ああああ
16 件の小説灰空を裂く、星喰いの剣
灰色の空が世界を覆ってから、百年が経っていた。 昼も夜も変わらない鈍い光の下で、人々は「空はこういうものだ」と思い込むことで生き延びていた。だが古い文献には、かつて星が瞬いていた夜空の記録が残っている。星は消えたのではない。喰われたのだ。 王都リーヴァスの外れで育った孤児の少年エルは、理由もなく剣を振る癖があった。誰にも教わっていないのに、身体だけが覚えている動き。夢の中で、彼は星の光を宿した剣を振るい、空を裂いていた。その夢はいつも、世界を覆う巨大な影に飲み込まれて終わる。 ある日、北の監視塔が「消失」する。爆発でも崩落でもない。まるで存在そのものを削り取られたかのように、塔は跡形もなく失われていた。その現場に現れた王国の調査団の中に、一人の女魔術師がいた。名をリュネ。彼女はエルを見るなり、はっきりと言った。 「あなた、生きた星の欠片を持っている」 エルの胸の奥で、何かが熱を持つ。彼自身も知らなかったが、彼の心臓の代わりに鼓動していたのは、かつて星を守っていた存在――星の王の核だった。 世界を覆う灰色の空の正体は、「灰の王」と呼ばれる存在だった。星の光を喰らい、世界の上に蓋をすることで、人類を“停滞”させる神に近い怪物。争いも進歩もない代わりに、緩やかに滅びる世界を完成させようとしていた。 エルは逃げたかった。英雄でも救世主でもない。ただの孤児だ。しかし、灰の王の影は確実に王都へと近づいていた。削られる街、消える人々。逃げ場はなかった。 リュネの導きで、エルは古代遺跡へ向かう。そこに眠っていたのは、星の王が最後に残した武器――星を喰う剣。本来なら神すら斬るための剣だが、扱えるのは星の核を宿す者だけだった。 剣を握った瞬間、エルの記憶が溢れ出す。 かつて彼は人間ではなかった。星の王として、世界を照らす役目を担っていた。だが灰の王との戦いで敗れ、核だけを人間の赤子に託した。その赤子こそが、今のエルだった。 最終決戦の日、空はさらに濃い灰に染まる。 灰の王は語る。「自由も希望も、いずれ争いを生む。ならば最初から与えなければいい」と。 エルは震えながらも剣を構える。 「それでも、人が選ぶ未来を奪う権利はない」 剣が振るわれるたび、灰色の空に亀裂が走る。 星を喰う剣は、喰った星の光を解放する剣でもあった。 最後の一撃で、灰の王は砕け、空を覆っていた灰は崩れ落ちる。 そして――夜が戻った。 百年ぶりの星空の下、人々は泣き、笑い、空を見上げた。 エルは力を失い、ただの少年に戻る。星の核は砕け、彼の胸には普通の心臓が残った。 英雄として迎えられることはなかった。 だがエルはそれでよかった。 灰色ではない空の下で、世界は再び動き始める。 争いも、失敗も、希望も含めて。 そして夜空には、ひときわ強く輝く星が一つ残っていた。 それはもう、誰にも喰われることはなかった。
霧の向こうの36時間
2025年10月。 東京湾に浮かぶ小さな離島「霧ヶ島」は、秋になると霧が濃くなり、携帯の電波がほぼ途絶える。 島民は128人。観光客もほとんどいなくなる季節だ。 島の最南端に、築100年を超える洋館「霧の館」がぽつんと建っている。 館の主は、元ベストセラー作家・黒澤悠真、52歳。 20年前に『霧の向こうの36時間』という小説で一世を風靡したが、その後は一切の執筆を停止。 島に引きこもり、誰とも会わず、庭の枯れ草を眺めるだけの生活を送っていた。 そんな黒澤が、2025年10月15日、突然6人に招待状を送った。 「10月17日正午、霧の館に来てほしい。 理由は到着後に話す。 ただし、誰一人として欠席は許さない。 来なければ、あなたの人生は終わる。」 招待された6人: • 白石彩花(28)……黒澤の元秘書。10年前に突然辞めた。 • 佐藤健太(35)……島唯一の医者。黒澤の主治医。 • 高橋美咲(42)……島の雑貨屋の女主人。黒澤の幼馴染。 • 森下翔(25)……島の漁師の息子。黒澤小説の大ファン。 • 藤井怜(50)……東京から来た元編集者。黒澤の最後の担当。 • 岡本真琴(30)……黒澤の異母妹。10年ぶりの再会。 全員が正午ちょうどに到着。 玄関で待っていた黒澤は、異様にやつれ、しかし目は異様な光を帯びていた。 「ようこそ。 これから36時間、君たちと一緒に過ごす。 そして、その間に誰かが死ぬ。」 一同が凍りつく中、黒澤は大広間に全員を招き入れ、ゆっくりと語り始めた。 「私はあと3ヶ月で死ぬ。末期がん。 だから最後に、最高のミステリーを残したい。 この館にいる誰かが、私を殺す。 そしてその犯人は、36時間以内に必ず見つける。 見つけられなければ、君たち全員が疑われることになる。」 「ルールはシンプルだ。 館の外には出られない。 電話も電波も入らない。 フェリーは明後日の朝まで来ない。 つまり、36時間、完全に密室だ。」 その夜、午後11時。 全員がそれぞれの客室に引き上げた直後、 古い柱時計が12時を告げる音が響いた瞬間—— 悲鳴が館中に響き渡った。 書斎の椅子に座ったまま、黒澤悠真が死んでいた。 胸に古い骨董ナイフが深く突き刺さっている。 鍵は内側からかかっていた。 窓は全て閉まり、内側から施錠。 煙突は人が通れない大きさ。 換気口も不可能。 完全密室殺人。 机の上には一枚の紙。 「犯人はこの中にいる。 36時間以内に解けなければ、君たち全員が共犯者として処罰される。」 紙の裏には、6人の名前と、それぞれの「動機」が記されていた。 • 白石彩花:10年前、黒澤に「小説のアイデアを盗まれた」と恨んでいた。 • 佐藤健太:黒澤に「医療ミスで家族を死なせた」と脅されていた。 • 高橋美咲:黒澤に「幼馴染の恋人を奪われた」過去。 • 森下翔:黒澤の小説のモデルにされ、島で「変人」扱いされた。 • 藤井怜:黒澤が最後の原稿を渡さず、編集者生命を絶たれた。 • 岡本真琴:黒澤が父親の遺産を独占したせいで貧困に。 全員に殺意を抱く理由があった。 翌朝8時。 6人は黒澤の死体を前に集まった。 佐藤健太(医者)が検死し、衝撃の事実を告げる。 「死亡推定時刻は昨夜23時30分〜24時00分。 だが……血がほとんど出ていない。 これは死後に刺された可能性が高い。」 つまり、黒澤は別の方法で先に殺され、 死体が密室に運ばれ、ナイフを刺された? だが発見者は森下翔。 「0時1分に書斎に入った」と証言。 その30秒前まで、誰も書斎の前を通っていない。 その日の午後2時。 大広間で話し合いをしている最中、 岡本真琴が突然叫んだ。 「誰か! 助けて!」 彼女の部屋から煙が上がっていた。 駆けつけると、真琴はベッドの上で焼死体。 火はカーテンから出たように見えたが、 佐藤が調べると—— 「放火だ。 火元はベッドの下の古い石油ランプ。 ランプに指紋はない。 誰かが手袋で灯した。」 枕元に一枚の紙。 「私は真犯人ではない。 だが、黒澤の秘密を知りすぎた。 だから消された。」 残された5人は、互いに疑心暗鬼に陥った。 10月18日、朝6時。 フェリー到着まであと3時間。 疲れ果てた5人が大広間に集まっていると、 藤井怜が静かに立ち上がった。 「もう、終わりにしよう。 私が、黒澤を殺した。」 一同、息を呑む。 藤井は淡々と語り始めた。 「黒澤は末期がんで、自分で死にたくなかった。 だから私に頼んだ。 『完璧な密室殺人を演出してくれ』と。 私はその通りにした。 まず睡眠薬を大量に飲ませて殺し、 死体を密室に運び、ナイフを刺した。 鍵は内側からかけたまま、私が抜け出した方法は…… 書斎の壁に隠された『隠し扉』。 黒澤自身が設計したものだ。 誰も知らなかった。」 「では、真琴は?」 「真琴は、私が黒澤を殺したことを知っていた。 『黙っててあげる代わりに遺産の半分をよこせ』と脅してきた。 だから彼女も殺した。 睡眠薬で殺してから火をつけた。 放火に見せかけただけだ。」 「どうして……そこまで?」 藤井は薄く笑った。 「黒澤は私に言った。 『君は最高の編集者だ。最後の小説も、最高の結末にしてくれ』 私はそれに応えた。 この36時間は、黒澤が最後に書きたかった小説だった。 タイトルは『霧の向こうの36時間』。 私が完成させたんだ。」 フェリーが到着したとき、 生き残ったのは藤井怜、佐藤健太、白石彩花の3人だけだった。 森下翔は自殺。 高橋美咲は発狂して島を去った。 藤井は警察に逮捕されたが、 「黒澤の遺言に従っただけだ」と主張。 精神鑑定の結果、無罪となった。 霧の館は今も霧の中に佇んでいる。 そして、黒澤の机に残されていた、最後の一枚の紙。 誰も気づかなかった最後のメッセージ。 「真犯人は、君たち全員だ。 私が死ぬのを、誰も止めなかったから。」
未読の通知
深夜0時ちょうど。 部屋の時計が秒針を刻む音だけが、やけに大きく聞こえていた。 スマホが震えた。 通知欄には、見覚えのないアプリ名と、短い文章。 《あなたは、まだ家にいますか?》 インストールした覚えはない。 削除しようとした瞬間、画面がフリーズした。 1分後、再び振動。 《今、玄関の前にいます》 思わず立ち上がり、玄関を見た。 もちろん、何もいない。 だが次の通知で、血の気が引いた。 《靴、ちゃんと揃えてますね》 その並べ方は、俺の癖だった。 震える指で「誰だ」と打ち込むが、送信できない。 代わりに最後の通知が表示された。 《鍵、閉めましたよね?》 確かに閉めた。 でもその瞬間、背後で―― カチリ 鍵の閉まる音が、部屋の内側から聞こえた。 スマホの画面が暗転し、 黒いガラスに俺の背後の“何か”が映っていた。
夏の音がする場所
夏休みが始まって三日目の朝、 僕は目覚ましより早く目が覚めた。 カーテンの隙間から差し込む光と、 ミーンミーンというセミの声。 それだけで、「あ、夏休みだ」と思える。 「虫取り行こうぜ!」 縁側で麦茶を飲んでいると、 外からタケルの声が聞こえた。 小学校からずっと一緒の、近所の友達だ。 虫かごと網を持って外に出ると、 もうヒロも待っていた。 三人そろうと、夏休みが完成する気がする。 向かうのは、村はずれの雑木林。 大人は「危ないから行くな」って言うけど、 僕たちにとっては秘密基地みたいな場所だ。 草をかき分けると、 クワガタがいそうな匂いがする。 ……気がするだけだけど。 「いた!」 タケルが声を上げた瞬間、 黒くて立派なクワガタが木にしがみついていた。 「うわ、でか!」 網を構える手が震える。 逃げるな、頼むから逃げるな。 ――パサッ。 無事、虫かごの中。 三人で顔を見合わせて、 理由もなく笑った。 昼になると、川に足をつけた。 水は冷たくて、石がつるつるしている。 靴を脱いで、ズボンをまくって、 それだけで冒険みたいだった。 「夏休み、ずっと続けばいいのにな」 ヒロがぽつりと言った。 「それな」 タケルがうなずく。 僕は何も言わなかったけど、 同じことを思っていた。 やがて夕方、 空がオレンジ色に染まっていく。 家に帰る途中、 虫かごの中でクワガタが静かに動いた。 「また明日も来ようぜ」 「もちろん」 「今度はカブトムシな」 そんな約束をして、 それぞれの家へ帰った。 夜、布団に入ると、 昼間のセミの声がまだ耳に残っていた。 この夏が、 ずっと心の中に残る気がした。 理由は分からないけど、 きっと大事な夏になる。 そんな予感だけは、 はっきりしていた。
ねこ魔法使いのミルフィ
空には、毎日わたあめみたいな雲がぷかぷか浮かんでいる。 ここは「ふわりん王国」。強い魔法も剣もいらない、やさしさがいちばん大事な国だ。 王国のはずれ、小さなキノコの家に住んでいるのは、 ねこ魔法使いのミルフィ。 ミルフィは白くてふわふわで、語尾に「〜にゃ」をつける。 得意な魔法は、 ・紅茶をちょうどいい温度にする魔法 ・失くした靴下を片方だけ見つける魔法 ・眠くなる音を鳴らす魔法 ……つまり、ぜんぜん役に立たなそうだけど、 実はとても大切な魔法だった。 「今日もいい天気にゃ〜」 ミルフィはおひさまの下で、干したクッキーを見ながらごろりと寝転ぶ。 すると、空からぽふっと小さな音。 落ちてきたのは、わたあめ雲のかけらと、 その中で泣いている小さな妖精だった。 「雲が…迷子になっちゃったの…」 ミルフィは何も聞かず、 そっと妖精を抱き上げる。 「だいじょうぶにゃ。まずはお茶にしよ?」 あたたかい紅茶と、甘いクッキー。 妖精は少しずつ笑顔を取り戻す。 ミルフィは空を見上げ、 いちばん得意な魔法を使った。 「みんな、ちょっとだけやさしくなる魔法」 すると、雲たちはゆっくり集まり、 妖精の居場所を思い出したように、ふわりと元の空へ戻っていった。 「ありがとう…!」 妖精はキラキラを一粒残して、空へ帰る。 ミルフィはそのまま、 またおひるね。 ふわふわの風に包まれて、 今日もふわりん王国は平和だった。
君がくれた「またね」
中学三年の冬、 僕は毎日、放課後に病院へ通っていた。 理由は一つ。 幼なじみの 白石紬 が、そこに入院していたからだ。 小さい頃から、いつも一緒だった。 同じ道を歩き、同じベンチでアイスを食べ、 同じ夢を語ってきた。 「高校生になったら、制服で海行こうね」 それが、紬の口癖だった。 でもその冬、 彼女は病室のベッドから動けなかった。 「来なくていいよ」 そう言いながら、 僕が帰ろうとすると、 彼女はいつも少しだけ寂しそうな顔をした。 だから僕は、 毎日行った。 テストの話。 部活の話。 どうでもいいテレビの話。 未来の話だけは、しなかった。 ある日、紬が言った。 「ねえ、もしさ。 私がいなくなっても、ちゃんと笑ってね」 僕は笑って返した。 「何言ってんだよ。 春になったら一緒に海行くんだろ」 彼女は何も言わず、 ただ、ゆっくり瞬きをした。 それが、最後だった。 三月の初め、 病院から連絡が来た。 間に合わなかった。 病室は、 驚くほど静かだった。 あんなに声があったのに。 あんなに笑っていたのに。 枕元に、 小さなノートが置いてあった。 「渡して」 そう書かれていた。 ページを開くと、 僕への言葉で埋まっていた。 「今日は来てくれた。嬉しかった」 「無理してないか心配」 「制服、きっと似合うよ」 最後のページだけ、 文字が少し震えていた。 「一緒に生きられなくて、ごめんね」 「でも、君が生きる未来は、ちゃんと続いてほしい」 そこで、 僕は初めて泣いた。 声が出るほど、 子どもみたいに泣いた。 卒業式の日。 僕は一人で、海へ行った。 制服を着て。 冷たい風が吹いて、 波が白く砕けていた。 隣に誰もいないのに、 僕は言った。 「来たよ」 返事はない。 でも、確かに聞こえた気がした。 ――「遅いよ」 高校生になって、 大学生になって、 大人になっても。 僕は、ちゃんと笑って生きている。 でも春になると、 今でも少しだけ苦しくなる。 それでも前を向けるのは、 君が最後まで、 僕の未来を信じてくれたからだ。 墓前で、僕は言う。 「またね」 それは、 二度と会えない約束で、 それでも一生守り続ける言葉だった。
パン屋と小さなドラゴン
町のはずれに、小さなパン屋があった。 看板は少し傾いていて、文字もかすれているけれど、朝になると必ず、甘くてやさしい匂いが通りに流れ出す。 そのパン屋の主人は、ミーナという女の子だった。 まだ十六歳。魔法も剣も使えないけれど、パンを焼くのだけは誰にも負けなかった。 ある朝、ミーナが店の裏口を開けると、そこに“それ”がいた。 「……え?」 丸くなって寝ている、赤茶色の生き物。 手のひらサイズの、小さなドラゴンだった。 ドラゴンはミーナの声に気づくと、ぱちっと目を開け、のそのそと起き上がった。 「……ぐぅ」 お腹が鳴った。 「もしかして、お腹すいてる?」 ドラゴンは、こくんとうなずいた。 ミーナは少し悩んでから、焼きたてのミルクパンを一つ差し出した。 ドラゴンは目を輝かせ、もぐもぐと食べ始める。 「熱くない?」 「ぐっ」 どうやら大丈夫らしい。 その日から、ドラゴンは毎朝パン屋に現れるようになった。 ミーナはこっそり「ココ」と名前をつけた。 ココは火を吐けなかった。 代わりに、ちょっとだけ温かい息を吐くことができた。 それが、パンの発酵にちょうどよかった。 「……もしかして、天才?」 ミーナがそう言うと、ココは誇らしげに胸を張った。 ココが来てから、パン屋は少しだけ繁盛した。 「いつもより、ふわふわしてる」 「なんだか、食べると落ち着く」 そんな噂が広まったのだ。 もちろん、ドラゴンのことは秘密だった。 ある日、町の騎士がやってきた。 「このあたりで、ドラゴンを見たという報告がある」 ミーナの心臓は、どくんと鳴った。 「し、知りません」 ココはその時、棚の下で小さく丸くなって震えていた。 騎士は店を見回し、パンを一つ買っていった。 「……いい匂いだな」 それだけ言って、去っていった。 その日の夜、ミーナはココに言った。 「ここにいちゃ、危ないよね」 ココは、ミーナの指に小さな頭をすりっとこすりつけた。 「ぐぅ……」 「……そっか」 ミーナは、泣かなかった。 代わりに、たくさんパンを焼いた。 翌朝、ミーナは森の入り口までココを送った。 「お腹すいたら、また来てもいいから」 ココは少し考えてから、ミーナのパンを一つくわえ、ぺこりと頭を下げた。 それから、ぱたぱたと森の奥へ飛んでいった。 パン屋は、また静かになった。 でも、パンの匂いは変わらなかった。 数日後。 店の前に、小さな焦げ跡があった。 その横に、どんぐりと、少しだけ焦げたパン。 ミーナは笑った。 「……また来たんだ」 その日も、町にはやさしい匂いが流れていた。
夏の終わりに、君は前を向いた
海の見える町は、夏になると観光客で少しだけ賑わう。 だが九月に入ると、一気に静かになる。 高校二年の夏休み明け。 佐倉蒼は、相変わらず学校に馴染めずにいた。 特別いじめられているわけでもない。 ただ、クラスの輪に入れないだけだ。 話題についていけず、笑うタイミングも分からない。 「まあ、いいか」 そうやって、自分を納得させるのが癖になっていた。 ある放課後、蒼は美術室で一人、海の絵を描いていた。 誰もいないと思っていたその部屋に、声がした。 「その海、ちょっと寂しそうだね」 振り向くと、同じクラスの女子、夏目結衣が立っていた。 明るくて、誰とでも話せるタイプ。 蒼とは正反対の存在だった。 「別に……うまく描けないだけ」 そう答えると、結衣は首を振った。 「違うよ。上手い。 ただ、誰もいない海だなって思った」 それ以来、二人は放課後に話すようになった。 結衣は写真部で、蒼の絵を撮るのが好きだと言った。 「蒼の絵って、音がしないんだよね」 「それ、褒めてる?」 「もちろん。私、静かなもの好き」 二人で海に行き、絵を描って、写真を撮った。 言葉がなくても、時間は流れた。 だが夏の終わり、結衣は言った。 「私、引っ越すんだ。来月」 何も言えなかった。 引き止める理由も、言葉も、蒼は持っていなかった。 最後の日、二人はいつもの海にいた。 夕焼けが、波を赤く染めていた。 蒼は一枚の絵を渡した。 そこには、海と、写真を撮る少女の背中が描かれていた。 「初めて、人を描いた」 結衣は驚いて、そして笑った。 「ありがとう。 ねえ、蒼」 彼女はカメラを構え、シャッターを切った。 「その絵を描いた君を、私は忘れない」 別れ際、結衣は言った。 「一人でもいい。でも、前を向いてね」 秋になり、町は静かさを取り戻した。 蒼は相変わらず無口で、目立たない。 それでも、 美術室で描く絵には、少しだけ音が増えた。 波の音。 シャッターの音。 誰かと過ごした、確かな夏の音。 蒼は今日もキャンバスに向かう。 今度は、誰かがいる風景を描くために。
プロテインより重いもの
黒崎剛が「脳筋」と呼ばれたのは、一度や二度じゃない。 テストの順位表が張り出された日、剛の名前は下から数えたほうが早かった。教室のあちこちで、クスクスと笑い声が漏れる。 「やっぱ黒崎だな」 「筋肉に脳みそ吸われてんじゃね?」 剛は何も言わなかった。言い返す言葉がなかったわけじゃない。 ただ、言葉より先にやることがあった。 放課後。 誰も使わなくなった旧校舎の地下。 埃っぽい空気の中に、錆びたバーベルと、年季の入ったベンチがある。 剛は黙ってスクワットを始めた。 一回、二回、三回。 太ももが焼ける。肺が悲鳴を上げる。 だが、止めない。 ——逃げるな。 ——今日の自分から逃げるな。 「……ふぅ……」 限界までやり切って、床に座り込む。 そのとき、地下室の入口で拍手が鳴った。 「非効率だな」 相馬恒一だった。 ガリガリで、頭の回転だけは異様に速い男。 「筋肥大には科学的根拠が必要だ。回数も負荷も、感覚でやるなんて無駄だろ」 剛は汗を拭い、静かに答えた。 「全部、ノートに書いてる」 「は?」 剛はバッグからノートを出した。 そこにはびっしりと文字が詰まっていた。 ・今日のフォーム ・失敗した理由 ・心が折れかけた回数 ・それでも続けた理由 相馬は言葉を失った。 「……考えてないと思った?」 剛は笑わなかった。 「考えすぎると、動けなくなる。 だから俺は、動きながら考える」 その頃、篠宮澪は遠くからその光景を見ていた。 元陸上選手。 怪我で全てを失った少女。 ——努力は、人を裏切る。 そう思っていた彼女には、剛の姿が理解できなかった。 「どうしてそこまでやるの?」 ある日、澪はそう聞いた。 剛は一瞬考え、そして言った。 「筋トレはな、逃げ場じゃない。 逃げ道を全部潰す行為だ」 その言葉は、澪の胸に突き刺さった。 そんな剛の前に立ちはだかったのが、神崎恒一郎だった。 天才。 努力せずとも結果を出す男。 大会前の合同練習で、神崎は剛を軽々と上回った。 「努力ってさ、才能の代用品だよね」 その一言で、剛の心は初めて折れかけた。 ——俺がやってきたことは、意味がなかったのか? その日から、剛はトレーニングルームに来なくなった。 筋肉は落ちた。 気持ちも落ちた。 だが、ある夜。 地下室のベンチで、潰れたままのバーベルを見つける。 そこに、澪と相馬がいた。 「一人で全部持ち上げようとするからだろ」 相馬が言う。 「壊れたなら、支えればいい」 澪が言う。 その瞬間、剛は気づいた。 ——筋肉は、独りで作るものじゃない。 ——信念は、人と繋がって完成する。 大会当日。 神崎との最終勝負。 会場は静まり返る。 剛はバーベルを握った。 重い。 今までで一番重い。 だが今回は、違った。 背後に仲間がいる。 逃げ道はない。 「うおおおおおおお!!」 持ち上げた瞬間、会場が揺れた。 神崎は、初めて膝をついた。 勝敗が決まった瞬間、剛は天を仰いだ。 ——勝ったからじゃない。 ——逃げなかったからだ。 澪は泣いていた。 相馬は笑っていた。 剛は静かに言った。 「筋肉は嘘をつかない。 でもな、嘘をつかせないのは、人間だ」 プロテインより重いもの。 それは、覚悟だった。
星を食べる塔
その塔は、夜になると空に逆さまに伸びた。 根元は雲の上、頂上は地面の奥深く――世界の理屈を嘲笑うような建物だった。 少年リオは、その塔の番人だった。 仕事は簡単で、星を渡すこと。 夜明け前、空からこぼれ落ちる小さな星の欠片を拾い、塔の扉へ入れる。 塔は星を食べ、世界の時間を回しているのだと、昔から言われていた。 ある夜、リオは気づいた。 星が、泣いている。 手のひらで震える星は、微かな声で言った。 「食べられたくない」 掟では、星はすべて塔へ渡さねばならない。 だがリオは、初めて星をポケットに隠した。 その瞬間、世界が止まった。 風は空中で固まり、波は砕ける直前で凍り、月は瞬きを忘れた。 塔が、空から崩れ落ち始めた。 「選びなさい」 背後から、世界そのものの声がした。 「塔を守るか、星を守るか」 リオはポケットの星を握りしめ、笑った。 「世界が壊れるなら、作り直せばいい」 星は強く輝き、砕け、無数の光になった。 その光は新しい空、新しい時間、新しい夜を生み出した。 翌朝、塔は消えていた。 星はもう食べられない。 時間は少し不安定で、昨日が明日になることもある。 それでも人々は笑って生きている。 リオは今日も空を見上げる。 今度は、星が落ちてこないかを確かめるために。