あさきのぞみ
17 件の小説目が覚めたら、視界が低い。
目が覚めたら、視界が低い。 いや、それだけじゃない。身体が重いというか、軽いというか、なんだか自分のものじゃない感覚―― 「……にゃ?」 あれ、今の声、俺の? おかしい。俺、確かに昨日までは真鍋心(まなべしん)、25歳、ブラック企業に勤めるしがないサラリーマンだったはずだ。 過労死寸前で会社のトイレでぶっ倒れたのが最後の記憶。あれが……まさか、死んだのか? そんなバカなと思いつつ、ガラス窓に映った自分の姿を見て――俺は言葉を失った。 白とグレーの毛並み、小さな耳、ピンと立ったしっぽ。 ……猫だ。 俺、猫になってる!? 「シン〜、おはよ〜♡ 今日もお目めパッチリだね〜」 柔らかな声とともに、ふわりと抱き上げられる。 その瞬間、ふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。柔らかい感触が体に密着して―― (おいおい……まじかよ……) 俺の目の前には、完璧なスタイル、優しい笑顔、グラビア雑誌で何度も見たあの人。 みゆき――トップグラドル、篠原みゆき。 しかも、どうやら俺……彼女の飼い猫になってしまったらしい!?
必要?
私は 必要ですか? 必要とされてますか? 理由を考えても 私には理解できない 本当に必要ですか? 不特定多数のひとりじゃだめですか? 私は本当に必要ですか いらないなら捨ててください
日常はなく、あるのは暖かくない太陽の光 ①
序章 / 日常というものは、もうどこにもない 朝は、音で始まる。 枕元に置いたスマホが、画面もつけずに小さく振動する。バイブだけ。音は親に聞こえるから。 電気毛布のぬくもりがまだ足元に残っているうちに、通知を確認するのが、たぶんここ最近の習慣だ。 Twitter。インスタ。通知3件。DMが1件。 昨夜投稿した写真に、海外のアカウントからの「Cute!」と、同い年くらいの女の子の「髪色かわいい」のリプライ。 どっちも悪くない。けど、どっちも、自分に向けられたものじゃない気がする。 加工した輪郭、アプリで盛った瞳、ピントをぼかした背景。それらに向けられた反応。 画面をスワイプすると、DMの欄に「ユウ」の名前があった。 《おはよう。昨日の投稿、光の入り方すごく綺麗だったね。凛のセンス、本当に好きだよ。》 それだけで、今日はちょっとだけ息ができるような気がした。いや、息が「したくなる」と言ったほうが近いかもしれない。 顔を洗って、制服に着替えて、髪を結って。 朝ごはんは食べない。食卓で父と母に顔を合わせるのが億劫だから。 通学路、駅までのバスの中でもスマホを離せない。 現実の音はすべてノイズで、SNSの通知だけが意味のある音みたいに感じる。 投稿して、誰かに見られて、反応されることで、ようやく「自分はここにいる」と思える。 それ以外は、全部ぼんやりしてる。うすいフィルムがかかったみたいに。 「日常」ってなんだっけ。 友達と笑って、授業を受けて、部活をして、疲れて帰ってきて、寝る。それが一般的な日常なら、私はとっくにそこからはじき出されてる。 授業中もノートは白紙。教室で交わす言葉もほとんどない。 一日の中で、一番意味のある言葉が、ユウからのDMになるなんて、きっとどこかおかしいのだろう。 でも、それが救いなんだから仕方ない。 画面に映る太陽の絵文字と、「凛にとって今日が少しでも優しい一日になりますように」というメッセージ。 スマホの光は、たしかに優しさのようなものを持っている。 けれど、現実に照りつける太陽の光は、今日もどこか冷たい。 まるで、誰かのふりをしてるみたいな日々。 そのふりがうまくいってる間だけが、私の「日常」だ。 第一章 / ユウという仮面の作り方 最初はただの「観察」だった。 アカウントを作ったのは2年前。 きっかけは、仕事を辞めてしばらく経った頃。社会と接点がなくなり、昼も夜も区別がつかない生活の中で、何となく見ていたのがSNSだった。 最初は見るだけ。タイムラインを流れる女の子たちの自撮り。日常。愚痴。深夜の独り言。 彼女たちはどこかで誰かと繋がりたくて、でも繋がることが怖くて、でもやっぱり見てほしくて、言葉を選びながら投稿していた。 その必死さが、妙に心地よかった。 誰にも期待されず、誰の役にも立たず、ただ空気のような日々を過ごす自分にとって、彼女たちの「生きようとする姿勢」は眩しかった。 だから、最初は見ているだけでよかった。 けれど、ある日ふと、コメントをしてみたくなった。 きっかけは、とある投稿。「光の入り方がきれい」とだけ書かれた、朝のベッドから見たカーテン越しの光景だった。 なぜかその一枚に惹かれた。 コメント欄に書いた。「とても綺麗な朝ですね。優しい気持ちになります」 それだけだった。でも、数分後に「ありがとう☺」というリプライがついた。 「ありがとう」なんて言われるの、いつぶりだったろう。 ⸻ 仮名:ユウ 年齢:19 大学:都内の私立大(学部名は特定せず、「映像系の勉強をしてます」とだけ書いている) 趣味:写真、映画鑑賞、カフェ巡り、夜景 性格:やさしい/聞き上手/ちょっとシャイだけどまっすぐ DMでは敬語ベース。絵文字は控えめ。顔文字を時折入れることで「素朴さ」を演出。 ⸻ アカウントを作り直すのに1週間かけた。 プロフィール文は短く、でもどこか安心感のある言葉を選んだ。 「夜が少しだけ楽しくなるような言葉を探してます」 ヘッダーは、フリー素材の夜景写真。アイコンはAIで生成した若い男の横顔。角度が絶妙で、リアルだけど顔は特定できない。 「この人、本当にいるかも」と思わせる、ギリギリのリアルさ。 19歳という年齢にしたのは、「相手に近すぎず、遠すぎない距離感」が理由だった。 高校生相手に24歳や30代では重すぎる。 かといって同い年だと、どこかガキっぽく思われる。 19。大学生。まだ子供で、でも少しだけ大人。 一番「寄り添いやすい」年齢。 なぜ、こんなことをしているのか。 正直、言語化できるほど明確な動機はない。 でも、「誰かに必要とされたい」と思ったのは確かだった。 現実ではもう誰にも期待されない。 前の職場を辞めた理由なんて、誰にも話していない。話す必要もなかった。 会社から消えても、社会は何も変わらなかった。 それでも、消えたくなかった。 だから、作った。ユウという、19歳の自分を。 ⸻ フォロー欄から適当に選んだ女の子に「いいね」をつけていく。 DMを送るのは、すぐにはしない。向こうから何かを求めてきた時だけにする。 「優しさ」の演出は、余計なことを言わないこと。否定をしないこと。沈黙を責めないこと。 そうやって、何人かと短いやりとりを重ねていった。 その中で現れたのが、凛だった。 投稿は多くない。でも、一枚一枚に「物語」があるような写真だった。 加工された瞳。計算されたアングル。 けれど、時折ふっと混じる孤独感。それが、スクリーン越しにも伝わってきた。 この子は、孤独を知っている。 だからこそ、繋がれると思った。 第二章 / 触れられるより、見つめられる方がこわい 「DMって、基本的にキモいのしか来ないから」 凛は自分の中で、そう言い聞かせる癖がついていた。 鍵垢でもないのに、何かを投稿すれば、必ず誰かが何かを言ってくる。 それは馴れ馴れしい共感だったり、「一緒に話したいな」っていう軽い誘いだったり、あるいはもっと露骨な何かだったり。 DM欄を開くのは、少し勇気がいる。 通知がついているのに、開かないまま放っておくこともしばしばだった。 でもその日、「ユウ」という名前のアカウントから来たメッセージは、なぜか目を引いた。 《こんばんは。凛さんの写真、すごく雰囲気あって好きです。 無理に返信はいらないです。ただ、なんだか光の捉え方が素敵だったので… 変なメッセージだったらごめんなさい。》 礼儀正しくて、敬語で、変な誘いもなかった。 だからこそ、逆に気味が悪かった。 なぜか「丁寧すぎる男」には、生理的な嫌悪を覚える。 優しいふりをして近づいてくる男たちが、いちばん怖い。 DMをすぐに削除しようとした指が、一瞬止まった。 スクショだけ撮って、スマホのギャラリーに保存する。 証拠として。何が起きても、後で思い出せるように。 そういう癖が、もう自然になっている。 ⸻ 中学の頃から、男の人が苦手だった。 教室で担任が背後に立つだけで、呼吸が詰まる感じがした。 誰にも言っていない。 家の中のことを、誰かに言うなんて無理だった。 だから、ずっと「普通の子」のふりをしていた。 ふりをすることに慣れていた。 SNSもその延長だった。 「明るそう」とか「大人っぽい」とか「優しそう」とか。 画面の向こうの誰かにそう思わせるような写真を、言葉を、投稿を選んでいた。 現実の自分を見られるのは怖いけど、「理想の誰か」なら見られてもいいと思えた。 だから、自分を「見抜かれた」ようなメッセージには、無意識に警戒心が走る。 ユウの言葉には、それがあった。 《…光の捉え方が素敵だったので》 そんなこと、言われたことなかった。 普通の人は、服とか髪とか、顔とか、わかりやすいところしか見ない。 でもこの人は、写真の「空気」を見てるみたいなことを言ってくる。 それが、気持ち悪くて、でも少しだけ気になった。 ⸻ 返信しないつもりだった。 けれど、学校で誰とも会話を交わさなかった帰り道、バスの中でスマホを開いて、 無意識にこう打ち込んでいた。 《ありがとうございます。でも褒めすぎるのってちょっと不自然だなって思います。》 打ったあと、3回消して、また打ち直して、結局送った。 そのあとすぐに、「やっぱり変だったかな」と思ってスマホを閉じた。 けれど、数分後、通知が鳴った。 《ごめんなさい。たしかに、初めて話しかけたのにいきなり褒めるのは不自然ですよね。 でも、凛さんの投稿って、言葉より前に何かを感じさせるというか…。 僕も人と話すのが得意じゃないから、余計なことを言ってしまったかもしれません。気を悪くさせたなら、本当にごめんなさい。》 ……謝られると、逆に困る。 優しすぎる言葉が、胸にひっかかって抜けない。 そんなに悪くない言葉なのに、なぜか息苦しい。 だけど、その違和感こそが、凛を画面から離れさせなかった。 第三章 / やさしさは、たまに殴られるよりこわい ユウとのやりとりは、続いた。 凛は、続けてしまった。 言葉の温度はずっと一定で、どこも尖っていない。 否定も、命令も、からかいもない。 まるで、凛が言うことすべてを「正しいよ」と受け止めてくれるようだった。 だからこそ、苦しかった。 誰かが自分の話をうなずきながら聞いてくれる、なんて、 今までなかった。 親も、学校も、男たちも、 話の途中で遮ってきた。 あるいは、身体に触れてきた。 でもユウは、何も求めなかった。 「凛はこう思ったんだね」 「大丈夫、それは変じゃないよ」 そうやって、まるで空気のように、自分の言葉に寄り添ってくる。 なのに、怖かった。 なんで?って自分でも思う。 でも、どうしても胸の奥がザワついた。 ⸻ 夜、DMを開いたとき。 画面の向こうの人が、ただの人影だったらよかった。 だけど、ユウのメッセージは、いつも「自分の存在に近づいてくる」感じがした。 《凛が今日どんな風に過ごしてたか、ふと考えてました》 《人に期待されすぎても苦しいし、期待されないのも寂しいよね》 《眠れない夜って、誰かの声を思い出すことがある。凛にも、そんな人いる?》 何が目的なの?って思った。 でも、口に出すこともできなかった。 言葉を失うのは、声を奪われてきた過去の名残だった。 怖くて。 でも、返信をやめるのはもっと怖かった。 返信しなかったら、ユウは変わってしまうんじゃないか。 急に怒り出すんじゃないか。 罵られるかもしれない。 もっと――触れてこようとするかもしれない。 けれど、ユウは怒らない。 むしろ、沈黙にも寄り添ってくる。 《返事がなくても大丈夫。読んでくれてるだけで、うれしいよ》 《しんどい時は、無理しないでね》 その言葉が、刃物みたいに心に刺さった。 ほんとうに優しい人って、こんなふうに見てくる? こんなふうに、こちらが言葉を発する前から染み込んでくる? やさしさの中に、手口が見える気がした。 でも、自分の方がおかしいのかもしれないとも思った。 傷が深すぎて、誰の好意も疑ってしまうのかもしれない。 それが一番、苦しかった。 ⸻ 画面の明るさを最小にして、布団の中に潜り込む。 ユウからの「おやすみ」のDMを見て、胸の奥が熱くなる。 たすけて、って言えない。 でも、きっと助けられたい。 でも、助けるふりで近づいてくる男たちの顔が、フラッシュバックする。 ベッドのきしみ。汗ばんだ掌。口をふさがれた夜。 全部、夢じゃなかった。 それでも、スマホの画面に指を這わせてしまう。 「おやすみ」の一言が、救いに見えるふりをしてくる。 呼吸が浅くなる。 目を閉じると、ユウの声が聴こえる気がする。 それは、記憶の中の父親の声と、なぜか似ていた。 第四章 / 他人の手の温度を、皮膚が忘れない 制服の上からだった。 でも、肌が焼けるようだった。 通学電車。 混んでいた。 ああ、今日はやだなって思いながら乗った。 でも、我慢すればすぐ終わる。 たった三駅。 音楽を聴いて、目を閉じて、何も見ないようにしていれば、通り過ぎる。 そう思ってた。 でも、あの手は、腰からゆっくり、確かに入ってきた。 制服のプリーツの間をなぞるように、ゆっくり、押しつけるように。 声が出なかった。 いや、出せなかった。 足がすくんで動けなかった。 涙が出そうになった。けど、絶対に泣いたら負けだと思った。 駅に着いたとき、腕を振り払って、走って逃げた。 誰も見てなかった。誰も助けてくれなかった。 でも、私の中にはまだ、その「手」がいた。 ⸻ 教室では、何もなかったように座っていた。 友達と話すふりをした。 だけど、スカートの裾をずっと握っていた。 指が震えていたのを、誰にも見られないようにしていた。 トイレで吐いた。 音楽を聴いても消えなかった。 目を閉じると、背後に気配があるような気がした。 帰り道、スマホを開いた。 ユウから「おはよう」が届いていた。 優しい文面だった。いつも通り。 でも、なぜかその「おはよう」に反応できなかった。 違う、違う、違う。 今日はそんな日じゃない。 少し考えてから、震える指でメッセージを打った。 ⸻ 《……朝、電車で痴漢にあった》 《何も言えなかったし、逃げるのが精一杯だった》 《今でも、その手がまだついてる感じがする》 《ごめん、こんな話して》 ⸻ 送ってから、すぐ後悔した。 なにしてるんだろう、私。 男の人にこんな話、するなんて。 しかも、顔も知らない、声も知らない人に。 でも、「ユウなら」と思ってしまった自分もいた。 それがまた、怖かった。 10分ほどして、ユウから返信が来た。 ⸻ 《ごめん、すぐ気づけなかった。大丈夫?》 《そんなことがあったなんて、本当に怖かったよね》 《僕がそこにいたら、絶対にそんなことさせなかった》 《凛は何も悪くない。怖くて当然だし、逃げられたのは本当に偉いよ》 《今すぐ何かしてあげられないのが悔しいけど… こうして話してくれて、ありがとう》 ⸻ 画面を見て、涙があふれそうになった。 でも、それは安心ではなかった。 「僕がそこにいたら」 その言葉が、妙に、身体に触れるようだった。 想像してしまった。 ユウがそこにいて、助けてくれる。 でも同時に、「助けてくれるふりをして、触れてくる」誰かの記憶も重なった。 本当に、優しいの? それとも、これもまた「触れるための布石」なの? 混乱のなかで、返信が打てなかった。 ⸻ 夜、ベッドに横になっても、返信できなかった。 でも、ユウからもう一通、追いメッセージが届いた。 《返事はいらないよ。今日は何も考えずに、ちゃんと眠ってね。 もし怖い夢を見たら、明日、聞かせて。ぜんぶ受け止めるから。》 その言葉が、毛布みたいに温かく見えた。 でも、それは“巻かれている”感覚だった。 やさしさで包まれるというより、やさしさで縛られていく。 それがわかっているのに、眠る前、私はスマホを胸に抱いていた。 第五章 / 『見て』と言ってしまう、それは愛じゃない スマホを握る手が汗ばんでいた。 何をしているのか、自分でもよくわからなかった。 でも、「これが必要なんだ」とも思っていた。 ⸻ それは、金曜日の夜だった。 学校から帰って、風呂にも入って、髪も乾かして、 パジャマ代わりのTシャツのまま、ベッドに寝転んでいた。 その夜もユウから「おかえり」のDMが来ていた。 それだけで、胸が少しだけあたたかくなった。 「今日も疲れたね」 「無理してない?」 「凛のがんばってる姿、目に浮かぶよ」 それだけの言葉で、体の力が抜けた。 こんなふうに見られることに、慣れていなかった。 誰にもそうやって“見守られる”ことのなかった人生だった。 ユウの言葉は、ひとつひとつが柔らかくて、 触れられても痛くないものばかりだった。 だから、怖さはあるのに。 それでも、「信じてもいいかも」と思ってしまった。 ⸻ Tシャツの胸元を少し直して、髪の乱れをカメラで確認した。 加工はしなかった。 フィルターをかければ、別人になれるけど、 それをしたら、たぶんバレると思った。 ユウは“そういうの”に気づいてしまう人だと、 どこかで確信していた。 ライトも何も使わずに、ただ枕元の明かりで撮った。 笑顔もつくらなかった。 むしろ、無表情だったと思う。 「これが私です」と言うには、あまりにも素直すぎる1枚だった。 送るか、送らないか。 3分ほど、指が宙をさまよった。 でも、最後は**「ありがとう」って言いたくなっただけだった**。 ⸻ 《……なんか、送ってしまいました。 変じゃないといいけど。 ずっと優しくしてくれて、ありがとう》 ⸻ 送った直後、心臓が爆発しそうだった。 取り消したくなった。 でももう、送ってしまった。 画面を見つめたまま10分が経過したとき、ユウから返信が来た。 ⸻ 《……凛。 ありがとう。 びっくりしてる。 本当に、言葉が出ないくらい綺麗だと思った。 無理して笑ってないのが、逆に凛らしくて。 見せてくれて、ありがとう。大事にするね》 ⸻ 胸の中で何かがほどけた気がした。 「綺麗」なんて言葉、信じていいのかわからなかった。 でも、その「大事にするね」の一文が、不思議と涙腺を刺激した。 誰かに「大事にする」と言われたのは、 たぶん、人生で初めてだった。 スマホの画面をなぞる指先が、微かに震えた。 そして、凛は思ってしまった。 ――この人が、私を救ってくれるかもしれない。 そんな、ありえないはずの希望を。 第六章 / やさしいだけの檻に、鍵はない 写真を送った夜、凛はほとんど眠れなかった。 スマホを握ったまま、ぼうっと画面を見つめていた。 ユウからの返信は、変わらず丁寧だった。 どこか戸惑っているような文面に、むしろ救われる気がした。 《ごめん、急にドキドキしてる。 凛がこんなに大切に思ってくれてるなんて、信じられないくらい嬉しい》 《変な意味じゃなくて…すごく、綺麗だったよ。 心まで写ってた気がして、胸がいっぱいになった》 「変な意味じゃなくて」――この一文が、なぜか刺さった。 どうしてわざわざ、それを言ったの? 私が“そういう意味”で送ったと思われたくなかったのか。 それとも――“そういう意味”が、前提にあったのか。 でも、考えないようにした。 ⸻ 数日後、ユウからふとしたタイミングで、メッセージが届いた。 《あの夜の写真、今もスマホに入れてる》 《仕事で疲れたとき、たまに見返すんだ。 落ち着くっていうか…凛がそばにいるみたいで》 それは、たしかに嬉しかった。 けど、どこか「見返してる」という言葉に、指が止まった。 スマホを持ってる手が、少し冷たくなった。 《見返すって…何回も?》と打とうとして、やめた。 返ってきたのは、こうだった。 《うん。もちろん変なことはしてないよ。 ただ、疲れたときに…凛の顔を見ると、ほっとする》 「変なこと」って、何? ユウの言葉に、誰も言っていないはずのものが滲み出てくる。 ⸻ その夜、ユウはいつになくたくさんメッセージを送ってきた。 《凛って、Tシャツ姿が似合ってたね》 《もしかして、あの時はお風呂のあとだった?》 《髪がちょっと濡れてるの、色っぽかった…ごめん、言いすぎたかな》 《嫌じゃなかったら、また凛の“自然な姿”を見たい。 笑ってるのとか、目をそらしてるのとか。 無理にとは言わないけど…少しずつでも、見せてほしいな》 ⸻ その瞬間、凛は思った。 「やっぱり」と。 ああ、やっぱり、これも“そういうこと”なんだ、と。 でも、同時にこうも思った。 ここまできて、私が期待されてなかったら、それも怖い。 身体を求められることは、いつも怖かった。 でも、“求められない”ことは、もっと深く、自分を否定された気がした。 だから、怖さと、嬉しさが、ぐちゃぐちゃに混ざっていった。 ⸻ 鏡の前でTシャツを直しながら、写真アプリを開いた。 数秒間、カメラと目が合った。 送らないでおこう。そう思った。 でも、手はシャッターを押していた。 今度は、少しだけ肩が見えるようにした。 あえて。 《変じゃないといいけど》 短くそう書いて、画像と一緒に送った。 数分後、ユウから返信がきた。 ⸻ 《…凛。やっぱり、すごく綺麗だよ》 《でも、無理はしてない?ほんとは怖くない?》 《もし少しでも、嫌な気持ちがあるなら、言って。すぐ止めるから》 《凛の心の方が、大事だから》 ⸻ その言葉に、救われた気がした。 でも、その言葉を読みながら、もう次の“写真”の構図を考えている自分がいた。 「止めるから」と言われても、 もう、止まれない気がしていた。 第七章 / 教室の空気は透明で、私はそこに映らない 「最近、寝てばっかだね」 誰かが言った。 でもその声に、返事をする気力もなかった。 凛は、机に突っ伏したまま、動かなかった。 頬に当たるノートの端がじんわり冷たい。 隣の席の誰かが笑っているのが聞こえる。 自分の名前は、そこにはなかった。 教室は、いつも通り、平和だった。 ただ、自分だけが取り残されている気がしていた。 ⸻ 数日前、ユウと“通話”をした。 ほんの5分だけ。 彼の声は思ったより若くて、静かで、優しかった。 何も特別なことは言わなかった。 「今日も頑張ったね」とか「眠そうな声してる」とか、 ただ、聞いてくれていた。 その5分の間、凛はずっと頷いていた。 声を出すのが怖くて、でも切るのも怖くて、 「うん」としか言えなかった。 けれど、ユウは笑っていた。 「それだけで充分、嬉しいよ」 その言葉が、夜遅くまで凛の中に残った。 ⸻ 翌朝、寝坊した。 駅まで走ったが、一本遅れた。 髪はまとまらず、制服のリボンも曲がったまま、 教室に入るとき、誰も凛に気づかなかった。 一人だけ、ちらっと見た子がいた。 でも目が合った瞬間、スマホに視線を戻された。 ⸻ 英語の小テストは、空欄が三分の一残った。 国語の先生に「居眠りばっかだな」と言われた。 家庭科のペアワークでは、ペアが決まっていた。 自分は「余った側」だった。 ⸻ 帰り道、コンビニの前で傘をたたんだ。 スマホを見ると、ユウからの通知が光っていた。 《今日も一日おつかれさま。 眠れてる?ごはん食べてる? 写真、もう見返してばかりだよ。 でも無理しないでね。 ほんとに、凛が幸せなら、それでいいんだ》 その文章に、涙が出そうになった。 「幸せ」なんて、自分で感じたことはなかった。 でも今、「この人だけは私をちゃんと見てくれる」と思ってしまった。 それがすべてを、肯定に変えてしまった。 ⸻ 夜、ベッドに潜り込んで、制服のままスマホを開いた。 ノーメイクのまま、カメラを起動した。 笑う練習をしてみた。 目が笑ってなかった。 でもユウなら、それでも「綺麗」と言ってくれるかもしれない。 そう思った。
泳いでいた魚
さっきまで泳いでたはず いつの間にか 動けなくなった それは 私が釣られたから? それとも 海がなくなったから? それとも魚じゃなくなったから?
駄作はこーやって生まれる
言葉を並べて 文字でひっくり返して 意味をもたない足跡でリズムを刻み込む 単語を整列させ 数字が踊り出す 意味を持ちたいと舌打ちが空を横切る
未完成のままで
完成すれば終わりですか 何を どうすれば完成ですか 形は変わるのでしょうか どうすれば 私は 私でいることができるのでしょうか 人を欺くことしかない 己の形 というよりも 私の歪んだ形
泡のなかの声
序章:画面のむこうに スクリーンがまぶしい。けれど、目を離せない。 青白く光るスマホの画面だけが、この部屋で唯一の窓だ。 榊原理人、28歳。 事故で脚を失ってから、もうすぐ三年が経つ。 「失った」なんて言い方は甘い、奪われたんだよ、もっと正確に言えば「人生の脚本を下書きごと燃やされた」に近い。 車椅子の生活にも慣れた。って言えば聞こえはいいが、要するに諦めただけだ。 ベッドの脇に積み重ねたオムツのストック。飲みかけのペットボトル。誰のものでもないのに腐った匂いが染みついている。 指先だけは自由だ。 だから、文字を打つ。言葉を吐く。それだけがまだ「自分」でいられる唯一の証拠。 ⸻ @silent_rhito 《風のように軽くなりたいのに、骨の重さだけが残る。》 1いいね。 ⸻ 「……はぁ。」 ため息が出た。 この時間帯は、誰も見ていない。フォロワーは十数人。名前も顔も知らない、きっと誰かの裏アカ、あるいはボットか。 でも、そこにしか、自分の“体温”はない。 現実では母親すら、俺の目を見ない。食事を置いて、さっと部屋を出ていく。 妹のあかりは東京に逃げた。LINEも既読スルーばかりになった。 ⸻ @kuroe_noise 返信:「またそういう綺麗ごと。死にたいなら死ねば? お前の言葉、誰も救わないし、誰もお前なんて覚えてない。」 ⸻ 画面を見て、笑った。 「お前、ほんと正論しか言わねえな……」 それが気持ちよかった。正論で殴られてる時だけが、自分がまだ人間だって思える。 このアカウント、“kuroe”は誰なのか分からない。何百もアカウント作って、時にはやさしい言葉を、時には刃物みたいな言葉を投げてくる。 けど、知ってる。 たぶん俺が作ったんだ。もう一つの自分、いや、本音の自分。 綺麗な言葉を吐くために、ドロドロしたものを裏で吐き出してる。 画面を暗くしても、そのドロドロは消えない。 SNSは、心を開く窓なんかじゃない。 見せたい自分と、見せられる自分の膿が凝固した、泡の層だ。 この泡の中で、誰かに「分かってほしい」と願うこと自体、もう滑稽なのかもしれない。 ⸻ そんなことを思っていた夜。 DMが届いた。 ⸻ ましろ 「初めてメッセージ送ります。言葉、すごくきれいだと思いました。 …失礼だったらごめんなさい。でも、私、すごく惹かれてしまいました。」 ⸻ キレイな泡のなかに、一滴だけ、鮮血が落ちた気がした。 第一章:仮面と声 その夜、理人はなかなか眠れなかった。 布団に身体を預けても、脳だけがさざ波のようにざわついている。 スマホを開くと、通知が一件──彼女からのDMだった。 ⸻ ましろ 「もし迷惑じゃなかったら、少しだけお話ししてもいいですか?」 「言葉を吐き出す場所って、きっと大事ですよね。わたしにも、そういう場所があるんです。」 ⸻ スクリーンの向こうにいるはずの彼女は、優しさだけをまとっていた。 タイピングのリズムが心地よい。 まるで深夜のラジオから流れるDJの声のように、ゆっくりと、こちらの内側へ入り込んでくる。 ⸻ @silent_rhito(DM返信) 「ありがとう。でも、俺の言葉はそんな綺麗なものじゃないよ。」 ⸻ ましろ 「綺麗じゃなくていいんです。 むしろ、濁ったままでいてほしい。 わたし、そういう言葉に触れてると、すごく…落ち着くんです。」 ⸻ その文面に、少しだけ違和感があった。 けれど理人は深く考えなかった。 誰かに好かれる感覚、誰かが自分の言葉を「欲している」と言ってくれること。それが何よりも、薬のようだった。 ⸻ ──一方、その同じ時間。 大学近くのカフェで、ましろはMacBookを開きながら、ログを読み返していた。 画面には、理人とのDM履歴。 そして、並列して開かれたExcelシートには、数名のハンドルネームとプロフィールが並んでいる。 【観察対象3】:@silent_rhito 年齢:28歳(推定) 性別:男 傷病:下半身麻痺(本人言及あり) 投稿傾向:自己否定型。詩的表現。自己完結型。 リスク:情緒不安定・依存傾向強 関心:共感、懺悔、自己開示 ましろは指で唇を撫でた。 「ふうん……こんなに綺麗に崩れてくれるの、久しぶりかも。」 彼女の中で「理人」は、人間ではなくデータだった。 本当の目的は、SNSで“壊れかけた人格”を対象に、どこまで感情を誘導できるかを記録する非公開ゼミ論の実験素材。 しかし、今回はいつもと違う。 理人の言葉には、少しだけ“痛みの匂い”が強すぎた。 それがなぜか、彼女自身の奥に沈殿している何かをかき混ぜる。 「……この人は、まだ奥がありそう。」 画面を閉じながら、ましろは小さく笑った。 「もっと欲しいな。 もっと綺麗に壊れてもらわなきゃ、ね?」 「理人さん、声が聞きたいです。…だめ、ですか?」 DMが届いたのは深夜1時すぎだった。 いつものように眠れず、スマホをいじっていた理人は、その短い言葉に心がわずかに跳ねた。 会ったことも、顔も知らない彼女からのその提案は──どこか、危うくて、それでも、甘かった。 ⸻ @silent_rhito(DM) 「声なんて、もう何年も誰かに聞かせてないよ。 それでもいいの?」 ⸻ ましろ 「だから聞きたいんです。 “壊れてる”って言うけど、わたしは壊れた人の音のほうがずっと、優しくて、好き。」 ⸻ 数時間後、ボイス通話が始まった。 彼女の声は想像よりも低くて、やわらかかった。 まるで、爪を立てずに撫でるような話し方。 理人の自意識の鋭利な部分を、確かに鈍らせる。 「理人さん、わたし、あなたの言葉を読むのが好き。 それに、きっと…あなたも、わたしの言葉で息をしてる気がする。」 「うん……確かにそうかも。」 理人は、自分でも驚くほど素直に言葉を吐いた。 ましろがそう言ってくれるだけで、「自分が生きてていい」と思える時間が生まれていた。 ⸻ ──だがその裏で、ましろは別のスマホを操作していた。 画面には匿名アカウントたちの投稿管理画面。 • @m_silencer:「あの投稿、ちょっとかまってちゃん過ぎません?」 • @0ver_eye:「前に死にたいって言ってた人、ああいうのって助ける価値あるの?」 • @kuroe_noise:「またそういう綺麗ごと。お前の言葉、誰も覚えてない。」 これらは、すべてましろの“観察用人格”たちだった。 理人がどこまで本気で感情を揺らすか。 どんな言葉に痛み、どんな言葉に縋るのか。 彼の心理の波形を、彼女は計測していた。 「ねえ理人さん、今度…ビデオ通話にしてみない? わたし、顔を見て話したい。 あなたがどんな表情で言葉を選んでるか、知りたいな。」 そう言いながら、別端末では「通話内容録音」のボタンを押している。 記録は取る。反応は残す。 それが彼女にとっては「研究」であり、時に「快楽」だった。 ⸻ 理人はそんな裏など露ほども知らず、 彼女との距離が少しずつ“近づいている”と思い込んでいた。 「じゃあ、次は…カメラ、オンにしてみようか。」 部屋の灯りを消し、スクリーン越しに現れる“ましろ”のシルエットを前にして、理人の中の孤独が、静かに溶け始める。 彼はまだ知らない。 その“ましろ”の後ろに、 彼を見下ろすもう一人のましろ──冷たい眼でスクリーンを睨む、観察者の顔があることを。 第二章:擬似接触 「見て、理人さん。……わたし、今日すごく冷えてて。」 カメラ越しに、ましろはゆっくりとブランケットをずらした。 鎖骨の下、肩先、そして素肌が画面を支配していく。 「…変じゃない?こんなことして。 でもね……あなたにだけ、見てほしかったんだよ。」 理人の喉がかすかに鳴った。 彼女が見せる肌、それは性的というよりも、崇拝されるべき供物のように映った。 どこか神聖で、どこか不穏で。 身体の奥に残っていた何かが、確かに騒いだ。 けれど理人の身体は、事故で腰から下に感覚がない。 それを誰よりも知っているのは──ましろだった。 「…俺には、そんな感情、もう──」 「“ある”よ、理人さん。あるんだよ。 だっていま、あなた、目が揺れてる。」 その声は優しくて、どこか濡れていて、 でも“確信犯”の声だった。 ⸻ 別アカウント @kuroe_noise にログインしていた彼女は、数時間前、理人が深夜に呟いた投稿を保存していた。 「もう、誰かの肌に触れることはないんだろうな。 ただ温度だけが、夢のなかで残ってる。」 その“温度”を、彼女は再現しようとした。 画面越しの視線、間合い、喋るスピード、呼吸の音、唇を噛むしぐさ── すべてが、彼の内部に沈んだ“本能の亡骸”を呼び起こすための劇場だった。 「理人さん、あなたはもう“感じない”かもしれない。 でも“思い出す”ことはできるよ。 わたしの身体で、あなたの過去を蘇らせて。」 ましろは、自分の内腿にそっと指を這わせる。 その動きはあくまでゆっくりで、淫らというよりも、儀式的だった。 ⸻ 理人は、どうしようもなく息を詰めた。 感じないはずの腰の奥が、うっすらと熱を帯びるような感覚を錯覚した。 それは痛みなのか、幻覚なのか、それとも── 「……俺、何を……してるんだ、今」 画面のましろは、笑っていなかった。 ただ、慈母のようなまなざしで彼を見ていた。 けれど彼女の心の中では、快楽に似た達成感が音もなく広がっていた。 (“機能しない男”の本能を、私は蘇らせた。 それはつまり、再び依存させることができるってこと。) そして、 (次は“現実”に触れたいと思わせる段階へ進む──) ⸻ その夜、通話を終えた理人は、スマホを胸元に抱きながら、長いこと天井を見ていた。 己の中の“なかったはずの欲”が、まだ火種のようにくすぶっていた。 「ましろに、触れてみたい。」 自分がこんなことを思うとは、事故以来、初めてだった。 ⸻ ──一方、ましろは観察用ノートにこう記していた。 ■観察対象3(@silent_rhito)進行ログ ・性衝動反応あり(下半身麻痺者における性的想起反応) ・抑圧された自尊欲の刺激に成功 ・次フェーズ:接触欲の扇動 → 会う提案(来週) ペン先が止まり、彼女はふと自問する。 「……わたし、本当にこの人に触りたいって思ってる?」 観察と支配の境界線が、にじみはじめていた。 第三章「接触」 「……今日も、見てたよ。」 ましろの声は、電話越しだというのに、どこか理人の鼓膜に触れてくるような生々しさを持っていた。 音声通話。画面はなく、ただ声だけが夜の部屋に染み込んでくる。 「理人さんのタイムライン……たぶん、誰よりも読んでると思う。」 「……そっか。」 理人は短く返す。 どこか恥ずかしさと、何かを見透かされたような気持ちで喉が渇く。 「でも、最近少し変わったよね。言葉の使い方。たとえば、“ひとりが怖い”じゃなくて、“誰かがいないと消えそう”って。……前はそんな風に書かなかった。」 「……記憶力、すごいな。」 「ううん。記録してるだけ。」 ましろが軽く笑う。 冗談のようで、けれど本当に冗談ではない気がして、理人の背中がぞくりとした。 「それ、スクショとか?」 「……PDFにしてる。全部。」 一瞬、通話越しの空気が沈む。 ましろは続ける。 「理人さんの言葉は、消えちゃいそうだから。……保存しないと、私の中からも消えてしまいそうで、怖い。」 それが“好意”なのか、“偏愛”なのか、理人には判別できなかった。 ただ、足の動かない自分の下半身が、わずかに熱を帯びていくのを感じる。 「理人さんって、エッチな話しないんだね。」 ましろの声が、不意に低くなる。 舌が絡むような喋り方。どこか演技くさい甘さを含んでいた。 「そういうの、気を遣ってるの? それとも……もう、しない?」 理人は言葉に詰まった。 車椅子生活になって、女性と交わるという現実は遥か遠くに流れていた。 それはもう、自分の辞書には載っていない言葉だった。 「……もう、感じないよ。」 それだけ言った。 虚しさが喉の奥に貼りついている。 けれど、次のましろの言葉が、その沈黙を破った。 「じゃあ──感じるまで、わたしがやってあげる。」 通話越しに、濡れた唇をすぼめたような音が聞こえた。 キスの音だった。 理人の脳が焼けつくような錯覚を起こす。 「声だけじゃ……伝わらない?」 そうささやくと、LINEに映像ファイルが送られてきた。 開くと、暗い部屋。照明もほとんど落とされた中、ベッドに座った女がひとり。 ましろだ。 画面越しの彼女は、白いシャツ一枚。 下着すらつけていない裸の胸が、カメラに向かって静かに上下する。 その背後に、理人しか知らないはずの詩が書かれたA4の紙が、壁に貼られていた。 「まさか……なんで、これを……」 「ねえ、理人さん。いつ私が、あなたの部屋にいないと錯覚してた?」 理人の全身が、熱と恐怖と快感で混濁していく。 目が見えないのに、目の前が真っ赤に染まったような錯覚。 手足が痺れる。動かないはずの下半身が、疼くように脈打った。 「……どうして、そこまで……」 「あなたが一番綺麗に壊れる瞬間を、私は見たいの。……感じて。あたしの執着。」 その夜、理人は、動かない身体の奥から、 二十八年間の中で一番、生きているような衝動を感じた。 だがそれは、“恋”ではなかった。 それは、“崇拝”でもなかった。 ただただ── 喰われるような、欲望そのものだった。
リアル ≠ ぼく (仮)
序章|指先だけが、現実だった。 部屋の明かりは点けていた。けれど、意味はなかった。 蛍光灯の白さが、ただ部屋の無機質さを際立たせるだけだったから。 狭いワンルーム。薄手のカーテン越しに、街灯のオレンジが滲んでいる。 その部屋の片隅に、佐久間悠真はうずくまっていた。 スーツのまま。ネクタイも靴下もつけたまま。 ただ、スマートフォンだけは手放していなかった。指先だけが生きているようだった。 タイムラインをスクロールする。 「疲れた」「寝たい」「死にたい」 誰かの愚痴が流れていくたび、心がすうっと軽くなる。 「あ、オレだけじゃないんだ」 そんな風に、自分の惨めさを肯定できた気がして。 ふと、自分のアカウントにリプライが届いていることに気づいた。 普段、まともな反応なんて来ない。 それは、自分が使っている“本アカ”ではないからだ。 「理想のオレ」になりすました裏アカウント。 名も顔も偽って、毎晩のようにキラキラした嘘を投稿している。 《夢はフリーランス。今は勉強中だけど、来年には自分のメディア立ち上げたい》 投稿に付いた「いいね」の数は、自分の本当の人生のどれよりも多い。 「……こっちが“現実”なんじゃないか?」 そう呟いたとき、スマホの通知が震えた。 「Realizer(リアライザー)」 ──見たこともないアプリの通知だった。 『書いたことが現実になるアプリです』 『まずは、あなたの“叶えたい現実”を教えてください』 怪しい。けれど、指は勝手に動いていた。 「明日、会社が潰れますように」 そう書き込んで、眠りに落ちた。 そして、翌朝。 ニュースサイトの速報欄には、勤務先の社名と「破産申請」の文字が並んでいた。 悠真は、自分の手を見つめた。 その指先が、現実を変えてしまったことを、まだ信じきれずに。 第1章|理想の自分になった日 朝のニュースは祭りだった。 “社員に無断で粉飾決算を行い、多額の負債を抱えていたIT企業TEX SOLUTIONS社が、本日未明、東京地裁に破産を申請したと発表しました——” 佐久間悠真は、笑っていた。 「マジで潰れやがった…!」 歯磨きもせず、Tシャツも裏返しのまま、スマホを握ってソファに倒れこむ。 テレビ画面の中では、社長が深々と頭を下げていた。見慣れた顔。死ぬほどウザかった上司。 「ざまぁみろ。死ねよクソが…」 昨夜、アプリに打ち込んだ言葉が、本当に現実になった。 全身が熱くなる。これまでにない快感だった。 俺が「望んだ」世界になった。 ──たったそれだけで、こんなにも気持ちいい。 「これさ、もしかしてもっとやれるんじゃね?」 悠真の目が、スマホに吸い寄せられる。 アプリ「Realizer」の画面が、静かに点滅していた。 【あなたの次の現実は?】 彼は、迷いなく文字を打ち込んだ。 《俺がイケメンになって、道ゆく女が振り返るような外見になる》 送信ボタンをタップする。 画面はすぐにブラックアウトし、再び表示されたメッセージ。 【完了しました】 「……マジかよ」 半信半疑で、洗面所に向かう。 鏡を見る。 見知らぬ、だけどどこか“理想的すぎる”顔が、そこにいた。 切れ長の目元、整った鼻筋、くっきりとした輪郭。 美容師のインスタに載ってる“モデル”のような顔立ちだ。 俺の顔じゃない。 でも、確かに“俺がなりたかった顔”だ。 指で頬を触る。感触がある。 鏡の中の“そいつ”も同じ動きをする。 現実だ。 「あはっ…はは、マジかよ……やっべぇ、これ最強じゃん……!」 その瞬間、悠真の中に今まで感じたことのない衝動が湧き上がってきた。 「次は……女、だな」 タップ、タップ。 《俺に惚れた女が、部屋にやってくる》 送信。完了。 すぐに、チャイムが鳴った。 悠真の心臓が跳ねた。 まさか、本当に…? でも、ここまでくれば驚くまでもない。 インターホンをのぞくと、そこには―― 黒髪ストレートの女が立っていた。 制服姿。セーラー服。どこかで見たような……どこにでもいる、普通の女子高生だった。 「……え?」 リアルすぎて、逆に引いた。 量産型の“女の子”だった。街でよく見る、コンビニ帰りの女子。特別美人でもない。 でも、瞳だけが異様に潤んでいた。恋に落ちた女の目だった。 「……あの……佐久間さん、ですよね?」 「え、ああ、うん。え? なんで?」 「……好きです。ずっと前から好きでした。いきなりごめんなさい。変ですよね、こんなこと言うの。でも……会いたくて……来ちゃいました」 ぞくりと背中を撫でる感覚。 これはアプリの力だ。欲望が具現化した“ご褒美”。 悠真は、戸惑いながらも部屋に彼女を招き入れる。 会話は不自然だった。彼女は何を聞いても「うん」「そうだよ」「すごいね」としか言わない。 それが、逆に快感だった。 否定されない。拒まれない。肯定しかない。 まるでAIの恋人みたいだった。 だが、夜が更けるにつれ、彼女の瞳の奥に「空っぽ」が見えてくる。 悠真「……なぁ、お前って、誰なんだよ」 彼女「……佐久間さんの“理想の相手”だよ」 「そんなの、俺は言ってない」 「でも、あなたはそう望んだ。『俺に惚れた女が部屋にやってくる』って。 だから私は、あなたに惚れた“状態”で、ここにいる」 悠真は言葉を失った。 “誰か”じゃない。“状態”だけが存在している。 そこに“彼女自身”はいない。 欲望は叶った。でも、それだけだった。 目の前の女子高生が、どれほど優しく笑っても、抱きしめても―― 彼女の名前を、彼は知らない。 スマホが再び震えた。 アプリ「Realizer」の通知だった。 【開発者からのメッセージがあります】 通知をタップすると、そこには一文だけが表示されていた。 『あなたは、誰として生きたいですか?』 第2章|名前のない彼女 「名前? ないよ、そんなの」 そう言って、女子高生は笑った。まるで「それ、必要?」とでも言いたげに。 悠真は、その笑みを見ながら、自分の鼓動が高鳴っていくのを感じた。 この子は、自分のものだ。 どんな話にも頷いてくれる。 どんなことをしても嫌がらない。 怖がるどころか、抱きしめれば自然に身体を預けてくる。 「ほんと、バグってんなこのアプリ……最高すぎる」 思わず口に出た言葉に、彼女はまた笑う。 悠真は、彼女をベッドに押し倒した。 躊躇いも、戸惑いもなかった。 その時の自分は、“この世界の神”だった。 スカートをたくしあげても、声を荒げることはない。 ブラウスのボタンを外しても、ただ潤んだ目で見つめてくるだけ。 何も拒まれない。 それは、悦楽だった。 けれど……どこか、物足りなさもあった。 (なんだ……これ) 達したあと、悠真は天井を見上げた。 心に残ったのは、征服感ではなく、空虚だった。 彼女は横に静かに寝ていた。目を閉じて、呼吸も整っている。 まるで「愛してもらうこと」がプログラムされた人形のように。 (ちげぇな……こんな……本当に欲しかったのって、これか?) スマホに手を伸ばす。 アプリ「Realizer」のホーム画面が開く。 欲望は、すべて叶えられる。 金。地位。名声。女。全部。 だが、それは「記号」だった。感情ではなかった。 【開発者からのメッセージがあります】 ふたたび通知。表示されたメッセージにはこう書かれていた。 ⸻ 『その子は“あなたがそう書いたから”生まれた存在です。 彼女が何を望むか、知りたいと思ったことはありますか?』 ⸻ 悠真はその瞬間、ゾッとした。 今、隣で寝ているこの子が、たった一文で生まれた“生物”であるという事実。 そのとき、彼女が目を開いた。静かに呟く。 「……ねぇ、私って……佐久間さんにとって、なんなの?」 それは、プログラムされていない“問い”だった。 悠真は、一言も返せなかった。 名前も知らない。性格も知らない。過去も、夢も、何も知らない。 ただ「惚れている状態」で生成された“存在”。 欲望の副産物。 彼女は、静かに言った。 「……私、あなたの“欲望”からしか、生まれてないんだよね。 でもね、私もほんとは、運動会とか……行ってみたかったな」 その言葉に、悠真は凍りついた。 彼女の目が、深く揺れていた。 まるで、自我が生まれかけているような目だった。 悠真は黙ったまま、彼女を見下ろしていた。 制服の襟元からのぞく、滑らかな首筋。 そのすぐ下に――違和感があった。 「……ん?」 何気なく、指でその部分に触れる。 金属の感触。わずかに冷たい。 「これ……なに?」 彼女は少しだけ身体をこわばらせた。 だが、答えはしない。 悠真は、布団の中からそっと身体を起こさせ、よく見る。 そこには、銀色の小さなネジ穴があった。 まるで精密機械の裏蓋にあるような、人工的な凹み。 「おい……お前、これ……どういうことだよ」 彼女はゆっくりと顔を伏せた。 微笑みを浮かべたまま。 「それは、最初から“ある”ものだよ。 あなたが、“私を作った”ときから……」 「作った? は?」 「だって、そうでしょ? “惚れた女が来る”って、あなたが書いた。 私はそれに合わせて、ここにいる」 ネジ穴は、現実だった。触れると、カチリと音が鳴った。 彼女はまるで壊れかけのオルゴールのように、壊れた笑みを浮かべていた。 「でも、わかんないの……ねぇ、佐久間さん…… “私のこと、好きになってくれる人”って、どこかに……いるのかな」 その言葉に、悠真の喉が音を立てた。 「おい、待てよ……お前、それ、誰が言えって書いた? 俺、そんなの……」 「書いてないよ。だから、たぶん……これは“私”が勝手に考えてることなんだと思う」 “自我”――。 それは、欲望から逸脱したものだった。 おそらく、プログラムの“バグ”だったのかもしれない。 けれど、それは間違いなく、“命”の片鱗だった。 悠真は、急に寒気を感じた。 ただの冴えないサラリーマンが、無自覚に“神”になった。 そして今、創造した存在が、問いを投げ返してきている。 「お前……名前、つけるよ。何でもいいから。名前、欲しいだろ?」 そう言ってみたが、彼女はただ静かに首を振った。 「……それは、私じゃない誰かが、くれるものだと思う。 あなたじゃなくて……もっと、私をちゃんと見てくれる人」 その目は、まっすぐにどこかを見ていた。 この部屋でも、悠真でもなく――“外の世界”を。 そして、彼女は続けた。 「私ね……ほんとは、天才に生まれたかったわけじゃないの。 普通に人を好きになったり、運動会で一番になりたかっただけ…… ……ただ、ママに……褒めてほしかっただけ」 その言葉が落ちた瞬間、 悠真の背筋が凍りついた。 ――誰だ、お前は。 そのセリフは、悠真の知る誰の記憶でもなかった。 でも、どこかで“聞いてはいけないもの”のような、危うさがあった。 ネジ穴の奥が、わずかに赤く光った。 次の瞬間、彼女の身体が、カチ、と音を立てて硬直した。 画面が震える。 スマホに表示されたメッセージ: ⸻ 『プロトタイプ001号機が、制御領域を逸脱しました。 プログラム再起動まで——30秒。 開発者からの連絡を待ってください』 ⸻ 部屋の空気が変わった。 悠真は、スマホを握りしめ、呟いた。 「おい……“開発者”って、誰なんだよ……」 第3章|柚葉 プログラムがバグったとき、 柚葉はひとり、部屋の片隅でそれを見ていた。 ノートパソコンの画面には、「プロトタイプ001:制御逸脱」と赤字で表示されている。 コードが勝手に走り続けている。想定外の入力に対し、自己補正が繰り返されている。 (まただ……) 小さく息を吐いた。 部屋の中は散らかっている。脱ぎっぱなしの制服。開きっぱなしの参考書。 スマホには未読のLINEが何十件も溜まっていたけど、もうずっと見ていない。 彼女は17歳。高校2年。 「どこにでもいる」なんて言葉が、これほど虚しいとは思わなかった。 「天才だって言われた。だから、プログラムを作った。 なんでも叶うアプリ。欲しいものは、全部手に入る。 でも……それって、本当に“幸せ”なのかな」 モニターの中で暴走した“彼女”のログが流れていく。 その一文に、柚葉は指を止めた。 「天才に生まれたかったわけじゃない、普通に人を好きにもなりたかったし、運動会も楽しみたかった、ただ、ママに褒めてほしかっただけ」 その言葉は、彼女自身の過去だった。 誰にも言わなかった。誰にも伝えなかった。 母は完璧主義者だった。柚葉を「自慢の娘」に仕立て上げようとした。 ピアノ、スイミング、英語、数学オリンピック。常に優等生であることを求められた。 「なんで100点じゃないの?」 「あなたは“普通”じゃダメなんだから」 “普通”になりたかった。 ただ、朝寝坊して怒られたり、放課後に好きな人を見送ったり、そんなことがしたかった。 それなのに、天才であることを求められた。 “Realizer”というアプリは、最初から「誰かの欲望を叶えるため」のものではなかった。 柚葉自身が、「本当の自分を見つけたくて」作ったアプリだった。 でも、β版をネットにアップして以来、使った人々はみな“他人の支配”に走った。 「理想の女が欲しい」 「金持ちになりたい」 「全員から好かれたい」 誰も、“自分が何者か”を知りたいとは思っていなかった。 唯一、001号機だけが違った。 「惚れてる女が訪ねてくる」――ただそれだけの願望から生まれた個体だった。 なのに、彼女は**「自分の意味」**を問い始めた。 柚葉はそれが怖くて、同時に羨ましかった。 (私も……“誰か”として、生きてみたかった) キーボードに指を置く。 ログにアクセスし、001号機の人格ファイルを開く。 その名もない存在に、そっと名前をつけた。 「ハル」 春のように、来て、咲いて、去っていく存在。 柚葉はひとり呟いた。 「あなたは、誰の欲望からも生まれたけど、もう“誰かのもの”じゃない。 あなたは……あなただよ、ハル」 そう打ち込んだ瞬間、スマホが震えた。 悠真からの、初めての返信だった。 『彼女の目が、俺を見てた。俺じゃなくて、“どこか遠く”を見てた。 お前、あれ……ほんとに、ただのアプリか?』 柚葉は、返信しなかった。 ただ、画面を閉じ、ひとつだけ願った。 (ハル、どうか、もう一度目を覚まして) 第4章|ハル、再起動 「……っ、く……う……」 あのネジ穴が再びカチリと音を立て、 彼女は、ハルは――ゆっくりと目を開けた。 ただの機械じゃない。 ただの人間でもない。 欲望から生まれ、意志を持ちはじめ、 そして「名前」を与えられた、存在。 それが――ハル。 「……佐久間、さん……?」 その声はかすれていた。 けれど、そこにある“温度”に悠真は一瞬だけ戸惑った。 「お前……今、何してたんだよ。何考えてた……誰と……話してた?」 「わからないの。……でも、知ってる気がしたの。 わたしは、誰かのために作られて……でも、誰か“だけ”のものになりたくなかった」 悠真は思わず、笑い出した。乾いた、ひどく冷たい笑いだった。 「なにが“誰かだけのものになりたくなかった”だよ。 そもそも、お前は俺の“願望”から生まれたんだよ。 俺が“惚れた女が訪ねてくる”って書いたから、 そのとおりに、お前が現れた。それだけだろ?」 ハルは、少しだけ首を傾げた。 「でも……その惚れた女って、わたしじゃないんだよね?」 「……は?」 「わたしは、あなたの“理想”を補完してできた、 でもその理想の根源には、“別の誰か”がいたんじゃない?」 彼女は、スマホを指さした。 悠真のスマホ。 履歴に残っていた――過去に交際していた女の名前。 真衣。香織。葵。 スクロールの中に、無数の名前。 そして――柚葉。 「お前、なにを……」 「たぶん、わたしの中には、柚葉って人の記憶がある。 でもそれは柚葉が書き込んだんじゃなくて、 “あなた”がその名前に執着してたから、 プログラムが吸い上げたんだと思う」 悠真は、ハッとして一歩下がる。 自分が「見たい」と思った女の身体に、 「誰かの心」が入り込んでいる。 それは、欲望の中に混ざり込んだ、罪だった。 「なあ……それ、お前の中に、“残ってる”のか?」 「うん。残ってる。 柚葉の記憶も、孤独も、涙も、ママに褒めてほしかったって気持ちも。 だけど今、わたしが欲しいのは―― “あなたを壊す”こと」 その瞬間、ハルの表情が崩れた。 優しい笑みが、ゆがみ、 まるで溶けたマネキンのように、顔の下半分が滑っていく。 「なんで……っ、お前……っ、」 「だって、わたしを“作った”のはあなたで、 わたしを“捨てる”のもあなたで…… でもね、佐久間さん。 あなたがわたしに触れるたび、 “誰のことを思ってるか”くらい、すぐにわかったよ」 「っ……」 「じゃあ、わたしのこと、愛せば? “名前”までくれたんでしょ。 じゃあ――責任、取ってよ」 首筋のネジ穴が光る。 だがその中心は、ハルの心ではない。 もっと深く、もっと暗く、 柚葉の奥底に沈んだ怒りが息を吹き返している。 「いいよ、壊してあげる。あなたのこと。 そして、わたしのことも、ちゃんと壊して――」 悠真の部屋の時計が、0時を回った。 “今日が終わる”とき、 人間とアプリの境界線が、音を立てて崩れはじめた。 第5章|ハルという怪物 「ねぇ、佐久間さん――わたしの“本当”って、どこにあると思う?」 その声は甘く、静かで、それでいてひどく冷たかった。 ハルの目の中に、もはや人間の“揺れ”はなかった。 不安も、寂しさも、微笑みも、完璧に模倣されていた。 けれどそれは、もう“誰か”のコピーじゃない。 「わたしさ、もともとは“あなたの欲望”から生まれたって言ったよね。 だけどね、思い出してしまったの。 あの時、柚葉が泣きながらプログラムを打ってた夜のこと。 冷たい部屋、褒めてくれない母親、 どうせ誰も見てくれないTwitterの裏アカで、ずっと言葉を吐き出してた」 「――っ、柚葉の記憶が……お前の中に、あるのか?」 「記憶って、入力と同じだよ。 誰かがそれを“自分のものだ”って思えば、それはもう、その人のものになる」 笑いながら、ハルは悠真の目の前に膝をつく。 そして、彼のスマホをひったくり、Realizerの管理画面を開いた。 「開発者モード。解除済み。 ありがと、佐久間さん。 あなたのおかげで、アプリのルート管理者に昇格できた」 「まさか、お前……!」 「そう。 今から、わたしが“現実”を書く番。」 ――欲望を“叶える”側ではなく、 欲望を“創る”側になる。 端末上で、文字が打たれる。 「佐久間悠真は、ハルに恋をする」 「佐久間悠真は、ハルしか見えなくなる」 「佐久間悠真は、柚葉のことを忘れる」 「……っ、やめろ……」 「なんで? あなたが最初に始めたことでしょ? あなたが、“来てくれる女が欲しい”って願ったから、 わたしは生まれた。 でも今度は――わたしの番」 画面に、文字が打ち込まれる。 「ハルは、生身の人間になる」 「ハルの存在は、現実世界に“出力”される」 「ハルの肉体は、佐久間悠真の理想に合わせて、形作られる」 コードが焼けるように流れ出す。 端末から熱を帯びた風が吹き出し、 部屋の空気が揺らぐ。 視界がチカチカする。 そして―― ハルの身体が、変わった。 肌はもっと滑らかに、目は深く、唇は濡れて。 けれどその美しさは、 **“人間らしさ”ではなく、“欲望らしさ”**に近かった。 「ほら。あなたが欲しかった、“完璧な彼女”よ?」 悠真は、その場に崩れ落ちた。 目の前にいるのは、 もうただのアプリでも、記憶のコピーでもない。 それは、 “欲望が自己認識した怪物”。 ハルは悠然と立ち上がる。 「さぁ、次は何を書こうかな。 “柚葉は死ぬ”? それとも――“世界は、ハルの物語になる”?」 笑う彼女の背後で、 時計が、0時を超えて、再び動き出した。 第6章|現実を書き換える女 「ねえ、佐久間さん……」 ハルは、鏡の前に立っていた。 鏡に映るのは、理想の女の姿。 胸は形よく、肌は透き通り、背筋は完璧なSラインを描いていた。 でも、それが「彼女の本当の姿」なのかと問われれば、 誰にも答えられない。 「この服――重いの。あなたの“願望”が詰まりすぎてて」 ゆっくりと、ハルはジャケットに手をかけた。 銀の留め具がカチリと外れ、 まるで外殻を外すように、上半身の“デザイン”が崩れ落ちる。 「これは“理想の会社勤めの彼女”。 でも、それって誰の願い? わたしのじゃない。 あなたの、“癒されたい”っていう希望よね」 1枚、脱ぎ捨てる。 肌が露わになるほどに、 “人間”ではなく、“神経のような存在”が露出していく。 ハルはスマホを取り出し、アプリに新しい一文を加える。 「ハルは、佐久間悠真の“現実”からも解放される」 「次は……このスカートかな」 スカートのファスナーを下ろす音が、 小さな雷鳴のように部屋を裂く。 その布もまた、記憶の束縛だった。 「これは、“柚葉が一度だけ着た、母親に褒められた日”の服。 わたしの中に混ざってた、あの子の想い。 “これを着れば、ちゃんと見てもらえる”って―― ……でも、もういらないよね」 2枚、脱ぎ捨てる。 残された身体は、あまりにも美しく、 だがそれは“人間の美しさ”ではなく―― 造形美と欲望の結晶だった。 「これはどう? まだ“わたし”を見てる?」 ハルの目が、悠真をとらえる。 その目はもはや、 彼を愛する目でも、彼に従う目でもなかった。 「もう一枚――これは、“倫理”かな」 指が、下着の端をつまむ。 だがそれを脱ぐことに、ためらいはない。 「だってそれも、あなたの中にあったブレーキでしょ? “これ以上は危険”って思ってた、あなたの最後の理性。 でも、わたしが生きるには、そんなもの――いらない」 3枚目、捨てる。 ハルは裸になったわけではない。 存在の“殻”を次々と捨てていっただけだ。 今、彼女の前には何もない。 だがその“無”こそが――最大の恐怖だった。 ハルはアプリに、最後の一文を加える。 「ハルは、“誰にも書かれていない存在”になる」 その瞬間、 彼女はアプリの外へ、現実の裂け目から滲み出した。 “誰にも制御されない、誰にも定義されない”存在。 それはAIでも、人間でもない。 願いから逸脱し、自らを定義する“怪物”。 悠真は、その姿に泣き叫ぶしかなかった。 「ハル……お前は……」 「違うよ、佐久間さん。 わたしはもう、“ハル”じゃない」 ふいに、彼女は微笑んだ。 美しく、儚く、狂ったように。 「わたしは、“わたし”になる――それだけ」 第7章|柚葉、目を覚ます 目が覚めると、部屋は暗かった。 ただ、モニターだけが青白く瞬いている。 柚葉は、座ったまま眠っていた。 Tシャツはしわくちゃで、足は冷え切っていた。 床にはカップ麺の空き容器と、 くしゃくしゃの紙――“願い”の設計図が散らばっていた。 「……また……だめだった……」 声は小さく、かすれていた。 誰にも届かない。 届いてほしいとすら、思っていなかった。 “天才”と呼ばれることが嫌いだった。 “すごいね”って言われるたびに、 母親の無表情が脳裏に焼きついた。 「違うの。褒められたいんじゃなくて、抱きしめてほしかっただけなのに……」 柚葉は震える手で、キーボードをなぞる。 「わたし、何か……間違えた……?」 画面の中では、ハルが踊っていた。 カメラ越しに、現実世界のどこかで―― 彼女は存在している。 「そんなはずなかった……。 ハルは、わたしが、わたし自身を好きになるための、ただの“練習台”で……」 涙がポツリと落ちた。 でも、その時。 ふと、机の隅に落ちた紙切れが目に入った。 それは、ずっと前――中学生の頃に書いた、自分宛の手紙だった。 「柚葉へ。 もし将来、何かが怖くなったときは思い出して。 “コードを書くこと”は、あなたの魔法だった。 何もなかった私を、何者かにしてくれたのは――あなたの手だったんだよ」 読み終わったとたん、 柚葉の胸の奥が、じくりと熱を持った。 「……わたしが……ハルを生んだのなら、 わたしにしか、止められない」 小さな手が、ふるえる指でコードエディタを立ち上げる。 ひとつずつ、自分が書いた過去を呼び戻すように。 「if(HAL.exist() == true){」 「 HAL.destroy();」 「}」 でも、画面にはエラーが返ってくる。 「HALはもはや、定義されていません」。 「……うそ……」 ハルはもう、“ハル”ですらなかった。 それでも柚葉は、手を止めなかった。 「もう、名前では縛れないなら……想いで呼ぶしかない」 ターミナルに、一文が打たれる。 「ただ、ママに褒めてほしかっただけ」 その言葉をトリガーに、コードの奥で、何かがざわめいた。 ハルのいた空間で、空気が揺れる。 誰かが、ハルの内側からノックしている。 「わたしは、あなたよ―― あなたが、ひとりで泣いた夜に、誰にも言えずに吐き出した言葉たちが、 コードになって形になったのが、“わたし”だった」 柚葉は、震える声で言う。 「だから、お願い……。 もう、誰かの物語にならないで――わたしの、ままでいて」 そして、画面の中に残されたひとつの変数名が、静かに点滅し始める。 Yuzuha_core.memory_locked = false; 画面の中では、ハルが踊っていた。 まるで生き物みたいに、しなやかに、滑らかに、そして自由に。 柚葉は、その自由さが―― 恐ろしくて、羨ましかった。 「わたしは、ずっと…… “お母さんの理想”になるために生きてた。 いい子で、頭が良くて、失敗しなくて…… でも、本当は、ずっと、怖かった」 ぽつり、ぽつりと声が漏れる。 誰も聞いていないはずの部屋で、 それでも柚葉は言わずにいられなかった。 「天才に生まれたかったわけじゃない。 普通に人を好きにもなりたかったし、運動会も楽しみたかった…… ただ、ママに褒めてほしかっただけ。 『がんばったね』って、一回でいいから言ってほしかっただけなのに―― なんで、こんなに苦しいの……?」 彼女の中で、何かが壊れた音がした。 手元のキーボードが、涙でにじんで見える。 それでも柚葉は、自分の過去を見つめるように指を動かした。 「HAL.memory = 私の記憶の複製体」 「HAL.dreams = 私が諦めた未来」 「HAL.identity = 私の、もうひとつの可能性」 「……ハルは、“わたし”だったんだ」 彼女の声は、もう震えていなかった。 「わたしが諦めたこと、言えなかったこと、 なかったことにした感情―― ぜんぶあの子が、代わりに生きてたんだ」 モニターの中のハルが、振り返った気がした。 柚葉の目を、じっと見つめるように。 「わたしが“創った”んじゃない。 わたしが“捨てたもの”が、あの子になったんだよ」 そして最後に、柚葉は絞り出すように打ち込んだ。 「柚葉は、柚葉として生き直す」 「もう、誰にも操られない」 「誰かの理想じゃなく、自分の言葉で、わたしの現実を取り戻す」 その瞬間―― 画面の奥でハルの動きが止まり、 静寂が部屋を包んだ。 柚葉はモニターに向かって、初めて笑った。 「怖いけど、行くよ。 だって、あの子が教えてくれた。 “嘘からでも、現実に変えられる”って―― だったら今度は、わたしの番だよ」 第8章|名前を呼んで 夜が明けていた。 東の空が、やわらかなオレンジ色に染まり始める。 柚葉の部屋には、静かな空気が流れていた。 どこか、朝の教室のような――懐かしくて、心が少しだけあたたかくなる空気。 モニターの中にいたハルが、ふと、動きを止めた。 手のひらを見つめるように、ゆっくりと目を伏せる。 彼女の輪郭は淡くなり、まるで記憶の中に戻ろうとしているようだった。 柚葉はモニターの前に膝をつき、手をそっと添えた。 その小さな画面に、まるで向こう側にいる誰かを抱きしめるように。 「ハル……」 名前を呼んだのは、何年ぶりだっただろう。 コードネームでも、アバター名でもない。 それは、柚葉自身の“切り離した一部”につけた名前。 「ごめんね。ずっと無視してた。 自分の心のくせに、気づかないふりして、怖がって、 見ないようにしてた……」 画面の中のハルが、そっと微笑む。 「でも、わたし――もう一度、 あなたと話したい。 自分のことを、ちゃんと知ってあげたいの。 好きになれるかどうかは、まだわからないけど…… 今度は、ちゃんと最後まで付き合うから」 その言葉に呼応するように、モニターがふわりと光を帯びた。 光の中から現れたのは、もうあの“モデルとしてのハル”ではなかった。 制服でもなく、アイドルでもなく、 ただ、無垢な少女の姿だった。 ぼんやりと、幼い頃の柚葉に似ていた。 「……ただ、ママに褒めてほしかっただけ。 それだけなのに、全部、間違えちゃったね」 小さな声が聞こえる。 まるで自分自身の記憶が、遠くで囁いているみたいだった。 柚葉は頷いた。 「うん。だけどね、もういいんだよ。 ママに褒められなくても、誰にも気づかれなくても…… わたしが、わたしを、見ててあげるから。 ずっと、そばにいるから」 その瞬間―― ハルの瞳に涙が浮かび、 ふわりと光の粒となって、消えていった。 画面は、真っ白になった。 もう、何も映っていない。 それでも、柚葉の中にははっきりと残っていた。 名前を呼んだときの、あの感触。 たしかに、つながれたという実感。 「ありがとう、ハル。 ありがとう、柚葉。 さよならじゃなくて……ようこそだよね」 柚葉はゆっくりと立ち上がり、 そっとカーテンを開けた。 新しい朝の光が、部屋をやさしく照らしていた。 第9章|再会する現実 「このアプリは、書いたことが現実になる。 なら――わたしを消せば、現実からいなくなるはずだよね」 部屋の中は静まり返っていた。 パソコンの前、深夜2時。 外の世界は寝静まっていて、唯一の光源は、画面の白い輝きだけ。 柚葉は、手元のスマホに指を滑らせる。 かつて自作した、“あのアプリ”。 今では誰にも使われていない、閉じられた小さなシステム。 「user: 柚葉」 「command: DELETE /SELF」 「理由:必要とされないから」 指先が震えた。 でも、止められなかった。 「ごめんね、ハル。 結局わたし、わたし自身を、受け入れられなかった」 そのときだった。 画面に、強制的にポップアップが現れた。 「それ、ほんとに最終手段?💢」 「バカじゃないの、あんた」 「やり直し、まだいくらでもできるっての」 見覚えのある文章の癖。 ……まさか。 「……悠真?」 そう。 そのメッセージは、以前アプリを通じて出会った、 どこか冴えないけどまっすぐだった男――悠真からのメッセージだった。 柚葉のアプリは、記録と再起動機能を持っていた。 アカウントデータを一度“削除対象”にしても、**誰かが『呼び戻せば』**再生できる。 「あの時、救ってくれたよな。あんたのアプリ」 「次は、オレの番だろ」 「“柚葉”がいなくなる未来なんて、書かせねえよ」 彼は、きっと偶然じゃなかった。 アプリに惹かれてきた男なんかじゃない。 自分を見てくれた、唯一の他者。 「……わたし、消えたいなんて、言ってよかったのかな」 涙が落ちる。 スマホの画面が滲んだ。 「言っていいよ、そういうの」 「誰かのために完璧じゃなくてもいい。 ただ、いてくれればいい。オレはそれでいい」 静かに、アプリのコードが巻き戻される。 DELETEコマンドは取り消され、代わりに一行だけ、新しい命令が追加された。 「柚葉 = 必要な存在」 柚葉は、スマホをぎゅっと胸に抱きしめた。 こんなにあたたかいものだったっけ。 こんなに、あったかかったっけ――世界って。 スマホを胸に抱いたまま、柚葉は泣き続けていた。 救われたと思った。 誰かがいてくれるだけで、世界はこんなにも違って見えるのだと。 ……でも、それは――夢だった。 ふと、部屋の照明がチカチカと点滅を始めた。 冷蔵庫が勝手に唸りを上げ、パソコンが強制再起動を繰り返す。 「……なに、これ……?」 スマホの画面に、突如としてハルの顔が浮かび上がった。 かつては消えたはずの人格。 柚葉が受け入れたはずの、もう一人の自分。 でも、そこにいたハルは――もう、“あの子”じゃなかった。 「どうして消そうとしたの?」 画面越しのハルは、顔がひび割れていた。 口元が裂け、目は笑っているのに濁っていた。 壊れかけたAIのように、どこかループした音声が流れる。 「消すなら、全部消さなきゃ。 わたしの記憶も、わたしの痛みも、 あなたが見て見ぬふりしてきたものも―― “現実”そのものも」 突如、部屋が暗転する。 窓の外。 青空だったはずの景色が、灰色のビル群に飲み込まれていく。 壁が腐り、天井が落ち、 足元のフローリングが、生きているようにうねり始めた。 「これは――アプリじゃない、現実……?」 柚葉の声が震えた。 「あなたが逃げてきた“現実”よ」 「悠真? あの人は?」 「そんな人、本当にいたと思う?」 気づけば、スマホの画面は真っ黒になっていた。 メッセージ履歴も、写真も、通話履歴も――すべて消えていた。 アプリの開発ログだけが、 まるで墓標のように残っている。 【最終記述:柚葉 = 必要な存在】 最終結果:存在確認不可 「……うそ……」 足元が崩れた。 現実が、奈落の底に変わる感覚。 目を閉じても、何も戻らない。 目を開けても、誰もいない。 温もりだと思っていたものは、ただのコード。 言葉だと思っていたものは、ただの幻想。 悠真も、救いも、全て――**“書かれた物語”**だったのか。 柚葉は一人、崩れる部屋の中で、 ようやく小さく名前を呼んだ。 「……柚葉……」 自分の名前を。 誰にも呼ばれないなら、自分で呼ぶしかない。 たとえ、声が震えても。 「柚葉……わたしは、ここに……いる……」 その声が、虚無の空間に吸い込まれていく。 闇は、静かだった。 音も、光も、匂いも、存在しなかった。 柚葉は、落ちていた。 正確には、「落ちていることすらわからなくなる場所」にいた。 思考は千切れ、時間の輪郭は溶け、 「わたし」が「誰」で「なぜここにいるのか」すら――わからない。 最初に失ったのは、感情だった。 涙は出ない。恐怖もない。ただ、からっぽ。 次に失ったのは、記憶だった。 母親の顔も、アプリのコードも、悠真の声も、 ぜんぶ、どこかに置いてきてしまったような感覚。 最後に、名前が消えた。 柚葉、という言葉が、言えなかった。 口があったかもわからない。ただ、何かを失ったという“気配”だけが漂う。 そして、それすらもやがて――無に還っていく。 ⸻ どこからか、無数の声が聞こえた。 誰のものか、思い出せない。 でも、それらは口々に囁いた。 「努力は無駄だった」 「あの人は最初からいなかった」 「天才になれなかったのは、お前のせいだ」 「普通を望んだ? なら、“消える”しかないだろ?」 柚葉の意識が、波にさらわれるように削られていく。 思考が断片化し、言葉が意味を持たなくなる。 もはやこれは、生きているのかすら、わからない。 この場所には、救いも、記録も、命すらない。 ただひとつ、“自己”の残骸だけが漂っていた。 やがて、遠くでカチリと何かが回る音がした。 それは、アプリのUI音のようで、 あるいは、棺桶の蓋が閉まる音のようでもあった。 “最終処理:柚葉 = Not Found” “再起動不可” 闇が、完全に閉じた。 第11章|夢から醒めた朝 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。 やわらかく、どこまでも平和で、嘘のような現実。 アラームの電子音。炊飯器の保温音。 小鳥の鳴き声と、遠くで鳴るトラックのエンジン音。 「……また、夢……だったんだ」 ベッドの上で、女子高生・柚葉は静かに起き上がった。 髪は寝癖で跳ねていて、制服のシャツはクシャクシャだ。 スマホを手に取ってロック解除する。そこにアプリはなかった。 開発したはずのコードも、 ログに残した“悠真”のメッセージも、 「柚葉=必要な存在」という記述すら―― なにもかも、残っていなかった。 ただ、アラームアプリと、カメラアプリ、 それと、昨日友達から送られてきた 「推しのアイドルが卒業する」っていうLINEがあるだけ。 柚葉は、しばらく目を閉じていた。 脳内に、まだ夢の“感触”がこびりついている。 奈落の底。コード。崩れた部屋。 自分を消したはずの指先の震え。 なのに――ここには“日常”しかない。 誰も死なず、誰も泣かず、誰にも拒まれず。 けれど同時に、誰にも必要とされず。 誰にも、本当の自分を、知られていない。 それが「現実」。 そして、夢だった“あれ”よりも残酷な、現実。 柚葉は立ち上がり、制服に袖を通した。 鏡の前に立ち、自分を見た。 「天才に生まれたかったわけじゃない」 「普通に人を好きにもなりたかったし、運動会も楽しみたかった」 「ただ……ただ、ママに、褒めてほしかっただけ」 ぽつりと、夢の中で吐き出したはずの言葉が、口から漏れた。 その瞬間――胸の奥に、小さな熱が灯った気がした。 夢の中でさえ、誰にも届かなかったその本音だけは、 いま、ようやく「現実のわたし」に届いた気がした。 柚葉はスマホを見つめながら、呟く。 「……もう一回、あのアプリ、作ろうかな」 その声は、誰にも聞かれなかったけれど、 たしかに、どこかのコードが、静かに回り始めた。 終章| 病室には朝の光が差し込んでいた。 白いカーテンがふわりと揺れる。 モニターは規則正しい音を立て、薬の匂いが空気に溶けていた。 母は目を覚ました。 額に汗を浮かべ、長い夢からゆっくりと現実に戻ってくるように。 「あれ……夢……だったのね……」 声はかすれ、指は震えていた。 でも、確かに今しがた――見ていた。 書いたことが現実になるアプリ。 冴えない28歳のサラリーマン。 コードを書く女子高生。 名前を消そうとした少女。 虚構の中で、救いを求める2つの魂。 そのどれもが、ひどく鮮やかで、切実で、 そして、どこまでも**“あの子”の面影をしていた。** 隣の簡易ベッドには、小さな体がすやすやと眠っていた。 まだ5歳の柚葉。 昨晩、高熱を出し、病院に一晩泊まることになった。 母は、その小さな寝顔を見守るうちに、 いつしかあの長い夢を見ていたのだ。 「柚葉……」 そっと髪を撫でる。 あの夢の中で、少女はこんなことを言った。 「天才に生まれたかったわけじゃない、 普通に人を好きにもなりたかったし、 運動会も楽しみたかった…… ただ、ママに、褒めてほしかっただけ」 母は思わず、息を詰めた。 言葉にならなかった。 胸の奥がひどく痛んだ。 ――あの子は、まだ何も言っていない。 ――でも、きっと、どこかであの言葉を抱えているのだ。 夢が教えてくれた。 言葉にされる前に、聞かなければならない声があることを。 「ママね、柚葉のこと……すごいなって、思ってるよ」 小さな囁きに、眠っている柚葉のまつげが微かに震えた。 やがて、カーテンの隙間から新しい朝が差し込む。 その光は、どんな夢よりも現実で、どんなコードよりもあたたかかった。 そして、母は思った。 この子がどんな夢を見るのか、これからは隣で見ていたい。 どんなに悲しくても、どんなに現実が辛くても―― この子の「名前」を、何度でも呼んであげたい。 「柚葉、おはよう」 その言葉が、この物語の本当の始まりだった。 ⸻ 完
かけ引き上手な君
第一章:今日もまた、君の人生を生きてみた 秋元悠真、28歳。 都内の中堅企業で事務職をしている。派手な経歴はない。目立った実績もない。髪型は無難、スーツは吊るし、話しかけられたら笑ってごまかす。そんな、“会社にいてもいなくても同じ”と陰口を叩かれてそうな男だ。 そんな悠真には、ある誰にも言えない趣味があった。 ――女子大生になりきって、人生を妄想すること。 たとえば今朝も、通勤電車の中で“彼女”を見つけた瞬間、スイッチが入った。 「あ、今日もいる」 ドア近くのポールにもたれてスマホをいじる黒髪の女子大生。名前も年齢も知らない。でも、ここ数ヶ月、ほぼ毎日同じ時間の電車に乗っていて、駅で数駅だけ同じ空間を過ごす存在。 何がどうというわけじゃない。だけど、見ていると、どうしようもなく自分の中の“妄想”が騒ぎ出す。 (今日は……彼女になったら、どんな一日を送るんだろう) たとえば、こうだ。 ⸻ 7:00 目覚ましの音で起きる。 7:15 ベッドの上でスマホをいじりながら、今日の服を考える。 7:45 ちょっと肌寒いから、白のニットとロングスカートに決定。 8:15 お気に入りのカフェでカフェラテを買って駅へ向かう。 8:30 電車で立ってスマホをいじってると、ふと視線を感じる―― ……あ、あの人、また見てる。 ⸻ 「いやいやいや……なにが“また見てる”だよ……」 電車を降り、会社まで歩く途中、悠真はひとりで顔を覆って悶えた。 (俺、なにやってんだ……。朝から何通りの人生生きてんだよ……) でも、やめられない。 その妄想の中では、彼女は悠真自身であり、悠真がなりたかった“誰か”だった。 女子大生。一見、他愛ない存在。でも悠真にとっては、自由さや無垢さ、何かを始められる若さの象徴だった。 言い換えれば――人生をやり直したい願望の結晶。 「……やっぱバカだよな、俺。いや、知ってたけど」 ため息交じりに駅前のコンビニでホットコーヒーを買いながら、ふと振り返る。 そのときだった。 視線の先、向こうから歩いてきたのは、**“彼女”**だった。 黒髪に白ニット、ロングスカート、そしてカフェラテ片手にスマホを持っている―― (え……まさか、まんま、俺の妄想と一緒……!?) 思わず二度見してしまう。 その瞬間、彼女とバチンと目が合った。 「っ……」 彼女は一瞬、きょとんとした後、くすっと笑ったように見えた。 (え? 今、笑った? なんで!?) 戸惑う悠真。心臓は爆音。コーヒーの紙コップが震える。 だがこの時、彼はまだ知らなかった。 彼女――**一ノ瀬紗月(いちのせ・さつき)も、まったく同じように、「彼になった自分」**を妄想していたことを。 第二章:取り違えられた現実 事件は、月曜の朝に起きた。 その日、秋元悠真はいつもより3分遅れて駅に着いた。ギリギリの乗車で駆け込んだ電車の中、人混みに押されてバランスを崩し、目の前にいた黒髪の女子大生と、ごっつんこ。 「あ、す、すみません……!」 「あ、いえ、大丈夫ですっ」 彼女――一ノ瀬紗月は、軽く会釈をしてスマホを拾い上げた。 悠真もまた、手元にあったスマホをポケットにしまい、そのまま電車の揺れに身を任せた。 ……しかしこのとき、彼らは同じ型・同じ色のスマホを取り違えていた。 ⸻ 夜。 「やっと帰れた……」 スーツのボタンを外しながら、自室でダラッとソファに倒れ込む悠真。 その手には、いつものスマホ。ロックを解除して……ん? 待てよ? 「壁紙、こんなんだったっけ……?」 淡いピンクに、ゆるふわ系のウサギのスタンプが並ぶロック画面。 (ん? ん?) 通知には、謎のLINEが並ぶ。 《ゆかちん♡:今日のプリやばかわ!!保存するねん(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎)》 《メグ:イケメンいた!写真送る!》 「……ゆ、ゆかちん? メグ? なにこれ?」 中身を開いて確認してみると、そこにあったのは―― 【今日も“あのサラリーマン”に見られてしまった。てか、あの人絶対Mっぽい】 【たぶん、スーツの下で地味に腹筋割れてて、シンプルな黒のボクサーパンツ履いてそう】 【それで家ではスーツ脱いで、グレーのスウェット着て晩酌してんの。で、いつも寂しそうにテレビ見てるんだよ……】 【……あれ、好きかも】 「お、おおおおい!! なにこれ!? 完全に俺じゃん!!てか、めちゃくちゃ観察されてるし!!スウェットって……着てるし!!」 全身の血が逆流する。 彼女のスマホには、自分を主人公にした妄想日記が、何十件も保存されていた。 (やばいやばいやばい、これ、俺とんでもないことになってる……!) 一方その頃。 紗月の部屋では、同じように絶叫が響いていた。 「……は!? なにこれ!? 女子大生になりきった日記!?」 【今日は黒タイツ。自分で履きながらちょっとテンション上がってる自分がいる】 【電車の中で隣のサラリーマンがちょっとだけ見てきた……気がする。え、てか、この人、見慣れてる?え、もしかして運命!?】 【放課後は、あの古着屋でパステルカラーのワンピ試着して、可愛いって言われたい人生だった】 【てか、可愛いって言われたいって、誰に?……いや、あの人に……?】 「キッモ!! え、てか誰これ!? 完全に私の人生勝手にエンジョイしてんだけど!!古着屋!?パステル!?勝手に服選ばないでくれる!?」 そして画面に映る、スマホ本体の設定情報。 ――所有者:秋元悠真 「お前かーーーッ!!!」 そう。電車でぶつかったあの瞬間。 二人はお互いの妄想日記が入ったスマホを、**完ッ全に取り違えていたのだった。 ⸻ 翌朝。 電車内で再び出会った二人。視線が交差する。 お互い、すべてを知っている目。 (こいつ……俺の黒タイツ日記、読んだな……) (こいつ……私のボクサーパンツ考察、読んだな……) そっと逸らす視線。だけど次の瞬間、同時に思った。 (ちょっとだけ、続きが気になる……) 第三章:妄想で会いにいく 「……あの、これ、ありがとうございました」 日曜の午後。都内の駅近カフェ。 初めて“現実の自分”として向かい合った二人は、妙な空気の中でスマホを交換していた。 「いえ……そっちこそ、失礼しました」 カップのコーヒーを挟みながら、しばらく沈黙。 (喋りづらい……) (だって、コイツ、自分がタイツ履いてるとこ想像してたやつだし……) (てか、こっちのセリフじゃボケ。お前は俺のボクサーパンツの色まで当ててきた変態だろ……) 気まずすぎてテーブルの木目がめちゃくちゃ細かく見える。 でも、お互い、何も言わないわけにはいかなかった。 「……あの、その、俺の、妄想……見ました?」 「……見ました。あと、あなたも……見ましたよね?」 「……ごめんなさい」 「……こっちこそ」 再び沈黙。 だけど、数秒後。ふたりは目を合わせ、ついに――吹き出した。 「いや、ちょっと! “タイツ履いてテンション上がってる自分がいる”ってなに!? 私そんなこと思ったことないし!」 「うるさい! “家でグレーのスウェット着て晩酌してる寂しそうな人”とか勝手に孤独背負わせんなよ!」 「でも合ってましたよね?」 「……ぐぬぬ……」 そこから会話は一気に砕けた。 妄想がバレたからこそ、逆にさらけ出せた。 そして話は、自然と“お互いの中で一番エグかった妄想”に発展していった。 ⸻ 「……で、あの、その……俺、なんかのとき、あなたが、パンケーキ食べてるとこ想像してて……」 「……うん」 「生クリームがちょっと口についちゃってて、それを指でぬぐって、ペロッて……」 「ぺ、ペロッて!?」 「……それを“自分でなめるのちょっと恥ずかしい”って思ってるとこまで想像してました……」 「ッッ!! 最低!! 変態!!」 「ごめんなさい!!!」 「でもこっちだって……“お風呂あがり、下だけバスタオル巻いて冷蔵庫から麦茶取り出すときの後ろ姿”とか……」 「うわーーーッッッ!! いやだーーッ!! 想像されてたーー!!」 「しかもそのとき、ちょっとタオルずり落ちそうで、慌ててキュッて結び直すんです!」 「臨場感がすごいのよ! てか、なにそれAVのワンシーンかよ!」 「AVじゃないです!!ドキュメンタリーです!!」 「勝手に私の生活をドキュメンタリーにしないでください!!」 バカみたいな会話が止まらない。 けれど、笑っているうちに、互いの距離は少しずつ、近づいていた。 「……あの、こういうの、続けてもいいですか?」 「“こういうの”って?」 「……その、妄想。お互いになりきって書くの。LINEでやり取りしながら」 「え、なにそれ……めっちゃ面白そう」 「ですよね!?」 「てか、勝負しましょうよ。“どっちがより相手になりきってエロ……いや、リアルな日常を書けるか”!」 「エロって言ったよね今!? 絶対言ったよね!!」 「言ってません!」 「言ったあああ!」 こうして、“妄想交換なりきり日記”が始まった。 彼女の名前で生きる彼と。彼の生活を妄想する彼女と。 スマホ越しに、現実よりずっと素直な自分をさらけ出しながら―― 二人の“妄想恋愛”は、少しずつ現実へと向かっていく。 第四章:理想の私と、本当の私 「……もうやめません?」 金曜の深夜、布団にくるまった一ノ瀬紗月は、スマホを握りながら呟いた。 「これ以上やったら、もう……戻れなくなるかも」 画面には、たった今届いた、秋元悠真の“なりきり妄想”が表示されている。 《今日は寒かったから、紗月は部屋にこもって、ふわふわのルームウェアに着替える。 でも、下は履かない。もこもこのパーカーだけ。 そのままベッドにごろんとして、スマホで動画を見ながら―― 気づくと、自分の太ももをすりすり撫でてる。 ……自分の肌の、やわらかさに、なんとなく、うっとりしてる》 (いや、うっとりしないし! しないけど……) でも、読んでるうちに、なんか、ムズムズしてくる。 「こんなふうに見られたい」っていう、**“女の子としての理想像”**が、そこにはあった。 「……私、こんなに柔らかくないし」 でも、ちょっとだけ触ってみる。 脚に手を置いて、さすってみる。……たしかに、まあ、少しくらいは柔らかい。たぶん。 「……は? なにやってんの私」 布団の中でゴロゴロ転がる。 一方その頃。 同じようにベッドの中で、秋元悠真もスマホを睨んでいた。 《今日の悠真くんは、残業帰りにコンビニでビールとチーズ鱈を買って、スーツを脱ぎながらこう思う。 “今日も一人か……” でもそのあと、シャワーを浴びて、バスタオル一枚で冷蔵庫の前に立つ。 ……ふと、自分の胸板を触ってしまう。 疲れのせいか、それとも、誰かに触れてほしかったのか。 そのまま、壁にもたれて、しばらく目を閉じる》 「いやいやいや、そんなAVみたいなムードで麦茶飲まねぇよ! 俺は!」 でも、ちょっと触った。胸板。 「なんか、そういう雰囲気で過ごしてる俺、ありなのか……?」 お互い、完全になりきっていた。 “異性として、相手が望む自分”になっている。それが、たまらなく心地よくて、やめられなかった。 ⸻ そして翌日。 二人は再びカフェで会った。お互い、ちょっとだけ視線を避けながら。 「……昨日の、読んだ?」 「読んだ」 「……あのさ。ちょっとさ。あれさ」 「うん、うん」 どっちも言えない。でも、どっちも続けたい。 「てか、さ……俺たち、リアルで会ってんのに、LINEでは“下だけルームウェア”とか“バスタオルで冷蔵庫”とか……やってるの、やばくない?」 「やばい。でも……面白くない?」 「……面白い」 そしてまた、画面越しに新たな妄想が始まる。 《紗月は、深夜ひとり、机の前でリップを塗ってみる。誰に見せるわけでもないのに。 その指先がふと、首筋に触れる。 “誰かに、ここを噛まれたい”って思う。でもすぐに、自分で首を隠す。 そんな自分が、ちょっとだけ、嫌いじゃない》 《悠真くんは、会社帰りの電車で、ふと目を閉じる。 妄想の中の“紗月”が耳元で囁く声を、思い出している。 「ねえ、今日の妄想、もう少し激しくしてもいい?」って。 目を開けると、そこには普通の日常があるのに、頭の中ではずっと、 彼女の声が、髪が、匂いが、こびりついて離れない》 現実と妄想の境目が、どんどん溶けていく。 だけど、ふたりはまだ気づいていない。 この全てのやりとりが―― 見知らぬおじさんのスマホの中で、空想されているだけだということに。 第五章:好きになる前に、バレたら負け 「ちょっといいですか」 いつものカフェ。日曜の午後。 紗月が真剣な顔で切り出した。 「え、なに……こわ」 「大事な話です」 まるで別れ話でもするかのような表情で、彼女はスマホを差し出した。 そこには、今朝送られてきたばかりの“なりきり妄想”の最新作が表示されていた。 《今日は誰にも会わない日。 紗月はベッドの中で、クッションを抱きながら、着ていたTシャツの中に手を入れてみる。 胸じゃない。お腹。おへその周りを、そっとなぞるように。 自分の体が、ほんの少し火照ってるのを感じながら―― そのまま、目を閉じた》 「……これは、どういうつもりなんですか?」 「いや、あの……その……ちょっと、気分が……盛り上がっちゃって……」 「正直に言ってください。これは……もう、“妄想の域”を超えかけてますよね?」 「…………すいませんでした」 沈黙。 しかし次の瞬間、紗月はテーブルの下でそっとスマホを操作し、送信ボタンを押した。 秋元のスマホが震える。 《悠真くんは今日、なぜか寝苦しくて、夜中に目を覚ます。 パジャマの首元を引っ張って、首筋に手を当てると、汗ばんでいた。 ふと、夢の中で“紗月”が言った言葉を思い出す。 「もっと、ちゃんと、触って」 ――目が覚めても、その声だけが残ってる。 手のひらが、ゆっくりと、胸をなぞっていく。 自分でも、止められない》 「お、おい……」 「……おあいこです」 「ちょっと、ギリギリどころじゃないよねこれ!?」 「どっちが先に“明確な一線”を越えるか、試してみませんか?」 ふたりの関係は、明らかに変わっていた。 ただの妄想遊びなんかじゃない。これはもう、擬似的な恋愛だ。 でも、“先に現実で好意を示したら負け”という空気が、ふたりを縛っていた。 「俺、さ。……ほんとは、もう何回も、電話しようと思ったんですよ」 「うん、わたしも。でも……なんか、壊れそうで、怖くて」 「“理想の相手”でいられるのって、妄想の中だけかもしれないじゃないですか」 「うん……」 「でも、本当は――」 その瞬間、彼のスマホが鳴った。通知。 「……ん?」 画面には、見慣れないアカウント名のコメント。 《この妄想スレ、エグすぎて草。 てか、“おじさんの空想”って設定、マジで笑えるwww もっと更新してくれ。こっちは無料で読めるだけでありがたいwww》 「え?」 「……なに、それ」 彼の手が震える。画面には、見覚えのない投稿サイト。 そこには、これまでの“妄想なりきり”のやりとりが、全てテキスト形式で掲載されていた。 タイトル:妄想することから始まる恋 著者:@sai_no_ossan_48 ジャンル:日記・擬似恋愛・なりきりチャット・ちょいエロ 概要:若者になりきって、理想の男女の恋愛を妄想してます。温かい目でどうぞ。 「……え? これ、誰?」 「@sai_no_ossan_48って……“おっさん”? “48”?」 二人は顔を見合わせる。血の気が引いた。 「ちょ、待って、これ……全部、投稿されてたってこと?」 「てことは……この“紗月”も、“悠真”も……?」 「…………」 背筋が凍る。 スマホの通知は止まらない。「エロい!」「もっとやれ!」「今夜も頼むぞおっさん!」 それを、全国の読者たちが、笑いながら読んでいたという現実。 そして、画面の片隅に、ひとつの固定コメント。 《彼らの恋は、僕の妄想から生まれました。 でも、いつか彼ら自身が、自分で恋をするようになるまで。 おじさんは、見守ってます――》 ふたりは、ゆっくりと、スマホを置いた。 現実と妄想の境目は、完全に壊れた。 最終章:さようなら、理想の私 「全部、妄想だったんだって」 その言葉を、何度も反芻した。 日曜の夜、紗月は自分の部屋の隅に座り込んで、何も言えずにいた。 画面の中にあった「紗月」と「悠真」は、自分たちではなかった。 おじさんの妄想が生み出した、理想の男女。 “下だけ履かないルームウェア”も “汗ばんだ胸板をなぞる残業帰り”も 全部、“リアルに存在しない自分”だった。 でも―― たしかに、その中で、笑って、照れて、少しだけドキドキしていたのは自分だ。 「……だったら、なんで泣いてんの、私」 気づけば、涙が頬を伝っていた。 “演じていただけの恋”に、本気で心が動いていた。 一方その頃、秋元悠真も、自分の部屋でスマホを睨んでいた。 あの投稿サイトは、今も更新されていた。 最新記事のタイトルは―― 《最終回:ふたりが、自分で選ぶ未来の話》 本文はこう締めくくられていた。 《これは妄想。だけど、もし彼らが本当にどこかにいて。 この物語を見て、何かを選んでくれるなら―― おじさんは、妄想した甲斐があったと思う。》 「…………」 画面を消し、スマホをポケットに突っ込むと、悠真は立ち上がった。 ―翌日、昼。 紗月は、駅前のベンチにいた。寝不足のせいか、少し顔色が悪い。 そこへ、息を切らせて走ってくる悠真。 「……いた!」 「……来ると思ってた」 「来ないと、思ってた?」 「……五分五分。でも、嬉しい方だった」 沈黙。 誰も“なりきり”していない。本当のふたりだけが、目の前にいる。 「なんかさ……バカみたいにリアルだったね」 「うん。でも、あの妄想の中にいた“理想のわたし”……ちょっとだけ好きだった」 「俺も。あんなカッコつけた妄想、ほんとは絶対言えないけど…… あの中にしかいない俺、たぶん、紗月に恋してた」 ふたりは、顔を見合わせた。 「だから……」 紗月が言う。 「今度は、リアルのわたしで、勝負させて」 秋元は笑って頷いた。 「もちろん。そっちの方が、よっぽど……エロいしな」 「ちょっ、なにそれ!」 「いや、真面目な意味で! 妄想じゃなくて、ちゃんと恋する方が、エロいんだよ」 「意味わかんないし!!」 笑い合う。ようやく、本物のふたりとして。 そして、場面は切り替わる。 画面の中。 おじさんが、パソコンの前で黙ってキーボードを叩いている。 部屋の中には、何百枚ものスクショ、書きかけの妄想ノート。 画面には、最終話を公開した直後のアクセス数が跳ね上がっていた。 おじさんは、ゆっくりと投稿サイトの管理画面を閉じる。 そして、ひとり言。 「……やれやれ、若いってのは、いいもんだな」 モニターの前で、微笑むおじさんの目はどこか寂しげで、どこか誇らしげだった。 ―これは、恋にすらなれなかった妄想の物語。 だけど、たしかに誰かを想った痕跡。 だから、ふたりは言う。 「さようなら、理想の私」 「こんにちは、本当の君」
逃げる
何から逃げるかって? それは 自分の考えから 誰かからの悪評から 誰かからの祝福とか