山田ヤマダ
3 件の小説第一話 『タツキ』
小学校のころ、タツキを殺した。 1番仲のいい友達だった。 川でタツキが溺れ、助けようとした。だけどそのままタツキは流されて、一日中探したけど見つからなかった。 次の日、遺体が見つかったとテレビでやってた。 僕はタツキのお母さんに激しく怒鳴られ、疑われ、『殺害犯だ』と何度も、何度も何度も言われた。 その度にタツキのお母さんは警察の人に抑えられ、同時に僕は警察にも疑われた。 結局、僕にはなにもアリバイがなく少年院に入れられた。 僕のお母さんはずっと泣いてた。だけど留めようと手は差しのべてくれなかった。 少年院ら狭すぎる世間しかない。10人くらいしかいなくて、名前を覚えるのはとても簡単だった。でもみんな、互いに関わろうとしなかった。1人だけ最初は仲良くしようと頑張ってた。その子も次第に目から光が消えてた。 少年院の外に出ても空気は変わらなかった。3年間もいたのに、解放感がこれといってなかった。 少年院にいる間ずっと、川での出来事を考えていたから。 「おかえり、ユウタ。」 お母さんはまだ泣いてた。 僕が少年院にいた時のことを、夕食でずっと聞いてくる。 「友達はできた?」 「どんなごはんだった?」 「ちゃんと眠れた?」 できてない。 質素な味。 まったく眠れてない。 そう正直には言えなかった。 口に出した言葉は、思っていたことの真逆の言葉が出てきた。 そんな中でも、お母さんはタツキについて何も聞かなかった。それだけは唯一、優しさを感じた。 何も聞かれなかったのに、僕は最低だった。 僕の頭の中では、ずっとタツキの苦しんでる顔が浮かんでいたから。 だから僕は、タツキを殺した。 最低最悪の、殺人鬼。
「第7回N1」 『戦争』
昨日、息子が戦地に行った。 家に召集令状、赤紙ってやつが届いた時、私は絶望して涙を流した。 一晩中泣いた。ずっと起きた出来事を受け入れられなかった。息子が生まれた時と同じくらい涙を流した。出会いの涙と、別れの涙。どちらも同じ涙ではある。 でも、本当にそれはどちらも、全く同じ涙と、胸を張って言えますか? 「…それは災難やねぇ……息子さん、生きて帰ってきて欲しいね…」 隣の家に住むぎん婆さんに悲しみを共有した。誰も得をしない話なのに、どうしても共有したくなるのはなぜだろう。 しかも『本当に同じ涙か』なんてカッコつけちゃって。 「もうおもちゃも使う年じゃないし、大好きだった花も『もう子供じゃねえ』とか言ってアジサイの花瓶割っちまったからなあ…時の流れってほんと辛いわ…」 また昨日の晩のように涙が出てきた。 「まあまあ花子ちゃん、落ち着いてや…きっと帰ってくるさ。ほれ、さっき菓子屋で買った豆大福あげるから。」 大粒の涙が落ちた豆大福はびちょびちょに濡れてしまった。 元から塩っぱい豆大福は、濡れたせいでもっと塩っぱくなった。 「……帰ったら、あいつが楽しみにしとった新しい靴買ったげるわ。」 「…ほんと、子供思いね。」 瞬く間に息子の噂は拡がった。 「花子さんとこの息子さん、赤紙来たんだってねえ…」 「もうそんなになるんかい…男の子は育ちが早くてほんとあかんわ。」 周りの目が痛い。 ずっと泣いてたら変な噂をされてしまう…言われてしまう、『非国民』って。 ほんと、ウグイスみたいな子だったな。 ちょっと育ってはすぐ家出しようとして、ウグイスみたいに巣立ちが早かったなあ…結局、金はなかったから家出しないでいたんだけどさ。 それにずーっと、泣いてたな。ウグイスのほうが綺麗な泣き声出せるのに…『なく』の字が違うか。 まあでも、巣立ちは本当に早かった。 「安いよ安いよー!大豆今ならいつもの半額!どうだーい!そこの母ちゃん!買ってくかい?子供食べ盛りじゃないかい?豆腐もあるよ!」 食べ盛り、か。 もちろん、この豆腐屋のおっちゃんも悪気は無いんだろう。だけど… 「ごめんねおっちゃん!今日は他に買うもんあるから!」 今はただ、息子に関係することを聞きたくない。 他に買うもんあるって言ったものの、特に買いに行きたいものはない。ただ気を紛らわしたかっただけ… 『いってきます。』 あのときの息子は、ろくでなしの夫に似てた。 夫がなんの生業かも知らなかった。でも金はどこからか生活できる分でてきた。一瞬は、よくないことをしているんじゃないかと疑ったこともあった。 だけど…赤紙で呼ばれて行った。 「あなた…」 夫が戦地に向かって5年。生きている希望はかなり薄い… だけど、生きていると信じたい。 息子と一緒に、生きていると信じたい。 その日のご飯は喉を通らなくて、全く味がないように感じた。 食器に食べ物を残したまま、台所に置きっぱなしにする。 今日はそのままちゃぶ台に伏せて寝た。 夜は寒かった。布団も何もかけてない。ただ着ていた服をずっと着てるだけ。 息子も…ケイジもきっと、同じ寒さを感じていると思う。 「ケイジ……あなた……」 昔買ったボロボロなベビーベッドのガラガラが風で揺れる。 窓を閉めることも忘れて、夜を過ごした。 翌朝、家に軍人が来た。 玄関の扉を開けて軍服を見た時、鍵を閉めてやろうかと私は思った。 来なさい、覚悟は出来ています。 「遠藤花子さんですか?」 「ええ、そうです。」 軍人は1枚の折りたたまれた紙を取り出し、私に手渡してきた。 「どうぞ、お開きください…」 『遠藤忠(ただし)殿、戦死。』 漠然としたその文字を見て、情報を認識しきれなかった。そのたった漢字六文字だけでここまで人を絶望させるものがあると思っていなかった。 「死体の発見が遅れてしまいました…今回の大東亜戦争で択捉島から見つかりました。」 帽子のつばを下げ少し会釈し、軍人は帰っていった。 その場にただ立っているだけだった。 どうして受け入れられないのだろう。 愛する夫が死んだから? 紙を受け取ったから? どれも違う。 『遠藤忠 殿、戦死、』 としか書かれてなかったから。 やっと状況を理解し、頬を熱い液体が伝っていくのを感じた。 「……母ちゃん。」 戦地に駆り出された感覚は初めてだった。 今から人を殺しに行くと思うと鳥肌が立った。 帽子についている花をつけ直した。 「…おい!新入り!」 俺の方を見て熟練兵士のような人が怒鳴った。 「独り言は許されない。さもないとてめえの下を引っこ抜く。」 戦地で塹壕を掘っている時も、謎のいびりは続いた。 「おい!俺休憩するからここ掘っとけ。」 「いや、僕も自分の場所で精一杯…」 「あぁ?素人如きが口答えすんな!」 横腹に強い殴りを入れられた。 結局、先輩の塹壕を掘って自分の場所は掘り終わっていなかった。 上官にこっぴどく叱られた。俺のせいじゃないのに。 「おい新入り、何一丁前に帽子なんか被ってんだ?」 また変ないびりが始まった。 「クソ生意気だな…おらっ!」 帽子のつばを持って帽子をもぎ取られた。 「はっはっは…欲しけりゃ……」 気づけばそいつの顔に殴りを入れてた。 帽子のホコリを払う。 「てめぇ……どういうつもりだ?」 「この帽子だけは、絶対に渡さない。」 地面に落ちた花を帽子に取り付け、再び被った。 軍人が帰ったあと、玄関の前で紙を抱きしめて泣いた。 それはもう、近所まで届くくらいわんわんないた。 ぎん婆さんだけ来てくれて、紙を見て状況を把握した。 私の背中を、優しく撫でてくれた。 落ち着いてぎん婆さんにお礼を言ったあと、居間に戻った。 相変わらず家の中には静かに風が吹き、ガラガラが鳴る。 その音を聞く度に胸がキュッとする。 「…ん?」 ガラガラに何か、括り付けられてる。 「なにこれ……」 括り付けられてた紙を外し、開くと文字が書かれていた。 「…ケイジ。」 そこには『遺書』という字が書かれていた。 「……こんなの書いてたなんて…言ってくれりゃよかったのに…バカだね。」 静かに、声に出さずに読む。 「母ちゃん、気づいたかな?俺は忘れてないよ、歩けるようになって宝探ししてる時、だいたいここに隠してたよね。俺も真似してみたんだ。」 どこか変な始まりで、文の才能が無かったことを思い出した。 「…まあそんなことは置いといて、伝えたいことがある。」 もう覚悟は出来てるよ、ケイジ。 「俺は父ちゃんみたいにはなれなかった。あんなに一生懸命働いて、夜遅くまで働いて、俺たちのためにいっぱい金を稼いでくれた。戦地に呼ばれたけど…今どこで何してんだろうな。」 ちゃぶ台の上に置いた通知を見て心が締め付けられる感覚になった。 「しかも、『寂しくならないように』って言って軍配布の帽子を置いてったよね。ほんと、そういう時にしか優しさ出せないとか不器用な父ちゃんだよね…」 今ここに、夫の帽子はない。 「…まさか、使う時が来るなんて思ってなかったよね。」 小さく涙があふれる。 「……まあちょっと余計な話が入っちゃったけど、これだけは言わせて欲しい。」 覚悟してその下の文字を読む。 「母ちゃん、父ちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。そして、他にも俺に関わってくれた人たち。俺は天邪鬼だから、これだけは言わせて欲しい。」 『ありがとう。』 そこで字は途切れていた。 涙で遺書の文字がびちょびちょになってしまった。 花子の家では、アジサイの花瓶が置かれている。 風で静かに揺れているアジサイは、戦地にいるケイジを思い起こさせる。 ケイジの被っている帽子に、アジサイの花がついている。 静かな同じ空の下で、息子は走馬灯を見た。 母親は、空を飛ぶウグイスを見た。
時と、カマキリのように。
「もう長くは無い。」 病室で聞いた祖父の言葉は耳を思い切り貫いた。おちゃらけていた祖父の口から出てきたその言葉は、いつものようにふざけた口調ではなかった。 「……じいちゃん。」 俺はじいちゃんの他に信頼できる家族がいない。というより、じいちゃん以外の家族は既にこの世にいない。 「……そんな深刻な顔するでない。」 微笑みながらじいちゃんは言った。 「じいちゃん!!」 そのままじいちゃんはゆっくり目を閉じ、呼吸が浅く…… 「スー……スー……」 なってなかった。 「ハッハッハ……驚いたか?」 「……」 「どうした…?気に入らなかったか…?」 目にうかべる涙を拭う。 「……この…クソジジイが…」 心の奥では、確かに。 『長生きして欲しい』と強く願っていた。 じいちゃんが言うには、余命は残り約1週間らしい。ただこれはあくまで今までのデータの目安だから、もしかしたら3日で死ぬかもしれない。ただ逆を言えば、1週間以上生きるかもしれない。後者に希望を乗せて、じいちゃんの余生の為に俺も生きよう。 1日目。 「元気か、じいちゃん。」 花瓶と3、4本の花を持ってきた。 「……花瓶か。なんの花だ?」 「じいちゃんにそっくりだと思って、カスミソウを持ってきたんだ。」 「感謝、無邪気、無垢の愛……」 じいちゃんはとにかく花が好きだった。どんな花でも、すぐ摘み取って育てようとしては、花言葉や分布を調べてた。でもじいちゃんはアナログ人間で、頭の硬い人。決して電子機器なんか使わず、ずっと図鑑で調べてた。 「カスミソウといえば、懐かしいなあ……婆さんを思いだす。」 「ばあちゃん?」 俺のばあちゃんは東日本大震災以来、行方不明になった。すごく悲しかった。あの時、じいちゃんは俺の前から姿を消して、突然現れた。ばあちゃんが行方不明になったことは知っていたらしい。そのときじいちゃんがどんな感情だったかは全くわからない。あんなに人に興味なさそうな人でも、自分の妻だけは確かに愛していたはず。 「初めて会った時、俺はお前と同じように婆さんにカスミソウを渡したんだ。『嘘偽りなく、純粋に愛している』ことを示したかった。」 思えば俺は、じいちゃんからほとんど昔のことを聞いたことがない。 「じいちゃんって、昔の話とかしてくれたこと無かったよね。」 「なんだ、他にも聞きたいか?なら俺の遺書を探せ。俺は手渡しで遺書は渡さない。」 ……なんで? 「なんで?って顔してるな。いいだろう別に、最後くらい遊び心満載のまま向こうに行きたいからな。」 もう1ヶ月も生きられないのに、こんなに明るく生きられるのは昔からのじいちゃんの長所と言えるだろう。思えば…… 「私の孫がまさか結婚するなんて思ってもなかったです。樹(いつき)、幸せにしてやれよ。このアンポンタン!」 「言われなくてもわかってるさ、じいちゃん!長生きしろよ老いぼれ!」 結婚式でもそうだった。いつも陽気で、周りを楽しませることしか考えてないような人だった。 「どうした?」 「……ん……ああごめん、少し考えてたんだ。とりあえず、もうすぐ昼休み終わるから会社行ってくるわ。じゃあね、じいちゃん。また明日来るから。」 病室の扉に手を伸ばした。 「待て!」 じいちゃんは俺を引き止めた。 「……遺書の場所のヒント、やるよ。」 そういえば遺書のことを聞くの忘れてた。 「『古き大樹の中、暗く深い場所にある』だぞ。よく覚えておけよ?あ、もし見つけてもまだ開くんじゃないぞ。看護師さんには内緒なんだ。遺書は書かないって伝えたからな。」 遺書は病院関係者が俺に直接運んでくるから、『書く』と言ったら遊び心満載のまま死ねない……てか。全く……本当に 「面白いな。」 自然と笑みがこぼれたまま、俺は病室から出た。 「何度ミスをしたら気が済むんだ!」 俺の作ったプレゼン資料を机に叩きつけた上司は、俺の顔を鋭い目つきで睨んだ。 「すみません…すみません…」 ただ二箇所誤字をしただけで、なぜ俺はこんなに怒られてるのか。本当に、完璧主義のお硬い頭な上司に当たったことは人生で一番の失敗だったよ。 「ったく、まだ誤字でよかったなあ?これが計算ミスだったらこんなとこで説教は終わってないからな?」 そう言い俺に資料を力強く渡してきた。 「やれやれ、災難だったな西宮。」 同僚の矢賀真守(やがまもる)だ。 「理不尽な上司だよなほんと、誤字だけであんなにキレることないだろ?しかも下書きの資料なんだぞ?」 「俺も昨日同じようにやられたよ……完璧主義ってめんどくせえよな。」 デスクに向かい、再びパソコンを開く。 「今日は顔が暗いな。」 矢賀は俺の方を見た。 「じいちゃんがもう……長くない。」 「……そうか…悪いこと聞いたな、気にしないでくれ。」 空気を読み矢賀は俺ではなくパソコンの方を向いた。 数時間仕事して、矢賀は口を開いた。 「……帰りにどっか飲みにでも行くか?奢るぜ。」 「すまん、今日は行けない……明日見舞いのとき二日酔いだったら困るからな。」 「そうだよな…」 気まずく重たい空気が流れる。 「お疲れ様でした」 社員が続々と帰っていく。 「……え?」 俺は矢賀の机に買っておいたエナジードリンクを置いた。 「今日も残業なんだろ?持って帰ってやるから、半分資料くれ。」 「え……いいのか…?」 「せめてもの礼だよ。」 オフィスを後にした。 「ふう……」 疲れた。 家に持ち帰った仕事を終わらせ、ため息をひとつ。 …走馬灯が一瞬だけ見えた気がした。こんなことならカッコつけて仕事を持ち帰るんじゃなかったな。 夕食を食べ、風呂に入り、歯を磨き、髪を乾かす。そしてベッドに入り目をつぶる。今日も俺は頑張ったと、自分に言い聞かせる。 おやすみなさい。 2日目。 時は残酷なことに止まることを知らない。刻一刻と、その時はやってくる。人が亡くなるにも関わらず、時はすでに1日が流れた。 病院までタクシーで向かい、祖父のいる部屋に向かう。 「じいちゃん。」 「よお、樹。そんな顔してどうした?彼女にでも振られたか!」 もうすぐ亡くなるというのに、なんでこんなに陽気にいられるんだろう。 「……ただ寝不足なだけだよ。」 「さてはお前、同僚から仕事受け取って代わりにやったんだな?」 寝不足としか言ってないのになんでわかった? 「なんでわかったかって?顔に出てるよ顔に!」 そう言ってじいちゃんは俺の頬を叩いた。 「人を助けるのはいいことだ。だが、無理だけはするなと……あれ?言ったっけ?」 すごい深そうなことを言いそうなのに何なんだこの人は。 「……まあいいや。今日はお守り持ってきたよじいちゃん。」 「ハッハッハ、死にかけの老いぼれに長寿のお守り会?そりゃ皮肉ってやつか?」 笑いながらお守りを受け取った。 「ありがとな…少しは……頑張れそうだよ。」 俺にはわかる。この顔、言葉と言葉の間……嬉しいんだ。じいちゃんは嬉しい時、言葉の間に独特な間がある。しかも、顔は右頬だけが赤くなっている。なんでだろう。 「……ほんと、わかりやすい人だね。」 「ん?なんのことだ?」 「いや、こっちの話。」 じいちゃんは黙って窓を見つめてる。 「……病は気から、っていうことわざを知ってるか?」 「藪から棒にどうしたの、じいちゃん?」 「病は気から、ってのは『病気は気持ちの持ちようで良くも悪くもなる』っていう意味のことわざだ。」 そういえば、じいちゃんは何があって余命1週間になったのだろうか。勝手に寿命だと思ってたけど、この話をするってことは何かしらの病気なんだろう……なぜ今まで原因のことを1度も考えなかったのだろう。 「そういえばじいちゃん、何が原因で余命1週間なの?」 「……ああ、話していなかったな。実はな…ガンだ。ステージ4の末期ガンだ。」 真剣な顔をしてじいちゃんは話してる。 「病は気から、の事なんだが。」 一呼吸置いて話し始めた。 「お前もここから先苦しいことがあって病気にでもかかったら、このことわざを思い出して欲しい。思い込みの力はお前が思っているよりもはるかに強い。だから……良くならなかったらどうしよう、さらに悪化したら。そんなことを考えては一生病気なんて治らない。」 俺はそこに立ったまま外を見つめるじいちゃんの話を聞く。 「だから、樹…………諦めるな。」 間違いなくその目は、本気でそうして欲しいという願いの籠った目だった。 病院から出てすぐ、近くの信号の音が聞こえた。 カッコー、カッコー、カッコー。 歩道を渡るサラリーマンたち。 スーツを着た人の車たち。 「さて……行くか。」 少しずつ、理不尽な世界へ足を踏み入れようとしている。晴れた空の下、たった一つの建物に地獄があるという矛盾に楯突いて歩く。 「おす、おはよう。」 信号待ちに矢賀がいた。 「……随分寝不足な顔してんな。本当に良かったのか?」 「ああ、大丈夫……」 目眩がする…う…… 「おい!西宮!?」 目の前に歩くアリの行列があった……列の後ろから蜘蛛が来てる。そうか、この列はただ逃げてるだけなんだ…アリが俺たち、蜘蛛が時間と言ったところか。時に追いかけられ、その"時"が来た時、存在が消される。残酷だな。 「……西宮……西宮!!」 目が覚めた時、矢賀におぶられていた。 「まだ病院の近くでよかったな。」 倒れたのか……頭が痛い… 「ありがとう……」 疲労で倒れたようだった。日々のストレスと激務から体が耐えられなかったらしい。 「……全く、俺の仕事増やすんじゃねえよ。」 病室で寝ていた俺は横にいる矢賀に呆れ声で言われた。 「すまん、ちょっと無理したっぽい……でも忙しかったら言ってくれ。」 矢賀は目を見開いた。 「今プロジェクトのせいで大量の仕事任せられてんだろ?なら手伝わせてくれ。たとえ倒れてもお前を手伝いたい。なあ……」 パンッ、と大きく音が鳴った。 音源は、俺の左頬だった。 「……なあ、なんでわからない?」 怒りの混じった声で矢賀は言った。 「俺にとって1番大きな仕事、それがなにか。」 「……プロジェクトじゃないのか?」 「全く違う。」 矢賀は軽く息を吸う。 「バカ真面目でお人好しな無理をするお前の世話をすることだ!!自分のことを大切にできないなら、そんな状態で人を助けても助けられた側はいい気持ちはしない!むしろ責任感まで感じるんだ!!今の俺や、今までお前に助けられた全ての人が!!!」 力強く、自分を見つめるきっかけを面と向かって言われたのは何年ぶりだろう。今まで俺はどんな時も、自分の欠点がなにか、人を守るためにどう動くべきか。 矢賀…… 「ごめん…ごめん……」 泣きながら矢賀に抱きついた。 「本当に……ごめんなさい……」 矢賀の目は、少し涙ぐんでいた。 会社に社員が倒れたと連絡があり、労災保険が下りた。さらに、パワハラをしていたと通報を受けうちの部署の上司は謹慎処分となった。じしゅきんしんとなった。 「やったな、西宮。」 「ああ……本当にありがとう、矢賀。」 俺たちは会社へ足を運び始めた。 その日の会社はとても『苦』とは無縁だった。 新しく部署に配属された上司はとてもおおらかで優しく、ちょっとしたミスは怒らずに注意してくれる。そのお陰か、今日はみんな定時退社だった。 「お疲れ様です!!」 「お先に失礼します!」 活気に満ちた部署を見たのは久しぶりだ…… だけど、その裏側で社員が一人倒れた。遅刻をしてまで、助けた社員がいた。会社を変えるために、倒れた人がいた。 ……俺が倒れたから会社が変わった? 「おい、西宮。」 「……ん…ああ、すまん…」 「責任感じてんのか?」 そんなこと… 「そんなこと…とか思ってんのか?」 なんで…?こうやっていつも考えてることがバレるんだろう… 「顔に出てんだよ、顔に。」 「……みんなに言われる、それ。」 「……じゃあな、西宮。」 「おう、じゃあな。」 午後7時、病院はまだ開いている。 「……じいちゃん。」 「お、今日二回目か。そんなに暇か?」 相変わらず元気だった。 「ん……ハンカチなんてどうしたの?」 「ああ、最近映画を見るのにハマっててな。今見てた映画が感動するんだよこれが…ほら、これ。」 じいちゃんはテレビに映るアニメ映画の映像を指さした。 「これ子供が見るアニメの映画だよ…」 「そうなのか?でもそれを見なくても面白い映画ってことはよっぽど名作なんだな!」 ポジティブな声に少し呆れた。 「そう、じいちゃんに渡したい物があったんだよ。」 俺は手に持っていた袋から本を取りだした。 「何も無くて暇かと思って小説持ってきたけど……この調子じゃ必要ないか?」 「おおありがとう、貰っておくよ。これは…『枝垣章伍』の小説じゃないか!」 「え、じいちゃん知ってるの?」 「知ってるも何も、こいつはわしの同級生だ!」 「え!?ほんとに!?枝垣先生の本まだ家に3冊あるんだけど、いる?」 「ありったけ持ってきてくれい!!」 やっぱり口調は昭和感が否めない。でもそんなじいちゃんが、古臭いじいちゃんが俺は、大好きだ。 3日目。 「好きな動物っているか?」 見舞いに来た瞬間の第一声がこれだった。 「何さいきなり…うーん、オオカミとか?」 「オオカミとか、いつまでも中二臭いなあ」 「うるさいな……じいちゃんは何が好きなのさ?」 「無論、俺はカマキリだ!」 まさかの昆虫類だった。 「……虫って動物に入れるにはちょっと微妙じゃない?」 「ええいうるさいうるさい!とにかくカマキリが好きなんだ!」 手を振りながらじいちゃんはカマキリについて語り出した。 「目、口、体つき、大きさ、色、そしてなんと言ってもあの命を刈り取る形のカマ!あんなのカッコイイ以外の何物でもないだろう!!」 「うん、いいと思う…」 10分ほど語りは続いた。まだ続くのか、まだ続くのか、まだ続くのか。何回考えて何回頷いたんだろう。 「……どうだ!カマキリの良さは伝わったか!?」 「……ごめん、ずっと同じ話に聞こえた。」 「ああ、そりゃそうだろう。だって10回は同じ話したんだもん。」 本来1分で終わったんじゃん…… 今日は日曜日だから仕事がなかった。ただそんな中でも病院の方々は働いている。長時間ここにいるのはマナー的に良くないと思い、俺は病院を後にした。 「はぁ……」 何をすればいいかわからない。多分正解の選択肢はもう無い。じいちゃんをできるだけ長く生きさせたくても、選択肢が何も見えてこない。あるとしたら、『一緒にいる』くらいろう…………これがじいちゃんに対する行動の正解だと信じて、残りの時間を過ごそう。 しばらく通りを歩いた。 「あっ……」 どこかで見た事のある顔だ。 「……ん?」 変な顔をされた。人の顔を見て固まったんだから当然だ。 というかあの人…… 「枝垣章伍さん?」 男の体がピクっと止まった。 「……僕とお会いしたこと、ありましたっけ…?」 振り向いて男は言った。 間違いなく、この人は……枝垣章伍さんだ。 「ファンなんです!少し時間あったり…」 しまった……感情が剥き出しになってしまった。この人も仕事人だ。そんな簡単に… 「いいですよ、軽くお話する程度ならね。」 「……!ありがとうございます!」 近くの公園のベンチに座り、会話を始めた。 「作家を始めたきっかけは?」 「枝垣章伍はペンネーム?」 「どうしてミステリが好きなんですか?」 感情が昂り怒涛の質問攻めをした。枝垣先生はとても丁寧に答え、質問攻めされているとは思えないほど冷静な態度だった。 「……事件のプロットはこう考えて作るとあとの展開に繋げやすいよ。」 「なるほど……」 趣味で小説を書く身としては、アドバイスはまさに天の声だった。本職に教わるほど信ぴょう性と効果の高いものはない。 「……そういえば、聞きたいことがあるです。」 「ええ、なんでも言ってください。」 歳の割に、爽やかな返事。 「……西宮信明(のぶあき)のこと、知ってますか?」 枝垣先生は驚きの目をしていた。 「知ってます、小中学校の同級生でしたよ……なぜ、その名前を?」 「私実は…」 カッコつけてバイクの免許証を出した。 「西宮樹……まさか!」 「ええ……私は、信明の孫です。」 「そうか、末期ガンで…」 今の祖父について話した。 「…学生時代、祖父はどんな人でしたか?どれだけ言っても、全然過去のことだけは話してくれなくて…話しても亡くなったばあちゃんとか花が好きだったこと以外話してくれないんです。」 「…………」 枝垣先生はしばらく黙った。 「変な人で、臆病な人だったよ……しかも恥ずかしがり屋で、学校で馴染んでいたとは言えないほどでもない、とても中途半端な人だった。中途半端で臆病とか、逆に何があるんだよって感じだったよ。」 「あんなに陽気なじいちゃんが……臆病者?」 「妙に強がりが多かった人だったなあ……多分、今陽気でいるのは心の底から楽しみたいからなのか、はたまた強がりか。」 「……かなり意外でした。」 じいちゃんのいる病室の窓を見つめた。 じいちゃん。俺はやっぱり、あんたの孫だったよ。 臆病なところも、強がりなところも、俺と全く同じ。 ピンチになった時ほど気分が良さそうに振る舞うのも、俺と同じ。 ただ順当に行けば……死ぬ直前は、多分ビビりまくる。あんたの孫の俺がそうなんだから、あんたはきっと本性を出すだろう。 来たるその"時"まで、俺はただあんたのそばにいることしか出来ないけど、それでも。 頑張って生きてくれ。 「……今日はありがとうございました!」 「いえいえ、また機会がありましたら連絡してください!」 「では失礼します!」 互いに頭を下げ公園を後にした。 それにしても驚きだった。まさかあんなに陽気なじいちゃんが臆病者で恥ずかしがり屋だったなんて… 「……あ!」 サインもらってない!! ちょっと待って!まだ行かないで…… いや、連絡してまた会えばいいか。 ……いや。 「すみません!忘れてました…」 「どうしました?」 会社で使うノートを取り出した。 「サインください!!」 4日目。 「……じいちゃん、そういや。」 「どうした樹?」 ポケットから1枚のメモを取り出した。 「《古き大樹の中、深く暗い場所にある。》ってどういう意味?」 「……それをわしが教えると思うか?」 じいちゃんは軽く笑った。 「お前が…よく知ってる場所だ。このわしも、よく知っている。思い出の場所だ。」 思い出の場所… 「……まあ、だいぶ前のことだ。お前は覚えてないかもな。」 …昔の思い出。 どれだけ考えても、何も出てこなかった。 「あ、ひとつ覚えて欲しい。遺書を探すなら俺が死んだ後にして欲しい。」 「……なんで?」 「だって"遺"書じゃん。」 それはそうか。 「……わかった。そんな時は来て欲しくないけど、じいちゃんが死んだら探しに行く。」 「ハッハッハ……嬉しい……こと言うじゃないか。」 また独特な間、そして右頬だけ赤くなってる。 「じゃあ、もう行くね。」 「おう、仕事、頑張れよ。」 全く昔の記憶は持ってない。思えば俺、昔からじいちゃんばっかりだった。遊ぶ時はじいちゃん、飯食う時もじいちゃん、笑った時、泣いた時、苦しかった時、全部じいちゃんだった。もちろんばあちゃんも好きだったけど、いつも一緒にいたのはじいちゃんだった。そんなじいちゃんとばあちゃんと俺の、思い出の場所…… …ダメだ、やっぱり何も出てこない。なんでだろう…あんなに長いこと一緒にいたじいちゃんとの思い出の場所…出てこない… 5日目。 命の重さを感じる機会は、多分なかなかない。いや、感じたくないんだ。みんな大切な人がいなくなることが怖いから。寂しいから。 「……あ……ああ…」 朝テレビのニュースで見た。 「〇〇県✕✕町、町立病院の手術室より火災が発生、病院が火事になっていると通報があった頃には、建物はほとんど全焼していました。」 ただ見つめるしかできなかった。 「……病院の職員たちは2人が軽傷。患者は、」 やめろ。 「全員が焼死体で見つかりました。」 やめろ……やめろ……! やめろ!!!!! 「職員に話を聞いたところ、《患者は逃がすことができなかった。火が病室にすぐまわり、助けることが出来なかった。》と供述しています。警察はこれを悪質な見捨てる行為だと見なし、病院の職員及び院長に対し事情聴取を行っています。」 町の病院が燃えた。 そして…… じいちゃんも、燃えた。 「じいちゃん……じいちゃん!!」 雨の中、ただ病院へ走った。 走る途中に消防車や救急車を見た。 「ああ……あ……」 野次馬に来た者たちの視線の先には、炭となった病院が見えた。 「う……うう……あなた…」 病院に患者がいて、絶望する主婦もいた。その傍では子供が泣き声をあげずただ俯き涙を流していた。 「じいちゃん!!!」 病院の中に入った。 「ちょっと君!危ないよ!」 「うっ……!!」 入口で瓦礫が崩れ、中に入ることが出来なくなった。 「やだよ!!じいちゃん!!なんでだよ!!!」 落ちてきた瓦礫をただ殴り続け、どかそうとし、涙をポタポタ落とす。 瓦礫と共に落ちてきた涙は、どちらも絶望そのものに見えた。 手が血まみれになり、それでもなお無我夢中で瓦礫をどかそうとした。 「うぅ……ああぁ……!!」 手の皮が剥け肉が見えて、痛みが襲いかかっても、今抱えてる心の傷のせいで何も感じなかった。 俺は悟った。信じたくはない。 じいちゃん……死んだ。 ただ病院の前で膝をついた。 何もすることが出来ない俺の涙は、雨と一緒に地面に吸い込まれていく。 ああ……この世の全てがどうでも良くなってきた。生きる意味を失ったかのようで、心が消えて無くなるほど大きな穴が空いたような感覚がする。 『諦めるな』……か。 じいちゃん。じゃあこんなときは… 何をしたらいいんだよ… 家に帰り、震える手で火葬の予約をした。明日、隣町の病院が遺体を回収して、明後日に火葬ができる。 はじめてだよ…自分の大切な人間が目の前で燃えていくのを見るのは。 「……これが"死"なのか。じいちゃんは、ばあちゃんが行方不明になったとき同じような感覚だったのか?地震で俺たちの前から消えたばあちゃんを、どんな思いで失くしたんだ?」 その日の飯は喉を通らなかった。 一晩中泣いた。ずっと一緒にいた家族は2人とも死んだ。どっちも、寿命で俺の前から消えなかった。 ほんと、神様って…… クズだよね。 6日目。 じいちゃんが死んでから次の日。 何も食べれないし、何もできなかった。 新しい上司から電話がかかってくる。もう何個不在着信が溜まったか数えれない。 この日はほとんど何もせず、泣くことと寝ることを繰り返した。 泣き疲れて寝る度にじいちゃんの夢を見た。小さい頃遊んだことを、あの大樹の近くで鬼ごっこやかくれんぼをしたこと。 ……大樹…? 7日目。 この日は曇りだった。 俺はひたすらじいちゃんの家に向かって車を飛ばし、5キロ先の実家に帰った。 今はもう家主が住んでいない、その実家に。 帰ってきた。 「あった……」 あの大樹。 じいちゃんとよく遊んだ、思い出の場所。 《古き大樹の中、暗く深い場所にある。》 古き大樹…じいちゃん。カッコつけてそれっぽい名前つけやがって…… 目に浮かぶ涙を拭い、大樹に近づく。 「じいちゃん……」 大樹の麓、土の中から箱の角が飛び出していた。 土をどかし、その箱をとる……とても質素で、プレゼント向きではない箱。 箱の蓋を開ける。 中には、1枚の紙があった。 「これが……遺書。」 《古き大樹の中、暗く深い場所にある。》 そのメモの通りだった。昔から馴染んでた大樹の麓に、遺書があった。 「西宮樹へ。元気にしているか?もしわしが死んだなら、お前は多分元気じゃないだろうな。」 その通りだよ、じいちゃん… 「じゃあ本題。今までお前にはわしの昔話をしたことがなかったな。だから……最後に話させてくれ。」 じいちゃんの、過去。 ばあちゃんのことと花のことの他は何も知らない。 どんな過去があったのだろうか。 「わしは、長崎の原爆で両親を亡くした。それはもう焼けただれててな、三日三晩泣いたさ。」 爆心地の近くから逃げ切ったのか……あんなじいちゃんが三日三晩泣いたなんて、想像できない。その分、考えると心苦しい… 「そこからわしは決めたんだ。あとの世代には、決して苦しい思いをして欲しくないと思い、今まで我慢してきたんだ…わしが悲しんでる姿を、見て欲しくなかったんだ…そんな我慢してまで自分を押し殺すところは、お前はよく似たと思うよ。本当は、臆病なところ。よく似てるよ。」 矢賀の言葉を思い出した。 「よくこの木を知っているだろう?わしとお前がよく遊んだあの思い出の場所。」 …色んなことをしたよ。 鬼ごっこ、かくれんぼ、おままごと…… 「わしはこの場所が大好きだった……お前を、養子に取った時から。」 ……ああ。 通りで……俺…… 自分の親のこと、じいちゃんとばあちゃんの他に知らないんだ…… それ…そもそも、親を見たことがなかったからなんだ…… 空を向いて、涙を流す。 今まで心の隅で思ってた。俺に両親はいないのか?小学校で、参観日にいつもじいちゃんとばあちゃんしか来なかったのはなんでか? なんでじいちゃんとばあちゃんしかいなかったんだろうか? 「きっと驚いてるだろう……わしとお前は、血の繋がりは一切ない。婆さんと散歩している時、この大樹の麓に、ベビーバスケットに入ったお前がいたんだ。子供も孫もいなかったわしらは、お前を愛情込めて育てた。まるで、親のように。血の繋がりもない他人に育てられて、嫌だったか?」 ……そんな… 「そんなわけないだろ……」 たしかに俺は…あなたたちから…… 沢山の愛情を貰ったよ……! 「どう思っても、今更どうすることも出来ないけどな…」 手紙を読んでても、へらへらと笑うじいちゃんの声が聞こえてくる。 「最後に、わしの伝えたいことは3つある。1つ、無理して優しくするな。2つ、胸張って生きてくれ。3つ……」 涙でその文字は滲んでた。 「諦めるな。」 遺書は、そこで終わってた。 「う……うぅ…!」 遺書と箱を俺は強く、強く抱き締めた。 「うわぁああああああぁぁ!!!!!……うぐっ……ううっ……ああぁぁぁ…!!!!」 1年と5日目。 「お医者さんいやだー!!」 病院で子供の泣き声が聞こえる。 「そんな事言わないの!お医者さん会わないと病気治んないよ!」 「だって!注射怖いもん!!」 診察室に子供と母親が呼ばれた。 「こんにちは。僕。じゃあ、腕だしてね。」 「いやだ!嫌だああああ!!!」 注射を打った。 「……あれ?チクってしない…」 「そうだよ。この注射は先生が作ったんだ。痛くない注射だよ。」 母親はその注射器を凝視する。 「すごい……そんなこと出来るんですか?」 「ええ、できますとも……『人を苦しませたくない』と思う気持ちと、『諦めない』気持ちがあればね。」 「ありがとうございます……ありがとうございます!」 母親と子供は帰っていった。 「ふう……」 パソコンにデータを入力する。 人を傷つけたくない。 苦しませたくない。 「……じいちゃん。」 今俺は、医者になって皆をたすけています。 無理はしていません。ただ優しくしているだけです。 胸張って生きて、健康を守っています。そして…… 諦めずに生きてます。 昼休み。他の先生に代わってもらい、墓場へ向かう。 「……これ、好きだろう?」 じいちゃんの墓に、二輪のカスミソウを渡した。 「感謝、無邪気、無垢の愛……そっちで、ばあちゃんと仲良くしてるか?」 墓に向かって合掌し、少し離れた別の墓に向かった。 《枝垣章伍之墓》 枝垣先生にも、カスミソウを1輪。 「サイン、ありがとうございます。」 ノートをバッグから取りだし、じいちゃんの墓に、渡せなかったサイン入りのノートを置く。 「……枝垣先生とも、仲良くしてやってくれ。小中学校のときのようにな。」 ポケットからじいちゃんの遺書を取り出し、ふと足元を見た。 「……じいちゃん…!」 アリの行列を襲う蜘蛛からアリたちを守るように、行列を跨ぎカマキリが蜘蛛と戦っている。 「……願い、叶ったな。」 時に抗い、自分らしく生きること、出来たな。 空を見上げ、じいちゃん、ばあちゃん、枝垣章伍先生を思い出す。 最高の思い出をありがとう。 ご冥福、お祈りします。 血は繋がっていない。 直接の関わりは、会うまで一切ない。 それでも、愛を貰っていたなら幸せじゃないか。 『諦めるな。』 行列の、このカマキリのように。