山田ヤマダ
7 件の小説流木
淡々と流れる。抗えず。 根っこから身体が折れていた。 痛みは無いけど、住処を失った気分になる。樹液と流水の区別もつかないくらい体がびちゃびちゃになっている。身体についていた虫は逃げただろうか。飛べない奴らは皆水の中に沈んだだろうか。 凄く揺れた感覚がした。大きい石の段差に引っかかった。体勢が少し、崩れてしまった。 昼過ぎ、晴れていた。僕のすぐ側で男の子たちが眠っていた。あどけない鼾と寝息が伝わってくる。 親はどうしたんだろう。そんなことを考えながら、僕もただぼーっと突っ立っていた。 お昼ご飯はまだ食べてないのかな。今日は友達もすぐ近くにいるし、お菓子とお弁当を寄せ合わせて食べた。 食べ終わってそのまま寝ている。ゴミや少しだけ残ったお弁当を置いたまま。 震える。 身体から虫達が離れていくのを感じた。 ありえないほど震える。 男の子は目を覚ました。 早く逃げて ここは 海のすぐ近くの森。 あまりにも大きな波。ほとんど水の壁がそのまま押し寄せてきている感覚。 身体が根元から折れた。激しく音を立てて地面に倒れた。 地面からの振動はまだ続いている。海から津波など既に到達している。 男の子の姿が見えない。津波にだけは飲まれるな。逃げて。おねがい。 周りから叫び声が聞こえる。波が船ごと押し寄せてきてる。漁師の無惨な姿が水の中でうようよとしている。 僕の身体の真下。 なにか、いる。 人の身体がある。 細い腕に、短く小さい足。 子供用の、グチャグチャに変形した帽子。青色だったのに茶色と赤色が混ざってる。 手足はとても見慣れているものだった。 青い空。濁った水。 晴れたようには全く見えない。 僕はどこにたどり着くんだろう。折られた木はどうなるんだろう。 既に僕は棺桶、使用済み。 生者の真上から棺をどん。 淡々と流れる。抗えず。 ごぷり、どろり、ずるり。 原型も残っていじゃないか。 棺桶なら最後まで、弔ってやらないと。 男の子は少しずつ離れていく。 土の上に打ち上げられた。 左腕と右足は遅れて流れた。 ぷにぷにとしていた肌がねちょねちょしてる。触らなくても見るだけでわかる。 僕のささくれた木肌の間に、少年の爪や髪の毛がびっしりと詰まっている。 波に揺られるたび、それらが粘膜質な音を立てて僕の幹にこびりつく。 腐った海水と、ぶちまけられた内臓の臭いが、太陽に熱せられて鼻をつく。 僕が動くたび、僕の下でぐちゃりと何かが潰れる音がした。 男の子の顔が、笑ってた。 打ち上げられた男の子を見た。 首から上がなにか足りない。 ここにあった。 あどけない顔。いつ見ても辛い。 しっかりと、笑っていた。今にも喋りそうな。 淡々と流れる、抗えず。 あゝ 生きているかのよう。 周りの木も、随分無残に薙ぎ倒されてる。枝に飛んできた漁師が刺さってる。 この顔を見るだけで全部どうでも良くなる。 流れに身を任せる。軽くなる。 笑う。 流れる。
淡雪
いつもと同じベージュ色のコートと黒い革靴を身につけて彼女はそこに現れる。竹田聡太郎(たけだ そうたろう)もマフラーを巻き直し、曲がったネクタイを直して彼女の元へ歩み寄る。 「聡太郎さん、こんばんは」 相沢佳奈美(あいざわ かなみ)の明るい挨拶に、聡太郎もこんばんは、と返した。 「暖かそうですね、そのマフラー」 佳奈美は聡太郎の赤いマフラーを指した。 「寒いでしょう、貸しましょうか?」 「今は大丈夫ですよ」 佳奈美は黒く長い、艶のある美しい髪を靡かせて聡太郎を導くように歩き始めた。いつも主導権を握られるのは聡太郎だった。 しばらく雑談を交わしながら歩いた。今日は酷く寒い、最近読んだ本は何か、など他愛もない質疑応答や世間話を繰り返した。 夜二十三時の横浜は騒がしい。信号機はカッコー、カッコーと音を鳴らしながら色を変え、人々の会話や喧騒もうるさいほど聞こえてくる。 「もしも、今雪が降ったらどうしますか?」 佳奈美は珍しく自分から質問をした。 「雪が降ったら、ですか」 聡太郎は無難に、傘を差すかタクシーを呼びますねと答えた。 「都会人らしいですね、聡太郎さん」 「札幌では違うんですか?」 「札幌でも傘を差す人はいますけど、大抵はジャンパーのフードで過ごしますよ」 聡太郎は、へえ、とだけ返した。かなり突然の問で、何を返せばいいか上手く喋れなかった。 いつもコートの袖を下ろして手首を隠しているが、今日はいつも以上に袖を下ろしていた。 二十分ほど歩いた後、目的地に到着した。 「佳奈美さん、ここが」 「ええ、私の家です」 目の前にあったのは少し大きめなアパートと、『相沢』という名札が付いた一室だった。 再び聡太郎は冷えた手でネクタイのズレを直し、髪型を軽く整えた。 「汚いし、ちょっとボロい家でごめんね」 佳奈美はベージュ色のコートを掛けながら言った。 いやいやそんな事ない、と聡太郎は必死に手と頭を横に振った。ただ体はまだ固まっている感覚がしていた。 アパートの一室にしては広く感じられた。緊張でアパートの広さなどもはやどうでも良くなっていたからだ。 「ごめんね、そこ座って」 佳奈美は長テーブルのすぐ近くを示し、聡太郎は言われた通りそこに座った。佳奈美は聡太郎と向き合う形で座った。 「ひとつ、聞いて欲しいことがあるの」 深刻な顔をした佳奈美を見て聡太郎は慄いた。彼女のこのような顔を見るのは初めてだったからだ。 二つ返事でうん、と言った。 少しの間、沈黙があった。佳奈美は淡く煌びやかだった瞳で聡太郎を見た。 「三日後に、神奈川から引っ越すことになって――」 まるでその瞬間以外、幻だったかのようだった。 今日の横浜は珍しく雪が降った。聡太郎は傘を差して街を歩いた。今日はいつもに増して足取りが重かった。 巻き直されていない赤いマフラーは、聡太郎が歩いているうちに肩から徐々にずり落ちてきている。 あと二日で彼女が引っ越す。 忘れなければならないのに、脳みそにその事実が焼き付けられている。 「聡太郎さん」 後ろから女性の声が聞こえた。聡太郎は振り向くのを一瞬躊躇ったが、ゆっくりとその美しい顔を見た。 「佳奈美さん」 それ以降は言葉が出なかった。出せなかったのだ。 「本当に、本当にごめんなさい」 佳奈美は深く頭を下げた。 聡太郎はその光景に対し無性に腹が立った。愛する女性が頭を下げている。自分に向けて。 「頭を、上げてください」 辛うじて口から出た言葉はこれだけだった。それ以降はやはり言葉が出なかった。 頭を上げた佳奈美も、しばらく黙った。 向き合ったまま、数十秒ほど時間が止まった。たった二人で、虚無の世界に取り残されたような気分だった。 「あの」 佳奈美は重たい空気を割いた。 「離れても――忘れないでください」 その一言だけ言って彼女は去っていった。 「待ってください」 気づいた時には呼び止めていた。 「どうしましたか?」 「どうして、引っ越すんですか」 その質問で佳奈美は、彼女の自宅で見せた顔のように真剣な顔付きになった。 「それは」 少し間を置いて、彼女は言った。 「言えません」 駆け足で聡太郎の元から去って行った。 佳奈美の手提げバッグから何かが落ちた。言おうと思ったが、こんな空気でそれを言い出せるわけもなかった。 白いハンカチだった。雪の上に音もなく被さったそれは、やがて雪と見分けがつかなくなった。 ゆっくりと聡太郎はハンカチの元に歩み寄り、拾い上げた。 ハンカチの裏側には、何かを拭き取った跡があった。 赤色の、何かだった。 あての無い喪失感に襲われた。ここぞとばかりに降る雪は聡太郎の傘を白く染めた。 我の恋路を見よ、こんなに惨めだろうと叫びたいほど愉快な気分だ。自分にできることなど何処にもないのだから、変に抱える必要などない――と、聡太郎は自身に嘘を吐いた。 再び聡太郎はハンカチに視線を下ろした。やはり赤い何かは変わらずに付着している。 聡太郎はしばらくハンカチを見つめた。 綺麗な白色の中に、平穏を崩すかのような激しい赤色が付着している。一周まわって美しくも見えるのは気の所為だろうか。 気を落としながら聡太郎は本来の目的を忘れ自宅へと帰っていった。 彼女は―― 元々友人の家を訪れる予定だったが、とても行く気になれなかった。佳奈美のことだけが聡太郎の脳内に広がっていた。 あの時、佳奈美があそこを歩いていた理由はなんだろうか。 「本当に、本当にごめんなさい」 あの言葉が脳裏に焼き付いて離れない。自宅のソファで何も無い部屋の一点を見つめながら反芻する。 「三日後に、神奈川から引っ越すことになって――」 「ちょっと、まってよ」 聡太郎はまず現実を疑っていた。 「引っ越すって、そんな急に」 「謝ります、聡太郎さん。本当にごめんなさい」 頭を下げて佳奈美は深く謝罪した。 「僕に謝ったるったって、そんな――」 その後の言葉を聡太郎は口にしなかった。言ってしまえば取り返しのつかない事が目に見えているからだ。 部屋に重い静寂が訪れた。何分経ったかはよくわからなかった。 頭を戻した佳奈美は、下を向いたまま動かなくなっていた。呼吸音すら聡太郎の耳には届かなかった。 「今日は」 重い口をようやく開けた。 「今日は、一度帰らせてもらいます」 佳奈美は何も言わず、言い返さず、下を向いたままだった。 しばらく彼女の様子を見た後に、聡太郎は素早く立ち上がってそそくさと玄関の戸を開け寒い外に出た。 冷たく乾燥した空気は、心に追い討ちをかけていた。 寒い、苦しい、辛い。 部屋の暖房をつけ忘れていた事を聡太郎は思い出し、電気ストーブの電源を入れた。 すぐには暖かくならなかった。 スマートフォンには不在着信が二件と、メッセージが一件届いていた。大方友人からだろうと、聡太郎は思った。 「もういいよ」 想像していたよりも冷たい文字列だった。体調でも悪いのか、用事があるなら言ってくれよ等の言葉を待っていたのが馬鹿らしく感じられた。 案の定、不在着信も二件とも友人からだった。何も言わず聡太郎は既読だけを付けて無視した。 ストーブは僅かに暖かくなっていた。あと二分もすれば部屋も暖かくなるだろうと聡太郎は思った。 突然、ひとつの嫌な考えが聡太郎の頭に浮かんだ。彼女――相沢佳奈美は、自分のことが嫌いなのではないか。 自分が嫌いだから、引っ越すと言って距離を取ろうとしているのではないか。もしそれならば、引っ越しの話は嘘になる。今日街中で理由を尋ねても言えません、と言っていたのは嘘だからか。 いつの間にか部屋は暖かくなっていた。しかし部屋の温度計は十八度を指していた。 彼女は嘘をつくのが下手くそだった。 まともな引っ越しの理由なんて考えられなかったのか。 ならば、何がきっかけなのか。 僕は何かしたのか?何かが彼女の気に障ったのか? ピンポーン。 チャイムが鳴り響いた。誰かが部屋に訪れたのだ。 知らぬ間に額に汗をかいていた。温度計は十九度に上がっていた。少し、熱くなりすぎてしまったようだ。 聡太郎はふらふらとよろけながら玄関に向かい、ドアスコープを覗いた。 「聡太郎さん、いますか」 いつもと打って変わって、か細い声で佳奈美は聡太郎の名を呼んだ。この一瞬で、さらに体温が上がったのを感じた。 「か――」 上手く声が出せなかった。というより、彼女の名を呼ぶことが出来なかった。 聡太郎は何も言わず、玄関の扉を開けた。 「聡太郎さん」 儚げながらも笑顔の佳奈美は、淡い光を含んだ瞳で聡太郎の顔を見つめていた。 「行きましょうか」 ええ、と一言だけ佳奈美は言い、横に並んで歩いた。 ふと聡太郎は出会ったときを思い出した。あの日も今日のように、少し肌寒い秋の季節だった。街のブックカフェでのことだ。 「それ、この作家さんですよね」 佳奈美は自身の文庫本の作者名を指した。 もう片方の手には指の間にハンカチが挟まっていた。 「あ、ええ――中山七里さんです」 「私も好きなんですよ、中山七里先生」 そんな会話を思い出し、聡太郎は佳奈美の顔を一瞥した。これが一か月前の話だった。 「どうしました?」 「いえ、何でも。気にしないでください」 佳奈美は視線を前方に戻し、少し口角を上げていた。 この日は、例のブックカフェに一緒に行く約束をしていた。各々読みたい本を持ち込み、ただ一緒に同じ場所で読むだけ。 カフェが見えた頃、突然佳奈美は立ち止まった。 「聡太郎さん」 彼女は顔を上げ、聡太郎の顔を見つめた。 「ありがとうございます!」 世界の見え方が変わった気がした。 何気ない感謝の一言が、聡太郎の恋心を刺激していた。もはや誰にも彼女を泣かせることはできない、と聡太郎は確信していた。 夢は一瞬で幻となった。 佳奈美はあの日と同じように、聡太郎と向き合って顔を見合わせていた。 「聡太郎さん……」 玄関のドアの先に佳奈美が立っている。佳奈美の顔は何かを心配するような、怖がるような、怯えた表情に聡太郎は見えた。 「上がっても、いいですか?」 外はしんしんと雪が降っていた。ベージュ色のコートは雪色に染まった部分が何箇所か存在している。 何も言わず聡太郎は、玄関の扉を開けたまま部屋の中に戻った。佳奈美も少しの間を空け、部屋の中に入った。 「あの、聡太郎さ――」 「座るならどこでもいいですよ」 佳奈美の言葉を遮るように、聡太郎はすかさず言った。 怒りかわからない。まだ彼女が何を思っているのか、ましてや自分が何を考えているのかすら聡太郎は有耶無耶になっていた。 結局佳奈美は立ったままそこで話し始めた。 「私――引っ越すって、言ったじゃないですか」 「ええ」 短く、冷たい返事になってしまう。意識して話しているわけではないのに、と聡太郎は思いながらも話す。 「明後日には引っ越すんでしょう?」 「ええ、まあそれはそうなんですけど」 「何かあるんですか?」 強めに言ってしまった。 「いえ――伝え忘れていたことがあって」 躊躇った様子で佳奈美は言った。それに対して聡太郎は深堀するような質問はしなかった。 「少し、事情が変わってしまったんです」 その先は聞きたくなかった。 「今日の夜八時には――」 「佳奈美さん」 聡太郎はそれは認めんと遠回しに表現した。 「ハンカチ、落としてましたよ」 そう言って赤い染みの付いた白ハンカチを佳奈美の前に提示した。佳奈美はただ見つめるだけで、暫く受け取ろうとしなかった。 怒りとして聡太郎の感情が伝わったのか、佳奈美が険しい顔になった。 その時、突如彼女は聡太郎の手からハンカチを乱暴に奪い取った。険しい表情は一切変わらなかった。 「なんで持ってるの?」 軽蔑したような声で、佳奈美は聡太郎を見下した。彼女の瞳は憎悪と美しさが共存していた。 圧に圧倒されたか、不貞腐れたか。自分でも何故かはわからない。何故ここで口を開けなかったのか。 遂に彼女は踵を返し、部屋から飛び出ていった。 聡太郎は強く舌打ちをした。本心では無いことは確かだったが、空気に流されてしまった。 午後六時三十分、聡太郎の自宅。男はただ一人で項垂れていた。 何も聞けなかった。 引っ越しの理由も、ハンカチの赤も。知りたいことがあって招き入れたはずだったが、くだらない会話だけをしてその場は終わってしまった。 自身の態度に問題があったのだろう、といつまでも聡太郎は引きづっていた。ただの推測を事実として無意識に受け入れていたからか、場の空気に流されてしまい感情的になってしまったか、そうではなかった。 自分に嘘をついていたからだ。 女性一人も笑わせられない男は失格だろうか。 聡太郎は吐き気がしてトイレへと向かった。逆流してきた胃酸は酸っぱい味がする。魂を吐き出してるようで、気持ち悪さより、寧ろ開放感がある気がした。 ふと外をみた。雪は全く降っていない。 あの日の景色がずっとフラッシュバックしている。 「もしも、今雪が降ったらどうしますか?」 記憶というより呪縛に近かった。何時まで僕はあの女を引きづっているのか。未練タラタラの学生のような恋心を抱くのはもうやめにしたかった。 一旦落ち着くためソファに深く座り込んだ聡太郎は、スマートフォンのメールアプリに通知が来ていることに気づいた。 送り主は、相沢佳奈美だった。 二件のメッセージが届いている。 「七時にカフェに来て」 「最後に、面と向かって言わせてほしいことがある」 狂ったのだろうか。 あれだけ怒っておいて、もう言いたいことなどないのではないか。聡太郎はスマホを適当に放り投げた。 「三日後に、神奈川から引っ越すことになって――」 全てが幻であって欲しかった。 こんな感情になるならば、恋など二度としたくないほどだ。 こんなもの――放っておけなくなるじゃないか。 聡太郎は慌てて外出の支度を始めた。この際、最早財布やスマホなど必要なかった。 はあ、はあと荒くなった息は白くなり、ガチガチの足は縺れながら動いた。 例えあんなに短い間でも、恋は確かにしていた。 聡太郎は走りながら思い返した。 「もしも、今雪が降ったらどうしますか?」 「私も好きなんですよ、中山七里先生」 「本当に、本当にごめんなさい」 聡太郎さん。 誰かを本気で愛したことなど何時ぶりだろうか。たった1ヶ月と少しの間の思い出を振り返りながら聡太郎は走った。 午後六時五十六分、例のカフェが見えてきた。 店の前では、見慣れたベージュ色のコートを着た女性が誰かを待っていた。聡太郎は息切れしながら時間を確認し、少しホッとした。 「佳奈美さん」 呼吸を整えながら彼女を呼んだ。 「聡太郎さん」 俯いたまま佳奈美は聡太郎の名を呼んだ。 暫く沈黙が続いた。どんな時間か、何のために来たのか、そんなことを考える余裕は無い。 「言いたいことって、なんですか」 聡太郎は最後の勇気を振り絞り、彼女の口を開こうとした。 彼女は全く口を開かなかった。再び数十秒の沈黙が訪れる。聡太郎の呼吸は既に整っていた。 長い髪で彼女の目はよく見えなかった。しかし聡太郎には見えたのだ。彼女の目から垂れる、一筋の涙が。 何も言えなかった。 そのまま彼女は聡太郎と反対側を向き、歩き始めた。 「佳奈美さん――」 それ以降の言葉は出なかった。名前を呼ぶだけで精一杯だった。 彼女は呼び止めてから五秒ほどして、歩みを止めた。 サッと振り返り、涙目になった顔を聡太郎に向けた。 「聡太郎!」 心臓の高鳴りを感じた。そして次に彼女は言った。 「ありがとうございます」 小さな雪が空から降ってきた。 午後七時二分、彼女の小さな背中は見えなくなった。雪と共に、小さな彼女は消えていった。 淡く脆い、だけど美しかった恋模様は、呆気なく消えていった。 聡太郎は一人、たった一言呟いた 「佳奈美――」 それ以上言葉はいらなかった。 肩には、小さな雪の結晶が乗った。
『嫌いな人』後編②
第六話『嫌いな人』 タツキは祖父母と核家族の構成、いわゆる大家族だった。 タツキのお父さんは浮気の末に夜逃げ。おばあちゃんは心臓病で亡くなってしまった。 3年ぶりに訪れたタツキの家は変わってなかった。 夏を感じる家、独特な匂い。 ……タツキが居ないこと以外は、何も変わっていなかった。 「ほれ、おやつ。」 いつもタツキのおじいちゃんは家に来た時、必ずお菓子を出してくれる。 「お茶も。」 出されるおやつは煎餅ばかりで、お茶も渋い。でも、それがとても風情があって好きだった。 「……嫌なら残してもいいんだよ。」 優しく、胸を包み込む。 蝉が鳴き始めた時期、木漏れ日の縁側でお茶を1口飲む。 昔からこの雰囲気が大好きだった。 タツキの家でしか味わえない、言葉で説明できない、その雰囲気が。 「お母さんのことは…いや、なんでもない。」 昔からタツキのおじいちゃんは気遣いがうまい。でも… 「あ!火消してない!」 どこか抜けているところがある。 少年院を出てからはじめて笑った。 「…そうか。」 少年院に入れられたこと。 転校しても救われなかったこと。 思ったこと全部話した。 「でも、さっき思ったんです。本当に最低な人間は、周りの大人たちじゃなくて自分なんじゃないかって。」 「ほお、なぜそう思った?」 「大人たちの中には、消防車を呼ぼうと電話した人がいたはずです。そして近くの男の人も、火から僕の身を引きました。」 話すうちに涙目になっていた。 「それに対して僕は…なにもしていなかったです。」 涙を流しながら話していても、タツキのおじいちゃんは何も言わず静かに聞いてくれていた。 一通り話し終えた後、タツキのおじいちゃんは言った。 「……もう言うことはないか?」 首を縦に振りおじいちゃんは続ける。 「こういう時、一番楽になれる方法を教えてやる。」 少し期待した。 「考えないことだ!はっはっはっはっは!」 期待した僕がバカだった。 「……疑ってるのか?はっきり言うぞ、辛いことがあった時は!忘れるのが一番いい。ずっと引きずってたって、いい事ないぞ?」 いま、その言葉で僕は気付いた。 周りの大人たちは皆嫌いだった。 でも違った。本当に悪いのは僕。 僕のいちばん嫌いな人は、僕。 この世でいちばん嫌いなのは、ただ決めつけていた僕だ。周りの大人は悪くない。 思えば自然な対応だった。 たとえ冤罪だったとしても、テレビが言ってるならそう信じてしまう。テレビ局の人が悪いように見えるが、ただ警察の話をまとめただけだ。 その警察も、利益が欲しいだけだ。利益が欲しいのは人の本能。僕だって例外じゃないのだから、あの若い警察も森山先生も夛田先生も、本能に従っただけ。何も悪いことはない。 「お茶飲んだら置いといていいぞ。」 コテージなどにある場違いな揺れる椅子に座っておじいちゃんは軽く寝た。 僕も、椅子に座ったまま寝た。 その四年後、現在。 いつも俺のそばに居たじいちゃんは、揺れる椅子に座ったまま目が覚めなくなった。 第七話『ユウタ』 春、夏、秋、冬。 季節は移り変わるが、同級生からのいじめは変わらない。 登下校中に石が投げられる。 泥や水をかけられることもあった。 その間の期間は常に、自分がやった事への報い。因果応報だと考えていた。 タツキへの贖罪の気持ちを、毎日抱えていた。 タツキの写真の前で合掌する。 「……ありがとうな、ユウタ。」 4年間も住んでいるうちに、じいちゃんとの仲は完全に家族となった。 「じいちゃん……ごめん。タツキのこと…」 「おい、前にも言っただろ?」 横に座って合掌する。 「気にしないこと。これが一番大事だ。」 数秒合掌した後、立ち上がって言った。 「わしは…お前が殺したとしても、殺してないとしても…今まで共に遊び、関わっていた時間は嘘じゃなかった。それだけでいいじゃないか。」 部屋の電気を消し、俺は布団に入った。 「じいちゃん……なんで今日は布団じゃないんだ?」 月明かりがさす縁側で、揺れる椅子にじいちゃんは座ってた。 「月明かりが好きなんだ。」 深呼吸してじいちゃんは続ける。 「……ユウタ。」 俺の名前を呼びじいちゃんはこっちを見る。 「おやすみ。」 「……ああ、おやすみ。」 いつも通り『おやすみ』と言ったことを後悔した日は今日の他になかった。 秋の終わり頃、午前四時。まだ外は暗かった。 月明かりの綺麗な夜、光を浴びていたじいちゃんは、笑顔で座ったまま……冷たくなっていた。 「じいちゃん…」 タツキを殺した。 いじめを受けた。 母さんと家をなくした。 じいちゃんが死んだ。 ここまでで、色んなものを失ってきた。 全て、気にしないように生きようと思った。 そこから3日間、中学生になった俺は制服を着て学校へ通う。 「あ、殺人鬼じゃ〜ん。」 特別支援学級に頼らず、勇気を出して教室に入ることになった。 教室では今までと変わらず、嫌がらせを受けるようになった。 「タツキのじいちゃんの家に住み着いといて、何でそんなに平気な顔してる訳?キモいんだけど。」 小学校のころタツキの彼女だったやつがいじめの首謀者だった。 いつもは気にせず、誤魔化すため笑顔を作っていた。 森山先生の笑顔を作る技術で作った笑顔。 でも、今日は耐えられなかった。 思いっきりその女に殴った。 「いった!!……なにすんのよ!!」 殴り返された。 取り巻きの女も加勢し、殴り続けた。 「タツキをっ……殺しといてっ……なに……殴ってんだよっ!!」 怒りすぎていて上手く文章が作れていない。 1発殴っただけでも、成長だと思った。 だけど、それ以上に受けたダメージがあまりにも大きすぎた。 家に帰る時、後ろから複数人に体を掴まれブレザーを破られた。 じいちゃんが金を出して買ってくれた、少し大きいくてボロボロなブレザー。 「お前のせいなんだからな。」 あの女たちは破れたブレザーを田んぼに捨てた。 わざわざお金を出してくれたブレザーを見捨てる訳にはいかなかった。 「見てあいつ!泥まみれになってまであんなボロボロのブレザー探してんだよ!?ほんと乞食だよねー!」 大笑いしながら女と取り巻きは帰っていった。 泥がついたまま家に帰った。制服のズボンは裾を上げて居たから無傷だったが、手と靴、靴下はびちょびちょだった。 泣きながら家に帰った。 今日の出来事だけでなく、今までの出来事を気にしなかった分の辛さが全部襲いかかってきた。 帰ってきて足の汚れを落とした。 靴下の泥を落とし、外に干す。 冷たくなったじいちゃんは、縁側に布団を敷いて寝かせた。 「月明かり、見えるか?」 相変わらず笑顔のままじいちゃんは寝ている。 じいちゃんの胸元に涙が落ちた。 1粒。 また1粒。 雨雲から雨が降り始めるように、1粒ずつ増えていった。 ありえないほど泣いた。左手に破れたブレザーの破片を握りしめ、右手でじいちゃんの顔を撫でる。 声を出して泣いた。 獣の咆哮のように、人の死を声を出して泣いた。 天井の電気を取り外し、縄を引っかける。 先を丸くして、首にかける。 ごめん、じいちゃん。 「気にせず生きるなんて、無理だったよ。」 足がブラブラし、少しずつ意識が遠くなる。 「…………え?」 目の前には光が広がっていた。 光と言うより、青空だ。 綺麗な、美しい雲も一緒に浮いてる。 花畑の上で寝ていたようだ。 「……そんな…なんで?」 目の前の少年はピースする。 「久しぶり、ユウタ。」 体が小さくなっている。 小学生の頃の、あの小さい体。 「……タツキ…ごめん……ごめんよ……」 タツキの胸に抱きついて、泣きながら謝った。 「僕…助けられなかった……僕が不甲斐ないから…」 僕の頭を胸から離し、タツキは言った。 「僕、わかってたよ。」 「……え?」 「あの枝、先の方にに毒持ってて、トゲがついてる枝だったよね?」 …あ…… 「僕にはわかってたよ…昔図鑑で見たよね、最悪死ぬ枝…そんな枝の存在、忘れるわけないじゃん。」 喉と心臓の狭間につっかえていたものが、綺麗に消えた。 あの時、わかってないと思ってた。 咄嗟にとった枝が毒付きだったけど、他に使えるような枝がなかった。 「だからユウタ…ユウタは悪くないよ。」 しばらく黙ってタツキはまた言った。 「それに、ユウタが自分を嫌う必要は無いよ。ユウタはさっき言ったみたいに、小さいことでも気遣える。そして…この7年間、ずっと僕のことを考えていた……まったく、抱えすぎなんだよ。」 目に浮かぶ涙を拭って続けた。 「誰も悪くないよ。これは、ただの事故。」 「タツキ……僕…」 「あとでゆっくり聞くよ、大丈夫だよ。」 何度も見たその優しい目に溺れそうだった。 「……あの世でも、僕と一緒にいてくれる?」 その言葉に言葉の返事は要らなかった。 ただ強く、タツキを抱きしめた。 足元の黄色いバラやライラック積んで、タツキに渡した。 「……よし…行こう、タツキ。」 「もちろんだよ、ユウタ。」 ずっと遠くまで広がる花畑と大空。 微笑むじいちゃんと、ぶら下がる僕。 もしかしたら僕の嫌いな人は、いなかったのかもしれない。 今までの人生で思ったんだ。 たとえ嫌いでも、その人はその人で、別の人生を歩んでる。それも、下手に壊してはいけない、尊い人生を。 「……ユウタ。」 病院で包帯に巻かれた僕のお母さんがテレビを見ている。 僕が自殺、そして老人の寿命死。 この世に嫌いな人がいても、干渉しては行けない。 本人の他に、誰が影響を受けるかよく考えて欲しい。 僕も、自殺したことを後悔している。 嫌いな人をこの手で消した感覚は、とてもいいものじゃない。 どうか、命を大切に。
『嫌いな人』後編①
第四話『郷愁』 常に後ろ指をさされる気分だった。 正直お母さんさえも僕の味方かわからない。 お母さんも内心僕の事なんかどうでもいいかもしれない。 少年院にいるままでよかったとか思ってかもしれない。 「ただいま。」 学校にお母さんは来なかった。 久しぶりに家に歩いて帰ってきた。 道中、ずっと辛かった。 隣町の学校だから学校は少し遠い。でも、まだそこまでは許せた。 同級生や、前の学校のクラスメート。何人も会った。 その度、石を投げられた。 何個も頭に、腕に、腹に、足に、背中に。 芸能人に向ける誹謗中傷のように。 他国の差別されていた人達を襲ったように。 ひたすらに石を投げられた。 「…お母さん?」 帰ってきてもお母さんの声はなかった。 玄関の奥から、どこかで嗅いだことのある匂いがした。 肉の、焼ける匂い。 懐かしい。家族みんなで川でBBQをしたあの日。 …川で思い出してしまった。もう考えないようにしよう。 家の中は暗い…そして火の光が部屋の奥から見えてくる。 今日誕生日だったかな…? ついにたどり着いたその肉焼き場。 色んな種類の肉が焼かれている。 お母さんもとても喜んで声を出している。 ムーッ、ムーッ…… なぜかお母さんは涙を流していた。 口はガムテープで止められている。 椅子に縛り付けられている。 我に返りそのお母さんの姿を見た。 嫌な寒気が背中を走った。 ふと肉が焼かれている方を見た。 少し尖っていて、 決まったところで曲がっていて、 10個焼かれている…… 「ムーッ!!ムーッ!!!」 お母さんのもがく声で家から逃げた。 あれは……明らかに。 指。 しかも焼いてる人は見たことがあった。 金髪で、頭が長くて、細長いあの体。 タツキのお母さんだ。 玄関まで走った。なぜか外が遠く感じる。 後ろにいるのは、タツキの遺体が見つかった日に僕をビンタした、あのタツキのお母さん。 お母さんを縛り付けて指を焼いてた。 何をしてくるかわからない。やめて…やめてよ。 やっと玄関を出たかと思ったときには、すでに後ろからタツキのお母さんが迫っている。 無言で赤く染った包丁を持って追いかける。 走りながら思い出す。ここを左に曲がれば、交番がある。 T字の通路を曲がり、すぐ近くの警察に助けを求めた。 2人いた警察はすぐにあの女を押えつけた。 そのとき寿命は確かに、何十年も伸びた。 だけど、とても複雑な感情になった。 2人の警察の1人。 「いいから『やった』って言えよ。ね?」 見直してはいけない。 僕の人生をめちゃくちゃにした一人。あの若い警察。 「大丈夫か!?……」 僕の顔を見た瞬間に気まずそうな顔をした。 「……ユウタくん。」 なんでここにいる?と続けるだろう。 こちらこそ言ってやりたい。なんでここにいる? 「…クソっ……」 不貞腐れた顔をして警察はタツキママの方へ向かった。 「6月9日午後4時27分。現行犯逮捕。」 必死にもがき僕を殺そうとする女。 離せ、私は悪くない、あのガキが息子を殺した。 そう叫び続ける。 若い警察の目は、共感の目をしていた。 …その女の目は、タツキにとても似ている。 怒っていても、喜んでいても、悲しんでいても。 奥には隠しきれない、優しい瞳がある。 今天国で、タツキは何をしているんだろう。 優しい目をしたタツキ。 ダメな時はダメと叱ってくれたタツキ。 溺れて苦しんでいたタツキ。 素早く下流に流されていくタツキ。 ……助からず絶望の目をしたタツキ。 あの時僕は、確かに助けようとした。 長い木の枝を持って、タツキに枝を差し伸べた。 タツキの掴まったその枝はポキッと折れた。 ……あれ? 第五話『贖罪と救済』 「ちょっと川近づこうよ!」 「え…あぶないよタツキ?」 「これくらい大丈夫だって!」 それが全ての始まりだった。 「ユウタ!ユウタ!!」 タツキの叫び声は右から左に流れて行った。 枝が折れた時、他の枝を取ろうとした。 枝を手に取って、タツキの方を見た。 ひたすらに僕の名前を呼ぶタツキ。 目に浮かぶ涙は川の水と混ざってわからない。 でもその目は、絶望してる目だった。 「助け……ユウタ……」 枝を差し伸べられなかった。 1度枝が折れて躊躇ったのかわからない。 本能が『差し伸べるな』と言っていたように感じた。 次第にタツキは見えなくなった。 静かに涙を流し、その場に枝を持ったまま立ちすくんだ。 交番の前で地面に膝をついた。 川でタツキが流された時のことを思い出した。 枝が折れたこと。 枝を差し伸べられなかったこと。 それを考えて思った。 僕が、タツキを殺した。 枝をさしのべられなかった僕のせいだ。 「お前が……!!!…お前が殺したんだガキがぁぁああ!!」 そうだ……僕のせいだ。 僕が…あの時枝を差し伸べれば助かったかもしれない… 「……い…」 「ごめんなさい……」 地面に落ちた涙。 アスファルトを濃い色に染める。 鼻を伝う涙のしょっぱい匂いと、焦げくさい匂いがする。 顔を上げたところに、メラメラと燃える火の端が見えた。 よく考えなくても、直感でわかった。 燃えているのは、僕の家だ。 走って家に来た時には既に手遅れだった。 家の小さい庭から屋根まで、火の手は残酷にも回っていた。 「お母さん!!」 見に来た野次馬が他人事のように僕と家を見ている。 今更叫んでももう無駄だった。 家の中まで火の手は回っている。 何もしない。ただそこに立つだけ。 かつてクズだった大人たちと僕は、今は同じだ。 ただ見るだけで何もしない。 いや……僕のほうが、クズなのかもしれない。 ここにいる大人たち全員よりも、僕のほうがクズ。 この中の誰かに、消防車や救急車を呼んだ人がいる。 それに対して僕は何もしていない。 僕が殺したタツキのお母さんから逃げていただけ。 当然の報いを、運命を。 ただその瞬間から逃げていただけ。 「危ないよ、下がって…」 後ろにいた男が肩を掴んで僕の身を引く。 消防士が火を消すため水をかける。 涙も出なかった。お母さんの体と指は中ですでに炭になっている頃。 にも関わらず、なぜか涙が出てこない。 数十分かけて、火はやっと消えた。 消防士や救急隊員が家の中に突撃していく。 その姿をただ見る。 何もできなかった。救えなかった。 あの川の日のように、僕は何もできなかった。 汚い大人を恨んでたあの日々を、僕は恥ずかしく思う。 彼らの言うことは正しかった。なぜなら僕が殺したから。 再び肩に手を置かれた。 でも今度は、さっきの男じゃなかった。 「ユウタくんかい…?」 とても見覚えのある顔だった。 優しい目と声、どこか安心する雰囲気。 「覚えてるか…?」 覚えてるさ。 「……タツキのおじいちゃん。」 タツキのおじいちゃんはニッコリと微笑んだ。 「わしの家に来い。」 「…え?」 「気の毒だが……もう住む家はないだろう?」 嘘偽りのない顔。 心の底から出迎えてくれる、その優しい目。 久しぶりに感じた、大人の暖かい心。 その声を1文字ずつ噛み締める。 やっと、救済されたように感じた。
『嫌いな人』前編
第一話『タツキ』 小学校のころ、タツキを殺した。 1番仲のいい友達だった。 川でタツキが溺れ、助けようとした。だけどそのままタツキは流されて、一日中探したけど見つからなかった。 次の日、遺体が見つかったとテレビでやってた。 僕はタツキのお母さんに激しく怒鳴られ、疑われ、『殺害犯だ』と何度も、何度も何度も言われた。 その度にタツキのお母さんは警察の人に抑えられ、同時に僕は警察にも疑われた。 結局、僕にはなにもアリバイがなく少年院に入れられた。 僕のお母さんはずっと泣いてた。だけど留めようと手は差しのべてくれなかった。 少年院ら狭すぎる世間しかない。10人くらいしかいなくて、名前を覚えるのはとても簡単だった。でもみんな、互いに関わろうとしなかった。1人だけ最初は仲良くしようと頑張ってた。その子も次第に目から光が消えてた。 少年院の外に出ても空気は変わらなかった。3年間もいたのに、解放感がこれといってなかった。 少年院にいる間ずっと、川での出来事を考えていたから。 「おかえり、ユウタ。」 お母さんはまだ泣いてた。 僕が少年院にいた時のことを、夕食でずっと聞いてくる。 「友達はできた?」 「どんなごはんだった?」 「ちゃんと眠れた?」 できてない。 質素な味。 まったく眠れてない。 そう正直には言えなかった。 口に出した言葉は、思っていたことの真逆の言葉が出てきた。 そんな中でも、お母さんはタツキについて何も聞かなかった。それだけは唯一、優しさを感じた。 何も聞かれなかったのに、僕は最低だった。 僕の頭の中では、ずっとタツキの苦しんでる顔が浮かんでいたから。 だから僕は、タツキを殺した。 最低最悪の、児童殺害犯だった。 第二話 今までいた学校には戻りたくなかった。 同級生を殺したやつなんか誰も迎え入れてくれるわけが無い。 世間で僕は完全な『人殺し』として扱われている。 胃袋が刺された感覚がした。 空腹でも、異物を食べたわけでもない。 腹の中で消化されずにいるやるせなさが、小腸に行かずむしろ煮えくり返っている。 「学校、変える?」 しばらく黙っていたお母さんは軽い気持ちで言った。 ちょうど考えていたことと意見が一致したのは嬉しい。 でも同時に、新たな学校で噂が広まっていないか警戒心が芽生えた。 転校の手続きはトントン拍子で進んだ。 その場にいた僕はわかった。 明らかに先生は僕のことを見下している。 普段優しかった英語の先生。テストも授業も楽なあまり『女神』と崇められていた。 でも今は違う。目の奥から伝わる恐怖、軽蔑、安堵。衆合地獄の女そのもの、もしくはそこに居る鬼だろう。 笑っていないどころか蔑むようなその女の瞳には顔を赤くした涙目の母親が映っていた。 「ユウタくん、大丈夫?」 41のいい歳したおばさんが声を高くしてあざとく対応するな。鳥肌が立つからやめろ。 「…大丈夫です。」 何も大丈夫じゃなかった。 綺麗事ばかり並べる何も知らない大人どもを見ると反吐が出そうになる。 僕は確かにあの時、警察に「流された」と言った。疑い続ける警察の近くにいた若い警察に別室に連れてかれて、 「いいから『やった』って言えよ。ね?」 と言われた。断れば頬を叩かれ、その度に耳元で脅された。 言え、言え、言え、言え。 元の部屋に戻ってもそこにいた警察は何食わぬ顔でいた。 この時はじめて、僕は世間で働いている『大人』というものを知った。 「…ユウタくん、先生はわかるよ…ユウタくんだって、辛いんだもんね。」 友人を亡くした辛さ。 そして、お前みたいな汚い大人に慰められて辛いよ。 僕にはわかった。その目と声は全部表面だけだって。 あの警察や、疑った全ての人間とお前が同じだって。 「く……」 「く?ユウタくん、『く』ってなに?」 「…なんでもないです。」 危なかった。思わず『くたばれ』と口から出そうになった。 転校の手続きが終わり、家に帰る。 見送っていた41のアバズレは、僕らが帰る時どこか安心の表情をしていた。 「あーやっと終わった、あのクソガキの親に何されるかと…」 「お疲れ様です、森山先生。まあすぐいなくなるんですから、気を落とさず…」 どうせそんな会話をしているだろう。 またどうせ慰めてくれた先生の前で股開くんだろうな。1つ前就任の学校で股開いてたんだからどうせ今もしてる。 第三話『転校』 新しい学校は隣町の1番大きい学校。 僕は特別支援学級の生徒だった。 極力クラスメートとの関わりは避けるが、仲良くなれそうだったら関わる、というスタイルで生活することになった。 教室で自己紹介はしなかった。 名前だけ突然追加され、顔も声も性格も、誰も知らない。 はずだった。 「ねえ…転校生の名前見た?」 「見た見た!あれでしょ?隣の町で1人殺したっていう…」 「そうそう!やばくない?」 基本授業を受ける時以外は保健室にいた。 嫌なことに保健室の隣は、僕のクラスだった。 そして、希望は綺麗さっぱり消えていった。 「ガチで怖いわ…特別支援でほんとよかった。」 「あんま言ったら聞こえちゃうよ?どっかで聞いてるかもしれないし、何より…殺されるかもしれない。」 「ちょっと!怖いこと言わないでよ……!」 「えへへ…ごめんごめん!」 その本人は、今横の保健室にいるよ。 汚い大人、汚い大人、汚い大人。そんな年齢の違う人達のことばっかり考えてた。 もしかしたら同年代なら、わかってくれる。 冷静に考えたらそんなわけがなかった。 今の時代ならスマホを持っている人はたくさんいる。 スマホがなくても、どうせテレビで知る。 自分達と同じ年代で、しかもまだ小学生。 同じ学校に殺人鬼が普通に登校しているという異様な状況。 小さい希望にすがりついてたけど、元からそんなもの無かった。 少し涙が出た。 保健室の先生は全く反応しない。 やっぱり僕を見る目つきは森山のビッチと変わらない。 「失礼しまーす。検尿のやつ置きに来ました…」 聞き覚えのある声だった。 さっき僕の噂をしていた、あの声。 何も知らずに『殺した』と決めつけていた、あの声。 「あ……」 目が合った途端に顔を逸らした。 保健室の先生に検尿の容器が入った袋を渡し、逃げるように部屋から出て行った。 「……ユウタくん。」 胸に書かれた『夛田』という文字がこちらを見る。 「1回でもいいから、教室に行ってみたら?」 昔、同じクラスの特別支援学級の子を思い出した。 僕たちの前では普通にしていた。 先生の前ではずっと嫌そうな顔をして、話しかけていた先生たちを常に睨んでいた。 きっとあの子と同じ気持ちを感じている。 どっちが辛いとか、どっちが楽とか、比べられない。 嫌なものは嫌だ。 辛いもんは辛い。 比べてばっかりの大人は皆同じカス。 「大丈夫、ユウタくん?」 夛田先生は心配した顔を作るのは上手かった。 その心配は自分に向けた心配だろう。 『ここで関わらないと上に怒られる』 『一か八か、ここで馴染めるかで評価が上がる。』 『今この提案に、全てを賭けよう。』 どうせそんなことを思ってる。 目を見たらわかる。僕の顔すら瞳に映ってない。 瞳の中に映ってるのは何?将来の自分の姿でも想像してるのか?それとも映っているそれは僕であって、人じゃないものか? 大人になって、大人にとっての『辛い』を経験したい。 だけど、大人はこの世でいちばん嫌い。 僕にとって1番嫌いな人は、この世の大人だ。
「第7回N1」 『戦争』
昨日、息子が戦地に行った。 家に召集令状、赤紙ってやつが届いた時、私は絶望して涙を流した。 一晩中泣いた。ずっと起きた出来事を受け入れられなかった。息子が生まれた時と同じくらい涙を流した。出会いの涙と、別れの涙。どちらも同じ涙ではある。 でも、本当にそれはどちらも、全く同じ涙と、胸を張って言えますか? 「…それは災難やねぇ……息子さん、生きて帰ってきて欲しいね…」 隣の家に住むぎん婆さんに悲しみを共有した。誰も得をしない話なのに、どうしても共有したくなるのはなぜだろう。 しかも『本当に同じ涙か』なんてカッコつけちゃって。 「もうおもちゃも使う年じゃないし、大好きだった花も『もう子供じゃねえ』とか言ってアジサイの花瓶割っちまったからなあ…時の流れってほんと辛いわ…」 また昨日の晩のように涙が出てきた。 「まあまあ花子ちゃん、落ち着いてや…きっと帰ってくるさ。ほれ、さっき菓子屋で買った豆大福あげるから。」 大粒の涙が落ちた豆大福はびちょびちょに濡れてしまった。 元から塩っぱい豆大福は、濡れたせいでもっと塩っぱくなった。 「……帰ったら、あいつが楽しみにしとった新しい靴買ったげるわ。」 「…ほんと、子供思いね。」 瞬く間に息子の噂は拡がった。 「花子さんとこの息子さん、赤紙来たんだってねえ…」 「もうそんなになるんかい…男の子は育ちが早くてほんとあかんわ。」 周りの目が痛い。 ずっと泣いてたら変な噂をされてしまう…言われてしまう、『非国民』って。 ほんと、ウグイスみたいな子だったな。 ちょっと育ってはすぐ家出しようとして、ウグイスみたいに巣立ちが早かったなあ…結局、金はなかったから家出しないでいたんだけどさ。 それにずーっと、泣いてたな。ウグイスのほうが綺麗な泣き声出せるのに…『なく』の字が違うか。 まあでも、巣立ちは本当に早かった。 「安いよ安いよー!大豆今ならいつもの半額!どうだーい!そこの母ちゃん!買ってくかい?子供食べ盛りじゃないかい?豆腐もあるよ!」 食べ盛り、か。 もちろん、この豆腐屋のおっちゃんも悪気は無いんだろう。だけど… 「ごめんねおっちゃん!今日は他に買うもんあるから!」 今はただ、息子に関係することを聞きたくない。 他に買うもんあるって言ったものの、特に買いに行きたいものはない。ただ気を紛らわしたかっただけ… 『いってきます。』 あのときの息子は、ろくでなしの夫に似てた。 夫がなんの生業かも知らなかった。でも金はどこからか生活できる分でてきた。一瞬は、よくないことをしているんじゃないかと疑ったこともあった。 だけど…赤紙で呼ばれて行った。 「あなた…」 夫が戦地に向かって5年。生きている希望はかなり薄い… だけど、生きていると信じたい。 息子と一緒に、生きていると信じたい。 その日のご飯は喉を通らなくて、全く味がないように感じた。 食器に食べ物を残したまま、台所に置きっぱなしにする。 今日はそのままちゃぶ台に伏せて寝た。 夜は寒かった。布団も何もかけてない。ただ着ていた服をずっと着てるだけ。 息子も…ケイジもきっと、同じ寒さを感じていると思う。 「ケイジ……あなた……」 昔買ったボロボロなベビーベッドのガラガラが風で揺れる。 窓を閉めることも忘れて、夜を過ごした。 翌朝、家に軍人が来た。 玄関の扉を開けて軍服を見た時、鍵を閉めてやろうかと私は思った。 来なさい、覚悟は出来ています。 「遠藤花子さんですか?」 「ええ、そうです。」 軍人は1枚の折りたたまれた紙を取り出し、私に手渡してきた。 「どうぞ、お開きください…」 『遠藤忠(ただし)殿、戦死。』 漠然としたその文字を見て、情報を認識しきれなかった。そのたった漢字六文字だけでここまで人を絶望させるものがあると思っていなかった。 「死体の発見が遅れてしまいました…今回の大東亜戦争で択捉島から見つかりました。」 帽子のつばを下げ少し会釈し、軍人は帰っていった。 その場にただ立っているだけだった。 どうして受け入れられないのだろう。 愛する夫が死んだから? 紙を受け取ったから? どれも違う。 『遠藤忠 殿、戦死、』 としか書かれてなかったから。 やっと状況を理解し、頬を熱い液体が伝っていくのを感じた。 「……母ちゃん。」 戦地に駆り出された感覚は初めてだった。 今から人を殺しに行くと思うと鳥肌が立った。 帽子についている花をつけ直した。 「…おい!新入り!」 俺の方を見て熟練兵士のような人が怒鳴った。 「独り言は許されない。さもないとてめえの下を引っこ抜く。」 戦地で塹壕を掘っている時も、謎のいびりは続いた。 「おい!俺休憩するからここ掘っとけ。」 「いや、僕も自分の場所で精一杯…」 「あぁ?素人如きが口答えすんな!」 横腹に強い殴りを入れられた。 結局、先輩の塹壕を掘って自分の場所は掘り終わっていなかった。 上官にこっぴどく叱られた。俺のせいじゃないのに。 「おい新入り、何一丁前に帽子なんか被ってんだ?」 また変ないびりが始まった。 「クソ生意気だな…おらっ!」 帽子のつばを持って帽子をもぎ取られた。 「はっはっは…欲しけりゃ……」 気づけばそいつの顔に殴りを入れてた。 帽子のホコリを払う。 「てめぇ……どういうつもりだ?」 「この帽子だけは、絶対に渡さない。」 地面に落ちた花を帽子に取り付け、再び被った。 軍人が帰ったあと、玄関の前で紙を抱きしめて泣いた。 それはもう、近所まで届くくらいわんわんないた。 ぎん婆さんだけ来てくれて、紙を見て状況を把握した。 私の背中を、優しく撫でてくれた。 落ち着いてぎん婆さんにお礼を言ったあと、居間に戻った。 相変わらず家の中には静かに風が吹き、ガラガラが鳴る。 その音を聞く度に胸がキュッとする。 「…ん?」 ガラガラに何か、括り付けられてる。 「なにこれ……」 括り付けられてた紙を外し、開くと文字が書かれていた。 「…ケイジ。」 そこには『遺書』という字が書かれていた。 「……こんなの書いてたなんて…言ってくれりゃよかったのに…バカだね。」 静かに、声に出さずに読む。 「母ちゃん、気づいたかな?俺は忘れてないよ、歩けるようになって宝探ししてる時、だいたいここに隠してたよね。俺も真似してみたんだ。」 どこか変な始まりで、文の才能が無かったことを思い出した。 「…まあそんなことは置いといて、伝えたいことがある。」 もう覚悟は出来てるよ、ケイジ。 「俺は父ちゃんみたいにはなれなかった。あんなに一生懸命働いて、夜遅くまで働いて、俺たちのためにいっぱい金を稼いでくれた。戦地に呼ばれたけど…今どこで何してんだろうな。」 ちゃぶ台の上に置いた通知を見て心が締め付けられる感覚になった。 「しかも、『寂しくならないように』って言って軍配布の帽子を置いてったよね。ほんと、そういう時にしか優しさ出せないとか不器用な父ちゃんだよね…」 今ここに、夫の帽子はない。 「…まさか、使う時が来るなんて思ってなかったよね。」 小さく涙があふれる。 「……まあちょっと余計な話が入っちゃったけど、これだけは言わせて欲しい。」 覚悟してその下の文字を読む。 「母ちゃん、父ちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。そして、他にも俺に関わってくれた人たち。俺は天邪鬼だから、これだけは言わせて欲しい。」 『ありがとう。』 そこで字は途切れていた。 涙で遺書の文字がびちょびちょになってしまった。 花子の家では、アジサイの花瓶が置かれている。 風で静かに揺れているアジサイは、戦地にいるケイジを思い起こさせる。 ケイジの被っている帽子に、アジサイの花がついている。 静かな同じ空の下で、息子は走馬灯を見た。 母親は、空を飛ぶウグイスを見た。
時と、カマキリのように。
「もう長くは無い。」 病室で聞いた祖父の言葉は耳を思い切り貫いた。おちゃらけていた祖父の口から出てきたその言葉は、いつものようにふざけた口調ではなかった。 「……じいちゃん。」 俺はじいちゃんの他に信頼できる家族がいない。というより、じいちゃん以外の家族は既にこの世にいない。 「……そんな深刻な顔するでない。」 微笑みながらじいちゃんは言った。 「じいちゃん!!」 そのままじいちゃんはゆっくり目を閉じ、呼吸が浅く…… 「スー……スー……」 なってなかった。 「ハッハッハ……驚いたか?」 「……」 「どうした…?気に入らなかったか…?」 目にうかべる涙を拭う。 「……この…クソジジイが…」 心の奥では、確かに。 『長生きして欲しい』と強く願っていた。 じいちゃんが言うには、余命は残り約1週間らしい。ただこれはあくまで今までのデータの目安だから、もしかしたら3日で死ぬかもしれない。ただ逆を言えば、1週間以上生きるかもしれない。後者に希望を乗せて、じいちゃんの余生の為に俺も生きよう。 1日目。 「元気か、じいちゃん。」 花瓶と3、4本の花を持ってきた。 「……花瓶か。なんの花だ?」 「じいちゃんにそっくりだと思って、カスミソウを持ってきたんだ。」 「感謝、無邪気、無垢の愛……」 じいちゃんはとにかく花が好きだった。どんな花でも、すぐ摘み取って育てようとしては、花言葉や分布を調べてた。でもじいちゃんはアナログ人間で、頭の硬い人。決して電子機器なんか使わず、ずっと図鑑で調べてた。 「カスミソウといえば、懐かしいなあ……婆さんを思いだす。」 「ばあちゃん?」 俺のばあちゃんは東日本大震災以来、行方不明になった。すごく悲しかった。あの時、じいちゃんは俺の前から姿を消して、突然現れた。ばあちゃんが行方不明になったことは知っていたらしい。そのときじいちゃんがどんな感情だったかは全くわからない。あんなに人に興味なさそうな人でも、自分の妻だけは確かに愛していたはず。 「初めて会った時、俺はお前と同じように婆さんにカスミソウを渡したんだ。『嘘偽りなく、純粋に愛している』ことを示したかった。」 思えば俺は、じいちゃんからほとんど昔のことを聞いたことがない。 「じいちゃんって、昔の話とかしてくれたこと無かったよね。」 「なんだ、他にも聞きたいか?なら俺の遺書を探せ。俺は手渡しで遺書は渡さない。」 ……なんで? 「なんで?って顔してるな。いいだろう別に、最後くらい遊び心満載のまま向こうに行きたいからな。」 もう1ヶ月も生きられないのに、こんなに明るく生きられるのは昔からのじいちゃんの長所と言えるだろう。思えば…… 「私の孫がまさか結婚するなんて思ってもなかったです。樹(いつき)、幸せにしてやれよ。このアンポンタン!」 「言われなくてもわかってるさ、じいちゃん!長生きしろよ老いぼれ!」 結婚式でもそうだった。いつも陽気で、周りを楽しませることしか考えてないような人だった。 「どうした?」 「……ん……ああごめん、少し考えてたんだ。とりあえず、もうすぐ昼休み終わるから会社行ってくるわ。じゃあね、じいちゃん。また明日来るから。」 病室の扉に手を伸ばした。 「待て!」 じいちゃんは俺を引き止めた。 「……遺書の場所のヒント、やるよ。」 そういえば遺書のことを聞くの忘れてた。 「『古き大樹の中、暗く深い場所にある』だぞ。よく覚えておけよ?あ、もし見つけてもまだ開くんじゃないぞ。看護師さんには内緒なんだ。遺書は書かないって伝えたからな。」 遺書は病院関係者が俺に直接運んでくるから、『書く』と言ったら遊び心満載のまま死ねない……てか。全く……本当に 「面白いな。」 自然と笑みがこぼれたまま、俺は病室から出た。 「何度ミスをしたら気が済むんだ!」 俺の作ったプレゼン資料を机に叩きつけた上司は、俺の顔を鋭い目つきで睨んだ。 「すみません…すみません…」 ただ二箇所誤字をしただけで、なぜ俺はこんなに怒られてるのか。本当に、完璧主義のお硬い頭な上司に当たったことは人生で一番の失敗だったよ。 「ったく、まだ誤字でよかったなあ?これが計算ミスだったらこんなとこで説教は終わってないからな?」 そう言い俺に資料を力強く渡してきた。 「やれやれ、災難だったな西宮。」 同僚の矢賀真守(やがまもる)だ。 「理不尽な上司だよなほんと、誤字だけであんなにキレることないだろ?しかも下書きの資料なんだぞ?」 「俺も昨日同じようにやられたよ……完璧主義ってめんどくせえよな。」 デスクに向かい、再びパソコンを開く。 「今日は顔が暗いな。」 矢賀は俺の方を見た。 「じいちゃんがもう……長くない。」 「……そうか…悪いこと聞いたな、気にしないでくれ。」 空気を読み矢賀は俺ではなくパソコンの方を向いた。 数時間仕事して、矢賀は口を開いた。 「……帰りにどっか飲みにでも行くか?奢るぜ。」 「すまん、今日は行けない……明日見舞いのとき二日酔いだったら困るからな。」 「そうだよな…」 気まずく重たい空気が流れる。 「お疲れ様でした」 社員が続々と帰っていく。 「……え?」 俺は矢賀の机に買っておいたエナジードリンクを置いた。 「今日も残業なんだろ?持って帰ってやるから、半分資料くれ。」 「え……いいのか…?」 「せめてもの礼だよ。」 オフィスを後にした。 「ふう……」 疲れた。 家に持ち帰った仕事を終わらせ、ため息をひとつ。 …走馬灯が一瞬だけ見えた気がした。こんなことならカッコつけて仕事を持ち帰るんじゃなかったな。 夕食を食べ、風呂に入り、歯を磨き、髪を乾かす。そしてベッドに入り目をつぶる。今日も俺は頑張ったと、自分に言い聞かせる。 おやすみなさい。 2日目。 時は残酷なことに止まることを知らない。刻一刻と、その時はやってくる。人が亡くなるにも関わらず、時はすでに1日が流れた。 病院までタクシーで向かい、祖父のいる部屋に向かう。 「じいちゃん。」 「よお、樹。そんな顔してどうした?彼女にでも振られたか!」 もうすぐ亡くなるというのに、なんでこんなに陽気にいられるんだろう。 「……ただ寝不足なだけだよ。」 「さてはお前、同僚から仕事受け取って代わりにやったんだな?」 寝不足としか言ってないのになんでわかった? 「なんでわかったかって?顔に出てるよ顔に!」 そう言ってじいちゃんは俺の頬を叩いた。 「人を助けるのはいいことだ。だが、無理だけはするなと……あれ?言ったっけ?」 すごい深そうなことを言いそうなのに何なんだこの人は。 「……まあいいや。今日はお守り持ってきたよじいちゃん。」 「ハッハッハ、死にかけの老いぼれに長寿のお守り会?そりゃ皮肉ってやつか?」 笑いながらお守りを受け取った。 「ありがとな…少しは……頑張れそうだよ。」 俺にはわかる。この顔、言葉と言葉の間……嬉しいんだ。じいちゃんは嬉しい時、言葉の間に独特な間がある。しかも、顔は右頬だけが赤くなっている。なんでだろう。 「……ほんと、わかりやすい人だね。」 「ん?なんのことだ?」 「いや、こっちの話。」 じいちゃんは黙って窓を見つめてる。 「……病は気から、っていうことわざを知ってるか?」 「藪から棒にどうしたの、じいちゃん?」 「病は気から、ってのは『病気は気持ちの持ちようで良くも悪くもなる』っていう意味のことわざだ。」 そういえば、じいちゃんは何があって余命1週間になったのだろうか。勝手に寿命だと思ってたけど、この話をするってことは何かしらの病気なんだろう……なぜ今まで原因のことを1度も考えなかったのだろう。 「そういえばじいちゃん、何が原因で余命1週間なの?」 「……ああ、話していなかったな。実はな…ガンだ。ステージ4の末期ガンだ。」 真剣な顔をしてじいちゃんは話してる。 「病は気から、の事なんだが。」 一呼吸置いて話し始めた。 「お前もここから先苦しいことがあって病気にでもかかったら、このことわざを思い出して欲しい。思い込みの力はお前が思っているよりもはるかに強い。だから……良くならなかったらどうしよう、さらに悪化したら。そんなことを考えては一生病気なんて治らない。」 俺はそこに立ったまま外を見つめるじいちゃんの話を聞く。 「だから、樹…………諦めるな。」 間違いなくその目は、本気でそうして欲しいという願いの籠った目だった。 病院から出てすぐ、近くの信号の音が聞こえた。 カッコー、カッコー、カッコー。 歩道を渡るサラリーマンたち。 スーツを着た人の車たち。 「さて……行くか。」 少しずつ、理不尽な世界へ足を踏み入れようとしている。晴れた空の下、たった一つの建物に地獄があるという矛盾に楯突いて歩く。 「おす、おはよう。」 信号待ちに矢賀がいた。 「……随分寝不足な顔してんな。本当に良かったのか?」 「ああ、大丈夫……」 目眩がする…う…… 「おい!西宮!?」 目の前に歩くアリの行列があった……列の後ろから蜘蛛が来てる。そうか、この列はただ逃げてるだけなんだ…アリが俺たち、蜘蛛が時間と言ったところか。時に追いかけられ、その"時"が来た時、存在が消される。残酷だな。 「……西宮……西宮!!」 目が覚めた時、矢賀におぶられていた。 「まだ病院の近くでよかったな。」 倒れたのか……頭が痛い… 「ありがとう……」 疲労で倒れたようだった。日々のストレスと激務から体が耐えられなかったらしい。 「……全く、俺の仕事増やすんじゃねえよ。」 病室で寝ていた俺は横にいる矢賀に呆れ声で言われた。 「すまん、ちょっと無理したっぽい……でも忙しかったら言ってくれ。」 矢賀は目を見開いた。 「今プロジェクトのせいで大量の仕事任せられてんだろ?なら手伝わせてくれ。たとえ倒れてもお前を手伝いたい。なあ……」 パンッ、と大きく音が鳴った。 音源は、俺の左頬だった。 「……なあ、なんでわからない?」 怒りの混じった声で矢賀は言った。 「俺にとって1番大きな仕事、それがなにか。」 「……プロジェクトじゃないのか?」 「全く違う。」 矢賀は軽く息を吸う。 「バカ真面目でお人好しな無理をするお前の世話をすることだ!!自分のことを大切にできないなら、そんな状態で人を助けても助けられた側はいい気持ちはしない!むしろ責任感まで感じるんだ!!今の俺や、今までお前に助けられた全ての人が!!!」 力強く、自分を見つめるきっかけを面と向かって言われたのは何年ぶりだろう。今まで俺はどんな時も、自分の欠点がなにか、人を守るためにどう動くべきか。 矢賀…… 「ごめん…ごめん……」 泣きながら矢賀に抱きついた。 「本当に……ごめんなさい……」 矢賀の目は、少し涙ぐんでいた。 会社に社員が倒れたと連絡があり、労災保険が下りた。さらに、パワハラをしていたと通報を受けうちの部署の上司は謹慎処分となった。じしゅきんしんとなった。 「やったな、西宮。」 「ああ……本当にありがとう、矢賀。」 俺たちは会社へ足を運び始めた。 その日の会社はとても『苦』とは無縁だった。 新しく部署に配属された上司はとてもおおらかで優しく、ちょっとしたミスは怒らずに注意してくれる。そのお陰か、今日はみんな定時退社だった。 「お疲れ様です!!」 「お先に失礼します!」 活気に満ちた部署を見たのは久しぶりだ…… だけど、その裏側で社員が一人倒れた。遅刻をしてまで、助けた社員がいた。会社を変えるために、倒れた人がいた。 ……俺が倒れたから会社が変わった? 「おい、西宮。」 「……ん…ああ、すまん…」 「責任感じてんのか?」 そんなこと… 「そんなこと…とか思ってんのか?」 なんで…?こうやっていつも考えてることがバレるんだろう… 「顔に出てんだよ、顔に。」 「……みんなに言われる、それ。」 「……じゃあな、西宮。」 「おう、じゃあな。」 午後7時、病院はまだ開いている。 「……じいちゃん。」 「お、今日二回目か。そんなに暇か?」 相変わらず元気だった。 「ん……ハンカチなんてどうしたの?」 「ああ、最近映画を見るのにハマっててな。今見てた映画が感動するんだよこれが…ほら、これ。」 じいちゃんはテレビに映るアニメ映画の映像を指さした。 「これ子供が見るアニメの映画だよ…」 「そうなのか?でもそれを見なくても面白い映画ってことはよっぽど名作なんだな!」 ポジティブな声に少し呆れた。 「そう、じいちゃんに渡したい物があったんだよ。」 俺は手に持っていた袋から本を取りだした。 「何も無くて暇かと思って小説持ってきたけど……この調子じゃ必要ないか?」 「おおありがとう、貰っておくよ。これは…『枝垣章伍』の小説じゃないか!」 「え、じいちゃん知ってるの?」 「知ってるも何も、こいつはわしの同級生だ!」 「え!?ほんとに!?枝垣先生の本まだ家に3冊あるんだけど、いる?」 「ありったけ持ってきてくれい!!」 やっぱり口調は昭和感が否めない。でもそんなじいちゃんが、古臭いじいちゃんが俺は、大好きだ。 3日目。 「好きな動物っているか?」 見舞いに来た瞬間の第一声がこれだった。 「何さいきなり…うーん、オオカミとか?」 「オオカミとか、いつまでも中二臭いなあ」 「うるさいな……じいちゃんは何が好きなのさ?」 「無論、俺はカマキリだ!」 まさかの昆虫類だった。 「……虫って動物に入れるにはちょっと微妙じゃない?」 「ええいうるさいうるさい!とにかくカマキリが好きなんだ!」 手を振りながらじいちゃんはカマキリについて語り出した。 「目、口、体つき、大きさ、色、そしてなんと言ってもあの命を刈り取る形のカマ!あんなのカッコイイ以外の何物でもないだろう!!」 「うん、いいと思う…」 10分ほど語りは続いた。まだ続くのか、まだ続くのか、まだ続くのか。何回考えて何回頷いたんだろう。 「……どうだ!カマキリの良さは伝わったか!?」 「……ごめん、ずっと同じ話に聞こえた。」 「ああ、そりゃそうだろう。だって10回は同じ話したんだもん。」 本来1分で終わったんじゃん…… 今日は日曜日だから仕事がなかった。ただそんな中でも病院の方々は働いている。長時間ここにいるのはマナー的に良くないと思い、俺は病院を後にした。 「はぁ……」 何をすればいいかわからない。多分正解の選択肢はもう無い。じいちゃんをできるだけ長く生きさせたくても、選択肢が何も見えてこない。あるとしたら、『一緒にいる』くらいろう…………これがじいちゃんに対する行動の正解だと信じて、残りの時間を過ごそう。 しばらく通りを歩いた。 「あっ……」 どこかで見た事のある顔だ。 「……ん?」 変な顔をされた。人の顔を見て固まったんだから当然だ。 というかあの人…… 「枝垣章伍さん?」 男の体がピクっと止まった。 「……僕とお会いしたこと、ありましたっけ…?」 振り向いて男は言った。 間違いなく、この人は……枝垣章伍さんだ。 「ファンなんです!少し時間あったり…」 しまった……感情が剥き出しになってしまった。この人も仕事人だ。そんな簡単に… 「いいですよ、軽くお話する程度ならね。」 「……!ありがとうございます!」 近くの公園のベンチに座り、会話を始めた。 「作家を始めたきっかけは?」 「枝垣章伍はペンネーム?」 「どうしてミステリが好きなんですか?」 感情が昂り怒涛の質問攻めをした。枝垣先生はとても丁寧に答え、質問攻めされているとは思えないほど冷静な態度だった。 「……事件のプロットはこう考えて作るとあとの展開に繋げやすいよ。」 「なるほど……」 趣味で小説を書く身としては、アドバイスはまさに天の声だった。本職に教わるほど信ぴょう性と効果の高いものはない。 「……そういえば、聞きたいことがあるです。」 「ええ、なんでも言ってください。」 歳の割に、爽やかな返事。 「……西宮信明(のぶあき)のこと、知ってますか?」 枝垣先生は驚きの目をしていた。 「知ってます、小中学校の同級生でしたよ……なぜ、その名前を?」 「私実は…」 カッコつけてバイクの免許証を出した。 「西宮樹……まさか!」 「ええ……私は、信明の孫です。」 「そうか、末期ガンで…」 今の祖父について話した。 「…学生時代、祖父はどんな人でしたか?どれだけ言っても、全然過去のことだけは話してくれなくて…話しても亡くなったばあちゃんとか花が好きだったこと以外話してくれないんです。」 「…………」 枝垣先生はしばらく黙った。 「変な人で、臆病な人だったよ……しかも恥ずかしがり屋で、学校で馴染んでいたとは言えないほどでもない、とても中途半端な人だった。中途半端で臆病とか、逆に何があるんだよって感じだったよ。」 「あんなに陽気なじいちゃんが……臆病者?」 「妙に強がりが多かった人だったなあ……多分、今陽気でいるのは心の底から楽しみたいからなのか、はたまた強がりか。」 「……かなり意外でした。」 じいちゃんのいる病室の窓を見つめた。 じいちゃん。俺はやっぱり、あんたの孫だったよ。 臆病なところも、強がりなところも、俺と全く同じ。 ピンチになった時ほど気分が良さそうに振る舞うのも、俺と同じ。 ただ順当に行けば……死ぬ直前は、多分ビビりまくる。あんたの孫の俺がそうなんだから、あんたはきっと本性を出すだろう。 来たるその"時"まで、俺はただあんたのそばにいることしか出来ないけど、それでも。 頑張って生きてくれ。 「……今日はありがとうございました!」 「いえいえ、また機会がありましたら連絡してください!」 「では失礼します!」 互いに頭を下げ公園を後にした。 それにしても驚きだった。まさかあんなに陽気なじいちゃんが臆病者で恥ずかしがり屋だったなんて… 「……あ!」 サインもらってない!! ちょっと待って!まだ行かないで…… いや、連絡してまた会えばいいか。 ……いや。 「すみません!忘れてました…」 「どうしました?」 会社で使うノートを取り出した。 「サインください!!」 4日目。 「……じいちゃん、そういや。」 「どうした樹?」 ポケットから1枚のメモを取り出した。 「《古き大樹の中、深く暗い場所にある。》ってどういう意味?」 「……それをわしが教えると思うか?」 じいちゃんは軽く笑った。 「お前が…よく知ってる場所だ。このわしも、よく知っている。思い出の場所だ。」 思い出の場所… 「……まあ、だいぶ前のことだ。お前は覚えてないかもな。」 …昔の思い出。 どれだけ考えても、何も出てこなかった。 「あ、ひとつ覚えて欲しい。遺書を探すなら俺が死んだ後にして欲しい。」 「……なんで?」 「だって"遺"書じゃん。」 それはそうか。 「……わかった。そんな時は来て欲しくないけど、じいちゃんが死んだら探しに行く。」 「ハッハッハ……嬉しい……こと言うじゃないか。」 また独特な間、そして右頬だけ赤くなってる。 「じゃあ、もう行くね。」 「おう、仕事、頑張れよ。」 全く昔の記憶は持ってない。思えば俺、昔からじいちゃんばっかりだった。遊ぶ時はじいちゃん、飯食う時もじいちゃん、笑った時、泣いた時、苦しかった時、全部じいちゃんだった。もちろんばあちゃんも好きだったけど、いつも一緒にいたのはじいちゃんだった。そんなじいちゃんとばあちゃんと俺の、思い出の場所…… …ダメだ、やっぱり何も出てこない。なんでだろう…あんなに長いこと一緒にいたじいちゃんとの思い出の場所…出てこない… 5日目。 命の重さを感じる機会は、多分なかなかない。いや、感じたくないんだ。みんな大切な人がいなくなることが怖いから。寂しいから。 「……あ……ああ…」 朝テレビのニュースで見た。 「〇〇県✕✕町、町立病院の手術室より火災が発生、病院が火事になっていると通報があった頃には、建物はほとんど全焼していました。」 ただ見つめるしかできなかった。 「……病院の職員たちは2人が軽傷。患者は、」 やめろ。 「全員が焼死体で見つかりました。」 やめろ……やめろ……! やめろ!!!!! 「職員に話を聞いたところ、《患者は逃がすことができなかった。火が病室にすぐまわり、助けることが出来なかった。》と供述しています。警察はこれを悪質な見捨てる行為だと見なし、病院の職員及び院長に対し事情聴取を行っています。」 町の病院が燃えた。 そして…… じいちゃんも、燃えた。 「じいちゃん……じいちゃん!!」 雨の中、ただ病院へ走った。 走る途中に消防車や救急車を見た。 「ああ……あ……」 野次馬に来た者たちの視線の先には、炭となった病院が見えた。 「う……うう……あなた…」 病院に患者がいて、絶望する主婦もいた。その傍では子供が泣き声をあげずただ俯き涙を流していた。 「じいちゃん!!!」 病院の中に入った。 「ちょっと君!危ないよ!」 「うっ……!!」 入口で瓦礫が崩れ、中に入ることが出来なくなった。 「やだよ!!じいちゃん!!なんでだよ!!!」 落ちてきた瓦礫をただ殴り続け、どかそうとし、涙をポタポタ落とす。 瓦礫と共に落ちてきた涙は、どちらも絶望そのものに見えた。 手が血まみれになり、それでもなお無我夢中で瓦礫をどかそうとした。 「うぅ……ああぁ……!!」 手の皮が剥け肉が見えて、痛みが襲いかかっても、今抱えてる心の傷のせいで何も感じなかった。 俺は悟った。信じたくはない。 じいちゃん……死んだ。 ただ病院の前で膝をついた。 何もすることが出来ない俺の涙は、雨と一緒に地面に吸い込まれていく。 ああ……この世の全てがどうでも良くなってきた。生きる意味を失ったかのようで、心が消えて無くなるほど大きな穴が空いたような感覚がする。 『諦めるな』……か。 じいちゃん。じゃあこんなときは… 何をしたらいいんだよ… 家に帰り、震える手で火葬の予約をした。明日、隣町の病院が遺体を回収して、明後日に火葬ができる。 はじめてだよ…自分の大切な人間が目の前で燃えていくのを見るのは。 「……これが"死"なのか。じいちゃんは、ばあちゃんが行方不明になったとき同じような感覚だったのか?地震で俺たちの前から消えたばあちゃんを、どんな思いで失くしたんだ?」 その日の飯は喉を通らなかった。 一晩中泣いた。ずっと一緒にいた家族は2人とも死んだ。どっちも、寿命で俺の前から消えなかった。 ほんと、神様って…… クズだよね。 6日目。 じいちゃんが死んでから次の日。 何も食べれないし、何もできなかった。 新しい上司から電話がかかってくる。もう何個不在着信が溜まったか数えれない。 この日はほとんど何もせず、泣くことと寝ることを繰り返した。 泣き疲れて寝る度にじいちゃんの夢を見た。小さい頃遊んだことを、あの大樹の近くで鬼ごっこやかくれんぼをしたこと。 ……大樹…? 7日目。 この日は曇りだった。 俺はひたすらじいちゃんの家に向かって車を飛ばし、5キロ先の実家に帰った。 今はもう家主が住んでいない、その実家に。 帰ってきた。 「あった……」 あの大樹。 じいちゃんとよく遊んだ、思い出の場所。 《古き大樹の中、暗く深い場所にある。》 古き大樹…じいちゃん。カッコつけてそれっぽい名前つけやがって…… 目に浮かぶ涙を拭い、大樹に近づく。 「じいちゃん……」 大樹の麓、土の中から箱の角が飛び出していた。 土をどかし、その箱をとる……とても質素で、プレゼント向きではない箱。 箱の蓋を開ける。 中には、1枚の紙があった。 「これが……遺書。」 《古き大樹の中、暗く深い場所にある。》 そのメモの通りだった。昔から馴染んでた大樹の麓に、遺書があった。 「西宮樹へ。元気にしているか?もしわしが死んだなら、お前は多分元気じゃないだろうな。」 その通りだよ、じいちゃん… 「じゃあ本題。今までお前にはわしの昔話をしたことがなかったな。だから……最後に話させてくれ。」 じいちゃんの、過去。 ばあちゃんのことと花のことの他は何も知らない。 どんな過去があったのだろうか。 「わしは、長崎の原爆で両親を亡くした。それはもう焼けただれててな、三日三晩泣いたさ。」 爆心地の近くから逃げ切ったのか……あんなじいちゃんが三日三晩泣いたなんて、想像できない。その分、考えると心苦しい… 「そこからわしは決めたんだ。あとの世代には、決して苦しい思いをして欲しくないと思い、今まで我慢してきたんだ…わしが悲しんでる姿を、見て欲しくなかったんだ…そんな我慢してまで自分を押し殺すところは、お前はよく似たと思うよ。本当は、臆病なところ。よく似てるよ。」 矢賀の言葉を思い出した。 「よくこの木を知っているだろう?わしとお前がよく遊んだあの思い出の場所。」 …色んなことをしたよ。 鬼ごっこ、かくれんぼ、おままごと…… 「わしはこの場所が大好きだった……お前を、養子に取った時から。」 ……ああ。 通りで……俺…… 自分の親のこと、じいちゃんとばあちゃんの他に知らないんだ…… それ…そもそも、親を見たことがなかったからなんだ…… 空を向いて、涙を流す。 今まで心の隅で思ってた。俺に両親はいないのか?小学校で、参観日にいつもじいちゃんとばあちゃんしか来なかったのはなんでか? なんでじいちゃんとばあちゃんしかいなかったんだろうか? 「きっと驚いてるだろう……わしとお前は、血の繋がりは一切ない。婆さんと散歩している時、この大樹の麓に、ベビーバスケットに入ったお前がいたんだ。子供も孫もいなかったわしらは、お前を愛情込めて育てた。まるで、親のように。血の繋がりもない他人に育てられて、嫌だったか?」 ……そんな… 「そんなわけないだろ……」 たしかに俺は…あなたたちから…… 沢山の愛情を貰ったよ……! 「どう思っても、今更どうすることも出来ないけどな…」 手紙を読んでても、へらへらと笑うじいちゃんの声が聞こえてくる。 「最後に、わしの伝えたいことは3つある。1つ、無理して優しくするな。2つ、胸張って生きてくれ。3つ……」 涙でその文字は滲んでた。 「諦めるな。」 遺書は、そこで終わってた。 「う……うぅ…!」 遺書と箱を俺は強く、強く抱き締めた。 「うわぁああああああぁぁ!!!!!……うぐっ……ううっ……ああぁぁぁ…!!!!」 1年と5日目。 「お医者さんいやだー!!」 病院で子供の泣き声が聞こえる。 「そんな事言わないの!お医者さん会わないと病気治んないよ!」 「だって!注射怖いもん!!」 診察室に子供と母親が呼ばれた。 「こんにちは。僕。じゃあ、腕だしてね。」 「いやだ!嫌だああああ!!!」 注射を打った。 「……あれ?チクってしない…」 「そうだよ。この注射は先生が作ったんだ。痛くない注射だよ。」 母親はその注射器を凝視する。 「すごい……そんなこと出来るんですか?」 「ええ、できますとも……『人を苦しませたくない』と思う気持ちと、『諦めない』気持ちがあればね。」 「ありがとうございます……ありがとうございます!」 母親と子供は帰っていった。 「ふう……」 パソコンにデータを入力する。 人を傷つけたくない。 苦しませたくない。 「……じいちゃん。」 今俺は、医者になって皆をたすけています。 無理はしていません。ただ優しくしているだけです。 胸張って生きて、健康を守っています。そして…… 諦めずに生きてます。 昼休み。他の先生に代わってもらい、墓場へ向かう。 「……これ、好きだろう?」 じいちゃんの墓に、二輪のカスミソウを渡した。 「感謝、無邪気、無垢の愛……そっちで、ばあちゃんと仲良くしてるか?」 墓に向かって合掌し、少し離れた別の墓に向かった。 《枝垣章伍之墓》 枝垣先生にも、カスミソウを1輪。 「サイン、ありがとうございます。」 ノートをバッグから取りだし、じいちゃんの墓に、渡せなかったサイン入りのノートを置く。 「……枝垣先生とも、仲良くしてやってくれ。小中学校のときのようにな。」 ポケットからじいちゃんの遺書を取り出し、ふと足元を見た。 「……じいちゃん…!」 アリの行列を襲う蜘蛛からアリたちを守るように、行列を跨ぎカマキリが蜘蛛と戦っている。 「……願い、叶ったな。」 時に抗い、自分らしく生きること、出来たな。 空を見上げ、じいちゃん、ばあちゃん、枝垣章伍先生を思い出す。 最高の思い出をありがとう。 ご冥福、お祈りします。 血は繋がっていない。 直接の関わりは、会うまで一切ない。 それでも、愛を貰っていたなら幸せじゃないか。 『諦めるな。』 行列の、このカマキリのように。