Aurelian Morse
48 件の小説Aurelian Morse
純文学を基調に、哲学、自然科学、神学、歴史学などの知見を織り込み、童話的な構成によって物語へ昇華する作品を執筆しています。 基本的に直接的な感情表現を極力避け、対象を静かに見つめるような観測的な語りを好みます。 やや古典的な文章と重厚な構成を用いることが多く、物語が進むにつれてそれまでの描写や出来事の意味が徐々に変化していく作品が中心です。 作品は主題によって、四つの文集に分けています。 『星たちの唄』――自然や現象の観測。 (雰囲気:繊細、構造的に美しい) 『孤独に咲く一輪の花』――心理描写。 (雰囲気:読後に重厚な余韻がある) 『大天使』――恋愛、男女、他者との関係。 (雰囲気: 艶やかでやや官能的) 『灰と瑠璃の星』――思想、論理、哲学。 (雰囲気:学術的でかなりドライ) 初めての方には、『星たちの唄』からおすすめしています。
『あなたがいた世界』
深緑は往々にしてことの盛りを象徴する。 あの日も、その命題は実に真であった。 荒くうねり、岩も未だ角立つ川の最上。 鱒は清流を悠々とし、蝉の謳歌す側。 少女は最後のひとときをそこで過ごした。 ここへ来る人間といえば、少し先の病院の者くらいであった。 実際、車椅子に身を預けた彼女も、 その細く、弱々しい腕を伸ばさんとしていた。 車椅子から転げそうになったのを、大人が支えようとした。 彼女はそれを振り払った様に見えた。 その指先が流れを少し捉えた時、 あの子は、己が人生に負いきれぬ何かを笹舟へ託した。 _________ それからしばらく経ったころ、 あの子の腕のように細くしなやかに折られたあれは、 その実彼女が運命を託したあの場所より少し行ったところ、 その落ち込みの麓の渦中で浮いては沈んでを繰り返していた。 水流に揉まれ、その船体は幾度となく湾曲を繰り返したが、 精巧に折られたこれは未だ見事に船たる造形を保っていた。 やがて上流に降った雨が、川をわずかに太らせた。 昨日まで越えられなかった岩を越え、 昨日まで押し戻されていた渦を抜け、 笹舟は再び下流へ向かった。 もっとも、それがどこかを目指していたわけではない。 水が押しては進み、 岩あれば曲がり、 淀み入りては止まった。 ある昼、 水面に何かがもがいていた。 それは翅を濡らした小虫で、 水を叩くたび、かえって深く身体を沈めていた。 舟はちょうどその傍らを過ぎようとした。 流れの気まぐれで少し曲がった。 虫の脚が船縁に掛かった。 虫はしばらく船上で動かなかった。 木々の切れ間から陽の射すところまで来ると、 二度ほど翅を震わせ、 やがて飛んでいった。 舟は、少し軽くなった。 また少し下れば、川は森へ入った。 枝葉は空を狭め、時間の割に水面は薄暗かった。 流れの緩むところで、舟は岸から張り出した根に掛かった。 船底には、ほんの小さな影ができた。 一尾の稚魚がそこへ潜り、 流れに逆らうこともなく、ただじっとしていた。 やがて川面を、大きな影が落ちていった。 一度。 二度。 水面近くにいた魚たちが散った。 けれど船底の影だけは動かなかった。 大きな影が去ってしばらくして、 稚魚もまた、どこかへ泳いでいった。 それからもしばらく舟はそこにいた。 午後になり、水の向きがわずかに変わると、 ようやく舟も根を離れた。 日が落ちても、舟は流れていた。 川は黒く、竹藪は輪郭をぼかしていた。 空との境すらもよく分からなかった。 やがて岸辺に、一つ灯った。 また一つ灯った。 瞬く間に広がり、煌めいた。 光は草の間を離れ、 水面へ出て、 舟の上をゆっくり横切った。 そのうちの一匹が船首へ止まった。 葉の舟に、小さな灯がひとつ乗った。 舟はそれを乗せたまま、 夜の川をしばらく流れた。 その間も、特に何も起こりはしなかった。 景色も特に移ろいはしなかった。 ただ、少しの距離を移動した。 やがて灯は離れ、 草木の間へ消えた。 舟は再び暗くなった。 _________ それからも舟は流れた。 雨に打たれ、 陽に乾かされ、 石に当たり、 枝に止められ、 そのたびにまた水へ戻った。 川幅は次第に広くなった。 角立っていた岩は丸くなり、 あれほど騒がしかった水音も、 いつしか低く長いものへ変わっていた。 舟もまた、 もう初めの姿ではなかった。 葉脈に沿って裂け目が走り、 片側は水を吸って重くなり、 船首と呼べたところも少し潰れていた。 それでも水面に置けば、 まだそれは船に見えた。 いつからであったか、 船体の折り目に一粒の種が挟まっていた。 それが何の種であるのか、 知る者はいなかった。 種は舟とともに流れた。 幾つもの石を過ぎ、 幾つもの曲がりを越え、 時には水を被り、 時には陽を受けた。 舟はそれを運ぼうとしたわけではない。 種もまた、 この舟を選んだわけではなかった。 ある夕刻、 笹舟は川岸の葦の間へ入り込んだ。 流れはそこだけ、ほとんどなかった。 一度、離れた。 また戻った。 次の日にも、 その次の日にも、 舟はそこにあった。 雨が降った。 川が少し増した。 それでも葦の根を越えることはなかった。 _________ 葉は次第に褐色になった。 あれほど精巧な折り目も、 ある時さっとほどけ、 船底には泥が溜まり、 かつて船首であったところも遂に水に伏した。 やがて、 どこからが川で、 どこからが舟であったのか、 少しずつ分からなくなっていった。 ある日、 最後まで残っていた船尾の折り目がほどけた。 そこに挟まっていた種が、 泥の上へと落ちた。 水が一度その上を撫でた。 種は少しだけ転がり、 葦の根元で止まった。 秋が来るころには、 もう誰が見ても、 それを船とは呼ばなかった。 それは川を流れる幾枚の木の葉と、 全く等しかった。 _________ 川はなお、その横を流れていった。 あの日少女が指先で触れたころよりも、 少し冷たくなっていた。 それでも川は変わらず下り、 幾つもの流れと合わさり、 町を抜け、 橋をくぐり、 なお遠くへ流れていった。 その幾里も先には海があった。 彼女は結局、その大海を望むことは叶わなかった。 _________ 『あなたがいた世界』終
一直線の事実
あなたが 世界を好きにできるとして その力を あなたが実際に 持っていたとして 目の前に 込み上げるほど 憎い人間がいるとして そのヒト 正面から覗いた眼を じっくり 互いに 覗いていたとする どちらか いきなり口を開いて お互いに 腹の探り合いをするように 大人しく それでいて 複雑な口争いをしたとする 本来なら あなたにその必要はない なぜなら 世界はすでに その手の中にあるのだから つまりは あなたはそれを 楽しんでいる 最後の時 その時まで 心の底で彼を嘲笑い あくまで 対等な関係性であると 思い込ませる そうして 溜め込んだ彼への憎悪は しだいに あなたの欲求へと消化され とうとう 議論の内容に関わらず 彼を裁いたとする そうして あなたはやっと 気づく 人の本質 それは 正しさ や 論理 ではない いつもは 気高く 文明の仮面を被り 自分でも 本来の姿を 見ないようにしている 私たちと 他の生物に 大きな 隔たり や 差 は あなたが 普段感じているよりも 幾分か少ない 目の前に 食えるものがあれば食う まだまだ あなたは理解していない この意味 それはもっと深い そうして その本当の意味を知った時 あなたは 果たして世界を 元のように渡れるのか わたしは それが保証できない 『一直線の事実』
『忘れられた街より』
この広大な空 星々に反響し 空間に広がり やがて それらは誰の元へ届くのか この優しいメロディ それは 一体誰のため 今となっては この美しい景色も 幾千年の歴史も もう何の意味も持たない 星界の遺跡 ここは 忘れられた街 私が 最後のオルゴールを 鳴らすとき この街も かつての姿を思い出すだろうか 手前に見える 近くの惑星も 遠くに見える 数多の銀河も かつての街を 思い出すだろうか いずれこの音色が 何億光年の彼方 新たな文明のアンテナを 共鳴させることが あるだろうか ___________ 「こんにちは」 「これが届く頃 我々の姿は見えているでしょうか」 「ここは 忘れられた街 オリオン座のはずれ」 「古き文明より いずれ誕生する 幼き世界へ」 「最後の交信を送ります」 「あなたたちにも 星々の加護が 在らんことを」 「ベテルギウス星系 最後の惑星より」 『忘れられた街より』
【第二部 膨張】 第七話
第七話 最初の皇帝 帝国。 その言葉を、 最初に口にした者が誰だったのか。 後世、 多くの説がある。 レオン王だった。 元老院議長だった。 軍務官だった。 西方領の代表だった。 あるいは、 名も残らない法務官だった。 だが、 現存する最古の議事録を見る限り、 最初に記録されたのは、 一人の法学者の発言だった。 ――王国という言葉が、 もはや、 この国を説明できておりません。 その下。 書記官の文字で、 小さく、 こうある。 ――帝国制について、 検討を要す。 それだけだった。 後世、 世界の半分近くにその名を知られることになる国家の始まりとしては、 少し、 地味だった。 それから、 議論が始まった。 最初の問題。 「帝国とは、 何か」 誰も、 完全には答えられなかった。 南方には、 かつて帝国を名乗った国がある。 東方にもある。 滅びたもの。 小さくなったもの。 今も残るもの。 皇帝がいる国。 皇帝がいなくても、 帝国と呼ばれる国。 定義は、 曖昧だった。 ある議員は言った。 「広大な領土を持つ国です」 レオンが聞いた。 「どれくらいから広大だ」 「……相対的な問題です」 「なら、 法律には書けないな」 別の者。 「複数の民族を統治する国です」 「二つなら帝国か」 「場合によります」 「三つなら?」 「それも……」 「使えない」 軍務官。 「強大な軍事力を有する国家」 レオンは、 即座に言った。 「それなら、 今でも王国でいい」 議論は、 進まなかった。 三日目。 西方領セルヴァから来た代表、 エルマン・ロエが、 手を上げた。 以前、 レオンを迎えた市長だった。 「一つ、 よろしいでしょうか」 「言ってくれ」 「皆様は、 帝国が何であるかを議論されています」 「そうだ」 「ですが、 我々から見れば、 問題は少し違います」 元老院議員たちが、 彼を見る。 「我々は、 ミルノフ人ではありません」 静かになる。 「レヴァニア語を話します」 「我々の祈りがあります」 「我々の法律があります」 「我々の墓があります」 「ですが今、 ミルノフ王の臣民です」 エルマンは、 レオンを見る。 「陛下が、 我々にミルノフ人になれと仰るなら、 我々は困ります」 レオンは、 頷いた。 「言わない」 「存じています」 エルマンは、 少し笑った。 「だから、 ここにおります」 そして、 続けた。 「必要なのは、 我々をミルノフ人にする国ではありません」 「ミルノフ人でないまま、 ミルノフ王の下にいられる国です」 誰も、 すぐには話さなかった。 レオンは、 その言葉を書記官に記録させた。 後に、 帝国国制第一条の原型となる。 ――帝国臣民たる資格は、 民族、 言語、 出生地によって失われない。 もちろん、 この時代の制度が、 後世の意味で平等だったわけではない。 身分はある。 特権もある。 土地によって、 法も税も違う。 王家がある。 貴族がいる。 農民がいる。 それでも、 一つだけ。 ミルノフという国家に属するために、 ミルノフ人である必要はなくなった。 それは、 小さな変更ではなかった。 次の問題。 君主。 法務官が言った。 「王号の維持は、 理論上可能です」 レオンが聞く。 「なら、 王でいいだろう」 「しかし、 問題があります」 「何だ」 「王は、 ミルノフ王国を治めます」 「そうだ」 「西方領も、 ミルノフ王国に含めるなら、 問題ありません」 「含めないのか」 「含めれば、 西方領の固有法、 自治、 旧制度は、 すべて王国法の例外として存在することになります」 レオンは、 少し考えた。 「例外では駄目なのか」 「一つなら」 法務官は、 地図を見る。 「今後、 二つになれば?」 誰も、 答えない。 「三つなら?」 さらに、 沈黙。 レオンが言った。 「ずいぶん先の話をするな」 法務官は、 答えた。 「国制とは、 そういうものです」 レオンは、 少し嫌そうな顔をした。 「法律家は、 軍人より遠くを見るな」 イリヤが、 横から言った。 「その代わり、 歩くのは遅いですが」 何人かが、 笑った。 レオンも、 笑った。 結論。 ミルノフ王国を、 国家全体としない。 ミルノフ王国。 西方領。 将来加わるかもしれない、 その他の領域。 それらを、 一つ上の国家秩序が包む。 その秩序の名を、 ミルノフ帝国。 とする。 そして、 その頂点に立つ者。 王ではない。 皇帝。 レオンは、 その草案を読んだ。 「嫌だな」 法務官が、 固まった。 「……どの部分でしょう」 「皇帝」 部屋が、 静かになる。 「大げさだ」 誰も、 すぐには答えなかった。 レオンは続ける。 「俺は、 半年くらい前まで、 橋と麦と牛の話をしていた」 イリヤが言った。 「今もしております」 「そうだ」 「皇帝になっても、 するでしょう」 「もっと嫌になった」 笑いが起きた。 だが、 法務官は真面目だった。 「陛下」 「何だ」 「これは、 陛下を偉くするための称号ではありません」 レオンの表情が、 少し変わる。 「では?」 「陛下が、 誰の王でもなくなるためです」 レオンは、 黙った。 法務官は続けた。 「ミルノフ人の王であるだけなら、 西方の民は、 永遠に借り物です」 「ですが皇帝は、 複数の土地、 複数の法、 複数の民を、 その違いを残したまま統べることができる」 レオンは、 長く、 草案を見た。 「皇帝の方が、 王より偉いのではないのか」 「儀礼上は、 そう扱われるでしょう」 「やはり嫌だ」 「ですが、 法理上は違います」 法務官は、 言った。 「王より上なのではありません」 少し間を置く。 「王では足りないのです」 レオンは、 その言葉を聞いた。 王では足りない。 三百年前。 王など、 必要なかった。 条約を結ぶために、 必要になった。 そして今。 王では、 足りなくなった。 必要だったから。 国は、 また名前を変える。 「分かった」 レオンは、 草案を置いた。 「皇帝でいい」 それだけだった。 次の問題。 国旗。 これは、 意外にも、 国制より揉めた。 銀鷲。 三百年近く、 ミルノフを象徴してきた。 白地。 銀の鷲。 一羽。 一つの頭。 軍人は、 変更に反対した。 「兵は、 この旗の下で戦いました」 商人も。 「外国で、 最も知られています」 神官も。 「伝統です」 レオンも、 変える必要はないと思った。 だが、 紋章官が言った。 「西方領を、 どこに入れますか」 誰も、 答えなかった。 最初の案。 銀鷲の胸に、 西方領の紋章を置く。 レオン。 「征服したように見える」 却下。 第二案。 銀鷲と、 レヴァニア由来の鹿を並べる。 「二つの国に見える」 却下。 第三案。 銀鷲の翼を、 左右で異なる意匠にする。 レオンは、 しばらく見た。 「気持ち悪い」 却下。 紋章官は、 かなり傷ついた。 四日後。 若い紋章官が、 一枚の紙を持ってきた。 銀の鷲。 一つの胴。 二つの翼。 そして、 二つの頭。 一つは、 東を見る。 一つは、 西を見る。 レオンは、 長く見た。 「頭が二つある必要があるのか」 若い紋章官は、 緊張していた。 「一つでは、 どちらかしか見られませんので」 レオンは、 紙を見る。 東。 ミルノフ。 西。 セルヴァ。 「二つの国という意味か」 「いいえ」 紋章官は答えた。 「一つの国が、 二つを見るという意味です」 レオンは、 少し考えた。 「……なら、 それでいい」 こうして、 決まった。 後世。 双頭銀鷲は、 数え切れないほどの意味を与えられる。 東西世界の支配。 世俗と宗教。 過去と未来。 戦争と平和。 王権と元老院。 北方と南方。 どれも、 後から生まれた。 最初の意味は、 もっと単純だった。 一つでは、 どちらかしか見られない。 次。 色。 白。 雪。 ミルノフの土地。 銀。 鷲。 国家。 白金。 王統。 青。 永続。 それまで別々に使われてきた四つの色が、 新しい帝国儀礼の中で、 初めて正式に整理された。 白を、 帝国の地。 銀を、 帝国の権威。 白金を、 皇統。 青を、 その永続。 後世、 これらは 「帝国四色」 と呼ばれる。 もちろん、 制定会議では、 もっと現実的な問題もあった。 「白い旗は、 雪の中で見えません」 「縁を青にしろ」 「銀糸は高価です」 「軍旗だけ別素材に」 「白金糸は、 雨に弱い」 「では皇室儀礼用だけに」 帝国の美学は、 予算と相談しながら生まれた。 百八十二日目。 すべての草案が、 元老院へ提出された。 新国制。 帝国法。 皇帝位。 西方領自治章典。 元老院再編。 双頭銀鷲。 帝国旗。 皇帝旗。 国璽。 採決。 賛成、 六十八。 反対、 十一。 棄権、 五。 可決。 王が、 署名する。 ただし、 発効は翌日。 その夜。 レオンは、 地下へ降りた。 一人だった。 四十七段。 鉄扉。 鍵を開ける。 小さな部屋。 石台。 木箱。 レオンは、 箱を開けた。 鉄冠。 三度目だった。 一度目。 王になる前。 二度目。 王国が、 自分自身を説明できなくなった夜。 そして、 三度目。 王国最後の夜。 レオンは、 鉄冠の前へ立った。 明日。 この国に、 王はいなくなる。 少なくとも、 国家全体を治める者としては。 レオンは、 鉄冠を見る。 始祖王。 読み書きもできなかった男。 雪原へ残った男。 百人にも満たない人間を守るため、 壁を作った男。 王になる気など、 なかった男。 「ずいぶん遠くまで来たな」 声が、 石壁へ小さく響いた。 誰に言ったのか。 始祖王か。 国か。 自分自身か。 レオンにも、 分からなかった。 彼は、 膝をついた。 頭を下げる。 そして、 立った。 鉄冠には、 触れなかった。 「明日からも、 ここにいてくれ」 箱を閉じる。 鉄冠は、 皇帝の冠にはならなかった。 王の冠ですら、 なくなって久しい。 それでも、 帝国のすべての冠より、 上に置かれた。 翌朝。 王都には、 雪が降っていた。 春の終わりだった。 北では、 珍しくない。 皇帝大路は、 まだなかった。 鏡城も、 ない。 後世の帝都から見れば、 小さな王都。 それでも、 沿道には、 人が溢れた。 白い旗。 青い縁。 銀の鷲。 だが、 昨日までとは違う。 頭が、 二つある。 人々は、 それを見上げた。 「変だな」 誰かが言った。 「そのうち慣れる」 隣の者が答えた。 実際、 三千年もすれば、 誰も変だとは思わなくなった。 大聖堂。 鐘。 元老院議員。 軍人。 聖職者。 地方代表。 外国使節。 そして、 西方領から来た者たち。 エルマン・ロエもいた。 レオンが、 入る。 白い外套。 深い青の礼装。 白金の刺繍。 胸には、 双頭銀鷲。 祭壇の前に、 新しい冠が置かれている。 金。 銀。 白金。 青い宝石。 豪華だった。 鉄冠とは、 似ても似つかない。 元老院議長が、 立った。 文書を開く。 最後に、 古い称号が読み上げられた。 「ミルノフ王、 レオン」 これが、 公的にその称号が呼ばれた、 最後の瞬間だった。 沈黙。 議長は、 次の文書を開く。 「帝国国制、 本日をもって発効」 外で、 鐘が鳴る。 一度。 「ミルノフ王国、 西方領、 ならびに帝国法の下に属する諸地域を統べる者」 二度。 「諸民、 諸法、 諸邦の統合を守る者」 三度。 議長は、 レオンを見る。 そして、 初めて言った。 「ミルノフ皇帝、 レオン一世」 冠が、 持ち上げられた。 レオンは、 膝をつく。 冠が、 頭へ置かれる。 外で、 鐘が一斉に鳴った。 歓声。 双頭銀鷲が、 王都の塔へ上がる。 白。 銀。 白金。 青。 四つの色が、 雪の中に並んだ。 その日。 ミルノフ帝国が、 成立した。 後世の絵画では、 この瞬間が、 何度も描かれる。 巨大な聖堂。 光。 皇帝。 跪く諸侯。 空を覆う双頭銀鷲。 神々しいレオン。 実際のレオンは、 冠を被った瞬間、 最初にこう思った。 重い。 その後。 祝宴。 演説。 使節。 乾杯。 音楽。 さらに演説。 夕方。 レオンは、 ようやく一人になった。 冠を外す。 頭が痛かった。 侍従が聞く。 「陛下」 「何だ」 「御気分が?」 「冠が重い」 侍従は、 返答に困った。 レオンは、 椅子へ座った。 机には、 すでに書類が置かれている。 西方領の税制。 橋の修復。 春麦の価格。 牛の疫病。 レオンは、 それを見る。 「……変わらないな」 侍従が聞いた。 「何がでしょう」 「橋と麦と牛だ」 翌朝。 セルヴァ。 市場が開いた。 少女は、 いつものように、 果物を並べていた。 赤い実。 昨日と、 同じ。 町役場の前。 役人が、 新しい布告を貼る。 少女が、 近づいた。 読む。 ――帝国国制発効に伴い、 本日より当地を、 ミルノフ帝国西方領セルヴァと称する。 少女は、 しばらく見た。 母親が、 荷物を運んでくる。 「何て書いてあるの?」 「帝国になったって」 母親は、 布告を見る。 「そう」 それだけだった。 少女が聞く。 「帝国って何?」 母親は、 少し考えた。 「さあ」 二人は、 果物を並べた。 客が来た。 値段を聞いた。 少女が答えた。 昨日と、 同じ値段だった。 王都。 帝国官房。 一人の若い書記官が、 机へ座っていた。 新しい公文書。 日付を書く。 宛名を書く。 本文を書く。 最後。 国家名。 癖で、 書きかける。 ミルノフ王―― 止まる。 書記官は、 それを線で消した。 新しく書く。 ミルノフ帝国。 少し、 眺めた。 まだ、 見慣れない。 その紙を、 他の書類と重ねた。 次の書類。 また。 ミルノフ帝国。 その次も。 ミルノフ帝国。 やがて、 誰も間違えなくなる。 百年。 五百年。 千年。 二千年。 三千年。 その名は、 あまりにも長く使われる。 いつしか人々は、 帝国が生まれた日を忘れた。 王国だったことも。 小さな村だったことも。 王がいなかったことも。 そして、 もっと昔。 雪原に、 百人にも満たない人間しかいなかったことも。 ミルノフ帝国。 その名は、 やがて、 山や、 海や、 冬と同じように、 初めからそこにあったもののように聞こえるようになる。 だが、 初めから、 帝国だったわけではない。 初めから、 王国だったわけでもない。 初めから、 国ですらなかった。 ただ、 雪原に残った人間がいた。 追い出されたくないと、 思った。 そのために、 食料を分けた。 決まりを作った。 壁を作った。 戦った。 王を置いた。 国境を引いた。 そして、 その国境を越えた。 守るために。 少なくとも、 彼らは、 そう言った。 その結果。 王国は、 自分自身より、 大きくなった。 この日、 ミルノフ王国は滅びた。 戦争に負けたのではない。 敵に征服されたのでもない。 ただ、 自分自身より、 大きくなりすぎた。 そして、 その跡に。 帝国が、 立っていた。 ――第二部 膨張篇 終
【第二部 膨張】 第六話
第六話 王国の終わり レオン王は、 進軍を止めた。 西方方面軍は、 セルヴァと、 その周辺三村、 西方丘陵、 旧レヴァニア要塞を保持。 それより西へ、 進んではならない。 命令は、 守られた。 七日間。 八日目。 レヴァニア軍が来た。 兵力、 八千四百。 ミルノフ西部方面軍、 五千九百。 ヴァルド・エルケン将軍は、 丘の上から、 敵軍を見た。 「多いな」 参謀が答える。 「はい」 「陛下は、 何と言っている」 「現在線を維持せよ、と」 「前進は禁止」 「はい」 「後退は?」 「書いてありません」 ヴァルドは、 少し笑った。 「なら、 問題ない」 ミルノフ軍は、 丘に陣地を作った。 塹壕。 柵。 砲座。 食料庫。 救護所。 始祖王の時代から、 この国は、 待つことだけは得意だった。 レヴァニア軍は、 三度攻めた。 一度目。 南斜面。 失敗。 二度目。 夜襲。 失敗。 三度目。 砲撃の後、 中央突破。 丘の一部を奪った。 ミルノフ軍が、 翌朝奪い返した。 十一日。 両軍合わせて、 二千人近くが死傷した。 丘は、 動かなかった。 十二日目。 雨。 十三日目。 雨。 十四日目。 雨。 道が、 泥になった。 レヴァニア軍の補給が、 遅れ始めた。 橋は、 ミルノフ軍が壊している。 迂回路は、 長い。 ヴァルドは、 敵軍を見た。 「始まったな」 参謀が聞いた。 「何がです」 「腹が減る」 三百年前と、 同じだった。 ただし今度は、 ミルノフ軍にも、 十分な食料があった。 ヴァルカ川。 仮設橋。 東岸から続く補給路。 セルヴァの倉庫。 そして、 王命によって、 物資にはすべて代金が払われた。 農民は、 麦を売った。 商人は、 荷車を貸した。 鍛冶屋は、 蹄鉄を作った。 彼らは、 レヴァニア人だった。 だが、 ミルノフ軍を支えた。 忠誠心からではない。 金を払ったからだった。 ヴァルドは、 報告を読んだ。 「……陛下は、 妙なところで戦争が上手いな」 参謀が聞いた。 「軍人ではありませんよ」 「だからだろう」 十七日目。 レヴァニア軍、 後退開始。 ヴァルドは、 追撃しなかった。 参謀が聞いた。 「よろしいのですか」 「王命だ」 「今なら、 敵主力を崩せます」 「知っている」 「では」 ヴァルドは、 西を見る。 「前に、 陛下から聞かれた」 「何をです」 「軍事的に合理的なことを、 全部やったら、 どこまで行くのか」 参謀は、 黙った。 「答えが分からなかった」 ヴァルドは、 剣を鞘へ戻した。 「だから、 今日はここまでだ」 その日。 ミルノフ軍は、 初めて、 勝てる敵を追わなかった。 三日後。 レヴァニア王国から、 停戦使節が来た。 代表は、 セリオ・サリウスだった。 彼は、 以前より痩せていた。 レオンは、 セルヴァで彼を迎えた。 王宮ではない。 町役場。 もともと、 レヴァニア王の肖像が掛けられていた部屋。 肖像は、 外されていた。 代わりに、 何も掛かっていない。 セリオは、 その壁を見た。 レオンも、 見た。 「掛けさせていない」 レオンが言った。 「何をです」 「俺の肖像」 セリオは、 少し笑った。 「お気遣い、 感謝します」 「気遣いではない」 レオンは、 椅子へ座る。 「まだ、 俺の町ではない」 交渉は、 十一日続いた。 第一日。 レヴァニア側。 ――ミルノフ軍は、 ヴァルカ川東岸へ完全撤退。 ミルノフ側。 ――西岸要塞の永久撤去。 合意せず。 第三日。 レヴァニア側。 ――要塞は撤去。 領土は返還。 ミルノフ側。 ――要塞周辺地域を非武装地帯化。 合意せず。 第五日。 国境線。 第七日。 賠償。 第八日。 捕虜。 第九日。 河川航行権。 そして、 十日目。 セルヴァ。 セリオが言った。 「返してください」 レオンは、 地図を見る。 「理由は」 セリオは、 一瞬、 言葉を失った。 「我が国の町だからです」 「そうだな」 「なら」 「だが、 返した後は?」 「従来通りです」 「軍は」 セリオが、 黙った。 レオンは、 地図を指した。 セルヴァ。 丘。 要塞跡。 ヴァルカ川。 「ここを返す」 「はい」 「お前たちは、 また兵を置く」 「国境ですから」 「我々も、 東岸に兵を置く」 「でしょう」 「また、 同じになる」 セリオは、 何も言わなかった。 「では、 どうしろと」 レオンは、 椅子へ深く座った。 「分からない」 セリオが、 顔を上げた。 レオンは、 続けた。 「だから困っている」 二人とも、 少し疲れていた。 戦争を始める時、 人は理由をたくさん持っている。 戦争を終える時、 必要なのは、 一つ。 どこで止めるか。 だが、 それが一番難しかった。 その日の夕方。 レオンは、 町を歩いた。 以前、 果物を買った市場。 少女が、 またいた。 「王様」 今度は、 気づいた。 「覚えたか」 「みんな言ってた」 「そうか」 少女は、 赤い実を並べている。 「戦争、 終わるの?」 レオンは、 少し考えた。 「終わらせたい」 「じゃあ、 終わる?」 「それは、 別の話だな」 少女には、 意味が分からなかった。 「王様なのに?」 レオンは、 笑った。 「王様だから、 何でもできると思っている?」 「うん」 「俺も、 少し前までそう思っていた」 少女は、 一つ果物を渡した。 「これあげる」 「なぜ」 「戦争終わらせるから」 「まだ終わってない」 「じゃあ、 先にあげる」 レオンは、 受け取った。 「もし、 この町がミルノフになったら」 少女が言った。 レオンは、 止まった。 「何か変わる?」 「……分からない」 「レヴァニアじゃなくなる?」 「国としては」 「私は?」 レオンは、 少女を見る。 「君は、 君だろう」 少女は、 少し考えた。 「じゃあ、 いいや」 レオンは、 その答えを、 笑えなかった。 十一日目。 最後の交渉。 レオンは、 一つの案を出した。 ヴァルカ西岸。 旧要塞。 西方丘陵。 セルヴァ。 周辺三村。 これらを、 ミルノフ王国へ割譲。 代わりに。 ミルノフは、 それ以上の領土要求を放棄。 西方丘陵より西へ、 常備軍を置かない。 レヴァニアも、 新国境から一定距離以内に、 大規模要塞を建設しない。 捕虜、 全員返還。 賠償、 双方放棄。 河川航行、 共同。 そして。 「住民」 レオンが言った。 セリオを見る。 「移住を望む者は、 財産を保持したまま、 レヴァニアへ移れる」 「残る者は?」 「残る」 「ミルノフ人になるのですか」 レオンは、 少し考えた。 「ならなくていい」 部屋が、 静かになった。 セリオが聞いた。 「では、 何になるのです」 「俺の臣民になる」 「違いは?」 「俺にも、 まだ分からない」 セリオは、 レオンを見る。 「言葉を変えなくていい」 レオンは続けた。 「祈る相手も」 「法律は?」 「今あるものを残す」 「すべて?」 「王国法と矛盾しない限り」 「役人は?」 「残りたい者は残す」 「税は?」 「ミルノフへ払う」 セリオが、 少し笑った。 「そこだけは、 はっきりしていますね」 レオンも、 笑った。 「国だからな」 しばらくして、 セリオが聞いた。 「陛下」 「何だ」 「なぜ、 そこまでします」 レオンは、 窓を見る。 町。 人。 市場。 知らない言葉。 知らない祈り。 知らない食べ物。 「俺たちが来たからだ」 セリオは、 黙った。 「向こうから、 ミルノフへ来たわけじゃない」 レオンは、 机を見る。 「俺たちが、 川を渡った」 だから。 「こちらの都合で国を変えるなら、 せめて、 その後の都合まで背負う」 セリオは、 長く、 王を見た。 「あなたは、 変わった王ですね」 レオンは、 少し眉を上げた。 「悪い意味か」 「まだ、 分かりません」 十二日目。 レヴァニア国王より、 条件付き受諾。 十四日目。 細部修正。 十六日目。 合意。 条約は、 セルヴァで結ばれた。 後世、 『第二次ヴァルカ条約』 と呼ばれる。 三百年近く前。 最初のヴァルカ条約は、 川を国境にした。 二度目の条約は、 川を国境ではなくした。 署名の日。 長い机。 二つの国旗。 ミルノフの銀鷲。 レヴァニアの金鹿。 レオンが、 署名する。 セリオが、 署名する。 ペンを置く。 戦争は、 終わった。 第一次ミルノフ=レヴァニア戦争。 期間、 百余日。 両国合わせ、 死傷者、 六千余。 国境線は、 西へ動いた。 最も遠いところで、 四十七キロ。 地図だけを見れば、 小さな戦争だった。 ミルノフ王国の領土は、 数パーセント増えただけ。 だが、 国の中に、 初めて、 大きなものが増えた。 ミルノフ人ではない人々。 条約発効の日。 セルヴァの広場。 住民が、 集められた。 新しい布告が、 読み上げられた。 ――本日をもって、 セルヴァ及び周辺地域は、 ミルノフ王国の統治下に入る。 ざわめき。 泣く者。 怒る者。 黙る者。 何も気にせず、 店を開ける者。 レヴァニアへ移る者もいた。 荷車。 家具。 家畜。 家族。 ミルノフ兵は、 道を空けた。 止めなかった。 残った者の方が、 多かった。 理由は、 さまざまだった。 土地があるから。 家があるから。 墓があるから。 店があるから。 移る金がないから。 面倒だから。 ミルノフが嫌いではないから。 レヴァニアが好きでもないから。 国家が変わる理由ほど、 人間は簡単には動かない。 王都。 数週間後。 元老院。 新しい問題が、 次々に現れた。 セルヴァから、 代表を元老院へ送れるのか。 送れるなら、 何議席か。 レヴァニア語の公文書を、 認めるのか。 裁判は、 どちらの言葉で行うのか。 レヴァニアの聖職者は、 王へ忠誠を誓う必要があるのか。 西方の貴族称号を、 認めるのか。 軍への徴兵は。 税率は。 土地所有は。 婚姻法は。 相続法は。 そして、 最も単純な質問。 一人の議員が、 聞いた。 「彼らは、 何者なのですか」 レオンは、 顔を上げた。 「セルヴァの民です」 「それは、 分かっています」 議員は言った。 「国としてです」 「ミルノフ王国の臣民だ」 「では、 ミルノフ人ですか」 レオンは、 答えなかった。 別の議員が言う。 「王国とは、 王と、 その民の国です」 「今までは、 それでよかった」 イリヤが、 静かに言った。 皆が、 老人を見る。 「今までは?」 イリヤは、 机の上の地図を見る。 東。 旧ミルノフ。 西。 新領土。 「ミルノフ人と、 ミルノフ王の臣民は、 ほとんど同じ意味でした」 指が、 セルヴァへ動く。 「もう、 違います」 部屋が、 静かになった。 レオンは、 その言葉を聞いていた。 ミルノフ人。 ミルノフ王の臣民。 違う。 たったそれだけのことが、 王国の法律を、 根元から揺らした。 「では」 若い法務官が、 口を開いた。 「王国とは、 何なのでしょう」 誰も、 すぐには答えなかった。 その夜。 レオンは、 地下へ降りた。 四十七段。 鉄扉。 小さな部屋。 石台。 木箱。 開ける。 鉄冠。 王になる前の日以来だった。 レオンは、 しばらく立っていた。 あの時。 これは、 ただの古い鉄に見えた。 今も、 そう見える。 錆。 歪み。 宝石もない。 文字もない。 始祖王は、 百人にも満たない人間を、 誰にも追い出させないため、 ここに残った。 そのために、 食料を集めた。 決まりを作った。 壁を作った。 戦った。 王になった。 必要だったから。 レオンは、 鉄冠を見る。 「あなたなら、 どうする」 答えは、 ない。 当然だった。 死んで、 二百八十六年になる。 レオンは、 少し笑った。 「いつまで、 死人に聞いてるんだろうな」 初めてだった。 彼は、 鉄冠に、 答えを求めなかった。 膝をつく。 伝統だから。 頭を下げる。 そして、 立った。 「あなたの国では、 もう足りない」 静かな部屋。 何も、 返ってこない。 レオンは、 鉄冠を木箱へ戻した。 蓋を閉じる。 翌日。 王は、 元老院へ一通の命令を出した。 ――王国法、 王位、 元老院、 西方領及び諸地域の統治関係について、 全面的な制度改定案を作成せよ。 期限。 半年。 法務官が、 命令を読んだ。 「陛下」 「何だ」 「これは、 国制そのものを変えることになります」 レオンは、 頷いた。 「そうしろと言っている」 「どのような国制を、 お望みですか」 レオンは、 少し考えた。 「分からない」 法務官が、 困った顔をした。 レオンは、 続けた。 「ただ、 一つだけ決めている」 「何でしょう」 王は、 西を見た。 「ミルノフ人でなくても、 この国に居られるようにしろ」 それから、 半年。 王国中の法律家。 元老院議員。 地方代表。 軍人。 商人。 聖職者。 西方領の代表。 多くの人間が、 王都へ集まった。 議論が始まった。 国とは何か。 王とは何か。 民とは何か。 異なる法を、 一つの国が持てるのか。 異なる言葉を、 一つの国が持てるのか。 異なる土地を、 一人の君主が治められるのか。 ある日。 会議の中で、 一人の法学者が言った。 「問題は、 王にあるのではありません」 レオンが、 顔を上げる。 「では?」 法学者は、 答えた。 「王国です」 部屋が、 静かになる。 「王国という言葉が、 もう、 この国を説明できていません」 誰かが聞いた。 「では、 何と呼ぶ」 法学者は、 すぐには答えなかった。 机の上。 古い文献。 南方諸国の法。 滅びた国家の記録。 その中の、 一つの言葉。 彼は、 指を置いた。 レオンが、 それを見る。 まだ、 誰も口にはしなかった。 だが、 そこには、 すでに書かれていた。 帝国。 その日。 ミルノフ王国は、 まだ存在していた。 王もいる。 元老院もある。 国旗も、 一つ頭の銀鷲のまま。 誰も、 滅ぼしていない。 それでも、 三百年近く続いた王国は、 もう、 自分自身を説明できなくなっていた。 ミルノフ王国が滅びるまで、 あと、 百八十三日。
【第二部 膨張】 第五話
第五話 王の決めたこと レオン王は、 地図が嫌いだった。 正確には、 地図そのものではない。 地図を見ていると、 人間が消える。 川は、 一本の線になる。 町は、 点になる。 軍隊は、 数字になる。 死者は、 記号になる。 王になってから、 そのことが、 少しずつ分かってきた。 ヴァルカ西岸。 占領地域。 三つの村。 一つの町。 地図の上では、 指二本ほどの広さだった。 報告書には、 こうある。 人口、 一万三千八百余。 家畜、 七千余。 穀物備蓄、 約四か月。 井戸、 二十七。 製粉所、 六。 教会、 九。 レオンは、 紙を閉じた。 「人間は?」 外務官が、 顔を上げた。 「陛下?」 「そこに住んでいる人間について、 何か書いてあるか」 外務官は、 報告書を確認した。 「人口は――」 「数ではなく」 部屋が、 静かになる。 レオンは、 窓を見た。 自分でも、 なぜそんなことを聞いたのか、 よく分からなかった。 ただ、 エドの母親の顔が、 まだ頭に残っていた。 国を守る。 その言葉は、 便利だった。 だが、 国とは、 誰なのか。 王都の人間か。 国境の兵士か。 東岸の農民か。 西岸にいる、 昨日まで外国人だった者は。 「陛下」 軍務官が言った。 「占領地の処遇は、 軍の管轄です」 レオンは、 彼を見る。 「いつまで」 「戦争が終わるまで」 「戦争は、 いつ終わる」 軍務官は、 答えなかった。 レオンは、 椅子から立った。 「西へ行く」 誰も、 すぐには反応しなかった。 「陛下?」 「占領地を見る」 軍務官が、 眉を寄せた。 「危険です」 「だから行く」 「意味が分かりません」 「俺もだ」 レオンは、 少し笑った。 「だから、 見に行く」 三日後。 王は、 王都を出た。 護衛、 百二十。 随員、 二十七。 外務官。 軍務官。 イリヤ・ヴェルン。 元老院は、 反対した。 王が前線近くへ行くなど、 不要。 危険。 象徴的価値が高すぎる。 敵に狙われる。 レオンは、 すべて聞いた。 そして、 行った。 王都から西へ。 街道を進む。 村。 畑。 森。 さらに西。 ヴァルカ川が見えた。 レオンは、 馬を止めた。 ここか。 遠くから見ると、 ただの川だった。 三百年近く、 国境だった川。 数週間前、 軍が渡った川。 数百人が死んだ川。 レオンは、 馬から降りた。 岸まで歩く。 「陛下」 護衛が、 止めようとする。 レオンは、 手を上げた。 水に触れた。 冷たい。 「始祖王は、 ここを見たのか」 イリヤが答える。 「おそらく」 「本当に?」 「分かりません」 レオンは、 少し笑った。 「あなたは、 そういうところだけ正直だな」 「外交官でしたので」 「普通は逆では?」 「だから、 辞めました」 レオンは、 もう一度、 川を見る。 「イリヤ」 「はい」 「始祖王なら、 戻ると思うか」 老人は、 少し考えた。 「分かりません」 「また、それか」 「ですが」 イリヤは、 川を見る。 「始祖王は、 自分が何を守っているのか、 よく知っていた人だったと思います」 レオンは、 黙った。 「陛下は?」 初めて、 イリヤの方から聞いた。 レオンは、 すぐには答えなかった。 「まだ、 分からない」 その日の夕方。 王は、 西岸へ渡った。 橋は、 まだ仮設だった。 馬では渡れない。 レオンは、 歩いた。 王が、 国境を越える。 兵士たちが、 道を空ける。 頭を下げる。 レオンは、 歩いた。 泥。 壊れた荷車。 焼けた柵。 倒れた木。 遠くに、 砲撃で崩れた要塞。 地図では、 何も見えなかったものばかりだった。 翌日。 占領された町へ入る。 町の名は、 セルヴァ。 人口、 四千二百余。 広場に、 町民が集められていた。 ミルノフ兵。 レヴァニア人。 互いに、 距離を取っている。 町役場には、 銀鷲旗。 レオンは、 それを見た。 少し、 違和感があった。 王が来たことで、 町民は、 さらに静かになった。 市長が、 前へ出る。 六十代。 名を、 エルマン・ロエ。 「陛下」 言葉は、 少し訛っていた。 「ようこそ」 レオンは、 彼を見る。 ようこそ。 占領された町の市長が、 侵入してきた王に言う。 レオンは、 その言葉が嫌だった。 「歓迎しなくていい」 市長が、 顔を上げる。 「俺たちは、 勝手に来た」 周囲のミルノフ官僚が、 僅かに動いた。 軍務官が、 小声で言う。 「陛下」 レオンは、 聞かなかった。 「困っていることは」 市長が、 少し戸惑う。 「……兵士です」 軍務官が、 顔を上げる。 「略奪は禁止している」 「略奪ではありません」 市長が答える。 「兵士が、 多いのです」 「食料か」 「はい」 町は、 四千人。 駐留軍は、 千二百。 突然、 人口が三割増えた。 しかも、 ほとんどが若い男。 食べる。 飲む。 薪を使う。 馬もいる。 レオンが、 軍務官を見る。 「補給は」 「東岸から運んでいます」 市長が言った。 「足りない日は、 町が出しています」 レオンの視線が、 軍務官へ戻る。 「徴発か」 「軍票を出しています」 「現金では?」 「戦時です」 「その軍票は、 いつ金になる」 「戦後に」 「戦後は、 いつだ」 軍務官が、 黙った。 レオンは、 市長に聞いた。 「他には」 「夜間外出禁止」 「必要です」 「分かっています」 「では?」 「医者が、 夜に病人の家へ行けません」 レオンは、 しばらく黙った。 「他には」 「西の村に、 家族がいる者がいます」 橋は、 ミルノフ軍が壊した。 「会えない?」 「はい」 一つ。 また一つ。 地図には、 なかった。 その午後。 レオンは、 軍司令部へ入った。 ヴァルド・エルケン将軍が、 迎えた。 「陛下」 深く、 頭を下げる。 「よく戦ったそうだな」 「兵が、 よく働きました」 「要塞も取った」 「はい」 「丘も」 「はい」 「橋も壊した」 「はい」 「町も取った」 「はい」 レオンは、 地図を見る。 「命令した覚えはない」 部屋が、 静かになる。 ヴァルドは、 顔を上げた。 「必要でした」 「何に」 「作戦に」 「どの作戦だ」 「王国西境を、 安全にするためです」 レオンは、 その言葉を聞く。 自分が署名した文言だった。 ――王国西境の安全を確保せよ。 「便利だな」 ヴァルドが、 僅かに眉を動かす。 「何がでしょう」 「俺の言葉だ」 レオンは、 地図へ近づく。 「どこまで行けば、 安全になる」 ヴァルドは、 答えた。 「敵主力を、 この線まで後退させれば」 指が、 西へ動く。 「ここか」 「はい」 「その線の西に、 敵が軍を置いたら?」 「警戒は必要です」 「要塞を作ったら?」 「対応します」 「さらに西へ?」 ヴァルドは、 黙った。 レオンは、 イリヤの言葉を思い出した。 次の国境が必要になる。 「将軍」 「はい」 「あなたは、 国を広げたいか」 ヴァルドは、 即答した。 「いいえ」 「本当に?」 「軍人です」 「だから聞いている」 ヴァルドは、 少し考えた。 「私は、 守りやすい国境が欲しい」 「同じことでは?」 「違います」 「どこが」 「土地が欲しいのではありません」 「地形が欲しい?」 「はい」 レオンは、 笑った。 小さく。 「それは、 土地だ」 ヴァルドは、 何も言わなかった。 夜。 レオンは、 占領地の宿舎で、 一人になった。 王宮とは違う。 小さい部屋。 硬い寝台。 窓の外から、 兵士の声が聞こえる。 机には、 三枚の紙。 一枚目。 軍からの提案。 ――西方平野まで前進し、 敵主力を撃破。 二枚目。 外務官から。 ――現状線で停戦し、 要塞地域を交渉材料とする。 三枚目。 占領地行政官から。 ――セルヴァ町及び周辺三村について、 当面の統治方針を決定されたし。 レオンは、 三枚を並べた。 戦う。 止まる。 統治する。 どれを選んでも、 もう、 川の東だけを見てはいられない。 窓を開けた。 寒い。 だが、 王都ほどではない。 空を見る。 星の位置は、 同じだった。 国境を越えても、 空は変わらない。 翌朝。 レオンは、 命令を出した。 第一。 セルヴァ及び周辺占領地における、 食料その他の徴発を禁止。 必要物資は、 王国財政によって購入する。 第二。 軍票を、 王国国庫が即時買い取る。 戦後まで待たせない。 第三。 民間人に対する、 ミルノフ軍法の適用を制限。 地方の従来法を、 軍事上支障のない限り維持する。 第四。 夜間外出禁止令に、 医師、産婆、聖職者その他、 必要な者の例外を設ける。 第五。 略奪、暴行、私的徴収を行った兵士は、 敵地であることを理由に減刑しない。 軍務官が、 命令書を読んだ。 「陛下」 「何だ」 「これは、 占領地政策です」 「そうだ」 「長期占領を前提に見えます」 レオンは、 首を振った。 「違う」 「では」 「いつ帰るか分からないからこそ、 決める」 軍務官は、 黙った。 レオンは、 続けた。 「一日なら、 好きにしていいのか」 「いいえ」 「一月なら?」 「……いいえ」 「なら、 同じだ」 さらに、 一つ。 レオンは、 軍事命令を出した。 ――西方方面軍は、 現在の占領線を越えて前進してはならない。 ヴァルド将軍が、 それを読んだ。 「陛下」 「何だ」 「敵主力を、 撃破する機会を失います」 「分かっている」 「再編されれば、 こちらへ来ます」 「なら、 ここで迎える」 「不利です」 「そうかもしれない」 「軍事的に、 合理的ではありません」 レオンは、 将軍を見る。 「将軍」 「はい」 「軍事的に合理的なことを、 全部やったら、 どこまで行く?」 ヴァルドは、 答えなかった。 レオンは、 地図を指した。 「俺が決める」 初めて、 そう言った。 始祖王ならどうするか。 元老院が何を望むか。 民衆が何を叫ぶか。 軍が何を必要とするか。 全部、 聞く。 だが、 決めるのは、 王だった。 「ここで止まる」 レオンは言った。 「そして、 レヴァニアに停戦を申し入れる」 イリヤが、 レオンを見る。 ほんの少し、 表情が変わった。 「条件は?」 外務官が聞いた。 レオンは、 地図を見る。 ヴァルカ川。 要塞。 丘。 セルヴァ。 そして、 西。 「まだ決めていない」 「領土は返還しますか」 レオンは、 すぐには答えなかった。 窓の外。 町役場には、 銀鷲が翻っていた。 あの旗の下に、 レヴァニア人が暮らしている。 「……それを、 これから決める」 その日の午後。 レオンは、 町を歩いた。 護衛は、 少し離れた。 市場。 店は、 半分ほどしか開いていない。 一人の少女が、 果物を並べていた。 赤い、 小さな実。 レオンは、 立ち止まった。 「これは?」 少女は、 王だと気づいていない。 「知らないの?」 「知らない」 「北にはないの?」 「たぶん」 少女は、 一つ取った。 「食べる?」 レオンは、 受け取った。 甘かった。 どこかで、 読んだことがある味だった。 ――川の向こうの兵士から、 変な果物をもらった。 レオンは、 しばらく、 その実を見た。 「どう?」 少女が聞く。 「甘い」 「でしょ」 レオンは、 代金を置いた。 「多いよ」 「残りは?」 「いらない」 少女は、 怪訝そうな顔をした。 レオンは、 歩き出した。 国境の向こうにも、 人がいた。 そんなことは、 知っていた。 知っていたはずだった。 だが、 知識と、 見ることは、 少し違った。 その夜。 レオンは、 日記に、 一行だけ書いた。 ――国は、 地図より大きい。 後世、 レオン一世について、 歴史家の評価は分かれる。 西方膨張を始めた王。 軍部を抑えた王。 占領統治制度の始祖。 帝国化への道を開いた王。 あるいは、 止めることのできた最後の王。 どれが正しいのか。 おそらく、 全部、 少しずつ正しい。 ただ、 この時のレオンは、 帝国を作ろうとはしていなかった。 自分が出した命令の先にいる人間を、 一度、 自分の目で見ようとした。 それが、 彼が王として初めて、 自分から決めたことだった。
【第二部 膨張】 第四話
第四話 次の丘 ヴァルカ西岸。 午前四時四十二分。 最初の砲撃から、 十一分。 ミルノフ軍は、 まだ要塞へ辿り着いていなかった。 当然だった。 丘がある。 その上に、 要塞がある。 要塞とは、 敵が来ることを前提に、 敵より高いところへ作るものだった。 「伏せろ!」 砲声。 土。 泥。 石。 誰かの靴。 青年は、 顔を上げた。 靴だけが、 少し先に落ちていた。 中身は、 見なかった。 「進め!」 隊長が叫ぶ。 兵士たちは、 立った。 走る。 また、 砲声。 伏せる。 立つ。 走る。 伏せる。 ミルノフ軍は、 冬に強かった。 そう言われていた。 実際、 強かった。 雪中行軍。 寒冷地での補給。 凍結河川。 森林戦。 冬営。 それらは、 三百年近くかけて、 軍の中へ蓄積されていた。 始祖王が、 八百人の軍隊を冬の中で飢えさせた戦いは、 今では軍学校の最初に教えられている。 ――敵と戦う前に、 敵が食べるものを見よ。 後世の教本には、 そう書かれていた。 ミルノフ一世が、 本当にそう言ったかは、 分からない。 だが、 この朝。 ミルノフ軍は、 食べる側だった。 川を渡った瞬間から、 すべてを持ってこなければならない。 弾薬。 食料。 薬。 馬。 飼料。 薪。 工具。 六百人なら、 渡れる。 六千人なら、 話が違う。 橋が必要になる。 荷車が必要になる。 道が必要になる。 そして、 それらを守る兵士が必要になる。 午前六時。 工兵隊が、 ヴァルカ川へ仮設橋を架け始めた。 レヴァニア砲兵は、 それを狙った。 砲弾が、 水へ落ちる。 橋材が飛ぶ。 工兵が、 一人、 川へ落ちた。 流された。 誰も、 助けられなかった。 午前七時二十分。 ミルノフ砲兵、 東岸より応射開始。 午前八時。 西岸へ渡った兵、 二千百。 死傷者、 百七十三。 午前九時。 レオン王のもとへ、 最初の報告が届いた。 ――渡河成功。 ――敵要塞と交戦中。 ――作戦継続。 レオンは、 その三行を読んだ。 「成功?」 軍務官が答えた。 「川を渡りました」 「要塞は」 「まだです」 「なら、 成功ではないだろう」 軍務官は、 少し黙った。 「第一段階の成功です」 レオンは、 紙を見る。 第一段階。 そんなものがあるとは、 命令書に書いた覚えはなかった。 正午。 西岸。 ミルノフ軍は、 丘の麓へ到達した。 青年は、 水筒を飲んだ。 空だった。 隣の兵士に聞く。 「水あるか」 「ない」 「川なら、 あんなにあったのに」 「戻って飲んでこい」 「撃たれるだろ」 「じゃあ我慢しろ」 二人は、 笑った。 すぐ、 笑わなくなった。 前方から、 負傷兵が運ばれてきた。 一人。 二人。 五人。 十人。 青年は、 道を空けた。 その中に、 隊長がいた。 肩から、 血が出ている。 「隊長」 「死んでない」 「そう見えます」 「なら、 見るな」 担架が、 通り過ぎた。 午後二時。 総攻撃。 砲兵が、 要塞南壁を叩いた。 工兵が、 柵へ近づく。 歩兵が、 続く。 レヴァニア兵も、 撃った。 彼らも、 国を守っていた。 要塞の中。 一人の兵士が、 銃へ弾を込めた。 手が震えている。 上官が叫ぶ。 「急げ!」 「はい!」 弾を落とす。 拾う。 窓へ行く。 下を見る。 ミルノフ兵。 白と銀。 何百人。 その中に、 見覚えのある男がいるような気がした。 違う。 たぶん。 彼は、 撃った。 午後四時十一分。 南壁の一部が崩れた。 午後四時二十八分。 ミルノフ軍、 要塞内部へ侵入。 そこから、 戦闘は、 さらに二時間続いた。 廊下。 階段。 倉庫。 中庭。 部屋。 人間は、 要塞を地図では四角く描く。 実際には、 四角の中に、 人がいる。 寝台。 食器。 手紙。 濡れた靴。 干してある服。 途中まで読まれた本。 子供の絵。 ミルノフ兵は、 それらを踏みながら進んだ。 午後六時三十七分。 要塞司令官、 降伏。 戦闘終了。 ミルノフ側。 死者、 百九十二。 負傷者、 四百十一。 レヴァニア側。 死者、 百五十六。 負傷者、 三百余。 捕虜、 千八百二十三。 要塞は、 無力化された。 命令は、 達成された。 そのはずだった。 夜。 要塞の塔に、 ミルノフ兵が立っていた。 旗手が、 銀鷲旗を持っている。 朝、 西岸で旗を立てようとした男だった。 「ここなら、 いいですか」 新しい隊長が、 少し考えた。 「……立てろ」 銀鷲が、 塔へ上がった。 風が吹く。 旗が開く。 一羽。 一つの頭。 初めて、 ミルノフの国旗が、 ヴァルカ川の西で掲げられた。 兵士たちが、 歓声を上げた。 青年も、 上を見た。 嬉しかった。 生き残った。 勝った。 明日には、 帰れると思った。 「終わったな」 隣の兵士が言った。 「ああ」 「帰ったら何する」 「寝る」 「それだけ?」 「三日くらい」 「俺は飲む」 「お前はいつもだろ」 二人は、 笑った。 その頃。 要塞の地下。 西部方面軍司令官、 ヴァルド・エルケン将軍は、 地図を見ていた。 五十二歳。 軍歴、 三十三年。 戦争経験、 二度。 今回の作戦を、 現地で指揮する男。 参謀が言った。 「要塞制圧、 完了しました」 「分かっている」 「明朝より、 撤収準備を?」 ヴァルドは、 答えなかった。 地図を見る。 要塞。 ヴァルカ川。 東岸。 そして、 西。 「敵の主力は」 「約七千が、 西方四十五キロ地点へ集結中」 「いつ来る」 「早ければ、 二日」 「撤収中に来たら?」 参謀が、 黙った。 ヴァルドが、 地図を指す。 「ここ」 要塞の西、 十二キロ。 低い丘陵。 「何がある」 「旧監視所です」 「高さ」 「百八十メートルほど」 「取られたら?」 「要塞への街道を、 見下ろされます」 「砲は置けるか」 「……はい」 ヴァルドは、 さらに西を見る。 「なら、 ここを取らなければならない」 参謀は、 少し黙った。 「ですが、 命令は要塞の無力化です」 「無力化した」 「はい」 「そして今、 我々が要塞にいる」 「はい」 「敵が丘を取れば、 我々が砲撃される」 「はい」 「なら、 丘を取る」 参謀は、 地図を見る。 「丘を取った後は?」 ヴァルドは、 答えなかった。 翌朝。 ミルノフ王都。 戦勝の報告が届いた。 鐘が鳴った。 広場に、 人が集まった。 「要塞陥落!」 「勝ったぞ!」 「ミルノフ万歳!」 銀鷲旗が、 振られた。 酒が配られた。 知らない者同士が、 抱き合った。 三百人以上が死んだことは、 まだ知らされていなかった。 レオンも、 報告を受けた。 ――西岸要塞制圧。 ――作戦目標達成。 王は、 息を吐いた。 「終わったな」 外務官が、 僅かに頷いた。 「レヴァニアから、 停戦交渉の申し入れがあれば――」 扉が開いた。 伝令が入る。 「陛下」 新しい報告書。 レオンが、 受け取る。 読む。 眉が、 動いた。 「これは何だ」 軍務官が、 紙を見る。 ――西部方面軍、 防衛上の必要により、 西方丘陵地帯へ前進。 レオンが聞いた。 「誰が命令した」 「現地司令官です」 「俺は、 要塞を無力化しろと言った」 「達成しています」 「なら、 なぜ西へ行く」 軍務官は、 地図を開いた。 丘を指す。 「ここを敵に取られれば、 要塞を維持できません」 「維持?」 レオンが、 その言葉を拾った。 「なぜ、 維持する必要がある」 軍務官は、 一瞬、 答えなかった。 「撤退すれば、 レヴァニア軍が再占領します」 「要塞を壊せばいい」 「その間、 敵主力が接近します」 「なら、 敵を止めろ」 「どこで?」 軍務官は、 地図を見る。 そして、 丘を指した。 「ここです」 レオンは、 黙った。 イリヤは、 会議室の端にいた。 何も言わない。 レオンが、 老人を見る。 「言いたいことがあるなら、 言え」 イリヤは、 首を振った。 「ありません」 「昨日は、 あれほど言っただろ」 「もう、 言いましたので」 レオンは、 地図へ視線を戻した。 川。 要塞。 丘。 たった、 十二キロ。 地図では、 指一本ほど。 「丘までだ」 レオンが言った。 軍務官が、 頷く。 「はい」 「それ以上は、 進むな」 「承知しました」 命令が、 西へ送られた。 ――西方丘陵を確保。 ――それ以上の前進を禁ず。 翌日。 丘は、 ほとんど戦闘なく占領された。 レヴァニア軍は、 さらに西へ退いていた。 丘の上。 青年は、 景色を見た。 東。 ヴァルカ川。 その向こうに、 ミルノフ。 西。 平野。 街道。 村。 さらに遠く、 別の丘。 「あれは?」 青年が聞いた。 士官が答えた。 「知らん」 「レヴァニア?」 「そうだ」 青年は、 眺めた。 雪が、 少ない。 畑がある。 家がある。 煙が上がっている。 初めて見る、 外国だった。 その日の午後。 偵察隊が戻った。 「敵軍、 西方三十二キロに集結」 ヴァルド将軍が聞いた。 「地形は」 「平野です」 「その後ろは」 「川があります」 「橋は」 「一本」 ヴァルドは、 地図を見る。 敵七千。 橋一本。 もし、 橋を落とせば。 敵は、 しばらく東へ来られない。 「騎兵を出せ」 参謀が、 顔を上げた。 「将軍」 「橋を落とす」 「王命では、 これ以上の前進は禁止されています」 「占領はしない」 「ですが――」 「橋を壊して、 戻る」 参謀は、 黙った。 軍事的には、 正しかった。 橋がある限り、 敵は来る。 橋を壊せば、 来られない。 単純だった。 騎兵、 二百。 丘を下りた。 西へ向かった。 夕方。 青年は、 丘の上から、 それを見ていた。 「どこへ行くんだ」 隣の兵士が答えた。 「橋らしい」 「丘までじゃなかったのか」 「戻ってくるんだろ」 「そうか」 青年は、 西を見る。 騎兵隊は、 小さくなっていく。 やがて、 見えなくなった。 その夜。 レヴァニア王国の小さな村に、 初めてミルノフ兵が入った。 村人たちは、 家の中から見ていた。 騎兵は、 何も奪わなかった。 誰も殺さなかった。 ただ、 水を求めた。 一人の老婆が、 井戸を指した。 兵士が、 礼を言った。 言葉は、 少し違った。 それでも、 通じた。 兵士たちは、 水を飲んだ。 馬にも飲ませた。 そして、 西へ行った。 老婆は、 その背中を見ていた。 生まれて初めて見た、 ミルノフ人だった。 想像していたより、 普通の人間だった。 翌朝。 橋は、 爆破された。 レヴァニア軍主力は、 川の西側で停止した。 軍事的には、 成功だった。 だが、 橋の東側には、 三つの村と、 一つの町があった。 敵軍が戻れない以上、 そこには、 軍隊がいない。 ヴァルド将軍は、 地図を見た。 丘。 橋。 その間。 空白。 「どうしますか」 参謀が聞いた。 ヴァルドは、 長く、 その空白を見た。 放置すれば、 敵の斥候が入る。 補給線を襲われる。 住民が敵軍へ情報を送るかもしれない。 橋を修復する部隊が来るかもしれない。 なら、 守る必要がある。 「部隊を置く」 「どこに」 ヴァルドは、 地図を指した。 町。 「ここだ」 参謀は、 何も言わなかった。 数日後。 ミルノフ兵が、 その町へ入った。 戦闘は、 なかった。 市長が、 町役場の前で待っていた。 白い布を持っている。 ヴァルド将軍の代理人が、 宣言を読み上げた。 ――本占領は、 軍事上の必要による一時的措置である。 ――住民の生命、 財産、 信仰、 慣習を保障する。 ――略奪を禁ず。 ――地方行政は、 従来通り維持する。 市長が聞いた。 「いつまでですか」 士官は、 紙を見る。 そこには、 書いていなかった。 「戦争が終わるまでです」 市長は、 頷いた。 その日。 町役場の上に、 銀鷲旗が掲げられた。 一羽。 一つの頭。 三百年前、 その鷲は、 雪原に残る人々を守る国の印だった。 今、 その鷲の下には、 ミルノフ人ではない人々が暮らしていた。 彼らを守るためではなく、 ミルノフを守るために。 後世の歴史家は、 この町の占領を、 ミルノフ王国最初の 「恒常的領域拡張」 の始まりとする。 もちろん、 その日、 誰もそんな言葉を使わなかった。 王都の命令書には、 こうある。 ――西方丘陵を確保せよ。 現地軍の命令書には、 こうある。 ――補給線の安全を確保せよ。 町役場の布告には、 こうある。 ――一時的措置。 誰も、 領土を増やしたとは言わなかった。 ただ、 地図だけが、 少しずつ、 西へ広がっていた。
【第二部 膨張】 第三話
第三話 川を渡る ヴァルカ川で、 三人が死んだ。 ミルノフ兵、 一人。 レヴァニア兵、 二人。 数字だけなら、 小さい。 王国では、 毎日、 もっと多くの人間が死ぬ。 病気。 事故。 雪崩。 川。 出産。 狩り。 争い。 三人。 だが、 国境で死んだ。 相手国の人間によって。 それだけで、 死の意味は変わった。 ミルノフ兵の名は、 エド・カルマ。 二十二歳。 北西部の、 小さな村の出身。 父は木工職人。 母は健在。 妹が二人。 軍歴、 三年。 実戦経験、 なし。 半年前まで、 王都の門番をしていた。 遺体が村へ戻った日。 棺には、 銀鷲旗が掛けられていた。 母親は、 長い間、 その棺に触れていた。 泣かなかった。 ただ、 一度だけ言った。 「寒かったでしょう」 葬儀で、 神官は言った。 「彼は、 国を守るために死んだ」 母親には、 少し不思議だった。 息子が、 そんなことを言った記憶はなかった。 最後の手紙には、 こう書いてあった。 ――川の向こうの兵士から、 変な果物をもらった。 ――甘かった。 ――こちらから干し魚を投げたら、 まずそうな顔をしていた。 それが、 息子が最後に書いた、 外国についての言葉だった。 王都では、 違う話が広がった。 「レヴァニア兵が、 待ち伏せしたらしい」 「十人いたそうだ」 「エドは、 武器も抜いていなかった」 三日後。 「降伏した後に撃たれた」 五日後。 「遺体には、 拷問の痕があった」 そんなものは、 なかった。 だが、 人々は遺体を見ていない。 だから、 話の方を見た。 レヴァニアでも、 同じことが起きた。 死んだ二人。 ヨアン・フェル。 十九歳。 測量士見習い。 ラセル・ドゥマ。 三十四歳。 妻と、 七歳の息子。 向こうでは、 こう語られた。 ――ミルノフ兵が国境を侵犯した。 ――丸腰の測量隊を襲った。 ――北方人は、 昔から野蛮だ。 昔から。 便利な言葉だった。 三百年近く友好関係にあった相手でも、 敵として語り始めれば、 昔から敵だったことにできる。 共同調査団が、 現地へ入った。 ミルノフ側、 五名。 レヴァニア側、 五名。 中立国から、 二名。 六日間。 地形。 弾丸。 遺体。 証言。 すべてを調べた。 結論。 ――最初の発砲者を、 特定できず。 霧だった。 報告書を読んだレオンは、 長く黙った。 「つまり、 分からないのか」 外務官が答えた。 「はい」 「向こうも?」 「同じ報告書を受諾しています」 「なら、 これで終わりにできるな」 部屋の端で、 軍務官が顔を上げた。 「陛下」 「何だ」 「民は、 そう考えないでしょう」 レオンは、 窓を見る。 王宮の外。 広場に、 人が集まっている。 銀鷲旗。 ――エドを忘れるな。 ――西境を守れ。 そして、 一枚。 白地に、 大きな銀鷲。 その下に、 文字。 ――血には、血を。 「誰が作った」 「王都の鍛冶職人組合の者だと」 「兵士ではないのか」 「はい」 「エドの家族でも?」 「ありません」 レオンには、 それが、 少し理解できなかった。 その夜。 一人の女が、 王宮へ来た。 エドの母だった。 レオンが、 呼んだ。 女は、 王の前で礼をしようとした。 「必要ない」 レオンが止めた。 二人は、 向かい合って座った。 「息子さんについて、 聞きたかった」 「普通の子です」 「普通?」 「朝は起きないし、 妹とは喧嘩するし、 お金があればすぐ使うし」 レオンは、 少し笑った。 女も、 少しだけ笑った。 「軍に入りたかったのか」 「仕事がなかったからです」 「国を守りたいと?」 女は、 少し考えた。 「聞いたことはありません」 鞄から、 一通の手紙を出した。 レオンは、 それを読んだ。 変な果物。 甘かった。 まずそうな干し魚。 「向こうの兵士と、 知り合いだったのか」 「名前も知らないと思います」 女は、 手紙を見た。 「陛下」 「何だ」 「息子のために、 戦争をしないでください」 レオンは、 女を見る。 「皆さん、 息子のために怒ってくださる」 「ありがたいです」 「でも、 あの子は、 そんなこと望んでないと思います」 女は、 少し黙った。 「もし、 あの子が国を守ったのなら」 王を見る。 「国にいる子たちも、 守ってください」 翌朝。 レオンは、 元老院へ向かった。 八十四人。 議論は、 六時間続いた。 要塞撤去要求。 賠償。 軍縮。 増派。 国境線。 謝罪。 誰も、 戦争がしたいとは言わなかった。 ただ、 誰も、 譲歩したいとも言わなかった。 最後に、 元外交官イリヤ・ヴェルンが立った。 七十一歳。 「陛下」 「何だ」 「一度、 川を渡れば」 老人は、 地図を見る。 「次の国境が必要になります」 軍務官が言った。 「川の向こうの丘までだ」 「その丘を守るには?」 「周辺を確保する」 「その周辺を守るには?」 軍務官は、 黙った。 イリヤは、 地図の西を指した。 「次は、 ここです」 さらに西。 「その次は、 ここ」 さらに。 「そして、 ここ」 誰かが言った。 「極論だ」 イリヤは、 頷いた。 「そうであることを、 願っています」 採決。 レヴァニア王国に対し、 ヴァルカ西岸要塞の撤去を要求。 期限、 三十日。 拒否された場合、 軍事行動を含む必要な措置を認める。 賛成、 四十四。 反対、 三十五。 棄権、 五。 王には、 拒否権があった。 レオンは、 紙を見る。 昨夜、 一人の母親が言った。 戦争をしないでください。 今日、 王宮の外では、 何千人もの人間が言っている。 国を守れ。 どちらも、 ミルノフの民だった。 「陛下」 議長が、 待っている。 レオンは、 目を閉じた。 そして、 言った。 「承認する」 三十日。 歴史に、 期限が与えられた。 最初の十日。 両国の外交官は、 ほとんど眠らなかった。 セリオ・サリウスは、 王都とレヴァニアを往復した。 要塞の兵力を半減。 工事を五年間停止。 共同管理。 非武装地帯。 相互査察。 いくつもの案が、 机の上に置かれた。 十二日目。 レヴァニアは、 要塞撤去を正式に拒否。 十四日目。 代わりに、 ミルノフ西部軍の三割削減を条件として、 要塞駐屯兵を半減する案を提示。 十六日目。 ミルノフ元老院、 否決。 十八日目。 両国、 国境住民の避難を開始。 二十日目。 ミルノフ西部軍へ、 弾薬が運ばれた。 二十一日目。 レヴァニア軍も、 同じことをした。 二十三日目。 王都では、 兵士を送る家族が、 駅馬車場に集まった。 泣く者。 祈る者。 笑って送り出す者。 「すぐ帰ってくる」 多くの兵士が、 そう言った。 根拠は、 なかった。 二十五日目。 セリオが、 最後の妥協案を持ってきた。 要塞は残す。 重砲を撤去。 駐屯兵を千人以下へ制限。 ミルノフも、 東岸から二個大隊を後退。 両岸二十キロを、 相互監視地域とする。 レオンは、 それを読んだ。 「これでいい」 イリヤも、 頷いた。 「十分です」 元老院へ提出された。 否決。 三十九対三十八。 棄権、 七。 一票だった。 セリオは、 結果を聞いて、 しばらく何も言わなかった。 帰国する前。 王宮の廊下で、 レオンと二人になった。 「すまない」 レオンが言った。 セリオは、 首を振った。 「陛下が謝ることではありません」 「俺は王だ」 「私は外務卿です」 セリオは、 少し笑った。 「それでも、 国というものは、 なかなか言うことを聞きません」 レオンも、 僅かに笑った。 だが、 すぐ消えた。 「セリオ」 「はい」 「戦争になると思うか」 セリオは、 しばらく考えた。 「二十五日前は、 ならないと思っていました」 「今は?」 セリオは、 答えなかった。 二十八日目。 レヴァニア王国は、 最後通牒の撤回を要求。 ミルノフ王国、 拒否。 二十九日目。 イリヤ・ヴェルンが、 レオンを訪ねた。 「陛下」 「何だ」 「まだ、 止められます」 レオンは、 机の上を見る。 そこには、 西部軍司令官へ送る命令書があった。 まだ、 署名していない。 「拒否権を使えと?」 「いいえ」 「では?」 「最後通牒を、 撤回してください」 「元老院が認めない」 「王権でできます」 「その後は?」 「分かりません」 「元老院は反発する」 「はい」 「民も」 「おそらく」 「レヴァニアは、 要塞を完成させる」 「その可能性があります」 「では、 何が残る」 イリヤは、 答えた。 「戦争をしなかった、 という事実が残ります」 レオンは、 老人を見る。 長い沈黙。 やがて、 王は言った。 「それだけでは、 国を守れない」 イリヤは、 目を閉じた。 「そうですか」 老人は、 頭を下げた。 扉まで歩く。 そこで、 一度止まった。 振り返らずに言った。 「始祖王も、 そう考えるでしょうか」 レオンは、 答えなかった。 扉が閉じた。 王は、 一人になった。 机の上。 命令書。 ――西部方面軍は、 ヴァルカ西岸に存在する軍事施設を無力化し、 王国西境の安全を確保せよ。 侵略、 という文字はない。 征服、 という文字もない。 領土、 という文字もない。 レオンは、 署名した。 三十日目。 午前四時十三分。 ヴァルカ川。 夜明け前。 霧は、 薄かった。 ミルノフ兵、 第一陣。 六百。 水へ入る。 冷たい。 雪解け水が、 膝を越える。 兵士たちは、 銃を頭上へ持ち上げた。 誰も、 話さない。 水の音だけ。 その中に、 一人の青年がいた。 半年前、 対岸の兵士へ、 干し魚を投げた男だった。 青年は、 西岸を見る。 暗い。 あの兵士が、 どこにいるのかは知らない。 名前も、 知らない。 後ろから、 銀鷲旗が来た。 一羽。 一つの頭。 旗手も、 川へ入る。 白い布の裾が、 水に触れた。 青年は、 歩いた。 一歩。 また一歩。 川の中央へ来た。 ここが、 国境だった。 二百八十六年前。 ミルノフ一世と、 レヴァニアの使節が、 地図を見ながら決めた線。 川は動くから、 境界には向いていない。 そう言った男がいた。 それでも、 ここになった。 青年は、 その線を知らなかった。 水の中に、 線など見えない。 一歩。 西へ。 その瞬間、 彼は、 ミルノフ王国の外へ出た。 何も起きなかった。 雷も鳴らない。 鐘も鳴らない。 川も、 変わらず流れている。 ただ、 六百人が、 それに続いた。 午前四時三十一分。 第一陣、 西岸到達。 兵士たちが、 泥へ上がる。 一人が、 膝をつく。 一人が、 銃を構える。 旗手が、 銀鷲旗を立てようとした。 隊長が言った。 「まだ立てるな」 「なぜです」 「ここは、 我々の土地ではない」 旗手は、 頷いた。 銀鷲旗を、 肩へ戻した。 遠く。 丘の上。 レヴァニアの要塞。 鐘が鳴った。 一度。 二度。 三度。 西岸の兵士たちが、 走り始める。 ミルノフ兵も、 銃を構えた。 青年は、 その中に、 知っている顔を探した。 いない。 当然だった。 名前さえ、 知らないのだから。 丘の上で、 閃光。 砲声。 土が、 跳ねた。 誰かが、 叫んだ。 青年は、 伏せた。 第二射。 今度は、 人が倒れた。 隊長が、 剣を抜いた。 「前進!」 六百人が、 走った。 後続部隊が、 川へ入る。 銀鷲が、 次々と、 西へ進んだ。 その頃。 王都。 レオンは、 眠っていなかった。 窓の外。 まだ、 夜だった。 机には、 一枚の紙。 エド・カルマの母から借りた、 最後の手紙。 ――川の向こうの兵士から、 変な果物をもらった。 レオンは、 その一文を見ていた。 午前四時四十二分。 ヴァルカ西岸。 ミルノフ西部方面軍、 レヴァニア王国軍と交戦開始。 後世、 この時刻をもって、 第一次ミルノフ=レヴァニア戦争の開戦とする。 だが、 レオン王が署名した命令書には、 最後まで、 戦争という文字はなかった。 征服も。 侵略も。 領土拡張も。 ただ、 一行。 ――王国西境の安全を確保せよ。 二百八十六年前。 ミルノフ一世は、 人々をこの土地から追い出させないため、 国を作った。 その国は、 長い間、 自分たちの側に立っていた。 そして、 この朝。 初めて、 川を渡った。
【第二部 膨張】 第二話
第二話 川の両岸 ヴァルカ川は、 春になると、 広くなる。 雪が溶けるからだった。 北から流れてきた水が、 支流を集め、 平地へ溢れる。 冬には、 歩いて渡れる場所もある。 春には、 橋すら流されることがある。 ミルノフ王国と、 レヴァニア王国は、 その川を、 国境にした。 理由は、 簡単だった。 分かりやすかったからだ。 二百八十六年前。 まだ文字を覚えたばかりのミルノフ一世と、 レヴァニアの使節ヴァレル・サリウスは、 地図を挟んで話し合った。 山。 森。 沼。 丘。 どこまでが誰の土地なのか。 二人は、 何日も揉めた。 最後に、 ヴァレルが言った。 「川ではいかがでしょう」 ミルノフは、 地図を見た。 「動かないのか」 「川ですから、 多少は動きます」 「なら、 境界に向いてないだろ」 ヴァレルは、 しばらく黙った。 「山よりは、 分かりやすいかと」 「そうか」 それで、 決まった。 後世、 この条約は、 『ヴァルカ国境協定』 と呼ばれる。 北方外交史上、 最初期の国境画定条約。 三世紀近く、 両国の平和を支えた名条約。 そう評価する歴史家は多い。 実際、 長く機能した。 だからこそ、 誰も考えなかった。 川の向こう側を、 必要とする日が来るとは。 レオン王即位から、 二十三日。 王都に、 レヴァニア王国の使節団が到着した。 馬車は、 六台。 護衛、 二十四名。 使節、 十一名。 先頭の馬車には、 青地に金の鹿。 レヴァニア王家の旗。 王宮前で、 馬車が止まった。 一人の男が降りた。 五十代。 痩せている。 背が高い。 灰色の髪。 名を、 セリオ・サリウス。 レヴァニア王国外務卿。 そして、 二百八十六年前、 ミルノフ一世に 「王とは役目だ」 と言った男、 ヴァレル・サリウスの子孫だった。 もっとも、 セリオ本人は、 そのことをあまり好んでいなかった。 「何をしても、 祖先と比べられる」 彼は、 以前そう愚痴ったことがある。 「あなたの祖先は、 ミルノフ王国を最初に承認した」 「あなたの祖先は、 始祖王と会った」 「あなたの祖先は、 歴史を作った」 セリオは、 そのたびに思った。 私は、 まだ何もしていないのに。 謁見の間。 レオン王が、 彼を迎えた。 「遠路、 ご苦労だった」 「陛下の御即位を、 我が王よりお祝い申し上げます」 セリオが、 頭を下げる。 贈り物が運ばれた。 ワイン。 南方の織物。 金細工。 そして、 一冊の古い本。 レオンが、 それを見る。 「これは?」 「我が王室文書庫に保管されていた、 写本です」 レオンが開いた。 古い文字。 かなり読みにくい。 だが、 一番下の署名だけは分かった。 ミルノフ。 少し、 曲がっている。 レオンは、 思わず笑った。 「本当に、 下手だな」 セリオも、 僅かに笑った。 「我が国の記録官も、 同じことを書いております」 「何と?」 「『北王、 署名甚だ不整』」 レオンは、 声を出して笑った。 セリオも、 笑った。 部屋の空気が、 少し柔らかくなった。 その日の夜。 晩餐が開かれた。 レヴァニアのワイン。 ミルノフの鹿肉。 北海の魚。 両国の楽師が、 交互に演奏した。 レオンとセリオは、 長く話した。 交易。 街道。 王家。 今年の雪。 南方の作物。 セリオには、 娘が二人いる。 レオンには、 まだ子がいない。 普通の話だった。 要塞の話は、 誰もしなかった。 翌朝。 元老院外交室。 地図が、 机に広げられた。 昨日とは、 違う空気だった。 「では、 本題に入りましょう」 セリオが言った。 レオンが、 頷く。 ミルノフ側からは、 王。 元老院議長。 軍務官。 外務官。 国境伯。 レヴァニア側からは、 セリオ以下六名。 地図の中央に、 ヴァルカ川。 そして、 西岸の要塞。 ミルノフ外務官が言った。 「建設の中止を求めます」 セリオは、 即答した。 「できません」 「理由を伺っても?」 「必要だからです」 「何に?」 「防衛に」 軍務官が、 腕を組んだ。 「誰からの?」 セリオは、 彼を見る。 「それを、 我々に言わせますか」 部屋が、 静かになった。 セリオは、 別の地図を出した。 レヴァニア側が作成したものだった。 「過去二十年間」 地図上の印を、 指で追う。 「ミルノフ王国は、 西部国境軍を、 約二倍に増員しています」 別の印。 「十二年前、 こちらに砦を増築」 別。 「九年前、 軍用街道を整備」 別。 「五年前、 橋梁を拡張」 軍務官が言った。 「すべて、 我が領内だ」 「存じています」 「なら、 問題はない」 「我々から見れば、 問題です」 セリオは、 レオンを見る。 「陛下」 「もし、 レヴァニアが国境十八キロに、 軍用街道と兵舎を建設し、 兵力を二倍にしたなら、 ミルノフは、 何もしませんか」 レオンは、 答えなかった。 「我々は、 二十年間、 何もしませんでした」 セリオが言った。 「そして今、 一つの要塞を建てています」 軍務官が言った。 「三千人規模の」 「はい」 「こちらの国境砦は、 八百だ」 「それは、 ミルノフ王国の判断でしょう」 軍務官の顔が、 僅かに険しくなった。 レオンが、 手を上げた。 「やめよう」 静かになる。 「互いに、 同じ話をしている」 セリオが、 王を見る。 レオンは、 地図を指した。 「我々は、 お前たちの要塞が怖い」 次に、 こちら側。 「お前たちは、 我々の軍が怖い」 「はい」 「だから、 互いに軍を増やす」 「その通りです」 「馬鹿らしいな」 セリオは、 少し笑った。 「私も、 そう思います」 そこで、 最初の案が出された。 双方、 国境から三十キロ以内の兵力を制限する。 要塞建設を一時停止。 ミルノフも、 西部軍の一部を後退。 共同監視団を置く。 半年ごとに、 兵力を相互確認する。 レオンは、 賛成した。 セリオも、 賛成した。 問題は、 二人だけで国を動かしているわけではないことだった。 その日の午後。 レヴァニア側へ、 早馬が出た。 五日後。 返答が来た。 拒否。 レオンは、 書簡を読んだ。 「なぜだ」 セリオは、 目を閉じた。 「軍部です」 「軍部?」 「我が国の西方軍司令部が、 反対しました」 「理由は」 「ミルノフが、 協定を破った場合、 要塞建設を再開するまでに時間がかかる」 レオンは、 机を指で叩いた。 「では、 こちらだけ兵を下げろと?」 「そうは言っていません」 「同じだ」 その夜。 今度は、 ミルノフ元老院で、 議論が起きた。 「レヴァニアは、 時間を稼いでいる」 「要塞完成まで、 あと半年だ」 「交渉を続けるべきだ」 「完成してからでは遅い」 「では、 攻撃するのか」 「誰もそう言っていない」 「では何をする」 「圧力をかける」 「軍で?」 「軍も含めてだ」 「それを、 普通は威嚇という」 声が、 大きくなる。 レオンは、 黙って聞いていた。 一人の老議員が、 手を上げた。 名を、 イリヤ・ヴェルン。 七十一歳。 元外交官。 四十年以上、 レヴァニアとの交渉に関わってきた男だった。 「陛下」 「何だ」 「兵を増やしてはなりません」 軍務官が、 すぐ反応した。 「何もしろと?」 「違う」 イリヤは、 地図を見る。 「今、 彼らが要塞を作っている理由は、 我々が怖いからです」 「だから?」 「ここで我々が兵を増やせば、 彼らはこう思うでしょう」 老人は、 指で西岸を叩いた。 「やはり、 要塞は必要だった、と」 誰も、 すぐには答えなかった。 「そして、 彼らが兵を増やす」 今度は、 東岸。 「それを見て、 我々も思う」 ――やはり、 兵は必要だった。 イリヤは、 両岸を交互に指した。 「これを続ければ、 最後には、 どちらかが撃ちます」 軍務官が言った。 「では、 どうする」 「相手に、 最初に兵を減らさせようとしないことです」 「こちらから減らす?」 「そうです」 元老院が、 ざわついた。 「正気か」 誰かが言った。 イリヤは、 その方向を見る。 「たぶん」 少し笑う。 「まだ」 レオンが聞いた。 「どれだけ減らす」 「二個大隊」 軍務官が、 立ち上がった。 「あり得ない」 「なぜ」 「向こうは、 要塞を作っている!」 「だからです」 「意味が分からない」 「相手が剣を持ったから、 こちらも剣を持つ」 イリヤは言った。 「こちらが剣を持ったから、 相手は盾を持つ」 「盾を持ったから、 こちらは槍を持つ」 「槍を持ったから、 相手は壁を作る」 老人は、 地図を見る。 「そのうち、 最初に何が怖かったのか、 誰も覚えていなくなる」 レオンは、 長く黙った。 採決が行われた。 西部軍縮小案。 賛成、 三十一。 反対、 四十六。 棄権、 七。 否決。 代わりに、 西部軍へ、 二個大隊を増派する案が提出された。 可決。 その報告は、 七日後、 レヴァニアへ届いた。 レヴァニア王国。 西方軍司令部。 将軍が、 書簡を読んだ。 「二個大隊?」 「はい」 「増援か」 「はい」 将軍は、 窓の外を見る。 ヴァルカ川。 その向こうに、 ミルノフ。 「……やはりな」 副官が聞いた。 「要塞工事は?」 将軍は、 答えた。 「急がせろ」 さらに、 千人の兵が、 要塞へ送られた。 その報告が、 ミルノフへ届いた。 軍務官は言った。 「ほら見ろ」 イリヤは、 何も言わなかった。 冬が来た。 川が、 凍った。 ヴァルカ川の東岸。 ミルノフ兵、 四千二百。 西岸。 レヴァニア兵、 三千八百。 互いの焚き火が、 夜になると見えた。 距離は、 場所によって、 数百メートルしかない。 兵士たちは、 毎日、 向こう岸を見た。 向こう岸の兵士たちも、 こちらを見た。 ある日。 ミルノフ兵の青年が、 川辺で薪を拾っていた。 対岸にも、 レヴァニア兵がいた。 二人は、 目が合った。 青年は、 動かなかった。 向こうも、 動かなかった。 しばらくして、 レヴァニア兵が、 手を上げた。 小さく。 青年も、 手を上げた。 それだけだった。 翌日も、 二人は会った。 今度は、 レヴァニア兵が、 何かを投げた。 氷の上を、 小さなものが滑ってくる。 青年は、 拾った。 乾燥した果物。 南方で採れるものだった。 青年は、 少し考えた。 自分の袋から、 干し魚を出した。 氷の上を、 滑らせた。 向こうの兵士が、 拾った。 食べた。 顔をしかめた。 「まずいか!」 青年が叫んだ。 川の向こうから、 何か返ってきた。 言葉は、 よく聞こえなかった。 だが、 たぶん、 まずいと言っていた。 青年は、 笑った。 向こうも、 笑った。 二人とも、 国を守るために、 そこにいた。 春まで、 何も起きなかった。 だから、 人々は少し安心した。 春。 雪が溶けた。 ヴァルカ川の水位が上がった。 氷が割れ、 大きな塊となって流れた。 両岸の兵士たちは、 もう物を投げ合えなくなった。 四月十七日。 午前五時四十二分。 霧。 東岸のミルノフ哨戒隊が、 川沿いを巡回していた。 六人。 同じ頃。 西岸から、 レヴァニアの測量隊が出ていた。 五人。 要塞周辺の地盤を調べるためだった。 川は、 増水していた。 前年の洪水で、 流路が少し変わっていた。 二百八十六年前の条約には、 こう書かれていた。 ――国境は、 ヴァルカ川の中央とする。 問題は、 川の中央が、 去年と同じ場所にはなかったことだった。 霧の中。 ミルノフ兵が、 人影を見た。 「止まれ!」 返事がない。 もう一度。 「止まれ!」 レヴァニア側でも、 声が上がった。 互いの言葉は、 似ていた。 だが、 同じではない。 誰かが、 一歩動いた。 誰かが、 銃を構えた。 誰かが、 叫んだ。 そして、 一発。 鳥が、 一斉に飛び立った。 霧の中で、 一人が倒れた。 誰が最初に撃ったのか。 分からなかった。 ミルノフ側の記録には、 こうある。 ――レヴァニア兵、 我が哨戒隊へ突如発砲。 レヴァニア側の記録には、 こうある。 ――ミルノフ兵、 国境を侵犯し、 我が測量隊へ発砲。 死者。 ミルノフ兵、 一名。 レヴァニア兵、 二名。 三人とも、 戦争を始めるつもりはなかった。 その日の午後。 ミルノフ王都。 レオンは、 報告書を読んだ。 最後まで読む。 もう一度、 最初から読む。 そして聞いた。 「誰が撃った」 軍務官は答えた。 「レヴァニア側です」 「見た者は」 「兵士が五人」 「全員、 そう言っている?」 「はい」 レオンは、 報告書を置いた。 「向こうは?」 外務官が答えた。 「我々が撃ったと」 レオンは、 椅子へ深く座った。 しばらくして、 イリヤが言った。 「陛下」 「何だ」 「今なら、 まだ事故です」 レオンは、 老人を見る。 「明日になれば?」 イリヤは、 答えなかった。 窓の外では、 雪解けの水が、 屋根から落ちていた。 遠く、 ヴァルカ川では、 三人分の血が、 春の濁流へ流れていた。 川は、 それが、 どちらの国のものなのか知らなかった。 国境も、 知らなかった。 ただ、 南へ流れていった。
【第二部 膨張】 第一話
第一話 鉄冠の国 男は、 王になる前に、 地下へ降りた。 階段は、 四十七段あった。 一段。 二段。 三段。 男は途中から、 数えるのをやめた。 地下は、 寒かった。 外では雪が降っている。 だが、 ここの寒さは、 雪の寒さとは少し違う。 石の中に、 長い時間を閉じ込めたような寒さだった。 男の後ろを、 三人が歩いていた。 王室典礼官。 元老院議長。 そして、 神官。 誰も、 話さなかった。 階段の先に、 扉があった。 鉄製だった。 典礼官が、 鍵を差し込む。 重い音がした。 扉が開いた。 部屋は、 狭かった。 中央に、 石台が一つ。 その上に、 木箱が置かれている。 男は、 木箱の前へ立った。 典礼官が言った。 「殿下」 男は、 頷いた。 箱を開ける。 中に、 鉄の輪があった。 錆びている。 宝石はない。 装飾もない。 ところどころ、 形が歪んでいる。 男は、 しばらくそれを見た。 「これが?」 「はい」 「本当に?」 「はい」 男は、 鉄冠を持ち上げた。 重かった。 見た目ほどではない。 だが、 王冠としては、 妙に重い。 「……小さいな」 典礼官は、 少し困った。 「始祖王は、 殿下ほど大柄ではなかったと伝えられております」 男は、 鉄冠を裏返した。 内側にも、 何もない。 文字も。 紋章も。 祈りの言葉も。 ただ、 鉄だった。 「これを、 本当に被ったのか」 神官が答えた。 「『始祖聖伝』には、 北天より授けられし鉄をもって――」 「それはいい」 男は遮った。 神官が黙った。 元老院議長が、 僅かに笑った。 男は、 鉄冠を見たまま言った。 「古い記録には、 何とある」 典礼官は答えた。 「鍛冶屋が作った、と」 「誰の命令で?」 「始祖王ご自身です」 「何日かかった」 「一晩と」 男は、 もう一度、 鉄冠を見た。 「……そっちの方が、 信じられるな」 神官は、 何も言わなかった。 ミルノフ一世が死んでから、 二百八十六年が経っていた。 王国は、 変わった。 人口は、 百万人を超えていた。 北の海から、 南の丘陵地帯まで。 東の森林から、 西の大河まで。 かつて、 九つの集落をまとめていた国は、 今では、 百を超える都市と村落を統治していた。 街道が、 国土を貫いている。 橋には、 通行税を取る役人がいる。 各地に、 裁判所がある。 王国軍には、 常備兵がいる。 徴税官。 書記官。 外交官。 測量官。 造幣官。 裁判官。 道路監督官。 ミルノフ一世が生きていれば、 おそらく、 半分ほどは何をしている人間なのか分からなかっただろう。 元老院も、 もう「あの五人」ではない。 議席は、 八十四。 地方代表。 都市代表。 軍人。 土地所有者。 商人。 神官。 それぞれが、 それぞれの理由で、 国について話した。 そして、 それぞれが、 自分こそ国のことを最もよく分かっていると思っていた。 首都も、 変わった。 最初の小屋があった場所は、 もう分からない。 かつて役所が建てられたその一帯も、 何度か建て替えられた。 石壁は、 三度拡張された。 旧市街の外に、 新市街ができた。 川には、 七本の橋が架かっている。 丘の上には、 王宮があった。 白い石で造られた、 大きな宮殿。 後世の鏡城ミリアスブルクと比べれば、 まだ小さい。 だが、 最初の王宮に鶏が歩いていたことを考えれば、 十分すぎるほど立派だった。 男の名は、 レオン・ミルノフ。 明日、 第十二代ミルノフ王になる。 父王は、 三日前に死んだ。 五十七歳だった。 突然だった。 朝、 元老院との会議へ向かう途中、 胸を押さえて倒れた。 その日の夕方には、 王国中へ早馬が出された。 そして今、 息子が、 鉄冠の前に立っている。 「殿下」 典礼官が言った。 「膝を」 レオンは、 鉄冠を石台へ戻した。 そして、 その前へ跪いた。 明日。 彼は、 白金糸の刺繍が入った礼装を着る。 王冠には、 金。 銀。 青石。 国外からも、 使節が来る。 二万人近い人間が、 王都の大広場へ集まる予定だった。 だが、 その前夜だけは、 王になる者が、 誰も見ていない地下室で、 鉄へ頭を下げる。 いつ始まった儀礼なのか、 正確には分からない。 アレク一世が、 父の鉄冠を被らなかったこと。 それだけは、 古い記録に残っている。 その後、 第三代王が即位前に鉄冠を見た。 第四代王も見た。 第五代王の頃には、 跪くようになった。 第七代王の時代には、 王室典礼として記録された。 そして今では、 理由を知らない者でも、 そうする。 伝統とは、 往々にしてそういうものだった。 「立たれてください」 レオンは立った。 典礼官が、 白い布を差し出した。 レオンは、 鉄に触れた手を見た。 赤錆が、 指についている。 「拭かれますか」 「いや」 レオンは、 布を受け取らなかった。 そのまま、 地下室を出た。 翌日。 王都には、 朝から雪が降っていた。 大広場を、 白が覆っている。 そこへ、 銀色の旗が並んだ。 旗には、 一羽の鷲。 翼を広げ、 右を向いている。 銀鷲。 当時のミルノフ王国を象徴する紋章だった。 まだ、 頭は一つしかない。 鐘が鳴った。 王宮の扉が開く。 レオンが現れた。 白い外套。 濃い青の礼装。 肩から胸へ、 白金色の刺繍が走っている。 その色は、 数代前から王家が好んで用いていた。 始祖の鉄冠が持つ、 鈍い白い輝き。 それを、 王家の色として残したものだと言われている。 もっとも、 王都の仕立屋たちは、 単に 「金より冬の国に似合うから」 と説明していた。 歴史は、 たいてい、 意味を一つには決めてくれない。 王冠が、 レオンの頭へ載せられた。 人々が歓声を上げた。 「レオン王万歳」 「ミルノフ万歳」 銀鷲旗が、 雪の中で揺れる。 レオンは、 広場を見た。 人。 人。 人。 父が、 この景色を見ていた。 祖父も。 その前の王も。 十二代。 二百八十六年。 レオンには、 それが長い時間に思えた。 無理もない。 彼は、 二十七歳だった。 戴冠式の後、 元老院で最初の会議が開かれた。 王としての、 最初の仕事だった。 八十四人が、 半円状に座っている。 中央に、 王座。 レオンが座る。 議長が立った。 「陛下」 「始めよう」 最初の議題は、 父王の葬儀費用。 次は、 北部の橋の修繕。 次は、 穀物価格。 次は、 西部で発生した家畜病。 レオンは、 一つずつ聞いた。 王になるというのは、 もっと特別なことだと思っていた。 実際には、 橋と麦と牛の話だった。 五つ目の議題。 議長の声が、 少し変わった。 「西境についてです」 地図が、 中央の机へ広げられた。 レオンは、 身を乗り出した。 王国の西。 大河、 ヴァルカ。 現在、 ミルノフ王国と、 レヴァニア王国の国境の一部を成している。 その名を聞いて、 レオンは少し顔を上げた。 「レヴァニアか」 「はい」 始祖ミルノフを、 最初に王として認めた国。 最初の正式な条約を結んだ国。 最初の立派な王冠を贈った国。 三百年近く、 国境を接してきた隣国。 レヴァニア王国。 議長が、 地図の一点を指した。 大河の向こう側。 「ここに、 新しい要塞が建設されています」 レオンは、 地図を見る。 「規模は」 軍務官が答えた。 「推定、 三千を収容できます」 「国境からは」 「直線で、 十八キロ」 元老院が、 静かになった。 レオンは、 もう一度地図を見た。 ヴァルカ川。 その向こうに、 小さく描かれた四角。 要塞。 「こちらの砦は」 「最大で、 八百です」 「増やせばいい」 軍務官が、 首を振った。 「川のこちら側は、 平地です」 別の議員が言った。 「向こう岸には、 丘陵があります」 「要塞は、 その上です」 「つまり?」 軍務官が、 地図へ手を置いた。 「有事の際、 彼らは高地から川を制圧できます」 レオンは、 黙った。 「こちら側に砦を増設しても、 不利は変わりません」 「では、 どうする」 誰も、 すぐには答えなかった。 やがて、 一人の議員が言った。 「向こう岸を、 こちら側にすればよい」 部屋が、 静かになった。 レオンは、 その男を見た。 「それは、 レヴァニア領だ」 「承知しております」 「なら、 こちら側にはならない」 「今は」 その言葉に、 数人が顔を上げた。 レオンは、 地図を見る。 ヴァルカ川。 三百年前。 ミルノフ一世と、 レヴァニア王アルヴェント三世の名の下に、 国境が定められた。 古い条約は、 今も王室文書庫にある。 始祖王の署名は、 少し曲がっている。 「戦争をしろと?」 レオンが聞いた。 議員は答えた。 「いいえ」 「では?」 「国境を、 安全にすべきだと申し上げています」 レオンは、 少し眉を寄せた。 「同じことではないのか」 今度は、 別の議員が言った。 「違います、陛下」 「どう違う」 「目的が違います」 「目的?」 「我々は、 土地が欲しいのではありません」 男は、 地図を指した。 「王国を、 守りたいのです」 その言葉を、 レオンは知っていた。 王都の中央。 始祖王記念堂の壁に、 刻まれている。 ――ここにいる者を、 誰にも追い出させない。 ミルノフ一世の言葉。 レオンは、 地図を見た。 川。 国境。 その向こうの丘。 その上の要塞。 二百八十六年前。 その言葉は、 雪原に残るための言葉だった。 この日、 初めて、 その言葉は、 国境を越えようとしていた。 会議は、 日没まで続いた。 結論は、 出なかった。 レオンは、 王宮へ戻った。 廊下には、 銀鷲が彫られている。 一羽。 一つの頭。 一つの王国。 夜。 レオンは、 窓から西を見た。 もちろん、 ヴァルカ川など見えない。 その向こうの要塞も。 見えるのは、 雪だけだった。 彼は、 右手を開いた。 爪の間に、 まだ僅かに、 赤いものが残っていた。 昨夜、 鉄冠に触れた時についた錆。 レオンは、 それを親指で擦った。 落ちなかった。 その頃。 西へ、 およそ四百キロ。 ヴァルカ川の向こう。 丘の上では、 石工たちが、 夜まで働いていた。 要塞の壁が、 少しずつ高くなっている。 一人の若い兵士が、 石を運びながら言った。 「本当に、 こんな大きなものが必要なのか」 隣の男が答えた。 「必要らしい」 「何のために」 男は、 川の向こうを見た。 雪に覆われた、 ミルノフ領。 そして言った。 「国を守るためだろ」 同じ夜。 同じ川の両側で。 二つの国が、 同じことを考えていた。 自分たちは、 守っているのだと。 後世の歴史家は、 この年を、 ミルノフ王国の 「西方膨張期」 の始まりとする。 だが、 この時まだ、 誰一人として、 国を広げようとは言っていなかった。