Aurelian Morse

25 件の小説
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Aurelian Morse

純文学を専門にしています。 人を選ぶ作風だと思いますが、なかなか自分の求めている作品に出会えないという方は、もしかすると気に入っていただけるかもしれません。

オリオンの涙

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過去作_『流木』より

ある森の木々から一斉に小鳥が飛び立った。 唸るような声が響き、落ち葉や小枝を踏み締める音が聞こえた。 茶色の毛色をした大きな熊が、木々の間を縫うように歩いてきた。 本来なら今頃冬眠をしているべきであるが、どうやら機会を逃したようだ。 熊はそのまま森を抜け、川辺へと出た。 雪の降るこの日、鮭たちも産卵のために湧水地であるその川へ来ていた。 熊の冬眠が叶わぬ理由の一つは、餌不足である。 つまるところ、かの熊は今にも胃袋が平に枯れようかとばかり、腹を思い切り減らしていた。 彼にとって鮭たちの存在は不幸中の幸いであった。 鮭は通常産卵を終えるとその場で息絶える。 なぜなら、海から川を登る際にその体力の大半を使い果たし、おまけに浅い砂利底で産卵を行うため、自身の体はその道中で凄まじいほどえぐられるからである。 そんなわけで産卵後の川辺はどこもかしこも鮭の死体だらけになる。 つまりこの熊は1匹どころか何十もの鮭にありつけるることが定められたのだ。 しかし死にゆく天命とあれど、鮭たちもその最後の瞬間まで例外なく抵抗はした。 そしてそのどれもが、呆気のない終わり方をした。 とにもかくにも、熊は諍いなく胃袋を満たした。 熊が腹を満たし終えた少し後、雪の重みに耐えかねて大木の枝がそれなりの音と共にへし折れた。 そのまま枝は川へ落ち、これまたそれなりの水しぶきをあげた。 熊は驚いて元いた森へと消えて行った。 枝はその身体を、卵の眠る砂利の川底にガリガリ引き摺りながら、ゆっくりと流れのままに持ち去られていった。 冬の終わり頃、あの川の中腹あたりでまた同じ枝を見つけた。 色んなところにぶつけて、削られたのだろうか、少々小さくなった気もするが、それでもそこそこの大きさがあったのと、三又に割れた先端が特徴的ですぐにわかった。 それは水嵩が増すたびに進み、減るたびに留まり、削られながら形を変えていった。 春先、川が一度だけ大きく騒いだ日があった。 雪代が押し寄せ、流れは茶色く濁り、枝は石に叩きつけられた。 そのとき三又の先端の一本は欠け、もう一本は丸くなった。 それでも枝は流れを離れはしなかった。 川沿いの斜面ではあの熊の姿を何度か見た。 以前よりも毛並みは荒れ、動きは慎重になっていた。 腹はあの日ほど満ちているようには見えなかった。 熊は川に下りて水を飲み、周囲を確かめた後すぐ去った。 私が高いところから見下すにつれ、熊は影の濃い場所を選ぶようになったが、完全には消えきれなかった。 夏の終わりに近いある日、川は低く流れは緩んでいた。 枝は浅瀬に引っかかり、半ば水に浸かったまま動かなかった。 子どもが来た。 一人だった。 川沿いを歩き石を拾い、投げ、足元の水を濁した。 子どもは例の枝を見つけ拾い上げた。 濡れた木肌を手のひらで擦り、形を確かめた。 先端の割れ目はもうずいぶんと丸く、何に使えるとも言い切れない形をしていた。 そのとき、少し離れた木立の間をあの熊が横切った。 音はなく、子どもは気づかなかった。 熊は立ち止まり、川と子どもを見た。 風が匂いを運び、熊は鼻を動かした。 子どもは枝を振り回し空を切っていた。 距離はあった。 すぐに届く距離ではなかった。 熊は一歩だけ前に出て止まった。 それ以上近づかなかった。 理由は知れなかった。 川の水面が光を返し、子どもは目を細めた。 枝を石に打ちつけ、木片を欠けさせた。 その音は乾いていた。 やがて子どもは枝を川へ投げ入れた。 枝は水を叩き回転し、少し下流へ流れた。 子どもは川を眺め、何も起こらないことを確かめたあと岸を離れた。 振り返りはしなかった。 熊はその後もしばらく立っていた。 川を見ていたのか、森を見ていたのか、何をみていたのかはわからなかった。 熊はやがて身を翻し、結局木々の中へ戻った。 岸辺に足跡がついたがすぐに乾いた。 枝は再び流れに戻り、水底を擦りながら何事もなかったように運ばれていった。 翌日、川下に近い畑で熊が見られた。 朝のうちだった。 人が作業を始める前の時間で、畝の土はまだ湿っていた。 熊は畑の端に立ち、動かなかった。 首を低くし鼻を地面に近づけ、何かを確かめるように息を吸っていた。 家の中から人がそれを見た。 声は出なかった。 戸を閉め鍵を掛け、窓から離れた。 別の家では鍋が火に掛けられたままになった。 湯は沸き音だけが残った。 人々が集まり始めた。 彼らは距離を保ち、位置を指で示した。 熊はその間も畑の端にいた。 熊は一歩進み止まった。 土を踏み、柔らかさを確かめるように足を置き直した。 その動きは遅くためらうように見えた。 人々は後ろへ下がった。 誰かが前へ出て、また戻った。 熊は向きを変え川のほうを見たが、そこへは進まなかった。 代わりに畑の中へ半歩、また半歩入った。 畑の作物はその度に踏まれていった。 人々の中で怒鳴り声が上がった。 止める声、重なる声。 どれも熊には届かなかった。 熊は立ち止まり前脚を持ち上げた。 そうして低く、決して荒げない声で唸った。 熊は前脚を下ろし体重をかけた。 土が崩れ小さく沈んだ。 人々の中で何かが決まったようだった。 それは言葉にはならなかった。 ただある人が走ってどこかへ去っていった。 熊は再び首を振り、低く息を吐いた。 その音は短く途切れていた。 しばらくしてから突然大きな音がした。 そこら中から鳥が一斉に飛んだ。 熊の身体が大きく揺れ、畑の縁へ崩れ落ちた。 土が崩れ大きく沈んだ。 熊はすぐには動きを止めなかった。 腹を地面につけたまま、首を持ち上げようとした。 顎が土に触れまた持ち上がった。 息が出た。 短く、荒い音だった。 人は距離を保ったまま動かなかった。 誰も近づかず、声も出なかった。 熊の胸が上下した。 その動きは不規則だったが止まらなかった。 身体を捻り、横倒しになり、そこから腹を地面に擦りつけるようにして向きを変えた。 川のほうだった。 人の中で声が上がった。 短い声だった。 重なり、消えた。 熊は立ち上がらなかった。 立ち上がれなかった。 その代わり、前脚で地面を引き、身体を引きずった。 土が掘り返され、畝が崩れた。 それでも熊は止まらなかった。 距離が少しずつ開いた。 人々は追う者もいれば、止める者もいたが、結局、いずれも足は出なかった。 熊は川縁まで辿り着き水際で一度止まった。 首を垂れ長く息を吐いた。 それから水の中へ身体を滑らせた。 流れは浅く熊の腹を濡らす程度だった。 傷口から滲み出た血液は、薄まりながら広がって川下へ流れた。 熊はあの鮭のように身を引きずりながら水を横切り、対岸へ上がった。 それと同時に足を大きく開き、踏ん張って身体を起こした。 脚がもつれ身体が傾いたが、決して倒れなかった。 森の縁で、熊は一度だけ振り返った。 見たのは人だったのか、川だったのかはまたしてもわからない。 そのまま木々の間へ消えた。 畑にも血が残ったが、土に混じりすぐに色を失った。 人はしばらく動かなかった。 声のみが交わされた。 その日、結局熊は捕まらなかった。 ただその存在だけが、世の中へと広まった。 依然として川の流れは変わらなかった。 水位はわずかに上がり、流れに乗った枝がゆっくりと下っていった。 秋、木の葉も黄色く色づいた頃、あの枝はさらに軽くなっていた。 表皮はほとんど剥がれ、角はすべて丸くなっていた。 かつて三又だった先端は、今ではその名残を留めるだけだった。 同じ頃、とうとう熊は川辺で倒れているところを見られた。 立ち上がろうとしたが叶わず、身体を横たえたままただ呼吸を整えていた。 熊が動けぬと知って、大勢の人が集まり、ざわついた。 気温も下がりかけたその日、川辺に鋭い音が響いた。 熊は跳ねなかった。 唸らず、ただ胸を上下させた。 見ればその腹は、わずかに膨らんでいた。 それが何によるものかは、私にはわからなかった。 わかる気にも、到底なれなかった。 やがて川は再び水を集め、枝を連れ去った。 流れは広がり、淡い色に変わり、味を変えた。 木から落ちてからほぼ一年になった。 枝はとうとう海へと出た。 その下を、ただ銀色の群れがすれ違った。 私はそれを同時に照らしていた。 戻らぬものと、戻ろうとするものを。 何日かして、またその川の上流では、 新しい卵が砂利の下で静かに息づいていた。 そしてまた、私は西の空へと沈んでいった。

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スパークリングワイン - フィッツジェラルドより。

手を握ってみた。 指をその隙間に滑らせた。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 肩に手を回してみた。 円を描くように撫でた。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 腰に手を回してみた。 円を描くように撫でた。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 酒にほてった喉元へ手を回した。 艶やかな肌を上から下へと撫で下ろした。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 指はとうとう君の肌と服の境に触れた。 君の歌う声は、喉元が少し締まったようになった。 もう私たちはここまで来てしまったのに。 みんなは前の画面に夢中だ。 だから私はそのまま手を滑らせた。 同時に君は少し背を丸めた。 湿気って暖かい。 その感覚が、最後の忠告だった。 採点のバーがどんどんズレていった。 だから、みんなの視線が君に映る前に、 私は先にその唇を奪い、互いの顔を覆い隠した。 きっとその後、みんな私たちを見た。 その時、彼らの眼にはどれほど醜く見えただろうか。 それとも一種の美しさがあっただろうか。 ともあれ、私は強引に君を部屋から連れ出た。 きっと私たちは笑っていた。 今はただこの片腕に、君の重みを感じる。 始まりはあの、 たった一口のスパークリングワインだったはずなのに。 ______________________ "First you take a drink, then the drink takes a drink, then the drink takes you" 和訳 : 最初にあなたが酒を飲む、次に酒が酒を飲み、 気づけば酒があなたを飲み込んでいる。 ー Francis Scott Key Fitzgerald (作家)の言葉より。

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スパークリングワイン - フィッツジェラルドより。

流木

ある森の木々から一斉に小鳥が飛び立った。 唸るような声が響き、落ち葉や小枝を踏み締める音が聞こえた。 茶色の毛色をした大きな熊が、木々の間を縫うように歩いてきた。 本来なら今頃、冬眠をしているべきであるが、どうやら機会を逃したようだ。 熊はそのまま森を抜け、川辺へと出た。 雪の降るこの日、鮭たちも産卵のために湧水地であるその川へ来ていた。 熊の冬眠が叶わぬ理由の一つは、餌不足である。 つまるところ、かの熊は今にも胃袋が平に枯れようかとばかり、腹を思い切り減らしていた。 彼にとって鮭たちの存在は不幸中の幸いであった。 鮭は通常産卵を終えるとその場で息絶える。 なぜなら、海から川を登る際にその体力の大半を使い果たし、おまけに浅い砂利底で産卵を行うため、自身の体はその道中で凄まじいほどえぐられるからである。 そんなわけで産卵後の川辺はどこもかしこも鮭の死体だらけになる。 つまりこの熊は1匹どころか何十もの鮭にありつけるることが定められたのだ。 しかし死にゆく天命とあれど、鮭たちもその最後の瞬間まで例外なく抵抗はした。 そしてそのどれもが、呆気のない終わり方をした。 とにもかくにも、熊は諍いなく胃袋を満たした。 熊が腹を満たし終えた少し後、雪の重みに耐えかねて大木の枝がそれなりの音と共にへし折れた。 そのまま枝は川へ落ち、これまたそれなりの水しぶきをあげた。 熊は驚いて元いた森へと消えて行った。 枝はその身体を、卵の眠る砂利の川底にガリガリ引き摺りながら、ゆっくりと流れのままに持ち去られていった。 冬の終わり頃、あの川の中腹あたりでまた同じ枝を見つけた。 色んなところにぶつけて、削られたのだろうか、少々小さくなった気もするが、それでもそこそこの大きさがあったのと、三又に割れた先端が特徴的ですぐにわかった。 それは水嵩が増すたびに進み、減るたびに留まり、削られながら形を変えていった。 春先、川が一度だけ大きく騒いだ日があった。 雪代が押し寄せ、流れは茶色く濁り、枝は石に叩きつけられた。 そのとき三又の先端の一本は欠け、もう一本は丸くなった。 それでも枝は流れを離れはしなかった。 川沿いの斜面ではあの熊の姿を何度か見た。 以前よりも毛並みは荒れ、動きは慎重になっていた。 腹はあの日ほど満ちているようには見えなかった。 熊は川に下りて水を飲み、周囲を確かめた後すぐ去った。 私が高いところから見下すにつれ、熊は影の濃い場所を選ぶようになったが、完全には消えきれなかった。 夏の終わりに近いある日、川は低く流れは緩んでいた。 枝は浅瀬に引っかかり、半ば水に浸かったまま動かなかった。 子どもが来た。 一人だった。 川沿いを歩き石を拾い、投げ、足元の水を濁した。 子どもは例の枝を見つけ拾い上げた。 濡れた木肌を手のひらで擦り、形を確かめた。 先端の割れ目はもうずいぶんと丸く、何に使えるとも言い切れない形をしていた。 そのとき、少し離れた木立の間をあの熊が横切った。 音はなく、子どもは気づかなかった。 熊は立ち止まり、川と子どもを見た。 風が匂いを運び、熊は鼻を動かした。 子どもは枝を振り回し空を切っていた。 距離はあった。 すぐに届く距離ではなかった。 熊は一歩だけ前に出て止まった。 それ以上近づかなかった。 理由は知れなかった。 川の水面が光を返し、子どもは目を細めた。 枝を石に打ちつけ、木片を欠けさせた。 その音は乾いていた。 やがて子どもは枝を川へ投げ入れた。 枝は水を叩き回転し、少し下流へ流れた。 子どもは川を眺め、何も起こらないことを確かめたあと岸を離れた。 振り返りはしなかった。 熊はその後もしばらく立っていた。 川を見ていたのか、森を見ていたのか、何をみていたのかはわからなかった。 熊はやがて身を翻し、結局木々の中へ戻った。 岸辺に足跡がついたがすぐに乾いた。 枝は再び流れに戻り、水底を擦りながら何事もなかったように運ばれていった。 翌日、川下に近い畑で熊が見られた。 朝のうちだった。 人が作業を始める前の時間で、畝の土はまだ湿っていた。 熊は畑の端に立ち、動かなかった。 首を低くし鼻を地面に近づけ、何かを確かめるように息を吸っていた。 家の中から人がそれを見た。 声は出なかった。 戸を閉め鍵を掛け、窓から離れた。 別の家では鍋が火に掛けられたままになった。 湯は沸き音だけが残った。 人々が集まり始めた。 彼らは距離を保ち、位置を指で示した。 熊はその間も畑の端にいた。 熊は一歩進み止まった。 土を踏み、柔らかさを確かめるように足を置き直した。 その動きは遅くためらうように見えた。 人々は後ろへ下がった。 誰かが前へ出て、また戻った。 熊は向きを変え川のほうを見たが、そこへは進まなかった。 代わりに畑の中へ半歩、また半歩入った。 畑の作物はその度に踏まれていった。 人々の中で怒鳴り声が上がった。 止める声、重なる声。 どれも熊には届かなかった。 熊は立ち止まり前脚を持ち上げた。 そうして低く、決して荒げない声で唸った。 熊は前脚を下ろし体重をかけた。 土が崩れ小さく沈んだ。 人々の中で何かが決まったようだった。 それは言葉にはならなかった。 ただある人が走ってどこかへ去っていった。 熊は再び首を振り、低く息を吐いた。 その音は短く途切れていた。 しばらくしてから突然大きな音がした。 そこら中から鳥が一斉に飛んだ。 熊の身体が大きく揺れ、畑の縁へ崩れ落ちた。 土が崩れ大きく沈んだ。 熊はすぐには動きを止めなかった。 腹を地面につけたまま、首を持ち上げようとした。 顎が土に触れまた持ち上がった。 息が出た。 短く、荒い音だった。 人は距離を保ったまま動かなかった。 誰も近づかず、声も出なかった。 熊の胸が上下した。 その動きは不規則だったが止まらなかった。 身体を捻り、横倒しになり、そこから腹を地面に擦りつけるようにして向きを変えた。 川のほうだった。 人の中で声が上がった。 短い声だった。 重なり、消えた。 熊は立ち上がらなかった。 立ち上がれなかった。 その代わり、前脚で地面を引き、身体を引きずった。 土が掘り返され、畝が崩れた。 それでも熊は止まらなかった。 距離が少しずつ開いた。 人々は追う者もいれば、止める者もいたが、結局、いずれも足は出なかった。 熊は川縁まで辿り着き水際で一度止まった。 首を垂れ長く息を吐いた。 それから水の中へ身体を滑らせた。 流れは浅く熊の腹を濡らす程度だった。 傷口から滲み出た血液は、薄まりながら広がって川下へ流れた。 熊はあの鮭のように身を引きずりながら水を横切り、対岸へ上がった。 それと同時に足を大きく開き、踏ん張って身体を起こした。 脚がもつれ身体が傾いたが、決して倒れなかった。 森の縁で、熊は一度だけ振り返った。 見たのは人だったのか、川だったのかはまたしてもわからない。 そのまま木々の間へ消えた。 畑にも血が残ったが、土に混じりすぐに色を失った。 人はしばらく動かなかった。 声のみが交わされた。 その日、結局熊は捕まらなかった。 ただその存在だけが、世の中へと広まった。 依然として川の流れは変わらなかった。 水位はわずかに上がり、流れに乗った枝がゆっくりと下っていった。 秋、木の葉も黄色く色づいた頃、あの枝はさらに軽くなっていた。 表皮はほとんど剥がれ、角はすべて丸くなっていた。 かつて三又だった先端は、今ではその名残を留めるだけだった。 同じ頃、とうとう熊は川辺で倒れているところを見られた。 立ち上がろうとしたが叶わず、身体を横たえたままただ呼吸を整えていた。 熊が動けぬと知って、大勢の人が集まり、ざわついた。 気温も下がりかけたその日、川辺に鋭い音が響いた。 熊は跳ねなかった。 唸らず、ただ胸を上下させた。 見ればその腹は、わずかに膨らんでいた。 それが何によるものかは、私にはわからなかった。 わかる気にも、到底なれなかった。 やがて川は再び水を集め、枝を連れ去った。 流れは広がり、淡い色に変わり、味を変えた。 木から落ちてからほぼ一年になった。 枝はとうとう海へと出た。 その下を、ただ銀色の群れがすれ違った。 私はそれを同時に照らしていた。 戻らぬものと、戻ろうとするものを。 何日かして、またその川の上流では、 新しい卵が砂利の下で静かに息づいていた。 そしてまた、私は西の空へと沈んでいった。

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流木

思考する者へ

 社会は、一種の大きな渦である。  それは銀河にも似ていて、絶大な「重力」を持つ。  宮沢賢治の言葉を借りるなら、それは「魚の御口のカタチ」をしていて、周囲の物を飲み込んでしまう。  この渦の方向は、人々の総意が作り出している。  つまりそれは、個人ではどうしようもないほどの 「絶大な決定権」を持つ。  その渦中にいるものは、流れに逆らうことを許されはしない。  ここで最も重要なことを挙げるなら、 「この命題には例外が無い」 ということである。  それはあなた、そして此れを書いている私にとって、 平等かつ不公平、そして理不尽で圧倒的な真理である。  残酷なことに、人は常にこの渦においては「被害者」であり、 同時に「加害者」でもある。  では、なぜ世界からそのような渦が消えないのか?  それはひとえに、我々人間は常に「正しさ」を受け入れるほどの心の余裕がないからである。  例えるなら、ある学校の運動会でリレーがあったとしよう。  今まさに、ピストルの音が鳴りみんな一斉にスタートを切る。  その時スタート地点で立ち止まり、その意義や本質を真剣に考える生徒はいない。  例えるなら、海で泳ぎの速さを競う対決があったとしよう。  笛の音が鳴って、全員一斉に水面を泳ぎ出す。  その時水中に深く潜り、 「本来自身の泳ぐ水面の下にこんな景色があったのか」 と気づきを得ようとする人間はいない。  今、社会の動きはまさにこれなのだ。  あまりに競争的すぎて、誰もその本質を見極めるための余裕を持っていない。  多くの人は「分かりやすい物」のみを見つめ、 自身が理解した気になることで安心を得る。  その積み重ねで出来上がった今の世界は、 見た目と実態の差が大きすぎるのだ。    魅力的な人や物は溢れるほどあるのにも関わらず、 実際に関わったり、手に入れたりしてみると味わいは実に空虚で、冬に風鈴の音を聴くのに等しい肌寒さがある。  さて、ここまで読み進めたあなたに一つ問おう。  あなたは本来何者で、これからどうなりたいのか。  人々が渦を巻いて、あなたもその中で無意識のままに流されながら生涯を生きることを知り、 それでも「あなたが貴方である理由」はなんなのだ?  この問いは、おそらくこの先何十年に及ぶ貴方の中の難題の一つとなるだろう。  それは時に呪いのように、貴方を苦しめるかもしれない。  しかし、その底なしの深淵を望むことは、 少なくとも自身を空虚な人間にしないための、 最も原始的な手段である。 ___________ さいごに  常に、前提を疑い、本質を見極め、自身の存在意義を探せ。 深く思考するものは常に孤独である。  ただそれはあなたの価値や魅力がなくなったからではない。  深く思考する者は、他者よりも数歩未来を生きるからである。 ___________

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思考する者へ

初まりの音色

透き通った深蒼の街並みは 日の光を確かに受けながら 全くその蒸し暑さを感じなかった 蝉の鳴く木や 港の向こうの 積乱雲が 確かに 爽やかな夏の訪れを知らせているのに どうも私の心の サイダーの蓋は開かないようだった 溜まった気泡が弾けてしまいそうな 今年の花火もそんな感じで パッと散り行くのだろうか 潮風が吹き運ぶ磯の香りと 駄菓子屋の窓に吊るされた 風鈴の音だけが 夏の暑さをこんなに紛らわしている 本当にただそれだけなのだろうか 私には見える この港の向こうの 沖のずっと底の方 悠々と泳ぐ鯨の群れが 40億年前の 『原初の海』 その静かな胎動が 私の血の 雫の一滴の その遺伝子のずっと奥 初まりの音色は まだ続いている

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初まりの音色

《反実仮想の標本室》

硝子の胎内で眠る骨時計が 七分だけ進んだまま夜を忘れていた 昼の仮面を被った魚が 逆光のベッドで呼吸をやめるころ 雲膜(うんまく)は静かに 眩暈の種子を孕む   君は まだ名のない動詞だった 未発掘の会話の化石を抱きしめて たったひとつの反射角だけで 「私にだけ見える不在」を綴じていた   あのとき頬に触れた風は 実はまだ誰の時間にも属していない 捨てられた視線の残骸たちが いまも空中で密かに議会を開き 最も感情的な沈黙を選出している   きっと 私は《私》を演じる抽象の影だった 首筋に貼りついた記憶の粘膜を そっと剥がしながら 今日も 誰にも贈られなかった手紙の 宛名だけを繰り返し練習している   扉のない日々 きっとこの世界も 既に崩壊し終えていた 君が まだ涙という機能を 正確に取得する もっと以前から…。

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《反実仮想の標本室》

正解

ある少年は言った 世の中は不思議と希望で満ちていると ある青年は言った それでも世の中は不公平だと ある少女は言った そして世の中は理不尽だと あるカップルは言った だが世の中は恋で渦巻いていると ある失恋者が言った やはり世の中の恋とやらは盲目なのだと ある夫婦は言った だからこそ世の中は愛が全てなのだと ある貧民は言った 世の中は私に対してあまりに無慈悲だと ある富豪は言った やはり世の中金こそが全てなのだと 最後にある老夫婦は言った 「それら全てが世の中の全てでもあるのだ。」と。

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正解

フレーバーリップ

香水じゃない 君の香りがした ふくふくの涙袋と 薄い肌の下の血管が透けた 君の黒の瞳が 何だか淡い茶色に見えた 君のまつ毛が下がって 僕の視界も真っ暗になった そして残った もう二度と忘れられない あのリップのフレーバー

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フレーバーリップ

美麗的風景(愛すべき景色)

濃い霧も晴れて いつかその向こう岸も見えるだろうか 水面に揺れる月は いつかその下に泳ぐ魚たちも魅せるのだろうか 今私の目の前には 老いゆく村の姿があるのだ 長らくこの地とは決別していたが 理由もなくただ思い立ってまた戻ってきた 都市は行き交う人々の喧騒と 立ち並ぶビルの群れにより一層栄える一方 ここはあの頃から何も変わってはいない 元来ここは父の故郷だった 幼い頃は正月になると 家族総出で都会からはるばる出向いては 祖父母と新年を祝ったものだ しかし私も年頃になってから そのようなものは滅多になくなった あぁ 歳月の流れには何人も逆らえはしない 思い出の酸いも甘いも 気付かぬままそれら全てをここへ置いてきてしまった この山並みと そこに生える(映える)木々のように 私だって何も変わってはいないのだ 口ではここをど田舎だと蔑んでいても 心の奥底では都会の冷たさにうんざりしていた そして流離の憂いのみが残り 今だってかの山を仰いで 自然と目から涙を流しているのは 他でもない私なのだ 今宵またこの丘で星を見よう 少なくとも今だけはきっと 老いゆくこの村の行く末を見届けるべきだろう

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美麗的風景(愛すべき景色)