闇影

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闇影

小説書くの初心者です。ゆったりまったり頑張ろうと思います。 (少しずつ復帰中、これから投稿頻度はかなり下がると思いますのでご了承ください)

プロローグ「黄昏時」

ようやく日がぐずぐずと昇りだし、朝焼けに空が赤くにじんでいく。 ドアに背をもたせかけて、玄関ポーチに少女が座っている。 目を閉じ、なにかものいいたげに少しだけ口を開いて、陽だまりの中で昼寝をしているような、あどけない顔で。 頭の上では青いリボンが涼しい朝風に遊ばれて、ふわふわと揺れている。 少女を見下ろしている、髪の長い少年がいる。 灰色の帽子を被った少年は、焼けゆく空を背にし、表情は暗く陰っている。 服のあちこちがほつれ、破けて、つまりはボロボロで、肩からかけている黒いカバンも砂場で転がったあとのように薄汚れていた。ひじを擦りむいた片腕で大切そうに黒い子猫を抱え、もう片方の手で白い子犬に繋がるリードを握っている。 眠れる少女へ、ぽつりと小声でなにかを伝えると、そっと門から出ていく。 疲れの色が浮かぶ擦り傷だらけの顔を上げ、足を引きずりながら、まだ夜のこびりついている町を歩く。 白い子犬はリードがぴんと張るくらい元気に走った、かと思うと戻ってきて少年を気遣うように横に並んで歩いたり、またすぐに跳ねるように走っていったりと忙しい。 黒毛の子猫は、少年の胸に顔を埋めたまま動かない。 少年は歩いた。 町を歩いた。 気持ちの整理がつくまで、とことん歩こうと思っていた。空き地に寄って、橋を渡って、池を眺めて、家には帰らず、団地の隙間を縫って、靴のゴム底と時間をすり減らす。 少年の頭上では日々の移ろいが一秒の狂いもなくおこなわれている。 陽は天上を目指し、俯いて、空は次第に橙や赤に濁っていく。 血のような色の風景が、あたりに影を指す頃__。 少年は山の中にいた。 涼しい風の吹く、見晴らしの良い場所だ。ひぐらしが鳴いている。 苦悩に身をよじるような形状の木がある。その根本に座り込んで、土の上に身を横たえる黒毛の子猫の背中をずっと撫でていた。もう温かみも柔らかさも失われ、目は頑なに閉じたまま黒い毛の中に埋もれている。 落ちている枝を使って足元の土を柔らかくほぐし、手で掻き出す。 土はひんやりと冷たかった。 そうして掘った穴にそっと黒毛の子猫を入れると、あまりにもぴったりだったので、少年は俯いた。 少しだけ目を瞑ったあと、名残惜しむように少しずつ土をかぶせていく。 かぶせて、かぶせて。 できあがったこんもりとした墓は、悲しいくらいに小さなふくらみだった。 木の枝を墓標がわりに立てると黒いカバンを下ろし、ペット用のクッキーの袋と日記帳を取り出す。 ポトリと足元に何かが落ちた。 写真だ。それには少年と青いリボンを頭につけた少女が笑顔で写っていた。 少年はそれを拾うと、枯れた眼差しでしばらく見つめ、カバンに戻した。 魚の形のクッキーを一つ、墓の上に供える。 遠くの空でカラスたちが鳴いている。 筆箱からシャーペンを取り出す。太ももを机代わりにして日記帳を開くとシャーペンを走らせる。 かりかりと書く音が、暗くて赤い夕空の吸い込まれていく。 ぴたりと。 ひぐらしの鳴く音が聞こえなくなった。 少年は書いたページをノートから慎重に切り離し、丁寧に折って飛行機を作る。そしてそれを、風に乗せるように、眼下に見下ろす赤く染まる街並みに向けて飛ばした。 行く末を見守っていると、少年に向かって白い子犬が可愛らしく吠える。 少年は目の前の虚空に焦点を合わせながら小さく頷くと、子犬のリードを外した。 子犬は不思議そうな目で少年を見上げたが、少年の瞳にはなにも映っていない。 目の前の虚空を見つめたまま、再び小さく頷くと、足元の石を拾って遠くの草むらの中へと投げ込んだ。 白い子犬は嬉しそうに跳ねると、尻尾を激しく振りながら石を追いかけていった。その姿を見届けることなく少年は背を向け、投げた石とは反対方向へと歩いていく。握りしめた赤いリードを引きずって。 燃え尽きる前の赤暗い背景が、少年を黒いシルエットにする。その画の奥では家々の尾根が、やがて来る夜に沈もうとしている。 少年は太い黒々とした木の前で立ち止まると、根元に置かれた木箱に視線を落とす。どれだけの時間を雨風に晒されてきたのか、すっかり黒ずんでしまっている。箱の側面になにかの銘柄があるが、消えかかっていてほとんど読めない。 どうして、こんなところに木箱があるのか___少年は少しも疑問に思わない。 木箱に両足をのせ、木の枝にかけた赤いリードで輪をつくり、その中へ首を通し___。 「・・・・またね」 両足で、箱を蹴った。

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怪物戦記 Episode2 「Appear and Audible」

緋花はベッドで仰向けになって文庫本を眺めていた。 本のタイトルは『厄災を駆け抜けた勇者』。50年前に起きたとされる「厄災戦」の出来事を今風に解釈したものらしい。 施設のレクリエーションルームには三台のスチールラックが設置されていて、退所者が寄贈した本が並べられている。入所者は自由に読んでいい。小中学生が好むような本は取り合いになるので、緋花はもっぱら人気のない本を暇潰しに使っていた。 一応、本を読んでいるつもりだ。知らない単語があると辞書を引いたりする。おかげで漢字はだいぶ覚えたが、どうしてか内容があまり頭に入ってこない。読み終えて少し経つと、だいたい忘れてしまう。 緋花は腕時計を見た。午後九時五十六分。施設のしょうと消灯時間は中学生だと午後十時だから、あと四分だ。 勉強したいとか適当な理由をつければ、衝動時間は延ばしてもらえる。かなりの入所者が常用している手だが、緋花は使わない。 「そろそろおねむ、緋花?」 自分の足下にいるシロが、ケケッ、と笑う。 「何、おねむって。子供じゃないんだから」 緋花は文庫本を枕元に置いた。この部屋は本来、二人部屋なので、ベッドが二台ある。でも実質、緋花の一人部屋だ。 一人にして欲しいと緋花は頼んだことはない。二人部屋だったこともある。そのうち相手が嫌がって、職員に訴える。黛緋花と一緒の部屋は耐えられない、と。 「ボクから言わせてみれば、中二なんて、子供の中の子供だよ?」 緋花はそのまま足下にいるシロを軽く蹴った。 「痛っ。やめて緋花こらっ」 「シロなんか私より年下でしょ。てことは、もっと子供じゃない」 「ボクは例外なんだよ。特別っていうのかな。格別なんだよ。むしろ、別格だね。痛っ。やめてって緋花、そんなに蹴るな、お腹凹んじゃうでしょ。どうしてくれるの。こらっ……」 ひとしきり足蹴にしたら気がすんだので、緋花はシロを蹴るのをやめた。部屋の電気を消し、ふたたびベッドで横になる。 高校生の消灯時間は午後十一時だし、宿題や自習を名目に深夜まで寝つかない入所者もいる。壁やドアも決して厚くはない。施設の夜は静寂とは無縁だ。 緋花はタオルケットを体に巻きつけて横になった。 「あの女の子のこと考えてるの、緋花?」 「まったく考えてない」 緋花は舌打ちをしたくなった。 「シロが今言うまで、頭に浮かんでもなかったよ」 「ホントぉ?あやしいね」 「まじです」 なにげなく口をついて出た言葉だった。彼女のことを考えていたせいで出てきたわけでは決してない。 「……ほんとだって」 緋花が言い直すと、シロはへへッ、と笑った。 「妙な女の子だよね」 「妙とか言うなよ」 「だって、妙だったじゃん」 「確かに、そうだったけどさ……」 「考えてたんでしょ、あの子のこと。だいたい、あんなことがあったんだ。気になって当然でしょ」 「私はべつに、全然気にならない」 「素直になりなよ。それに、君がきにしなくたって、相手の方がー」 「……もう寝る。静かにしてくれない?」 「わかったよ、緋花。眠れる夜になればいいね」 緋花は目をつぶって、いびきをかく真似をしてみせた。シロはまた笑った。大きなお世話だ。緋花は寝つきが悪いほうじゃない。すぐに眠れる。彼女のことを考えてなんかいない。考えたくないのに、どうしても考えてしまう。 「ー折り入って、黛さんにお願いしたいことがあり、こういう機会を」 あのあと、樟葉希空はほんの少し顎を引いて、妙にらあらたまった口調で切りだした。 「お友だちとして、わたしとお付き合いしてくれませんか」 「……え?」 緋花はまず、問いかけの意味を理解しようとした。そもそも問いかけなのか。質問ではないような気がする。とにかく、樟葉は緋花に回答を求めていた。それだけは間違いない。 でも、何を答えればいいのだろう。 どうしてもわからなくて、緋花は「えー」とか「あー」とか「んんー」といった声をむやみと繰り返した。 「あっ」 樟葉は右手を口に当てた。 「突然のことで、困らせてしまっていたら、ごめんなさい。返事はすぐじゃなくてもかまわないので」 「あぁ……そう」 「もちろん、すぐでも」 「いや、それはーどうなんだろ……」 「のちほどのほうが?」 「……うん」 「わかりました」 樟葉は目をつぶって、ふぅっ、と息をついた。 「言えてよかった。すごく、どきどきしてしまいました」 緋花も動悸がしていた。なんだかひどい仕打ちを受けているように思えてならなかった。 「じゃあ、黛さん、また明日」 言うことを言ったらすっきりしたのか、樟葉は別れを告げてお辞儀をすると、立つ鳥跡を濁さずとばかりに行ってしまった。 何なんだ、あの人。 緋花がそう思ったのと同時に、シロが呟いた。 「いったい何なの、アレ……」 結局、その夜はあまりよく眠れなかった。 もちろん、樟葉希空のせいだ。 いきなり話しかけてきて、何事かと思ったら、おかしなことを言ってきた。 『お友だちとして、わたしとお付き合いしてくれませんか』 不意討ちを食らって、緋花は当惑していた。さもなければ、あの場で何らかの答えを出していたのではないか。そんなふうにも考えた。たとえば、見知らぬ人に突然、一緒に踊りませんか、と誘われたら、答えはNOだ。断乎として拒否する。 断ればよかった。 いやです、と。 緋花が即座に断らなかったのは、戸惑っていたからだ。 それに加え、樟葉の表現方法がちょっと微妙だった、というのもある。 『お友だちとして』 ここまではいい。その先だ。 『わたしとお付き合いしてくれませんか』 何かおかしくないだろうか。おかしいと思う緋花がおかしいのか。ひょっとすると、考えすぎなのかもしれない。後半部分の『わたしとお付き合いしてくれませんか』だけだと、このお付き合いは特定の意味を帯びてくる。でも、前半部分を勝手になかったことにしてはいけない。樟葉は『お友だちとして』と明言した。だとしたら、そのまま素直に解釈するべきだろう。 ようするに樟葉はただ単に、友だちになろう、と言ってきた。 同級生相手なのに敬語が混じっていて、樟葉の言葉遣いはやや特徴的だ。そこに惑わされないほうがいい。樟葉はただ緋花と友だちになりたいらしい。問題はそこだ。 黛緋花と友だちに? なんでまた? それから、もっと大きな、かなり重大と言えそうな問題がある。 樟葉希空にはシロの声が聞こえている。 寝不足のまま登校すると、校門前で黒眼鏡の教員に睨まれた。この教員はいつもやけにぴったりしたスーツを着ている。今朝はなんとなくぴったり黒眼鏡の教員に名を呼ばれたくない。緋花は先手を打って、ぺこりと頭を下げてみた。 「おはようございます、先生」 「……お、おう。おはよう」 黒眼鏡の教員は明らかに鼻白んでいた。一年生の時から毎朝のように絡まれてきたのに、緋花から挨拶をしただけで何も起こらない。ただ、おはよう、と言う。これが正解だったのか。 「どういう風の吹き回し?」 靴箱で靴を履き替えていたら、シロが訊いてきた。 「さあ。どんな風も吹いてないと思うけど」 「心境の変化ってやつだね。そのきっかけが何なのか……」 「大袈裟……」 上履きがちょっときつい。足が大きくなったのだろうか。体が成長すると服も合わなくなる。買い換えるのは痛い出費だ。 少し憂鬱な気分で教室に向かおうとしたら、靴箱の陰から髪の長い女子生徒がにゅっと顔を出した。緋花は思わずあとずさりしてしまった。 「……く、樟葉さん」 「おはよう、黛さん」 またあの眼差しだ。樟葉はまっすぐ、しげしげと緋花を見つめている。 「……な、何?」 緋花はうつむいて腕で顔の下半分を覆った。 「何か用?朝っぱらから……」 「実は、ここで待ち伏せを」 「え……な、なんで?」 「昨日、わたし、言いませんでしたか?」 「……あぁ」 「返事が聞きたくて」 「そー」 「そ?」 「れ……」 唐突に、目を白黒させる、という言葉が緋花の頭に浮かんだ。いつだったか辞書で引いた。あれは実際に目が白くなったり黒くなったりするのではなくて、目玉が激しく動くさまを指している。緋花の眼球は今、やけに忙しく運動していた。目が回りそうだ。 同じクラスの生徒が何人か靴箱からにやってきて、靴を履き替えながら何か囁きあっている。同級生たちは樟葉と緋花の動向をうかがっているようだ。何だ、何やってんだ、あいつら、みたいな感じだろうか。まったくだ。正直なところ、当の本人、緋花自身も、何やってるんだろ私たち、と思っている。 「おっ」 さらに、通りすがりの用務員が声をかけてきたものだから、状況が余計に複雑化して、いよいよ混沌としてきた。 「黛さん、おはよう。樟葉さんはそこで何をしているの?」 「城島さん」 樟葉は振り向いて用務員の姿を確認すると、丁寧にお辞儀をした。 「おはようございます。朝早くから、お仕事お疲れ様です」 「ありがとう」 城島は照れくさそうに笑った。ダンボールを抱えている。中身は何なのか。 何だっていい。緋花は興味がない。 樟葉は違うようだ。 「重そう。手伝いましょうか?」 「いやいや、とんでもない!」 城島は何回も首を横に振った。切れ長の目が真ん丸くなっている。 「いいよ、そんな。これが僕の仕事だもの。僕は勤務中で、樟葉さんは学業のために学校に来ているわけだから」 「わたし、けっこう力持ちなんですよ」 樟葉は右腕を持ち上げて直角に曲げてみせた。細い腕だ。細すぎる。あれで本当に力持ちなのか。緋花にはとてもそうは思えない。話が噛み合ってないような気もする。仮に樟葉が怪力の持ち主だとしても関係ない。城島は業務の一環として荷物運びをしている。中学生の樟葉が城島に力を貸す義務はない。剣崎がそういうことを言っているのだ。シロにコミュ障呼ばわりされている緋花でも、そのくらいのことはわかる。 樟葉希空はちょっとやばい人なのかもしれない。 その可能性は、昨夜もちらちらと緋花の脳裏をよぎった。 だいたい、まともな中学生は、黛緋花のような同級生に友だちになろうなんて言ってきたりはしない。 他人に親近感を抱かれるようなタイプの人間じゃないことは、緋花も自覚している。緋花は明るくない。やさしくもない。面白くもない。説明しづらい過去がある。シロという、自分としか話せない相手がいたりもする。 自分以外にこういう者がいたら、緋花はどう思うだろう。 やばい人だ、と見なすのではないか。 きっと黛緋花は、傍から見ると、やばい人、なのだ。 そんなやばい人と友だちになりたがる時点で、樟葉希空もかなりやばい。 逃げたくなってきた。猛烈に逃げ出したい。樟葉は城島と話している。チャンスなのではないか。そうだ。今のうちに逃げよう。 緋花はその場から離れようとした。足音を忍ばせたのに、気づかれてしまった。 「はっ」 樟葉が緋花の右腕を掴んだ。右手首に近いあたりだった。 「だめ。行かないで、黛さん。せめて返事を」 「……あれ?」 城島が決まりが悪そうに顔面を引きつらせた。 「もしかして僕、邪魔しちゃったのかな。ごめんね。失礼しました。いやはや、馬に蹴られて何とやらだよね……」 なぜここで馬が出てくるのか。何かの本で読んだ。確かこんな言葉がある。 人の恋路を邪魔するやつは、犬に喰われて死ぬがいい。 犬に、以下の部分が、馬に蹴られて死んじまえ、だったりもする。 どうも城島は何か勘違いしているらしい。訂正したほうがいいだろうか。どうでもいいか。それどころじゃない。樟葉はまだ緋花の腕を掴んでいる。 放してくれない? 緋花は目で訴えてみた。 どうやら通じていないようだ。樟葉は不思議そうに首をひねっている。不思議なのはこっちのほうだ。 仕方ない。緋花は乱暴にならないように注意しつつ樟葉の手を振りほどいた。 「……ええと。その話は、何だろ、まあ、歩きながら、とか……」 緋花がおずおず提案すると、樟葉は頷いた。全力疾走で撒いてしまおうか。そんなことも考えたが、やめておいた。樟葉は緋花の左隣に並んで歩いた。 「返事を聞かせて欲しいです」 「……もう?早くない?」 「まだ考え中だった?」 「うーん……考え中っていうか、えっと、んん……」 「はっきりしないやつだね」 シロがため息まじりに言った。 「はっきりしない人なの?」 樟葉が訊いた。 「なんというか、自分の考えとか気持ちなんかをちゃんと言語化する習慣がないんだよね。もともと人とほぼ話さないし」 「あなたとは?」 「ボクは別だよ。とはいっても、このボクに対してもわかって、察して、みたいなとこがあるよ」 「阿吽の呼吸を要求されるような?」 「うん。そんな感じ」 「……あのさ」 緋花は額を拳でコツコツ叩いた。頭が痛くなってきた。 「普通に喋らないでくれる。他の人にしてみたら、樟葉さんがぶつぶつ独り言を言っているようにしか聞こえないはずだし……」 「ごめんなさい、つい」 樟葉はちょっと頭を下げてみせた。 「でも、わたしと黛さんが会話していると思うのでは?もしくは、一方的にわたしが黛さんに話しかけている」 「それはそれで奇妙だよ……」 「だったら、わたしとお話ししてください。それで万事解決」 「……話してるじゃん」 「ところで、例の件への返事は?」 「だから、早いって……」 緋花は自分の姿勢がわるくなっていることに気づいた。廊下を行き交う生徒たちから注目を浴びているように思えてならない。 「そもそもさ……」 というか、確実に注目されている。樟葉のせいだ。そうに決まっている。 「なんで?」 緋花が訊くと、樟葉は目をぱちぱちさせた。 「なぜ、というと?」 「……私と友だちになりたい、とか。その理由っていうか。動機?」 「それは、黛さんが黛さんだから」 「え?どういうこと……?」 「説明が必要でしょうか」 「できれば。私にもわかるように、教えてもらえると……」 「わかるように」 樟葉は頷いてみせると、眉毛を寄せて少し考えこんでから立ち止まった。 階段の途中だった。 緋花は樟葉に遅れて、一段多く上がったところで足を止めた。 樟葉は緋花を見上げている。しっかりと捉えて放そうとしない、例の眼差しだった。 「時間をいただけますか。よければ、今日のお昼休みにでも。この件については、人が寄りつかない場所でないと話せないの」 緋花はこの目つきが苦手だ。無視できなくて困る。目を逸らすことができない。 「……いいけど。べつに」 そう答えるしかなかった。他にどうしろというのか。 昼食の時間が終わった直前の特別教室棟はひとけがない。緋花は非常用の外階段で樟葉と待ち合わせることにした。 二階と三階の中間にある踊り場で手すりに腰かけて待っていると、樟葉が扉を開けて階段を上がってきた。緋花はちょっと奇異に感じた。樟葉が鞄を肩に掛けていたからだ。学校指定のスクールバッグとは違う。ポシェットというのだろうか。もっと小さい鞄だ。 「こんにちは」 樟葉は踊り場まで上がってくると、丁寧に挨拶をした。 「えぇ……」 緋花は曖昧に頷いた。樟葉はやけに礼儀正しくて、どうも面食らってしまう。 「で、何だっけ、その……動機?樟葉さんが、私の友だちになりたい理由って」 「昔から、論より証拠というでしょう?」 「……まあ、あるね。なんか、そういう言葉は」 「というわけで、連れてきました」 「連れて……?」 緋花は顔をしかめた。みたところ、樟葉は一人だ。誰も連れていない。 樟葉はポシェットを持ち上げて開けた。 「出ておいで、モルナ」 ひょっとして、樟葉はポシェットに向かって呼びかけたのか。だとしたら、控えめに言ってもなかなかの奇行だ。変わり者だとは思っていたが、ここまでとは想像していなかった。緋花はむしろ樟葉のことが心配になってきた。色々な意味で大丈夫なのか。 あるいは、ポシェットの中に何か小動物的な生き物がいるのかもしれない。それはそれで非常識な問題行動だ。学校に小動物を連れてきてはいけない。緋花でさえそんなことはわきまえている。でも、どうやら当たりらしい。 ポシェットの中から何かが這い出てきた。 「んっ……」 鞄から少し顔を出しているシロが小さく声を漏らした。 ほら。 小動物だ。 その生き物にとって、あのポシェットの中はさぞかし窮屈だっただろう。サイズ的にぎゅうぎゅう詰めになっていたに違いない。ただ、かなりモフモフしているので、一見、入れそうにないスペースにも意外と入っていられたりするのか。 猫だろうか。仔猫なのか。違うだろう。だろう、というか、違う。 その生き物には角が生えている。当たり前だが、猫には角なんかない。 二本の角が生えている、小動物ー いる? そんなの? 施設にある動物図鑑には載っていなかったと思う。緋花は施設の行事で市内の動物園に何回か行ったことがある。角が生えた小さな動物を見た記憶はない。もっとも、緋花が知らないだけで、広い世界のどこかにああいう小動物が棲息しているのかもしれない。もしくは、角のある生き物の子供だとか。 生き物はポシェットから出てくるなり、樟葉の体をよじ登りはじめた。すばしっこい動作ではないが、たどたどしくはない。一応、慣れてはいるようだ。生き物は樟葉の右肩の上まで到達すると、緋花の方に顔を向けた。 目は、あるのか、ないのか。見あたらない。毛に埋もれているのだろうか。 それなのに、眼差しのようなものを感じる。 「モルナ、ご挨拶して」 樟葉が声をかけると、生き物は首を傾げた。頭を斜めに下げたのかもしれない。そして毛の合間から、ちっちゃな、とても小さい口をのぞかせた。 うー。 みゅー。 くりぅー。 緋花はそんなふうに聞こえた。生き物の鳴き声なのか。 「……どうも」 緋花は思わずお辞儀をしてしまった。 樟葉がモルナの顎の下あたりを指先でこちょこちょっと撫でた。 「いい子」 「ねえ、緋花ー」 シロが囁いてきた。 「まさか君、気づいてないの」 「……え。何が?」 「アレは普通じゃないよ」 「いや、それは……珍しい生き物っぽくはあるけど。角とかあるし」 「そういうことじゃないって」 シロはだいぶイラついている。緋花と話せることを除けば、シロは基本的に大きな白熊のぬいぐるみでしかない。ただし、荒ぶると勝手に手足をジタバタすることがある。鞄から飛び出すこともある。緋花以外には見えていないらしいが、まるで本物の生き物のように動くのだ。 ちょうど今みたいに。 「わからないの、緋花!鈍いやつだね、君は!」 シロは手足をジタバタさせている。これはイラついているたいうより、動揺しているようだ。 「モルナは」 樟葉は右肩をすくめるようにしてモルナに頬ずりした。 「わたしにしか見えないの」 「……けどー」 見えている。 緋花には、はっきりと。 モルナはずいぶん樟葉に懐いているようだ。モルナのほうからも樟葉の頬に頭をすりつけて、気持ちよさそうにしている。うるー、ひゅー、ぬー、と言ったか細い鳴き声を発しているというか、こらえきれずに漏れてしまっているかのようだ。モルナの角が樟葉には当たっているが、痛そうではない。少なくとも樟葉は痛がっていない。あの角は突き刺さったりするほど硬くないのか。 「同類だよ!」 シロが吐き捨てるように言った。ずいぶん不本意そうだ。それか、シロも受け止めきれていないのか。 「ボクの声は緋花、君にしか聞こえなかった。そして、モルナの姿は、樟葉希空にしか見えなかったんだよ。全く同じとは言えないけど、似てるでしょ!」 「……でー樟葉さんにはシロの声が聞こえて、私にはモルナが見える」 「そういうこと」 「ん?」 緋花は眉をひそめた。額を拳で叩く。 「……だから、これってーどういうこと?え……?何が、どうなって……」 「実は、わたしにもさっぱり」 樟葉は事もなげに言った。 「黛さんがシロちゃんと話していることには、前から気づいていました。わたしにはシロちゃんの声が聞こえたので。どうやら、わたしだけみたいだった。シロちゃんの声は、黛さんとわたしにしか聞こえない。これは特別なことに違いないと思ったの」 「……特別ー」 緋花は力なく頭を振った。 「ていうか、異常なだけかも……」 「わたしと黛さんだけが、異常なんですか?」 「まあ……私と樟葉さんだけがまともだって考えるよりは、ありえそうだし……」 「というかねえ、樟葉希空!」 シロが、今度はちゃんと不本意そうに口を挟んできた。 「ボクをちゃん付けで呼ぶのはやめて!」 樟葉はきょとんとしている。 「シロちゃん?」 「それだよ、それ!ボクこれでも男なんだ。なんかそういう感じで呼ばれるのは……なんかやだ!」 「ごめんなさい」 緋花が 申し訳なさそうに眉を八の字にして頭を下げると、モルナも同じポーズをした。 ……かわいい。 ーと、一瞬思ってしまった自分に、緋花はぎょっとした。 ちなみに、かわいい、と感じたのは、あくまでモルナに対してだ。正確には、樟葉とモルナが同時に同じことをした、その現象に対して、だろうか。 「それでは、シロ君?」 樟葉が訊くと、シロは「えぇい!」と咳払いをした。 「君付けもいまいちよろしくないな。何なら、シロって呼ばせてもらってもいいんだよ?」 「なんで偉そうなんだよ……」 緋花はシロを投げ捨てたくなった。シロは即座に反論してきた。 「どこが偉そうなんだよ。ボクは呼び捨てオッケーて言ったんだぞ。むしろ、謙虚じゃんか。ねえ、樟葉希空?」 樟葉が頷いた。ついでに、モルナも。 「シロと呼ばせてもらうことにします」 「うん。いいよ。ボクは堅苦しいのが苦手だしね」 「シロもわたしのことを希空と呼んでくれてかまいません」 「当然、そうなるよね。のあっちとかでもいいかもしれないよ。うん。悪くない。どう?」 「べつに嫌ではないので、そこはシロのお好みで」 「だったら、のあっちで決まりだね。のあっち」 「はい」 「……どんどん仲良くなってる」 緋花はシロを投げ捨てるより樟葉に押しつけるべきなのかもしれない。 「おぉ?なぁにぃ?嫉妬してるの、緋花ぁ?」 シロが、ウヘヘッ、と笑う。 「心配しなくていいよ。のあっちが現れたからって、ボクと君の関係が変わるわけじゃないよ」 「私とシロの……腐れ縁?」 「だから、腐らせないで!」 「じゃあ、どういう関係なんだよ……」 「言葉にするのは野暮ってものだけどね。あえて言うなら、相棒ってところかな?」 「わたしとモルナも相棒みたいなもの」 樟葉は笑みを浮かべて、「ね」とモルナと顔を合わせた。 「シロのように話すことはできないけれど、わたしのそばにいてくれる。わたしとモルナはずっと一緒だったの」 「……疑問なんだけど。もし私にモルナが見えなかったら、樟葉さん、いったいどうするつもりだったの?」 「その時は、きっとー」 樟葉は唇をすぼめたり曲げたり、頬を少し膨らませたりした。 「微妙としか言いようがない状況になっていたと思います。目には見えない小さな生き物をさもそこにいるかのように振る舞っている、哀れな女子中学生……」 「よかったね、私にモルナが見えて……」 「正直なところ、賭けでした。でも、黛さんには見えるんじゃないかと」 「結果オーライってやつだね?」 シロは気楽にそう言うが、緋花が樟葉の立場だったら、そんな賭けには出ないだろう。 自分はどこかおかしいんじゃないか。 緋花は何度となくそう疑った。ぬいぐるみと話ができるなんて、どう考えても普通じゃない。 人には聞こえない音が聞こえる。 見えないはずのものが見える。 これは妄想なのか。脳に異常があるとか。何か精神的な病気だとか。一度、医者に診てもらったほうがいいのかもしれない。そこまで思い詰めたことさえある。 緋花は脱力していた。手すりから落ちてしまいそうだ。なぜこんなにぐったりしているのか。思いあたる節はあった。 自分だけじゃない。緋花は安堵しているのだ。妄想なんかじゃなかった。 シロはいる。 緋花がつくりだした幻のようなものではなかった。 ちゃんと存在している。 「……私に聞こえるシロの声が、樟葉さんにも聞こえる。樟葉さんには見えるモルナが、私にも見える。他の人に見えてないっぽいものがー」 だとしたら、あれもなのかな。 緋花は思いきって樟葉に尋ねてみた。 「てことは……樟葉さんにも見えるの?たまに人が連れている、なんかこう、変な……」 樟葉は視線をしっかりと結び合わせるように緋花と目を合わせた。 それから、ゆっくりと頷いた。

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怪物戦記 Episode2    「Appear and Audible」

今年最後の投稿(ありがとうございました的な話)

うっす。闇影です。さて、今回の投稿が今年最後となりました。最後なんで、何があるかってわけでもありませんが、少し振り返りたいと思います。実はというと、今年始めたというわけではなく、去年の11月頃に先行体験(?)的な感じで別アカでやってました。それから一回そのアカウントを消し、心機一転で、今年から本格的にスタートしました。基本連載小説を二つ同時進行するという形で進め、現在は投稿頻度が少なくなってしまいましたが、フレンドの方々とのコミュニケーションで、なんとか続けることができています。これからも余程なことがない限り、ゆっくりまったり書いていこうと思います。それでは、今年最後の投稿、こんな話に付き合っていただき、ありがとうございました。来年もよろしくです!!

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今年最後の投稿(ありがとうございました的な話)

クリスマスのとある一片

「ありがとうございましたー」 そう言って、僕は最後のお客さんを見送った。時計を見ると午後8時。もうそろそろ閉店の時間だ。 「お疲れー♪」 そう言って奥から店長が出てくる。 「お疲れ様です」 「結構売れたねーケーキ」 「クリスマスですから」 「ま、そっか」 他愛のない話をしていると、調理室から女の子が出てきた。僕と同様、バイトの同期だ。 「君もお疲れー♪」 店長が先に言った。 「…お疲れです」 彼女は顔を伏せて返した。同期だからわかるのだが、彼女は人と関わることが苦手っぽい。というより恥ずかしがり屋というやつだろう。 「後は私が閉めとくから、二人は先あがっていいよー」 「あまりのケーキはどうします?」 「うーん、捨てるのもったいないし、二人が持って帰りなよ。残り二つで丁度いいし」 「…いいんですか?」 「いいよいいよ。元はお嬢が頑張って作ったんだし」 「こっちから見ても美味しそうでしたしね」 「…とまあ、彼もそう言ってるしいいんじゃない?」 そう言って店長は残りのケーキを僕と彼女に渡してきた。接客してて感じたが、彼女のケーキは本当に美味しそうだ。語彙力がないから上手くはいえないが、とにかく美味しそう、と言った感じだ。 (帰ってすぐ食べるかー) そう考えながら、僕は帰宅の準備を進めた。 店を出て数分。帰りの電車までまだかかりそうだったので駅のホームでぼーっとしていた。その時、 「…先輩?」 と、背後から彼女に声をかけられた。 「ああ、君も同じ電車?」 「…はい」 相変わらず顔を伏せている。本当に恥ずかしがり屋なんだなと感じた。そう言って僕は自動販売機に行く。なんとなくだった。そこでココアコーヒーのボタンを押す。そして、缶が2本出てきた。そのうちの1本を彼女に差し出した。 「…え?」 「いや、まあ、寒いだろうし。なんというか…」 僕は少し考えて、 「クリスマスだから、今日頑張ってた祝い、的な?」 自分でも何言ってるのかわからなかった。本当に語彙力の無さを実感した瞬間だった。 「…ありがとう、ございます」 そう言って、彼女はココアコーヒーの缶を受け取る。固かった彼女の表情が少し笑ったように見えた。そして、僕と彼女はココアコーヒーを開けて、飲み始めた。 「…ふぅ、変わんない味」 「…でも、あったかいです」 「そうだね…」 そんな会話をしていると、彼女が缶を差し出してきた。僕は少し驚いた。そして、 「…乾杯、しませんか?」 と、少し恥ずかしそうに言った。 「あー、えーっ……」 言葉が詰まった。けど断る理由は無かった。僕は少し頷いて、 「うん。いいよ」 と、言って自分の缶を差し出して乾杯した。その乾杯と同時に僕達は自然と、 『メリークリスマス』 と、呟いていた。

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クリスマスのとある一片

企画。妖怪。(雪花 冬乃さんの企画)

〈キャラクタープロフィール〉 名前:綺羅[キラ] 性別:男(詩羅さんの弟なので) 容姿:詩羅さんと瓜二つ。ただ髪が少し長い。(髪色とかそこらへんは詩羅さんと一緒) 癖:恥ずかしがったりすると頭を掻く。 喋り方:真面目な口調(〜です、的な感じで誰に対しても敬語を使う) 種族:座敷童 名前:弌弥[イチヤ] 性別:男 容姿:中性的な外見。一応顔を隠すために、狐のお面をつけている。 癖:顔を隠しているが、感情等は尻尾で分かってしまう。 喋り方:正義感が強い発言が多いが、子供っぽさのあるところもある。 種族:化け狐 名前:六華[リッカ] 性別:女 容姿:ボーイッシュな髪型。少し華奢な身体つきをしている。 癖:お腹が空きやすい。尚且つ空くと目の前に映るものを食べようとする。 喋り方:基本口数が少ない(彼女自身がコミュ症っぽさがある)たまにサイコパスな言動をすることもある。 種族:狼少女

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怪物戦記 Episode1 「Encounter」

「黛ぃ……」 校門の前で黒眼鏡の教員が声をかけてきた。黛緋花は教員を一瞥しただけで素通りした。黒眼鏡の教員はもう一度、「黛ぃ……」と呻くように言った。 「懲りないね、あの教師」 シロが嘲笑しながら言った。 「仕事なんでしょ」 緋花は小声で返した。 あの教員は入学以来、何度となく緋花に生活指導を行ってきた。学級担任でも教科担任でもないから、緋花はあの教員の名前すら知らない。 「鞄が学校指定のものじゃないとか、靴下が派手だとか、前髪が眉にかかってるとか−なんで学校っていうのは、人間を型に嵌めたがるのかな?」 シロがぶつくさ言っている。緋花は無視して校舎に入った。靴箱で靴を履き替える。 「覚えてる、緋花?もう一年以上前かな。あの教師があんまり毎朝、髪がどうとか因縁つけてくるものだから、君……」 「さあ。忘れた」 緋花は階段を上がって二年六組の教室に入った。緋花の席は窓際から二番目だ。鞄を机の上に置いて椅子に座る。緋花は鞄に突っ伏した。 「登校してすぐ朝寝?話し相手もいないし、暇だよね。友達の一人や二人、作ればいいのに」 「シロおまえ、うるさい……」 「おいおい気をつけなよ、緋花。独り言を言ってるヤバいヤツになってしまうよ」 「っ−」 緋花は極限まで声を落として言った。 「……そもそも、周りに聞こえるような声、出してないし」 「いいんじゃない、聞こえても。なんかそれきっかけで話しかけられたりするかも」 「……かえって迷惑だよ」 「ふぅん。もしかしてあれ?友だちいない孤独な自分、カッコイイとでも思ってるんしょ?」 「……思ってない」 「いや、思ってるね。知ってる、緋花?そういうのをね、ナルシズムっていうの。日本語で言えば、自己陶酔ってやつ」 「……勝手に言ってろ」 「うん。じゃ、そうさせてもらうよ。黙ってても暇だからね」 「…………」 「言っておくけど、君が黙ってればそのうちボクも黙るでしょ−みたいに考えてるのだとしたら、それは大間違いだよ」 シロが、嘲笑する。 「君が生きてる限り、ボクは黙らない。忘れるんじゃないよ、緋花。君とボクは運命共同体。一心同体なんだから」 忘れないよ。 口に出さずに緋花は呟いた。 忘れたことなんて、ない。 「……まあ。たとえば、シロを火にくべて灰になるまで焼いたら、どうなるんだろ、て。そんなことは、たまに考えるけど……」 「ねえ、聞こえてるよ?」 「……空耳じゃない?」 「ボク、ぬいぐるみだからニセモノの耳なんだけど」 「……知らないよ、そんなこと」 「というか、ボクの聴覚ってどうなってるの?」 「……知らないって」 「冷たいね。冷たいやつだね、君は。ハートが零下だね。凍っちゃうよ」 本当に凍ればいいのに。緋花は心の中でそう念じるだけにとどめた。言ったら火に油を注ぐようなものだ。シロの戯言は聞き流すに限る。わかっているのだが、つい反応してしまう。修行が足りない。 「……何の修行だよ」 緋花は早食いだ。給食なんか秒で平らげてしまう。秒は言いすぎか。でも、パン以外は胃の中に瞬間移動させるような勢いで一気に食べてしまう。そしてさっさと片づけ、パンを持って教室を出る。給食の主食がパンじゃない、白米や麺類の時は、何も持たずに教室をあとにする。 最初のうちは、担任に「ちょちょちょ黛……」という感じで呼び止められたが、無視しているうちに何も言われなくなった。 今日はパンの日だった。しかもタマゴサンドだ。 緋花は鞄を背負って早足で廊下を歩いた。 「好きだよね、緋花。タマゴサンド」 「は?べつに好きじゃないけど?」 「嘘だね。足どりが軽すぎだよ」 「……嫌いじゃないけど。私は好き嫌い、とくにないし」 廊下は無人だ。中学生たちはまだ教室で行儀よく給食を食べている。それでも念のため、緋花は声量を抑えていた。 「緋花ァ。君は昔から、ご飯よりパン派なんだよね」 「どっちでもいい派だよ」 「肉より魚派でしょ?」 「マジでどっちでもいい……」 「じゃあ、きなこと餡だったら?」 「それは餡」 「ま、餡だよね。即答だね」 「……粉っぽいの苦手だし」 「わかる。いや、わかるかァ!ボクを何だと思ってるの。白熊ぬいぐるみだぞ。餡もきなこも食べたことないよ」 「知らないって……」 「そんな言い種がある?ボクと君の仲じゃないか。……どんな仲なんだろ?」 「それこそ知らないし……」 「腐れ縁ってやつかな。うん」 「あぁ。そんな感じかも」 「腐っちゃってるの、ボクらを結ぶ縁。もっといい言い方はないの?」 「シロが言ったんでしょ」 「そこは訂正してよ。違うって言って。寂しいじゃん」 「寂しいんだ……」 「ちょっとだけね?」 緋花は中庭に出た。今日は、晴れている。中庭には芝生やベンチ、花壇などがあって、昼休みにはそれなりに賑わう場所だ。でも、まだ誰もいない。がらんとしている。 「またやるつもりィ?」 シロが呆れたような口調で言う。 緋花は校舎の外側に据え付けられているパイプに右手の中指と薬指をかた。正確には、パイプを固定している金具だ。 別の金具や、パイプと外側の間、外壁の溝に手指や靴の爪先を引っかけて、するするとよじ登ってゆく。 「まったく。馬鹿と煙は何とやら、だね……」 シロにからかわれても、緋花はかまわない。あっという間に三階建ての屋上に達して、今日は悪くなかった、と思う。迷ったり詰まったりすることが一度もなく、スムーズだった。登るルートがよかったのかもしれない。 実は校舎内からも屋上に出られる。もっとも、たぶん防犯と危険防止のためだろう。屋上の出入口は施錠されている。 鍵を手に入れなければ、こうやって登らないと屋上には上がれない。 ここまでして屋上に上がる者は、緋花が知る範囲では誰もいない。緋花だけだ。 屋上は平べったい。コンクリート打ちっぱなしだ。外周の部分に低い立ち上がり壁がある。パラペット、というらしい。 緋花は鞄を下ろして足許に置き、パラペットに腰かけた。ビニールの包装を破って、中からタマゴサンドを出す。ひと齧りし、目をつぶった。 「美味しい、緋花?」 「……べつに。普通だけど?」 「素直に美味しいって言えばいいのに。ひねくれてるね、君は」 「あぁ、美味しい、美味しい、美味しい、美味しい、美味しい、美味しい、美味しい、美味しい、美味しい」 「何回も言うんじゃないよ。なんか嘘くさいな……」 「だから普通なんだって」 「タマゴサンドとカツサンドだったらどっちがいい?」 「タマゴサンド」 「ほらね?」 「……何が、ほらね、なんだよ」 「説明が必要?」 緋花はタマゴサンドを三口で食べてしまうと、薄い色の空と切れ切れの雲を眺めた。すぐに飽きてしまい、振り返って校舎を見た。 緋花が通う中学校の校舎はコの字形をしていて、凹んだ部分に中庭がある。緋花がいるのは特別教室棟の屋上で、向かいは教室棟だ。教室棟の一階には三年生、二階は二年生、三階には一年生の教室が並んでいる。 昼食時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。昼休みが始まって、中庭に面している教室棟の廊下に次々と生徒たちが出てきた。 十人に一人くらい、もっと少ないだろうか、頭や肩の上に奇妙なものを乗っけた生徒がたまにいる。 見かけても、緋花はいちいち、何あれ、と首をひねったりしない。 たとえば、二階の廊下を三人の女子が連れ立って歩いている。名前までは覚えていないが、三人とも緋花と同じ二年六組の生徒だ。 そのうちの一人、真ん中の女子生徒の背中に、コウモリのような、あるいはモモンガに似た生き物がしがみついている。 彼女がああいう変わったペットを飼っていて、溺愛するあまり学校に連れてきている、という可能性はないとは言いきれない。 ただし、緋花があの生き物を目撃したのはこれが初めてじゃない。教室でも見た。というか、あの生き物はいつも彼女にひっついている。 それなのに、教師だろうと生徒だろうと、誰もあの生き物のことを話題にしない。 どうやら、彼女自身、あの生き物の存在に気づいていないようだ。 「変だよね」 緋花はぽつりと呟いた。 「ん?」 シロが即座に返した。 「何が変なの」 「いや、べつに」 「べつに、じゃないでしょ。変だって言ったじゃん。はっきり言ったから。完全に聞こえたからね。で?何が変なの?」 「……まあ、しいて言えば、シロかな」 「ハァ?ボクのどこが変なの」 「自覚ないの?」 「きみ!」 「え−」 緋花は中庭に目を落とした。きみ、と大声で呼びかけてきたのはシロじゃない。 作業着姿の男性が緋花を見上げている。この学校の用務員だ。 「……私?」 緋花が指さして見せると、用務員は「きみだよ!」と叫んだ。 「どう考えてもきみでしょ!だって、きみ以外にいないじゃない!」 「あぁ……まあ、そうですね」 「そうですね、じゃないよ……!」 彼はたいていの教員より若そうだ。顔の造り自体がそうなのかもしれないが、いつも笑顔で無駄に愛想がいい。校内で顔を合わせるたびに挨拶してきて、鬱陶しいから緋花は無視しているのに、それでも懲りずに声をかけてくる。 「あのね、黛さん、屋上は立ち入り禁止なんだよ、わかってる!?ていうか前からだよね、時々いるよね、屋上に!それ不思議だったんだけど、どうやって上がってるの!?鍵は閉まってるよね!私、まめに確認しているよ!ひょっとして合鍵でも持ってるの!?」 「合鍵なんて持ってないけど」 「だよね!勝手に合鍵とか作ったりしてたら大問題だからね!とにかく、すぐに下りて!」 「飛び降りろってこと?」 「そんなわけないでしょ!?違うよ、絶対、違うからね!?ああもういいや、黛さん、そこにいて!色々訊きたいこともあるし、私がいくから!」 用務員は校舎に向かって走り出した。職員室に寄って鍵を持ってくるか何かして、階段経由で屋上に来るつもりなのだろう。 「どうする、緋花?」 シロが半笑いで尋ねてきた。 「どうするもなにも−」 緋花は鞄も担ぎ上げた。 「待たないよ。面倒だし」 「だよね」 「わりと気に入ってたんだけどな、ここ……」 緋花はため息をつくと、パラペットをまたいだ。緋花が外壁伝いに中庭に下りるのに、所要時間はせいぜい十秒。当然、用務員が屋上に到着する頃、緋花はそこにいない。 放課後、緋花は担任の針崎先生に呼びだされ、職員室で椅子に座らされて指導を受けた。 その指導とやらの具体的な内容はよくわからない。主に屋上の件なのだろうが、緋花は針崎の言うことをほぼ全部聞き流した。あくまでも全部じゃない。ほぼ全部だ。 「聞いてるのか、黛。返事をしなさい」 針崎は数に一度、そう確認した。その時だけ緋花は「はい」とか「聞いてます」と答えることにしていた。 針崎は三十歳前後で、堅苦しい行事でもない限りは青いジャージを着ている。ハリサキという名字と、短い髪を逆立てて整髪化で固めていることから、陰で「ハリネズミ」、もしくは親しみをこめて「ハリー」と呼ばれているようだ。 「先生だってな、こんなふうに口うるさく注意したくないんだ。だけどな、黛。最低限、最低限だぞ。社会には、守らないといけないルールってものがあってな−」 ようやく針崎の指導が終わって職員室を出ると、もう午後四時半をすぎていた。 「ふんッ!」 シロがいまいましそうにぼやいた。 「話が長すぎてまどろっこしいよ、ハリーは。黙っているのも疲れたよ」 「ハリーとか呼ぶなよ……」 緋花は早足で学校を出た。特に急いでいるわけではないが、のんびり歩くという習慣が緋花にはない。大股でゆっくりめに歩くか、せかせかと早歩きするか。基本はそのどちらかだ。 「歩き方。競歩か」 シロにツッコまれて、思わず緋花は校門の前で足を緩めた。 「……うるさいな」 「せっかちなんだよ、君は。もっと余裕を持って、悠然と生きたらどう?」 緋花は腕時計を見た。施設までは緋花の足だと徒歩で十五分。門限まであと一時間ない。針崎の指導のせいで、残りの十時間は四十五分ほどだ。昔、緋花が住んでいた地区まではバスに乗ってもここから三十分はかかる。 「……今日は無理か」 むしゃくしゃしたところに、ちょうど校門があった。 校門の高さは二メートル足らずだ。よじ登るのは簡単だが、それでは気が晴れない。緋花はタイル張りの校門を蹴って、その勢いで跳び上がった。 「−ふぅ」 思わず緋花は小さくガッツポーズをしてしまった。狙いどおり、手を使わないで校門の上に立つことができた。うまくいった。 「緋花ァ、あのねェ?社会には、守らなければならない最低限のルールってものがあってね?」 シロが笑いながら針崎の説教を引用した。緋花は言い返そうとしたが、何を言おうとしたのか忘れてしまった。 校門の向こう側に女子生徒がいた。緋花を見上げている。 「あ……」 長い髪を後ろ側に結んでいて、くっきりした目鼻立ちの、見覚えのある女子だった。 というか、同級生だ。 緋花にしてはめずらしいことに、名前も記憶している。ちょっと個性的な姓名だから、一度、字面を見ただけで覚えてしまった。 名字は樟葉(クズノハ)だ。 下の名前もやや独特で、希望の希と空と書いて、のあ、と読む。 樟葉希空(クズノハ・ノア)はびっくりしているのか、何回もまばたきをした。 緋花だって驚いている。なぜこんなところに樟葉が。校門付近にはひとけがなかった。てっきり誰もいないものだと、緋花は勝手に思い込んでいた。人がいたのか。しかも、よりにもよって同じクラスの女子が。 緋花は口の中に空気をためて、唇をぎゅっと引き結んだ。 どうしよう。 シロは何も言ってこない。こういう時こそ何か言ってよ。緋花は心の底からそう思った。くだらないことでも、嘲りでも、つまらないギャグでもいいから、何か言ってよ。シロが口を聞いたところで、緋花にしか聞こえないわけだが。 樟葉もどうして黙っているのか。 気まずい。 緋花は初めて樟葉をじっくり見た。くっきりした顔、という印象だったが、目や鼻、口が特別大きいわけじゃない。変に小さくもない。ひん曲がっていたりしない、どう言えばいいのか、整った形をしている。あるべき場所にあるべきものが収まっていて、いびつなところが一つもない。見ていられる。ずっと見ていても決して不快にならない。見飽きることのない造形だ。 だからというわけでもないのだが、緋花は樟葉と見つめあっていた。 にらめっこか何かでもしているかのように、目を逸らすことができない。 正直、緋花は恥ずかしかった。だったらそっぽ向けばいいのに、なんとなくできない。 これは何なのだろう。 いったい何の時間なのか。 「こらぁー……!」 その時、遠くから誰かが声を張り上げた。あの用務員だ。 「校門から下りて!ていうか、黛さん!またきみじゃないかぁ……!」 用務員の怒鳴り声が呪縛を解いたかのようだった。緋花は振り向いた。校舎の玄関前で用務員がホウキを振りかざしている。 「すみません」 緋花が軽く頭を下げて見せると、用務員は跳び上がった。 「さっき針崎先生に叱られたばっかりなのに、ちっとも反省してないだろ、きみ!」 「謝ってるのに……」 緋花は校門から飛び降りた。用務員が追いかけてきそうな勢いだったので、駆け足で校門から離れた。 角を曲がったところで振り返ると、誰もいなかった。緋花は走るのをやめた。 「あの用務員、だる……」 「完全に目をつけられてるみたいだね」 シロが、ヘヘッ、と笑う。緋花は顔をしかめた。 「勘弁して欲しいんだけど」 「ボクじゃなくて、あの人に直接言えばいいじゃない」 「何て言えばいいんだよ」 「そうだな。たとえば、天涯孤独の哀れな中学二年生が、飛行に走らないで健気に頑張って生きてるだけなので、どうか放っておいてください、とか?」 「自分のこと哀れとか、私、思ってないんだけど」 「方便じゃない。天涯孤独ってだけで充分哀れに見えるものだよ?」 「だいたい、天涯孤独じゃないし」 「ん?」 「私には兄さんがいる」 緋花が兄を持ち出すとシロはだいたい口をつむぐ。シロは緋花の兄を知らない。緋花がシロと出会ったのは兄と別れ別れになってからだ。 腕時計を見ると、午後四時四十五分だった。施設には門限の六時ぎりぎりにつけばいい。緋花は少し寄り道をすることにした。 寄り道といっても、緋花の場合、遠回りしてひたすら歩くだけだ。なるべくお金を遣いたくない。そもそも、無駄遣いできるほどお金を持ってない。 緋花が入所している施設は、中学生だと、月に三千円の小遣いが支給される。三千円が多いのか少ないのか、緋花にはよくわからない。ただ、たまにバスに乗ると片道二百五十円、往復で五百円が一気に吹っ飛ぶ。 お金はあっという間になくなってしまう。いざという時、待ち合わせがないと困る。困りたくなければ、できるだけ金を遣わないことだ。 そんなわけで、緋花はケーキ屋やパン屋には一度も行ったことがない。うっかり余計な物を買ってしまいそうだから、コンビニにもなるべく入らないようにしている。 歩くのは嫌いじゃない。 周りに人がいない状況限定だが、シロという話し相手もいる。 少なくとも、退屈ではない。 「ボクは暇だけどね」 シロはたまに緋花の心を読んだようなことを言う。 「基本、鞄の中にいるだけだし」 「鞄から取り出して、ぶん投げようか?」 「間違ってもそんなことしないでね?」 「空を飛んだら、楽しいかもしれないでしょ」 「あのねェ。投げられるのを飛ぶとは言わないんだよ。中学生にもなって、飛ぶって言葉の意味も知らないの?今度、辞書で調べてみて。今度っていうか今日、調べて。飛ぶのところに、ぶん投げられるなんて載ってないから」 緋花は街路から小道に入ってまた街路に出た。ここは曲がったことがないかも、と思ったところで曲がってみる。でも、勘違いだったようで知っている道だった。学校の周辺はもう一年以上、歩き回っている。足を踏み入れたことがない道は、たぶんほとんどない。 緋花が通う中学校は往来町という地区に、施設はその隣の浅川町という地区にある。 浅川町には、その名のとおり浅川という名の川が流れている。川幅は広いが、雨などで水位が上がっている時でなければ、歩いて渡れるくらい水深が浅い。 「けどねェ、緋花、安易なネーミングだと思わない?浅い川だから浅川って……」 「わかりやすくていいじゃん」 「情緒ってものがね」 緋花は生意気にも情緒を語るシロの入った鞄を担いで浅川の土手を歩いた。 浅川の河川敷にはテント村がある。テント村と呼んでいるだけで、キャンプで使うようなテントは少ない。実際はビニールシートや廃材で作られた掘っ立て小屋だらけだ。浅川デン、という異名もある。デンは巣穴、根城、巣窟を意味する言葉らしい。 浅川のテント村には近づかないように。 地域の子供たちはそう教えられる。小学校でも中学校でも施設でも、大人たちはみんなそう言う。あそこは危ないから、と言い含められることもある。緋花もテント村、浅川デンに入り込んだことはない。時折こうして土手から眺めるくらいだ。 べつに怖そうな場所でもない。 浅川デンの住人たちは、おそらく裕福ではないのだろう。身なりがよくない人もいる。でも、ちゃんとした人だっている。 以前、門限を破って夜にこのあたりを歩いていたら、浅川デンの住人たちがドラム缶の焚き火を囲んでいた。彼らの暮らしぶりは知らない。でも、笑い声が聞こえた。彼らは何かの料理をしていて、食べたり飲んだりしながら、楽しげに語らっていた。 楽しそうにしている人たちが、緋花は少し苦手だ。 遠くから見ているぶんにはいい。ただ、あまり近づきたくない。 「緋花、君のコミュ障ね。治したほうがいいよ」 「そんなのじゃないし」 「本気で言ってるの、それ?」 「人といると、なんか疲れるってだけ」 「疲れようと何だろうと、人間は社会的動物ってやつなんだから。一人で生きていくわけにはいかないでしょ。ちょっとは辛抱することを覚えないとね」 「シロがまともっぽいこと言ってる……」 「ボクはその気になればまともな話もできる、すごいぬいぐるみなんだから」 「シロのくせに……」 浅川は北から南へと流れている。緋花は沈みかけの西日に背を向け、浅川に架かっている橋を渡りはじめた。 車道は混みつつあるものの、歩道はさっぱりだ。緋花がひょいと橋の欄干に上がった。 「まァーた君はそういう……」 シロが呆れたように言った。緋花はかまわず欄干の上を歩いた。 歩道より風を感じる。たまに緋花の体が煽られて揺れると、シロが大袈裟に「うわっ」と声を出した。 「落ちないよ」 「どうかな。油断大敵って言葉を知らないの?」 「それくらい知ってる。だけど、油断なんかしてないし」 「慣れてるから平気だって、高をくくってるんでしょ。あのね、怖いんだよ、慣れっていうのは。自分は大丈夫だと思ってるやつに限って、事故になるのだよ」 「なんでそんなに慎重なんだよ。シロなのに……」 「慎重っていうのかな。ボクは生まれつき思慮深いのだよ」 「生まれつきなんだ……」 「悪い?」 「べつに悪くはないけど。シロって、どうやって生まれたのかなって」 「ん?それはその−……」 シロは、んんん、と唸って考えこんだ。 緋花はあの子のことを覚えている。当時の緋花と同じくらいの身長、フードを被り、仮面を付けた子。あの子が緋花の前に鞄と、シロを置いていった。でも、シロはしゃべりだす前のことはよくわからないようだ。 緋花は立ち止まって川のほうに向きなおった。欄干に腰を下ろすと、踏みしめる場所を失った両足の靴が脱げてしまいそうな感覚に襲われた。 「ねえ、緋花。ここでそんなことしてたら、今から飛び降りようとしてるヤツみたいに思われるよ」 「飛び降りないし。落ちたって、下、川だし。泳げるし」 「でも、浅いからね。浅川だけに」 「大丈夫だよ」 「気をつけてね?」 「うん」 緋花はうなずきながら体を前後に揺すった。シロが騒いだ。 「おーい!こら緋花ッ、気をつけてって言ってるそばから君……」 「これくらいで落ちたりしないって」 「わからないでしょ!?そういうのがまさしく油断なんだよ!」 「油断じゃないよ。わざとだし」 「そうか。わざとか。わざとなんだ。わざとやるんじゃないよ。やらないでね。絶対、やらないで」 「やるなって言われるとね……」 「フリじゃないよ。もういい。くだらないことしないで、さっさと帰ろ」 「えぇ……」 「どうせ、そろそろ門限じゃないの」 「まあ、そうだけど」 「帰りたくないの?」 緋花は聞こえなかったふりをしてシロの問いに答えなかった。 シロが、ヘヘッ、と笑う。 「好きになれないんでしょ、あの施設が」 「べつに……好きとか嫌いとか」 「他のやつらは、何だかんだ言って、一応、施設をウチって呼んでるけど、君は違うよね。施設を自分の家だとは思ってない。どうしても思えないんでしょ」 緋花は両脚をぶらぶらさせた。いつの間にか、かなり背中を丸めて下を向いていた。背筋をのばそうという気にはなれない。前も、上も、向きたくない。 「……施設がどうとかじゃなくて、ただ−」 「ただ?」 「合わないだけだよ」 「へえ。何と?」 「人」 「ようするに、人間嫌いってやつね」 「嫌いなわけじゃない。合わないだけ。そう言ってるでしょ」 「めんどくさいヤツだね」 「うるさいって……」 「ところで、緋花」 「ん?」 「気づいてる?」 「何に?」 「いるよ」 「え?何が?」 「そこだよ」 「どこ?」 緋花は顔を上げた。 右を見て、左を見て。 緋花から一メートルほどしか離れていないところに−もちろん欄干の上ではなくて、欄干の下、浅川橋の歩道に、女子生徒が立っていた。 その女子生徒は緋花が通う中学校の制服を着ている。やけにくっきりした顔だ。長い髪を後ろで結んでいる。 「……え−」 おかしなこともあるものだ。 以前、似たような出来事があった。以前というか少し前、ついさっきだ。 樟葉希空が緋花を凝視している。目を見開いているわけじゃないが、対象をしっかりと捉え、縛りつけようとしているかのような眼差しだ。その対象というのが緋花だった。 昔、緋花がもっと幼かった頃、施設の先生に、ちゃんと目を見て話しなさい、と注意されたことがある。緋花は言われたとおり先生の目を見た。するとなぜか、先生のほうが緋花の目を見ていなかった。先生は緋花の鼻や口のあたりを見ていた。 相手の目をまっすぐ見るのは、何だか気が引ける。 施設にあった何かの本に、猫は人間と目を合わせるのを嫌がる、と書かれていた。たいていの場合、無遠慮な視線は敵意の表れだ。 でも、樟葉希空は、ただ緋花を観察しているようだ。よっぽど緋花という生き物がものめずしいのか。緋花がどういう形をしていて、どんな生態なのか、詳しく調べようとしている。そういう目つきだ。 何、この人。 さっきもいた。 また、いる。 単なる偶然なのか。ありえないとは言いきれないが、不思議ではある。奇妙な話だ。 というか、むしろ怖い。 緋花は逃げたかった。欄干の上に座っていなければ、脇目も振らずに駆けだしたかもしれない。そうだ。逃げよう。立ち上がって、欄干を走ってもいいし、下りたっていい。逃げたければ今すぐにでも逃げられる。どうして緋花はそうしないのだろう。緋花自身、わからない。校門の時も同じだった。こうして樟葉に見つめられていると、なぜだか目を逸らすことができない。 「あの」と緋花が言ったのと同時に、樟葉は「黛さん」と緋花の名を呼んだ。 「うん」 緋花は思わずうなずいた。 「……え?何?」 「わたしのこと、知っていますか?」 樟葉はやはり緋花を見つめたまま尋ねた。ずっとまばたきをしていない。目が乾いて痛くなったりしないのだろうか。無性にそんなことが気になった。 「知っ−てる……けど。樟葉さんでしょ。同じクラスの。樟葉、希空」 「認識してたんだ。わたしのこと」 樟葉はようやく二度、三度とまばたきをした。 それから顎をちょっと上げて両目を細め、唇の両端を微かに持ち上げた。 「よかった。他人には興味がないのかと」 「……興味は基本、ないけど」 「ないの?」 今度は目を丸くして口をすぼめる。表情が変わると、樟葉は別の樟葉になった。それでいて、彼女は彼女だった。 「じゃ、なんでわたしのことを知っているの?」 「それは……名前がちょっと変わってるから?」 「樟葉と希空の組み合わせなので、よく言われます。ただ、黛さんもわたしと同じくらいか、もっとめずらしい」 「そう……なの。まあ−」 「緋花ァ」 シロが、ヒッ、ヒッ、と笑う。 「めずらしいって言ったら、君が学校のお友だちと話してるってのも、そうとうめずらしいことだよね?」 お友だちとかじゃないし。緋花はとっさに言い返しそうになった。でも、シロはわざとそうな言い方をして緋花をからかっているのだろう。それに、樟葉の前でシロに黙っててと怒鳴るわけにもいかない。 「たしかに私の名前も、よくあるってほどじゃ−」 緋花はふと、おかしなことに気づいた。 樟葉は緋花を見ていない。緋花の方に目を向けているものの、その視線は緋花に注がれてはいない。樟葉は何を見ているのか。 緋花が左肩にストラップを掛けて背負っている鞄だ。樟葉は鞄を見ている。 「……どうかした、緋花?」 シロが怪訝そうな声を出した。 緋花は答えずに鞄を背負い直して体に引き寄せ、密着させた。 「よく、ある……名前……じゃ……ていうか……え?何……?どうか−した……?」 樟葉は返事をしない。じっと鞄を見つめている。 「えッ−」 シロもうろたえはじめた。 「な、何、こ、この娘?ま、まさか、ボクのこと……」 「わたしね」 樟葉が口を開いた。まだ鞄から目を離そうとしない。 「黛さんと話したくて。それで、待ち伏せを」 「……まちぶせ」 緋花は一瞬、何のことかわからなかった。あらためて思い返すと理解できた。 「あぁ……さっき、校門のとこで?」 「はい」 樟葉は緋花を見ずに肯定した。 「でも、城島(キジマ)さんに怒られてはしっていっちゃったので、追いかけてきたんです」 「……城島さん?」 「わたしたちの学校の用務員さん」 「あの人、そんな名前なんだ。城島……」 「城島さんは、誰に対しても挨拶を欠かさないし、気軽に雑談に応じてくれたりもして。とても親しみやすい人で」 「へぇ……」 緋花としては、どうでもいい。用務員の名前とか、人柄とか。まるで関心がない。 そんなことよりも、どうして樟葉は緋花を待ち伏せしたりしたのか。なぜわざわざ追いかけてきたのだろう。話したいこととは何なのか。それから、樟葉は依然として鞄を見つめている。そのことのほうが緋花は気になって仕方がない。 「−で……樟葉さん、私に、何か……用事でも?」 「用事もなく、待ち伏せしたり、ここまで追いかけてきたりしません」 樟葉はやっと鞄ではなく緋花を見て、微笑んだ。 緋花は顔を伏せた。つい、うつむいてしまった。 何もうつむくことはない。緋花は上目遣いで盗み見るように樟葉の様子をうかがった。 「その」 樟葉は右手を持ち上げて指さした。 「鞄の中身について」 「……えっ−シロ……?」 「しろ」 樟葉はそう言って小首を傾げた。 「シロって色の?白色ってことですか?」 「あぁ……や、そんなわけじゃ……なくて……」 緋花がシロをシロと呼ぶようになったのは、あの日に鞄の中身を確認した時に中から白熊のぬいぐるみが出てきた。そして、それが喋って『ボクはシロだ』と名乗ったからだ。ずいぶん前だから細かいやりとりは覚えていない。それ以来、緋花はシロと呼ぶようになった。 「……私のシロ、いや−鞄……だよね。えっと、わ、私の鞄の中身が、その……気になるの?」 「はい。黛さんは、よくその鞄の中のなにかとしゃべっているでしょう」 「鞄の中のなにかと……」 緋花は危うく欄干から落っこちそうになった。 「か、か、鞄の中のなにかと?私が?しゃ、しゃべってるって、えっ?な、なんで?そんな、しゃべって−ない、けど……?」 「黛さんは腹話術が得意ですか?」 樟葉は淡々と妙な質問をぶつけてきた。 「ふくわっ……」 緋花は腹話術を試してみようとした。 待って。無理だ。というか、おかしい。いきなりやったこともない腹話術にチャレンジするなんて。どうせできっこない。この場で試みる必要もない。 「……ないけど。腹話術の、経験とかは」 「それじゃ、黛さんと会話している、黛さん以外の声は誰のもの?」 「私……以外の−」 「ねえ、緋花……」 シロが声をひそめて囁く。 「どうやら聞こえちゃってるみたいだよ、ボクの声。……その娘に、バレてる」 「その声」 樟葉はこくっとうなずいた。 「正解。わたしにはバレてる」 マジ?緋花はそう思っただけじゃない。 「……マジ?」 口に出して呟いてしまった。 樟葉は胸を張って、えらく整っている顔中を色とりどりの花で飾り立てるように、満開の笑みでいっぱいにした。 「マジです」

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怪物戦記 Episode1 「Encounter」

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右手で鉄棒を握る。軽く勢いをつけ、片手で逆上がりをした。左脚を鉄棒にかけて一気に体を持ち上げる。 黛緋花(マユズミ・ヒバナ)は鉄棒の上に立って腕組みをした。 「ねえねえ、緋花……」 左肩に引っかけているカバンの中から聞こえる声の主が、呆れたように笑う。 「言っておくけど。それ、ちょっとした奇行だからね?見るからに変なヤツだよ?」 緋花は聞こえないふりをして小さな児童公園を見回した。鉄棒、すべり台、綺麗に彩られている花壇がある。ベンチが二台、水飲み場、野外灯、二人乗りのブランコ。 二人組の男子がブランコに乗っている。どちらも緋花より年下だ。小四か、小五か。二人とも、何あの女子中学生、怖っ、とでも言いたげな顔をしている。 「ほらね」 フェッ、フェッ、フェッ。 声の主がいやらしい声を立てる。 緋花は舌打ちをした。うるさいよ“シロ”。思っただけだ。口には出さなかった。あの小学生たちにはシロの声が聞こえない。世界中で緋花だけがこのシロと会話できる。 緋花は鉄棒から飛び降りた。 「無駄に身軽なんだよね。まるで猿のようだよ」 飽きずにイジってくるシロを無視して、今度はすべり台に上がってみた。ブランコの男子たちはもう緋花を見ていない。ブランコを漕ぐでもなくスマホをいじっている。 緋花はすべり台の上で中腰になった。あの頃、おそらく緋花の身長はこれくらいだった。すべり降りる部分は金属製だ。銀色でへこみが目立つ。手すりの黄色い塗装はところどころ剥げている。 「……もしかして、ここなの?」 シロが囁くように言った。 「どうかな」 緋花は小声で答えながら制服の左袖をめくった。施設から支給された腕時計の針は午後五時十分を示している。緋花は中二で、部活には入ってないし、塾にも通っていない。施設の門限は六時だ。 「そろそろ帰らないと、間に合わないんじゃない?」 シロが嘲笑う。 黙ってて。 緋花はそう思いながらすべり台から飛び降りた。 カバンを肩掛けしている緋花の影はやたらと長い。 チャイムが鳴りはじめた。夕焼け小焼けだ。耳慣れた旋律。聞き慣れた音。緋花は暮れなずむ夕空を振り仰いだ。 「……肩車」 「ん?何?」 尋ねたシロに答えるでもなく、緋花は繰り返し呟いた。 「肩車−」 そうだ。 肩車。 兄に肩車をしてもらって、この公園に来た。兄は小声で何か歌っていた。 「ねえ、お兄ちゃん、それ何の歌?」 緋花が訊くと、兄は笑ってはぐらかした。 「何の歌なのかな」 「教えて」 緋花は兄の腕を軽く摘んだ。 「ねえ、教えて。何の歌?」 「作ったんだよ」 「お兄ちゃんが?」 「ああ、僕が今、作った歌」 覚えている。はっきりと。ありありと思い出せる。 すべり台。緋花はすべり台で何度も遊んだ。兄はベンチに座って緋花を見守っていた。脚を組んで前屈みになり、目を細めていた。兄は笑みを浮かべていた。 ブランコにも乗った。ブランコは二人乗りだ。兄もブランコに乗った。 「……そうだ」 “行き”じゃない。 肩車は、帰りだ。 遊び疲れた緋花を兄が肩車してくれた。夕焼け小焼けが鳴る帰り道で、兄は別の歌を口ずさんでいた。 「緋花」 シロが呼びかけてくる。 「ねえ、緋花」 緋花は答えずに児童公園を出た。正面には大きい図書館がある。ここを右か。それとも左なのか。あの日、兄はどちらへ向かったのだろう。だめだ。わからない。 とりあえず緋花は右方向に歩いてみた。車がなんとかすれ違える程度の狭い道だ。道に面している建物はどれもさして新しくない。けっこう古そうな建物もある。 赤、青、白のサインポールを掲げている理髪店があった。外壁は灰色だ。店の名前は理容室ヤミカゲ。見覚えがあるような気も、ないような気もする。 「どう?」 シロが訊く。緋花は足を止めずに首を横に振る。 探しているのはマンションだ。住所はわからない。でも、きっとこのあたりにあるはずだ。色は白っぽくて、外階段、内廊下の五階建てだった。緋花はそのマンションの三階に兄と二人で住んでいた。 三階の何号室だったのか。たしか角部屋だった。室内の様子はだいたい覚えている。窓の外に黒塗りの柵が据え付けられていて、兄が緋花をその柵の上に座らせてくれた。柵に肘をついてスマホをいじる兄の姿が目に焼きついている。 緋花はT字路の真ん中で立ち止まった。足許にマンホールがある。どの方向に目をやっても、記憶に引っかかる眺めがない。 あれから八年か九年は経っている。その間に色々変わったのかもしれない。 「どうなの、緋花?」 シロが言う。 「だから−」 緋花はぐっとこらえようとした。 「うるさいんだよ、おまえは!」 無理だった。つい怒鳴ってしまった。 「……怒ることはないでしょ。ごめん」 謝るなんてシロらしくもない。緋花はため息をついて踵を返した。その時だった。 黒ずんだ古いブロック塀が目に入った。塀の向こうは曲がり角になっている。黒く汚れたブロック塀。曲がり角。 妙に気になる。緋花はそこまで行ってみた。曲がり角の先はかなり狭い小道で、両側に平屋や二階建ての住宅がひしめいている。道端に鉢植えが並んでいて、電柱がやけに細い。電線が小道に覆い被さりそうだ。緋花の心臓が跳ね上がるように脈打った。 「ここ−通った……」 あの日だ。 緋花はこの小道を走った。一人じゃない。兄も一緒だった。緋花は兄に手を引かれていた。急いでいた。追われていた?そうだ。何者かが緋花と兄を追いかけていた。二人は逃げていた。どうして? なぜ追われているのか。そんなことを考える余裕もなかった?どうだろう。覚えていない。何が起こっているのか。兄は緋花に説明してくれただろうか。それとも、兄も理解していなかったのか。わからない。とにかく必死だった。それだけはたしかだ。 ひとけはなかった。あたりは暗かった。真っ暗ではなかったと思う。日が暮れたあとか。明け方か。そのどちらかだ。 小道はいくらか広い道に突き当たった。右に進むと、軒先テントが設置された何かの店が右手に二軒、左手に一軒ある。緋花と兄はおそらくこの道を走った。 かなり苦しかったはずだ。緋花は今、走っていない。それなのに、胸が苦しい。 きっと緋花は何回も弱音を吐いただろう。お兄ちゃん、もうだめ。無理だよ。苦しいよ、私、もう走れない。置いてって。 兄は励ましてくれたはずだ。がんばれ、緋花。走れるよ。緋花は、まだ走れる。 そうだ。 がんばらないと。 だって、走れるって、お兄ちゃんが。 その道を抜けると、アスファルトではなくなく石畳の道に出た。古い商店街だ。ほとんどの店はシャッターが下りている。このシャッター街は記憶にない。道を間違えたのか。 そうじゃない。路地だ。兄と緋花はすぐそこの路地に入って通り抜けた。 「ここなんだね、緋花?」 シロが念を押す。緋花は返事をしない。ここだと思う。間違いない。本当に? 下町、というのだろうか。際立った特徴はない。言ってしまえば、ありふれた街並みだ。本当にここなのか? 兄はとうとう緋花を抱え上げた。あの時、緋花は泣いていたかもしれない。それか、転んで起き上がれなかった。そうだ。ここで転んだ。兄は緋花を抱き起こして、そのまま走った。 「大丈夫だ、緋花!」 兄の声が蘇る。 車の音を聞いた。遠くに赤信号が灯っていて、兄が「くそ!」と短く吐き捨てるように言い、引き返したような気がする。 おそらく、兄と緋花を追いかけていたのは、一人や二人じゃない。大勢だ。 「止まれ」 そう声をかけられた。男の声だった。今じゃない。あの時の話だ。でも、思わず緋花は立ちすくんでしまった。気味が悪い。こんなにもはっきりと覚えているなんて。緋花は自分を抱えている兄にしがみついて、たぶん目をつぶっていたのだろう。男に「止まれ」と脅しつけるような口調で呼び止められ、驚いて目を開けた。 男が立っていた。男は何かを両手で握っていた。その物体の先をこちらに向けていた。大きな音が響き渡った。破裂するような音。硬い物を強く叩くような音だった。あれは何の音だったのか。当時はわからなかった。今にして思えば、銃声だったのではないか。 男は銃を持っていたのだ。兄と緋花に向かって発砲した。 兄が「あっ」と声を発してよろめいた。あの時は、まさか銃で撃たれたなんて思いもよらなかった。でも、兄の身に何かが起こった。それだけは緋花も理解していた。 ただ、兄はそのあとも緋花を抱きかかえたまま逃げつづけた。兄は片足を引きずっていた。明らかに怪我をしていた。すごく痛そうだった。 どのくらい逃げたのか。数十秒とか数分ではないだろう。数十分か。あるいは、もっとなのか。 兄はビルとビルの間の路地に逃げ込んだ。その前に兄は緋花を下ろしていた。緋花のほうから、下ろして、と頼んだような覚えもある。いずれにせよ、緋花は兄と手を繋いでいた。ひどく湿っていて、なんだか臭い、汚らわしい場所だった。頭上には何台ものエアコンの室外機が半分屋根のようにせり出していて、ごうごう鳴っていた。 兄がいきなり扉を開けて、その中に緋花を押し込んだ。 「ここに隠れていろ」 「でも、お兄ちゃん……」 「僕がいいって言うまで、じっとしているんだ。わかったね、緋花?約束して。絶対に、声も出しちゃだめだ」 兄は路地にいた。緋花がいる場所は屋内だった。兄は扉を閉めようとしていた。緋花は怖くて不安だった。兄の言うとおりにしたら、ひとりぼっちになってしまう。やだ。ひとりぼっちになんか、なりたくない。兄と一緒にいたい。離れたくない。 でも兄は怪我をしていた。ずっと痛そうだし、きつかったはずだ。きっともう限界なんだ。無理なんだ。 緋花が足をひっぱっている。自分は足手まといなんだ。 離ればなれになりたくないし、ひとりぼっちは嫌だけれど、言うことを聞かないといけない。そう思った。 「うん」 緋花が頷いて見せると、兄は唇に人差し指を当てた。 「しーっ」 兄の顔はあまり、というか、ほとんど見えなかった。 ただ、なんとなく、兄はあの時、笑っていたような気がする。 緋花はもう一回、今度は黙って頷いた。 兄が扉を閉めた。真っ暗になった。 緋花はあの闇を覚えている。 ただ暗いだけではない。手触りさえ感じられた。あの闇には重みがあった。暗くて何も見えないのではない。緋花は闇に目隠しをされていた。闇が緋花の目を、鼻を、耳も塞いで、この上、口まで覆われたら、息ができなくなる。 頭がおかしくなってしまいそうで、扉に耳を寄せると外の音が聞こえた。室外機がごうごう鳴っている。その音が聞こえて少しほっとした。闇はまだ緋花の耳を完全に塞ぎきってはいない。 すぐに別の音が聞こえた。足音だろうか。激しい物音がした。 それから、声も。 誰かが叫んでいる。兄なのか。別の人物だろうか。 もちろん、緋花は外に出たかった。扉のノブに手をかけた。開ける寸前で、何度も思いとどまった。 ここに隠れていろ。兄にそう命じられた。約束して、と言われて、緋花は頷いた。兄との約束を破るわけにはいかない。そんなことはできない。 だけど結局、怖かったんだ。 たまらなく怖くて、あの闇の中で息を殺していることしかできなかった。 いつしか緋花はしゃがみこんでいた。ひたすら兄を待った。 兄は必ず戻ってくる。大丈夫、もういいよ、緋花。そう声をかけてくれる。緋花は兄を信じていた。信じるしかなかった。 闇に閉ざされたそこは、おそらく階段だった。その階段は下へ、下へと続いている。もしかしたら、どこまでも。地の底まで。 時折、暗闇の向こうで何かが動いているような気配を感じた。その度に緋花は悲鳴をあげそうになった。どうにか押し殺して、心の中で兄に呼びかけた。 お兄ちゃん。 お兄ちゃん。 お兄ちゃん。 助けて、お兄ちゃん。 帰ってきてよ、お兄ちゃん。 早く戻ってきて、お兄ちゃん。 どうか、お願いだから、お兄ちゃん。 お兄ちゃん。 お兄ちゃん。 お兄ちゃん。 ここで待ってるから。約束したから。言うとおりにしてるから。お兄ちゃん− いったい何時間、暗闇の中で震えながら、ひょっとすると、うとうとしたり、はっと目を覚ましたりしながら、緋花はどのくらいの間、兄を待っていたのだろう。 三時間? 四時間だろうか? 十時間? それ以上? 半日? 一日? ひょっとして、二日? もっとだろうか? 「−っ……」 突然、扉が開く音がして、光が差し込んできた。眩しかった。一瞬目が痛んだ。そんなことはどうでもよかった。 「お兄ちゃん!」 緋花は階段を上がった。扉はやはり開いていた。そこから外に出た。溝みたいな臭いがした。路地はコンクリートで舗装されていた。汚れてひび割れたコンクリートに赤い染みがついていた。 血だ。 −と、思った。 誰の血なのだろう。まさか。 まさか、お兄ちゃんが。 そんなわけがない。緋花は真っ暗な地下への階段にいた。一人だった。誰かが外から扉を開けた。誰が開けたのか。 「お兄ちゃん」 そうだ。兄だ。兄が扉を開けた。そうに決まっている。兄が戻ってきた。緋花を迎えに来てくれたのだ。 緋花は兄を捜した。どこかにいるはずだ。扉を開けたのが兄なら、すぐ近くにいないとおかしい。 「おっ−……」 いた。路地の出口付近に人が立っている。でも、あれは。緋花は身震いした。違う。 お兄ちゃんじゃない。 それは緋花の方に体を向けていた。自分と同じくらいの背丈で、フードを被っている。服装の色は黒色だったと思う。黒色のフード付きパーカーを着ていた。 問題はそれの顔だった。 仮面だ。 一つ目が描かれた仮面をつけていた。 仮面をつけているので、男の子なのか女の子なのかわからなかった。 仮面をつけたその子はカバンか何かを肩に掛けていた。それ以外の持ち物はなさそうだった。少なくとも、銃を手にしていなかった。兄と緋花を追いかけていた連中じゃない。あの一味ではないような気がした。何しろ、仮面をつけている。 あるいは、もっと危険な、恐ろしい、得体の知れないものなのかもしれない。何と言っても、仮面をつけているのだから。 仮面をつけたその子はおもむろにカバンを肩から外すと、それを緋花に向かって差し出した。受け取れ、とでも言いたげな振る舞いだった。 緋花はとっさに首を横に振った。仮面をつけたその子は見るからに怪しいし、そのカバンにも見覚えがない。そんなもの、おいそれとは受け取れない。 やがて、仮面をつけたその子はわずかに顔を伏せた。それから身を屈めて地べたにそっとカバンを置いた。 カバン。 たぶん、カバンだ。 ストラップがついていて、肩に掛けたり背負ったりできる。大きなカバンだ。 緋花はしばらくそのカバンを見つめていた。 気がつくと、仮面をつけたあの子はいなくなっていた。どこにもいない。消えてしまった。まるで仮面をつけたあの子なんて最初からいなかったのようだ。 でも、いなかったことにはできない。 証拠がある。あのカバンが残されていた。 仮面をつけたあの子が置いていった物だ。 「あの子のせいで……」 緋花は急に泣きたくなった。 あの子の、あの仮面をつけた子のせいだ。あの子がドアを開けたせいで、緋花はつい外に出てしまった。兄が戻ってくるまで待ってないといけなかったのに。仮面をつけたあの子のせいで、緋花は約束を破ってしまった。 もともと緋花は泣き虫だった。大した理由もないのに、よく泣いた。緋花が泣きだすと、兄がぎゅっと抱きしめてくれた。兄は、泣くな、とは言わなかった。 『泣きな、緋花。好きなだけ泣くといいよ』 兄の言葉を思い出したら、なぜか涙が引いた。 あれ以来、緋花は一度も泣いていない。 迷ったあげく、緋花は仮面をつけたあの子が残していったカバンに手をのばした。持ってみたら、中に何かある重みがあった。何があるのだろうとは思ったが、あの時はカバンを開かなかった。仮面をつけたあの子のように左肩に掛けて背負った。 不思議とひとりぼっちじゃないような気がした。 赤い染みは路地のほうへと続いていた。 「お兄ちゃんは、怪我してるんだ」 緋花は確信していた。 染みは兄の血だ。 兄は一人で追っ手を撒くつもりだったのかもしれない。きっと安全を確保してから戻ってくるつもりだった。でも何かあって戻って来られなかった。 それなら、緋花が兄のところに行けばいい。 「捜さないと−」 ※一言コメント※ うっす!闇影です。予告もなしに新作を出して、すいません!(特定の人には予告してたけど)ほんでもって、本編の外伝作品「怪物戦記」が始動します。次から本編と外伝作品を交互に出そうかと考えています。んで、今回の話は0話と言うこともあり、できるだけ深い設定は出していません。それでも楽しめたら幸いです。まあ、それは置いといて、キャラの設定を、どうぞ! 黛緋花(マユズミ・ヒバナ) 行方不明の兄を追う中学2年生の少女。 カバンから聞こえる声「シロ」が相棒。 仮面をつけた子 幼き日の緋花の前に現れた正体不明の存在。カバンを残す。

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怪物戦記 Episode 0「Past」

緊急報告

うぃーす、闇影です。題名の通り、緊急報告をさせていただきます。明日から学校生活が本格的にスタートするので、しばらくこのnoveleeの投稿速度が大幅に遅くなる、あるいは休止にしようかと思います。現在連載中の小説がまだ未完成ですが、申し訳ありません。(時間があれば完成させるつもりです)投稿速度が戻ってきた際はまた連絡するつもりです。それでは、また会いましょう。

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今更の自己紹介

題名のとおり、自己紹介させていただきます。 ネーム…闇影(ヤミカゲ) 年齢…10代です(学生生活まっしぐら) 性格…生真面目だとよく言われます。そして、基本めんどくさがりです 好きなアニメ…ガンダムシリーズ、呪術廻戦、あっちこっち等 好きなアーティスト…Eve、YOASOBI 今後展開予定の小説…バトル物、ホラー物(基本的に暗めの展開になる物が多めになりそうです)

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