Aurelian Morse
30 件の小説Aurelian Morse
純文学を基調に、哲学、自然科学、神学、歴史学などの知見を織り込み、童話的な構成によって物語へ昇華する作品を執筆しています。 基本的に直接的な感情表現を極力避け、対象を静かに見つめるような観測的な語りを好みます。 やや古典的な文章と重厚な構成を用いることが多く、物語が進むにつれてそれまでの描写や出来事の意味が徐々に変化していく作品が中心です。 作品は主題によって、四つの文集に分けています。 『星たちの唄』――自然や現象の観測。 (雰囲気:繊細、構造的に美しい) 『孤独に咲く一輪の花』――心理描写。 (雰囲気:読後に重厚な余韻がある) 『大天使』――恋愛、男女、他者との関係。 (雰囲気: 艶やかでやや官能的) 『灰と瑠璃の星』――思想、論理、哲学。 (雰囲気:学術的でかなりドライ) 初めての方には、『星たちの唄』からおすすめしています。
『四角い部屋を想像してほしい。』
四角い部屋を想像してほしい。 特別なものは何もない。 白い壁が四枚。 窓はない。 一辺は四メートル。 天井には照明がひとつ。 中央に椅子がある。 扉は後ろにある。 振り返る必要はない。 ここまででいい。 * 北辰大学旧理学研究棟は、二〇〇一年に取り壊された。 現在、その場所には生命科学研究棟が建っている。 旧棟の図面は大学資料室に保管されているが、一九九三年から一九九七年まで使用された地下二階の一室について、設計図と実測記録に不一致がある。 第三計測室。 設計上の内寸は、 「四・〇〇〇メートル×四・〇〇〇メートル」 事の発端は一九九五年五月十七日。 設備管理課による定期検査で、 「四・〇〇〇メートル×四・〇三一メートル」 と記録されたことである。 これは初め測定誤差として処理された。 ________ 【五月二十四日】 四・〇〇〇メートル×四・〇七四メートル 【五月二十七日】 四・〇〇〇メートル×四・一二一メートル 【六月二日】 四・〇〇〇メートル×四・一九〇メートル ________ 外寸に変化はなかった。 六月三日、大学は非公開の調査班を組織した。 物理学科三名。 建築学科二名。 心理学科一名。 心理学科から参加した高城准教授は、空間認知と記憶の再構成を専門としていた。 彼が最初に指摘したのは、測定結果そのものではなかった。 測定者全員が、 「部屋が広くなった」 と証言していたことである。 これは測定値から導かれた解釈であり、観測された事実ではない。 高城は報告書にこう記している。 《確認されているのは、二点間の測定値が増加したことのみである。空間が拡大したとは確認されていない。》 翌日から、第三計測室への人間の立ち入りは禁止された。 自動測定器のみが設置された。 ________ 【六月四日】 (午前二時十七分)四・一九一メートル (二時十八分)四・一九一メートル (二時十九分)四・一九二メートル (午前三時)四・二〇四メートル ________ 異常は、人間が室内に存在しなくても継続した。 * 【六月九日】 調査班は第三計測室に二台の原子時計を設置した。 一台は室内。 もう一台は廊下。 三時間後、 室内側には十一・二秒の偏差が生じた。 時計を交換した。 同じ結果だった。 電磁場、温度、気圧、重力加速度。 既知の変数から説明可能な異常は確認されなかった。 この頃、高城は「部屋」という言葉を使わなくなっている。 彼の記録では、第三計測室は一貫して、 領域A と表記される。 【六月十二日】 高城は実験の全面停止を提案した。 理由は記録されていない。 提案は却下された。 * 【六月十三日】 領域Aを二十四時間、無人・無観測状態に置く実験が行われた。 映像記録なし。 自動測定なし。 入室なし。 翌朝、測定。 四・一八七メートル。 前日より縮小していた。 【六月十四日】 測定を十回行った。 翌朝。 四・二三一メートル。 【六月十五日】 測定を百回行った。 翌朝。 四・六六二メートル。 調査班は、観測回数と偏差量の間に相関を認めた。 しかし六月十六日、高城が異議を唱えた。 百回の測定を行った前日、 測定装置が保存したデータを研究員が何度も閲覧していた。 「測定」と「閲覧」が分離されていない。 そこで実験が変更された。 測定は一度だけ行う。 測定結果を百回表示する。 翌朝。 四・六五九メートル。 測定そのものは必要なかった。 * 【六月十八日】 領域Aの映像を別棟の被験者に見せた。 偏差が発生した。 ただし、 領域Aではなかった。 映像を見た被験者が使用した実験室に、微小な空間偏差が確認された。 実験は拡張された。 ________ 【媒体別観測結果】 写真:発生 図面:発生 数値データ:発生 口頭説明:発生 ________ ただし、偏差量には大きな差があった。 高城はこの時点で、 「異常が伝播している」 という表現を明確に否定している。 《伝播という語は、AからBへ何かが移動したことを前提としている。その事実は確認されていない。》 そして次の実験を提案した。 領域Aについての情報を、 実在しない部屋についての架空の物語として再構成する。 * ________ 【実験D】 被験者:四十八名 構成:四群、各十二名 A群:第三計測室へ実際に入室 B群:第三計測室の映像を視聴 C群:第三計測室の測定記録のみ閲覧 D群:第三計測室の名称、大学名、年代、実験記録をすべて削除し、架空の短文として再構成した文章を読む 実験終了後、各被験者の周囲で空間偏差を測定。 【結果】 A群:平均〇・〇〇七一パーセント B群:平均〇・〇〇九四パーセント C群:平均〇・〇一二八パーセント D群:平均〇・〇三一七パーセント 最大値:D群 ________ 高城は報告書の余白に一行だけ書いている。 《人間は、欠けているものを自分で作る。》 * D群に使用された文章は保存されている。 以下、全文。 ________ 《四角い部屋を想像してほしい。 特別なものは何もない。 白い壁が四枚。 窓はない。 一辺は四メートル。 天井には照明がひとつ。 中央に椅子がある。 扉は後ろにある。 振り返る必要はない。 ここまででいい。》 ________ * 実験D以降、調査班は領域Aの研究を停止した。 ただし高城だけは個人的に研究を継続していた。 彼のノートには、五つの命題が残されている。 【第一命題】 偏差は特定の空間に固有ではない。 【第二命題】 偏差は情報の認識によって生じる。 【第三命題】 情報は完全である必要がない。 【第四命題】 欠落した情報を認識者自身が補完した場合、偏差は増大する。 【第五命題】 したがって異常の最小単位は情報ではなく、認識者内部に再構成された関係である。 六番目の命題があったことは分かっている。 ページ番号が、 38、 39、 41 と続いているためである。 40ページだけが存在しない。 * その後、高城は実験Dの被験者について追跡調査を行った。 初期反応には共通性があった。 ________ 【第一段階】 提示された文章の細部を再確認したくなる。 【第二段階】 自分がどの程度正確に情景を想像したか確認しようとする。 【第三段階】 文章を読む以前に抱いていた空間イメージを思い出そうとする。 【第四段階】 異常について考えない方がよいのではないかと判断する。 【第五段階】 情報との接触を停止する。 ________ 第五段階に到達した被験者十二名について、七十二時間後に再測定が行われた。 偏差は消失していなかった。 高城はこの結果について、 《当然である》 とだけ記している。 * ________ 【実験D-2】 条件:実験終了後、「先ほどの文章は無意味な文章であり、実験とは関係がない」と説明 結果:効果なし 【実験D-3】 条件:文章が完全な創作であると事前に説明 結果:効果なし 【実験D-4】 条件:読後ただちに別の課題を与え、内容について考えることを禁止 結果:効果なし 【実験D-5】 条件:文章の一部のみ提示 結果:一定の長さを超えた群のみ発生 【実験D-6】 条件:単語の順序を無作為化 結果:発生せず 【実験D-7】 条件:同一内容を別の文章として再構成 結果:発生 【実験D-8】 条件:被験者に内容を忘れるよう指示 結果:効果なし 【実験D-9】 条件:記憶形成を阻害した条件下で提示 翌日:被験者は文章を記憶していなかった 結果:偏差発生 ________ * ここから高城の記録は急激に少なくなる。 【七月二日】 《記憶ではない。》 【七月三日】 《情報でもない。》 【七月五日】 《理解という語も正確ではない。》 【七月六日】 《関係が一度成立したという事実だけが残る。》 【七月八日】 《不可逆。》 【七月十一日】 《実験Dを中止しても意味がない。》 【七月十三日】 《D群の全員が同じ誤りを犯している。私も同じ誤りをしていた。》 【七月十四日】 《人間側に偏差が発生していると仮定していた。》 その次の記録はない。 * 高城は七月十七日、第三計測室に入った。 監視記録が残されている。 ________ 【午前二時十七分】 高城、第三計測室へ入室。 中央に椅子を置き、着席。 以後十九分間、顕著な動作なし。 【午前二時三十六分】 高城、起立。 西壁まで移動。 壁面に右手で接触。 次フレームより対象を確認できず。 扉開閉:なし 映像欠損:なし ________ 高城の身体だけが、 次のフレームから存在していない。 この事実は長らく失踪事件として処理されていた。 しかし二〇〇一年、旧研究棟解体時に奇妙な記録が残されている。 第三計測室の西壁内部から、 高城の腕時計が発見された。 時計は停止していなかった。 六年間、 正常に時刻を刻み続けていた。 ただし、 十一・二秒だけ進んでいた。 * 調査資料はここで終わっていない。 最後の実験は、高城の失踪から二十一日後に行われた。 研究班は第五命題について再検証した。 第五命題。 《異常の最小単位は情報ではなく、認識者内部に再構成された関係である。》 これは誤りだった。 被験者自身を基準に測定した場合、 身体、 時計、 周囲の物体、 神経伝達速度、 すべて正常だった。 偏差していたのは、 それ以外だった。 ________ 【測定対象】 研究棟:偏差 市街地:偏差増大 地表基準点:偏差増大 人工衛星:さらに増大 ________ 観測対象を遠ざけるほど、 偏差量は増大した。 研究班は、 月面レーザー測距による検証を準備した。 実施されなかった。 実験前夜、 高城の計算ノートが再検討されたためである。 * 高城は二つの座標系を仮定していた。 【座標系α】 観測以前の系。 【座標系β】 観測以後の系。 当初、 βはαから徐々に偏差しているものと考えられていた。 しかし計算上、 両者を連続的に変形させる必要はなかった。 αとβは、 最初から別々に成立している。 第三計測室が、 四・〇〇〇メートルから 四・〇三一メートルへ 拡大したのではない。 四・〇〇〇メートルの第三計測室と、 四・〇三一メートルの第三計測室が、 それぞれ成立している。 四・〇七四メートル。 四・一二一メートル。 四・一九〇メートル。 同様。 したがって、 観測は偏差を発生させない。 観測は、 偏差した座標系を作らない。 観測が行っているのは、 一つだけである。 どの座標系から観測しているかを、 確定する。 ここで月面測距実験は中止された。 * 高城のノートには、 実験Dの被験者数について計算したページがある。 ________ 【実験D・被験者数】 総被験者数:48 A群:12 B群:12 C群:12 D群:12 ________ 異常はない。 しかし追跡調査のため作成されたD群名簿には、 十一名しか記載されていなかった。 大学は当初、 単純な転記漏れと判断した。 実験当日の資料が再調査された。 ________ 【D群・資料照合】 受付名簿:11名 集合写真:11名 監視映像:11名 同意書:11枚 謝礼支払記録:11名分 実験室の椅子:12脚 回答用紙:12枚 生体計測記録:12名分 ________ 十二番目の記録に、 氏名はない。 年齢もない。 性別もない。 識別番号欄には、 手書きで一語だけ記されている。 《外部》 * 研究班は、これを高城による記入と判断した。 筆跡は一致しなかった。 ________ 【第十二被験者・生体計測記録】 心拍:正常 呼吸:正常 体温:正常 記録開始時刻:記載なし 終了時刻:記載なし 測定時間:《継続》 ________ * 高城の失踪後に行われた最後の計算には、 次の記載がある。 ________ 【観測者数】 内部観測者数:47 外部観測者数:1 総観測者数:48 ________ その下に、 六番目の命題が記されていたと考えられる。 大部分は黒く塗り潰されている。 画像処理による復元は失敗した。 判読可能なのは、 冒頭と末尾だけである。 《したがって、観測者は ではない。》 * 【一九九五年八月十一日】 調査委員会は研究資料の永久封印を決定した。 同日、第三計測室を閉鎖。 二〇〇一年、旧研究棟を解体。 現在、同室は存在しない。 少なくとも、 現在使用されている建築座標上には存在しない。 * 【二〇〇四年】 資料の電子化計画が検討された。 中止。 理由。 実験Dの定義上、 複製された資料も実験媒体として機能する可能性を否定できないため。 特に文章形式では、 受信者自身が欠落情報を補完するため、 原資料より大きな偏差を生じる可能性がある。 このため委員会は、 第三計測室に関する情報を、 映像、 音声、 図面、 数値、 文章、 その他あらゆる形式で外部公開しないことを決定した。 ただし、この決定書には問題があった。 「外部」という語の定義である。 高城の計算が正しい場合、 観測成立後、 観測者と対象を同一の座標系から記述することはできない。 したがって、 情報を受信した者が、 なお「外部」に存在することを保証する方法がない。 ________ 【二〇〇四年九月二日】 用語規定改訂 削除:《外部観測者》 理由:実験開始後に外部を定義できないため。 ________ * ________ 【実験D-17】 媒体:文章 内部被験者数:0 外部被験者数:1 実験開始:媒体第一文提示時 成立条件:関係の再構成 必要接触時間:不明 中断による効果:確認されず 虚構性の認識による防御効果:確認されず 記憶消失による防御効果:確認されず 再読:非推奨 測定対象:媒体受信者を基準とした外部座標 最大測定距離:未測定 実験終了条件:設定なし ________ なお、本記録は用語規定改訂以前に作成されたため、 「外部被験者」という表記が残存している。 現在の分類では、 該当する区分は存在しない。 * 【追補】 実験D系列の資料整理中、 原実験Dに使用された文章について、 一件の転記ミスが発見された。 長らく保存されていた転記文。 ________ 《四角い部屋を想像してほしい。 特別なものは何もない。 白い壁が四枚。 窓はない。 一辺は四メートル。 天井には照明がひとつ。 中央に椅子がある。 扉は後ろにある。 振り返る必要はない。 ここまででいい。》 ________ 原資料との照合の結果、 第五行に誤りが確認された。 ________ 【訂正箇所】 誤:《一辺は四メートル。》 正:《一辺は四・〇三一メートル。》 ________ 訂正後の文章を用いた再現実験は、 実施されていない。 理由。 四・〇三一メートルという数値は、 第三計測室において最初に観測された偏差値と一致する。 一方、 《一辺は四メートル。》 と記された文章が、 いつ、 誰によって、 どの座標系の第三計測室を参照して作成されたのか、 記録が存在しない。 ________ 【転記文調査結果】 出所:不明 作成者:不明 初出:不明 最古閲覧記録:開始時刻特定不能 終了時刻:記録なし 状態:現在も継続中 [[ 再読:非推奨 ]] ________ 『四角い部屋を想像してほしい。』 継続中
『ひろいところ』
壁に開けた 画鋲やなんやのその穴へ あなたは潜り込めたといたします さすればきっと言うでしょう ここはまったく狭すぎる ああ わたくしの慈悲深きこと あなたを鍵穴へと導けば なんとかそこに収まったといたします さすればきっと言うでしょう おれの身体が見えているのか? ああ まったく大義なあなた あなたを段ボールへと放り投げ そこに転げ入ったといたします さすればきっと言うでしょう まぁ まだマシだ ああ まだご不満なのね 岩をこね 丸め 水を注ぎ そこをあなたにあげたといたします さすればきっと言うでしょう これはいい ああ ほんとうに愚か いつの日かあなたは また言うの ここはまったく狭すぎる そうしてわたくしは その外側の世界を与えたといたします さすればきっと また言うでしょう ここはいい ああ ほんとうに惨め わたくしに言わせていただければ そんなもの 元の画鋲穴とも 変わりないのよ 『ひろいところ』 終
『かつてのシチリア――アンダルシアからの眺め』
爽やかな季節は もうどこか遠くへ 置き去りにしてしまった 香水に例えるなら あの頃は日差しの良い 地中海 柑橘畑の風香があった そして君も居たから たしかフローラルサボンのような 香りもした でも もうシチリアには戻れない 今は暗い空間に アンバーやお香の香りが立ち込めて 部屋の片隅に置かれた ウッディなディフューザー それがいいアクセントになっているような 仮にそれらを ひとつの時代だとするならば 私たちはまさしく 「今夜は本当に暑い」 と 額から首を伝い 胸元に満遍なく汗を散らし そうやって店内に湿気を運んできた ただの客人 その汗 もしかすると君は カバンから取り出した 純白のハンカチで さっと可憐に 拭き去ってしまうかもしれない 本当は その汗粒の一滴 一雫だって ずっと眺めておけるのに そんな間にも カウンターの上では グラスの氷を ブランデーがじっくりと溶かしてゆくだろう 時間の進むことを知らせるものは もうここには このグラス以外にないのに フローラルサボンの君は とうとうそれを飲み干してしまった あの頃の 爽やかな香りを まだ纏っているのも もう 君だけだったのに そんな君も この部屋の香りが溶かして 混ぜ回して そして飲み干してしまった 私が 彼女の手を引いてきた 私が ここへ彼女を連れてきてしまった 私と 彼女はここへきてしまった これは成長か それとも衰退か この場の いったい何が教えてくれようか もう 煙の香を纏う君をみていると 私はただ どうしようもなかったのだ _________ 「今思えばシチリアもいい場所だったよな。」 「あなたイタリア行ったことないでしょ?笑」 「でも、2人とも確かにあそこに居たんだ。笑」 「なにそれ。じゃあガイドさん、ここはいったいどこ?」 「はい。いまはまさしく、グラナダです。」 『かつてのシチリア――アンダルシアからの眺め』 終
『あなたがいた世界』
深緑は往々にしてことの盛りを象徴する。 あの日も、その命題は実に真であった。 荒くうねり、岩も未だ角立つ川の最上。 鱒は清流を悠々とし、蝉の謳歌す側。 少女は最後のひとときをそこで過ごした。 ここへ来る人間といえば、少し先の病院の者くらいであった。 実際、車椅子に身を預けた彼女も、 その細く、弱々しい腕を伸ばさんとしていた。 車椅子から転げそうになったのを、大人が支えようとした。 彼女はそれを振り払った様に見えた。 その指先が流れを少し捉えた時、 あの子は、己が人生に負いきれぬ何かを笹舟へ託した。 _________ それからしばらく経ったころ、 あの子の腕のように細くしなやかに折られたあれは、 その実彼女が運命を託したあの場所より少し行ったところ、 その落ち込みの麓の渦中で浮いては沈んでを繰り返していた。 水流に揉まれ、その船体は幾度となく湾曲を繰り返したが、 精巧に折られたこれは未だ見事に船たる造形を保っていた。 やがて上流に降った雨が、川をわずかに太らせた。 昨日まで越えられなかった岩を越え、 昨日まで押し戻されていた渦を抜け、 笹舟は再び下流へ向かった。 もっとも、それがどこかを目指していたわけではない。 水が押しては進み、 岩あれば曲がり、 淀み入りては止まった。 ある昼、 水面に何かがもがいていた。 それは翅を濡らした小虫で、 水を叩くたび、かえって深く身体を沈めていた。 舟はちょうどその傍らを過ぎようとした。 流れの気まぐれで少し曲がった。 虫の脚が船縁に掛かった。 虫はしばらく船上で動かなかった。 木々の切れ間から陽の射すところまで来ると、 二度ほど翅を震わせ、 やがて飛んでいった。 舟は、少し軽くなった。 また少し下れば、川は森へ入った。 枝葉は空を狭め、時間の割に水面は薄暗かった。 流れの緩むところで、舟は岸から張り出した根に掛かった。 船底には、ほんの小さな影ができた。 一尾の稚魚がそこへ潜り、 流れに逆らうこともなく、ただじっとしていた。 やがて川面を、大きな影が落ちていった。 一度。 二度。 水面近くにいた魚たちが散った。 けれど船底の影だけは動かなかった。 大きな影が去ってしばらくして、 稚魚もまた、どこかへ泳いでいった。 それからもしばらく舟はそこにいた。 午後になり、水の向きがわずかに変わると、 ようやく舟も根を離れた。 日が落ちても、舟は流れていた。 川は黒く、竹藪は輪郭をぼかしていた。 空との境すらもよく分からなかった。 やがて岸辺に、一つ灯った。 また一つ灯った。 瞬く間に広がり、煌めいた。 光は草の間を離れ、 水面へ出て、 舟の上をゆっくり横切った。 そのうちの一匹が船首へ止まった。 葉の舟に、小さな灯がひとつ乗った。 舟はそれを乗せたまま、 夜の川をしばらく流れた。 その間も、特に何も起こりはしなかった。 景色も特に移ろいはしなかった。 ただ、少しの距離を移動した。 やがて灯は離れ、 草木の間へ消えた。 舟は再び暗くなった。 _________ それからも舟は流れた。 雨に打たれ、 陽に乾かされ、 石に当たり、 枝に止められ、 そのたびにまた水へ戻った。 川幅は次第に広くなった。 角立っていた岩は丸くなり、 あれほど騒がしかった水音も、 いつしか低く長いものへ変わっていた。 舟もまた、 もう初めの姿ではなかった。 葉脈に沿って裂け目が走り、 片側は水を吸って重くなり、 船首と呼べたところも少し潰れていた。 それでも水面に置けば、 まだそれは船に見えた。 いつからであったか、 船体の折り目に一粒の種が挟まっていた。 それが何の種であるのか、 知る者はいなかった。 種は舟とともに流れた。 幾つもの石を過ぎ、 幾つもの曲がりを越え、 時には水を被り、 時には陽を受けた。 舟はそれを運ぼうとしたわけではない。 種もまた、 この舟を選んだわけではなかった。 ある夕刻、 笹舟は川岸の葦の間へ入り込んだ。 流れはそこだけ、ほとんどなかった。 一度、離れた。 また戻った。 次の日にも、 その次の日にも、 舟はそこにあった。 雨が降った。 川が少し増した。 それでも葦の根を越えることはなかった。 _________ 葉は次第に褐色になった。 あれほど精巧な折り目も、 ある時さっとほどけ、 船底には泥が溜まり、 かつて船首であったところも遂に水に伏した。 やがて、 どこからが川で、 どこからが舟であったのか、 少しずつ分からなくなっていった。 ある日、 最後まで残っていた船尾の折り目がほどけた。 そこに挟まっていた種が、 泥の上へと落ちた。 水が一度その上を撫でた。 種は少しだけ転がり、 葦の根元で止まった。 秋が来るころには、 もう誰が見ても、 それを船とは呼ばなかった。 それは川を流れる幾枚の木の葉と、 全く等しかった。 _________ 川はなお、その横を流れていった。 あの日少女が指先で触れたころよりも、 少し冷たくなっていた。 それでも川は変わらず下り、 幾つもの流れと合わさり、 町を抜け、 橋をくぐり、 なお遠くへ流れていった。 その幾里も先には海があった。 彼女は結局、その大海を望むことは叶わなかった。 _________ 『あなたがいた世界』終
ほんとうの神話
蝶は羽ばたいた 共鳴する碧が どこかの陵のネモフィラを揺らした 鯨はその周波数を捉えはした シアノバクテリアは 以前にもそれが奏でられたことを覚えていた 魚類はデボン紀を カエルはティターリクを思い出した 水面は時折微かに波紋を立て そして消失した 頭上には深海が暗く澄み渡り 足元には一酸化二水素が凛と張り詰め ただ私を揺れ映した 冥王代の少し後 ここは原始海洋の水底 ロディニアも、パンゲアも 生命すらもまだない 鉱床と間欠泉が原子結合を促していた頃 初めから全てが存在していた 私も あなたも 草木や スマートフォン 沈みゆくタイタニックですら 同時に等しく潜在していた だから 彼はそこに居なかったし そこに帰り着くこともできない 人々は彼を海面へ掲げ 陽の光に照らした けれど誰も 胎海の底へは 連れてこなかった
「※帰還記録なし。」
電灯の下 生ぬるい風がこびりついたまま 私は街の端から端まで 自転車を押して歩いていた 大きな通りは避けて 数本内の住宅街を歩いた たまに突き当たる広い通りには ライトを照らしたまま 多くの車が行き来していた ゆっくり ゆっくり この時代の景色を目に焼き付けていたかった たまにすれ違う人々には 哀れみに似た感情を抱き いずれも目を逸らすように下を見た いくつもの時代 それらの因果は全て 最終的にこの座標を示していた 空 交差する電線の奥に見える 暗いそこには 月の光に照った雲が散っていた この座標値から さらにもう少し行ったところで 彼らは 因果律から消え去ることになる その頃には私の歩いた道も 遺物となって埋もれている それを見ることがないように 私はもう何度も 何度も 何度も 何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も この座標上に取り残されている。 少し、外を見に行こう。 空気に湿り気を感じる夜、 私は自転車の鍵を取って 玄関を後にした。
オリオンの涙
✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*⭐︎ ✴︎*✳︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*⭐︎ それはもう気の遠くなるほど昔のこと 広い野原に羊飼いの少年がいました 彼の父は戦で死に、母は病に倒れていました 彼は幼いながらに母を看病し、羊たちを飼い慣らしていました その少年は夜空を眺めるのが好きでした くる日もくる日も夜空に浮かぶ星々を眺め しだいに彼は星と星を繋ぎ合わせてある一つの星座を作りました 彼はその星座を『オリオン』と呼び友達のように語りかけました 「オリオン、オリオン、お空はいったいどうなっているんだい?」 「オリオン、オリオン、今日はうちの羊がかわいい子を産んだよ」 「オリオン、オリオン、おっかちゃんの具合が良くないよ」 オリオンは何を言われてもただじっとそこにいるだけです でも毎日家の手伝いで忙しく、友達のいない彼には十分でした しかしある日オリオンはパッタリと姿を見せなくなりました 少年は何日も何日もオリオンが帰ってくることを信じて待ちました 瞳から溢れ頬をつたる涙を拭きながらくる日も来る日も待ちました そんなとき、彼のお母さんも天国へ行ってしまったのです 「神様、あなたのお与えになった運命はあまりに酷すぎます」 彼はやっと子どもらしく嗚咽を伴って大泣きしたあと 羊たちの柵の扉を開き言いました 「ほらお行き、君たちは自由だよ、草もたくさんある」 そして家を後にして毎日オリオンを見つめた丘へ行きました 「君がもし戻ってくるなら、ごめんよ、僕は待ちきれなかった」 それから幾月か過ぎて、地球が一周した頃 オリオンがまた丘の上に現れても彼の姿はありませんでした しだいにオリオンは悟るのです 彼もまた、きっと夜空を照らす星の一つになってしまったのだと そしてオリオンは大粒の涙を地球に注いだのでした 「ごめんよ、僕は毎年幾月かは消えねばならない運命だったのだ」 「ごめんよ、ごめんよ」 ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*⭐︎ ✴︎*✳︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*⭐︎ それから幾千年経った今でも オリオンは欠かさず彼をふと思い出すのです そしてその時に流す涙が、毎年10月に地球へ注がれて それはそれは美しい『オリオン座流星群』として訪れるのでした オリオンの涙 〜おわり〜 ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*⭐︎ ✴︎*✳︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*✳︎⭐︎ ✴︎*✳︎✴︎*✳︎✴︎*⭐︎
スパークリングワイン - フィッツジェラルドより。
手を握ってみた。 指をその隙間に滑らせた。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 肩に手を回してみた。 円を描くように撫でた。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 腰に手を回してみた。 円を描くように撫でた。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 酒にほてった喉元へ手を回した。 艶やかな肌を上から下へと撫で下ろした。 君はただ、気づかないふりをして。 マイク片手に歌っていた。 指はとうとう君の肌と服の境に触れた。 君の歌う声は、喉元が少し締まったようになった。 もう私たちはここまで来てしまったのに。 みんなは前の画面に夢中だ。 だから私はそのまま手を滑らせた。 同時に君は少し背を丸めた。 湿気って暖かい。 その感覚が、最後の忠告だった。 採点のバーがどんどんズレていった。 だから、みんなの視線が君に映る前に、 私は先にその唇を奪い、互いの顔を覆い隠した。 きっとその後、みんな私たちを見た。 その時、彼らの眼にはどれほど醜く見えただろうか。 それとも一種の美しさがあっただろうか。 ともあれ、私は強引に君を部屋から連れ出た。 きっと私たちは笑っていた。 今はただこの片腕に、君の重みを感じる。 始まりはあの、 たった一口のスパークリングワインだったはずなのに。 ______________________ "First you take a drink, then the drink takes a drink, then the drink takes you" 和訳 : 最初にあなたが酒を飲む、次に酒が酒を飲み、 気づけば酒があなたを飲み込んでいる。 ー Francis Scott Key Fitzgerald (作家)の言葉より。
流木
ある森の木々から一斉に小鳥が飛び立った。 唸るような声が響き、落ち葉や小枝を踏み締める音が聞こえた。 茶色の毛色をした大きな熊が、木々の間を縫うように歩いてきた。 本来なら今頃、冬眠をしているべきであるが、どうやら機会を逃したようだ。 熊はそのまま森を抜け、川辺へと出た。 雪の降るこの日、鮭たちも産卵のために湧水地であるその川へ来ていた。 熊の冬眠が叶わぬ理由の一つは、餌不足である。 つまるところ、かの熊は今にも胃袋が平に枯れようかとばかり、腹を思い切り減らしていた。 彼にとって鮭たちの存在は不幸中の幸いであった。 鮭は通常産卵を終えるとその場で息絶える。 なぜなら、海から川を登る際にその体力の大半を使い果たし、おまけに浅い砂利底で産卵を行うため、自身の体はその道中で凄まじいほどえぐられるからである。 そんなわけで産卵後の川辺はどこもかしこも鮭の死体だらけになる。 つまりこの熊は1匹どころか何十もの鮭にありつけるることが定められたのだ。 しかし死にゆく天命とあれど、鮭たちもその最後の瞬間まで例外なく抵抗はした。 そしてそのどれもが、呆気のない終わり方をした。 とにもかくにも、熊は諍いなく胃袋を満たした。 熊が腹を満たし終えた少し後、雪の重みに耐えかねて大木の枝がそれなりの音と共にへし折れた。 そのまま枝は川へ落ち、これまたそれなりの水しぶきをあげた。 熊は驚いて元いた森へと消えて行った。 枝はその身体を、卵の眠る砂利の川底にガリガリ引き摺りながら、ゆっくりと流れのままに持ち去られていった。 冬の終わり頃、あの川の中腹あたりでまた同じ枝を見つけた。 色んなところにぶつけて、削られたのだろうか、少々小さくなった気もするが、それでもそこそこの大きさがあったのと、三又に割れた先端が特徴的ですぐにわかった。 それは水嵩が増すたびに進み、減るたびに留まり、削られながら形を変えていった。 春先、川が一度だけ大きく騒いだ日があった。 雪代が押し寄せ、流れは茶色く濁り、枝は石に叩きつけられた。 そのとき三又の先端の一本は欠け、もう一本は丸くなった。 それでも枝は流れを離れはしなかった。 川沿いの斜面ではあの熊の姿を何度か見た。 以前よりも毛並みは荒れ、動きは慎重になっていた。 腹はあの日ほど満ちているようには見えなかった。 熊は川に下りて水を飲み、周囲を確かめた後すぐ去った。 私が高いところから見下すにつれ、熊は影の濃い場所を選ぶようになったが、完全には消えきれなかった。 夏の終わりに近いある日、川は低く流れは緩んでいた。 枝は浅瀬に引っかかり、半ば水に浸かったまま動かなかった。 子どもが来た。 一人だった。 川沿いを歩き石を拾い、投げ、足元の水を濁した。 子どもは例の枝を見つけ拾い上げた。 濡れた木肌を手のひらで擦り、形を確かめた。 先端の割れ目はもうずいぶんと丸く、何に使えるとも言い切れない形をしていた。 そのとき、少し離れた木立の間をあの熊が横切った。 音はなく、子どもは気づかなかった。 熊は立ち止まり、川と子どもを見た。 風が匂いを運び、熊は鼻を動かした。 子どもは枝を振り回し空を切っていた。 距離はあった。 すぐに届く距離ではなかった。 熊は一歩だけ前に出て止まった。 それ以上近づかなかった。 理由は知れなかった。 川の水面が光を返し、子どもは目を細めた。 枝を石に打ちつけ、木片を欠けさせた。 その音は乾いていた。 やがて子どもは枝を川へ投げ入れた。 枝は水を叩き回転し、少し下流へ流れた。 子どもは川を眺め、何も起こらないことを確かめたあと岸を離れた。 振り返りはしなかった。 熊はその後もしばらく立っていた。 川を見ていたのか、森を見ていたのか、何をみていたのかはわからなかった。 熊はやがて身を翻し、結局木々の中へ戻った。 岸辺に足跡がついたがすぐに乾いた。 枝は再び流れに戻り、水底を擦りながら何事もなかったように運ばれていった。 翌日、川下に近い畑で熊が見られた。 朝のうちだった。 人が作業を始める前の時間で、畝の土はまだ湿っていた。 熊は畑の端に立ち、動かなかった。 首を低くし鼻を地面に近づけ、何かを確かめるように息を吸っていた。 家の中から人がそれを見た。 声は出なかった。 戸を閉め鍵を掛け、窓から離れた。 別の家では鍋が火に掛けられたままになった。 湯は沸き音だけが残った。 人々が集まり始めた。 彼らは距離を保ち、位置を指で示した。 熊はその間も畑の端にいた。 熊は一歩進み止まった。 土を踏み、柔らかさを確かめるように足を置き直した。 その動きは遅くためらうように見えた。 人々は後ろへ下がった。 誰かが前へ出て、また戻った。 熊は向きを変え川のほうを見たが、そこへは進まなかった。 代わりに畑の中へ半歩、また半歩入った。 畑の作物はその度に踏まれていった。 人々の中で怒鳴り声が上がった。 止める声、重なる声。 どれも熊には届かなかった。 熊は立ち止まり前脚を持ち上げた。 そうして低く、決して荒げない声で唸った。 熊は前脚を下ろし体重をかけた。 土が崩れ小さく沈んだ。 人々の中で何かが決まったようだった。 それは言葉にはならなかった。 ただある人が走ってどこかへ去っていった。 熊は再び首を振り、低く息を吐いた。 その音は短く途切れていた。 しばらくしてから突然大きな音がした。 そこら中から鳥が一斉に飛んだ。 熊の身体が大きく揺れ、畑の縁へ崩れ落ちた。 土が崩れ大きく沈んだ。 熊はすぐには動きを止めなかった。 腹を地面につけたまま、首を持ち上げようとした。 顎が土に触れまた持ち上がった。 息が出た。 短く、荒い音だった。 人は距離を保ったまま動かなかった。 誰も近づかず、声も出なかった。 熊の胸が上下した。 その動きは不規則だったが止まらなかった。 身体を捻り、横倒しになり、そこから腹を地面に擦りつけるようにして向きを変えた。 川のほうだった。 人の中で声が上がった。 短い声だった。 重なり、消えた。 熊は立ち上がらなかった。 立ち上がれなかった。 その代わり、前脚で地面を引き、身体を引きずった。 土が掘り返され、畝が崩れた。 それでも熊は止まらなかった。 距離が少しずつ開いた。 人々は追う者もいれば、止める者もいたが、結局、いずれも足は出なかった。 熊は川縁まで辿り着き水際で一度止まった。 首を垂れ長く息を吐いた。 それから水の中へ身体を滑らせた。 流れは浅く熊の腹を濡らす程度だった。 傷口から滲み出た血液は、薄まりながら広がって川下へ流れた。 熊はあの鮭のように身を引きずりながら水を横切り、対岸へ上がった。 それと同時に足を大きく開き、踏ん張って身体を起こした。 脚がもつれ身体が傾いたが、決して倒れなかった。 森の縁で、熊は一度だけ振り返った。 見たのは人だったのか、川だったのかはまたしてもわからない。 そのまま木々の間へ消えた。 畑にも血が残ったが、土に混じりすぐに色を失った。 人はしばらく動かなかった。 声のみが交わされた。 その日、結局熊は捕まらなかった。 ただその存在だけが、世の中へと広まった。 依然として川の流れは変わらなかった。 水位はわずかに上がり、流れに乗った枝がゆっくりと下っていった。 秋、木の葉も黄色く色づいた頃、あの枝はさらに軽くなっていた。 表皮はほとんど剥がれ、角はすべて丸くなっていた。 かつて三又だった先端は、今ではその名残を留めるだけだった。 同じ頃、とうとう熊は川辺で倒れているところを見られた。 立ち上がろうとしたが叶わず、身体を横たえたままただ呼吸を整えていた。 熊が動けぬと知って、大勢の人が集まり、ざわついた。 気温も下がりかけたその日、川辺に鋭い音が響いた。 熊は跳ねなかった。 唸らず、ただ胸を上下させた。 見ればその腹は、わずかに膨らんでいた。 それが何によるものかは、私にはわからなかった。 わかる気にも、到底なれなかった。 やがて川は再び水を集め、枝を連れ去った。 流れは広がり、淡い色に変わり、味を変えた。 木から落ちてからほぼ一年になった。 枝はとうとう海へと出た。 その下を、ただ銀色の群れがすれ違った。 私はそれを同時に照らしていた。 戻らぬものと、戻ろうとするものを。 何日かして、またその川の上流では、 新しい卵が砂利の下で静かに息づいていた。 そしてまた、私は西の空へと沈んでいった。
思考する者へ
社会は、一種の大きな渦である。 それは銀河にも似ていて、絶大な「重力」を持つ。 宮沢賢治の言葉を借りるなら、それは「魚の御口のカタチ」をしていて、周囲の物を飲み込んでしまう。 この渦の方向は、人々の総意が作り出している。 つまりそれは、個人ではどうしようもないほどの 「絶大な決定権」を持つ。 その渦中にいるものは、流れに逆らうことを許されはしない。 ここで最も重要なことを挙げるなら、 「この命題には例外が無い」 ということである。 それはあなた、そして此れを書いている私にとって、 平等かつ不公平、そして理不尽で圧倒的な真理である。 残酷なことに、人は常にこの渦においては「被害者」であり、 同時に「加害者」でもある。 では、なぜ世界からそのような渦が消えないのか? それはひとえに、我々人間は常に「正しさ」を受け入れるほどの心の余裕がないからである。 例えるなら、ある学校の運動会でリレーがあったとしよう。 今まさに、ピストルの音が鳴りみんな一斉にスタートを切る。 その時スタート地点で立ち止まり、その意義や本質を真剣に考える生徒はいない。 例えるなら、海で泳ぎの速さを競う対決があったとしよう。 笛の音が鳴って、全員一斉に水面を泳ぎ出す。 その時水中に深く潜り、 「本来自身の泳ぐ水面の下にこんな景色があったのか」 と気づきを得ようとする人間はいない。 今、社会の動きはまさにこれなのだ。 あまりに競争的すぎて、誰もその本質を見極めるための余裕を持っていない。 多くの人は「分かりやすい物」のみを見つめ、 自身が理解した気になることで安心を得る。 その積み重ねで出来上がった今の世界は、 見た目と実態の差が大きすぎるのだ。 魅力的な人や物は溢れるほどあるのにも関わらず、 実際に関わったり、手に入れたりしてみると味わいは実に空虚で、冬に風鈴の音を聴くのに等しい肌寒さがある。 さて、ここまで読み進めたあなたに一つ問おう。 あなたは本来何者で、これからどうなりたいのか。 人々が渦を巻いて、あなたもその中で無意識のままに流されながら生涯を生きることを知り、 それでも「あなたが貴方である理由」はなんなのだ? この問いは、おそらくこの先何十年に及ぶ貴方の中の難題の一つとなるだろう。 それは時に呪いのように、貴方を苦しめるかもしれない。 しかし、その底なしの深淵を望むことは、 少なくとも自身を空虚な人間にしないための、 最も原始的な手段である。 ___________ さいごに 常に、前提を疑い、本質を見極め、自身の存在意義を探せ。 深く思考するものは常に孤独である。 ただそれはあなたの価値や魅力がなくなったからではない。 深く思考する者は、他者よりも数歩未来を生きるからである。 ___________