容赦なく平穏な日常を奪ってゆく。ましてやそれが負けられない戦いとあらば、計り知れない程のプレッシャーと恐怖を感じることだろう。 時として人生とは、こうも簡単に無慈悲な神によって地獄へと突き落とされるものなのだ。 図らずも、突如として負けられない戦いに挑むこととなってしまった俺は、閉じ込められた密室の中で緊張から薄っすらと額に汗を滲ませた。 今朝方目覚めた時にはまさかこんな事態に陥るとは予想もしていなかった。なんならいつもより目覚めの良い朝を迎えた俺は、朝食もそこそこに支度を整えると、午前六時丁度に自宅を出発した。それはいつもとなんら変わらぬ日常で、何か特別なことをした覚えは一切ない。 一体俺の何がいけなかったのだろうか──? 一連の出来事を振り返ってみるも、全く心当たりがない。やはりこれは神によるほんの気紛れにすぎないのだろうか? これまで真面目にちゃんと生きてきたというのに、これではあまりに無慈悲ではないか。そのあまりの仕打ちに悔しさから苦悶の表情を浮かべると、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。 数えること十勝十一敗。負け越してはいるが、俺は今微妙なラインに立たされている。次の勝負にさえ勝つことができれば、とりあえずは同点にまで追いつくことができる。ここはなんとしても勝利を収めておきたい。 なにより、平穏な日常を取り戻す為にはここで負けるわけにはいかないのだ。 チラリと周りに視線を這わせてみれば、そこに見えてきたのは六人の男女。その内の一人はまだ幼い子供だとはいえ、決して侮ることはできない。むしろ、時として子供の方が手強かったりもするのだ。 悪びれた素振りなど一切見せずに、衝撃的な台詞で人を簡単に地獄の底へと叩きつける。その姿はまさに天使の皮を被った悪魔。純粋さとは本当に恐ろしい。 外界と閉ざされた密室の中、この場に存在するのは俺を含めて七人の男女。静寂だけがその場を支配する中、俺の周りは敵だらけ。その緊張感と恐怖からか、今にも悪臭が漂ってくるようだ。 このままでは息が詰まって今にも死んでしまいそうだ。平穏な日常を取り戻す為には行動に移す他選択肢はない。 どうやら無意識のうちに息を止めていた俺は、それに気付くことなく覚悟を決めると一世一代とばかりに勝負に挑んだ。 『……プゥゥゥ〜』 俺の意に反して盛大に鳴り響いた音と異臭。 「このおじさん、今おならした〜!」 右隣にいる少年が俺を指差しながら苦痛に顔を歪めて鼻をつまむ。 一気に地獄と化したエレベーター。その数秒後、扉が開いたと同時にそそくさとその場を立ち去った俺。背中に刺さる視線が痛いのはきっと気のせいではない。 ──静寂の戦い“屁”。 十勝十二敗。俺はまたしても負けられない戦いに敗北したのだ。 時刻は午前六時三十二分。こうして俺の平穏な日常は脆くも崩れ去っていった。 ─完─