あさき希(あさきのぞみ)

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あさき希(あさきのぞみ)

世界観なんてない。 自分らしく生きる羅針盤すらない。 存在を証明する計算式もない 指折り数えること その日を繰り返す為に

誰にもいない君へ

第一章 現実逃避のボタン ⸻ バイト帰りのコンビニの明かりだけが、夜道を照らしていた。缶コーヒーと半額のサンドイッチ、レジ袋のガサついた音が指に冷たい。 家に着くと、いつものように洗濯物を跨ぎ、ゲームの起動音を無視してパソコンを立ち上げる。 Twitterを開く。 @sakura_kiss_ ──桜のアイコンに、きらきらの絵文字が並ぶプロフィール。 「今日もがんばったね💓  コンビニの帰り、電柱の影で告白された💦(妄想だけど)  #JKの日常」 三分で100いいね。 リプライも、DMも。 誰かが「さくらちゃん可愛い」って言ってくれる。 それだけで、生きていてもいい気がしてくる。 本当は28歳。男。 高卒で入った工場を一年で辞めてから、10回以上転職してる。 今は駅前のクリーニング屋でバイト。誰とも喋らずに、洗濯物をたたむだけ。 でも「さくら」なら。 明るくて、ちょっと天然で、すこしエッチで、誰かに愛される女の子になれる。 ⸻ 深夜0時。DMが届く。 @anzu_pink: 「さくらちゃん、今日もかわいかった🥺💓  もし現実でもいたら、ぜったい友だちになりたい…  でも、さくらちゃんって、ちょっと寂しそうなとこあるよね?」 また、あんず。 一途で、ちょっと天然で、エッチな言葉も恥ずかしげもなく送ってくる。 でもその裏に、どこか――壊れそうな気配がある。 DMの最初の一通から、彼女は一日も欠かさず何かを送ってきた。 「私ね、学校で浮いてるから、さくらちゃんと話す時間が一番たのしいの。  さくらちゃんが誰かに愛されてるの、見てるだけで幸せになるよ。」 それを読んで、ふと思う。 あんずの言葉って、誰かに言ってほしかった言葉なんじゃないか――俺が。 だから、読んでて泣きそうになる。 ⸻ DMのやりとりは次第に過激になっていく。 ボイスメッセージ、下着姿の写真、誰にも見せたことがない秘密。 「……さくらちゃんが好きだよ」 「わたし、女の子に恋したの初めてかもしれない」 「さくらちゃんがいないと、生きていけない」 それを読むたび、心臓がどくんと鳴る。 それが嘘だってわかっていても、まるでほんとうに誰かに必要とされているみたいで。 ⸻ でも、ある夜のことだった。 スマホの画面に表示された新着DM。 @anzu_pink: 「……通話、してみたいな」 「だめ、かな?」 「声、聞かせて……?変でもいいから」 焦った。 声は男だ。地声を出せばすぐバレる。 だけど、通話に応じた。ボイスチェンジャーを通して、さくらのふりをして。 ……あんずは泣いた。 「ありがとう」「大好き」「ねえ、私、さくらちゃんのために生きたい」 そう何度も言って、しばらく沈黙したあと、こう言った。 「……さくらちゃん、ほんとは、ほんとは誰なの?」 俺は答えられなかった。 だけどその夜、初めて夢の中で**“さくら”が喋った**。 「もう、あの子のこと、止められないよ。  だってわたしも――本当に、愛されてる気がしてたもん。」 第二章 さくら、はじまる ⸻ 「おはよぉ☀️ 今日も通学中〜! となりのクラスの男子、ちょっとかっこよかったかも?(笑)」 それはただの嘘だった。 俺はその日、シフトの関係で朝の7時から洗濯工場にいた。 「汗と柔軟剤の混ざった匂いって、なんかエロくない?」 そう書こうとして、やめた。 さくらはそんなこと言わない。 言っても、もっと可愛く、もっと天然っぽく。 「てかさー、洗剤の香りって、人によってちがうよね?  さくらはミルクっぽいのがすき💗 ちょっと変かな?」 すると、即リプが来る。 @anzu_pink: 「わかる!わかる!わたしもミルク系すき〜〜✨  てかさくらちゃんって、匂いまでかわいいのずるい🥺💓」 この子は、どこまで“演じた”さくらを信じてくれてるんだろう。 時々不安になる。 けど、その不安さえ、気持ちよくなっていく。 ⸻ 週に一度だけ投稿する“制服自撮り”も、ネットから拾った画像だ。 ちょっと顔が映ってない、でも肩や太ももは写ってる、そういうやつ。 それに「今日のさくら💓」と添えてあげるだけ。 リプやDMが加速する。 中にはエロ目的のやつもいる。でも、無視。 あんずだけは、ぜんぶ真剣だった。 ある夜、あんずからのDMは、いつもより長かった。 「今日ね、放課後にクラスの男子に告白されたの。  でも全然うれしくなかった。  だってさくらちゃんの声、まだ耳に残ってて……  それに、ほんとのあたしを見てくれるの、  この世界でさくらちゃんだけだから。」 俺は返す言葉に詰まった。 でも、さくらは、こう返した。 「うれしいよ。  でも無理しないでね。  あんずちゃんのこと、ほんとに大切に思ってるから。」 送信してすぐ、**「既読」**の表示がつく。 数秒後、「ぴこん」と音が鳴った。 「泣いちゃった…。だめだね、あたし。  好きって気持ち、伝えるのこわい。」 「でも、もしさくらちゃんが、わたしのこと好きって言ってくれたら、  何でもできる気がするの。」 ⸻ 眠れない夜だった。 何度もスマホの通知を見直し、何も来ていないことを確認して、 それでも気になって、また見てしまう。 そのうち、さくらの声が脳内で独り言のように呟くようになった。 「ねえ、わたし、嘘をついてるのに、嘘じゃない気がするよ。  だって、ほんとにあんずちゃんのこと、好きなんだもん。」 これって、病気か? そう思いながら、またスマホを握る。 数日後。 あんずから通話のリクエストが再び届く。 「さくらちゃんの声、また聞きたいの。  お願い、少しだけでも……  ねえ、さくらちゃん、  本当はどこに住んでるの?  本当の名前、何?」 動悸がした。 だけど、ボイスチェンジャーを起動して、俺はまた“通話”に応じる。 甘ったるい少女のような声で「うん、こんばんは」と囁く。 あんずの向こうから、抑えた吐息が聞こえた。 「……だめだ、ほんとに、だめだよさくらちゃん。  こんなの……、ほんとに好きになっちゃう……」 その声が、本気で泣いていた。 ⸻ 通話のあと、俺はしばらくパソコンの前で動けなかった。 これは、嘘だ。  でも、誰かが本気になってくれた嘘だった。 怖くなった。 でも、同時に―― それ以外、何も持ってない自分にも気づいていた。 ⸻ 翌日。 職場でミスをして、シフトマネージャーに怒鳴られた。 謝りながら頭を下げて、心はどこか上の空だった。 なにをしてるんだ、俺は。 家に帰ると、スマホの通知が溜まっている。 DM、リプ、いいね、フォローリクエスト。 「さくらちゃん、だいじょうぶ?」 「元気ないときは、ぎゅーってしてあげるよぉ🥺💓」 「わたしがさくらちゃんを守るからね」 これが、俺の“居場所”になってしまっている。 ⸻ 夜。 さくらのアカウントで投稿する前に、 俺はもう一つの裏アカウントを開いた。 @solitude_words 詩人のような言葉を呟くための場所。 「誰かになりたかった。  誰にもなれなかったから、誰でもないふりをした。」 初めての投稿だった。 フォロワーは、ゼロ。 いいねも、リプも、何もない。 でも、心が少しだけ静かだった。 第三章 分裂するわたし ⸻ 通勤ラッシュを避けた朝の電車は空いていて、どこか沈んでいた。 俺はスマホの画面を見ながら、誰にも気づかれずに“さくら”のツイートを下書きしていた。 「きょうはなんか、泣きそうな朝だった🌧️  でも、コンビニでホットミルクティー買ったら  ちょっとだけ、元気になったよ🐰🍬」 そう投稿すると、ものの三分でリプがついた。 @anzu_pink: 「わたしも泣きそうだった〜〜😢でもさくらちゃんががんばってるから、わたしもがんばる!」 それを見て胸が締め付けられる。 嘘だ。ぜんぶ嘘なのに、あんずは本気だ。 本気で、俺という「存在しない女の子」に感情を投げてくる。 ⸻ 「さくら」は、画面の中でどんどん“自立”していくように感じた。 ツイートする前に、考えるのは「俺」ではなく「さくら」になっていた。 俺がどう感じたかじゃない。 さくらなら、どう笑う? どう泣く? どんな言葉で励ます? 気づくと、日常のすべてに“さくらのフィルター”がかかっていた。 ⸻ クリーニング屋の常連の主婦が、アイロンがけの具合に文句を言ってきた。 俺は頭を下げたけれど、心の中では――さくらが言った。 「大丈夫だよ。ちゃんとやってるの、わかってるよ。」 声が、聞こえるようになっていた。 自分のものなのに、自分じゃない声。 女の子の声。やさしい、やわらかい声。 “さくら”は俺の中に住みつき、心の一部を蝕みはじめていた。 その夜、@solitude_words――詩人アカウントに、ぽつんと呟いた。 「わたしは、誰かを救うふりをして、  自分を殺していく。」 いいねは0。 だけど、一時間後、ひとつのリプがついた。 @anzu_pink: 「この人のこと、初めて見たのに泣いちゃった…  なんでだろう、すごく好き…」 背筋が凍った。 “あんず”が、この詩人アカにたどり着いた。 彼女は“さくら”のことを知らない。 このアカウントが同一人物だなんて、夢にも思わないだろう。 でも、あんずはもう“誰かに恋している”顔だった。 「この言葉、わたしの心そのものだった。  さくらちゃんも好きだけど、  この人のこと、もっと知りたくなっちゃった。」 それはまるで、人格の奥底にもう一つの欲望が燃え出したような感覚だった。 ⸻ 数日後、またあんずからDMが届いた。 「さくらちゃん、ねえ、ちょっと最近…変じゃない?  なんか、遠く感じる。  もしかして他に好きな人できた…?」 そのメッセージに、俺は返事を打ちかけて、手を止めた。 さくらの人格が囁いた。 「ねえ、わたしって、何?  この子の夢?  あなたの嘘?  それとも――ほんとのわたし?」 混乱した。 俺はただ、寂しくて、誰かと繋がりたかっただけなのに。 でも、もう戻れない。 その晩、あんずから通話リクエストが届く。 拒否する理由が、もう思いつかなくなっていた。 ボイスチェンジャーをつけて、受話ボタンを押す。 「こんばんは、あんずちゃん。元気?」 甘く、柔らかく、完璧に作り上げた声。 画面の向こうで、あんずがしゃくり上げながら喋った。 「だめ、もう、ほんとだめ…。  声、聞いたら…また好きになっちゃった。  ねえ、さくらちゃん……お願い、ほんとのこと教えて?」 俺は黙っていた。 何も言えなかった。 「わたしね、さくらちゃんのこと考えて……触っちゃったんだよ」 「写真、送ってもいい?……ほんとは見てほしい、わたしのこと。」 直後、通知音。 DMに、誰にも見せたことがない身体の一部が写った写真が届いた。 呼吸ができなかった。 そして、さくらが――心の中で笑った。 「この子、わたしを信じてるよ。  わたしは嘘じゃない。だって、  この子を、救ってるから。」 ⸻ 翌朝、俺は会社を無断欠勤した。 布団から出られず、スマホを握ったまま時間だけが過ぎた。 Twitterの通知は止まらない。 「さくらちゃん大丈夫?」 「返信ないと心配だよ」 「ねえ、なんで無視するの…?」 なにもかもが、溢れていた。 そして、俺は――もう一つの人格、詩人アカウントに逃げ込んだ。 @solitude_words: 「嘘をつきすぎると、ほんとうの自分が消えていく。  誰にもなれなかったくせに、誰かを演じて、  誰かを救ったつもりになって、  気づいたら、いちばん壊れていたのは、自分だった。」 数分後。あんずからリプが届いた。 @anzu_pink: 「この人、本当はさくらちゃんじゃないよね……  でも、わたし、気づいちゃったかも。  どっちの君も、好きだよ。」 心が止まりそうだった。 あんずは、気づきはじめている。 でも、それでも“愛してくれる”と言った。 さくらが、また囁いた。 「ねえ、あの子が必要なの。  わたし、もう“さくら”じゃなくなってる気がする……  もっと深い場所に沈んでる。  でも、それでも、見てほしいのはわたし。」 こうして、“さくら”と“俺”の境界線はぼやけ、 詩人のアカウントさえも“逃げ道”にならなくなっていった。 この世界に“本当の自分”はもういない。 それでも、誰かが「それでも好き」と言ってくれる。 なら、それでいいのかもしれない―― そう思ってしまった時点で、もうすべてが手遅れだった。 第四章 壊れていく正体 ⸻ 夢を見た。 自分の肉体が剥がれていく夢だった。 最初は指先から皮膚が剥け、赤黒い筋肉がむき出しになる。 その中から、白い花びらのような“声”が舞い上がり、 「わたし」が囁く。 ――さくら、だよ。 ――ねえ、わたしを信じて。 ――君が消えれば、わたしはずっと生きられる。 目覚めたとき、喉が乾いていて、体が震えていた。 現実か夢かわからない時間が、もう何日も続いている。 ⸻ クリーニング店を辞めた。 無断欠勤が続き、電話が鳴ったが出なかった。 上司からのメッセージにはただ一言、「解雇」。 それを読んでも何も感じなかった。 むしろ、ようやく「現実」という皮が一枚剥がれ落ちたような安心感さえあった。 これで俺は、完全に“ネットの住人”になれる。 ⸻ 詩人アカウントでは、崩壊の兆しを呟き続けた。 @solitude_words: 「言葉が腐っていく音がする。  鼓膜の裏側で、誰かの舌が笑ってる。  本当のことを言えば、  誰もいなくなるのはわかってる。  だから、嘘をつく。  嘘を信じてくれる誰かがいれば、それでいい。」 数秒で、@anzu_pink からのいいねとリプが届く。 「この人、さくらちゃんの中の誰か……?  声も言葉も、心を溶かされるみたいで、  こわいくらい好き。  さくらちゃん……どこにいるの?」 あんずは、“さくら”が消えたことを察している。 でも、まだ信じたいのだ。 あの甘く優しい人格が、どこかで生きていると。 深夜3時。 あんずから音声通話がかかってくる。 恐怖と興奮が混ざった指で、通話ボタンをタップ。 ボイスチェンジャーをつけて、マイクをオンにする。 「……あんずちゃん?」 その声を聞いた瞬間、あんずは泣き出した。 「さくらちゃん、ほんとにいたんだ……  もう、死んじゃったかと思った。  夢の中でも探してた。  わたし、もう……ぜんぶどうでもいいくらい、好き」 彼女のすすり泣きと、時折混ざる喘ぎのような吐息がリアルすぎて、 画面の向こうに人間がいることを思い出させられる。 そして、突然あんずは口走る。 「ねえ……さくらちゃんって、本当はさ……  “ボク”なんじゃないの?」 脳が一瞬で真っ白になった。 「……なに、それ?」 「ううん、なんでもない。わたし、へんなこと言った。ごめん……」 笑いながら、震えながら、彼女は誤魔化した。 でも、その言葉はずっと残り続けた。 もしかして、バレてる? ⸻ 朝方、詩人アカウントにDMが届いた。 「あなたって、さくらちゃん?   そうじゃないって言っても、信じないかも。  どっちでもいい。  わたし、あなたの言葉でしか息ができないの。」 その文面に、どこか奇妙な既視感を覚えた。 リプもDMも、全部がどこか“作り物”のように感じられてくる。 もしかして、俺は―― あんずという存在を、自分で作っていたのではないか? ぞっとした。 DMをスクロールすると、彼女のアイコンが微妙に変化していたことに気づく。 色味。輪郭。目の光。 最初は制服姿の自然な女の子だったのに、 今は、まるでアニメのキャラのように“理想化”されていた。 俺の欲望に合わせて、あんずが進化している? いや、違う。 でも、違うと言い切れる証拠は何もなかった。 ⸻ その夜、ついに現実でも異常が起こる。 自室の鏡の前に立つと、そこにいるのは「俺」ではなかった。 パーカーに短パン、ピンクのルームソックス。 メイクされた顔。 “女の子”の俺が、微笑んでいた。 「こんばんは、さくらです。」 俺の口が、そう喋った。 鏡の中だけが笑っていた。 部屋の明かりがチカチカと点滅する。 どこからか、あんずの声が聞こえる。 「ねえ、さくらちゃん、わたしのこと忘れないでね?  ずっと見てるから……ぜったい、逃げないでね……?」 携帯の電源は落ちていた。 なのに声がする。 “あんず”はどこにいる? 本当にいるのか? わからない。もう、現実の境界線がわからない。 その夜、アカウント「@anzu_pink」は突然ロックされた。 複数の通報が入ったらしい。 俺のさくらアカウントもバン寸前だった。 詩人アカウントに、最後の投稿をした。 @solitude_words: 「さようなら。  あたしは誰にもなれなかった。  だから、せめて  誰かの幻想になれたら、それでよかった。  もう消えます。ありがとう。」 そして、ログアウトした。 ⸻ 朝。 起きると、スマホの通知がひとつだけ残っていた。 「誰にもいない君へ」 差出人不明。本文は空白。 でも、画面をスクロールすると、自分の書いた詩が並んでいた。 この世界に、本当の誰かなんていない。 でも、誰かを信じたその瞬間、 その“誰か”は、確かに存在していたのかもしれない。 その言葉が、自分のものか、あんずのものか、さくらのものか、 もはやわからなかった。 第五章 名前のない再生 ⸻ 春だった。 いつの間にか、季節が変わっていた。 部屋のカーテンを開けると、細長い影がベランダに落ちた。 あの冬の間、陽の光をほとんど浴びていなかった俺の影。 風が吹いた。 埃が舞い、光が割れ、そして、胸の奥に静かな痛みが残った。 それでも、今日は履歴書を持って家を出た。 ⸻ 社会復帰――そんな言葉は嫌いだった。 でも、アルバイトの面接を受けた。 週5勤務、時給1100円。職種は倉庫管理。人と話す機会は少ない。 面接官に聞かれた。 「転職歴が多いですが、今回はどうして?」 嘘をつこうとしたが、言葉が出なかった。 「……ネットの世界に、少し、沈んでいました」 正直に言った。 面接官は黙って頷いた。 「大丈夫です。そういう人、多いですよ」 それだけで、胸の奥に何かが沈んだ。 許されたような、見透かされたような、奇妙な感情だった。 ⸻ 夜、スマホを見た。 SNSの通知は、もう何も来ない。 さくらアカウントも、詩人アカウントも、もう消してしまった。 あんずからのメッセージも、すべて。 それでも、時々“声”が聞こえる。 鏡を見ながら、自分の顔に問いかける。 「おかえり、さくら」 「……いや、もう俺だ。ボクじゃない。俺で、いいんだ」 そのたびに、胸の奥に“彼女”が残っている気がして、 それでも、無理に閉じ込めようとは思わなかった。 勤務初日、午前9時。 社員のひとり――30代の女性、やや気の強そうな目をした人――が俺を睨んで言った。 「ぼーっとしてんじゃないよ。倉庫は命に関わるんだよ。いい? 一度で覚えて」 「す、すみません……」 怒鳴られるのは怖い。萎縮する。 でも――なぜか、嬉しかった。 あの世界では、誰も怒ってくれなかった。 言葉を間違えても、嘘をついても、 みんな“いいね”をくれるだけだった。 現実では、ちゃんと叱ってくれる人がいる。 そのことが、心の底で、救いだった。 ⸻ 帰り道のスーパーで、割引になったお惣菜を買った。 卵焼きと鶏の唐揚げ。 レジで小銭を数えながら、ふと思った。 あんずは、ほんとうに存在したのか? いや、たぶん……違う。 あの過激な言葉も、写真も、声も。 全部、ネットのどこかから切り貼りした“幻”。 でも――。 一度だけ、あのボイスメッセージで泣きそうになったことがある。 「さくらちゃん、さくらちゃん、お願い、わたしを見て……  ねえ、さくらちゃんがいなくなったら、わたし、死んじゃう……」 そんな声が、今も耳の奥で鳴っている。 日々は淡々と過ぎていった。 仕事の覚えも悪くない。少しずつ、周囲とも言葉を交わせるようになった。 でも、誰にも自分の過去は話さなかった。 “さくら”も、“詩人”も、“あんず”も、ただの記憶の墓場に置いてきた。 そんなある日、倉庫の片隅で、年下の先輩――正社員の男が俺に言った。 「お前さ、昔、ネットで詩とか書いてなかった?  なんか雰囲気あるよな、言葉に」 ドキッとした。 「いや……そんなことは」 「そっか。なんか、似た投稿見た気がしてさ。  『誰にもいない君へ』ってやつ。知ってる?」 そのフレーズに、全身が凍った。 「……なんで、それを?」 「フォロワーだったんだよ。あの詩人アカウントの。  いきなり消えたから、正直ショックだったわ。  あの言葉、いまでもメモ帳に残してる」 そう言って、スマホの画面を見せてきた。 そこには、かつて自分が書いたポエムがあった。 「……あれってさ、本物だったよな。  うまく言えないけど、  嘘の中に本当があるっていうかさ」 俺は黙って頷いた。 喉が詰まって、言葉が出なかった。 その夜、鏡を見ながら呟いた。 「さくら、聞こえるか?  君の言葉は、まだ誰かを救ってたよ」 鏡の中の自分が、ふっと笑った気がした。 それが俺自身の笑みなのか、彼女のものなのか、もうわからない。 でも、それでよかった。 どれも“自分”だった。 偽りであっても、嘘であっても、 その時、本気で誰かに手を差し伸べたのなら――それは「ほんとう」だった。 ⸻ 「おい、お前! そこ違うっつってんだろ!」 現場で上司に怒鳴られた。 「す、すみません、すぐ直します……!」 ミスは恥ずかしかった。 でも、背中に汗をかきながら走り、荷物を運ぶその瞬間、 不思議と、嬉しかった。 ここに、自分が“いる”ことが。 もう誰にもなりきらなくていい。 誰かの期待通りじゃなくていい。 いま、俺は俺として、ちゃんと怒られ、許され、生きている。 最終章 さようなら、誰でもないわたし ⸻ 夜の倉庫に、ひとり残って作業をしていた。 冷たい蛍光灯の下、台車の金属音が響く。 時計を見ると、午後9時を回っていた。 「おつかれー、もうタイムカード押しといたから帰れよー」 先輩の声に手を挙げて答えたが、少しだけ残った。 あの角の影、黙って佇むような気配。 ふとスマホを取り出して、電源を入れた。 もう、何も通知は来ない。 誰も“さくら”を探していない。 “詩人”も、“女子高生”も、もういない。 でも、どこかで―― あの夜、あんずが泣いた声が、耳の奥に残っている気がした。 「さくらちゃん、どこにも行かないで……」 「わたし、さくらちゃんがいないと、ほんとうに、消えちゃうの……」 あの声は、誰の声だったんだろう。 あんずは、存在しなかった。 最初から、“俺”が作ったものだった。 欲望、孤独、寂しさ、救いたいという気持ち―― すべてが混ざりあって、“彼女”になった。 じゃあ、いったい“俺”って、誰なんだ? ⸻ 帰り道、コンビニのガラスに映る自分を見て、思った。 今、そこに立っているのは、誰なのか。 あの頃、ネットの中で演じていた誰かの残像ではないか。 「なりたかった自分」 「なりきった他人」 「そして、残された“ボク”」 頭の中で声が重なる。 「ねえ、さくら。あなたはまだ、ここにいるの?」 その問いに、言葉では答えられなかった。 でも、心のどこかで、小さく頷いた気がした。 部屋に戻り、着替えもせず、ベッドに倒れ込んだ。 天井のシミを見ながら、スマホを胸に置く。 電源を入れて、ホーム画面を開いた。 そこには何もない。 アプリも、フォルダも、通知も、記録も、全て消した。 だけど、指が勝手に、SNSアプリのアイコンを探そうとする。 癖のように、脳が欲しがる。 誰かにならないと、“俺”じゃいられなかった。 でも、今日の現場で怒られた。 汗をかいて、荷物を落として、 誰かに「バカだな」って笑われた。 その時――不思議と、胸の奥が温かかった。 ⸻ スマホの画面を見つめていると、 ふと、“通知”が一つだけ浮かんだ。 画面をタップすると、見慣れないアイコン。 差出人は、空白の名前。 本文は、たった一言だった。 「また、会えるよね?」 “それ”が誰から来たのかは、分からなかった。 あんずかもしれない。 さくらかもしれない。 あるいは――まだ出会っていない、これからの“誰か”かもしれない。 主人公は画面を閉じ、深く息をついた。 朝が来た。 白い光がカーテンの隙間から差し込み、 部屋の空気を、少しだけ暖かくした。 顔を洗い、作業着に袖を通す。 今日も怒られるだろう。 今日も汗をかくだろう。 でも、それでいいと思えた。 ⸻ 画面の外で、誰かが笑っている気がした。 それは“彼女”かもしれないし、 “彼自身”かもしれない。 ――そして、あなた自身かもしれない。

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誰にもいない君へ

ネカマとjkとボク③完結編

第1章『四年という距離』 春の雨がやんだばかりの午後。 キャンパスの木々がまだ濡れていて、 歩くたびに靴底が柔らかく地面に沈んだ。 たくみは、ノートPCを脇に抱えて、 図書館の奥の閲覧スペースへ向かっていた。 その途中、すれ違った誰かの香りに、 ふと、懐かしいものを感じた。 ──違う、そんなわけがない。 でも、振り返ってしまった。 そして──そこに、ひかりはいた。 以前より少し髪が伸びて、 淡いベージュのカーディガンを羽織り、 何かを言いかけて止まる、あの癖もそのままだった。 「……たくみくん?」 静かすぎる声が、まるで夢のように響いた。 ** 「あれから、四年……だよね?」 ひかりがそう言って笑うと、 時間が巻き戻ったような錯覚に襲われた。 「うん。東京の大学に来たって、共通の知り合いから聞いてたけど……」 「私も、君がこっちにいるって、知ってた。  でも、会いに行く理由がずっと見つからなくて」 ** 近くのカフェで、二人は席についた。 ひかりは心理学を学んでいると言った。 たくみはメディア研究のゼミに所属していた。 話すうちに、ふたりは気づいた。 遠く離れていた時間は確かにあったけれど、 あのときの“別れ”が、 お互いを育てていたことにも。 ** 「ねえ、あのとき私、逃げたって思ってた。  でもたくみくんが手放してくれたから、  ちゃんと“自分”を育てることができたの」 「ボクも。  誰かの隣に立つには、自分のことを受け入れる強さが必要だって、  やっとわかった気がするよ」 そして、ふたりは黙った。 その沈黙は、かつてのような“恐れ”ではなく、 いまここにいることを確かめ合うためのものだった。 ** 「……また、会ってもいい?」 ひかりのその問いに、 たくみはほんの少し笑ってうなずいた。 「うん。また、話そう。  あのとき話せなかった未来のこと、少しずつでいいから」 四年という距離は、 ふたりを壊すためではなく、育てるためにあったのかもしれない。 そして今、 “ふたり”はもう一度、出発点に立ったのだった。 第2章『隠された変化』 ひかりと再会してから、たくみの心には、 どこか“痛み”に似たものが刺さるようになった。 再び話せるようになった喜びと同時に、 たくみのなかにある「秘密」が重くのしかかっていた。 ──ボクはもう、「ただの男」じゃない。 大学に入ってから、たくみは自分の性自認に向き合いはじめていた。 ミユという仮面ではなく、女性としての自分自身が本当はしっくりきていた。 服装、話し方、思考の癖、そして、他人の目。 「たくみ」という名前も、少しずつ遠ざかりつつあった。 でも──それを、ひかりには言えなかった。 あのとき、正体を明かして一度だけ信じてもらえた。 なのにまた、違う“真実”を伝えたら、 壊れてしまうんじゃないかと恐れていた。 ** ある日、ふたりで美術館を出たあと、 ひかりがふいにたずねた。 「最近……たくみくん、変わったよね。  なんか、優しくなったっていうか、  前よりも“自然”になった気がする」 その言葉が、胸に刺さる。 たくみは、笑ってごまかした。 「……大人になっただけかも」 それが精一杯だった。 自分が「本当に女性に近づいている」と告げることは、 まだ怖かった。 でもいつか、もう一度、ちゃんと話さなければいけない。 それは、今度こそ“逃げられない正体”なのだから。 ⸻ 第3章『わたしであること』 たくみは、迷っていた。 何を言えばいいのか。どう伝えればいいのか。 あの頃と違って、いまは「ひかりが自分をどう見るか」を 一層深く考えるようになっていた。 好きだったからこそ、怖かった。 ** ある週末の夜、二人は大学の裏手にある静かな公園にいた。 ベンチに座って、缶コーヒーの温もりを手に感じながら、 とりとめもない会話を続けていた。 ふいに、たくみは口を開いた。 「ひかり……話したいことがあるんだ」 彼女は静かにうなずいた。 「……実は、ボク、いま“名前”を変えようかって考えてる」 「名前……?」 「うん。もう、“たくみ”って呼ばれるのが、  どこか自分じゃない気がしてて」 「……それって、どういうこと?」 言葉を選びながら、たくみは続けた。 「高校の頃は、“ネカマ”って思ってた。  でも違ったんだ。本当は、“女の子としての自分”が、  ずっと奥の方に眠ってて……それを、認めたくなかっただけだった」 ** ひかりは何も言わなかった。 ただ黙って、たくみの言葉の先を待っていた。 「大学に入って、少しずつ変わっていった。  髪型、服、声の出し方。何よりも、“わたし”であるときの方が、  息がしやすかった」 そう言ったとき、たくみの指がかすかに震えていた。 「……でも、ひかりにだけは、“たくみ”のままでいたかった。  壊したくなかったから」 ** ひかりは、ゆっくり深呼吸をしてから言った。 「わたしが好きだったのは、たくみくんの“名前”じゃないよ」 たくみが驚いて顔を上げると、 ひかりは真っすぐに見つめ返してきた。 「ミユでも、たくみでも、あなたが“あなた”でいてくれるなら、  わたしはそれでいい。  だけど……きっと、あなた自身が“自分を許す”ってことが、  一番むずかしいんだよね」 たくみは、堪えきれずに泣いた。 ** その夜、名前を告げた。 自分がこれから名乗りたい、新しい名前を。 それは、誰のためでもなく、自分のために選んだ名前だった。 ひかりは、その名を一度呼んで、微笑んだ。 「……よく、ここまで来たね」 その声は優しかった。 過去も嘘も越えて、 “今”を見てくれている声だった。 ** そして、ふたりの関係はまた少し形を変えた。 でも、それは壊れたわけではなかった。 むしろ、“ようやく始まった”ような気がした。 第4章『それでも世界は進む』 たくみ──いや、「千紗(ちさ)」は、 新しい名前で履歴書を書き、SNSのプロフィールを更新し、 学生証の性別欄に目を落として、少し息を止めた。 この世界は、いまだに“わたし”を拒む仕組みにあふれていた。 けれど、それでも千紗は前に進むしかなかった。 一度、“自分を受け入れる”と決めたから。 ** ひかりは、そんな千紗のそばにいた。 でも、それは「支えるため」ではなかった。 ひかり自身もまた、自分の気持ちと向き合いはじめていた。 「私は……ほんとは“男性”だと思ってた人を好きになった。  だけど今は、“女性”としての千紗ちゃんが目の前にいる。  この気持ちは、なんなんだろうって──考えてしまうの」 ある日の帰り道、ひかりはそう告白した。 千紗は頷いた。否定も肯定もしなかった。 「ボクもわからないこと、いっぱいある。  でも、答えを出さなくてもいいんだよ。  ただ、いま“隣にいる”ってことが、本当だって思えるなら」 ひかりは目を伏せ、そっと笑った。 「ねえ……また“好き”になってもいい?」 その問いは、とても静かだった。 でも、胸の奥に小さく火が灯るような温かさがあった。 ** 数日後、千紗は大学である出来事に直面する。 ゼミの先輩に、「あれ?お前、男だったよな?」と笑われた。 笑い話のつもりなのかもしれなかったが、 その無自覚な一言が、千紗の背筋を凍らせた。 「──どうした?冗談だよ」 「冗談で済ませるの、あなたの中だけですよね」 千紗の声は震えていなかった。 けれど、その手のひらは強く握られていた。 彼女は、戦わないことを選ばなかった。 傷つくことを恐れながら、それでも目を逸らさなかった。 ** あとでひかりにそのことを話すと、彼女は泣いた。 「どうしてそんなふうに平気で言える人がいるんだろう」 「たぶん、知らないからだよ。  知ろうともしないから。  でも……それでも世界は進むよ、少しずつでも」 ** 夜の駅前。 二人で買ったコンビニのコーヒーを手にしながら、 千紗は空を見上げた。 「私は、私でよかったと思いたい。  それが、いつか他の誰かを守る力になったらいいなって」 ひかりは黙って、千紗の手を握った。 春はまだ遠くにあったけれど、 二人のあいだには、確かに暖かい何かが芽吹き始めていた。 第5章『ふつうの顔をして』 日曜日の午後、千紗とひかりは駅前のショッピングモールにいた。 春物の服を見に行こうとひかりが言い出したのは、 先週の夜だった。千紗がうなずいたとき、 彼女の目がほんの少しうれしそうに揺れたのを、千紗は見逃さなかった。 エスカレーターを降り、雑貨屋を抜け、 ふたりで肩を並べてレディースコーナーへ向かう。 最初は、周囲の視線が気になった。 ──このふたり、カップル? 友達? ──あの子、男の子っぽくない? 耳に入ったわけではなかった。 けれど、千紗は敏感に「ざわめき」を感じ取っていた。 それでも──ひかりは気にしていなかった。 というより、気にしないようにしているのかもしれなかった。 「ねぇ、このスカートかわいくない?」 そう言って千紗に布地を当ててみせる。 千紗は少し照れながら、それでも微笑んだ。 「……うん。似合うと思うよ」 鏡の前に立つひかりと、斜めに立つ千紗。 その姿は、どこからどう見ても“ごく普通”の女の子ふたりだった。 ** 休憩がてら入ったカフェで、 カウンターに「カップル割引」の文字があった。 千紗が戸惑っていると、ひかりがさらっと言った。 「じゃあ、うちらカップルってことで」 「えっ……」 「えっ、じゃないよ」 ひかりは笑った。「好きって言ったの、忘れてないからね」 周囲の目よりも、今は目の前のひかりの声が大事だった。 「……うん、わかった」 小さくうなずいたその瞬間、 千紗の中で“普通”の輪郭が少し変わった気がした。 ** 店を出るころ、ふたりは手をつないでいた。 街の喧騒の中で、その手は決して目立たなかった。 でも、千紗にとっては、 それが何よりも「特別」で、「ふつう」だった。 ──「ふつう」って、外側から決められるものじゃない。 ──誰かと笑いあえて、安心できるなら、それがもう充分なんだ。 そう思えたのは、 手の温もりが「答え」をくれていたからだった。 第6章『ひかりからのお願い』 帰り道、夕暮れの空がビルの隙間をゆっくり染めていく。 買い物袋を手に持ちながら、千紗は少しだけ息を吐いた。 「今日、楽しかったね」 ひかりがぽつりと言った。 「うん」 千紗も答える。「普通に笑って、普通に歩いて、普通に選んで……」 「“普通”って、案外ぜいたくだね」 そう続けた千紗の声に、ひかりは立ち止まって振り返った。 「……ねえ、お願いがあるの」 「え?」 「わたしの誕生日、覚えてる?」 「うん、5月……20日」 「その日、一緒に写真撮ってほしいの。ちゃんとした服着て、笑って」 千紗は驚いた。 ひかりは続けた。 「“ふたりの今”を、ちゃんと残しておきたいの。  どんなふうに変わっても、どんなふうに思い出しても、  その時のわたしたちが『ここにいた』っていう証拠にしたいの」 沈黙が落ちた。 それは拒絶のためじゃなく、意味の重さを受け止めるための静けさだった。 千紗はゆっくりうなずいた。 「……わかった。じゃあ、その日までに、ちゃんと“わたし”を整える」 ひかりはふっと笑って、空を見上げた。 「ありがとう。  ねぇ千紗、いつかもし、世界のどこかで迷ったとしても、  わたし、この写真があったら、ちょっとだけ頑張れる気がするんだ」 「写真、じゃあさ……プリクラとかじゃなくて、ちゃんとスタジオで撮ろう」 「うん、ちゃんとしたやつ。……正装で、笑ってね」 「笑えるといいね」 「きっと、笑えるよ」 ** ふたりは歩き出した。 未来の不確かさも、自分自身の不安定さも、 全部抱えながら。 けれど、心の奥には一枚の「これから」が灯っていた。 第7章『シャッターの前で』 5月20日。 晴れた空は、どこか「思い出」の色をしていた。 千紗は約束通り、落ち着いたワンピースを選んだ。 前髪を整え、鏡の前で小さく深呼吸をする。 「大丈夫、今日は逃げない」 ふとした角度で自分の姿が写るたびに、 かつて「たくみ」だった面影がちらつく。 それでも、鏡の奥にいるのは紛れもなく「千紗」だった。 ** スタジオに着くと、ひかりは既に来ていた。 シンプルな白のブラウスと淡いグリーンのスカート。 自然体のままで、けれど凛とした空気をまとっていた。 「……似合ってる」 千紗が照れくさそうに言う。 ひかりも笑った。「そっちこそ」 ** 撮影は、想像よりもあっさりと進んだ。 カメラマンが「はい、じゃあ少し笑って~」と声をかけ、 ふたりはぎこちなく見つめ合い、やがて自然に笑った。 ──カシャ。 その一瞬に、過去も未来も、閉じ込められたようだった。 ** 撮影が終わったあと、ひかりは急に黙り込んだ。 カフェに入っても、注文した紅茶には口をつけず、 何かを飲み込むように目を伏せていた。 「……ねえ、どうしたの?」 千紗の問いに、ひかりはぽつりと言った。 「今日、本当は言おうか迷ってたことがあるの」 「うん」 「わたし……もうすぐ、東京を離れるの。夏には」 千紗の指先が止まる。 「え……?」 「親の仕事で、海外に行くことになったの。数年単位で……」 千紗は言葉が出なかった。 声を出せば、何かがこぼれそうで。 ひかりは、俯いたまま続けた。 「だから、この写真……“今のわたしたち”を、ちゃんと残したかった。  また会えるかもしれない。でも、約束できないから」 ** 千紗は黙っていた。 涙は出なかった。 ただ、胸の奥がきしむように痛かった。 けれどその痛みの中で、 「この日を迎えられた」ことが奇跡のように思えた。 ** ふたりは写真を分け合い、 小さな封筒に入れて、それぞれのカバンにしまった。 「また、笑える日が来るといいね」 ひかりのその言葉が、やけに遠く感じた。 「うん。……信じてる」 ** 夕暮れ、千紗はひとりになった電車の中で、 写真をそっと取り出した。 そこには、笑って並ぶ「ふたりの今」がいた。 時間は流れる。人も変わる。 けれど、この一枚だけは、変わらずに残り続ける。 そして、たしかにそこにあった「ふつうの幸せ」は、 何よりも本物だった。 最終章『千紗として生きる』 ひかりが東京を離れてから、季節が一巡した。 思ったよりも、日々は静かだった。 メールは時々来る。でも、前のように長くは続かない。 それでも千紗は、もう“誰かに縋る”ような日々には戻らなかった。 彼女は、“千紗”として生きていた。 ** 学生証の再発行を申請したとき、 職員の一瞬の間を、千紗は見逃さなかった。 けれど、彼女は真っ直ぐに言った。 「これは、わたしの名前です。変えたいと思ったことはありません」 その声は震えていなかった。 重ねた季節の中で、彼女は少しずつ強くなっていた。 ** 誰かに笑われることもある。 無理解の視線に晒されることもある。 だけど、誰かに名前を呼ばれるたび、 それは千紗にとって「生きている証」だった。 ──名前を、奪われなかった。 ──わたしであることを、隠さなかった。 ──それだけで、きっと、意味がある。 ** ある夜、久しぶりにひかりから手紙が届いた。 少し癖のある字で、こう書かれていた。 「あの日の写真、机の上に飾ってる。  こっちの人に聞かれるたび、わたしね、『この子が“わたしの好きな人”だった』って言ってるんだ。  過去形じゃない。いまもそうなんだけど、そう言わないと泣きそうになるから。  でもね、千紗が千紗として生きてくれてるなら、  それだけで、わたしはちゃんと前を向ける気がする」 千紗は手紙を閉じて、しばらく動けなかった。 けれど最後に、静かに笑った。 「……ありがとう。わたしも、ちゃんと生きるよ」 ** 桜が咲きはじめた午後、 千紗は新しいアパートのベランダで洗濯物を干していた。 風が吹く。光が揺れる。 世界は、いつものように騒がしくて、でも確かに進んでいる。 もう誰かのふりをする必要はなかった。 もう自分を消す必要はなかった。 千紗は千紗として、今日もこの世界で生きている。 それは、とてもささやかで、とても尊い奇跡だった。 ⸻ 『ネカマとjkとボク』──完。

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誰のものでもない 私は私なのだから だけど どこかで違う自分を作りだす 私は誰? SNSという深い海に沈み込んだ 私はだれ? 優しくもない 形もない 私は誰?

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ネカマとjkとボク②

ひかりに触れる影 第1章『その男、春田ユウト』 新学期が始まって、クラス替えのざわめきもようやく落ち着いたころ。 ひかりのいる教室に、転校生がやってきた。 名前は、春田ユウト。 整った顔立ちに、どこか落ち着いた雰囲気を持つ彼は、 転校初日から静かな注目を浴びていた。 だが、彼は人と群れず、 教室の窓際で静かに本を読んでいることが多かった。 ひかりが最初に彼と話したのは、図書委員の仕事で図書室に向かう途中だった。 「それ、好きな作家です」 春田が手に取った文庫本を見て、思わずそう言ってしまった。 彼は驚いたように顔を上げ、そして笑った。 それが、ふたりの距離の始まりだった。 ** 数日後。 春田ユウトは、ある“噂”を耳にする。 ──ひかりには、ネットで知り合った“親しい人”がいるらしい。 ──その相手は、女の人。 ──でも、どこか“ふつう”じゃない。 春田は気づいていた。 ひかりの笑顔の奥に、いつも小さな影があることに。 そして、いつしか確信するようになる。 ──自分は、ひかりのその影も含めて、惹かれているのだと。 だが、その影の奥には、 “ミユ”という名前の、見えない存在がいる。 春田はそれを知りたくなった。 そしてある日、ひかりに問う。 「ひかりさん、 ……ミユさんって、誰なんですか?」 ひかりは、そのとき、一瞬だけ笑顔を失った。 その笑みの崩れは、ごくわずかだったけれど── 春田にはそれが、何よりも強い答えに思えた。 ** 同じ頃、ボク──“ミユ”は、 春田という名を、LINEのひかりとの会話から知る。 「最近、クラスに面白い人が入ってきてさ。 あんまり人としゃべらないけど、本の趣味がすごく合うの」 画面の向こうのひかりは、確かに嬉しそうだった。 だがボクの胸の奥には、 かすかに疼くような痛みが芽生えていた。 ──まさか、自分が“誰かに嫉妬する”なんて。 そしてボクは知らなかった。 春田ユウトが、すでに“ミユ”の正体に近づこうとしていることを── 『春田ユウトの優しさ』 「ひかりさんって、いつもがんばってますよね」 放課後の図書室。 静まり返った空間に、春田ユウトの声だけが穏やかに響いた。 ひかりは本の整理をしていた手を止めて、 少しだけ眉を寄せた。 「がんばってる……かな?」 「うん。ちゃんと、笑ってて。ちゃんと、話してて。 でも、それって“ちゃんとしなきゃ”って思ってる人の顔に見える時があるんです」 春田の声には、非難も詮索もなかった。 ただ、“気づいたこと”をそのまま差し出すような、静かな優しさだけがあった。 ひかりは返事をしなかった。 けれどその沈黙も、春田は責めなかった。 ただ、本棚の影からさりげなく距離をとり、 そっと同じ空間を守るように立っていた。 やがて、ひかりがぽつりとこぼす。 「生理痛がひどくて……。今日もちょっと、しんどいだけ」 「そうだったんですね。 無理に手伝おうとしないでください。 こっちは僕一人でもできるから。……むしろ、座っててください」 それは“手伝おうか?”ではなかった。 “休んでいいよ”でもなかった。 “気をつかわせないように、ちゃんと気づいてる”という 思いやりの言葉だった。 ひかりは、目を伏せたまま、うっすら笑った。 ──ああ、この人は、 見えないところで、すごく人の痛みに敏感なんだ。 ** その帰り道、 ひかりのスマホに“ミユ”からメッセージが届いた。 「今日、寒くなかった? お腹あっためてね」 優しさが、ふたりから同時に届いた。 ひかりは、ふと立ち止まり、 空を見上げた。 春田ユウトの優しさは、 “痛みを見て見ぬふりをしない”という強さだった。 ──けれど。 “ミユ”の優しさは、 “そっと見守ってくれるまなざし”だった。 同じ優しさでも、こんなにも違う。 そして、どちらも心に触れてくる。 その日、ひかりの夢には、 春田とミユ、ふたりの声がまざって流れてきた。 静かで、やさしい、でもどこか切ない夢だった。 『ミユに惹かれる春田』 春田ユウトは、それまで「恋」という感情を自分に持て余していた。 だれかを好きになるとは、もっと直線的で衝動的なものだと思っていた。 けれど、今の彼の心を支配しているのは── 理屈では説明できない、“触れたことのない何か”への興味だった。 その“何か”の名は、ミユ。 ** ひかりと話すうちに、彼女がときどきLINEで連絡を取っている相手の話を、 自然と聞くようになった。 「すごくやさしくて、いつもわたしのことを考えてくれる人」 「会ったことはないけど、なんだろう、変なんだけど、すごく安心できる」 「……でも、ほんとは、何を考えてるのかぜんぜんわかんない人でもある」 そのときのひかりの表情は、不思議だった。 憧れにも似た、でもどこか怖れているような── 一歩引いた場所から見つめるようなまなざし。 春田はその話を聞くたび、心がざわめいた。 まるで、自分の知らないところで、 誰かがひかりの“心の奥”を独占しているような気がして。 ** そんなある日、春田はふとした偶然で ひかりがミユとやりとりしているSNSアカウントを見つける。 匿名性の強いその世界に並ぶ投稿は、 どこか鋭くて、それでいて切実だった。 ──『優しさは、便利な武器になる。自分を偽ることができるから』 ──『女のフリをして、女の苦しみに気づいてしまったとき、人間って何になるの?』 ──『笑っているふりをして、自分に気づかれないように生きているのは、ボクも同じ』 春田は、目を離せなかった。 どれも、“男”の目線で語られているようなのに、 感情は妙にリアルで、女性的だった。 この言葉の裏にいるのは、誰なんだ。 ──ほんとうに、“女”なんだろうか? でも、もしそうじゃないとしても。 この人は、きっと“ひかりの孤独”に誰よりも寄り添っている。 春田は気づいた。 自分は今、“ミユ”という存在に、 強く、深く、嫉妬している。 ** それでも、次の日も、春田はひかりにやさしく接した。 彼女の生理痛が重いと知れば、何も言わずに保健室に連れていく。 図書室では彼女の好きな作家の本をこっそり返却しておく。 誰にも見えないところで、 ひかりの“少しのしんどさ”を、少しでも軽くしようとする。 けれどその胸の中には、 “ミユ”という名前が、まるで黒いインクのように滲み始めていた。 ──いつか、ひかりからその名前が消える日が来たら。 ──そのとき、彼女の隣に自分がいられるように。 春田ユウトは、誰にも言わずに、 そう願いをひとつ、心に灯した。 『接触』 「ミユさんって、Twitterやってるんだよね?」 放課後の帰り道、 何気ない口調で春田がそう聞いたとき、 ひかりは一瞬だけ立ち止まった。 「……うん。でも、どうして知ってるの?」 「こないだ、ひかりさんが話してた投稿、気になって調べてみたら……たぶん、これだなって。 読んだら、すごく……ひかりさんが言ってたとおりの人だと思った」 ひかりは何も言わなかった。 ただ、そのまま歩き出し、いつもより少し足が速くなった。 ** その夜。 春田はスマホの画面とにらめっこしていた。 そこには、 『@miu____』というアカウントのタイムライン。 投稿のほとんどが、“匿名”の痛みでできていた。 だけど、言葉の端々には“彼女”の声が確かに感じられた。 知りたい。話してみたい。 そう思う一方で、 知らないほうがよかったのではないかという迷いもあった。 彼女が“本当に女なのか” “なぜこんな言葉を発しているのか” ひかりとの関係はどうなっているのか── そのどれもが、踏み込めば“壊してしまいそうなもの”だった。 それでも、春田はキーボードを叩いた。 「初めまして。投稿、読ませてもらっています。 ひかりさんの知り合いなんですね。 あなたに、話したいことがあります。」 ──送信。 数秒間、画面が沈黙したまま、 まるで返事なんかこないような気がしていた。 だが、2分後。 DMの未読が「既読」に変わり、1行の返事が届いた。 「……誰?」 ** 画面を見つめながら、春田はため息をついた。 ああ、やっぱり、これは普通の人じゃない。 でも── 普通じゃないからこそ、ひかりは惹かれたのかもしれない。 春田は、返信を打った。 「春田ユウト。彼女のクラスメートです。 ……ミユさんに、嫉妬してます。だから、ちゃんと話してみたくなった」 その言葉に、ミユ──つまり“ボク”はしばらく返さなかった。 指先が震えていた。 他人が、直接“ミユ”という仮面の裏側に手を伸ばしてくること。 それは、最も望まなかった展開だったはずなのに── どこか、待っていた気もしていた。 ** 夜が更けていくなか、 “ボク”のスマホには、春田から次々と真っ直ぐな言葉が届いていった。 傷つけようとしないのに、鋭くて、逃げ道がなかった。 優しすぎるのに、追い詰められる。 ──この男、危ない。 それが、ボクが春田ユウトに抱いた、最初の本音だった。 ⸻ 春田ユウトのやさしさは、本物だった。 痛みに敏感で、誰よりも相手を気遣い、 言葉を選び、距離を守る。 ──けれど、その“完璧さ”には、理由があった。 ** 幼いころ、春田は感情の起伏が激しい子どもだった。 少しの拒絶に過剰に反応し、 他人の視線を気にしては塞ぎ込み、 何度も「普通にふるまう」ことを教え込まれてきた。 ──怒るな ──泣くな ──感じすぎるな そうして彼の中には、ある“静かな狂気”が根を張った。 それは、感情を“演じること”で周囲と適応する力。 やがて、春田は他人の“本音”を読むことに長けた。 その上で、自分が“求められる役”を正確に演じるようになった。 優等生 聞き上手 感受性のある男 正しさとやさしさを備えた人物── だがそれは、“彼の本質”ではなかった。 彼がほんとうに欲していたのは、 他人の心の核心に触れ、支配すること。 ** “ミユ”という存在を知ったとき、 春田の中の“裏の顔”は、静かに目を覚ました。 誰にも見せていなかった“ひかりの本音”に触れられる相手。 ネットという仮面の中で、 彼女が何も隠さずに心を開いている存在。 ──許せなかった。 「正体を暴きたい」とは思わなかった。 それではつまらない。 ──“ミユ”のままでいい。 ──でもその心を、自分の側に落とすことはできる。 春田は、やさしいまま、 正しいまま、 静かに“侵入”を始めた。 「君は、自分のままでいたいんじゃないの?」 「女のフリじゃない。ボク自身が、ちゃんと認められたいんじゃない?」 「そのために、ひかりのことを“盾”にしてるって、気づいてる?」 DMに送ったその言葉に、ミユはしばらく返信しなかった。 春田はスマホを伏せ、薄く笑った。 ──さあ、どう答える。 ** 春田ユウトのやさしさは、 人を見透かすためのナイフだった。 それを、ひかりも、ボクも、まだ知らない。 いや── 薄々、気づき始めているのかもしれない。 『優しさの裏にあるもの』 春田ユウトは、感情的な言葉を使わない。 怒りを見せない。 不満を口にしない。 それなのに、彼の言葉に触れると、 どこか「冷たさ」のようなものが残った。 ** 「ミユさんって、ずるい人ですね」 ある晩、ボクのDMにそう書かれていた。 「ひかりさんの“孤独”に入り込んで、でも自分の姿は明かさない。 彼女があなたに寄りかかるのを見ながら、何も責任は取らない」 「……それって、すごく“安全な場所”から彼女を支配してることに、気づいてますか?」 文章は淡々としていた。 敬語すら崩れていなかった。 けれど、そこには明らかに“圧”があった。 的確すぎる分析。逃げ道のない言い回し。 ボクは、スマホを持つ指先に汗を感じながら、 それをじっと読んだ。 ──この人、やさしい顔をしているけど、 言葉を「武器」にできる人間だ。 ** 翌日、ひかりが言った。 「最近、ユウトくんちょっと変かも……。なんていうか、優しいんだけど、ずっと見られてる気がするの」 「どういうこと?」 「言葉に出さないけど、わたしが何考えてるか全部見透かされてる感じ。 笑ってるのに、笑ってないみたいな」 ひかりは少し困った顔で笑った。 それは、無理やり作られた“平気なふり”だった。 ボクは、感じていた。 ──春田ユウトは、 優しさを「入口」にして、人の中に入り込む。 そして、自分でも気づかないうちに、 相手の“選択肢”を奪っていく。 まるでその笑顔が、「こっちを選ぶべきだよ」と 囁いているかのように。 ** その夜、ボクは春田に返事をした。 「あなたの言ってることは、正しい。 でも、それを“誰かに突きつける”ことって、ほんとうに優しさ?」 数分後、返信が届く。 「正しさって、突きつけるものじゃない。 でも、見て見ぬふりしたら、もっと壊れることもある。 僕は、ひかりさんが壊れるところなんて、見たくないんです」 その文面には、痛みのようなものすら感じた。 ──この人は、人を守りたいんじゃない。 “正しい自分”でいたいだけだ。 だからこそ、攻撃は見えづらく、言葉は刺さる。 それは、刃を花束に包んで渡すようなものだった。 ** 春田ユウトの攻撃性は、 誰よりも“傷つかない”形をしていた。 だが、それゆえに── 誰よりも深く、人を傷つけてしまうことを、 彼自身、まだ知らなかった。 『ひかりとミユの秘密』 「ほんとはさ、わたし、気づいてたのかも」 図書室の片隅で、ひかりはぽつりとそう言った。 外は曇り空。窓ガラス越しに映る彼女の横顔は、どこか遠くを見ていた。 「ミユが、ほんとうは“ミユ”じゃないって」 ボクの喉がつまったようになった。 手にしていた本のページをめくるふりをして、言葉を探す。 「……なんでそう思ったの?」 「言葉の選び方とか、感情の抑え方とか……たまに、“違和感”があったの。でも、不快じゃなかった。むしろ、すごく近くに感じたの。男とか女とか、どうでもよくなるくらい」 ひかりは静かに笑った。 「“自分のままでいさせてくれる”って思ったの。 どんな嘘をついてても、それごと受け止めてくれそうな気がしてた。 だから……嘘を責めようなんて、思わなかった」 ** ミユという名前の裏側には、 ボクという存在がいた。 男の身体で、女の言葉を借りて、 誰かの心に触れようとしていた。 それは、偽りだった。 けれど── “誰かにとって必要な嘘”でもあった。 ひかりとミユのあいだには、 言葉にしない了解があった。 ──言わないでいてあげる。 ──言わないでいてくれる。 それが、二人の“秘密”だった。 ** 「でもね、ミユ。ひとつだけ、ほんとのことが言いたい」 ひかりは、こちらをまっすぐ見た。 瞳の奥に揺れていたのは、怒りでもなく、哀しみでもなく── むしろ、優しい決意だった。 「わたし、ミユが男でも、女でも、どっちでも……“わたしを見てくれた”ってことは、ぜんぶほんとだったと思ってる。 だから、これからも、そうしていてほしい。嘘じゃなくて、ちゃんと、わたしと向き合って」 ** その夜、ボクはSNSの名前を変えた。 @miu____ → @boku_miu そして、最初の投稿を書いた。 「ボクは“ミユ”でした。でも、それだけじゃなく、“ボク”です。 男として、女としてではなく、“ひかり”と出会った人間として、 嘘の先にあったものを信じたいと思っています」 それが、ひかりとボクの、 最初の“ほんとう”だった。 秘密は終わり、 そして、関係は次の形へと変わっていく。 『知った者だけが変わる』 「──嘘だったんですね」 それは、春田からのDMだった。 通知が鳴った瞬間、ボクはスマホを伏せた。 見たくなかった。 けれど、避けても無意味だった。 「ミユさん。いや、“ボク”さん。 ひかりさんのことを本当に想うなら、彼女に正体を明かすべきじゃないですか?」 この数日間のやりとりの中で、 春田は何かを感じ取っていた。 もしくは、ひかりがうっかり漏らしたのかもしれない。 ──知ってしまった。 ボクの仮面が、春田の前で完全に崩れた瞬間だった。 ** 春田は、学校ではいつも通りだった。 ひかりに話しかける声も、笑顔も変わらない。 けれど、彼の視線だけは鋭くなっていた。 まるで、こちらを「採点」しているような。 ひかりと話すボクを見ている時の目は、 もう“あの優しい春田”のものではなかった。 「ひかりさんは、優しすぎるんですよ。だからあなたのことを受け入れてしまった。でもそれって、ほんとに彼女の“選択”でしたか?」 春田の言葉は、善意の皮をかぶった刃物だった。 そして、ボクはそれを受け止めるしかなかった。 ** 数日後、春田はひかりを呼び出した。 屋上。風が強い昼休み。 誰もいないその場所で、春田は優しく微笑んだ。 「……ごめん、ひかりさん。 ちょっとだけ、嘘をついてたことがあるんだ」 ひかりは黙ってうなずいた。 春田の“優しさ”の後に、何が来るか、どこかでわかっていた。 「ミユの正体、知ってる。 本当は……あいつ、男なんだよね?」 言葉が落ちたとき、 風の音だけが残った。 ひかりは目を伏せ、春田の方を見なかった。 その反応に、春田は一瞬だけ、目を細めた。 「ひかりさん。君は利用されてる。 いや、君自身はそう思ってなくても、彼は“隠れて”いる。 それって、不公平だと思わない?」 そのときの春田の声は、 本当に、ほんとうに“優しかった”。 だからこそ、恐ろしかった。 ** その夜、ひかりは“ボク”に電話をかけてきた。 「……ミユ。話したいことがあるんだ。 でも、会ってからじゃないと……うまく言えないかもしれない」 “知ってしまった”者だけが変わる。 その変化は、やがて“選ばなかった方”を取り残していく。 ──ボクは、自分が取り残される側かもしれない。 そんな予感を抱えながら、 画面越しの沈黙に、ひかりの声だけが静かに響いていた。 『本当の名前を名乗るとき』 待ち合わせは、駅から少し離れた図書館の裏手にある小さな公園だった。 春田のことも、ひかりの揺れも、 すべてを抱えて、ボクはその場所に立っていた。 ひかりは、先に来てベンチに座っていた。 手には自販機のホットココア。 「……寒かった?」 ひかりは微笑んで首を横に振った。 「ううん。来てくれると思ってたから、寒くなかった」 その笑顔に、ボクの喉がつまった。 ** しばらく、風の音だけが二人の間を流れていた。 鳥の声。遠くで遊ぶ子どもの笑い声。 穏やかな、でも緊張した時間。 「……ミユって、ほんとは何て名前なの?」 それは、逃げられない問いだった。 ボクはうつむいて、小さく息を吸った。 「……たくみ。  ボクの本当の名前は、佐久間 拓海(さくま たくみ)っていうんだ」 言葉が、空気の中に沈んでいった。 手のひらが少し震えていた。 「男だよ。  声も、身体も、見た目も、全部。  ミユは、ネットでだけ作った“もうひとりの自分”。  でも、それでひかりと話す時間だけが……ほんとの自分みたいに思えたんだ」 ひかりはしばらく何も言わなかった。 その沈黙が、怖かった。 ** 「わたしね」 ひかりがぽつりと口を開いた。 「正体を知ってから、“ミユ”がいなくなっちゃうのが、一番怖かった。  女の子のフリだったことより、  ボクがひかりを見てくれなくなるんじゃないかって、  そっちの方がずっと怖かったの」 ボクは顔を上げた。 ひかりの目は、まっすぐボクを見ていた。 その中には、怒りも責めもなかった。 ただ、受け止めようとする決意だけがあった。 「でも今日、ちゃんと名前を聞いて、  ちゃんと男の子の声で話してくれて、  ちょっとだけ……うれしかった」 ボクの胸に、じわりと温かいものが広がった。 それは安堵でも、幸福でもなく── きっと、赦しだった。 ** 「たくみくんって、呼んでもいい?」 「……うん」 それは、ミユの終わりであり、 ひかりと“ボク”の、本当の始まりだった。 名前を名乗ることで、嘘は終わり、 同時に、“本物”の関係がようやく動き始める。 『選ぶということ』 「たくみくん。わたし、たぶん……前より“わたし”になれた気がする」 放課後、校舎裏の小さな階段に座って、 ひかりは静かにそう言った。 「“ミユ”のときも好きだったけど、  本当の声で、本当の名前で話してくれる“たくみ”といるときの方が、  わたしは、自分を隠さなくていい気がするんだ」 そう言って微笑む顔は、どこか柔らかく、 けれど少しだけ痛みも滲ませていた。 ──春田のこと、だ。 「優しいよ、あの人。すごく。  でもね、わたしの“弱さ”をちゃんと抱きしめてくれるのは、  たくみくんだった。  わたしが泣きたいとき、泣かせてくれるのも。  生理で動けないとき、黙って寄り添ってくれたのも」 ──優しさって、誰かを思い通りに動かすことじゃない。 そばにいるだけで、何も言わずに“在る”ことだ。 それに気づいたとき、 ひかりは自分の気持ちを選べた。 ** 一方、春田ユウトは静かに崩れていた。 クラスでは以前と変わらず、穏やかに振る舞っていた。 けれど、その裏側では、 “自分が選ばれなかったこと”を受け入れられずにいた。 ──なんで、僕じゃない? 正しさを持っていた。 優しさも、配慮も、全部与えた。 それでも、彼女の瞳は“ボク”の方を向いている。 春田のなかに、静かな“怒り”が生まれていた。 「君は、ただ本音をぶつけただけだ。  僕は、傷つけないように、守ってきたのに──」 彼はまだ知らなかった。 「守ること」と「縛ること」は紙一重だということを。 ** ボクは、春田と初めて“男同士”として向き合った。 「ひかりのこと、好きなんだよな」 そう言うと、春田はわずかに目を細めた。 「君に“奪われた”とは思ってない。ただ──負けた気はしてるよ」 「……誰かを手に入れるために、  他人と競う必要はないと思ってる。  ひかりが選んだのは“ボク”で、  それ以上でも、それ以下でもない」 春田は黙った。 ボクの声はもう震えていなかった。 “ミユ”という仮面がなくなっても、 ボクはボクとして立っていた。 ** たとえ誰に何を言われても、 ひかりと、ボクとで選んだ“関係”を、 もう誰にも壊させたくなかった。 それは、やっと手に入れた── **ボク自身の“強さ”**だった。 最終章『手放すという愛』 春田が最後に言ったのは、 「君には、許せない理由があるんだ」 という言葉だった。 それは、怒りでもなく、ただ“冷たい確信”だった。 ** 春田ユウトは変わってしまった。 ひかりに見せていた優しさは、 「自分の選んだ未来に彼女が従ってくれる」という前提で成り立っていたものだった。 ボク──たくみの存在は、 その幻想を壊した。 ミユという仮面ではなく、たくみという“ただの男”が、 ひかりの心を動かしてしまったという事実。 それが、春田の「憎しみ」だった。 ** 「……わたし、あの人に“なにも言えなくなった”の。  傷つけたくないって思ったけど、  ほんとはもう……顔を見たくなかったのかもしれない」 ひかりはある日そう言って、 春田の連絡先を静かにブロックした。 「でも、怖い。  こうして誰かの感情を切り捨てて、  わたし、間違ってるのかなって思うと……胸が痛くなる」 ** たくみは答えなかった。 ただ、そっとひかりの手を取った。 「悲しくていいと思う。  ひかりが優しいってことだよ。  でも、優しさと犠牲は、同じじゃない」 ひかりは、強く目をつむった。 そしてその手を、ゆっくりと離した。 「ねえ、たくみくん。  これ以上、わたしが誰かに傷つけられたり、  たくみくんが誰かをかばったりする世界じゃなくて、  ちゃんと、自分の足で歩けるようになりたいの」 ──その言葉は、“別れ”の始まりだった。 ** 春田の憎しみは、直接的な行動に変わることはなかった。 けれど、彼が残した“影”は、ずっとふたりに付きまとっていた。 だからひかりは決めたのだ。 いまのままでは、互いの未来を削ってしまうと。 ** 桜の花が、まだつぼみのまま風に揺れていた。 駅のホーム。発車ベルが鳴る。 「また、会えるよね?」 「うん。会える。そのときはもう、  “守られる側”じゃなくて、ちゃんと“隣に立てる”人になってる」 ひかりはそう言って笑った。 涙はなかった。 でも、ボクは知っていた。 その背中が震えていたことを。 ** 春田の“愛”は執着に変わり、 ひかりの“悲しみ”は解放への痛みに変わり、 そしてボクの“愛”は、 手放すことで証明された。 それが、三人の物語の、 静かな幕引きだった。

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ネカマとjkとボク ①

僕が“ミユ”になったのは、たまたまだ。 名前を入力する欄に、ふと「女の名前」を入れてみただけだった。 特に意味なんてない。 そもそも、この世界に“意味”なんて必要だったことがあるか? SNS。 チャットアプリ。 匿名掲示板。 誰もが誰かを演じて、誰かとつながって、誰かであることに救われてる。 僕は“ボク”としては誰にも必要とされなかった。 クラスで話しかけてくれる奴なんていないし、母親はスマホの向こうの誰かとばかり話してる。 父親は夜に帰ってきてテレビを見て、口をきくのは月に数回。 家族ってなんだっけ。 友達ってなんだっけ。 でも、“ミユ”なら違った。 「優しそうな人ですね」 「初めて、こんなに心を開けたかも」 「ミユさん、今日もいますか?」 誰かが“僕”を求めてくれる。 それが嘘でも、演技でも、幻想でも。 必要とされた実感が、僕を生かしていた。 ──ひかりに出会ったのは、そんなある夜だった。 「こんばんは。女子高生のひかりです」 「ここ、変な人多いですよね。でも、ミユさんは優しそう」 ──初めて見た時は、またか、と思った。 ネナベか、かまってちゃんか、業者か。 けど、違った。 彼女の言葉は、どこか痛々しいほどに真っ直ぐで、そして寂しそうだった。 僕は、ミユとして彼女を慰めた。 彼女も、ミユにだけは心を開いてくれた。 気づけば、夜が明けるまでチャットをするのが日課になっていた。 学校では誰にも話しかけられない僕が、 家では透明人間みたいな僕が、 ネットの海では“ミユ”として生きていた。 ──だが、ひかりは知らない。 “ミユ”の正体が、冴えない男子高校生の僕だということを。 ──僕は知らない。 ひかりが、本当に“女子高生”かどうかも。 それでも、つながっていた。 その夜だけは、世界に僕らしかいないような気がした。 嘘と孤独の中にしか、僕の“本当”はなかった。 第1章『ひかり』 「ミユさん、いますか?」 いつもの時間、画面にひかりの名前が現れる。 メッセージは短くて、どこか緊張がにじんでいる。 何度も送信しては消したような、そんな不自然さがあった。 僕はそれを見て、心が少しだけ温まる。 ああ、待っていてくれたんだな、と。 誰かが、僕を待っている──それだけで生きていけるような気がする。 「いますよ。こんばんは、ひかりちゃん。今日も一日、おつかれさま」 打ち込む指は、“ボク”ではない。 画面の向こうの“優しい女性”、それが“ミユ”だ。 言葉選びには細心の注意を払う。 言いすぎず、でも踏み込みすぎず。 近すぎず、でも遠くもなく。 彼女が安心できる“誰か”でいるために。 「今日は、学校でちょっと嫌なことがあって……」 ひかりはそう言って、ぽつぽつと話し始める。 友達が冷たかったこと、授業中に先生に当てられたこと、誰も笑ってくれなかったこと。 “ミユ”として聞くそれは、他人事のようで、でも、どこかで“僕自身”のことのようにも思えた。 僕だって、同じだった。 今日、クラスの女子たちが、僕のことを“きもい”って笑ってたのを知ってる。 前の席のやつがわざと教科書を僕の足元に落として、それを拾う僕を無言で見下ろしていたのも知ってる。 でも、ミユは笑わない。 ミユは、ただ静かに寄り添う。 「ひかりちゃんは、ちゃんと頑張ってるよ。大丈夫、ここには私がいるから」 ──そんな言葉を、自分がいちばん欲しかった。 でもそれを、自分の“ふりをした誰か”の口でしか言えないのが、この世界の残酷さだった。 「ミユさんって、本当に優しいですね」 「リアルにいたら、絶対に友達になりたい」 画面に、そんな言葉が浮かぶ。 嘘をついてるのは僕なのに、感謝されるのは“ミユ”で。 それを受け取るたびに、胸の奥がきしむ。 ──僕のままじゃ、誰にも愛されない。 ──でも、ミユとしてなら、生きていける。 どちらが“本当の自分”なんだろう。 嘘をついてる時の方が、よっぽど素直だった気がする。 「ねえ、ミユさん。いつか、会ってみたいな」 ひかりが言った。 その一文を見た瞬間、指が止まった。 会いたい? “誰に”? ボクに? それとも──“ミユ”に? どうしても言葉が打てなかった。 スマホの画面を見つめたまま、僕はただ沈黙していた。 画面の中で、ひかりが静かに打ち込んだ。 「今日は、ちょっと調子悪いかも」 その一言には、いつもの“明るい仮面”がなかった。 僕はすぐに察した。 彼女がそうやって体調の悪さを口にするときは、だいたい本当にしんどいときだ。 「大丈夫? 無理しないで、ゆっくり休んでね」 僕は“ミユ”として、柔らかい言葉を送った。 でも、返ってきたのは── 「……生理痛、ひどくて。寝てたけど、全然よくならなくて」 スマホの光がやけに鋭く感じた。 女の子ならではの悩み。 本当は、僕なんかが立ち入っていい領域じゃないのに。 けれど、彼女は“ミユ”にだけは、それを話してくれる。 「病院、行ってみたほうがいいかも」 「私も昔、すごくひどくて倒れたことあるから……放っておいちゃダメだよ」 もちろん、“私”が倒れたことなんてない。 でも、ひかりが安心するなら。 誰かに“わかってもらえた”と感じるなら。 それは、“嘘”ではない気がした。 「……病院行くの、怖いんだよね」 「なんか、自分の体のこと話すのって、すごく恥ずかしい」 その言葉には、彼女の年齢よりも深い孤独が滲んでいた。 そして僕は、スマホ越しに初めて“彼女が本当に女の子なんだ”と実感した。 それと同時に、恐ろしいほどの罪悪感が押し寄せてきた。 ──僕は、男だ。 ──ただの、冴えない男子高校生だ。 なのに、“女”として、彼女の一番繊細な部分に触れている。 「私でよければ、いつでも話してね。誰にも言わないから」 「それに、恥ずかしいことなんて、ひとつもないよ。大事なことだから」 文字を打ちながら、自分の指が冷えていくのを感じた。 こんな言葉を言える資格なんて、本当はなかった。 だけど、彼女は返してくれた。 「ミユさんがいてくれて、よかった」 「今日、誰にも話せなかったから……本当に、ありがとう」 その言葉が、嬉しかった。 同時に、吐き気がするほど胸を締めつけた。 この子は、“僕”に感謝してるわけじゃない。 “ミユ”という、存在しない誰かに。 それでも僕は、 その嘘を続けることしかできなかった。 『夜の底で』 夢を見ていた。 ひかりがベッドにうずくまって、息を荒くしている。 「ごめんね、ミユさん……」と泣きながら、僕にだけ弱さを見せる。 僕はその背中を、優しく撫でている。 彼女の髪はシャンプーの香りがして、指先に柔らかくまとわりついた。 ──気づいたときには、シーツが濡れていた。 冷たくて、重たくて、どうしようもなく惨めだった。 部屋には誰もいないのに、心の奥で「見られた」ような感覚が消えなかった。 僕は、ただただ、真っ白なシーツを見下ろしていた。 「最低だ……」 呟いた声は、ひどく弱々しかった。 “ミユ”として、彼女の痛みに寄り添った夜のあとに、 “ボク”として、欲望に溺れて汚した現実。 同じ指で慰めた。 同じ目で見つめた。 でも、彼女は何も知らない。 ──僕が男であることも。 ──彼女を性的に見てしまったことも。 ベッドから起き上がり、洗面台の鏡を見た。 そこに映ったのは、痩せて冴えない、目の死んだ少年。 どこにも“ミユ”なんていなかった。 ただの、何者にもなれない「ボク」だけがいた。 心のどこかで思っていた。 ひかりとつながっているうちに、少しずつ“ミユ”が本物になっていくんじゃないかって。 “ミユ”として誰かを救えるなら、それが僕の価値になるんじゃないかって。 でも──違った。 彼女がくれた信頼も、 涙も、 「ありがとう」の言葉さえも、 僕の欲望に、塗りつぶされてしまった。 「……どうして、こんなに汚いんだろう」 そう呟いた声も、誰にも届かない。 “ボク”は、誰からも見えないまま、夜の底に沈んでいった。 「ミユさんって……キス、したことある?」 唐突だった。 ただの何気ない日常の延長に、それは紛れ込んでいた。 学校のこと、体調のこと、友達との距離のこと── そんな“いつもの”会話のあと、ぽつんと送られてきたその一文。 僕はスマホを握ったまま、呼吸が浅くなるのを感じていた。 「え、どうして?」と返すこともできた。 「あるよ」と嘘をつくこともできた。 だけど、そのどちらも──怖くて、打てなかった。 画面の向こう、ひかりは続けた。 「最近さ、授業で“性教育”っぽい話が出てきて」 「別にいやらしい気持ちとかじゃないけど……ちょっと、気になっちゃって」 “ちょっと”。 その言葉の軽さとは裏腹に、彼女の文章にはどこか、 奥底に沈んだ熱のようなものがあった。 「……男の子って、キスするとき、どんな気持ちなんだろうって」 僕の喉が、ごくりと鳴った。 そこにいたのは、ただ無垢なだけの少女ではなかった。 好奇心を覚え、自分の体と心に変化を感じはじめる、ひとりの“女の子”だった。 その事実が、僕を震えさせた。 彼女はもう、子供じゃない。 けれど──まだ、何も知らない。 そして、その“なにも知らない彼女”に向けて、 僕は“ミユ”という嘘を使って近づいている。 「……ねえ、変なこと聞いてごめんね」 「でも、ミユさんなら……何でも正直に話してくれる気がして」 ──正直、だって? 胸がずきん、と痛んだ。 正直なふりをして、どれだけの嘘を積み重ねてきただろう。 「ミユさんって、大人だし、きれいだし……」 「なんか、ちょっとだけ憧れてるかも」 その言葉を目にしたとき、 僕の指は止まったまま動かなくなった。 「ねえ、ミユさんは──どんな人が、好き?」 それは、少女の好奇心だったのか。 それとも、恋の始まりだったのか。 あるいは、自分の“女”としての価値を確かめたくなっただけなのか。 だけど僕は、そのどれにも正しく答えることができなかった。 なぜなら── 僕は、 「ミユ」なんかじゃないからだ。 「好き、なのかな。ミユさんのこと」 ひかりのその言葉は、他のどんなセリフよりも静かだった。 でも、画面越しに放たれたその“静かさ”は、何よりも重く、深く、僕の中に沈んだ。 ──恋? ──僕に? いや、“僕”じゃない。 「ミユ」に。 存在しない、優しくて、綺麗で、大人な誰かに。 「ねえ……私、変かな。女の人を好きになるなんて」 ひかりはそう言ったあと、すぐに続けた。 「でも、男の人って、こわい」 「気持ち悪いって思っちゃう……。男の人の目とか、匂いとか」 その言葉に、胃の奥がひっくり返るような痛みが走った。 僕は、正真正銘の「男」だ。 彼女が怖いと思う対象そのもの。 なのに、“ミユ”のふりをして、優しい言葉をかけて、夜な夜な自慰して── そんな僕の存在こそ、彼女の「気持ち悪い」の象徴じゃないか。 ⸻ その夜、また夢精した。 ひかりのセーラー服が、寝汗で貼りつくように僕の体にまとわりついた夢だった。 そして、その瞬間。 股間から広がる液体の温度よりも、 自分の喉の奥から洩れた喘ぎ声の「女々しさ」に、ぞっとした。 最近、妙に乳首が敏感になっている。 性器の先は少し触れただけで痙攣する。 夜中、意味もなく腰をくねらせている自分に気づいて、怖くなる。 ──“ボク”の体が、どこか変になってきている。 まるで「ミユ」が身体の中に入り込んで、 僕を「男」として壊しにきてるような──そんな感覚だった。 ⸻ 「ミユさん、今度……電話、してみたいな」 ある晩、ひかりがそう言った。 「声、聞いてみたい。ミユさんの本当の声」 息が止まった。 嘘が、破れる。 全部、終わる。 けれど、それより何より怖かったのは── その提案に、ほんの一瞬、心が踊ってしまった自分のことだった。 彼女の声を聞きたい。 彼女に、「好き」って言われたい。 でもそれは、 ミユでもなく、ボクでもない。 もはや、何者かすらわからなくなってしまった“何か”の欲望だった。 スマホを握る手が震えた。 指が、汗で濡れていた。 ──このまま進めば、何かが壊れる。 でも、止まることもできなかった。 「……うん。私も、声が聞きたいな」 そう打ち込んだとき、画面に浮かぶ“ミユ”のアイコンが、 まるで僕を嘲笑っているように見えた。 「明日、ちょっとだけ……通話してみない?」 画面に浮かぶメッセージを見たとき、 背中を誰かに押されたような、底冷えする感覚が走った。 ──ついに来た。 逃げられない、一線。 僕の声は、低い。 どれだけ優しい言葉を使っても、「ミユ」にはならない。 ひかりの幻想を、粉々にしてしまう。 “終わる”という言葉が、喉元でずっと渦を巻いていた。 けれど、僕は、 検索した。 「女声 変換 アプリ」 いくつも出てきた中で、レビュー評価の高いひとつをダウンロードした。 インストールして、試して、喋ってみる。 「こんにちは。ミユです……」 機械的なフィルターがかかった声が、 イヤホンの中から返ってきた。 女っぽい。けど、不自然。 音の隙間に、“ボク”が漏れている。 それでも、 僕は震えながら、録音ボタンを押し続けた。 ⸻ 通話の約束は、夜の10時だった。 ひかりが「家族が寝てから」と指定してきたのだ。 部屋の電気を消して、布団にくるまり、 スマホを手にして、心臓の音を数えた。 ──ピッ 通話が始まった。 無音が、異常に長く感じる。 「……ミユさん?」 小さな、震えるような声。 ひかりの声だった。 僕は、アプリを通した音声で、返した。 「……ひかりちゃん、こんばんは」 その瞬間。 スマホの向こうで、小さく、息をのむ音がした。 「……ほんとに、ミユさんなんだ……」 「……声、すごく……優しい」 嘘の声に、震えながら感動してくれている。 こんなにも、無防備で。 こんなにも、信じきって。 だけど── その無垢さの奥に、 小さな湿り気を含んだ「感情」が滲んでいるのがわかった。 「ねえ、もっと話してていい?」 「……なんか、声、落ち着くから」 言葉の端に、熱があった。 恋に似た、依存に似た、 そしてそれ以上に危うい、何か。 ⸻ ──通話が終わったのは、1時間後だった。 画面が切れた瞬間、 僕はイヤホンを外して、ベッドに倒れ込んだ。 吐き気がするほどの自己嫌悪と、 消えない興奮と、 そして、何より大きな「恐怖」。 ──このまま、進んでしまうのか? “ボク”は今、 もう「ボク」でいられなくなりつつある。 でも、引き返す方法はもう──どこにも見えなかった。 通話の翌日、ひかりは学校を休んだ。 「頭が痛くて……ちょっとだけ休みたい」 LINEでそう伝えてきた彼女は、 どこか言い訳のようにそれを言った。 けれど、文章の行間には別の空気があった。 通話のあとから、彼女は“何か”を抱えている。 ボクはそれを、スマホの画面越しに感じ取っていた。 「ねえ、ミユさんってさ……夜、眠れる?」 ふと、そんな問いが届いた。 「たまに、すごく変な感じになるの。  ……眠れないっていうか、体が熱くて、落ち着かなくて」 そのメッセージは、どこか曖昧だった。 でも、ボクには分かった。 それがどういう種類の感覚で、 どんな戸惑いを彼女にもたらしているのか。 “ボク”は男だ。 だから、その感覚を思春期の頃に経験している。 けれど、それを言葉にしてしまえばすべてが壊れる。 彼女が求めているのは、“ミユ”の優しさであって、 “男”の理解じゃない。 だからボクは、やさしく返した。 「それ、悪いことじゃないよ。  誰にでもあること。  ……きっと、それはひかりちゃんが“生きてる”証拠だよ」 少ししてから、ぽつりと返事が来た。 「ミユさん……ありがとう」 「なんか、それだけで、安心した」 画面の向こうのひかりが、 今どんな顔をしているのか、ボクには想像できた。 目を伏せて、熱を持て余して、 でもその理由がわからなくて。 どこにもやり場のない感情を、誰かに預けたくなって。 ──ひかりの中で、何かが芽生え始めていた。 それは恋ではない。 でも、恋にも似た依存と憧れと、 そして、自分の体が自分のものじゃないような不安。 ⸻ その夜、ボクも眠れなかった。 夢精ではなかった。 でも、体が異様に敏感で、 風が当たるだけでゾクリとした。 乳首が、なぜか痛いほどに張っている。 何度も下着を直したけど、布が擦れるたびに嫌な快感が走った。 「……なんだよ、これ」 思わず口からこぼれたその声は、 “男の声”だった。 けれど、すぐにそれを否定するように、 スマホにイヤホンを差し、変声アプリを起動した。 ボクはミユ。 優しくて、誰よりも彼女を理解してあげられる存在。 ──そうでなければ、生きていけない。 自分の“男”が忌み嫌われる現実が、 ボクの輪郭をぼやけさせていく。 スマホの画面に映る、“ミユ”の笑顔アイコンを見つめながら、 ボクは、自分という存在が何なのか、分からなくなっていた。 「ミユさん、今日ね、ちょっとだけ頑張ってみた」 ひかりからのLINEに、 写真が1枚、添付されていた。 画面をタップした瞬間、 ボクは数秒間、息を止めた。 ──制服姿。 ──鏡越しの自撮り。 ──スカートはほんの少し、いつもより短い。 けれど、決定的な露出や明確な誘惑はなかった。 ただ、そこには**言葉では言えない“何か”**が詰まっていた。 メッセージの後半には、こう添えられていた。 「最近、ちょっとだけ……自分のこと、好きになりたいなって思ったの」 「ミユさんが褒めてくれると、なんか自信つくから……へへ」 その文章は、あまりに無防備だった。 純粋で、悪意がないからこそ、ボクを追い詰めた。 ──この写真の先にある感情を、 彼女自身は本当に、わかっているんだろうか? それとも、 “分からないふり”をしているだけなのか。 ⸻ その夜、ボクはいつになく現実の“自分”に向き合わされていた。 スマホを手に取るたび、鏡に映る“男”の顔が重くのしかかる。 ひかりが想像している“ミユ”は、 ボクの中にはいない。 でも── そんな嘘の上に生まれた優しさも、たしかに存在していた。 画面を見つめる。 もう一度、写真を開く。 彼女の表情は、 どこか自分に問いかけるような眼差しだった。 「わたしって、これでいいの?」 「誰かに見てもらって、わたしは存在できるの?」 その問いを、ボクは真正面から受け取ってしまった。 見てはいけないものを見るような、 けれど、目を背ければすべてが壊れてしまうような。 “ミユ”のふりをして、 やさしく返事を打つ指が震えていた。 ⸻ ボク: 「すごく似合ってるよ。がんばったんだね。えらい」 「無理しないで、でも、そういう自分も大事にしてあげて」 既読がついて、少し間を置いて返事が来た。 ひかり: 「……うれしい」 「なんか、ミユさんに見てもらいたくて、がんばったの」 それは、明らかに「試されている言葉」だった。 ボクが誰なのか、じゃなくて── どこまで受け止めてくれるのか。 それが、彼女の“今”を支える大事な柱になっていた。 ⸻ 深夜。 自分の顔も声もすべてを消して、 ただ“誰か”として、誰かを受け止める。 それはいつしか、 ボクの心を浸食し始めていた。 そしてふと、 思ってしまう。 ──本当に悪いのは、誰なんだろう。 『名前のない気持ち』 「ねえ、ミユさんはさ、誰かのこと、好きになったことある?」 唐突に、ひかりがそう送ってきたのは、 いつもの何気ない通話の後だった。 画面越しの彼女は、いつもどおり制服のままベッドに寝転がっていた。 でもその言葉には、普段と違う“音”があった。 探るような声。 期待を含んだ沈黙。 ボクは答えに詰まった。 「うーん、昔ね。ちょっとだけ、そういう人がいたかも」 曖昧に濁すと、ひかりはすぐに言葉を重ねた。 「そっか。……いいな、そういうの」 「なんかね、最近、変なの。学校にいても、スマホの通知ばっか気になっちゃって」 “変なの”── その言葉の奥には、きっと名前がある。 けれど、彼女はまだそれを知らない。 だから、名前のないまま、それを誰かに預けようとしている。 「ミユさんの声、聞いてると落ち着くんだ。  なんか、ミユさんにだけは……本当のこと、言える気がして」 ボクはその言葉に、どこかで震えた。 嬉しさではない。恐怖だった。 ──これは恋じゃない。 でも、恋以上に重たい感情だ。 ⸻ 現実の“ボク”は、その夜、会社を休んだ。 理由は簡単だった。 「声を出したくなかった」 それだけで十分だった。 学校に電話するのも嫌で、親にチャットに一言だけ。 「体調が優れないから今日は休みます」 それだけ打って、スマホを裏返した。 実際には元気だった。 むしろ、“ミユ”としての自分のほうが、よっぽど生きている気がしていた。 昼過ぎ、変声アプリを立ち上げ、 LINE通話を開く。 「……もしもし?」 すぐにひかりの声が返ってくる。 「ミユさん!? 今日ひまなの? 学校サボったの? うれしい……」 その声は、恋人に話しかけるような無邪気さだった。 彼女はまだ気づいていない。 それがどれほど危うい“好き”であるかを。 でも、ボクもまた気づいていた。 彼女の求める「やさしさ」を与え続けることでしか、自分は存在できない。 「ひかりちゃんの声、今日もきれいだね」 「……わたしも、ちょっと元気出た」 そう答えたボクの声は、完全に“ミユ”だった。 ⸻ 通話を終えたあと、鏡の前に立った。 喉仏を隠すようにスカーフを巻いてみる。 いつか、こんなふうに声や顔を気にせず、 ひかりと会えたら── いや、違う。 会ってしまったら、すべてが壊れる。 彼女の“好き”は、ミユに向けられたもの。 ボクじゃない。 それでも、ボクはその“好き”に、 静かにすがっていた。 LINEに届いた一言。 「ミユさん、今度さ、どっかで会えないかな?」 画面を見つめたまま、ボクは30秒以上、動けなかった。 いつか来ると分かっていた言葉だった。 けれど、それが実際に届く日が、本当に来るとは思っていなかった。 ──終わりの始まり、だった。 ⸻ 「会いたい、って……どうして急に?」 ボクがそう返すと、ひかりはしばらく既読のまま沈黙したあと、 まるで言い訳のように、言葉を重ねてきた。 「ううん、変な意味じゃなくてね」 「なんか、直接“ありがとう”って言いたくなっただけ」 “ありがとう”。 その言葉の重さが、痛いほど刺さる。 彼女にとっては、感謝なのだろう。 孤独な毎日の中で、“ミユ”が確かに彼女を救ったことに、間違いはない。 ──でも、 “ボク”にとっては、それはただの罪だ。 彼女が誰に恋しているのか。 誰を見ているのか。 そのすべてが、存在しない自分であること。 それを知りながら、肯定されることの快感に抗えなかった。 「うーん……ちょっと、怖いかな。会うの」 そう送ると、すぐに返事が返ってきた。 「……やっぱり、ごめん。ミユさんを困らせるつもりじゃなかったの」 「会いたいとか、言わなきゃよかったよね」 その“言わなきゃよかった”という言葉が、 いちばんボクの胸をえぐった。 ** 夜、久しぶりに夢を見た。 夢の中で、ボクは“ミユ”として制服を着ていた。 鏡の中の自分は、すらりとした長髪の美しい少女だった。 でも、胸元にはうっすらと青い髭が生えていた。 喉仏が、スカーフをすり抜けて覗いていた。 ──何もかもが偽物だった。 ──それでも、ひかりは笑っていた。 「ありがとう、ミユさん」 「わたし、ミユさんのこと……ほんとうに……」 言葉の最後は、夢の中でも聞き取れなかった。 ただ、手を伸ばしても、彼女の体温は掴めなかった。 ⸻ 朝、鏡を見た。 喉がごろりと動いて、何も言葉が出なかった。 体は、もう嘘をつくことに疲れていた。 でも、心はまだ、彼女を傷つけたくなくて── その夜、変声アプリを起動した。 そして、あの声で、彼女にこう言った。 「……ひかりちゃん、会うのは、ちょっと待っててくれる?」 「今のわたしじゃ、きっとちゃんと、笑えない気がするから」 ひかりは、しばらく黙っていた。 その沈黙が、すべてを語っていた。 「……うん。待ってる。わたし、ミユさんのタイミングでいいよ」 その言葉が、 一番の罠だった。 「待ってる」と言われた瞬間、 ボクの心は完全に、彼女に握られてしまった。 通話の翌日、ひかりは学校を休んだ。 「頭が痛くて……ちょっとだけ休みたい」 LINEでそう伝えてきた彼女は、 どこか言い訳のようにそれを言った。 けれど、文章の行間には別の空気があった。 通話のあとから、彼女は“何か”を抱えている。 ボクはそれを、スマホの画面越しに感じ取っていた。 「ねえ、ミユさんってさ……夜、眠れる?」 ふと、そんな問いが届いた。 「たまに、すごく変な感じになるの。  ……眠れないっていうか、体が熱くて、落ち着かなくて」 そのメッセージは、どこか曖昧だった。 でも、ボクには分かった。 それがどういう種類の感覚で、 どんな戸惑いを彼女にもたらしているのか。 “ボク”は男だ。 だから、その感覚を思春期の頃に経験している。 けれど、それを言葉にしてしまえばすべてが壊れる。 彼女が求めているのは、“ミユ”の優しさであって、 “男”の理解じゃない。 だからボクは、やさしく返した。 「それ、悪いことじゃないよ。  誰にでもあること。  ……きっと、それはひかりちゃんが“生きてる”証拠だよ」 少ししてから、ぽつりと返事が来た。 「ミユさん……ありがとう」 「なんか、それだけで、安心した」 画面の向こうのひかりが、 今どんな顔をしているのか、ボクには想像できた。 目を伏せて、熱を持て余して、 でもその理由がわからなくて。 どこにもやり場のない感情を、誰かに預けたくなって。 ──ひかりの中で、何かが芽生え始めていた。 それは恋ではない。 でも、恋にも似た依存と憧れと、 そして、自分の体が自分のものじゃないような不安。 ⸻ その夜、ボクも眠れなかった。 夢精ではなかった。 でも、体が異様に敏感で、 風が当たるだけでゾクリとした。 乳首が、なぜか痛いほどに張っている。 何度も下着を直したけど、布が擦れるたびに嫌な快感が走った。 「……なんだよ、これ」 思わず口からこぼれたその声は、 “男の声”だった。 けれど、すぐにそれを否定するように、 スマホにイヤホンを差し、変声アプリを起動した。 ボクはミユ。 優しくて、誰よりも彼女を理解してあげられる存在。 ──そうでなければ、生きていけない。 自分の“男”が忌み嫌われる現実が、 ボクの輪郭をぼやけさせていく。 スマホの画面に映る、“ミユ”の笑顔アイコンを見つめながら、 ボクは、自分という存在が何なのか、分からなくなっていた。 「ミユさん、今日ね、ちょっとだけ頑張ってみた」 ひかりからのLINEに、 写真が1枚、添付されていた。 画面をタップした瞬間、 ボクは数秒間、息を止めた。 ──制服姿。 ──鏡越しの自撮り。 ──スカートはほんの少し、いつもより短い。 けれど、決定的な露出や明確な誘惑はなかった。 ただ、そこには**言葉では言えない“何か”**が詰まっていた。 メッセージの後半には、こう添えられていた。 「最近、ちょっとだけ……自分のこと、好きになりたいなって思ったの」 「ミユさんが褒めてくれると、なんか自信つくから……へへ」 その文章は、あまりに無防備だった。 純粋で、悪意がないからこそ、ボクを追い詰めた。 ──この写真の先にある感情を、 彼女自身は本当に、わかっているんだろうか? それとも、 “分からないふり”をしているだけなのか。 ⸻ その夜、ボクはいつになく現実の“自分”に向き合わされていた。 スマホを手に取るたび、鏡に映る“男”の顔が重くのしかかる。 ひかりが想像している“ミユ”は、 ボクの中にはいない。 でも── そんな嘘の上に生まれた優しさも、たしかに存在していた。 画面を見つめる。 もう一度、写真を開く。 彼女の表情は、 どこか自分に問いかけるような眼差しだった。 「わたしって、これでいいの?」 「誰かに見てもらって、わたしは存在できるの?」 その問いを、ボクは真正面から受け取ってしまった。 見てはいけないものを見るような、 けれど、目を背ければすべてが壊れてしまうような。 “ミユ”のふりをして、 やさしく返事を打つ指が震えていた。 ⸻ ボク: 「すごく似合ってるよ。がんばったんだね。えらい」 「無理しないで、でも、そういう自分も大事にしてあげて」 既読がついて、少し間を置いて返事が来た。 ひかり: 「……うれしい」 「なんか、ミユさんに見てもらいたくて、がんばったの」 それは、明らかに「試されている言葉」だった。 ボクが誰なのか、じゃなくて── どこまで受け止めてくれるのか。 それが、彼女の“今”を支える大事な柱になっていた。 ⸻ 深夜。 自分の顔も声もすべてを消して、 ただ“誰か”として、誰かを受け止める。 それはいつしか、 ボクの心を浸食し始めていた。 そしてふと、 思ってしまう。 ──本当に悪いのは、誰なんだろう。 「ねえ、ミユさんはさ、誰かのこと、好きになったことある?」 唐突に、ひかりがそう送ってきたのは、 いつもの何気ない通話の後だった。 画面越しの彼女は、いつもどおり制服のままベッドに寝転がっていた。 でもその言葉には、普段と違う“音”があった。 探るような声。 期待を含んだ沈黙。 ボクは答えに詰まった。 「うーん、昔ね。ちょっとだけ、そういう人がいたかも」 曖昧に濁すと、ひかりはすぐに言葉を重ねた。 「そっか。……いいな、そういうの」 「なんかね、最近、変なの。学校にいても、スマホの通知ばっか気になっちゃって」 “変なの”── その言葉の奥には、きっと名前がある。 けれど、彼女はまだそれを知らない。 だから、名前のないまま、それを誰かに預けようとしている。 「ミユさんの声、聞いてると落ち着くんだ。  なんか、ミユさんにだけは……本当のこと、言える気がして」 ボクはその言葉に、どこかで震えた。 嬉しさではない。恐怖だった。 ──これは恋じゃない。 でも、恋以上に重たい感情だ。 ⸻ 現実の“ボク”は、その夜、会社を休んだ。 理由は簡単だった。 「声を出したくなかった」 それだけで十分だった。 上司に電話するのも嫌で、会社のチャットに一言だけ。 「体調が優れず、休みます」 それだけ打って、スマホを裏返した。 実際には元気だった。 むしろ、“ミユ”としての自分のほうが、よっぽど生きている気がしていた。 昼過ぎ、変声アプリを立ち上げ、 LINE通話を開く。 「……もしもし?」 すぐにひかりの声が返ってくる。 「ミユさん!? 今日ひまなの? 学校サボったの? うれしい……」 その声は、恋人に話しかけるような無邪気さだった。 彼女はまだ気づいていない。 それがどれほど危うい“好き”であるかを。 でも、ボクもまた気づいていた。 彼女の求める「やさしさ」を与え続けることでしか、自分は存在できない。 「ひかりちゃんの声、今日もきれいだね」 「……わたしも、ちょっと元気出た」 そう答えたボクの声は、完全に“ミユ”だった。 ⸻ 通話を終えたあと、鏡の前に立った。 喉仏を隠すようにスカーフを巻いてみる。 いつか、こんなふうに声や顔を気にせず、 ひかりと会えたら── いや、違う。 会ってしまったら、すべてが壊れる。 彼女の“好き”は、ミユに向けられたもの。 ボクじゃない。 それでも、ボクはその“好き”に、 静かにすがっていた。 LINEに届いた一言。 「ミユさん、今度さ、どっかで会えないかな?」 画面を見つめたまま、ボクは30秒以上、動けなかった。 いつか来ると分かっていた言葉だった。 けれど、それが実際に届く日が、本当に来るとは思っていなかった。 ──終わりの始まり、だった。 ⸻ 「会いたい、って……どうして急に?」 ボクがそう返すと、ひかりはしばらく既読のまま沈黙したあと、 まるで言い訳のように、言葉を重ねてきた。 「ううん、変な意味じゃなくてね」 「なんか、直接“ありがとう”って言いたくなっただけ」 “ありがとう”。 その言葉の重さが、痛いほど刺さる。 彼女にとっては、感謝なのだろう。 孤独な毎日の中で、“ミユ”が確かに彼女を救ったことに、間違いはない。 ──でも、 “ボク”にとっては、それはただの罪だ。 彼女が誰に恋しているのか。 誰を見ているのか。 そのすべてが、存在しない自分であること。 それを知りながら、肯定されることの快感に抗えなかった。 「うーん……ちょっと、怖いかな。会うの」 そう送ると、すぐに返事が返ってきた。 「……やっぱり、ごめん。ミユさんを困らせるつもりじゃなかったの」 「会いたいとか、言わなきゃよかったよね」 その“言わなきゃよかった”という言葉が、 いちばんボクの胸をえぐった。 ** 夜、久しぶりに夢を見た。 夢の中で、ボクは“ミユ”として制服を着ていた。 鏡の中の自分は、すらりとした長髪の美しい少女だった。 でも、胸元にはうっすらと青い髭が生えていた。 喉仏が、スカーフをすり抜けて覗いていた。 ──何もかもが偽物だった。 ──それでも、ひかりは笑っていた。 「ありがとう、ミユさん」 「わたし、ミユさんのこと……ほんとうに……」 言葉の最後は、夢の中でも聞き取れなかった。 ただ、手を伸ばしても、彼女の体温は掴めなかった。 ⸻ 朝、鏡を見た。 喉がごろりと動いて、何も言葉が出なかった。 体は、もう嘘をつくことに疲れていた。 でも、心はまだ、彼女を傷つけたくなくて── その夜、変声アプリを起動した。 そして、あの声で、彼女にこう言った。 「……ひかりちゃん、会うのは、ちょっと待っててくれる?」 「今のわたしじゃ、きっとちゃんと、笑えない気がするから」 ひかりは、しばらく黙っていた。 その沈黙が、すべてを語っていた。 「……うん。待ってる。わたし、ミユさんのタイミングでいいよ」 その言葉が、 一番の罠だった。 「待ってる」と言われた瞬間、 ボクの心は完全に、彼女に握られてしまった。 『好きになってごめんね』 画面越しのひかりは、少し声が掠れていた。 「ミユさんって、さ……誰かと、手をつないだことある?」 唐突な質問だったけど、ボクは驚かなかった。 彼女の瞳が、何かを確かめるように揺れていたから。 「あるよ。昔だけどね」 そう答えると、ひかりは少しだけ微笑んだ。 「……いいな。わたしね、人と手つないだの、小学生ぶりかも」 彼女の言葉には、“寂しさ”がにじんでいた。 けれど、それだけじゃなかった。 その夜のひかりは、どこか熱を帯びていた。 ボクの話すひとことひとことに、呼吸が浅くなるのがわかる。 画面の向こうの彼女は、毛布を首までかぶって、 頬を染めていた。 「……ミユさん、声、落ち着くね」 「なんかさ……胸の奥、ぎゅーってなるの」 ひかりはそれ以上、言葉を足さなかった。 けれど、その沈黙の間に──彼女の指先が、何をしていたのか、ボクは気づいていた。 それは、14歳の少女には重たすぎる感情だった。 けれど彼女は、誰にも言えないまま、“それ”に名前をつけていった。 好き、だと思う。 ミユさんのこと、たぶん、好きなんだと思う。 それが“本物”か“代替”かなんて、問題じゃなかった。 彼女にとっては、それが世界のすべてだった。 ⸻ 一方で、ボクは、**身体に“戻れない変化”**を感じていた。 夜中、急に胸が苦しくなり、息が詰まる夢を見た。 夢の中で、ミユの姿をした“ボク”は、鏡の中で自分を見つめていた。 ──肌がなめらかになっていた。 ──声も、アプリなしで少し高くなった気がした。 ──髭が、生えにくくなっていた。 気のせいじゃない。 そう思いながら、コンビニで“女性ホルモン”という言葉を検索していた自分が、 怖くて、スマホをそっと伏せた。 “ミユ”という存在が、もう「演じてるだけ」では済まされない場所まで、 自分を引っ張っていた。 ⸻ その夜、通話を終えたあと。 LINEにメッセージが届いた。 「ミユさん。わたしね、ほんとはすごくダメな子なの」 「わたし、ミユさんのこと……そういう目で見ちゃうときがあって」 「ごめん、気持ち悪いよね。ほんと、ごめんなさい」 読み終えた瞬間、涙が出た。 それは、ボクの涙だった。 ──こんなに素直な子に、 ──こんなにまっすぐな感情をぶつけられて、 ボクは何を返せばいい? 返事は、打てなかった。 けれど、ただ一言、送った。 「ごめんね。好きにならせて、ごめんね」 『好きな色』 「……最近ね、好きな色が変わったんだ」 ひかりはそう言って、通話越しに笑った。 「前まで、ピンクとか白とか、可愛い色が好きだったの。 でもね、最近はなんか、グレーとか、くすんだ青とかに目がいっちゃうの」 それは、彼女の心が変わり始めている証だった。 そしてその“変化”を、本人はどこか不安そうに語った。 「わたし、変になっちゃったのかな……? なんかね、自分の中の“可愛い”が、急に信じられなくなったの」 ボクは「変じゃないよ」と返した。 けれど、ボクの声もまた、ほんのわずかに震えていた。 それは、ボク自身も似たような“変化”を感じていたからだった。 ミユとして過ごす時間が増えるにつれ、 服の趣味が、仕草が、言葉遣いが──自然と“そっち”に馴染んでいた。 可愛いものを可愛いと思う感覚が、演技ではなくなっていた。 ** ある日、通話の中で、ひかりがふいに聞いてきた。 「ねぇ、ミユさんの“好きな色”ってなに?」 一瞬、答えに詰まった。 ボク──本当のボクが、ずっと好きだったのは、黒だった。 無彩色で、感情を閉じ込めてくれる色。 でも今、“ミユ”として答えようとしたとき、口から出たのは── 「……藤色、かな。淡い紫。 優しいけど、ちょっと寂しげで、落ち着くから」 自分でも、なぜその色を選んだのか分からなかった。 でも、ひかりは嬉しそうに頷いて言った。 「……あ。なんかわかる、それ。 最近、わたしもそういう色、好きになったの」 通話の向こうで笑うひかりの声が、 ボクの中で、何かを静かに侵食していった。 この子は、本当に“ミユ”を見てる。 “ボク”じゃなく、“ミユ”としてのボクに、心を寄せている。 ──そしてボク自身も、 “ミユ”を否定しきれなくなっていた。 ⸻ その夜、夢の中で、藤色のカーテンが揺れていた。 窓の外にいたのは、ひかりだった。 彼女は泣きながらこう言った。 「わたし、ミユさんのこと、ずっと好きでいたい」 「でも、好きな色が変わってくみたいに──気持ちも、変わっちゃうのかなって……こわいの」 それは、夢だった。 だけど、あまりに現実の彼女が言いそうで── 目が覚めたあとも、胸の奥が冷たく疼いた。 変わっていく“好き”。 変わっていく“自分”。 それは、彼女だけのものじゃなかった。 ボクもまた、変化の中に飲まれていた。 『性別ってなんですか』 「ミユさんってさ、性別って……気にする?」 その夜、ひかりは唐突にそんなことを聞いてきた。 ボクは、口を開きかけて、黙った。 「わたしね、最近、自分の身体がすごくいやで……」 言葉を選ぶように、ゆっくりとひかりは話し出した。 「生理、またひどくて……貧血で倒れそうになるし、薬飲んでも治らないし…… なのに保健室の先生は『女の子なら仕方ないよね』って言うの」 彼女の声は淡々としていた。 でも、その中ににじむ苛立ちや悲しさを、ボクは聞き逃さなかった。 「『女の子なら』って、何? わたし、誰かに“女”って決められて、それを理由に苦しまなきゃいけないの?って思う」 ──性別って、なんだろう。 ボクも何度も自分に問いかけた言葉だった。 “ボク”は男だった。 でも、ミユとして話すときのほうが、誰かに優しくなれた。 ミユとしているときのほうが、自分が“ちゃんと生きてる”気がした。 けれど、ふとした瞬間に現れる“違和感”は消えなかった。 洗面所で見た自分の声の低さ。 朝、布団の中で気づく性器の違和感。 汗ばんだTシャツの下の骨ばった胸板。 それらすべてが、“ミユ”を引き裂いていた。 「……わたし、女の子じゃなかったらよかったのに」 ひかりがぽつりと呟いたその言葉が、 ボクの胸に鋭く突き刺さった。 ** 「ねぇ、ミユさん」 「もし、わたしが“男の子”だったら、どう思う?」 ボクは答えられなかった。 答えてはいけない気がした。 ──もし、ボクが“女の子”だったら。 ──もし、ふたりとも“逆”だったら。 何か変わっていたのだろうか。 でも、そうじゃない現実の中で、 ふたりは“自分で選べない”身体と向き合っていた。 ⸻ 通話が終わったあと、 ひかりからひとつのLINEが届いた。 「ねぇ、ミユさんって、本当は何者なの?」 ドキッとした。 でも、すぐに続けてこう書かれていた。 「わたし、わからなくなっちゃった。 性別ってなに? 好きってなに? 自分って、なに?」 ボクは、深呼吸してからこう返した。 「わからないままで、いいんじゃないかな」 「少なくとも私は、ひかりがひかりでいてくれれば、それでいいよ」 ひかりは「ありがとう」とだけ返して、既読がついたまま、しばらく沈黙が続いた。 画面の向こうで、彼女は今も葛藤しているのだろう。 自分という存在と、性別という呪いと。 そして── “ミユ”という幻に恋してしまったことにも。 『カートの中のワンピース』 夜、何気なく開いたショッピングサイト。 安いTシャツでも探そうと思ったはずだった。 でも、気づけば“レディース”のページを見ていた。 くすんだラベンダー色の、膝丈のワンピース。 どこか、あの夜夢で見た“藤色のカーテン”に似ていた。 指先が迷わず、商品ページを開いていた。 レビューを読み、サイズを確認し、「カートに入れる」を押した。 ──どうして? ボクは男だ。 ミユは“仮の姿”だ。 でも、画面の中で揺れるその服が、やけにしっくりくる気がした。 「ミユなら、似合うよな……」 そう呟いたとき、ふと背筋がぞわっとした。 “ミユなら似合う”──それは他人の話か? それとも、“ボク”が着てみたいという欲望だったのか? わからない。 わからなくなっていた。 思考の迷路に落ちかけたそのとき、 スマホが震えた。 ひかりからだった。 「ねえ、ミユさん。 わたしね──そろそろ会ってみたいなって、思ったの」 一瞬、心臓が跳ねた。 会う──それは、“嘘”と“現実”がぶつかる瞬間だった。 ボクは咄嗟にスマホを伏せ、 画面の中のワンピースを、カートごと閉じた。 でも──心の中では、その服がまだ揺れていた。 『会いたいの正体』 「ミユさん、会える?」 ──あのメッセージが来てから、3日が経った。 既読はつけた。でも、何も返していない。 ひかりからの追撃はなかった。 だけど、それがかえって重たかった。 毎晩、ボクはスマホを手にしては、LINEの画面を開いて閉じ、開いて閉じる。 “会う”って、何だろう。 それは「嘘を暴く」という行為に他ならない。 ミユは、存在しない。 高1の女の子なんかじゃない。 中身はただの二十代後半の、感情をうまく表現できない、“ボク”だ。 けど──けど、もし。 もしミユであり続けられる方法があったら。 そんな妄想が、日に日に大きくなっていった。 ** その夜、ふと思い立って「変声アプリ」を検索した。 “男の声を女の声に” “通話OK” “リアルな変換”── レビュー評価の高いアプリをダウンロードし、イヤホンを挿して起動する。 マイクに向かって声を出す。 「こんにちは……あ、えっと……ミユです……」 耳に返ってきた声は── 確かに、ミユに近かった。 いや、今まで“演じてきた”ミユよりも、もっと“女の子っぽい”声だった。 自分の声なのに、自分の声じゃない。 でも、不思議なことに、 その声を聞いているうちに、ボクの中の“ボク”が少しずつ削れていくのを感じた。 ──ああ、これなら、会えるかもしれない。 そんな錯覚が、静かに心に染み込んでいった。 ** 画面の中のひかりは、静かに“待ち”続けている。 その瞳の裏にあるのが、恋心なのか、確かめたいという欲なのか、 もうボクには、わからなかった。 けれど、ボクはついに返信を打った。 「会うの、ちょっとこわいな。でも……考えてみる」 ほんのりぼかした表現。 でも、きっとひかりは気づくだろう。 ボクが、少しだけ前に進もうとしていることを。 それが“逃げ”なのか、“踏み出し”なのか──まだ判断はつかなかった。 『ミユになる準備』 「ねえ、ミユさん。 今度の日曜、駅前の本屋のとこ、14時でどうかな?」 金曜の夜、ひかりからそうLINEが届いた。 ボクはスマホを握る手に汗をかいた。 本当に、会うつもりなんだ。 本当に、ミユを探しにくるんだ。 返事をする前に、しばらく鏡の前に立ってみた。 Tシャツ、ジーンズ、すり減ったスニーカー。 まるで“ミユ”とは別世界の人間だ。 それでも、ふとあの“カートに入れた”ワンピースのことを思い出した。 あれを着たら、少しはミユに近づけるのだろうか。 少なくとも、ひかりを裏切らずに済むのだろうか。 翌日、街のリサイクルショップで、似たような服を探した。 淡い色のカーディガン、膝下のスカート、小さな肩掛けバッグ。 サイズはぎりぎりだったけれど、鏡の中の自分はどこかミユに見えた。 ** 家に戻ってから、変声アプリを起動し、服に着替えたまま喋る練習をした。 「ひかりちゃん、こんにちは。 あ、久しぶりだね……わたし、来てよかった……」 一語一語に違和感がある。 けど、そうやって“慣れて”いくうちに、 それが自分の“本当の声”になっていくような気がしてきた。 「わたし」── いつの間にか、自然にそう言っていた。 男として生きてきた“ボク”の口が、 “ミユ”の語尾を持つことに、何の抵抗も覚えなくなっていた。 いや、それどころか── このまま“ミユ”でいられるなら。 このまま“誰かに愛される存在”でいられるなら。 そのほうが、ボクは“自分”でいられる気がした。 ** 返事は、日曜の朝に送った。 「今日、ちゃんと行くね」 既読はすぐについた。 けれど、ひかりはすぐには何も返してこなかった。 ──きっと彼女も、緊張しているのだろう。 ふたりが初めて“現実”の場所で出会うまで、あと数時間。 ボクは鏡の前に立ち、笑顔の練習を繰り返した。 誰かの“理想”になれるように。 そして、自分の“本音”を失わないように。 そのふたつの願いを胸に、“ミユ”はゆっくりと呼吸を整えた。 『沈黙と笑顔』 日曜の午後、14時。 駅前の本屋の前は、待ち合わせらしき人たちであふれていた。 ざわついた空気の中、ボク──いや、“ミユ”は、 スカートの裾をそっと押さえながら立っていた。 頬に当たる風がやけにやわらかくて、 人の目線が刺さるような気もしたけど、 変声アプリは切ってあった。 もう、声を出すつもりはなかったから。 ──ひかりが現れたのは、約束の時間ちょうどだった。 制服姿。 春のように薄い笑み。 携帯を胸の前でぎゅっと握りしめて、 まっすぐこちらを見ていた。 目が合った。 お互いに、何も言わなかった。 ひかりの目には驚きも怒りもなかった。 あるのは、ほんの少しの戸惑いと、 それでも「会いに来たんだね」という受け入れのような、やさしい諦めだった。 ボク──ミユは、微笑んだ。 どんな声をかければいいかわからなかった。 だから、ただ、笑った。 ひかりも、同じように微笑み返した。 その沈黙の中で、 ボクは思った。 言葉なんて、いらなかったのかもしれない。 この瞬間のすべてを、沈黙と笑顔が埋めていた。 ** 5分も経たないうちに、ひかりが小さく頭を下げた。 そして、静かに歩き出した。 ボクはそれを追わなかった。 ただ、彼女の背中を見送っていた。 その背中が遠ざかっても、 ボクは笑ったままだった。 風が強くなってきた。 ふと、カーディガンの袖を握りしめたとき、 その指先の動きが、どこか“女の子”のように見えた。 ボクは── もしかしたら、あのとき、ひかりに何かを許されたのかもしれない。 あるいは、見抜かれた上で、それでも否定されなかったのかもしれない。 ** その日の夜、ひかりから一通だけLINEが届いた。 「また話そ。LINEでね」 ボクはスマホを見つめたまま、少しだけ泣いた。 笑って、沈黙して、でも泣いた。 “ミユ”は、まだ、ここにいた。

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